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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」

2025-03-30 23:59:47 | その他(音楽、小説etc)

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(「文藝春秋」2025年03月号)

 

 

 鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」は第百七十二回芥川賞受賞作。その書き出し。(ルビは基本的に省略。)

 先頃、私は義父・博把統一の付き添いで、ドイツ・バイエルン州はオーバーアマガウ村の受難劇を観て来た。統一が長年要職を歴任してきた日本ドイツ文学会から依頼を受けての取材旅行。といっても、間も無く定年を迎えようとする功労者に対し、ささやかな餞別といった意味合いも多分にある仕事で、PR誌「独言」に何頁でもいいから文章を書いて欲しい、との話であった。勿論、統一本人は至って真面目にこの仕事に取り組んでいたが、そうはいってもやはり久々のドイツ。(文藝春秋、P318)

 私は、「取材旅行」でつまずき、「ドイツ」で立ち上がれなくなった。読む気がしなくなった、という意味である。この「体言止め」が落ち着かない。あ、ここには隠された「意味」があるのだな、と暗示している。それが、とてもいやあな気持ちにさせるのである。
 で、それは何を意味しているかというと。
 「体言」は簡単にいうと「名詞」。これに対することばは「動詞」になるが、鈴木は「行為」ということばをつかっている。「体言」ということばは書かれていないから(あえて探し出せば「言葉」がそれにあたる。これは「行為=肉体」ということばとの対比によって浮かび上がってくる)、これは正確には鈴木の「意図」的な組み合わせではないかもしれないけれど、私は、ここにはふたつの概念の出会いがあり、それが小説を動かしていくのだなと直覚してしまった。名詞(言葉)と動詞(人間)の出会いによって、「現象」が表現される、それが小説である、と鈴木は「定義」しているのかもしれないけれど、それがあからさまに見えてくる、まだ読み始めたばかりなのに、それを直覚してしまった。
 で、つまずいた。つまずいた、とは、そういう意味である。
 最初に登場するのは「ジャム」と「サラダ」。ゲーテの世界を象徴するものとして、登場人物の統一(彼が主人公)が考え出した「比喩」である。ジャムは「素材」がとけてしまって、素材の区別がつかない。サラダは素材がジャムのようにはとけあっていない。まざっているだけだ。
 ジャムとサラダは「混淆と渾然」に言い換えられる。

 ジャム的世界とは、すべてが一緒くたに溶け合った状態、サラダ的世界とは、事物が個別の具象性を保ったままひとつの有機体をなしている状態(P334)

 を手がかりに考えれば、ジャム=混淆(肉体/行為/動詞)、サラダ=渾然(言葉/名詞)だろう。「肉体」にも各部位に手とか足とか目とか、名前がついているが、ある行為(運動)のとき、「肉体」はその全体が動く。切り離せない。肉体の各部位は、切り離せない(溶け合った)状態で動く。
 ここからさらに、「曼陀羅」とか、「万有」ということばも誘導されるのだが、それは一瞬で、ジャム・サラダとは、あまり交渉しない。
 ゲーテの「色彩論」、ゲーテは色(光の三原色)をまぜると「灰色」になると主張し、エジソンと対立したのだが、そのこととも関係するのだが、ヘブライ語が出てきて、こんなことばがつづいている。

ヘブライ語の『バーラー』という動詞--『創造する』と訳されている部分だけれど、無数の色の混じり合ったバケツの中から、一つずつ色を抽出するイメージだ(P377)

 ここでは色を「混ぜる」ではなく一色ずつを「抽出する」が「創造する」と言いなおされるのだが、このばあい「抽出された色(区別された色)」が「ことば(サラダ)」であり、区別を消してしまう(混ぜる)という行為が「ジャム」につながっていくだろう。

 手の込んだ概念対比の組み合わせなのだが。
 「色」が出てきたついでに思うことがある。
 鈴木は「混淆と渾然」ということばのほかに「混沌」ということばもつかっている。

最初の混沌はすべての色が混じり合った世界だった。(P377)

 この「混沌」ということばに誘い出されて、私は「無」ということばを思い出した。同時に「空」ということばも。
 「混沌」から「無」を思い出したのは、私は「混沌=「無(秩序がない、区別がない)」ととらえているからである。それに対して「空」とは「絶対(揺るぎない区別)」のことである。「絶対」は「混沌(無)」から「空」が作り出したもの、あるいは「無」は「空」を通ること生まれる。
 この小説で繰り広げられていることばの運動を「流用」して、私なりに言いなおせば、「混沌(無)から抽出(創造)された色は、空によって絶対になる(青なら青、赤なら赤、という『名』になる。『名』になる前は、すべてが混じり合った世界)」ということになる。
 ジャムとサラダ、混淆と渾然、無と空は「重なり合う」。ジャム=混淆(混沌)=無、サラダ=渾然=色。これにあわせる形で私の考えていることを書いておけば、無=肉体、空=ことば、なのだが、このことは、そう書くだけにとどめておく。ここでは説明しない。
 で、この「色」につられて思い出すのは、「混淆」「渾然」ではなく、なによりも「空」である。
 「空」は「色即是空」「空即是色」のように「色」と関係している。この場合の「色」はゲーテの「色彩論」でいう「色」ではないが(私は、それを「存在=名」と把握しているが)、「色」につられて思い出すのである。特に「一つずつ色を抽出する」という表現に誘われて。
 で、ざーっと読んだだけなので、はっきりとは言えないが、この鈴木の小説には、「無」と「空」が出てこない。日本人にとてもなじみのある(したがって、特別に定義などされない「概念」である「無」と「空」を省略したまま(すどおりしたまま)、「混淆(混沌)」「渾然」「曼陀羅」「万有」だけが出てきて、世界が閉じられてしまう。日本語の、日本人の小説を読んでいる気がしない。日本人の「肉体」をとおって生まれてきたことばを読んでいる気がしなくなってしまう。
 もし「無」「空」が出てきたら、私は「つまずき」から立ち直ることができたと思うのだが、「無」「空」が出てこないので、私は、倒れたままだ。なんだか、翻訳された「概念」だけを上手に並べて書かれた小説のように思えたのである。
 別なことばで言うと。
 私の知っている「人間(肉体)」が動かないのである。あるいは「私は知らないけれど、知らない人間が肉体として、突然、小説の中にあらわれてきた」と感じないのである。「概念」だけが動いている。「体言」と「動詞」を組み合わせているが、その運動から「人間(人間)」が飛び出してこない。別のことばで言えば、ある日誰かと会って話していて、「あ、この人(この肉体)は、鈴木の『ゲーテはすべてを言った』に出てきたひとそっくりだ」とは決して思わないだろうと感じたのである。この小説には「ストーリー」はあるが、「人間」がいない。これは、とても残念なことである。

 そういうことと関係があるのかどうかわからないが。
 「済補」と書いて「スマホ」と読ませたり、「もじもじ(ためらう)」を「文字文字」と表記する方法にも、いやなものを感じた。「概念」を組み合わせているだけ、という印象が残る。

 

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犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(2)

2025-03-12 14:22:17 | その他(音楽、小説etc)

犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(2)(読売新聞、2025年03月11日夕刊、西部版・4版)

 歌舞伎で何を見るか。歌舞伎をほとんどみたことがない私が、歌舞伎の批評を書き続けている犬丸の文章を批判しても無意味かもしれないが、少し補足しておく。
 きのう引用した文章の前に、次の文章がある。

白装束姿で切腹する菊之助の判官=写真右=が清冽で、客席も粛然と、咳ひとつしない。

 さて、この「清冽」「粛然」を引き出したのは「白装束」だけなのか。それでは芝居を見たことにならないだろう。
 写真を見ればわかることだが、菊之助の腰が少し浮いている。ここに芝居のポイントがある。切腹は座ってやるものだが、菊之助は腰を浮かせている。なぜか。ほんとうに力を入れるには正座のままでは無理がある。力を込めるには全身の力が必要である。そのために、自然と、腰が浮く。足に力を入れると正座したままではいられなくなるわけである。菊之助の「全身にこもる力」が「清冽/粛然」を引き出しているのである。
 そして、それが「全身の力」であるからこそ、刀を握った手は(指は)力がこもりすぎて、切腹が終わった後も刀から離れない。「全身の力」が指を硬直させている。それほどまでに「全身の力」がこもっている。
 だからこそ、松緑の由良之助は、その指をほどこうとして、撫でるのである。
 松緑の指、菊之助の指は、よほどいい席でないと、それが見えないだろう。しかし、正座から腰を浮かし、足に(全身に)力を込める動き、その肉体のありようは、劇場のどこからでも見えるだろう。菊之助は、それを見せている。そして、その動きに「清冽/粛然」が呼び寄せられるのである。だから緊張して、咳もしなくなる。役者の「肉体」の動きに観客の「肉体」が反応するのである。
 芝居(舞台)は、「頭」で見るものではなく、「肉体」で見るものである。観客の「肉体」が舞台に参加したとき、「劇場」は生きる。その体験を味わうために、観客は「劇場」へ行くのだと思う。その興奮がなければ劇場へ行く意味がない。

 指の動き(手の動き)で思い出すのは、団十郎の「俊寛」である。(だと、思う。はっきり覚えていないが、何やら写真を見た記憶がある。)俊寛が島を去っているひとを見送るシーン。崖の上。手を伸ばして、別れを告げている。このとき、団十郎は手で(指で)芝居をしているのだが、これが効果的なのは、崖の上、中空に存在するのは、彼の手(指)だけである。観客は、その手の動きに吸いよせられる。それを「見てしまう」。それしか「見えない」。観客の視線を集中させて、観客の目がはっきり手を見ることを知って、指で、手で演技する。それは松緑が菊之助の指に触れる演技とはまったく違うのである。
 団十郎は、手、指の動きで「全身」にこもる悲しみを表現する。菊之助は「腰(全身)」の動きで指にこもる力を表現する。その表現の差に、歌舞伎の(あるいは芝居の)醍醐味がある。
 (読売新聞の写真は、菊之助が腰を浮かしているシーンをとらえているが、トリミングがへたくそである。松緑の左半身をカットすれば、読者の視線は菊之助に集中する。菊之助の肉体の動きが鮮明になる。そうすれば、迫力が出るはずである。臨場感が出るはずである。)

 批評の末尾。これは前回触れなかったが、ここも傑作である。

「引揚げ」では、尾上菊五郎の服部逸郎が義士一同を馬上から見送り大団円。

 これも読売新聞には写真が載っているのだが、なんとも「締まり」がない。義士はばくぜんと座っているだけで「肉体」を感じさせない。彼らは芝居をしていない。衣装を着ているだけである。菊五郎にしたって、馬に乗っていなかったら義士に紛れ込んでしまいそうだ。(だから馬に乗っているのだろう。)つまり、まったく芝居をしていないのだ。
 写真で見る限り、馬子が「目立ってはいけない」と必死になって姿を隠そうとしているが、それが逆に目立ってしまう。それくらい奇妙である。
 このあたりの問題、さらには「台詞回し」についての言及もほしい。犬丸の今回の批評には「声」のことが何も書いてない。「声」は、その場で消えてしまう。その瞬間にしか存在しない。それについて言及できるのは、その場に立ち会った人間(観客)だけなのだが、台本(というのかどうか知らないが)と写真を見れば書けるような批評は批評とは言えないだろう。

 

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犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」

2025-03-11 16:33:37 | その他(音楽、小説etc)

犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(読売新聞、2025年03月11日夕刊、西部版・4版)

 私は歌舞伎をほとんど見たことがないし、その批評もほとんど読んだことがない。きょう紙面を開いたら、いつもの倍くらいのスペースで批評が載っていた。「仮名手本忠臣蔵」についての評である。私が、それを読んでみる気になったのは、ひとつはいつもより広いスペースをとっていることと、私が日本語を教えている生徒(アメリカ人)が日本文化に関心を持っていて、歌舞伎・人形浄瑠璃で「仮名手本忠臣蔵」を取り上げたことがあるからだ。いま彼はアメリカにいて、今度来日したとき、これを教材につかってみようと思ったからである。
 ちょっと前置きが長くなったが。
 犬丸治の書いている批評には「菊之助と松緑 主従の絆鮮明」という見出しがついている。これは、まあ、なんとも「適切」な見出しなのだが。そして、この歌舞伎のポイントをついたものなのだが。あ、これでは「仮名手本忠臣蔵」を勉強するときに役に立つ、アメリカ人相手に説明するのに役に立つとは思っても、ちょっと「味わう」という感じにはなれない。
 こんな批評で、歌舞伎ファン、あるいは歌舞伎を演じている役者は満足なのか。ハイライトの部分は、ここである。菊之助の判官が切腹する。そのときの菊之助、由良之助を演じる松緑の演技を、こう書いている。

判官に後事を託されて胸を叩き、死してなお切腹の刀を放そうとしない判官の指を優しく撫でるあたり、主従の思いがにじむ。ひとりの男が主家断絶という思いがけぬ事態に投げ込まれ、仇討ちの覚悟を固めていく姿が鮮明だ。

 もしこのシーンで、主従の絆が鮮明に伝わってこなかったとしたら、それは芝居ではないだろう。それは「台本」を読んでも伝わってくるものだろうし、なんといっても日本人にはなじみのあるストーリーなので、このシーンは主従の絆を象徴的に描いていることは観客のみんな(私のように歌舞伎をほとんど見たことがない人間)にもわかりきっていることである。犬丸が書いているような批評では「役者」が見えてこない。歌舞伎(芝居)はストーリーを確認するものではない。役者を見るものである。役者の肉体を見て、自分の肉体が反応するのを楽しむものである。
 「判官の指を優しく撫でる」と犬丸は見どころを的確にとらえているが、その「優しく撫でる」が、ほかの役者とどう違うのか。その「撫で方」を見て、犬丸の「肉体」がどう反応し、それが犬丸の「感情」をどう揺さぶったかを書かなければ批評とは言えないだろう。
 そこに「主従の思いがにじむ」のは、当たり前のことであって、もしそのシーンから「主従の思い」が感じられなかったとしたら、それは、よっぽど芝居が下手なのだ。「主従の思いがにじむ」という、見なくても書けるような批評ではなく、劇場でみなければわからない「主従の思い」を犬丸が、役者の「肉体」にかわって、犬丸自身のことばで書かないと批評とは言えない。
 「仇討ちの覚悟を固めていく姿が鮮明だ」というような、抽象的なことばではなく、「どんな具合に鮮明なのか」を具体的に書かないと、役者に対して失礼ではないのか。
 今回は菊之助と松緑が演じているが、これがほかの役者の場合でも、犬丸は「判官に後事を託されて胸を叩き、死してなお切腹の刀を放そうとしない判官の指を優しく撫でるあたり、主従の思いがにじむ。ひとりの男が主家断絶という思いがけぬ事態に投げ込まれ、仇討ちの覚悟を固めていく姿が鮮明だ」と書くことが可能なのではないか。役者が誰であっても、この部分は、そのまま当てはまるのではないか。
 言い換えると。
 歌舞伎の演技が「伝統」の繰り返し(なぞり)で成り立っているように、歌舞伎の批評も、何やらすでに語り尽くされたことばを繰り返し、なぞっているだけなのではないか。単に役者の名前を入れ換えて書いているだけにすぎないのではないか。
 そんな疑問を、私は、持ってしまった。犬丸の文章は「教科書」的で、どこにも犬丸の「個性(肉体)」を感じさせるものがない。

 
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芥川賞2作品

2024-08-15 21:36:23 | その他(音楽、小説etc)

芥川賞2作品(「文藝春秋」2024年09月号)

 「文藝春秋」2024年09月号に、第171回芥川賞受賞作が二篇掲載されている。朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」と松永K三蔵「バリ山行」。この二作品を選んだ選者は「天才」である。全員が「天才」である。よく二作品の「区別」がついたなあ。私には一人の作者が書いた、一篇の作品にしか見えない。
 少し引用してみる。

 富士山の形をした雲は呼吸に合わせて、大きくなり小さくなる。遠くから園児のはしゃぐ声も遮断機の音に変わり、すぐに何頭かの犬の吠え声になる。獣道はコンクリートの細い路地に変わり、それも次第にひび割れてガタガタになり、しばらくして土道に変わる。草が膝丈あたりから太ももあたりまで伸びだす頃には、土道は木の杭と細い丸太で土止めされた簡素な階段になった。

 斜面に貼りつき足を掛け、手掛かりを掴み懸垂して身体をぐっと持ち上げる。そうやって全身で攀じ登る。登山口から入って登山道を歩く、そんな当たりまえの登山とはまるで違って、アスレチックに近かった。急斜面が続くと息が上がる。ヘルメットから汗が流れ、アウターにも熱が籠もり、私は堪らずジッパーを下げた。

 最初が「サンショウウオの四十九日」、あとが「バリ山行」。では、つぎの引用は、どっち?

 階段を登りきると小さな広場に辿りつく。不思議な懐かしさのある広場だった。周囲は高い樹々で囲まれて薄暗い。ごつごつした岩で縁取られた緑の池、どうやって遊べばいいのかわからないペンキの剥げた遊具が設置されている。林の奥に電線のない捨てられた鉄塔が一本立っている。今は誰もいないが、地面の草が踏み固められていて、ここを訪れる存在はあるらしかった。

 ただ思い付きで引用したのだが、もっと丁寧に読み込めば、もっと「そっくり」の文体を提示できるだろう。ただ、そんな面倒までは、私は、したくない。(三番目の引用が、「サンショウウオ」なのか「バリ」なのか、あるいは私の「捏造」なのか、興味のある人は、調べてみてください。最初に断っておくけれど、私はときどき「捏造」を交えて自分のことばを動かすので、三番目の文章が見つからなかったとしても、大騒ぎしないでください。)
 私が言いたいのは。
 この三つの文章を読み、その筆者を即座に特定できる人がいるなら、そのひとは「天才」だと思う。選評を私は全部読んだわけではないが、選者の誰一人として二人の文体がそっくりであると指摘している人はいない。つまり、彼らには、ふたりの文体の区別がついているらしいのだ。
 それだけではなく、二つの作品が「対照的」だとさえ言っている選者がいる。(「対照的」ということばがつかわれていたかどうか、まあ、いい加減な私の印象なのだが。)
 どこが対照的?
 「サンショウウオ」が空想的な「結合双生児」を題材にし、「バリ」が建築会社の登山好きの人物を題材にしていることだろうか。前者は「空想的」、後者は「現実的」。でも、そんなものは単なる「ストーリー」であって、小説にとって、何の意味もない。
 「サンショウウオ」の双生児が、性格(精神)も肉体的特徴も違う双子が身体的に「結合」したものであるのに対し、「バリ」ははっきりは書いていないが性格(精神)も似通ったところのあるふたりが双子ではなく身体的にべつべつに存在するというだけのちがいである。どちらのばあいも、その似ているのか違っているのか、どうとでも言える「ふたり」が出合い、行動し、そこで何事かが起き、精神的に変化していく。まあ、こんなふうに「要約」してしまえば、どんな小説でも、たいていの場合、誰かが誰かと出合い、似た部分、違った部分を触れ合わせながら「人間として」変化していくことを描いているから、こうした「要約」は批評でもなんでもなく、ただの「後出しジャンケン」のようなものであるけれど。
 それにしてもなあ。
 「サンショウウオ」は「哲学的」な思考がときどき言語化されるのだけれど、それは全部「つまみ食い」。作者が、「私は、こういう哲学的な文章も読んでいる人間です」と宣伝するだけのもの。ほんとうに「哲学」を深めたいなら(小説のなかで展開したいなら)、誰彼かまわず「つまみ食い」をするのではなく、ひとりの思想家の文体と取り組み、苦闘すべきだろう。何も考えていないから、「つまみ食い」をして、「私はこんなに知っている」と宣伝し、何も考えていないことを隠蔽しようとしている。
 他方、「バリ」は、そういうことをせず、ひたすら「昔風純文学文体」を継承しようとしている。しかし、その継承にオリジナルが組み合わさっていないから、なんというか、そのすべてのことばが、やはり「つまみ食い言語」に見えてしまう。
 二作品とも、「つまみ食い」の寄せ集めでできた「盛り合わせ」にすぎないのである。

 筒井康隆や志賀直哉が書いたら、ふたつの作品とも原稿用紙15枚、どんなに長くても30枚で終わってしまうだろう。ただただ長くて、一行として、ぜひこの一行を引用して感想を書きたいという「ことば」がない。

 本が売れないと生きていけない、と選者が感じているのかもしれない。読者を増やすためなら何でもしよう、ということなのかもしれない。でも、非個性的な「つまみ食い大賞」のような小説を「選ぶ」時間があるのなら、いっそ、「古典」をとりあげ、その紹介文でも書いた方がいいのではないだろうか。「古典」をとおして「ことば」にめざめた読者なら、きっと「選者の書いているすばらしい小説」に目を向けるだろう。「コウショウウオ」や「バリ」を読んで、小説はおもしろい、こういうおもしろい小説を選ぶ選者の作品は絶対に読まなければ……と思う読者はひとりもいないだろう。私なんかは、こんな作品を選んでいる作家の作品なんか、もう絶対に読まない、と思うだけである。


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Calros Ruiz Zafonと村上春樹

2024-05-19 21:54:10 | その他(音楽、小説etc)

 Calros Ruiz Zafonはスペインの作家(故人)。「La Sombra del Viento」は世界的なベストセラーになった。多くのひとが「おもしろい」というので、読み始めた。私のスペイン語は、NHKラジオ講座入門編のレベルなのだが、どうせなら分厚い本を読んでみようと思ったのだ。
 最初は辞書を引き引き読んでいたのだが、なんだか面倒くさくなった。辞書を引かなくても、おおよそのストーリーはわかるかもしれない、と思ったのである。
 たとえば33ページには、主人公ダニエルとクララという女性の会話があるのだが、そこで彼女は、こんなことを言う。

Nunca te fies de nadie, Daniel, especialmente de la gente a la que admiras.
(だれも信じちゃだめよ、ダニエル。特にあなたが崇拝しているひとを信じちゃだめよ。)

 で、この部分を読んだ瞬間、私は、あ、ダニエルはクララに裏切られるのだと思った。そして、そのとおりのことが後で起きた。そこから、私は辞書を引くのをやめた。この作家は、読者が想像する通りのことを書いている。そこには新しい人間は出てこない。なぜ、このひとはこんなことを考えるのか、こんなことを言うのか、という人間は出てこない。まるで村上春樹の小説だなあ、と思ってしまったのだ。「意味」が最初から最後まで、とてもわかりやすく「配置」されている。ストーリーが、すべて「意味」になっている。それも予想された通りの「意味」である。
 小説にかぎらないが、おもしろい作品というのは、その作品のなかで何かが起きたとき、なぜ、そんなことが起きるのか。なぜ、ひとはそんなことをするか。わからない。しかし、起きてしまった後、ああ、そうなんだなあと納得する。そうするしかないなあ、と気がつく。
 それが、この「風の影」にはない。
 私は、わからない部分(ほとんどだが)を読みとばしているから、その読みとばした部分にこの作家の「魅力」が隠れているのかもしれないが、どうも、そんな気がしない。細部がわからなくてもかまわない、という感じの小説なのである。

 私はときどき外国人に日本語を教えている。そのとき、村上春樹の小説は、とてもつかいやすい。外国人にとってわからない語彙があったとしても、その語彙はかならず別のことばで説明されている。そして、読んだことばを裏切らない形でのみ、小説のストーリーは展開する。なぜ、そういうことが起きるのか、という疑問が起きない展開になっている。(別なことばで言えば、伏線がていねいにていねいに張りめぐらされている。)その結果、途中で何かを読み落としたとしても、作品を読み通すのに、たいして問題にならないのである。あそこを読み落とすと、作品の展開(意味)がわからなくなるということはないのである。なんといっても伏線がていねいだから、ひとつふたつ見落としてもなんとなく読み進めることができるし、結末にも納得できる。
 なるほどなあ、瞬間的なベストセラーというものは、こういうものなんだなあ、と思う。
 まあ、読んだとは言えないような語学力で読んでいるので、間違っているかもしれないけれど。
 この「風の影」に比べると、Juan Rulfoの「ペドロ・パラモ」は刺戟的だった。私は辞書を引き引き二回読んだが、読み足りない。また、読みたい、と思っている。会話なんかは、非常にぶっきらぼうで、こんな会話に何か意味があるのかと思うような内容なのだが、その短いことばひとつひとつが、登場人物の「人格」そのものなので、活字を読んでいるというよりも、登場人物と向き合っている感じがする。言っていることは、クララと違って「無意味」なのに、その「意味」にならないところが逆に強烈なのである。「意味」を無視して、人間が動いてる、その動きそのものが見えてくる。
 先に引用したクララのことばは、「意味」だけが生き残って動いていくのであって、クララは動いていかない。いや、動いていくのだが、「意味」のままに動いていく。
 最後まで読めば違った感想になるかもしれないが、そんなことを考えた。

 

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九段理江「東京都同情塔」

2024-02-10 21:52:53 | その他(音楽、小説etc)

 

九段理江「東京都同情塔」(文藝春秋、2024年03月号)

 九段理江「東京都同情塔」は第百七十回芥川賞受賞作。AIの文章が活用されているとか。そのことへの「好奇心」で読んだのだが。読んで、時間の無駄だった。
 この作品は「ことば」が重要なテーマになっているのだが、そのテーマは「ストーリー」として動いているだけで、哲学の深みに降りていかない。

名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。

 という一行がある(306ページ)。小説のタイトルにもなっている「東京都同情塔」という名称に関する考えを述べた部分だ。登場人物のひとり、女の建築家の口をから出ている。九段が思いついた一行なのか、借り物の一行なのか、わからない。わからないが、私は「借り物」と判断している。「現実はいつも言葉から始まる」というのが九段の、あるいは登場人物の考えていることなら、もっと真剣にその論を展開するだろう。つまり、持続的に、そのことばを展開しつづけるだろう。しかし、その重要な問題は、単に「ストーリー展開」のための「道具」になってしまっている。
 それにしても。
 この小説には主要な人物が四人出てくる。人間は三人だが、ことばをあやつるAIがいる。私は「ことば=人間(肉体)」と考えているので四人と「定義」しておく。問題は、その四人の「ことば」が「同質」なのであある。別人に感じられない。女、若い男の日本人、アメリカ人(だったかな?)とAI。これが「目の前」にいたら、すぐにこれが女、これが若い男、これがアメリカ人、これがAIとわかる。それが小説では、「主語」を探さないと、だれの「ことば」なのかわからない。(AIのことばは、ゴシック体で印刷されているので、それは「見かけ」でわかるといえばわかるのだが。)
 「現実はいつも言葉から始まる」というのなら、女である現実、若い男である現実、アメリカ人である現実、AIである現実は、そのことばとして、小説の中に明確に存在しないといけない。「選評」を丁寧に読んだわけではないが(つまり、読み落としているのかもしれないが)、選者のだれひとりとしてこのことを問題にしていない。「ことば」を商売にしている作家が、こんな肝心なことを問題にしないのは、どういうわけなのだろうか。
 あらゆる賞が商売のためである。芥川賞は本を売るための「道具」である、ということを理解していても、ちょっと、これはひどい。ひどすぎる。AIを小説に持ち込んだ、それをアピールすれば売れる、ということで選ばれたのだろう。もちろん、だれもそんなことを露骨に書いてはいないが。そして、この作戦は見事に的中しているのである。ミーハーの私は、その作戦に乗って、文藝春秋を買ってしまった。
 前回の作品も、かなり「商売気」の強いもので、ミーハーの私はセックス描写の覗き見的な感じにつられて買ってしまったが、読んでもまったく性的興奮を感じなかった。まるで、「セックス説明」のような味気ないものだった。この「東京都同情塔」にもセックスらしきものは出てくるのだが、これもまたぜんぜん興奮しない。これって、結局、人間の肉体が描けていないということ。肉体のない人間なんていないはずなのに、作者の九段も、選考委員の作家たちも、そのことに気がついていない。
 いっそう、芥川賞の選考をAIに任せてしまえばいいのではないか。「AIが選ぶ芥川賞」の方が、もっと本は売れるだろう。

 

 

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小池昌代『くたかけ』(2)

2023-02-18 15:31:26 | その他(音楽、小説etc)

 

小池昌代『くたかけ』(2)(鳥影社、2023年01月26日発行)

 「葡萄の房」は、どう形を変えるのか。「7 ダルマさんが転んだ」に、唐突に新宿駅近くの歩道橋で「首吊り自殺」という形であらわれる。この自殺者は、どうなったか。いろいろ描写されたあとの、その最後。

 消防隊員が梯子をかけ、長く公衆の目に晒された死者に、ようやく青いビニールの覆いをかけた。その下から、どこにでもあるようなカジュアルシューズを履いた、二本の足が垂れて出ていた。

 この死者は、いったいどうなったのか。当然、道路に降ろされたあと救急車に乗せられたのだろうが、そういう動き、上にあるものは必ず下に降ろされることを、「二本の足が垂れて出ていた」で強調し、小説は、後半へ動き出す。それを加速させるのが、母の変化なのだが。
 もうひとつ、この「7章」には、「葡萄の房」の変形がある。
 これは「自殺者」に比べると地味なので見落としてしまうが、こちらの方が大事だろう。佐知の少女時代の思い出。植物園へ両親といっしょに行った。植物園に、母の家(実家)にある萩があり、そこから思い出が語られる。

植物園に、この萩の作る、見事な花トンネルがあり、父と母に連れられて潜った記憶がある。(略)三人家族で撮った写真があって、だからそれは、家族以外のだれかが撮ってくれたのだと思うが、両親二人に挟まれ、少女の佐知は、怒ったように不機嫌そうな顔でカメラを睨みつけていた。

 ここが、この小説の「伏線」のハイライトである。「葡萄」は「萩のトンネル」に変わったのであり、「自殺者」はこの「伏線」を見えにくくする「余分な補助線」だったのである。もちろん「死」を暗示する要素ではあるのだが。
 「萩」だけでは、「葡萄の房」(吊り下がったもの)にはならないが、「萩のトンネル」となれば事情が違う。萩の花は上にあり、そこから花びらが降ってくる。
 そして何よりも重要なのは、ここに「家族以外のだれか」がとても自然な形で、わざわざ書かれていることである。
 この小説では、小磯という男(家族以外のだれか)が、自然な形というか、拒否できない形で家族に侵入してくる(ある意味では、安部公房「友達」の逆バージョン)のだが、その「拒否できない形」というのが、たとえば、記念写真を撮っている家族連れに「三人一緒のところを撮ってあげましょうか」というような形の接近なのである。拒むことはできない。しかし、少女だった主人公は「怒ったように不機嫌そうな顔で」、その親切な人を見ている。
 これが、今後の小説の「展開」になっていく。
 このことを強調するかのように、先の文章には

だからそれは、

 という、非常になまなましい小池自身の「声」が書かれている。この「だからそれは」、書く必要のない「キーワード」であり、無意識に書かずにはいられなかったことばである。(この「だからそれは」は、また別な意味でのこの小説のテーマでもある。何かが起きた。その何かをどうして防げなかったのか。「だからそれは」という弁明スタイルが、この小説の時間を動かしているのだから。しかし、今回は、そのことには触れず「葡萄の房」の変化を中心に書いておく。)
 そして、「葡萄の房」は「自殺者」という異質なものをくぐり抜けたあと、「萩の花」をさっと駆け抜け、「声」に変わる。「声」は、ことばでもある。「ことば」と言い換えると、「小磯」が家族にどう影響しているかがわかりやすくなる。
 「萩の花」から「声」への変化は、(私は見落としているかもしれないが)、最初は別なものとして書かれる。
 母との同居を娘、麦に打診する。

 --いいじゃない。
 麦が言った。その声はどこか、上の方から降ってきた。

 「上の方から降ってきた」。上にあるものが、吊り下げままそこにあるのではなく、
下に「降ってくる」。「降ってくる」には、そういう「意味合い」がある。
 この「降ってくる」(降る)という動詞は、「12 鶏小屋」では、テニスコート(クレーコート)を見るシーンで、こんな具合につかわれる。

〈確か、この色、和名では「たいしゃいろ」というのだわ〉
 いつ、どこで知ったのかはまるでわからない。どんな字をあてるのかもわからないのに、そのとき佐知に、たいしゃいろという音だけが、確信のようにまっすぐに降ってきた。

 「声(ことば)」はさらに「音」になる。そこには「字(漢字=意味)」はない。それが「降ってくる」。しかも、それは「確信」である。「確信」というのは、その人の「内部」にあるはずのものだが、それが上から「降ってくる」。
 小磯は家族以外の人間である。しかし、彼のことばが「確信」として家族を動かしていく。その運動を、「葡萄の房」→(首吊り自殺)→「萩の花のトンネル」という名詞の変化のあと、「降る」という動詞を中心にして、「声(ことば)」→「音」→「確信」へと変化させながら、作品世界を粘着性(だからそれは、という「説明/説得力」)のあるものにしていく。(最初に登場する「キッチンテーブル」も、巧みにつかわれている。)

 短編小説において「小道具」がどんな具合につかわれているかを中心に書いてみた。私は「ストーリー」には興味がない。「文体」には興味がある。「思想」は「結末」として要約できるものではない。「文体」が「思想」なのである。

 


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小池昌代『くたかけ』

2023-02-14 11:07:28 | その他(音楽、小説etc)

 

小池昌代『くたかけ』(鳥影社、2023年01月26日発行)

 小池昌代『くたかけ』は、15の章で構成された小説。「1 麦と佐知」を読んだだけだが、感想を書いておく。

 海の方角に面した窓が、一斉にがたがたと激しく鳴った
「わっ、地震?」麦が驚き、佐知はとっさに、キッチンに吊り下がっているペンダントライトを確かめた。少しの揺れもなく、静かである。

 強風のために窓が音を立てたのだが、なんだかわけのわからない「キッチンに吊り下がっているペンダントライト」が、しばらくしてこういう描写のなかによみがえってくる。

 総じてぶらさがっているモノには、落下の予兆が呼ぶ緊張感があって、その危うさが、空間に独特の美しさを広げる。床と天井とのあいだ、不安定な中空にとどまるものは、葡萄の房にしろ、室内のライトにしろ、佐知にとっては見飽きない魅力がある。今はおとなく吊り下がってはいても、いつ吊り紐が切れ、電球がテーブルを直撃し、食卓の秩序が破壊して家族がばらばらになっても、ふしぎはない。(略)佐知はそこに自分の心までもが吊り下げられているように感じ、何も起きていない日常を、束の間の均衡にふるえる奇跡のように思った。

 ああ、うまいなあ、と思った。「落下」「予兆」「緊張感」「秩序」「破壊」「均衡」「奇跡」という抽象的なことばが、今後の展開を予想させる。読まずにこんなことを書いていいのかどうか悩まないでもないが、きっと、ここに書かれている抽象的なことばが日常の変化をとおして展開するのだろう。
 意地悪く言うと、ここまで読めば、あとは「斜め読み」してもストーリーは把握できる。そういう小説だろう。
 しかし、私があえて、そういう「予想」を書くのは、小説は(あるいは文学はと言い直してもいいが)、ストーリーを読むものではないと考えているからだ。
 いま引用した文章で私が注目するのは、実は、今後を予想させる抽象的なことばの凝縮度ではない。「葡萄の房」である。突然、葡萄が出てくる。そして、そのことが全体を豊かにしている。「葡萄の房にしろ」という一文は、なくても「意味」は通じる。だから、「葡萄」の一節は、ある意味では「余剰」なのだが、その「余剰」が世界を押し開いていく。
 「葡萄の房」がどんなふうに形をかえてあらわれるのか。それを楽しみに読むという方法があると思う。

 

 

 

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井戸川射子「この世の喜びよ」

2023-02-11 14:00:45 | その他(音楽、小説etc)

井戸川射子「この世の喜びよ」(「文藝春秋」2023年03月号)

 井戸川射子「この世の喜びよ」は第168回芥川賞受賞作。井戸川は詩人。中原中也賞も受賞している。
 この小説は気持ちが悪い。ひたすら気持ちが悪い。ことばが、気持ちが悪い。(引用のページ数は「文藝春秋」)

 あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。(292ページ)

 書き出しの一行だが、この一行で、私はもう気持ち悪くなってしまった。何が気持ちが悪いか。「迂回」というか、「補助線」というか、次のことば(必要なことば)を後出しする「方法」が気持ちが悪い。「あなた」が「柚子」を選んでいることは、そのあとすぐにわかるのだが、その「すぐにわかる」ことをわざと隠して遠回りすることばの運動が気持ちが悪い。
 言い直すと、そこには「私は何でも知っています」という「視点」を感じるからである。そして、知っているだけではなく、あとでわかるように教えます、という視点を感じるからである。
 そして、その対象は「私」にも向けられる。
 昔の私小説なら「私」を主人公にして、私が知ったこと(体験したこと、あるいは考えたこと)をことばにするのだが(あるいは、「私」を第三者に託して書くのだが)、井戸川はそうではなく、「私はあなたのことを知っている、どんなふうに生きてきたか、どう生きているか、これからどう生きていくか全部知っている。それをこれから少しずつ教えて上げる」という具合に書いていくのだ。
 この小説にはいろいろな人物が出てくる。喪服売り場の店員である「あなた」と、「あなた」が働いているショッピングセンターにいりびたっている「少女」の交流を中心に描かれる。「あなた」は「少女」のことを知らないはずだが、何もかも知っている。「あなたは」仕事だから、毎日、働いている。だから、

だから最近少女が一人、夕方から暗くなるまでここにある席にへばりつくように、長い時間座っていることにあなたは気づいていた。(298ページ)

 「気づいた」ではなく「気づいていた」。この文体がこの小説の特徴である。「運動」よりも「状態」として、世界を描く。もちろん、ふつうの「運動」も書かれる。書き出しの文章も「探した」で終わっているが、これは、

 「私があなたを見たとき」あなたは摘まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探し「てい」た。

 であり、

「私があなたを見たとき」あなたは摘まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探し「てい」たのに「気づいていた」。

 である。
 どの文章も「私があなたを(あるいはだれかを)見たとき、あなたが(あるいはだれかが)何かをしている(していた)ことに気づいていた」と読むことができる。そして、それは「あなたは私が気づいていることを知らないでしょ? これから何が起きるか知っていることを知らないでしょ?」なのである。「私(井戸川)」がそれを教えて上げる。
 私が、この文体、この視線に気持ち悪い恐怖を感じるのはなぜか。たぶん、「学校」を思い出すからだ。井戸川が教師であることを、私は「略歴」で初めて知ったのだが、ああ、学校の先生が、生徒に授業をするときの「文体」なのだ。
 あなたたち(読者、生徒)は、「答え」を知らないでしょ? 私は知っています。でも、「答え」を言ってしまうとつまらないので、少しずつヒントを出していきます。そのヒントに従って進めば「答え」に自然にたどり着きます、と言われている感じ。
 なぜ、こんなことを思うかというと。
 この小説には「ハプニング」がない。緩急がない。どの部分も、同じスピード(予め予定された授業計画)のように進んでいくからだ。そして、それが井戸川を困らせるということがないからだ。
 ある小学校の算数の先生がおもしろい話をしてくれた。四則計算。そのことを復習するために、「いままで、いろんな計算を習ったね。計算にはどんなものがある?」と質問した。「足し算、引き算」などの答えを期待してのことだった。しかし、最初の児童が「暗算」と答えたのだ。私は、笑い出してしまったが、先生は困っただろうなあ。暗算も計算。間違いじゃない。どうやって、ここから「四則計算」に戻る?
 そういう、「予想外」が起きない。ただ、学校の授業がそうであるように、「予定内」ですべてが、整然と進んでいく。たぶん「暗算」と自慢げに叫ぶ児童のような存在を排除したまま。
 で。
 小説とは関係がないのかもしれないが、「文藝春秋」には、井戸川へのインタビューが載っている。これが、また、なんというか気持ち悪い。国語の授業で「羅生門」を取り上げたときのことを話している。

「猿のような老婆」とか、動物の比喩がめっちゃ出てくるので、生徒に「なんでだろうね」と問いかけて、私のことを動物に喩えてもらいます。(略)ひと通り答えを聞いてから、「人間様が一番上だと思っているわけじゃないけど、動物に喩えられるのは、やっぱりあんまり嬉しくないね。それが多いのは、荒れ果てた京都で人間らしい生活ができていない、人間らしい心を忘れているという状況を描写したかったのかもね」と。言い切らずに、「そういう可能性があるね」で止めて、「次行きます」みたいな感じです(笑い)。(231、232ページ)

 これ、ほんとうに、こういう授業しているのかなあ。「言い切らずに」と井戸川は言っているが、もし、井戸川が「羅生門に、動物の比喩が多く出てくるが、その理由を述べよ」という問題が出たら、よほど不注意な生徒でない限り、「荒れ果てた京都で人間らしい生活ができていない、人間らしい心を忘れているという状況を描写したかった」と書くだろう。
 それと同じことが、小説のなかで起きている。井戸川は「言い切っていない(誘導していない)」つもりかもしれないが、私は「強制的に誘導されている」と感じる。そして、同時に、この「強制的誘導」に井戸川は気づいていないだろうなあ、と思う。「気持ちが悪い」のは、そういうことだ。授業で言ったことを忘れて、「私の教えた生徒は、みんな優秀な回答をする」と思っているかもしれない。「気持ち悪い」ではなく「ぞっとする」。
 生徒は先生の求めている「回答」を書けば、それが「正解」になることを知っている。知っている生徒と知っている先生が「結託」し、「いい教育(正しい羅生門の解釈の仕方)」を自慢するというのが、いまの「学校教育」の大きな問題だと思うが、その「学校教育」が芥川賞にまで波及してきたということかな? ぱっと読んだだけだが、選考委員で井戸川の「文体の問題」を、そんなふうに指摘したひとはいないようだ。どちらかというと、高く評価されている。「気持ち悪い」と感じたひともいるらしいが、その「気持ち悪さ」は肯定の評価だった。

 


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中井久夫『記憶の肖像』

2022-12-25 22:44:14 | その他(音楽、小説etc)

中井久夫『記憶の肖像』(みすず書房、2019年10月21日発行)

 思い立って中井久夫を読み返している。みすずから「中井久夫集」が出ているが、あえて、単行本を開いた。私が持っている本のカバー写真は、裏焼きである。中井がドイツで撮ったものだが、車が左側通行している。中井自身が、わざわざ手紙で写真が裏焼きだと教えてくれた。黙っていれば、たぶん、私は気がつかなかっただろう。中井はきっと知っていることを黙ったままにしておくことができない人間なのだと思う。誰に対しても非常に誠実なのだと思う。
 そして、それはときどき奇妙な「はにかみ」のような形であらわれるときがある。
 「N氏の手紙」というエッセイがある。西脇順三郎と手紙をやりとりしたときのことを書いている。その最後の部分。

 私の友人に、未見の人の写真も一たび目に触れれば記憶に残るという映像記憶能力を持っていた男がいる。精神医学で「エイデティカー」といわれる種類の人である。彼が酒場でN氏に会った。ものおじしない彼は、相手の名前を確かめ、それはいつもの通り当たっていて、その夜は汲み交わす仲となった。氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞かれ、今どうしているか、と尋ねられたそうである。書簡往復の七年後である。

 私が医学部に行ったむねをいうと、氏は「そりゃいかん」と叫ばれたそうである。その意味は分からない。文学を捨てたという意味でないことは明らかである。往復書簡当時の私は法学部の学生だったから。氏は、むしろ医学と文学の二足わらじでもはこうとする心得違いを思われたのではないだろうか。私には、そのつもりはなかったのだが--。

 そのまま読めば、中井の友人が西脇と酒場で会った。西脇が中井の消息を聞いた。友人は医学の道を歩んでいると答えた。それに対して西脇は「そりゃいかん」と叫んだ。それを聞いて、中井はあれこれ思った。そのあれこれは正確には書いていない。
 私は、この「友人」を中井自身だと思って読んだ。中井は西脇の写真を見たことがあるだろう。だから西脇だと気づいて話しかけた。西脇は書簡をやりとりしたが、たぶん、中井の顔は知らない。しかし、書簡のことは覚えているだろう。それで、いまはどうしているのかと聞いたのだろう。中井は、医学の道を進んでいると答えた。
 中井が西脇と書簡をやりとりしたのは十八歳のとき。それから七年後、二十五歳である。私は医学部のシステムを理解しているわけではないが、中井が卒業した直後であろう。その当時、中井がどれくらい「文学」に向き合っていたか、私は知らないが、この「そりゃゃいかん」という叫びを聞いて、文学の道も捨てなかったのではないか、と想像している。
 中井が「エイデティカー」であるかどうかは知らないが、視力の記憶力が強いということは、中井の描いた絵を見ればわかる。私は数枚を見ただけだが、デッサンがとてもしっかりしている。文学と同じように素人の域をはるかに超えている。中井は、その目の記憶力ゆえに、西脇とすぐにわかって話しかけたのだろう。
 なぜ、こんなことを考えるかというと。
 「氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞」いたというが、書簡を通じて中井が知らせた「情報(経歴)」というのは、十八歳で大学を休学中くらいだろう。法学部の学生だと名乗ったかどうかもわからない。だから「友人の経歴」を聞いて(友人が何を語ったにしろ)、中井を知っているかとは質問しないだろう。質問できないだろう。京都大学の学生は、何人もいる。中井は法学部から医学部に針路を変更しているから、法学部時代の友人がいたとしても、中井とずっと親しいと想像することはむずかしい。その友人が西脇と会った。友人が中井の話を出さないかぎり、西脇は中井のことを聞かないだろう。
 西脇は、中井に「今はどうしている」と直接聞いたのだ。もちろん、そのことを知っているのは中井だけである。どこにも、証拠はない。だからこそ、そのことを中井は「虚構」にして語っているのである。
 だいたい、中井は、他人のことを「私の友人」というようなあいまいなことばでは表現しない。「匿名」のままであるにしろ、職業や肩書を書くことで、それがどういう人物か想像できるように書く。しかし、この文章では「私の友人」としか書いていない。いや、映像記憶力の強い男と書かれているが、これでは「その友人」を直接知っている人以外には伝わらないだろう。そして、そのことは逆に言えば、中井を知っている人なら、この「友人」とは中井自身のことであるとわかるように書いているということだ。
 この少し手の込んだ文章に、私は、なんとなく中井の「はにかみ」を感じるのである。それは西脇を「N氏」と書いていることからもわかる。注釈で「N氏」が西脇であると書いているけれど、注釈で書くくらいなら、最初から西脇と書けばいいのである。そう書かないのは、やはり中井の「はにかみ」だろう。
 中井は、私のような人間にもとても親切に接してくれた人だけれど、それは中井の「はにかみ」が影響しているかもしれない。「友人」の性格を「ものおじしない」と中井は書いているが、誰かに対して「ノー」ということ、拒絶することに対しては、とても「ものおじ」のする人だったのだと思う。他人を拒むことが苦手な人だったのだと思う。

 注・西脇は1982年に死んでいる。中井がこの文章を書いたのは、1985年である。だれかが、西脇に対して、中井久夫に会ったことがあるかと確認しようにも確認できない。そういうこともあって、中井はあえて「友人」という形で、西脇との交流を補足しているのだろう。
 末尾の「私には、そのつもりはなかったのだが」にも、「はにかみ」がある。医学と文学の二足のわらじをはくつもりはなかったが、いま思うと二足のわらじ状態だ認識している。しかし、そこには後悔はない。中井は何も拒まないと同時に、自分のしていることを後悔しない人間だ。常に、前へ進む。しなやかに変化し続けて、進む。

 

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閻連科『太陽が死んだ日』

2022-10-12 10:01:45 | その他(音楽、小説etc)

 

閻連科『太陽が死んだ日』(泉京鹿・谷川毅=訳)(河出書房新社、2022年09月30日発行)

 閻連科『太陽が死んだ日』は、夢のなかで夢をみるような小説である。それは「さっきの夢から覚めていた瞬間は、夢の中の一節にすぎなかったように。」(31ページ)と書かれている。夢から覚めたということさえも夢なのだ。
 こういう小説では、ストーリーのことを書いても、私には意味はないように思う。夢なのだから、ストーリーはあっても、それは「便宜上」のものにすぎない。何かを語るには、どうしてもストーリーが必要というだけのことであり、重要なのはストーリーではなく、「語り方」だと思うからだ。「語り方」そのものが「夢」なのだ。
 私は中国語が読めない。私が読んだのは、泉京鹿、谷川毅というふたりの訳なので、ふたりのことばの関係もよくわからない。これまで私が読んできた閻連科の小説は谷川毅の訳。今回、泉京鹿がくわわった理由はわからない。わからないことだらけなのだが、気付いたことを書いておく。
 この小説には、いくつかの「文体」がからみあっている。「前の方(前書き?)」にすでに特徴があらわれているが、「巻一」から。

 今度はどこから話そうか。
 今度はここから話そう。                    (15ページ)
 
 短い、同じことばが繰り返される。この書き出しは、まったく同じではないが、ほとんど同じ。しかも、それは「改行」されて繰り返される。

 どこの家もみんな夢遊するようになった。
 誰も彼もが夢遊するようになった。
 天下も世界もみんなが夢遊するようになった。          (23ページ)

 これは、「書き方(語り方)」として不経済だと思う。つまり。たぶん、こういう「作文」を学校の課題で書いたら、「もっと簡単に、繰り返されることばは省略したら」と注意されるだろう。でも、閻連科は整理しない。閻連科が書いているのは「ストーリー」ではないからだ。では、何を書いているのか。
 ことばは、加速する。
 そのことを書いている。「家」から「誰も彼も」と家の外へ飛び出し、それが「天下/世界」へと加速しながら拡大する。加速しないことには拡大できない。
 それは23ページへ戻って、次の部分。書き出しの二行の、すぐそのあとにつづく。

 それは太陰暦の六月、太陽暦では七月の三伏天、旧暦六月六日の龍袍節、天気は大地の骨が折れて割けるほどに暑かった。大地の皮膚の産毛がすっかり灰になるほどに。枝は枯れ、葉は萎びてしまった。果実は落ち、花は散ってしまった。毛虫は空中でぶらぶらしているうちに、ちょっとずつミイラの粉末になってしまった。

 「暑い」描写が積み重ねられる。ひとつに焦点が絞られるわけではない。加速し、移動しながら、拡大する。描写は、何よりもことばの運動なのだ。そこには、「静止」ということがない。
 こんな美しい描写もある。

この年の小麦はいい出来だった。麦の粒は大豆のように膨らんでいる。粒が割けて中から小麦粉が出てきてしまうほどに膨らんでいる。こぼれ落ちる。黄金の麦の穂が路面に落ち、穂も粒も人を躓かせた。                    (17ページ)

 どこまでつづいていくのだ、と私は笑い出してしまう。少し、ガルシア・マルケスを思い出したりする。書き始めると、ことばが加速し、新しい世界を開いていく。ことばを動かすまでは存在しなかった世界が、ことばのスピードにひきずられて、歪み、そこから隠れていた世界が姿をあらわす感じだ。
 夢とは、まさに、こういう感じだ。なんでもないものが、動き始めると、止まらない。次々に変形していく。加速しすぎたために、もう、元の世界には戻れない。新しい世界を突ききっていくしかない。

 だからみんな急いで刈り入れる。
 我先にと麦を刈り入れ、我先にと脱穀する。           (17ページ)

 こういう加速には、ことばが重複することが大事なのだ。重複があるから、同じ「ストーリー」だとわかる。重複しなければ、わけのわからない世界になってしまう。閻連科にとって、重複は加速するスピードにとっての必然であり、重複はそこに「ことばの肉体」があることの証明でもある。人間の「肉体」は成長して、変化しても、同一の人間であることの「証拠」のようなものだが、閻連科の重複は、それに似ている。
 この加速は、あるときは「句読点」をなくしてしまう。主人公(?)の少年を、盗賊が次の襲撃場所を案内させるために連れていくシーンだ。(217、218、219ページ)長いので、そのはじまりの部分。

おまえのお父さんはおじさんを憎んでておまえのお父さんは善良で優しくて邵大成がおまえのおじさんだからどうしようもなくてだからいつも嫁さんに死人の出た家の花輪には紙の花を多めに付けさせたしおまえのお母さんに死装束の布はいいものを使い死装束の針と糸は密に施して死装束の刺繍がきれいにしっかりできるようにさせた(略)

 ここでも重複することばが「しりとり」のように「ストーリー」をつなげさせている。この部分は、いわば、この小説の「ストーリーの過去」である。他人が見た過去というのは、こんなふうに切れ目なくつづいているのかもしれない。それに対して、「いま」は、そういう切れ目を切断しながら、加速し、乱雑に、爆発、暴走していくものなのだろう。「いま」は過去ではなく「未来」というまだ決まっていないもののなかへ動いていく。

やってきたのは未来と過去の時間と歴史だった。         (287ページ)

 「いま」は書いている「ことば」の運動のなかにしかない。「過去」にひきもどされないためには、「未来」をつかむためには、ただことばの運動のなかで、ことばそのものになって、動くしかないのである。
 この小説には、「閻連科」が出てくるし、ときどきゴシック体の文字もあり、そのゴシック体の部分には、

この様子は、閻連科の小説の『日月年』のどこかのようだった。  (330ページ)

 という「補足」がついている。ふいにあらわれる「過去」をとりこみながら、それを突き破っていく。それは、「未来」へ進めば進むほど、そこに「過去」が噴出してくるという「歴史」そのもののようにもみえる。「未来」へ進むことは「過去」へたどりつくことでもある。だから、閻連科の世界は「神話」に似ている。「寓話」ではなく、現代の「神話」なのだと、思う。
 最初に引用した「暑い」描写からわかるように、それは「無意味」なくらい「人情」というものから遠い。人間ではなく、「神」が見ているのだ。この非情さ(同情しない)潔さは、「神」としか言いようがない。この小説は、ある意味では、とても残酷な世界(殺戮)を描いているのだが、それが「ギリシャ悲劇」のように感動を引き起こすのは、それが「人情」ではなく「非情」の世界だからだろう。

 ノーベル賞がことばの運動に影響を与えるわけではないが、今年、閻連科がノーベル賞をとれなかったのは、残念だ。ミラン・クンデラにも受賞してほしいなあ、と私は思っている。多くの人が、小説を読むきっかけになる。

 

 

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三木清「人生論ノート」を読む(怒について)

2022-10-02 20:26:33 | その他(音楽、小説etc)

きょうは「怒について」を読んだ。

まず、どんな時に怒るか、という質問をしてウォーミングアップ。
「自分が否定されたとき」という返答があった。
それから「怒り」に似たことばに何があるか、反対のことばに何がある。
似たことばに「恨み」「憎しみ」、反対のことばに「仲直り」「愛」など。

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スペイン旅行記、発売中。

2022-09-21 00:16:10 | その他(音楽、小説etc)


スペイン旅行記、オンデマンドで発売中だけれど、先着10名に送料込み3000円で頒布いたします。
ご希望の方はメール(yachisyuso@gmail.com)でお知らせください。
フェイスブックで知り合った13人の芸術家に会って、アトリエを訪問、展覧会だけでは見ることのできない作品を見てきました。
日本語とスペイン語(間違いだらけだけれど)で書いています。


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ここで注文すると、税込み3300円+送料がかかります。
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高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」

2022-08-30 19:58:14 | その他(音楽、小説etc)

高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(文藝春秋、2022年09月号)

 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」は第167回芥川賞受賞作。
 読み始めてわりとすぐ近くに、次の文章が出てくる。(287ページ)

 藤さんがにやにやしながら声をかけてくる。二谷は曖昧に、と自分では思っている速度で頷き返すが、藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって、曖昧に濁した感じはつたわっていないらしく、「だよなー」とさらに強めの声を出され、二谷は今度こそまっすぐに強く頷かされた。

 あ、うまないなあ。いいなあ、と思わず声を上げる。二人の人間がいて、自分の意図がつたわらない。そして、押し切られる。その変化がおもしろい。特に「藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって」という言い直し(?)というか、客観化が鋭い。
 これは楽しみだなあ。
 ところが、289ページの、藤が芦川の飲みかけのペットボトルからお茶を飲み、それを芦川につげる。芦川は、そのペットボトルに口をつけ、感想を言い合うという部分の「しつこさ」で私は、なんともいえない恐怖に襲われた。
 この作者は「しつこい」だけなんだ。
 そして、その「しつこさ」は、あることがらを一点から書くというのではなく、最初に引用した部分に特徴があらわれているが、第二の視点をからめて書くことにある。一人称で書かず、常に別の視点での表現をからめてくる。
 これは、おもしろいと言えばおもしろいといえばおもしろいのかもしれないが、私はぎょっとする。二つの視点が、なんというか「共犯」というよりも、「いじめ」のように相手の反応をみながら変わっていく。まあ、新しさがそこにあると言えるのかもしれないけれど、「いじめ」を主導するのでもなく、けれども加担する感覚といえばいいのか。ついていけない。
 自分がどう見られているかだけを気にして動いている。
 だから「おいしいごはん」が一回も出てこない。「料理」は、食べている人に対して「おいしいでしょう」と確認を求めてこない。確認を求めるのは人間である。「私のことをどう思っている?」ということを確かめるために「食べる」というのは、私の感覚から言えば気が狂っている。
 どの「食べる」シーンも、ただただ「わっ、まずそう」という感じしかない。なぜか。あらゆる食べ物が「人事(いじめ)」の調味料で、こってりしている。食べずに、いじめるなら、いじめることに徹底しろよ。これでは「食べる」のはだれかを「いじめる」ため、ということになってしまう。
 なにが「おいしいごはんが食べられますように」だ。

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砂川文次「ブラックボックス」

2022-02-13 13:27:42 | その他(音楽、小説etc)

砂川文次「ブラックボックス」(「文藝春秋」2022年3月号)

 砂川文次「ブラックボックス」(第166回芥川賞受賞作)は、たいへん読みやすい文体である。こう始まる。

 歩行者用の信号が数十メートル先で明滅を始める。それに気が付いてか、ビニール傘を差した何人かの勤め人が急ぎ足で横断歩道を駆けていく。佐久間亮介は、ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる。(254ページ)

 この几帳面な文体(意識)が動いている人間が、几帳面さゆえに他人とうまく「調子」を合わせられない。息抜きができない。この感じを「佐久間」から「サクマ」へと主人公の呼称を替えて、この小説は展開する。「佐久間」にして置いたままの方が、私は、効果的だと思うが、佐川は「サクマ」を選んでいる。
 で、正確さ(他人の文体を許さない神経質さ)のために、サクマは突発的に暴力をふるう。テキトウに自分を解放する方法を知らないので、ため込まれていた何かが衝動的に発散を求めるということだろう。
 これは、「頭」では理解できるが、私の「肉体」は理解できない。なんとういか、つまらないなあ、と感じるのである。書き出し部分の正確な文体の読みやすさに、つまらないなあ、と感じるのに似ている。で、そのつまらなさは、そっくりそのまま「衝動的な暴力」の描写で、さらに感じてしまうのだ。あ、こんなふうに暴力をふるってみたい、と感じないのだ。

 痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものでああとは耐えられる。(317ページ)

 これは直接的な「暴力描写」ではないが、その「暴力」をささえる「認識」の部分を書いたものだが、「客観視」ということばがあるが、そのことばが示唆するように、ここには「主観」がない。「肉体」と「痛み」の「肉体」の側からの「変化」がない。
 サクマはこのとき警官に右腕の動きを押さえ込まれているのだけれど、いったい右腕のどの部分が熱く、どの部分が痺れているのかぜんぜんわからない。したがって、それがどう分解されたのかもわからない。「肉体」に伝わってこない。
 読み返せば、書き出しの「ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる」も、なにやら「客観的」な描写であり、「肉体」の内部の動きが書かれていない。つまり、「肉体」を排除することによって、「外形的」に「肉体」をなぞっている。だから、読みやすい。
 これは、かなり退屈である。
 唯一、サクマの「肉体」を感じたのは、刑務所の作業場で台車が壊れたときの描写である。サクマはふたつのボルトを見ながら「ピッチが違います」という。(339ページ)

「これ、どっちもM12ですけど、ピッチが違います」
「はあ?」
「ねじ山の距離のことです」
「お前、見ただけでわかるのか」
「なんとなく」

 ここにはサクマの「肉体」がはっきりと書かれている。その「肉体」は「私の肉体」がそのまま「追認」できるものではないが、「職人」というのは、そういうふつうのひとがもたない「肉体の智慧」をもっている。それがさりげなく書かれていて、とてもいい。
 この「肉体にたたきこまれた感覚/正確な認識となって動く肉体」というものが、もっと必要なのだ。とくに「暴力描写」には。

 気が付くと中年の方は地面に転がって、鼻を両手で抑えて大声で騒いでいた。指の間から血が滴っている。自分の額から流れてくるそれは、自分のものとそいつのものとが混じり合っていた。でもなぜか他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした。(315ページ)

 この描写、とくに「他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした」には「肉体感覚」が描かれていておもしろいのだが。
 でも、この部分は逆に、どうしてこの部分だけ魅力的なのだろうか、という疑問も呼び起こす。「自分の額から流れてくるそれは」「自分のそれは」と繰り返される「それは」ということばのつかい方が、全体の文章のなかで浮いて見える。

考えているうちに、あっという間にそれらは雑念に変じ、想起と交わってどろどろに溶け合う。(289ページ)

 「想起」ということばは何度かつかわれるが、この「想起」ということばは、私にはかなり唐突に感じられる。そして、ここにも「それらは」ということばがある。
 でも、前回の芥川賞受賞作、石沢麻衣「貝に続く場所にて」よりは、まともな文章という気がした。
 

 

 

 

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