詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩成達也「ずれる(私的なメモ・その6)」

2006-08-31 23:41:37 | 詩集
 岩成達也「ずれる(私的なメモ・その6)」(「現代詩手帖」9月号)。

あの(内的な指)--それはいったい何だったのか
爪も関節もない不具の指 いや おそらくは指でさえなくて
単なる肉(シェール)の小破片 あるいは肉の とある躓きや裂開に似た(もの)

 「いや」「あるいは」ということば。そして「おそらく」「とある」「似た」ということば。そうしたことばが作り出す推進力というか、前へ前へとことばを動かしていく力。それを受け止める「もの」というあいまいなことば。岩成にしか具体的に見えない「もの」ということば。(「岩成にしか具体的に感じられない「もの」ということば、と言い換えた方がいいかもしれない。)
 ここには客観的にというのも奇妙だけれど、あらゆる読者が正確に共有できる「もの」は書かれてはいない。岩成のことばを読むとき、わかるのは、岩成のことばが何かに向けて動いている。そしてその動きは一直線ではない。「いや」と逆方向に動いたかと思えば、「あるいは」とそれまでとは別方向に動くという「動いている」事実しかわからない。あるいは(と岩成にならってことばをつかえば)、動こうとしているということしかわからない。「いや」「あるいは」と瞬時につみかさねられては、ほんとうにどこかへ動いたのか、動こうとして迷っているだけなのかもわからない。しかし、ここにはどこかへ、ここではないどこかへ動こうとする意思、あるいはエネルギーがあるのは確かだろう。
 岩成は何を書きたいのだろう。

「(内的な指/内的な舌)がのろのろのと闇の斑な部分を辿っている」
(そのために 手始めに この一行を逐語的に追ってみる
(略)
かっての(ことば)への人々の想いを (指)にそってなぞってみる

 「辿る」「追う」「なぞる」。この動詞が岩成のエネルギーの運動の仕方であるが、「なぞる」が、おもしろい。先にあるもの、すでに存在するもの、「ことば」であるかぎり、それは誰が(人々が)すでにつかっていたものであり、岩成以前に(すでに)存在しているものであるが--それを「なぞる」。単に「追う」「辿る」のではなく、自分自身をすりつけるようにして動く。明確な接触がある。自分の肉体を触れさせながら動く、触れながら自分自身をすりつけていく。
 触れるということは、自分以外の存在を常に自分のなかに取り込むことであり、同時に自分を相手に押しつけることである。触れるときは、かならず相互の交渉がある。
 岩成はすでにあることば、それに自己をすりつける。すりつけながらなぞる。そのとき、すでにあることばには「人々の想い」も含まれているが、それまでに岩成自身がつかってきた意味合いも含まれている。また、触れることによって喚起される新しい意味合いが岩成の内部に生まれ、それを瞬時のうちにすでにあることばに伝えもすることになる。
 その結果として、ことばは意味が明確になるというよりも、いっそう複雑になる。輻輳する。あいまいさのなかに遠ざかる。
 だが、このあいまいなまま遠ざかることが、同時に、「なぞり」を促す。先へ先へと岩成のあたらしいことば、岩成の精神の内部で生成してくることばを誘う。言わばそれは、岩成のことばの「誘い水」として遠ざかる。
 この運動には限りがない。「到達不能」ということばが途中に出てくるが、到達不能と知りながら、それでもことばを動かす。ことばはこんなにも動き回れる、動き続けることができる--岩成の書きたいのは「もの」ではなく、動き続けることができるということばそのもののエネルギーのありようなのだと思う。
 「到達不能」と知りながら、それでも動き続けることばのエネルギーそのものに岩成はなりたいのだと思う。このような詩において、何が書かれていたかということは重要ではない。何行書き続けることができたかが重要である。そして、読者にとっては、やはり何を読み取ることができたかが重要ではなく、何行読み続けることができたかが重要である。読み続けることができれば、それは岩成のことばのエネルギーを信じることができた(ことばにリアリティーを感じることができた)ということであり、読み通せなければ、それは岩成の書いていることが信じられなかったということである。「信じる・信じない」は、読者の内部のことばの自在性(可塑性)にかかっている。そういう意味では、岩成のことばは、いわば読者を試しているのだともいえるかもしれない。岩成は、いわなりのことばをなぞりとおせる人にだけ向けてことばを動かしている。
 粘着力の強いことばなのに、どこかですっきりしているのは、そうした諦念のようなものが隠れているからかもしれない。


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映画「ゲド戦記」

2006-08-30 13:24:32 | 詩集
 田中裕子が「クモ」の声で出演している。たいへんな熱演である。熱演であるが、私は非常に違和感を感じた。絵を超えて、そこに田中裕子の姿が見えるからである。これはアニメの声としては失敗ではないだろうか。
 アニメにおいて声は付属品である。絵でわからないものを補足するだけのものにすぎない。映画は何よりも視覚の体験であり、その視覚体験を彩るものとして音楽がある。人間の声は不要である。絵と音楽に想像力を刺激するものがないときに声が必要になる。
 アニメの声優に求められるものを田中裕子は勘違いしていると思う。誰が演じているという声そのものに個性があればいいのであって、そこでは演技はできるかぎり省略されなければならない。(菅原文太の声がよかった。)
 弱音を多用して、観客の意識を声に集中させるような声の演技はアニメの演技としては失格である。舞台でやる演技をアニメでしてはいけない。

 絵そのものにも私はかなり失望した。
 宮崎吾郎は夕暮れの光りを描きたかったのだと思う。光りそのものを描きたかったのだと思う。弱まっていく光り、それを回復するための戦い。
 だから夕暮れの光りをきちんと描くというのは、それはそれでわかるのだが、奇妙にしつこい。べたっとした感じが残る。
 これは夕暮れの光りだけではなく、背景全体に感じる。背景が奇妙にリアルにべったりしていて、登場する人間が書き割りのなかで動いている感じがする。力点の置きかたが逆でなければならないと思う。3Dアニメのようにリアルな立体感のあるアニメを描けというのではない。(私は3Dアニメが嫌いだ。) 人物にふさわしい背景を描いてほしいと思う。

 音楽、テルーの歌う二つの歌がよかった。主題歌は伴奏なしで、それが人間の声の不安定さを浮き彫りにする。この不安定さが人を引き込む。こういう歌声を選ぶ力があるなら、やはり田中裕子の田中裕子ショー的な声の演技は排除すべきだろう。べたべたの背景づくりはやめるべきだろう。
 不満の残る映画だ。
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高橋睦郎「犬いわく」

2006-08-30 13:00:55 | 詩集
 高橋睦郎「犬いわく」(「現代詩手帖」9月号)。
 どこで読んだのか忘れてしまったが、北川透が、谷川俊太郎、高橋睦郎、荒川洋治の3人はどんな種類の詩でも書けるというふうなことを書いていた。そのひとり、高橋が犬の視線で人間をみつめた詩。これが妙に寂しい気持ちを呼び覚ます。
 その最終連。

歴史とは何だろうか
ぼくが彼に出会って以来の時間?
ぼくらの出会いは 三万年前
あるいは それ以上ともいう
彼の歴史は ぼくとの歴史ではない
彼は 歴史を自分で満たしたがる
自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ
ぼくは彼の癒されることのない孤独を
熱い舌で舐めつづけるほかない

 「N・T」の「ぼく、イヌなんです」ということばが詩の最初に掲げられている。そのことばを信じれば、「ぼく」とは「N・T」、「彼」とは高橋のこと、あるいは「N・T」の知り合いの誰か、ということになるだろうか。
 「N・T」から見れば、「彼」は時間を自分で完結させている、空間を自分でいっぱいにしている。いわば「自立」していて誰にも頼っていない。それはしかし「N・T」から見れば「孤独」に感じられる。
 これはもちろん「N・T」が語ったことばではない。高橋が「N・T」が思っているだろうと想像して描いたことばである。したがって、それは本当は高橋自身のことばである。「N・T」が「イヌ」であるという視点を借りて、高橋は、自分自身を、そのことばのなかに隠して、隠しながら、みせる。(少し、粕谷栄市の「うどん屋を夢見る男」と「夢見られたうどん屋の男」の関係に似ている。似ているとは書いてはみたが、本当はまったく違う。)
 そんなふうに高橋は間接的に「自画像」を描いてみせる。自分で完結させた時間、自分でいっぱいの空間を生きている男。それは本当は孤独である、と。そして「熱い舌で舐め」られることを待っている、と。
 それに気がついてほしいと願っている。
 寂しさは、その願いというよりも、「イヌ」に託して自画像を描いてしまうことの寂しさである。

 それに先立つ連。

彼はぼくを繋いだ鎖を手に
朝夕 散歩するのを好む
沖から白い波の寄せてくる砂浜や
小鳥の冗舌な歌の塊となる木の蔭
あいつをつれた彼女が現われて
ぼくを連れた彼の挨拶を受ける
ぼくらが鼻で嗅ぎあっているあいだ
彼らは言葉でさぐりあっている
わからなさから 愛が立ち上がり
愛から 生命が産み落とされたりする

 「言葉でさぐりあ」うのではなく、「ぼくら」のように直接「鼻で嗅ぎあ」えばいいのだ。本当は、それが自然なのだ。鼻で嗅ぎあい、何かわからないまま、愛が立ち上がり、命が産み落とされる……というより、もし愛というものがあるとしたら、鼻で嗅ぎあい、交尾し、命を産み落として、そのとき愛が愛になるのだろう。命を産み落とすよろこび、新しい命を見るよろこび、それをもたらしてくれたものが愛だったと気がつくのだろう。
 そうであるなら、最終連は、また違ったふうに読むことができるだろう。
 「彼」の「孤独」を癒そうとして熱い舌で舐めつづけるイヌ。その存在が、彼が時間を自分で完結させている、自分で空間をいっぱいにしているという状態、つまり、孤独を産み落としているのだ。イヌによって、彼を舐めつづけるイヌによって、高橋は孤独を孤独と気がついたのだ。
 こんなふうに書けば、まるで、イヌも高橋自身になってしまう。イヌが批判(?)していたことばを借りれば、「彼」は「存在」を自分でいっぱいにしてしまう。
 
 本当はそうなのかもしれない。高橋は時間を自分で完結させる。空間を自分でいっぱいにする。あらゆる存在に自己を投影し、自己として描いてしまう。あらゆる詩を自在に書いてしまえるということはそういうことかもしれない。

 そして、そこにこそ本当の寂しさがあるのかもしれない。人間がことばになってしまうという寂しさ。この寂しさを癒せるのは、イヌの舌だろうか。どうも違うように感じる。この寂しさを癒せるのは新しいことばである。誰も書かなかったことばである。寂しさを感じながら、なお、新しいことばを求めずにはいられない高橋の「自画像」がひっそりと隠されているのを感じた。
 その新しいことばはどこにあるのか。たぶん、イヌの舌、「彼」を癒そうとして舐めつづけるイヌの舌の熱さのなかにある。熱いと感じる「彼」の触覚にある。その、まだことばにならないものを探している静かな静かな「自画像」としても、この詩は読むことができるだろうと思う。



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粕谷栄市「もぐら座」

2006-08-29 23:12:43 | 詩集
 粕谷栄市「もぐら座」(「現代詩手帖」9月号)。

 たぶん、できないだろうが、もし、できることなら、
私は、遠いその田舎町で、一日だけ、うどん屋になって
過ごしたい。とは言っても、私は怠け者だ。本当は、何
もしないで、ぼんやりしていたい。

 ここから何が始まるか。何も始まらない。実際には何もしないまま、ただ「うどん屋」の夢を見ているだけである。ある一日、客の来ないどん屋で、ぼんやりしている。そういう夢を見ているだけである。
 ところが、その夢を語っているうちに奇妙なことが起きる。夢のなかで、「うどん屋」がまた別の夢を見るのである。「夢のなかの夢」が描かれるのである。
 そして……。

 そして、夜更け、やって来た三人目の客も、私そっく
りのもぐらの顔をした女だった。驚いたことに、彼女は、
入ってくるなり、いきなり、私に抱きついてきた。
 それから、何がどうなったかは、その女に聞いて見な
ければ分からない。分かるのは、その後、暫く、店のの
ぼりが、激しく揺れていたが、やがて、突然、私の小さ
な店は、闇にかき消えてしまったということだけだ。
 その一日は、そうして過ぎた。それにしても、その夜、
「もぐら座」の星が、なぜ、誇らしげに、満点に煌いて
いたのか、今となっては、誰も知る由もないのだ。

 これは、夢見られた「うどん屋」に起きたことである。
 そのとき、「うどん屋」になってぼんやり一日を過ごしたいとは思っていた「私」(粕谷)はどこへ消えたのか。
 それとも、消えてしまうことまで「私」の夢のつづきなのだろうか。
 たぶん、書いているのが粕谷であるから、夢のなかのうどん屋が消えてしまうことも、粕谷の夢なのだ。
 だが、そのとき「今となっては、誰も知る由もないのだ。」というときの「誰」とはいったい誰だろうか。「その日」というのは「夢見られたうどん屋」(夢のなかのうどん屋)にとっての一日だろうから、それは「夢見られたうどん屋」の周囲の人だろうか。
 それとも、「誰も知る由もなかった」ということも、最初に登場する「私」(粕谷)の夢だろうか。

 物語の中に物語が紛れ込んで、主語が見分けられなくなる。というよりも、私は主語を見分けることを忘れて読んでしまう。

 粕谷にとっての「詩」とは、そうした主語が見分けられなくなって、その見分けられないという世界を時間が流れていくということなのだろう。
 入沢にとって、「架空」は、ある特定の時間、一瞬の時間である。ある一瞬に、世界が現実のものか架空のものかわからなくなる。「もの」(こと)の境界が入り乱れる。そこでは時間が静止している。時間が静止したために、「もの」がかってに動いてしまった。それを見ている「私」(入沢)は揺るがない。「私」は現在という時間から、ある瞬間(ものが入り乱れる瞬間)を見ていて、入り乱れるがゆえに「偽記憶」と呼ぶ。そこには記憶は入り乱れてはいけないという「常識」がある。判別がつかない記憶はどこか間違っているという「常識」がある。あるいは、そういう「常識」を笑ってみせる精神がある。たぶん、後者の方、つまり、どちらが本当であり、どちらが幻かわからないような記憶は記憶として不十分であるという常識に対して、「そうかな」と疑問をつきつけ、常識にこだわる読者を笑ってみせるというのが入沢の試みかもしれない。
 これに対して、粕谷は、「物語」のなかへずるずると入っていく。「物語」のなかで、入沢の作品と違って「もの」が何かに変わるということはない。変わるのは「人間」そのものがかわる。「もの」の真偽は問題にならない。「人間」の真偽--どちらが粕谷かということが問題になる。そして、よくよく考えてみれば、どちらも粕谷である。どちらが粕谷かと問うてみることは、ぜんぜん楽しくない。「私」という「枠」がとけてしまって、時間となって、ずるずると流れてしまう。ずるずるっと溶けるために「物語」という構造、架空が必要なだけである。
 時間が、ずるずるっと溶けて、最後に「もの」が残る。たとえば星が、星空が。それは「唯一」の存在である。
 入沢の「偽記憶」(幻)が真実と偽という「二つの存在」、そしてそれをみつめる「唯一の精神」によって構成されるのに対し、粕谷の「物語」は、見分けのつかない「いくつかの私」(融合した私)と「一つのもの」によって構成される。
 たぶん「時間」に対する考え方が入沢と粕谷ではまったく違うのだろう。


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豊原清明「五百年後のミコト」

2006-08-28 14:34:48 | 詩集
 豊原清明「五百年後のミコト」(「SPACE 」69)。
 豊原のことばの動きは不思議だ。「なまなましさ」を再現するのに入沢は「ただし」という接続詞、無機質(?)なことばをつかっていた。その無機質であり、抽象的である接続詞がなまなましかったが、豊原のことばは、接続詞、あるいは論理を説明するための補助線が欠如した部分になまなましさがある。
 最終連。その最後の部分。

だらだら流れる僕だけの
ケの時間は
尊のマンガを書くことに
費やされた
口を3の字にしたギャグ漫画
絡まった頭の配線を
ほどかすように
寂しい強風が僕を貫く。

 「費やされた」と「口を……」の行のあいだに、どんなつながりがあるだろうか。ギャグ漫画の顔、その口が「3」の字に書かれている。たしかに、これは補足なのだが、その補足を接続詞でつなぐとき、それはどんな接続詞なのか。豊原は考えない。そして私も考えない。考えないまま、ごく自然に、そのことばを補足として受け入れる。
 次の「口を……」と「絡まった配線を……」はどうだろうか。ふたつの文はどうつながっているのか。豊原は考えない。私も考えない。ただそれが自然のままにつながっていくのである。
 --と書いて(書きながら)、私は、いま書いたこととは違ったことを同時に考えている。「口を3の字にしたギャグ漫画」という行が、入沢の作品の接続詞と同じ働きをしている。抽象的なことばではなく、実態のあることば、具体的なものを指し示すことばが豊原にとっては「接続詞」なのである。そこにおもしろさ、不思議さがつまっている。あることがらと別のことがらをつなぐとき、接続詞ではなく、具体的な「もの」がそこに立ち現れる。「接続」するということが精神の運動ではなく、何か、もっと手触りのある肉体のように感じられる。そこになまなましさがある。

 私の説明は奇妙だと思う。いま書いたことは説明になりきれていないだろうと思う。論理として通用しないだろう。だが、私は「口を3の字にしたギャグ漫画」という行は、やはり「接続詞」の働きをしていると思う。
 以下は、かなり乱暴な方法なのだが……。たとえば「口を3の字にしたギャグ漫画」という行を「そのとき」と書き換えてみたらどうだろうか。

だらだら流れる僕だけの
ケの時間は
尊のマンガを書くことに
費やされた
そのとき
絡まった頭の配線を
ほどかすように
寂しい強風が僕を貫く。

 マンガを書く。マンガを書いて時間をすごす。そのとき、頭のなかを寂しい強風が貫く。前の3行と後の3行は、論理的(?)にはすっきりとつながる。前の3行を後半の3行が補足する。説明する。
 だが、豊原は「そのとき」ではなく「口を3の字にしたギャグ漫画」と書く。
 「そのとき」のように、前の3行を、切り離して客観化しない。いったん分離して、それから心情(こころ、精神)、いったい豊原が何を感じたかを書かない。むしろ逆に、前の3行の内部に深く押し入り、そのなかから具体的なものをひっぱりだしてきて、その「もの」そのものを接着剤にして後の3行へと突き進んでいく。
 あるいは、こういえばいいだろうか。
 豊原は、あることがらを書くにあたって、それを抽象化しない。「こと」と「精神」を分離しない。「こと」と「こと」をつなぐときに、「こと」を精神化(抽象化)することでふたつの「こと」に共通するものがある、ふたつの「こと」に一貫性があるというふうには表現しない。「こと」と「こと」のあいだに、もうひとつ「こと」を持ってくる。その「こと」(もの)に接着剤の仕事をさせてしまうのだ。
 この「こと」(もの)だけを描くという姿勢があるからこそ、最後の「寂しい強風が僕を貫く」が抒情ではなく、なまなましい肉体となって立ち上がってくる。「寂しさ」も剛直で、自律したものに見えてくる。そして、そのとき私の目の前にあるのは「寂しさ」を抱え込んだ巨大な肉体、強靱な肉体、どんな「もの」でも自分の手でつかみ取る健康な肉体が見えてくる。

 入沢の作品を読んだときは「精神」を強く感じた。豊原の作品には肉体を強く感じる。肉体が持っている健康さ(病気もすることを含めての健康さ)を感じる。入沢も現実には病気をするだろうが、詩を読むかぎりにおいては、入沢が病気をする肉体を持った人間としては見えてこない。何かを明確にしようとする精神としてのみ見えてくる。豊原の場合、精神というよりも、まず肉体そのものとして存在が見えてくる。人間だからもちろん精神もあるのだが、それはけっして肉体と分離して存在するのではなく(つまり、肉体から分離した状態で表現できる形で存在するのではなく)、あくまで肉体に溶け込んだもの、肉体と一体になったものとしてしか見えてこない。
 「接続詞」によって、精神を分離し、その運動が明確になるような書き方を豊原はしない。いつも肉体に精神をとけこませる。そこに豊原のなまなましさがある。


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入沢康夫「山麓の石原の思ひ出」

2006-08-27 23:18:12 | 詩集
 入沢康夫「山麓の石原の思ひ出」(「現代詩手帖」9月号)。
 従兄と馬にのって山へゆく。その途中、石原で不思議な光景を見る。急に日がかげる。すると、離れた場所で、子どもたちが石積み囲んで歌を歌っている。声は聞こえない。
 そうした描写につづく最終連。理解できないことばがある。

厚い雲が去つて あたりに色彩が戻つたとき 石積みの周り
にもはや子どもたちの姿は無かつた ただし その恰度真上
に当たる空に 淡い淡い昼の月が懸かつてゐた

 「ただし」とは何だろうか。なぜ、ここにこのことばがあるのか。
 「ただし」とは何か。思わず辞書を引いてみた。岩波の「国語辞典」第6版に次のようにある。「先に述べた事に補足的な説明・条件・例外をつけるときに使う語。」例文として「これはすぐれた説だ。ただし疑えば疑える点もある」。
 私には「その恰度……」以下が「厚い雲が……」につけられた補足や条件、例外とは思えないのである。
 もし「ただし」がなかった場合、この最終連はどう違ってくるのだろうか。
 もし「ただし」のかわりに「けれど」ということばがあった場合はどうだろうか。「そして」の場合はどうだろうか。
 実際に見える光景、ことばによって呼び起こされる光景は変わらない。子どものいない石原。上空に昼の月がある。どんな接続詞を置いても、その光景にかわりはない。
 しかし、何かが違う。
 その何かとは何か。こころの動き。精神の動きだ。それも、ことばで説明することができない、あいまいな動きである。その動きについて、私は何もいうことができない。何も書くことができない。ただ、入沢にとっては、この「ただし」は絶対必要なのだろう。その絶対に必要な根拠というか精神の動きの起点のようなものは、この詩だけではわからない。詩集になったとき、10篇を読み返せば何か手がかりがあるだろうか。それもわからない。
 「ただし」(と、ここで入沢のことばをまねてみよう)、この「ただし」のなかにこそ、入沢が今回の連作で書かずにはいられなかった何かがある。
 「偽記憶」の10篇は、どの作品にも「事実」と「幻」(偽の記憶?)が描かれている。そのふたつは互いに他者を否定しない。むしろ依存し合っている。事実(現実)として明確にかかれるものが一方にあり、他方に現実の世界のこととは思えないような「幻」に似たものがある。そのふたつは一方が現実であることによって、他方は幻になる。一方が幻であるからこそ、他方は現実になる。そういう「依存関係」にある。どちらかが欠けても「偽記憶」にはならないのである。
 同じ号に粕谷栄市が「もぐら座」を含む3篇の詩を書いている。粕谷の作品は最初から最後まで「架空」である。「架空」を利用して、そのことばの運動のなかに「現実」をもぐりこませる。あるいは「架空」を利用して、「架空」のなかでしか言えない真実(思想)を語る。粕谷の詩は「架空」に依存している。「架空」がなければ「現実」が書けない。
 入沢の作品はまったく違う。「現実」と「幻」がないと書けない。ふたつが互いに依存し合わないと世界が成立しない。

 入沢は、世界というものが「現実」と「幻」が依存し合ってはじめて成立しているものだと考えているのかもしれない。
 「ただし」ということばは、先行することがらを補足することがらを導くための接続詞と定義されるけれど、そうした論の展開のとき、私たちは先行することがらだけを先にみつめているわけではない。先行することがらを言ってしまった後で補足を思いつくわけではない。ふたつをいっしょに思いついている。ただ、ふたつをいっしょに語ることができないので、どちらかを先に語るだけである。
 「史実」も「幻」も、それはいっしょに存在する。並列というよりも、ふたつは溶け合い、混じり合っている。融合したものを、ことばで明確に語ることは難しい。私たちは便宜的に一方を先に語る。そのうえで、先に語ったことばでは語れなかったものを補足する。それは、単に補足というよりは、先行することばを、もういちど「混沌」(カオス、現実と幻がまだ分離する前の世界)へ引き戻すことなのかもしれない。

 「偽記憶」はことばにした瞬間に「偽」(他人にとって信じられないもの)に変わってしまう世界の総称だろう。体験した入沢にとっては「偽」ではない。真実・現実と科学的な視点から見ると事実とは認められないものが融合した、非常になまなましいものであるだろう。そして「記憶」にとって真実とは、それが事実に適合するかどうかではなく、それがなまなましいかどうかが問題である。なまなましいものは他人が見て「偽」であろうと、本人にとっては「真」である。
 「偽」とくくられてしまうような、記憶の「なまなましさ」を入沢は書きたかったのだろうと私は思う。なまなましい記憶ではなく、記憶のなまなましさを入沢は書きたかったのだと思う。「ただし」には、入沢の肉体が記憶しているなまなましさを、なんとしてもなまなましい形のまま再現したいという思いがこめられているかもしれない。
 そうであるなら、この「ただし」こそが、入沢の「詩」である。「ただし」のなかに「詩」があるということになるだろう。

 詩集の形でもう一度読み直してみたい作品群だ。

 

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谷川俊太郎「詩人の墓」

2006-08-26 23:05:35 | 詩集
 谷川俊太郎「詩人の墓」(「現代詩手帖」9月号)。
 たいへん不思議な物語詩である。すべてのひとを魅了する詩を書き続ける詩人がいる。あるいはことばがすべて詩になってしまう男がいる。彼がひとりの娘と出会い、結婚する。いっしょにいるのに、娘はなぜか悲しくなる。

ある夕暮れ娘はわけもなく悲しくなって
男にすがっておんおん泣いた
その場で男は涙をたたえる詩を書いた
娘はそれを破り捨てた

男は悲しそうな顔をした
その顔を見ていっそう烈しく泣きながら娘は叫んだ
「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って! 」

 詩ではないことばを求める--その行為さえも谷川のことばにかかると「詩」になってしまう。この作品のなかで一番「詩」としてリアリティーがあるのが、この部分である。なんという矛盾だろう。「何か言って詩じゃないことを/なんでもいいから私に言って! 」という行を何度も何度も繰り返して読んだ。
 ここには詩ではない詩を書きたいという欲望がひそんでいる。詩ではないことばだけがほんとうは詩になるのではないか、という大きな問題が提起されている。その提起にはまったく同感である。あらゆる詩は、詩ではないことばを取り込むことによって、詩を大きくしている。そういう意味では、これはけっして新しい問題の提起ではない。古い古い問題の提起を、谷川が谷川流のことばで繰り返しているのだと言える。
 それなのに、何度も何度も繰り返し読んでしまう。あるいは、それだからこそと言ってしまった方がいいのだろうか、何度も何度も繰り返し読みながら、こんなふうに簡単に詩にしてしまっていいのだろうか、と思う。
 この詩のなかにも書かれていることだが、谷川の詩を読むと、ときどきこんなに簡単に詩になってしまっていいのだろうか、と思うことばに出会うことがある。
 そう思いながらも、なぜだろうか。この詩に私は魅了されてしまう。最近読んだ谷川の詩のなかではもっともおもしろいものだと感じている。

 この作品を読み返したとき、次の連につまずいた。読みとばしていたことに気がついた。

男はいつもひとりで詩を書いた
友達はいなかった
詩を書いていないとき
男はとても退屈そうだった

 連全体というよりも、「男はいつもひとりで詩を書いた」の1行に私は驚いてしまった。友達のいない詩人がいても不思議ではない。詩を書いていないと退屈だという詩人がいても不思議ではない。だが「いつもひとりで詩を書いた」とわざわざ言う詩人がいるだろうか。普通詩人はひとりで詩を書く。共同で書くようなことがあるかもしれないが、そういうことは稀であり、特別なことがらである。ごく普通のこと、あたりまえのことをとても重要なことであるかのように谷川は書いている。
 谷川にとって、これは、ほんとうに重要なこと、書かずにはいられないことなのではないだろうか。もしかすると、この詩は「男はいつもひとりで詩を書いた」という行を書くために存在しているのではないだろうか、と思った。

 「男はいつもひとりで詩を書いた」--そのとき、(その男が谷川と仮定して)そのことばは谷川にとって詩なのだろうか。詩ではないのではないのか。谷川にとって詩とは、そのことばが自分から離れ、誰かの手に届いたときに完成するのではないか。もちろん、詩とは(あるいは芸術とは、すべて)、作者の手から離れ、鑑賞者に受け入れられたときにその「芸術」が完成する。これは当然のことであるが、谷川は特にそういうことを精神の深いところで感じているのではないだろうか。谷川の詩に強引な印象がないのは、誰かに届いてほしい、受け止めてほしいという願いがあるからではないか。誰かに届いてほしい、誰かのなかで「詩」になってほしいという願いがことばをしずかにととのえているのではないか。そこに、なんといえばいいのだろう、静かな悲しみのようなものがある。透明な悲しみのようなものがある。
 そして、誰かに届いてほしいという願いがあるからこそ、谷川はどんな注文にも詩を書くのだろう。どんなスタイルの詩も書くのだろう。
 とても切実な「自画像」がここに書かれている。透明な自画像がここに書かれている。
 この作品には注釈がついている。「太田大八さんの絵で、今秋絵本として集英社から刊行予定」。この注釈を読むと、谷川の願いはいっそう鮮明になる。絵本の絵と出会い、谷川のことばはその瞬間、「現代詩手帖」(あるいは初出詩誌「風」)に書かれたものとは違ったものになる。出会いのなかで変化する。それがどのような形であれ、谷川はそういう変化が好きなのだと思う。自分のことばが誰かのなかで変わっていく、そのこと自体に「詩」を感じているのだと思う。
 この詩のなかに出てくる娘。その娘といっしょに暮らすのも、娘のなかで谷川のことばが変わっていく、思いもかけなかった姿として受け止められていく、そのことが好きだからいっしょに暮らすのだろう。(暮らしたのだろう。)
 詩はいつでもひとりで書くものである。しかし、詩は、いつでも他人のなかで変化してつくものである。その変化のなかでこそ、谷川は谷川になる。詩を書いているときはひとりの「男」でしかない。ところが詩を書いてしまい、それが他人に届くとき、それが好意的な受け入れであれ、批判的な拒絶であれ、そうした動きがあるとき、谷川は、その動きのなかで谷川自身になる。
 谷川にはそうしたものが見えるのだろう。まだ誰も見ていない谷川が、つまり谷川だけが感じる谷川というものがいつも見えるのだろう。あるいは、そういう透明な谷川の変化を見るために、谷川は「絵本」というような共同作業に積極的にかかわるのだろう。あるいは、歌のために詩を提供するのだろう。

 この詩はちょっと悲しげなことばでおわる。詩人は死ぬ。そして、

その墓のかたわらに
気がつくとひとりぼっちで娘は立っていた
昔ながらの青空がひろがっていた
墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった

 墓にことばが刻まれていないのは、その墓のそばに娘が立っているからである。娘がそのとき墓に刻まれたことばなのである。娘のなかで生きていることば、谷川と出会うことで娘のなかで生まれたことば、まだことばとして書かれていないことば、それこそが実は谷川自身なのだということだ。
 谷川は、そういうことを静かに夢見ているのだと思う。谷川の書いたことばは印刷物のなかに残る。しかしそれよりも、ことばにならず、ただ誰かの肉体のなかにひっそりと、ただひっそりとたたずんでいる、肉体そのものとしてたたずんでいることばこそがほんとうの谷川の「詩」だと夢見ているのだと思う。


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大家正志「ドア・ツアー」ほか

2006-08-25 15:12:08 | 詩集
 大家正志「翻訳 ③ ドア・ツアー」(「SPACE」69)。
 詩としてというより、提案として、とても魅力的である。

弘井さんからメールがきた
 僕にはドアという打楽器演奏の夢があります
  ドアを文字どおり叩き続けるのですが
   とぼけたチャイムのピンポーンをいれたり……

 その夢の提案に大家がドアを叩いて回るドア・ツアーを提案する。そのメールのやりとりと大家自身の感想が書かれている。とてもおもしろくなりそうなのに、あれ、思いつきだけのことなのかという印象しか残らない。
 私がもっともおもしろいと思った部分は、

三島由紀夫は日本を叩きそこねて幼児のようにすねてしまったし
 寺山修司は見知らぬ女性の風呂場の窓を叩いて「どうも寺山です」

から始まる4行だが、それも「思いつき」でおわっている印象が拭えない。なぜだろうか。大家自身がドアを叩くとき、いったいどんな自分を出したいのかわかっていないからだと思う。どんな音を聞きたいのかわかっていないからだと思う。ただドアを叩いてまわればおもしろいことが起きるのじゃないかという印象が先に立って、実際の大家自身をひっぱっていかない。「頭」のなかのゲームになってしまっていて、肉体、大家の日常がついていっていないからである。
 実際に何かを叩けば、三島のように自害しなければならないときもあるだろうし、寺山のように逮捕されることもあるだろう。その覚悟があって「ドア・ツアー」をやるのなら、そこから「詩」は始まるだろうが、どうも、そういうことは回避したまま、おもしろがっているだけである。
 もちろんおもしろがるのはおもしろがるでとてもいいことだ。おもしろがることをどんどん拡大していけば、それはそれでいいのだろうけれど、どうも中途半端である。実際の音楽ではなく架空の音楽会(頭のなかの音楽会)なら、架空をもっと広げるべきだろう。

だけど
 町を巡れば巡るほど
  叩くべきドアがわからない

と大家が書いてしまっては「ドア・ツアー」は最初から成り立たない。
 弘井さんというのは誰なのか私は知らないが、彼の夢は奇妙に空想のなかにずらされ、空想としてかき消されてしまったのではないか、という感じがして、ちょっと(かなり、という意味です)弘井さんがかわいそうになった。
 素材としてのドア、必ず聴衆というか、そのまわりに人、個人的な生活があるという場での音楽は、叩くひと自身が自分の生活をむき出しにしなければ空想になってしまう。空想を否定するために現実の「場」を呼び込むドアがあるのになあ……。
 不思議なことに、私は大家の詩ではなく、ここにはちょっとしか出てこない弘井さんの音楽についての意見を聞きたくなってしまった。弘井さんが叩く素材として何よりも先に「ドア」を思いついた理由、そこで繰り広げたい音楽とは何か。きっと大家の考えとは違うだろう。もっと弘井さんの声を丁寧に紹介してほしいという思いだけが残った。



 「音」について、八木幹夫は「私の耳は」を同じ「SPACE」69に書いている。音を重ねて音楽にする弘井とは違って単純に音を聞く人間としての八木を書いている。

私の耳は音を聞き過ぎる
闇を飛ぶ無数の蝙蝠の羽ばたき
地を走る無数の昆虫の足音
私の耳は利益につながる音を聞き分ける

 誰でも音を聞きながら音を選別する。聞こえているのに聞こえないことにしてしまったりもする。必要とあればどんな小さな音でものがしはしない。それはずるいことだろうか。そうではなくて、それが日常の正直さというものだろう。

私の耳は東西南北から聞こえる異なる音を聞く

私の耳は たった一匹の蚊の羽音でも眠れない
私の耳は 鼓膜を引き裂かんばかりの爆音にも慣れてしまう

 この肉体の正直さ。それをひっくりかえし、覚醒させ、意識だけではなく、肉体そのものを変化させるものとして「音楽」があるのだと思う。たとえば弘井のドアを叩いて音楽にするというパフォーマンスがあるのだと思う。
 弘井がドア叩き演奏会をするなら、大家ではなく、八木のような聴衆、正直な肉体、日常の正直さをいつでもことばにできる聴衆こそがふさわしいと思う。日常そのものが叩き方次第で音楽になる。それは日常そのものが聞き方次第で音楽になるという意味でもある。
 八木の最後の2行は、それだけでは単なる人間の習性を描写しているように見え兼ねないが、そうみえてもいいと覚悟して八木はそう書いているだけであり、それでいいのだとは主張していない。それは、それに先立つ行、

私の耳は顔の両側に左右対称に付いている
私の耳は毎日大きくなったり小さくなったりする

を読めば明らかである。耳は大きくなったり小さくなったりする。これは、もしかすると、別の形で「音」を聞くことが可能であるということだ。八木の最後の2行は正直な絶望、正直な怒りのようなものであるが、その正直さゆえに、いつでも違った耳に変わりうる可能性を秘めている。
 書かれていない、その正直な耳の願いが、行間から聞こえてくる。


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永島卓『永島卓詩集』(その4)

2006-08-24 22:49:18 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その4)
 『わが驟雨』(1975年)。
 「脈動」という詩は不思議な作品である。「ハンス・ベルメール」という版画家(?)が登場する。実在の外国人、芸術家が作品のなかに登場するのは永島の作品では珍しいことだと思う。(『碧南偏執的複合的私言』に「おれたちのレ・バンクエンの夜」という作品もあるけれど。)
 私はハスン・ベルメールという版画家はほとんど記憶にない。なんだか体がどろりと溶けたような人物や曲線が交錯する昆虫(?)のようなものを描いていたと思う。そういうあいまいな記憶だけで言うのだが、というか、その版画の印象のせいだろうと思うけれど、永島のこの詩には何か、版画家の描く「不定形」(どろりと溶けた感じ、曲線が交錯する感じ)に似たものがあるような気がする。
 「脈動」の書き出し。

柔らかに影を織りすすむハンス・ベルメールの夜はやってくるのか
終結を告げぬ脈動の神経線に乗っておれは油ヶ淵の葦を切り裂いてゆくのだ

 「油ヶ淵」には注釈がついている。愛知県で2番目に大きい湖沼で、永島が幼少時に育った土地だという。
 ところが、私にはそれが具体的な湖沼には見えない。永島にとっては具体的な土地、肉体となってしまった土地なのだろうが、その水面を見たことがない私には、油がひろがった淵、ゆらりとした印象のある淵にしか感じられない。
 その抽象的な印象に、次のことばがさらに追い打ちをかける。

闇に映る水明で羽根を剥ぎ取られてしまった鳥の叫び声が西端を被う
透きとおった細い光りの道だけが浮かび誰も油ヶ淵の物語へ近付くことができない

 「西端」には油ヶ淵を抱える土地の名前という注釈がついているが、私には「端」という辺境を指す印象の方が強く残る。地名そのものが抽象化し、抒情になっている感じがするのだ。「脈動の神経線」「闇に映る水明」「羽根を剥ぎ取られてしまった鳥の叫び声」「透きとおった細い光りの道」という抒情的なことばがの動きは、さらにその印象を強める。
 不思議でしようがないのは、この作品には「おれは油ヶ淵の葦を切り裂いてゆくのだ」と「おれ」が登場しているにもかかわらず、なぜか「おれ」というものが強く感じられない。「ひとみさんこらえるとゆうことは」では強く感じた「おれ」が何か違ったものに感じられる。
 「物語」ということばが出てくるが、なんだか「おれ」は永島自身というよりも「物語」のなかの「おれ」という感じがするのだ。ここに書かれているのは物語、寓意であり、そうした構造のなかで、永島はこれまでと違ったことばの動きを追求しているような感じがする。「おれ」はもちろん主体なのだが、主体がいつでも主人公であるわけではなく、土地の名前が持っている何かこそが「主体」となって、「おれ」のなかから何かを引き出していくというような感じがするのだ。土地の名前が、「おれ」のなかにある「抒情」のようなものを出していくような感じがするのだ。
 これはいったい何だろうか。
 「ふるさと」そしてそこに暮らすひとびと。そのひとたちが地名に何を感じているか。地名に対してどういう感覚を共有しているのか。それは肉体の共有と同じものだろうか。よくわからないが、永島は、ここでは「ふるさと」という「土地」、その「地名」が抱え込む肉体を「おれ」を媒介にして「物語」にしたてているように思える。「地名」は「物語」を持っているのだ、その「物語」をひとは無意識のうちに生きるのだ、とでもいっているようにも見える。

 ハンス・ベルメールの版画について永島が実際にどういう印象を持っているのか。それについて語ったものがあるかどうか、私は不勉強なので知らない。知らないから印象だけで言うのだが、永島はハンス・ベルメールの版画に「物語」を感じたのではないだろうか。たとえばそこに描かれている人物(固有名詞)が、どこかどろりと溶けだして空間を埋めている姿に、その人物の「物語」(隠された時間)を見たのではないだろうか。そして、それと同じことを永島は自分が住んでいる「土地」(ふるさと)を題材にやってみようとしたのではないだろうか。
 地名が持っている不可思議なもの、何らかの「物語」を呼び覚ますもののなかに、永島の感受性を溶け込ませ、新しい「物語」を語る。そうすることで「古い物語」を攪拌する。それは、まだ「物語」として共有されていない永島自身の感受性、肉体の反応を、目に見える形で提供することである、と考えているのではないだろうか。「物語」は実はそれまで信じられているような完全な形(?)、いつでも決まった姿で共有されるものではなく、もっと不定形なもの、輪郭を失い、厚みを失い、どこかへ溶けだしていくようなものを含んでいるという可能性を差し出そうとしているように思える。

 永島のことばは「ふるさと」から離れない。そして離れないということを逆手にとって、「ふるさと」のなかへ何かをそそぎこもうとしているように感じる。永島の感受性をそそぎこむとき、それまでの「ふるさと」が奇妙に押しつぶされ、引き延ばされ、ハンス・ベルメールの版画のように、存在を不定形にしてみせる。不定形とは形が安定していないととらえれば否定的な要素だろうが、他の形になりうるものととらえれば肯定的な要素だろう。もちろん、その否定的要素、肯定的要素というものは、それ自体安定していない。どちらが正しいというものでもない。自分の肉体とどうなじむかが問われることがらである。「ふるさと」を不定形にするこで、ふるさとのひとびとの肉体そのものを不定形に、自由なものにしようと試みているように感じられる。



 「層」という作品には「地名」は出てこない。「部屋」あるいは「壁」というものが抽象的に描かれているだけだ。だが、そこでも問題になっているのは「壁」が安定した存在ではなく「不定形」であるということだ。壁が不定形になるとき、「おれ」も不定形になる。不定形のなかで何ができるか。永島は、それを肉体の問題として問うている。「壁はつぎの渇きのなかで沈黙したまま因習の層域をつくりはじめる」と「層」はおわるのだが……。

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高貝弘也『縁の実の歌』

2006-08-23 14:21:47 | 詩集
 高貝弘也『縁の実の歌』(思潮社)。
 高貝の詩には「個人」という「底」がない。「枠」がない。それが高貝の個性になっている。たとえば「縁の実の歌」。

縁の 寄る辺(べ)なさよ

柔らかい標的(しるし)で 泣いている


あの もろい耳鳴りを---

 この作品には「主語」がない。「縁」に立って高貝が風景を眺めていると仮定してみても、すぐにつまずいてしまう。「泣いている」のはだれ? あるいは何? 「標的」というがいったい何の「標的」? 何も明確なものは書かれていない。さらに「泣いている」ものが「耳鳴り」となれば、実際にそこに存在するのは幻であり、幻であると告げることで、ひっそりと隠された「主語」の肉体を浮かび上がらせる。
 「主語」がない、ととりあえず書き始めたが、実は、主語は「ない」のではなく省略されている。それが「耳鳴り」まで読んではじめてわかるようになっている。「主語」は省略され、省略されることで隠されている。
 「主語」は高貝である--とは、しかし、私は思わない。高貝という人間のなかに蓄積された「日本語」、その「伝統」が主語である、と私は思う。
 日本語は昔から「主語」を省略して書いてきた。話されてきた。「私」ということばだけでなく、「あなた」も、さらには第三者さえも省略され、述語によって主語を照らしだすという文体が継承され続けてきた。高貝は、この述語によって主語を照らしだすという方法をかたくなに継承している。述語による主語の照らしだし、逆照射のようなことが可能なのは、述語の肉体(運動)が読者(日本人)によって継承されているからである。無意識のうちに私たちは述語(動詞)によって主語が何であるか判断するという精神の運動を引き継いでいるからである。それは「頭」ではなく、肉体で反応してしまうような何かである。腹が痛いと体を丸めている人間を見れば、それが自分の肉体ではないのに腹が痛いと納得してしまう肉体のありようのようなものが、ことばのなかにも存在する。高貝はそうした「肉体」、日本語の「肉体」を引き継ぎながら、ことばを動かす。

 「耳鳴り」はまったく個人的なものである。「耳鳴り」を体験している人間以外に「耳鳴り」は聞こえない。「耳鳴り」におそわれたとき、肉体は孤立している。不安のなかに宙吊りにされている。そうしたありようを、高貝は最初の行で書き出している。

縁の 寄る辺なさよ

 「縁」がまず不安定である。そのことばが「寄る辺ない」ということばを引き寄せる。高貝が引き寄せるのではなく、「縁」をどんなときにつかってきたか、という日本語の伝統の意識が、つまり日本語の肉体が引き寄せるのである。
 「縁」であって「淵」ではない。そのことも、日本語の肉体に作用する。不安定を引き寄せるが、それは恐怖や絶望ではない。何か、そうした絶対的なものではなく、あいまいさが許されるものを引き寄せる。だからこそ2行目に「柔らかい」ということばが選ばれる。
 「標的」(しるし)とは何だろうか。「澪標」ということばが「標的」の「標」から誘い出される。「縁」が水を誘うからだろう。あるいは「泣いている」のさんずいが「水」を誘い出し、それが逆照射の形で「澪標」を呼ぶのだろうか。前のことばが後のことばを誘い出すだけではなく、述語が主語を浮かび上がらせるのに似て、後のことばが前のことばを照らしながら、そこに全体の「風景」というよりも「空気」を浮かび上がらせる。
 高貝の詩は、ことばが交錯しながら「空気」そのものを描き出す。この「空気」とはもちろん日本語の肉体の空気であって、実際の風景としての空気ではない。実際の「縁」に立って眺めた風景を装いながら、実際に描かれているのは日本語の風景である。高貝が引き継いでいる日本語の「空気」である。
 このことは先に引用した3行につづく後半を読むと明らかになる。

    回れ こだま
      回れ こだま
  風切って 山越えて
    はねかえり 巡れ

  川下り 海渡り
    ゆきかえり 巡れ

       嘆きは
     安らぎのために
          悲しみは
        和らぎのために

 ここには実在のものは何一つ書かれていない。「川」や「海」でさえ、書き出しの「縁」をかたどっている川や海ではない。「耳鳴り」が誘い出す「こだま」「かぜ」「山」から呼び出された「川」「海」である。そしてそれらは「回る」「巡る」という動詞と一体になり「ゆきかえる」。そこに書かれていない「輪廻」も含まれるだろう。「嘆きと安らぎ」「悲しみと和らぎ」それは一見矛盾することばではなるけれど、矛盾するからこそめぐりめぐって、ここではなく、どこかで一体になることも私たちは知っている。そうした一種のこんとんとした日本語の歴史、日本語の伝統のなかから、ことばが、高貝によって誘い出されてくる。高貝はことばを誘い出す肉体として生きている。ことばの肉体が、日本語の肉体が、高貝の肉体でもあるのだ。

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永島卓『永島卓詩集』(その3

2006-08-22 23:11:24 | 詩集
 『暴徒甘受』(1970年)。

おれの狂っているものの声を
おれが狂わなければ生きてゆくことができない
                   (「暴徒甘受 二」)

 この2行が好きでたまらない。ここには複数の「おれ」がいる。そしてその複数をそのまま複数として存在させようとする意志がある。「おれ」という人間はひとりであるはずだ。あるいは「おれ」の肉体は一個であるはずだ、と言えばいいだろうか。肉体としては一個だが、その肉体のなかには「一個」ではおさまりきれない思いがたぎっている。
 複数であるということは、常にそのひとつひとつが矛盾する可能性を持っている。複数が協力することもあるだろうが、互いに相手を否定することもあるだろう。そうした関係のなかで、どうしても狂うしかないものがあり、その狂うものもいのちである以上、複数の「おれ」のうちのだれかが狂わなければ、狂った声を発した「おれ」は生きてはいけない。狂った声を発した「おれ」にできるのは狂った声を発することだけだ。その声をだれかが実践し、狂わなければ、狂った声を発した「おれ」は声として存在するだけである。声も肉体であるが、肉体は声だけではない。手があり、足がある。手や足はひとを殴ったりけったりするためのものでもある。

おれは妻の健康な赤い頬を打ち
おれは三人の青い子供を土にたたきのめし
おれの狂っているものの声を
おれが狂わなければ生きてゆくことができない

 「おれ」は複数である。妻を殴る「おれ」、子供をたたきのめす「おれ」はけっして同一人物ではない。狂った声を発する「おれ」と、その声のために狂う「おれ」がそれぞれ独立しているように、妻を殴る「おれ」、子供をたたきのめす「おれ」は、それぞれ別個の存在であり、同時に、互いに依存している。(この詩は、行の冒頭がすべて「おれ」で始まっているが、その「おれ」はそれぞれが別個であり、同時に、互いに依存しているという意味でひとつでもある。)
 これらの行に先立つ部分に次のことばがある。

おれがなぐる意味と
おれがなぐりかえされることの行為は
おれの声のなかで複合し

 「複合」が『暴徒甘受』の、そして永島卓のキイワードである。あらゆる瞬間の「おれ」が複合して「おれ」の肉体を形作る。「おれ」という肉体のなかには複数の「おれ」がいて、それはそれぞれ独立していながら、互いに依存し、からみあい、融合する。「複合」する。

 人間が「複合」した「おれ」でできているということは、そうした人間、複合した「おれ」が集まる「場」としての「ふるさと」は、さらにさまざまなものが複合していることになる。そこでは何もかもが何かに吸収され、同時に何かによって叩き出される。そこでは受け入れられるものと拒絶されるものが同時に存在する。簡単にいえば、矛盾したいのちがいつも存在し、その瞬間瞬間で違った姿をあらわしてみせる。
 そうした世界と向き合うために、永島は「暴徒」という呼称を「甘受」する。しかし、その「甘受」は単に甘んじて受け入れるという受動的なものではないだろう。むしろ、受け入れるふり、他人に嫌われるふりをしながら、嫌われていることを利用して積極的に「暴徒」になりつづける。より狂暴な「暴徒」になっていく。「暴徒」になって「ふるさと」という「場」を攪乱する。攪乱して、そこに、今まで見えなかった何かを引き出そうとする。
 「暴徒」とは永島が「反碧南」というときの「反」と同じ意味である。「反」は一個ではない。複数である。さまざまな「反」がありうる。それと同じように「暴徒」の「おれ」もひとつの形ではない。複数の「おれ」、複数の「暴徒」のありようがある。(これは詩集のなかで詩が展開されていくにしたがって明らかになる。妻を殴り、子を殴るだけの「暴徒」ではないことがわかる。)
 もちろん「暴徒」であることを引き受けることは、同時に「暴徒」を否定しようとするものの存在をも認めることでもある。「暴徒」は殴るから「暴徒」なのではない。「暴徒」は「暴徒」を否定する存在によって殴られもするから「暴徒」なのである。殴られながら「暴徒」は他者のなかに「殴る」こと、暴力の意味を、観念ではなく、肉体として覚醒させる。「暴徒甘受」は「暴徒」という呼称を受け入れるだけではなく、他者が「暴徒」となって「おれ」に殴り掛かってくることをも「甘受」するという複合的な意味がある。

おれは妻の健康な赤い頬を打ち
おれは三人の青い子供を土にたたきのめし
おれの狂っているものの声を
おれが狂わなければ生きてゆくことができない
おれがいま此処に起っている実在は
おれが無視する唄々のひびくなかで
おれにまつわる過去が垂れる血を浴び
おれは抜けだしてゆく未来の行為に腐り
おれは濁河でらぐ在地で
おれはなぐりつづけ
おれはなぐりかえされつづけ

 「つづけ」「なぐされつづけ」の「つづけ」もまた永島のキイワードである。「つづく」は持続であり、同時に連続でもある。持続のなかにも連続のなかにも「つづく」は存在し、その「つづく」全体が「肉体」であり「ふるさと」である。
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永島卓『永島卓詩集』(その2)

2006-08-21 22:43:19 | 詩集
 『碧南偏執的複合的私言』収録の「ひとみさんこらえるとゆうことは」の書き出しについて再び。

ひとみさんこらえるとゆうことは
どんなに夜の星をかきあつめても
あなたは空のようにひろがれやしない

 1行目「ひとみさんこらえるとゆうことは」は「ひとみさんこらえるとは」と書き換えても意味はかわならい。「ゆうこと」は省略しても意味は同じである。だが永島は「ひとみさんこらえるとゆうことは」と書く。「ゆうこと」ということばこそが永島の「思想」である。「ゆう」ということに、永島の「思想」があらわれている。
 「ゆう」とは「言う」である。それは実際にことばにすること。肉体をくぐらせることである。
 「こらえるとは」と抽象的に、つまり自分の外にある概念(ことばの意味)を説明するのではなく、それを自分の肉体で消化したものを、自分の肉体で納得していることがらを、実際に声に出して言う。だれそれの考えを伝達するのではなく、自分の声によって責任を持つ、という「深さ」がそこにある。
 また「ひとみさんこらえるとゆうことは」という行の「ひとみさん」と「こらえるとゆうことは」の連続性、読点のない連続性に永島の「思想」があらわれている。その連続制覇、「ひとみさん」と私(永島)との連続性である。同じ肉体を持った人間として、じかにつながっているという意識があるから、そこに「読点」が入り込まない。この「つながり」(連続性)が、永島のことばにうねりをもたらす。「ひとみさん」の肉体と永島の肉体はもちろん別々の存在である。どんなに触れ合っても、ひとつにはつながらない。かならず切断している。その切断しているものを、ことばによって、一種の強引さでつないでいくとき、そこには「うねり」が生じる。「うねり」とは存在の変形である。「ひとみさん」とひとつづきになるとき、永島はそれまでの永島と同一人物ではありえない。何らかの変化(変形)が永島の側に生じている。自分の形を変えて、それでもなおかつ「ひとみさん」につながろうとする。「ひとみさん」に自分の肉体の持っているものを伝えようとする。そこに「うねり」が生まれてくる。
 ことばがうねるということは、単に精神がうねるということではない。肉体そのものがうねるということである。自己の肉体をうねらせてでも、つまり自己が変形するという犠牲をはらってでも伝えたいことがある。それこそ、愛というものであろう。「ひとみさん」への愛が「ひとみさんこらえるとゆうことは」から始まることばをうねらせるのである。そのうねりの起点というか、出発点が「ゆうこと」に含まれる肉体である。このとき、うねる肉体、うねりそのものが「思想」になる。うねることば、そのリズム、それこそが永島の「思想」である。単純な直線ではなく、うねり、たわみ、それでも動いていくもの、ことばでは明確に言えないもの、ことばで言おうとしてこぼれてしまうもの、そのこぼれたものをなお拾い上げながら突き進むことばの運動、そのなかにこそ「思想」がある。

ひとみさんこらえるとゆうことは
おれたちが暗喩の世界だけでしか
なにもすることができないこととはなおとおく
あなたがちいさなあなたたちのために出掛けてゆくことが
どんなにすばらしくにがい体刑であるか
どんなにくるしみなながら光りのなかでよみがえることか
おれたちはそれをたしかなものにしながら
おれたちはそれを反復させて生きているのだ

 「うねり」は反復に通じる。直線的に進むのではなく、進みながら後退し、その後退した場所から再び先に進んだ方向へ進む。その反復運動はけっして同じものではない。常に前に進んだときの何かを肉体が覚えており、それより先に進むために何かをすべきだと肉体にささやきかけるからである。反復するとき、よりより反復のために肉体は「うねり」(ゆがみ)を抱え込む。そのくりかえしのなかで、「うねり」のなかの何かがよりたしかなものになる。「どんなにすばらしくにがい体刑であるか」という行のなかの「体刑」その「体」こそ、私が肉体とこれまで書いてきたものだ。
 肉体で知ったこと、肉体がたくわえつづける「知恵」(知識ではない)こそが「思想」というものだろう。「知恵」は「知識」ではないから、ことばでは説明できないものを持っている。頭ではなく、肉体の全体をつかって吸収しなければならないもの、あいまいで、不透明なものを持っている。あいまいで、不透明で、その上をたどろうとすれば、うねりながらでなくては進めないような、何か、「分厚い」内部を抱えたものである。
 そうした「知恵」としての「思想」は永島だけが持っているのではない。永島が持っているなら、永島が向き合っている世界も同じように「知恵」としての「思想」、内部の分厚い闇のようなものを持っている。「みえない自らの敵について」は、そうしたことを描いている。

まっくら闇の海のなかを
なにもしらずに知らされず
あえぎあえぎ あるいてゆくと
だれかが 待っているのだどこかに
どこにいるのだ その得たいのしれないやつ
なおも おくへおくへと掻きわけてゆくのだが
いっこうに そいつは現われようとはしない
はるか灯台の あざやかな光りが
一瞬 ひとつの暗示をあたえようとするが
だれも そいつを信じているわけではなく
まっくら闇の海のうねりは
音 ひとつないしずけさをたもちながら
なにか ものすごく巨きなやつが
なまぐさい いやな匂いを放ちながら
腰をひねらせて 横柄にねころがっているのだ

 この「みえないもの」をたとえば「ふるさと」と呼べば、永島がこの詩集で書いている「ふるさと」がわかりやすくなるかもしれない。「ふるさと」とは永島にとって郷愁の場ではない。室生犀星が書いているような「ふるさと」とは違って、遠くにあって思うものではない。永島が今生きていて、実際に、そこに肉体を持ったひとびとが、それぞれの肉体のなかに、単独で、同時に共同でつくりあげてきた「知恵」を抱え込んでいる世界である。不透明で分厚い内部を抱え込んで、自在にうねる肉体が集まっている世界である。
 その「知恵」のなかには「ことばにならない/ひとのくらしが うきあがっては沈む」(「門のそとで木や花が死んでゆく唄」)のである。「すきまのない ひとのくらし」(「幻影のそとでよみがえる囚人」)が「ふるさと」なのである。
 私が今引用した2篇の詩のタイトルは「そと」ということばを含んでいるが、「ふるさと」は永島の外にありながら、同時に永島と連続している。
 「外」と書かずに「そと」とひらがなで書いているのは、それが「外」と普通私たちが呼ぶものとは違っていることを伝えたいためだろう。何が違っているかと言えば、普通「外」というとき内と外を区切る「境界線」のようなものが想定されるが、永島の「そと」にはその境界線がない。つまり、いつでも永島と連続している。肉体によって。人間が肉体を持った存在であるということによって。

 「ことば」は肉体とは違って自在である。本来は肉体に不可能な動き、運動が可能である。しかし永島はことばをつねに肉体のなかで動かす。動かそうとする。肉体のなかで動いてこそ、つまり肉体と一体であってこそ「知恵」(思想)となるからである。だが、この運動は非常に困難をともなう。ことばは「はるか灯台の あざやかな光りが/一瞬 ひとつの暗示をあたえようとする」ものだからである。ことばが肉体ではたどりつけない何かを暗示し、それに向けて肉体を動かせと暗示する。しかし、簡単に肉体は動かないし、そうした動きを阻もうとする「ふるさと」としての肉体もあるからだ。そして、永島は、そうした「ふるさと」の肉体を否定せず、いのちとして受け入れるからである。正確に向き合い、「ふるさと」といっしょに動いていこうとするからである。
 うねりと同時に、そこには不思議にあたたかい粘着力がある。それがことばをつややかにする。

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映画「美しい人」

2006-08-21 01:04:41 | 映画
監督 ロドリゴ・ガルシア 出演 シシー・スペイシク、グレン・クローズ、ホリー・ハンター、ロビン・ライト・ペン

 原題は「9のいのち」。猫は9回生まれ変わる、という諺からとっていることが最後にわかる。原題の方がわかりやすくていい。
 女性は9回生まれ変わってもなお「失なったもの」のために悲しみを抱えている。その悲しみを9人の女優が一瞬の演技力だけで見せる。大好きな大好きなシシー・スペイシクは最初別の話で脇役で出てきたので、え、これだけ?と思ったけれど、ちゃんと「主役」をやっていたので一安心した。
 シシー・スペイシクが演じた不倫モテルの部分に、この映画のキーワード「失なったもの」が象徴的に描かれている。別の部屋の女性が逮捕される。警官が女性の荷物をまとめて持っていく。そのときシューズが片足だけ置き忘れられる。「失なったもの」はその片足のシュー(あたりまえだが、「シューズ」とは発音していなかったのが、なぜか新鮮に聞こえた)のようなものだ。人生全体からみれば(あるいは他人からみれば、といってもいい)、それは取るに足りないものである。だが、当人にとってはそれがあるとないとでは全然違う。そのことを警官は気がつかない。しかし、シシー・スペイシクは気がつく。靴を片足なくした女性の悲しみは、また、片方の靴とはぐれてしまった靴の悲しみである。シシー・スペイシクが、その片方の靴を愛撫しながら、ちょっと生き方をかえる。それまで自分の悲しみにしかこころが向いていなかったが、「靴」の方にもこころを動かす。悲しみは彼女ひとりのものではない。だれにも、そしてあらゆるものに共通するものである、というようなことまで考えたかどうかわからないが、ちょっと変わる。そのあたりの演技が絶妙。
 映画も、この7話から少し転調する。
 悲しみを悲しむのではなく、それを受け入れ、同時に、生きていることへの感謝のようなものが丁寧に描かれる。
 最後、グレン・クローズが墓の上に葡萄を置いてかえるシーンはとても美しい。墓地にひろがる光、夕暮れの光が透明で美しい。夕日は悲しいしものだが、その悲しみのなかにもやはり太陽の温かさは残っている。どんな悲しいときでも、温かいものが残っている。それは自分の外にあるときもあれば、自分の内部にあるときもある。
 たとえば第1話の、刑務所での面会の電話が通じず怒りだす母親。その怒る力もいのちの熱さに見えてくる。第2話、昔の恋人とスーパーで出会い、別れる。いなくなった男を追ってスーパーの外へ飛び出す女。そのこころのなかに燃えている炎。熱いものがあるからこそ、悲しみも深いのだが……。第8話は乳ガンの女性の話であるが、ここではあたたかさは彼女自身の内部と、彼女を見守る夫の側にある。夫との交流がおだやかに女のなかの温かいものを自然にあふれださせる。
 9つの話は単に登場人物のかさなりによってつながるのではなく、悲しみと温かさによって深くつながる。それがすばらしい。とても美しい。

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永島卓『永島卓詩集』

2006-08-20 23:26:36 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。
 『碧南偏執的複合的私言』は1966年の発行。そのなかの「ひとみさんこらえるとゆうことは」に強く引きつけられた。

ひとみさんこらえるとゆうことは
どんなに夜の星をかきあつめても
あなたは空のようにひろがれやしない

 この書き出しの3行は文章として不完全である。「……であるとゆうことは」という文章は「……ことである」と受けるのが普通である。永島の詩にはその「……ことである」がない。省略されている。
 だが、「ことである」を補っても、なお不思議な印象が残る。

ひとみさんこらえるとゆうことは
どんなに夜の星をかきあつめても
あなたは空のようにひろがれやしないことである

 もし誰かが「ひとみさん」に対してそう言ったとき、その意味が伝わるだろうか。伝わるはずがない。
 「……であるとゆうことは」「……ことである」という文章があるとき最初の「……」とあとの「……」は言い換え、同じ意味内容だが「こらえる」ということが次の2行で説明しなおされているとは到底思えない。だいたい夜の星をかきあつめるということは人間にはできない。また人間が空のようにひろがるということは、何をしたって不可能である。
 この3行は「意味」をなさない。意味をなさないけれど、私は非常に強くこの3行に惹かれる。

 この3行には、ことばで書かれている「意味」以外のことが書かれている。そのことばで書かれている意味以外のこととは何か。それを考える手がかりは「ゆうこと」ということばのなかにある。
 「ゆうこと」は普通は「いうこと」(言うこと、言う事)というふうに表記されるだろう。永島は、それをあえて「ゆうこと」と書いている。文章ことばではなく、話しことばの音をそのまま作品のなかに取り込んでいる。
 話しことばをそのまま書きことばのなかに取り込むということは(と、永島をまねて書いてみる)、肉体をそのままことばのなかに持ち込むことである。「ゆうこと」ということばを読むとき、私は声に出さないときでも、のどが動く。意識のなかで口が動く。口蓋が動き、舌が動く。耳も「ゆうこと」というやわらかな音をしっかり感じている。「いうこと」と書かれたことばを読むときとは違った何かが肉体に生じている。「脳」が「意味」を追いかけているだけではなく、意味を理解することとはあまり関係のないのどや口、舌、耳が、聞こえな音を追いかけている。あ、永島は、こういうことばづかいをするのだと、その音を肉体が追いかけている。
 「ゆうこと」という話しことばが肉体を刺激するからこそ、それにつづく2行も肉体の動きとして見えてしまう。比喩や象徴としての動作ではなく、実際に、「ひとみさん」が夜の星を手でかき集める動き、手足を空いっぱいに広げる動きが見えてくる。
 このとき、最初の3行は、遠くにいる誰かではなく、本当に目の前にいる肉体をもった「ひとみさん」そのものに見えてくる。つまり、私は、この3行を読むとき、永島のことばを聞いているというよりも、むしろ、永島のことばを聞いている「ひとみさん」の肉体そのものを見ている気持ちになる。言い換えれば、まるで私自身が「ひとみさん」になって、自分の肉体に向けられた永島のことばを聞いているような気持ちになる。
 そして、「こらえる」ということは、一見、精神、あるいは感情の問題のように見えるけれど、本当は肉体の問題なのだという気持ちになる。
 たしかに「こらえる」ということは、実際の生活のなかで振り返ってみると、何よりも肉体の問題である。肉体をじっと動かさずにいること、その肉体のなかには手足があるのはもちろんだが、口、のど、声、目(視線)というものもある。私たちは、それを動かさない。肉体を動かさないことによって、精神や感情も動かさない。少なくとも、表に出さない。それがこらえるということだ。

 ことばを肉体のなかに還しながら、永島はことばをつづける。先の3行につづく部分。

ひとりのあなたのちいさな眼が
もうひとりのあなたたちの糸でむすばれる
ひとびとのくらい林になってゆくことを
またはふるさとの他人の顔にかわってゆくことを
おれたちの声はしのばねばならぬのだ

 肉体が「こらえる」とき、その肉体を見たひとは、「ひとみさん」が何もいわなくても「こらえている」ことを理解する。私たちの肉体は「頭」以上に正確に他人の肉体のなかに隠されている精神、感情を理解する。そしてつながっていく。精神、感情としてではなく、まず肉体としてつながっていく。「こらえる」眼が、同じく「こらえる」人々の眼とつながる。ひとりひとりがもし一本の木だとすれば、そうした人たちが複数集まり、「こらえる」林になる。精神・感情を殺したくらい林になる。そのとき、「ひとみさん」(あるいは私たちといおうか)は、自分の「顔」を持たない。その顔は、私たちの肉体がながい時間をかけて引き継いできたものだ。私たちの肉体が引き継いできたものだからこそ、その眼、一瞬のうごきのなかにさえ、私たちは、正確に「こらえている」肉体の動きを読み取る。
 私たちは肉体を共有する。肉体が抱え込んでいる精神・感情を共有するのだ。「声」にださなくても、肉体で精神・感情を共有できるのだ。
 これは逆に言えば、肉体で精神・感情を共有するために「声」はいったん忍ばなければならないということでもある。
 「こらえる」ということは「こらえる」ときの肉体を共有することである、と告げて、永島はさらに、では肉体に何ができるのかと、ことばで追い詰めて行く。この肉体とことばの関係は一種の矛盾だが、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。まだことばにならないもの、ことばになろうとして、うごめき、もがいている何かがある。

おれたちは今なにもすることができない
おれたちは今なにをすべきかかんがえることができない
だれもしらないふりをしてあるきつづけ
なにも信じてなんかいないおれたちは
くらしのためにうごいているしかない
それだけのむなしさがひろがる愛のために
ひとりのあなたたちの声がひびくと
もうひとりのあなたたちはうつむき
おれたちはいつも青い顔をさらしつづけ
くらしはとおのくだけでどこまでも
ふるさとの空にはねかえってくることはない

 肉体が抽象的なものではなく、今、ここにあるものであるということは、「あなたたち」あるいは「ひとびと」もまたここにあるということだ。それは抽象的存在ではない。いっしょに生きている存在である。そこに「ふるさと」が具体的に立ち上がってくる。
 「ふるさと」の「ひとびと」がまず「私」(ここにいる存在としての私)の肉体に作用してくる。私の肉体はふるさとのひとびとによってまず最初に共有されるのだ。

 もちろん私たちの精神・感情は、ふるさとのひとびとによって共有されればそれでいいというものではない。その共有を突き破って、ふるさとそのもの、ふるさとのひとびとそのものの精神・感情を揺さぶってゆかなければならない。そうしなければ、私たちの「時代」はいつまでたっても「過去」のままであるだろう。
 ここから生まれてくる問題は、ことばを、ではどうやってふるさとのひとびとに共有される肉体として提出するかということだろう。ふるさとのひとびとの肉体そのものを覚醒するためにどうやってことばを鍛えていくかということだろう。ふるさとのひとびと、というのは、もちろん郷愁のよりどころという意味ではない。今、自分のまわりに存在し、ともに暮らしながら肉体を確認できる存在のことである。自分が肉体を接し、ともに暮らしている存在のことである。

 今(つまり2006年)、こうした問題と真っ正面に向き合っている詩人が何人いるか、私は不勉強なので知らない。しかし、40年前に永島によって提出されたこの問題は、じっくり考え、取り組まなければないない問題のひとつである。


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今井義行『ライト・ヴァース』

2006-08-19 10:48:29 | 詩集
 今井義行『ライト・ヴァース』(私家版)。

陶器のタンクがわれた
みずが階下に漏れてからっぽ
になり みずを拭く
みずは よろこばなかった

 「遠浅」の3連目である。「みずは よろこばなかった」で私は長い間考え込んでしまった。水へののめりこみ方、共感の仕方が生々しすぎる。
 今井は、タンクが割れてこぼれた水を、物理現象としてではなく、水の自殺と考えている。水にとって自殺とはどういうものだろうか。器からこぼれ形を失うことか。どこまでも下へ下へと流れてゆき、やがて地中に吸い込まれて消えていくことか。そのとき、「みずを拭く」という行為は水にとってはどういう意味合いを持つだろうか。水全体の一部が本来の場所から(死の場所から)引き剥がされるということを意味するだろう。
 同じ体の水から引き剥がされ、同時に、引き剥がした人間は引きはがしたということを意識しない。引き剥がされたことに対して水は抗議できない。抗議しても、引き剥がした人間に引き剥がしたという意識がないのだから、抗議は通じない。その悲しみを「よろこばなかった」と今井は書いている。
 これは非常に複雑な状況である。そこで動いている感情は非常に微妙である。矛盾していて、その矛盾をときほぐすと何もかもが消えてしまう。矛盾のなかでやっと持ちこたえている感情である。
 水を拭いているのは今井である。水は拭かれていることを「よろこばなかった」。自殺したかった水は、自殺できずに、殺されてしまったからである。そのことを水が抗議しているのだが、その抗議していることを理解しながら、今井にはその抗議が聞こえない。いや、聞こえるけれども、聞き入れることができないという意味で、聞かなかったと同じであり、水にとっては、抗議を受け入れられなかったのは、抗議の声が届かなかったのと同じである。……いや、声が届かなかったということと聞き入れられなかったということは別の問題である。声はたしかに届いているのだ。だからこそ「よろこばなかった」という共感も書かれている。
 そして、それは何か悲鳴のようにも聞こえる。悲鳴とさとられないように声を殺した悲鳴のように聞こえてしまう。「どうして自殺させてくれないのか?」「いっそう、殺してくれればいいのに」というよりも、「殺してくれ」という願いのようにも聞こえてしまう。
 こういう「願い」は抱え込むわけにはいかない。何かが間違っている。間違っているということはわかるが、その解決方法はない。
 だから今井は「よろこばなかった」と簡単なことばですべてを放り出す。放り出すしか持ちこたえることができないのである。放り出して、ながめること、それが感情を持ちこたえること、共感することと同じことになる一瞬。そういうものが、ここにはある。

 この詩の引用部分に先立つ2連。

二度とうまれてきたくはない
と 口を閉ざした
かいがら が ひとつ
ふってみると からんからん
卒業式のおとがした

此処は 遠浅の場所だから僅かしか死ねない
そういうことだろう?
かいがら

 「そういうことだろう?」と今井は念を押している。だれに? 貝殻に? それとも自分自身に? それはけっして区別がつかない。貝殻に念を押すことは自分自身に念を押すことであり、同時に自分の思いを貝殻に代弁させることである。そのとき貝殻は今井であり、今井は貝殻である。
 同じように、水を拭くとき、今井は水を拭きながら、同時に拭かれる水である。水と今井の肉体は一体になり、そのなかで感情を分かち合い、かろうじて感情を持ちこたえる。感情を分かち合うことで肉体の、いのちをつなぎとめる。

 人間と感情をわかちあえない苦しみがことばの底にたまっている作品群である。こんなことを書いていいのかどうか、私には、実はわからない。詩集をもらって1か月になる。長い間感想を書かなかった理由もそこにある。
 詩を書き続けることで、今井は今井のいのちをつないでいる。その切実さが痛々しい。読むと苦しくなる。
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