池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年03月17日)
受講生の作品。
三月、歌ってくれないか 池田清子
すぐに終わると思っていた
三年前の三月
突然の破壊
穏やかに人々の暮らしていた
美しい街並み
本当は
春に向かって 明るい豊かな 三月
らっぱ水仙、レンギョウ、ユキヤナギ、ムスカリ・・・
自由で伸びやかな 三月
終わるまで
書き続けようと思っていた詩も
2回でとん挫
無力さを恥じる
こんな時 昔は
若者が歌っていたよね
「イムジン河」「戦争を知らない子供たち」
「死んだ男の残したものは」「フランシーヌの場合」・・・
ねえ、髭男よ、YOASOBIよ、Mrs.GREENAPPLEよ
歌わないか、歌ってくれないだろうか
ボブディランのように
風に吹かれて
「三年前の三月/突然の破壊」はロシアのウクライナ侵攻を指す。それは五連目のいくつもの歌によってくりかえされる。
私は最近の歌は知らないのだが(六連目に登場するグループの歌はもちろん知らないのだが)、彼らはどんな歌を歌っているのだろう。「歌わないか、歌ってくれないだろうか」からは、若者に期待する声が聞こえる。そういう声が聞こえるということは、彼らは、「反戦ソング」を歌わないということなのか。
私たちの時代には、池田が上げている歌のほかに、最終連に登場するボブ・ディランやジョーン・バエズもいた。
そうした歌は、つづいてほしいと思う。
三連目の「終わるまで」はすこしむずかしい。書いている池田にはわかっていることだが、読者に通じるかどうか。一連目に「すぐ終わると思っていた」ということばがあるので「戦争が終わるまで」と読んでしまう。私は、そう思って、ここでつまずいたのだが、池田によると「書き始めた詩が、書き終わるまで」という意味。戦争を知って、それについて書こうとした。けれど書き終わることができなかった。この場合、「終わる」ではなく「書き終わるまで」か「完成するまで」の方がいいだろうと思う。つぎの行の「書き続ける」に配慮して(「書く」ということばを重複させたくなくて)省略したのだと思うが、わかりにくい。
この連が「自分は挫折したけれど」と反省をこめた連だとわかると、それからあとの若者に託す「思い」ももっと明確になると思う。ノスタルジーとして書いているのではなく、祈りとした書かれた詩なのだった。
*
巡る 杉惠美子
庭の土が ほぐれる音がする
春の光をうけて
木々はいっせいに 自分の呼吸を確かめる
土は温かい感触で 顔を出し
いのちの波動を足もとから伝える
今更ながらに
はるは幾度も巡り来る
かならず巡り来る
みずに映る透明な春は
芽吹き
動き
押し上げ
包み
そして 呟く
私の内なる
重さと軽さも
弾み始める
春は全てが 自分のできることをはじめる
漢字とひらがなの書き分けが、とてもおもしろい。興味深い。最終行の「はじめる」を読んだとき、その直前の「始める」との対比と同時に、ふと、一行目の「ほぐれる」とも呼応している感じがするのである。
自分で何かをする。そのとき、それまでの自分が「ほぐれ」てゆく。固いものがやわらかくなり、そうすることで何かがはじまる。「始まる」では意味が明確になりすぎる。「解れる」もイメージが固定されてしまう。「ほぐれる/はじまる」と意味から解放されて「音」になると、「ほぐれる」というのはどういうことだったか、「はじまる」というのはどういうことだったか、と一瞬、あいまいになる。同時に、「肉体」が意味から離れて、いのちそのものとして手さぐりで動く感じがする。
二連目の「巡り来る」の繰り返しの前に「かならず」がつけくわえられているのもいい。「幾度も」を言いなおしたものとも言えるのだが「かならず」がひらがななのも、読んでいて落ち着く。
三連目の「みずに映る透明な春は」の「は」という助詞は、ない方がリズミカルになるだろうなあと思う。「呟く」は次の連の「内なる」ものと結びつくのだが、「弾む」で終わって、次の連の「弾む」と連動させると、四連目のなかに三連目のリズムがよみがえると思う。
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糸水仙 青柳俊哉
ホワイトアウトきえ
あしもとへ 水仙
ふる 鮮麗な
藍のそらから 凍
土へ
北極から 腐敗した地
へ
恩寵--
うみへむしんにみしんふみならすときはなれる
なみをおるぶぁいおりんししゅう
あいのそらきらら
さんしょくのね
「ホワイトアウト」は猛吹雪で視界が真っ白になること。「地吹雪」という言い方もあるかもしれない。地面の雪さえも風で吹き上げられ、目が白い闇に覆われる。そういうときひとは足もとしか見ないのだが、水仙が見えたからホワイトアウトが消えたのか、ホワイトアウトが消えたから水仙が見えたのか。わからないのが、いい。「凍/土」という行わたりの表記も、おもしろいと思う。ホワイトアウトが消えたのと同時に、藍色の空が見えたのと同時に、「凍土」が「凍る」と「土」に分かれた。それは水仙が突然あらわれるのと同じ感じだろう。
最終連のひらがなの連続。「うみへむしんにみしんふみならすときはなれる」この一行が、とても音楽的。その音楽が「ぶぁいおりん」を呼び寄せるのだと思う。「さんしょくのね」の「ね」は「音」かな、と思ったりする。
一連から四連目への変化のためには、二、三連目が必要なのかもしれないが、思い切って省略しても楽しいかもしれない。その方が飛躍が大きくて、いろいろ想像できる。「腐敗」「恩寵」に意味があるすぎる感じが残る。
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最後の晩餐 堤隆夫
最後の晩餐について思う時
戦争や災害や事故のため
最期の晩餐にありつけることなく
この世から逝ってしまった
幾千万の方々の魂の感しみを 思わざるを得ない
果たして 最期の時 私は最後の晩餐をすることができるのであろうか
その時 私の身体に口から食することができる機能は 維持されているのだろうか
病のため 中心静脈栄養や経管栄養等の人工栄養法に頼らざるを得ない時
元気だった日々の食の喜びを想起することは
残酷な思い出でありはしまいか
思いは千々に乱れる--
生きることを続けていれば
私たちは皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 摂食・嚥下が困難となる
口腔機能を可能な限り維持することは 死を迎えるまでの間
生活する意欲や回復への意欲 生き続ける希望を維持することでもある
自分の口で食べること 飲むことは その人らしく生きるための人としての尊厳
最期の時 私は叶うことなら 愛し 信頼している人と共に
たとえ一個のおにぎりを分けあってでもいい
小学生の時の遠足の日のように 安穏で幸せだった日々を思い出しながら
最後の晩餐ができれば もう それで十分だと思っている--
堤の詩は、論理/倫理性が強い。「最後の晩餐」というと、いや「晩餐」というと、どうしても豪華なものを連想するが、それと「一個のおにぎり」を対比させる。単に「一個のおにぎり」なのではなく、それは「分け合う」ものとしての「一個」なのである。「分け合う」とき、そこには「愛」がある。「幸せ」がある。
この詩では、私は、そうした「論理/倫理」のことばの運動よりも、三連目の「生きることを続けていれば」に強く引かれた。「生きていれば」でも意味は似ているかもしれないが「続ける」が挿入されることで、意志というか、祈りのようなものが、ことばの奥をささえている。
堤の詩に何回も登場する「愛」とは、「生きる意志」のことなのだろうと私は思っている。「愛する」ということと「生きる」ということは、「意志」の根本なのだろう。堤のことばは、常に、そこから動いている。