詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柳本々々「身体ってすごくおおごとなきがするよ」、八木獅虎「父と息子」

2016-06-07 08:53:05 | 詩(雑誌・同人誌)
柳本々々「身体ってすごくおおごとなきがするよ」、八木獅虎「父と息子」(「現代詩手帖」2016年06月号)

 「現代詩手帖」の「新人作品」の選者が交代した。06月号からは廿楽順治と日和聡子。二人はどんな作品を選ぶのだろうか。
 二人の選んだ作品の中から、少し、感想を書いてみる。

 柳本々々「身体ってすごくおおごとなきがするよ」は二連目がおもしろい。セックスが終わったあと(?)、眠っている。となりに「あなた」(男かな、女かも)が眠ってるが、「わたし」は目を覚ましている。

むっくりとおきあがったあなたが水をのみに
いくのがわかった  くうかんががさがさと
音をたてるのがわかってあなたよりもわたし
はくうかんとずっと一緒にくらしてきたのだ
とわかった

 ここは「わたし」の部屋、だから「あなた」よりは「わたし」の方が「空間/空気」になれている。だけではなく、「空間/空気」の方も「わたし」になれているが、「あなた」にはなれていない。そのために「あなた」が動くと「空間/空気」はざわつく。この「わたし」と「空間/空気」の「主語」の入れ替わりが、とてもおもしろい。
 「肉体」は「皮膚」の内側だけではないのだ。「空間/空気」も「肉体」なのだ。
 これを柳本は「わかった」と書いている。
 一連五行の中に「わかった」が三回も出てくるのだが、この「わかった」は、何と言えばいいのか、「頭」で「わかる/理解する」ということではなく、「肉体」の「反応」のようなものだ。「生理反応」のようなものだ。「頭」では拒絶できない。「わからない」と、言うことができない。「わかる」しかない。
 あえてことばを探して言い直せば、

くうかんとずっと一緒にくらしてきた

 このことばのなかにある「一緒」かな。「一緒」のなかの「一」、言い換えると「ひとつ」。「ひとつ」のものが、あるときは「わたし」になり、「空間(わたしの肉体の外側?)」になる。「わたしの肉体の外側」もまた「わたし」なので、その「わたし」をかきわけるようにして「あなた」が動く(水を飲みに行く)と、「外側であるわたし」に触れで「がさがさ」が生まれる。
 「わたし」の「一元論」を「あなた」が攪拌する、という感じ。
 「一元論」では、あらゆるものが「分節」された瞬間に、存在として生まれる。生まれることで、存在し、それが「わかる」。生まれるまでは(未分節の状態)では、まだ「わからない」。
 「わからなかったこと」(無意識のまま、「一つ」になっていたもの/こと)が、「肉体」の「動き」にかわる。それが「わかる」ということ。
 それが「わかった」「わかった」「わかった」ということばになる。「わかった」ということばは一緒に「あなた」「わたし」「くうかん」が新しい存在(事件)として生まれてきている。
 読みながら興奮してしまった。
 で、興奮したからこそ書くのだが、三連目

実はねあの手紙をみたのとあなたがいう
あなたのおおぶりなてやあしをみているうち
にただそれがあることだけが歴史的なんだと
わたしにはおもわれる

 「歴史的」がつまらない。「わかった」が「おもわれる」と変化するのも、つまらない。「おもう」は、「肉体」のどの部分(器官)で「おもう」のか。「頭」か「心(胸)」か。よくわからないが、「おもう」は「わかった/わかる」とは違うなあ。「おもう」ではなく「おもわれる」という他人事のようなことばの動きも興ざめするなあ。
 二連目の「くうかん」と「肉体」の「一体感」が消えてしまっている。



 八木獅虎「父と息子」は、ことばのなかに「肉体」がしっかりと動いている。

たった一週間で病人の目つきになった
病床は
信じられないほどかたい
なのにまだ
人としてのなにかを吸いとっていくらしい
点滴の速度で

 「なにか」とは何か。他のことばで言えない。しかし、「なにか」と言った瞬間に、それが「なにか」わかる。「わかる」のだけれど、それは「なにか」でしかない。禅問答のようになってしまうが、ここに柳本の書いたような「歴史的」というような、すでに存在していることばをもってくると全部が違ってしまう。だから、既存のことばをもってくるのではなく、不確定な「なにか」ということばをつかうしかないのだが、その不確かさを不確かなままつかみとっていることばが、すごい。
 一行目の「病人の目つきになった」の「なる」という動詞が、この連を深いところで動かしている。「なる」というのは変化である。そして、その変化には「結論」がない。いや、「病気→死」という絶対的な「結論」があるのは「わかっている」のだが、その「わかっている」はずの変化の一刻一刻が「わからない」。「肉体」では感じるし、「わかる/わかっている」と言えるのに、それをことばにはできない。
 だから、比喩として「点滴の速度」と言ってみたりする。
 「点滴」は「肉体」に栄養を補う。それは「吸いとっていく」という動きとは逆。だから「点滴の速度」というときの「点滴」という「比喩」そのものは間違っているのだが、それが「間違っている」からこそ、ことばにならない「なにか」の真実をつかんでいることになる。「頭」で考えると「間違っている」のだが、「肉体」でつかみとるときは、ただ「わかる」何かなのである。
 この「肉体」がわかる「なにか」を「父と息子」は共有している。

おそろしく平らかな表情で
よく来たな、とはいわないが
気をつけて帰れよ、とはいう

また来いよ、とはいわれなくても
また来るから、という

 この「呼吸」。ことばの呼吸。ことばは「肉体」になって、つながっている。「父と息子」は別個の人間だが、それはたまたま、そのように「分節」されてきているだけである。父は息子であり、息子は父である。区別がない。
 完璧な短編小説よりも破壊力の強い詩である。
現代詩手帖 2016年 06 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

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