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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造「泣く(一)」

2025-02-22 23:03:11 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「泣く(一)」(「雨期」84、2025年02月20日発行)

 細田傳造「泣く(一)」の一行目。

この如月を泣くまご娘よきみを泣く

 助詞「を」の使い方が変である。「この如月を泣く」とはふつうは言わない。「きみを泣く」とも、もちろんふつうは言わない。私はときどき外国人に日本語を教えているので、こういう「を」の使い方をしたら、「間違っている」と指摘し、それを日本語らしく修正するように指導する。
 でも、現実には、そういう「正しい文法」だけではつたえられない何かがある。そして、それにぶつかったとき、ひとは文法を無視して、「間違える」。実感を大切にする、というよりも、実感が文法を追い越していく。
 この詩は、

ひたぶるにきみを泣く
二月のあいだずぅーときみを泣いた
ランドセルしょってぴりぴりに凍った道に出てゆく
小学二年のきみを泣いた
日が暮れて鬼子母神
石段の下で母をまつきみを泣いた

 とつづいたあとで、

夜になって五蜀の灯りも点けないで真っ暗闇を眠るきみを泣いた

 あ、これは、いまの「まご娘」ではない、と気づかされる。だって「五蜀」なんて、いまは言わない。「ワット」さえ、LEDが主流になって、もう言わないかもしれない。(私は、まだ蛍光灯をつかっているので「ワット」をつかうが。)だから「まご娘」が幼い細田に見えてくる。ふたりが重なる。
 この変化のあと、

しおかれて西の鳥居ほろほろぬけて
居酒屋みどりのカウンターにとまり
みみずくの鳥になってきみを泣いた

 ああ、こうなると、もう「まご娘」は完全に消えてしまう。
 文法的には「(私=細田は)みみずくの鳥になって(みみずくのように、夜行性の生き物になって)きみを泣いた」なのだが、まるで、「まご娘」が「みみずくの鳥になって(夜に働く女になって)泣いている」と「誤読」してしまう。
 最初の「この如月を泣くまご娘よきみを泣く」も「私はこの如月を泣くまご娘よきみそのものになって泣く」なのだろう。「きみを泣く」の「を」は、きみと私を切り離せないものとして、つまり一体となって、泣くということなのだろう。「この如月を泣く」も「如月と一体になって(如月のなかにどっぷりとつかって)泣く」と言い換えることができるだろう。
 日本語を学ぶ外国人相手なら、私は、そんなふうに「修正」するように指導するだろう。
 まあ、そんなことは、どうでもよくて。
 私が、いま、便宜上「一体になる」というようなことを書いたのだが(その前には「重なる」ということばもつかったのだが)、これを細田は、別のことばで書いている。
 その「書き換え」がすごい。

わかるなあ
つごもりの鳥目(ちょうもく)をしまいながら女将さんが言った
わかるなあ
関東煮(かんとだき)の湯気のむこうで女将さんが
もいちど言った

 「わかる」である。「一体になる」とは、「わかる」ことである。
 で「わかる」が「一体になる」ということだから、「わかる」と女将が言うとき、彼女は細田の「まご娘」であり、細田でもある。そして、この「一体になる/わかる」のなかにあるのは、「いま」だけではない。「五蜀の灯り」が暗示するように、「歴史」がある。生きてきた「時間」がある。「生きてきた時間ごと」一体になる。それは生きてきた時間が「わかる」ということだ。
 「雨期」には、もう一篇「泣く(二)」が載っている。それは「生きてきた時間」を違う角度から描いた作品である。これも傑作である。
 
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細田傳造「敵」「ヤヴォール」

2025-01-04 22:45:19 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「敵」「ヤヴォール」(「納屋」2、2024年11月09日発行)

 細田傳造が「敵」「ヤヴォール」という二篇を「納屋」に書いている。「ヤヴォール」の方が「文体」に乱れがない。そのぶん、いくらか借り物めいたところがある。「アメリカ兵」が「話者」だからかもしれないが、ことばは現実との「距離感」(そのとり方)が、どうも1960年代、70年代のアメリカ文学(の翻訳)っぽい。と、いうことで、引用するのは「敵」の方。

選挙がすんだし雨もあがったし
衆愚にまけたし個体の清掃でもするか
ねんいりにシャワーをあびるひねもす洗濯機をまわす
地球がまわっている
黄昏がきた空腹がきた
思想する自転車を駆って
日高屋に挿入
三百八拾圓の支蕎麦啜り
二百圓の餃子も食らったし
孤塁にもどって
辛亥の夢でもみるとするか

 細田には「すること」がある。明確に、ある。だから、あとは「○○でもするか」とテキトウなふりをするのだが、もちろん「○○でもするか」といった瞬間(意識した瞬間)から、それは「必然」になる。絶対に「すること」になる。
 漢字熟語とひらがな(あるいは古語)のつかいわけのなかに、「すること/しないこと」の区分けのような、明確な意識化のちがいがあって、それが強烈なリズムをつくりだしている。
 「選挙がすんだし」が「雨もあがったし」を挟んで「衆愚にまけたし」とつづくときの批判力の強さ、そのあとに「肉体(裸体)」ではなく「個体」をもってくるとき、さらに批判力が強くなるのだが、そこから「社会(世間)」へ踏み込まずに、さっと身をかわして見せるところに細田の力がある。いわゆる「論理(正義)」にひっぱりまわされない。「個人主義の強さ」みたいなものだね。それは、最初に批判した「ヤヴォール」の方がアメリカ風な色でより鮮明なのだけれど、ね。
 私としては、「日高屋に挿入」の「挿入」のつかい方が、とっても好きだなあ。「ヤヴォール」には「もっと落ちこんで小便がしたくなってそのまんまファック」という一行があるが、「ファック」よりも「挿入」の方が、なんというか、教養(?)を感じさせる。品というか、奥ゆかしさというか。
 で。
 その「個」の強さ(これは「孤塁」の「孤」に通じるのだが)というのは、やっぱり「怒り」というものが原点になっている。それを強く感じさせるのが、

省線電車の架橋の下で
そのチャリをどこでかっぱらったのか
絡んでくる酔っ払い爺一匹を轢く
敵の敵は敵である

 この部分の「そのチャリをどこでかっぱらったのか」という一行にこめられた「忘れがたさ」である。いわゆる「恨み」というものかもしれない。
 「挿入」とも関係するのだが、詩の最後が、また、とてもいい。私は、あえて省略しながら詩を引用しているのでわかりにくいかもしれないが、細田には「衆愚」にかぎらず「衆=集団/全体主義」に対する「恨み」のようなものがあり、「衆=愚」とつきはなして「個=孤」へ引き返す動きがあるのだが、それが最後の部分に噴出している。

塹壕にて
綿布に包まり我が銃身をにぎる
カルル・ヴァルターp22
時。来たりなば発す
声。充ちずとも射す
革命は俺ひとりで充分だ敵の敵は敵

 絶対に「衆=愚」には与しない、という強さが美しい。

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池井昌樹「だいじょうぶよ」

2025-01-01 22:39:21 | 詩(雑誌・同人誌)

池井昌樹「だいじょうぶよ」(「森羅」50、2025年01月09日発行)

 池井昌樹「だいじょぶよ」は、新川和江に捧げた詩である。夢のなかで、新川の詩の「だいじょうぶよ」が形をかえてあらわれる。

だいじょぶか
そのささやきに
ゆめからさめた
ぢべただった
あおむけだった
まんしんあめにうたれていた
あめかなみだかわからなかった


 とはじまり、途中にこんな展開がある。

だいじょぶか
くもまからさすささやきが
ほねみにしみた
ほねもみもいつかくだけて
あとかたもなくくちはてて
おおきなふるいこかげのあとに
おおきなふるいこころがのこった

 「おおきなふるいこかげのあとに/おおきなふるいこころがのこった」というのは、木が元気だったときできていた「木陰」がいまはなく、その存在しない「木陰」のかわりに、「こころ」が生きている、というのとなのだが。
 私は「こかげ」ではなく「木」そのものが「こころ」に思えたのである。「木陰」とかいているけれど、それは「木」である。
 なぜそんなことを思うかというと、「こころ」というのは死なないものだからである。そして、その「こころ」がいつでも「木」を生み出すのである。「木」を存在させるのである。
 私は「こころ」というものなど、あるいは「精神」というものなど存在しないと思っている。しかし、「思い出す」という「運動」は存在しつづける。では、何が「思い出す」という行為を支えるのか(動かすのか)、それは目であるかもしれないし、手であるかもしれない。耳であるかもしれない。池井の場合、新川の詩を読んだときの目、あるいは新川の声を聞いたときの耳こそが、「こころ」ということになるだろう。目と耳が、新川のことばに触れて、新川を生き返られせている。
 あ、こんなふうにして詩はつづいていくのだ、と私は思った。
 先の引用の二行、「おおきなふるいこ」まで、音がいっしょということも、何か不思議な印象を引き起こす。漢字で「木陰」「心」と書いたときは「おおきなふるい」までがいっしょだが、そのあとは「ことば」はわかれてくが、ひらがなだと「こ」までしっかりつづている。そういうところにも、なにか、人間のふれあいの、詩のふれあいの不思議な美しさが感じられる。
 詩の最後にも、それに似た展開がある。

だれのこころか
こんなところに
こどもみたいに
めをふいた
ふたばがひとつ

 最初の部分の「なみだ」が「め」をとおって「ふたば」になるとき、池井と新川は詩のなかで「ひとつ」になっている。「双葉」は二枚あって「ひとつ」。こんなことは、説明してしまってはいけないことなのだけれど。

 

 

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谷川俊太郎「感謝」

2024-11-18 16:49:03 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎「感謝」(朝日新聞朝刊、2024年11月17日)

  朝日カルチャー講座(福岡・朝日ビル8階)で、谷川俊太郎の「感謝」を読んだ。

目が覚める
庭の紅葉が見える
昨日を思い出す
まだ生きてるんだ

今日は昨日のつづき
だけでいいと思う
何かをする気はない

どこも痛くない
痒くもないのに感謝
いったい誰に?

神に?
世界に? 宇宙に?
分からないが
感謝の念だけは残る

 「生きていることへの感謝が書かれている」「感謝は、ひとのしたことへの感謝。ひとに対する感謝が書かれている」「多くのひとの最期につながる。多くのひとを思い出す」という声。一方で「二連目のことばはつらい。もし、こんな気持ちになったら、私は死んでしまうかもしれない」という声もあった。そうした気持ちがあるからこそ、感謝が強くなるのだろう。
 私は最終連に引きつけられた。
 「分からないが」と書いている。「誰に」感謝するのか(感謝しなければならないのか)分からないが。しかし、「感謝の念だけは残る」ことが分かる。いや、こと「は」、分かる。「は」という助詞には、強い強調の気持ちがある。その「は」の強さに、ぐいとひっぱられる感じがした。

 もし、死んでしまったらどうなるのか。これは、もちろん、分からない。でも、谷川には確信していることがある。「感謝の念」は、残る。ほかのものがなくなっても、「感謝の念」は残る。それが、「分かる」。
 「分かる」とは書いていないが、そう読むことができる。谷川には「分かりきっている」から、それを書かない。「書かないことば」、無意識に省略してしまうことばこそ、キーワードというものだろう。
 そして、私が、強く感動するのは、実は「感謝(の念)」というよりも「残る」という動詞である。谷川は「残る」をどうしても書きたかった。そして、その大切なことばのあとに、「分かる」というような余分な(?)ことばは書きたくなかった。「残る」を強調したかった。
 谷川の口調を借りて言えば、では「いったいどこに?」
 ふつう「念(気持ち)が残る」といえば、それは「肉体のなかに、念(気持ち/思い)」が「残る」。これは、誰もが経験することである。谷川は「私の肉体のなかに、感謝の念は残る(言い足りない)」と言っているのだろうか。あるいは「肉体」といわず、「こころに」というひともいるだろう。言っても、言っても、言い尽くせない。
 私は、なんとなく違うと思う。違うと、直覚する。「肉体」や「こころ」に「残る」のではなく、もっと違うところに「残る」。
 もし谷川が死ぬことがあっても、そしてその肉体がなくなってしまっても、谷川の「ありがとう」という気持ちは、この世界、この宇宙、谷川のことばを読んだひとのなかに、「残る」。
 「鉄腕アトム」や「かっぱらっぱかっぱらった」「父の死」のような作品が「残る」のではなく、何よりも「感謝」が残る。「生きている」、だから「ことば」が動く。その「ことば」はすべて「感謝のことば」である。谷川の詩は、すべて「感謝の念」なのである。
 感謝のあらわし方には、いろいろある。「ありがとう」は誰でも知っていることばだが、それだけが感謝のことばではない。たとえば「おならうた」の「こっそり す」もまた感謝のことばのひとつなのである。生きているから、こっそりするおならの音も聞こえるのである。私がいて、他人がいて、一緒に生きているから、それが聞こえるのである。聞こえた、と言えるのである。そのときの「うれしさ」。
 私は、うまく説明できない。しかし、谷川のことばに笑った瞬間の「うれしさ」、ひとのいのちをふいに輝かせることばの力のなかに、谷川の生きていることへの感謝が存在すると、私は感じる。ことばは、みんな「つながって、いきている」。
 そんなことを感じた。

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細田傳造特集

2024-09-26 10:39:32 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造特集(「阿吽」復刊01、2024年08月25日発行)

 「阿吽」復刊01の「細田傳造特集」を見た瞬間に(読んだ瞬間にではない)、笑い出してしまった。表紙に「書下ろし一〇詩篇と十二の論考」とある。そして、その「論考」の執筆者が全員女性なのである。(名前だけで判断したので、間違っているかもしれないが。)
 で、これが、笑い出した原因。
 私はだいぶ前から、細田傳造の詩は「おばさん詩」であると言っている。「論考」を書いている詩人のなかには、私が「おばさん詩」と呼んでいる詩を書いているひともいる。そうか、やっぱり細田の詩について、何かまともなことを(まともな反応を)書くとすれば(それを期待すれば)、「おばさん」以外にいないのだなあと思ったのだが、これは私だけの印象ではなく、編集者もそう思っているのかと直覚したのだ。そうでなければ、論考の執筆陣が女性だけ、というのはかなり奇妙なことだろう。
 男では、荒川洋司が、いちばんまっとうな細田傳造論を書けると思うが、ほかには書けそうなひとを私は思いつかない。
 と、ここまで書いたら、もう書くことはないのだが。
 書き始めたのだから、むりやり(?)書き続けてみるか。

 「怒り Anger of a lady」の書き出し。

あの
かたちがきらい

 この二行から何を想像するか。詩、なのだから、「正解」などないのだが、つまり、何を想像しようがかってなのだが。細田は、読者が何を想像するかを「直覚」して、ぱっと、二行をほうりだす。そのあとで、
 おちんちん。
 詩のなかで、そう言いなおされているが、「ひろこさん」がほんとうに「おとなの/おちんちんがきらい/かたちがきらい」と言いなおしたのかどうかは、わからない。細田が、ひろこさんの恋人(注釈に書いてある)にかこつけて「smells の方はいかがでしたか?」なんて聞いたから、ことばがそっちへ動いたのかもしれない。いや、そういう方向へ動くと知っていたから「smells の方はいかがでしたか?」と聞いたのかもしれない。
 まあ、どうでもいい。「説明」なら、あとからいくらでも都合にあわせて言うことができる。修正ができる。そんなものは、「その場しのぎ」である。
 一方、

あの
かたちがきらい

smells の方はいかがでしたか?

 も、また「その場しのぎ」というか、「即興」であろう。
 この「即興」の「幅」というか「飛躍」というか、何を手がかりに、どう動くかという判断の「直覚」が「おばさん」なのである。
 何かを「基本(土台)」にして、そこから飛躍するというよりも、「何か」のなかにすっと溶け込んで、自分を捨て去って(無我になって)、「何か」の内部から新しいビッグバンが起きる。その瞬間の「直覚」。
 こんなことは、ことばでは説明のしようがないのだが、細田のことばの動かし方は、どこで「おばさん」と一体になっている。「無」我になっているから、もうそれ以上なくなりようがない、だからこれでいい、これで平気という感覚かなあ。
 これは、とても難しい。男には、できない。あの、耳のいい谷川俊太郎でさえ、こういうことはできない。

あの
かたちがきらい

 という「おばさんの声」を聴き取り、それを書き留めることはできても、そのあと「おばさん感覚(他人との距離を無視する、無我になって接続してしまう)」で、

smells の方はいかがでしたか?

 と切り返し、「その場」を活性化することはできない。
 で、この「おばさん直覚」を、それでは男のすべてが持たないかというと、そうではない。ちゃんと(?)生活している男は持っている。
 「猪」という詩は、養豚場に猪があらわれ、

いきなり
雌豚の梅子の尻に乗っかった
ぶるぶるぶるっと
三回痙攣し
事をすますと
すたこらすたこら
山へ帰っていった
鈴木さんが
渋い顔をして言った
俺んちのおんなたちに
ワイルドな味をおぼえさすと
男をえらぶようになる
子豚の取れる数が減る

困ったことだ

 豚のことを書いているのか、猪のことを書いているのか。あるいは、「俺(鈴木さん)」の「おんな」のことを書いているか。鈴木さんの体験を書いているのか。鈴木さんは、おんなを寝取られたことがあるのか。
 直覚は、世界の「境界線」を消してしまう。「無我」さえも消え、「無」という絶対があらわれる。「意味」を叩き壊して、「世界」に戻る。

困ったことだ

 これは鈴木さんのことばか、細田の声か。それはほんとうに「困っている」のか、それとも「うらやましがっている」のか。つまり、イノシシになれたらいいなあ、と言いたいけれど、それを言うと「まずい」ので、「困った」と言っているだけなのか。
 「答え(正解)」なんて、ない。
 「答え(正解)」なんてなくても、人間は存在する。存在できる。存在してしまう。細田は、こういう感覚(哲学/直覚)を、こどものときから持っていたようだ。
 「そら」を全行引用する。

そとにだされて
よこにならばされた
そらをみていたら
まっすぐまえをみていろ
みんなでまえをみていた
せびろをきたおとこのひとが
おおぜいきた
えんちょうせんせいやほけんのせんせいや
たんにんのせんせいたちが
じめんをみて
じっとしている
せびろをきたおとこのひとたちの
せんとうの人がぼうしをぬいで
あるくのをやめて
れつのまんなかにいたぼくに
きゅうにはなしかけてきた
ちちはははげんきか
へんじができなくって
だまりこんで
そらをみた
あとでまた
せんせいにしかられるとおもった
せんさいこじいんというところに
ぼくたちはいた

 この透明感は、最近見た映画「ぼくのお日さま」に通じる。細田は「そら」の色、明るさ、光の感じなどを一切書いていないが、私は、何も存在しない「空(くう)」、「絶対空」の透明な光を感じる。「空則ぼく」「ぼく即空」。この「空」は「そら」と読むのか「くう」と読むのか、書いている私にもわからないが、「おばさん詩」のなかにある「絶対」を、こんなふうに昇華していくのが細田の、だれにも追いつけないところだなあ。

 

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緒加たよこ「お庭のきんぎょ」

2024-08-08 22:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)

2024年08月05日(月曜日)

緒加たよこ「お庭のきんぎょ」(朝日新聞、2024年08月07日夕刊)

 緒加たよこ「お庭のきんぎょ」(朝日新聞、「あるきだす言葉たち」)は、「説明」を省略した作品である。その全行。

お庭のきんぎょのお池のよこで
きんぎょたべました
じゅうじゅう焼いて
きんぎょ?きんぎょ?
じゅうじゅう焼いて
きんぎょ?きんぎょ?
そうじゃそうじゃ
そうそうそうじゃ
おじちゃんと
おにいちゃん
にこ 
にこ
にこにこ
にこにこ
お庭のきんぎょ焼いてたべたよ
まま、
まま、
きんぎょをみるたび
これたべた
あたらしいともだちができるたびに
いいました
じゅうじゅう焼いて
じゅうじゅう焼いて
お庭のきんぎょのお池のよこで

 そのまま読むと「金魚を庭で焼いて食べた、バーベキューの食材に、庭の池にいた金魚を焼いて食べた」という情景が浮かんでくる。もちろん、そういう「読み方」があってもいいと思う。
 私は、しかし、そんなふうに読まない。
 この詩に特徴的なことは、同じことばが繰り返されていること。ことばというよりも、「音」と言った方がいい。「音」は「意味」ではない。「音」は「声」であり、「声」はは何よりも「感情の動き(意味)」を伝える。それは辞書にある「ことばの意味(定義)」を超える。
 で、ここからなのだが。
 この詩のなかで「意味」になりにくい「音」は何か。「じゅうじゅう焼いて」の「じゅうじゅう」が、「わかる」けれど、それ「意味」として明確にするのは難しい。何かが焼けるときの「音」。その何かは「乾いた」ものではない。なかから液体(脂、水分)がにじんでくると、熱に反応して「じゅうじゅう」と音を立てる。この詩の主役(?)は、その音に反応している。車をブーブー、犬をワンワン、猫をニャーニャーという「音」で把握するように、バーベキューを「じゅうじゅう」という音でつかみとっている。
 その幼い子(たぶん)にとって、その「じゅうじゅう」という音のいきいきした漢字は「きんぎょ」という音の確かさに似ているのかもしれない。逆に言えば、「きんぎょ」という音は「金魚」ではないものを指しているかもしれない。「きんぎょ」という音の確かさ、音の手応えは「そうじゃそうじゃ」に似ている。同じ音を繰り返す「にこにこ」「まま」もその類かもしれない。その幼い子のまわりにいるひとたち(おじちゃん、おにいちゃん、まま)は、それを理解して、「ことばの意味」ではなく、「声の調子(音のなかに動いているこどもの感情)」に「そうじゃそうじゃ」といい、「にこにこ」する。
 この「にこにこ」が、この詩では、とても重要。「じゅうじゅう」が実際に聞こえる「音」をなぞったものなのに対し(ブーブー、ワンワン、ニャーニャーも同じ)、「にこにこ」はどんなに耳を澄ましても聞こえない「音」である。「音」ではない「音」である。「音を超える音」。声にしなければ、存在しない音。
 詩というものが、ことばにしなければ存在しなかった感情を明らかにするものだとすれば、ここには同じように、ことば(声/音)にしなければ存在しなかったものが、ことば(音)として書かれている。「にこにこ」は誰もが知っていることばである。しかし、それは「音」として存在しないのに、私たちが「音」を通して受け入れている何かである。
 そうしたもの、それに類する何かが、この詩のなかで動いている。「きんぎょ」という音を出発点にして、「じゅうじゅう」という音をとおって、さらに自由に動いていく。
 私は、とりあえず、そういう「説明」をここに書いているが、緒加は、そういう「説明」をしない。ただ、「音」を動かして見せる。「音」「声」のなかにこそ、「辞書に書かれていることばの定義(意味)」を超える大切なものがあると知っている。そして、それを「形」にしようとしている。
 この一篇だけではわかりにくいが、緒加の詩には、独自の「音楽」がある。「音学」ではなく、「音の楽しさ」がある。音を説明すれば「音楽」ではなく「音学」になってしまう。「数学」とか「科学」とかに似たもの、あるいは「文学」もそうかもしれない。「学」にしないで、音を楽しみ、音楽に肉体をあわせれば(音楽に合わせて肉体を動かせば)、緒加の世界へ入っていけるだろう。

 緒加たかよは、朝日カルチャーセンター(福岡)の「現代詩講座(谷川俊太郎の世界)」の受講生。第一詩集「彼女は待たずに先に行く」(書肆侃侃房)は、講座で書いた作品を編んだもの。

 

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野沢啓「大岡信の批評精神」

2024-07-26 22:05:52 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「大岡信の批評精神」(「イリプスⅢ」8、2024年07月25日発行)

 野沢啓「大岡信の批評精神」の最後の部分に、こんなことを書いている。(31ページ)

《すべての書を読んだ》マラルメのひそみにならって言えば、詩のことばはあらゆることばとの深い相互関係のなかで生きている。批評とはそうしたことばの深淵のなかにおもむき、そこから無限の富を引き出してくる試みであって、そこには限りというものがない。

詩人がことばのなりたちやその歴史を深く知ること、ことばにたいする豊富な経験をもつことがその直観力、着眼力などをどれだけ高めるものであるかを知らなければみずからの詩の営為に対する批判力をもつことはできない。

 その通りだと思う。
 そして、同時に、ここに書いていることは、野沢が「言語暗喩論」で展開してきたこととはまったく逆のことではないか、と私は感じる。野沢は、詩のことば「暗喩」は「突然」誕生すると言っていなかったか。そのために初めて雷鳴を聞いた(体験した)人間の発する驚愕の声や、初めて海を見た人間の発する声について語っていなかったか。「ことば」にならない「声」のようなものから詩、暗喩を語り始めていなかったか。
 私は、そういう野沢の「言語論」に与することはできないと言いつづけた。
 詩のことばにかぎらないが、「ことばはあらゆることばとの深い相互関係のなかで生きている」。これを「色や形はあらゆる色や形との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおせば、絵画や彫刻についての批評となるだろう。さらに「音はあらゆる音との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおせば音楽に対する批評になるだろう。「肉体はあらゆる肉体との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおすことから、バレエ論、ダンス論(ブレイクダンスを含む)を語ることもできるだろう。あらゆる芸術は、すでに存在するもの、既存のものに対する「批評」の形で生まれる。それは言いなおせば、既存の「ことば」「色/形」「音」「肉体」がなければ「芸術」は生まれないということである。
 さらには「数字はあらゆる数字の深い相互関係のなかで生きている」「素粒子はあらゆる素粒子との深い相互関係のなかで生きている」「細胞はあらゆる細胞との深い相互関係のなかで生きている」という意識を深めていくことで、現代の科学は進展してきているかもしれない。
 詩に戻して言えば、詩は、すでに人間が「ことば」をかわして生きているという事実があるからこそ、その現実に対する批評として生まれてくる。それは、はじめて雷鳴を体験することや初めて海を見るときに発する「ことばにならないことば」とは関係がない。そして、そういう「創造」は詩の特権ではない。絵画でも彫刻でも音楽でもダンスでも、それぞれ「創造する力」をもっている。「哲学」も同じだろう。
 なぜ、詩を「特権化」するのか。それが、野沢の「言語暗喩論」に対する私の疑問である。

 「ことばとことばの相互関連」「ことばのなりたちや歴史」を、私は「ことばの肉体」と呼んでいる。人間の「肉体」の、たとえば「手」、たとえば「腎臓」。それはそれだけを取り出してあれこれ言うこともできるが、「本体」と切り離すと「いのち」ではなくなる。ことばも同じで、それは「肉体」とおなじように相互関連のなかで動いている。

 今回の野沢の論は、大岡信のことを書いているのか、藤原俊成のことを書いているのか、藤原定家のことを書いているのか、はたまたは紀貫之のことを書いているか判然としないが、それはそれでいいのである、と思う。大岡も俊成も定家も貫之も、そして野沢も日本語を生きており、そのことばは「独自」に見えても深いところで「相互関連」を生きている。
 そして、そのとき野沢は意識するかどうかわからないが、「文学」のことばだけではなく、ほかの分野のことば(色であったり、音であったり、手の動かし方であったり)とも関係しているし、そこにはあらゆる「識別」を超えた「運動」の「相互関連」もある。
 「暗喩」は、そうした「相互関連」を明るみに出すすべての「法(絶対理)」のようなものであるだろう。それが成立するためには、言及の対象が「現前」していないといけない。「存在」のないことろに「暗喩」は生まれない。「暗喩」とは「いま目の前にあるもの」をつかって、「可能性としてあるもの」をリアルに表現するものだからである。それを明確化するのは直観と粘り強い論理の冒険力である。そして、その「可能性としてあるもの」は、「発明される」というよりも「発見される」もの、つまりすでに存在するものである。
 「新しいもの」とは、すでにありながら「けっして古びないもの(これまで気づかれなかったもの)」のことかもしれない。それを論理(ことばの運動)で探し出すのが人間の仕事(特権)というものだろう。


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長島南子「追伸」

2024-06-19 21:11:12 | 詩(雑誌・同人誌)

長島南子「追伸」(「天国飲屋」5、2024年06月16日発行)

 長島南子「追伸」は「さっちゃん」にあてた手紙。「あの人は家を出て行きました/行方不明です」。それで、

誰もいない部屋でご飯を食べていると
食べ物をかみ砕く音だけが
耳に響いてくるのです
食べてからはもうすることがありせん
耳のなかがじんじんしてきます
大声でわめきたくなります
かたわらで猫がじっと見つめています

 という、おばさんにしか書けない「絶対孤独」を描写することばのあと、人間と人間の、これまたおばさんにしか書けない「間柄」のなかをことばが動いていく。
 
さっちゃん 行方不明なのは
わたしです
家には行方不明が服を着て
来客を待っています
近くまで来たらお寄りください
あれ 行方不明はあの人でした
いいえわたしでした
いいえさっちゃんでしょ
かたわらで猫がじっとみつめています

 「間柄」は「人間関係」と言いなおすことができるかもしれないけれど、そう言いなおしてしまえば、そこからは何か違ったものになってしまう。
 多くの男の詩人も「行方不明なのは/わたしです(いいえわたしでした)」は書けるが、「いいえさっちゃんでしょ」は書けない。特に、その「末尾」の「でしょ」の切なさ、正直は書けないなあ。
 「行方不明なのは/わたしです(いいえわたしでした)」が男にも書けるのは、そこには「論理」があるからだ。「論理」が「抽象」を動かすからだ。「人間関係」は「抽象的」なのものである。
 でも、「間柄」は、具体的な「人間」と「人間」との間に生まれてきてしまう「柄(模様)」のようなものであり、その「あや」を生み出すのは「でしょ」というような「働きかけ」を含んだ、具体的な「体温」なのだ。

 「猫」と「人間」は、私は猫がこわいから近づかないのでわからないが、そこには「間柄」はない。「間柄」があったとしても「変化」はない。「あや」は生まれない。かわらない「関係」だけがある。「かたわらで猫がじっと見つめています」「かたわらで猫がじっとみつめています」。
 漢字とひらがな。意識的かな? 無意識的かな?
 無意識だろうなあ。
 それが、なおさら、こわい。「無意識」というのは、「本心/正直」だからだ。長島は、猫に対して「でしょ」とは話しかけないだろう。

 と、書けば「間柄」が、どういうものかつたわるかなあ。まあ、つたわらなくてもいいけれど。つたわらない方が、「そんなこと書きましたっけ」としらばっくれることができるから、いいかもしれない。(この三行は、私から長島への「追伸」です。)

 

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細田傳造「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」

2024-06-17 23:58:24 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」(「ウルトラ・バルズ」41、2024年05月25日発行)

 細田傳造「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」の最後の部分。

ジェローム・アレキサンダーに会ったら
きいてみたい
市立大学で二十年も
ジャック・ラカンを研究した男だ
きっと馬鹿にされるな
かれを馬鹿にしている

 最後の最後の、この二行がいい。細田傳造そのものである。ひとはひとを馬鹿にする。理由は、はっきりしている。だから、その理由を私は書きたいとは思わない。そして、理由がはっきりしているからこそ、細田はいつでもひとを馬鹿にしている。しかし、それはジェローム・アレキサンダーが細田を馬鹿にするときとはまったく違っている。そういうことが実際にあるわけではないだろうが、ジェローム・アレキサンダーは細田に会ったら、そして細田がジェローム・アレキサンダーにジャック・ラカンのことを聞いたら、きっとジェローム・アレキサンダーは細田を馬鹿にする。ちゃんと、「馬鹿にしている」ことがわかるように、馬鹿にする。しかし、細田は、わかるようにではなく、「わからないように馬鹿にする」。そして、それをこっそりと書く。
 この複雑な粘着性。
 いつでも「感情」がからみついている。
 この「からみつき」を意識しながら、一連目を読んでみるとおもしろい。

早暁
目覚めると
夢の残渣
淫らだった夢はドリームとよべるのか
失業してコンビニの裏口
売れ残った弁当を
愛想のいい店長から
手渡されている夢はナイトメアというのか

 「夢」をあらわす英語がいくつあるかしらないが、細田は「ドリーム」と「ナイトメア」を選び出し、そこに「英語の感情」ではなく、細田自身の感情をからみつかせ、そうすることで「英語の感情」を「馬鹿にしている」。そんな、他人の「基準」なんか、採用しないぞ、と言っている。
 「いつでも、けっして、自分を譲らない」。これは、馬鹿にされても気にしない、ということであり、他人を馬鹿にするということである。
 「野原」というのは、子犬といっしょに野原をかける詩である。その最後の部分。

なんさいなの
子犬にききました
しらない
なんさいなの
子犬がききました
ななさい がっこうにいってない
ぼくたちはなんだかつまらなくなって
はなしをやめて走りました
牧場がみえてきます
がっこうってなんだろう
走りながらぼくたちはかんがえました

 「馬鹿にする」ということは「考える」ということである。そして、自分で考えたことを何よりも大切にすることである。細田の詩には、自分を大切にする感情がいつも、とてもしっかりと残っている。
 だからといえばいいのだろうか。
 細田は「自分を大切にしているもの」に対しては、親切である。そういう人たちに対しては、「表面的」には相手を馬鹿にする。しかし、その相手をしっかりと受け止める。まるで、子犬を見守るように。だから、その「馬鹿にする」は、とても温かい。
 たとえば、「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」の、次の部分。

白昼
道ですれ違った老人と
ある奇妙な行動をした
左手で敬礼したら
右手で敬礼された
無礼な奴
右足で蹴っとばしてやったら
左足で蹴っばされた
同時同瞬の出来事だ
あれはなんとうい白昼夢の具象だったのか

 まあ、これは「他人」ではなく、細田自身の自己矛盾なのかもしれないけれどね。
 そして、「自己矛盾」だからこそ、そこに「やさしさ」がある。「矛盾」をかかえて、それでも人間は存在していることができる。生きていることができる。細田は「他人の考え」は「馬鹿にする」けれど、他人が「生きていること」に対しては、絶対に「馬鹿にしない」。


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野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」

2024-04-21 11:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」(「イリプスⅢ」7、2024年04月15日発行)

 野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」は、とても「正直」な文章である。藤井の『ピューリファイ!』の数篇の断章を引用し、「まったくわからない」ということについて、書いている。
 なぜ、「正直」というか。
 いままで野沢は「わからない」ことがあると(つまり考えていて自分のことばが動かなくなったとき)、もっぱら西洋の哲学者やら日本の評論家やら、他人のことばを引用していた。自分のことばを組み立て直すのに、自分のことばを点検し、変更するのではなく、それはそのままにしておいて、他人のことばで新たな「言語構造」を作り上げていた。野沢の「根本」はそのままにした「自己拡大」、「野沢のことばの世界の拡大」である。その「拡大」の仕方を評価する人もいるのだが、私はこういう「自己拡大」は「誇大妄想」に似ていると思う。「正直」とは思わない。
 「わからない」ときは、何か自分のなかに「不完全(間違った)」ものがあり、それが「かわる」をつまずかせる。その「つまずきの石」を取り除くこと、解体することが大事。つまり、つまずきの石の周辺を平らかにし、そのまま歩けるようにすることが大事。「つまずきの石」を越えるために、そこに「巨大な橋」をかけてわたるのは、まあ、確かにつまずかないことにはなるが、そんな方法では「巨大な橋」がいろんなところにできてしまい、「巨大な橋」のつくりだす迷路のために、どこの橋をわたれば目的の場所につけるか迷ってしまうだろう。野沢は、いや、迷うことはない、と言うだろうが、野沢の文章を読んだひとは迷う。少なくとも、私は迷う。
 迷った挙げ句に、迷ったと白状するのが嫌いなひとは、ときどき野沢の構築した巨大な橋の群れに「すばらしい」と声をあげるのだが、私には、そのすばらしいは「私は面倒だからもうその橋をわたらない」と言っているように聞こえる。
 「わかる」というのは、基本的に「単純化」して消化することであり、「複雑化」してみせることではないと私は考えている。

 で。
 藤井貞和の詩を「わからない」と言った上で、野沢が「わかろう」としているのは「書かれなかった『清貧譚』試論のために」という作品である。藤井は、この詩のなかで太宰治の娘・島津佑子と旅行したときのことを「小説風」に書いている。島津が藤井に、「あなたのいちばんすきな/太宰治の作品は/なに?」と聞く。

わたしはそくざに『清貧譚』と答えました
太宰の娘の両のひとみから
おおつぶの涙があふれ出ました


 そのあと藤井は、太宰の妻・美知子(島津の母)に会って、この話をする。それを聞いて美知子はいろいろ語る。その部分は、最初は

あのおおつぶの涙は
太宰の流した涙ではなかったか
美知子さんはそうおっしゃいました

 という形だった。藤井は、そのことが気になっていた。そして最終的に、

あのおおつぶの涙は、娘の涙を借りて
太宰の流した涙ではなかったか
美知子さんはそうおっしゃいました

と整える。「娘の涙を借りて」を追加している。このことに対して、野沢は

藤井がどうしてこのフレーズの挿入にここまでこだわったのか、それがどれほどの意味があるのか、それを解明しないではそれこそわたしの言語隠喩論が泣く。

 と書いている。そして、「わからない」を「わかる」にかえるために、野沢は考え始める。その過程で、野沢は『清貧譚』を読み直し、「要約」して紹介もしている。しかし、いつもの「他人のことば」はここには出てこない。つまり、だれそれがこの『清貧譚』についてこういう批評をしている。あるいは、その小説の時代背景について、だれだれがこういう分析をしている、というような「他人のつくった巨大な橋」を持ち込んでいない。ただ野沢が野沢のことばで考えたことが書かれている。だから「正直」があふれ、書かれていることが、私にも「わかる」。
 野沢は、文章の末尾で、こう書いている。

〈娘の涙を借りて〉という挿入句の不在がこの作品に決定的な欠落をもたらすというのは、藤井の観念のなかにしかないのではないか、という素朴な疑問が湧く。〈あのおおつぶの涙〉は島津佑子のものであることはすでにテキストの上でも明らかであるから〈あのおおつぶの涙は/太宰の流した涙ではなかったか〉でも意味論的には同じことになる。そこに〈娘の涙を借りて〉を挿入することは意味の強調にはなっても、特別に意味が変容するとも言えないような気がしてくる。

 おもしろいなあ。「正直」だなあ。「隠喩論」を展開し、その「隠喩の意味は(その隠喩が指し示しているものは)」という問いに対しては「隠喩は意味ではない」というような形で「説明」を拒絶していた(排除していた)野沢が、ここでは「意味」にこだわっている。
 しかも、その「意味」というのが……。
 藤井が「太宰の娘」というときと、太宰の妻が「太宰の娘」というときでは、その「意味」は同じではない。そのことを無視して(気づかずに?)、野沢は「意味」を書いている。
 藤井が詩の最初の部分で「太宰の娘」と言ったとき、藤井は太宰と島津佑子しか想定していない。母のことを思い浮かべたとしても、それは形式的・観念的だ。しかし、妻が「太宰の娘」というとき、それは「私の娘」でもある。肉体の関与の仕方がまったく違う。「私の娘」が涙を流しているとき、「母である私/太宰の妻でもある私」も涙を流している。美知子は、藤井の話を聞きながら、藤井の前では涙を流さなかったかもしれないが、その「肉体の奥」で娘と同じように大粒の涙を流している。そこには妻としての涙も当然含まれている。そのことに藤井は気がついた。妻が、涙をこらえている、と気がついた。対面していれば、誰でも、そのひとが涙をこらえているかどうかは、肉体の感じで「わかる」ものである。そして、その「こらえている涙」があることを何とかしていわなければならないと感じ続けていた。だが、どう書いたらいいのか藤井にはそのときわからなかった。「あなた(藤井)が『清貧譚』がいちばん好きな作品ということを聞いて、私も娘と同じように涙がこみあげてきました。それを私はいま必死にこらえて、こうやって語っています」と書いたのでは「説明」になってしまう。
 「こらえている涙」、見えない涙、言い換えればそこには「隠喩としての涙」がある。それを言うために、「娘の涙を借りて」と書き加えずにはいられないのだ。この追加(挿入)で、こころが震えないとしたら、野沢は「ことば」は読むけれど、その「ことば」とともにある「肉体」をまったく見ていないことになる。そのときの「声」も聞いていないことになる。ことばには「意味」と「論理」もあるが、そこには常に「肉体」がある。その「肉体」は「意味/論理」を揺り動かしている。そして、それは「意味/論理」よりも直接的に「人間の肉体」に迫ってくるものである。
 「隠喩(論)」「隠喩」と言いながら、野沢は、実際の「隠喩」に出会ったとき、その「隠喩」に反応していない。「隠喩」に対応する(反応する)「肉体」を欠いている。「頭でっかち」というのは、野沢のためにあることばだろう。

 「隠喩」というものは、いや、隠喩にかぎらず、表現というものは最初から表現としてあらわれてくるものではない。書いてみなければ、それがはたして隠喩になっているかどうかわからない。言ってみなければ、はたして隠喩になっているのか、あるいは誰かにつたわることばになっているのか、わからない。
 ことばとは、そういものである。だからこそ、なんどでも言いなおすし、書きなおすのである。作りなおすのである。ほんとうの(正直な)ことばが出現してくるまで、ことばをひとは作りなおしつづけている。個人的にもそうであるし、文化的にもそうである。だから「文化」というものもある。「文化」とは「時間」であり、「歴史」でもある。
 で、追加して書いておけば。
 ひとの前で涙を見せない、というのは、「日本的な文化」でもある。太宰の妻が涙をこらえているのも、そういう「文化」がどこかで影響しているだろう。

 

 

 

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細田傳造「まじめなマンション」

2024-02-19 22:20:26 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「まじめなマンション」(「妃」25、2023年12月28日)

 細田傳造「まじめなマンション」を読みながら、「まじめ」の定義はなかなかむずかしい、と思う。

税務申告はやく済ませましょう
まじめなことに税金をつかっていただきましょう
さよならおげんきでまたね
家に還ってNHK正午のニュースを見る
政治家のお顔が映っている
まじめかしら ついつい疑ってしまう

 これは、まあ、だれもが考える「まじめ」の部類かなあ。このあとに、細田の「まじめ」がぬっと顔を出す。

信頼しなくてはいけませんよね
ともだちもじぶんの近々の邪念を語る
あれからずっとセックスしていないの
しなさいよ
誰と
返事につまる
もうかれこれ
一年前から彼女のつれあいは天国にいらっしゃる
天国でなさいなさいよ
とはいえない
この世で誰かとしちゃえばともいえない

 「この世で誰かとしちゃえばともいえない」とは、いわば軽口のようなのもだけれど、その前の「返事につまる」。これがいいなあ。まじめだなあ。まじめに気がついて、細田はそれを隠そうとして詩を軽口の方向に動かしていくのだが、「返事につまる」(ことばにつまる)、そのときの感じがいいなあ。
 「つまる」という動詞がいいのだ。
 「返事につまる」は、言いなおせば「返事」が「どこかに」つまる。その「どこか」を省略したまま、私たちは「返事につまる」という表現をつかうが、これは誰もが、返事が「どこに」つまるかを知っているから省略するのである。
 この呼吸が、細田の細田らしい繊細さ、敏感さ。
 「誰もが知っていること」は、言わないのである。
 それは「税務申告ははやく済ませましょう/まじめなことに税金をつかっていただきましょう」や「政治家」は「まじめかしら」にも通じる。そのあとに「疑ってしまう」があったが、実際はどうなのか、みんな「知っている」。
 ところが、セックスをどうすればいいのか。これには、みんなが知っている「正解」がない。その「正解」のないところに、ほら、「まじめ」が突然あらわれる。「まじめ」になるしかない。「まじめ」になるというのは、自分で考えるということだね、とも思う。「まじめ」に考えると、ことばは動かない。かわりに、肉体のなかで感情が動く。その感情(気持ち)がつまるのでもある。「返事につまる」は「気持ちがつまる」でもあるのだ。そして、「気持ちがつまる」と書くと、なんというか、これはこれで相手に踏み込みすぎる。セックスのことなんか「気持ち」にしてしまってはいけないのだ。細田はまじめだから、そう考えている。
 他人というか、相手といった方がいちばんいいのかなあ、向き合っている人との、距離のとり方が、細田はほんとうに繊細だ。そこに細田の「正直」があらわれている。
 「返事につまる」という一行が好きで、私は、この詩を何回も読み直してしまった。

 

 

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野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」

2024-02-14 00:03:54 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」(「イリプスⅢ」6、2024年01月20日発行)

 私は「誤読」が大好きな人間であるから、他人の誤読を指摘しても意味はないのだが、しかし、まあ、驚いた。

あらためて認識しよう。詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない。

 この部分だけを取り出せば、野沢がこれまで書いてきた「言語隠喩論」の「復習」と読めないわけではないのだが(野沢はそのつもりだろうが)、ここで書かれている「起源」というのは、実は藤井貞和の書いた文章からの借用である。
 「イリプスⅢ」5で藤井が野沢の「言語隠喩論」に対する好意的な批評を書いたので、今度は野沢が、藤井の論を紹介しながら藤井を持ち上げているのだが、藤井の書いている「起源」は「一般的」なものではない。
 藤井は「和歌」をとりあげ、「類歌」に触れている。古典の和歌には、たしかに類歌がたくさんある。類歌というのは似ている歌のことであるが、似ているということは「違い」もあるということ。その「違い」のなかに、個人の始まりの欲望を藤井は読み取っている。類似しているけれど、それが「違い」を含んでいるのは、そこに「個人」意識がある(自分は他人とはここが違う、という意識がある)。つまり、類歌には「個人の起源」が認められる。
 野沢が引用している部分は、こうである。

個人に始まる新しさ、自分において初めてだという「起源」を作り出す。創作文学であるとはその謂いで、起源を作り出すというように考えれば、類型の量産にすら個によるオリジナリティがある。

 似ていても違う部分がある。それは「オリジナリティ」である。そこに「個人」が認められる。みんな「個人」になりたかった。
 藤井は和歌の歴史を振り返りながら、そういうことを言っている。
 これを野沢は「拡大解釈」している。

 で、ここでも思うのだが、私は野沢は、なぜここで「詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない」と「詩」に限定して論を進めるかである。藤井はまったく逆に「和歌」の、しかも「類歌」に焦点をあてて、そこから「起源」ということばを発しているのに、である。
 私の考えでは、それぞれが、それぞれの個人を起源として、それぞれのことばを作り出すというのは詩に限定されることではない。和歌(短歌)も俳句も小説も哲学も、みんなそれぞれの「個人的言語」で書かれている。
 傍目には漱石と鴎外は「日本語」で小説を書いているが、よくよく読んでみると、漱石は漱石語、鴎外は鴎外語で書いている。その「個人語」の違いがわからないなら、漱石も鴎外も読んだことにはならないだろう。哲学も同じ。みんな、それぞれの個人語で書いている。
 いちばんいい例が「新約聖書」である。(日本語の例ではないが、日本語の例ではないからこそ、「個人語」こそが「文学/哲学/宗教」であることを説明するのに都合がいいだろう。)「新約聖書」では何人かの人が、みんなキリストのことを語っている。それは「同じこと」を語っているはずなのに、違っている。キリストは十字架にかけられて死んだ。その事実は同じなのに、そしてその理由、行動も同じなのに、書くひとが違えば、書かれることが違っている。キリスト教徒ではない私が言っても何の説得力も持たないが、そこに「違い」があるからこそ、キリストは存在したし、その目撃者もいたという「普遍的事実」がわかるのである。それぞれの目撃者が、「それぞれを起源とする言語」で書いたのが「新約聖書」なのである。そこに語られることは「類型」である。キリストは愛を説いたが迫害され、十字架にかけられて死んだ。だれも、その「類型」から逸脱しては語らない。そればかりか、彼らがやろうとしていることはキリストを正確に描くこと、キリストの「真理」にせまろうとして書いているのだが、そのそれぞれが「違い」を含んでしまっている。それぞれが「起源」になってしまっている。複数の人間が「認識」をすり合わせて一冊の「キリスト伝記」を書くことができなかった。そんなことは、真剣にキリストと向き合えば向き合うほどできないことなのだ。それが文学(言語作品)というものなのだ。
 野沢は藤井の書いた「個人」「オリジナリティー」ということばを読み落としている。つまり、藤井が「類歌」を超えて存在するものを明るみに出そうとして「個人を起源としての文学」を語っているのに、その部分をすっ飛ばして、野沢に都合のいいように「詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない」と言っている。

 野沢は大急ぎで藤井の書いたものを読み直し、「よいしょ」をしているのだが。ここでも、私は少なからず笑ってしまった。
 藤井は「文法」を取り上げている。藤井の用語をつかわずに、テキトウに端折って私が理解していることを書けば、日本語には英語や西洋の多くのことばと違って「助詞」のような特別なことばがある。それが日本語の文体に大きく影響している。その「文法」が大事である、と言っている。
 で、このことに対して野沢が真に賛同しているのだとしたら、いままで野沢が引用してきた多くの西洋の哲学者や詩人のことばは、いったい何を「説明」するためのものだったのか。西洋の哲学者、思想家は「言語」について語るとき、日本語特有の文法、たとえば「助詞」のことを問題にしていないだろう。その彼らの「理念」を持ってきて、それがどうして野沢が向き合っている日本語の詩、野沢自身の詩と関係があるのだ。
 藤井は藤井で「藤井語」を追求している。藤井語の文学、藤井語の文法。藤井語の、言語の運動。藤井起源の言語を創出しようとしている。そのために日本語の古典を読み、日本語の現代詩を書いている。他の活動もしている。
 「起源」にこだわるなら、そこから論を進めるべきだろう。

 

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吉田義昭「余命」

2024-01-14 21:47:27 | 詩(雑誌・同人誌)

吉田義昭「余命」(「みらいらん」13、2024年01月15日発行)

 吉田義昭「余命」は「正しい土地で死にたい」という一行で始まり、何度も「正しい」が繰り返される。

正しい死に方で死にたい
余命三ヶ月
なかなか日も暮れていかない
正しい黄昏の時間なのか
波打ち際を漂っていた彼が
波音に消され語りだす声
私に語りかけてはいない

 「正しい死に方で死にたい」の「正しい」は彼の言った「正しい」。一方、「正しい黄昏の時間なのか」は吉田が考えている「正しい」。それは、一致しているとは言えない。それは吉田が、彼の言った「正しい」を正確に受け止めていないからだ。「正しいって、いったい、どういうことなんだろう。何が正しいのだろう」という疑問が吉田には残っているからだ。
 では、いったい彼が言いたい「正しい」は何なのか。それは「正しい」としか言いようのない何かである。彼には「正しい」ということばしか思い浮かばないのだ。彼は「正しい」を納得している。しかし、それを別なことばで言いなおすことはできない。
 この「正しい」は、最後の最後で、少しだけ変化する。

余命三ヶ月
正しく決められた日に
私は愚かな友の弔辞を読むだろう

 「正しい」ではなく「正しく」。このときの「正しく」は誰が判断した「正しさ」なのか。私は「彼」が決めたのだと思って読んだ。「彼」が決めたのだが、その定義がはっきりとはわからないから、吉田は「正しく」と言ってしまう、書いてしまうのだ。
 このどうしようもない間違いの中に、人間が生きていることの切なさがある。私たちは他者を理解できない。しかし、理解できないけれど、近づき、いっしょに生きなければならない。
 別なことばで言えば、吉田のこの「正しい」を「正しく」と間違えてしまう間違え方の中に、吉田の「正直」がある。私は泣いてしまった。

 

 

 

 

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金野孝子「米研ぎするずと」

2024-01-11 16:52:44 | 詩(雑誌・同人誌)

金野孝子「米研ぎするずと」(「ミて」165、2023年12月31日発行)

 金野孝子「米研ぎするずと」におもしろいことば(言い回し/表現)が出てくる。

米研ぎ 始めっと
たまぁに 昔ァ来るもんなァ

 「昔が来る」。「ミて」発行者の新井高子も、この表現に注目したらしく、どういう感覚なのか電話で問い合わせところ

昔というのは、それを語ったときに自分の中におのずと入ってくるもので、他のお年寄りたちもこの言い方をしたのだという。

 私は、こういう感覚が大好きなのだが、この表現に出会った瞬間、フアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」の一節を思い出した。レテリア神父が、生まれたばかりのミゲルを父親のペドロのつれて言ったときのこと(昔)を思い出している。こういう文章が出てくる。

Tenía muy presente el día que se lo había llevado, apenas nacido.

 杉山晃・増田義郎の訳(岩波文庫)では、こうなっている。

 まだうまれたばかりのミゲルをペドロ・パラモのところへ連れて行った日が、ついこのあいだのことのように思い出された。

 「ついこのあいだのことのように」というのは「Tenía muy presente」にあたる。Tenía は「持っていた」(持ち続けていた)muy は「とても(強調)」presenteは「現在」である。直訳すれば、その日のことを「まるで現在のように(意識の中で)持ち続けていた」ということになろうか。これでは日本語としてなじまないので「ついこのあいだのことのように」と「現在」をと表現されているものを「過去」として言いなおしているのだが、何か、似ていないだろうか。
 「昔」が「いま」として自分の中に入ってくる。「昔」が「いま」のまま、ずーっと自分のなかに存在し続けている。
 違うけれど似ている。その感覚が交錯する瞬間。

 すべての文学(詩)は、ある国語で書かれるのだが、それは「ある国語」というよりも、ひとりひとりの「ことば」。「ひとり語」。たとえば、金野語、あるいは新井語、フアン・ルルフォ語。それを理解するには、自分のことばを捨て、「ことば」がどんなふうに動いているかを直につかみとるしかない。そのとき、何かしら「人間に共通する動き」が見えてくる。
 「昔が自分の中に入ってくる」「昔が昔にならず、いまのまま、自分の中に存在し続ける」。金野語にもルルフォ語にも「自分の中」ということばはないのだが、そして「入ってくる」と「存在し続ける(持ち続ける)」というのは違う動詞なのだが、人間の「肉体/意識」を媒介にすると、その瞬間に同じことが起きているのがわかる。
 私は簡単に「同じこと」と書いたが、これが「同じ」であることを「証明する/論理的に言いなおす」のは、とても面倒だ。こういうことは、「証明する/論理的に言いなおす」よりも、ぱっとつかみ取るに限る。「直観」には、そういうことができる。
 文学(詩)は、こういう直観を共有するための「装置」だろうなあ。

 これは詩の感想というものではないかもしれないが、私がきょう考えたこと。そういう意味では、ある種の「感想」であると思う。

 

 


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野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」

2023-10-23 16:12:06 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)

 野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」が、これまでの「言語暗喩論」とほんとうに連続している(関係している)のかどうか、私にはわからない。
 野沢の「言語暗喩論」を私なりに整理すると、こうなる。

 ひと(野沢は「詩人」と限定し、詩と詩人を特権化しているか、私は「ひと」と読んでおく)が、直接的に自己のいのちを生きるとき、ひとはいのちの本質(まだ名づけられていない深奥・根源)と合致している。それは既成のことば(表象/表現の仕方)ではあらわすことができないから、ただ暗喩的にのみ表現される。

 こう整理してみると、何のことはない、それはすでに誰それが言っていることのように思える。言い直せば、私はどこかで読んだこと(聞いたこと)がある誰それのことばを借りて野沢の言っていることを要約していることになる。誰それとあいまいに書くのは、私は野沢のように読書家ではないし、記憶力も悪いからだが、あ、こんな誰それの言ったことを、しかも私が知っているくらいだから多くのひと私より詳しく知っているだろうことをいくら書いてみたって、これじゃあ、つまらないね、というのが私の正直な感想である。

 絶対真理は説明されるべきものではなく、暗示させられるものである、とか、真理はことばによっては表現され得ない。ただ、いのちが直接的に交渉するものである、というようなことは、たぶん、あらゆる「古典」から引き出しうる「哲学」だと思うが、私はこういう「結論(要約)」にはまったく興味がない。「結論(要約)」をひとつずつ解体し、ことばが動き出す場に戻りたいという欲望だけがある。
 結論(論理の到達点)に関心がないから、私は平気で矛盾したことを書く。
 つまり、「同一」を否定し、「論理」から自由になることが私が求めている「ことばの運動」だからである。
 きのうだったか読んだ読売新聞に走り高跳びの選手のことが書いてあった。走り高跳びは、走ってきて、突然走るのをやめて上へジャンプする。跳ぶ前に走ることを「助走」というが、助走の力を借りた方が、その場で跳び上がるよりも高く跳べるというのはとてもおもしろくないだろうか。ひとの考えにも、何かそういうものがある。助走と同じ方向(たとえば、走り幅跳び)とは違った方向へ跳んでみせる。それもまた、ひとつの「運動」である。

 関係ないことを書いたかもしれない。
 書いているうちに、ほんとうは何を書きたかったのか、半分以上忘れてしまったが、別に「結論」を求めているわけではないので、私は気にしていない。
 野沢は、私が変な「いちゃもん」をつけていると思うだろうけれど、私は野沢と共同で仕事をしたいわけではないから、まあ、気にしない。

 今回の「いちゃもん」は、吉本の言う「文学作品」に対する野沢の把握の仕方である。野沢は「文学作品の運命は、生活のなかの運命とおなじに、大なり小なり物語をつくっていて、物語の起伏のなかにみつけだされるのだろうか?」という『言葉からの触手』のなか文を引用しながら、次のように書いている。

 ここで吉本がイメージしている〈文学作品〉とは詩ではなく、物語(小説)であることは明らかだ。(略)あたりまえのことがあたりまえのように生起するのが一般的であるとしても、長い目で見れば、人生のなかに思いがけない転機やら不可解な事件・事故が起こってドラマチックな変転を余儀なくされることなどある意味では平凡な事実に属することである。物語(小説)はそうした人生一般を縮図のように時間空間を圧縮し、あたかもそこに〈意味の流れ〉があるかのように仮設したものである。そこには偶然があるのではなく、偶然の表情をした必然が立ちはだかっているにすぎないのである。そこにあるのは〈無意識の連鎖〉ではない。たしかに小説家にとっては叙述のなかで次なる叙述を最終的に決定している審級はことばへの意識であるだろう。しかしそれは叙述の審級が決定されれば、しばらくは叙述のスタイルが持続される、いわばひとつの転轍機の役割を果たすのが偶然のように見える意識の作業なのであって、物語(小説)はそうした文脈のなかでいくつもの転轍機が導入されながら進展するほとんど意識的な産物なのである。
 ところが詩においてはこうした言語の散文性は本質的なものではない。ひとつのことば(あるいはことばのブロック)が偶然のような必然として生まれ、それが次にどういう形で展開されるべきなのかまったく見えないなかで、ことばは手探りの状態で次の言葉の到来が待たれている。

 うーん。
 次のことばの「到来を待つ」というのは、小説家もおなじだろう。どう展開するか、それがわかっている小説家はいないだろう。わからないことが起き、それと向き合ってことばを動かしていくとき、小説は動いていく。
 「小説」に限らず、どんなことば(思想)であれ、「結論」がわかっていて、それに向かってただことばを整えていくということはないだろう。だからこそ、とんでもなく長くなったり、途中で終わったりするのだが、それでは途中で終わったからといって、そこには何も書かれていないかというと、そうではない。
 野沢は「小説」を「物語」と同じものとしてとらえている。「小説(物語)」と書いたり「物語(小説)」と書いたりしているが、それと同じように、多くの詩の読者は詩のなかに「物語」を読んでいないか。詩のことばを詩人の生活と結びつけて、その「意味」を考えたりしていないか。詩のなかの登場人物と自分を重ね合わせて、何ごとかを考えたりしていないだろうか。哲学にしろ、ほかのあれやこれやの「ことば」にしろ、ひとは、そのことばに自分を重ね合わせないで、それを読むことはできないだろう。
 それにねえ。
 これは私だけかもしれないが、小説(散文)を読むとき、私は「物語(結論にいたるストーリー)」だけを読んでいるわけではないし、むしろ、そんなものには興味がない。(いわゆる「哲学」「思想」もおなじ。)たとえば近年でいちばん感心した小説に「コンビニ人間」があるが、私は主人公がどうなったか、結論がどうだったかなんか、ぜんぜん覚えていない。コンビニを中心として、ある世界を描くのに「音」を中心にして書いていたということしか覚えていないし、その「音を書く」ということに感心した。その「音を書く」ことが「小説(物語)」なのか「詩」なのか、あるいは「哲学」なのか「思想」なのか。もし、「コンビニ人間」を読み返すことがあったとして、そのときも私は「物語(の展開)」なんか気にしないで、ただ「音」を探して読むだろうなあ。私の聞いたことのない音があるか、聞いたことがある音ばっかりなのに、なぜ、私はその「ことば」に感心したのか、そのことを考えるだろうなあ。
 それにしてもね。
 「ここで吉本がイメージしている〈文学作品〉とは詩ではなく、物語(小説)であることは明らかだ。」と野沢は簡単に決定しているが、どうせなら「誰それの、どの小説」まで書いてほしかったなあ。そうでないと、私なんかは、いったいどういう小説を思い浮かべていいかわからない。
 詩を特権化したことばを読むたびに、私は、詩に限らず、ことばはみんな何らかのおなじ動きをしており、詩を特権化することへの疑問を感じるのである。

 

 


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