なあむ

やどかり和尚の考えたこと

紅葉の意味

2014年11月01日 21時52分07秒 | ふと、考えた
木の葉が、散る前に赤や黄色に色づき、人間に「美しい」と感じさせる意味は何なのでしょうか。
そんなことを最近考えています。
緑鮮やかに生まれて、枯れ落ちる、云わば死ぬ間際に色を変える意味。
いわゆる常緑樹、椿や松のように、緑のまま落ちる葉もあるわけですが、それはそれでもいいわけで、あえて色変えて落ちるのは、そこにどんな使命を帯びているというのか、そんなことを考えることはないでしょうか。
紅葉は本当に美しいと思います。
体に必要な要素を「食べたい」と思ったり、「旨い」と思ったりするのだとすれば、同じように、人間が「美しい」と思うのにもそれなりの意味があるように思うのです。
そのために色を変えるわけではないでしょうが、自然の現象を「美しい」と感じるにはそれなりの意味があるのではないでしょうか。
新緑を美しいと感じるのは分かります。新たな命の誕生ですから、希望を感じ明るい未来を連想させるのでしょう。
いろいろ考えられることはあると思います。
たとえば、命の終わりというのは、誰にとっても、どんな命であっても寂しくつらいものでしょう。
高齢に至って亡くなる場合は、病気の苦しみや老醜などという言葉を使われるように、美しさとは対極に位置するような状態も覚悟しなければなりません。
しかし、すべての命の最期が醜いわけではない、最期を美しく飾る紅葉のような存在もある、人間にだってそういう見方ができるではないか、という救いになるためだろうか。
すべての命の最期が寂しい存在であれば救いがないように思うのです。
あるいは、冬の、色のない世界に入る前に、寂しさの前に、一時心を喜ばせ、温かい思いで冬を乗り越えようとするものか。
確かにそう考えれば、厳しい冬のない、いわゆる常夏の国には美しい紅葉の季節がないように思います。
忍耐に対するご褒美の先渡しのようなものでしょうか。
いずれにせよ、我々はこの一瞬の美しさを求めて旅をしたり、名所に足を運んだりします。それがきっと何かの意味を持っているはずです。
春には花を愛で、秋には紅葉を愛でる。それが人生にとって必要な、正しい過ごし方に違いありません。

 燃えて散る さだめも 深山紅葉かな  矢口セツ子


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