詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒川洋治「裾野」ほか

2024-06-15 22:33:21 | 現代詩講座

荒川洋治「裾野」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月04日)

 荒川洋治の作品と受講生の作品を読んだ。

裾野  荒川洋治

少女たちは 父親の顔をして
先頭を歩いた
十年もたつのに
重心は高く
山の雲がふくらむ

軽い荷物には
焼き菓子が 紙に包まれて
曲がり角のたびに
宕々とものを落とす

楽な気持ちをつづける詩も
きれいな心にさしむかう歌も
よく開墾された散文も邪魔になる
人は人のそばを通りぬけるので

先頭は見えない
裾野からは
努力であることしか見えない
きょうも大きな岩が落ちていた

 「むずかしいことばはないのに、読むのにむずかしい。テーマは重いと思うが、焼き菓子などがでてきて、おもしろい」「主題がわからない。なぜ少女たちが父親の顔をして先頭を歩いたのか。戦後の厳しさを書いているのか」「三連目の『よく開墾された』からの二行が印象的で考えさせられる。人生に対する諦観がみえる」「三連目も印象的だが、最終連の、終の二行がおもしろい。見えないものをめざしているのかな?」「俯瞰の仕方が、他の詩人とは違う。ことばの入れ替えがあり、わかりにくい」
 「むずかしい」「わかりにくい」というのは、「散文的な意味(論理)」を追いかけることができないということだと思う。登場する少女たちに対する説明が一切ないからだ。何を書いてあるかというヒントは詩集のタイトル『北山十八間戸』にある。この詩を持ってきた池田は、それがハンセン病の患者のたその施設という説明をした。しかし、そうした「背景」がわかったとしても、やはりこの詩が難解であることにかわりはないだろう。
 むしろ、「印象的」と感じたときの、読者自身の「感じ」が大切なのだと思う。何かわからないけれど、こころが、ことばに誘われて動く。その瞬間に、「意味」になる前の何かがある。
 三連目が印象的なのはなぜだろうか。詩、歌、散文ということばが登場する。気持ち、心ということばも出てくる。何かしら、ことばそのものについて語ろうとしているのかもしれない。
 私がこの詩で注目したのは、三連目の最後の行。「人は人のそばを通りぬけるので」。この連だけ「ので」で終わっている。「人は人のそばを通りぬける」で終わると、何か、意味(?)が違ってくるだろうか。違ってくる、と、私は感じる。少なくとも、ここには「ので」と書かないと気が済まない荒川がいる。「ので」は、何かしらの「理由」めいたものをあらわす。荒川は、この詩全体に、何かしらの「理由」、つまり生きてきた人間の「歴史」を感じているのである。その「歴史」の感じをつたえるために「ので」と書いたのだと私は思う。
 いつでも、どこにでも、人間が生きている「現場」には、人間をとりまく「理由」がある。「十八間」という「広さ」にも「理由」があるだろうし、「大きな岩が落ちていた」にも「理由」があるかもしれない。「きょうも」ということわりは、きのうも、あすも、を意味するだろう。そうすると、そこには「過去、現在、未来」という「時間」があり、「歴史」があることになる。
 この「時間」の意識は、一連目の「十年もたつのに」の「十年」につながるだろうし、その「十年もたつのに」にも「のに」という「理由」というか、「根拠」というか、「気持ち」の連続がある。
 何が書いてあるか、わからない。しかし、そのことばの奥には、そうした微妙な「連続」があり、その「連続」は、かってきままのようであって、実はかってきままではなく、揺るぎない「持続」である。ことばのリズムが、そう教えている。
 荒川洋治は、「気持ちの持続」を書く詩人である、と私は感じている。

たんぽぽに  杉惠美子

綿毛となって 軽やかに曲線を描き
蝶が舞う風を起こして
鳥たちとともに
空に踊る
軽やかに空を踊る

この祈りを
受けとめてくれる
受け継いでくれる
育ててくれる

優しい人間を探して

舞い降りる
舞い降りる

繋いでくれないか
残していく子らに
手渡してくれないか

 「すばらしい詩。書き出しの二行は、私には思いつかない。二連目の『祈り』が『優しい人間を探して』『繋いでくれないか』へと展開していく。論理的だし、空間も広がる」「タンポポの存在が詩のなかで表現されている。『祈り』は何かな、と私はいま考えているところ。作者の考えている『祈り』は、詩を読むとわかった気がする」「一連目から、詩の世界がめざされている」「やさしい詩。坂村真民の詩を思い出した。次世代へのメッセージがある」
 私は、まず一連目の「空に踊る」「空を踊る」の変化に注目した。助詞がかわるだけで、世界が大きく変化する。主語が鳥(タンポポ?)から空に変わった感じ。その変化を受け継いで、二連目から新しいことばの次元がはじまる。一連目が現実の描写だとしたら、二連目以降は「精神」の描写。「祈り」ということばが象徴するように、精神(気持ち)が書かれていく。「くれる」「くれる」「くれる」とつづいたことばが、最後は「くれないか」「くれないか」にかわる。あいだにある「探して」の「して」という中途半端というか、つなぎ(接続)を要求する独立した一行のつかい方もおもしろい。(この「して」は一連目にもあるけれど。)
 ことばのリズムが、ことばの運動(変化)をしっかり支えている。

ウォーターマーク  青柳俊哉
 
身体の奥に波うつ指紋
二重の螺旋をおりて星の水場へ
 
蝶の羽の紋 あるいは水門の
葉もようの編み目をくぐりぬけて 
別の銀河の海で禊(みそぎ)する
 
水源へ 百合の花の底の海へ蘇る
蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから
 
ゆれる 鳥かげが響く水籠
飛ぶ鳥籠の中の石
 
隆起する海の
水母の口から汲みだされる星の石場へ
もう一つの輪の始まり

 「タイトルの『マーク』がわからない。水が次々に変化している。連のつながりを感じる。『もう一つの輪』『水母』がわからないけれど、おもしろい」「タイトルだけがカタカナだけれど、水の指紋のことかなあ。『飛ぶ鳥籠の中の石』が唐突な感じがする」「考えさせられる。『星の石場』『別の銀河』が印象的。最後の連に希望を感じる」「最終行をめざしてことばが動いている、最終行へもっていくために、ことばを展開しているということを感じた」
 この詩にも、荒川の詩について触れたときにつうじることばがある。「蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから」の「から」。読者にとっては、この「から」はなくても、「意味」は変わらないと思う。しかし、青柳は、この「から」を書かないと、詩のことばが動いていかない。ここには、まだことばとして書かれていないことば、ことば以前のことばが隠れてる。
 その書かれていないことば、青柳の「肉体」のなかで動いていることばと向き合うために、他のことばが書かれている。このふたつのことばの関係は「二重の螺旋」のようなものかもしれない。緊張感が、ことばを、イメージを複雑にする。

亡き母と私の身近にあるすべての母性へ捧ぐ  堤隆夫

帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して悲しむこと無かれ
子らの不在
それは 母性の欠乏が原因ではなく
母性の横溢の結果なのだから

欲望は 横溢の子だから
帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して嘆くことなかれ
帰らないこと
それは 子らの 母なる大地からの決別の表象などではなく
いつの日か その大地に帰趨するための
通過儀礼の旅の途中なのだから
それは 子らの ひとりの母なる胎内空間から
驟雨の町にたたずむ
無限数列の母なる胎外空間への
メービウスの宇宙の帯への 体験飛行なのだから

不在とは その不在たるひとの
肉体の不在というよりは
その不在たるひとの
精神の不在がおそろしいのだから

母と身近にある母性よ
帰らない息子 帰らない娘の不在を
決して嘆き悲しむこと無かれ
そは いつも 母なるあなたの胸のゆりかごで
あえかなる寝息とともに 微睡んでいるではないか

 「『母と身近にある母性』という表現が意外」「一連目の『子らの不在』からの三行がすべて。『無限数列の』からつづく二行がおもしろい。ふつうはつかわない表現。三連目の四行も。しめくくりが、堤さんらしい。言い切っている。それによって意志が明白になっている」「三連目の『肉体の不在』からの三行は、とてもにくわかる」「母親として、はげまされる」
 堤の詩にも「理由(根拠)」をしめすことばがある。「なのだから(のだから)」。しかし、この「だから」は荒川は「ので」とはずいぶん違う。明確な「論理」である。この論理性ゆえに、堤の詩は、非常に構築的な印象がある。そして、その強靱な印象を「なかれ」や「そは」というような「古典的」なことばがいっそう強めている感じがする。だから「あえかなる」や「微睡む」というやわらかなことばも、その辞書的意味(?)とは逆に、なにか「ゆるぎない」もの、「確実な」ものという感じがする。
 「不在」や「無限数列」「通過儀礼」という、「漢語(?)」よりも「だから」の方が、堤の詩の世界を特徴づけているように感じる。

たぷ  池田清子

世の中の理不尽が
私の肩にかかっているとは
思わないが

何かが
私の肩を重くしている

稀勢の里に似た
無表情の愛らしい
たぷの里

たぷが乗っかっているのだと思えば
気持ち軽くなるような

 「好きです。すごく、いい詩。絵本の絵より、おもしろい」(この詩は、朝日新聞に紹介されていた、藤岡拓太郎の「たぷの里」、ナナロク社出版に触発されて書いたもの。講座では、その一部も紹介された)「かわいい詩。ユニーク。私には書けないおもしろさがある」「読んだとたんに気持ちが楽になる詩」「たぷの音とイメージが、この詩の本質」
 この池田の詩では、最後の「ような」がとてもすばらしい。「気持ちが軽くなる」と断定せずに「ような」とつづけることで、気持ちを読者に預けている。この断定を避けた表現は、一連目の「思わないが」にもあるが、この「思わないが」は何か「論理」を動かす表現だが、最後の「ような」は「論理」を誘わず、あいまいさを誘う。「気持ちが軽くなる」ではなく「気持ち軽くなる」と助詞の「が」がないのも非常に効果的だ。論理を脇においておいて、ふわっと気持ちが動いている。その「軽さ」が、とてもいい。

 


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