詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

T・トランストロンメル『悲しみのゴンドラ(増補版)』

2011-12-31 23:59:59 | 詩集
T・トランストロンメル『悲しみのゴンドラ(増補版)』(思潮社、2011年11月10日発行)

 「四月と沈黙」という詩が巻頭にある。初めて読む詩人の、最初の詩は、とても手ごわい。ことばのとっかかりが見当がつかない。

春は不毛に横たわる。
ビロードの昏(くら)さを秘めた溝は
わたしの傍らをうねり過ぎ
映像ひとつ見せぬ。

 1連目から私はつまずく。
 ここには不思議な矛盾がある。
 「春は不毛に横たわる。」これは、普通の「春」のイメージとは違うが、エリオットの「荒れ地」を思うとき、そんなに驚きはない。春と不毛の出会いは、私にとっては、斬新な詩ではない。
 私が不思議に思うのは、そしてこころが誘われるのは2行目からである。「ビロードの昏さを秘めた溝」は「春」の言い直しだろうと思う。ひとは誰でも言い切れなかったことを別なことばで言いなおす。「春は不毛に横たわる。」では何のことかわかりにくい。だから、それを言いなおす。「春」の「不毛」は「ビロードの昏さを秘めた溝」である。「不毛」は「ビロードの昏さ」である。しかし、その「溝」は「横たわらない」。
 これが矛盾である。
 「溝」が横たわるなら、「春」と「溝」は同じになるが、それは横たわらず、「わたしの傍らをうねり過ぎ」るのである。「春」は動かないが「溝」は動くのである。
 変だねえ。
 普通は「溝」が動かない。「春」は草木が萌え、いのちが動く。
 しかし、詩人は、そのことを「逆」に書いている。
 そして、「溝」は「うねり過ぎ」るだけではなく、「映像ひとつ見せぬ」という。
 これもまた不思議な表現である。なにか矛盾したものを含んでいる。「映像ひとつ見せぬ」といいながら、詩人は「溝」が「うねり過ぎ」るという運動を見ている。
 変だなあ。
 変だなあ、と思いながら、とても気になる。
 「溝」を修飾する「ビロードの昏さを秘めた」ということばが、何よりも気になる。「ビロードの昏さを秘めた」は「ビロードのつや」のようにも感じられる。「つや」は単純な輝きではなく、なにか表面を「くらいもの」が覆っている感じを思い起こさせる。表面は「くらく」覆われているが、内部に光を発するものがあって、それが滲み出てくるとき「つや」になるように感じられる。
 もし、そうだとすると。
 「春は不毛に横たわる」と言いながら、実は、内部に光を抱え込んでいて、そして動き回る力を秘めていて、それでもなおかつ「横たわる」ということを連想させる。
 動けるはずの「春」が、あえて「横たわる」。そのとき、その「あえて」によって抑制されていたものが、抑制された不自由さで、かたわらを「うねる」ようにして「過ぎる」。
 まっすぐにではなく「うねる」。この「うねる」は「ビロードの昏さ」、あるいは「隠されたビロードのつや」を思い起こさせる。「うねる」から「くらい」。「くらい」から不思議に発行する。
 「溝」ではなく、たとえは川を思い浮かべると、そのことがよくわかる。川の水がうねり、流れるとき、そのうねりの頂点にある光は、うねりの底にあるよどみ、深さを鏡の朱泥のよう利用して光る。光るものは、背後に「くらさ」を持っている。
 でも、なぜだろう。どうして、そういうイメージのあとに「映像ひとつ見せぬ。」という厳しい断定、否定がくるのだろう。
 私は、詩人のことばから、「見てしまう」。「不毛に横たわる」はずの「春」から、その内部で動いている「くらさ」が「うねり」、輝くのを見てしまう。
 詩人の書いているもの--そのことばが指し示すものとは違ったものが、ことばを読むと動きはじめるのである。
 これはいったい、何?

光あるものは ただ
黄色い花叢(むら)。

 これは、また矛盾である。「春は不毛に横たわる。」のなら、「黄色い花」は何? きちんと花開いている。それも「叢」をつくって咲いている。
 --でも。
 矛盾と書いたが、その矛盾を超えて、何かが炸裂する。動く。矛盾ではなく、違うものを感じる。
 春。その一方に「ビロードの昏さを秘めた溝」があり、他方に「黄色い花叢」の「光」がある。それは向き合い、矛盾することで、「春」そのものになる。
 「春」はふたつの要素からできている。
 「横たわる」もの、動かないもの、「くらい」ものと、「うねり過ぎ」るもの、「光るある」もの、光るもの。そのふたつは矛盾し、対峙することで、お互いを明確にする。一方だけなら、世界は存在しない。矛盾するから、世界が世界として存在する。
 矛盾の力学が、トランストロンメルを作り上げている。矛盾の力学のなかでことばが動いているから、そのことばが強烈に響いてくる。

 3連目。

みずからの影に運ばれるわたしは
黒いケースにおさまった
ヴァイオリンそのもの。

 これは、1連目の言い直しである。「不毛に横たわる/春」は「みずからの影に運ばれるわたし」。「わたし」が影を運ぶ、私が動くとき影がその動きについてくるのではなく、いまは「影」が「わたし」を運び、「わたし」は「横たわる」存在に過ぎない。
 それは、「黒いケースにおさまった/ヴァイオリン」そのものである。「私」という「春」は「横たわって」動けない。動くのは「私」ではなく、「溝」であり、「溝」は「影(くらさ)」である。だが、「わたし」は動けないけれど、ほんとうは「ヴァイオリン」なのだ。美しい音を響かせることができる存在なのだ。
 うーん。
 ここで、私は、またうなってしまう。
 ふいに登場してきた「音楽」に、強く揺さぶられる。
 ヴァイオリンか……。
 ヴァイオリンの音は、ビロードの音。そして、その音の底には「くらさ」がある。「くらさ」に支えられて、ヴァイオリンの深い「つや」が動く。「ためいき」のような、輝きと暗さの同居。
 比喩が重なり合って、ことばが、さまよう。「ひとつ」の「答え」にならない。「結論」に突き進もうとはしない。逆に、互いに影響し合って、書き漏らした「過去」へ「過去」へともぐりこむようである。つまり、「結論」から遠ざかるようである。
 そして、「結論」から遠ざかれば遠ざかるほど、最初の「私」に戻るようで、何やら、矛盾した動きのなかにトランスロンメルそのものの「肉体」を感じるのである。

 この不思議な比喩の重なりの連続に、さらにもう一度比喩が追い打ちをかけてくる。4連目である。

わたしのいいたいことが ただひとつ
手の届かぬ距離で微光を放つ
質屋に置き残された
あの 銀器さながら。

 「わたしのいいたいこと」とは「ヴァイオリン」の比喩をつかっていえば、その「音色」そのものである。それは、いまは鳴り響かない。「不毛」の状態である。けれど、その「不毛」のなかを、「ビロードの昏さを秘めた溝」--こころの底でうごめく何かが「うねる」。動いていく。
 その先には「銀器」がある。
 「質屋に置き残された」「銀器」は、「黒いケースにおさまった/ヴァイオリン」でもある。それは、つかえばほんとうは美しく輝く。

 「春と沈黙」。春は沈黙している。横たわっている。「私」は沈黙している。横たわっている。けれど、その沈黙と向き合う形で、可能性としての「私」がある。横たわる「私」の奥で、その「溝」の深さで、動くものがある。「溝」の底から逆照射するように、何かを誘い出す。
 春の、野の黄色い花よりも、いま、この肉体の内部(溝、深み、くらさ)で動いているものが、ほんとうの春を語るのだ。ヴァイオリンのように。あるいは置き忘れられた銀器のように。

 あ、私の感想は、文章になっていないね。
 乱れているね。
 主語と述語が交錯する。「春」を語っているはずなのに「溝」を語り、「ヴァイオリン」を語っているはずなのに「銀器」を語り、「昏さ」を語っているはずなのに「光(微光--あ、これがつやの正体だね)」を語ってしまう。
 主語と述語の関係を論理的に整理できない。書けば書くほど混乱してしまう。けれど、その混乱のなかに、なぜか、「あ、わかった」と錯覚してしまう何かがある。
 詩は、その瞬間の「錯覚」であり、錯覚をなんとかことばにしようとする「誤読」を笑い飛ばす輝きである。

悲しみのゴンドラ
トーマス トランストロンメル
思潮社
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小原宏延「木馬のように」

2011-12-30 23:59:59 | 詩集
 小原宏延「木馬のように」(「ひょうたん」45、2011年11月15日発行)

 比喩とはなんだろうか。私は単純に、いま/ここにあるのものを、いま/ここにないものを借りて言いなおすことだと考えている。言いなおす--とは、いままでとは違ったところへ行くということである。
 小原宏延「木馬のように」は、そういう比喩の力のあり方を、とても自然に語っている。
 野外のどこか、公園の一角なのだろうか。何個かの形の違った椅子が置かれている。何につかわれていたのかわからない。向きはばらばらである。

その椅子の座板を
無言の枝から落ちてきた
木の実がひとつ打ち叩く
瞬間の微塵の響きを聴いたのだ
きりもない光の雨音が
降っては消え
消えては降るそのあいだに

これはもしかすると
底の磨り減ったあまり
ぽっかりと穴のあいた旅の靴
握りしめる力がついに尽きて
草むらに落ちた最後の鉛筆
夜の空に駆け上がり
ただひとつだけ
点っていた夢の電燈
その顔をあげよ

遠くから見ると
すべての椅子は
黒い木馬のように
木の実の音に遅れまいと
見えないタテガミを逆立てて
風に盛んにふるえていた

   (谷内注・「タテガミ」の原文は漢字。髪の下の方が「友」ではなく
    「鼠」に似ている。私は目が悪いのでよくわからない。たぶん、タ
    テガミと読むのだと思う。)

 私が引用したのは2連目から。「無言の枝」の「無言」が少しうるさい感じがする。「枝」は無言にきまっている。しゃべったりしたら、びっくりしてしまう。こういう神経にさわってくるような比喩を私は「うるさい」と感じる。
 「瞬間の微塵の音」もうるさい。「瞬間」と小さい単位である。そこでは音が小さくても不思議ではない。大きい音にも一瞬の音というものがあるだろうけれど、瞬間と小さい(微、および塵)は似通っていて、裏切られた気持ちになれない。比喩は、一瞬、意識が裏切られ、それから一気に逆流してくるものだ。うらぎりがないところに比喩は存在しない。それでも比喩にしてしまうとき、そこにうるささがあふれてくる。
 「光の雨音」もうるさい。光には音がない。--という点ではこの比喩は常識を裏切っている。光はまた雨の日ではなく晴れた日の方が明るい。そして量がきっと多い。そういう意味では、雨もまた常識を裏切った比喩である。ところが、重なってしまうと、裏切りが裏切りではなく、作為が目についてしまう。自然に生まれてきた「比喩」ではなく、作り上げた「比喩」という感じがするのだ。--私は、つくられた「比喩」を否定しているわけではないのだが、この、一種の「流通言語」的な比喩は好きになれない。
 その、私の嫌いな比喩の問題は、ここではもう触れないことにして。
 おもしろいのは、少し地味(?)比喩をつかったためにだろうと想像するのだが、3連目では比喩が氾濫する。比喩をつかうことによって脳が覚醒し、暴走しはじめるのかもしれない。
 とは、言っても。
 「底の磨り減ったあまり/ぽっかりと穴のあいた旅の靴」はロマンチックだけれど、その分、振るい感じが残る。「握りしめる力がついに尽きて/草むらに落ちた最後の鉛筆」もロマンチックである。「夜の空に駆け上がり/ただひとつだけ/点っていた夢の電燈」もなんだか大正時代(あ、私は、もちろん知らないのだけれど)みたいだ。
 ふーん、と思いながら読んでいたのだが。
 次の、

その顔をあげよ

 が唐突で、びっくりする。
 これは何?
 最終連で、馬(木馬)の顔だとわかる。
 あれっ、最終連の1行が、先走り(おくれて? どっちだろう)、前の連に紛れ込んでしまう。
 ほんとう(?)ならば、つまり学校教科書の「作文文法」では1行あきは、「点っていた夢の電燈」と「その顔をあげよ」のあいだになければならない。
 で、ここが、とってもおもしろい。突然、この詩を好きになってしまう。

 古くさい(?)比喩だけれど、比喩をつかったために、ことばが自分自身の肉体で動きはじめるのだ。小原の意識を突き破って動いてしまうのだ。
 比喩が追いかけているものが何なのか、よくわからない。「旅の靴」「鉛筆」「夢の電燈」というふうに書いてみたが、何かが違う。ことばがもっと違うところへ行きたがっている。そして、実際に、行ってしまう。

その顔をあげよ

 「その顔」と書いているけれど、「その」が指し示すことばは「その」の前にはない。その先に、最終連にあるのだが、まるで予言するように(予知するように)、「その」が動いてしまう。
 ふと見えたものを、忘れないうちに書いておく。
 学校作文の文法では、そういうことが許されないだろうけれど、詩は、許される。
 予知を確かめるようにして、最終連のことばが動く。
 椅子は木馬。木馬は、次の瞬間ほんものの馬にかわり、タテガミも必要になってくる。 ここが、ほんとうに楽しい。
 遠くから見ると、椅子は黒い木馬のように「見える」。小原は書いていないが、木馬のように「見える」。その「見える木馬」が、「見えない」タテガミを立てている。
 「見える」と「見えない」が共存しているのである。この共存は「矛盾」である。「見える」ものが「見えない」というのは変である。
 だからこそ、ここに詩があるのだ。

 小原は、それまで「見える」比喩を書いてきた。「見える比喩」というのは、もうありきたりになってしまっているということかもしれない。古い、ロマンチックという感じがするのは、ありきたりだからかもしれない。
 それが最後になって「見えない」が(ほんとうに、いま/ここに存在しないものが)出てきて、強烈な光を放つ。ほんとうに「いま/ここ」では「見えない」ものだからこそ、「比喩になる」必要があったのだ。
 比喩を動かしているうちに、ほんとうの比喩が出てきて、小原のことばをのっとってしまったのである。これはことばの肉体のしわざである。
 いいなあ。
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長嶋南子「創世記」

2011-12-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「創世記」(「きょうは詩人」20、2011年12月26日発行)

 長嶋南子「創世記」は読みはじめてすぐに「聖書」の「創世記」のパロディーであることがわかる。私は「創世記」を読んだわけではないのだが、まあ、聞いて知っている範囲でのことだから、感想もいいかげんになるけれど。

初めに部屋は鍵がつけられた
部屋のなかは大いなる闇があり
光あれといって電灯をつけた
昼と夜は逆転された
こうして夜があり朝があり 第一日

ついで空を飛ぶものとして文鳥を
つがいで飼い始めた
こうして夜があり朝があり 第二日

 パロディーの安心感は「文体」が落ち着いていることである。--と書いて、あ、違うなあ、と思いなおす。
 パロディーはたしかに先行することばの枠組みを借りて自分のことばを動かしてみることだが、誰かの「文体」の枠を借りるからといって、必ずしもそのとき書かれる「文体」が安定するわけではない。
 誰かの「文体」を借りれば、誰でも「文体」が落ち着くのであれば、誰もがパロディーを書くだろう。
 パロディーには、何か、特別な「力」が必要なのだと思う。
 で、それは何?
 というようなことは、この2連だけではわからない。

この部屋に根付くものをと願い
その通りになった
アロエ一鉢
こうして夜があり朝があり 第三日

ついで水の生きものが群がるように
メダカ どじょう 金魚
生めよふえよ 水に満ち
こうして夜があり朝があり 第四日

ついで野の獣をと思う
その通りになった
白猫とミニチュアダックスフントが来た
こうして夜があり朝があり 第五日

部屋には犬と猫 文鳥と金魚 アロエ一鉢
すべてを支配し名をつけた
こうして夜があり朝があり 第六日

部屋のなかはすべて完成し
祝して聖なる休日としてコンビニに走る
こうして夜があり朝があり 第七日

 もとの「ことば」が持っている強さと向き合い、同じようにことばを強くするためには、きっと決まりがある。そして、その決まりは、独断で言うのだが、パロディーのなかで動くことばの「距離」の「一定」である。
 ことばの「物差し」が「一定」である、といえばいいのかな?
 文鳥、アロエ、メダカ、どじょう、金魚、白猫、ミニチュアダックスフント。どれも、見たことがあるなあ。知っているなあ。ここにイグアナなんかが紛れ込むと「一定」が崩れる。
 で、この「物差し」(一定)が、いちばん明確なのは「第七日」にでてくる「コンビニ」である。
 「暮らし」(日常)がそのまま「物差し」になっている。
 「日常の暮らし」という「物差し」で、もとの文体のことばを作り替えていくのだ。もとの文体をのっとるのだ。「物差し」そのもを交換してしまうのだ。「ことば」の入れ替えではなく「物差し」の入れ替えなのである。
 文体の「枠」を借りるのではなく、むしろ、ことばとことばの「距離」の取り方を借りるのである。
 いい表現が思い浮かばないのだが--強引に比喩をつかっていえば、たとえば「聖書の創世記」がメートル法でことばを選んでいるとしたら、「長嶋の創世記」は尺貫法でことばを選んでいる。「聖書の創世記」がメートル法で貫かれるのに対し、「長嶋の創世記」は尺貫法で貫かれる。
 そうすると、自然に、尺貫法のサイズの「創世記」になる。そうして、「物差し」が違っているだけで、ほんとうは同じ何かがつくられている--同じ何かをつくろうとしても、「物差し」が違うと自然に違ったものができあがるのだということに気がつくのだが。
 うーん。
 そういう世界をつくる上げるためには、まず自分自身の「物差し」を確立しないと行けない。「物差し」が決まっていないと、自分の「物差し」のあてようがないのである。

 長嶋は、長嶋の「物差し」を持っているのだ。それがパロディーによって、より鮮明になるのだ。長嶋は「聖書」の「文体」など借りてはいないのだ。
 「文体」を借りるというのは、「物差し」を借りることである。
 長嶋は、「文体」を生き直しているのだ。自分の「物差し」で「文体」をつくり直しているのだ。

鍵のかかった部屋の前には母親だという女が
いつもご飯をおいていく
青年は部屋をみまわし満足して
深い眠りにつく
太りすぎた青年のからだからは
あばら骨を取り出せなかった
したがって女はつくられなかった

 笑ってしまうねえ。
 「物差し」が強靱になりすぎて、「物語」を完全に破壊し、つくりなおしてしまう。「文体」をつくりなおすと、「物語」も自然に変わってしまうのだ。
 そして、このとき、ことばなんて、こんなもの--と一種の「開き直り」のような快感が生まれる。
 「聖書の創世記」が言っている(書かれていること)なんて、ほんとう?
 男のあばら骨から女がつくられたなんて、ほんとう?
 いいかげんなことを書いているんじゃない?
 だって、引きこもりの息子(たぶん--母親ということばが出てくるからね)には、女がいない。あばら骨から女がつくられるなんていうのは、うそ。
 そうではなくて、女が男を産んだのだ。
 --これは、長嶋が、自分の体験だから、証明できる。肉体がはっきりおぼえている。
 で、ね。
 こんなことを書いていいかどうかわからないけれど(と書きながら、私は書くのだけれど)、「聖書」のことばなんか、嘘っぽいよねえ。男のあばら骨から女が生まれたなんて。何が嘘ぽいといって、そこには人間関係の「めんどうくささ」がない。生きることの「めんどうくささ」がない。
 現実は。
 女は子どもを産んでしまうと(それが男とか女とかは関係ない。ここでは、たまたま息子、つまり男だけれど)、ほおっておくわけにはいかない。めんどうをみなければいけない。「いつもご飯をおいておく」ということをしなければいけない。
 いや、しなくたっていい、という意見もあるだろけれど、そういうしなくていいことをしなければいけないのが「めんどうくさい」ということ。
 でも、そんなめんどうくさいことに、ずーっとかまけているわけにもいかない。
 どうすればいいかなあ。
 せめて、ことばで「いじめ」てしまえ。憂さを晴らしてしまえ。
 あんなにぶくぶく太ってしまって、あれじゃあ、女はできないねえ。世話をしてくれるいい女なんてつかまえられっこないねえ。--と「露骨」にいうのではなく「太りすぎた青年のからだからは/あばら骨を取り出せなかった/したがって女はつくられなかった」と聖書のことばを逆手にとって、言いたいことを言ってしまう。
 そして、これがおかしいのは、そこに「論理」があるから、というよりも。
 そこに長嶋の「肉体」があるから。「暮らし」の「物差し」の基準となる「肉体」があるから。
 私は長嶋には会ったことがない。写真は見たことがあるかなあ。あっても、おぼえていないのだから、見ていないということだね。--それなのに、この最後の3行を読んだ瞬間、長嶋が見えるように感じるのである。
 「息子、男ってめんどうくさい。女は男のあばら骨からつくられたなんていいながら、実際になにかしているのは女なのに。ばかな男たち」
 でも、こんなことは、こころのなかで言ってしまえば、知らん顔して、そのまま生きて行ける。なんでもかんでも、こころのなかで言ってしまって(ほんとうは詩にしているんだけれど)、あとは、知らん顔して生きていけばいい。

 長嶋はなんでも知っている。
 でも、知らん顔をする。
 聖書の「創世記」。知っている。でも、知らん顔して、電灯をつけて昼と夜を逆転させるとか、文鳥だとか、アロエだとか、メダカだとか、ミニチュアダックスフントだとかで、「世界」を描写してしまう。
 いいなあ、この知らん顔。
 うん、大丈夫。人間はいつでも生きて行ける、と励まされた気持ちになる。
 「太りすぎた青年のからだからは/あばら骨を取り出せなかった/したがって女はつくられなかった」なんて言われたら息子は怒るだろう。
 でも、怒ることが、生きること。
 母親の長嶋は、息子が部屋からでてきてなにかすることを願っている。それが「怒る」とういことでも、自発的に、自分のことばを動かす。そこから「生きる」がはじまる。
 --とは、書いてはいないのだけれど、そういう「呼吸」が、長嶋のことばにはある。だから、読んでいて、いやな気持ちにならない。おかしい、楽しい、という感じになる。
 さっきまでつかっていた「物差し」を「呼吸」ということばで言いなおして、今書いたことを書き直すと、もっと長嶋のことばの「肉体」に近づくことができるかなあ、と今、ふいに思ったけれど。
 これは次の私の課題。
 私は目が悪くて40分以上書くと頭痛がする。で、きょうの「日記」はここまで。
 長嶋さん、中途半端でごめんなさい。




猫笑う
長嶋 南子
思潮社
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八柳李花ー谷内修三往復詩(15)

2011-12-29 23:35:58 | 
こんなにも忌まわしい  谷内修三


昔読んだ詩のなかに美しい愛のグラスが満たされる
二人が熱い血潮を注ぐとき銀のグラスが透き通り
二人がことばをかわすとき二人のまなざしが睦み合う
二人の固い約束のつぼみは時間をくぐりぬけ睡蓮のように花開く

「あなたの愛が少なくなったら私は私の愛を注いで
グラスを満たしあなたが飲むのを待ちつづける」
昔読んだ詩のなかのグラスは希望に満たされる 昔読んだ詩のなかでは
あなたの愛が遠くなれば私の愛はさらに強くなる

ああそれは私がかつて夢見て書いた幼い詩 愛を知らない子どもの詩
冷えてしまったグラスには不安、悲しみ、さびしさが我先にあふれ、なだれ
つまらないことばが耐えているこころをチクチクと刺す
こんなにも忌まわしい嫉妬の毒 疑惑の毒で私は生き絶え絶え

あなたはなぐさめのかわりに怒りを注ぐ「私は変わっていない」
今書いている私の詩のなかでは愛のグラスの水面は激しい波に大揺れ
そして涙の水平線は喉元までこみあげているので
零れ散るあなたの気持ちを私はのみこめない

あなたの読んでいる詩のなかで 愛のグラスは壊れて割れてしまいそう
どうかなつかしい手でグラスの形を、そのひびをつつんで守っておくれ
もしもあなたが私の書いている詩を読んだなら
昔読んだ愛の詩をなぞるように 
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池井昌樹「聖火」

2011-12-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「聖火」(「歴程」577 、2011年12月20日発行)

 池井昌樹「聖火」は大事にしていた洋燈が引っ越した先で落下し砕け散ったときのことを書いている。いったん、書架の上に置き、それから最後の作業にかかる。
 
最後の作業に取り掛かろうとした私の何処かが書架に触れ、洋燈は落下し大音響とともに呆気無く砕け散った。引っ越しの無事を見届け自らの役は終わったとでも言わんばかりに。台所に居た妻が駆け付け無言で破片を集め始めた。私も無言で見下ろしていた。木端微塵の中に無疵のままの火屋(ほや)があった。拾い上げ、どう透かして見ても疵一つ無かった。その火屋を今は大書架の書物の隙に挿(はさ)んである。窓外の緑の戦(そよ)ぎが火屋の膚(はだえ)に映え映り、心做しか微笑んでいるように見える。
斯くして洋燈は永久(とこしえ)に喪(うしな)われ、その焔は今此処へ、私の胸へ永久に宿ることとなった。しかし、私はかつて一度たりとも洋燈の点(とも)す灯を目にしたことがあるだろうか。どうしても思い出せない。あの美しい揺らめきを、私は誰よりもよく知っているのだが。

 「斯くして洋燈は永久に喪われ、その焔は今此処へ、私の胸へ永久に宿ることとなった。」の「今此処へ」がとても美しい。
 「今此処へ」の「今」はランプが形をとどめていた「かつて」ではなく形を失ってしまった「今」。それはすぐにわかるのだが、「此処へ」の「ここ」はすぐにはわからない。「私の胸へ」と言い換えられて、はじめて、そうか「ここ」とは「胸」のことか、とわかる。
 で、わかった瞬間、あれっ、とも思う。
 ひとは大事なことは何度でも繰り返して言う。言いなおす。「ここ」は「胸」と言いなおされて、切実になる。どこかほかの場所ではなく、「肉体」の内部である「胸」、私(池井)と切り離せないものになる。
 そのとき。
 「ここ」といっしょにあった「今」は?
 「永久」に変わっている。
 私が、あれっ、と思うのはここである。
 なぜ、

その焔は今此処へ、「今」私の胸へ宿ることとなった

 ではないのか。
 「今此処へ」を正確に言いなおすなら、「今私の胸へ」である。「今」と「今」、「此処」と「胸」が対応してこそ、論理的な文になる。しかし、池井は「今」とは言わずに、「永久に」と言う。
 「今」は「永久」ではない。--だから、ここに書かれていることは矛盾していると指摘することが可能である。
 けれど、矛盾とは感じない。
 なぜなんだろう。

 また、「斯くして洋燈は永久に喪われ、その焔は今此処へ、私の胸へ永久に宿ることとなった。」という文には「永久」が繰り返される。この繰り返しも、また変だねえ。いや、変ではないかもしれないけれど、一つの文に「永久」というような重たいことば、おおげさなことばが2回繰り返されるのはみっともない--と、たぶん「学校教科書」の作文なら指摘するだろうねえ。
 なぜ、こんな、推敲されていないような印象をあたえる文を池井は書いたのか。いびつな(?)ことばの運動をさせたのかなあ。
 --と書いたのは、私の方便。
 「永久」が繰り返されることで、おもしろいことが起きている。
 「永久-今-永久」という「時間」を指すことばが、とても強烈に結びつき、「今」のなかで「ひとつ」になるのを感じるのだ。
 そして、最初の「永久」は、ランプそのものが壊れた「過去」から出発して「未来」へと動いていく時間なのに対して、胸のなかの「永久」は「今」から出発して「過去」へと動いている時間である。「胸」が思い起こすのは、「かつて」の壊れていないランプである。
 こういうふたつの逆向きの時間が結びついているが「胸」のなかという「場」なのだけれど、その「場」を、

斯くして洋燈は永久に喪われ、その焔は今私の胸へ永久に宿ることとなった。

 と「此処へ」ということばを省略した形にしてしまうと、何か、物足りない。
 「胸」は「胸」に間違いないのだけれど、「胸」の前に「此処」といってしまって、それを「胸」と言いなおす--そのときに、「此処」「胸」が「場」であるという感じが強くなり、「場」が明確だからこそ、「永久-今-永久」という矛盾した(?)時間の結晶を支えきれるように思える。

 あ、書きたいことから、ちょっと脇道にずれてしまった。
 軌道修正して、少し戻ると……。
 「永久-今-永久」という時間の結びつきは、「過去-今-未来」という現実におきた時間の流れと、「未来-今-過去」という「胸」のなかで起きている時間の流れを矛盾したまま結びつける。
 区別がつかなくなる。
 区別しようとはすればできるけれど、そういうことをするのは、とってもうるさい感じがする。
 だから、あ、「今」という一瞬において、過去と未来が結合して、それは自在にあっちへ行ったりこっちへ来たりしている、と思えばいいと思うのだ。

 で、そういう、あいまいな、というか、いいかげんな「時間」の結晶をランプが潜り抜けるとどうなるか。時間のプリズムをランプの光が潜り抜けると、それはどんなふうに屈折するか。
 これが、またまた、おもしろい。

しかし、私はかつて一度たりとも洋燈の点す灯を目にしたことがあるだろうか。どうしても思い出せない。あの美しい揺らめきを、私は誰よりもよく知っているのだが。

 私(池井)はランプに点った火を見ていない。見た記憶がない。けれど、その火の「美しい揺らめき」を知っている。--見たことがないのに、知っている。
 矛盾でしょ?
 見たことがないのに知っているのというのは、勘違いというものでしょ?
 でも、これは「見る」を肉体の目に限定してのことだね。
 想像力で、言い換えると「心の目」、つまり「胸の目」で、池井はランプの火を見ているのだ。それは、そのランプを買ったとき(買おうとしたとき)見えた火である。そして、それは「想像力」、「胸の目」で見たものだけれど、その「胸の目」こそ、池井にとっては「肉眼」なのである。「肉」になって、体のさまざまな部分で動いている(働いている)目なのである。「肉体になってしまった目」なのである。
 「私は誰よりもよく知っている」と池井は書いているが、この「私」は「私の肉・目」のことである。それは「永久-今-永久」を見ている目でもある。そしてそれは池井ひとりの目ではなく、池井の肉体のなかにある「遺伝子の目」でもある。それは「永久-今永久」のように、「いのち-池井-いのち」という形でつながっている「目」なのだ。
 この「いのち-池井-いのち」のつながりのなかで目が見るものは、すべて「美しい揺らめき」である。

池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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山口賀代子「薔薇園(Ⅱ)」

2011-12-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「薔薇園(Ⅱ)」(「左庭」21、2011年12月15日発行)

 山口賀代子「薔薇園(Ⅱ)」は、書かれていることがはっきりしない。けれど、文体ははっきりしている。そこがおもしろい。

薔薇園の薔薇の根もとに埋めてきたものがある
おもいだしたくないこと
それは恥やわかいころ他人にあたえた酷い仕打ちや欺瞞だったかもしれないが
埋めたという記憶だけがのこり
こまかなできごとを忘れている あるいは
忘れたふりをしている

 「埋めてきたもの」が何であるか、ここでは明確には書かれていない。何かが書かれると、すぎにそれは否定される。「何か」は「おもいだしたくないこ」「恥」「わかいころ他人にあたえた酷い仕打ち」「欺瞞」と抽象的に語られたあと「埋めたという記憶だけ」になっている。
 「もの」(対象)は存在せず、「記憶する」という動詞だけが残っている。
 けれど、これもまたすぐに否定される。「記憶している」はずが、「こまかなできごとを忘れている」。「忘れる」という動詞が「記憶する」という動詞を否定していく。
 おもしろいのは、このあとさらに山口が「忘れたふりをしている」と書いていることである。「記憶する」も「忘れる」も否定し「ふりをする」が残る。「忘れたふりをしている」なら、「記憶しているふり」もできるはずである。
 「ふりをする」とき、「記憶する」も「忘れる」も同義なのである。正反対のこと、正反対の動詞が「同じ」になってしまう。
 山口が書いているのは、この、すべてを「同質」にしてしまうことばの運動である。
 ことばは書かれることで、すべてを「同質」にしてしまうのである。そして、この「同質」の感じが、文体を強靱にしている。

 詩に戻る。
 「記憶している」と「忘れている」は同質である。--この1連目の「定義」は2連目で繰り返される。繰り返されることによって、すべてを「同質」にする文体が、より一層強くなる。

いくつかのできごとをわたしは忘れている
あるいはなまなましく記憶している

 ここでわかることは、「同質」をつくりだすことばが、「あるいは」という逆説をあらわすことばであるということだ。
 普通「同質」なのものは、逆説ではなく、あるいは否定ではなく、「肯定」によって証明される。いいかえると、「イコール」が「同質」ということなのだが、山口は逆に「否定」が「同質」であるというのである。
 この2連目の「あるいは」は1連目の最後の方にも出ている。そして、書かれていないが、実はそれより前にも存在している。

おもいだしたくないこと
それは恥やわかいころ他人にあたえた酷い仕打ちや欺瞞だったかもしれないが

 ここに「あるいは」を補って読むことができる。わかりやすくするために(あとでする説明のために)、改行をくわえて補足してみると……。

おもいだしたくないこと
それは恥や「あるいは」
わかいころ他人にあたえた酷い仕打ちや「あるいは」
欺瞞だったかもしれないが

 という具合になる。
 「や」は普通は並列(同等)をあらわすが、山口は「同等」ではなく「あるいは」を含んだもの、逆説を含んだものとして書いていることがわかる。
 逆説というのは「イコールではない」ということなのだが、山口は逆説もまたひとつの「イコール」である。「特別なイコール」である、と言っているようである。

 逆説というイコール。「あるいは」ということばのなかには、何が動いているのか。
 ただ動くということだけをめざしているものがある。そういうエネルギーがあるのだ。そして、そのエネルギーが文体を強靱にしているのだ。

 逆説という特別なイコール。そのなかで動くもの。それは、それではいったい何の役に立つのか。わからないねえ。役に立たないかもしれない。
 だからこそ、逆説としてのイコールは「虚無」を感じさせ、虚無というのは強靱になればなるほど、手ごわい。強い印象が生まれる。どうしていいかわからない。
 虚無の逆説の強靱さを残して、ことばは動いていく。

 なまなましい記憶はいずれ薔薇の養分として吸収され
 花を咲かせるだろう
けれども忘れられ 塵のように埋められたものたちはどうなのか
かりに忘れてしまったはずのものたちが
どこかで
記憶をおもいださせようと企んでいるのだとしたら
隠蔽されたことを恨んでいるのだとはしたら
たとえそれが誰かの悪意であっても
掘りおこされ おもいだされることを待っているのだとしたら

 ここにも「あるいは」は隠れている。
 記憶をおもいださせようと企んでいるのだとしたら、「あるいは」隠蔽されたことを恨んでいるのだとはしたら。
 あ、これは、おもしろいなあ、と思う。
 「あるいは」は逆説と私は書いたが、いま補った「あるいは」はほんとうに逆説なのか。--というのは、「あるいは」だけを見ていてもわからない。
 いま補った「あるいは」は、その位置をとって占める唯一のことばか、と考えると、おかしなことが起きるのである。
 「あるいは」は絶対ではない。
 この「あるいは」は、「そして」に置き換わっても何の不思議はない。「そして」は、ふつうはことばをつみかさねるときにつかう。それも「同質」のことば、肯定のことばをつみかさねるとき(矛盾しないことがらをつみかさねるとき)、つかわれる。
 「逆説」(否定)と「肯定」には差はないのである「逆説(否定)」と「肯定」は「土質」なのである。
 --変だねえ。矛盾しているねえ。
 こういう矛盾、へんなところへ紛れ込んでいってしまうことばこそ、詩なのだと私は思う。
 で、この視点から、つまり「逆説(否定)」と「肯定」は「同質」であるというところから1連目を読み直してみる。

おもいだしたくないこと
それは恥であり、「そして」
わかいころ他人にあたえた酷い仕打ちであり、「そして」
欺瞞だったかもしれないが

 「や」は「あるいは」を含んでいると最初に読んだが、そうではなく「であり、そして」をも含んでいる。
 さて、どっちをとる?
 どっちでも、可能だ。
 ことばは、否定も肯定も区別せず、同じ強さで動いて行けるのである。

だからわたしはこうして時々薔薇園を見まわりにくる
記憶が雨に流されないように
獣にほりおこされないように
わたし自身が覚醒しないように

 これは、2種類に読むことができる。

だからわたしはこうして時々薔薇園を見まわりにくる
記憶が雨に流されないように「あるいは」
獣にほりおこされないように「あるいは」
わたし自身が覚醒しないように

だからわたしはこうして時々薔薇園を見まわりにくる
記憶が雨に流されないように「そして」
獣にほりおこされないように「そして」
わたし自身が覚醒しないように

 どう読んでも「意味」は同じである。同じになるように、「同質」になるように、山口は書いている。すべてのことばを「同質」にする虚無の文体--私は、こういう文体がとても好きである。
 そこには虚無に耐える力がある。虚無に耐えてきたから、「同質」にも耐えることができるのだと思う。











詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房
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黒岩隆「鳥」

2011-12-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
黒岩隆「鳥」(「歴程」577 、2011年12月20日発行)

 黒岩隆「鳥」を繰り返し読んでしまった。

死ぬとしたら
あなたと死にたい

朝露で濡れた枯葉のなかで
溶けてゆく羽の 白のように
いちばん 誇りだったものを
汚してゆきたい

だれも来ない 森のはずれで
一日が暮れるだろう

月が出て
あるものと
ないものの境があいまいになり
ほの白く浮き出るものと
深々と沈むものとが
ひりひり抱き合っている

あなたは
僕とはゆかいなというだろう

ちょうどこんな夜に
つい はみだしてしまったのだ
大潮の波が
残してゆく潮だまりのように
僕の思念は
無音の窪みに
浸かってしまった

 「意味」はよくわからないのだが。
 書き出しの、

死ぬとしたら
あなたと死にたい

と、5連目の、

あなたは
僕とはゆかいなというだろう

 この2行ずつの連が、とても気になるのである。ここには「あなた」と「僕」がいるのだが、私には、その区別がうまくつかめない。
 1連目の「あなた」と5連目の「あなた」は同一人物か。
 1連目は、つまり、「ぼくは」死ぬとしてたら/あなたと死にたい、ということなのだろうか。主語が省略されているのだろうか。
 私には、なぜかわからないけれど、つまり直感で「誤読」しているだけなのかもしれないが、どうもそういう具合には音が響いて来ない。
 1連目の主語は「あなた」である。「僕」にとっての「あなた」が、つまり恋人か妻かが、「僕」向かって、死ぬとしたら「あなた」(つまり、僕と)死にたい--そう語っているように思えるのである。
 そう読んでしまうと、辻褄が合わないのだけれど、私は辻褄を合わせたくないのかもしれない。辻褄を超えるものを、読みとりたいのかもしれない。

 2連目の「いちばん 誇りだったものを/汚してゆきたい」というの行には「死ぬ」ということばが省略されているように思える。いちばん 誇りだったものを/汚して「死んで」ゆきたい。この欲望というか、この夢・願いは、不思議な「矛盾」である。
 なぜ、いちばん誇りだったものを汚したいのか。
 美しいものを美しいままに死んでしまっては、それがいつまでも記憶に残る。そうして悲しみは永遠につづいてしまう。それでは悲しすぎる。いつまでも、残された人が悲しんでいると思うと安心して死んでゆくことができない。だから、美しいもの、誇りだったものを汚して死んでゆきたい。そうすれば、私のことを忘れることができるはずだ……。
 この「矛盾」は、しかし、だれのことばなのか。
 あなた(女、と区別しておこう)の願いなのか、僕(男)が、女はそんなことを思っているのではないのか--と想像したことばなのか。
 でも、こういう「想像」は、過剰じゃない? 
 つい、過剰に想像してしまうほど、男は(つまり黒岩は、ということだが)女を愛していて、愛のあまり、何か区別がつかなくなったのかもしれない。
 4連目は、その区別のつかない感じがそのまま揺れ動いている。

月が出て
あるものと
ないものの境があいまいになり
ほの白く浮き出るものと
深々と沈むものとが
ひりひり抱き合っている

 私が「区別」と書いたものを、黒岩は「境」と呼んでいる。
 浮き出るものと沈むものの「境」があいまいになる。--これは、とてもたいへんなことである。「境」ではなく、運動の「方向」の区別がなくなるのだから。
 そして、そのことを黒岩は「抱き合っている」と書いている。
 抱き合うとは、「ふたつ」のものが「ひとつ」になることである。男と女が「一体」になることである。区別がつかなくなることである。
 その区別のつかない「一体」について、黒岩は「ひりひり」ということばで説明している。
 この「ひりひり」は、私には、表面が傷ついている感じを呼び覚ます。表面が剥がれて、内部が剥き出しになる。そのとき「ひりひり」する。抱き合って、一体になりすぎて、二人の「境」である「皮膚(肌)」が剥けてしまって、内面がぶつかりあって「ひりひり」する。
 その「ひりひり」のとき--もう、きっと「内面」の区別はない。
 その「ひりひり」はだれのもの? 男のもの? 女のもの? 
 区別がつかないだけではなく、「ひりひり」は「ひりひり」を通り越して、不思議なあたたかさになる。
 たとえて言えば、傷ついた指をなめる。そのとき傷口は唾液に侵入されるのだけれど、なんだかあったかくて気持ちがいいでしょ? 指を口でつつむ。舌でつつむ。区別がなくなり、痛みが溶けていく。ほんとうは「ひりひり」するところがあるのだけれど、わからなくなる。

 で。

あなたは
僕とはゆかないというだろう

 は、あなたは/僕とは「死んで」ゆかない、という。女は、私はひとりで「死んで」ゆく。あなた(男)は、私と別れて、別の道を、つまり「生きて」ゆく、「生きて」いってほしいと、願う。きっと、そういうふうに言うだろうと、男は想像する。
 そのとき、この男の想像を「論理的」に繋ぎ止めるには、1連目は、「男(僕)」であった方が都合(?)がいい。
 つまり、僕(男)は、しぬとしたらあなた(女)と死にたい、いっしょに死にたい、だから死ぬな、と言う。それに対して、女(あなた)は、私(女)はあなた(男、つまり僕)とはいっしょに「死んで」ゆかない。ひとりで「死んで」ゆく。あなた(男、僕)はひとりで「生きて」いってと、言うだろう。
 こう考えると、とてもわかりやすい。

 わかりやすいのだけれど、そのわかりやすさに対して、私の何かが異議をとなえている。そんなふうに論理的にことばが動いてしまっては、詩ではない、と私の本能がいやがるのである。
 論理的に読むと、4連目の「ひりひり」が落ち着かない。「境があいまいになり」が落ち着かない。

死ぬとしたら
あなたと死にたい

 これを「僕(黒岩/男)」の思いと考えると、すっきりしすぎる。
 あなた(女)が僕に対して「死ぬとしたら/あなた(男、僕)と死にたい」というのでは、女がわがまますぎることになる。
 でも、「僕(男、黒岩)」は、女(あなた)に、そう言ってもらいたかったのではないのか。
 ひとりで死んでゆくのはいや。さびしい。あなたといっしょに死にたい。
 そんな具合に、他人の悲しみなんか気にせず、ほんとうの欲望を言ってくれたら、どんなに気持ちが落ち着くだろう。
 「僕(男、黒岩)」といっしょに「死んで」ゆかない、私(女)ひとりが「死んで」ゆく。あなた(男、僕)は、私(女)について来ないで、ひとりで「生きて」いってください--というのは、けなげすぎる。
 逆に悲しい。
 悲しすぎる。
 その、悲しみが、この詩のことばを、不思議な形でゆさぶっている。

死ぬとしたら
あなたと死にたい

 これは、男と女の願いが「ひりひりと抱き合って」、「ひとつ」になっている願いである。1連目の発話の主語は「男(黒岩、僕)」であると同時に、「女(あなた、恋人、妻)」なのだ。



海の領分
黒岩 隆
書肆山田
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和合亮一「短い暮らし」

2011-12-25 23:59:59 | 詩集
和合亮一「短い暮らし」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 和合亮一「短い暮らし」(初出『詩の邂逅』06月発行)も大震災の詩である。大震災・原子力発電所事故後のことを書いている。

二時間だけの帰宅が許されるなら
私は何をするだろう

玄関の靴をそろえる
茶の間で泣く
祖母の写真を鞄に入れる
持って行きたい本を選んでやめる
パソコンのスイッチを入れてみる

洗面所の鏡に顔を映す
汗と涙で目元が濡れている
お風呂場で
お湯を溜めてみようか
トイレの水を流してみようか

冷蔵庫を開けてみると
いろんなものが冷たくなっている

電話 通じる
父と母に電話したくなる

寝室では 布団に寝転がる
目を閉じる 放射能の吐息


潮鳴り
窓 雲間に光
普通の暮らし

 二時間の終わり

 「二時間だけの帰宅が許されるなら/私は何をするだろう」と、想像の形でことばが動いていくのだが、実際の体験を書いているような切実さがある。体験したことを、想像の枠組みに入れてみたのかもしれない。現実なのだが、あまりにも理不尽で、現実にはしたくないのかもしれない。
 けれど、ことばは、いつでも作者の思いを裏切って動くものである。
 大震災を体験したひとの詩を「おもしろい」といっていはいけないのかもしれないが、この詩はとてもおもしろい。興味深い。考えさせられる。
 「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」--ここに書かれていることは、なんといえばいいのだろう、一種の「むだ」である。二時間の帰宅時間でしなければならないことはほかにもっとあるはずである。しかし、その重要なことがら(生活にほんとうに必要なことがら)をするのではなく、「いつもとおなじこと」をしてしまう。からだが、そんな具合に動いてしまう。人間はそういうことをしてしまうのかもしれない。
 --ということがおもしろい、という一面もあるが。
 何よりもおもしろいのはと、そういう人間の行動が、そのまま「ことば」になっている、ということがおもしろい。こういうことばは、まだ生きていたのだ。いきて、そこに「ある」のだ。
 ことばは、こういう「むだ」を語れるところまでもどってきたのだ。
 人間は、矛盾したことをしてしまう。むだなことをしてしまう。それは、行動哲学として、そういうものだと思うが、そのむだなことをするということと、そのむだなことをことばにしてみる。ことばをむだなことのために動かすというのは別のことである。ひとは何をしていいかわからず、「ぼうぜん」とむだなことをする。そこには、意識が動いていない。意識がなくてもというか、意識を裏切って人間のからだは動く。そういうことはある。たしかにある。
 それを、しかし、ことばにするというのは違うことだと思う。
 大震災直後、ことばには、こういうことができなかった。どう語っていいか、わからなかった。ことばそのものが「ぼうぜん」としていた。その「ぼうぜん」から、ことばはもどってきたのだ。
 不思議な安心感を感じるのである。日本語は生きている、と実感する。
 ことばにはもっとしなければならない仕事がある--かもしれない。たとえば、悲しみを怒りに変えて、事故を起こしたものを訴える、告発する、非難する。そうすることで、二度とそういうことが起きないようにする、という仕事をこそしなければならなついかもしれない。
 それはそれで、大事な仕事なのだが……。
 この詩に書かれているような、ささいなこと、むだなことを語ることばを、ひとつひとつ動かして、「ふつう」の形に戻すということも大切なことだと思う。どんなことばもいきつづけなければならない。そのことばにしか語れない何かがある。そのために、あらゆることばは生きつづけなければならない。
 あらゆることばを、よみがえらせなければならない。
 「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」ということばとともに動いている「肉体」。その「肉体」のなかにある、まだ「ことばにならないもの」。それは、いま和合が書いてる「ことば」といっしょに存在する。
 まだまだ「ことば」にしなければならないもの、「ことば」にならなければならないものがたくさんある。その「ことばにならないことば」を動かすためには、まず、いま和合が書いていることばが動かなければならない。
 そういうことばが、いま、動いているのだ。

電話 通じる
父と母に電話したくなる

 この部分も、とてもおもしろい。
 これは、学校教科書の日本語なら「電話が通じる/父と母に電話したくなる」である。助詞の「が」が必要である。また、改行の部分には「だから」など、「理由」をつげることばを補うとわかりやすくなる。
 しかし、そんな具合にことばを補っている余裕はない。余裕のないまま、ことばが動く。そして、そんなふうに動きながら、その動きが振り落としてきた「が」とか「だから」とかのことばが--なんといえばいいのだろう、ことば自身の「肉体」として息を吹き返そうとしている感じを教えてくれる。何かを、ことばの肉体のなかにある何かをつくり直そうとしている、その力を感じる。そういう力が「ある」ということを感じさせてくれる。
 まだまだ、ことばが「ある」のだ。
 まだまだ、ことばにならないことば、ふつうのことばが「ある」のだ。


潮鳴り
窓 雲間に光
普通の暮らし

 ここには動詞がない。述語がない。けれど、ことばが「ある」。そしてことばによって、そこに「ある」が出現してくる。「もの」が、「いのち」が出現してくる。

風「がある」
潮鳴り「がある」
窓「がある」 雲間に光「がある」
普通の暮らし「がある」

 そうして、その「ある」には、もちろん人間が「ある」(生きている)、私が「ある」(生きている、存在している)ということがつながってくる。
 その「ある」のつながりのなかに、もうひとつ、いままで考えて来なかった「放射能の吐息」がある--というのは、この詩の悲しみなのだけれど。それはそれとして、ことばは受け止め、さらに動いていく。

 この詩にははっきりした形の希望は書かれていない。けれど、ことばにならない希望が「ある」。






詩の邂逅
和合亮一
朝日新聞出版
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ビリー・ワイルダー監督「情婦」(★★★)

2011-12-25 20:01:00 | 午前十時の映画祭
監督 ビリー・ワイルダー 出演 タイロン・パワー、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン

 私は「結末は言わないで」という映画が好きになれない。苦手だ。なぜ、言ってはだめ? 映画ってストーリーじゃないでしょ? 私はどんな推理物でも、犯人が分かっていても、全然気にならない。むしろ面倒くさい「謎解き」に頭を使わなくてもいいから、「犯人」を聞いていた方が楽に見られる。悩むのは自分の問題だけで十分――と思う。
 で、この映画。
 「結末は言わないで」と断っているけれど、チャールズ・ロートンが自分で「どうもおかしい」と自分で言ってしまっているのだから、言うも言わないも、どうでもいいじゃない? 力点は、ストーリーそのものというより、ストーリーの周辺の人物の描き方に置かれている。(だから、「結末」なんて、どうでもいいじゃないか、とよけいに思う。)
 紋切り型かもしれないけれど、チャールズ・ロートンの「人間味」の描き方がていねいだねえ。葉巻が吸いたい。でも、止められている。看護婦がそばにいる。病み上がりなので殺人事件の弁護人なんか、したくない。――のだけれど、依頼に来た人の胸のポケットに葉巻があるのを見て、「それじゃ、お話をうかがいましょう」と事務室へひっぱりこむ。葉巻をねだる。それから、肝心のマッチがないことを知り、タイロン・パワーも事務室に引っ張り込む。直接話を聞くという名目で・・・。このあたりのリズムがなかなか楽しい。
 そして、この一種の「正直」丸出しのチャールズ・ロートンと曲者のタイロン・パワーが関係してくるのだから、これはもう、タイロン・パワーが犯人に決まっているのだけれど、まあ、私なんかは、気づかなかったふりをしてそのまま映画を見ているのだけれど。
 それから、「正直」というより、色男ぶりを利用して女に近づいてゆくタイロン・パワーの「甘さ」――それを見ながら、なるほどねえ、女はこうやって「甘さ」で誘うんだなあと感心する。(チャールズ・ロートンは看護婦に手を焼かせ「ほんとうに、面倒みてやらないと大変なんだから」と「甘やかせる」楽しみを与えるのとは逆だね。)
 そのタイロン・パワーの「甘さ」に、マレーネ・ディートリッヒの「硬質」が出会って、あらあら、あんな気位の高そうな(ほほ骨が高いだけ?)の女も、やはり「甘さ」にひかれるんだなあ。もしかすると、タイロン・パワーが私(マレーネ・ディートリッヒ)の中に、誰も知らない「甘さ」があって、それが共鳴しているのかしら、と勘違いするのかなあ。
 最後まで映画を見ていくと、まあ、マレーネ・ディートリッヒの女の「甘さ」が、「正直」として噴出してくる――これは確かにおもしろいなあ。そしてこの瞬間、理論的に見えたチャールズ・ロートンの「甘さ」も初めて浮かび上がる。チャールズ・ロートン自身は、どこかで自分の詰めが「甘い」と感じていたけれど、最後にそれを知るという構造だけれど。
 で。そのおもしろさって、「結末」を知っていた方が、くっきりわかるんじゃないのかなあ。ストーリーに気を取られていたら、3人の「正直」と「甘さ」のぶつかり合いが見えないんじゃないかなあ。なぜ、「結末」を言ってはいけないのかな?
 監督も役者も、苦労したのは「ストーリー」ではなく、「肉付け」でしょ?
 「ストーリー」は小説で、すでにわかっていたのでは?

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清水あすか「我が無く、ふるえ。」(2)

2011-12-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
清水あすか「我が無く、ふるえ。」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)

 清水あすか「我が無く、ふるえ。」についてはきのう少し感想を書いたが、どうも書き切れない。書いたという気持ちになれない。
 この詩は、私にとって2012年に読んだもっともすばらしい詩である。もっとも感動した詩である。どんなものでもそうだろうけれど、感動すればするほど、書くことがないというか、書けない。ことばは、私の知っている範囲でしか動かない。けれど感動というのは、私の知らないところからやってくるから、それをどんなふうにことばにしていいのかわからないのである。
 それでも、私は、それをことばにしてみたい。
 すばらしい詩、優れた詩には、どんな注釈もいらない、ただ繰り返し読み、そのことばを自分の肉体のなかに取り込めばいいものだと知っているけれど、私は、やっぱり自分のことばと向き合わせてみたい。
 私の読み方では清水の詩の最良の部分は見えなくなるばかりなのかもしれない。つまり、私は、読めば読むほど清水の詩から遠ざかることになってしまうのかもしれないけれど、それでも書いてみたいのである。

おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。
今資材置き場になっているとこだよ。

 この1連目は舌足らずである。何が言いたいのか「正確」にはわからない。これは清水が、ことばを「流通言語」にしていないということである。「流通言語」にはできないのだ。誰もが語っていることば、いえばそのまま「意味」として他人に理解されることばには、できないのだ。
 何か衝撃的なことがあると、その衝撃に打ちのめされて、学校教科書にあるような、「正しい日本語」にはならない。これはあたりまえのことである。そして、その衝撃が、まだだれによっても「正確」に語られていないなら、なおのこと、正確には書けない。
 ことばは誰かから学びながら動かすものである。
 自分しか知らないことを、他人にわかるように、「流通言語」ですぐに書けるはずがない。それがだれかにわかるように書けるようになるまでには時間がかかる。
 木村敏夫は『日々の、すみか』で阪神大震災のことを書き、すべては遅れてやって来ると書いたが、遅れてしかやってこないのである。肉体のあらゆるところをとおって、ことばが動きはじめる。いきなり「頭」ではことばは動かせない。
 清水は、「おまえ」を「おぼえている」。おまえが「と、思った」といったことを「おぼえている」。いま、ここに清水はいるのだが、そのここは「農協の跡地」であることを「おぼえている」。そして「いま資材置き場になっている」ということを知っている。それから、いま、ここが「ある」ということに直面している。
 私(清水)が「いる」と、そこに何かが「ある」。そして、私(清水)が「ある」。「いる」と「ある」をどうつなげばいいのか、そのことばの回路がわからないけれど、清水はまず「ある」ということばにひっぱられている。
 「ある」とはどういうことか。「知らない」。ただ「おまえ」をおぼえている。「と、思った」といったことを「おぼえている」。その「おぼえている」が、いま、ここで清水を強烈に動かしている。農協の跡地が「ある」ために。もし、農協の跡地がなければ、「ある」は清水を突き動かさないかもしれない。
 失われずに「ある」ものは「ある」。それとは逆に、失われてしまったものも「ある」。同じ「ある」ということばを使いながら、肉体は、そのふたつの「ある」に引き裂かれる感じだ。

そこに、この世でない、があるよ。

 そうして、ふたつの「ある」に引き裂かれた肉体が見る(感じる、つかみとる)ものが「この世ではない」かもしれない。
 「この世ではない」は、そこ(農協の跡地、資材置き場)に「ある」。しかし、それは清水が、いま、そこに、そこにはない「過去のこの世」を重ねあわせるから「この世でない」が姿をあらわすのである。
 清水は「この世」を「おぼえている」。そのおぼえていることが、いま、ここを「この世でない」に「する」。
 「この世でない」は、たしかに「ある」。そしてそれは「ある」のだけれど、ほんとうは清水が「この世でない」にしている。(している、という言い方はちょっと変だけれど。)清水が、「かつてのこの世」を「おぼえている」ということによって、「この世でない」が「ある」という状態になる。
 では、清水が「かつてのこの世」を思い出さなければ「この世でない」は消えるのか--というと、そんな単純にはいかない。「認識」の算数、意識の算数はそんな単純な計算方法では動いてくれない。簡便な「式」がつくれない。
 ことばは、どうしたって矛盾というか、どうにも整理のつかないところを動いていくしかない。
 そして、このときの動き。これが、とても美しい。美しいということが清水の詩に対して適切な表現であるかどうかわからないが、私には美しく感じられる。美しいということばしか、いまの私には思いつかない。

木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
そんな余白におまえ
立っていた、を知っているよ。

 「この世でない、がある」と知ってしまった。
 それでも、ことばは「この世」とともに動いてしまう。この世を描いてしまう。木材の下の、どくだみの花。西日がさしている。どくだみの花は白い。それは「あの世」でなく「この世」の姿である。
 それを見つめ、また何かを思い出す。
 「おぼえている」のは、おまえが、やはり清水がどくだみの花に気がついたように、何かに気づいて、我を忘れて(余白の状態で)、何かを見つめていたということだ。おまえが何かを見つめ、立っていた。--それを「知っている」。
 おまえが何を見つめていたか、何を感じていたか、それは「知らない」。けれど、ある日、立って、何かを見ていた--その「立っていた」を「おぼえている」。
 そして、「おぼえている」ことと「いま/ここ」をつないでみると、

アスファルトの突起でできた影や
としょうりがくわえて歩いていった煙っ端に
おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。

 「おそろしい、になる前のおそろしさや/うつくしい、になる前のうつくしい」が「ある」ということに気がつく。
 この「ある」は「農協の跡地にあるよ」「この世でない、があるよ」と同じものである。--同じものである、と仮定して、清水の「ある」にこめられた思いを辿ってみたい。
 「農協の跡地にある」の「ある」を説明するとき、私は、清水が「おまえが、『と、思った』」と言ったことを「おぼえている」と書いた。「おぼえている」のは「いま」よりも「前(過去)」のことである。
 「この世でない、がある」と清水が感じたのも、以前の(過去の)「この世」を「おぼえている」からである。前と比較して、いま/ここを「この世でない」と言っている。
 「おぼえている」こと(前のこと)を比較・対比して、いま/ここに「ある」ものを「ある」と言っている。そして、それは「ある」ということしか言えない。ほんとうはそこに「ある」ものを「この世でない」ではなく、別なことばで言いなおさなければならないのだけれど(実際、それは「この世」なのだから)、それが言えないために、この世で「ない」という否定形をつかって、方便として言っているに過ぎない。

おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。

 という2行は、「この世でない、がある」という表現のように言いなおしてみると、きっと

おそろしいでない、がある
うつくしいでない、がある

 なのであるけれど、その「おそろしいでない」「うつくしいでない」は、言い換えることばがない。「この世でない」というような便利な(?)ことばが「流通言語」として存在しない。「おそろしいでない」「うつくしいでない」ということばはまだ存在せず、「おそろしい」「うつくしい」ということばしかない。ただし、それは清水が「おぼえている」ような「前のおそろしい」「前のうつくしい」とは完全に違っている。だから、

おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。

と書くのだが、これは

私がおぼえている「おそろしいではない」おそろしさが、いま、ここに「ある」
私がおぼえている「うつくしいではない」うつくしさが、いま、ここに「ある」

があるということであり、

私はいまここで体験しているおそろしいではないおそろしいをおぼえている
私はいまここで体験しているうつくしいではないうつくしいをおぼえている

 ということでもある。
 世界は完全に違ってしまった--それをあらわす「正しいことば」が「ない」と清水はいうのだ。
 しかし、「正しいことば」がなくても、人間は語らなくてはならない。語りかけなければならない相手がいる。
 清水には「おまえ」がいる。いなくなってしまった「おまえ」が「いる」。--矛盾の形でしか表現できない「おまえ」が「いる」。

ね、そこらへんの石一つを
おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
だいじょうぶ。

 「いいんだよ」はもちろん逆説である。逆説でしか、語れない。おぼえている、忘れない。そう語るとき、そこに「墓石」ではなく「石一つ」という現実が立ち上がってくる。それを正直に書く。そこに「美しい」があらわれる。
 清水は人を弔うとき「墓」が必要なことを知っているのではなく「おぼえている」。「おぼえている」ことを動かして、墓石のかわりに「石一つ」をつかう。「おぼえている」ということは、肉体を動かし、何かをできるということである。そして、そのできるものを探し出せるとき、ひとはそれを「おぼえている」と言えるのである。
 「だいじょうぶ」は「忘れない」「おぼえつづけている」である。おまえを「おぼえつづけている」から、と清水はおまえに言い聞かせ、自分に言い聞かせる。
 言い聞かせることで「一体」になる。
 でも、さびしい。
  
あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!

 これは、絶対的な「さびしい」である。
 「おそろしい」や「うつくしい」も、以前に比べると、今の方が絶対的だが、特に「さびしい」は絶対的なのだが--不思議なことに(といっていいのだろうか)、それは人と人を寄り添わせる。こころをつなぐ。

あのふくらみにふくらんだ
空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりゆらつく自転車。
あそこに入っているのは、さびしい、になる前のさびしさだ。
花の白さにも、木目にも
影にも煙のきわにもあったものだ。そして
そこへ立っていたおまえにも。

 さびしいはおまえにも「ある」(あった)。それを清水は気づかないできた--というと言いすぎになるのかもしれないけれど、そのことにはっといま気がついた。それは、いま、ここにいないおまえは、いまここにいるおまえよりももっとさびしいと気づくことでもある。
 「この世でない」ところを体験しているおまえ、いままで知っているおそろしいものを超える絶対的なおそろしさを体験したおまえ、そのおまえは、いまここにいる私(清水)よりも絶対的にさびしい。
 たどりつけないさびしさにいる。
 そういうさびしさがある。

 だから、清水は、おまえに呼びかける。

資材置き場を見つけたね。余白を
そこらへんの石一つに
託したって、
いいよ。

 おまえのさびしさを、資材置き場の余白につれてもどっておいで、石ひとつにさびしさを託してもどっておいで。おまえがどんなにさびしいか、私(清水)は「おぼえている」。だから、おまえが資材置き場の余白に、あるいは石にさびしさを託せば、それが私にはわかる。おぼえていることは間違いなくわかる。

おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。
今資材置き場になっているとこだよ。

 ね、ちゃんと、おまえと会ったよ。会っているよ--清水は、そう語りかけている。
 1行1行、書きすすめながら、清水はおまえに会っている。私(清水)が見ている「この世」は私一人で見ているのではない。「この世」に私が「ある」とき私ひとりではない。いつもおまえが私とともに「ある」。
 さびしさでしっかり結びついて、いっしょに「ある」。
 さびしくない--とはいわない。さびしい。いっしょに「さびしい」と言おう、と呼びかけている。



現代詩手帖 2011年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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ジェフリー・アングルス「先見者 多田智満子に」、清水あすか「我が無く、ふるえ。」

2011-12-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルス「先見者 多田智満子に」、清水あすか「我が無く、ふるえ。」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 ジェフリー・アングルス「先見者 多田智満子に」(初出「ミて」116 、09月発行)は中盤が美しい。多田智満子の翻訳の文体に似ている--というと変な言い方になるのだろうけれど、私はジェフリー・アングルスを知らないので、そう思ってしまった。多田智満子も、私は実は知らない。何冊かの翻訳を読んだだけだけれど、ことばに無駄がない。異質なものが、異質ではなく、新しい何かに結晶する--そういうことばの運動を感じる。多田智満子の文体をジェフリー・アングルスは吸収し、突き破るところまで動いて行っているのだと思う。

見えない漁夫が
網を 暗い海に
繰り返して 何度も
投げているうちに
魚のかかる日は
きっとやって来る
(ここで 先見者は一瞬
ドラマチックに中断する)
透明な網糸は 最初は見えず
鱗を優しく愛撫するだけ
囲む網が狭くなると
暗い海が光ってくる
銀貨の山のように
(コップを廻しながら
彼女は話し続ける)
やがて 恋人のように
網が魚を抱きしめる
編目は 海を吐き出して
息切れする魚だけ残る

 「見えない漁夫」なのに、なぜ、そこに漁夫がいると書かれるのか。
 --ここに、この詩の(あるいは多田の、あるいはジェフリー・アングルスが多田から吸収したことばの運動の)基本というか、出発点がある。
 「見えない」ものも、ひとはことばにすることができる。
 漁夫が見えないなら、当然、その漁夫が投げている網も見えないはずなのだが、「繰り返して 何度も/投げているうちに」と、その運動が描かれ、そのときから私たちは漁夫ではなく、繰り返される網の動き、網を動かす漁夫の肉体の動きのなかに引きずり込まれていく。
 私たちは「もの」ではなく、「動き」を見ている。
 見えないのに。
 なぜだろう。
 「見えない」を強調するように、最初は「暗い海」と「暗さ」が強調される。けれど、それは「暗い」から見えないのではない、ということが、

透明な網糸

 その「透明」に変わっていく。
 この「透明」が、私には、なぜか「運動」に思えるのである。網と透明である。しかし、その網が「動く」。そこに「運動」がある。運動の「軌跡」がある。それは、私たちの外で起こっていることだけれど、その網を動かす漁夫の肉体の動きが一方にあり、その肉体の動きが私たちの肉体に作用してきて、見えない(透明な)網を見えるように感じさせてしまう。
 エアー・ギター、ではなくエアー・漁網(網目)、
 ということになるのかもしれない。
 その運動に「優しく(優しい)」という要素がくわわると、もう、それは「投網」とはちがったものになってしまう。--というか、「優しく」ということばが、私たちを「肉体」そのものへ引き込み、そこから「愛撫」がでてくることに何の違和感も感じない。
 もう、私たちは(書かれている漁夫と、読んでいる私)は漁なんかどうでもいいのに、あ、あ、あ、。

囲む網が狭くなると
暗い海が光ってくる
銀貨の山のように

 魚の鱗がきらきら銀貨のように光っている、光ながらひきあげられようとしているという実景が描かれ--その実景を想像した途端に、それが、それこそがやっぱり比喩だとでも言うように、

やがて 恋人のように
網が魚を抱きしめる

 と「肉体」に、つまり、セックスにことばが動いていく。

編目は 海を吐き出して
息切れする魚だけ残る

 これは、網がひきあげられ、そこから海の水がすべてこぼれ落ち、魚だけが網のなかに残るということなのだが--うーん。網のなかに水が残るはずがない、水を残さないための網なのだから、ここで書かれていることばはいはば「無駄」というか、書かなくてもいいことばなのに。うーん。その書かなくていいことばを通ることで、ことばの内部に何か違ったものがまじりこんでくる。
 男の手の中で(男に抱きしめられ)、女が体中の息を吐き出して、つまりエクスタシーで死んでしまって、ぐったりした肉体そのものになっている姿を思ってしまう。
 漁とは無関係な、(というのは漁をしながらセックスはできないということだが)、セックスの最後を思い浮かべてしまう。漁とセックスが重なってしまう。
 このことばの運動を支えているのが、「見えない」漁夫、「透明な」網目、だと私は思う。見えないものを書くことで、そこにほんとうに「見えない」もの、男と女のセックスを見せてしまう。漁夫も網目も「見えない」ので、その漁夫のかわりにセックスする人間を、セックスそのものを「見てしまう」。
 そして。
 その「見えないセックス」をいっそう強烈にするのが、不思議なことに、人間のからだではなく(それは、もちろん見えないからね)、「囲む網が狭くなると/暗い海が光ってくる/銀貨の山のように」という実際の漁の風景であり、また「網目は 海を吐き出して」という事実としての風景である。
 でも、それはほんとうに見えている?
 見えてはいなくて、想像しているだけ?
 あ、こんな区別はつまらない。
 こんな区別をせずに、ことばが動いた瞬間に見える漁の風景を見て、同時に、あれ、これは漁の風景というよりもセックスの最中、絶頂の瞬間じゃないかと混同する--その瞬間がおもしろい。

 途中に、「ドラマチックに中断する」ということばがあるが、中断することによって、ことばが接続してしまうのだ。異質なものの噴出、たとえば「銀貨の山のように」という1行、その比喩が、比喩を経由することで、魚の鱗、魚の塊(さんまや、鰯の水揚げみたい)をリアルに浮かび上がらせ、そのことによって一瞬、セックス(優しく愛撫する)を遠ざけ、遠ざけることでより強く引き寄せる。より強く引き寄せるために、いったん遠ざけるという逆説(ドラマチックな中断)が、夢を、幻を、強く輝かせるのだ。

 そうか、ことばは「見えない」ものを、「見る」ために動くのか、とあらためて思った。



 清水あすか「我が無く、ふるえ。」(初出「空の広場」5、09月発行)は、ジェフリー・アングルスのことばから遠く離れたところで動いている。「見えない」ではなく「見える」が書かれている。そして、「見える」のだけれど、それはまだことばにならない、ということが書かれている。
 東日本大震災のことを書いているのだ思う。

おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。
今資材置き場になっているとこだよ。

そこに、この世でない、があるよ。
木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
そんな余白におまえ
立っていた、を知っているよ。
アスファルトの突起でできた影や
としょうりがくわえて歩いていった煙っ端に
おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。

ね、そこらへんの石一つを
おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
だいじょうぶ。

あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
あのふくらみにふくらんだ
空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりゆらつく自転車。
あそこに入っているのは、さびしい、になるまえのさびしさだ。
花の白さにも、木目にも
影にも煙のきわにもあったものだ。そして
そこへ立っていたおまえにも。
資材置き場を見つけたね。余白を
そこらへんの石一つに
託したって、
いいよ。

 「見えない」ではなく、清水には「見える」。そして、「見える」ということは、「ある」ということなのだ。ジェフリー・アングルスは「見えない」を書くことで、いのちの動きを引き出したが、清水は逆のことを書く。
 清水は「見える」ことを書く--と私は書いたが、これは方便であって、実は「ある」だけを書いている。「ある」は、ほんとうは「見える」のではない。「ある」は、清水が「おぼえている」のである。「肉体」でおぼえている。おぼえているために「ある」が「見える」と錯覚する。それほど、「おぼえている」は強烈なのだ。

おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。

 おまえは震災の犠牲になって死んでしまったのかもしれない。おえまの口癖は「……と、思った」かもしれない。--これは、私が勝手に想像して読んでいることだから、違っているかもしれない。(ごめんなさい。)その、おまえを、農協の跡地にきたとき、見た。「おまえ」がそこに「ある」のを見た。現実には、そこにおまえはいないのだけれど、そこにおまえがいた時間が「ある」。そこにおまえの思い出が「ある」。

そこに、この世でない、があるよ。

 この1行の「ある」は強烈である。
 「この世でない」ものがこの世にあっていいはずがない。けれど「ある」。
 この世にいてほしいはずの、おまえは、いない。ない。
 ただ、農協の跡地に、その資材置き場になってしまってなにも「ない」ところに、おまえの記憶が(肉体が)「ある」。
 ふたつの「ない」が「ある」のなかで強く結びついて、そこに「ある」。
 それを清水は見ている--というか、肉体か見てしまう。おぼえているのだ。何かを。体験したことのすべてを。

そんな余白におまえ
立っていた、を知っているよ。

 これは、そこにおまえが立っていた、ということを知っているということだが、この「知っている」は「おぼえている」である。単に知っているのではないしっかりと「おぼえている」、わすれることができない、いつでも思い出すことができるということだ。
 どくだみの白い花、引き出しの木目に見とれているのは、いまの清水か、それともかつてのおまえの姿かよくわからないが、これは区別しなくていいのだ。清水がおまえを思い出すとき、清水とおまえは「一体」になる。「おぼえている」のは自分の体験だけではなく、おまえの体験も「おぼえている」。
 おまえと清水--そこにはふたつの主体(人間)がいるのだが、「おぼえている」のは個人の肉体ではない。人間をつなぐ肉体である。
 その「おぼえる(おぼえている)」を通して、あらゆる「ある」もつながる。「一体」になる。そういうことを、清水は書いている。

 大震災によって、世界は一変した。
 「おそろしい」「うつくしい」「さびしい」。そういう「ふつうのことば」であらわしていたものが、そのままのことばであらわせるかどうかわからない。
 わからないけれど、何か、つながっている。その「何か」を、清水は「おぼえている」。
 大震災前と大震災後をつなぐ「おそろしい」「うつくしい」「さびしい」が「ある」。こうやって、ここでここばを動かすたびに「ある」が沸き上がってくる。「おぼえている」ものを、もう一度、肉体で繰り返し確かめるということが、ここからはじまるのかもしれない。





Killing Kanoko: Selected Poems of Hiromi Ito
Hiromi Ito,伊藤比呂美,ジェフリー・アングルス
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八柳李花ー谷内修三往復詩(13)

2011-12-23 01:00:37 | 
そこにあるのは  谷内修三

初めて読んだ詩には夢の中を舟が流れてくる
夢が水なのか、夜が水なのか。
その舟は母を探している。母は死んでしまって
記憶の中にもいないのに。
夢のなかでは舟と母は文字が似ている。
母が舟を探しているのかもしれない。
どこかへ行くための、あるいはどこかから帰るための。母は死んでしまって、
どこにも行けないしどこにも帰れないのに。
初めて読んだ詩の中で舟は遠くから流れてくる
光を砕きながら群青の影をつくっている。
群青の影を深く深くしずめながら流れている。
追いかけるように飛んできた鳥が
舟を追い越した瞬間、すべてが消えた。
そこにあるのは(振り返ってみても)
舟は母だったのか、母が舟だったのか。母は死んでしまって、
だれに問いかけていいのかわからない。

                         2011年11月23日
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堀江敏幸「天文台クリニック」

2011-12-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

堀江敏幸「天文台クリニック」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 堀江敏幸「天文台クリニック」(初出『ろうそくの炎がささやく言葉』08月)は嘘のないことばで書かれている。この嘘のなさ、そしてそこに書かれている内容(病気を抱えてうまれた新生児)を前にすると感想がなかなか書きにくい。
 でも書いておきたい。

飲みたければ
そこに自販機があるわ
弥勒菩薩よりずっと小顔の
色艶のいい観音様が
千の手から無造作に抜き出した一本の
細い手をのばして彼に言う
五色の珠飾りをまとったべつの手で
珈琲のはいった紙コップを持ち
さらにまたべつの手で
金色に輝く主治医は彼の妻の身体をさぐり

にではなく

にもらった
なまあたたかい水といっしょに
小さな命を引き出すと
残る九九七本の細腕で
それを高々と抱き上げた

 最後の方の「九九七本の細腕」というのは「千手観音」がすでに「無造作に抜き出した一本」「五色の珠飾りをまとったべつの手」「さらにまたべつの手」と三本つかっているために、「残る」九九七本になるのだが、この嘘のなさはちょっとつらい。窮屈である。堀江は嘘のないところで、ことばを正確に動かしたいのだろうけれど、なんだか詩を読んでいるというよりも、「意味」をきちんと押さえろよと叱られている気持ちになる。
 途中にでてくる「象」は「千手観音」(仏)との関係する象である。仏は象に乗っている。そして、その次の「羊」は「なまあたたかい水」と関係している。羊水である。ことばにはきちんと「意味」がある。単にイメージを書いているのではないのだ。

大きな耳で身体をくるみ
表産道を滑り出た生きものはいま
渡り廊下のむこうの病室の
無菌のガラスカプセルに寝かされている
優雅なオカピの看護師が
蒼白い光を当てながら
皺ひとつない灰色の命を
しずかに見守っている
波長四三五ミリ
光はしかし
像の顔を造顔しない
黄を白に
変えることもない

 「表参道」ではなく「表産道」。これは、実際に産道をとおって新しい命が生まれてくるから「産道」なのだが、見守る両親にとっては「産道」は「参道」であるという「いのり」がこめられているのかもしれない。
 最後の方の「黄を白に/変えることもない」から、その命には「黄疸(たぶん)」の症状がみられるのだと思う。そして、黄疸の奥にはもっと複雑な病気が隠されているのかもしれない。
 そのために、新生児は母親と隔離されている。
 詩は、このあと、その新生児と母(妻)のために彼(この詩の主人公)が何をすべきなのか、そのことを主人公が語るという具合に展開する。
 そのとき、最初に指摘した九九七本の手の「算数」の正しさ(嘘のなさ)と、「千手観音」という比喩(嘘)、あるいは「羊水」を「羊」と「水」に分離して表現する方法(嘘)が、ぎしぎしと音を立てて動いていく。「遊び」がないまま、つまり「揺らぐ」ことで全体の動きを調整するという「あいまいさ」を欠いたまま、正確に、正確に、正確に、どこまでも正確に動こうとする。そして、実際、そのことばは正確すぎるくらい正確に動いていると思うのだが。

飛びましょう
と彼はこたえる
どんなに時間がかかっても
この耳で
光は通すが薄っぺらな言葉は通さない一族の耳で
幻の霞をさがします

 これは、薄っぺらな医療のことばを信じるのではなく、自分の一族(彼、妻、子ども)なかにある(一族をつなぐ)、希望(光)を信じて不可能なこと(幻の霞をさがす)でもするという決意だろう。
 堀江は、最後にもう一度言いなおしている。

千の手をひとつひとつ握りしめ
慈悲深い瞳をのぞき込むように
彼は静かに決意を表明する
私は飛びます
どこへでも
この世にない場所へでも
妻のために
息子のために
いずれ生まれる飛行象の
はるかな子孫のために

 ちょっとつらい。
 美しすぎる。

 論理をはしょって、というか、ただいいかげんなことを言ってしまうのだが、堀江の書いている「嘘のなさ」は、まだ「肉体」になっていない。「肉体」になるまえの「正直さ」(1000-3 =997 )は、わかるのだけれど、私はそこには吸い込まれるようには動けない。なんだか身構えてしまう。--これは、まあ、堀江のことばの問題ではなく、私の「性質」なのかもしれない。(だから、書きながら、こういう感想でいいのかなあ、と疑問をもっているのだが--と、ここでは半括弧のまま、閉じないで先をつづける。
 私は、いま、きのう読んだ長谷川龍生の詩の「らかんさん」を思い出している。その「らかんさん」と堀江の詩の「千手観音」は、私にはどうもかけ離れた存在に感じられる。「羅漢」と「千手観音」は、まあ、違う存在だからかけはなれていて当然なのかもしれないけれど、そういう「宗教」の問題ではなく、人間の「信仰」の問題としてかけ離れている感じがする。
 長谷川の「らかん」は「肉体」になっている。そこには、当然頭では整理しきれない逸脱がある。飛躍がある。けれど堀江の書いている「千手観音」は「算数の正確さ」に代表される堅苦しさがあって、それが逸脱・飛躍といった深みを疎外している。
 小説の場合なら、ふっとよそ見した瞬間の一行に作品全体が救われるというような逸脱と飛躍があるが、この堀江の詩には、それに通じるものが欠けていると感じてしまう。小説の場合にある静かな脇道が、堅苦しい算数にとじこめられていると感じてしまう。
 堀江の書いていることは「正しい」とは思うけれど、正しすぎて、簡単には近づけない。
 「誤読」して、「誤読」を指摘されたとき、「あ、間違えた? でも、詩(文学)って、読んだひとのものでしょ? どう読んだっていいじゃないか。私はこう読みたいんだから、こう読みます」と言い切って、書いた人と喧嘩する楽しみがない。
 こういう詩は、私は、ちょっと苦手だ。(とっても苦手だ。)


雪沼とその周辺 (新潮文庫)
堀江 敏幸
新潮社
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ルイス・ブニュエル監督「昼顔」(★★★)

2011-12-22 19:20:41 | 午前十時の映画祭
ルイス・ブニュエル監督「昼顔」(★★★)

監督 ルイス・ブニュエル 出演 カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ソレル、ミシェル・ピッコリ

 これはとても不思議な映画である。私だけが感じることなのかもしれないが、一番印象的なのが馬車の鈴の音である。カトリーヌ・ドヌーヴが肉体の内部、あるいは精神の奥の欲望につきうごかされ娼婦になるのだが、セックスシーンは刺激的ではない。まあ、いまの感覚から見ているせいなのかもしれないが、特に、あ、見たい、という気持ちには駆り立てられない。そうではなく、あのシャンシャンシャンシャンという音をもっと聞きたいという気持ちに駆り立てられる。あの音こそがセックス、という感じがするのである。
 どういうことなのだろう、としばらく考えてしまった。
 シャンシャンシャンシャンという音は、「いま/ここ」から違う場所へ行く「道」なのである。
 カトリーヌ・ドヌーヴは娼婦館へ歩いて入ってゆくが、それは「違う場所」ではなくカトリーヌ・ドヌーヴにとっては「同じ場所」なのだろう。――というのは、変な言い方だが、「同じ」というのはつまり、そこでは「想像力」は働いていない。むしろ、そこでは「想像したもの」が現実として動いている。ドヌーヴの肉体は、それまで「想像してきたこと」(男に乱暴に犯され、快楽におぼれる)ということを肉体で実行している。そのとき「想像力」は死んでいる。そして肉体も、何も変わらない。
 実際、ね、ドヌーヴははたから見て、変わらないでしょ? 美人で、なんというか、ふしだらな感じが全然しない。欲望におぼれ、だらしなくなったという感じがしないでしょ?完璧な美人、貞淑な女性に見えるでしょ?
 ドヌーヴが「変わる」のは「想像力」の中だけ。想像力のなかで、「いま/ここ」ではない人間になる。
 こんな言い方が適切かどうかわからないけれど・・・。最後の方で、ドヌーヴは若い男にストーカーされて怯える。この「怯え」は、「いま/ここ」というよりも、「これから」のことだね。夫婦の生活がどうなるか、自分の生活がどうなるか――まだ実現していない「想像力」の中で怯える。「想像力」のなかで起きていることは具体的には描かれないのだけれど、わかるよねえ。
 で、その「想像力」の根本は何? 何がドヌーヴを不安にさせる? ことば、声、つまり音だね。――音が、「想像力」を刺激し、ひとを「いま/ここ」から、どこか別の時間、別の空間へ連れてゆく。それは、実際の「肉体関係」よりも刺激的だ。
 どんな色っぽいことも起きるのだ。
 ストリーの前に戻る形で補足すると、娼婦の館で、ドヌーヴが隣の部屋をのぞく。このとき、ドヌーヴは「見ている」けれど、観客は「聞いている」だけ。観客はのぞくドヌーヴを見て欲情するのではなく、ドヌーヴが聞いている「音」を聞いて、そこに起きていることを想像し、欲情する。
 観客は耳でセックスするのである。映画なのに。
うーん。
 その耳のセックスの象徴がシャンシャンシャンシャン。
 で。
 さらに象徴的なのが、ミシェル・ピッコリの最後の行動。ドヌーヴの夫に、ドヌーヴの秘密を語ったのか、語らなかったのか。ドヌーヴにはわからない。ドアの向こう、聞こえないところで2人は会っている。何を話した? 何を話さない? 音が聞こえないので、わからない。そして、そのわからないところで「想像力」が動く。
 シャンシャンシャンシャンシャン。どこへ行くんだろう。

 そして――と、ここからは強引な我田引水になるのかもしれないけれど。オリベイラ監督の「夜顔」。延々とコンサートのシーンがあったでしょ? 1楽章、ずーっと演奏したでしょ? これはやっぱり「耳」の物語、「耳」の映画なんだなあ、と私は思うのである。「耳」こそがセックスへの入口と考えるひとが、私以外にもいるんだなあ、

昼顔 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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長谷川龍生「羅漢さん土踏んだ」

2011-12-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「羅漢さん土踏んだ」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 長谷川龍生「羅漢さん土踏んだ」(初出「歴程」576 、08月発行)は「羅漢」について知っていないとわからないことが書かれているのかもしれない。「羅漢が土を踏む」というのは「意味」が共有されていることがらかもしれない。私は無教養なので、何も知らない。その何も知らない人間がこの詩を読むと、どんなふうに「誤読」するか--きょうの日記はその証明(?)である。
 羅漢--について私がわかることは、仏教と関係があるということだけである。羅漢像というものがあるから、仏像なのだろう。私は、見たことがあるかもしれないが、意識できないから見ていないのとかわりはない。
 長谷川の詩は次のようにはじまる。

らかんさん 肩よせあい
思い思いの顔つき 仕ぐさをするが
見えない石脚の下の方
こまかく 力づよく 土を踏む

 タイトルは「羅漢」なのだが、書き出しは「らかんさん」である。ひらがな表記、さらに「さん」づけされているのは、長谷川にとっては羅漢がなじみのあるもの、親しみのあるものをあらわしていると思う。そのらかんさんが、「見えない石脚の下の方/こまかく 力づよく 土を踏む」というのだが、「見えない石脚」とはなんだろうか。羅漢像ができていて、その脚は「ここ」からは見えないのだが、それが土を踏んでいる、ということだろうか。
 何のために?
 大震災の詩を読みつづけてきたので、土ということばから私はどうしても大地を思い出してしまう。地震を引き起こした大地。それを踏んでいるのか、と思う。
 何のために、かは、まだわからない。わからないけれど、勝手に揺れる大地を鎮めようとしていると想像してしまう。
 想像にあわせるようにして、2連目を読みはじめる。

らかんの石脚 土踏んだ
地の下の霊に 何か伝えている
土を踏みつつ 地に不動の力を振るい立たせようとしている
らかんさんの石脚 土踏んだ

 地下に眠る「霊」に、何かを伝える。そうするとこで「地に不動の力」を奮い立たせようとしている。長谷川は「振るい立たせる」という文字をつかっているが、これは、ちょっと不気味である。「振るい」は「地震」とつながって見える。しかし、「不動の力」は「地震」とは逆のものだろう。「不動」は「振動(震動)」とは逆のものだろう。何か、ここには矛盾したものがあるのだが--羅漢は、揺れた大地を「不動」にするための力を地の底から呼び覚まそうとして、土を踏んでいる。
 わからないまま、私は、そういう願いをこのことばに夢見る。
 詩のつづき。

凶を踏みくだいている 果報をよこせ
あさの露くさの下 すこし力をよこせ
地の霊の先守りは もう一体のらかんさん
石脚の下に もう一体のらかん さかさまに屹立し 埋(うず)もれている

 「凶」は大震災の被害を連想させる。その「凶」を打ち砕こうとしている。「凶」の力を踏みくだこうとしている。
 ここまでは、私が先に勝手に想像したように、大地震を起こした大地を鎮めようとしている羅漢というものが浮かび上がってくる。
 そのあとが、私にはとても興味深い。
 「先守り」は「防人」だろうか。まあ、よくわからないのだが「守」という文字から、やはり何かを守ろうとしている羅漢を想像するのだが、それが

石脚の下に もう一体のらかん さかさまに屹立し 埋(うず)もれている

 これはつまり、大地の表面(?)を境にして、鏡像のようにして羅漢が地底にいるということになる。それが、地表の羅漢の脚の下にいる。脚の裏(足の裏)をあわせるようにして立っている。
 で、不思議。
 地上の羅漢が暴れる土を踏みしめるとき、地震は押さえつけられる、というのは想像しやすい。
 しかし、もし、地底の羅漢が地表にむけて大地を踏みしめるなら、大地は揺れ、地震がおきるのではないのか? そんなことがまた起きないように、地上の羅漢は地底の大地の脚を脚裏から押さえつけている?
 そうなのかな? でも、そうだとしても、変だなあ。
 羅漢は仏教と関係がある--という私のテキトウな思い込みが正しいのなら、なぜ仏教と関係のある羅漢が人が苦しむ地震を引き起こすようなことをする?
 変だよねえ。

 この「変だなあ」が、次の連で、一気に逆転する。あ、この逆転は日本語になっていないね。私は何か、あ、そうなのか、と突然、「変」と感じていたことを忘れてしまって、何か納得してしまったのだ。
 いままでとは違った「夢」に、突然目覚めたのである。

土を踏み込む脚さばきは
いつの日 おぼえたのだろう
とおいらかんさんの親たち み親たち
野に山に 仕事を汗に 踏んでいた

 土に生きる--そのとき、ひとは無意識に土を踏む。土の上に立たないことには(土を踏まないことには)、土を耕すことも、土からの恵みも収穫できない。土に感謝しながら、それでも土を踏む。それが土を生きることである。そこにはやはり糧を得ているものを踏む(踏みつける)という「矛盾」がある。
 矛盾なのだが、それが生きることであり、矛盾だから思想なのだが……。
 この矛盾した「踏む」が矛盾ではなく「くらし」のなかに生きるのは、きっと大地の底で、人間によってでこぼこにされた地底から見た大地をならして生きる羅漢がいるからである。地上からの力を受けとめる羅漢がいるからである。
 そういうことを長谷川は言おうとしているのではないのだろうか。
 地底の羅漢よ、いままでのように、地底から地表を支える力を呼び覚ませ、と呼びかけているのではないのか。
 どんな力も矛盾したものである。破壊することは創造することである。創造するためには破壊しなければならない。けれど、そのときの破壊は破壊のための破壊であってはならない。そうではなく、創造のための破壊であることが重要なのだ。
 --というのは、ちょっと私が「頭」で考えたことで、書きながら、あ、何かずれてしまったという思いがある。

 私が、この連で、何かが突然「わかった」と感じたのは、

いつの日 おぼえたのだろう

 この1行の「おぼえたのだろう」、「おぼえる」ということばに出会ったからである。私たちには「知っている」こと以外に「おぼえている」ことがある。
 ここから、どんどん脱線していく(詩から離れていく)のだが--というか、我田引水(誤読)になるのだが。
 この作品の最初のことば「らかんさん」。この「羅漢」については、私は何も知らない。けれど、「らかんさん」という言い方に、あ、長谷川は羅漢をとても身近に感じているということを感じる。それは「知っている」ではなく、私の「おぼえている」ことがらと重なるのだ。何々仏、ということばを、たとえば私の母を知らない。知らないまま「ほとけさん」という。「さん」をつけて呼ぶとき、その対称を知っているわけではないけれど、自分と切り離せないものと感じている、そのときの「感じ」が「さん」にこめられる。このことを私は「知っている」ではなく「おぼえている」。母が「ほとけさん」といっていたことをおぼえていることをとおして。
 で、「らかんさん」。私は羅漢については何も知らない。けれど、それが仏教と関係していることは「おぼえている」。仏教と関係する仏や僧を「○○さん」という呼び方をすることを、私は「おぼえている」のだ。
 で、(さらに、で、である)。
 私は、いま急に気がついたのだ。私は、仏教のことなど何も理解していないくせに「なんまいだぶつ」と毎晩仏壇に向かって声をあげる母をバカにしていたが、母は仏教のことは何も知らないが、「なんまいだぶつ」といえば極楽へ行けると信じ、それを「おぼえていた」。この「おぼえる」はきっと強い。知識では極楽へ行けないが、肉体(たましい)が「おぼえている」なら、その肉体(たましい)は極楽へしか行けない。人間は「おぼえている」ところへ勝手に進んでしまうのだ。「おぼえる」ために「なんまいだぶつ」と繰り返していたのだ。私の肉体(たましい)は、何もおぼえていないから、極楽へは行けないなあ。地獄へも行けないなあ。
 脱線した。

 長谷川は「羅漢」のことをもちろん知っているのだろうけれど、その「知っている」が「おぼえている」にまで深まっている。肉体になっている。そして、その「おぼえている」ことが、いま、長谷川のことばを動かしている。
 そう感じた瞬間、私は「わかった」と感じたのだ。この「わかった」はほんとうは「わかった」ではないかもしれない。実際、私は何がわかったのか、きちんと言うことができない。けれど、長谷川はほんとうのことを言っている。長谷川の言っていることは、わからないけれど、信じていいのだ、と思ったのだ。長谷川は「おぼえている」ことを言っている。
 こういうことばは信じていい。間違っていない。--私の肉体が「おぼえている」ことと、しっかり重なり合う。

 私が何かをする。そのとき、反対側(?)で私の間違いを正してまっすぐにするように何かが動いている。その動きを感じて、自分のできることをしつづけること。繰り返されてきたことがら、肉体が「おぼえている」ことがらをていねいによみがえらせれば、そこから未来ははじまる--そういうことを私は「おぼえている」。私の記憶ではないかもしれない。それは「いつの日 おぼえたのだろう」か、きっと、私のうまれる前から私の肉体が「おぼえている」ことだと思う。
 長谷川の詩の最後は、とても美しい。長谷川のことばの先に「極楽」がある、と感じてしまう。何が書いてあるのか説明しろ、谷内のことばで言いなおしてみろ、と言われたら、私のことばはつまずくだけだが、声に出して読みたい、そこにある音を自分の肉体の中へ取り入れたいという気持ちが知らず知らずわいてくるのだ。
 ここには長谷川の「しっている」とこばではなく、「おぼえている」ことばだけが動いている。

地上からも踏み込む 地下からも踏み上げる
一つに 一面に 一糸に 未来を指す音
あなたが もし 無名のらかんさんならば
もう一体のらかんが 石脚の下に 佇(た)つ

らかんさん 肩よせあい
思い思いの顔つき 仕ぐさをするのが
石脚の下 もう一体のらかん 個の力量で 過去をさばき
土を踏み 地の上をたたき 「宇(う)」をにらみつける

五百羅漢の石脚 土を踏んでいる
地の上の「化生(けしょう)」に 何かをつたえる
土を踏みつつ 地の知恵を 一系の愛のコトバを投げかけている 生きよう!
らかんさんの石脚 きいヴも 土踏んだ

 「生きよう!」--その美しい響き。おぼえたい。おぼえなければならいない。



立眠
長谷川 龍生
思潮社
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