T・トランストロンメル『悲しみのゴンドラ(増補版)』(思潮社、2011年11月10日発行)
「四月と沈黙」という詩が巻頭にある。初めて読む詩人の、最初の詩は、とても手ごわい。ことばのとっかかりが見当がつかない。
1連目から私はつまずく。
ここには不思議な矛盾がある。
「春は不毛に横たわる。」これは、普通の「春」のイメージとは違うが、エリオットの「荒れ地」を思うとき、そんなに驚きはない。春と不毛の出会いは、私にとっては、斬新な詩ではない。
私が不思議に思うのは、そしてこころが誘われるのは2行目からである。「ビロードの昏さを秘めた溝」は「春」の言い直しだろうと思う。ひとは誰でも言い切れなかったことを別なことばで言いなおす。「春は不毛に横たわる。」では何のことかわかりにくい。だから、それを言いなおす。「春」の「不毛」は「ビロードの昏さを秘めた溝」である。「不毛」は「ビロードの昏さ」である。しかし、その「溝」は「横たわらない」。
これが矛盾である。
「溝」が横たわるなら、「春」と「溝」は同じになるが、それは横たわらず、「わたしの傍らをうねり過ぎ」るのである。「春」は動かないが「溝」は動くのである。
変だねえ。
普通は「溝」が動かない。「春」は草木が萌え、いのちが動く。
しかし、詩人は、そのことを「逆」に書いている。
そして、「溝」は「うねり過ぎ」るだけではなく、「映像ひとつ見せぬ」という。
これもまた不思議な表現である。なにか矛盾したものを含んでいる。「映像ひとつ見せぬ」といいながら、詩人は「溝」が「うねり過ぎ」るという運動を見ている。
変だなあ。
変だなあ、と思いながら、とても気になる。
「溝」を修飾する「ビロードの昏さを秘めた」ということばが、何よりも気になる。「ビロードの昏さを秘めた」は「ビロードのつや」のようにも感じられる。「つや」は単純な輝きではなく、なにか表面を「くらいもの」が覆っている感じを思い起こさせる。表面は「くらく」覆われているが、内部に光を発するものがあって、それが滲み出てくるとき「つや」になるように感じられる。
もし、そうだとすると。
「春は不毛に横たわる」と言いながら、実は、内部に光を抱え込んでいて、そして動き回る力を秘めていて、それでもなおかつ「横たわる」ということを連想させる。
動けるはずの「春」が、あえて「横たわる」。そのとき、その「あえて」によって抑制されていたものが、抑制された不自由さで、かたわらを「うねる」ようにして「過ぎる」。
まっすぐにではなく「うねる」。この「うねる」は「ビロードの昏さ」、あるいは「隠されたビロードのつや」を思い起こさせる。「うねる」から「くらい」。「くらい」から不思議に発行する。
「溝」ではなく、たとえは川を思い浮かべると、そのことがよくわかる。川の水がうねり、流れるとき、そのうねりの頂点にある光は、うねりの底にあるよどみ、深さを鏡の朱泥のよう利用して光る。光るものは、背後に「くらさ」を持っている。
でも、なぜだろう。どうして、そういうイメージのあとに「映像ひとつ見せぬ。」という厳しい断定、否定がくるのだろう。
私は、詩人のことばから、「見てしまう」。「不毛に横たわる」はずの「春」から、その内部で動いている「くらさ」が「うねり」、輝くのを見てしまう。
詩人の書いているもの--そのことばが指し示すものとは違ったものが、ことばを読むと動きはじめるのである。
これはいったい、何?
これは、また矛盾である。「春は不毛に横たわる。」のなら、「黄色い花」は何? きちんと花開いている。それも「叢」をつくって咲いている。
--でも。
矛盾と書いたが、その矛盾を超えて、何かが炸裂する。動く。矛盾ではなく、違うものを感じる。
春。その一方に「ビロードの昏さを秘めた溝」があり、他方に「黄色い花叢」の「光」がある。それは向き合い、矛盾することで、「春」そのものになる。
「春」はふたつの要素からできている。
「横たわる」もの、動かないもの、「くらい」ものと、「うねり過ぎ」るもの、「光るある」もの、光るもの。そのふたつは矛盾し、対峙することで、お互いを明確にする。一方だけなら、世界は存在しない。矛盾するから、世界が世界として存在する。
矛盾の力学が、トランストロンメルを作り上げている。矛盾の力学のなかでことばが動いているから、そのことばが強烈に響いてくる。
3連目。
これは、1連目の言い直しである。「不毛に横たわる/春」は「みずからの影に運ばれるわたし」。「わたし」が影を運ぶ、私が動くとき影がその動きについてくるのではなく、いまは「影」が「わたし」を運び、「わたし」は「横たわる」存在に過ぎない。
それは、「黒いケースにおさまった/ヴァイオリン」そのものである。「私」という「春」は「横たわって」動けない。動くのは「私」ではなく、「溝」であり、「溝」は「影(くらさ)」である。だが、「わたし」は動けないけれど、ほんとうは「ヴァイオリン」なのだ。美しい音を響かせることができる存在なのだ。
うーん。
ここで、私は、またうなってしまう。
ふいに登場してきた「音楽」に、強く揺さぶられる。
ヴァイオリンか……。
ヴァイオリンの音は、ビロードの音。そして、その音の底には「くらさ」がある。「くらさ」に支えられて、ヴァイオリンの深い「つや」が動く。「ためいき」のような、輝きと暗さの同居。
比喩が重なり合って、ことばが、さまよう。「ひとつ」の「答え」にならない。「結論」に突き進もうとはしない。逆に、互いに影響し合って、書き漏らした「過去」へ「過去」へともぐりこむようである。つまり、「結論」から遠ざかるようである。
そして、「結論」から遠ざかれば遠ざかるほど、最初の「私」に戻るようで、何やら、矛盾した動きのなかにトランスロンメルそのものの「肉体」を感じるのである。
この不思議な比喩の重なりの連続に、さらにもう一度比喩が追い打ちをかけてくる。4連目である。
「わたしのいいたいこと」とは「ヴァイオリン」の比喩をつかっていえば、その「音色」そのものである。それは、いまは鳴り響かない。「不毛」の状態である。けれど、その「不毛」のなかを、「ビロードの昏さを秘めた溝」--こころの底でうごめく何かが「うねる」。動いていく。
その先には「銀器」がある。
「質屋に置き残された」「銀器」は、「黒いケースにおさまった/ヴァイオリン」でもある。それは、つかえばほんとうは美しく輝く。
「春と沈黙」。春は沈黙している。横たわっている。「私」は沈黙している。横たわっている。けれど、その沈黙と向き合う形で、可能性としての「私」がある。横たわる「私」の奥で、その「溝」の深さで、動くものがある。「溝」の底から逆照射するように、何かを誘い出す。
春の、野の黄色い花よりも、いま、この肉体の内部(溝、深み、くらさ)で動いているものが、ほんとうの春を語るのだ。ヴァイオリンのように。あるいは置き忘れられた銀器のように。
あ、私の感想は、文章になっていないね。
乱れているね。
主語と述語が交錯する。「春」を語っているはずなのに「溝」を語り、「ヴァイオリン」を語っているはずなのに「銀器」を語り、「昏さ」を語っているはずなのに「光(微光--あ、これがつやの正体だね)」を語ってしまう。
主語と述語の関係を論理的に整理できない。書けば書くほど混乱してしまう。けれど、その混乱のなかに、なぜか、「あ、わかった」と錯覚してしまう何かがある。
詩は、その瞬間の「錯覚」であり、錯覚をなんとかことばにしようとする「誤読」を笑い飛ばす輝きである。
「四月と沈黙」という詩が巻頭にある。初めて読む詩人の、最初の詩は、とても手ごわい。ことばのとっかかりが見当がつかない。
春は不毛に横たわる。
ビロードの昏(くら)さを秘めた溝は
わたしの傍らをうねり過ぎ
映像ひとつ見せぬ。
1連目から私はつまずく。
ここには不思議な矛盾がある。
「春は不毛に横たわる。」これは、普通の「春」のイメージとは違うが、エリオットの「荒れ地」を思うとき、そんなに驚きはない。春と不毛の出会いは、私にとっては、斬新な詩ではない。
私が不思議に思うのは、そしてこころが誘われるのは2行目からである。「ビロードの昏さを秘めた溝」は「春」の言い直しだろうと思う。ひとは誰でも言い切れなかったことを別なことばで言いなおす。「春は不毛に横たわる。」では何のことかわかりにくい。だから、それを言いなおす。「春」の「不毛」は「ビロードの昏さを秘めた溝」である。「不毛」は「ビロードの昏さ」である。しかし、その「溝」は「横たわらない」。
これが矛盾である。
「溝」が横たわるなら、「春」と「溝」は同じになるが、それは横たわらず、「わたしの傍らをうねり過ぎ」るのである。「春」は動かないが「溝」は動くのである。
変だねえ。
普通は「溝」が動かない。「春」は草木が萌え、いのちが動く。
しかし、詩人は、そのことを「逆」に書いている。
そして、「溝」は「うねり過ぎ」るだけではなく、「映像ひとつ見せぬ」という。
これもまた不思議な表現である。なにか矛盾したものを含んでいる。「映像ひとつ見せぬ」といいながら、詩人は「溝」が「うねり過ぎ」るという運動を見ている。
変だなあ。
変だなあ、と思いながら、とても気になる。
「溝」を修飾する「ビロードの昏さを秘めた」ということばが、何よりも気になる。「ビロードの昏さを秘めた」は「ビロードのつや」のようにも感じられる。「つや」は単純な輝きではなく、なにか表面を「くらいもの」が覆っている感じを思い起こさせる。表面は「くらく」覆われているが、内部に光を発するものがあって、それが滲み出てくるとき「つや」になるように感じられる。
もし、そうだとすると。
「春は不毛に横たわる」と言いながら、実は、内部に光を抱え込んでいて、そして動き回る力を秘めていて、それでもなおかつ「横たわる」ということを連想させる。
動けるはずの「春」が、あえて「横たわる」。そのとき、その「あえて」によって抑制されていたものが、抑制された不自由さで、かたわらを「うねる」ようにして「過ぎる」。
まっすぐにではなく「うねる」。この「うねる」は「ビロードの昏さ」、あるいは「隠されたビロードのつや」を思い起こさせる。「うねる」から「くらい」。「くらい」から不思議に発行する。
「溝」ではなく、たとえは川を思い浮かべると、そのことがよくわかる。川の水がうねり、流れるとき、そのうねりの頂点にある光は、うねりの底にあるよどみ、深さを鏡の朱泥のよう利用して光る。光るものは、背後に「くらさ」を持っている。
でも、なぜだろう。どうして、そういうイメージのあとに「映像ひとつ見せぬ。」という厳しい断定、否定がくるのだろう。
私は、詩人のことばから、「見てしまう」。「不毛に横たわる」はずの「春」から、その内部で動いている「くらさ」が「うねり」、輝くのを見てしまう。
詩人の書いているもの--そのことばが指し示すものとは違ったものが、ことばを読むと動きはじめるのである。
これはいったい、何?
光あるものは ただ
黄色い花叢(むら)。
これは、また矛盾である。「春は不毛に横たわる。」のなら、「黄色い花」は何? きちんと花開いている。それも「叢」をつくって咲いている。
--でも。
矛盾と書いたが、その矛盾を超えて、何かが炸裂する。動く。矛盾ではなく、違うものを感じる。
春。その一方に「ビロードの昏さを秘めた溝」があり、他方に「黄色い花叢」の「光」がある。それは向き合い、矛盾することで、「春」そのものになる。
「春」はふたつの要素からできている。
「横たわる」もの、動かないもの、「くらい」ものと、「うねり過ぎ」るもの、「光るある」もの、光るもの。そのふたつは矛盾し、対峙することで、お互いを明確にする。一方だけなら、世界は存在しない。矛盾するから、世界が世界として存在する。
矛盾の力学が、トランストロンメルを作り上げている。矛盾の力学のなかでことばが動いているから、そのことばが強烈に響いてくる。
3連目。
みずからの影に運ばれるわたしは
黒いケースにおさまった
ヴァイオリンそのもの。
これは、1連目の言い直しである。「不毛に横たわる/春」は「みずからの影に運ばれるわたし」。「わたし」が影を運ぶ、私が動くとき影がその動きについてくるのではなく、いまは「影」が「わたし」を運び、「わたし」は「横たわる」存在に過ぎない。
それは、「黒いケースにおさまった/ヴァイオリン」そのものである。「私」という「春」は「横たわって」動けない。動くのは「私」ではなく、「溝」であり、「溝」は「影(くらさ)」である。だが、「わたし」は動けないけれど、ほんとうは「ヴァイオリン」なのだ。美しい音を響かせることができる存在なのだ。
うーん。
ここで、私は、またうなってしまう。
ふいに登場してきた「音楽」に、強く揺さぶられる。
ヴァイオリンか……。
ヴァイオリンの音は、ビロードの音。そして、その音の底には「くらさ」がある。「くらさ」に支えられて、ヴァイオリンの深い「つや」が動く。「ためいき」のような、輝きと暗さの同居。
比喩が重なり合って、ことばが、さまよう。「ひとつ」の「答え」にならない。「結論」に突き進もうとはしない。逆に、互いに影響し合って、書き漏らした「過去」へ「過去」へともぐりこむようである。つまり、「結論」から遠ざかるようである。
そして、「結論」から遠ざかれば遠ざかるほど、最初の「私」に戻るようで、何やら、矛盾した動きのなかにトランスロンメルそのものの「肉体」を感じるのである。
この不思議な比喩の重なりの連続に、さらにもう一度比喩が追い打ちをかけてくる。4連目である。
わたしのいいたいことが ただひとつ
手の届かぬ距離で微光を放つ
質屋に置き残された
あの 銀器さながら。
「わたしのいいたいこと」とは「ヴァイオリン」の比喩をつかっていえば、その「音色」そのものである。それは、いまは鳴り響かない。「不毛」の状態である。けれど、その「不毛」のなかを、「ビロードの昏さを秘めた溝」--こころの底でうごめく何かが「うねる」。動いていく。
その先には「銀器」がある。
「質屋に置き残された」「銀器」は、「黒いケースにおさまった/ヴァイオリン」でもある。それは、つかえばほんとうは美しく輝く。
「春と沈黙」。春は沈黙している。横たわっている。「私」は沈黙している。横たわっている。けれど、その沈黙と向き合う形で、可能性としての「私」がある。横たわる「私」の奥で、その「溝」の深さで、動くものがある。「溝」の底から逆照射するように、何かを誘い出す。
春の、野の黄色い花よりも、いま、この肉体の内部(溝、深み、くらさ)で動いているものが、ほんとうの春を語るのだ。ヴァイオリンのように。あるいは置き忘れられた銀器のように。
あ、私の感想は、文章になっていないね。
乱れているね。
主語と述語が交錯する。「春」を語っているはずなのに「溝」を語り、「ヴァイオリン」を語っているはずなのに「銀器」を語り、「昏さ」を語っているはずなのに「光(微光--あ、これがつやの正体だね)」を語ってしまう。
主語と述語の関係を論理的に整理できない。書けば書くほど混乱してしまう。けれど、その混乱のなかに、なぜか、「あ、わかった」と錯覚してしまう何かがある。
詩は、その瞬間の「錯覚」であり、錯覚をなんとかことばにしようとする「誤読」を笑い飛ばす輝きである。
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