詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(36)   

2014-04-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(36)          

 「帰ってくれ」は、私には少し奇妙な日本語のように感じられる。「もう、きみは帰ってくれ」というようにだれかを追い返すときに「帰ってくれ」と私はつかう。けれど、この詩のなかでは違うつかい方をしている。

しばしば帰って、私を捉えてくれ、
帰って来て私を捉えてほしい感覚よ。
身体の記憶が蘇る時、
昔の憧れが再び血管を貫き流れる時、
唇と肌が思い出し、
手に また触れあうかの感覚が走る時、

 二行目に「帰って来て」と言いなおされているが、タイトルの「帰ってくれ」、一行目も「しばしば帰って」は、ともに「帰って来てくれ」という意味である。「来て」(来る)が省略されている。
 カヴァフィスが書いている「感覚」は、帰って「来る」ものではないのかもしれない。「蘇る」ということばがあるが、「帰ってくれ」は「蘇ってくれ」なのだ。それは、どこか遠くへ行ってしまったものではなく、自分のなかにあるものなのだ。
 おそらく男色の官能、愉悦のことだろう。
 去っていった恋人に帰って来てくれと望んでいるのではない。恋人に帰って来てくれと言っているのかもしれないけれど、それは恋人を愛しているからではない。自分の官能を愛しているからだ。自分をつきやぶって動く官能、それこそ自分から出て行ってしまう愉悦(エクスタシー)を愛しているからだ。欲しているからだ。
 恋人が帰ってくれば、そして愛し合えばその官能は再び燃え上がるのだろうけれど、それは恋人が与えてくれるものであるよりも、カヴァフィスの肉体のなかから蘇るものなのである。自分の肉体のなかに、もともと存在する。だから帰って「来て」くれとは言わない。「蘇れ」と言いなおすしかない。
 この詩の六行目に、中井久夫はおもしろい注釈をつけている。「『また触れあうのか』はその後に『ごとき』を補うとわかりやすい。」わかりやすいのなら、なぜ「手に また触れあうかのごとき感覚が走る時、」と訳出しなかったのだろう。帰って「来て」くれの「来て(来る)」と同様、そのことばがあると何かまだるっこしい感じになるからだ。「直接性」のようなものが消える。「比喩」になってしまう。外から認識できる「客観」になってしまう。
 カヴァフィスがここで書きたいのは、肉体の直接性、自分の肉体の内部にあってうごめくものの「手触り」だ。「来て」や「ごとき」を補うと「わかりやすく」はなるけれど、それは「わかった」ことにはならない。直接性を「わかった」ことにはならない。だから、あえて、わかりにくく書いているのだ。「直接」にむかって読者の意識が動くように。カヴァフィスが読者に「わかってほしい」のは「直接性」なのである。

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