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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬尾育生「密滑」

2007-08-31 21:33:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 瀬尾育生「密滑」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 「密滑」ということばがあるかどうか私は知らない。私の持っている小さな漢和辞典で「密」の熟語を探してみたが載っていない。「出典」のあることばだとしても、それを知っている人が多いとは思えない。
 その1行目。

散在的輝射。向外性隣的当質輪郭性。

 「散在」「輪郭」という知っていることばもあるけれど、だからといって、それが「散在」「輪郭」と読ませるのかどうかはわからない。私は私の知っていることばを中心にして「散在」「輪郭」ということばを抜き出したに過ぎない。
 「読む」というのは、自分の知っていることを探し出す作業であり、同時に、その知っていることを出発点にして知らないことを想像することである。

散在的輝射。向外性隣的当質輪郭性。

 輝くものがあちこちに散らばっている。そしてその輝きは何かを射るように光を放っている。その光のように、外へ外へと向かうもの。その輝きの放射のすぐ隣には(それに隣接する形で)、その放射と同じ質をもった輪郭が存在する。光の輝きは輪郭そのものである。--というようなことを、私は感じ取る。
 この私が感じ取ったものが、瀬尾の書こうとしているものと同じであるかどうかはわからない。瀬尾の意図とは無関係に、私はそういうものを感じてしまう。
 読み方も、意味もわからない。それなのに感じてしまう。なぜだろうか。漢字そのもの、漢字1字1字に対して私自身が何らかの「意味」をすでに知っているからである。
 瀬尾は、この、たいていの人が持っている漢字の理解力(?)を利用してことばを動かしている。ことばに自在な運動をさせている。
 ひらがなが混じっても同じである。

すべての有鶏冠は輪回層から始原発片を操甲し、
全環辺球の縁緑遠中を密離し、殻酸集の
実端より肺分肢区を指究する。

 何のこと? わからないのに、鶏の冠だの、首を切られた鶏が頭のないままかけだしたりするイメージが浮かぶ。同時に、しかし、ここに書いてあるのは鶏のとは関係ないな、という思いもする。私のイメージは瀬尾のイメージと違っているという印象が残る。そして、だからこそ、そこに「詩」を感じてしまう。
 私の想像しているものと違ったイメージがここでは動いている。それを瀬尾は漢字のイメージ喚起力を利用して展開している。イメージ喚起力そのものを強めるために、わざと新しい「熟語」を捏造している。その「捏造」を生み出す力--そこに「詩」を感じる。
 3連目の3行目。

逆再。開めねば。その逆再が帰。酸々。密滑して逆再。めねば。

 「閉めねば」なら読めるが、「開めねば」は私には読めない。誤植かな? と思うけれど葉、その行の最後の「めねば」という独立したことばを読むと、やはり「開めねば」なのだろう。
 熟語の捏造は、いわばことばの破壊である。その破壊を訓読みにまで瀬尾は拡げていることになる。

 瀬尾は、ことばを破壊すること(ことばをそれまでの文脈から切り離し、宙ぶらりんにすること)をもくろんでいる。その「宙ぶらりん」の場から、光がどこかへ突き進んで行くように、ことば自身が、それまでは行き着けなかったところへ突き進むことを願っているのだろ。
 いままでことばがたどりつけなかったところへことばが突き進む--瀬尾にとっては詩とはつねにそうした存在なのだ。


コメント (3)
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池井昌樹「眠れる旅人**」

2007-08-30 23:05:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「眠れる旅人**」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 4篇詩を書いている。その4篇目の詩「落日」がいままでの池井の詩とは印象が違う。

いい人生だ
魚鳥や獣(けもの)
いたいけな
いくたのいのち
すききらいなく喰ってきた
ここだけのはなし
ちちとははまで喰ってきた
あますところなく喰ってきた
おもいのこしたなにもない
けれどもときにおもうのだ
にこにこわらってくれたもの
わらってゆるしてくれたもの
ぼくによくにたものたちの
あのやさしさとほほえみを
たべられるものたべるもの
魚鳥や獣
いたいけな
いくたのいのち
ちちとはは
ちまみれな地球(ゆうひ)がひとつ
いましずむ
いい人生だ

 無数のいのちとつながっている。生きることは血のリレー。これは池井が繰り返し書いていることである。父と母を「喰ってきた」。それは抽象的な比喩ではない。池井にとっては「事実」である。そうした「事実」のはてに、

ちまみれな地球(ゆうひ)がひとつ
いましずむ

 この2行がいままでの池井を超越している。
 沈むのは太陽(夕陽)である--というのは地球と基本にした見方であって、ほんとうは地球が太陽のまわりを動いていて、そのために夕陽が沈んでいくと見えるだけだ、ということは誰もが知っている。動かないものが中心にあり、それを地球がまわっている。沈んでいくとしたら、それは地球なのだ。--そう言い換えると、ちょっと論理の「比喩」になってしまう。池井は、そういう「論理」を好まない。一気に宇宙と融合する。「地球」に「ゆうひ」とルビを打ってしまう。
 「地球」と「ゆうひ」を一体化(融合)させてしまう。その一体化のなかに、地球と太陽の実際の運動と見かけの運動をとけこませ、区別するのをやめてしまう。
 あらゆる存在はそれぞれ「関係」を持っている。親は子供を育てる。子供は親を育てる、ということもある。相互依存。そうした相互依存を、完全に溶け込ませてしまう。「相互」という区別をなくしてしまう。
 「関係」などというものは、どこにもない。そんなものは「見かけ」にすぎない。あるのはすべてが融合し、一体になった「宇宙」だけである。その宇宙の、中心でも、端っこでもなく、ただ広がりそのものとして、池井は「放心」する。
 池井にとっては、あらゆるものは「関係」を解き放たれて、ただそこに存在する。そうして、そこに存在するということだけで、宇宙そのものと「放心」のなかで共鳴しているのだ。

 すごい人生だ。「いい人生だ」という以外に、ほかにことばはない。

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和田まさ子「金魚」

2007-08-29 12:37:07 | 詩(雑誌・同人誌)
 和田まさ子「金魚」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 「新人作品」欄。蜂飼耳が「入選」に選んでいる。1連目がとてもおもしろい。3連目もおもしろい。

きのうから
藻の夢を見ると思っていたら
今日
わたしは金魚になっていた
同居のつた子さんも
いっしょに金魚になったのだが
つた子さんは
「わたしはもうこのへんであがるよ」
といって
にんげんに戻っていった

そのあと
わたしは金魚のままだった
金魚の体の
オレンジ色と白のバランスが
とってもよかったし
尾ひれが大きくて
ひらりひらりと
水の中でゆれるのが美しい
くねくねっと動くと
尾ひれもくねっと揺れる
水がねっとりと体にひっついてくる
充たされている感じが
よい

そうやって遊んでいると
「そこの金魚 もうあがってよ」
と、つた子さんがいった
「お風呂に入れないよ」
わたしはお風呂で泳いでいたのだ

 このあとさらに2連あるのだが、省略する。
 1連目がおもしろいのはスピードがあるからだ。藻→金魚のあと突然「同居のつた子さん」が登場する。そして「もうこのへんであがるよ」ということばとともに人間に戻る。このことばの動きのなかに、古い言い方かもしれないが「起承転結」がある。「転」は「同居のつた子さん」である。何の説明もない。なぜ同居しているのか、というようなことは省略して、突然「異物」(?)が侵入してきて、世界を変えてしまう。藻→金魚だけなら、「わたし」個人の夢だが、「つた子さん」が登場することで「夢」が破れる。閉鎖的な夢から開放的な夢にかわる。現実が夢に侵入してきて、夢の閉鎖性をこじ開ける。
 2連目は、せっかく破れた夢なのに、もとの夢にしがみついていてスピードがにぶっている。それが残念である。
 3連目は、もう一度スピードがあがる。詩全体の「転」の部分にあたるのだが、しかし、スピードが1連目に比べると重い。軽さがない。
 どうしてだろう。

と、つた子さんがいった

 この行の「いった」が説明しすぎている。そこでスピードが一気に鈍っている。「と、つた子さん」で「いった」を省くと印象ががらりと変わると思う。「そこの金魚 もうあがってよ」と「お風呂に入れないよ」の距離が密着し「つた子さん」という異物が侵入してきて夢をもう一度破っていく感じがする。「いった」と説明してしまうと、「つた子さん」が後ろに引いてしまって、「いった」ことの「内容」が前面に出てきて、重くなる。「転」になりきれないのだろうと思う。
 ここでスピードが落ちてしまったので、最後の2連は失速してしまう。特に最終連が、それまでのことばの楽しさ、不思議さを台無しにしている。

 とてもおもしろいのに、とても残念。--こういう詩を読むと、なんだか悔しい思いがするのは私だけだろうか。もっともっといい作品になるはずなのに、どうして途中で違ってしまうのだろうか、と私は悔しくてしょうがない。


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林嗣夫「ある梅雨の夜明け」

2007-08-28 07:19:25 | 詩(雑誌・同人誌)
 林嗣夫「ある梅雨の夜明け」(「兆」135 、2007年07月20日発行)
 単独で読んでもおもしろいが、きのう読んだ小松弘愛「のからのから」と比較すると非常におもしろい。

ある梅雨の夜明け
重い湿気の世界が果てもなく広がっている
そのまん中の ほの明るい場所で
わたしは一匹のムカデを殺した
百の足を殺し 毒爪を殺した
「呼吸を気管で行い、循環器は解放循環系、排出は一対
のマルピーギ管で行っている。」
を殺した
「足が多いので〈客足がつく〉とか〈おあし(銭)多
い〉につながり縁起がよいとして芸能界や商家では殺さ
ない習慣がある。」を殺した
重い湿気をまとった小宇宙が
震え
反り
ねじれ
のたうって倒れた

 「 」内、平凡社大百科辞典より、という注釈がついている。
 小松は「高知県方言辞典」を引きながら、小松自身のくらしをみつめていた。小松の肉体をみつめていた。
 一方、林は、林の生活とは関係のないものをみつめている。彼の肉体とは無関係なものをみつめている。百科事典からの引用の部分は、林の生活とは無縁である。ムカデの肉体構造は林の肉体とは関係がない。「百の足を殺し」のなかには「百足」という日本語の文化が呼吸しているけれど、〈客足がつく〉〈おあし(銭)多い〉は林の生活とは無関係である。無関係なものによって、林は林の意識を攪拌しているのである。ナンセンスよって生活という意味を攪拌し、一種の解放を呼び込こもうとしている。
 「呼び込もうとしている」と書いたのは、実際には、新鮮な解放感が実現されていないからである。

震え
反り
ねじれ
のたうって倒れた

 これは林が踏み殺したムカデの姿だが、同時に百科事典のことばによって踏みつぶされた林自身の姿でもある。
 ムカデには百本の足がある(という意識が林にはある--「百の足を殺し」がそれを証明している)。しかし、百科事典は「百の足」には触れない。まったく違ったことばでムカデを描き、そうすることで林の意識を否定する。そして、生活とは無縁の「宇宙」のなかで再生する。
 詩は、つぎのようにつづく。

わたしは布団の上に横になったが
もう眠れない
起き上がって
どこまでも広がる薄暗い世界のまん中の ほの明るい場所で
一冊の詩集を開いた
あやしい小宇宙が
また這い出してくるだろうか

 「一冊の詩集」。完成された文語。--小松が、書物ではなく、くらしのなかのことば(実際に話された人間のことば)によって再生するのと比べると、この違いはとてもおもしろい。
 小松は「地上」から離れようとしないが、林は「宇宙」を意識して生きるのである。ムカデでさえ、百科事典によって、その肉体の内部、精神の内部に、思いもかけない世界を持っている--だからそれも「宇宙」。そういう意識が林にはあるのだろう。二人の詩人を比較しながら読むと、思いもかけないものが見えてくるかもしれないと、ふと思った。

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小松弘愛「のからのから」

2007-08-27 10:18:28 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「のからのから」(「兆」135 、2007年07月20日発行)
 小松は今回も「高知県方言」を取り上げている。その作品の書き出し。

『高知県方言辞典』で
「のかな」を確かめてから
と ページをめくっていて
すく近くの「のからのから」で道草を喰い始め--

 「のかな」も「のからのから」も「辞典」に頼らなくてもなんとなく「のんびりした感じ、ゆったりした感じ」が伝わってくる。そして、実際に同じような意味合い、通い合う意味合いを持っている。
 だからこそ、ふたつのことばの区別が消え、同時に、読み違え、どうしてだろう、何なんだろう、とそこにとどまってしまう。「道草」をしてしまう。この感じが、とても自然に動いて行く。
 そして最後には

このわたしも「のかな」男になって
「のからのから」とやってもいいではないか
更には少々悪のりして
「春の山ひねもすのからのからかな」
とパロディーを口ずさみ
「バス停は桃の木柿の木山の神のからのからと四万十の風」
などと指折り数えて
三十一文字(みそひともじ)に遊んでもいいではないか。

 と「道草」の幅(?)を拡げ、その「道草」こそが人間の生きる喜びなのだという世界へまでひろがって行く。それこそ「のからのから」と。
 ことばというのは人間の生活から生まれたものであるけれど、それが逆に人間の生活をととのえるようにして作用してくることがある。ことばを書くのではなく、ことばが人間の生活を書く--というと奇妙ないい方になるが、そのことばがあることによって、人間の生活にひとつの「形式」(様式)ができあがる。
 「のかな」「のからのから」をつかうと、生活も「のかな」「のからのから」になってしまうのだ。
 ことばと生活の関係を小松がどれだけ強く意識して書いているのかわからないが、いしきしていなからこそ、そういものがふっと浮かび上がってくるのかもしれない。
 こういう「無意識」こそ、ああ、これが「思想」なんだなあ、と感じさせる。
 小松は「高知県方言」の連作を書いているが、それはそのことばを残すというだけのことではなく、そのことばがつくりあげる「生活」(くらし、といった方がいいかもしれない)を小松自身の肉体のなかに呼び込み、小松の肉体そのものをも、もう一度蘇らせることなのだ。
 これは小松が書いているからそういうのではないのだが「道草」の効用に似ている。
 効率だけのことを考えれば「道草」はしてはいけないことである。しかし、「道草」を食うと、その食ったものは体内で思いもかけない「栄養」になる。不思議な力となって人間を動かして行く。それがたとえば俳句のパロディーディをつくったり、慣れない短歌をつくったりというような、それこそ「道草」としかいえないものであっても、こころがゆったりする。誰にも侵害されない「こころの領域」というものが静かに(自己主張せずに、という意味である)ひろがる。--童心を呼び戻している、という感じもする。
 意味をつたえるのではなく、自分自身を取り戻す、くらしを取り戻す、ただそれだけのためのことばもあるのだ。ときには人間は、そんなふうにして、自分自身を取り戻さなければならない。「意味」から脱出して、遊ばなければならない。
 「意味」を共有できない、という理由で、たぶん「方言」は「撲滅」の方向へ向かっている。「情報伝達」に障害をもたらし、経済力学の効率を悪くする、という意識によって方言は撲滅させられようとしている。
 しかし、流通する「意味」から解放され、「道草」をすることが、人間には不可欠なことでもある。そうしないと、人間の力が弱ってしまう。「のからのから」できなければ、人間ではなくなってしまう。

 人間をとりもどす力として「のかな」「のからのから」ということばを持っているひとの幸せというものが、とてもうらやましい。




 感想が、だんだん脇道にそれてしまった。脇道にそれたついでに。作品のなかに「のかな」の説明を「辞典」から引用した部分がある。

のかな(形動) のんきな。のんびりした。

 私は、「のかな」が「形容動詞」であるという定義にびっくりした。「形容動詞」であるなら、「のかな」には「のかだ」という形もあるのだろうか。もし「のかだ」という形があるのだとしたら、「のからのから」は「のかな」とより深く結びついていることばのように思える。
 「だ行」と「ら行」は地方によっては混同される。「自転車」を「じりんしゃ」と発音するひとがいる。「た行」と「ら行」の発音のときの舌の位置が似ているために起きる混同だ。「じりんしゃ」にはさらに「え」と「い」の混同、あいまいな区別がくわわっている。「鉛筆」を「いんぴつ」という感じで発音するひとがいる。(田中角栄がそんな感じだった)
 「のからのから」は「のかだのかだ」であり、「のかなのかな」そのものでもある。
 高知県のひとの発音を、これが高知の発音だと意識して聞いたことがないのでわからないのだが、「だ行」(た行)と「ら行」の区別は、どんな具合なのだろう。「ら行」は「R」で発音されることが多いのだろうか、「L」の音の方に近いのだろうか。

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たなかあきみつ訳・セルゲイ・ソロヴィヨフ「待つ」

2007-08-26 12:30:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 たなかあきみつ訳・セルゲイ・ソロヴィヨフ「待つ」ほか(「ガニメデ」40、2007年08月01日発行)
 訳詩には「原文」がどれくらい反映されているのだろうか。たとえば、セルゲイ・ソロヴィヨフ「待つ」。

その夢では花々のように女学生らが咲きほころび、
あるいは若枝に芽吹いてさやさも繙かれる数々の本があり、
あるいはそこには盲目のちびっこクー・クラックス・クランの面々がたむろし、
あるいは単にどか雪

 「ほころび、」「あり、」「たむろし、」この連用形のたたみかけ。私が「詩」を感じている部分は、そのたたみかけだ。そこで展開されるイメージの錯乱は、たたみかけのスピードがあればこそ、きらきら輝く。
 ロシア語(?)に「連用形」というものがあるかどうか知らない。「連用形」というものがないと仮定すれば、ここに訳出された「連用形」はたなかの発明であり、たなかの「詩」ということになる。そこにたなかの思想がある。また、それが無意識であれば、それはそのままたなかの肉体であり、それもまたたなかの思想だ。
 他国の言語をこんなふうに吸収し、肉体をくぐらせ、提出する力があるのに……と思わず思ってしまう部分が、しかし、たなかの訳に残っている。きょうはそのことについて少し書いておきたい。
 「待つ」の最後の部分。

こうして時間を切断したのだ、切片を無限に
砕きながら、アリストテレスは、
そうして呟いて遠ざかった:《存在しない。もしくは--
ほとんど存在しないのだ、時間は、時間としての
私は》。そして蛇は
切片ごと時計回りに
底の沈泥でしばしけいれんする。
彼らのほうはいつも待っている、水辺の木をながめながら。

 「そうして呟いて遠ざかった:《存在しない。もしくは--」の「:」。この記号は日本語には存在しない。日本語に存在しないものをつかっている。これは「訳」として不親切ではないだろうか。
 「:」は、私の読んだかぎりでは「イコール」である。数学の「=」、等記号に対応する。この部分では「呟いて」の内容が《 》であらわされている。「つぶやき」と《 》の中身が等しい。それをあらわすために「:」がつかわれている。「:」がなくても、「つぶやき」の内容は《 》にくくられた内容であることにかわりはないのだが、わざわざ「:」をつかうのは、その記号が原文にあるからかもしれない。そしてもし、その記号が原文にあるのだとしたら、ほんとうはその記号をこそ「日本語」として訳出しなければならない。「:」という記号にこそ(私の読んだかぎりでは)セルゲイ・ソロヴィヨフの思想が強烈にあらわれている。
 たとえば「短命植物(エフェメール)」の冒頭。

彼らがそこで植物のように転倒している夢:
素足のような小さな頭は地中にあり、地中から首が
生育する、煙のように空を足で
行ったりきたり。彼らはもろもろの夢をもぎとる、夢はじつにおいしい--

 「転倒している夢」=「素足のように……」なのである。
 ある書きたいことがある。そして、その書きたいことが、一種の飛躍を起こす。いままでの「次元」とは違った「次元」へと飛躍する。そこには「飛躍」特有の「断絶」と「連続」がある。
 ことばの言い換え--そのなかには「飛躍」があり、「飛躍」のなかには「断絶」と「連続」がある。そのことを「:」が語っている。
 アリストテレスに戻っていえば、「つぶやき」と《 》の内容には、やはり「断絶」と「連続」がある。アリストテレスのいったことを受け止める。単に何かをつぶやいているというのではなく、聞いた人がそれを明確にことばとして理解するというアリストテレスから聞き手への「飛躍」、アリストテレスと聞き手は別人であるという「断絶」、同時にアリストテレスのことばを理解するという「連続」=アリストテレスが聞き手のなかで引き継がれるという「連続」がある。
 こうしたもっもと重要な部分を「:」という記号で代弁させるのは「訳」として「手抜き」のように思える。「:」が原文になく、たなかが発明したものであるなら、なおのこと、記号ではなく、「連体形」のように日本語にしてもらいたい。そういう「訳」を読みたいと思った。



 たなかはヨシフ・ブロツキイの「はいたかの秋の叫び」を「ロシア文化通信 GUN」20(2007年07月31日)で訳している。冒頭の1連。

北西風ははいたかを持ち上げる
灰青の、薄紫の、深紅の、鮮紅の
コネティカットの渓谷の上空で。はいたかはもはや
目撃しない、おんぼろ農場の中庭を
めんどりが舌鼓をうちながら散歩するのを、
畦道の畑栗鼠を。

 2行目「灰青の、薄紫の、深紅の、鮮紅の」の「の」の繰り返し、たたみかけが美しい。

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新井豊美「地上」、鈴木章和「舟遊び」

2007-08-25 10:45:19 | その他(音楽、小説etc)
 新井豊美「地上」、鈴木章和「舟遊び」(「楽市」60、2007年08月01日発行)
 多くの詩人が俳句を書いている。新井の俳句ははじめて読んだ。

鬱々と堆もるものあり枇杷熟れる

 私にはことばの重なりが多いように思える。「鬱々」「堆もる」「熟れる」。意味が自然に立ち上がってきて枇杷を隠してしまう。いかにも「現代詩」という感じがする。「枇杷」という季語が屹立して来ない。
 同じような感じで、

秋麗の天の冥府のザクロ割れ

 「冥府」と「ザクロ割れ」が近すぎる。「秋麗」と「天」が近すぎる。「天」と「冥府」が近すぎる。新井の向き合っている世界に、ことばで誘い出され、ほうりだされた、という解放感がない。

掌にぬくし卵ひとつといういのち

 この句にはこころひかれるものがある。「いのち」がたぶん観念的すぎる殻かもしれない。リズムもぎごちない。それでも「卵ひとつ」の「ひとつ」がとても魅力的だ。
 「ひとつ」をつかった別の句。

はればれと身ひとつとなるゆず湯かな

 「身ひとつとなる」の「なる」がいいなあ。
 ただし、その「なる」が終止形ではなく、「ゆず湯」にかかる連体形なのが、とても重い。「はればれ」から「ゆず湯」までがきっちり結びついていて、解放感に欠ける。
 宇宙に(自然に)対して人間が開かれる、というのとは違って、宇宙(自然)を新井の内部に取り込もうとする感じが強い。あ、「現代詩」とは「世界」を自分自身の内部に取り込み、自己の内部と世界を拮抗させる文学なのだ--とふと思った。
 「現代詩」をひきずったまま、俳句を書いているという印象が残る。完全に俳人になっていないという点で、おもしろいといえばおもしろいけれど、5・7・5で「現代詩」を書くという意識があってそうしているのか、無意識のうちに「現代詩」が顔を出してしまうのか、私にはちょっと区別がつかないけれど、後者のように思える。



 鈴木の句は、ことばの動きがとても自然だ。ことばが肉体となっている。

蓮の葉の重なりに夏兆しけり

 「に」が繊細で美しい。視線を誘って、誘った先でぱっと解放する。集中と解放が「に」のなかにある。
 とても視力のいいひとなのだろう。
 具体的な写生、そのことばの運びにゆるぎがなくて気持ちがいい。たとえば次の句。

刈りあとの草に紛るる蚯蚓かな

湖面より低く座したる涼み舟

 「紛るる」。あ、紛れるということばはこんなときにつかうのかと、はっとする。「低く座したる」の「低く」も、ほかにことばがみあたらない。誰もがつかうことばなのに、そのことばによって世界がぐっと引き寄せられ、その直後ぱっと解放されて、いままで見ていた世界が一気に輝き、ひろがって行く。
 こういう世界は「現代詩」ではむずかしい。

藻が咲いて雨待つ日々となりにけり

蛇の衣あしたが遠くありにけり

 「なりにけり」「ありにけり」とぱっと切れる感じがいいなあ。「切れ字」はこんなふうにつかうんだなあ。

夏蜜柑をばりりばりりと剥きくれし

 「を」がとてもいい。「を」の存在によって「ばりりばりり」の音が、まるで夏蜜柑を剥いている現場に立ち会っているように強く響いてくる。皮をむくとき、飛沫が飛ぶが、その飛沫まで肌で感じる。耳で「ばりりばりり」を聞くのだが、その音が、飛ぶ飛沫を追いかける視線、その飛沫を浴びる肌を統合する。聴覚、視覚、触覚が、一点に凝縮し、同時に四方へひろがって世界ができあがる。
 こういう句を読むと、俳句はすごいものだなあ、と思う。

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林嗣夫『花ものがたり』

2007-08-24 14:38:12 | 詩集
 林嗣夫『花ものがたり』(ふたば工房、2007年07月10日発行)
 「過ぎていくもの」の3連目。

さあ寝ようかと消灯して なかなか寝つかれないでいる時
ふと外の闇が変質しはじめたのに気がついた

 何かが変質しはじめる。それに気がつく。それが林の詩である。「変化」ではなく「変質」ということろに林の特徴がある。
 以前感想を書いた記憶があるが、たとえば「駐車場で」。その2連目。

目前の金木犀がとつぜん
ふるえるようになまめき
満身の花を輝かせるのを見た
ただの金木犀が
ほんとうの金木犀に変身した不思議な一瞬だった

 ここでは「変質」ではなく「変身」ということばがつかわれているが、内容は「変質」ということばの方が的確だろうと思う。金木犀が「ただ」から「ほんとう」へと「変身」するというのは、外形はかわらず、その内部が充実する、内部の変化、変質といった方が的確だろうと思う。
 「変身」ということばをつかっているのは、そうした内部の変化が外部にまで影響を与え、あたかも姿・形までもが変化してしまったような強烈な印象を強調するためである。
 そしてこの「変質」は、金木犀の花が花自体の力で「変質」するというよりも、それに接近する林によって引き起こされている。

駐車場のふちに
金木犀の若木が並んでいて
いまちょうど花盛りだった

その中の一本をめがけて
車をまっすぐに勧め
木の手前でちょっとブレーキを踏み
踏んだ足をすこしゆるめるようにしながら
ぐい、ぐい、と接近し
金木犀に触れるか触れないかの位置に停車した
その時である
目前の金木犀がとつぜん
ふるえるようになまめき
満身の花を輝かせるのを見た
ただの金木犀が
ほんとうの金木犀に変身した不思議な一瞬だった

 林がどんなふうに対象(存在)に接近して行ったか。そのことが重要だ。
 「ちょっとブレーキを踏み/踏んだ足をすこしゆるめるようにしながら/ぐい、ぐい、と接近し」た。そこには対象との距離のとり方が具体的に書かれている。むりやり接近するのではない。相手の様子を見ながら、まだ大丈夫、もう少し、と林自身の動きを制御している。
 そういう配慮にこたえるように、金木犀は「変質」したのである。「変身」してみせたのである。そういう配慮をしてくれる人間なら、花の「変質」そのものを理解できると判断して「変質」したのである。
 対象(金木犀)と林のあいだには、ことばを超えた対話がある。その対話のなかで、金木犀は「変質」する。「変質」の過程がことばで再現されるとき、そこに林の、詩がしっかりと定着する。

この対話の美しさは、金木犀のような植物(花)だけではなく、人間にも向けられる。距離のとり方の美しさが対話の美しさであり、そこで花開くものがあるのだ。
 妹の死と火葬を書いた「花の骨」。

妹が死んだ
あふれるほどの紫陽花の
季節のまん中で
口をぽっかり開けて

二か月半ものあいだ
人工呼吸器の管を通していたから
口はもう
閉じることができない

(略)

でもやっと終わった
息子たち そのお嫁さん 赤ちゃん
集まった家族のまん中で
口をぽっかり開けて

死んでから始まる自分の息もある
といった表情で

 「死んでから始まる自分の息もある」。これは、美しい対話をこころがけている林に向けて、死後から送り届けられた妹さんの「声」である。この「声」を聞き取ることができるのは林だけである。

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北川透『溶ける、目覚まし時計』(2)

2007-08-23 06:44:21 | 詩集
  北川透溶ける、目覚まし時計』(思潮社、2007年07月25日発行)
                  (23日の「日記」のつづき)
 文法は新しい文法の確立によって破壊するしかない。ということは、ことばでは簡単にいえるけれど(これがことばの便利で、いいかげんなところ)、実際には「新しい文法」はどこにあるのだろうか。
 たとえば「天狗ちゃんと目覚まし時計」の書き出し。(引用にあたっては1行あたりの文字数を無視した。)

 そこはわたしの住む港町のマンションの一室のようでもあり、これまでに行ったことのない海辺のホテルの一室のようでもありました。

 冒頭の「そこ」。指示代名詞。これは「新しく」はできない。指示代名詞に関しては、北川はほとんど無警戒である。「文法」どおりにつかっている。

後ろ向きに抱かれた目覚まし時計は、こんなところでは嫌よ、と言いながらも、気持ちよさそうに時を刻んでいるのです。目覚まし時計が嫌がっているのは、そこが破れ目の見える古いソファーの上田からでした。この部屋にはソファー以外にテーブルもベッドも何も置いてないのです。(略)その額縁に、充血した眼を持った茶色っぽい蠅がとまっていたのでした。どうやらその汚い蠅がわたしのようでした。

 「こんな」「そこ」「この」「その」「その」。次々に出てくる指示代名詞は、先に登場した「もの」を指し示している。(冒頭の「そこ」は例外的に先行することばを持たないが、これは倒置法であり、倒置法も文法のひとつ。)指示代名詞が指し示しているものは、すべてわかるように書かれている。
 では、ここでは北川は何をしているのか。何を試みている。
 指示代名詞をつかいながら、ずるずると視点をずらしていく、ということを試みている。2-3回ずらすのではなく、一段落のなかはずーっと、その指示代名詞によって先行するものの印象をひきずりながらも、存在そのものをあいまいにし、新しい存在に視点を移す--そのスムーズな移動を試みている。指示代名詞によって、そのスピードを加速させる。
 「主語」さえも、いつのまにか「蠅」になってしまっている。主語は、「蠅」以前には登場して来ないが、登場した瞬間「主語」になってしまった、という「夢」以外では起きないような視点の移動である。
 「夢」とはたしかに、何かが先行し、それを追いかけイメージが少しずつずれていく。なぜずれるのかわからないが、最初の主題が加速度的に変化していく。この感じを、北川は2連目で定着させる。

 何がくるっているというわけでもなく、世界がこわれているというわけでもなく、すべてが流れているのでした。

 指示代名詞による「流れ」(流動)。北川は夢の流動を描ききる文体をつくりだしているのである。
 3連目はさらに加速する。

 その時、ウン、「その時」ってベンリ、ベンリ、どんな奇蹟が起こってもふしぎじゃないもんね。マサニソノトキ、海面をドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド……と、一筋の線でもなく、刃でもなく、そのどちらでもあるような文字が走りました。

 ここにも「その」という指示代名詞が活躍している。「その」という指示代名詞があることで、「夢」の、先行するイメージを追いかけながら、なおかつ制御のきかないどこかへイメージが疾走してしまうという感じが強烈になる。「その」という指示代名詞があるからこそ「ドドドドド……」という強烈なイメージが存在し得る。

 「新しい文法」はある意味では「新しくない」。それは「新しい」というより徹底して鍛えられた「文体」と言い換えた方がいいかもしれない。鍛えられた文体が、既存の「文法」をひっぱりまわし、ことばを従来の在り方から解き放つのである。ことばの解放--そこに北川の「詩」があるのだと思う。


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北川透『溶ける、目覚まし時計』

2007-08-22 21:40:35 | 詩集
 北川透溶ける、目覚まし時計』(思潮社、2007年07月25日発行)
 「夢をモティーフに」書かれた連作--と北川は「覚書」で書いている。たしかに「夢」が書かれているのだろう。しかし私には、そこには「夢」が書かれているという感じがあまりしなかった。それよりも強い何かがある。「夢」を超える何かがある。それは「夢を語る」ということだ。北川は「夢」をを書くというよりも「夢を語る」ことについて書いている。
 そのことを強く感じさせるのは、次の1行である。

 悪夢の中では文法はめちゃめちゃに壊れます。

 北川が「夢」をモティーフにするのは、「文法」を「めちゃめちゃに壊」すためである。日本語を、つまりは私たちを縛っている文法。それを破壊して、どれだけ自由な文体を確立できるか。北川の試みているのは、それである。
 だが、ほんとうに文法は壊れるのか。先の引用からはじまる行。

 悪夢の中では文法はめちゃめちゃに壊れます。花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花田俊典としのりしゅんてん試運転詩云典死雲天わたしたちは戦争
という自由市場は太った仔豚の尻は舐めていますははははなはなだ
はわたしたちは平和は自由市場で太った子豚に尻は舐められていま
す(以下略)

 たしかにここに書かれていることばは「国語の教科書」の文法とは違っている。しかし、文法が教科書どおりではないから、そこに書かれていることがわからないかといえば、そうではない。いや、正確に言えば、私は北川のいいたいことを(ことばにこめている意味や内容を)理解してはいないかもしれない。誤解しているかもしれない。しかし、誤解とはいえ、そこに「意味」を感じ取ってしまう。北川の書いていることばの「文法」がどうであれ、そんなことを無視して、私のなかの「文法」が勝手に北川の「文法」を修正しながらことばを読んでしまうのである。
 北川は花田俊典の死に衝撃を受けた。「花田俊典」は何と呼ばれていたのだろう。「としのり」が本名かもしれない。しかし「しゅんてん」と仲間うちで呼ばれることもあっただろう。そういうことを北川は思い出している。そして「しゅんてん」から「試運転詩云典死雲天」ということばが生まれて行く。そのことばには何の意味もない。意味もないはずなのに、ことばをそれぞれ「試運転」「詩云典」「死」「雲天」と区切りながら、さらには「詩云典」を「詩」「云(々)」「(俊)典」という具合に動かしながら、北川があらゆることばに「花田俊典」を思い出していると読み取ってしまう。
 北川がどんなに文法を壊しても、それを読む私のなかで文法が壊れないかぎり、こういうことは起きる。作者がどんな思いでことばを書こうが、読者は作者の意図とは関係なく、読者自身の中にある文法でことばを読んでしまう。
 そして、「文法」は、「個人」のなかに存在するのではなく、「社会」のなかに存在する。「社会」が継承している。どれだけ支離滅裂なことを言ってみても、それは「支離滅裂」という「文法」の枠に収められてしまう。文法は壊れないのだ。

 北川が真に向き合っているのは、その読者の中にある「文法」である。「社会」のなかにある「文法」である。
 「文法」を壊さないかぎり、新しい「真実」はことばとして定着しない。
 「文法」は、私たちの意識を一定の方向に制御している。制御された意識は、「文法」が成立することで隠しているものを、永遠に見ることはできない。

 北川は、「文法」が隠しているものがあると感じている。「文法」を壊せば、何かがはっきりすると感じている。そうした「感じ」を共有してくれる読者、そして創作者を求めている。たとえば花田俊典がそのひとりであったかもしれない。北川が関係している(関係した)いくつかの同人誌の仲間がそうであったかもしれない。

 こう書きながら、私は少し、いやかなり、切なくなってくる。
 北川のやろうとしていることはとてもおもしろい。しかし、私には「おもいしろい」という感想がふーっと浮いてきて、実際に私自身の「文法」が壊れるということが起きない。
 「文法」を壊さないとだめなのだ、という北川の主張はとてもよくわかる(つもり)が、「文法そのものをこわさないとだめ」ということば自体が「文法」のなかにおさまってしまう。私の感想は、北川を「文法」に閉じ込めてしまうのだ。

 読めば読むほど、そして北川の主張がわかればわかるほど(これも、私の一方的な思い込みだが)、「文法」が強固なものになっていくのを感じる。どんな無軌道なイメージの氾濫も、それを「意味」として縛りつける「文法」がありうるのだ。
 もしかすると、北川の詩を心底理解しているのは「北川の詩はでたらめでわからない」という読者かもしれない。「わからない」のは、その読者の「文法」が北川のことばによって破壊された結果である。「文法」が破壊されないかぎり、つまり北川の奔放なイメージの暴力を「文法」が飲み込んでしまうかぎり、永遠に「文法」は生き続ける。

 こうしたことは北川自身、深く自覚しているようでもある。

花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花田さぁーん。壊れ
るのは文法ではなく身体です。

 私たちは次々に身体的に壊れる。つまり死ぬ。私たちの肉体は継承されない。しかし、「文法」は継承され、「社会」を支え続ける。「社会」のなかに「文法」は生き続ける。



 たぶん、「文法を壊す」という方法で北川の詩を読むことは間違っているのだ。
 「文法」は壊れない。壊れないものを乗り越えるには、「新しい文法」を作らなければならない。「新しい文法」によって、それまでとらえることのできなかったことばの運動を明確にすること、ことばの運動にエネルギーを与えること。そういう視点から、北川の詩は読むべきなのだ。
 北川は「夢を語る」ということをとおして「新しい文法」を手さぐりしているのである。            (この「日記」はあすにつづく)


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野田弘志展「写実の彼方に」(再び)

2007-08-21 05:59:08 | その他(音楽、小説etc)
野田弘志展「写実の彼方に」(豊橋市美術博物館)

 野田の作品で私が一番好きなものはロープを描いたものである。19日の日記に書きそびれたので書いておく。(書きそびれたというより、たくさんの作品を一度に見すぎて印象がまとまらなかったのだが。)
 ロープのシリーズを見ていると、野田の絵の描き方がわかる。実際には間違った私の空想かも知れないが、絵を描いてゆく野田の手順が目に浮かぶ。
 野田はまず壁面(あるいは床面)を描いてしまう。次に、壁(床)にロープを張り渡すための突起を描く。その後、張り渡したロープを描く。実際に、そこに描かれている構造物(?)を作るのと同じ手順を踏んでいる、という印象がある。
 全体の画面構成を考えながら描くというより、まずロープも突起もない壁面そのものを完成させることからはじめる。そのあとその壁面にふさわしい突起を取り付け、さらにロープを張り渡す。絵の製作過程には、時間が、その構造物が出来上がったのと同じ順序で流れている。
絵のなかに時間が存在する。野田は時間を絵で描いている。

一方、私は野田の風景画にはひきつけられなかった。阿寒湖を描いた2枚が展示されていたが、その風景の構図には新鮮な印象があったが、おもしろい、こんな絵を描いてみたい、という気持ちにはならなかった。
ロープシリーズには、そこに描かれている存在が存在に「なる」までの時間が描かれているが、風景にはそういう時間は描かれていない。描かれているのは、人間の営みを超越した時間、「無」にまでたどり着いてしまった時間である。阿寒湖の美しさに人間が太刀打ちできないのは、阿寒湖の風景が完成するまでの時間を人間が再現できないからである。「無」には対抗できない。受け入れるしかない。「無」のなかでの再生ということが試みられているのかもしれないが、よくわからない。

巨大な自然が抱え込む「無」、人間を超越した時間に比べると、黒シリーズの「無」は身近である。巨大な「無」ではなく、たとえば鳥を、その一枚一枚の羽として、その色として存在させるだけの「無」である。野田の用意した「無」(黒い空間)のなかで、鳥の羽の記憶、色の記憶がよみがえり、そこから鳥の「生成」が始まる。生成の現場としての「無」がそこにはある。黒は混沌、カオスの色である。その「無」は何もない「無」ではなく、まだ意識が形にならない(形を持っていない)という意味での「無」だ。そして、その形のないものが形になろうともがいている。その声を野田は聞き取り、絵筆で再現する。

ロープシリーズは、「無」という抽象に頼っていない。何でも含んでいるという混沌に頼っていない。「何でも」という無限を拒絶して、人間の手、人間の肉体から出発している。人間は何を作れるか。そのために何をするか。そういうことを見つめ、具体的な人間の時間に迫ろうとしている。壁にロープを張る。そしてその張り渡されたロープの形、ロープが作り出す模様がおもしろいと思う。その「おもしろいと思う」人間の精神の動きが、人間の成長に役立つかどうかしらないが、そこには確かに人間が存在する。精神のうごきのなかで、人間は芸術家に「なる」。人間がなにかに「なる」ための「時間」が、野田の絵の中に存在する。
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天然コケッコー(★★★★)

2007-08-20 17:31:31 | 映画
 山陰の自然がとても美しい。緑に不思議な陰影があり、穏やかだ。それにあわせるように、登場する少年少女が不思議な美しさを放っている。
 海水浴へ行くため山を歩くシーン。両耳の脇に手のひらを立てて歩く。「山の音がゴーゴー聞こえる」「歩くと山の音がついてくる」「止まると山の音も止まる」。子供たちは山と(自然と)一体なのである。自然そのものなのである。
 山の分校に一人の少年が転校してきたことがきっかけで、少女のこころが動く。他の子供たちのこころも動く。嫉妬も混じり、意地悪もあるのだけれど、それさえも自然そのものなのだ。田んぼには稲が実り、畑にはトマトが実る。逆はない。春の次に夏が来て、やがて秋、冬を過ぎてまた春が来る。逆はない。かつてあったことが今も起こり、積み重なって時間になり、世界になる。そういう自然をそのまま受け入れてゆくのが、この山陰の小さな集落を生きる人々の知恵なのだ。自然の音を聞き、その自然の音に従う。登場する人々は、山の音を聞いたのと同じように、すべての人の「こころの声」を聞く能力を身につけている。そしてその声がきちんとした主張(人間の思想)に変わるまでを、じっと見つめあう。
 主人公の少女の父、転校生の少年の母との間には、ちょっと不自然な過去があり、それが少女のこころに陰影を与える。しかし、その陰影、あるいは不自然な音そのものが、二人の大人だけではなく、集落の大人全員に、山の音のように吸収されてゆく。なにもなかったというのではなく、季節の風が通り過ぎていくのを聞くように、その音は聞き取られ、ひとつの時間となり、過ぎてゆくのである。
 初恋ともいえないような初恋。初恋になるまえの初恋。それがとても美しいのは、やはりそれが自然の一部だからである。初恋をすることは劇的なことではなく、人間が生きていく自然な変化なのだ。自分の思いをいえるようになる、相手の声を聞き取れるようになる。そのとき初恋は成就しているのだが、そんなことは少年少女は気がつかない。ただ一緒にいる時間がうれしい、とそれだけを感じている。うれしい、と声にもださずに。
 しかし、その声は、少女たちが歩きながら山の音を聞いたように、観客にはっきり聞こえる。せりふはないのだが。
 せりふはない、しかし登場人物の声が聞こえる、というのは映画が名作である証拠である。
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野田弘志展「写実の彼方に」

2007-08-19 21:40:28 | その他(音楽、小説etc)
野田弘志展「写実の彼方に」(豊橋市美術博物館)
 鉛筆で描かれた「湿原」シリーズが最初に展示されている。細密な描写に深い集中力を感じる。新聞の連載小説の挿絵である。これをほぼ毎日描いていたのかと思うと、なんだか苦しくなる。なぜこんなに集中力を必要とする絵を描くのだろう。野田にとって絵を描く喜びとは何なのだろう。線が交錯し、面になり、線の交錯した面が影になる。線に置かされない空間が光になる。光と影が混ざり合い、物質になる。野田は、野田の描く線が物質に「なる」瞬間を楽しんでいるのだろう。一方、私は、野田の作業とは逆の方向から絵に接近してして行く。たとえば女性の顔。写真と見まごう陰影。それが目を凝らして見ると細い細い線の塊から構成されている。陰影は細密な線に分解されて行く。人間の肌、そのやわらかな輝きが無傷の白い地肌と鉛筆の細い線に分解されてゆく。その細密な分解作業に驚く、その驚きの奥から、驚きを否定するように、肌の存在、その物質としてのリアリティーが氾濫してくる。私は何を見たのだろうか。鉛筆の細かな線を見たのだろうか。女の肌の陰影を見たのだろうか。そうではなく、野田の集中力が、細密な線の交錯の中で物質そのものに「なる」瞬間を見たのだと思う。
 次に見た「黒シリーズ」にも圧倒された。背景は黒。しかし、その黒の中に光が漂っている。その光を結晶させて、静物が浮かび上がっている。静物のリアルさにも驚くが、なによりもそれを光の結晶にしてしまう「黒」そのものの表情に驚かされる。黒い空間を黒い空間として定着させる集中力に驚く。その地肌の美しさに驚く。
 背景と私は簡単に書いてしまうが、背景などないのだ。あるのは空間という物質である。野田の手によって、空間さえも物質に「なる」のだ。
 興味深い絵が一枚ある。レースのテーブルクロスの上に皿があり、その上に果物が盛ってある。この絵を野田はどう描いたか。筆遣いを見ていくと、まずテーブルクロスを完全に描いてから、皿を描き、その後果物を描いたらしい。皿の部分に、隠れているテーブルクロスの模様が残っている。空間は隠されている部分まで「存在」そのものである。というより、そんな風に色と形を重ねることで、野田の描く静物は「存在」そのものに「なる」。
 絵のなかで、野田の見つめた生物は存在に「なる」。野田の絵を見ることは、物質が存在に「なる」瞬間に立ち会うことでもある。





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中島悦子「マッチ売りの少女」

2007-08-18 08:40:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 中島悦子「マッチ売りの少女」(「スーハ!」2、2007年08月15日発行)
 ことばの発熱、発行--それを「詩」と定義して、ことばに火をつけるための「マッチ売り」を哲学者ヘラオに演じさせている。

その日も哲学者ヘラオは、マッチを売っていた

俺は、もともとは高貴な生まれで、すぐれた精神活動を行っているのであり
マッチを売って生計を立てているわけじゃない
んなことあるもんか

 のあと、いろいろとことばが進んで行く。架空(虚構)を押し進める文体は論理的である。きちんと散文を読んできたひとなんだなあ、と思いながら読んだ。それ以外に書くことはないかなあ……。と思っていたら、最後にとんでもない(いい意味)展開があった。最後が楽しい。

今日、図書館で本を返した。明治三十三年の本だ。もっと借りていたかったけれど、次に待っている人がいた。こんな本、読みたい人がいたんだと知って、あわてて返しに行った。それが、今日の唯一のうれしいことだった。

 突然日記(散文)に変わるのだが、そこがおもしろい。ヘラオとことば、発火、マッチについて語っていたことが日常に収斂する。それまでの虚構が「本」、図書館という現実に戻ってくる。そして「読みたい人がいたんだ」という発見に結晶する。そのことを、素直に「うれしい」と書いている。ああ、「うれしい」ということばは、たしかにこんなふうに使うんだなあと、それこそうれしい気持ちにさせられる。
 この「うれしさ」が、もっとヘラオの部分にもあるといいなあ、と思う。ヘラオがことばをどんなふうに燃やして(発火、発光させて)、「うれしい、うれしい」と言ったのか。そのことが書かれていればなあ、と少し残念な感じがする。

 正直さは、押し通したとき、純粋になる。強くなる。

コメント (1)
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伊藤悠子『道を 小道を』(もう一度)

2007-08-17 08:01:54 | 詩集
 伊藤悠子『道を 小道を』(もう一度)(ふらんす堂、2007年07月25日発行)
 きのうの感想は書き漏らした部分がずいぶん多い。というか、読めば読むほど伊藤のことばの動きのていねいさ、正直さが伝わってくる。とても気持ちがいい。きのうも書いたけれど、たとえば「行方」という詩が亡くなった赤ん坊のこと、赤ん坊を亡くした女性の体験を描いているのだとしたら、そうした作品に対して「気持ちがいい」というのは不謹慎な感想になるかもしれないのだが、私には、そういうことばしか思いつかない。とても気持ちがいい。伊藤がとても正直であると感じる気持ちよさだ。(少し、魯迅を読んだとき、あるいは鴎外を読んだときの気持ちよさ、ああ正直なひとなんだ、と感じる気持ちよさに似ている。)

さいしょは両腕で抱いていた
いつのまにか片腕で抱く小ささになり
すぐに手のひらに移り
またたくまに指先から離れていった
中指にきびがらのような感触が残った

 冒頭の各行で「時間」の動きが違っている。「さいしょ」は動かない。固定している。「いつのまにか」はゆっくりした動き、意識できない動き。「時間」は、そういう意識できないようなゆっくりしたスピードで動いた。それほど赤ん坊をなくした愛しみ、切なさは重たかった。それが「すぐに」「またたくまに」とどんどん「時間」の「間」が短くなる。その運動、動きの変化を、「さいしょ」「いつのまにか」「すぐに」「またたくま」という簡潔なことばで、それ以上の正確さはありえないような正確さで書いている。定着させている。
 何度でも書くが、これは伊藤が体験を繰り返し繰り返し抱き締めているからである。繰り返すことで余分なもの、逸脱していく余分な力をなだめこんでいるからである。こういうことばに触れると、ああ、体験というものはほんとうにすばらしい。人間をしっかりと鍛える。人間を正直に育てる、と強く感じる。

 「秋へ」という作品も、幼いまま亡くなった赤ん坊のことを描いているのだと思う。

あれは雨ではなく
秋の木の葉の走るやさしい音
窓まで行って確かめることもなく思うとき
(秋になったね)
どちらともなく言うとき
秋の どこか
光る
ほの光る
(ひつぎの重さはほとんど花の重さと白木の玩具)
とおい秋におくった小さなひとに
短い手紙を書くように

 冒頭の3行。私は、そこに書かれていないことを感じてしまう。私の感じたことを、かっこで補う形で書いてみたい。

あれは雨ではなく
秋の木の葉の走るやさしい音(ではなく)
(あの子が木の葉のあいだを走る音)
(窓まで行って何度も確かめた)
(あの小さく揺れる木の葉は、あの子の足が触れたから)

 何度繰り返したのだろう。もう思い出せないくらい繰り返したに違いない。「とおい秋に」と言うしかないくらい繰り返したのだ。「とおい秋」の「とおい」は何度も何度も窓まで確かめに行った「距離」の繰り返しが積み重なった「とおさ」だ。肉体だけがわかる「とおさ」だ。それは「抽象」ではなく、まぎれもない「具体」である。「とおい」は伊藤の肉体の中にある、なまなましいものだ。
 だからこそ、

窓まで行って確かめることもなく思うとき

 この、行かないこと、動かないことが、逆に切実に亡くなった赤ん坊を蘇らせるのだ。柩に入れて、そのときの様子までが、切実に、静かに蘇るのだ。
 それは「行方」で赤ん坊が「きびがら」のような感触になることで、より切実にこころに定着したように。
 窓まで行かないこと木によって、逆に、しっかりと赤ん坊に会うのだ。風の音を赤ん坊が帰ってきた足音と勘違いして窓辺へ行ったときは、赤ん坊は見えなかった。しかし今、窓辺に行かないからこそ、しっかりと蘇ってくる。

 不思議な不思議な現実。その不思議さを、伊藤はとんでもない正直さ(伊藤だけがたどりついた正直さ)で、ていねいに語っている。
 もう一度書いておく。ほんとうにすばらしい詩集だ。


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