詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(103)

2020-09-30 10:23:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (思いだして欲しい)

かつて何を話したか
いまかつてのその場処と時間帯はどうなつているか

 「時間帯」ということばに私は驚いた。「時間」を「帯」と場所のように広がりのあるものとしてとらえている。
 「時間」は瞬間、「時間帯」はひろがり。
 「時間帯」ならば、そこには当然「変化」が含まれるだろう。変化を前提として「思いだす」というのは、変化は当然であるという意識からだろうか。
 それとも逆に「時間帯」のなかで「持続」しつづけたものがある、ということを思い出し、それを復活させることができるか問いかけているのか。
 「いま」ということばに、何か、願いのような切実さを感じる。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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北爪満喜『bridge』

2020-09-30 09:42:29 | 詩集

北爪満喜『bridge』(思潮社、2020年10月01日発行)

 北爪満喜『bridge』の「消えられないあれを」は港に沈んだ自転車の描写からはじまる。長いあいだ沈んでいるので、藻がまとわりついている。

捨てられた日からずっと
港をゆく人々に見られて
消えられないあれを

 「あれ」は自転車である。「消えられない」という動詞が複雑である。自転車そのものは自分で動くことはできない。「消える」ということはできない。けれど、北爪は「消えられない」と書く。そのとき自転車はほんとうは意思を持っているのだけれど、なんらかの理由で意思を奪われた存在となる。この強烈な「意味の転換」のせいだと思うのだが、私は「あれ」を「あれら」と複数形で読んでいた。自転車だけではなく、自転車とともにある日々、藻、水さえも含めて「消えられない」ものと感じてしまった。「見られて」いるのは自転車とは限らないからだ。水の色も藻もゆらぎも、そしてそれを「見る人」そのものも「消えられない」のだ。
 このあと、詩は、こう展開する。

夢の中に手を差し込んで
置き去りにした私を
だらりとした腕の
消えられない少女を
抱き上げて
抱えてきたい
何度も思う

 もう一度「消えられない」があらわれる。「消えられない」という動詞を接続点に「自転車」と「少女」が結びつく。「自転車」は「少女」の比喩であり、「少女」は「自転車」の比喩である。そして、それは「私」だ。
 「消えられない」は、このとき「消えようとしても消えられない」という「もがき」のようなものとなってあらわれる。苦しみになってあらわれる。苦悩しているからこそ「抱く」という動詞が寄り添うのである。
 「置き去りにする」という動詞が「消えられない/苦しみ」を別の角度から語る。「置き去りにした」は「置き去りにされた」存在をあきらかにする。能動ではなく、受動。受動を生きるしかない存在。その無力感が「だらり」ということばのなかに生きている。
 「置き去りにされた」ものは、置き去りにされたまま、無力に、「だらり」と腕を下げてそこにある。いる。「消えられない」。「置き去りにされた」けれど、「消えられない」は、「置き去りにした」方から見れば、どうなるか。「置き去りにした」ら、そこにそのまま「消えずに」ある、いる。
 自転車と少女が強く結びついているように、「置き去りにした私」と「置き去りにされた少女」は強く結びついている。そして、その「結びつき」ことが「消えられない」なのである。「消せない」よりも、それは強く迫ってくる。ふつうの動詞の規則(文法)を破って動いているからだ。学校文法では言えないことが、ここでは動いている。
 「消せない/消えない」を、その動詞の奥にある闇へと引き込んでいく「消えられない」。
 それを「思う」。思うたびに、それは「いま」となって闇からあらわれるのだ。

藻だらけになった自転車は
ハンドルを首のように傾げ
水の底から空へ
首をうわ向けている
まるで私が見えているように

 「自転車」には目はない。だから見ることはできない。しかし「置き去りにされた少女」はどうか。「置き去りにした私」が見えるはずだ。「見える」を突き破って、いつまでも「見る」。「置き去りにした私」が視界から消える、つまり「見えなくなっても」意識からは消えない。覚えている。「見る」と自分の外にあるものを見るだけではなく、自分の内部にあるものをも見るのである。
 だからこそ。
 「置き去りにした私」は「置き去りにされた少女」から「見えている/見られている」と感じるのだ。
 そして、このとき「消えられない/あれ」とは、いま、ここにいる「私」そのものである。「私」は「少女」を置き去りにしてきた。その「記憶/意識」は「消せない」ではなく「消えられない」ものとして、北爪の肉体を突き破って、ことばになって噴出する。
 だから、詩は、こう結ばれる。

水の底のように歪む膜を
破って
引き上げられる

この今 に



 この詩が印象的なのは、この詩の構成、一行の長さとも関係しているように思える。「私」と「私」の対話は「まだ落ちてこない雨が」でも繰り返されている。その作品では「ひらがな」だけの部分とふつうの「交ぜ書き」の部分が呼び合う形になって展開している。
 「意味」としてわかるけれど印象が弱い。
 なぜだろうか。たぶん、リズムが詩になっていないのだと思う。
 こんにち、多くの詩の一行が長くなっている。ワープロで書くようになって一行が長くなってしまったのだが、その長さが「リズム」を持っているかどうか、新しいリズムを作り出したかどうかは、私はよくわからない。私が単に古いリズムを生きているだけかもしれない。長いリズムについていけずに、そこにあるものを感じることができないのかもしれない。
 「玄武の空がほそくながく」のおわりの方。

急降下すると
広々とした
野には村が現れて
あちらこちらに点在する
茶色い草木の屋根の庭には
そよぐ樫の木々のそばに
数羽の鶏がかけている

 「広々とした/野には村が現れて」という引き締まった神話のような展開がある一方で、そのあとがだらだらする。一行自体は必ずしも長いとは言えない。ただ、前の三行と比較すると長い。

急降下すると
広々とした
野には村が現れ
あちらこちら
草木の屋根の庭に
樫がそよぐ
数羽の鶏がかける


 こんなふうに、ことばを切って捨ててしまえば、どうだろうか。少なくとも「あちららこちら」をもう一度「点在する」と説明しなおすことでリズムが生まれるとは、私には感じられない。「木々」の複数、「数羽」の複数がうるさい。少なくともどちらかを「単数」にした方が目には優しいと、私は思う。 
 これは、この部分だけを短くすればいいというものでもなく、全体のバランスがあるのだけれど。北爪は全体的に「長いリズム」で書いているから、それはそれでいいのだと思うけれど。
 私はどちらかというと短いリズムが好き、というだけのこと。








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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(102)

2020-09-29 10:05:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
隣人

その人の名が
ぼくの心のなかを水のごとく姿をとどめずに去つていく

 去っていくのは「その人」ではなく「その人の名」。しかし、人は消え去るが、名は消え去るか。名は「記憶」として残る。去っても、去っても、残る。あるいは、記憶の奥から、記憶の表、意識へと流れてくる。
 流れてくる。
 水のように。流れても流れても、水はつきない。
 「その人の名」は永遠に、「去る」という形で目の前にあらわれ続ける。





*

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クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

2020-09-28 19:41:58 | 映画
クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

監督 クリストファー・ノーラン 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、ケネス・ブラナー

 大音響、という評判だったので敬遠していた。耳が痛くなるのは耐えられない。一方、私は大音響の中でも眠ることができるという特技を持っている。MRI検査。大音響と暗闇の密封感が怖いと言われていたけれど、私は、寝てしまった。検査がおわって、揺り起こされた経験がある。
 で、この映画、やはり大音響がつづくと私の肉体が「自己防衛」してしまうのか、うつらうつら。見ているのが面倒くさくなって、寝てしまった。
 だから、見落としがあるのを承知で書くのだが、ぜんぜん、おもしろくない。時間を逆行すると言ったって、ねえ。基本的には「ターミネーター」と、どこが違う? 「ターミネーター」のように悪役に魅力がない。ぜんぜん、こわくないじゃないか。
 あ、私は、ケネス・ブラナーが好きなんです。実は。声が。それで、ケネス・ブラナーが出ているなら見てみようと思って見たんだけれど、動機が不純だった? だからおもしろくない?
 いやいや。
 「時間逆行」のハイライトがはじまる寸前、カーチェイスというか、消防車などをつかった大がかりな車の暴走シーン。そのとき、主人公の乗っている車のバックミラーが壊れている(ひびが入っている)のを映し出す。これは、この車が実は未来でトラブルを体験してきたことがある。そのトラブルは、こういうこと、という導入部になっている。それが、見た瞬間にわかる。「さあ、見てください」とスクリーンいっぱいに映し出しているでしょ? 親切といえば親切だけれど、別にここまで親切にしてくれなくてもいいよ、と言いたくなる。
 タイトル前のオペラハウスで、椅子に開いた穴が、銃弾が逆戻りして塞がるシーンは、まあ、この映画のテーマが「時間の逆行」と説明するのに必要なんだろうけれどね。
 それにしても、笑ってしまうよなあ。「時間の逆行」といいながら、その時間は順行の時間とパラレル(平行)を、一枚のガラスを挟んで同時に見せるんだから。こんな種明かし(?)見たくないようなあ。「何が起きている?」と驚く前に、こんなばかな(図式的な)映像じゃ、「時間体験」にならないなあ。
 それにしても。
 悪役のケネス・ブラナー。彼には子供がいる。これが、この映画の最大のミス。脚本のミス。子供がいる、ということは、もうそこにはケネス・ブラナーの手の届かない「未来」(時間の順行)がはじまっているということ。どんなにあがいてみたって、ケネス・ブラナーは負ける、勧善懲悪というと変だけれど、ジョン・デビッド・ワシントンが最後には問題を解決して勝ち残る、ということがわかりきっている。いや、映画は別にストーリーを見るためのものじゃないから、結論がわかってもかまわないのだけれど、「時間」の問題の基本が提示され、そこに結論が浮かびあがるというのは、なさけない。あじけない。
 「ダンケルク」では、陸の時間、海の時間、空の時間を、「映画を見ている時間」に重ねあわせるという画期的なことをやった監督なのに、「未来」を描くのは苦手みたいだなあ。
 (2020年09月28日、t-joy 博多スクリーン9)


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(101)

2020-09-28 10:09:35 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (火はそこで語る)

水のながれの空しさを 時に手足をもがれてながれゆくみなし児を

 水にはたしかに「手足」はない。だから「水」を「手足をもがれてながれゆくみなし児」と言い換えているのだが、なぜ「みなし児」なのか。なぜ、おとなではなく、こどもなのか。
 そう考えるとき、「時に」の「時」の意味がわかれていく。
 ひとつは「ある時」、もうひとつは「時間」というものそのもの。
 ここでは「時間」そのものを「時」と読んでいる。「時(間)」が流れることによって「みなし児」の「手足」をもいでしまうのだ。
 「時間」がながれなければ、「みなし児」の「手足がもがれる」という悲惨なことは起きない。
 一回だけ「脇役」のように登場する「時」こそが、この詩の主役であり、「むなしさ」はすべて「時」に起因する。
 それを、また別の主体(火)が語る。これは、すべて主役を隠すためである。



*

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オンライン講座「村上春樹を読む」(2)

2020-09-27 16:54:18 | その他(音楽、小説etc)
オンライン講座「村上春樹を読む」(2)

 村上春樹の「海辺のカフカ」の「第一章」の書き出しの読み方。前回は、

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。

 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。

 というところまで読んだ。(そこまで紹介した。)
 そのとき「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」はなぜ現在形なのかということを少し書いた。過去形でも「意味」はかわらない。しかし、村上春樹は現在形で書く。この現在形は、次のように引き継がれていく。

 ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。

 「その写真も引き出しの奥に入っていた。」といったんは過去形がつかわれるが、それからあとは一貫して現在形である。
 現在形をつかうのは、ひとつには「写真」に映っている「事実」は時間とは関係がない、時間の経過によって「事実」が変化しないからである。「僕と姉」は海岸にいる、笑っている、は変わらない。十年後、写真のなかの「僕と姉」が「山にいる、けんかしている」には変わらない。こういうことは、外国語でもおなじである。「事実」は現在形で書くことができる。たとえば、
2012年12月26日、安倍内閣が発足する/発足した 
2020年9月16日、安倍内閣が総辞職する/総辞職した
 この二つの表現は、ともに許容される。日本語の場合、「動詞」を「名詞」に変化させた上で「安倍内閣が発足」「安倍内閣が総辞職」と書くことができる。(外国語でもできると思う。)どちらを採用するかは、書く人の「主観(好み)」である。「認識の仕方」である。こういうことは、学術的な歴史書でも新聞などの報道でも、小説でもおなじである。
 そして、小説の場合は、「主観」であることが、現在形で強調され、読者を「主観(主人公の思い)」に近づけることになる。「主観」はいつでも「現在形」なのだ。過去を思い出すときも、そのときの感情は「いま」なのだ。「いま」こころが動いている。それが現在形をつかう理由なのだ。
 「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」も「戻す」ということを強く意識しているから現在形なのだ。

僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑って「いた」。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になって「いた」。

 と書くことも可能なのだが、「笑っている」「影になっている」という方が、いま、写真を「見ている」という臨場感がでる。僕が「動いている」という感じが強くなる。そして、それは読者にもまた写真を見ているという錯覚を引き起こす。
 この錯覚が、「笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」という一種の異様な印象を受け入れさせ、さらに「その顔には二重の意味がこめられている。」という思考の世界へと読者を誘い込む。
 それにつづく描写は、「客観的描写」ではない。「僕と姉」が海岸にいるは、誰が見てもおなじ。他人が見れば「山にいる」に変わるわけではない。しかし、「二重の意味」は「僕」が考えたことであって、ほかのひとは違うことを考えるかもしれない。
 外国人を相手に、この部分を読んだとき、まず、「何が書いてあるのかわからない」という反応があった。「光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。」ということばの羅列。そのことばの「意味」は辞書で引けばわかるが、なぜ、ここに、そういうことばが次々に出てくるのかわからない。
 それは、わからなくて、あたりまえ。「客観的事実」ではないからだ。あくまで「僕」が考えたことであって、「僕」の「主観」だからである。「主観」が他人にわかるまでには時間がかかる。ある人が笑っているにしろ、泣いているにしろ、それは楽しいから、悲しいからとは限らない。絶望して笑うこともあれば、うれしくて泣くこともある。「主観」は、ほかのことがら(事実)とつきあわせないと、正しくは把握できない。つまり、突然「主観」が出てきたら、それはわからなくてあたりまえであり、それは小説を読んでいけば少しずつわかることなのだ。
 この三段落目でいちばん「説明」がむずかしいのは「おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」の「おかげで」である。「そのために」という客観的な書き方ではない。「そのせいで」ということばでもない。「おかげ」はなんらかの「利益」につながる。「僕」にとっての「利益」とは何か。
 「分断されたみたいになっている」から、それからあとのことを考えることができたのだ。もし姉の顔も僕の顔と同じように正面を向いていたら、「僕」の考えは、小説に書かれているようには動かなかったのだ。考える力をくれた。だから「おかげ」という表現がつかわれていることになる。

 高校国語に「論理国語」が導入されることについて、文学嫌い(?)の人がよかったよかった、主人公の感情について考えるのはいやだったというようなことを体験として語っている文章を読んだが、それは文学を論理的に読む習慣が、その人になかったというだけである。「論理国語」などという分野をつくらなくても「論理」は存在している。小説の中にもきちんと書かれている。どう読むかだけである。
 たとえば、外国人は、きょうの文章では「てらいもなく」「みっともない」「ぶかぶか」が、わかりにくい、と言う。辞書を引いたが納得できない、という。
 私は、こう説明する。「わかりにくいことばは、必ずもう一度ほかのことばで言い直されている。それを探してみよう。」
 私が差し出すヒントは、
 「僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ているけれど、姉は?」
 「姉は横を向いている/カメラをまっすぐに見ていない」
 「人とあったとき、まっすぐに見ない、横を向くのは、どんなときですか?」
 「なんとなく、見つめられたくないときとか」
 「そういう気持ちが、ない、だからまっすぐに見ている。僕と姉とは、気持ちが違っているということを強調しているのだと思います。」
 村上の「てらいもなく」という表現が正しいかどうかは少し脇においておくが、村上はことばの意味を特定できるように「論理的」に書いている。この「論理」を発見させることができるか、発見できるかが、「国語(ことば)教育」のおもしろさだと思うが、文学嫌いのひとは、そういう教育を理解できなかった、あるいはそういう「訓練」をしてこなかったというだけだろう。そういう人が「論理国語」を学んだとしても、私には、結果はおなじに思える。「論理」を見つけ出していくのは、そのことばをつかっている人間だからである。
 もうひとつ、「みっともない」「ぶかぶか」はどうか。これも姉との対比で書かれている。「姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て」いる。それは「ぶかぶか」ではない。きっと身体にぴったりとあっている。似合っている。見栄えがする。その様子が見えるように「赤い花柄のワンピース」と具体的に描写している。対比すると、見栄えがしない、かっこ悪い、を「ぶかぶか」で言い直していることがわかる。「ぶかぶか」は否定的な意味合いでつかわれていることがわかる。
 とっても「論理的」でしょ? 

 こういうどこまでもどこまでも「論理的」に小説を解体していくという読み方、一緒にしてみたいと思うひとはいませんか?
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既視感?

2020-09-27 10:47:17 | 自民党憲法改正草案を読む
既視感?
   自民党憲法改正草案を読む/番外399(情報の読み方)

 2020年09月27日の読売新聞(西部版・14版)の1面。「地球を読む」という寄稿がある。きょうは御厨貴。寄稿なので、読売新聞の主張そのものではないが、逆に御厨がどんなふうにして読売新聞といっしょになって「安倍よいしょ」をやっているかがわかる。菅内閣発足について書いたものだが、「菅よいしょ」ではなく「安倍よいしょ」になっている。だから、とても奇妙な文章になっている。
 書き出し。

 安倍政権は終幕を迎え、菅政権が登場したが、既視感が迫ってくる。かつての首相交代にはなかった。

 これは、どういう意味なのか。「既視感」とは、すでに見たことがある、どこかで見たはずだ、であるはずだ。「かつての首相交代にはなかった」なら、「既視感」とは相いれないだろう。
 御厨は、これを言い直して、「これまで長期政権から交代した際は、若返りや政権奪還など、ガラリと変わる印象が強かった」が、菅の場合は違う。菅は……。

菅の自民党総裁選立候補演説は、安倍継承を繰り返し、官房長官としての記者会見と二重写しに見えた。

 「既視感」は「二重写し」と言い直されている。たしかに、これは見たことがあるは「二重写し」であり「既視感」と言い直すことはできる。だが、これでは「首相交代」についての「既視感/二重写し」ではない。
 なんにも変わらない。
 これでは「交代」の意味がない。「既視感」の意味がない。
 たとえば、佐藤栄作から田中角栄への首相交代。田中角栄は義務教育しか受けていない「苦労人」「たたき上げ」の政治家である。その角栄と菅が「苦労人」「たたき上げ」というキーワードで「二重写し」になり、「既視感」をもって迫ってくるというのならわかるが、御厨は、私が想像する「既視感/二重写し」とはまったく違う意味で「既視感」ということばをつかい、それをキーワードにして、「安倍よいしょ」をはじめる。
 菅は「安倍のコピー」であるからそこに「既視感」がある。そして「既視感」は、こんな具合に言い直されていく。(文章が重複するが、わかりやすくするために重複させた形で引用する。)

 菅の自民党総裁選立候補演説は、安倍継承を繰り返し、官房長官としての記者会見と二重写しに見えた。安倍政権の「ブラッシュ・アップ版」の登場が自民党の大勢の合意であり、国民の納得感もそこにある。

 「既視感」は「合意」であり、「納得」である、と。
 でも、そうなのか。「既視感」は「合意」や「納得」か。「期待」や「不安」に「既視感」はあるだろうが、「合意/納得」は「期待/不安」とは別のものだろう。「合意/納得」は「妥協」とはか「諦観(あきらめ)」と相性がいいのではないか。つまり、「失望」と。
 そういうことが念頭にある野かどうか判断できないが、御厨は、安倍を評価して、こう書いている。

 「アベノミクス」や「地方創生」、「働き方改革」など、次から次にキャッチコピーをアピールし、「やってる感」を演出した。

 「やってる感」の演出は、それが「やってる感」だけであって、実際は何の実りもないという批判でつかわれることが多いと思うが、御厨は逆である。「やってる感」さえ演出できれば、国民は「納得」すると言っているのである。
 「アベノミクス」や「地方創生」、「働き方改革」は「キャッチコピー」にすぎず、何の実りももたらさなかった。貧富の格差が広がり、国民のないだにとりかえしのつかない分断を生み出した。安倍自身が「あんなひとたち」と国民を分断する発言をした。「地方創生」も、いったいどんな「創生」があったか。過疎地はますます過疎化している。私の古里は、もう「限界集落」を通り越して消滅していくのを受け入れるしかない。「働き方改革」は低賃金労働者を生み出しただけである。
 御厨の、この寄稿には「自民政権の手法 明確化」という見出しがついているが、キャッチフレーズで「やってる感」を演出し、何の実りをもたらさない政治がこれからもつづくということは、たしかに「明確化」されたのだろう。
 「失望」の「既視感」。
 そういう意味で「既視感」を御厨がつかっているのなら、まだ「納得」できるが、安倍の政策のまま何も変わらないことが明確になった、だから「安心」。「既視感」は「安心」という意味でつかっているのなら、いったい「首相交代」になんの意味があったのだろうか。

「安倍よいしょ」は文章の後半(2面)では、とてもおぞましい形で転換される。(2面で書かれていることがらは、「菅内閣」とは関係がない。安倍の政治がどんなふうに行われてきたか、どう評価されたかという総括である。見出しは

「やってる感」若者の黙認

 若者は、安倍の「やってる感」をそのまま受け入れている。納得している。だから、これでいいのだ、と主張している。「黙認」は批判しない、という意味である。
 その「やってる感」が行き詰まったとき、安倍は、どうしたか。つまり政策に問題が発生したとき、安倍はどうしたか。それを御厨はどうとらえたか。

 スキャンダルや問題が生じても、野党やメディアに言わせるだけ言わせながら勝機をうかがう。選挙の勝利を国民の「お墨付き」と位置づけ、問題のすべてをご破算にする。

 「選挙の勝利」で「問題のすべてをご破算にする」。何もなかったことにする。これは問題の解決ではなく、問題の「隠蔽」にすぎない。
 「選挙の勝利」がすべてであるという「選挙至上主義」は、どういうことをもたらしたか。御厨は、ここだけは非常に正確に分析している。

 若手議員にはイデオロギーに深入りさせず、ひたすら選挙で勝ち抜くよう求めた。それでもこの8年間で安倍のイデオロギー的基盤に、正面から反対する者はいなくなった。その意味で自民党の意識改革には成功したと言えるだろう。

 2012年の政権奪還以来、全国規模の国政選で無敗を続け、議員にとって“恩人”と化した安倍に、誰も反対できなくなった。

 御厨のつかっている「それでも」の意味は、私にはよくわからないが、「逆接」ではなく「それで」という「順接」の意味で私は受け止めた。
 安倍批判をしたら「自民党推薦」はもらえない。議員の職を失うかもしれない。「当選」しつづけるためには、安倍を批判しない。そうすれば、「当選させてもらえる」。安倍批判をすれば、当選させてもらえない。落選させられる。
 この実例が、河井案里事件である。安倍批判をした議員は落選させられ、河井が当選した。しかも資金を1億5000万円も提供された。安倍を支援すれば金銭面でも好待遇を受けるのである。
 この安倍を支持するか批判するかによって「当落」が決定される、待遇が変わるという「システム」は、そのまま若者に影響していくのである。
 安倍批判をしたら、会社からにらまれる。体制批判をしたら会社から冷遇される。実際、アベノミクスや働き方改革の導入で、子会社がつくられ、非正規社員が生み出され、おなじ仕事をしているのに賃金格差が生まれている。この「格差」を「脅し」のようにして、「言うことを聞かないなら(批判をするなら)、もう雇用を継続しない」と迫る。こういうことを目撃した人も多いだろう。体験した人も多いだろう。
 安倍政権への若者の支持率が高いのは、「恐怖心」のためである。だれでもいまよりも厳しい境遇を生きていくという苦労はしたくない。
 そして、この「恐怖心」は菅政権下では、もっと拡大するだろう。菅は、なんといっても加計問題で前川を追放した人間である。風俗店通いを読売新聞に「リーク」し、前川を人格攻撃した。前川は風俗店に出入りはしていたが、批判されるようなことは何もしていない。そこで働いている女性を支援したのに、そのことには触れずに、風俗店に出入りすることが問題であると批判した。同じようなことが、官僚だけを相手にしてではなく、きっと一般国民を標的にして行われるだろう。国民を圧迫するために、さまざまな方法がとられるだろう。
 菅の打ち出している「縦割り110番」(通報)や「デジタル庁」(情報の集中把握)も、きっと国民を拘束するための道具としてつかわれる。

 しかし、まあ、この御厨というのは、多くの読売新聞の記者と同じように「正直」である。しめくくりに、こんなことを書いている。

 ただ若い人が、政治によって何かを変えたいと思い始めたら、菅政権は“やってる感”の政治から、“やってる”政治への転換を迫られることになろう。

 菅がやるのは「やっている感」の政治にすぎない。若者が「実効」を求められたらつづけられない。
 でも、これはもしかすると、「だからもう一度安倍にやってもらいたい」と言いたいために書いているのかもしれない。






*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」

2020-09-26 10:29:18 | 詩(雑誌・同人誌)
冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」(「乾河」89、2020年10月10日発行)

 詩にはいつでも、わからないものがある。
 冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」。

私の体内の水の音に耳を澄ませている自分に気づくことがある

 この書き出し。三つの「の」のつながり。これが、まず、わからない。この「わからない」は「気づく」によって、さらにわからないものになる。いったい冨岡は何に気づいたのか。三つの「の」のつながりに気づいたのか、それとも「耳を澄ませている自分」に気づいたのか。
 ここには矛盾とはいわないが、何か、「ひとつ」ではないものが存在し、それが動いている。「の」でつないだような、一種の「強引さ」のようなものがある。
 このことが、思いがけない形で展開していく。

私の体内の水の音に耳を澄ませている自分に気づくことがある
私の中に水が流れている

うつけたような
耳を塞がれている静けさの中で
その水はかすかに流れている

「夢の中で 自分の背を見たことがあるか」
とその声は問うた
「その背に追いついたんだ」

「それで ご自分の顔を見はったの?」

その声の主は消えていた
でも誰だったのか

 「耳を塞がれている静けさの中で」というのは、「静けさが耳を塞いでいる」を受け身の形で表現したものだろう。そこには書き出しの「私」が「私」を隠した形で強調されている。
 「私」は隠されるのだが、微妙に、違った形であらわれもする。
 「その水」の「その」は一連目の「水」を引き継ぎ、ここに書かれていることが「気づき」であることを教えてくれる。そして、このときの「主語」は「私」なのである。
 その「気づき」は「存在」への気づきなのか、「論理」への気づきなのか。「存在」への気づきとして読むには、「その」が重たい。「存在」によって生まれてくる「論理」を明らかにするために、「その」という「意識」が動いているのだろう。そういうことばの動かし方で「私」を隠しながら、「私」をあらわす。
 三連目は起承転結の「転」か。
 「私」が隠れているので、別の誰かが登場してくる。「声」。「その声」。ここにつかわれている「その」は直前の「夢の中で……」と言った声という意味だが、「その水」の「その」に重なる。つまり「水の声」ということができる。水は流れ続け、自分の背中に追いつく。それは水の体験である。自分の体験をもとにして、「私(冨岡)」に問いかけ、同時に「私(冨岡)」に起きていることについて、断定している。
 これは、「私」の「気づき」なのか。それとも「事実」なのか。別の体験が、いま起きていることに重なるようにして、ふいに、どこかからあらわれたのか。
 そのあとである。

「それで ご自分の顔を見はったの?」

 これは、「転」をもう一回突き破って別世界へ行ってしまうような、「結」とは違った運動である。
 ここに、私は、非常にびっくりした。瞬間的な「わからなさ」に「えっ」と声を上げてしまう。
 こういう「反撃」(追いつき、背中を見るのはいいけれど、追い越して顔を見たのか)は、「論理」を超えている。「直感」の「絶対性」を持っている。
 たぶん三連目までは、男の詩人でも書ける。同じように書いてしまうだろう。三連目の「声」を私は「男の声」と思ったが、それはそういう理由による。「私(冨岡/女性)」のなかにある「異質(男性)」なもの、と思った。三連目までは「論理」が動いているのである。「異質」を発見し、「異質」と向き合う自分に気づく、「異質」と対話する。
 その「論理」に乗っかってはいるのだが、同時に「論理」を叩き壊しているのが、

「それで ご自分の顔を見はったの?」

 である。
 「論理」のままなら、「それで その背中はどんなふうに見えましたか」だろう。しかし、冨岡は、そういう「論理」を拒絶して、

「それで ご自分の顔を見はったの?」

 と笑い飛ばすのである。こういう絶対的拒絶は、「禅問答」のような感じもするが、ようするに、その場に立ち会ったものでないかぎりは理解できない「わからなさ」である。
 言い直すと。
 「禅問答」の「わからなさ(わかりにくさ)」は、それが書かれたものだからである。こういう「問答」があった、という形で残されているからである。問うた人も、答えた人も、「私」ではない。「私」はそこにいない。他者と他者がぶつかりあい、その一瞬にあらわれてくる「時間」というものが、「肉体」を消去した形で書かれている。「肉体」で、その場に存在していなかぎり、「禅問答」は単なるテキストであり、「存在」とは関係がない。「禅問答」(考案、といのうだっけ?)は「実践」なのである。「実践」として自己の「肉体」を存在させること。そこには、絶対的「不透明さ」が不可欠なのだ。「不透明」であることによって、「現在」を叩き壊し、瞬間的に「絶対的透明」の存在(「道」の存在?)を出現させる。その出現は、その「場」に「肉体」が存在しいかぎりつかみとれない。

 こういうことを、女は「意地悪」としてやってのける。これは、「肯定的」な意味で書いているのだが、こういうことは男にはなかなかできない。それをしかし、冨岡は、書き出しの三つの「の」で準備しながら、男にもわかるようにことばを展開して見せてくれている。
 五連目にも「その声」という形で、「論理」を残してくれている。
 そして、最終連。

私の中では水が流れている
その音を聞いていると滑るように空洞に近づき
風景の一部になっている自分が見える

 「空(洞)」のなかで「風景(=世界/現実)」の「一部になる」と冨岡は書いているが、私という「空」のなかに「世界」があると主張しているように、私には聞こえる。私は、そう「誤読」する。
 私の無(空)の世界、空の世界の私、世界の空の私。
 書き出しの三つの「の」は、そういうところとつながっている。つまり「水(=の音)」を契機に、ことばの運動が展開している、と私は読んだのだ。















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破棄された詩のための注釈22

2020-09-25 16:23:56 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈22
                        谷内修三2020年09月25日

 絵のなかの、座っていた男が、絵の外へ出て行った。「時間になってしまった」ということばと、椅子が残った。
 椅子は、みんな家へ帰っていく、と絵の外の世界を思った。通りにはすでに街灯がついているだろう。下を通りすぎると、ふいに、影が自分を追い越していくのを目撃してしまう。あの気分だな。座るひとを失った椅子は考えた。
 「何を考えている?」
 絵のなかの、開いた窓が聞いてきた。椅子は考えたことを隠すためのことばを探したがみつからなかった。

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ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)

2020-09-25 08:51:05 | 映画
ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)

監督 ロン・ハワード 出演 ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ボノ

 俗に三大テノールという。ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス。私は音楽に詳しいわけではない。オペラは見たことがない。だから、いい加減に書くのだが、この三人は、私の感覚ではどうみても「同等」ではない。だから「三大」というのは奇妙な感じがする。(では、だれが三大かと言われたら、こたえようがないのだが。)
 まずホセ・カレーラスの声がピンと来ない。プラシド・ドミンゴは声よりも顔が目立つ。顔で人気が出たんだろうなあ、と思う。ルチアーノ・パバロッティは美声もあるが、何よりも「大声」という感じがする。そこが、非常に魅力的だ。こんな大声を出すことはできない。ホセ・カレーラスは完全に見劣りがする。
 で、再び、なぜ「三大テノール」か。この映画では、その秘密が明かされる。ホセ・カレーラスが白血病で入院した。彼を励まし、退院したのをきっかけに「三大テノール」として、一種の「応援コンサート」をやったのだ。これが成功し、「三大テノール」が誕生した。ホセ・カレーラスが見劣りがしたのは、単に声が小さい、体が小さいだけではなく、病み上がりという問題があったのかもしれない。
 つかわれている音源は古いものもあり、音質的には問題があるのかもしれないが、それでもパバロッティは飛び抜けて魅力的である。声が大きくて、まっすぐという印象が非常に強い。こんなふうに大声が出れば、私は音痴だが、音痴であっても歌うのは楽しくなるだろうと思う。
 声について、ボノがおもしろいことを言っている。パバロッティがオペラに復帰したとき、全盛期の声とあまりにも違う、と悪評だった。しかし、ボノは「つかいこんだ声の魅力がある」という。それを証明するように、プラシド・ドミンゴの指揮で、死んでゆく男かが歌うシーンがある。その声が、非常に切実である。若いときの、まだまだ大声が出せるというような感じではなく、限界を知って、それを受け入れる声の不思議な「なつかしさ」のようなものがある。
 ああ、そうなのか、と納得する。
 オペラともパバロッティとも関係ないのだが、「声」で思い出すのは、美空ひばりの「津軽のふるさと」である。少女時代の音源がCDとして発売されている。クリアな音ではないのだが、私のこの古い音源が非常に気に入っている。おとなになってから(?)の「津軽のふるさと」も何度か聞いたが「なつかしさ」が違う。少女なのに、大人以上に「なつかしさ」を知っている。一生に一度だけ体験する「ほんとうのなつかしさ」。その「なつかしさ」は、どこかでパバロッティの「なつかしさ」に似ている。それは「代表作」のひとつではあっても、「最高傑作/絶対作(?)」ではない。しかし、「これしかない」というものを内に抱え込んでいる。思わずこころが惹かれ、動くのである。
 ひばりは音符が読めない、と言われた。パバロッティも「どうして譜面どおりに歌わないのか」と批判されたとき「音符が読めないんだ」と応えたという逸話がある。(映画には出てこなかった。)そのことと関係するかどうかはわからないが、パバロッティがジュリアードで教えたとき、女性に「君の場合は、演奏よりちょっと速く歌った方が魅力が出る」というようなことを言う。「楽譜」として存在する音よりも、自分の「肉体」のなかにある音を解放する、その力にまかせるということだろう。こういうエピソードを聞くと、ああ、パバロッティはただただ歌うことが好きだったんだ、自分の「肉体」の声にしたがって歌っていたのだ、ということがわかる。自分を解放している。だから、あんなに伸びやかなのだ。
                 (キノシネマ天神1、2020年09月24日)

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高橋秀明「春泥」

2020-09-24 10:39:30 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「春泥」(「イリプスⅡ」31、2020年07月10日発行)

 高橋秀明「春泥」は、ちょっと「古くさい」文体である。なぜ、こんな面倒くさい文体を選んだのか。

礼和二年如月四日。錦町脳神経外科入院中の父九十五歳は、看護師長の「夏ま
で持つかどうか」の言葉に押され、北国では例年になく早い春泥の好日、療養
病床転院の運びとなった。

 「療養病床」は「稲穂町」にある。「錦町」から「稲穂町」へ転院する。そのことを思いながら、

                                  私
たちは本当はどこにいるのか。そして錦町とは何か。また転院先の稲穂町とは
何か。

 ということを考える。「文体」も古くさいが、考えていることも、まあ、かなり古い。「私たちは本当はどこにいるのか」という問題は大事であるけれど、なんとなく、いまの「流行」の考えではない。「流行」ではないから、古いというのは乱暴な言い方だけれど。
 だから、なんとなく、おもしろくない。読み進むのが。
 だが、突然、大展開する。

「人と土地との交渉がすなわち地名である以上は、その数量は必ずしも面積と
は比例せず、そこに生死した人の数に伴なうのが当然ではあるが、それにした
ところで実に驚くべき地名の量である」から、たった一、二の地名に関わる小
人の数も更に驚くべき大量であり、父は北辺の都市・小樽の栄耀に浴し、衰勢
に流され、今は--錦がどこに、稲穂の実りがどこにあるかも窺い知れぬ空し
い地名が囲う寂びれた四季に囚われ、そして死する時期を待つばかりである。
 
 「人と土地との交渉」からはじまる文章が、柳田国男『地名の研究』からの引用だと高橋は注釈で書いている。
 柳田の文体が高橋の文体を呼び寄せている。そのために、こういう文体になったのだとわかるのだが、これが何ともいえずおもしろい。柳田に呼び寄せられながら、ことばの交渉がはじまり、交渉に従って「文体」が変化していく。
 地名に、そこに住んだ人の暮らしそのものが反映している。だから地名の数が驚くほどある。同じように、文体には、ことばを書いた人の暮らし(思想/肉体)そのものが反映しているから、文体の種類も驚くほど多い、と言い直すことができる。
 それは、それぞれが「選び取る」ものである。
 と、書いて、それから「何を」ということを考えると、ちょっとむずかしくなる。
 「地名」を? 「文体」を? 「暮らし」? 「肉体」? 「思想」?
 これは、区別ができない。それは「一体」になって動く。
あ、ことばが論理にならずに、無軌道に暴走しているなあ。
言い直そう。柳田の書いたものは患者が「転院」することについて書いてものではない。でも、その文章を読んで(思い出して)、高橋は「転院」を地名の問題としてとらえなおし、そこからことばを動かす。「転院」と「地名」の関係を考える。
 つまり、というのはかなり強引な言い方なのだが、病院の都合で(?)、ひとりの人間を「こっち」の病院から「あっち」の病院へ転院させるというのは、とても乱暴なことなのではないか。それは、「思想」そのものを変えるようなものなのだ。「肉体」そのものを変えてしまうようなものなのだ。「場所」が変われば「地名」が変わる。「地名」が変われば、人と人の交渉が違ってくる。
 この展開(といっても、私が「誤読」したものであって、高橋は違うことを考えているかもしれない、という前提をつけないといけないかも……)には「飛躍」(断絶と強引な接続)があって、それがどうなっているか、これを説明するのはむずかしい。ほんとうにむずかしい。
 どんなときでも、人は人と交渉し、その瞬間からその人はすでに以前のひとではなくなる。(きのう読んだ伊藤の詩を思い出してほしい。ユウくんのに見えるものが伊藤には見えない、と実感した瞬間、伊藤は生まれ変わっている。)それは、病気で入院している父もそうだし、その父のために病院へ通っている高橋もそうだろう。そのとき、その瞬間に、生まれ変わり、引き継がれていく「肉体/思想」が「わたしの本当」というものだろう。それが、病院の都合で、強引に変更させられてしまう。もちろん、それも「一期一会」の出会い、と呼ぶことはできるかもしれないが、何かおかしいだろう。なぜ、いま、また転院しなければならないのか。「錦町」「稲穂町」は地名であるが、単に「地名」ではなく、それ自体が「別の肉体」なのだ。
 このなんとも説明のむずかしいものにぶつかって、高橋は、どうことばを動かすか。

                         錦が笑わせる。稲穂が
笑わせる。今はどこに錦が。どこに稲穂の実りがあるか。糞みたい町の糞みた
い父と糞の息子が地名の空をぬらるむ如月の転院。誰に向けることもできず、
けして誰か他者に向けてはならぬと信じる激しい怒りが私を掴み私を離さない。

 「怒り」と高橋は書く。「怒り」は「肉体」である。「思想」である。そして、そこには必ず「誰か/他者」がいる。「人との交渉」は「土地との交渉」である。人の発見、人が生きいている土地の発見。そこにある「地名」。
 「わたしの本当」は「地名」のなかにある。「地名」が違うだけで、病院に入院していることに違いはない、という具合には言えないのだ。地名から離れてしまうのは、土地からも人からも離れてしまうことであり、「私が私でなくなる」ということなのだ。看護師長がいやな人間だとしても、錦町に入院していたときの「父」は稲穂町に転院してしまえば、また「新しい人間」として強制的に生まれ変わらせられる。

 これは高橋がひとりで考えたことか。柳田のことばに触発されて考えたことか。触発されて考えるというのは、ひとりで考えるということか。あるいは他人と一緒に考えることになるのか。もし、一緒に考えるということならば、それは、どういうことなのか。常に、誰かが手助けしてくれるのか。そうではないだろう。触発されたとしても、誰かに頼るのではなく、誰かの肉体(ことば/思想)に触た瞬間に自分のなかで動き出すものを頼りに突き進めるしかない。
 高橋は、柳田の『地名の研究』のことば(思想/肉体)に触れて、ことばを動かした。その高橋のことは(思想/肉体)は、柳田のことばを正確に引き継ぎ発展させたものか。そうではないかもしれない。でも、そういうことの方が「交渉」であり、「生まれ変わり」である。柳田がこう言っていると引用し、自分のことば(思想/肉体)を飾ってみてもはじまらない。読んで、そのあとどう考えたか、どうことばを動かしたかが問題なのである。
 私は最初、高橋の文体を「古くさい」と書いた。しかし、最後は「古くさい」を突き破っている。「糞みたい」ということばを積み重ね、「怒り」を爆発させている。つまり、「文体」そのものも「生まれ変わっている」。
 こういう変化を、詩、と呼びたい。



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伊藤芳博『いのち/ことば』

2020-09-23 09:27:30 | 詩集
伊藤芳博『いのち/ことば』(ふたば工房、2020年04月30日発行)

 伊藤芳博『いのち/ことば』。巻頭の「いのち/えらぶ」は自分の子供が障害者だとわかった母親の(両親の)こころのゆれを描いている。そのなかほど。医師の診断を聞いて、家へ帰る電車のなか。

ふわぁ と声がしたのです
どこからか呼ばれたような気がしたのです
見ると娘がわたしを見て笑っているではありませんか
この子はこれまで表情が乏しく
泣いたりむずかったりすることはありましたが
笑うことなどありませんでした
わたしや主人と目を合わせるということもありません
それがそのときはどうしたことかわたしを見て微笑んだのです
そのやわらかな笑みを見て
ああ この子は必死になにかを伝えようとしている
わたしはそう感じました
それまでわからなかった
わかりたくなかった意味という意味のすべてが
娘のわずかな笑みのなかにありました
この子はわたしを望んでいる
わたしを呼び戻しているのだ

 「呼ばれた」ということばがある。「呼ぶ」である。その「呼ぶ」と「呼び戻す」と言い直される。ここが、この詩のいちばん美しいところだ。
 「戻す」は「元へ返す」である。「元」がなければ、「戻す」こと「返す」ことができない。
 この詩を読みながら、私はこの母親の「元」に触れる。その瞬間が、とてもうれしい。何度もこの「呼び戻す」を読み返してしまう。

生まれなければよかった
生まれてこなければよかった
と考えていたわたしを娘は精一杯の声で呼んでくれたのです

 「呼ばれ」ても、聞こえない人がいる。聞かない人もいる。しかし、伊藤の書いている母親は「聞き」、それを「呼び戻された」と感じている。
 どこまで呼び戻されるのか。
 私は、「生まれる以前まで」と感じる。「呼び戻され」、「生まれ変わる」のだ。娘が母親になり、「わたし」を新しく生みなおす。

 きのう高貝の詩について、ことばが呼び掛け合うと書いたが、呼び掛け合うのは、そのことばが互いに「生まれなおす」(生まれ変わる)ためなのである。

 どんなことばも「呼び掛けてくる」。その「声」を聞いたとき、自分自身がどこまで「もどれる」か。
 それがいつでも問われているのだと思う。
 伊藤は、この詩集では、何度も何度も「生まれる前」にもどり、「生まれ変わる」。そのことが書かれている。
 「いのち/ゆりかご」は目の見えないユウくんが、それでも光のさす方向を感じ、その光のなかで体を揺らしている姿を描いている。

ならんでそとをみているのだが
ユウくんにみえるものが
ぼくにはみえないので
目をつむっていると
ゆりかごのなかにまよいこんでしまうのである

引き寄せられるものによって
引き寄せられるもののために

 「引き寄せるもの」は、ユウくんか。「ユウくんにみえるもの」だろう。「引き寄せられるもの」はなんだろう。「ぼくにはみえないもの」だろう。「ユウくんにみえるものが/ぼくにはみえない」と発見する。ユウくんに導かれ、伊藤は自分の知らなかった自分を発見する。ユウくんが、伊藤を、そういう次元にまで伊藤を「呼び戻す」。呼び戻されて、そこから「生まれ変わる」。
 ひとは何度でも生まれ変わることができる。何度生まれ変わることができたか、ということが、そのひとの「豊かさ」だと思う。人柄の、豊かさ。
 伊藤を生まれ変わらせてくれた人たちへの「ありがとう」がいっぱいつまった詩集である。




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高貝弘也「黒犬/記憶」

2020-09-22 10:08:32 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「黒犬/記憶」(「午前」17、2020年04月15日発行)

 高貝弘也「黒犬/記憶」は、ひとつの作品のタイトルではなく、二つの作品のタイトルを併記しているのかもしれない。右ページと左ページに七行、八行とことばがわかれている。そして、リズムも違う。
 引用するのは右ページ、たぶん「黒犬」という作品。

春浅み 月かげ

柔らかい袖の、撫でもの

あの 風に揺れている深見草

緑の金魚が 赤い藻かげで泣いている

繊い火 ものの葉 溜色

ほそい寄りものに寄りそって、

あなたはずっと生きつづけるだろう

 いくつかのことばにはルビが散らしてある。括弧で補うと、印象が違ってくるので、省略した。
 何が書いてあるか、わかりますか?
 いきなり「春浅み」といまはつかわない(たぶん)ことばではじまる。「月かげ」もつかわないなあ。つかわないけれど、つかわないからといってまったく知らないことばではない。わからないことはない。でも、わからない。
 わからなくても印象に残ることばがある。それは単独で印象に残るのではなく、ほかのことばと呼び掛け合って印象に残る。ほんとうにことばが呼び掛け合っているのかどうかわからないが、高貝のことばにふれると、私のなかにあることばが触発されて呼び掛け合うように動く。そのとき、「意味」のようなものが、私の「肉体」のなかで生まれてくる。
 こんな具合。
 春「浅」み、「深」見草。浅いと深いが呼び掛け合っている。その呼びかけの間に、「柔らかい」「揺れている」も呼び掛け合う。揺れるものは、柔らかくないといけない。硬いものは、揺れない。そしてこの柔らかさは「撫でる」ということばとも呼び掛け合う。「揺れる」は「袖」にも「草」にも呼びかけ、そこに「撫でる」ようなふれあい、柔らかい感触がある。「春」の「風」によって、袖が揺れ、草の葉を「撫でる」のか、草の葉が揺れ、袖を「撫でる」のか。どちらでもいい。たぶん、両方なのだ。主語、目的語、などと区別する必要はない。
 これが春浅「み」、月「かげ」によって、いま、ここにあらわれてくる。ちょっと古典的な世界。でも、きっと記憶にある世界だね。
 そういう「もの」(存在)を並列したあとで、奇妙な一行が、「文章」のように書かれている。

緑の金魚が 赤い藻かげで泣いている

 「主語」と「述語」がある。「文章」だ。
 それ以前のことばは、「春浅み」をのぞけば体言止め、名詞の羅列。それらのものの関係がどうなっているか、わからない。ただ、そこに存在している。存在することで、何事かを呼び掛け合っている。いろいろな存在のなかから、ある名詞を選び、存在させることで、いままで存在しなかった「呼びかけ」を引き出している。
 でも、この一行は違う。「金魚が/泣いている」という「文章」が成り立つ。そのことば自体、奇妙、常識に反するけれど、常識を裏切ることばはそれだけではない。「緑の金魚」「赤い藻」。ふつうに思い浮かべれば「赤い金魚」「緑の藻」。でも、その「ふつうの想像力」を否定するようにことばが動いている。否定を印象づけながら動いている。
 そして、この不思議な光景に、深「見」草が呼び掛ける。「草」は「藻」と呼び掛け合い、「深見草」に潜む「見」は浅「み」とも呼び掛け合っている。意味としてはまったく違うが「音」が呼び掛け合う。不思議な和音をつくる。同じことは藻「かげ」、月「かげ」によっても起きる。月影は月の光だから、藻影のように何かを隠したりはしない。「あらわす(てらす)」と「隠す」が「かげ」のなかで交錯し、それに「見/み」が呼び掛ける。
 泣いている金魚を、隠れてそっと見ている。あるいは金魚が隠れて泣いているのを見てしまった。これが、この詩に書かれている「事件」かもしれない。
 このあと、「文章」は再び、単語(名詞)になって散らばっていく。「もの」の痕跡をかすかに残し、砕け散る「象徴」という感じだな。「繊い火」は書かれなかった金魚の「赤」、「ものの葉」は「藻の葉(?)の揺れ」、「溜色」ということばを私は知らないので、「ため息」を思い、金魚と藻がふれあって漏らす声を連想したりするのである。
 そういう、一種、はかないものたちが「ほそい」ということばに収斂していく。「撫でる」に象徴されるふれあいは「寄りそう」という動詞につながっていく。
 「一体」になるのではなく、寄りそう。

 「黒犬」を見て、高貝は、そういうことを考えたのか。黒犬は孤独な野良犬か。ここに書かれているのは、それとも「黒犬」が見た、ある春の情景なのか。「黒犬」が見ている世界を高貝が想像して描いた世界なのか。
 どうとでも「意味」(論理)は動いていく。
 問題は、(大切なのは)、そのときの「意味/結論」ではなく、ことばにそういう動きをさせてしまうもの、「ことばの呼び掛け合い」がこの詩のなかにあるということだ。
 ことばとことばを結びつけて、人間は、自分の考える「意味」をつくっていく。「意味」は捏造されるものであり、「意味」になる前のことばの呼び掛け合いに耳を澄ますことが大事なのだと私は思う。
 高貝は、どこまでも耳を澄まして、誰も聞いたことのないことばとことばの呼び掛け合いを聞き取る。こういうとき、そこにはどうしても「古典/ことばの記憶」が反映してくる。ことばは「未来」のものではなく、ことばを語ってきた「過去」のものだからである。「いま」の暮らしが振り落としてしまっている「過去」のことばの呼びかけを、記録として残していく、というのが高貝の仕事の進め方なのだと思う。




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嵩文彦「生活」

2020-09-21 22:35:50 | 詩(雑誌・同人誌)
嵩文彦「生活」(「麓」14、2020年08月31日発行)

 人は誰でも旅をする。機能読んだ白井知子は、もっぱら中央アジア、中近東などユーラシア大陸を旅して、人に会っている。
 嵩文彦「生活」は違った「旅」をする。「生活」という詩。

風をそよがせて
花は長くもみじかくも
走りぬけていく

 書き出しの三行。風が花をそよがせて走り抜けていくのではない。風を置いてきぼりにして花が走り抜けている。動かないものが動き、動くものが動かない。そこからはじまる「旅」があるのだ。つまり、知らなかった何かとの「出会い」、一期一会の変化が。

花びらはどんな花びらも
酔っていたり
酔おうとしていたり
真面目に風を見ようとし
雲のゆくえを視野のしわしわにのせ
息を散らして散ってもいく

 花は風に酔うか。酔わないだろう。風も花に酔ったりはしないだろう。花に酔うのは人間である。「酔う」という動詞のなかには「人間くさい」なにかがある。それが「視野のしわしわ」ということばにも「散っていく」にも反映しているだろう。花が「散る」からといって、花を書いていると思ってはならない。
 いや、花を書いているんだけれど、花と書いているからといって花についてだけ書いているのではない。「意味」というのは、ほかのことばとの関係のなかで決まってくる。辞書をたよりに定義するのではなく、「意味の揺れ」のなかで、揺れることでしかつかみとれない意味があるということを知るのが、たぶん、詩を初めとする「文学」の楽しいところだろう。
 脱線したが。
 私の脱線以上に、嵩は脱線してゆく。花といえば……。

人の鼻の穴は
黒くて深いけれど
鼻くそはたまらないくらい
乾いて小さくバスがやってくる
少しづつ黄色くかたまりになってくる

 これは何か。
 なんでもない。ただ、遠くからバスがやってくることを書いている。バスを待ちながらすることがないから鼻くそをほじっているのだろう。こういうことは、誰でもする。森鴎外にも、タイトルを忘れたが鼻くそをほじることを書いた文章がある。日本人だけではなく、外国人(ドイツ人だろうなあ)も鼻くそをほじる。なぜそんなことを書くのかわからないが、そういうことを書いた瞬間に、「他人」が「私」になるのである。あるいは「私」が「他人」になるのかもしれない。出会いというのは、どっちがどっちといえない。いっしょにやってくる。
 そうか、鼻汁が鼻くそにかたまるように、知らないうちに(時間をかけて)、黄色いバスが徐々に大きくなってくる。それを鼻くそと思った瞬間に、バスは「肉体」そのものになる。

くるよ くるよ まちへゆくよ
バスはうたってくる
ゆるくゆるくうたってくる
椅子はじっと無口のままにいる
雨風のみがいたたしかな椅子
椅子はいつもその役割にうつくしくすわる
バスはなかなかおおきくなってこない

 「バスの旅」は「まち」までの旅。まあ、日常かもしれないが、ほら「鼻くそ」と「バス」の関係も発見したし、それから椅子の役割も発見した。こんなことはなかなかできない。
 椅子はバス停の待合室の椅子かな? そんなしゃれたものがあるかな? それともバスの座席かな? 「バスはなかなかおおきくなってこない」を時間軸として考えれば、バス停の椅子だけれど、そんな時間軸なんか、意味がないね。風をそよがせ、花が走る世界だから、なんでも「逆転」する。
 椅子の役割自体が逆転している。椅子が、自分の役割に、すわっている。人はすわらないのだ。
 いろいろな「逆転」は、さらに起きる。

いつのまにか音の荷をおろしたバスは
耳たぶの後ろを遠回りにうごいている
バスの床の思いにおいを背負わずにすんだ
雲州の人
石州の人
たまたまのひとりがふたり
おしゃべりをしている

 バスは来た。そして、バスに乗った。バスのエンジンは、後ろについている。だからいちばん後ろの席(椅子)にすわったりすると、耳の後ろから音が聞こえるような感じがする。すわれたから、背中の荷物も降ろすことができたのだろう。
 バスが来るまで、荷物を背負いながら、「バスはきませんね」などと話していたつづきを、バスのなかでもしている。知っている人? 知らない人かなあ。「雲州」「石州」と土地の名前が違うから、近所の人ではないね。もしかしたら知らない人同士。そこで、ふたりは何を発見したか。人間は、おなじもの、ということを発見したのだ。バスを待っているときは、「バスはきませんね」と言い合うのだ。

 こういうとき嵩はどこにいるのだろうか。
 白井の詩のように「私」は出てこない。すべての「もの」と「ひと」のなかに溶け込んでいる。「生活」というものは、まあ、そういうことかもしれない。そこでの「発見」は大きいのか、小さいのか。そういうことは関係がない。大も小もない。きょうのバスの乗客は三人だったな、ということも、「生活」のなかの「発見」である。

ふたりはなつかしいくらしにいる
ふたりはさんにんになっている

 私は、私の田舎(ふるさと)のバスを思い出したりした。バスの便数も少なければ、乗る人も少ないから、何人乗っているかは、その日の事件(発見)ということもあるのだ。





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内閣支持率と解散の関係は?

2020-09-21 11:15:28 | 自民党憲法改正草案を読む
内閣支持率と解散の関係は?
   自民党憲法改正草案を読む/番外398(情報の読み方)

 2020年09月21日の読売新聞(西部版・14版)の1面のトップ。

菅内閣支持74%/歴代3位 「安倍継承」評価63%

 この数字をどう判断していいのかわからない。
 「安倍継承」について、「森友、加計、桜を見る会の再調査をしない」という「継承」について評価するのか、評価しないのか。8面に「質問と回答」が載っているが、そこにはそういう「質問と回答」はない。さらにジャパンネット問題や、河井議員1億5000万円問題も質問されていない。(ジャパンネットは、会長逮捕の時期と関係するのだろうけれど。)優先して取り組んでほしい政策、課題からも除外されている。
 この段階で、読売新聞は、いわゆる「負の遺産継続」については質問を避けている。つまり、そういう声が出ないように質問を操作している。
 「負の遺産(批判の多かった問題)」の唯一具体的な質問は麻生、河野の再任。河野は担当が替わるから「継承」そのもので言えば麻生の再任。「評価しないは53%」。これから判断すれば、質問の順序次第では「支持率」が大きく揺らぐことが想像できる。

 その世論調査で、衆院の解散(総選挙)についても質問している。「任期満了まで行う必要はない」が59%でトップである。
 しかし、こういうことは「見出し」にはとられていない。
 3面の「世論調査分析」の見出しは、こうである。(番号は私がつけた。)

①菅流「堅実・改革」好感
②自民内 高まる早期解散論

 ①の「堅実」は「継承」姿勢を指す。でも「継承」なら「改革」は大改革ではなく、見せ掛けの「改修」、あるいは「修飾(新装)」くらいであろう。デジタル庁はともかく「縦割り110番」くらいでは「改革」ではないだろう。単に苦情を受け付けるだけだ。さらにその苦情が「デジタル庁」で管轄されるとどうなるか。誰がどんな苦情を言ったかという「個人情報」がデジタル庁に集積されるだけだろう。
 ②は、「世論調査」とは無関係。自民党内の動きである。しかも、その「動き」は読売新聞の世論調査を紙面に掲載し、その結果を見た自民党議員の反応ではない。調査は19、20日に行われ、20日にまとめられ、新聞は20日の夜につくられ、21日朝に配達されている。自民党員がどこの段階で「世論調査の結果」を知ったのか、それを知ったき員は全体の何%くらいなのか。だから、この見出しの「自民内 高まる早期解散論」は「まゆつば」ものである。
 記事中には、どう書いてあるか。

自民党内では、異例の高い支持率を受け、早期解散論が強まりそうだ。

 文末の「そうだ」は推定を意味する。「事実」であるときは「そうだ」ということばでは締めくくらない。つまり、「自民内 高まる早期解散論」は世論調査の結果分析でもなければ、自民党内の客観的な動向分析でもない。この記事を書いた記者の「思い」である。「作文」にすぎない。それを読売新聞は、あたかも「客観的事実」であるかのように書いている。いわば、嘘なのだ。嘘と批判されるのを恐れて「そうだ」と書き、ごまかしている。
 「早期解散論」があること自体については、すでに読売新聞もほかのメディアも書いていたと思う。それを、なぜ、いま、この段階で書くか。
 「世論調査」自体を私は「客観的」とは思わないが、一般的には「客観的」と思われている。その「客観的事実」を背景にすると、「予測」すらも「客観的」という印象を与えてしまう。
 きょうの3面の「自民内 高まる早期解散論」という見出しを読んで、そんなことは書いた記者の憶測にすぎない。どうやって高まっているかどうかを調査したのか、と考える読者も、それを「事実かどうか、客観的証拠を示せ」と読売新聞に問い合わせる読者もいないだろう。
 だから。
 これは「世論調査」以上に「世論誘導」なのである。
 紙面をつかって、「早期解散をしろ」とけしかけている。そして、その「けしかけ」は読売新聞が「特ダネ」として報道した安倍のインタビューに合致する。9月17日の新聞の見出しによれば、安倍は、

衆参同日選「常に頭」

 という。しかし、菅の任期中に参院選はないから、菅に「衆参同日選」をしろとは言えない。安倍が言っているのは、「衆院選解散を考えろ、総選挙を考えろ」という意味である。それを後押しする形で、きょう、

自民内 高まる早期解散論

 という見出しになる。これは、安倍の意向を汲んだ、「忖度見出し」ということになる。そしてまたこれは、私から見ると「読売新聞は自民党の応援をするから、早期解散をしろ」とけしかけているのである。
 なぜ? 選挙があれば「選挙広告」が見込まれるからである。そして、いま解散し、議席を確保できれば、自民党議員は「任期4年」を確保できる。「一石二鳥」なのである。
 だって、おかしいでしょ? まだ任期が1年ある。そして菅の支持率も高い。いったい何を争点に国民の信を問うのだ。もともと解散は、内閣不信任が可決されたとき、国会議員の判断だけでは納得ができない、国民に信を問うという形で実施されるものだ。(憲法69条)。「首相に解散権がある」とはどこにも書いていない。憲法7条の第3項を強引に援用しているようだが、7条はあくまで天皇の「国事行為」であって、それが「内閣の助言と承認」を前提としているからといって、内閣の思いのままという根拠にはならないだろう。
 こういうことを考えると、自民党の議員は、二階を筆頭に、自分の任期をいつまで確保するかということだけを考え、政策(国民のため)ということはまったく考えていないことがわかる。読売新聞も「世論調査」などと言いながら、国民の意識を分析するのではなく、政権をよいしょするために、どんな記事が書けるか、その見返りとしてどれだけ広告をまわしてもらえるか(経営を安定させることができるか)しか考えていないように見える。







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「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
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#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



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