Sightsong

自縄自縛日記

市川崑(2) 市川崑の『こころ』と新藤兼人の『心』

2009-05-25 00:04:19 | アート・映画

夏目漱石『こゝろ』は、中学生のころから何度も読んでいる。話しことばによる文学を拓いた漱石は、ものよってその陰鬱さが異なるが、子どもにも読むことができるし、歳を取ってもその潔さと深さを感じることができる作家だ。もう少なくとも15年以上は『こゝろ』を読んでいない。いまテキストを追っていけば、また新たな発見があるに違いない。

ちょうど、市川崑新藤兼人によって映画化された『こゝろ』を続けて観た。

市川崑『こころ』は1955年、まだ『ビルマの竪琴』(初作版)も『処刑の部屋』も『黒い十人の女』も撮る前であり、正直言って、市川崑独特のモダンさや小気味良いテンポや切れ味をほとんど感じることができない。「先生」役は森雅之だが、こんなに大根だったかと思う。陰りのある表情の変化だけで語ろうとしていて無惨だ。面白い点があるとすれば、「私」と「先生」との同性愛的な感情(もちろん、特異なものではなく)を意識していると思われるところだ。


神保町シアターのプログラムより

新藤兼人が市川崑バージョンを観ていたかどうか不明だが、『心』(1973年)では、まったくの現代劇に換骨奪胎している(というか、世界を狭くしている)。漱石作品では「先生」の回想シーンであった場面のみが取り上げられ、友人への裏切りとそれによる心の損傷が描かれている。本郷の間借は圧迫するように狭さを強調した撮り方であり、そしてときに風に煽られる樹木と下宿の屋根に上からぐらぐらとカメラが迫るため、世界の足元が揺らぐことになる。このような執拗な「舞台」へのアクセスは、マノエル・ド・オリヴェイラ『メフィストの誘い』における寝室のドアのシーンを思わせる。自らの倫理に滅ぼされる男に対する新藤の悪意なのだろうか。

ただ、「私」の「先生」への感情と同一化(輪廻?)、「明治」への殉死という形でのけじめなど、漱石作品では謎めいていて、だからこそ魅力の一部だったところがばっさりと切り落とされているのは残念ではある。

乙羽信子のたくらむような視線、諦念を顕す様な表情が凄い。最後に殿山泰司という異形を持ってきたことで、観ている者はなんだか救われたような気がする。よくわからない作品だが傑作である。

『アートシアター』(夏書館、1986年)より


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