なあむ

やどかり和尚の考えたこと

1年前の思い

2018年07月14日 04時22分22秒 | ふと、考えた
2017年7月9日日曜日。

最近思うこと。

家族を失ったり、あるいは家族のいろいろな問題を抱えて苦しんでいる人がいます。
そうでありながら、無理に笑顔を作って何事もないように振舞っている人がいます。
そういう人を見て周囲で、
「よく平気でいられるものだ、何も考えていないのだろうか」
「こんな時に笑える神経が分からない、鈍感なのか図太いのか」
などと、勝手なことを言う人がいます。

平気なはずがないじゃありませんか。

悲しんで悲しんで、泣いて泣いて、苦しんで苦しんでいるのです。
でも、「悲しいだろう」「苦しいだろう」という目で見られることでさらに苦しみを増す場合もあるのです。
衆目を集めるような状態に陥った時、その目の心が気になってしまいます。
「かわいそうに」と憐れんでいるんだろうか。
「ざまあみろ」と笑っているんだろうか。
空々しい興味半分の視線と、嘲笑とも思える笑い顔、見て見ぬふりをする無視、ひそひそ話。
その視線の充満する中で息をしていかなければならないのです。
どんなに苦しいことか。
何でもなかったように接して欲しいから、何でもなかったように振舞っているのです。
だから、無理に平気な顔をして笑顔になっているのに、それを人間性を疑われるような目で見られたりするとは。

どういう表情をすればいいんですか。
憐れまれるような、いかにもかわいそうな顔をしていれば許してくれるのですか。
かわいそうな人はどこまでもかわいそうでなければだめですか。

差別の構造はそのあたりにあります。
弱っている人を寄ってたかってたたくのです。
それまでは言葉にしていなかったことも、相手が弱いとなると、何を言っても許されるかの如く、過去の小さなことでも重大なことのように証言するのです。
あることないこと、作り話まで交えて噂を大きくしながら広げていくのです。
いじめも同じ、福島の避難者に対しても同じ。

なぜ強い側につくのか。
なぜ弱いものを集団でたたくのか。
なぜ自分より弱い人を作って安心するのか。
それは自分が弱いからではないのか。

そう、みんな弱い。
たたかれれば痛いし、仲間外れは怖い。
相手も自分も弱い。
強そうな集団に入って強くなったような気分になっても、強くはなれません。
徒党を組みたがるのが弱い証拠です。
みんな弱いことを認めてしまえば強がる必要はありません。

もっと想像力を働かせたらいい。
ひとの噂を鵜吞みにせず、自分で考えてみたらいい。
苦しんでいる人が、話ができる相手なら話を聞いてみたらいい。
傍に寄り添って話をするまで待ってみたらいいでしょう。
自分だって同じ苦しみを味わう場合もあるのですから。
自分が寄り添って欲しいと思う人は、きっとその人もあなたに寄り添って欲しいと思う人に違いありません。

世の中には、笑いながら泣いている人もいるのです。
中島みゆきは歌っています。
「たやすく涙を流せるならば  たやすく痛みもわかるだろう  けれども人には  笑顔のままで泣いてる時もある」。

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