青柳俊哉「足音」、池田清子「わたしのし」(朝日カルチャー講座・福岡、2020年02月17日)
一行目の「よっていた」は、酒に「酔っていた」と読めばいいのか。そう読むにはためらいが残る。「酒に酔って」ではつまらない。「酒に酔う」は「酒に溺れる」「酒に逃れる」でもある。この「逃避」の感覚とは違うものが書かれていると感じる。
という二行には、強い自意識がある。「わたしひとり」を「だれも……いない」というのは、自分にだけ意識が集中していることをあらわしている。もし他人がいるとしても「だれも……いない」と感じるとき「わたしはひとり」になる。
「酒に酔」っても自意識はあるだろうが、酒に麻痺したときの自意識とは違うものを、この二行に感じる。
だから、最初の二行を読まなかったものとして読んでみる。
この詩には「音」が交錯している。「足音」は歩くときにうまれる音だが、それを修飾することばに特徴がある。
比喩に「鐘」が共通するが、一方は「遠い空」、もうひとつは「遠い地下」とかけ離れたものといっしょにあらわれている。さらに「地下」の鐘は「内面的な鐘」と呼ばれている。「遠い空」の鐘も「内面的な鐘」と考えられる。つまり、どちらも「現実」の鐘ではなく、「わたし」だけに存在が確実な鐘である。「自意識の鐘」ということになる。
それは、どんな「音」を鳴らしているのか。
これを想像するのが、この詩を味わうための「分かれ目」になる。
受講生から「静かな音」という声があった。「雪のふる」町が「静かな」という印象を引き起こすのだと思う。「わたしひとり」だけ聴こえる静かな音が「空の闇にきえていく」は確かに「静か」という印象に通い合う。「静かな音」に「よう」。「静かな音」が「わたしをよわせ」「さまよわせる」というのも、幻想的で美しい。
しかし、逆に読んでみるのもおもしろいかもしれない。ひとは快感にだけ「酔う」ものではないだろう。「不快感(自己存在のどうしようもない感じ)」に苦しみ、その苦しみに酔うということもあるかもしれない。
一種の「不協和音」とでもいえばいいのだろうか。ふいに、そういうものに引きつけられるということもあるのではないだろうか。
「遠い空」「遠い地下」という矛盾するものが出会い、衝突する場としての「わたし」という存在。矛盾したものの出会い、衝突が「しらない」何かを引き出す。それは、自分のなかに取り込むべきものなのか、それとも自分の外に吐き出してしまうべきものなのか。
そのとき、そのときによって違うだろうと思う。それは、そして、そういう「矛盾」のままでいいのかもしれない。答えを出すことのできない「不機嫌さ(不条理)」のようなものが書かれているのだ。
その「不条理としての矛盾」、「遠い空」と「遠い地下」の関係は、
と書き直されている。「遠い空」から「わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ」「遠い地下」へさらに降りて行くのかもしれないが、最終行では「空」ということばが登場する。「空」を「地下」にある「空」と読むこともできるが、私は「上」にある空を思い浮かべてしまう。もし、「地下にある空」なら「おりてきてわたしをつきぬけ」ということばを、さらに言い直した方がいいように思う。
*
「あっさり感がいい」「リズムがいい」という感想が聞かれた。
この詩で考えてみたいのは「比喩」とは何か、ということである。
青柳の詩では「鐘」が比喩だが、「足音」さえも比喩かもしれない。現実の足音であるけれど、それは同時に「自意識(自己存在の不快さ)」の比喩(象徴)でもあるかもしれない。ふつうは、ひとは歩いているとき「目的地」を意識する。足音というものに耳を傾けながら歩くのは、足音を聞かれたくないときくらいだろう。
この詩にほんとうに「比喩」はないのか。
「遊び」は「余裕」の比喩であり、その「遊びがない」「余裕がない」が「ギリギリ」と言い直されるなら、「ギリギリで」も比喩ということになるだろう。「比喩がない」がそのまま「遊びがない」の比喩(言い直し)になっているとも言える。
ことばは「もの」そのものではないから、あるいは「事実」そのものではないから、どうしても「一部(比喩)」になってしまうのだ。
この詩のいちばんの「むずかしい」部分は「ギリギリで」という一行だ。
「ギリギリで」という言い回しは、だれでもつかう。「意味」をわざわざ言うまでもないことである。「ギリギリって何?」と子どもにきくと答えられないだろう。わかっているけれど、こたえられない。それは「肉体(思想)」になってしまっているということだ。
これを、あえて自分のことばで言い直してみる。「遊びがない」「余裕がない」はすでにつかわれているので、つかえない。「自由がない」では、かなり「意味」が違ってくる。「肉体感覚」では「切羽詰まっている」の「つまっている」くらいかもしれない。でも、そのときの「切羽」って、さらに言い直すと? 「切羽詰まっている」は「切羽詰まっている」であって「切羽」を切り離しては考えないかもしれない。この無意識になってしまっている切り離せないものというのが、とてもおもしろい。それを何とかして切り離し、ことばにすると、(ことばにしようとすると)、そこから詩がうごきはじめるかもしれない。
「ギリギリで」をどこまで言い換えることができるか。
*
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足音 青柳俊哉
ひどくよっていたわたしは
ねる場所をもとめて
雪のふるしらない町をあるいていた
雪のふるしろい世界に
遠い空の鐘をうつようにこだまする足音
ねしずまる町にひびきわたり
わたしひとりに反響している足音
その音をだれも聞いていない だれにも聞こえていない
わたしひとりにあじわわすために
わたしをよわせ しらないしろい町をさまよわせ
いつまでもなりやまない
遠い地下の内面的な鐘をうつような足音を
わたしひとりにあじわわすために
わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ
雪のふるしらない町の
空の闇にきえていった音
一行目の「よっていた」は、酒に「酔っていた」と読めばいいのか。そう読むにはためらいが残る。「酒に酔って」ではつまらない。「酒に酔う」は「酒に溺れる」「酒に逃れる」でもある。この「逃避」の感覚とは違うものが書かれていると感じる。
わたしひとりに反響している足音
その音をだれも聞いていない だれにも聞こえていない
という二行には、強い自意識がある。「わたしひとり」を「だれも……いない」というのは、自分にだけ意識が集中していることをあらわしている。もし他人がいるとしても「だれも……いない」と感じるとき「わたしはひとり」になる。
「酒に酔」っても自意識はあるだろうが、酒に麻痺したときの自意識とは違うものを、この二行に感じる。
だから、最初の二行を読まなかったものとして読んでみる。
この詩には「音」が交錯している。「足音」は歩くときにうまれる音だが、それを修飾することばに特徴がある。
遠い空の鐘をうつようにこだまする
遠い地下の内面的な鐘をうつような
比喩に「鐘」が共通するが、一方は「遠い空」、もうひとつは「遠い地下」とかけ離れたものといっしょにあらわれている。さらに「地下」の鐘は「内面的な鐘」と呼ばれている。「遠い空」の鐘も「内面的な鐘」と考えられる。つまり、どちらも「現実」の鐘ではなく、「わたし」だけに存在が確実な鐘である。「自意識の鐘」ということになる。
それは、どんな「音」を鳴らしているのか。
これを想像するのが、この詩を味わうための「分かれ目」になる。
受講生から「静かな音」という声があった。「雪のふる」町が「静かな」という印象を引き起こすのだと思う。「わたしひとり」だけ聴こえる静かな音が「空の闇にきえていく」は確かに「静か」という印象に通い合う。「静かな音」に「よう」。「静かな音」が「わたしをよわせ」「さまよわせる」というのも、幻想的で美しい。
しかし、逆に読んでみるのもおもしろいかもしれない。ひとは快感にだけ「酔う」ものではないだろう。「不快感(自己存在のどうしようもない感じ)」に苦しみ、その苦しみに酔うということもあるかもしれない。
一種の「不協和音」とでもいえばいいのだろうか。ふいに、そういうものに引きつけられるということもあるのではないだろうか。
「遠い空」「遠い地下」という矛盾するものが出会い、衝突する場としての「わたし」という存在。矛盾したものの出会い、衝突が「しらない」何かを引き出す。それは、自分のなかに取り込むべきものなのか、それとも自分の外に吐き出してしまうべきものなのか。
そのとき、そのときによって違うだろうと思う。それは、そして、そういう「矛盾」のままでいいのかもしれない。答えを出すことのできない「不機嫌さ(不条理)」のようなものが書かれているのだ。
その「不条理としての矛盾」、「遠い空」と「遠い地下」の関係は、
わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ
と書き直されている。「遠い空」から「わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ」「遠い地下」へさらに降りて行くのかもしれないが、最終行では「空」ということばが登場する。「空」を「地下」にある「空」と読むこともできるが、私は「上」にある空を思い浮かべてしまう。もし、「地下にある空」なら「おりてきてわたしをつきぬけ」ということばを、さらに言い直した方がいいように思う。
*
わたしのし 池田清子
遊びがない
余裕がない
ギリギリで
比喩などない
「あっさり感がいい」「リズムがいい」という感想が聞かれた。
この詩で考えてみたいのは「比喩」とは何か、ということである。
青柳の詩では「鐘」が比喩だが、「足音」さえも比喩かもしれない。現実の足音であるけれど、それは同時に「自意識(自己存在の不快さ)」の比喩(象徴)でもあるかもしれない。ふつうは、ひとは歩いているとき「目的地」を意識する。足音というものに耳を傾けながら歩くのは、足音を聞かれたくないときくらいだろう。
この詩にほんとうに「比喩」はないのか。
「遊び」は「余裕」の比喩であり、その「遊びがない」「余裕がない」が「ギリギリ」と言い直されるなら、「ギリギリで」も比喩ということになるだろう。「比喩がない」がそのまま「遊びがない」の比喩(言い直し)になっているとも言える。
ことばは「もの」そのものではないから、あるいは「事実」そのものではないから、どうしても「一部(比喩)」になってしまうのだ。
この詩のいちばんの「むずかしい」部分は「ギリギリで」という一行だ。
「ギリギリで」という言い回しは、だれでもつかう。「意味」をわざわざ言うまでもないことである。「ギリギリって何?」と子どもにきくと答えられないだろう。わかっているけれど、こたえられない。それは「肉体(思想)」になってしまっているということだ。
これを、あえて自分のことばで言い直してみる。「遊びがない」「余裕がない」はすでにつかわれているので、つかえない。「自由がない」では、かなり「意味」が違ってくる。「肉体感覚」では「切羽詰まっている」の「つまっている」くらいかもしれない。でも、そのときの「切羽」って、さらに言い直すと? 「切羽詰まっている」は「切羽詰まっている」であって「切羽」を切り離しては考えないかもしれない。この無意識になってしまっている切り離せないものというのが、とてもおもしろい。それを何とかして切り離し、ことばにすると、(ことばにしようとすると)、そこから詩がうごきはじめるかもしれない。
「ギリギリで」をどこまで言い換えることができるか。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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