詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「鏡」

2012-01-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「鏡」(「朝日新聞」2012年01月06日夕刊)

 谷川俊太郎「鏡」は一回読んだときは不思議でもなんでもないのだが、感想を書こうかな、と思った瞬間につまずいてしまう。あれっ、と思うのだ。

なるほどこれが「私」という奴か
ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口が一つずつ
中身はさっぱり見えないが
多分しっちゃかめっちゃかだろう
とまれまた一つ年を重ねて
おめでとうと言っておく
お日様は今日も上って
富士山もちゃんとそびえてるから
私も平気で生きていく
もちろんあなたといっしょに
ありとある生き物といっしょに

 「鏡」をのぞいている。そして自分の顔を見ている。それから、ただなんとなく考えたようなことを書いている。その「考え」に共感するか、しないか--そこがこの詩を優れたしと思うか思わないかの「分岐点」のように思える。
 でも、私の書きたいのは、そこに書かれている「考え」ではない。
 あれっ、と思ったのは--うーん。
 これ、この詩に、普通にタイトルをつけるとなると、やっぱり「鏡」?
 「鏡」というタイトルで、詩を書くとこうなるかなあ。
 「鏡」について書かれた行がどこにもない。タイトルに「鏡」が出てくるだけである。ここが少し変だなあ。
 「私」あるいは「自画像」というタイトルならどうか。
 「自画像」のほうが、何を書いているかわかりやすくない?

 でも、私は最初はこの「変」に気がつかなかった。なぜなんだろう。鏡を見れば、そこに自分の顔が映る。鏡は自分の顔を見るもの。そして鏡を見るのは「私」を確認するため? 他人からは、「私」はどういうふうに見えるかを確認するのが鏡だから?
 どうも、そういう私たちのなかにある「無意識」が、それこそ「無意識」のうちに動いてしまい、タイトルと書かれている内容の「ずれ」に気がつきにくいのかもしれない。
 ことばの「移行」がとてもスムーズなのだ。
 なんといえばいいのかわからないが、人間のもっている無意識をしっかりつかんでいる。「頭」でつかんでいるのではなく、そのつかんでいるこことがらが「肉体」そのものになっている。

 で、他人には、「私」(谷川俊太郎)がどんなふうに見える?
 これがまた不思議だなあ。

ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口が一つずつ

 ここに谷川の特徴がある? 特徴は「ちんこい目」しかない。耳はありふれている(他人と区別がつかない、ということだろう。)鼻と口には特徴が書かれていない。--これで「私」の自画像と言えるだろうか。とても言えない。
 そこに描かれているは、谷川かどうか、わからない。谷川は「私のことを書きました」というかもしれないが、「ちっこい目」は、何人もいる。それでは谷川の特徴にならない。
 「鏡」も書いてないければ、「自画像」も書いていない。
 そして、そんなふうにあいまいに書いたあとで、

中身はさっぱり見えないが

 あ、ひとの特徴は顔(外見)だけではない。「中身」がひとを決定する(特徴づける)ということは確かにある。--しかし、それはそうなのだが。
 あれっ。
 鏡→自画像(顔の説明)じゃなかったのかなあ。
 そのことはするりとわきにおしやられ、

 自画像→中身(人間の精神性)

 か……。
 で、その「中身」の特徴は?
 「しっちゃかめっちゃか」--これは、だれでもそうだろう。とても、谷川を他人とはっきり識別する「中身」とは言えないなあ。
 そのあとも同じだ。年が変わり、一つ年を重ねる。これは新年にだれもが思うこと。ねして、無事にひとつ年を重ねられたことに対して「おめでとう」というのも普通のこと。特別なことは何もない。
 日が昇る。富士山はそのまま。(日の出と富士山が出てくるところは、谷川の特徴というよりも、日本の正月の特徴だよね。)

私も平気で生きていく

 これだって、特別かわった考えではない。だからこそ「私は」ではなく、私「も」なのだと思う。
 そう思っていると、突然、

もちろんあなたといっしょに

 これがいちばん不思議といえば不思議。
 鏡→顔(自画像)、自画像→中身(精神性)、精神性→何も見えない(特徴がない)、特徴がない→(年が変われば1歳年を重ねるなどいろいろ)→特徴のない私「も」生きていく、生きていく→あなたといっしょに
 顔(自画像)に向けられていた視線が知らずに「あなた」にむけられる。「あなた」をひきこんでしまう。
 「私」と「あなた」は、「鏡」と「顔(自画像)」が違った存在であるようにほんとうは違った存在である。別々のいのちである。しかしそれが「いっしょに」ということばで「ひとつ」になる。
 この、ほんとうは別々なものを「ひとつ」にする「いっしょに」は次の行では、「ありとある生き物」をまきこむ。
 そうすると、あれれっ、「自画像」ではなく、「世界」ができあがる。

 どこで、どうして、どうなって?
 はっきりわからないが、「無意識」でつながってしまうようにして、知らず知らずに「鏡」→「顔(自画像)」が「世界」になる。
 この不思議さが、この詩のおもしろさだ。

 たぶん「いっしょに」が、あらゆるところに含まれている。谷川は「単語(名詞)」を「ひとつずつ」個別に書くのだが、その「名詞(単語--存在、いのち)」は独立して「ひとつ」のではない。そこには他の「ひとつ」が「いっしょに」ある。
 「鏡」は「私」と「いっしょ」にあることで、あるいんは「私」は「鏡」と「いっしょ」にあることで、そこから私というものをみつめることができる。--これは抽象的な「いっしょ」かもしれないが。
 実は「具体的ないっしょに」の方が、わかりにくい。気がつきにくい。
 たとえば

ちんこい目が二つ

 「二つ」と書かれているが、右目、左目、それぞれの「ひとつ」が「いっしょに」いることで「二つ」になっている。「耳」も同じ。また、鼻と口は「一つ」だけれど、それは目や耳と「いっしょに」あることで、「顔」になる。
 「いっしょに」何かがあるということは、そのときの「一つ一つ」が他のものといっしょにあることで、一つ一つを超えた別の何かに「なる」ということ。
 「いっしょに」は「私」を越える何かに「なる」ことなのだ。
 この、深い哲学が、とても自然に、まるで「無意識」のようにできあがってしまう。そういうことばの運動に、谷川のことばのちからの不思議さがある。



みみをすます
谷川 俊太郎
福音館書店

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