詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』

2013-06-29 23:59:59 | 詩集
谷川俊太郎『こころ』(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのう、谷川俊太郎『ミライノコドモ』の感想で、谷川は「意味」から書きはじめるが、その「意味」は途中で消えて、その瞬間に詩が生まれる、と書いた。そのつづきを「『ここ』の作品で書いてみる。(『こころ』の作品は朝日新聞に連載されたもので、そのときからときどき感想を書いていたので、以前書いたことと重複するかもしれないが。)
 「水のたとえ」の全行。

あなたの心は沸騰しない
あなたの心は凍らない
あなたの心は人里離れた静かな池
どんな風にも波立たないから
ときどき怖くなる

あなたの池に飛び込みたいけど
潜ってみたいと思うけど
透明なのか濁っているのか
深いのか浅いのか
わからないからためらってしまう

思い切って石を投げよう あなたの池に
波紋が足を濡(ぬ)らしたら
水しぶきが顔にかかったら
わたしはもっとあなたが好きになる

 「池」は「あなたの心」である。「池」は比喩である。そして、その「意味」は「沸騰しない」(怒らない)「凍らない」(冷たく拒絶することはない)「静か」「波立たない」(落ち着いている)。それがあまりに落ち着いているので、「怖くなる」。たぶん、「わたし」が知っている「心(私の心)」とは違うからである。
 2連目も「比喩」と「意味」が繰り返される。ただし、これはよく読むと不思議である。

透明なのか濁っているのか
深いのか浅いのか
わからない

 「沸騰しない」「凍らない」「波立たない」ということは1連目では「わかっている」。でも2連目では「透明なのか濁っているのか」さえ、わからない。こういうことは、私の経験からいうと、少し変である。「池」を実際に思い浮かべると、その「変」が見えている。私の知っている池、たとえばふるさとの山の中にある池は「透明」である。そして「深い」。けれど、犬といっしょに散歩する大濠公園の池は、かなり「濁っている」。そして「浅い」。それが、「わからない」ということはない。
 谷川のことばは、「あなたの心」を「池」という「比喩=意味」にしたあと、つづけてその「池」をみつめるのではなく、ちょっと「飛躍」する。「あなたの」をいったん取り外しているように見える。あるいは1連目で書いたことを忘れてしまう、と言えばいいのか。新しく「池」を見つめなおす。「池」の「属性(?)」を「透明/濁る」「深い/浅い」でとらえ直す。
 詩の用語(?)に起承転結というレトリックがあるが、2連目は「承」であると同時に「転」を含んでいる。なんだか見落としてしまいそうだが。
 3連目は、もっと「飛躍」する。2連目の「あなたの池に飛び込みたい」は「わたし」の直接的な行動である。3連目の「石を投げる」は「わたし」を安全な場所においている。直接触れるのは「石」であって「わたし」ではない。3連目の1行目は、起承転結の「転」そのものである。で、そこから、突然「結」になる。「池」が「水」にかわって、

波紋が足を濡らしたら
水しぶきが顔にかかったら

 これは「池」である必要がない。「川」であっても「海」であっても、石を投げて、その反響として波紋が足を濡らす、水しぶきが顔にかかるということはあり得るからね。
 この瞬間、実は「池」は消えていて「水」があらわれている。もちろん「池=水」なのだから、「池」が完全に消えたわけではないけれど、「池」よりも「水」が前面に出ている。2連目の「透明なのか濁っているのか/深いのか浅いのか」も「水」ではあるけれど、「池」の印象の方が強い。「池」だから「深いのか/浅いのか」が問われる。それは「水」の属性であるよりも「池」の属性である。「濡れる」「顔にかかる」は「池」の属性であるよりも「水」の属性である。「池」が濡らすのではないからね。
 「池=水がある場所」という「意味」が消えて、「水」だけがそこから抽出されている。こういうことを「意味」が消えるとはいわないけれど、「意味が消える」と「方便」で言ってみると、谷川の詩の特徴がわかりやすくなる。
 「あなたの心=池」「池=水」「水=濡れる=わたしとの直接的な触れ合い」と「意味」が変化し(変化とともに、前の意味が消え、新しい意味にとってかわり)、

わたしはもっとあなたが好きになる

 あ、この瞬間、私はちょっとことばを失う。「わかる」のだが、その「わかる」を私のことばで言いなおそうとするとかなりややこしいのである。
 谷川は、この最後の1行にたどりつくまで「あなた」を「あなた」ではなく、「あなたの心」と言っていた。だから、論理的(?)に言えば、厳密に「意味」を追いかけていけば、この最後の行は、

わたしはもっとあなた「の心」が好きになる

 でないといけない。
 でも、「あなたの心が好きになる」なんて、変なことばは、日常的にはつかわない。だから、谷川は、そんなふうに書かないのだけれど--でも、「あなたの心」を「池」と呼ぶのだって日常的にはしないからねえ。「池」というような「比喩」をつかった言い方は、まあ、日常の会話ではなく、詩だからね。--というのは、脱線で……。
 元にもどると。
 「あなたの心」と書きはじめて、「あなた」に突然、「飛躍」する。この「飛躍」が「飛躍」としてあまり強く感じられないのは、私たちが「あなた(人間)」を想像するとき、そこに「こころ」を同時に想像するからだろう。「あなた=こころ」というのは、日常的な「意識」だからだろう。
 「あなた(人間)=こころ」が日常的な意識だから、この最後の行で「心」が省略されても、そんなに違和感がない。そして、省略されたために、逆に「あなた」がより身近にぐいと迫ってくるのだが、この瞬間の「あなたの心」から「あなた」への変化のことを、私は「意味」が消える、というのである。
 「あなた」を「心」として見ている「意味」、「心」を「池」にたとえて見ているときの「意味」、「池」を「水」として見ているときの「意味」がふいに消え、「あなた」だけが直接的にあらわれる。
 それが「こころ」かどうかは、問題ではない。(いや、問題かもしれないけれど……)。ただ「あなた」が「わたし」に直接触れる。その「直接的な接触」--それが「好き」という思いを引き出す。「好き」は「心」の動きかもしれないけれど、でも、違うんだよね。だって、ほら、

波紋が「わたしの心」を濡らしたら
水しぶきが「わたしの心」にかかったら

 とは谷川は書いてはいない。
 「好き」が「心」と「心」の接触なら、そして谷川の書いていることを「論理的」に押し通すなら、「足」や「顔」のかわりには、谷川は「わたしの心」と書かないといけないからね。

 谷川の詩には、何かしら意識しにくい(無意識に近い)逸脱、飛躍があって、それが書きはじめたときの「意味」を消していく。そして、それが消えたとき、そこに詩があらわれる。そこに書かれていることばをそのまま受け止めるしかない何かがあらわれる。それを、私がいま書いたみたいにくだくだと言いなおすと、ややこしくなる。
 私はたぶん書かなくていいことを書いているのだが。




こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版

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