Sightsong

自縄自縛日記

柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任

2010-06-10 23:31:40 | 政治

柄谷行人『倫理21』(平凡社ライブラリー、原著1999年)を読む。

イマヌエル・カントの思想に立脚しての倫理・責任論である。その視線が注がれているのは、生を共有する者にだけではない。生きていながら共有の領域に入っていない者(あるいは領域という概念すら届いていない者)、死んだ者、これから生まれる者にも、である。従って、共有という考えすら、ひとりよがりのものだと認識される。合意の最大化という意味での政治が、しばしば自分たちの世界だけで閉じているからだ。

柄谷によれば、カントの思想は、次のように解釈される。人の行動や考えは、社会や環境や教育や個人史によって形成され、律せられている。完全にそれらと独立な考えなどあり得ない。自由な欲望と思っているものすら、他者の欲望に律せられているものに過ぎない。しかし、そういった因果は双方向には成立しない。ある結果の原因を認識することはできるが、ある原因がその結果を生むとは限らない。すなわち、原因の追及と責任の追及はまったく別のものである。戦争責任の問題に関して、責任を問われると事実を否認する者がおり、責任をいう人たちは原因を問おうとしない。

それでは、人の行動や考えに、その人の自由は反映されないのか―――そうではない。その時々刻々の存在のなかで、人は自由である義務をまぬがれない。たとえば、日本軍に徴兵されていることと、率先して虐殺に手を染めることとはイコールではない。認識に基づき、その自由度を「括弧に入れる」、すなわち、態度変更を私たちは身に付けなければならない。ここに責任が発生する。

そして、倫理とは、生きる者・死んだ者・生まれていない者・認められていない者に共通の「括弧」を作り出すものである。それこそが「公共」であり、それは決して国家などではない。その実践のためには、「他者」を「手段」としてのみならず「目的」として認識せねばならない。ところが、「他者」の認識には多大なる努力を必要とする。場合によっては、無知のために認識していなかったことも許されない。無知に責任があるならば、自分を含む世界を徹底的に認識し続けるほかはない

―――そんなところである。戦争責任への懐疑論者に欠落する倫理と責任の問い直しだというわけである。

鳩山政権の米軍基地問題をめぐる功罪について考えてみる。「功」は、米軍基地が沖縄に偏り、その不公平や歴史や、「抑止力」という欺瞞で覆い隠してきた、ということに対する大多数の「無知」を、いくばくかは「認識」に変えたことだ。「罪」は、もちろんひとつではない。「他者」の存在の認識を断念したことは許されることではない。しかし、翻って、テニアンやグアムを「目的」たる「他者」ではなく「手段」たる「他者」として認識しようとする動きも、必ずしも真っ当なものとは言い難いのではないか。

●参照
高橋哲哉『戦後責任論』
『世界』の「韓国併合100年」特集