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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか

2025-03-22 23:18:55 | 現代詩講座

池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年03月17日)

 受講生の作品。

三月、歌ってくれないか  池田清子

すぐに終わると思っていた
三年前の三月
突然の破壊
穏やかに人々の暮らしていた
美しい街並み

本当は
春に向かって 明るい豊かな 三月
らっぱ水仙、レンギョウ、ユキヤナギ、ムスカリ・・・
自由で伸びやかな 三月

終わるまで
書き続けようと思っていた詩も
2回でとん挫
無力さを恥じる

こんな時 昔は
若者が歌っていたよね

「イムジン河」「戦争を知らない子供たち」
「死んだ男の残したものは」「フランシーヌの場合」・・・

ねえ、髭男よ、YOASOBIよ、Mrs.GREENAPPLEよ
歌わないか、歌ってくれないだろうか

ボブディランのように
風に吹かれて

 「三年前の三月/突然の破壊」はロシアのウクライナ侵攻を指す。それは五連目のいくつもの歌によってくりかえされる。
 私は最近の歌は知らないのだが(六連目に登場するグループの歌はもちろん知らないのだが)、彼らはどんな歌を歌っているのだろう。「歌わないか、歌ってくれないだろうか」からは、若者に期待する声が聞こえる。そういう声が聞こえるということは、彼らは、「反戦ソング」を歌わないということなのか。
 私たちの時代には、池田が上げている歌のほかに、最終連に登場するボブ・ディランやジョーン・バエズもいた。
 そうした歌は、つづいてほしいと思う。
 三連目の「終わるまで」はすこしむずかしい。書いている池田にはわかっていることだが、読者に通じるかどうか。一連目に「すぐ終わると思っていた」ということばがあるので「戦争が終わるまで」と読んでしまう。私は、そう思って、ここでつまずいたのだが、池田によると「書き始めた詩が、書き終わるまで」という意味。戦争を知って、それについて書こうとした。けれど書き終わることができなかった。この場合、「終わる」ではなく「書き終わるまで」か「完成するまで」の方がいいだろうと思う。つぎの行の「書き続ける」に配慮して(「書く」ということばを重複させたくなくて)省略したのだと思うが、わかりにくい。
 この連が「自分は挫折したけれど」と反省をこめた連だとわかると、それからあとの若者に託す「思い」ももっと明確になると思う。ノスタルジーとして書いているのではなく、祈りとした書かれた詩なのだった。

巡る  杉惠美子

庭の土が ほぐれる音がする
春の光をうけて
木々はいっせいに 自分の呼吸を確かめる
土は温かい感触で 顔を出し
いのちの波動を足もとから伝える

今更ながらに
はるは幾度も巡り来る
かならず巡り来る

みずに映る透明な春は
芽吹き
動き
押し上げ
包み
そして 呟く

私の内なる
重さと軽さも
弾み始める

春は全てが 自分のできることをはじめる

 漢字とひらがなの書き分けが、とてもおもしろい。興味深い。最終行の「はじめる」を読んだとき、その直前の「始める」との対比と同時に、ふと、一行目の「ほぐれる」とも呼応している感じがするのである。
 自分で何かをする。そのとき、それまでの自分が「ほぐれ」てゆく。固いものがやわらかくなり、そうすることで何かがはじまる。「始まる」では意味が明確になりすぎる。「解れる」もイメージが固定されてしまう。「ほぐれる/はじまる」と意味から解放されて「音」になると、「ほぐれる」というのはどういうことだったか、「はじまる」というのはどういうことだったか、と一瞬、あいまいになる。同時に、「肉体」が意味から離れて、いのちそのものとして手さぐりで動く感じがする。
 二連目の「巡り来る」の繰り返しの前に「かならず」がつけくわえられているのもいい。「幾度も」を言いなおしたものとも言えるのだが「かならず」がひらがななのも、読んでいて落ち着く。
 三連目の「みずに映る透明な春は」の「は」という助詞は、ない方がリズミカルになるだろうなあと思う。「呟く」は次の連の「内なる」ものと結びつくのだが、「弾む」で終わって、次の連の「弾む」と連動させると、四連目のなかに三連目のリズムがよみがえると思う。

糸水仙  青柳俊哉  
 
ホワイトアウトきえ
あしもとへ 水仙
ふる 鮮麗な
藍のそらから 凍
土へ
 
北極から 腐敗した地
へ 
 
恩寵--
 
 
うみへむしんにみしんふみならすときはなれる
なみをおるぶぁいおりんししゅう
あいのそらきらら
さんしょくのね

 「ホワイトアウト」は猛吹雪で視界が真っ白になること。「地吹雪」という言い方もあるかもしれない。地面の雪さえも風で吹き上げられ、目が白い闇に覆われる。そういうときひとは足もとしか見ないのだが、水仙が見えたからホワイトアウトが消えたのか、ホワイトアウトが消えたから水仙が見えたのか。わからないのが、いい。「凍/土」という行わたりの表記も、おもしろいと思う。ホワイトアウトが消えたのと同時に、藍色の空が見えたのと同時に、「凍土」が「凍る」と「土」に分かれた。それは水仙が突然あらわれるのと同じ感じだろう。
 最終連のひらがなの連続。「うみへむしんにみしんふみならすときはなれる」この一行が、とても音楽的。その音楽が「ぶぁいおりん」を呼び寄せるのだと思う。「さんしょくのね」の「ね」は「音」かな、と思ったりする。
 一連から四連目への変化のためには、二、三連目が必要なのかもしれないが、思い切って省略しても楽しいかもしれない。その方が飛躍が大きくて、いろいろ想像できる。「腐敗」「恩寵」に意味があるすぎる感じが残る。

最後の晩餐  堤隆夫

最後の晩餐について思う時
戦争や災害や事故のため
最期の晩餐にありつけることなく
この世から逝ってしまった
幾千万の方々の魂の感しみを 思わざるを得ない

果たして 最期の時 私は最後の晩餐をすることができるのであろうか
その時 私の身体に口から食することができる機能は 維持されているのだろうか
病のため 中心静脈栄養や経管栄養等の人工栄養法に頼らざるを得ない時
元気だった日々の食の喜びを想起することは
残酷な思い出でありはしまいか
思いは千々に乱れる--

生きることを続けていれば
私たちは皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 摂食・嚥下が困難となる
口腔機能を可能な限り維持することは 死を迎えるまでの間 
生活する意欲や回復への意欲 生き続ける希望を維持することでもある
自分の口で食べること 飲むことは その人らしく生きるための人としての尊厳

最期の時 私は叶うことなら 愛し 信頼している人と共に 
たとえ一個のおにぎりを分けあってでもいい
小学生の時の遠足の日のように 安穏で幸せだった日々を思い出しながら
最後の晩餐ができれば もう それで十分だと思っている--
 
 堤の詩は、論理/倫理性が強い。「最後の晩餐」というと、いや「晩餐」というと、どうしても豪華なものを連想するが、それと「一個のおにぎり」を対比させる。単に「一個のおにぎり」なのではなく、それは「分け合う」ものとしての「一個」なのである。「分け合う」とき、そこには「愛」がある。「幸せ」がある。
 この詩では、私は、そうした「論理/倫理」のことばの運動よりも、三連目の「生きることを続けていれば」に強く引かれた。「生きていれば」でも意味は似ているかもしれないが「続ける」が挿入されることで、意志というか、祈りのようなものが、ことばの奥をささえている。
 堤の詩に何回も登場する「愛」とは、「生きる意志」のことなのだろうと私は思っている。「愛する」ということと「生きる」ということは、「意志」の根本なのだろう。堤のことばは、常に、そこから動いている。

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特別講座「谷川俊太郎の魅力」

2025-03-06 20:52:19 | 現代詩講座

3月15日、朝日カルチャーセンター福岡で、特別講座「谷川俊太郎の魅力」を開きます。
一回完結の講座です。教室参加でも、オンライン参加もできます。
ぜひ、ご参加ください。
当日申し込みも受け付けますが、料金が550円追加になります。ぜひ、事前に予約してください。
詳細は、チラシの写真で確認してください。

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すぎえみこ「かみいちまい」ほか

2025-03-01 21:51:36 | 現代詩講座

すぎえみこ「かみいちまい」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年02月17日)

 受講生の作品ほか。

かみいちまい  すぎえみこ

かくか
かかぬか

かかずにいるか
かけずにいるか

かこうとするか
かくまいとするか

かいていこうとおもうのか
かいていきたいとねがうのか

かいたらなにがよろこぶのか
かいたらわたしのこころがよろこぶ

 すぎが書を書いていることを私たちは知っている。そのためだと思うが「かく」を「書く」ととらえた上での感想がつづいた。「哲学問答、こころの対話」「かくという動詞だけでいろいろな問いをひきだすところがおもしろい」「わたしのこころへまでことばを動かしていくのがすごい」「ひらがなで書かれているのも、おもしろい。タイトルのかみは紙だろうけれど、神かもしれない」「かくのかわりに、泣く、笑うというようなほかの動詞でも詩ができるかもしれない」。
 私は、少し意地悪な質問もしてみたい。最後の「わたしのこころ」の「わたし」は誰だろうか。普通に考えれば、書を書いている作者(すぎ)なのだろうけれど、ほかに「主語」は考えられないだろうか。たとえば、「筆」あるいは「墨」、さらには「文字」そのものかもしれない。その場合、感想はどうかわってくるだろうか。
 さらに「かく」には「描く」もあれば「掻く」もある。その場合は、感想はどうかわるだろうか。
 もうひとつ。この詩は最初が短く、連がかわるごとに行が長くなっている。視覚的に三角形に見える。その形をあえて変形し、4、5連目を入れ換えるとどうなるだろうか。そのとき、4連目をことばを少し変えて「かいていこうとおもう/かいていきたいとねがう」のように「のか」を削除すると、どんな印象になるだろうか。
 いろいろ試して、感想を聞いてみたい作品だ。

白川へ  青柳俊哉
 
ヒグラシの森の声部
空へうたうひとつの羽 心理的な外部者
 
遠い柿の木の
内と外へ枝を差し交すあたり
ひとりのヒグラシが氷のような羽を擦りあわす
白川へ
色づく葉と実が森へむかって泳ぐ
 
川に鈴をかけて
いのちをあまねく受容する森の和声
 
水が川底へひらく
すすきの葉が殻を結わえて 
羽化した蜻蛉の氷のような羽を反射する

 受講生の何人かが指摘したが「心理的な外部者」ということばが非常に魅力的である。これが何を意味するのか。「内と外へ」ということばの交錯、「声部」「和声」の関係、「ひらく」「結わえる」の変化。それがもう少し緊密に書きこまれれば印象が違ってくると思う。
 「白川」が、その「白」が「心理的な外部者」とし全体を統一しているのかもしれないが、分かりにくい。分からなくてもいいのだが、「白川」へ行けば「心理的な外部者」に会える、あるいはなれる、と感じたい。
 私には、「白川」の占めている「位置」のようなものが、よくわからなかった。
 直感として言うのだが、たぶん、「繰り返し」が少ないために「外部/内部」の共通する何かが見つけにくい。繰り返しがあると、その繰り返しから逆に離反することばに気づく。そして、そこから「外部/内部」の区別も生まれ、詩の印象が変わるのではないだろうか。「ヒグラシ」「声」「羽」「川」など、単語(名詞)の繰り返しはあるのだが、乱反射が強くて、全体を攪拌している感じが、私にはする。

言葉は いつも足らない  堤隆夫

かなしい思いは せせらぎを流れる
葉っぱのうえに乗せて
流してしまおう
言葉では足らない思いは 
空を流れる雲のうえに乗せて
流してしまおう

車窓から いつまでも手を振っていた 
あなたの思いは
もう 考えないでおこう
いつまでも見送っていた 
わたしの思いなんか
もう 忘れてしまおう

言葉は いつも足らない
言葉は いつも寂しい
言葉は いつも愛しい

ああ それでも あなたもわたしも 生きている
否 
生かされている

葉っぱのうえに乗って
雲のうえに乗って

あなたもわたしも 生きている
否 
生かされている

 「いつもの作品よりも透明感がある」という感想があった。なぜ、透明感を感じるのだろう。
 一連目は、思いがあふれている。言いたいことがありすぎて、まだ、それがまとまりきれない。まとまらないけれど、言ってしまいたい。そういう「思い(強い欲望)」がことばを動かしている。「言葉ではてらない」が「言葉は いつも足らない」を経て、「言葉は」の繰り返しがあり、そのあと「ああ それでも あなたもわたしも 生きている」と言ったあと、最終連では「ああ それでも」が省略されて4連目が繰り返される。
 この「省略」が透明感を高めていると思う。「ああ それでも」が不純物であるというのではないが、何か、感情(思い)を見切って、感情(思い)をそのまま受け入れている漢字がある。4連目で「ああ それでも」ということばを書いたときは、まだ書き足りない(ほんとうに言いたいのは、もっと違うこと)という思いがあったかもしれない。けれど、それはどんなにことばを書き足しても、たぶん足りないという気持ちを引き起こすだけだと思う。だから、書かない。「足りない」をそのまま受け入れている。
 そのとり「足りない」ではなく、逆に、何か「満ちている」感じがあふれてくるから、ことばというのは不思議なものだ。「余韻」さえ生まれてくる。最終連は4連目の繰り返しなのに、「余分」という感じを与えない。「余韻」とは「余分」ではなく、何か「不足」を含んでいるのかもしれない。作者の書こうとしたことが「不足」している。そして、その「不足」を読者が埋めにゆく、というのが「余韻」が引き起こす運動なのだろう。

 

 
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青柳俊哉「日付のない朝」ほか

2025-02-15 21:44:51 | 現代詩講座

青柳俊哉「日付のない朝」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年02月03日)

 受講生の作品ほか。

日付のない朝  青柳俊哉 
 
きょうも目が覚める
菜の花の蜜を蝶が吸う
川がせせらぐ
 
きょうはきのうの続きではない
わたしは詩を書いて 
わたしがうまれていない日付をしるす
詩を野にはなつ
 
花野の野の花
の真珠のような分散和音
 
うまれるまえからしんだあとまでみつめる
川の音楽
花野をながれていく

 谷川俊太郎の詩を取り込みながら(青柳の書いていることばを借用すれば、谷川のことばを「はなつ」ように)書かれた作品。「花野」だけではなく「わたしがうまれていない日付」や「うまれるまえからしんだあとまで」にも、谷川のことばと通い合うものがある。
 この作品では、先に触れたが「詩を野にはなつ」が効果的。「はなつ」のなかに「はな」が隠れており、それが直前の「の」と結び合う。その隠れ方/結びつき方は「分散和音」のように、ということになる。
 「分散和音」が「音楽」になり、「川」のように「ながれていく」ということばの散らし方が「分散和音」的と言えるだろうか。
 青柳の詩は「絵画的イメージ」(重なり合う絵画)が強いのだが、今回は「音楽的」な印象が強い。


 
企業戦士の逃避行  堤隆夫

もうこのあたりでフィナーレでいいんじゃないかと
思い続けて二十年
いつか晴耕雨読の日々を夢見続けて
わたしの顔は もはや躁鬱病のデスマスク
わたしの足は すでに象皮病のエンタシス
わたしの手は ついに白蝋病の白鍵

自己嫌悪の「陰翳礼讃」の快晴日
眼窩のシャドウは 紋白蝶をなぞり
既視感覚の囚われ人は 終身刑

わたしは ウィーンの大観覧車の窓から
二十一世紀の カタストロフィーを予感する
わたしは アマゾネスの乳房に顔を埋め
歓びを演出する
登校拒否の少年と ゲームセンターの小宇宙を漂流し
舞台上と舞台裏の落差に「生存苦の寂寞」を感じ
わたしは 今日も通勤ジャムの渦の中
「銀河鉄道の夜」を夢想する

わたしは理解した
後戻りできない日々の 錆びた悔恨を
取り戻すことのできない日々の 焦燥の緑青を
わたしは歯嚙みし 地団駄を踏む

 堤の詩は「音楽的」な要素が多い。終わりから二行目の「焦燥の緑青」は絵画的(色彩的)美しさを「音楽的美しさ」が超越する。「しょうそうのろくしょう」。この美しさは「白蝋病の白鍵」(はくろうびょうのはっきん)と比較してみれば、よりわかりやすいだろう。「白蝋病の白鍵」にも音楽的工夫はあるのだが、それよりも色の方が押さえつけている。「焦燥の緑青」の方が、音にずれがあって、そのずれが技巧を超えた調和になっている。「和音」によって世界が「ふくらむ」感じがする。
 音楽的工夫でいえば、もうひとつ、一連目にもおもしろい工夫がある。音よりも「リズム」の工夫といえばいいかもしれない。「私の**は もはや/すでに/ついに」のたたみかけがとてもいい。私は欲張りなので、こういう工夫を見ると、ただこの工夫だけで作品を成り立たせてほしいといいたくなる。
 「私の**はもはや/すでに/ついに」だてではなく、「やがて/かつて/やっと」など重ねるとおもしろくなる。時間をあらわす変化だけではなく「きっと」のように、えっ、これ違うじゃないかという要素を紛れ込ませるのもきっと変化があっておもしろい。そのとき、前半と後半、あるいは前後の行の連絡(イメージの関連性)というのは、まあ、あるならあるにこしたことがないけれど、関連させようとしないでも自然に関連してくるものである。作者が関連づけられなくても、読者がかってに関連づける。
 こういうとき大事なのは、堤のように論理的な詩人には納得しにくいことかもしれないが、「結論」を捨てることである。リズムさえ守っていれば、旋律は即興で楽しむ。そのためにリズムを守り通すのだから。クラシックは旋律は変えないがテンポは変える、ポップスはリズムは変えないが旋律は変える、という感じかなあ。
 ちょっと試してもらいたい。昔(1970年代なら)寺山修司、その弟子(?)の秋亜綺亜が得意としたことばの展開なのだが。


ゲーテの椅子  山本和夫

文豪の書斎の
文豪の椅子に坐る。
--私は心の中で自問自答する。

私は日本の詩人です。
無告の民をもって独り任じています。
私は幼稚園の子どもたちのように今日も精いっぱい生きています。
--私は髪をかきむしり、自問自答をつづける。

私は神に誓っていい。
私は影を売ったことがありません。
ただ、それだけで、
ただ、それだけで、
やはり、あなたの椅子に坐る権利を持っています。
--マイン川に沿うた古い都・フランクフルトは、爽やかな初秋だった。

日本の、無告の、無名の詩人が、
いま
ゲーテの椅子にどっかり座って
にっこり。
 --フランクフルトのゲーテの家で--

         《無告の民》自分の苦しみを告げる所のない民族。孤独な人。

 ゲーテの椅子に、ほんとうに座ることができるのかどうか私は知らないが、想像の中で座ったとしてもそれを座ったと言ってかまわないだろう。
 「ファウスト」が間接的に引用されているが、そのあとの「ただ、それだけで、/ただ、それだけで、」の繰り返しがおもしろい。一回「ただ、それだけで、」と言っただけでは十分ではない。一度目と二度目の「ただ、それだけで、」の間には、飛躍がある。何かを超えるために、繰り返しが必要だったのである。
 リズムは、ことばに、説明できない何か「意味」を超える何かを与える。
 「無告の民」「無告の、無名の」が繰り返しにも作者はそういう「意味」を込めているのかもしれないが、「無告の民」ということばに注釈がついているので、なんだか「リズム」が壊された気がする。作者が感じていることを自分で考えてみようという気持ちを、私はそがれてしまった。
 「注釈」は、なかなかむずかしい。
 
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池田清子「お友達」ほか

2025-02-01 21:31:04 | 現代詩講座

池田清子「お友達」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月20日)

 受講生の作品ほか。

お友達  池田清子

年に数日しか開かないブドウ園のお店で
デラウエアを買っている
行けばいつでも買えたのに
突然、予約先行になった
フェイスブックで調べ
インスタグラムで予約するという
登録した

時代が進むということは
面倒になるということか

パソコンの画面の右下に
  「お知り合いではありませんか」
と次々に見知らぬ人の名前がでてくる
突然飛び込んでくる一瞬、一瞬のわずらわしさがいやで
退会しようと思っていた

突然、Yさんのブログを見ていたら
フェイスブックを見つけた
面白かった
ブログとは違う個人的な生活があった

  「その気持ちシェアしませんか」
  「お友達になりませんか」
気持ち? シェア? お友達?
結構です

八木重吉の詩集の序
「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、
私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでく
ださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友
にしてください」
即、なりますと私は答えた。高校生の時。
ジョン・キーツからの流れでもあった

「友達は、友達だ。/でも、友達の友達は友達ではない。」
というコラムニスト(小田嶋隆)の言

お友達?

突然、フェイスブックに高校の同級生が現れた
英語、平和、子供食堂など、彼女らしい日常があった
新聞記事等を載せることで、主張している

彼女のお友達の中に、もう一人同級生を見つけた
『ペコロスの母に会いに行く』という漫画を描き映画にもなった
クラスの中で一番静かで寡黙だったのに、二十年後の同窓会では延々とギターを弾いて歌っていた

彼のお友達の中に、また一人知り合いを見つけた
大学の先輩。相変らず映画祭にかかわったり、つるむのは嫌いな人だったのに、街歩きの案内をしたり

友達のお友達のお友達は友達だった

長い年月、変わらないところあり、変わったところもあり、友達の現在を少しわかった気になる
コラムニストは言う「それは仲間と思いを共有していた頃への郷愁である」と

SNSでのつながりを、基本的なしくみも
私は多分まだわかっていない

時代が進むということは
友達の定義も変わるということか
中々時代にはついていけない
少し、ついていっている

 ひととひととのつながり、ひととものとのつながり。時代とともに変わる。ということから始まり、今回は「関係/つながり/変化」というようなことばを中心に詩を読んでいくことにした。
 池田の作品は「友達」を中心にして、「関係/つながり/変化」とらえ、「思いの共有/郷愁」ということばのなかで全体をぎゅっとひきしめている。そのことば自体はコラムニストのことばからの引用なのだが、それこそ「思い」が「共有」されているから、そのまま池田のことばとして響いてくる。
 そして、このことを「先取り」する形で、八木重吉の詩(ことば)との出会いが書かれているのだが、私は、その部分の「即」という表現に、強く引きつけられた。池田がここでつかっている「即」と「即座」の「即」である、間髪を入れず、つまり「時間」をおかずにということなのだが、そうした「時間感覚」以外ものが含まれていると感じたのである。
 「友にしてください」と言われ、「即、なります」と答えるとき、それは「空間」を超えた「即」でもある。そこにはいない八木と池田が重なっている。「お願い」をしたのは八木だが、もしかすると池田が八木に「友にしてください」とお願いしたのかもしれない。そういう「誤読」を誘う「即」である。
 その後、いくつかの「体験」が語られている。「友達(同級生)」を見つけるとき、それは単なる発見ではない。「時間/場所」が一瞬にして、とけあう。「友達」を見つけるだけではなく、池田は「自分」というものをも見つけている。
 「友達即私」。
 その「発見」が、ここにはある。
 「長い年月、変わらないところあり、変わったところもあり、友達の現在を少しわかった気になる」という行の中の「友達」を「私」に書き換えても、何の「矛盾」も起きないだろう。むしろ、私は「友達」ではなく、そこに「今の池田」を見る。
 「時代についていく」というのは、つまりは「今の自分についていく」ということだろう。
 さーっと「書き流した」感じの詩であるけれど、その「さーっ」という感じに、作者の「人柄」が出ている。「詩を書く」という意識ではなく、「書きたいことを、書きたいだけ書く」という姿勢が、自然にことばを動かしている。書いたものが、小説でも短歌でも俳句でもなく、たまたま詩になった、というのが詩の一般的な姿だと私は思う。

ブーゲンビリア  青柳俊哉  
 
ブーゲンビリアが咲き誇るみち
巨木で熊蝉がなきつづける 
 
棺の少年が地下へおりていく
 
蝉が殻を背負って地下から上ってくる
青みをおびた乳白色
 
消えさることのない色の香り

飛び交う飛蝗を捕らえて哲学者がおもう
 
雲がゆっくりと少年を追う
風が花のこうべをめぐらして蝉の声を聴く
 
熊蝉がなきつづける 少年は十二歳のまま 
 
地上を超えていく音楽
ブーゲンビリアが咲き誇るみち

 「少年」がいる。ひとりは「棺」のなか。ひとりは「十二歳」。そして「哲学者」がいる。この関係は? 同一人物、ひとりの人間の、ある瞬間の意識が、その三人に分かれているということだろう。あるいは、ふたりの少年を結びつけるとき、その瞬間に哲学者があらわれてくるということかもしれない。
 もしそうであるなら、ここに描かれているすべての存在は、哲学者が結びつけている存在、あるいは哲学者のなかから分離して生きている存在ということになる。「ブーゲンビリア」も「蝉」も「飛蝗」も、さらに「色/香り/音楽」も。
 「意識」がさまざまな形をとりながら「咲き誇る」。そうした全体が哲学者によって統一されている。このときの「哲学」は「詩学」と同じ意味になるだろう。
 「地上を超えていく音楽」の「音楽」を「ことば」と言い換えれば、それが詩の定義になるかもしれない。

一月の仕事部屋  杉惠美子

この部屋に入ると
机の上に
本棚に
引き出しに
私の傍から離れない
不思議な間がある
壁には 生真面目な
記憶と約束があり
小さな憩いがある

表情をなくさない声かけが
これからも続く

 「私の傍から離れない/不思議な間がある」は不思議な二行である。「間」は何かと何かの「間」。つまり、それは一種の「切断」なのだが、それが「離れない」。「離れない」は密着しているということ、「間」がないということ。つまり、この二行は、何かしら「矛盾」を含んでいる。しかし、それを矛盾とは感じさせない強さがある。
 池田の詩に出てきた「即」は「色即是空/空即是色」の「即」とは違うのだが、違いながらも、いくぶん、それに通じるものを含んでいたが、この二行は、それに似ている。もともと「色即是空/空即是色」自体も矛盾した論理だが、こうした矛盾を「超える」のがことばの運動というものなのだろう。矛盾をつかまえることで、矛盾ではなくなる。矛盾ではなく「法(哲理)」になる。
 それは、杉の詩では「部屋」という「形」になる。部屋が色(形、存在)、間が空か。
 さて。
 終わりから二行目の「声かけ」は、だれの声かけか。部屋から(部屋に存在するものたち)から杉への声かけか、杉からものたちへの、あるいは部屋そのものへの声かけか。これは、すこし考えるだけでいい。「結論」は必要がない。どちらを選んでも、それは「正しい」だろうと思う。それが「即」ということだろうと、私は思う。

三十六億年のDNAの記憶の旅  堤隆夫

わたしとあなたは 融通無碍なる表裏一体
あなたはわたしに他ならない

わたしとあなたの命の旅は 
三十六億年のDNAの記憶の旅
三十六億年の永遠かつ瞬時の縁

而して 時は流れず
わたしの身と心は 
即ち あなたの身と心

わたしを滅ぼし そして蘇らせた神は
あなたを滅ぼし そして蘇らせる神でもある

送るものはやがて送られ 
涙するものは涙され
愛するものは愛され

そして---実存するものは
永遠かつ瞬時なる 親と子の活断層

あなたとわたしは---真紅の火
わたしとあなたは---純白の雪

 堤の詩には、「即ち」ということばがつかわれている。それは、これまで見てきた「即」の別の読み方である。堤は一行目に「表裏一体」と書いているが、それは「即」そのもののことである。さらにおもしろいのは、その「即/表裏一体」が「融通無碍」であることだ。いつも動いている。いれかわっている。
 こうした「変化」を含んだ運動としての「即」は、「かつ」ということばでも書かれている。「即=かつ」。「かつ」というとき、むすびつけられるもののあいだに全体的な「違い」があるから「かつ」なのだが、「かつ」と言えなければ、また「即」という必要もなくなる。そうした関係の「即」と「かつ」。
 こうした存在のありようを、「矛盾」を感じさせないことばで言いなおすと、どうなるか。
 堤は「わたしとあなた」と書き出しているが、「即=かつ」の矛盾を超えると、それは「と」ということばになる。わたし「即」あなた、わたし「かつ」あなた。これは、わたし「と」あなた、ということである。「色即是空=空即是色」であるように、「わたしとあなた」は「あなたとわたし」である。
 この意識が最終連になってあらわれるのだが、この二行は、とても強烈で興味深い。

あなたとわたしは---真紅の火
わたしとあなたは---純白の雪

 矛盾は「真紅の火/純白の雪」という、それこそ反対のものとして結晶するのだが、この鮮烈なイメージへの結晶、昇華、それが矛盾を「超える」という運動である。二行に分けて書かれているが、ここには「意識の時差」はない。それは二行同時に「誕生」したものである。
 池田の詩に書かれていた「即」よりも、もっと「間」がない。それこそ「表裏一体」であり、「融通無碍」に交錯する。しかし、それは「混沌」ではなく、絶対体的な存在形式だ。

幸運  魚本藤子

高台にあるレストランは
一面ガラス張りで
海峡の流れがよく見えるようになっている
どこにも隠れようがない
対岸の門司の街並みがすぐ近くに見える
今 銃口を向けられたら
間違いなく命中するだろう
けれど
どこにも銃声は聞こえず
遠い街並みは
物語のような穏やかさだ

海峡の流れは
日に四度変わる
その間を大きな外国のタンカー船も
小さな釣舟も行き来する

幸運にも
流れに乗ると速く進む
流れに乗る幸運 逆光する不運
小さな釣舟はすいすい進んで行く
どんな苦難も流れに乗れば
 玩具のように軽く見える

今日は多分この上なく幸運な日だ
誰にも銃口を向けられることもなく
怯えて逃げまどうこともなかった 
私たちは
空いている椅子に重い荷物を置いて
穏やかに談笑した
帰る時には
その荷物をうっかり忘れそうになった

 受講生の作品ではなく、受講生がみんなといっしょに読むために持ってきた詩。
 この詩では、「間」は「海峡」という形で描かれている、というとかなり強引な読み方になるかもしれないが、海峡が見えるからこそ「私たち」は「私たちの間」にことばをいきかわせる。ことばによって、切断と接続をくりかえすのだろう。
 最後の四行が象徴的で、とても美しい。「荷物」がなんなのか、何を象徴しているのか、ひとによって意見が分かれると思う。だからこそ詩を読むことは楽しいのだが、そういう「なぞとき」よりも魅力的なのは「うっかり忘れそうになった」ということばである。「うっかり」のなかにある「超越」は、「夢中」とどこかで交錯する。魚本の過ごした時間がどんなに充実していたかをしっかりと伝えてくる。


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杉惠美子「春兆す」ほか

2025-01-17 23:07:44 | 現代詩講座

杉惠美子「春兆す」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月06日)

 受講生の作品ほか。

春兆す  杉惠美子

新しい春に佇み
息をひそめて おさな児と手をつなぐ
一瞬の 未来を見つける

透明さの中に立ち
樹々の息づかいを聴く
一瞬の 呼吸の深さに出会う

早朝の心を歩かせ
通り過ぎる 君の声を聞く
一瞬の はるの渦に溺れる

桜木の影に佇み
朧月のほのかさに埋もれる
一瞬の 回想に包まれる

 起承転結の構造がしっかりした作品。一連目「おさな児」と「未来」、二連目「息づかい」と「呼吸の深さ」の呼応がとても自然。それが三連目で「君の声」と「はるの渦」へと変化する。タイトルには「春」と漢字をつかっているが、ここでは「はる」。そこに、ふしぎな官能性がある。「溺れる」がそれに拍車をかける。これを受けて、四連目で「埋もれる」「包まれる」ということばがつづく。その静かさ。
 「春兆す」。しかし、そのとき、もう二度と帰って来ない「春の記憶」もやってくる。よろこびと悲しみが交錯する。記憶は悲しければ悲しいほどいとおしいし、うれしければうれしいほど、逆にいまを悲しくさせもする。人間の思いとは、わがままなものである。
 こうした気持ちがあって「回想」ということばが選ばれているのだと思うが、この「回想」は、少し「答え」というか「結論」になりすぎてしまっているかもしれない。では、どんなことばがいいのかというと、なかなか思いつかないのだが、「回想」というあまりにも客観的なことばよりも、「かなしみ」(愛しみ)につうじるような感情的/主観的なことばでもいいような気がする。
 つまり、というのは変かもしれないが、私は、この詩を、いま、ここにいない人に対する「ラブレター」のように読みたい気になるのだ。

私人--杭に立つ葉  青柳俊哉  
 
木肌からとじられて離れていく 
自由な私人として 
地上のすべてから力を受けて
 
着地点を定めず飛ぶ
 
殯(もがり)をうつ漏刻の森 落ち葉の列が風に立つ
高くうず巻き さらさらと川へ流れる
 
わたしも水を駆ける 堰の杭にとまる
 
葦 かや吊り草 野鴨 
吊り橋で跳ねる青蛙 
過ぎていく他の木の国の葉たち 
 
出会うものたちが
杭に立つまっ新(さら)なわたしをことほぐ

 たとえば、ここに一本の杭がある。杭だから、それは生きている木ではないのだが、枯れている木なのだが、なぜか一枚だけ葉が残っていると思ってみる。そして、その最後の葉は、いまどこかへ行こうとしているのだと思ってみる。
 その葉から見たとき、世界はこんなふうに見えるかもしれない。
 その一枚の葉は、杭を離れながら、かつて木を離れたいくつもの葉に(仲間に)であう。また、その葉のまわりに存在する新しい世界も知る。
 そんな旅立ちを、世界が祝福している、と読んでみたい。


残された者  堤隆夫

年の瀬 残された者は 
どうやって 新年を迎えればいいのか

愛しい思いは 一片の冬の花びらに 
涙の想いの雫を託して 
こころのせせらぎに 流そう

なぜ なぜ いつも善き人が 
先に逝ってしまうのだろうか

あはれ わたしは 朽ちた花そのものでないまでも
あなたの花影だったのかもしれない

思い出があるから 生きられるのか
然らば 思い出の浮草に乗って 旅立とう

わたしは先を越されてしまった 
置いてけぼりにされてしまった

さようなら さようなら
万葉の鐘の音が聞こえてきた

 「思い出があるから 生きられるのか」という一行に、何を読み取るか。ひとそれぞれだろう。「楽しい思い出」があるから、いまがつらくても「生きられる」のか、「悲しい思い出」があるから、生きられるのか。つまり、私には悲しみ、苦しみにを乗り越える力があると実感できるから、生きられるのか。
 青柳の、「杭に残った一枚の葉」(と、読むのは私の「誤読」で、青柳はちがったことを意図しているかもしれないが)は、「わたしは先を越されてしまった/置いてけぼりにされてしまった」と感じたことがあったかどうかわからないが、この堤の詩のなかの「わたし」はそう感じている。そして、そのとき、もし堤の「わたし」が「葉」ではなく「花」だったとしたら、「わたしは 朽ちた花そのものでないまでも/あなたの花影だったのかもしれない」ということになる。「わたし」と「あなた」は、そんなふうに交錯する。
 あらゆる存在(人間)は個別性を生きているが、個別であるのに、どこかで交錯してしまう。
 ひとの感じていること、考えていることは、基本的に「私の問題」ではないのに、他人なのだからほっておいていいはずなのに、考えたり、感じたりしてしまう。時には、そのひと以上に真剣になってしまう。そして、ふしぎなことに、その瞬間、「私」というもの(枠)が消えて、なんだか豊かになる。
 そんな瞬間をもとめて、私は、詩を読んでいる。詩だけではなく、ことばを読んでいる。

柱時計  淵上毛銭

ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二
鳴るのかい
苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ

 「死」が登場するが、ちっとも「死んだ」気持ちにならない。ずーっと生きている感じがする。たぶん、この詩を読んでいるうちに、私は淵上にではなく、淵上が書いた「柱時計」になっているのだろうなあ。柱時計になって、淵上がいようがいまいが関係なく、時を知らせ続ける柱時計になって生きているということだろうなあ。そして、それはまた同時に、この柱時計という詩を書いた淵上になっているということでもある。
 「十二時がきたら 十二/鳴るのかい」という行の展開の仕方も、とてもおもしろい。散文では、こういう展開はしない。そうすると、ここにも、詩が動いていることになる。いわゆる「論理」の踏み外し、踏み外しながら別の「論理」(?)へ移行する。これを「別の論理と交錯する」と書き直せば、今回の「講座」のテーマが浮かび上がるかな? ちょっと、強引かな?

 


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堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか

2024-12-11 23:36:28 | 現代詩講座

堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年12月02日)

 受講生の作品ほか。

さびしい町を発とう  堤隆夫

あの日が もう 帰って来ないのなら
私には もう なあーんにもない
もう 空蝉の木漏れ日の水面に 戻ろう
幼い日々の 言葉を知らなかった あの日の 木賊色の水面に戻ろう
不安と期待が入り混じった 薄紅の春の昼下がりのひと時
酩酊して崩れ落ちた あの日の思い出は 苦いなみだの雫
半分だけ幸せだったあの日は もう 帰っては来ない
一年前の受話器のあなたの声は もう 聞けない
姿は見えなくても 声だけでも もう一度-----
詩とは 思い出の表現なのか?
焦がれて焦がれた 私の さびしい町
私は 今 空の水面に浮かぶ 根なし草
こころとは さびしい町
こころとは 戻ることのできない焦がれ町
さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで
さあ 肺胞に青息吐息を詰めこんで なみだの水筒を持って 発とう
生きるために なあーんにもない黙示録の逝きし世に向かって 発とう

 「ことばの響きが美しい。音楽が響く」「歌の歌詞になる。青春の歌。半分だけ幸せの半分が印象的」「誘いを感じる。いままでの作品とは色を異にしていて驚いた。力が抜けている」「半分からの四行が印象に残る。最後の三行もいい」「なみだの水筒が、とてもいい。これがタイトルだったらいいなあ」
 いままでの作品と印象が違うのは、ひとつには、反語的質問がないからかもしれない。発とう、という呼びかけが特徴的だ。「歌詞」という視点から見れば、昼下がりのひと時、苦いなみだの滴、焦がれ町のようなことばの動かし方が「歌詞」に似ているかもしれない。
 もし「歌詞」に徹するのだとすれば、「詩とは 思い出の表現なのか?」という一行はない方がいいかもしれない。ここには堤の「反語的質問」のスタイルが残っている。
 (「涙の水筒」をタイトルにしたら……という受講生のアイデアにのっかって、私も、ちょっとこうしたらどうなるかな、ということを提案してみたい。)
 ここを一行空きにして連を変える。最後の部分も、最後の二行を三連目にするとおもしろいかもしれない。意味的には「さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで」は三連目のことばにつながるもの、つまり、そこに一行空きを入れると、「連またがり」になるのだが、その「不自然さ」が逆に最後の二行を際立たせることになるかもしれない。
 これは私が頭のなかだけで考えたことなので、実際に書いてみる(印刷してみる)と違うことを思うかもしれないが。
 スタイルをかえてことばを動かしてみるのも、おもしろいかもしれない。

水、ひろしま  青柳俊哉

詩、目に見えないかなしみ
世界、目に見えないうつくしみ
すべてに行き渡って水がうつし水が記している
 
ドームの跡に佇む水の目の少女
黄色い星の光を瞳にあふれさせるゲルマニアの少年
水牛とともに涙を泳ぐ女
 
雪は黒い塵にふれて初めて結晶する
鐘を打つように見えない世界を水の手が響かせる
その音が街の涙の暈を増す
 
外側を詩がながれる 
かなしみよって世界は
償われている

 「現在の広島の川から、かつての残酷な光景を想像するのはむずかしい。最終連、悲しみがあってひとは産まれる。残酷を知っているのに人間はそれを繰り返してしまう」「何度も声に出して読みたい。詩は悲しみの表現。エモーショナル」「タイトルが美しい。水が様々に表現されているが、詩と悲しみと水が一体になっている」
 ことば、音の関係について考えたい。かなしさ、うつくしさではなく、かなしみ、うつくしみ、と書く。その最後の「み」の音のなかに「水」の「み」が隠れている。そのためだろうか、三行目「水がうつし水が記す」のなかに「うつしみ(現身)」が隠れているように感じられる。いきているひと、しかし、死んでしまったひと。死んだけれど、生きている姿を思い出さずにはいられない、そのいのち。そのゆらぎのようなものがある。
 二連目、涙の目の少女ではなく、水の目。それが、そのあと水を泳ぐではなく、涙を泳ぐ。水と涙が交錯する。水即涙、涙即かなしみ即うつくしみ。

待ち時間  杉惠美子

冬が進んでいく朝
私は麓の道をゆっくり歩いてみます
一方通行ではない道を探します
あれこれ つぶやきながら
耳を澄ましてみます


私の輪郭が
ほどよく 柔らかな光の中に
貌となって
現れ
少しずつ真ん中に集まっていく
そんな
時を待って
ゆっくりと 歩いてみます


真ん中に集まった灯りは
小さくても消えないように
私の中で 灯しつづけます


赤い椿の花の蕾も
だんだん 膨らんできています

 「貌(かたち)という感じのつかい方がいい。一連目の、一方通行から三行がいい。三連目の、真ん中に集まるがつかみきれない、それが蕾に変わっていくところがいい」「冬から春への時間の流れと心の流れが重なる。一方通行とあれこれの対比がいい」「三連目の灯りということばに作者の希望を感じた。詩の可能性が広がる」「三連目の、私の中に向かって一、二連目が用意されている。少しずつ、だんだん、変わる。感情の高まりを感じる」
 私は三連目の、少しずつ真ん中に集まっていくの「いく」ということばに少し驚いた。四連目で「私の中」ということばが登場するが、集まったものが私の中で形をとるならば、それは、集まって「くる」だと思う。しかし、三連目では「輪郭」ということばが象徴するように、まだはっきりとは「私の中の「中」が意識されていない。何か、客観的に対象を見ている感じが残っている。そのために「いく」になっている。しかし、集まるに従い、それが「輪郭」ではなく「中」と結びつく。こういう変化を描くには、やはり「いく」がいいのだろう。
 「私の中」、つまり「主観」になったあと、それが椿の蕾となって再び客観化される。蕾は風景ではなく、象徴になる。
 象徴(あるいは比喩)が、どうやって誕生するか。そのときの「無意識」の動きが「いく」ということばのなかに隠れている。こうしたことが影響して、受講生も季節の変化、時間の流れだけではなく、「心の流れ」を感じたのだと思う。

クリスマスツリー  宮尾節子

はじめに言葉がありました。
「今夜、わたしはモミの木になる」
つぎに、時が言いました。
「じゃあ、わたしはクリスマスになるね」
つぎに、涙が言いました。
「じゃあ、わたしは全部ガラス玉に変わるわ」
つぎに、思い出が言いました。
「わたしは、良い物だけ取り出して
一つずつ枝に飾っていく」
泣きやんだ瞳が
輝きながら、訴えました。
「わたし、てっぺんでお星様になりたい」
みんなが賛成したとき
耳元でそっと、悲しみが囁きました。
「だったら、最後にわたしが
喜びにかわるね」

街のなかでも家のなかでも
今日、世界じゅうでいちばん幸せ者の
クリスマスツリー。

あなたが、一度倒れたモミの木だって
誰も覚えていない。

 ここには書かなかったが、谷川俊太郎追悼の記事を読むなどして、あまり作品に触れる時間がなかったのだが。いろいろな変化のなかで「悲しみ」が「喜び」という正反対のものにかわるところに注目が集まった。
 その三行もいいが、最終連が、複雑でとてもいい。
 「誰も覚えていない」が作者は知っている、つまり覚えている。直前に「倒れた」という表現があるが、ほんとうに「倒れた」のか「倒されたのか(伐られたのか)。そういうことを考えさせる。「誰も覚えていない」という反語的表現が、読者を目覚めさせる。非常に深い。


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杉惠美子「秋の階段」ほか

2024-11-30 23:01:39 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の階段」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月18日)

 受講生の作品。

秋の階段  杉惠美子

秋の階段を登ったら
銀杏の色に染まってしまって
自分を見失ってしまった

秋の階段を降りたら
川に落ちて
落ち葉と一緒に流れてしまった

秋の風は
窓を探して迷ってしまって
空に舞い上がった

やがて秋の風は
人の心を優しく包み
穏やかな風となってあたりを静かに包んだ

その白い風の中から
私は
何かを手繰り寄せたいと思った

離れて自分を観る
今年の秋が
そこにあるかもしれない
 
 受講生の声。「連の進み方が詩。秋の風は、春や夏の風と違って白い。その白い風がいい」「途中で風が主体になる。最後の、あるかもしれない、が印象的」「四連目までは、杉さんらしい詩的表現。最後の二連に飛躍がある」「終わりから二連目の、何か、というのはわからないもの。そのわからないものをつかもうとしている」
 受講生のひとりが言った「途中で風が主体になる」という指摘は、この作品のポイントだと思う。
 一連目は、いわゆる比喩。私が銀杏色に染まり、銀杏と区別がつかなくなり、自分を見失ってしまう。論理が動いている。ところが二連目では「川に落ちて」とある。私は実際には「川に落ちて」などいない。落ちたのは落ち葉である。落ち葉を見たとき、杉は落ち葉となって、川に落ちた。まあ、これも比喩ではなるけれど、この比喩は二段階に動いている。つまり加速している。別なことばで言えば、ことばが暴走している。ことばの暴走が詩なのである。書かれていることは「うそ」なのだけれど、ことばが加速していくときのエネルギーに「うそ」がない。そういうところに、詩が存在する。
 三連目に注目する受講生はいなかったのだが、私は、ことばの暴走の点から見ても、この連はおもしろいと思う。ここには「ま」の音の繰り返しがある。一連目にも「ま」の音はあるのだが、三連目の方が、何といえばいいのか、「無意味」である。「窓」が登場する必然性はない。(と、私は感じる。それが「無意味」という意味である。)「迷う」「舞い上がる」とイメージが暗くなるのではなく、明るく軽くなっていくところも、無責任(?)でいいなあ、と思う。こういうことも「無意味」につながる。杉は、きちんと「意味」をこめて書いているのかもしれないが、私は「意味」を考えない人間なのか、こういう「意味」を離れる「音」というものに強く刺戟を受ける。
 谷川俊太郎の「鉄腕アトム」の「ラララ」と同じである。「音」だけになって、そこからほんとうに何かが加速する。
 この詩も、一連目、二連目の展開の仕方は、いかにも「秋」、センチメンタルな美しさに満ちている。それが「ラララ」ではなく「ままま」を通して「私」ではなく「風」に重心が移る。(受講生のことばで言えば「主体」が変化する。ほんとうは私の考えとは違うことを言っているのかもしれないが、私は、そう言っているのだろうと「誤読」する。)
 しかし、ほんとうに「主体」が完全に入れ代わったのではなく、「私」もまだ「私」のまま動いている。「風」も「私」も、「自分」なのだ。
 で、「離れて自分を観る」という哲学的なことばがぱっとあらわれるのだが、このあたりの「呼吸」が軽やかでいい。感傷に溺れない清潔さがある。

星とかえる  青柳俊哉 

高木のうえでかえるがうまれる
吹きならす星のような酸漿(ほおずき)
 
空の水面に
声の輪がひろがり無数に波立つ
 

絶えず星へむかってかれは吹く
身体の深みから知覚できないものの肌へ
貝を吹きならすように
 
星がそよぎ岩が鳴る
光に乗せてゆらぐ輪を返す
 
かれはすべての星の声を聴く
かれは世界の星の声と合一する 
原初の星がうたう

 「かえるには、カエルと帰るが重ね合わさっている」「星とかえるがつないでいるのが不思議。かえるの表現もふつうとは違った描写」「星とかえるの組み合わせにびっくり」
 重ね合わせる、ひとつのことばにいくつかのイメージが重なり、ひとつに整理できない。その未整理を「混沌」と呼んでもいいかもしれない。詩は、その「混沌」のなかから、それまでになかった姿としてあらわれてくるものだろう。
 私は、この詩では「吹く」という動詞に注目した。酸漿を「吹く」、(ほら)貝を「吹く」。そのとき人間ならば、ほほが膨らむが、カエルなら腹が膨らむのか。強く「吹く」ためにはほほを膨らませ、唇を狭くする。風圧をコントロールする。何かを動かすためには、そういう「矛盾」というか、一種のコントロールが必要だが、そうしたコントロールを意識するとき「合一」ということがおきるかもしれない。「星の声」と「かえるの声」が「合一」するとき、星とかえるの、自分の声をコントロールする力こそが「合一」のものになっているかもしれない。
 「表現/声」よりも、混沌としたエネルギーをコントロールする力が、世界を「一体化」するのかもしれない。「身体の深みから知覚できないものの肌へ」と青柳は書くのだが、私は「知覚できない」ものは、「身体の深み」にあるエネルギーそのものであると、逆に読むのである。それは直接知覚できない。しかし、それをコントロールしようとする力のなかで、反作用のようにして身体の存在そのもののように感じられてくる。「星とかえる」と青柳は書くが、それは青柳の二つの別の呼称だろう。


空はなぜ青い?  池田清子

そんなこと 考えたこともなかった
生まれたときから
昼間の空は青かった
灰色の空を見て
憂いを感じる子供ではなかった
雨の日に
雨音を楽しむ子でもなかった
晴れた日にだけ
外を見ていたにちがいない

なぜ 青い?

なぜ? って思ってたら
科学者になってたかも
太陽や地球、空気、光、色
水素だとかヘリウムだとか
それはそれで
愉しかったにちがいない

でも
もし
空全体が
緑一色だったら?
黄色一色、紫一色だったら?
どうしよう って思う

もし
空全体が
しましまの虹色だったら?
って思う

 「おもしろい。夕日が赤いのは、恥ずかしがっているから。空が青いのは、海が青いから、などとこどものとき言っていた」「最後の二連、特に、しましまの虹色が池田さんらしい」「考えたことがなかった。 晴れた日にだけ/外を見ていたにちがいないと書いているけれど、私はこどものとき空を見上げなかった」
 「考えたこともなかった」が「憂いを感じる子供ではなかった」「雨音を楽しむ子でもなかった」と繰り返され、加速したあと、「ちがいない」「ちがいない」の繰り返しのなかで、科学的な感想が、空想にかわっていく。そして、「どうしよう って思う」が出てくるのだが、このあとが、ちょっとおもしろい。最終連は「どうしよう って思う」ではなく、単に「って思う」。
 これは、「どうして」だと思う? なぜ「どうしよう」がないのだろうか。「どうしよう」とは思わないのだ。ここには「不安」ではなく、「願い」が書かれている。「虹色」から何を連想するか、ひとそれぞれだろう。池田は何を連想したのか。「平和、しあわせ」。それが「しましま」に織りなされているのだとしたら。

 

 

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東田直樹「光の中へ」ほか

2024-11-15 22:54:09 | 現代詩講座

東田直樹「光の中へ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月04日)

光の中へ  東田直樹

光の中へ
ただ 光の中へ
僕は入りたい
たとえ そこが
現実の世界でなくても

光が僕を誘う
僕の分子を呼ぶ
細胞のひとつひとつが
光に向かって伸びていく

この手が
この目が
光をつかまえる
一瞬の喜び

どこにでも光はあるのに
僕が望む 真実の光は
永遠に
存在しない

カラスは黒い  東田直樹

自分のすべてで隠している
本当の気持ちを
悔しいけれど 仕方ない
僕は黒いカラスだから
                   (『ありがとうはぼくの耳にこだまする』)

 受講生が、みんなと一緒に読むためにもってきた詩。「カラスは黒い」の方が人気があったのだが、「光の中へ」について感想を書いておく。
 「光の中へ」については、「真実の光は/永遠に/存在しない」ということばに「希望がない」「断定に違和感がある」という声があったのだが、私はむしろその最終連に強い希望があると感じた。存在しないのは、あくまでも「僕が望む」真実の光である。この「真実」の対極にあることばは、一連目の「現実の世界」の「現実」だろう。「現実」ではなく、東田は「理想/希望」を求めている。「真実の光」は「現実の光」ではなく、「現実を超える絶対的な光」だろう。それは東田にしか見えない。だから、それは「存在しない」と言うしかないのである。ここには「現実」への強い抗議、拒絶がある。逆に言えば、それだけ東田の求めているものは譲れないということでもある。
 だれにでも、その人だけにしか見えないものを見ている。その自分にしか見えないものを、東田は、ここでは「光」と名づけている。
 この、その人だけの「真実」を「光」と仮定しておいて、受講生が書いてきた詩の中に、「光」はどう表現されているか。それを探してみよう、と呼びかけて、今回の講座ははじまった。

藻の記憶  青柳俊哉

十二月 
夜の底から光がさしかける

海が深く侵食する島 
空は高く雲はなく 花殻が風に飛ぶ 
蝋梅の蕾がひらきはじめる

藻の花がゆれる寒い泉 湧き水を掬って渇きをいやす

水脈を小舟を漕いで南へむかう海人(あま)たち
 
水底の雲母に野薊(あざみ)のかげが細長く伸びる
石と人の記憶が細長くゆらぐ
 
両腕をイロハモミジの枝のように大きくひらいて
しなやかな空の光をいれる
 
息は凍えた藻の香りがした

 青柳の詩には「光」が二回登場する。しかし、「光」ということばをつかってはいないが、「光」につうじるイメージとつながることばはないだろうか。
 「わかる」ということは、たぶん、「知らないこと」を「自分の知っていること」と結びつけて「理解」することである。
 私はたとえば「花殻が風に飛ぶ」に光を感じる。風もきらめいているだろうが、そのとき花殻はきっと光を反射している。開き始める蝋梅も明るい。蕾よりもさらに強い光がある。
 湧き水にも輝きがあるし、水脈は水の色の変化であると同時に光の変化(反射の変化)でもあるだろう。
 「南へ、にも光がある」「野薊のかげは、かげと書いてあるが、そこにも光が存在する」「記憶が細長くゆらぐ、にも光を感じる」。さまざまな声がつづいた。「光」はかならずしも「輝き」や「まぶしさ」ということばで書かれるわけではない。ひとりが指摘したように、「かげ」は、その対極に「光」を想定している。東田の「存在しない」が絶対的存在を宣言するように。
 反対のことばに、実は、求めているものが暗示されていることもある。そして、それは暗示を超えて、絶対的な存在であるからこそ、「反対のことば」で語るしかないのかもしれない。

見捨てられた小世界で  堤隆夫

見捨てられた小世界で
心温まる絆を見いだす幸せを
わたしは知っていたのだろうか
人のために灯をともせば
自分の前も明るくなることを
わたしは知っていたのだろうか

わたしは学んだ学問から
一個のりんごを分け合う幸せを
教えられたのだろうか
年を経るにつれ 多くの言葉を知ったことは
わたしに生きる幸せをもたらしたのであろうか

産業革命以降の近代社会は
人としての気高さを進化させたのであろうか
大家族から核家族への移行は
競争することの卑しさから
卒業できたのだろうか

尊き人が教えてくれた
経済的な貧困は 精神の貧困ではない
識字率や就学率は 文化的な高さの指標でもない
近代化のさらに彼方を見つめる眼差しに必要なのは
思想ではなく 温かい人間的関心 

大切な人を失った悲しみは
穏やかに生きることで癒される
無力な自分を受け入れること
無力なままでもいい
無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる

 堤の詩には、「光」ではなく「灯」ということばがある。それは「明るくなる」という動詞とつながって書かれているが、ほかにどんなことばが「光(灯のようなもの)」として書かれているだろうか。
 たとえば「一個のりんごを分け合う幸福」、「幸福」が「光」であるし、「分け合う」ことが「光」でもある。
 逆の「闇」はなんだろうか。堤は明確には書いていないが「競争すること」「卑しさ」、あるいは「貧困」が「闇」だろう。「近代化」が「光」だとしても、その「近代化」には「闇」もある。
 それを対比させながら、堤は、「必要なのは/思想ではなく 温かい人間的関心」と展開する。このとき「思想(近代化が人間の生活を豊かにし、幸福にするという思想)」が「強い光」(人を導く光)であるなら、「温かい人間的関心」は「一個のりんごを分け合う」ような「おだやかな光(弱い光/近代化以前にも存在した人間の生き方、暮らし方)」かもしれない。
 この「弱い光」は最終連で「無力」ということばになって動いていると、私は感じる。
 「無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる」を、私は「無力だからこそ、戦わずに(だれかを殺す、否定するのではなく)、そばにいるひとと一個のりんごを分け合う」。「戦わずにいる」ことは、そのとき、「戦う」ことよりも、きっと「強い」はずである。
 堤はいつも「決意」のことばを書くが、「弱くあることの決意」という視線がそこには動いている。

十一月の扉  杉惠美子

十一月の風景が
遠くから近くから 私を包んでいます

その心地よさの中で
少し立ち止まっています

その空気を思い切り吸って
何も持たずに歩き出してみました

十一月の会話っていうのがあるのかな?
「少し寒くなりましたね
 少し切ないですね」 って言ったら
何と返事がくるだろう?

 

扉を開くと矢印があり
「何が解放されるべきか」
と書いた紙があった

 「十一月の風景が/遠くから近くから 私を包んでいます」という書き出しの「風景」も「光」のひとつだろう。少なくとも、それは「闇」ではない。「少し寒くな」る、「少し切ない」はどちらかといえば「明るさ」よりも「暗さ」に通じるかもしれないが、「闇」ではないし、「少し」という変化のなかにあるのは、それこそ「光のゆららぎ」のようなものだろう。それが「寒さ」や「切なさ」に不思議な陰影をあたえる。
 そして、そこに陰影を感じるからこそ、私は最終連の「矢印」と「解放」ということばに「強い光」を感じた。それは、あまりに強烈すぎて、何も見えなくなるような「明るさ」につながる。絶対的な光のために、光しか存在しない、光のために目をつぶされて「暗い」とさえ感じてしまう何か。
 「何が解放されるべきか」の「か」の問いかけられ、杉は、動けずにいる。矢印があるのに。
 東田の書いていた最終連を思い出すのである。

 

不条理な死が絶えない  若松丈太郎

戦争のない国なのに町や村が壊滅してしまった
あるいは天災だったら諦めもつこうが
いや天災だって諦めようがないのに
〈核災〉は人びとの生きがいを奪い未来を奪った

二〇二一年四月十二日、福島県相馬郡飯舘村
村が計画的避難区域に指定された翌朝
百二歳の村最高齢男性が服装を整えて自死した
「生きすぎた おれはここから出たくない

二〇二一年六月十一日、福島県相馬市玉野
出荷停止された原乳を捨てる苦しみの日々があって
四十頭を飼育していた五十四歳男性が堆肥舎で死亡
「原発で手足ちぎられ酪農家

(略)

遺族たちが東京電力を提訴・告訴しても
因果関係を立証できないと却下されるだろう
生きがいを奪われた人びとの死が絶えない
戦争のない国なのに不条理な死が絶えない
                          (コールサック詩文庫 14)

 東京電力福島第一原発事故。その報道、自殺した人のことば、それをていねいに記録している。「こういうことばも詩ですか?」という質問が出たが、私は、詩だと考える。だれかが書いたことばであり、そこに一字の修正もなくても、既存のことばをどう自分のなかで組み立て直すか、その「組み立て方」に作者のことばがあらわれる。
 この詩で注目してほしいのは、自死した人のことばである。書き出しには鍵括弧がついている。しかし、その鍵括弧は閉ざされていない。この表現方法に、若松の強い感情移入がある。それは直接的には書かれていないが、彼らは最後のことばを残した。しかし、それはほんとうの最後ではない。彼らにはもっともっと言いたいことがあったはずである。言いたいことは、おわっていないのである。その「おわっていない」ということを、鍵括弧を解放したままにすることで、若松は引き継いでいる。
 最終連は、ひとつの思いである。しかし、やはり、そのことばに「おわり」はない。

 

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池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

2024-11-03 00:36:19 | 現代詩講座

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月21日)

 受講生の作品。

歩こう歩こうⅡ  池田清子

五年前に
何のために生きるのか
問うた

何十年も
あいまいなまま
生きたので

心の中への入り方を忘れてしまった
心の外へは出ていけたような気がする

何のために生きるかより
どう生きるのか

ずっと
きっと

片道五分が
往復三十分になった

 五年前、この講座で書いた「歩こう歩こう」。五年後に書く「歩こう歩こうⅡ」。一番の変化は、三連目。「心の中への入り方を忘れてしまった/心の外へは出ていけたような気がする」。この二行は、詩でしか書けない。詩でしか書けないことばを書くようになった、というのが一番の変化である。
 散文でも書けないことはない、というひともいると思うが、散文の場合は、この二行の前後に、いくつかの「説明」がついてまわる。「心の中」「心の外」というときの「心」はどんな状態か。状況がわかるように書く、事実を踏まえて書く、事実を積み上げて書くのが散文の鉄則である。詩にも事実はあるのだが、それを読者に任せてしまう。つまり、読者は、自分の体験のなかから「心の中へ入った」のはどういうときだったか、「心の外へ出た」のはどういうときだったか、考えなければならない。「何のために生きるのか」ということばを手がかりに考えれば、そのときの「心」は苦しんでいたのか、悲しんでいたのだろう。そうした悲しみ、苦しみを、ひとはくぐりぬけ、それに打ち勝つ。意識しないのに、引きずり込まれてしまっていた、あの「心」。だが、いまは「心の中への入り方を忘れてしまった」。それが打ち勝つということだろう。「心の外へ出て行く」ということだろう。それは「気がする」だけかもしれない。こうしたことは、だれでも、何かしら経験したことがあると思う。このとき読者は、詩人のことばを借りながら、自分のいのちをみつめる。そして、それを詩人のいのちに重ねる。
 そのあと。
 「ずっと/きっと」と、つぶやく。「ずっと」のあとにどんなことばが省略されているか。「きっと」のあとにどんなことばが省略されているか。
 「ずっと」「きっと」はだれでもがつかうことばである。「意味」は、それぞれが知っている。でも、それを別のことばで(自分のことば)で言いなおすのはむずかしい。そのとき、しかし、きっと「直覚」しているはずである。池田の省略した「ことば」は自分の考えていることと同じだと。
 書かれていることばのなかで詩人と出会い、詩人が省略したことばのなかで詩人と出会う。読者が思い浮かべる「省略したことば」が、必ずしも詩人が思っていることばと合致するわけではない。しかし、「ずっと」「きっと」ということばのあとに、ことばがある、そのことばは言わないけれど、とても大切である。大切だから、「心の中」にしまって自分だけで確かめればいい、という「思い」(こころの動き)は、きっと合致している。
 「行間」(書かれていないことば)のなかで、詩人と出会えたと思えたとき、その詩は読者にととってとても大切なものになる。「好きな詩」になる。
 そして、それは詩人が好きであると同時に、そんなふうにして動く自分の自身のこころが好きということでもある。「好き」のなかで、ひとは、消える。何かが「好き」になったとき、「自己」は消える。透明になる。ただ「世界」だけが、そこにある。
 この詩は、そういう「世界」へ読者を誘う力がある。

キューピーさん  杉惠美子

朝起きると
裸ん坊の大きなキューピーさんが立っていた
両眼と両手をパッと拡げて
まっすぐに立っていた

四歳くらいのときのこと
私が抱えきれないくらい大きくて
父がやっと見つけたものだったという

あの幼い日の記憶は
時折 甦り 私を元気にする

どこを向いているのか
わからなくなったときも

まっすぐに立って
両手を拡げ
その大きく見開いた瞳の中に
吸い込まれていく

お酒を飲むと よく戦争の話をした
もっと真剣に聴けば良かったな

ごめんね 父さん

 池田の詩に通じるものがある。だれでも「どこを向いているのか/わからなくなったとき」というものがあるだろう。「心の中」に閉じ込められてしまったときかもしれない。「心の中」から、どうやって出て行けばいいのか。杉を支えたものは「大きなキューピーさん」である。それは「立っている」「まっすぐに立っている」。手を拡げ、両目を開いているとも書かれているが、何よりも「まっすぐ」と「立つ」ということばが印象に残る。
 「どこを向いているのか/わからなくなったとき」、杉は、「まっすぐに立つ」ということから始める詩人なのだろう。「まっすぐに立つ」と「元気」になる。初めてその人形を見たとき、きっと杉はキューピーに負けないくらいに「まっすぐに立って」いたのだと思う。キューピーになっていたのだと思う。
 この「まっすぐ」は、「お酒を飲むと よく戦争の話をした/もっと真剣に聴けば良かったな」の二行のなかの「真剣に」ということばのなかに隠れている。父がキューピーを買ってきたとき、それを始めてみたとき、きっと杉は「真剣」だった。「真剣」というのは「好き」に似ている。何か自分を忘れている。「無我」になっている。
 この「無我」は、父の場合、杉にキューピーを買ったときと、「戦争の話をした」ときにおのずとあらわれている。父の思い出だから、そこに父はいるのだが、父は、ほんとうはいない。ただ「戦争」があるだけである。父は戦争にのみこまれて「無」である。「無力」である。「無我」である。「どこを向いているか/わからない」状態でいる。
 父から話を聞いていたときは、そんなことは、わからない。父から話を聞けなくなって、そのときに父の「まっすぐ」を知る。
 二連目に、とても「散文的」に、つまり状況の説明のために登場してきた父が、最後になって「主役」のキューピーを乗っ取るようにしてよみがえってくる。いや、キューピーの内部から、父がキューピーの姿になってあらわれてくるような、強さがある。キューピーを見るたびに父を思い出すとは書いていないのだが、きっと見るたびに思い出すのだろう。父の「まっすぐ」を思い出すのだろう。杉を「まっすぐに立つ」方へ励ましてくれるのだろう。
 そのことへの感謝が最終行にあらわれている。「ごめんね 父さん」と書くとき、杉は父が「好き」である。そして、このとき杉は「無我」。杉のこころのなかに生きているのは父である。

千年眠った後に よみがえる日まで (故・谷口稜曄さんへ) 堤隆夫

背中一面が 真っ赤な血に染まり
うつぶせで苦しみに 顔をゆがめる十七歳の少年
一九四五年八月十五日
あの日から七十九年を経ても
空蝉のこの国は 何も変わろうとしない
何も変えようとしない

今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている
今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている

戦後生まれの私だが
私も 原爆を背負い続けている
二千十一年三月十一日
私の竹馬の友は 福島にいた
友は もういない

広島は ヒロシマではなく
長崎は ナガサキではなく
福島は フクシマではない

私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで
私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで

 堤の「文体」は特徴的である。「空蝉のこの国は 何も変わろうとしない/何も変えようとしない」「今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている/今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている」のように、一種の対句形式のなかでことばの一部を変化させ、ことばの力を増幅させていく。
 この詩では、「広島は ヒロシマではなく/長崎は ナガサキではなく/福島は フクシマではない」の三行のカタカナ表記と否定の「ない」の組み合わせが強烈である。堤は片仮名表記を否定(拒否)する理由を、ここでは書いていない。読者に、それぞれ考えろと迫っている。
 「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」がカタカナで表記されるのは、たぶん「ノーモア・ヒロシマ」に代表されるスローガンのように、外国向けのものが出発点だと思うが、外国に向け発信するのは大切だが、そのとき外国人にわかりやすいように(?)することがほんとうに大切なことなのか。外国人を意識するとき、何か、見落とすものはないか。
 さらにいえば、「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」と書いてしまうとき、そう書くひとは自分から「広島/長崎/福島」を切り離して「外国」のようにとらえてはいないか。あるいは自分自身を「外国人」にして、「外国人」の視点から「広島/長崎/福島」をみつめてはいないか。
 日本人として「広島/長崎/福島」と向き合い、自分をどうかかわらせていくか。微分の「広島/長崎/福島」にしなければならない。自分の「広島/長崎/福島」を具体的に生きなければならない。「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」では、抽象的、観念的になってしまうということだろう。
 堤は谷口稜曄を思い出すこと、祈ることが、その具体化の一歩である。

十字石  青柳俊哉  

垂直の記憶 
海辺から崖のうえを昇り降りするかげ 
無重力の振子
 
海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ
しぶきが石にふれ石をつつむ
 
海中のかげとして石は立つ
すべての水のかげをかれは背負う
すべての海面の光が降下してかれと結ぶ
 
十字に覆される未来 かがやく鯉の背がまう
崖の松の幹の黒い皺が底へきらめく
羽化しない蝉がうたう
 
生まれ変わる空間の表徴として 

 「海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ」の「かげを」の「を」という助詞が不思議である。すぐ「かげと」とつづくので「を」と「と」が交錯し、「とぶ」のが「石」なのか「かげ」なのかわからなくなる。それはそのまま「しぶきが石にふれ石をつつむ」では、石がしぶきをつつむのではないかという錯覚を引き起こす。
 さらに三連目では、その交錯が「かげ」と「石」の位置にも影響する。かげはどこにあるのか。石はどこにあるのか。海の上か。海中か。
 作者には作者自身の「答え」があるだろう。しかし、詩は(詩だけではないが)、作者の答えとは別の、「読者の答え」というものもある。

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杉惠美子「秋の時計」ほか

2024-10-19 22:46:44 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の時計」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月07日)

 受講生の作品。

秋の時計  杉惠美子

彼岸花が咲いています
蜻蛉がわたしのまわりを飛んでいます

少し肌寒くなってきました

散歩するひとも少し増えたような

まわりの視線も少しずつやわらかくなっています

幾度となく風を脱ぎ
混濁の渦を離れました

重心を少し下げて
静かにしていたいと思います

すべてを 一度に語ろうとせずに
慎ましく
じわじわと

誰かと話してみたいと
少し 想うことがあります

 詩の感想をいろいろ聞いたあと、ちょっと受講生の感想(指摘)で物足りないところがあったので、杉に「この詩で工夫したところは?」と訪ねてみた。「少し、ということばをたくさんつかった」という返事が返って来た。
 それについて、やはり、私は気がついてほしかった。詩を読んだり、小説を読んだりするとき、どうしても「意味」というか、全体の「内容」に目が向きがちである。もちろん、そういうことも大切なのだが、「細部」に動いている作者の意識がとてもおもしろいときがある。
 この詩では一連目以外には「少し」ということばが各連につかわれている。
 「いや、五、七連目にも『少し』は書かれていない」という反論があると思うが。
 たしかにそうなのだが、ここがとても大事。
 「少し」は書かれていないが、それに通じることばが書かれている。「幾度となく風を脱ぎ」の「幾度」には「少し」が隠されている。「少しずつ」脱ぐから、それが「幾度」にもなる。「一度に」ぱっと脱いでしまえば「幾度」にはならない。
 私が言い換えた「一度に」は七連目には、ちゃんと書かれている。そして、それは「すべて」と対比されている。さらに「じわじわと」ということばも補われている。「じわじわと」というのは「少しずつ」に似ている。
 そうだとしたら。
 最終連(だけではないが)の「少し 想うことがあります」の「少し」にも、何かしら「特別な思い」がこめられている、もしかしたら五、七連目のように「少し」とは違うことばで伝えたいものがあるのかもしれない。
 その証拠にというと変かもしれないが「少し」のあとに「空白」がある。ほかの部分では「少し」はそのあとのことばに直接つづいていた。しかし、ここには「一呼吸」がある。言いたいことをさがし、踏みとどまっている呼吸が動いている。
 この呼吸に、自分の呼吸をあわせることができたとき、杉の詩は、読者にとってもっと深いものになる。

私がわたしであること  堤隆夫

人々の群れの中にいることによってしか
分かり得ない本当のことを知った
人々と共に住むことによってしか
教科書では学べないことがあることを知った

人々と共に働き 共に喜び 共に涙することによってしか
私がわたしであることを
確かめることができないことがあることを知った

杖をついて歩いた時
ゆっくり歩くことの幸せがあることを知った
片手に杖を持ち もう一方の手で
あなたと手をつなぐ幸せを知った

一人になった時 単調な日々の有り難さを初めて知った
眠れない日々が続いた時
羊水の中にいた時の記憶が蘇り
亡き母のかなしみの愛を知った

死の恐怖を眼前に感じながら うつむいていた時
ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た

失うことによってしか得ることのできない
愛があることを知った

失うことによって より深まる愛があることを知った

 堤の詩にも、杉の詩と同じような「繰り返し」と、その「変奏」がある。「しか/知った」が繰り返される。途中で消える。(ただし、「知った」は、繰り返される。)そして再び「しか/知った」があらわれる。
 なぜ、途中で「しか」は消えたのか。
 「しか」があるときは、そこには「人々」ということば、複数の人間の存在があった。「しか」が消えたとき、「人々」のかわりに「あなた」「母」が登場する。そして同時に「一人になった」ということばが動く。「私」が「一人になった」のは、「人々」(複数)が「あなた」「母」という「一人」があらわれたときである。
 「しか」は「唯一」ということでもあるが、この「しか=唯一」という、どこかに隠れている意識が「あなた」「母」を呼び寄せたともいえる。
 そして、この「しか/知った」という組み合わせは、最終連では大きく変わって「より」「知った」という形になる。
 ここで、私は質問してみた。最終連を「しか/知った」という形で言いなおすと、どうなるか。

 失うことによって「しか」深ま「らない」愛があることを知った

 これは、直前の「失うことによってしか得ることのできない/愛があることを知った」に非常に似ている。繰り返しのリズムを優先するならば「失うことによってしか深まらない愛があることを知った」でも同じである。「意味」はシンプルに伝わるだろう。
 しかし、堤は、そうしたくなかった。「しか/知った」では言い足りないものがある。そして、それは「あなた」「母」と強い関係がある。「より」強い気持ちを明確にしたい、それが「しか」ではなく「より」ということばを選ばせているのである。
 これは堤が選んだことばなのか、それとも詩が堤に選ばせたことばなのか。
 堤は「自分が選んだ」と言うかもしれない。しかし、私は詩が、そのことばを堤に選ばさせたのだと感じる。天啓、のように「より」ということばがやってきたのである。その天啓に身を任せることができたとき、ひとはほんとうに詩人になる。
 何を書いているかわからない。しかし、書いたあとで、ああ、そうだったのだと詩人自身が気がつく。そういう「個人」をはなれたことばの動きがあるとき、詩は、ほんとうに輝かしい。
 この詩には「知った」を含まない連がひとつある。その「ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た」の「視た」は「知った」に、とても似ているといえるだろう。「見る」ことは「知る」ことでもある。ここで、しかし「知る」をつかわずに「視る」ということばをつかっているのも、とてもおもしろい。「知る」をつかって別の表現がなりたつはずだが、それを押し退けて「視る」があらわれている。ここから「知る」と「視る」の違いについて哲学的に考え始めることもできるはずである。
 そうした「誘い」を促すのも、詩の、超越的な力だと思う。

聖餐  青柳俊哉 

隔絶した僧院の日々


空の微点へ凄まじく吸われる雲 
飢餓する子どもたちの生をおもう  

朝霧の隼(はやぶさ)王の食卓
白鳥と孔雀の胸肉の白ワイン蒸し
みつばのお浸しに霧がそそぐ 霧をすする
 
祭壇に子たちのアーモンドをそなえる
 
バラを敷きつめて女(め)鳥(とり)と交わる
 
口腔から胃へ激しい痛みと嘔吐
ながれる汚物 羽にかわるバラの花
 
生きることは異物と交わりそれに同化することであった
 
 
僧院の肥沃な花から女が飛び立つ

 青柳の詩には、杉、堤の詩をとおしてみてきた「繰り返し」はないように見える。しかし、ひとは何かを繰り返さないと何も言えない存在である。というか、ことばとは、ひとことですべてを言い表すことができない、何か不完全なものである。言いたいことを言おうとすると、繰り返しのなかに少しずつ「変化」をまじえながら、それを補強するしかない。
 「生きることは異物と交わりそれに同化することであった」という行があるが、「異物」と「同化」が、繰り返されていると言えるだろう。異物が異物のまま離れて存在するのではなく、「同化」する。そのために「交わる」。
 この異物が異物のまま「離れて」存在することを「隔絶して」存在すると言いなおせば、それは書き出しの一行に通じる。「隔絶した」と書き始めたとき、詩は「異物」を引き寄せ、「異物」は逆に「同化」を引き寄せ、それが「交わる」という動詞を必要としたのだろう。
 「書く」というよりも「書かされる」詩。
 やってくるのは「天啓」だけではない。「悪魔のささやき」もやってくるだろう。「悪魔のささやき」を拒み、「天啓」だけを選択するということができるかどうか。どうやって、その区別をするか。その判断の基準を「直覚」するのも、大切なことだと思う。

未確認飛行物体  入沢康夫

薬罐だつて、
空を飛ばないとはかぎらない。

水のいつぱい入つた薬罐が
夜ごと、こつそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。

天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切つて、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに早かないんだ)
そのあげく、
砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 受講生のひとりがみんなで読むために選んできた詩。みんなにどこが好きか(印象的か)と聞くと、最後の三行という返事が返ってきた。
 ここには不思議なことばがある。
 詩は、「美しい」ということばをつかわずに「美しい」を表現するものという定義のようなものがあるが、それを流用して言えば「大好き」ということばをつかわずに「大好き」を表現するのが詩かもしれない。
 小中学生ならいざ知らず、入沢康夫のような高い評価を受けている詩人が「大好きな」ということばをつかっているが、それでいいのか。
 というのは、まあ、意地悪な「いちゃもん」。
 この詩では、私は、「大好きな」ということばがいちばん大事だと思う。「大好きな」ということばのために、この詩はある。

砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
その白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 でも、詩は(その意味は)成立するし、学校の試験では、「作者はこの花についてどう思っているか、あなたのことばで書きなさい」という質問が出るかもしれない。「大好き」という答えを正解とするかもしれない。
 言わなくても、わかる。
 でも、言った方がいいのである。
 頭のいいこどもは、「お母さん大好き」と言わないことがある。言わなくてもお母さんが大好きなことはお母さんは知っている。でもね、お母さんは、わかっていても、そして時には嘘であっても「お母さんが大好き」とこどもが言ってくれるのをまっている。言ってくれると、うれしい。「大好き」と、ことばにするのことはとても大切なことなのである。
 そして、もし私がこの詩のなかの「白い花」だったとしたら、水を注いでもらったことよりも「大好き」と言われたことの方が、はるかにうれしいだろうなあと感じるのである。
 入沢の詩は、そういうことをテーマとして書いているわけではないだろうが、私はそういうことを思うのである。「大好き」と書くことによって「大好き」がとても美しいことばになる。大切なことばになる。平凡なことばのようで、平凡ではなく、唯一のことばになる。
 入沢は技巧的というか、人工的な詩人だが、彼がこんなふうに「大好き」ということばをとても自然に、力強く書いているというのは、とても楽しい。こんなふうに「大好き」ということばを詩に書けたらいいなあと心底思う。

 

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青柳俊哉「仮晶」ほか

2024-09-29 12:13:57 | 現代詩講座

青柳俊哉「仮晶」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月16日)

 受講生の作品。

仮晶  青柳俊哉

惹かれて野花の咲く原へ

月へむかって花の成分がながれだす

ひとつの茎が指にふれる

かたい腺毛の奥のしずけさ
唇を花びらが噛む
苦みのある繊維質の霧のような香気

月がしぐれて 舌 崩れる

多孔質
スポンジ状の子房の中へそそがれて
種子へ結晶する

接合されて
野花と生きはじめる

 「月へむかって花の成分がながれだす」は、青柳の「詩語法(詩文法)」の特徴である。肉眼では見ることのできない運動が、言語によって実現されている。「花の成分」は具体的に何を指すか。それは読者の想像力に任されている。
 この詩には、ほかにもおもしろい語法がある。
 「ひとつの茎が指にふれる」「唇を花びらが噛む」。「ふれる」「噛む」という動詞の主語は「茎」「花びら」。人間ではないものが、人間に働きかけている。ここでは、人間が自己主張しない。「無」になっている。そして、その瞬間にあらわれる世界を生きている。
 そうした運動のあとに「月がしぐれて 舌 崩れる」という魅力的な行があらわれる。「舌」につづいているのは空白(一字空き)であって、助詞がない。もし「月がしぐれて 舌が崩れる」であったら、どうなるのだろうか。「崩れる」は自動詞であって、他動詞ではないから「ふれる」「噛む」のように、何かが肉体に働きかけた結果の動きではないのだが、何かしら、それまでの運動の印象とは違った感じがしてしまう。助詞「が」を省略することで、「舌」が宙ぶらりんになる。「崩れる」が自動詞なのに、それまで読んできたことばの運動(文体)の影響で、何かの働きかけがあって「崩れる」という動きが起きたのだと感じてしまう。何かが「舌を崩す」と感じてしまう。では、何が? 「月」か「しぐれ」か。(「しぐれて」は名詞ではなく、動詞なのだが。)
 ここには、不思議な「保留」がある。「判断中止」がある。
 それを経て、「私の肉体(と、青柳は書いているわけではないが。青柳は「私の精神(意識)が」と補足するかもしれないが)」「野花」と「接合されて」「生きはじめる」。野の花として、再生する、と読んでみた。

もし神がいるのなら  堤隆夫

子どもたちの未来が、
戦争のない平和な時代でありますように
飢えに苦しむことがないように
環境汚染や被曝のために、
故郷を追われることがないように

病や事故で苦しむ人々が、
少しでも少なくなるように
必要な時、必要な医療が、いつでも受けられますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る

国境を越えて、人々が手を取り合って、友達になれますように
学ぶ環境が、阻害されることがないように
機会の平等が、保証されますように
笑顔で働ける環境でありますように
がんばれば、報われる世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは何度でも祈る

そして--自分と違うからといって、差別やいじめがないように
助け合って生きていく世の中でありますように
個々の人間が、その多様な存在のまま、尊重される世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る
そして--神に栄えあれ

ある詩人の言葉が、今、わたしの胸に突き刺さっている
--「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、俺は絶対風雅の道をゆかぬ」

 「もし神がいるのなら、わたしは祈る」が繰り返される。途中に「何度でも」を挟んで、それが強調される。その強調を、さらに印象づけるのが「ように」の繰り返しである。この詩のポイントは、おなじことばを繰り返すところにある。
 この「ように」は、まだ実現されていないことをつぎつぎに明るみに出す。くりかえすこととで、見落としていたものが、そういれば、これも、あれも、と誘い出されてくる感じである。
 そうしたものが増えてきて、増えることで強くなる。
 「祈り」と書かれているのだが、「祈り」を超えて「欲求/欲望」になっていく。さらに、それを実現する「意志」へと変わっていく。堤自身の「決意」へと変わってく。
 それが最終行に結晶している。そこには「祈り」ではなく「決意」がある。

垣根越しの秋  杉惠美子

目眩のしそうな暑さから
少し抜け出して
クーラーの設定温度も少し上げて
ようやく 視線の行き先も落ち着いてきました

家の中でも動きが出ています
時折 熱い珈琲が欲しくなります

夜になると
月がひときわ明るく 私をたずねてきます
私も思わず話しかけたくなるのです

庭のあちこちには蝉の抜け殻が落ちています

毎年 この姿は不思議な気持ちになります
触れたくはないけれど 見捨てたくもないような

じっと見ていると
ありのままの姿で
今日の私をすり抜けたあとのようで
自分のことばをすり抜け
その先にある もっと広いことばを探しているような気がします

ゆっくりと季節は進み
秋の草が戸惑いながら揺れています

 この杉の詩にも、くりかえしがある。そのくりかえしは、堤のくりかえしとは少し違う。一直線に進まない。高みへのぼっていくというよりも、深みへおりていき、ゆっくりと広がる。
 おわりから二連目。「すり抜ける」「ことば」が「私/自分」を交錯させる。これは「蝉の脱け殻」の「抜け」と「すり抜け」の「抜け」が交錯していることもあって、「私/自分」と「ことば」のどちらが「脱け殻」なのかというような、不思議な疑問を呼び覚ます。
 杉は、たとえば月、あるいは蝉の脱け殻と対話するだけではなく、自分自身とも対話する。それが「戸惑い」「揺れる」ということばのなかに静かに反映されている。

おかしいでしょ!  池田清子

エスコ、ペルー、ゾゾ、マツダ、
バンテ、ケイ、京セラ、みずペ、

一体、どこ?
福岡ドームでいいでしょ

あっ
ブルーのユニフォーム
西武戦か?
えっ
日ハム?

黒と黒のユニフォーム
一体、どっちの主催試合?

おかしいでしょ!

 「おかしいでしょ!」は、怒りである。自分の知っていることが否定された怒り。でも、だれに対して怒っていいのかわからない。この怒りは、堤の書いている怒りのように力にならない。あるいは、力にしないことを目的とした(?)怒りとでもいいのだろうか。つまり、笑うことのない「笑い」でもある。
 こうした詩は、一篇ではなく、たくさんあつめると、不思議な「厚み」を抱え込む。たくさん書き続けることは、一篇を完成させるよりも難しいことがある。

 

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杉惠美子「おいしいごはん」ほか

2024-09-15 19:53:31 | 現代詩講座

杉惠美子「おいしいごはん」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月02日)

 受講生の作品。

おいしいごはん  杉惠美子

日日草が
お陽さまに向かって
本当を語ろうとする
ありったけの一瞬があった
からっぽになったとき

おなかがすいた

何かが終わった日に
夕立が激しく音を立てた
雷が止んだとき

おなかがすいた

夏の角を曲がって
海に落ちたとき
ずぶぬれになって
私まるごとを感じたとき

おなかがすいた

十三年が経って
ようやく気付いたことがある
私の中で透明な風となって
空を飛んだとき

おなかがすいた

 一連目が非常に魅力的である。「本当」「ありったけ」「からっぽ」が拮抗する。「本当」「ありったけ(すべて)」は似通うものがある。しかし、それは「からっぽ」とは矛盾する。このみっつのことばは、からみあって「撞着語」になる。それは「一瞬」のことであり、その「一瞬」は「永遠」でもある。
 何かに気がつくというのは、こういうことだと思う。
 では、何に気がついたのか。
 「おなかがすいた」
 そんなことに気がつかなくてもいい、というひとがいるかもしれない。しかし、「おなかがすいた」と気がつけることのなかには、どうでもいいこと(?)のみが持つことでできる「ほんとう」がある。
 そして。
 この「おなかがすいた」は、最初の連の「からっぽ(腹が空っぽ)」とも強く結びついている。
 この詩では「おなかがすいた」という一行が独立して連をつくっているが、それは前の連の最終行と強く結びついている。同時に、次の連への飛躍台ともなっている。
 この変化が、非常におもしろい。
 論理があるのか、ないのか。そんなことは、どうでもいい。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、どういうことでも論理にできるからである。
 終わりから二連目、「十三年」と「気付いたこと」について、受講生は少し戸惑ったようだった。「いつ(何)から十三年」なのか、「何に気づいた」のか。私は「透明な風になって/空を飛んだ」から、流行歌の「千の風」を思い出した。大事な人が亡くなった。でも、その人はいなくなったわけではない。いまも、いる。そう気づいた。
 変わらない何かに気づいた。その安心感が、空腹を教えてくれた。いつも、変わらぬものがある。生きている。私が生きているなら、あの人も生きている。生きているから感じる。そういうことを、大事にしている。連から連への自然な変化がとてもいいし、タイトルの「おいしいごはん」もいい。タイトルは「おなかがすいた」でもいいのかもしれないが、そこから少しだけ飛躍している。その飛躍の「軽さ」がとてもいい。

百年の希望  堤隆夫

愛と言う名の生き甲斐
愛と言う名の幻
「あなたの声を聞きたい 一度だけでもいいから」
過去も 今も めくるめくロンド

別れた時も 出逢った時も
人生という舞台
二つの命 燃え合い
されど今は 懐かしい日々よ

「最期に笑う日が一番よく笑う日だ」と
涙で呟いた あなたの瞳 永遠
されど叶わぬ 人の世の定め

暗く寂しい長い夜でも あなたの温もりは 胸の底
「いつまでも決して私を忘れないで」と
過去も 今も 忘れはしない

苦悩続く夜も 歓喜迎える朝も
人の歴史の常
「私は敗けはしない」と
過去も 今も
百年の希望
百年の希望
百年の希望

 「ロンド」。音楽形式。主題が何かをはさみながら繰り返される。この詩では、テーマは愛。それが、たとえば「生き甲斐/幻」「過去/未来」「別れ/出会い」「苦悩/歓喜」のような、撞着語をくぐりぬけ、あるいはつらぬき、動き続ける。そこから「過去/今/未来(このことばは書かれていないが、百年は、これからの時間を含んでいるだろう)」が「歴史」として認識され(形成され)、「希望」へと昇華していく。
 堤の作品には漢字が多く、文字だけ見ていると「固い」印象があるが、固いけれどもなにかしら響きにリズムがある。どうしてだろう、と思っていたら、実は、堤はシンガーソング・ライターだった。
 この作品はCD化されてもいる。
 ことばを「意味」だけではなく、「音」としても存在させようとしている。しかも、その音は旋律、リズム、和音という展開の中で具体化する。
 音楽のなかの「和音」を、私は、詩では「呼応」(響きあい)というようなことばでとらえているが、堤の場合は、それが「意味」だけではなく、「音」そのものの呼応でもあったわけである。
 堤の「(詩の)音」の秘密を見たように感じたのは、私だけではないと思う。

アナトリア聖刻  青柳俊哉

飛んでくる石化したバラ 
黒海の葦の茎先 鉄の羽…… 
楔を咥えて アナトリアの炭化した地層から
女たちのもとへ

葡萄の房形の紺青(こんじょう)の台地
隠されている女たちの
神聖な手の性(さが)と
焼かれた文字

車座になって剝かれる茄子の実とバラのすじめに
結晶するユニコード
もとめあう聖刻(せいこく)
人間の土地を超えて

 「アナトリア聖刻」とはなんだろう、という疑問が受講生のあいだから聞かれた。青柳から説明はあったのだが、それとは別に、ことばの「呼応」から「和音」として何が浮かび上がってくるかを見てみよう。
 「石化」「炭化した地層」は、歴史を感じさせる。「楔」そのものは「歴史」的存在とはいえないが、「楔形文字」となると歴史である。「アナトリア」は日本ではない。異国(日本以外)を強く感じさせることばに、「黒海」がある。「楔形文字」がつかわれたメソポタミアは「黒海」に臨んでいるわけではないが、周辺地区でもある。
 そうした「古代文明」が、いま私たちに何を語りかけてくるのか。
 受講生のあいだから、また「女たち」が印象的という指摘があったが、青柳は「人間の土地を超えて」何かが伝承されていくとき、そこに「女の存在」を重視している。女がいるから、歴史がある。二連目の「隠されている女たち」ということばのなかには、青柳の歴史観も含まれているだろう。
 一篇の詩のなかにはさまざまなことばが動いている。どのことばを聴き取り、それをどう受け止めるか。詩人のことばの響きを聞くだけではなく、それを自分のことばと響きあわせてみるのも楽しい。
 いま、目の前にあることば。そのことばのなかへ、私はどうやって参加していくことができるか。

海をみている  川﨑洋

現実に
めざめている
という
それから
夢をみている
ともいう
だったら
もうひとつ
海をみている
と いってもいい
と思う

起き上がって
また
海をみる
海と呼ばずに
気障ではあるが
広いやすらぎ なんて
呼ぼうか
海よ といわずに
広いやすらぎよ
なんてさ

暮れかかってきて
雲の切れ間から
ななめに
光の柱が二本
かなたの海面に入っている
あれは
昼間
水の中にさしこんだ光が
空へ還るのだろう

 受講生が、みんなといっしょに読むためにもってきた作品。
 受講生のなかから指摘があったが、この三連構成の詩は「静的」ではない。意識(ことばの指し示し方)が少しずつ変化している。そして、その変化を、むりに制御しようとしていない。なるようになるさ、と任せている感じがする。
 一連目は、ぼんやり海を見ている。「夢か、現か」。「海を見ている」という事実を「海を見ている」ということばにすることで、「ことば」のなか(意識のなか)へ動いていく。
 二連目の「広いやすらぎ」は「海」を言い換えたもの。「比喩」、あるいは「象徴」。そこに「精神」を見ている。ただし、深刻にならないように「なんてさ」というような軽い口調をまじえている。
 ここに川崎の「音楽性」があるといえるかもしれない。
 そして三連目で、ほんとうに川崎が考えたことを、ことばにしている。そのとき、おもしろいのは、いわゆる「天使の梯子」のなかに、逆向きを動きを存在させる(海に入る光/海から空へ帰る光)ことで、その動きを「限定(断定)」していないことである。読者に、私はこう思うが、どう思う?と問いを投げかけている。
 その結果として、詩の世界が、いっそう広くなっている。
 この詩は、三連目だけでも深い詩だが、一連目、二連目、三連目へとことばの動き方が少しずつ変わっていくところを、ていねいに「記録」している点が、とくにいい。一連目、二連目がなかったら、感動しても忘れてしまう。一連目、二連目があるから、忘れられないものになる。そう思うのは、私だけだろうか。

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青柳俊哉「バラを解く」ほか

2024-09-01 13:51:12 | 現代詩講座

青柳俊哉「バラを解く」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年08月19日)

 受講生の作品。

バラを解く  青柳俊哉

バラの深部へむかう。交配を重ねるものの寓意として、バ
ラがあまりにも人間的な美にとざされているから。

表層から花芯へ一枚一枚花弁を摘みとる。秘密を被うよう
に重なりあい密集するものの中へ分け入る。蜜のながれる
花糸を一つ一つ解いていく。裸になった花柱を摘みとる。
指先は黄色い脂粉にぬれた。

花冠は消失しても、茎の内部にはさらに深いバラの層がひ
ろがり、花弁は透けて重なり、肉体の空へ屈折している。
この細い透明な維管束をながれるものは何か。

美の影がながれる。生の個別性から死の全体性へ回帰しよ
うとする意志、隠された内的な欲動---。バラは遥かな
先行者であり、人はバラの表象である。

 一行目に「寓意」ということばがある。「寓意」ということばをつかうと、詩は、非常に難しくなる。「寓意」をどこまで深めていくことができるか、読者は期待するからである。そして、その「深さ」はときに「複雑さ」にかわってしまうことがある。「複雑」になると、しかし、問題は違ってきてしまう。「謎(解き)」になってしまうことがある。
 少し言いなおしてみる。
 「寓意」と書かなくても、(説明しなくても)、詩に登場する「バラ」を「バラ」と思って読む人は少ない。では、なんと思って読むか。「バラ」のとらえ方と思って読む。つまり、そこには「バラ」が描かれているではなく、バラと向き合った人間(詩人)がいるのであり、読者が読むのは「人間」なのである。「寓意」とことわらなくても、必然的に「寓意」のようなものが生まれてしまう。それが、ことばの運動だからである。
 受講生は、どんな「寓意」をくみとったか。
 「四連目に詩人の思考の深さがある」「人生をバラに表象している」「表層から深部へ向かう流れがいい」
 うーん、抽象的だ。質問を変えてみるのがいいのかもしれない。「自分には書けないなあ、と思ったことばは?」
 「秘密を被うように重なりあい密集するものの中へ分け入る。」「肉体の空へ屈折している。」「美の影がながれる。」「バラは遥かな先行者であり、人はバラの表象である。」
 「自分には書けない」は「自分と青柳とは違う」という「違い」の発見であり、また、単に「違いの発見」ではなく、つまり「青柳の発見」であるだけではなく、「そういう行を書いてみたい」という「自分の発見」でもあるかもしれない。
 さて。
 「寓意」であるからには、私は「バラ」を描いているとは読まない。むしろ「交配」を描いているものとして読む。「交配」とは「交合」である。「花弁を摘む」ということばは、たとえば吉岡実の「サフラン摘み」を思い起こさせる。「秘密」「蜜」「ながれる」「密集」「わけいる」「裸」「指先」「ぬれる」。
 どこまで持続できるか。
 三連目で、青柳は「茎の内部」を描き、さらに「維管束」を経て、四連目で「生」と「死」という哲学の中でことばをまとめるのだが、「寓意」ではなく「論理」になってしまった感じがする。「謎」が自分自身(読者自身)にはかえってこなくて、青柳の「思想/思考」のなかで整理されていくのを感じる。
 「思考」は整理するものではなく、むしろ、乱すもの、ではないだろうか、と私は思う。とくに詩は、論文ではないのだから、ことばの整合性は必要としないときがある。
 二連目は、これまでの青柳のことばの運動からみると新しい展開であり、そのことばが「茎の内部」、さらに「維管束」へと、ふつうはつかわないことばへと進んだのだから、そのまま「植物」を離れずに、「人間/肉体」に重ねてほしかった。「人間の内部の動き」に重ねてほしかった。
 ことばが加速して「生/死(いのち)」に昇華するのもいいが、少しことばの展開が早すぎる。長さにとらわれずというのは、講座で取り上げ、みんなで語り合うときに少し難しい問題を抱え込むことになるが、気にせずに、「隠された」「欲動」をもっと具体的にことばにし、読者を混乱させてほしいと思う。

紫の光る君  池田清子

まず
へたの周りにくるりと切れ目を入れましょう
次に
縦に四本のすじを引きましょう
ただそれだけで
二本でも三本でも
魚焼きグリルに イン

両面焼きの場合
途中九十度回転させて
あとは
お気のすむまで

紫のてかりが
少しずつ
身に影を落として
枯れていく

大好きな光る君が
自ら身を引き
大好きな素朴な君へと
変わっていく

栄養があるのかないのか
食べ過ぎてよいのかわるいのか

何と(馬鹿馬鹿しい)
深い味わい

 最終連。「他愛ない」「頑是ない」「池田さん特有の書き方」「深い味わいと直結しない」「池田さんの底知れない多様性」。いろいろな声が出たのだが。
 私は、最終連は、もっと他の書き方があると思う。
 「焼きなす」をつくって食べる。それは当たり前のようなことであって、当たり前ではない。というか、このことばのなかには、実は、これまでだれも書かなかったことばがある。
 たぶん。
 受講生の一人が「両面焼きの場合」という一行がおもしろいと言ったが、そのおもしろさは「事実」を書いているからであり、そして「両面焼きのグリル」で焼きなすをつくることはあっても、それを詩にしたひとはいないだろう。だいたい「両面焼きグリル」そのもの自体が新しいから、だれも詩に書いていないのである。直前の「魚焼きグリルに イン」も、新しい書き方である。
 そうした「新しいことば」をていねいにつなげていけば、それだけで詩になるか。じつは、ならない。「対象」と、それを「言語」にするときの作者の「位置」、つまり「距離感」が「一定」でないと、単に「新製品の宣伝」になってしまう。
 この詩ではなすに包丁で切れ目をいれるところから、途中でなすを回転させるところまできちんと描き、その動きの中に「イン」「両面焼き」といういままで存在しなかったことばがきちんとおさめられている。どのことばも「日常で使いこなすレベル」で統一されている。この統一された「ことばの距離感(作者の立ち位置)」が詩なのである。つまり、読者は「作者の立ち位置」、作者そのものを読むのである。「焼きなす」の作り方を読むのではなく、つくっている(食べている)詩人の「人間性」を読むのである。
 さて、最後。
 食べ物の味をことばにするのは難しい。でも、ことばにしてほしい。「深い味わい」では、味が伝わらない。舌触り、歯触り、におい。やわらかさ。あまさ。「切れ目」はどうなったのか。「紫の皮」はどうしたのか。
 この作品に「セクシャリティーを感じる」と語った受講生がいたが、食べることは、たしかにセックスとも関係する。池田にそういう意図があったかどうかは関係なく、読者は、自分の好みに従って読む。その「読者の好み」をからかうように書いてみるのもおもしろいと思う。
 この講座を始めるとき、私は「嘘を書いてみよう」という言い方をしたことがある。どんな嘘も「ほんとう」を交えないと嘘にならない。焼きなすをつくる。皮に切れ目を入れる。その「ほんとう」を書いたあと、ことばをどこまで動かしていけるか。たとえば、切れ目は、どうなったのか。ことばを動かしながら、自分をどこまで変えていけるか。自然に変わっていくときは、自然に変わればいい。しかし、自然に変わらないときは「わざと」変わるのである。
 西脇順三郎は「現代詩は、わざと書くもの」と言ったが、「わざと」書いた瞬間に、なにかがうまれることもある。


 
ジ イノセント  堤隆夫

殺した側の論理が いつの間にか奇妙に腐乱した果実から
手のつけられぬ程 増大した悪性腫瘍となり 無辜の肉体を殲滅する
加害の責任を問えない
問えば 人権侵害というイノセントな良識派よ

善もない 悪もない 正義もない 恥もない
どこまで行っても泥濘のこの地よ
ああ この地はいつからこのようになったのか

この敗戦の大いなる代償が 被害者の人権が雲散霧消し
加害者の人権が跳梁跋扈する 戦後民主主義なる
日本租界の 今なのか

殺される側の論理は怒り
怒りは真実の鏡
きっちりと社会責任を問うことこそが 
この地に住む人間の尊厳 そして誇り
その静かなる規範の遵守こそが 今 一番大切なこの国の同一性

汝は何時迄 負け犬で満足しているのか
汝は何時迄 自らの責任をマジョリティーに転嫁し
一人卑怯者の不遇を装い続けるのか

無恥の砂漠で もうこれ以上 生き恥を曝さないで欲しい
なぜならば わたしはあなたを理屈ぬきに愛しているから
それは あなたに対する感愛
感愛 そうそれはわたしがあなたに抱くカナシミノココロ
不条理の森に蔓延する カナシミノココロの空気
その空気の百合の公共圏―――その連帯感のエナジーで
わたしとあなたは もう一度奮い立つ
そのことこそが愛 感愛
そして わたしとあなたとの共生の志
そして 生き続ける希望

 堤の詩の魅力は、畳みかけるリズムにある。「善もない 悪もない 正義もない 恥もない」という一行があるが「善も悪も正義も恥もない」という具合には、堤は書かない。最初のことば「善」が「悪」を引っ張りだしたのか、「善」と書く前に「悪」があらわれて「善」を誘い出しているのか。それは、わからない。そういうことを考えさせないリズムである。「どこまで行っても泥濘のこの地よ/ああ この地はいつからこのようになったのか」の二行のなかの「この地」という繰り返しについても同じことがいえる。泉から吹き出す水が、吹き上がりながら、下の水にもぐりこみ、みわけがつかなくなる。そこに「勢い」がある。この「勢い」が堤の「人間性」である。「勢い」がひとつひとつのことばを鋭角的にしているのである。
 「論理」というか「意味性」が強い詩なのだが、考えさせない。考えさせないというと誤解を与えるかもしれないが、読んだ人に考える時間を与えずに疾走する。そのスピードを借りて、「その空気の百合の公共圏」というような、異質なものが突然あらわれる。「論理」の運動を突き破って、「論理」の奥から、論理になる前のものが噴出してくる。もちろん堤には、そのことばの脈絡がわかっているのだが、読者にはわからない。しかし、それはわからなくてもいいものなのだ。ただ、読者はびっくりすればいい。いつか、興奮が静まったとき、その「突然」のもっている「意味」が明らかになるかもしれない。ならないかもしれない。それがわからなくても、このリズムが堤のことばなのだとわかれば、それでいいのだと私は感じる。
 堤の書き方は、青柳とも池田とも違うが、違っているからこそ、そこにはそれぞれの「譲れない真実」というものがある。

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青柳俊哉「あやめる」ほか

2024-07-21 23:23:46 | 現代詩講座

青柳俊哉「あやめる」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年07月15日)

 受講生の作品。

あやめる  青柳俊哉
 
花の分身として、花に結ばれ、花に帰依する蝶の本性。花
にしいられ、宇宙的な変身を遂げる蝶の神性を畏れる。
 
聖餐のように花の衛星がまう。小さな双対の花弁の、複雑
な飛翔の軌跡を追う。鋭角に舞い上がり、水面低く乱舞し、
秘密のように花に休む。
 
匂やかな葉先にとまって何かを思念している蝶……。羽を
立て微かにそよがせ、空気のわずかな乱れにも鋭敏に反応
する。その時意識を消して、花が発する霊力の衝撃に紛れ
て、羽をそっと指先で閉じる。あざやかに羽を摘みとり、
花の中へ沈める。指先は白や黄色の鱗粉にまみれた。
 
一続きのいのちを、蝶の羽に映じるわたしを花へ帰す。蝶
もわたしも花の模倣であり、花へ殉(したが)う草である。

 「あやめる」は「殺める」。そのとき、人間は何を感じるだろうか。小さな生き物を殺した記憶、というのは、多くの男性(少年)なら持っているだろう。そのときの記憶を、単に「殺した」という「客観的事実」ではなく、「肉体」そのものの変化としてどう消化/昇華できるか。そのとき「肉体」が受け止めたものを、どれだけ「ことば」にして表現できるか。
 この青柳の詩では「指先は白や黄色の鱗粉にまみれた」に「肉体」の反応がある。「まみれた」は「塗れた」である。「よごれた」でもある。このとき、その「塗れ/汚れ」をどう感じるか。それを深く突き進めると、詩は、強くなる。「塗れる/汚れる」はかならずしも「不快」とは断定できない。こどもたちは母親たちが顔をしかめるのをからかうように泥んこ遊びに夢中になる。有明の泥の干潟では「泥リンピック」という催しさえある。「気持ち悪い」ことは「気持ちいい」ことでもある。常軌を逸する「愉悦」がある。「愉悦」とは、いつでも小さな死と同時に不思議な再生である。
 この詩には、ひとつの「仕掛け」がある。最後の行の「殉(したが)う」という表現。「殉死する」。それは「死んだ人について死ぬ」ことであり、この「ついていく」から「したがう」という「読み」も生まれる。また字義的には「したがう」のほかに「もとめる」もある。(新漢語林/大修館書店)
 「蝶の死」に「したがった」のは何か。「精神」か「肉体」か。「記憶/感受性」か。
「想像力」か。
 「殉(したが)う」と書いてしまうと、そこに「漢字」の持っている「意味」が優先的に動いてしまう。「肉体」が、すこし置いてきぼりになる。「殉」という「殉死」そのものを呼び覚ます漢字ではなく、違った「和語」、「肉体」そのものにつながる動詞をつかって最後を展開できれば、この死はいっそう刺戟的になる。つまり、読者を悩ませる詩になる。「殉死」とは書いていないのだが、それに通じることば(漢字)があると、「意味」が明確になりすぎる感じがする。
 読者の「意味」(意識)を裏切る、ということが、詩には重要なポイントである。

わたしがいて 気がつけばいつもあなたが 傍にいた   堤 隆夫

たかが一生 宇宙の永さに比べれば ほんの一瞬 
でも ほんの一瞬の短い人生でも 
最期のときまで 希望を持ち続けることこそ 生の目標であり 生の原動力なんだ
苦しい人生の中で 蟻の穴ほどのちっぽけな窓から 頭を出し
一条の希望の光を 探し続けていれば 
幽けき光は いつの間にか光束となって
降り注いでくれるんだ

希望は人生 人生は信じること 生きることは続けること 
生きることを続けていれば 私たち皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 
支え合い無しには 生きていけなくなるんだ
このことを皆で深く広く考えて 老若尊厳社会を築こうではないか

偉大な人生もちっぽけな人生も 無い 
ただ わたしとあなたの人生があるだけ
あなたの人生とは この青い地球で 泣きながら笑いながら怒りながら
暮らす隣人 全ての他者の人生のこと
わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
畢竟 二度の人生なんて無いんだ
他の人の人生と 自分の人生を比べることは 
自分が決して体験しようの無い 仮想の人生と比べることになるんだ

一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳 
それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳
わたしとあなたが 今の一瞬の人生を ともに手を携え 支えあい 助けあうこと 

絶望している人の傍に寄り添い 体温で暖められた 一本の名も無い草の花を 捧げること
そういう社会を目指したい

 堤のことばは、青柳のことばよりもはるかに多くの「意味」を含んでいる。それは「意味」を突き抜けて「意見」に変わり、さらに「主張」へと昇華していく。そこにいちずな堤の正直があらわれるのだが、「主張」は同意を呼び寄せることもあるが、時には敬遠したい気持ち、さらには反感を呼び寄せてしまうこともあるかもしれない。反対できない「主張」は、反対できないということが、なんとも窮屈で、その窮屈が反感に変わってしまうのである。
 窮屈を感じさせない「主張(意見)」というものは、どういうものだろうか。
 この詩には、ふたつの例が提示されていると思う。「わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの/あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの」と「一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳/それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳」。似たことばが繰り返される。繰り返しのなかに「ずれ/差異」がある。この「ずれ/差異」が、「遊び」を生み出す。(デジタルの組み合わせではなく、アナログの「余裕」を生み出す。)こうした「余裕」があった方が、何かを「共有」しやすい。「余裕」がないと、読者が自分自身の「肉体」を参加させることがむずかしくなる。「精神(意識/頭)」は、その「主張」が正しいとは判断するのだが、「私は、もう少し『ずる』をしたい。ちょっと手抜きをして参加したいけど、手抜きをするとしかられるかもしれないなあ」と気後れがする。
 「主張(結論)」は大事なのだが、「結論」よりも、ことばの運動の過程での「迷い」の方が読者を引きつけることもある。作者が「わからない」という「結論」に達したときの方が、「あのひとはわからないと言っているが、わたしよりもはるかにわかっている」という感じをあたえることがある。「答えを知っている、でも、それがことばにならないだけなのだ」という印象になって、強くこころを揺さぶることがある。
 プラトンの対話篇。ソクラテスは「何も知らない(わからない)」と言いながら対話するが、聞いているひと(対話に参加しているひと)は、プラトンは「知っている、わかっている」と感じる。そして、それは同時に、自分自身で「知る/わかる」ことでもある。ひとはだれでも、そのひと自身の「意味」を生きているから、答えは読者に任せればいいのだと思う。
 答えを読者に任せるのは、とてもむずかしいけれど。そのむずかしいことにこそ取り組んでもらいたい。
 

七月の手紙  杉惠美子

半夏生の咲く頃
白い雲の流れと
螺旋のごとき夏の風を感じるとき
遠いあなたへ手紙を書きます

梅雨の終わりの期待感と
夏の日の目覚めは
あなたとまた会えそうな
そんな気がします

控えめに光を捕えながらも
変わらぬ色を求めつつ
勤勉さを忘れない
あなたに会えそうな気がします

夏色の祈りは
あなたへ向かうことばとなって
七月の揺れる風のなかに
立っています

 「半夏生の咲く頃」とごく自然な夏の描写ではじまったことばが、いつのまにかなるの描写を越えて動いていく。
 最初のきっかけは「手紙」である。「手紙」は「ことば」で成り立っている。「私(作者/杉)のことば」と「あなた」の「ことば」が出合う。現実に出合うことはできないのかもしれないが、「ことば」同士が出会う。もちろん、そのとき「あなたのことば」というのは、いま杉が書いていることばに対する「反応/返事」ではないだろう。しかし、「手紙」を書くとき、知らず知らずに「あなたのことば」(返事)を予想している。あるいは、期待している。
 私がこの詩でいちばん驚いたのは「勤勉さを忘れない/あなた」ということばである。「勤勉さ」というのは抽象的で「意味」が強く、もしかすると詩ではあまりつかわれないかもしれない。「要約」になりすぎている、と言えばいいのだろうか。しかし、この短い詩では、その「要約」がとても効果的である。具体的にどんな「勤勉さ」なのか、どこにも具体的な説明がないから、この「勤勉さ」は杉にしかわからない「勤勉さ」なのだが、だからこそ、そこに私は私の知っている「勤勉さ」を重ね合わせることができる。「ああ、私の姉は勤勉だったなあ」などと、ふと重ねるのである。もちろん、杉の書いてる「勤勉さ」と「私の姉の勤勉さ」はピッタリ重ならないが、それでいいのである。だいたい「勤勉さ」の定義自体、杉と私とでは違うだろう。同じことばであっても、そこには「ずれ/差異」がある。だからこそ、私たちは「ことば」を重ね合わせることができる。
 「ことば」は最終連に「ことば」という表現になってあらわれてくるが。
 この「ことば」がとてもおもしろい。立っているのは「ことば」なのだが、それは「夏の祈り」であるし、どういえばいいのか、そのときその「ことば」のとなりには、「あなたのことば」も一緒に立っている感じがするのである。「あなたのことば」がいっしょにそこにいると感じるからこそ、「杉のことば」もそこにいることができる。
 前回の詩で、杉は兄の俳句を紹介していたが、その俳句のことばと大江健三郎のことば(実際には何も書かれていない)が交錯して動いて感じられたように、ここでも「書かれないことば」が動いている。そういう「動き」を感じさせる、とても自然なリズム、音楽がある。

いのちか  池田清子

六畳 和室の
腰高窓の雨戸を閉めるとき

 このようにくれ
 またあしたをむかえる
 これが
 これがいのちのあじわいなのか

というフレーズがうかぶ
少し胸がしまる

大抵は
そうよ って
明るくシャッターを下ろす

か? って
軽く聞かれているような気がして

 二連目の「これがいのちのあじわいなのか」は「か」で終わっているが、必ずしも「疑問」をあらわしているとは言えないだろう。疑問というよりも「詠嘆」にちかいかもしれない。「これが」といったん言って、すこし間があって「これがいのちのあじわいなのか」と「これが」を繰り返してしまう感じは、「諦観」かもしれない。
 そうしたことばに出合って、それを疑問に変え、「か? って/軽く聞かれているような気がして」と言うとき、そこには「ずれ/差異」があって、その「ずれ/差異」こそが池田なのだ、池田の正直なのだと感じさせる。
 そして、それは、その最終連の前の、二連のなかの変化があってこそなのである。「諦観」に「少し胸がしまる」、そして「そうよ」(それでいいのよ)と言うことで、けりをつけたいのだが、なかなか「明るく」決断に踏み切れない。
 「迷い」がある。「わからない」がある。
 だから、読んでいて、こころが誘われる。
 「軽く聞かれているような気がして」と中途半端(?)で終わる行も、その中途半端がとてもいい。絶妙の「余韻」を生んでいる。
 書きそびれたが、書き出しの「六畳 和室の/腰高窓の雨戸を閉めるとき」の一種の「古くささ」がとてもいい。「腰高窓」は、いまはもうつかわなくなったことばかもしれない。それが「六畳/和室」ともぴったりくる。何かしら、この書き出しで「時間(過去)」を感じさせる。つまり、池田が「生きてきた」ことを感じさせる。「これがいのちのあじわいなのか」という諦観のことばと向き合える年齢の人間だと感じさせる。言いなおすと、ここには若いひとには書けない「余裕」がおのずと漂っている。それが詩を強いものにしている。

 

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