なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ384 十の誓願

2022年09月25日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第384回。9月25日、日曜日。

彼岸に合わせたわけではないと思いますが、急に涼しくなりました。
その直前まで蒸し暑かったのに、寒暖の差に体が驚いています。
心配された台風は当地においてはほとんど被害がありませんでした。
今週は酒米の稲刈りがあります。何とか無事に収穫できますように。

大相撲は本日が千秋楽です。
横綱大関のふがいなさに比べて平幕の力士の活躍が目を引きました。
玉鷲、翔猿、高安、北勝富士、宇良、錦富士、若元春、翠富士などなど。
郷土ゆかりの琴の若も勝ち越しを決めましたが、来場所の三役昇進は微妙な感じです。
来場所も楽しみです。

来月9・10日、川西町高徳寺さんで因脈会が勤修されます。
内容の意味は授戒会とほぼ同じですが、二日間に縮めて勤めることから「因脈会」と呼ばれます。
その説戒の役を頂戴していて、しばらく前からその原稿に頭を痛めています。
色んな本や資料を読み込んだりして勉強にもなりました。
こういう機会をいただかないとまとまって一つのことを学ぶこともなくなりました。
仏教の戒律は、上座部仏教いわゆる小乗仏教と呼ばれる仏教では、僧侶の戒律は250戒とされます。
「戒」とは、僧自らの戒めとして保つもので、「信」と同じと言ってもいいでしょう。
「律」は、僧が集団で生活する中で修行の妨げとなる行為を規制するルールのことです。「随犯随制(ずいぼんずいせい)」と言って、日常の中で実際に起こった不具合を「それはやめましょう」と決めていったというものです。
大乗仏教の大乗菩薩戒は十重四十八軽戒ですが、曹洞宗では「十六条の仏戒」としています。
それは、三帰戒、三聚浄戒、十重禁戒を合わせての十六条戒です。
これを例えて言うと、三帰戒は樹木の根っこで、三聚浄戒は幹、十重禁戒は枝葉にあてることができます。
根は大地をしっかりととらえ、水や養分を吸い上げ幹を支えます。
幹は枝葉を支え、根が吸い上げた養分を枝葉に届けます。
枝葉は太陽の光を受け、それを栄養に変えて幹と根を育てます。
根と幹と枝葉が一体となって、樹木を成しているのです。
それと同じように、三帰戒つまり帰依仏、帰依法、帰依僧が信としてしっかりとしていなければ、その他の戒は立ち上がっていきません。
逆に言うと、三帰戒が確立していれば、三聚浄戒も十重禁戒もできていると言ってもいいほどです。
この三帰依を戒律の中に含めたことが道元禅師の特色だと言われます。
三聚浄戒とは、摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒の三つですが、訳して言えば、人の道・仏の道を守ることを喜びとし、善い行いをすることを喜びとし、人が喜ぶことを我が喜びとします、ということです。
いわば、戒の理念をまとめたものです。
そこから枝葉のように十重禁戒が伸びていきます。具体的な行動規範です。
それを私は「十の誓願」として展開しました。
十の誓願(仏教徒ですから)
 一、命を傷つけたり無駄にしません 仏教徒ですから
 二、与えられないものを盗んだりしません 仏教徒ですから
 三、道に反する淫らなことはしません 仏教徒ですから
 四、ウソをついたりだましたりしません 仏教徒ですから
 五、酒を呑んで不快な思いをさせません 仏教徒ですから
 六、ひとの過ちを言いふらしたりしません 仏教徒ですから
 七、自慢話と悪口や陰口を言いません 仏教徒ですから
 八、施しを渋ったり惜しんだりしません 仏教徒ですから
 九、怒りで自分を見失ったりしません 仏教徒ですから
 十、仏と仏の教えと仏教徒を信じます 仏教徒ですから
というものです。
「ですから」というのは、「私はイスラム教徒ですからお酒は飲みません、豚肉は食べません」と言う、「私はヒンズー教徒ですから牛肉は食べません」と言う、では仏教徒は何をもって仏教徒だと言えるのかと考えていて、こういう言い方をしてみたものです。
自分は仏教徒であると自覚し、だからこういう生き方をするのだという指針を確立したいものです。
戒律を心で思っているだけでは仏教徒ではありません。
具体的に仏教徒としての行為を為した時が仏教徒なのです。
そして、十重禁戒の実行が信としての三帰戒をさらに確立していくのです。
そのように、十六条戒が大樹となり、その木陰に人や動物や昆虫が集い、心安らぎ、花を愛で、実を楽しんでいくのです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。