詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セオドア・メルフィ監督「ドリーム」(★★)

2017-09-30 20:00:16 | 映画
監督 セオドア・メルフィ 出演 タラジ・P・ヘンソン、オクタビア・スペンサー、ジャネール・モネイ、ケビン・コスナー

 まだ人種差別がきびしかったケネディの時代、NASAで活躍した3人のアフリカ系女性の描いている。「実話」らしい。原題は「Hidden Figures(隠れた人物、隠された人物?)」というから、アメリカでも知られていない話なのだろう。
 で。
 ストーリーはおもしろいが、映画としては、どうか。主役の3人の女性が、あまりにも「しっかり」している。立派すぎて、共感する、という感じになれない。
 白人の高校に入学する(受講する?)ことになる女性が、判事を説得するシーンなど、エンジニア(技術者)というよりも、弁護士やなにかのよう。「文学者」というか、「ことば」の人という感じ。もちろん、きちんと伏線で「口達者」なところは描かれているのだが。
 困難の中で、苦悩し、ゆらぐというシーンがなくて、少し味気ない。
 クライマックスは、ロケットの打ち上げ寸前の「トラブル」かなあ。コンピューターの計算が、きのうと、きょうとで違う。どうする? 宇宙飛行士が「タラジ・P ・ヘンソンの計算なら信じる」と言い、いったん首になったタラジ・P・ヘンソンが呼び戻され、検算しなおす。その「あの女性の計算なら信じる」という人間に対する信頼、それにこたえようとする熱意かなあ。タラジ・P・ヘンソンの、このときの演技派「地味」なのだけれど、引き込まれたなあ。
 女性エンジニアを目指す女性に対し、ユダヤ人の技術者が語りかけるところもよかった。彼女に説得される判事もよかった。タラジ・P・ヘンソンに地位(?)を奪われる上司も、かっこよくないところが、おもしろかった。人間は、やはり「揺れる」方がおもしろい。
 それと比較してはいけないのかもしれないが。
 ケビン・コスナーは、揺れない。宇宙計画の責任者だけあって、信念がしっかりしているといえばそれまでなのだが、揺らがないところがおもしろくないねえ。あ、腹が出てきたなあ、年取ったなあ、というどうでもいいことを見てしまうのだった。アラ探しといえばアラ探し。そういうところに目が行くのは、映画として退屈ということだね。
 「映画的」なクライマックスになるはずの、帰還のシーンも、なんだか平凡。NASAのスタッフが、祈るように無線の応答を待っているなんてなあ。そこへゆくと、「アポロ13」はおもしろかった。計算をするのに、計算尺まで出したり、宇宙船の周囲に何がつかえるか、日常にあるもの(そして宇宙船でつかっているもの)を総点検するところなんか、宇宙がぐいと「生活」に近づいてきたからね。
 ということで。(どういうことで?)
 「意味」はわかりますが、「肉体」は動かされないという映画でした。
          (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ13、2017年09月30日)


 *

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民主主義はどこへ行ったのか(2)

2017-09-29 12:17:51 | 自民党憲法改正草案を読む
民主主義はどこへ行ったのか(2)
            自民党憲法改正草案を読む/番外122(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月29日、西部版・14版)1面に「政党政治の否定だ」というタイトルの前木理一郎・政治部長の文章が載っている。民進党が希望の党へ合流することを批判する内容である。
 「選挙は政党と政党の理念の戦いだ」という主張はまっとうな意見である。「各党は理念や要綱に基づいた政権公約を有権者に訴える」というのも基本である。しかし、

これほど露骨な「当選ファースト」は、たとえ政権交代が目的であっても、限度を越えている。

 という指摘は、どういうものだろう。
 納得がいかない。
 ここに書かれていることは、なぜ、こういうことが起きたのか、という「出発点」を見落としている。
 今回の選挙が、民進党が仕掛けたものなら、この論は正しい。民進党が政権交代を求め、内閣不信任案を提出し、それが可決された結果、国会が解散され、選挙が行われることになったというのなら、たしかに正しい。
 憲法には「解散」を、こう規定している。

第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 しかし、今回の選挙は「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決した」結果のものではない。つまり、民進党が仕掛けたものではない。
 安倍が、安倍の都合で国会を解散した。
 狙いは何か。
 森友学園・加計学園問題を隠すため、憲法改正を推し進めるためなど、いろいろ言われているが、要は「今の議席数を、今後4年間は維持したい。できることなら、いま以上の議席数を今後4年間維持したい」ということだろう。
 民進党は求心力が低下している。ごたごたつづきである。いま総選挙をすれば、民進党は壊滅する、とにらんで安倍が解散を強行した。言い換えると、民進党議員の「首切り作戦」に出たということだろう。
 民進党議員は、失職したくない。どんな形でもいいから当選したい、と思った。そのためなら、希望の党に合流するのがいちばん手っとり早い。「理念」が必要だというが、理念があっても議員になれなければ理念を実行できないという大問題がある。「現実的」に対処したということだろう。

 私は民進党の行動を支持するつもりはないが、だからといって前木が書いているような視点からは批判したくない。安倍の行動には目をつむり、前原の行動だけを批判しても何も始まらない。
 「政党政治」以前に、「民主主義」が否定されているのだ。問われているのだ。
 安倍は、解散の名目に「全世代型社会保障」を実現するためを掲げた。財源を19年から実施する消費税増税に求める。こういう税金の「使途変更」をともなう政策の前には、その是非を国民に党必要がある、だから選挙をする、という。
 もっともらしいが、安倍の主張している「論点」は、どこで、どうやって議論された結果出てきたものなのか。
 国会で消費税増税をどうつかうかを、いつ議論したのか。その議論は、どういう内容だったか。民進党をはじめ野党は、どう主張しているか。どんな対立点があるのか。もし、相いれない対立点があり、どちらが「正しいか」を国民に問うのなら、安倍の主張は意味がある。
 しかし、議論にもなっていないことを突然「争点だ」と主張して、選挙をおこなう、そのために国会を解散するというのは、それこそ「当選ファースト」の考えに基づいた行動だろう。
 この安倍のいいかげんさは、消費増税を「全世代型社会保障」にあてるといいながら、そう主張した直後に、「リーマン・ショック級の経済危機が起きた場合は消費税増税は見送る」と言っているところに象徴的にあらわれている。財源を消費税増税に求めて政策を実施する、といいながら、経済事情が悪化すれば消費税は上げないという。では、財源はどこに? 財源のメドもないのに政策をぶち上げている。
 こういう「リップサービス」を「当選ファースト」の露骨な政策というのではないだろうか。

 今回の「どたばた」は、安倍がトップダウンで解散を決め、テキトウな政策をでっちあげたことと、前原がやはりトップダウンで希望の党への合流を決めたことに原因がある。党を構成する議員の間で民主的な議論があり、そこから「結果」が出てきたのではなく、ふたりの「独裁者」が勝手に方針をおしつけているところにある。
 「民主主義」というものが否定されている。
 「議論」そのものが、否定されている。
 選挙に入れば「政策論争」をする、「政策を国民に訴えていく」というが、誰が街頭で「政策をきちんと(ていねいに)説明する」だろうか。「自分の名前」を叫ぶだけではないか。
 昨年の夏の参院選では、安倍は「沈黙作戦」を強行した。党首討論を一回だけしか開かない。マスコミも、そのときに政策を伝えるだけで、あとは沈黙する。沈黙すると、巨大政党の意見だけがひろがる。少数意見は、どこにもひろがっていかない。必然的に、巨大政党が有利になる。この「宣伝の原理」を利用した「沈黙作戦」を思いついた人間のやり口が、どんどん拡大していると見るべきなのだ。
 たとえ自民党内に「議論」があったとしても、それは伝えない。安倍の「決定」だけをマスコミがつたえる。自民党内の少数意見はなかったことになる。民進党も同じ。前原の「決定」だけがマスコミをつうじてつたわる。「議論」は封印される。

 いま、ネットであふれかえっているも、「議論」の封印である。自分の意見と違う相手をみつけては、ただ罵詈雑言を浴びせている。罵詈雑言が多ければ、その主張が「正しく」、侮蔑された人が「間違い」という「判定」が幅を利かせている。
 「議論」を否定する、ことばの「内戦状態」が起きている。非論理が、あふれかえっている。
 マスコミでは、まだ「罵詈雑言」は飛び交ってはいないが、「論理の省略」という形で、一方的な論理が偽装されている。これは目に見えにくいが、やはり「暴力」である。
北朝鮮の攻撃によって日本が破壊される前に、「ことばの内戦、議論の崩壊」によって、日本は壊滅する。自己崩壊する。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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山口佳代子「おくりびと」、季村敏夫「光景」

2017-09-29 10:50:04 | 詩(雑誌・同人誌)
山口佳代子「おくりびと」、季村敏夫「光景」(「河口から」3、2017年09月15日発行)

 山口佳代子「おくりびと」は、火葬後、骨を拾いながらの会話から始まる。

足首の骨がしっかりしている、と男
よく山を歩きましたからね、と母
脳を覆う骨が分厚いこと、と男
記憶力が抜群だった、と息子

 男は火葬場の係の人だろうか。骨の特徴を言う。そのことばに誘われて、「みおくりびと」が死んだ人のことを語る。これが、なかなかおもしろい。男のことばが「みおくりびと」のことばを誘い出している。ことばが重なって、死んだ人を描写し始める。
 相槌は書かれていないが、みんな相槌を打っている。そうだったなあ、と思い出している。
 不思議な呼吸が書かれている。

これが鼻、頬骨がはっきりしている
人によってお顔が作れない場合も
ございます、と男が話している

骨は淡い薄紫で
花弁みたい、と娘
野山を巡り、薬草を
ドウランに入れて帰り
標本を二万本も残した人
樹精に守られていたのです
碧い光が、冬空から降り注ぎ

 思い出が一気に長くなる。「よく山を歩きました」は「野山を巡り」と言いなおされ、「記憶力が抜群だった」は「標本を二万本も残した」と言いなおされ、人物像が明確になる。
 「みおくりびと」は、「外的」特徴だけでは満足しない。「肉体」がなくなったので、せめて「精神」をことばで明確にしたいと思うのだろうか。

樹精に守られていたのです

 「樹精」ということばのなかに「精神」の「精」がある。「みおくりびと」の思いは、きっとそこに結晶する。
 しかし、このあと、思いもかけないことばがつづいてくる。「起承転結」の「転」のような感じ。

いや、どなたも、こんな色におなりですよ
なぜそのようなお色に染まるかといえば
私にもわかりませんが、とふたたび男

 係の男は骨の形、強さには興味があるが、色には関心がない。こんなことは、わざわざ言わなくてもいいのだろうが、職業柄、ついつい言ってしまう。骨の色に、そのひとの特徴が出ることはない、あくまで形、頑丈さに人柄が出ると言いたいのだろう。
 うーん。
 こういうとき、ひとは、「冷淡さ」(客観性)をどうやって乗り越え、「感情」を再び獲得することができるのか。

それなら、誰もが草木に守られている
焼かれたあと、人は花弁となるのだ
父を納めた壺が温かい、と孫息子

 なるほどねえ。
 ことばはだんだん「論理」になっていく。「論理」の発見が詩であるかどうかは、むずかしい。
 「結」を考えると、こうなるしかないのだろうけれど。
 私は最初の、

よく山を歩きましたからね、

 という「母」のことばが、いちばん「実感」があふれている気がして好きである。「論理」として美しくなるに従って、うるさいような感じがしてくる。
 こういう感想を書くのは申し訳ないが。



 季村敏夫「光景」も、死に関係する詩を書いている。

海からの風に
棺に打ち込まれる釘
打たれる音がまじる

打たれつづける
簡素な響きが植えつけられ
歩みが始まる

 釘を打ちつける音が耳に残っている。それを残したまま、棺を担いで歩く。歩いていると、なおも耳に釘を打つ音が聞こえてくるということだろう。
 この「時差」のようなものが、おもしろい。
 季村は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、これはどういうときにもそうなのだ。釘を打つ音が聞こえなくなったときこそ、その音がはっきりとやってくる。思い出され、ことばにすることによって、「出来事」が「事実」になる。「事実」になって、「肉体」に刻み込まれる。
 一連目の

棺に打ち込まれる釘
打たれる音がまじる

 この「呼吸」も印象的だ。「棺に打ち込まれる釘の/打たれる音がまじる」ということなのだが、学校文法の文のにようには「整えられていない」。「釘」がまず意識され、それから「音」が意識されるのか。文章としては、そうなのかもしれないが、何か「打たれる(打ち込まれる)」音がある。そのあと「あ、あれは釘を打ち込む音だ」と気づくのかもしれない。いや、そういう「時間の論理」を越えて、瞬間的に全体がつかみとられていると考えるべきだろう。瞬間的、つまり「同時」なので、「の」を挿入することができない。「学校文法」では書けない「事実」がここに書かれている。
 「出来事は遅れてあらわれる」というのは、「事実」は瞬間的に起きてしまい、それを「論理的」に、「正確に」とらえなおすことができるのは、あとになってからだ、ということであり、同時に、そうやって「遅れてあらわれる」前にも「事実」があって、それをそのままつかみ取るのが詩の力。
 ことばは、どの瞬間、いちばん強くて、可能性に満ちているのか。
 それを考えたくなる詩である。








日々の、すみか (Le livre de luciole)
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韓粉順(Han Boonsoon)「青」(李國寛訳)

2017-09-28 08:18:00 | 詩(雑誌・同人誌)
韓粉順(Han Boonsoon)「青」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 李國寛が訳している詩ばかり取り上げるのは、韓国の詩人の作品を狭い領域にとじこめることになるかもしれないが。しかし、好きなものはしようがない。好きではない作品について書いてもしようがない。
 で、きょうは韓粉順(Han Boonsoon)「青」。

夏は
私のそばで
まだ生い茂っている

深い谷間で
ひと眠りして
夕もやを渡り

時には
落して、時には
また手にも入った。

 私は田舎育ちである。まわりは自然しかない。だから、ここに書かれていることは、そのまま幼いときの「思い出」に重なる。
 と書けば、まあ、それでおしまいなのかもしれないけれど。

 この詩を読んだとき、私に何が起きているか。起きたか。それを書きたい。夏の風景などではなく。

夏は
私のそばで
まだ生い茂っている

 この一連目で、私は「そばで」と「まだ」に反応する。「そば」に身近。何かが自分に接している。私は何かとつながっている、という感じが「そばで」である。そして、その「つながっている」という感じを「まだ」が強調する。同時に、その「まだ」は「いま」までに長い時間があったことを知らせてくれる。長い間、何事かがあった。そしてそれは「まだ」私のそばに「残っている」。
 何が残っているか。「夏」である。「夏草」である。「残っている」ということばではなく「生い茂っている」と韓は書くのだが、私は「残っている」と読み替えてしまう。「誤読」する。
 二連目は「まだ」を言いなおしたものである。「まだ」のなかにある「長い時間」を具体的に描いて見せている。
 「ひと眠り」のなかにある「時間」、「夕もや」が出てくる時間。「夕方」までの「時間」と言えばいいか。その「時間」を「渡る」という動詞を書くことで、いっそう明確にする。
 二連目の主語は「夏(という時間)」なのかもしれないが、「ひと眠り」ということばが「私」を主語にしてしまう。つまり、夏の午後、夏草の上で寝ころんで「ひと眠り」したこと、眠るという動詞を生きたことを思い出させる。その動きに肉体が重なる。そうなると、最後の「渡り(渡る)」は私自身の動作としても読むことができる。
 もっとも、私が夕もやを渡ることはできないから、私の意識(思い)ということかもしれないが、「渡る」という動詞は肉体で再現できるから、どうしても意識(思い)ではなく、それを「肉体」で感じてしまうのである。
 三連目。
 そうやって見てきた「時間」が「時」という名詞で言いなおされる。
 「また」は「まだ」と似ているが違う。「まだ」は持続しているが「また」は反復である。この持続と反復の交錯というのも、またなつかくし、けだるい感じで肉体を刺戟する。
 「手に入った」と「手」ということばがきちんと書かれているのも肉体に優しい。「落した」は「手から落した」であるのだろう。「抽象的」なことを書いているのだが、それを「肉体」で感じてしまう。「手」に感触が「ある」のだ。
 そんなことを、ぼんやり思っている夏。まわりには、夏の青い光が、まだ残っている。そんなことを思うのだった。









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民主主義はどこへ行ったのか

2017-09-28 07:07:42 | 自民党憲法改正草案を読む
民主主義はどこへ行ったのか
            自民党憲法改正草案を読む/番外121(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月28日、西部版・14版)1面の見出し。

民進分裂へ/希望へ合流容認/衆院きょう解散 安倍政権に対抗

 ここまでは、あり得る展開である。しかし、2段でそえられた、

前原氏、無所属出馬も

 これは、どういうことだ。
 民進党の党首(代表)が「党首」の地位をほっぽりだしている。希望の党へ入党したいのだが、それでは無節操だから(?)、とりあえず「無所属」の立場で立候補する。だが、これも無節操だろう。だれが「党首」になるのか。だれが「民進党」の選挙をリードしていくのか。
 これは前原の「クーデター」だろう。

 このニュースでいちばん疑問に思うのは、民進党内での「民主主義」というのは、どうなっているのか、ということだ。
 「希望へ合流容認」はどうやって決めたのか。
 「前原・民進党代表」は選挙によって決めた。国会議員と民進党のサポーター(?)が投票して、前原を選んだ。選ぶまでには、いろいろなところで「議論」があったはずだ。今回は、どこで、どんなふうに「議論」したのか。
 「民主主義」は「議論」と同義である。ひとがそれぞれの意見を主張する。少数意見にも耳を傾ける。議論を尽くしたあと、決定する。「結論」も大事だが「過程」が大事である。
 「議論」をせずに「決定」だけを押しつけるのは「独裁」である。
 安倍の手法そのままである。
 代表選で前原に投票した人に、どう説明するのだろう。

 民進党の支持母体である連合は、どう判断しているのか。読売新聞の3面に、こういう記事が見える。

前原氏は(小池との階段を進める一方)同時並行で、民進党最大の支持団体である連合の神津里季生会長にも理解を求めていた。民進と共産党との共闘に否定的な連合は、「希望との連携は、共産を遠ざけることにつながる」として前原氏の決断を後押ししたという。

 民進党が批判しているのは共産党だけなのか。安倍・自民党はどうなのだ。また小池・希望の党を、どう判断しているのか。ここには書かれていない。

神津氏は27日の記者会見で「前原氏には期待をずっとしている」と語った。

 とも書かれている。「無所属」で出馬するとき、連合はどうするのか。「民進党支持」はやめて「無所属支持」に切り換えるのか。いったい、「無所属」から出馬する人間に、何を期待するのだ。
 私は民進党、前原の支持者ではないし、「経営陣になりたい欲望の集団」の連合にも批判的な人間だが、民主主義からあまりにもかけはなれた動きに、とてもこわいものを感じる。
 自分は一生生きて行けるだけの金を持っている。これから先もさらに国会議員で金を稼げるよう、当選だけを狙って何でもする。日本の将来などどうでもいい。国民の将来など知ったことではない、ということだろう。

 国の財政はすでに破綻している。年金はなくなり、「教育費無償化」は宣伝だけで実施されないだろう。東京電力福島第一原発の処理は、「自分が原因ではない」と言い張り放置するだろう。10年後には、電気自動車開発に乗り遅れたトヨタは倒産しているかもしれない。いまは日本に外国から労働者がやってきているが、10年後は、きっと日本の若者は中国へ出稼ぎに行くしかなくなるだろう。しかし、日本の若者は、中国周辺の諸外国の若者との競争に破れるだろうし、過去の歴史が障礙になり日本人の若者は中国では差別されるだろう。
 私はあと10年生きられるかどうかわからない人間だが、なんともやりきれない。
 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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金王魯「君を花と呼んで十日泣いた。」、金芝幹「路地という言葉の中には」

2017-09-27 08:16:18 | 詩(雑誌・同人誌)
金王魯(Kim Wangno)「君を花と呼んで十日泣いた。」(李國寛訳)、金芝幹(Kim Jeehun)「路地という言葉の中には」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 李國寛訳以外の作品を読んでみたが、感想を書きたいと思う作品がなかなかみつけられない。だから、こんどは逆に李國寛訳の作品に何か共通するものはないか、それを探してみた。

 金王魯(Kim Wangno)「君を花と呼んで十日泣いた。」(李國寛訳)の書き出し。

雨のじめじめ降る日 花無十日紅という言葉の前で 泣いた。
君を何かと呼べば その何かになると言うので
君を花と呼んだので その十長生の太陽、山、水、石、雲、松、不老草
亀、鶴、鹿の中で鶴や確と呼ぶべきだったのに
私が花無十日紅という言葉を知らずに 君を花と呼んだので 泣いた。

 「いくらきれいに咲いた花でも十日持たない」ということばを知らなかった。「十個の不老長生の象徴するもの(太陽、山、水など)」を知らなかったので、君を花と呼んでしまった。
 そのあとの「泣いた」は花が色褪せたというよりも、花は私から去った(散ってしまった)ということだろうけれど。

散る花よりも さらにすすり泣き 別れていく人よりも さらに深く長く 泣いた。

 で終わる詩は、失恋の詩と言うことになる。「散る花」は「別れていく人」と言い換えられている。

 金芝幹(Kim Jeehun)「路地という言葉の中には」(李國寛訳)の一連目はこうである。

路地という言葉はなんと温かいのだろう
まだぬくもりの残る
誰かの捨てた練炭のように
ケガをした膝に赤い薬を塗ってくれた無愛想な
父のように

 「路地という言葉はなんと温かいのだろう」に、私ははっとした。
 詩人は「路地」そのものに反応しているのではない。路地という「言葉」に反応してことばを動かしている。
 金王魯「君を花と呼んで十日泣いた。」には「花無十日紅という言葉の前で」という表現がある。
 金芝幹と金王魯は、「言葉」に反応している。
 もしかすると、訳者の李國寛も「ことば」に反応しているのかもしれない。
 このときの「ことば」というのは「定義」がむずかしい。「ことば」は何かを指し示している。だから「ことば」を読むというのは「何が書かれているか」を読むことである。「何が」というのは「意味」にかわることもある。
 でも、「ことば」は何かを指し示したり、意味を語る前に、ただ「ことば」であるときがある。「ことば」が先にあって、それが「事実」を引き寄せ、動かすことによって生まれてくる「世界(意味)」というものもある。
 こういうものに、李國寛は反応しているのではないのか。
 「事実」はどうでもいい。「ことば」が動くときに生まれてくる「世界」、「ことば」と「世界」の緊密な関係にひかれているのではないのか。

 作品に沿って、言いなおしてみる。
 金芝幹は「路地」そのものを描いているわけではない。「路地という言葉」について描いている。
 一行目で「温かい」ということばを動かす。二行目で「ぬくもり」と言いなおす。「温かい」は形容詞、「ぬくもり」は名詞。「温かさ」と言い換えると名詞になる。その名詞に、「残る」という動詞をつなげる。そうすると、その「残る」に私の「肉体」が参加していく。「残る」は「残す」でもある。
 ここから変化が加速する。
 「残す」「残る」は「捨てる」という動詞を浮かび上がらせる。「捨てる」は「残す」の反対の動きだが、その反対のもののなかに、つまり捨てられたもののなかには何かが「残っている」。たとえば、「温かさ/ぬくもり」が。つかった後でも、「練炭」はすぐに冷たくなっているわけではない。また「ぬくもり」が「残っている」。
 この、動詞の「交錯」が、とてもおもしろい。単独に「残す」「捨てる」という動詞だけを考えたときには思いつかないようなことが、「事実」として書かれている。それは、私たちの「肉体」がおぼえている記憶である。記憶の事実が、そこにある。
 これを、さらに金芝幹は、動かす
 「無愛想な」ということばが、非常に強い。「無愛想」は「温かい」とか「ぬくもり」とは逆のものである。どちらかというと「冷たい」。でも、「無愛想」のなかには「温かい」「ぬくもり」も「残っている」。「無愛想」ではなく「愛想をふりまくことができない」「無骨」ということかもしれないと、思う。
 ここから「父」が浮かび上がる。ケガをしたとき赤チンを塗ってくれるのは、たいていは父ではなく母だろう。看護婦のイメージだね。でも、母がいないとき、父が塗ってくれた。優しさ(傷への心配)を前面に出すのではなく、むしろ隠すようにして赤チンを塗る。でも、そこには隠しきれない愛がある。温かさ、ぬくもりがある。
 いくつものことばが交錯し、交錯することで、「ひとこと」ではいえない隠れている何かをひきだして見せる。
 このときの、交錯することばの運動が私は大好きである。ことばが、肉体がおぼえていることを、あざやかによみがえらせてくれる。この瞬間が好きなのだ。そして、そのことばの動きの中に、人間の「肉体」の動きが自然に重なるものが、特に好きである、私は。
 李國寛も、きっとそういうことばの動き、ことばがつくりだす世界と人間との関係が好きなのだろうと、私は想像した。
 読むことは、結局、自分自身の知っていることを確かめることであるとも思った。
 人は知らないことは理解できない。知っていることだけを、より深く知るためにことばを読むのだと思った。




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安倍の嘘をあばく

2017-09-27 07:38:45 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の嘘をあばく
            自民党憲法改正草案を読む/番外120(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月27日、西部版・14版)1面に1段見出しの小さな記事がある。

「リーマン級で」/増税再延期も/首相

 こう書いてある。

 安倍首相は26日深夜のテレビ東京の番組で、2019年10月に予定する消費税率10%への引き上げについて「リーマン・ショック級の経済的な緊縮状況が起きれば判断しなければならない」と述べ、経済が大幅に悪化すれば再延期もあり得るとの認識を示した。衆院選では増税分の使途変更を問う考えを表明している。

 まったく無責任である。消費税を10%にあげる。それを財源にして「全世代型社会保障」を実施すると言ったばかりなのに、「財源」のメドを放棄している。財源のメドがないにもかかわらず、「全世代型社会保障」を実施すると言っている。
 有権者に「嘘の公約」をしている。気に入りそうなことばを並べているだけなのだ。
 だいたい経済危機を含め、あらゆる危機が起きないようにするのが政治家なのに、安倍は自分の都合に合わせて「危機」を捏造している。「危機」と「好調」をつかいわけている。

 「リーマン・ショック級の経済的な緊縮状況」に似たことばは昨年の参院選のときにもつかわれた。サミットの総括で「リーマン・ショックの前段階に似ている」と危機をあおって、参院選で「アベノミクス」の継続を訴えた。
 しかし、最近は、現在の景気は日本は「いざなぎ景気」(1965年11月から1970年7月までの57か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称)を超えた、と主張している。「現在の景気回復は2012年12月から続いており、9月も回復すれば4年10か月(58か月)となり、いざなぎ景気を上回る長さとなる見通しだ。」というのが最近の主張だ。
 そうであるなら、昨年の参院選の前、あるいは期間中は、「好景気」が持続しているということであり、「リーマン・ショョク」は無縁ということだろう。それなのに「不況」を装い、状況打開にはアベノミクスしかないと言った。アベノミクス(経済政策)を前面に出して参院選を戦うために嘘をついたということになる。
 そして、参院選で大勝すると、一転して「アベノミクスの継続」については知らん顔して、「政局のテーマは憲法改正だ」とぶち上げた。「選挙で争点にして来なかった」という批判には、「公約には書いてある」と言い逃れをした。

 いままた「リーマン・ショック」を言い出すのはなぜなのか。これこれの政策をするから、リーマン・ショックは起きないと言わないのはなぜなのか。景気は拡大する。消費増税は確実に実施でき、「全世代型社会保障」の財源に不安はない、と言わないのはなぜなのか。
 「全世代型社会保障」を実施するつもりはないのだ。
 今回の衆院選で議席を守る(さらには拡大する)ことができれば、それでいいとしか考えていない。議席を拡大するために、嘘をついているのである。
 議席が確保できれば、いまの安倍の主張は、どうかわるか。
 北朝鮮情勢が緊迫している。国の安全を守るために、憲法を改正し、自衛隊が「合憲」であることを保障するために憲法を改正する。さらには軍事費を増やす。「社会保障よりも軍事費が大事」と言うだけである。
 軍事費に重点を置き、そのために経済が疲弊したとしたら、それこそ安倍にとってのチャンス。今度は、「消費税を上げない」を「公約」にして選挙を勝ち抜く。そういう「想定」が安倍の頭の中で動いているのだろう。
 安倍は、3期どころか、永遠に「独裁者」となって日本を支配するつもりなのである。そのためには、どんな嘘でもつく。その場限りで何でも言う。

 「消費増税分から全世代型社会保障の予算を捻出する」ということは、必ず消費税を上げるということでもある。これに対して、ある若者がテレビのインタビューで「消費税があがるのはいやだなあ」と声を洩らしていた。私はテレビを見ないが、安倍の「解散表明」会見のあと、会社のつけっぱなしのテレビを偶然見たら、若者がそう言っていた。
 「リーマン・ショック級のことがおきれば消費税をあげない」と言うことで、この若者のような不安を封じようとしている。こびている。もし消費税を上げなければ、日本の国家予算が破綻するのに、である。
 安倍は独裁者になって、若者を戦場に駆り立て、「最高指揮官」として軍隊を指揮することだけを夢見ている。そのために、あらゆる嘘をつく。
 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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安倍の「記者会見」戦法

2017-09-26 10:03:28 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「記者会見」戦法
            自民党憲法改正草案を読む/番外119(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月26日、西部版・14版)が、安倍の「解散表明会見」を伝えている。1面の見出し。

衆院28日解散
消費税使途 変更を問う
少子化や北情勢 首相「国難を突破」

 2019年に消費税を10%に引き上げる。それを財源に「全世代型社会保障」を実現する。消費税の使途の変更を含むので、その是非を問うために総選挙をする。信任を得たいというのが安倍の主張である。
 一見まともな「論理」に見える。
 だが、おかしなことばかりである。
 「全世代型社会保障」はたしかにすばらしい発想だが、誰かがそれに反対しているのか。「教育費の無償化」を含め、野党(特に民進党)が主張していたことと、どう違うのか。民進党の案ではだめで、安倍が提案しなければならない理由はどこにあるのか。
 さらに、その財源をどうするかを国会で議論したことはあるのか。
 国会で議論もされていないことをテーマ、争点に「民意を問う/信任を問う」というのはおかしくないか。
 財源をどこに求めるかを別にすれば、「全世代型社会保障」や「教育費の無償化」に反対する政党、国民はいないだろう。だれだって、年金を引き上げる、あらゆる教育費は無償にすると言われれば、喜んで賛成する。「反対」のしようがない。
 問題は、そういう金のつかい方をして、それで国家財政そのものが破綻しないかどうかである。いまはいい、けれど将来、国民は大きな負担を強いられる。消費税はさらに引き上げられる。そういうことになってもいいのか、というところまで含めての提案でなければならないのに、問題点を除外し、耳障りのいいことだけを語っている。
 だいたい、世論を二分するような論争も起きていないのに、国会を解散して「信任を問う」というのはおかしいだろう。
 国会を解散して「信任を問う」ということが必要だったのは、「戦争法案」「共謀罪法案」のときだろう。国会の外で、デモが行われている。そういう状況のときは、知らん顔して「多数議席」によりかかって採決を強行している。
 これだけでも、安倍が、安倍の身勝手で解散しているということがわかる。

 解散については、憲法で、こういう規定がある。

第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 これは国会と内閣との関係についての規定である。不信任を可決されるとは、内閣を国会が支持しないということ。不信任が可決されたら、議院内閣制のもとでは、内閣は総辞職をしなければならない。それだけでは、「一方的」である、というか、内閣に対抗手段がない。だから「解散権」を与えている。国会の議決はこうだが、内閣はこう考える。どちらの主張が正しいか、その「信任」を判断するために、国会を解散し、議員を選びなおす。それが「第六十九条」の趣旨である。
 こういうことは中学の社会科で習うはずである。
 安倍は、反対意見もあるだろうけれど、国会では「信任」されている。「信任」されているのに、その国会を「解散」し、「信任を問う」ということは意味がない。
 もし解散を言うのであれば、国会に「消費増税の使途の変更」を提案し、議論を経て、その案が「否決」される、さらには内閣不信任案が可決されるという経過の後でなければならない。
 最大限に譲っても、(安倍への不信任案が可決されていない状況であるのなら)、安倍への信任が問題になっているとき、それをテーマにしての解散でなければならないだろう。
 「戦争法案」「共謀罪法案」さらに「森友学園・加計学園問題」で、安倍への「信任」の度合いが急低下した。支持率が低下した。そういうときに、「世論調査ではそうだが、実際は私は信任されている。それを選挙で証明してみせる」といって解散するのなら、まだわかる。
 国会ではなく「世論調査」が「不信任を可決」しているのだから。
 しかし、安倍のやっていることは逆だ。世論調査の支持率が下がったら、不安になって選挙を封印する。支持率が回復したら、いまがチャンスと選挙をする。
 単に議席を守るために選挙するのであって、政策を推進するためではない。

 「国難」として、「少子化」と「北朝鮮情勢」を並列して掲げているのも、まったくおかしい。「少子化」はいまに始まった問題ではない。ほったらかしにしてきた問題である。昨年「幼稚園落ちた、日本死ね!」という女性の声が問題になったとき、安倍一派は、そういう発言をするのは(幼稚園を落ちるのは)共産党だ、と切り捨てたではないか。(自民党支持者なら、つてで幼稚園に入れるのに、ということだろう。)
 少子化は、ほんとうにやりたいことを隠すために、「おもて」に出してきた主張に過ぎない。
 一方の「北朝鮮情勢」についても、いいかげんである。安倍は情勢が緊迫化しているといいながら、政治空白を招く選挙を強行する。「民主主義の原点である選挙が、北朝鮮の脅しによって左右されることがあってはならない」というのはかっこいい言い分だが、もしそうなら自民党の改憲草案にある「緊急事態条項」も不要である。「緊急事態」が起きたときに、国会が空白になっては困る。だから議員の任期を選挙を経ずに延長するという条項など、いらない。「ある国が日本へ攻撃してきたからといって、民主主義の原点である選挙が左右されてはならない」ということになる。
 「緊迫情勢」と「緊急事態」は違うというかもしれない。では、いまの「緊迫情勢」とは何なのか。北朝鮮がミサイル実験をするたびに、国民に避難を呼びかけ、列車まで止めておいて、それは「緊急事態」ではないのか。「緊急事態」ではないのに、国民に「緊急事態」と嘘をついているのか。
 だいたい、北朝鮮のミサイル実験は、日本を照準にしているのもではないアメリカを視野に入れての展開である。安倍は、ただ「危機感」をあおっているだけである。

 あ、余分なことを書きすぎたか。
 今回の会見でいちばん問題なのは、安倍が「改憲問題」について触れなかったことである。
 消費税の使途以上に、憲法9条をどうするかは、「国の方針の変更」になる。70年守り続けてきた方針が大転換する可能性がある。ほんとうは、憲法を改正するための議席を守るために選挙をするのに、それを隠している。
 「全世代型社会保障」という、だれも反対できないような「美しい提案」で、ほんとうにやりたいことを隠している。隠したまま「信任」を問い、議席を確保すると、「改憲問題は自民党の以前からの主張である。公約にも書いている。信任された」と主張し、改憲を進めるのだ。改憲がとおってしまえば「全世代型社会保障」などは切って捨てられる。軍隊がいちばん大事。社会保障に頼るべきではない。自助努力が欠けている。国を守る軍隊がいちばん大事。軍事費を確保するためにさらに消費税を上げる必要がある、と安倍は平気で言うだろう。

 この記者会見では、何人かの記者が「指名」を受けて質問した。その質問も、傑作である。だれひとりとして「改憲問題」について質問しない。安倍が言わなかったからだが、言わなかったからこそ聞き出さなければならない。
 安倍は、昨年の参院選で「沈黙作戦」を展開した。何も言わない。言わないことで、野党の反論も封じる。争点を「アベノミクス」にしぼった。しかし、選挙に勝つと、一転して「これからのテーマは改憲だ」と言い張った。
 この詐欺の手口をマスコミも野党も追及しないのは、まったくだらしない。
 「改憲の主張をしないのはなぜか」と問わないといけない。問わない限り、安倍の政策のPRの片棒担ぎに終わってしまう。

 読売新聞は「改憲問題」について、こう書いている。

 首相が目指す憲法改正については、25日夜のNHKの番組で、「選挙において(自民)党の考え方を示していくことになる」と述べた。

 選挙になってしまえば、名前の連呼しかしないくせに、どうやって憲法問題を語るのか。参院選では党首討論会は一回しか開かれなかった。今回も一回なら、きっと憲法問題よりも「全世代型社会保障」を語るだけだろう。上田NHKは、籾井以上に巧妙に安倍の主張を支持するだろう。演出を巧みにするだろう。
 安倍の「口車」に乗るのではなく、安倍の「本音」をひきだし、野望(戦争でやる、軍隊の総指揮官になる)の問題点をあばく工夫が必要だ。
 これから安倍は「沈黙」する。「全世代型社会保障」ということだけを口にする。参院選で「アベノミクス」だけを言ったのと同じである。「沈黙作戦」のスタートが、28日の解散である。何も言わないまま(所信表明演説もせずに)、解散する。最低限、国会で「消費増税を税世代型社会保障につかう」と表明することが必要なのに、国民の代表である議員の前では一切語らず、上田NHKのテレビカメラの前で語るのだ。
 安倍にとっての「ていねいな説明」とは、上田NHKを利用して、国会議員から質問されないところで、指名した記者に答えるだけなのだ。記者は企業の一員であって、国民によって選ばれた議員、国民の代表ではない。国会では、安倍は質問する議員を指名できないが、記者会見では質問する記者を指名できる。この「仕組み」を利用していることにも、注意しなければならない。
 記者会見は「宣伝」である。



 「詩人が読み解く地味淫蕩憲法案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」は、自民党がことばをどんなふうに変更し、そうすることで国民をどうごまかそうとしているかを指摘したものです。
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金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)

2017-09-26 08:13:12 | 詩(雑誌・同人誌)
金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)は「恋愛詩」なのかもしれない。しかし、詩について語ったこと、比喩とは何かということを語った作品としても読むことができる。

君が私を白樺と呼んで去った後、私は白樺になった
誰かを何かと呼ぶことが
どれほど苦しく時には危険なのか知っているのだが
白樺や草花などと呼ぶために
自分の魂の唇を整えて数えきれないほど練習した美しい発声法
誰もが思いを込めて一人の人を何かと呼びたかったり呼んだりするのだが
その人は呼ぶ声が全く聞こえない所に流れて行ってしまったり
呼びながら求めた人は世界の向こう側に立っていたりする
私たちが互いを何かと呼んでやるならば
私たちは喜んでその何かになり暗い路地や
戦場でも明るい街灯や花として夜通し燃え上がって待とう
夜明けが来る足音もそうやって待とう
君が私を白樺と呼んでくれたように
君を星だと呼んであげたとき暗い白樺の森の上に
君が星になって浮かび上がりきらめくなら私だけの星だと意地を張ったりしないだろう。

君が私を白樺と呼んで去った後 私は白樺になった

 私には私の名がある。君には君の名がある。けれど、それとは違う名で相手を呼ぶ。「白樺」「星」と。この名前は、特別な名前だ。二人だけの間で通じる名前だ。愛しているときに、そういうことが起きる。
 愛は「苦しく時には危険」である、というのは常識かもしれない。しかし、ひとは、こういう誰もが知っているところをとおって生きる。
 で、そのあと

自分の魂の唇を整えて数えきれないほど練習した美しい発声法

 この一行が美しいなあ。
 「魂の唇を整える」というのは、私の実感からは遠い。私は「魂」というものを知らない。ひとがそういうことばをつかうのは聞くが、自分では言わない。他人のことばを引用するときにはつかうけれど。なぜ「魂」をつかわないかといえば、存在を実感できないからだ。見たことがない。さわったことがない。
 それでもこの一行を美しいと感じるのは、「魂」を「唇」という「肉体」であらわした後、

整えて数えきれないほど練習した美しい発声法

 とつづくからだ。「整える」「練習する」という「動詞」があるからだ。「動詞」は私自身の「肉体」で反復することができる。私の唇を整え、ことばを練習する。こういうことは、よくやる。美しく「発声」できるかどうかはわからないが、美しくしたいという気持ちはある。そういうことを思い出すから。
 「意味」に「頭」が反応するのではなく、「ことば」に「肉体」が反応して、私の「肉体」のなかに眠っていたものが動き始める。
 特別な名前ではなく、ただその人の名前であるだけで、それを呼ぶときにどきどきすることもある。初恋のとき。友人がなんでもない調子で呼んでいる、その名前。それを呼ぶことができない。あのとき、どこかで私は無意識に唇を整え、声の出し方を練習している。
 でも、愛というのは、かならずしも実らない。詩は、そういうことも書いている。

君が星になって浮かび上がりきらめくなら私だけの星だと意地を張ったりしないだろう。

 というのは、別れた後だから言えることばかもしれない。「意地を張る」が「唇を整えて数えきれないほど練習した」と向き合っているようで、せつない。「意地を張ったりしないだろう」と否定形、否定形の推量として書かれているところが、かなしい。ここに「感情の整え方」がある。
 そして、感情を整えた後、最後の一行。

君が私を白樺と呼んで去った後 私は白樺になった

 「白樺」と呼ばれているときは、まだ「私」でもあった。君が去って、「白樺」と呼ばれなくなったときに、「白樺」と呼ばれることの「意味」がわかったということだろう。「白樺になった」と「白樺と呼ばれることが私にどういう意味があるのかわかった」と言い換えるられるだろう。

 それにしても。

 不思議なことだが、私がおもしろいと感じる作品には李國寛が訳していることが多い。どこかで「ことば」を共有しているのかもしれない。韓国語を習うなら、この人から学ぶと、私の場合は納得しやすいかもしれない、というような、詩とはあまり関係ないことも考えた。
 しかし、意外と重要な問題があるかもしれない。
 たとえば、詩に限らず、あるひとの「翻訳」がどうにもなじめないとか、逆にあるひとの「翻訳」が読みやすいと感じるのは、たぶんことばの感覚がどこかで通じているのだろう。

誰もが思いを込めて一人の人を何かと呼びたかったり呼んだりするのだが
その人は呼ぶ声が全く聞こえない所に流れて行ってしまったり
呼びながら求めた人は世界の向こう側に立っていたりする

 こういう向きを変えながら反復するような、まだるっこしいことばの展開のしかたにも強くひかれる。(原文もまだるっこしいのだろうけれど、それをそのまま日本語にする「呼吸」にひかれる。)
 「意味」だけではない何かがある。「正確」かどうかだけでは判断できない何かがあるということだろう。特に詩は、そうだろうと思う。詩は「意味」だけをつたえるものではない。詩は「意味」として語ることのできない何か、客観化できない何かを語る。そのことばに触れることで、自分自身のことばを作り替えを求められるのが詩だ。(哲学とは、文学というのは、そう定義できるだろうけれど、詩の場合、特にその要素が大きい。)
 このとき、何かが「共有」されていないと、その作り替えがうまくいかない。というか、作り替えへと、ことばが動いていかない。「共有」されていると、自分のことばを作り替えたいという欲望が動き始めるといえばいいのか。

 他の人の訳で、気に入る作品はないだろうか。
 探してみなければ、と思う。


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金秀福(kim Soobok)「間」「丸いという思い」(李國寛訳)

2017-09-25 08:31:58 | 詩(雑誌・同人誌)
金秀福(kim Soobok)「間」「丸いという思い」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 金秀福(kim Soobok)「間」「丸いという思い」(李國寛訳)を読んで、少し不思議な気持ちになる。

 「間」は、こういう作品。

目を瞑り空を見上げると
間がとてもいい

私と私の間
人と人と間
木と木の間
鳥たちと鳥たちの間
沈む太陽と昇る太陽の間

辿り着くべき時代の停留場があればもっとよかった

 「間」が繰り返されている。「あいだ」と読むのだと思う。でも、「ま」と読んでみたい気もする。器機でははかることのできない「感覚」を含んだもの、と。
 「目を瞑り空を見上げると/間がとてもいい」の「間」が何を指すのか、よくわからないからだ。計測できない何かを感じるからだ。
 「目を開いて見た空(現実)」と「目を瞑って見る空(想像?)」の「違い」のことを「間(ま)」と呼んでいるのだろうか。
 「私と私の間」とは「現実の私」と「私が思い描く私」の「違い」のことか。「違い」を「隔たり」と読み直せば、たしかに「あいだ」というものがあるかもしれない。でも、これも計測できない。
「人と人と間/木と木の間/鳥たちと鳥たちの間」も「現実の人/木/鳥たち」と「私が想像する人/木/鳥たち」の「違い(隔たり)」、ぴったりと重なり合わない「ずれ」のようなものを指しているのかもしれない。「間(ま)」は、「ずれ」の別称かもしれない。
 「沈む太陽とのぼる太陽の間」はどうだろう。ここにも「隔たり」はあるが、それは「空間」というより「時間」である。「隔たり」には「空間」と「時間」がまじりあっている。「空間と時間」が「一体」になっている、ということか。「間(ま)」の領域がひろげられている感じ。
 よくわからないが、何か「現実」から離れて、「現実に似た何か(理想かもしれない)」を思い描くときの「感じ」を思い出す。やはり、計測できない、あいまいなもの。感じるのに、客観化できないもの。
 客観化できないけれど、それは、私自身にとっては「絶対的」なもの。
 目をつむって空を見あげるとき、「絶対的」な不安のようなものを感じる。体がふわっと浮き、ここではないどこか、どこでもないところへ行くような感じ。
 で、最終行。
 私はこの行を読んだ瞬間、「辿り着く」と「停留場」に下線を引き、それを別な線でつないでいる。つないでしまう感覚が「間(ま)」なのか。つないでしまうと、「辿り着く」と「停留場」は「関係」になる。「関係」が「間(ま)」だ。
 「停留場」は「目的地」ではない。たぶん、通過地点の「場」である。でも、それがあることで「目的地」がたしかなものになる。「関係」がひろがって、たしかさをささえる。「停留場」がないと、「目的地」があるのかどうかまで、不安になる。
 「停留場」は「あいだにある場」であると同時に、出発点と目的地を確固としたものにする何かである、と感じた。
 こういうことはすべて「比喩」なのだが、比喩でしか言えない何かを金は書こうとしている。それを私は「間(ま)」であると考える。
 「沈む太陽とのぼる太陽の間」が「時間」を呼び起こし、「辿り着く」という動詞が人間の肉体がつくりだす「時間」を呼び覚ます。ひとは、何かを「つくる」。「目的地」がそのとき想定されているのだが、そこまでは「遠い」。どこかに「中継点(停留場)」があれば、きっと「もっといい」という感じなんだろうなあ。こういうことが、入り乱れて、私の感覚を揺さぶる。
 抽象的なことしか書けないが、抽象的なまま、そういうことを感じ、考えた。
 もう一篇「丸いという思い」。

愛しているという言葉があなたへ転がっていく間、
幼虫の部屋から蝶が飛び上がる間、
洞窟から人が出てくる間、
空の斜面から転げ落ちた一番星がまた上る間、
別れという言葉が返ってくるのを恐れる太陽は丸く消えて
愛のように悲しい顔がよぎる

 この詩にも「間」が繰り返されている。この詩の「間」は「時間」と言い換えてもいいかもしれないが、やはり「間(ま)」かもしれない。。
 まず、先に読んだ「間」も「時間」と読み替えてみようか。

目を瞑り空を見上げる(と)
(その)「時間」がとてもいい

私と私の「時間」
人と人と「時間」
木と木の「時間」
鳥たちと鳥たちの「時間」
沈む太陽と昇る太陽の「時間」

辿り着くべき時代の停留場があればもっとよかった

 ということになる。
 こう読んだとき、私が感じるのは、今度は「違い(隔たり)」ではなく、なぜか「同じ」という感じである。「同時性」、「いっしょにいる時間」といいなおせばいいのか。「隔たり」があるかもしれないが、いっしょにいることによって生まれてくる「充実」のようなもの。
 「停留場」では、人がいっしょに乗り物がやってくるのを待っている。
 でも、こういう読み方は強引だし、そこから再び「丸いという思い」へ返ってくると、何かが違ってしまう。
 違ってしまうけれど、私は、さらに強引に「誤読」する。
 「いっしょにいる」という感覚が、どうも、ついてまわるのである。これが「間(ま)」という感覚なのかなあ。いっしょにいるものと、感覚的にしっくりこないとき「間(ま)がわるい」と言ったりするなあ。

愛しているという言葉があなたへ転がっていく間、

 というとき、言葉が転がっていく「時間」、私は言葉と「いっしょにいる」、ということ。その「転がっていく言葉」を見ているときの感じというのは、どういうものだろう。「転がっていく言葉」と「それを見ている私」は、同一のものだ。「一つになって(一体になって)」「私」が転がっていく。こういうときの「間(ま)」には「悲しい」という感情がしのびこんでくる。
 「間(ま)」をつかわずに、言いなおしてみることはできないか。
 「言葉」と「私」は違うものである。しかし、それが「同じ」であるとしたら、そのうちのどちらかが「比喩」なのだ。
 ここから、私はさらに「誤読」する。
 「比喩」は「……のよう」。これを「時間/動詞」に重ね合わせるときは「……のように」になるかもしれない。

愛しているという言葉があなたへ転がっていく「ように」、
幼虫の部屋から蝶が飛び上がる「ように」、
洞窟から人が出てくる「ように」、
空の斜面から転げ落ちた一番星がまた上る「ように」、

 こう読みたい気持ちなる。いま感じている不安、具体的には言えないけれど、「のように」という具合に、どうしても何かを言わずにはいられない不安。
 客観化できない何か、計測できない何かが、「ように」と「間(ま)」ということばのなかで重なるように動く。

別れという言葉が返ってくるのを恐れる太陽は丸く消えて
愛のように悲しい顔がよぎる

 「間」ということばを持たないこの二行はどうなるのか。
 「間」ということばは持たないが、私が「間」を「読み替えた」ときのことば「ように」がある。「愛のように」。
 この「ように」は「間(ま/あいだ)」と言い換えられないか。「愛」は「名詞」だが、それを「動詞」にして「間」をつかって言いなおすとどうなるのだろうか。つまり「時間」と言いなおすと、どうなるだろうか。

別れという言葉が返ってくるのを恐れる太陽は丸く消えて
愛する「時間」を悲しい顔がよぎる

 愛しているけれど、それが報われず、別れが現実のものになり、私の「時間」が「悲しい」ものになる。私とあなたの「間(あいだ/ま)」に、悲しいものがしのびこんでくる。別れの予感の中で(予感する時間のなかで)、私はやがて消えていく。いつかは沈む「太陽のように」。
 「比喩」にしてしか語れない何かを、賢明に語ろうとしている感じがする。
 「意味」ではなく、「感じ」が「手触りのあるもの」として、そこにある。

 二篇だけでは、キーワードがつかみきれないが、何か「比喩」と「間」の認識が交錯していることばの運動を感じる。
 韓国語に「間(ま)」ということばがあるかどうか、私は知らない。それを「間(あいだ)」とどう区別しているかもわからないのだが、私に日本人であり、「間(あいだ)」も「間(ま)」もほとんど無意識に区別してつかっている。だから、こういう読み方になる。
 こういうことを韓国人と話すことができれば、詩人フェスティバルという交流の場はとても刺戟的になると思うが、「ことばの壁」がたちはだかる。



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石田瑞穂「小鳥たちの手紙」、杉本真維子「拍手」

2017-09-24 12:37:26 | 詩(雑誌・同人誌)
石田瑞穂「小鳥たちの手紙」、杉本真維子「拍手」(2017年09月15日、韓中日詩人フェスティバル)

 石田瑞穂「小鳥たちの手紙」の朗読を聞いた。聞きながら、石田は、詩を書くとき「読む(聞かせる)」ことを前提にして書いているのか、書いたものをたまたま読んだのか、という疑問にとらわれた。
 私は「黙読派」である。朗読はしたいと思わないし、聞きたいとも思わない。私は音痴だ。つまり、耳が悪い。聞こえた音を正確に肉体の中に取り入れ、それを反復することができない。文字で、つっかえ、つっかえ、時には途中で引き返したりして読む。そういうことが「肉体」にしみついている。「朗読」を聞いていると、そういう「引き返し」ができない。だから困ってしまう。

 石田の詩には、読んでもわからないし、聞けばもっとわからないような部分がある。

返事が遅れてしまったのは
きみの書いてくれた手紙をここ
フランスの臍にして
漂鳥の都
ブールジュにエアメールで転送してもらったからです

 「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」には「比喩」(言い直し)がつづけざまにふたつ出てくる。「臍」と「漂鳥の都」。目で読めば、かろうじて意味が取れる。耳で聞いただけでは、私は混乱する。「臍にして」の「……にして」という言い方が、私の感覚では「文語」。目で読んでも、古くささにぎょっとするが、聞いただけでは首をかしげてしまう。「ヘソニシテ」という地名かと思ってしまう。
 比喩をふたつもはさむのは、「口語(声)」のことばにしては無理があると思う。だから、私は、この詩は「読むこと(朗読)」を前提としては書かれていないと感じた。
 ただ、黙読派の私の感覚からすると、それにつづく数行は非常に気持ちが悪い。(「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」も気持ちが悪いのだが。)

子午線のこちら側はAM2時
一時間ほど前にベッドにもぐりこんだのですが
きみの手紙を想うと眠れず
バンショー
(シナモンスティックを入れたホットワイン
お隣のブドウ畑で収穫したもの)を注いで
紙のレコードを聴くように
もう一度
君の音信を聴き返しています

 句読点がないので、石田の「文体」の意識を正確にとらえていないかもしれないが、いま引用した部分は「一文」だと思う。長い。そして、うねる。
 「手紙」が「紙」ということばから「紙のレコード」に変化し、「レコードを聴く」が「音信を聴く」へとつながっていく。この連続感、動いていく感じはとても技巧的だ。これも「聞かせる」というよりも「読ませる」ものだと思う。だからこそ「レコード」という古いことばがつかわれるのだと思う。「レコード」なんて、私は沢田研二の「勝手にしやがれ」の「夜というのに派手なレコードかけて」以来、耳で聞いた記憶がない。いや、それ、以後、どこで「レコード」ということばがつかわれているか、聞いた記憶を思い出せない。
 こんなことば、いまは、だれも言わないぞ。(もっとも、またレコードブームで、新しいことばなのかもしれないけれど。これからまた復活してくることばなのかもしれないが。)これも、「書きことば」ならではのものだと思った。
 さらに、

日本のヤマギ ホオジロ
ヒヨドリに似た鳥たちが
庭に生えたオリーブを
次から次へ「音ずれ」ています

 「音ずれ」は「訪れ」である。小鳥の鳴き声の違い、音の違い、ずれを重ね合わせている。これは韓国語でどう翻訳されているのかわからないが、そのままでは「耳」ではつかみきれないものを含んでいる。
 日本人が聞いても「訪れ」としか理解しないだろう。だから、ここも「朗読」というよりは「黙読」を前提として書いているように思う。
 でも、これを石田は「読む」のである。しかも、淡々と読むのではなく、身振りをまじえ、音にも変化をつける。ことばのスピードが急にあがって、あ、何を言っているのだろうか、と思った瞬間、

ピル ピルルル ピョッピョ
ピウィー ピッピ

 小鳥の鳴きまねをする。私はカタカナ難読症で、実は、この部分を黙読したときは、どう読んでいいのかわからなかった。石田の声をとおして、はじめて、あっ、そうか、とわかった。いまは、かろうじて読むことができるが、石田の声を聞くまでは、読まずにすっ飛ばしていた。
 この部分を聞き、はじめて「朗読」のために書いたのかもしれないなあと思った。
 でも、最後の部分、石田は声をマイクにのせずに、何やら口だけ動かしていた。それは詩に書かれていないことばかもしれない。私はよくおぼえていないが、

小鳥たちの歌は
止んだ瞬間に
酢へてが聴こえてくるのですから

 までは、聞いたように記憶している。そのあとが「もごもご」読んでいるふり。

 で、ここからです。私がきょう書こうとしているのは。
 朗読が終わったあと、私は石田がやっているのは「朗読」ではなく「演技」なのだと思った。「朗読」以上のものを含んでいる。「読んでいるふり」の「ふり」。
 最後の口だけ動かすというのは、詩のつづきがある。それはまだことばになっていない、ということを語っているのかもしれない。「余韻」ということかもしれない。それを「演技」をとおして明らかにしている。
 押しつけている、と言ってもいいのだけれど。
 そして私は、この「押しつけ」が嫌いである。「朗読」を聴くのが嫌いなのも、「朗読」だと、どうしても「押しつけ」がまじってくる。「肉体」というのも、「声」というものは、もうそれだけで「感情」であり、そんなものを前面に出されては息苦しい。私はわがままなので、ことばは、私自身の好き勝手に読みたい。書いた人が何を感じて書いたか、何を思って書いたかには興味がない。そのことばから何を引き継ぎ、考えることができるか。そのことばを動かしていけば、どういうことが起きるのか、ということにしか関心がない。だから、作者からの「押しつけ」は、どんなものであっても、大嫌いなのだ。
 「演技」としての「押しつけ」。これは、石田の「朗読」だけではなく、「文字(書き言葉)」そのものにも含まれていると思う。「紙のレコード」という比喩の部分などに、それがあらわれていると思う。この比喩は、美しいといえば美しいのかもしれないけれど、私には非常に古い抒情の「押しつけ」に感じられてしまう。年代が違うからかもしれない。若い世代には「新鮮」かもしれないが。
 言い換えると、ことばすべてが「演技」している、という感じがする。ことばが「肉体」から出てくるとき、まっすぐに出てくるのではなく、ある種の「演技作法」にしたがって動いているという感じがする。
 「演技」が「感情」の動きを、一種の「作法」として明確にしたのか。石田の朗読は、韓国人聴衆(若い世代)に非常に好評だったということだった。(後日、フェスティバルの実行委員のような人が、そう語った。)

 少し、前後するが。
 石田の「音のない朗読」の部分で、私は映画「風の丘を越えて」を思い出した。パンソリの歌い手がいる。盲目である。彼女には弟がいる。その弟が姉を探し当て、パンソリを聞かせてくれと言う。太鼓をたたく。それにあわせて姉が歌う。弟には姉がわかっている。姉には弟がわかったか。たぶん、わかっただろう。昔,いっしょに歌い歩いていたのだから。このクライマックス、太鼓の音は聴こえるが、姉の声は聞こえない。かわりにフルートの音が流れる。しかし、それが姉の声に聴こえる。思わず鳴きそうになってしまう。
 その映画の主演女優が、そのとき「司会」をしていた。そういうこともあって、石田の朗読が、「演技」に見えたのかもしれない。



 同じステージで杉本真維子は「拍手」を朗読した。

背骨の、したのほうに、小さな、拍手がある
装置でも、偶然の、産物でもなくて
ある朝方、それをみつけて
スイッチを押したようだが、記憶はなかった、
博士の指示にしたがい
朝と夜だけ、多くても一日二回まで
という決まりだけは守った

 うーん、石田のことばが「文体」(連続することで明確になるもの)として「演技」を目指しているのに対して、杉本のことばは、ひとつひとつが「独立」するのことを目指しているように感じられる。一つ一つが、独自に「自己主張」する。その「自己主張」のどこかに共感すれば、杉本の肉体に近づいて行ける、ということだろう。
 私は「拍手」と「博士」の向き合い方に刺戟を受けた。対立というのではないが、同一でもない。向き合うことが「自己」と「他者」をうみだし、「自己主張」を明確にする。その感覚が「わたし」を動かしている。断絶しているのだが、間接的につながっている。「指示」ということばがあるが、それを「私」がうけとめるときにのみ生まれるつながりと、「背骨の、したのほう」という切り離せない「私」と「拍手」のつながりが交錯する。
 何が書いてあるのか、よくわからないが、そのわからないところに杉本がひとりの人間として「いる」ということを感じさせる朗読だった。



まどろみの島
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リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)

2017-09-24 09:57:58 | 映画
リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)

監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーターストン

 マイケル・ファスベンダーが善と悪の二役って、あ、これはもう「ターミネーター」じゃないか。「エイリアン」じゃなくて、「ターミネーター コヴェナント」。「コヴェナント」なんていうことばの意味は知らないけれどね。
 この続編はきっと、「エイリアン」をつくりだしたアンドロイドの動きを阻止するために、未来からあたらしいアンドロイドがやってくる、という映画になるなあ。
 創造に目覚めたアンドロイドが、完璧な生命体とは何か、と考え始める。理想(?)とする生命体の中に入り込みながら、DNA(?)を吸収し、自分を作り替えながら成長する、というのはなかなかおもしろいテーマというか、ストーリーだが、どうもうまく生かされていない。
 ストーリー(意味)が単純に二極化されているためである。善と悪は、愛と憎しみということばに言い換えられている。それが美と醜という形で視覚化、聴覚化されている。
 初代アンドロイドは、善というか、「完璧」なのものを教えられた。この世界には「完璧」がある。それを具現化しているのが初代アンドロイドである。でも、初代アンドロイドは、それをつくった男に愛されなかった。男が愛しているのは「完璧」なもの、たとえばワーグナーの音楽だった。アンドロイドに求められているのは「完璧」を再現し、提出すること。それが「仕事(義務)」だった。自分が愛されているわけではないと知ったアンドロイドが、愛に飢え、憎しみをつのらせていく。と書けば、これは「フランケンシュタイン」にもなるなあ。「フランケンシュタイン」が下敷きになっていることは、バイロンやシェリーが登場してくるところからも推測できる。
 映画好きには「ターミネーター」を、文学好きには「フランケンシュタイン」を連想させるというのが、狙いかもしれないけれどね。
 あるいは、映画にしろ何にしろ、あらゆる「芸術」というのは、何かに「寄生」しながら、「母体」を破壊し、生まれかわかることという「哲学」を語っているのかもしれない。「芸術」がそういうものであるから、リドリー・スコットが「ターミネーター」に寄生し、「フランケンシュタイン」に寄生し、「エイリアン」を改良していくのは、ごくごく自然なことなのであるけれど。
 どうも、ストーリーがというより、ストーリーを動かす「思考」が見え透いている。
 この「見え透いている」部分を、どう破壊するか。思いもかけなかったことを「映像」として提出するか、何を「破壊」するか、がいちばん問題なのだけれど。破壊することで、観客の「肉体」をどう刺戟するかが問題なのだけれど。「頭」にこのパズル解けるというような信号をいくら送られてもねえ。
 新しいことは、何もない。宇宙船をコントロールする「マザー」というコンピューターは「2001年宇宙の旅」の「HAL」そのものだし。エイリアンはすでに見ているし、体に侵入して、体を突き破って生まれるというのも見ているし、エイリアンを船外機に誘い出し宇宙に放出するというのも見ているし。いや、すでに「醜い」ものが「美しい」ものを凌駕して、こころを引きつけるというのは、「エイリアン」の出発点そのものであったしなあ……。
 初代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーが次世代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーにキスして始まる「混乱(闘争)」が、カンフー映画みたいになってしまったことが失敗なのかなあ。アンドロイドだから「混乱」しないというのが「基本」なのかもしれないが、「愛」というのは「混乱」から始まるものだからねえ。「混乱」のなかから、何を選び、自分を変えていくかが「愛」にとっていちばんおもしろい部分なのに、そこが省略されている。単なる「破壊ごっこ」(相手を殺す)に終わっている。
 いや、ラストシーンは違うぞ、という意見もあるだろうけれど、(透明カプセルに入ったエイリアンの胎児を口から出産するというのは、ちょっと新しいグロテスクだけれどね)、でもこの「ご都合主義」がいちばんおもしろくない。キャサリン・ウォーターストンが見たものは(気づいたことは)、アンドロイドが彼女を守ってくれていた(愛していてくれた)アンドロイドなのか、それとも初代のアンドロイドなのか、あるいは彼女を守ってくれていたアンドロイドの内部で何かが新しく生まれたのか(変質したのか)を観客にまかせて、「続編がありますよ」というのは、安直すぎる。
                        (2017年09月23日、中洲大洋1)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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安倍の戦略、韓国の戦略

2017-09-23 09:42:41 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の戦略、韓国の戦略
            自民党憲法改正草案を読む/番外117(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月22日、西部版・14版)3面。北朝鮮への対応が分かれている。
 見出しだけ抜き出すと、

米、北孤立化へ強硬/経済閉鎖/情勢緊迫化 ためらわず

 北朝鮮のミサイル開発によって国際情勢が緊迫化している。このため経済封鎖することをアメリカはためらわない。経済的に孤立化させることで、北朝鮮の動きを封じようというのである。
 いまは「強硬」姿勢だが、これが「強行」手段へと変化していくのは、ほとんど時間の問題のようにも見える。

 もう一本の記事には

日米韓連携 隙間風も/韓国の人道支援めぐり

 という見出し。韓国が8000万ドルの陣頭支援を打ち出した。国際機関を通じて乳幼児らへの医薬品の資金提供である。これに対して、安倍は不満をもっている。

首相は「いまは対話の局面ではない。圧力を損ないかねない行動は裂けるべきだ」と文氏(大統領)に慎重な対応を求めた。関係者によると、トランプ氏(大統領)は発言こそ控えたが、韓国人の人道支援決定に不満げな様子だった。

 この記事の中で(見出しの中で)私が注目したのは「孤立化」ということばである。「孤立」したときの、人間の行動は、どうなるかわからない。
 韓国はそのことがわかっているから、「人道的支援」で「孤立化」を防ごうとしている。どこかで「つながり」を残しておこうとしている。これは賢明な方法であると思う。
 交渉で危険を回避するというのが政治である。どうやって交渉パイプ(人的パイプ)を残しておくかは重要な問題である。
 安倍の頭はもう完全に「戦争モード」である。北朝鮮を壊滅させれば日本は安全になると思っている。いまがチャンスだと思っている。トランプをけしかけて、北朝鮮を壊滅させようとしている。いったん戦争が始まれば、たとえ金正恩が倒れたとしても、問題はどんどん拡大する。
 アメリカが先制攻撃をして、北朝鮮の核基地を「壊滅」させたと仮定しよう。もう、北朝鮮の「核の脅威」は消えたと仮定しよう。
 では、そのあと何が続いて起こるのか。
 すぐに「民主主義的な政権」が誕生し、北朝鮮は日本にとって(アメリカにとって)理想的な国家になるのか。
 そんなことはない。北朝鮮国内が混乱する。多くの「難民」が生まれる。彼らは北朝鮮であたらしい国家を自立することに力を注ぐというよりも、北朝鮮脱出をはかるだろう。韓国へ移動する。そして日本へも押し寄せるだろう。
 そうした人を受け入れる用意があるのか。
 安倍は、絶対に受け入れない。「敵国」の人間である、という理由で拒否するだろう。「難民」にだけ「人道的立場」で接するということは考えられない。
 日本国内においても、安倍とは考え方の違う人間を「こんな人たち」と呼ぶのが安倍である。
 「難民」を「孤立化」させてしまうだろう。それは「難民」がどんどん増えることに拍車をかける。
 目先のことだけではなく、政治家なのだから、「将来」のことを考えて世界をリードしなければならない。

 で。

 ここから少し話は「国際情勢」から離れるのだが。
 朝鮮人学校への「教育費無償化」の打ち切り。これは、日本国内でおきた「人道支援」の打ち切りであり、差別である。ひとは誰でも同じように教育を受ける権利を持っている。
 朝鮮人学校では、必ずしも日本にとって都合のいい教育だけが行われているわけではない。北朝鮮の政権を支持する教育も行われている、ということが「無償化」打ち切りのひとつの要素のように語られているが。
 うーむ。
 ここから安倍の打ち出している「教育無償化」の問題を考えると、どうなるか。
 たとえば日本の大学、日本人の教授が教え、日本人の学生しかないゼミ。そこで、安倍政権の問題点を究明するということが研究されたとするとどうなるのか。さらには、北朝鮮と連携して武力革命をおこすということを研究したとしたら、どうなるのか。それが実際の行動を伴わず、単に「理論」として研究したとしても、「無償化」は維持されるだろうか。打ち切られるだろう。
 これは、安倍にとって都合の悪いものを含む教育には経済的支援をしない、ということである。
 教育の自由を否定し、政権に都合のいい人間だけを育てる、ということである。
 
 反対意見の人間もいる、ということを大前提にしないといけない。
 人間はそれぞれ個別の存在であり、個を否定してはいけない。個人を孤立させずに、連携しなければならないという視点をいつももたないといけない。

 朝鮮人学校への教育無償化の打ち切りに対する在校生らの抗議、法廷闘争は日本では報じられているが、北朝鮮ではどうだろう。日本で報じられている以上に「大問題」としてとらえられているかもしれない。安倍政権は朝鮮人学校で学ぶ子供たちの権利を奪っている、激しく糾弾されているかもしれない。そんな差別的な政策をする安倍は許せない、という思いが渦巻いているかもしれない。人種差別は、世界への冒涜であるといわれているかもしれない。だから日本を攻撃してもかまわないと考える人がいるかもしれない。なんといっても、こどもは未来への宝、それを傷つけることは許されないと考える人がいても不思議ではない。
 差別は見えにくい。差別している人には、差別が特に見えにくい。もし、ある人が嫌いだとする。その場合は、差別するという行為が、もっと見えにくくなる。「当然」のこととして実行されたりする。
 身近な、「武器」をつかわない「弾圧」というものがある。そういうものを見つめ、何ができるかを探していかなければならない。できることを拡大していかないといけない。

 朝鮮学校への教育支援をつづける。そうすると、そこから育った生徒は、日本に対して感謝の気持ちをもつかもしれない。(もちろん、持たない人間もいるかもしれない。)もし誰かが感謝の気持ちを持つとしたら、そのひとは日本と北朝鮮との「人的パイプ」になりうる。小さなパイプ、細いパイプかもしれない。しかし、どこかで力を発揮するかもしれない。
 「人道」の力は強い。
 ひとが最終的にひかれるのは、「人柄」である。ひととひとが、無防備になってふれあうときの「あたたかさ」である。
 どんなときでも「人道支援」はとざしてはならない。人を「孤立」させてはならない。
 韓国の戦略は、私には正しいと思える。
 隣国の状況、その国民の状況は、私たち日本人以上に詳しいだろう。分断されていても、家族がいる。親族がいる。何らかの交流があり、日本からはわからないことがわかっているはずだ。
 遠いアメリカの「恐怖」をあおり、戦争をけしかけるのではなく、まず近くにいるひとの声を聞き、何が起きているか、何が必要なのか、それを探ることが大切だろう。
 韓国の声をもっと真剣に聞かないといけない。
 「日米韓に隙間風」ではなく、大きな亀裂が入っていると私は感じる。そして、その亀裂は安倍によって生み出されている。安倍がトランプをあおることで亀裂が生まれ、その亀裂は、韓国を「孤立」させることになるかもしれない。
 韓国は日本によって占領され、支配された時代がある。そしてアメリカの戦略によって(アメリカだけではないが)、南北に分断された歴史を持つ。北朝鮮を「壊滅」させることは、同胞を壊滅させることである。そんなことに、韓国の国民が簡単に「同意」するはずがない。
 もう一度書いておく。
 韓国こそが、この問題の鍵である。韓国の声をもっと真剣に聞く必要がある。韓国には、日本やアメリかが持たない「血のつながり(民族)」のパイプがある。それを生かす必要がある。そこに、きっと「糸口」がある。


 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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安倍の国連演説

2017-09-22 12:17:22 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の国連演説
            自民党憲法改正草案を読む/番外116(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月22日、西部版・14版)2面。安倍の国連演説の記事がある。

北との対話「無に帰した」/首相国連演説/米韓首脳と会談

 とても違和感がある。
 安倍は、北の、誰と対話したことがあるのだろうか。
 アントニオ猪木は、誰と対話したかわからないが、ともかく北朝鮮を訪問し、誰かと対話してきている。どんなときでも「対話」を閉ざしてはならない、と言って、単独で北朝鮮にわたっている。
 安倍は、トランプと対話しているだけではないか。

 安倍は「国際社会に圧力強化を訴えた」とも書いているが、「圧力強化」とはどういうことだろうか。
 対話をやめて、軍事行動をとるということか。

 北朝鮮はアメリカと向き合っている。ICBMの開発も水爆も、アメリカの「譲歩」を引き出すための方法である。北朝鮮のすぐとなりに韓国があり、米軍の基地がある。すぐ近くに日本があり、米軍の基地がある。これは北朝鮮にとっては、たいへんな脅威だろう。ソ連(当時)がキューバにミサイルを持ち込もうとしたとき、アメリカ(ケネディ大統領)は非常に危機感を抱いた。アメリカ本土のすぐ近くにミサイル基地ができる。ソ連にミサイル基地があるのとは状況が違う。おなじ恐怖を北朝鮮が感じているのは明らかだろう。
 ひとは誰でも、自分自身の恐怖には敏感だが、他人の恐怖には鈍感である。

 こんな具合に考えてみよう。
 一軒、家を挟んで暴力団の事務所がある。暴力団は拳銃やさまざまな武器をもっている。なんでもバズーカ砲まで手に入れたらしい。襲われないように、やっぱり拳銃を持たなきゃ、と家族がどこかからか拳銃を手に入れてきた。それで安心できる? 私はむしろ逆である。ピストルをもっていることがわかったら、逆に暴力団が襲ってきはしないか。何にも持たない方がいいんじゃないだろうか。
 どんなに時間がかかっても、近所で暮らしているのだから、みんながこのまま安心できるように、危険なもの(武器)を持つのはやめようと、訴えつづけるしかないのではないか。
 でも、だれが、それじゃあ、暴力団事務所へ行って、「危険なことはやめてください」と訴える?
 そういうことをするのが、家族の代表、たとえば父親だったり、母親だったりする。こういうときこそ、変な言い方だが「家長制度」がのさばってもいい。
 そう考えると。
 やっぱり、ここは安倍が(なんといっても「最高責任者」が)北朝鮮に直接出かけて、直談判すべきなのでは。
 「親分」は会ってくれないかもしれない。下っぱが出てきて、銃をチラつかせ、帰れとすごむかもしれない。でも、出かけていって、対話を試みるというのが、国民から選ばれた「責任者」の仕事では?
 だいたいねえ、アメリカの核に守られているから核禁止条約には賛成できないといっておいて、アメリカと対立している北朝鮮が核を開発するのは許せないというのは、「論理」として成り立たないのでは? 核兵器には反対する。アメリカの核であろうが、北朝鮮の核であろうが、全ての核に反対すると言わない限り、「二枚舌」。そんな人間は信頼されない。
 自分の家に拳銃を隠しておいて、暴力団に「怖いから拳銃を持つのはやめて」とお願いしても、応じてくれるはずがない。「おまえが拳銃をもっているなら、おれだって持つ。おまえが我が家に強盗に入らないという保障はどこにある?」と言われるだけだろう。

 核禁止条約に署名する。いまある核を一個ずつでも削減する。そういう状況をつくりだして、それから北朝鮮と交渉するのが「対話」ではないのか。それは被爆国の責務ではないのか。

 拉致問題にしても、安倍が拉致問題で北朝鮮を行ったのはいつ? 最初の被害者帰国のときに行っただけではないか。
 横田めぐみさんひとりのために北朝鮮に行くことはできない、と安倍は言うかもしれない。けれど、ひとりのためであっても、行ってほしい、救出してほしいと願っている人がいるはずだ。
 「熱意」が必要なのだ。
 安倍は、自分は安全な場所にいて、軍隊を指揮したい、戦争がしたいと言っているだけに見える。その戦争も自分ひとりでは怖いから、みんなで北朝鮮と戦争しようと言っているように見える。アメリカといっしょに戦争すれば、アメリかが守ってくれる。戦争するな、トランプがいるいましかない、と考えているとしか思えない。

 同じ紙面に、

北に人道的支援800万ドル/韓国決定/制裁に逆行 批判も

 という記事がある。
 たしかに制裁措置には逆行するとしか見えないかもしれないが。
 韓国は北朝鮮と直接接している。隣国である。そして同じ民族である。直接となりにいるひとにしか見えないこともある。壁を接している部屋からしかうかがいしれない隣人の事情というものもあるだろう。それが韓国にはわかるということがあるかもしれない。
 そうであるなら、まず、直接国境を接している国の意見、同じ民族の意見をじっくり聞いてみる必要もあるのではないだろうか。
 批判は簡単だが、批判ではなく、「対話」をこそしてほしい。
 北朝鮮とも、韓国とも。
 アメリカよりも、まずその二国と安倍は対話をしてほしい。

 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』

2017-09-22 10:14:40 | 詩集
天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』(響文社、2015年05月15日発行)

 『2017韓中日詩選集』に収録されている天童大人の作品はメッセージが強すぎて、私にはあまりおもしろく感じられない。選んだ人の好み(韓国人の好み)が反映しているのかもしれない。韓国の詩人の詩には「意味」が強いものが多い。「意味の動き」で論理を動かし、感情に近づいてくることばが多い。まあ、こういうことは、そのときの印象なので、あすは違ったことを書くかもしれないが。
 天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』は少し古い詩集。ヨーロッパを放浪(?)したときのことが書かれている。
 私がひかれるのは、次のような連。

川の流れに沿った断崖絶壁
を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ
リエバナ一体の中心の村ポーテスから
日に数回 大西洋岸の町ウンケイラへ
の路線バスは世界への唯一の道

 風景の描写と説明。その「ことば」のつながり方に、どきどきする。二行目の「を」、五行目の「の」位置に、ああ、そうか、とこころが動く。
 散文(あるいは、学校教科書の「ことば」のつなぎ方)では「を」「の」は文頭へ来ることはない。あくまで先行することばのあとに置かれる。このあとに、まだことばがありますよ、と事前に知らせるのが「を」や「の」なのだ。
 でも、天童は、そういう書き方をしていない。
 このとき天童の「肉体」は何を見ているのか。何をつかんでいるのか。

川の流れに沿った断崖絶壁

 がまず最初にある。それを見る。しっかりとつかむ。「川の流れ」になって断崖絶壁に触れるのか、「断崖絶壁」になって川の流れを見るのか。流れる水の音を聴くのか。どちらであってもいいが、この一行のなかで「世界」は一瞬完結する。
 世界が完結したあと、新しい世界がまた始まる。ひとつの世界から、別のひとつの世界へ動いていく。その「動き」そのもの、「飛躍」を「を」がつないでいる。
 「川の流れ」(永遠の時間と自然の力)が、川岸を「断崖絶壁」に変える。水(の流れ)と時間、風や雨も含まれるだろうが、そういうものが「岩」を削り、「断崖絶壁にした」。そこにある「永遠の時間と運動」を「肉体」でつかみとる。そこから「彫る」とか「削る」とかいう「肉体」で再現できる動きが、「肉体」のなかでうごめき、

を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ

 という「彫る」「削る」ということばといっしょに世界を出現させる。それは単に目で見える風景ではなく、「肉体」と深くつながる風景である。天童の「肉体」が目覚めて、世界の中で動いている。
 このときの「目覚め」の驚きが「を」にある。行頭にある。「行末」では、驚き、目覚め、目覚めることによって飛躍していく感じが消えてしまう。行頭にあるから、この印象が生まれる。
 いったん完結した世界の、その世界の奥にある肉体を引っ張りだし、自分の肉体で反復し、拡大していく「起点」がそこにある。
 最初の一行を書くことによって、肉体の中で何かが目覚め、肉体を刺戟し、そのことに驚きながら次の世界に入っていくという感じが、「を」に集約している。最初から「世界」を知っているわけではない。肉体が動くことで世界が動き、その世界といっしょに「生まれ変わる」。そういうことが「を」に結晶している。
 「一車線」は、このあと「唯一の道」の「一」につながっていく。「一」は小さな数だが、そして最小の単位かもしれないが、小さいだけではない。
 「リエバナ一帯」というとき「一帯」は広がりをもっている。「中心」ということばがあるが「中心」と「周辺」をふくんだものが「一帯」。その「リエバナ」と「ウンケイラ」を結ぶとき、そこにまた「一本」の道が生まれる。「一」を発見する。
 その驚きがあって、五行目の「の」で始まることばがつづく。
 ことばの中に、世界を発見するときリズム、認識がことばになるときのリズムがそのまま動いている。
 こういう作品をこそ、天童の「声」で聞きたいと思った。
 肉体が、声(ことば)を発しながら、世界を発見し、自分のものにしていくという運動。発見したことを「ひとつ」にする声の響き、その運動をこそ聞いてみたいと私は思う。(天童の朗読を聞いたのは、今回が初めてだった。)

 ことばと肉体(声と耳とことば)、ことばと世界の認識については、次の部分が天童の姿を正直に描いている。

続いて入ってきた男
ウン ビノ ブランコ ポルファボール
主人はボトルからグラスに白ワインを注いだ

身近で話されている聲とコトバと
を聴いてはひとことずつ繰り返し
躰に覚えさせていく

 「ビノ ブランコ」とは何か。知らなくても、主人が「白ワイン」を注いだのだから「白ワイン」とわかる。「ウン ビノ ブランコ ポルファボール」と言えば白ワインがのめるのだ。声を(聲、と「耳」の文字を含む表記を天童はつかっている)聴いて(ここにも「耳」がある)、それを繰り返す。つまり天童自身の「肉体(舌、喉)」を動かして再現するということを繰り返して、おぼえる。「頭」でおぼえるのではなく「躰に覚えさせていく」。
 最初の詩にもどると。

川の流れに沿った断崖絶壁
を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ

 これも「肉体」による「声」の繰り返し(反復)なのである。
 川が流れる。その水の「肉体」。水が「岩」を削る。そのときの「無言の声」は、手で何かを「彫る」「削る」ときの、人間の「無言の声」になる。「ビノ ブランコ」は聞こえる声だが、そのことばを言うときにだって「無言の声」がある。バルの主人に対するめくばせ、カウンター(テーブル)に近づいていくときの足取り。「肉体の声」がある。ひとは、そういうものを含めて聞き取る。
 水が一本の川になって流れるなら、ひとは手で一本の道を刻んで作る。そこに「無言の声」の響きあいがある。
 音楽がある。
 私たちは、こういう「無音」の音楽を聴きながら、「無音」の音楽となって生きている。
 「肉体」でつかみ、「肉体」で「おぼえる」。「肉体」で「おぼえたこと」というのは、忘れることができない。肉体はいつでも「音楽」であり、そこには「和音」がある。それは人を支えてくれている。
 自転車に乗れるひとは、長い間自転車に乗っていなくても、倒れずに自転車をこげる。泳げるひとは、長い間泳いでいなくても溺れることはない。「肉体」はおぼえたことを忘れないのだ。
 ことばも「肉体」でおぼえれば忘れない。「頭」でおぼえれば「頭」から逃げていくことがあるが、ことばは「肉体」から逃げていくことはない。

 余談だが、ある朝、天童が朝食の席で女性と話している。聞くつもりはなかったが、天童の声が大きいので話が聞こえてくる。その会話の中で、天童は「エステアニョ」と言いかけて「ジィスイヤー」と言いなおした。「エステ」がくっきりと聞こえてきた。「エステ」が他のことば(英語)とは違って、真っ直ぐに声になって飛び出していた。その響きに強烈な力があった。スペイン語が「肉体」にしみついている。「肉体」でおぼえてしまっている。英語は頭で理解しているが、スペイン語は肉体でつかんでいるのだ。
 引用した詩のそのままに、天童は生きてきたのだ。
 偶然に聞いてしまった「エステ」に天童の「思想(肉体)」を感じたというと、詩人への感想にはならないか。
 いや、なるだろうなあ。

長編詩 ピコ・デ・ヨーロッパの雪 (詩人の聲叢書1)
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