詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか2018年1月号

2018-01-31 20:22:53 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」1月号、発売開始。
B5版136ページ、1750円(送料、別途250円)

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073097

URLをクリックして、ページ右側上辺の「製本のご注文はこちらから」の押してください。

1月号の目次は。

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129

なお、他の本(「誤読」「天皇の悲鳴」「詩はどこにあるか11月号」「12月号」)も発売中です。
問いあわせは

yachisyuso@gmail.com
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森口みや「余暇」

2018-01-31 12:59:06 | 詩(雑誌・同人誌)
森口みや「余暇」(「現代詩手帖」2018年2月号)

 「現代詩手帖」の「21世紀の批評のために」は瀬尾育生と宗近真一郎の文章を読んだだけで、あとは読む気力がなくなってしまった。私は年をとっているから21世紀を生き抜くわけではない。何かの「ために」考えるというのもめんどうくさい。
 で、おもしろい詩はないかなあ、と思っていたら。
 投稿欄に、森口みや「余暇」。

池の傍らにゆらめいて、ただ
幽霊は幽霊らしく
最後に食べたふろふき大根のこと、未練がましく思いかえしている。
もしやり直せるのだとしたら
断固として
味噌は、要らない……。
もごもご もごもご
自分で自分に供えた大根を宙で咀嚼しつつ
冬眠し損なった亀が一匹、岩の上に淡く存在しているのに、心惹かれてく。

 「ふろふき大根」か。私には何やら「たよりない」料理に見える。「ゆらめいて」いる何かのように。大根の「幽霊」のようにも感じる。「淡く(淡い)」も通じるかなあ。「ふろふき大根」の描写につかわれていることばではないのだが、周辺にあることばが「ふろふき大根」をそれとなく描写しているように感じてしまう。そこがおもしろい。
 たかがふろふき大根なのに「やり直せるとしたら」というのもおかしいなあ。次は、こう食べたいというくらいのことなんだろうけれど。味噌(私はゆず味噌派だが)は要らないか。味噌がなかったら、もっとぼんやりしないか。ふろふき大根って、大根よりも味噌の味じゃないか、とも思ったりする。それこそ「もごもご」と思うだけだけれど。
 「宙で咀嚼し」というのは、空想で食べるということくらいの意味なんだろうなあ。
 で、そこに亀が出てきて、状況がちょっと変わる。

池の傍らにゆらめいていると
初詣にやってきた家族連れが、一匹ぼっちの亀にエサやりをしようと、干し芋を千切って放り始める。
甲羅に芋がぶち当たっても、亀は頑として動かない。
人間らが残念そうに去ったあと
ぺちぺち ぺちぺち
亀は、
干し芋の落下した箇所を目で追いながら方向転換して
鼻息荒くかぶりつき
うにゃうにゃ口角を歪めて咀嚼すると
喉元を引き攣らせながら、
嚥下!
こっちにアイコンタクトを送ってきて
どや。
といった。

 いいなあ、この亀。人のおもいのままには動かない。そして自分のやりたいことだけをやる。図太い。
 で、それが単に亀の描写かというと。
 亀の描写には違いなののだが、

もごもご もごもご
自分で自分に供えた大根を宙で咀嚼しつつ

うにゃうにゃ口角を歪めて咀嚼すると

 自分がふろふき大根を食べるときにつかった「咀嚼」、それと咀嚼のときのオノマトペが重なるので、それが亀の描写なのか、自分の描写なのか一瞬わからなくなる。亀になってしまって、干し芋を食べているような気分になる。
 一体感を通り越して、なんだか亀に「肉体」を乗っ取られている感じといった方がいいかなあ。

どや。
といった。

 は亀が言ったのだが、亀は日本語(関西弁?)など話さないだろうから、これはほんとうは森口が「どや」と亀になって言ったのだ。「こっちにアイコンタクトを送ってきて」というのも、相手が亀なんだから、そんなものを無視すれば「アイコンタクト」でもなんでもなくなるのだが、アイコンタクトと感じてしまう。
 食べる、自分の好きなように食べるという「肉体」の動きが、亀と森口を、森口と亀を強く結びつけてしまう。区別をなくす。

ゆらぎつづける、あらゆる像の間
目と目があったら、おともだち
黙ってほほえんでいると
亀は首を伸ばし、もう一度
どや。
といった。
うん。おいしいか?
亀は私を無視して甲羅に篭もる。
そのまんま
不動の像となり
網膜に焼き付いてく。

「よい透明感だったのに」
白い息を見送れば
空の青

 「よい透明感」は何を指しているのか。亀と私との関係か。つかずはなれず。でも「どや」がわかった。食べることについて何かが共有できた。「肉体」が共有できた。
 「白い息」も「空の青」もまた「よい透明感」だろうなあ。
 ふろふき大根の、ゆれるような透明感かなあ、などとも思う。

 と、ここまで書いてきてふと思うのだが。
 瀬尾育生や宗近真一郎は、この森口の作品をどう批評するだろうか。「21世紀」の詩として、どう読むだろうか。ルネ・ジールだとかラカンだとか、吉本隆明だとか、柄谷行人だとか、「超・超越性」だとか「去勢」だとか、そういうことばとどう結びつけるのだろうかと疑問に思った。
 「いま、ここ」にあるものに対して、自分をどう解体し、組み立てなおし、いっしょに生きるかということが大切なのになあと、私は思う。
 ややこしいことをあれこれいうよりも、干し芋を買って、大濠公園に行ってみようか。亀を探して、干し芋を千切ってやってみようか、と思う。食べるかなあ。「どや」と言うかなあ。その前にふろふき大根を食べないと亀と対話できないかなあ。
 きっと、そういう「行動」の方がややこしいことば(論理)よりも批評ということだろうなあと思う。批評の出発点は、何かに出会い、「わあすごい」と感動し、我を忘れてバカになることが出発点だと私は思っている。「知識」を積み重ねても「批評」にはならないだろうと思う。それは「私は頭がいい、こんなに多くのことを知っている」という宣伝だ。





 


*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

現代詩手帖 2018年 02 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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国の理想の形(安倍の本音)

2018-01-31 06:44:05 | 自民党憲法改正草案を読む
国の理想の形(安倍の本音)
             自民党憲法改正草案を読む/番外173(情報の読み方)

 安倍は憲法について語るとき、「国の姿・理想の形を議論していくのは、私たちの歴史的な使命だ」というような表現をよくつかう。「憲法は国の理想の形を明確にするもの」という定義だ。一般の「憲法は国(権力)の暴走を拘束するもの」という考えとはずいぶん隔たっている。これを単に安倍の認識が間違っているととらえ、安倍は憲法の定義も知らないと笑って見過ごすと、とんでもないことになる。安倍は「本音」を語っているのである。

 自衛隊の存在をめぐっては、憲法学者の中に「いまのままでは自衛隊を憲法でコントロールできない。きちんと自衛隊を憲法に組み込むべきだ」と主張する人がいる。このひとたちの意見は「憲法は権力を拘束するのも」という定義から出発して、そう言っていることになる。
 こういう意見と、安倍の「災害救助にあたっている自衛隊を違憲と呼ぶのは、自衛隊員の子供たちがかわいそう」とか「自衛隊を違憲と呼んでおいて、北朝鮮が攻めてきたら助けてというのは身勝手だ」とか言うのは間違っている、自衛隊を憲法に書き加えるべきだというのとはまったく違う。
 安倍の意見では、自衛隊を憲法に書き加えることで、自衛隊をコントロールするということにはならない。

 自衛隊(武装)が違憲であるというのは、実は自衛隊の存在自体のことを指しているのではない。自衛隊は自発組織ではない。内閣が予算を組んでいる。いいかえると内閣がつくりだしたものだ。自衛隊をつくりだした内閣、武装させる内閣が違憲であるというのが「自衛隊は違憲だ」というときの基本的な考えである。
 安倍が違憲である、と言われているのである。
 これに対して「自衛隊員の子供がかわいそう」と言い換えるのは、予算編成に対して批判をうける安倍がかわいそうという「本音」を隠していることになる。自衛隊を思いのままに動かせない(北朝鮮を攻撃できない)安倍がかわいそうと言っているにすぎない。
 言い換えると、安倍の戦争をしたい気持ちを縛りつけている憲法は気に食わないということである。「理想の国家の形」という表現を借りて言いなおせば、安倍が独裁者としてふるまえる国の形が理想の形であり、憲法は安倍の独裁を保障するものでなければならない、というのが安倍の主張(本音)なのだ。

 改憲派の憲法学者は、自衛隊をこのままにしておいてはコントロールできない、だから憲法を改正すべきだというが、他方に、独裁のために憲法を改正する(自衛隊を利用できるようにする)という安倍の「本音」があるのことを見落としてはいけない。安倍は、まったく違った意味で自衛隊を憲法に書き加えると言っている。それを指摘しないといけない。

 改憲派の憲法学者の論理は完璧である。間違っていない。正しい。けれど、論理が正しいからといって、その論理が「流通」するわけではない。論理が正しいのは、その論理の土俵が限られているからだ。狭い土俵でなら、いくつもの「正しい論理」が展開できる。「論理」というのは、そういうものである。
 こういう指摘に対する反論は、憲法学者たちはすでに準備しているだろうから、書いても無駄なのかもしれないが書いておこう。

 改憲派の憲法学者が「いまこそ自衛隊を憲法に書き加えるべきである」と主張した場合、彼らの主張から「自衛隊をコントロールするため」という意味は切り捨てられ、ただ「自衛隊を憲法に書く加える」だけが採用される。そうなったとき、憲法学者はきっと、「私の主張は正しいのに、安倍は私の正しさを無視した」と言うに違いない。そして、「学問」のなかへ、「論理の整合性」のなかへ、帰っていく。
 けれど一般の国民には、帰っていく「論理の整合性を競う場」などないのだ。国民は、戦場に駆り出され、「御霊」になることを強いられるのである。

 安倍が「独裁」を「国の理想の形」として思い描き、憲法によってそれを保障しようとしていることは、憲法改正項目にあげた4点をみても明らかである。
 自衛隊を憲法に書き加えるのほかに
(1)緊急事態時には国会議員はそのまま議員をつづける
(2)合区を解消し、1県1議席にする
(3)教育の無償化(教育の充実)
の(1)(2)は自民党の議席を維持する、あるいは増やすということである。議席の確保が「独裁」を保障する。
 (3)は「独裁」と無関係に見えるかもしれないが、強い関係がある。
 教育の無償化は民主党も進めようとした。ところが朝鮮学校への無償化は自民党政権によって中止になった。北朝鮮が思想教育している学校を支援するのは国益に反するというのである。これは「学問の自由」からみると大きな問題である。安倍の言う教育の無償化(あるいは支援の充実)が、安倍の政権を支持する学問なら対象になるが、そうでない場合は対象にならないということが起きる。
 安倍独裁をどうやって打破するかという研究がされる場合、その研究機関での教育費は無償にならないだろう。思想はいつでもどんなときでも個人のものである。その自由は、教育無償化によって妨げられてはならない。しかし、安倍はきっと思想を選別する。
 安倍を支持する思想だけが教育機関で展開される。独裁の強化が教育機関からおこなわれる。

 憲法学者は、自分には帰るべき論理の場(学問の場)があると安易に考えてはならないと思う。そういう場は、安倍の独裁によってあっというまに奪われてしまう。
 自分の「論理の正しさ」に固執するのではなく、「いま、ここ」でどんな論理を新しく組み立てることができるか、どうやって憲法の理想(権力を拘束するために憲法はある)を守るのか、それを考えないといけないのではないだろうか。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
http://fushigina.jp/
上映日程や自主上映の申し込みができます。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
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安倍の論法(沈黙作戦)

2018-01-30 21:45:52 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の論法(沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外173(情報の読み方)

 2018年1月30日読売新聞夕刊(西部版・4版)の3面。

「自衛隊根拠 憲法明記を」/衆院予算委 首相、改めて強調

 という見出しで、衆院予算委の答弁を伝えている。それによると、

首相は9条1項、2項を維持し、自衛隊の根拠規定を追加する案を提唱している。首相は「2項を変えることになれば、(書き方次第で)全面的な集団的自衛権の行使を認めることも可能となるが、2項を残す私の提案では、今までの政府の解釈と同じだ」と述べ、2項改正案に否定的な考えを示した。

 2項を残すから「戦争放棄」は守られるのか。
 考えてみないといけないことはいろいろある。
 読売新聞は「書き方次第で」ということばを安倍の答弁に補っている。この「書き方」が問題である。
 安倍の答弁は、具体的なようで具体的ではない。抽象的である。つまり「書き方」が明示されていない。
 ここが一番の問題である。
 昨年6月22日の「自民党憲法改正推進本部」の会合では「たたき台」が出されている。そこには「書き方(文言)」が明確に示されている。その文言の問題点は「憲法9条改正、これでいいのか」(ポエムピース)に書いたので繰り返さない。
 これが12月の推進本部の後では「2案併記」という形で概略が示されたが、「文言」は公表されなかった。「書き方」が明示されなかった。したがって、文言のどこに問題があるかを誰も指摘できなかった。
 これが30日の答弁でも繰り返されている。
 憲法に限らず、法律は「書き方」が問題である。「書き方」にすべてがあらわされている。
 「自民党憲法改正草案」では、たとえば「個人」が「人」になり、婚姻をめぐる項目では「両性のみ」の「のみ」が削除されている。そこに「意味」というか、「わな」がある。
 どう「書くか」(書き方)を点検しないと、問題点が見えない。
 安倍は、これを最後まで隠し続けるだろう。その一方で、野党に対案を出せと迫るだろう。対案を出さないのは無責任だと攻めるだろう。
 だが、対案を出したらどうなるのか。
 野党の案に対して、自民党が質問攻勢に入る。国会の審議時間は限られているから、野党の案が審議される分だけ、自民党の案が審議される時間が少なくなる。それでも審議の総時間は達成するから、「審議は尽くされた」という形で審議は打ち切りになる。自民党の案の問題点が明確にならない内に国会発議→国民投票ということになる。
 安倍の狙いはそこにある。
 国民に議論させない。安倍の案の問題点を指摘する時間を与えない。国民が議論し、認識を深めるだけの時間を与えない。

 国民の理解を得たいなら、早急に「改憲案」を明示して、何度でも「説明会」を開くというのが本来の姿だろう。特になかなか理解をえられないと思えば、時間をかけて説明すべきものだろう。20年までに改憲をするというのなら、いまごろは各地で説明会が開かれているべきである。具体的な案について説明されているべきである。説明は何度繰り返されてもいい。多くて困るということはない。
 安倍は、逆をやろうとしている。
 「静かな環境」というのは、安倍の大好きなことばだが、憲法改正も「静かな環境」でやろうとしている。
 毎日毎日どこかで「憲法改正についての説明会」が開かれていれば、「うるさい」。「説明会」が繰り返し開かれれば、理解が深まると同時に、見過ごしていた疑問点もだんだん浮かび上がる。どういうことでもそうだが、「疑問点」というのはなかなかすぐには浮かび上がらない。説明されると、あ、そうかなあ、と思ってしまう。しばらくたって、考え直してみると、でも変だなあという気持ちになる。そして、そのことを質問する。そういうことが少しずつ増えてくる。一般論としてはそれでいいけれど、それが自分のことだったらどうなるのかなあ、自分に何ができるのかなあと考えると、疑問点が増えてくる。
 議論とは、そういうものなのに、あるいはそういうものだからこそなのか、安倍は「議論封じ」をする。いつでも「静かな環境」と言う。
 これは言い換えると「批判の声がない環境」である。
 こういう安倍の「沈黙作戦」を許してはならない。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」

2018-01-30 20:58:16 | 詩(雑誌・同人誌)
宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」(「現代詩手帖」2018年2月号)

 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」は、何を書こうとしているのか。サブタイトルに「「ほんとうのこと」を脱構築する思想的震源へ」とあるが、ますます見当がつかない。
 ことばは、まあ、見当をつけずに読むものなのだろうけれど。つまり、何事も「予測」せずに読むべきものなのだろうけれど。

 いきなりジャック・ラカンが出てくる。ラカンは『エクリ』が日本で読まれることを期待していなかったというところからはじまっている。日本語が中国の「漢字」を利用している。その利用の仕方は「漢音」を「訓読み」するところに特徴がある。「外部(中国語/漢音)」と「内部(日本語/訓読み)」が接続されている。これから、ラカンは「日本語を話す人にとっては、嘘を媒介として、ということは、嘘つきであるということなしには、真実を語るということは日常茶飯事の行ないなのです」と断定している。いいかえると、日本語は嘘つきの言語であり、そこで語られることに「真実」があるとしても、それは「嘘つきの真実」としてみなければならない。嘘つきの日本人(嘘つきの言語で成り立っている日本人)には読まれたくない、読んでも意味がわからないだろうとラカンは言いたいのだろうか。
 宗近はどうとらえているのだろうか。先の「日本語を話す人にとっては」の文を引き継いで、こう書いている。

つまり、ラカンは、訓読みとは、無意識(象形文字・隠されたもの)とパロール(発語)との距離(差異)をゼロにするような処方だというのだ。

 あ、ぜんぜんわからない。「パロール」ということばがつかわれていることは、宗近が同時に「ラング」を意識していると思う。このパロールとラングを「漢字(漢音)」「訓読み」で言いなおすとどうなるのか。
 「漢音(漢字)」は中国人にとって「パロール」であると同時に「ラング」である。書かれた文章は「パロール」ということになるだろう。それを日本人はどう利用して、日本語の文体をつくったか。
 私の読み方では、「訓読み(中国語を日本語の方法でラング化する)」というのは、パロールされた(話された)意味(あるいは漢字にあらわされた象徴)を「自己流に」とらえなおすということである。「漢字」がもっている「真実」を自分の都合のいいように理解する。あるいは自分の言いたいことをいうために「利用する」。それは「嘘つき」の方法である。だから、そんな嘘つきの日本人に私の本を読まれたくない。繰り返しになってしまったが、私はそう言っているように思う。
 あ、私はラカンを読んでいないので(宗近の引用している部分だけを読んでの感想なので)、それ以上は言えないのだが。
 で、何が言いたいかというと。
 最初から、ラカンと宗近の関係がわからない。ラカンを宗近がどう読んだか。それが書いてあるのだが、書かれていることがどうも納得できない。
 こういうことは本を読んでいればいつでも起こることなので、ここまではあまり気にしないのだが。
 この私がつまずいた部分を宗近がどう説明しなおすか。
 宗近は自分のことばで語らない。代わりに柄谷行人に語らせる。柄谷の主張が宗近の主張ということか。(1、2の番号は私が便宜上、わりふった。)

(1)日本人には抑圧がない。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人は常に真実を語っている。

(2)言語の習得による「象徴界」への参入が集団的(複数的)な経験だというラカンを前提に則するなら、〈日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界というか、鏡像段階にとどまっている〉

 あ、ぜんぜん、わからない。
(1)ラカンは日本人を嘘つきといった。けれど柄谷は日本人は「真実」を語っているという。「嘘」と「真実」の定義がはっきりしない。ラカンはすでに「意味」として存在する中国語(漢字)を利用して、別の読み方をする(訓読みをする)というのは嘘つきの方法だと言ったと私は理解しているが、柄谷はどう解釈したのか。
(2)で言いなおされている。「象徴界」というのは「漢字、漢語」のことである。「漢字、漢語」は「象形文字」。そこに「意味」が「象徴されている」。それを日本人は集団で「訓読み」した。中国人のパロールを、日本人のラングに取り込んだ。あるいは、乗っ取った。(乗っ取りと理解すれば、たしかに「嘘つき」というか、詐欺の手法だねえ。ラカンの日本人嫌いがよくわかる。)
 これを柄谷は「象徴界に入りつつ(象形文字である漢字の世界に入りつつ)、同時に、想像界、というか鏡像段階にとどまっている(訓読みの世界にとどまっている)」と言いなおしている。
 人は大事なことは何度でもことばを言い換えながら繰り返すものと私は考えているので、柄谷の繰り返しを、そう読んだ。
 で、こういう「象徴界=意味が強化、あるいは純化された世界」を、自分と地続きのことばでとらえなおす、漢語を訓読みするということが、なぜ「去勢」ということばとともに語られなければならないのか。もし「象徴=純化された意味」を日常の(集団的)なことば(ラング)にまでひきおろすことが「去勢」ならば、「去勢」されていない言語とは、「象徴界」を暴走することば(パロール)のことであろうか。
 あ、わけがわからないが。
 そのわけのわからなさを増幅させるのが、いま私が書いた「去勢」ということばだねえ。なぜ、ここに「去勢」ということばが唐突に出てくるか。このことばをラカンもつかっているかどうか。それがわからないので、柄谷のことばとラカンのことばをつなげる方法がわからない。さらに、「去勢」ということばを宗近がなぜ引き継ごうとしているのかがわからない。
 強引に考えれば、ラングは「母(性)」であり、パロールは「父(性)」であり、「パロール優先」の考え方は、いわば「男根主義」。「去勢」とは対極にある世界。ラカンは、日本語のラングが、「去勢」が不十分であり、「母性」としても不十分である(「母語」になりきれていない)と言っていると柄谷は解釈した、ということになるが。
 でも、これは私の勝手な解釈。宗近が部分引用している部分から考えたことであって、柄谷の真意も宗近がなぜこの部分を引用したのかもわからない。

 最初から何が書いてあるかわからない上に、宗近のことばは、さらに拡散していく。ラングのことばを宗近自身がどう引き受けたのか。さらに柄谷のことばをどう引き受けたのか。それを明確にしないまま、次に吉本隆明を引用する。
 そこでは「自然」ということばがテーマである。「象徴界」に対して「自然」があるのか。「象徴界」は「直喩」、あるいは「思考力」というようなことばで、言いなおされているようにも感じられるが、論旨がたどれない。もし「象徴界(直喩)=純粋思考」というものと「自然」とが対比されているのだとしたら、その対比のなかで「去勢」はどう位置づけられるのか。「男根主義」というか、「去勢されていない性」というのは、私の感覚では「自然」になるが、吉本のことばを宗近がどう読んでいるのか、その「読み替え」の細部が、私にはまったくわからない。
 どのことばを、どう読み替えながら論理が展開しているか、わからない。

 このあと、「直喩」ということばを起点に、「換喩」が取り上げられる。さらにそれが「揺動」へと展開される。
 「換喩」とは何か。私には、よくわからない。『坊ちゃん』に「赤シャツ」が出てくる。その「赤シャツ」という呼び方が「換喩」であると私は感じている。早稲田の学生というかわりに「角帽」というのに等しい。それは「象徴界=意味(思考)の純粋化」とは無縁のことばの動きであり、「換喩」はひとが共有している認識をあらわす。「パロール」というよりも「ラング」に近いものだろう。共有されているものを手がかりに、その共有の内部へと意識を向かわせるということが「換喩」を提唱する運動の方向性ならば、それはそれでわからないことはないが、私は自分の体験として「換喩」というものをつかったことがない。人を指し示すとき、あるいはものを指し示すとき「赤シャツ」とか「角帽」とかのことばをつかったことがない。何か正面から向き合っている気がしない。他人をずらすというよりも自分をずらしている感じがする。この自分をずらすというのが、私は面倒くさくてできない。奥歯にものが挟まったような感じが、いやなのだ。
 「換喩」を意識的な「ずらし」と読み替え、そこから「揺動」へと動いていく論理は、論理としては理解できないことばないが、信じる気持ちにはなれない。

 なんだか、わけがわからない文章になってしまったが。

 なぜ、宗近はこんな変な文章を書くのだろうか。いや、宗近は「変な文章」(訳のわからない文章)とは思っていないだろうなあ。
 だから、言いなおそう。
 なぜ、私は宗近の文章を「変な文章」と感じるのか。
 宗近の文章を読んでも、宗近がラカンをどう受け止めたのか、柄谷をどう受け止めたのか、吉本をどう受け止めたのか、さっぱりわからないからである。
 「去勢」ということばを中心に考えてみよう。「去勢」というのは男にとってとは深刻な問題である。それが「比喩」としてつかわれているとしても「肉体」に響いてくる。柄谷は「日本人はいわば、「去勢」が不十分である」と書いている。それを宗近はひとりの「日本人」としてどう理解したか。宗近自身の「去勢」が不十分であると感じたか、「去勢」なんていやだよと感じたか。そういうことが、わからない。
 タイトルには「去勢」不全、ということばがつかわれている。「勃起不全」ではなく「去勢不全」。これは具体的には(肉体的)には、どういうことだろうか。勃起してはいけないときに勃起してしまうということだろうか。ことばの運動で、ことばが勃起してはいけないときとは、どういうときだろうか。勃起不全は、一般的に「否定的」な意味でつかわれる。それを歓迎する男は、まあ、いないと思う。では「去勢不全」はどうなのか。それは男にとって理想のことか。女にとって理想のことか。
 私は去勢されたくないから、去勢が不十分である(去勢不全である)といわれてもがっかりしない。よかった、と思ってしまう。だから、余計に何が書いてあるかわからない。去勢されたら(去勢が十分なら)、いいことがあるんだ、言語活動はこんなふうに展開するんだということが示されているならいいけれど、それがしめされないまま「去勢不全」といわれてもねえ。
 吉本がつかった「自然」ということばと、「去勢」を関係づけるとき、宗近の「肉体」はどう反応するのか。「去勢」の状態が「自然」なのか、「去勢不全」が「自然」なのか、「勃起」が「自然」なのか。
 「肉体」にかかわることばをつかいながら、「肉体」をどこかにほうりだして、つまり宗近自身をどこかにほうりだして、ただ「頭」でことばを動かしている。
 そう感じてしまう。
 タイトルの「去勢不全」ということば。これを、たとえば女性が(女性の読者)がどう読むか。そんなことは、宗近は考えないだろうなあ。自分の知っていることを語ればそれでいいということなのだろう。宗近は沢山の本を読んでいるといことはよくわかったが、それ以外は何もわからない文章だった。



 


*


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石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
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日米地位協定

2018-01-29 17:43:05 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
日米地位協定
             自民党憲法改正草案を読む/番外173(情報の読み方)

 「日米地位協定」がやっと国会でも取り上げられるようになってきた。
 そこで思い出すのが、先の安倍の施政方針演説。
 私は一か所、「おおおおおおっ」と声を上げてしまったところがある。
 「観光立国」という項目で語られた、ここである。

羽田、成田空港の容量を、世界最高水準の100万回にまで拡大する。その大きな目標に向かって、飛行経路の見直しに向けた騒音対策を進め、地元の理解を得て、2020年までに8万回の発着枠拡大を実現します。 

 ごく当たり前のことを言っているようだが、そうではない。
 「飛行経路の見直し」は、安倍が何を念頭において語ったことばかわからないが、羽田の飛行経路の見直しは日米地位協定に関係してくる。
 関東には「横田空域」、羽田を離発着する飛行機はそこを回避しているはずである。関西方面の飛行機は、千葉沖を経由している。遠回りしている。
 この遠回りを避けるためには、どうしても横田空域を「侵犯」しないといけない。
 さて、そんな「見直し」ができるかどうか。

 私は、できないと思う。
 アメリカが許さない。日米地位協定にかかわる。

 で、問題は。
 そういうことが、なぜ「施政方針演説」に盛り込まれたのか。
 ここからは、私の「邪推」「妄想」のたぐいだが。
 安倍の施政方針演説の「下書き」をした人間の中には、アンチ安倍がいるのだ。
 いうなれば、前川前文部次官のようなひとがいる。
 「飛行経路の見直し」ということばを差し挟むことで、野党のだれかが、「では日米地位協定の見直しをアメリカに迫ると受け止めていいのか」と国会で質問することを待っているのだ。
 ほかの「美辞麗句」にまどわされて、安倍をはじめとする官邸首脳は、羽田の「飛行経路の見直し」が日米地位協定に関係することを見落としている。

 「飛行経路の見直し」をすると言ったじゃないか、なぜしないんだ、と野党はぜひ追及してもらいたい。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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瀬尾育生「マージナル」

2018-01-29 16:58:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
瀬尾育生「マージナル」(「現代詩手帖」2018年2月号)

 「現代詩手帖」2018年2月号は「21世紀の批評のために」という特集を組んでいる。その巻頭に収録されているのが瀬尾育生「マージナル」。読んだが、何を書いているのか、さっぱりわからなかった。いや、ひとつ、とてもよくわかることがあった。瀬尾はたくさん本を読んでいる。
 「マージナル」(周辺?)を「超越」と関係させて書いているのだが、3の部分からとくにわからなくなる。瀬尾はルネ・ジラールの「超・超越性」に触れたあと、こう書いている。

 「超」という語の重畳は、旧約コヘレト書から北村透谷に引き継がれた「空の空なるもの」に接続している。さらに宮沢賢治の「ほんとうのほんとうの神様」「前の前のお母さん」に至り、方向を内面化させるとふたたび透谷の「各人心宮内の秘宮」「生命内部生命」へ、そして後期フロイトの「奥の奥の無意識」へとつながっている。(14ページ)

 私はルネ・ジラールも、北村透谷も、宮沢賢治も読んでいない。だから、私の認識は間違っているのかもしれないが、ルネ・ジラールって、いつのひと? 北村透谷、宮沢賢治、フロイト以前のひと? 「時系列」が違っていないか。北村透谷や宮沢賢治、フロイトはルネ・ジラールに先行する人ではないのか。
 「接続している」「つながっている」と瀬尾は書いているが、このときの「主語」北村透谷やフロイトではないのではないか。瀬尾が、ルネ・ジラールと北村透谷、あるいはフロイトを結びつけて考えているのではないのか。
 宮沢賢治から北村透谷への「方向を内面させると」というのも、賢治と透谷に交渉があって、その影響で透谷が「方向を内面化させ」たのではなく、瀬尾が、そういう方向で考えたということではないのか。
 ここに書かれているのは「歴史的な事実」ではなく、瀬尾の「意識の事実」なのではないのか。
 言い換えると、ここでは単に、瀬尾はルネ・ジラールを読んで、そういえば北村透谷にも似たような考え方があったな、宮沢賢治にもあった。フロイトの概念も結びつけて考えることができると考えたということではないのか。
 「事実」と「思いついたこと」を区別して書かないと、何を書いているのかわからない。瀬尾が「思いついた」ことは瀬尾にとっては「事実」だろうが、客観的には「事実」とは言えない。
 ルネ・ジラールは最後の方にも再び出てくる。

 鮎川信夫は一九八四年、ジラールのことばを受けて次のように言っている。《イエスの受難を一つのモデルと見做すのと、最終的なモデル(=モデルの廃止)と見るのとでは、そこに天地の隔たりがある。この場合、それが〈隠されていたこと〉の唯一の意味である。すなわち、人類は、そこで、過去の一切の意味を失うという経験をしたのである。〈神〉の明白な自己否定であり、イエスは最初の無神論者だったといっても、強ち強弁ではないだろう》。(21ページ)

 この鮎川のことばは、ルネ・ジラールのどのことばを「受けて」いるのか。最初に引用されている『世の初めから隠されていること』(一九七五-七七、小池健男訳)を指すのなら、「時系列」としては成り立つが、鮎川は、その文章の中でルホ・ジラールを引用した上でそう言っているのか。それとも瀬尾がルネ・ジラールと鮎川を結びつけているだけなのか。
 北村透谷や宮沢賢治の例があるだけに、そのまま読むことができない。



 この論の中で、瀬尾は杉本真維子の「集団」という詩を取り上げて批評している。

屋上に集団がいる
という情報をとじない瞼が捉え
後じさりして、視界の箍をはずすと
男女混合の雑多なひとで
ある。においは鴉に似て
形は木を模倣し
風が吹けば髪がはがれ
むき出しの頭皮から鼻にかけて
怨みのようなものを放っている
(あれは光かどうか)

 これを、瀬尾は、こう読んでいる。

「屋上に集団がいる」ということが「情報」としてやってくるが、それをとらえるのは《とじない瞼》である。とじない瞼は「情報」がとびかう空間の外にあって、開きっぱなしになったスクリーンのようなものになっている。そこに映される写像をとらえようとすれば後じさりしてこのスクリーンそのものを別のスクリーンに映してみなければならない。すると風が髪を剥がしとって頭皮をあらわにするようにして、ようやく「像」が現れる。像は男女混合であり、鴉のような臭いがし、木を模倣したような形をしており、頭皮から鼻にかけて怨みのような情動が放たれている。

 まだつづくのだが、何のことかわからない。特に「そこに映される写像をとらえようとすれば後じさりしてこのスクリーンそのものを別のスクリーンに映してみなければならない。」がわからない。「後ずさり」することが、どうして別のスクリーンに映すことになるのだろうか。杉本も、瀬尾も後じさり、と書いているから私の把握している意味は違うかもしれない。「後ずさり」は単に後ろに下がる、身を引くくらいのことであり、いくら考えても「別のスクリーンに映す」ということばにはつながらない。
 瀬尾は「情報」を「写像」ととらえ、そのあとで「像」と言いなおしているのだが、これもわからない。
 「情報」は「恥じない瞼」「視界」ということばとともにつかわれているのだから、それは「見えるもの(像)」だろう。なぜ「映像」ととらえる必要があるだろうか。「実像」では、どうしていけないのか。「とじない瞼」は「とじることのできない瞼」ではなく、「開いた瞼」とどう違うのか。
 私は単純に、こんなふうに読んだ。
 「屋上に集団がいる」とだれかが叫ぶ。このとき「私」は「集団」がどのような集団か聞き漏らした。「集団」とだけ聞こえた。それで視線を屋上に向けると、たしかに「集団」がいる。
 「後じさりして、視界の箍をはずすと」というのは「肉体」の運動というよりも「意識」の運動である。「後じさり」と「箍をはずす」は、同義である。常識的には「こう」見える。でも、その「常識」のタガを外して(つまり、常識を後退させて)その「集団」を見る。そうすると、それは

男女混合の雑多なひと
である。

 ということは、それは「男女混合のひと」ではないということだ。「常識」のタガをはずせば男女の「集団」に見える。でも、それは「男女の集団」ではない。
 では、何か。
 鴉の集団である。
 言いなおすと、こういうことだ。
 だれかが「あ、屋上に鴉の集団がいる」と叫んだ。見ると、たしかに鴉がたくさんいる。でも、もしかすると、あれは鴉ではなく人間ではないのか。ふと、鴉が人間に見えた。鴉の中には、なんとなく木の形に見えるものもある。あるいは木に止まったふりをしているものがあるということか。目を凝らせば、風が頭の髪を吹きさらしているのが見える。(ここからは、近くで鴉を見たときの記憶がまじっているかもしれない)。頭から鼻(嘴?)にかけての独特の形。そこに「怨み」を感じているということなのではないのか。
 鴉と人間の区別(区切りとしての「タガ」)をなくなって、鴉が人間に見え、人間に見えるものが鴉にも見える。
 鴉を見ながら、杉本は鴉になって、鴉を見ている杉本を見ていることにもなる。
 瀬尾は、「後じさりして、視界の箍をはずすと」の「箍をはずす」を読み落としていると思う。「スクリーン」を「別のスクリーン」に映しなおすというのは「スクリーンという箍」を「別のスクリーンという箍」に変えることであって、「箍をはずす」ことにはならない。
 また「スクリーン」にこだわれば、「臭い」ということばが出てくるのもおかしい。いまでこそ雨が降ったり匂いが飛び出す映画館もないではないが、スクリーンからは「臭い」がしない。
 「視界」という「箍を外す」、意識を「視界」に限定しない。そうすると「臭い」も可能になる。視界というのは目と対象との距離によって決まるが、そういう「距離」のタガも外してしまう。地上から屋上を見る、という距離感を通り越して、近くで鴉を見たときのことを思い出し、その細部を「間近」に感じてしまう。一体感だね。そこから「怨み」というような「感情」も手に触れるように感じられる。そういう「瞬間」を杉本は書いたのではないのか。





*


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あたらしい手の種族―詩論1990-96 (五柳叢書)
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自衛隊は違憲か(身勝手な論理2)

2018-01-29 07:14:04 | 自民党憲法改正草案を読む
自衛隊は違憲か(身勝手な論理2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外172(情報の読み方)

 安倍は、
(1)「災害救助に当たる自衛隊員を違憲であるというのでは、自衛隊員の子供がかわいそうである」
(2)「自衛隊は違憲であると主張しておいて、実際に北朝鮮が攻撃してきたら助けてくれ」というのは「身勝手」である、と言っている。

 ここには、とんでもない「論理のすりかえ」がある。
 「自衛隊」は「自衛隊員」が自ら結成した組織ではない。
 その資金源は「自衛隊員」が自腹で負担しているわけでもない。
 国民のおさめた税金の中から予算が組まれ、自衛隊員には給料が支払われている。その軍備も国民のおさめた税金から支出されている。
 「自衛隊が違憲である」というのは、実は、

自衛隊の軍備に金を支出することが違憲である。

 という意味である。
 これは言いなおせば、

自衛隊の軍備に金を出すような予算を組む内閣が憲法違反をしている。
安倍が憲法違反をしている。

 安倍自身へ向けられた批判を、安倍は、あたかも国民が、あるいは憲法学者が自衛隊員を批判しているかのように論理をすりかえている。
 自衛隊員に同情するふりをして、自衛隊員を利用している。



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松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」

2018-01-28 18:33:07 | 自民党憲法改正草案を読む










松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」が完成した。
公式ホームページは、下のURL
http://fushigina.jp/

その紹介文の抜粋。
「また福岡の一市民、詩人・谷内修三さんは、言葉にこだわる人ならではの角度から、自民党が示した9条加憲のたたき台を読み解きます。
「現行憲法では、全ての条文で、主語が<国民>でした。それが自民党のたたき台文案ではなぜか<国家>が主語になり、国民は国家から規制を受ける対象となっています。
また、その後には、<内閣総理大臣は、内閣を代表して、自衛隊の最高指揮権を有し、・・・>と、主語が総理大臣になっている。これはおかしい」と。
つまり、権力の横暴から国民を守ってくれるはずの憲法を「根本のところで破壊している」という指摘です。」

ちょっとだけ、そのときの「写真」をアップします。

福岡(博多)は商業の街。
かなり保守的。
上映会の仲間、憲法についてい語り合う仲間を求めています。

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身勝手な論理(安倍の方が身勝手)

2018-01-28 18:19:23 | 自民党憲法改正草案を読む
身勝手な論理(安倍の方が身勝手)
             自民党憲法改正草案を読む/番外171(情報の読み方)

 自衛隊を憲法9条に加憲する(書き加える)。そう主張するとき、安倍は何度か、
(1)「災害救助に当たる自衛隊員を違憲であるというのでは、自衛隊員の子供がかわいそうである」
(2)「自衛隊は違憲であると主張しておいて、実際に北朝鮮が攻撃してきたら助けてくれ」というのは「身勝手」である、と言っている。
 この「論理」は「論理」として正しいか。

 (1)については、災害救助に当たる自衛隊員を「違憲」と言っている人はいないと思う。自衛隊員が武装していることに対して違憲といっている。武装して海外に出て行くことに対して違憲といっている。
 「論理」になっていない。

 (2)は少し考えてみる必要がなる。ことばを動かしてみないと「正しい」かどうかわからない。
 人はだれでもいのちの危機に直面したら、その前にいる人に「助けて」という。これは「本能」である。極端な話、「殺すぞ」と脅されたら,その「殺す」と主張しているひとに対して「助けて」というだろう。これは「身勝手」ではない。
 また、自衛隊員の給料も自衛隊の装備も、「自衛隊の自前」ではない。だれかが金を出している「私警団」でもない。国民の税金から支出されている。金を出しているのだから、金を受け取っているひとに対して「助けて」と言って何が悪いのだろう。国民の当然の権利である。安倍の論理は完全に間違っている。
 こんな「自明」なことが、批判もされずに、新聞やテレビで報道されている。
 私は自分を「論理的」な人間であると思ったことは一度もないが、そういう私から見ても、この国の「論理」というのはひどすぎる。「権力者」の言っていることを「正しい」と垂れ流している。

 (2)の問題を少し別の角度から見ていく。
 もし自衛隊が憲法に書き加えられる(加憲される)ことで、「合憲化」した場合、自衛隊に対して「批判」は可能なのか。合憲化している自衛隊に対して、武装して海外へゆくな、武器の使用は領空・領海・領土の中だけで許されている。それ以外は違憲であると主張することは可能なのか。
 安倍はきっと「合憲化している自衛隊を批判することは憲法違反である」と主張するようになるだろう。自衛隊批判、防衛戦略批判というのもが禁止されるようになるだろう。
 さらに得意な「静かな環境」というものを頻繁に持ち出してくるだろう。選挙で何かが争点になる。議論が沸騰する。そうすると、「国民が静かに熟考し、自分の判断で投票するためには、選挙演説は静かであるべきだ、投票場は静かであるべきだ」という主張が展開されかねない。安倍(与党)の意見は宣伝するが、反論は封じる。そのために自衛隊を導入するということも起きかねない。
 東京都議選のとき、稲田が「自衛隊としてお願いする」と言った。同じことが頻繁に起きる。「合憲」の自衛隊がお願いするのだから、その内容は「合憲」であるという主張もなされるだろう。
 空想、妄想と思ってはいけない。
 自衛隊を「合憲化」したあと、緊急事態事項を憲法に盛り込む。その国民投票のとき、自衛隊が投票場を武器を持って取り囲み、国民がどう投票するかを監視するということが絶対に起きるのだ。
 自衛隊は、国民を外国の攻撃から守るよりも前に、国民を監視するためにつかわれるに違いない。安倍は自衛隊(軍隊)を利用して独裁を推し進めようとしている。

 こんなことも思い出しておこう。
 都議選のとき、安倍は安倍批判を展開する都民に向かって「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った。あれは単なる暴言ではなく、「憲法違反」である。
 国民は憲法で「表現の自由」を保障されている。国民は国家権力に対してどんな批判を浴びせてもいい。
 これは逆に言えば、国家(権力)は、国民を批判する権利(自由)をもたないということである。批判する国民をどう統一していくかは、行政をまかせられたものの責任ではあっても、そのとき国民を批判し、切り捨てることは権力には許されていない。
 批判する人間のためになぜ働かなければいけないのか、と安倍は言うかもしれないが、それが政治家の仕事というものだろう。批判する人間もおなじ国民であるということを忘れてしまっている。もう独裁者なのだ。

 「自衛隊は違憲であると主張しておいて、実際に北朝鮮が攻撃してきたら助けてくれ」というのは「身勝手」であると安倍が言うとき、安倍は国民が税金を払っている、その税金の中から自衛隊の活動費(軍備費)が捻出されているということを忘れている。
 予算を作成し、執行しているのが誰であるかを忘れている。その予算の「原資」がどこにあるかを忘れている。
 自衛隊には配慮しているかもしれないが、国民に対する配慮を忘れている。こういうことを「身勝手」と呼ぶべきである。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』

2018-01-27 11:47:30 | 詩集
藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』(七月堂、2018年01月31日発行)

 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』の感想を書くのは難しい。
 「残遺詩集」という作品。

 入院中の彼は外出時や外泊時に詩集の出版を七月社に依頼していた。
 いとも簡単にぼくは彼になった。そうすると、ぼくはぼくなのだった。ぼく以外の何者でもない彼だった。

 「彼」と「ぼく」の関係。どう書けるかわからないが、そのことについて書いてみたい気持ちになる。でも、書けばきっと「意味」になる、と思い、私は迷ってしまう。
 読んでいて、どきっとするのは、そういうことではないからだ。「ぼく」と「彼」の関係ではなくて、

いとも簡単にぼくは彼になった。

 この一文の「ぼく」と「彼」を省略した「いとも簡単に……になった」という変化そのものにひかれるのである。苦労して何かになるのではない。苦労などせずに「いとも簡単に」。「簡単に」には「いとも」という強調のことばがついているが、その変な回り道にも引きつけられる。なぜ「いとも」なんて書くのだろう。「簡単に」の方がことばが省略されていて、「事実」にすばやく近づけるのに、「いとも」といったん「事実」から離れるようにことばが動く。「強調」とは、いったん、それ自体から遠ざかることなのか、あるいはそれにより近づくために力を「ためる」ことなのか。この妙な「迂回」のために、

そうすると、ぼくはぼくなのだった。

 この「そうすると」が、迫ってくる。「そうすると」というのは「論理」が動いていることをあらわしているが、その「論理」って何? 説明できない。説明しようとするとややこしい。けれど、その「論理」のなかには「簡単に」があるのだ。「簡単」だから「説明」などしなくていい。
 そんなことは書いていないのだけれど。
 私は、その書いていないことばを「誤読」する。「妄想」する。書かれていないことばに「加担」してしまう私自身をみつけて、とまどう、とも言える。
 詩は、このあと「転調」する。

 夫は日がな一日、出来損ないの詩を書きつけて、どこの誰とも知れない方々に送っているようです。まさか小説とは言えないから詩と称しているだけで、私は、できることならやめてほしいです。

 「彼」も「ぼく」も消えて、「私」が出てくる。「夫」とは「彼」であり「ぼく」であると読むことができる。そうすると、ここでは「いとも簡単に」、「彼」「ぼく」が「夫」にかわり、同時に「彼」「ぼく」は「私」にも「なっている」ことになる。
 あ、でも、こういうことも「意味」にはなっても、きっと詩とは「無関係」なことだと思う。「無関係」ということ言いすぎだけれど、藤井のことばを動かしている「力」とは少し違ったものだと思う。
 この段落でいちばん「力」があるのは、どのことばか。

まさか小説とは言えないから

 この「まさか」である。「まさか」は「いとも」と同じように、「余分」なことばである。「余分」だけれど、「余分」を書かずにはいられない、「余分」になってあらわれるしかないものがある。
 それが、詩、なのだと思う。
 「余分」だけれど、その「余分」は、同時に何かを呼び寄せる。「いとも簡単に」「まさか……ではない」。別なことばを抱き込むことで、世界を広げていく。吸収と放出という「展開(運動)」がそこからはじまっている。「余分」なものは、そうやって動くしかないのである。

 詩、なんて、余分なものだね。
 でも、その「余分」を必要とする人がいる。「余分」がないと、生きていけない人がいる。
 藤井も、そのひとりなのだと感じる。感じさせられる。

 「ブラウン管遁走」でも、同じことを感じた。

 おれが覗いていた女、これが今ではおれの女房だ。いつもあの女に会いに来ていた男、あれはおれだったのだ。そういうわけで詩は覗きなのだ。そこにそれ自体がある。ところが小説はそれそのものを表すわけにはいかないのだ。

 「人称」が「いとも簡単に」入れ替わる。
 で、「論理」はどうかというと、ここでは、

そういうわけで詩は覗きなのだ。

 の「そういうわけで」のように、強引である。「論理」になっていない。「論理」を「強引さ」が突き破っている。「論理」以外の「余分」が「論理」を破壊しながら、「余分が論理である」と主張している。この「余分」を「それ自体」と呼ぶのだが、ほんとうはその直前の「そこに」の「そこ」が「余分」そのものである。文法的には「余分」は「それ自体」と読むのが簡単なのだけれど、「彼」「ぼく」「私」が入れ替わったように、「おれ」「男」が入れ替わるように、「そこ」という「場所」を示すことばと「余分」という「場所以外を示すことば」が入れ替わっていると読まないといけないのだ。
 ここから「詩は、何かの入れ替わり」である、と定義しなおすことができる。「彼」「ぼく」「私」が「いとも簡単に」入れ替わる」、「男」「おれ」が「いとも簡単に」入れ替わる。「入れ替わり」自体が詩なのである。
 これを、わかりやすく言いなおすと。(こういう言い直しは藤井は嫌いだろうけれど、私の書いていることが「論理」であるということを補足するために言いなおすと……。)
 美人をたとえて薔薇の花という。「きみは赤い薔薇だ」という「詩」がある。このとき「きみ」と「薔薇」は結びつけられているだけではなく、「入れ替わっている」。「入れ替わることが可能」と見なされている。「比喩」とは「入れ替わり」のことである。詩は「比喩」のなかにある。「比喩」とは「入れ替わり」である、と考えると、「彼」「ぼく」「私」、「おれ」「男」の「入れ替わり」も詩につながることがわかると思う。
 で、これを「人称」だけではなく、「もの」や「概念(?)」にも適用する。さらには「運動」そのものにも適用する。「関係」という動かないものではなく、「入れ替わる」という「運動」が詩なのである。
 「入れ替わり(入れ替わること、いれかわる運動)」を「それ自体」と呼び、それを「詩」と定義していることがわかる。
 たしかに藤井が書いている「いとも簡単に」「入れ替わり」が起きることを描くのは、小説には無理だろうなあ。小説は「入れ替わり」ではなく、「人称」を維持したまま、その人自身が別の人間(人格)になっていくという変化を描くからね。

 でも、まあ、私が書いたことは、どうでもいいことだろう。詩は論理でも説明でもない。ただ、そこにあるもの。
 「ウチクラ層の殺人」を引いて、そのことを補足しておく。

 ぼくが小児科医院に程近い住宅地を歩いていると、頭上でヘリコプターの爆音がしきりにするので、見上げると真っ黒い巨大な円盤状のものが二機飛んでいた。するとそれは音もなくぼくのすぐ間近に迫ってきて、小学生の女の子数人がぼくのそばを駆け抜けて行った。円盤は彼女たちを追っているのだ。ぼくも危ないと思い、走り出した。

 「ぼくも危ないと思い、走り出した」と書いてあるが、「女の子(彼女たち)」は「危ない」と思っていたのか。「危ない」と叫んでいたのか。そういうことは書いていない。書いていないけれど、「ぼくは」危ないと思ったのではなく、「ぼくも」危ないと思った。書いていない「思い」を自分で引き受ける、あるいは書いていない「思い」を自分のものとして動かす。「女の子」と「ぼく」が「いとも簡単に」「入れ替わって」、危ないと思って走り出す。この「入れ替わり」の瞬間、「入れ替わる」と同時に「思う」が動き始める。この瞬間に詩がある。
 それをぐいとつかみ、説明をくわえずにほうりだす。そうしたことばが、ごつごつしたまま一冊になっている。それが藤井の詩集である。

*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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破綻論理詩集
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七月堂
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柄谷行人『意味という病』

2018-01-26 09:58:58 | その他(音楽、小説etc)
                         2018年01月26日(金曜日)

柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、2018年01月10日発行)

 柄谷行人『意味という病』の批評がフェスブックに載っていた。全然わからない、というのである。たしかにわからないのだが、同時に私は噴き出してしまった。「わからない」という感想にではなく、柄谷の文章に対してである。
 取り上げられていたのは、次の部分である。(括弧と番号は、あとで感想を書くために、私が便宜上つけたもの。本文にはない。)

(1)「ハムレット」の中に、「芝居の目指すところは、昔も今も自然に対して、いわば鏡を向けて、正しいものは正しい姿に、愚かなものは愚かな姿のままに映しだして、生きた時代の本質をありのままに示すことだ」という有名な台詞がある。
(2)これはシェークスピア自身の芸術論と目されているが、むろん今日のリアリズムという文芸思潮とは何の関係もない。だが、これを心を虚しくして自然を視ることだといって澄ましていていいわけではない。
(3)この素朴ないい方の中には、おそらくドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうるような凄まじい明視力がひそんでいるからである。
                  (「マクベス論」--意味に憑かれた人間)

 (1)は、シェークスピア『ハムレット』の第三幕、第二場「城内の広間」の台詞である。この部分では、あたりまえかもしれないが、私は噴き出さなかった。シェークスピアのことばが引用されているだけなのだから。

 (2)で、私は、あれっと思った。柄谷は「心を虚しくして自然を視る」と書いているが、「自然」って何? 山や川や空? 「心を虚しくして」というのは、どういう意味だろう。
 柄谷が引用している訳と、私の持っている小田島雄志の訳は少し違っているが、「自然」ということばの説明のために必要になので、つづく部分を引用してみる。

 だから、自然を越えてやりすぎれば、およばない場合も同じだが、素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる。

 「自然」は、山や川や空のことではない。風景のことではない。「自然さ」と訳した方がわかりやすい。あるいは「本性」か。原文は知らないが「ナチュラル」ではないのか。柄谷が引用していることばで言いなおせば、それは「本質」である。
 ときどき、それは「度」というようなことばでも語られることがある。
 「度を越えて芝居をしすぎると」(演技しすぎると)「素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる」という具合だ。
 
 柄谷はシェークスピアの「自然」ということばを取り違えていないか。「自然」を「本質」と言いなおしているのを読み落としてはいないか。また、「鏡」という「比喩」を取り違えていないか。

 (3)は「この素朴ないい方」が指しているものが何なのか、よくわからない。ハムレットの台詞そのものを指しているのか、それとも直前の「心を虚しくして自然を視る」を指しているのか。
 それにつづく「ドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうる」という「比較」をあらわす文章を読む限り、シェークスピアのことばを指しているのだろうと思う。誰のことばかわからない「心を虚しくして自然を視る」はドストエフスキーとは比較できないからである。
 で。
 シェークスピア(あるいはハムレット)とドストエフスキーを「比較」していると判断して、私は、ここで大笑いしてしまった。
 それって、比較対照するもの?
 たとえば第一作で芥川賞を受賞した作家とドストエフスキーを比較して、ドストエフスキーに匹敵する」とは言えても、シェークスピアをドストエフスキーの「凄まじい明視力」に匹敵するといわれてもねえ。
 シェークスピアはすでに古典。誰もが天才と認めている。方向性は違うかもしれないが、ドストエフスキーと並んで天才の一人である。どちらも「凄まじい明視力」を持っていて当然である。
 いったい、柄谷は何を書いている?
 わけがわからない。
 こういうとき、私は悩まない。笑いだしてしまう。

 さて。
 (1)にもどろう。シェークスピアは何を言いたかったのか。「鏡」とは何か。「比喩」なのだが、「比喩」というのは「抽象」であり、また「具象」でもある。だから、人は実際にどのように「鏡をつかう」か、というところから読み直してみる必要がある。「鏡」を「名詞」のままにしておくのではなく、「動詞化」する。
 「鏡を見る」。それはたいていの場合「自分を見る」、「自分を確かめる」のである。この服は自分に似合っているかな? 「正しく」見えるかな? 「愚か」に見えるかな? そう考える。
 ハムレット(シェークスピア)は、「芝居」を「鏡」と呼んでいる。つまり、「芝居」を見るということは、観客が「自分の姿」をそこに見て、それが「正しい」か「愚か」かを確認するものなのだと、「芝居論」を語っている。
 柄谷は「芸術論」と幅を広げて書いているが、「芸術論」ではなく「芝居論」。もっと具体的なのだ。
 実際、旅芸人たちが演じるのは、ハムレットの母ガートルードの「暗殺」である。その芝居はガートルードの「行動」を映し出しているのである。ガートルードが実際に「暗殺」を実行していたとき、彼女には自分の姿は見えない。けれど、芝居を見ることで、その見えなかった自分の行動、その行動の奥で動いている「こころ(本性=自然)」が見える。ガートルードの「本質」が見える。
 で、自分の姿がそんなふうに「見えた」とき、ガートルードは、その「姿(本質)」が他人にも見られてしまったと思い、あわてふためく。
 そういう「芝居論」をシェークスピアは『ハムレット』のなかで具体的に展開している。

 まあ、少し柄谷の「弁護」もしておこうか。柄谷は柄谷で「自然」を言いなおしている。
 先の引用につづく第二段落は、こうなっている。

(4)右のように書くとき、シェークスピアは何らかの覚悟を語ったのだといってよい。つまり、彼はこれまでとは違ったふうに書くのだといっているようにみえるのである。
(5)自然ということばにおいて彼がアクセントを置いているのは、明らかに人間の内部という自然である。すなわち彼は精神というものを自然としてみようとしたのである。
(6)当然ここには既成の「道徳劇」の枠組への反撥がふくまれているが、それ以上に彼自身が回避することのできなかった何らかの経験がふくまれている。おそらくそれは「自己」というのもがどんな分析をも超越してしまうばかりではなく、ほかならぬ自己自身をも拘束し破壊するという事態、存在しないはずのものが存在するばかりではなく、それほどに現実的なものもないという奇怪な事態の経験である。

 (5)で柄谷は「自然」を「人間の内部の自然」と言い直し、さらに「精神の自然」と言いなおしている。このとき柄谷にとって「人間の内部」とは「精神」のことである。そして「人間」は(6)では「自己」と言い換えられている。「自己の精神(内面)」を「自然」ととらえていることがわかる。
 まあ、それでもかまわないとは思うが。
 シェークスピアのことばにもどってみると、シェークスピアは「生きた時代の本質」というふうに「自然」を言い換えている。「人間/自己/個人」を越えて「時代」ということばを出してきている。「時代」のなかには「ひとりの個人=自己」だけが動いているわけではない。複数の人間が動いていて、それが絡み合っている。影響し合っている。
 「芝居」というのは、この「複数の人間」の「絡み合い(関係)」を再現し、その「関係」を「鏡」にして「個人の姿」をより鮮明に描くものである。「内面(精神)」ではなく、むしろ「外面(関係)」を再現することで、見えない「人間の本質(自然)」を明らかにする。
 これは、「これまでとは違ったふうに書く」ことではないね。
 こういう書き方はギリシャ悲劇からずーっとつづいている。柄谷の言い分とは逆に、シェークスピア自身、「芝居の目指すところは、昔も今も」と書いている。「昔も今もかわらない」。その「かわらないままに書こう、書きたい」というのがシェークスピアの主張だろう。
 芝居とは「昔も今も」、「複数の人間」の「関係」を再現することで、「人間の本質」を明らかにする。「本質」が「自然」に動くとどうなるか、あるいは「本質」の「自然」に動きを明らかにするものである。(一人芝居というものもあるが、まあ、例外だ。)
 その「自然」というのは「精神」というような「明確なことば」では指し示すことができない。単純化はできない。

 私のおぼろげな記憶では、柄谷は夏目漱石の「自然」ということばを分析したのではなかったか? 漱石の「自然」も「精神」というよりは、人間の「本質」というものだろうなあ、と私は感じている。人間はいろいろなものを「配慮」してしまうので、「本質」は「自然」に動けない。苦悩した挙げ句、「自然」を自覚し、それに身を任せる。そのとき、そこに「新しい人間」が生まれてくる。漱石が小説で描いたものは、そういう姿だと思っているが、柄谷が「自然=人間の内面=精神」と捉えているのなら、ああ、柄谷の漱石論を読まなくてよかったと思うのである。(私は幸い、読んでいない。)
 「自然」は「本質」であるが、漱石のそれは「名詞」ではなく、「自然に動く」というときの「副詞」と読み、「動く」といっしょにつかまえないと人間が浮かび上がってこない。漱石が描いたのは「人間の精神」ではなく、「人間の動き(運動)」である。
 柄谷のことばをもじって言えば、柄谷は「精神=意味」という「論理」につかまってしまった人間なのかもしれない。柄谷は「意味」という病気にかかっている。
 (5)のあと、「マクベス論」が展開するのだが、まあ、読むまい。『マクベス』を読み直した方がはるかに楽しそうだ。


*


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川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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意味という病 (講談社文芸文庫ワイド)
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改憲日程(静かな環境)

2018-01-26 08:57:35 | 自民党憲法改正草案を読む
改憲日程(静かな環境)
             自民党憲法改正草案を読む/番外170(情報の読み方)

 2018年1月26日の読売新聞(西部版・14版)の3面に、憲法改正について

国会発議・国民投票/日程 限られる選択肢

 という見出し。
 記事は(1)今年の秋に発議し、来年1月に国民投票、(2)来年5月に発議し、夏(参院選と同時、あるいはあと)に国民投票という2案があると書いてある。
 そのなかに、こんな記事が。

天皇陛下の退位が19年4月30日、皇太子さまの即位が5月1日と決まったことで、「参院選との同時実施は難しい」との見方が出ている。政府・自民党は退位・即位を「静かな環境」で実施するため、退位前後の発議は避けるべきだとの認識だ。

 またまた「静かな環境」ということばが出てきた。
 なぜ民主主義の国が「静かな環境」でなければならないのか。「退位・即位」に反対の声が渦巻いてもぜんぜんかまわない。それにあわせて憲法論議が起きても何も困らない。
 逆に読んでみよう。
 いまの天皇が即位するとき、天皇はどう語ったか。

皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません。

 同じことを皇太子に言われては困るのだ。「皆さんとともに日本国憲法を守り」「世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません。」と言われては、北朝鮮への侵攻を前提とした憲法9条の改正ができにくくなる。自衛隊を9条に書き加え、軍隊としての機能を明確にすることが難しくなる。国民の多くは、これまでの平和が9条のおかげだと思い出すだろう。国民のあいだで「9条を守れ」という声が起きるだろう。「騒がしくなるだろう」。それはなんとしても阻止したい。
 それが安倍の狙いだ。
 「天皇は国政に関する権能を有しない」という規定は天皇だけを拘束するのではない。政権が天皇を利用することも禁じているはずだ。だが、安倍は何度も何度も、天皇に何も言わせないという形で天皇を利用している。
 「新年のお言葉」が封印されたのはその代表的な例だ。

 天皇が「平昌五輪、北朝鮮の五輪参加、南北合同チームの結成で和平の動きがみえるいまこそ、韓国を訪問したい。五輪の開会式に出席したい。北朝鮮の人とも会いたい」と言ったらどうなるだろうか。
 安倍は、絶対にそれを阻止するだろう。高齢とか冬の寒さとか、いろいろ理由をつけるだろう。
 天皇を平昌五輪に出席させることは「天皇の政治利用」になるか。もしそうなら出席させないということも「天皇の政治利用」である。
 天皇を封印し、さらに天皇に配慮し「静かな環境」と安倍が言うとき、ほんとうは何を狙っているのか、私たちはみつめなければならない。
 何度も書いているが、また書いておく。
 安倍は天皇に「天皇は国政に関する権能を有しない」ということを明言させ、沈黙させた。新年のことばも封印した。天皇さえ沈黙し安倍に従っている。国民は安倍の独裁を沈黙して受け入れるべきだと考えている。独裁を押しつけている。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
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 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
http://fushigina.jp/
上映日程や自主上映の申し込みができます。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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岩佐なを「色鉛筆」

2018-01-25 08:33:47 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「色鉛筆」(「孔雀船」91、2018年1月15日発行)

 岩佐なを「色鉛筆」を読む。ことばが、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。方向が定まらない。

缶におさめた多色の棒たちを利き手で
じゃらじゃらとかき混ぜる
と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。
小学校に上る時に買ってもらった色鉛筆はたった
八?十?十二色?。
一箱なん色入りだったか忘れてしまった、無念。
くやしい脳、おもいだせずにしぼむ。
今でこそ忘れ去られ衰え果てた身分だけれども
わはは、百本以上の色鉛筆所有者になれるとは
小学生のじぶんには思いもよらなかった。

 色鉛筆と向き合っているのだが、色鉛筆のことを書いているのか、気分を書いているか。小学生のときのことを書いているのか、いまのことを書いているのか。気分(思い)にしても、過去の悔しかったことを書いているのか、いまの快感(?)を書いているのか、入り乱れる。

と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。

 この、「と、」で「自分のしていること」を受け継いで(行動を描写して)、それから「気分」へと移行するときの「切断」と「接続」の関係が、よけいに「入り乱れる」という感じを強くする。
 あらゆる行の先頭に「と、」があって、それが一種の「並列」の感じをつくりだしているのかもしれない。あらゆることが「並列」であり、「同等」である。「入り乱れる」のではなく、岩佐に言わせれば、それなりにきちんと「並んでいる」のだろう。「並ぶ」ときは、それぞれが「自己判断」で「基準」を決めている。「だれか」が「基準」を決めるのではなく、ことばがことば自身で「基準」を決めて、並んでいる。
 「くやしい脳」というのは「くやしいのう」という「声」なのか、ほんとうに「脳」のことを書いているか。「脳」が「くやしい」と言っているのか。もしかしたら、誤植? 「小学生のじぶん」というのは「小学生の自分」なのか「小学生の時分」なのか。これも、どうも「あいまい」である。いや、ことばに言わせれば、それは私(谷内)が読みきれないだけであって、ちゃんと「基準(意味)」を限定しているというかもしれない。
 でも。
 「現実」というものは、こういうものだね。みんなが、それぞれ「基準」を持っている。自分の「指針」を持っている。全体は「絞りきれない」。統一できない。
 だから、何かを書こうとすると、ふいに何かが割り込んでくる。そして、まとまらない。ことばは、書きたいものを書かせてくれない。書きたいことを書いたと思っても書き足りない。書き足りないと思って書いてしまうと、書きたいことが何だったか、あいまいになる。
 これが、そのまま「再現」されている。
 何が、どこで、どんなふうにつながっているのか。それを「明確」にするのは「脳」なのか、「思い(気分)」なのか。これもよくわからない。「脳」とか「気分(思い)」とかは、まあ、つながっているというよりも、分断されているものなのかもしれない。
 
 視点を変える。
 私は、

と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。

 この「揉んでいる」に驚いた。「揉んでいる」は、その前の行の「じゃらじゃらとかき混ぜる」を言いなおしたものだろうけれど、「かき混ぜる」ことが「揉む」? 「かき混ぜる」は「もてあそぶ」かなあ、と思ったりする。「方向を定めない」という感じ。「揉む」は「何かを軟らかくする」。固まっているものを解きほぐす。「固まっている」を「ひとつの方向」ととらえれば、「揉む」はそれを「複数の方向に拡散する」ということになり、まあ、「かき混ぜる」の「混ぜる」に近くなるかも。
 でも、なんとなく、変。
 この「揉む」は、もう一度出てくる。

百本以上の中には小学生の頃のものが数本ある。
缶の中から揉んで見つけ出す。

 「揉む」は「選り分ける」か。
 なぜ、「選り分ける」(識別する)ことが「揉む」なのか、わからない。
 でも、そこに「手」があることがわかる。一行目に「利き手」ということばがあるが、きっと「利き手」で選り分ける。
 「手」という「肉体」がすべてを繋いでいる。
 よくわからないが、「脳(判断?)」や「思い(気分)」は、「いま」という時間を「切断」して、あっちこっちへ飛び回るが、「手」はそういうことをしない。あっちこっちへ意向にも、からだ全部とつながっていて、切り離せない。
 「イノチ」と切り離せない「肉体」がつながっている。
 で、このあと詩は、切り離せない「肉体」である「利き手」がさらに、わがまま放題(?)に動き回るのだが、その前に、

百本以上の中には小学生の頃のものが数本ある。

 この「小学生の頃のもの」というのは何だろう。「小学生の頃つかっていたものと同じ色」なのか、それとも「小学生の頃つかっていた色鉛筆」そのものなのか。言い換えると「抽象」なのか「具体」なのか。「同じ色」と考えるのが一般的だろうけれど、昔の色鉛筆そのものと考えることもできる。
 詩は、こうつづく。

これらは年を経てナイフで削ると木が硬い芯が粉っぽい
折れやすい。用がなかった色こそが生きのびていて
不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる。
 
 「新しい色鉛筆(昔のではない色鉛筆)」であっても、そこに「昔の色鉛筆」を見ている。「昔の色鉛筆の運命」を見ている。いや、「昔の色鉛筆」そのものになっている。「不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる」の「主語」は色鉛筆だが、色鉛筆そのものは「くやみ」も「恨み」もしないし、「声」をたてるということはしない。できない。言い換えると、ここでは岩佐が「昔の色鉛筆」になって、「くやみ」「恨み」、「声をたてる」のである。
 「ナイフで削る」の「主語」は話者(岩佐)であるが、削っている内に削られる色鉛筆になっている。一体化してしまう。
 一体化したのに、また、分離して、話者は話者に帰っていく。そうして、こんなふうに動く。

紙上で芯がこきこき泣く。折れる。くずおれる。
いまも明日も一昨日もこれまでもこれからも。
ぬるんだよ。ぬり絵根性でぬるんだよ。
こき使って寿命を激しく減らしてやる。

 うーん、これは「愛情」なのか、「憎しみ」なのか、わからない。区別などできない。きっと、どういうことも区別などできない。ある瞬間瞬間に、何かが顕れてきて「いま」になるだけなんだろうなあ。
 ふいに、私は、ここで「揉む」にもどる。
 「揉む」という「動詞」をつかったことばに「揉みだす」という表現がある。揉むことで、その奥にあったものを表に出す。にじみ出てくるは自然の現象だが、揉みだすは人為的な行為。
 「色鉛筆」から、岩佐を岩佐の記憶と感情を揉みだしている。詩は、隠れていたことばの動きを揉みだすことか。
 でも、岩佐は、こんなふうに言う。

灰色や白や薄茶色で、ぼうっとした絵肌目指して
画用紙にぬるごしごしぬれ、ぬり絵根性で。
創作主題はいつでもコンクリート壁に出現するしみ。
しみの姿は動機でもあり
すてきな容姿の秘められた声色を描く。

 「しみ」が出てくる。「揉む」ことによって出てくるものではなくて、自然に滲んでくるもの。
 行為(行動/肉体)と気分(思い/あるいは脳)が交錯し、入り乱れ、入れ替わる。時間も「いま」と「過去」が入り乱れる。おなじように「人為」と「自然」が入れ替わる。そうではなくて、「人為」が「自然」になるまで、待っている。その「持続」と「変化」の関係が、詩なのか。
 「声」が「声色」になるところが、岩佐の詩の特徴なのか。
 もしかすると「声色」ということばを書きたくて、ここまで書き続けたのか。

 あ、こんなことは、「結論」を書こうとするからおかしくなる。

 動き続けることばに触れて、なんだか奇妙だ。よくわからない。でも引きつけられる。読んでしまう。読み通し、それを「意味」にしようとするとわけがわからないが、「意味」にすることをやめてしまえば、そこで起きていることはその通りだと感じる。それで十分なのだろう。
 これが、感想になるのかどうかわからないが、きょうはここで打ち切り。


*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。

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岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005
クリエーター情報なし
美術出版社
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スタンリー・トゥッチ監督「ジャコメッティ 最後の肖像」(★★★)

2018-01-24 21:08:02 | 映画
監督 スタンリー・トゥッチ 出演 ジェフリー・ラッシュ、アーミー・ハマー

 ジャコメッティというと細長い彫像がすぐ思い浮かぶが、彫像ではなく「肖像画」で悪戦苦闘しているところが、まあ、おもしろい。
 しかも、この絵の描き方というのが、塗り重ねである。黒というか、セメント色というか、無彩色が主体だが、これを塗り重ねる。気に食わないと灰色で消してしまって、その上に描く。
 途中に少し鏡像をつくるシーンもあるが、こちらはもっぱら粘土を剥がしていく。絞り込んでいく。
 彫像と絵では「制作方法」が逆なのだ。
 ふーむ。
 でも、見続けていると違うこともわかってくる。
 彫像も絵画も完成しない。未完成。それを象徴的に語るのが、肖像画の最後。キャンバスには余白が残っている。いや、余白だらけである。描き込もうとすれば、描き込める部分だらけである。
 ここからまた違った言い方もできる。
 ジャコメッティは絵画のなかでも彫像と同じ方法をとっている。すべてを「描写」するのではなく、最小限の「神髄」だけを具体化している。彫像が余分なものを削ぎ落とした「細い」形であるのと同様、絵画でも余分なものを削ぎ落として「やせ細った」形なのである。
 違うように見えて、同じことをしている。
 で、ここからが映画である。(ここまでは、ジャコメッティの「創作」の「意味」である。)
 この絵画もまた「削ぎ落としていく」という過程でできている、あるいは「未完成」という形のなかに完成がある、という「概念」をどう視覚化するか。
 ジェフリー・ラッシュとアーミー・ハマーの「肉体」の対比がとてもおもしろい。
 ジャコメッティ役のジェフリー・ラッシュは、アル中、女狂いのだらしない体型をしている。鼻は、いわゆるアルコール焼けという感じ(赤くは見えないが)の、なんともしまりがない形。歩き方も、ものの食べ方も、非常にルーズである。髪もボサボサ。
 一方のモデル役のアーミー・ハマーは、モデルか役者(それも鑑賞用の役者)しかできないような均整のとれた体型と顔をしている。顔が完全に左右対称で歪み(乱れ)がないのは、まるでギリシャ彫刻以上である。途中で水泳(飛び込み)をしているシーンも出てくるが、裸を見せなくてもスーツ、いやコートの姿からも余剰がない体型が見える。
 このまったく無駄のないアーミー・ハマーの「肉体(顔)」さえ、まだ「余剰」がある、「神髄」ではないと思い、ジェフリー・ラッシュは、そこから「削ぎ落とし」を試みるのである。しかし、生身の「肉体」は「削ぎ落とせない」。ここに、厳しい葛藤が生まれてくる。現実に存在するものと、ジェフリー・ラッシュが描き出したいものとの間に、どうすることもできない「乖離」が生まれる。絵は、見れば見るほどアーミー・ハマーそのものを感じさせるのである。「神髄」だけを表現できないのである。
 これは「神髄」を表現すれば、おのずと「全体」が浮かび上がる。そこにジャコメッティの芸術の力があるという具合に言いなおすこともできるのだけれど、まあ、こんなことは「意味論」になるので、映画から離れてしまう。
 映画にもどると。
 自分の描いているものと、理想の芸術との「乖離」に苦悩し、ジェフリー・ラッシュはしきりに罵詈雑言を吐いて、創作は中断する。
 ジェフリー・ラッシュの罵詈雑言は自分自身(の技量、あるいは芸術)に向けられているのだが、モデルのアーミー・ハマーにしてみれば、彼へのののしりに聞こえるかもしれない。
 これは制作途中の絵を見れば、さらに、その感じが強くなる。絵は、すばらしい。何が不満なのか、アーミー・ハマーにはわからない。
 ということが、まあ、延々と続く。
 これは、見方によっては、とてもつまらない作品なのだが(めくるめくストーリー、事件がないからね)、それを「映画」に仕立ているのが、二人の役者の「肉体」である。(妻役の完全な垂れ乳も、まあ、すごいものである。)役者の「肉体」が、しかもアクションなどないのに、ぐいと観客の視線を引きつける不思議な強さをもった映画である。アーミー・ハマーは椅子に座って姿勢を変えないというつまらない役なのに、役を越えて人間になっているのが魅力的だった。
(2018年1月24日、KBCシネマ2)



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