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自縄自縛日記

田中正恭『プロ野球と鉄道』

2018-05-18 13:31:07 | スポーツ

田中正恭『プロ野球と鉄道』(交通新聞社新書、2018年)を読む。

なぜプロ野球と鉄道なのかと言えば理由はふたつある。ひとつは、阪急や阪神のように自社の鉄道を利用した娯楽の開発。もうひとつは、日本列島の遠距離移動に用いられた鉄道移動という制約(もっとも、戦前は満州鉄道の「あじあ号」などを使った事例もあった)。それぞれ知らないことを教えてくれてとても面白い。愛に満ちた本は良いものである。

ひとつめの、自社の鉄道沿線におけるプロ野球のコンテンツ化。阪急の小林社長は相当にこだわり、出張先のワシントンから即座にチームを結成するよう電報を入れたという。その結果、最初の1リーグ時代に間に合って参入できた。お上品な阪急沿線であり観客動員には恵まれなかったが、ヴィジョンはそういうことであった。

もとは1934年の大リーグ代表来日試合(ルース、ゲーリッグ、沢村)があって、翌35年の日本代表(=東京巨人軍)の結成を経て、正力松太郎が音頭を取ってチームが順次できていったわけである。35年12月の大阪タイガース、36年1月の名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、など。

従って、いまも巨人阪神戦を「伝統の一戦」と標榜するのはやりすぎである。所詮はひと月ほど他球団より早かっただけだからだ。とは言え、2リーグ分裂時に、阪神は巨人と離されると興業上不利であるから、阪急、南海との関西鉄道系と組む構想から寝返って巨人側に着いた。これがなかったら、パ・リーグはさらに東急、近鉄、西鉄を加え、電鉄リーグになっていた。つまり「伝統の一戦」という言葉は、最初から商売の言葉であったといえる。

なお、東京セネタースの名前は、出資者の有馬伯爵が貴族院議員だったことによる。それが戦時中の1940年に改名し、翼軍となる。これは有馬伯爵が大政翼賛会の理事を務めていたことに由来するという(!)。戦争の汚点は思いがけないところに見出されるものだ。

ふたつめの長距離移動。つまり、地方球団は非常に大変だった。逆にジャイアンツなどは有利であり、1964年の東海道新幹線開業(東京-新大阪)は翌65年からの9連覇を後押しした。また1975年の山陽新幹線全線開業(新大阪-博多)の影響があり、同年に広島カープが初優勝した。交通インフラの発展とプロ野球の成績が連動していたとは、まさに目から鱗である。

本書の最後には、プロ野球OBたちの証言が集められている。いないじゃないかと不満に思っていた今井雄太郎がここで登場する。さすがである。水島新司がどこかで描いていたが、ノミの心臓だったため登板前にビールを飲むこともあったという面白い人である(いつもじゃないと本人の弁)。最後に福岡ダイエーホークスに1年在籍し、西武ライオンズ戦に登板、いいように盗塁されていた記憶がある。つまり古いプロ野球の人だったのだが、それもまた良し。


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