なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ348 読経とシナプス

2022年01月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第348回。1月16日、日曜日。

大雪ですね。そろそろ除雪機で飛ばす所がなくなりそうです。
今日は小正月。「仏様の正月」などと言ったりもして、寺参りに来られます。
昨晩はおさいど(お柴灯)で集落ごとやそれぞれの家でわらなどを焚いてつとめます。
お寺では一日早く14日に行うのが習わしでしたが、強風のため昨日に、小さいながらわらを組んでお焚き上げしました。お札やお守り、位牌などを供養して焚き上げます。
私が子どもの頃、昭和30年代はそれはそれは大きな催事でした。
裏の田んぼに村中からわらを集め、高さ3~4mほどの塔を作り、村中の老若男女が集まって賑やかに行ったものです。
他に冬の楽しみもなかったし、若い男女がワクワクしながら集まる、盆踊りのような意味合いもあったかもしれません。
いつの頃からか、テレビが普及した頃と重なるのか、次第に人が集まらなくなり、各戸ごとになっていったものと思われます。
多くの行事において、楽しみが集団から個人へと移っていく流れは止められそうにありませんが、逆に新たな楽しみの形を作っていくこともできるだろうと思います。
この町が「何もない」と言いますが、それはそれで結構なことだと受けてみたらどうだろうと思います。
何もないから新たなことを生み出すこともできるし、伝統を今からここから作っていくということもできるでしょう。
「何もない」は「何でもできる」「何でも始められる」ことだと受け止めたいと思います。
20日には地酒誕生を祝う、発表祝賀会が開催されます。これを一つの伝統にしていきたいと思っています。

転倒、後頭部強打から明日で二七日となります。
今のところ目立った症状は出ていませんが、しいて言うならお経を間違いやすくなりました。
転倒以前からその兆候はあって、父親と同じパーキンソンの症候が出始めたのかと感じていました。
その進行を転倒がブースター作用したかもしれないと懸念しています。
毎日読んでいるお経が、途中飛んだり、同じところを繰り返したり、いつの間にか別のお経になっていたりという回数が多くなりました。
聞いている檀家の人には分からないだろうと甘えてはいけません。
大本山總持寺の副貫首だった鶴岡大山善宝寺住職の斉藤信義老師は、「お経を間違えてはお釈迦様に申し訳ない」と常に経本を持って読誦しておられました。その姿勢に学ばなければならないと思います。
父親も、症状が進行してからは何十年も持ったことのないはずの経本を見ながらお経を読んでいました。それでも読めなくなって孫である私の息子を伴って葬式に行ったりしていました。その頃、私は全く役に立ちませんでした。

話はズレますが、お経を読む頭の中というのは不思議だなと思います。
お経の途中でカネを打つところがあるのですが、決まったところで打つためにはその前の時点でバイを持ち上げて準備しなければなりません。しかし、どこまでいったら持ち上げてなどと意識したことはなく、そこに近づくと自然にその準備ができているのです。
一体誰がそうしているのでしょう。
長いお経も、繰り返し読んでいると暗誦できるようになります。
お経を全部覚えているというよりも、一つの文言が次の文言を連れてくる、芋づる式に出てくるという感じでしょうか。
PCやスマホの文字変換で次の語を予測するようなものです。
シナプスが次から次へとつながって次の語を口から出すということが起こっているのだと思います。
なので、頭の中でお経を思い出しながら読んでいるのではないのです。
いちいち思い出してお経を読もうと思ったらきっと間に合いません。
「途中で間違えるのではないか」などと頭をよぎった時には、間違えないようにすることでかえってその言語にとらわれて間違うことがあります。
むしろ、何か別のことを考えながらお経を読んでいる方がスムーズに最後まで読み切ることができたりします。
意識とは別の作業として、バックグラウンドでシナプスが働いているのだと思います。
それがこのところ、ちょっと別のことを考えただけで途切れてお経がつながらなくなるという傾向にあるのです。
意識がバックグラウンドに作用してしまうということでしょうか。
父親のパーキンソンの兆候が始まったのは67歳頃だと思われるので、私にとって間もなくのことです。ブースター効果が強ければさらに早いかもしれません。
なので、楽しむ時間もそんなに残されていない可能性があります。
今のうち、ここから、という思いで日々を生きていきます。
皆さんもそうですよ。楽しみたいと思っても体がいうことを聞いてくれない時がやって来るのですから。今のうちです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。