野村喜和夫「他者の泉」、海埜今日子「《耳塔》 陶、二〇〇〇年」(「hotel 第2章」19、2008年04月15日発行)
野村喜和夫はだんだいアナーキーになってきた。晩年のピカソ(私は大好きだ)みたいに、歯止めがきかなくなるとおもしろいと思う。
「他者の泉」の書き出し。
「キイワード」は「ほんうとに」(ほんとう)である。「ほんとうに」ということばを前置きにつかうから、野村は楽々と嘘(虚構)を書くことができる。アナーキーになることができる。おとぎ話の「昔々、あるところに……」の「昔々」と同じで、「ほんとう」というのはこれから語ることは、「いま」「ここ」とは無関係であるとつげる方便である。
「いま」「ここ」に「ほんとう」などはない。「いま」「ここ」にあるものは「仮」のものである。「ほんとう」(真実)は、直接触れることができない。常に隠れ続けているのが「ほんとう」なのである。「私は(あなたは)こんなふうだけれど、ほんとうは……」というときの「ほんとう」ほどこころをくすぐるものはないが、私たちはその「ほんとう」のようなものをことばにできずにあがいている。「ほんとう」は「こんなふうにみえるけれど……」という陰にこそ存在する。
野村は、奇妙な「物語」を展開する。しかし、それは奇妙で、非現実的ではあるが、「ほんとうは……」という「罠」を含んでいるのである。
「桃太郎」が桃から生まれたというのはと「ほんとう」ではない。鬼退治をしたというのは「ほんとう」ではない。「ほんとう」は、それは純真な力、命のことを語るための方便である云々(というのが正しいかどうかわからないが)。「ほんとう」は、語られたことばの奥にある。「真意」(哲学)はも「物語」とは別のことばでこそ語られるものである。
「物語」にはいろいろなことが起きるが、「ほんとうは」、この物語の事件は、これこれの象徴である。「ほんとうは」これこれの揶揄である。「ほんとうは」これこれの哲学的置換である云々。まあ、なんでもいいのだが、そんな世界へ読者を誘い込むために、「ほんとう」ということばで「嘘」を強調する。
「ほんとう」といわれて、それをそのまま「ほんとう」と信じるほど、人間は真っ正直ではない。「ほんとう」と言われれば、「嘘」をつきはじめている、と疑る。そういう精神構造を野村は利用して「ほんとう」ということばを一回かぎり使い(この作品の引用部分に出てくるだけである)、「嘘」を並べ立て、「嘘」の背後を読者に探らせる。
--というのも、ほんとうは、嘘かもしれない。
どんな「嘘」でも「事実」を含まないと推進力がなくなるから、たしかに「物語」の「嘘」のなかには「真実」(ほんとう)はあるといえばあるのだろうけれど、そういうものは無意味である。野村は「ほんとう」と語ることで、「嘘」を楽々と語る方法、「物語」の楽しみ、読者をたぶらかす楽しみを手に入れ、それをアナーキーに楽しんでいるだけなのだ。
野村がばらまいていることば、そのなかの「妻」だとか「女」だとか「下着」だとか、はたまたは「水姦」という造語だとかに反応して、そこから何かを語りはじめれば、それは野村を語ることになるのではなく、そのことばに反応した読者自身の「ほんとう」を語ることになる。
野村は、そんなふうにして、読者に「自分を語ってよ」と誘いかけているのでもある。
言い換えれば、そんなふうにして読者に「詩人になれ」と語りかけているのでもある。
詩は、もうどこにもない。すべてはことばになってしまっている。詩が存在するとしたら、まだ語ることをはじめていない読者の側にしかない。その、永遠にあらわれない読者に向けて、野村は絶望的にアナーキーになる。
--これが、ほんとうのことかもしれない。
永遠にあらわれない読者に対してアナーキーなことばを発射し続ける。そのアナーキーが、なぜか、詩の希望として輝く--そういう矛盾のなかで、野村のことばは動いている。
ことばは、野村が書いているような運動をすることができる。それはたしかだ。たしかに動くことができる。動いた結果が、野村の作品としてそこにあるのだから、それ以上の「証明」はない。
だが、このアナーキーなエネルギーが、詩を読まない読者にどう届くのか、そのことは私にはわからない。もとより詩を読まないひとは、野村の作品があることなど知らない。「hotel 」の存在も知らない。それでも書かずにはいられない。そのエネルギー、ことばへの愛着--その強さが頼もしい。
読者なんか、詩なんか、「ほんとうは」どうでもいい。野村は、ただことばが大好きなのだ。その大好きだけが、あふれかえれば、それでいい。ピカソが、絵が大好きだったように。ただ「大好き」だけがあふれかえれば、それでいい。ほかのことは関係がない。「大好き」なのもの以外は何も関係がない--という「思想」ほど、アナーキーなものはない。
*
海埜今日子「《耳塔》 陶、二〇〇〇年」も、またことばが大好きである。(ことばが大好きでない指示はいないけれど。)そして、その大好きという気持ちが余ってしまって(?)、ことばをゆさぶりつづける。「ねえ、あなたはこういうことばだけれど、ほんとうはこういうことばだったんじゃない?」という具合である。ことばのそれぞれに対して、「流通している意味」とは違った意味がある、ほんとうは「これこれのことがらとつながっている」という「流通」以外の脇道を指し示し、その「脇道」ことが「ほんとう」なのではないか、と揺さぶる。(別なことばで言えば、常に「流通言語」を揺さぶる--ということであるが……。)
「うねりますね、うずめますか」。「うねる」と「うずめる」。ふたつのことばが、まるで同義のように並べられる。その瞬間、うねっているものの底に何かがうまっている、という感じがしてくる。たとえば畑の畝。うねり。その畝のなかには種がうまっている。命がうごめいている。感情のうねり。その奥には、感情をうねらせてしまう何か歪んだ欲望(別の思い)がうまっている。そういう意識が、ことばが並べられることで、浮き上がってくる。
ことばを、「流通」の「意味」から解き放ち、ゆさぶりそのものが全体に伝わるように、海埜は「ひらがな」を多用する。漢字として「意味」が固まる前の、「おと」のつらなりへと返し、「おと」のなかで失われた「手」を探す。
これを「流通言語」が「流通」の枠を外され、アナーキーになってい、と呼ぶこともできると思う。
野村喜和夫はだんだいアナーキーになってきた。晩年のピカソ(私は大好きだ)みたいに、歯止めがきかなくなるとおもしろいと思う。
「他者の泉」の書き出し。
生まれやまぬ他者の泉、私はそこに近づき、手をのばす。すると泉からほんとうに他者があらわれて、汲もうとする私の手をするりと抜けてゆく。
「キイワード」は「ほんうとに」(ほんとう)である。「ほんとうに」ということばを前置きにつかうから、野村は楽々と嘘(虚構)を書くことができる。アナーキーになることができる。おとぎ話の「昔々、あるところに……」の「昔々」と同じで、「ほんとう」というのはこれから語ることは、「いま」「ここ」とは無関係であるとつげる方便である。
「いま」「ここ」に「ほんとう」などはない。「いま」「ここ」にあるものは「仮」のものである。「ほんとう」(真実)は、直接触れることができない。常に隠れ続けているのが「ほんとう」なのである。「私は(あなたは)こんなふうだけれど、ほんとうは……」というときの「ほんとう」ほどこころをくすぐるものはないが、私たちはその「ほんとう」のようなものをことばにできずにあがいている。「ほんとう」は「こんなふうにみえるけれど……」という陰にこそ存在する。
野村は、奇妙な「物語」を展開する。しかし、それは奇妙で、非現実的ではあるが、「ほんとうは……」という「罠」を含んでいるのである。
「桃太郎」が桃から生まれたというのはと「ほんとう」ではない。鬼退治をしたというのは「ほんとう」ではない。「ほんとう」は、それは純真な力、命のことを語るための方便である云々(というのが正しいかどうかわからないが)。「ほんとう」は、語られたことばの奥にある。「真意」(哲学)はも「物語」とは別のことばでこそ語られるものである。
「物語」にはいろいろなことが起きるが、「ほんとうは」、この物語の事件は、これこれの象徴である。「ほんとうは」これこれの揶揄である。「ほんとうは」これこれの哲学的置換である云々。まあ、なんでもいいのだが、そんな世界へ読者を誘い込むために、「ほんとう」ということばで「嘘」を強調する。
「ほんとう」といわれて、それをそのまま「ほんとう」と信じるほど、人間は真っ正直ではない。「ほんとう」と言われれば、「嘘」をつきはじめている、と疑る。そういう精神構造を野村は利用して「ほんとう」ということばを一回かぎり使い(この作品の引用部分に出てくるだけである)、「嘘」を並べ立て、「嘘」の背後を読者に探らせる。
--というのも、ほんとうは、嘘かもしれない。
どんな「嘘」でも「事実」を含まないと推進力がなくなるから、たしかに「物語」の「嘘」のなかには「真実」(ほんとう)はあるといえばあるのだろうけれど、そういうものは無意味である。野村は「ほんとう」と語ることで、「嘘」を楽々と語る方法、「物語」の楽しみ、読者をたぶらかす楽しみを手に入れ、それをアナーキーに楽しんでいるだけなのだ。
野村がばらまいていることば、そのなかの「妻」だとか「女」だとか「下着」だとか、はたまたは「水姦」という造語だとかに反応して、そこから何かを語りはじめれば、それは野村を語ることになるのではなく、そのことばに反応した読者自身の「ほんとう」を語ることになる。
野村は、そんなふうにして、読者に「自分を語ってよ」と誘いかけているのでもある。
言い換えれば、そんなふうにして読者に「詩人になれ」と語りかけているのでもある。
詩は、もうどこにもない。すべてはことばになってしまっている。詩が存在するとしたら、まだ語ることをはじめていない読者の側にしかない。その、永遠にあらわれない読者に向けて、野村は絶望的にアナーキーになる。
--これが、ほんとうのことかもしれない。
永遠にあらわれない読者に対してアナーキーなことばを発射し続ける。そのアナーキーが、なぜか、詩の希望として輝く--そういう矛盾のなかで、野村のことばは動いている。
ことばは、野村が書いているような運動をすることができる。それはたしかだ。たしかに動くことができる。動いた結果が、野村の作品としてそこにあるのだから、それ以上の「証明」はない。
だが、このアナーキーなエネルギーが、詩を読まない読者にどう届くのか、そのことは私にはわからない。もとより詩を読まないひとは、野村の作品があることなど知らない。「hotel 」の存在も知らない。それでも書かずにはいられない。そのエネルギー、ことばへの愛着--その強さが頼もしい。
読者なんか、詩なんか、「ほんとうは」どうでもいい。野村は、ただことばが大好きなのだ。その大好きだけが、あふれかえれば、それでいい。ピカソが、絵が大好きだったように。ただ「大好き」だけがあふれかえれば、それでいい。ほかのことは関係がない。「大好き」なのもの以外は何も関係がない--という「思想」ほど、アナーキーなものはない。
*
海埜今日子「《耳塔》 陶、二〇〇〇年」も、またことばが大好きである。(ことばが大好きでない指示はいないけれど。)そして、その大好きという気持ちが余ってしまって(?)、ことばをゆさぶりつづける。「ねえ、あなたはこういうことばだけれど、ほんとうはこういうことばだったんじゃない?」という具合である。ことばのそれぞれに対して、「流通している意味」とは違った意味がある、ほんとうは「これこれのことがらとつながっている」という「流通」以外の脇道を指し示し、その「脇道」ことが「ほんとう」なのではないか、と揺さぶる。(別なことばで言えば、常に「流通言語」を揺さぶる--ということであるが……。)
ざっとうを耳にたらしながら、つまりかんたいとぞうおをふちゃくさせ、うねりますね、うずめますか、あのひとはどきどきするほどあたしたちをはがし、てんとうさせ、かんじょうをもしったそぶりで、まずは手を、だいちのこんせきにむけてのようにおいたのだった。
「うねりますね、うずめますか」。「うねる」と「うずめる」。ふたつのことばが、まるで同義のように並べられる。その瞬間、うねっているものの底に何かがうまっている、という感じがしてくる。たとえば畑の畝。うねり。その畝のなかには種がうまっている。命がうごめいている。感情のうねり。その奥には、感情をうねらせてしまう何か歪んだ欲望(別の思い)がうまっている。そういう意識が、ことばが並べられることで、浮き上がってくる。
ことばを、「流通」の「意味」から解き放ち、ゆさぶりそのものが全体に伝わるように、海埜は「ひらがな」を多用する。漢字として「意味」が固まる前の、「おと」のつらなりへと返し、「おと」のなかで失われた「手」を探す。
これを「流通言語」が「流通」の枠を外され、アナーキーになってい、と呼ぶこともできると思う。
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