詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(107 )

2014-03-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(107 )


「郷愁」

女のようにホホホホホと笑つた

 これは単に笑った「森先生」を描写しているのではない。「ホホホホホ」とていねいに「ホ」を五回繰り返している。「意味」ではなく、「ホ」を五回音にしたかったのである。
 その音のこだわりのまえに「郷音」(土地の訛り)のことを書いているが、それも印象的だ。西脇は、標準語の音よりも「人間」の生の声、声がもっている音が好きだったのだと思う。それが、この「ホホホホホ」にも出ている。
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西脇順三郎の一行(106 )

2014-03-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(106 )


「トゲ」

トウガラシが醍醐寺の塔のように

 トウガラシという自然の小さなものと醍醐寺のとりあわせ--こういう組み合わせに出合うと、確かに詩は異質なものの出会いなのだと思う。
 この一行のなかには濁音が美しく響いている。また「トウ」がらし、と「塔(とう)」の音の重なり、引きのばれれる声のよろこびがあって、さらに「のように」にそれがつながっていく。「……のように」というのは、まるで小学生の「比喩」のような書き方だが、その「よう」が音としても美しく響くところが西脇の特徴だろう。
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西脇順三郎の一行(105 )

2014-03-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(105 )


「桃」

道玄坂にヒヤ麦のでるころに

 西脇の書き出しはどれも魅力的だ。この一行の「意味」は道玄坂にある店が冷や麦が料理として出すころに、ということだろう。「出す」ではなく「出る」というのは一般的かどうかわからないが、私は、おもしろいと思う。冷や麦が自分で出てくる感じが、「もの」が主役として動くところが印象的だ。
 一行の音も好きだ。冷や麦の出回ること、それはたいてい一緒である。道玄坂で出るなら、丸の内や八王子でも出るだろう。でも、そうなると、音が違ってくる。
 西脇は、ここでは単にある「季節」を記しているのではない。ある季節を書くと同時に、一行の音楽をつくっている。「どうげんざか」という濁音の多い音から、「ヒヤ」麦へと動くとき、その「ヒヤ」がとても美しい。
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西脇順三郎の一行(104 )

2014-03-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(104 )

「ヒルガオ」

美は煩悩をボクメツすることから始まる              (114 ページ)

 この行にも「意味」以上に音の楽しさがある。「煩悩」「撲滅」は漢字で書いてしまうと堅苦しい。窮屈である。「ぼ」の頭韻があるのだが、漢字だと黙読のとき目が早く動きすぎて「音」が飛んでしまう。「意味」が先走りして「音」が消えてしまう。
 ところが「ボクメツ」とカタカナで書くと、「意味」にたどりつくまでしばらく時間がかかる。そのあいだ「音」が響く。「ボクメツ」という表記と、ゆっくりした音が「煩悩」が「ぼんのう」という音であったことを思い出させる。
 さらに付け加えると。「ぼんのう」も「ぼくめつ」も「かな」の文字数は4だが、声に出したときはかなり違う。「ん」は母音がなく、「う」も一音の長さが不完全である。「の」に吸収されていく。「く」と「つ」も母音がかなりよわい。「く」はほとんど発音されないかもしれない。漢字で書いてしまうと、その音の短さ(音の不完全さ?)が、「意味」をいっそう加速させる。
 音、音楽に対する意識の強さが「ボクメツ」という表記方法をとらせている、と思う。西脇のいう「わざと」はこういうところにもあらわれているのかもしれない。

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西脇順三郎の一行(103 )

2014-03-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(103 )

「ヒルガオ」

相当長い紫の蛇が                        (113 ページ)

 「相当長い」というのは非常にあいまいな表現だ。しかし、私はこの「相当」という音がおもしろい。漢字で書いてしまうと印象が違うが、声に出したときのんびり、ゆったりした感じになる。それが蛇に似合っている。
 この「そうとう」から「むらさき」という音の変化には何か耳障り(ぎょっとするような)響きがあり、それが「蛇」とも似合っていると思う。
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西脇順三郎の一行(102 )

2014-02-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(102 )

「ヒルガオ」

骨接ぎの入口のザクロの花に                   (112 ページ)

 「骨接ぎ」は「整骨院」のことである。いまは「骨接ぎ」とは言わないだろう。西脇がこの詩を書いた当時も医院(病院)には「整骨院」と書かれていると思う。しかし、西脇はそのとりすましたことばよりも、昔からひとが口にしている「音」が好きなのだろう。昔からある「音」は、それだけ「肉体」をくぐってきている。「肉体」によってととのえられた「思想」を含んでいる。
 それは「工業品(加工品)」の音ではなく、野菜や雑草のように、人間の「大地」から自然発生的に生まれてきた「音」になったことばである。「骨」を「整える」ではなく、あくまで「骨」を「接ぐ」。「接ぐ」には「整える」よりも生々しい肉体のうごきがある。
Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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西脇順三郎の一行(102 )

2014-02-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(102 )

「ヒルガオ」

骨接ぎの入口のザクロの花に                   (112 ページ)

 「骨接ぎ」は「整骨院」のことである。いまは「骨接ぎ」とは言わないだろう。西脇がこの詩を書いた当時も医院(病院)には「整骨院」と書かれていると思う。しかし、西脇はそのとりすましたことばよりも、昔からひとが口にしている「音」が好きなのだろう。昔からある「音」は、それだけ「肉体」をくぐってきている。「肉体」によってととのえられた「思想」を含んでいる。
 それは「工業品(加工品)」の音ではなく、野菜や雑草のように、人間の「大地」から自然発生的に生まれてきた「音」になったことばである。「骨」を「整える」ではなく、あくまで「骨」を「接ぐ」。「接ぐ」には「整える」よりも生々しい肉体のうごきがある。
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西脇順三郎の一行(101 )

2014-02-26 06:00:00 | 西脇の一行

「ヒルガオ」

この燃えているおつさんの                    (111 ページ)

 太陽を「燃えているおつさん」と呼んでいるのだが、「おつさん」という音がおもしろい。どこか「もったり」として響きがある。不透明な感じがする。それは激烈な太陽の比喩には、私の感覚では、そぐわない。
 しかし、こういう「変だなあ、自分ではそういう比喩は思いつかないなあ」ということばがあると、その詩に手触り(手応え)のようなものが生まれてくる。
 「おつさん」という田舎臭いイメージよりも、田舎臭い「音」が、私の何かをつかまえて離さない。その何かが何か--私にはわからないが、こういう変な音が私は好きである。
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西脇順三郎の一行(100 )

2014-02-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(100 )

「ヒルガオ」

漢人は「セン」といつて心の中で反動する             ( 110ページ)

 この作品も長いので1ページ1行を選んでみる。
 「セン」は「ヒルガオ」の中国語(?)の呼び方。このあと、ミルトン、ランボー、羅馬人、希人は「ヒルガオ」をどう呼ぶかが書かれていく。「音」がカタカナで再現される。どのように描写しているか、ということだけではなく、必ず「音」が書かれている。このことは、西脇が「もの(対象)」そのものに対して接近しているだけではなく、必ず「音」として「もの」を把握していることを意味するだろう。
 この詩には、たとえば「あの花のうすもも色は/地球上何属にも見られない/薄暮の最高の哀愁の色だ」というような行があるので、西脇が「絵画的詩人」であるというふうにとらえる人もいると思う。
 私は、そういうイメージの結晶のような部分よりも、「音」を手がかりに散らばっていくイメージの方が西脇の本質であると思う。イメージを固定化するのではなく、壊していく。乱していく。そういう部分が好きだ。乱調のなかで、乱調を越えて輝く美しさが好きだ。
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西脇順三郎の一行(99)

2014-02-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(99)

「しほつち」

すきとおるラムネビン色の

 ふつうに書けば「すきおとるラムネのビンの色の」かもしれない。西脇の大好きな「の」がここでは2回も省略されている。不自然なことばなのかもしれないが、その不自然さがラムネのビンのまがった形と色をひとつにしている。色だけがあるのではなく、形がいっしょに、そこにある。そこにはラムネの炭酸水の透明も含まれるのかもしれないが、ラムネが入っていなくても「ラムネビン」なのだ。形と色がラムネビン。
 この全体的な結合が美しい。「の」がないことによって結合が強くなる。
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西脇順三郎の一行(98)

2014-02-23 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(98)

「夏至」

ヨハネのマラルメのゲジゲジの

 ここからは詩集『人類』の作品。
 ヨハネとマラルメは西洋の古典的(学問的/精神的/芸術的?)な存在。ゲジゲジは虫。ゲジゲジが1行に紛れ込むこと、結合されることによって、ヨハネはマラルメに「知識」のエッジとは違う輪郭ができる。
 たとえば、これが

ヨハネのマラルメの薔薇の

 だったとすると1行はおもしろくない。薔薇がヨハネとマラルメを統合してしまう。薔薇ということばがもっている「文学(教養)」がひとつの「美」になる。けれどゲジゲジという異質なものが結合されると、それは美にはならない。なりようがない。つながっている何かが切断される。
 その切断の、断面としてのエッジがある。
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西脇順三郎の一行(97)

2014-02-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(97)

「奇蹟」

地獄の色彩のように

 この行も、前後を引用してみる。

フキノトウもイタドリも
地獄の色のように
やつとにじみ出ている

 「地獄の色のように」ということばを独立させたかったのだ。色を強調するためだろうか。違うだろうなあ。色を強調するのなら、次の「やっと」がきびしい。いや、かすかなものを強調するという方法もあるけれど、繊細な感覚と地獄の色彩は、どうも私の感じではそぐわない。
 「フキノトウもイタドリも/やつとにじみ出ている」では、あまりにも風景が自然になりすぎる。「日本的抒情」になりすぎる。それを壊したかったのだろう。西脇は「日本的情景」も好きなのだと思うが、その「情景」が「日本の定型」のなかで語られるのが嫌いなのだ。「日本の定型」をたたき壊して、非情な自然そのものにかえしたい。感性の定型と切断した場所で、「もの」そのものを見たかったのだと思う。
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西脇順三郎の一行(96)

2014-02-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(96)

「ロクモン」

二階でセザンヌ的二人の農夫が

 これは、とてもきざったらしい行である。見方によっては「ハイカラ」といえるかもしれないけれど、油絵(西洋画)と日本の農夫を結びつけるところが、なんとも「いやらしい」感じがする。
 でも、この「いやらしさ」がなんともいえず、ひきつけられる。何か言いたいという気持ちにさせられる。この行から西脇のある特徴(本質?)に触れることができるような気がする。
 ただし、それには補足が必要。「一行」しか取り上げないのが、この「日記」の原則なのだが、「反則」をしてみる。その前後の行を引用してみる。

やがて茶色のウドンをたべて
二階でセザンヌ的二人の農夫が
やせこけた指でヒシャー

 食堂でウドンを食べて、二階で将棋を指す(「ヒシャー」は「飛車」だろう)。そういう日本的な情景を両側に置くことで、セザンヌがセザンヌではなくなる。いや、さらにセザンヌになるのかもしれない。そうか、「西脇の見たセザンヌ」は、こういうものなのか、ということが「わかる」。
 この「わかる」は、あ、「西脇の見たセザンヌ」は「私の見たセザンヌ」とは違うと感じ、ふたつがぶつかると、そこから「……を見たセザンヌ」が消えて、「西脇」という人間がうかひあがるような感じがする。そうか、これが西脇の肉眼なのか、と一瞬感じる。ほんとうは何も見えないのだけれど。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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西脇順三郎の一行(95)

2014-02-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(95)

「テンゲンジ物語」

ピヒョークサイ!

 書き出しの一行。何のことかわからない。わからないのだけれど、音がおもしろくて印象に残る。タイトルの「テンゲンジ」は「天元寺」? そういう寺があるがどうか私は知らないが、西脇が日本の地名をカタカナで書くことは知っているので、○○寺(ジ)と、そんなふうに勝手に読むのである。「光源氏」みたいに「テン」源氏かもしれないけれど、寺の方が軽くていいなあ。(どこが「軽い」のか、書きながらわからないけれど。)
 で、「ピヒョークサイ!」。何かに驚いた感じがする。それから「臭い」という感じがするので、非常に臭いことを言ったのかな、とも思う。
 私は、こういうわからないものはわからないままにしておく。あれ、なんだのなあ、と読む度に思う。それが楽しい。
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西脇順三郎の一行(94)

2014-02-19 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(94)

「海の薔薇」

ロクロはまだ壷の悲しみつくるのだ

 この1行は日本語としておかしい。ロクロは陶器をつくるための道具。実際に壷をつくるのは人間(陶工)であって、ロクロではない。また、陶工がつくるのは壷であって
悲しみではない。
 --というようなことを言ってもはじまらない。
 詩なのだから。
 で、この「おかしい日本語」がなぜか美しく感じる。なぜ美しく感じるかといえば、それが「おかいし」(不自然)だからである。不自然なものに触れると、無意識的に、その不自然を補って動くものがある。
 私のなかに。あるいは、ことばのなかに、かもしれない。
 壷をつくりつづける。同じ形の壷をつくりつづける。そこには「楽しい」とは違った感情も動く。それが「悲しい」かどうか、はっきりしないが、「悲しい」といわれれば「悲しい」が浮かびあがってくる。壷をつくっているのか、「悲しい」をつくっているのか、わからなくなる。また、「悲しい」をつくっているのは陶工なのか、それとも壷なのかもわからなくなる。さらに、もしかしたらロクロなのかもしれない、という気持ちがしてくる。(手びねりの壷なら、また別の「悲しみ」をつくる、ということがありうる。)そして、それは「わからない」まま融合して、「ひとつ」になってしまっている。
 その「ひとつ」が、なんとなく、言い換えると直感的にわかる。
 直感的にわかる、直感的にしかわからない。--だから、それはことばでは説明し直すことができないのだけれど、こういう説明できない何かに出会ったとき、私はそれを詩と呼んでいる。1行のなかで、なんでもかんでも、思ってしまうのだ。1行のなかで迷子になって出て来れなくなる。
 そういうことが詩を読みことだと思う。
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