詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

九段理江「東京都同情塔」

2024-02-10 21:52:53 | その他(音楽、小説etc)

 

九段理江「東京都同情塔」(文藝春秋、2024年03月号)

 九段理江「東京都同情塔」は第百七十回芥川賞受賞作。AIの文章が活用されているとか。そのことへの「好奇心」で読んだのだが。読んで、時間の無駄だった。
 この作品は「ことば」が重要なテーマになっているのだが、そのテーマは「ストーリー」として動いているだけで、哲学の深みに降りていかない。

名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。

 という一行がある(306ページ)。小説のタイトルにもなっている「東京都同情塔」という名称に関する考えを述べた部分だ。登場人物のひとり、女の建築家の口をから出ている。九段が思いついた一行なのか、借り物の一行なのか、わからない。わからないが、私は「借り物」と判断している。「現実はいつも言葉から始まる」というのが九段の、あるいは登場人物の考えていることなら、もっと真剣にその論を展開するだろう。つまり、持続的に、そのことばを展開しつづけるだろう。しかし、その重要な問題は、単に「ストーリー展開」のための「道具」になってしまっている。
 それにしても。
 この小説には主要な人物が四人出てくる。人間は三人だが、ことばをあやつるAIがいる。私は「ことば=人間(肉体)」と考えているので四人と「定義」しておく。問題は、その四人の「ことば」が「同質」なのであある。別人に感じられない。女、若い男の日本人、アメリカ人(だったかな?)とAI。これが「目の前」にいたら、すぐにこれが女、これが若い男、これがアメリカ人、これがAIとわかる。それが小説では、「主語」を探さないと、だれの「ことば」なのかわからない。(AIのことばは、ゴシック体で印刷されているので、それは「見かけ」でわかるといえばわかるのだが。)
 「現実はいつも言葉から始まる」というのなら、女である現実、若い男である現実、アメリカ人である現実、AIである現実は、そのことばとして、小説の中に明確に存在しないといけない。「選評」を丁寧に読んだわけではないが(つまり、読み落としているのかもしれないが)、選者のだれひとりとしてこのことを問題にしていない。「ことば」を商売にしている作家が、こんな肝心なことを問題にしないのは、どういうわけなのだろうか。
 あらゆる賞が商売のためである。芥川賞は本を売るための「道具」である、ということを理解していても、ちょっと、これはひどい。ひどすぎる。AIを小説に持ち込んだ、それをアピールすれば売れる、ということで選ばれたのだろう。もちろん、だれもそんなことを露骨に書いてはいないが。そして、この作戦は見事に的中しているのである。ミーハーの私は、その作戦に乗って、文藝春秋を買ってしまった。
 前回の作品も、かなり「商売気」の強いもので、ミーハーの私はセックス描写の覗き見的な感じにつられて買ってしまったが、読んでもまったく性的興奮を感じなかった。まるで、「セックス説明」のような味気ないものだった。この「東京都同情塔」にもセックスらしきものは出てくるのだが、これもまたぜんぜん興奮しない。これって、結局、人間の肉体が描けていないということ。肉体のない人間なんていないはずなのに、作者の九段も、選考委員の作家たちも、そのことに気がついていない。
 いっそう、芥川賞の選考をAIに任せてしまえばいいのではないか。「AIが選ぶ芥川賞」の方が、もっと本は売れるだろう。

 

 

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小池昌代『くたかけ』(2)

2023-02-18 15:31:26 | その他(音楽、小説etc)

 

小池昌代『くたかけ』(2)(鳥影社、2023年01月26日発行)

 「葡萄の房」は、どう形を変えるのか。「7 ダルマさんが転んだ」に、唐突に新宿駅近くの歩道橋で「首吊り自殺」という形であらわれる。この自殺者は、どうなったか。いろいろ描写されたあとの、その最後。

 消防隊員が梯子をかけ、長く公衆の目に晒された死者に、ようやく青いビニールの覆いをかけた。その下から、どこにでもあるようなカジュアルシューズを履いた、二本の足が垂れて出ていた。

 この死者は、いったいどうなったのか。当然、道路に降ろされたあと救急車に乗せられたのだろうが、そういう動き、上にあるものは必ず下に降ろされることを、「二本の足が垂れて出ていた」で強調し、小説は、後半へ動き出す。それを加速させるのが、母の変化なのだが。
 もうひとつ、この「7章」には、「葡萄の房」の変形がある。
 これは「自殺者」に比べると地味なので見落としてしまうが、こちらの方が大事だろう。佐知の少女時代の思い出。植物園へ両親といっしょに行った。植物園に、母の家(実家)にある萩があり、そこから思い出が語られる。

植物園に、この萩の作る、見事な花トンネルがあり、父と母に連れられて潜った記憶がある。(略)三人家族で撮った写真があって、だからそれは、家族以外のだれかが撮ってくれたのだと思うが、両親二人に挟まれ、少女の佐知は、怒ったように不機嫌そうな顔でカメラを睨みつけていた。

 ここが、この小説の「伏線」のハイライトである。「葡萄」は「萩のトンネル」に変わったのであり、「自殺者」はこの「伏線」を見えにくくする「余分な補助線」だったのである。もちろん「死」を暗示する要素ではあるのだが。
 「萩」だけでは、「葡萄の房」(吊り下がったもの)にはならないが、「萩のトンネル」となれば事情が違う。萩の花は上にあり、そこから花びらが降ってくる。
 そして何よりも重要なのは、ここに「家族以外のだれか」がとても自然な形で、わざわざ書かれていることである。
 この小説では、小磯という男(家族以外のだれか)が、自然な形というか、拒否できない形で家族に侵入してくる(ある意味では、安部公房「友達」の逆バージョン)のだが、その「拒否できない形」というのが、たとえば、記念写真を撮っている家族連れに「三人一緒のところを撮ってあげましょうか」というような形の接近なのである。拒むことはできない。しかし、少女だった主人公は「怒ったように不機嫌そうな顔で」、その親切な人を見ている。
 これが、今後の小説の「展開」になっていく。
 このことを強調するかのように、先の文章には

だからそれは、

 という、非常になまなましい小池自身の「声」が書かれている。この「だからそれは」、書く必要のない「キーワード」であり、無意識に書かずにはいられなかったことばである。(この「だからそれは」は、また別な意味でのこの小説のテーマでもある。何かが起きた。その何かをどうして防げなかったのか。「だからそれは」という弁明スタイルが、この小説の時間を動かしているのだから。しかし、今回は、そのことには触れず「葡萄の房」の変化を中心に書いておく。)
 そして、「葡萄の房」は「自殺者」という異質なものをくぐり抜けたあと、「萩の花」をさっと駆け抜け、「声」に変わる。「声」は、ことばでもある。「ことば」と言い換えると、「小磯」が家族にどう影響しているかがわかりやすくなる。
 「萩の花」から「声」への変化は、(私は見落としているかもしれないが)、最初は別なものとして書かれる。
 母との同居を娘、麦に打診する。

 --いいじゃない。
 麦が言った。その声はどこか、上の方から降ってきた。

 「上の方から降ってきた」。上にあるものが、吊り下げままそこにあるのではなく、
下に「降ってくる」。「降ってくる」には、そういう「意味合い」がある。
 この「降ってくる」(降る)という動詞は、「12 鶏小屋」では、テニスコート(クレーコート)を見るシーンで、こんな具合につかわれる。

〈確か、この色、和名では「たいしゃいろ」というのだわ〉
 いつ、どこで知ったのかはまるでわからない。どんな字をあてるのかもわからないのに、そのとき佐知に、たいしゃいろという音だけが、確信のようにまっすぐに降ってきた。

 「声(ことば)」はさらに「音」になる。そこには「字(漢字=意味)」はない。それが「降ってくる」。しかも、それは「確信」である。「確信」というのは、その人の「内部」にあるはずのものだが、それが上から「降ってくる」。
 小磯は家族以外の人間である。しかし、彼のことばが「確信」として家族を動かしていく。その運動を、「葡萄の房」→(首吊り自殺)→「萩の花のトンネル」という名詞の変化のあと、「降る」という動詞を中心にして、「声(ことば)」→「音」→「確信」へと変化させながら、作品世界を粘着性(だからそれは、という「説明/説得力」)のあるものにしていく。(最初に登場する「キッチンテーブル」も、巧みにつかわれている。)

 短編小説において「小道具」がどんな具合につかわれているかを中心に書いてみた。私は「ストーリー」には興味がない。「文体」には興味がある。「思想」は「結末」として要約できるものではない。「文体」が「思想」なのである。

 


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小池昌代『くたかけ』

2023-02-14 11:07:28 | その他(音楽、小説etc)

 

小池昌代『くたかけ』(鳥影社、2023年01月26日発行)

 小池昌代『くたかけ』は、15の章で構成された小説。「1 麦と佐知」を読んだだけだが、感想を書いておく。

 海の方角に面した窓が、一斉にがたがたと激しく鳴った
「わっ、地震?」麦が驚き、佐知はとっさに、キッチンに吊り下がっているペンダントライトを確かめた。少しの揺れもなく、静かである。

 強風のために窓が音を立てたのだが、なんだかわけのわからない「キッチンに吊り下がっているペンダントライト」が、しばらくしてこういう描写のなかによみがえってくる。

 総じてぶらさがっているモノには、落下の予兆が呼ぶ緊張感があって、その危うさが、空間に独特の美しさを広げる。床と天井とのあいだ、不安定な中空にとどまるものは、葡萄の房にしろ、室内のライトにしろ、佐知にとっては見飽きない魅力がある。今はおとなく吊り下がってはいても、いつ吊り紐が切れ、電球がテーブルを直撃し、食卓の秩序が破壊して家族がばらばらになっても、ふしぎはない。(略)佐知はそこに自分の心までもが吊り下げられているように感じ、何も起きていない日常を、束の間の均衡にふるえる奇跡のように思った。

 ああ、うまいなあ、と思った。「落下」「予兆」「緊張感」「秩序」「破壊」「均衡」「奇跡」という抽象的なことばが、今後の展開を予想させる。読まずにこんなことを書いていいのかどうか悩まないでもないが、きっと、ここに書かれている抽象的なことばが日常の変化をとおして展開するのだろう。
 意地悪く言うと、ここまで読めば、あとは「斜め読み」してもストーリーは把握できる。そういう小説だろう。
 しかし、私があえて、そういう「予想」を書くのは、小説は(あるいは文学はと言い直してもいいが)、ストーリーを読むものではないと考えているからだ。
 いま引用した文章で私が注目するのは、実は、今後を予想させる抽象的なことばの凝縮度ではない。「葡萄の房」である。突然、葡萄が出てくる。そして、そのことが全体を豊かにしている。「葡萄の房にしろ」という一文は、なくても「意味」は通じる。だから、「葡萄」の一節は、ある意味では「余剰」なのだが、その「余剰」が世界を押し開いていく。
 「葡萄の房」がどんなふうに形をかえてあらわれるのか。それを楽しみに読むという方法があると思う。

 

 

 

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井戸川射子「この世の喜びよ」

2023-02-11 14:00:45 | その他(音楽、小説etc)

井戸川射子「この世の喜びよ」(「文藝春秋」2023年03月号)

 井戸川射子「この世の喜びよ」は第168回芥川賞受賞作。井戸川は詩人。中原中也賞も受賞している。
 この小説は気持ちが悪い。ひたすら気持ちが悪い。ことばが、気持ちが悪い。(引用のページ数は「文藝春秋」)

 あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。(292ページ)

 書き出しの一行だが、この一行で、私はもう気持ち悪くなってしまった。何が気持ちが悪いか。「迂回」というか、「補助線」というか、次のことば(必要なことば)を後出しする「方法」が気持ちが悪い。「あなた」が「柚子」を選んでいることは、そのあとすぐにわかるのだが、その「すぐにわかる」ことをわざと隠して遠回りすることばの運動が気持ちが悪い。
 言い直すと、そこには「私は何でも知っています」という「視点」を感じるからである。そして、知っているだけではなく、あとでわかるように教えます、という視点を感じるからである。
 そして、その対象は「私」にも向けられる。
 昔の私小説なら「私」を主人公にして、私が知ったこと(体験したこと、あるいは考えたこと)をことばにするのだが(あるいは、「私」を第三者に託して書くのだが)、井戸川はそうではなく、「私はあなたのことを知っている、どんなふうに生きてきたか、どう生きているか、これからどう生きていくか全部知っている。それをこれから少しずつ教えて上げる」という具合に書いていくのだ。
 この小説にはいろいろな人物が出てくる。喪服売り場の店員である「あなた」と、「あなた」が働いているショッピングセンターにいりびたっている「少女」の交流を中心に描かれる。「あなた」は「少女」のことを知らないはずだが、何もかも知っている。「あなたは」仕事だから、毎日、働いている。だから、

だから最近少女が一人、夕方から暗くなるまでここにある席にへばりつくように、長い時間座っていることにあなたは気づいていた。(298ページ)

 「気づいた」ではなく「気づいていた」。この文体がこの小説の特徴である。「運動」よりも「状態」として、世界を描く。もちろん、ふつうの「運動」も書かれる。書き出しの文章も「探した」で終わっているが、これは、

 「私があなたを見たとき」あなたは摘まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探し「てい」た。

 であり、

「私があなたを見たとき」あなたは摘まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探し「てい」たのに「気づいていた」。

 である。
 どの文章も「私があなたを(あるいはだれかを)見たとき、あなたが(あるいはだれかが)何かをしている(していた)ことに気づいていた」と読むことができる。そして、それは「あなたは私が気づいていることを知らないでしょ? これから何が起きるか知っていることを知らないでしょ?」なのである。「私(井戸川)」がそれを教えて上げる。
 私が、この文体、この視線に気持ち悪い恐怖を感じるのはなぜか。たぶん、「学校」を思い出すからだ。井戸川が教師であることを、私は「略歴」で初めて知ったのだが、ああ、学校の先生が、生徒に授業をするときの「文体」なのだ。
 あなたたち(読者、生徒)は、「答え」を知らないでしょ? 私は知っています。でも、「答え」を言ってしまうとつまらないので、少しずつヒントを出していきます。そのヒントに従って進めば「答え」に自然にたどり着きます、と言われている感じ。
 なぜ、こんなことを思うかというと。
 この小説には「ハプニング」がない。緩急がない。どの部分も、同じスピード(予め予定された授業計画)のように進んでいくからだ。そして、それが井戸川を困らせるということがないからだ。
 ある小学校の算数の先生がおもしろい話をしてくれた。四則計算。そのことを復習するために、「いままで、いろんな計算を習ったね。計算にはどんなものがある?」と質問した。「足し算、引き算」などの答えを期待してのことだった。しかし、最初の児童が「暗算」と答えたのだ。私は、笑い出してしまったが、先生は困っただろうなあ。暗算も計算。間違いじゃない。どうやって、ここから「四則計算」に戻る?
 そういう、「予想外」が起きない。ただ、学校の授業がそうであるように、「予定内」ですべてが、整然と進んでいく。たぶん「暗算」と自慢げに叫ぶ児童のような存在を排除したまま。
 で。
 小説とは関係がないのかもしれないが、「文藝春秋」には、井戸川へのインタビューが載っている。これが、また、なんというか気持ち悪い。国語の授業で「羅生門」を取り上げたときのことを話している。

「猿のような老婆」とか、動物の比喩がめっちゃ出てくるので、生徒に「なんでだろうね」と問いかけて、私のことを動物に喩えてもらいます。(略)ひと通り答えを聞いてから、「人間様が一番上だと思っているわけじゃないけど、動物に喩えられるのは、やっぱりあんまり嬉しくないね。それが多いのは、荒れ果てた京都で人間らしい生活ができていない、人間らしい心を忘れているという状況を描写したかったのかもね」と。言い切らずに、「そういう可能性があるね」で止めて、「次行きます」みたいな感じです(笑い)。(231、232ページ)

 これ、ほんとうに、こういう授業しているのかなあ。「言い切らずに」と井戸川は言っているが、もし、井戸川が「羅生門に、動物の比喩が多く出てくるが、その理由を述べよ」という問題が出たら、よほど不注意な生徒でない限り、「荒れ果てた京都で人間らしい生活ができていない、人間らしい心を忘れているという状況を描写したかった」と書くだろう。
 それと同じことが、小説のなかで起きている。井戸川は「言い切っていない(誘導していない)」つもりかもしれないが、私は「強制的に誘導されている」と感じる。そして、同時に、この「強制的誘導」に井戸川は気づいていないだろうなあ、と思う。「気持ちが悪い」のは、そういうことだ。授業で言ったことを忘れて、「私の教えた生徒は、みんな優秀な回答をする」と思っているかもしれない。「気持ち悪い」ではなく「ぞっとする」。
 生徒は先生の求めている「回答」を書けば、それが「正解」になることを知っている。知っている生徒と知っている先生が「結託」し、「いい教育(正しい羅生門の解釈の仕方)」を自慢するというのが、いまの「学校教育」の大きな問題だと思うが、その「学校教育」が芥川賞にまで波及してきたということかな? ぱっと読んだだけだが、選考委員で井戸川の「文体の問題」を、そんなふうに指摘したひとはいないようだ。どちらかというと、高く評価されている。「気持ち悪い」と感じたひともいるらしいが、その「気持ち悪さ」は肯定の評価だった。

 


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中井久夫『記憶の肖像』

2022-12-25 22:44:14 | その他(音楽、小説etc)

中井久夫『記憶の肖像』(みすず書房、2019年10月21日発行)

 思い立って中井久夫を読み返している。みすずから「中井久夫集」が出ているが、あえて、単行本を開いた。私が持っている本のカバー写真は、裏焼きである。中井がドイツで撮ったものだが、車が左側通行している。中井自身が、わざわざ手紙で写真が裏焼きだと教えてくれた。黙っていれば、たぶん、私は気がつかなかっただろう。中井はきっと知っていることを黙ったままにしておくことができない人間なのだと思う。誰に対しても非常に誠実なのだと思う。
 そして、それはときどき奇妙な「はにかみ」のような形であらわれるときがある。
 「N氏の手紙」というエッセイがある。西脇順三郎と手紙をやりとりしたときのことを書いている。その最後の部分。

 私の友人に、未見の人の写真も一たび目に触れれば記憶に残るという映像記憶能力を持っていた男がいる。精神医学で「エイデティカー」といわれる種類の人である。彼が酒場でN氏に会った。ものおじしない彼は、相手の名前を確かめ、それはいつもの通り当たっていて、その夜は汲み交わす仲となった。氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞かれ、今どうしているか、と尋ねられたそうである。書簡往復の七年後である。

 私が医学部に行ったむねをいうと、氏は「そりゃいかん」と叫ばれたそうである。その意味は分からない。文学を捨てたという意味でないことは明らかである。往復書簡当時の私は法学部の学生だったから。氏は、むしろ医学と文学の二足わらじでもはこうとする心得違いを思われたのではないだろうか。私には、そのつもりはなかったのだが--。

 そのまま読めば、中井の友人が西脇と酒場で会った。西脇が中井の消息を聞いた。友人は医学の道を歩んでいると答えた。それに対して西脇は「そりゃいかん」と叫んだ。それを聞いて、中井はあれこれ思った。そのあれこれは正確には書いていない。
 私は、この「友人」を中井自身だと思って読んだ。中井は西脇の写真を見たことがあるだろう。だから西脇だと気づいて話しかけた。西脇は書簡をやりとりしたが、たぶん、中井の顔は知らない。しかし、書簡のことは覚えているだろう。それで、いまはどうしているのかと聞いたのだろう。中井は、医学の道を進んでいると答えた。
 中井が西脇と書簡をやりとりしたのは十八歳のとき。それから七年後、二十五歳である。私は医学部のシステムを理解しているわけではないが、中井が卒業した直後であろう。その当時、中井がどれくらい「文学」に向き合っていたか、私は知らないが、この「そりゃゃいかん」という叫びを聞いて、文学の道も捨てなかったのではないか、と想像している。
 中井が「エイデティカー」であるかどうかは知らないが、視力の記憶力が強いということは、中井の描いた絵を見ればわかる。私は数枚を見ただけだが、デッサンがとてもしっかりしている。文学と同じように素人の域をはるかに超えている。中井は、その目の記憶力ゆえに、西脇とすぐにわかって話しかけたのだろう。
 なぜ、こんなことを考えるかというと。
 「氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞」いたというが、書簡を通じて中井が知らせた「情報(経歴)」というのは、十八歳で大学を休学中くらいだろう。法学部の学生だと名乗ったかどうかもわからない。だから「友人の経歴」を聞いて(友人が何を語ったにしろ)、中井を知っているかとは質問しないだろう。質問できないだろう。京都大学の学生は、何人もいる。中井は法学部から医学部に針路を変更しているから、法学部時代の友人がいたとしても、中井とずっと親しいと想像することはむずかしい。その友人が西脇と会った。友人が中井の話を出さないかぎり、西脇は中井のことを聞かないだろう。
 西脇は、中井に「今はどうしている」と直接聞いたのだ。もちろん、そのことを知っているのは中井だけである。どこにも、証拠はない。だからこそ、そのことを中井は「虚構」にして語っているのである。
 だいたい、中井は、他人のことを「私の友人」というようなあいまいなことばでは表現しない。「匿名」のままであるにしろ、職業や肩書を書くことで、それがどういう人物か想像できるように書く。しかし、この文章では「私の友人」としか書いていない。いや、映像記憶力の強い男と書かれているが、これでは「その友人」を直接知っている人以外には伝わらないだろう。そして、そのことは逆に言えば、中井を知っている人なら、この「友人」とは中井自身のことであるとわかるように書いているということだ。
 この少し手の込んだ文章に、私は、なんとなく中井の「はにかみ」を感じるのである。それは西脇を「N氏」と書いていることからもわかる。注釈で「N氏」が西脇であると書いているけれど、注釈で書くくらいなら、最初から西脇と書けばいいのである。そう書かないのは、やはり中井の「はにかみ」だろう。
 中井は、私のような人間にもとても親切に接してくれた人だけれど、それは中井の「はにかみ」が影響しているかもしれない。「友人」の性格を「ものおじしない」と中井は書いているが、誰かに対して「ノー」ということ、拒絶することに対しては、とても「ものおじ」のする人だったのだと思う。他人を拒むことが苦手な人だったのだと思う。

 注・西脇は1982年に死んでいる。中井がこの文章を書いたのは、1985年である。だれかが、西脇に対して、中井久夫に会ったことがあるかと確認しようにも確認できない。そういうこともあって、中井はあえて「友人」という形で、西脇との交流を補足しているのだろう。
 末尾の「私には、そのつもりはなかったのだが」にも、「はにかみ」がある。医学と文学の二足のわらじをはくつもりはなかったが、いま思うと二足のわらじ状態だ認識している。しかし、そこには後悔はない。中井は何も拒まないと同時に、自分のしていることを後悔しない人間だ。常に、前へ進む。しなやかに変化し続けて、進む。

 

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閻連科『太陽が死んだ日』

2022-10-12 10:01:45 | その他(音楽、小説etc)

 

閻連科『太陽が死んだ日』(泉京鹿・谷川毅=訳)(河出書房新社、2022年09月30日発行)

 閻連科『太陽が死んだ日』は、夢のなかで夢をみるような小説である。それは「さっきの夢から覚めていた瞬間は、夢の中の一節にすぎなかったように。」(31ページ)と書かれている。夢から覚めたということさえも夢なのだ。
 こういう小説では、ストーリーのことを書いても、私には意味はないように思う。夢なのだから、ストーリーはあっても、それは「便宜上」のものにすぎない。何かを語るには、どうしてもストーリーが必要というだけのことであり、重要なのはストーリーではなく、「語り方」だと思うからだ。「語り方」そのものが「夢」なのだ。
 私は中国語が読めない。私が読んだのは、泉京鹿、谷川毅というふたりの訳なので、ふたりのことばの関係もよくわからない。これまで私が読んできた閻連科の小説は谷川毅の訳。今回、泉京鹿がくわわった理由はわからない。わからないことだらけなのだが、気付いたことを書いておく。
 この小説には、いくつかの「文体」がからみあっている。「前の方(前書き?)」にすでに特徴があらわれているが、「巻一」から。

 今度はどこから話そうか。
 今度はここから話そう。                    (15ページ)
 
 短い、同じことばが繰り返される。この書き出しは、まったく同じではないが、ほとんど同じ。しかも、それは「改行」されて繰り返される。

 どこの家もみんな夢遊するようになった。
 誰も彼もが夢遊するようになった。
 天下も世界もみんなが夢遊するようになった。          (23ページ)

 これは、「書き方(語り方)」として不経済だと思う。つまり。たぶん、こういう「作文」を学校の課題で書いたら、「もっと簡単に、繰り返されることばは省略したら」と注意されるだろう。でも、閻連科は整理しない。閻連科が書いているのは「ストーリー」ではないからだ。では、何を書いているのか。
 ことばは、加速する。
 そのことを書いている。「家」から「誰も彼も」と家の外へ飛び出し、それが「天下/世界」へと加速しながら拡大する。加速しないことには拡大できない。
 それは23ページへ戻って、次の部分。書き出しの二行の、すぐそのあとにつづく。

 それは太陰暦の六月、太陽暦では七月の三伏天、旧暦六月六日の龍袍節、天気は大地の骨が折れて割けるほどに暑かった。大地の皮膚の産毛がすっかり灰になるほどに。枝は枯れ、葉は萎びてしまった。果実は落ち、花は散ってしまった。毛虫は空中でぶらぶらしているうちに、ちょっとずつミイラの粉末になってしまった。

 「暑い」描写が積み重ねられる。ひとつに焦点が絞られるわけではない。加速し、移動しながら、拡大する。描写は、何よりもことばの運動なのだ。そこには、「静止」ということがない。
 こんな美しい描写もある。

この年の小麦はいい出来だった。麦の粒は大豆のように膨らんでいる。粒が割けて中から小麦粉が出てきてしまうほどに膨らんでいる。こぼれ落ちる。黄金の麦の穂が路面に落ち、穂も粒も人を躓かせた。                    (17ページ)

 どこまでつづいていくのだ、と私は笑い出してしまう。少し、ガルシア・マルケスを思い出したりする。書き始めると、ことばが加速し、新しい世界を開いていく。ことばを動かすまでは存在しなかった世界が、ことばのスピードにひきずられて、歪み、そこから隠れていた世界が姿をあらわす感じだ。
 夢とは、まさに、こういう感じだ。なんでもないものが、動き始めると、止まらない。次々に変形していく。加速しすぎたために、もう、元の世界には戻れない。新しい世界を突ききっていくしかない。

 だからみんな急いで刈り入れる。
 我先にと麦を刈り入れ、我先にと脱穀する。           (17ページ)

 こういう加速には、ことばが重複することが大事なのだ。重複があるから、同じ「ストーリー」だとわかる。重複しなければ、わけのわからない世界になってしまう。閻連科にとって、重複は加速するスピードにとっての必然であり、重複はそこに「ことばの肉体」があることの証明でもある。人間の「肉体」は成長して、変化しても、同一の人間であることの「証拠」のようなものだが、閻連科の重複は、それに似ている。
 この加速は、あるときは「句読点」をなくしてしまう。主人公(?)の少年を、盗賊が次の襲撃場所を案内させるために連れていくシーンだ。(217、218、219ページ)長いので、そのはじまりの部分。

おまえのお父さんはおじさんを憎んでておまえのお父さんは善良で優しくて邵大成がおまえのおじさんだからどうしようもなくてだからいつも嫁さんに死人の出た家の花輪には紙の花を多めに付けさせたしおまえのお母さんに死装束の布はいいものを使い死装束の針と糸は密に施して死装束の刺繍がきれいにしっかりできるようにさせた(略)

 ここでも重複することばが「しりとり」のように「ストーリー」をつなげさせている。この部分は、いわば、この小説の「ストーリーの過去」である。他人が見た過去というのは、こんなふうに切れ目なくつづいているのかもしれない。それに対して、「いま」は、そういう切れ目を切断しながら、加速し、乱雑に、爆発、暴走していくものなのだろう。「いま」は過去ではなく「未来」というまだ決まっていないもののなかへ動いていく。

やってきたのは未来と過去の時間と歴史だった。         (287ページ)

 「いま」は書いている「ことば」の運動のなかにしかない。「過去」にひきもどされないためには、「未来」をつかむためには、ただことばの運動のなかで、ことばそのものになって、動くしかないのである。
 この小説には、「閻連科」が出てくるし、ときどきゴシック体の文字もあり、そのゴシック体の部分には、

この様子は、閻連科の小説の『日月年』のどこかのようだった。  (330ページ)

 という「補足」がついている。ふいにあらわれる「過去」をとりこみながら、それを突き破っていく。それは、「未来」へ進めば進むほど、そこに「過去」が噴出してくるという「歴史」そのもののようにもみえる。「未来」へ進むことは「過去」へたどりつくことでもある。だから、閻連科の世界は「神話」に似ている。「寓話」ではなく、現代の「神話」なのだと、思う。
 最初に引用した「暑い」描写からわかるように、それは「無意味」なくらい「人情」というものから遠い。人間ではなく、「神」が見ているのだ。この非情さ(同情しない)潔さは、「神」としか言いようがない。この小説は、ある意味では、とても残酷な世界(殺戮)を描いているのだが、それが「ギリシャ悲劇」のように感動を引き起こすのは、それが「人情」ではなく「非情」の世界だからだろう。

 ノーベル賞がことばの運動に影響を与えるわけではないが、今年、閻連科がノーベル賞をとれなかったのは、残念だ。ミラン・クンデラにも受賞してほしいなあ、と私は思っている。多くの人が、小説を読むきっかけになる。

 

 

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三木清「人生論ノート」を読む(怒について)

2022-10-02 20:26:33 | その他(音楽、小説etc)

きょうは「怒について」を読んだ。

まず、どんな時に怒るか、という質問をしてウォーミングアップ。
「自分が否定されたとき」という返答があった。
それから「怒り」に似たことばに何があるか、反対のことばに何がある。
似たことばに「恨み」「憎しみ」、反対のことばに「仲直り」「愛」など。

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スペイン旅行記、発売中。

2022-09-21 00:16:10 | その他(音楽、小説etc)


スペイン旅行記、オンデマンドで発売中だけれど、先着10名に送料込み3000円で頒布いたします。
ご希望の方はメール(yachisyuso@gmail.com)でお知らせください。
フェイスブックで知り合った13人の芸術家に会って、アトリエを訪問、展覧会だけでは見ることのできない作品を見てきました。
日本語とスペイン語(間違いだらけだけれど)で書いています。


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高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」

2022-08-30 19:58:14 | その他(音楽、小説etc)

高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(文藝春秋、2022年09月号)

 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」は第167回芥川賞受賞作。
 読み始めてわりとすぐ近くに、次の文章が出てくる。(287ページ)

 藤さんがにやにやしながら声をかけてくる。二谷は曖昧に、と自分では思っている速度で頷き返すが、藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって、曖昧に濁した感じはつたわっていないらしく、「だよなー」とさらに強めの声を出され、二谷は今度こそまっすぐに強く頷かされた。

 あ、うまないなあ。いいなあ、と思わず声を上げる。二人の人間がいて、自分の意図がつたわらない。そして、押し切られる。その変化がおもしろい。特に「藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって」という言い直し(?)というか、客観化が鋭い。
 これは楽しみだなあ。
 ところが、289ページの、藤が芦川の飲みかけのペットボトルからお茶を飲み、それを芦川につげる。芦川は、そのペットボトルに口をつけ、感想を言い合うという部分の「しつこさ」で私は、なんともいえない恐怖に襲われた。
 この作者は「しつこい」だけなんだ。
 そして、その「しつこさ」は、あることがらを一点から書くというのではなく、最初に引用した部分に特徴があらわれているが、第二の視点をからめて書くことにある。一人称で書かず、常に別の視点での表現をからめてくる。
 これは、おもしろいと言えばおもしろいといえばおもしろいのかもしれないが、私はぎょっとする。二つの視点が、なんというか「共犯」というよりも、「いじめ」のように相手の反応をみながら変わっていく。まあ、新しさがそこにあると言えるのかもしれないけれど、「いじめ」を主導するのでもなく、けれども加担する感覚といえばいいのか。ついていけない。
 自分がどう見られているかだけを気にして動いている。
 だから「おいしいごはん」が一回も出てこない。「料理」は、食べている人に対して「おいしいでしょう」と確認を求めてこない。確認を求めるのは人間である。「私のことをどう思っている?」ということを確かめるために「食べる」というのは、私の感覚から言えば気が狂っている。
 どの「食べる」シーンも、ただただ「わっ、まずそう」という感じしかない。なぜか。あらゆる食べ物が「人事(いじめ)」の調味料で、こってりしている。食べずに、いじめるなら、いじめることに徹底しろよ。これでは「食べる」のはだれかを「いじめる」ため、ということになってしまう。
 なにが「おいしいごはんが食べられますように」だ。

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砂川文次「ブラックボックス」

2022-02-13 13:27:42 | その他(音楽、小説etc)

砂川文次「ブラックボックス」(「文藝春秋」2022年3月号)

 砂川文次「ブラックボックス」(第166回芥川賞受賞作)は、たいへん読みやすい文体である。こう始まる。

 歩行者用の信号が数十メートル先で明滅を始める。それに気が付いてか、ビニール傘を差した何人かの勤め人が急ぎ足で横断歩道を駆けていく。佐久間亮介は、ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる。(254ページ)

 この几帳面な文体(意識)が動いている人間が、几帳面さゆえに他人とうまく「調子」を合わせられない。息抜きができない。この感じを「佐久間」から「サクマ」へと主人公の呼称を替えて、この小説は展開する。「佐久間」にして置いたままの方が、私は、効果的だと思うが、佐川は「サクマ」を選んでいる。
 で、正確さ(他人の文体を許さない神経質さ)のために、サクマは突発的に暴力をふるう。テキトウに自分を解放する方法を知らないので、ため込まれていた何かが衝動的に発散を求めるということだろう。
 これは、「頭」では理解できるが、私の「肉体」は理解できない。なんとういか、つまらないなあ、と感じるのである。書き出し部分の正確な文体の読みやすさに、つまらないなあ、と感じるのに似ている。で、そのつまらなさは、そっくりそのまま「衝動的な暴力」の描写で、さらに感じてしまうのだ。あ、こんなふうに暴力をふるってみたい、と感じないのだ。

 痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものでああとは耐えられる。(317ページ)

 これは直接的な「暴力描写」ではないが、その「暴力」をささえる「認識」の部分を書いたものだが、「客観視」ということばがあるが、そのことばが示唆するように、ここには「主観」がない。「肉体」と「痛み」の「肉体」の側からの「変化」がない。
 サクマはこのとき警官に右腕の動きを押さえ込まれているのだけれど、いったい右腕のどの部分が熱く、どの部分が痺れているのかぜんぜんわからない。したがって、それがどう分解されたのかもわからない。「肉体」に伝わってこない。
 読み返せば、書き出しの「ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる」も、なにやら「客観的」な描写であり、「肉体」の内部の動きが書かれていない。つまり、「肉体」を排除することによって、「外形的」に「肉体」をなぞっている。だから、読みやすい。
 これは、かなり退屈である。
 唯一、サクマの「肉体」を感じたのは、刑務所の作業場で台車が壊れたときの描写である。サクマはふたつのボルトを見ながら「ピッチが違います」という。(339ページ)

「これ、どっちもM12ですけど、ピッチが違います」
「はあ?」
「ねじ山の距離のことです」
「お前、見ただけでわかるのか」
「なんとなく」

 ここにはサクマの「肉体」がはっきりと書かれている。その「肉体」は「私の肉体」がそのまま「追認」できるものではないが、「職人」というのは、そういうふつうのひとがもたない「肉体の智慧」をもっている。それがさりげなく書かれていて、とてもいい。
 この「肉体にたたきこまれた感覚/正確な認識となって動く肉体」というものが、もっと必要なのだ。とくに「暴力描写」には。

 気が付くと中年の方は地面に転がって、鼻を両手で抑えて大声で騒いでいた。指の間から血が滴っている。自分の額から流れてくるそれは、自分のものとそいつのものとが混じり合っていた。でもなぜか他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした。(315ページ)

 この描写、とくに「他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした」には「肉体感覚」が描かれていておもしろいのだが。
 でも、この部分は逆に、どうしてこの部分だけ魅力的なのだろうか、という疑問も呼び起こす。「自分の額から流れてくるそれは」「自分のそれは」と繰り返される「それは」ということばのつかい方が、全体の文章のなかで浮いて見える。

考えているうちに、あっという間にそれらは雑念に変じ、想起と交わってどろどろに溶け合う。(289ページ)

 「想起」ということばは何度かつかわれるが、この「想起」ということばは、私にはかなり唐突に感じられる。そして、ここにも「それらは」ということばがある。
 でも、前回の芥川賞受賞作、石沢麻衣「貝に続く場所にて」よりは、まともな文章という気がした。
 

 

 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)

2022-01-30 11:31:37 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)

 「一元論」についてビジターのGladys Arango Hern ndez から質問を受けた。そのとき、こう答えた。
La definicion de monismo es dificil.
Creo que hay diferencias en la definicion dependiendo de la persona.
Escribo mi forma de pensar. 
No distingo entre cuerpo y mente. 
No distingo entre yo y los demas. 
No distingo entre yo y las cosas (por ejemplo, arboles y rios). 
Reconozco el mundo como "caos". "Caos" significa que la forma es indefinida y no hay distincion.
Entonces, el mundo aparece frente a mi segun sea necesario. 
Creo que estas aqui porque tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece como tu. 
Leo la palabras las de Garcia Marquez. Cree que tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece frente a mi como las palabras de Garcia Marquez.
Reconozco la existencia de los seres humanos (mi existencia) asi. 

 すこし抽象的すぎたかもしれない。
 私がこれまで書いてきたことに触れながら、
書き直してみる。

 「oxymoron」は、私の考えでは「一元論」に通じる。「el rencor feliz 」はrencorとfeliz が強く結びついたものである。el rencor feliz =rencor+feliz 。ここにはrencor→feliz とrencor←feliz のふたつの動きがある。これは、区別がつかない。前者が後者を結びつけたのか、後者が前者を結びつけたのか、区別がない。どちらでもいい。そこにはただ「運動」があるだけである。まだ名づけられない「感情」がある。この「名づけられる前の感情」を「混沌」と呼ぶ。ここから「 rencor 」だけが姿をあらわすとき「感情は「rencor」になる。「feliz 」があらわれるとき「feliz 」になる。しかし、「rencor」も「feliz 」もすでに私たちになじみのある感情である。彼女が感じたものは、そういう私たちの知っている感情ではない。新しい感情である。「rencor」と「feliz 」が分かちがたく結びついた感情。その結びつきの「運動」が、結びついたまま「世界」へあらわれた。ことばは、その「運動」を、そのままあらわしている。そして、そのとき「世界」とは「ことばの運動」である。「ことば」の運動から、そのとき、その瞬間に「世界」があらわれる。これが、私の考えている「一元論」である。

 「oxymoron」は、意識の絶対的な覚醒である。「rencor」と「feliz 」という結びつきは、ふつうの感情ではありえない。しかし絶対的な覚醒のなかでは、それはあり得る。新しい感情なのである。
 
Era como estar despierto dos veces. (p92)

 という文章がある。「despertar dos veces 」を「一元論」から見つめなおしてみる。これは、一度目覚めたあと、もう一度新しい世界に目覚めるということである。

despertar una vez (=primera vez )y ver el mundo→despertar dos veces (=segunda vez )y ver el mundo nuevo
 このとき「→(運動)」の「主語」は「人間」であるが、el mundoがel mundo nuevoに変わったとき、「主語」もまた新しい主語になっている。主語の意識がかわったときと、主語は新しいいのちを生き始める。世界は、そうやって変化しづける。世界に存在するといえるのは、この運動だけである。
 一度目の目覚めで「rencor」という感情に気づく。二度目の覚醒で「rencor」に「feliz 」が結びついていることに気づく。そして、この場合、絶対的覚醒の方が、最初の目覚めを支配してしまう。生まれ変わる。「rencor」に「feliz 」が結びついているというよりも、「rencor」から「feliz 」が誕生してくる感じだ。
 どちらが重要かは、あまり大事ではない。「生まれ変わる」という運動の方が大事だからである。生まれ変わるとき、その肉体のなかには、過去の「血(いのち)」が引き継がれる。これは、人間も、感情もことばも同じこと。

 「生まれる/生まれ変わる」に限らず、運動はもちろん「主語/存在」を必要とする。「私」がいなければ「感情」もない。「私(主語/存在)」がなければ運動は描写できない。しかし、運動をともなわない存在は、存在したことにならない。「私」にしろ「感情」にしろ、それはまだ形にならず「混沌」のなかで、生まれる前のままでいると考えている。「ことば」になって生まれるという「運動」のなかで「主観/精神」と「客観/肉体」を統合される、というのが私の「一元論」。

 私は、ことばがどんな運動をしているかを読みたい。ことばの運動に焦点をあてて、文学を読んでいる。

 

 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(4の追加)

2022-01-27 13:54:51 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(4の追加)

 (これは、フェイスブックのガルシア・マルケスのサイトのために書いた文章です。いままで書いたものも、そこで書いたものです。)

 「oxymoron」ということばを知った。日本語では「撞着語」というらしい。そういう「用語」があることを知らなかった。それで、日本語には「撞着語はない」と書いてしまったが、調べてみたら、ある。
 「愚かな賢者」「明るい闇」の類。森鴎外には、たしか「水が黒く光った」という表現がある。光の反射がまぶしくて、白ではなく、黒の方が視覚に飛び込んできた。まぶしさの強調である。何かを強調するとき「撞着語」がつかわれる。「論理」としてではなく、一瞬の「感覚」として。そこには、意識のスピードがある。早く動く意識だけがとらえることのできる世界だ。
 Garcia  Marquez の文体の特徴を「スピード」にあると私は書いてきたが、「oxymoron」もまたその精神のスピードがとらえた世界のあり方と言えるだろう。
 私が大好きな、次の表現もまた、ある意味で「oxymoron」と言えるだろう。

Era como estar despierto dos veces. (p92)

 人間が目覚めるのは一度だ。二度目覚めることはできない。マルケスがここで書こうとしているのは、「最初は現実の世界に目覚めた」、これは「肉体が目覚めた」ということ。しかし、次に「精神が目覚める」。「二度目は、精神が目覚めたので違った世界が見えた」ということだ。主語は「肉体」から「精神(あるいは感覚)」へとうつりかわっている。この瞬時の移り変わりが「oxymoron」ということばの背後にある。
 そして書くということ、ことばにするということは、最終的には「oxymoron」と深い関係がある。「肉体の目覚め」から「精神の目覚め」の変化、その移行には、いままでつかってきたことばでは伝えられないことがある。それを表現するためには、いままで「矛盾(間違い)」と考えられてきたことを「矛盾ではない」と書き換えることだからだ。いままでのことばでは書けない「別の真実」を書くためには、「矛盾」を跳び越えなければならないのだ。そのためには「スピード」が必要。「助走」が必要。また最初にもどってしまうが、そう思った。

 「oxymoron」は日本語の場合、「愚かな賢者」「明るい闇」のように「慣用句」が多い。造語(?)は「現代詩」には見られるが、日常会話では絶対にないと言えるくらいに少ない。(私は思い出せない。)
 しかし、スペイン語圏の人には、「oxymoron」はふつうのことなのかもしれない。インターネットのコメント欄に書き込まれるくらいなのだから。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(4)

2022-01-26 09:13:46 | その他(音楽、小説etc)

 (これは、フェイスブックのガルシア・マルケスのサイトのために書いた文章です。いままで書いたものも、そこで書いたものです。記録として残しておく。)

 どんな本にも忘れられない強烈なことばがある。Garcia  Marquez の「Cronica de una muerte anunciada 」(p108)では「el rencor feliz 」と「el remanso deslumbrante 」(p134)。私はネイティブではないので、この強烈なことばの組み合わせにびっくりしてしまった。ネイティブのひとたちは、このことばをどんな気持ちで読むのだろうか。それを知りたいと思った。でも、突然、聞いても返事はないかもしれない。そこで、私は自分の考えを書いてみることにした。
 二つのフレーズの背後には、Garcia  Marquez の「書くこと」についての「思想」がある。彼にとって「書くこと」は「二度」目覚めることである。より「正気」になるのことである。
 最初に「現実」がある。これは一度目の目覚め。それをことばにすると、ことばにするまでは見えなかったものが見えてくる。二度目の目覚めのはじまり。「現実」をより正確に見るための何か、「現実」を補強する何かが見えてくる。それをことばにするとき「二度目」の目覚めが、はっきりと自覚される。それは、ぼんやりとした意識ではなく「正気」がみつめた世界。二度書くことで、より「正気」になる。
 Garcia  Marquez は一度目は「el rencorz」「el remanso」と書いた。しかし、それだけでは何かが足りない。二度目の目覚めで「feliz 」と「deslumbrante」に気づいた。そして、それを組み合わせた。
 Garcia  Marquez は「二度」目覚めたものだけが見ることができる世界を書いている。それは、ある意味では、まるで「ドラッグ」によって覚醒した肉体だけが見ることのできる世界のようだ。しかし、Garcia  Marquez は薬物中毒患者ではない。「正気」である。私たちが体験できない「正気」を体験している作家なのだ。
 そして、こういう「二度」目覚めるための「助走/準備」としてGarcia  Marquez が採用しているのが「強調構文」なのだと私は考えた。そのことを書いた。

 ネイティブのみなさんが、Garcia  Marquez の「構文」やつかっていることばについてどんな「実感」をもっているのか聞きたかった。けれど、何人からに「Garcia  Marquez の本に線を引くな」「Garcia  Marquez を批判するな」「追放しろ」「スペイン語を読み書きできない中国人、動物」「カリブ海に住まなければGarcia  Marquez を理解できない」「ラカンを引用して分析しないと意味がない」などと言われた。私はGarcia  Marquez の文体もことばも、一度として批判してはない。ただ、引用し、考えているだけだ。
 多くの友人に出会え、また助けてもらったが、私はもっとみなさんの具体的な感想が聞きたかった。Garcia  Marquez を読んだとき、新しいことばにであった瞬間、どう感じたのか。どんなことばを手がかりにして、そう感じたのか。そうしたことを聞きたかった。
 「追放しろ」と書いた人に約束したように、私は「Cronica 」を読み終わったので、このページではもう書きません。しかし、しばらくは訪問します。君たちが「Cronica 」のどのことばに感動し、どう思ったのか。私が感動した「Cronica de una muerte anunciada 」「el rencor feliz 」をどう感じたか教えてください。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

2022-01-25 09:10:34 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

 前回の文章は、少し書き急ぎすぎた。これまで書いてきたこととの関係を省略しすぎた。少し追加しておく。
 Garcia Marquezの文体の特徴のひとつに「強調構文」がある。口語的なことばのリズムがそれを引き立てている。
 私が最初に取り上げたのが、

lo fueron a esperar 

 という単純なものであった。単純すぎて、その文章にGarcía Márquezの「独自性」を見出せないかもしれない。特にネイティブのひとは何も考えずに読むと思う。でも、これは「lo=santiago Nasar」を強調したスタイルなのである。「fueron a esperarlo」では、「lo」が「esperar 」という動詞にのみこまれてしまう。焦点が「 fueron a esperar 」という動詞の主語、「los gimelos 」になってしまう。さらに、ことばのスピードも落ちる。「 esperarlo」は「 esperar」より長いからだ。
 これと逆の「強調構文」が133ページに出てくる。Desde el lugar en que ella se encontraba podía verlos a ellos, この最後の部分

 verlos a ellos 

 「los 」=「a ellos (los gemelos )」。「a ellos 」はなくても意味は同じ。でも、García Márquezはあえてつけくわえている。文章が長くなるにもかかわらず、この構文を採用している。この文章の「主語」であるPlácida Lineroの動きをまず書きたかったからだ。この部分では「主役」はPlácida Lineroである。しかし、los gemelos も忘れてはならない。だから、それを強調するために「 verlos a ellos 」と書いているのだ。
 また「構文」とは関係ないのだがClotilde Armentaの次の描写も強烈である。

Clotilde Armenta agarró a Pedro Vicario por lacamisa (P131)

 「agarró」はなんでもない動詞だが、私はここではっと目が覚めた。それまでの登場人物は双子の兄弟に触れていない。肉体接触がない。だれも彼らを直接止めようとしていない。市長はナイフを取り上げたが、彼らに触れてはいない。彼女だけが自分の肉体をつかっている。このあと、彼女は地面に突き倒される。
 ここから目が眩むような殺人が描かれる。「agarró」ということばがきっかけで、実際の行動がはじまるのである。殺人計画が準備準備だけではなく、実際に動き始める。実際の犯行の前の、その「動詞」が犯行を強烈に浮かびあがらせる。「agarró」は、すぐに反対のことば「tiró」になって動く。「反動」が鮮烈である。さらに「empellón」に肉体を印象づけることばがつづく。

Pedro Vicario, que la tiró por tierra con un empellón,(P132) 

 「agarró」→「tiró」→「empellón」。これも「強調」のひとつなのだ。

 もう一つ、「dos veces 」の結果として生まれてくる不思議なことばがある。

remanos deslumbrante(P134)

 「remanos 」は、常識的には「deslumbrante」ではない。私はネイティブなので誤解しているかもしれないが、「remanos 」は、むしろdeslustrado やpenumbraであり、oscuroである。しかし、異様に覚醒した状態、絶対的な正気(lucidez )では、矛盾が矛盾ではなくなる。
 似たような矛盾したことばの強烈な結びつきは「rencor feliz」(P108)に出てきた。これも「強調」なのである。
 García Márquezzの文章は、頻繁に「realismo magico 」と呼ばれるが、「remanos deslumbrante」や「rencor feliz」のような強烈なことばが出てくるからかもしれない。しかし、これは「魔法」ではない。Garcia Marquezが生み出した現実である。こういうことばを読者が自然に受け入れられるようにするために、García Márquezは強調構文を積み重ねているのである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 私は人を殺したことがない。殺されたこともない。だから、García Márquezが書いていることが「真実」かどうか判断することができない。本当はできないはずである。しかし、それを「事実/真実」と思ってしまう。ことばの力が「事実/真実」をつくりだすのだ。
 書かれていることが「絵空事」(現実には起こり得ないこと)であっても、そこに書かれていることばは「事実」そのものなのである。ことばが、架空の存在ではなく、いつも現実に存在する。だから読むことができる。「文体」もまた「事実」である。架空のものではない。だから、私は「何を書いている」ではなく「どう書いているか」について感想を書く。「文体」について感想を書く。

 

 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

2022-01-24 15:23:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』を最初に読んだときの驚きは、小説が「ハッピーエンド」で終わらないことだ。殺人事件は起きてしまっている。どうしたってSantiago Nasarは生き返らない。そうであるなら、生き残ったAngela VicarioとBayardo San Roman が幸福になること以外に「結末」はないからである。
 しかし、そこまで書いたあとで、ガルシア・マルケスは「最初」にもどるのだ。最後に「殺人」が復習のようにして再現されるのだ。
 私は「doc veces 」と「lucidez 」がこの小説のキーワードだと書いた。その「doc veces 」「lucidez 」が、最後の章である。
 殺人事件(現実)は、一回(una vez )起きる。それは最初(primera vez )である。このとき、私たちはそれがどういうことなのか「意味」がわからない。「正気(lucidez )」のつもりでいるが、「意味」がわからないのだから、まだ「正気(lucidez )」は目覚めていない。眠っているようなものだ。見たもの、聞いたものを、ことばを通して再現するとき、殺人事件は「真実」になる。「正気(lucidez )」が見た「現実」だ。
 みんな「正気(lucidez )」にもどりたい。だから、みんなが自分の目撃したことを語りたい。語ることで「真実」をつかみたいと思っている。語ることで、殺人事件は「二度(dos veces )」起きるのだ。「正気(lucidez )」にもどるためには、語ることで、殺人事件を「二度(dos veces )」起こすしかないのだ。
 そして、ことばを通して起きる「二度目の殺人事件」は「一度目の殺人事件」よりも、より鮮明で強烈だ。私は、Angela Vicarioが「生まれ変わった」あとの描写も大好きだが、この「二度目の殺人事件」の描写も大好きだ。残酷でむごたらしいのに、わくわくしてしまう。切りつけても切りつけても死なないSantiago Nasar。双子の兄弟の絶望に、思わず共感してしまう。現実には、共感などしてはいけないのだが、小説なので共感してしまう。それは、クライマックス中のクライマックスの描写についてもいえる。

Hasta tuvo cuidado de sacudir con la mano la tierra que le quedó en las tripas.(P137)

  実際に見てしまったら、ぞっとするかもしれない。しかし、この光景を見たWenefrida Marquez はなんという幸運なのだろうと思う。そういう光景を見ることができるひとは、きっと誰もいない。世界でたったひとり、彼女だけが体験したのだ。それを語るとき、しかし、彼女は「正気(lucidez )」のままである。「正気((lucidez )」でないなら苦しくないが、「正気(lucidez )」のままそれを語らなければならない。これは、幸福であると同時に、とても苦しいことである。
 これはガルシア・マルケスも同じこと。
 人間が引き起こした不幸。それをすべての登場人物の「正気(lucidez )」として描き、それでもなおまだ「正気(lucidez )」でいる。これは、つらいことに違いない。
 書く順序が逆になったかもしれないが……。
 「正気(lucidez )」ということばは、この最終章にもつかわれている。きちんと読み返したわけではないが、この小説では「正気(lucidez )」がつかわれるのは、前に紹介した部分と、次の部分。Santiago Nasarが瀕死の状態で自宅へ帰るシーン。

Tuvo todavía bastante lucidez para no ir por la calle, que era el trayecto más largo, sino que entró por la casa contigua.(P136)

 そして、最後のセリフ。

Que me mataron, niña Wene.

 「正気(lucidez )」とは何とつらいことだろう。

 この小説に限ったことではないが、文学とは「二度(dos veces )」の世界なのだ。現実にあったことが「最初の一回(primera ves =una vez )」。それを「ことば」にして再現するとき、それは「正気(lucidez )」が見た「二度目(segunda vez =dos veces )」なのだ。
 そして、「最初の一回(primera ves =una vez )」は長いのに対して、「二度目(segunda vez =dos veces )」は短い。それは書き出しからAngela Vicarioの幸福までの長さと、最後の章の長さを比較するだけでもわかる。Garcia Marquezは、ことばを加速させ、激しく暴走する。そのリズムがとても効果的だ。強調構文を積み重ねて、想像力を爆発させる。

 キーワードについて。私はキーワードということばを「キー概念」とは違った意味でつかっている。「キー概念」は、ある文章のなかで何度もつかわれる。その文書を要約することばである。私がいうキーワードは、たいていの場合一回しか出てこない。それをつかわないとことばが動かないときだけつかわれる。『予告された殺人の記録』では「dos veces 」。私が読んだ限りでは、これは一回だけつかわれている。そして、もうひとつの「lucidez 」も二回だけ。誰もが知っている。しかも、最小限度の回数しかつかわれない、作者の無意識になってしまっていることばを、私はキーワードと呼んでいる。

 

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