詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「34歳ノート・後編」

2011-07-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「34歳ノート・後編」(「白黒目」30、2011年07月発行)

 豊原清明「34歳ノート・後編」は「短編映画シナリオ」である。いつものことだが、このシナリオがとてもおもしろい。

○ 僕の顔
  眼鏡をはずし、呟く。
僕「今は六月二十二日。誕生日は今週の土曜日。来週の日曜日、教会に行ったら、
 誕生カードを渡すという。」

○ ぐちゃぐちゃの部屋を映す。
声「ああ…。」
 溜息、嘆き声。

 「ぐちゃぐちゃの部屋」に「ああ…。」という声がかぶさることろが、とてもいい。ひとは映っていないのだ。ただ部屋があり、それに声がかぶさる。その部屋の荒れた感じと、声の距離感。
 眼鏡をはずした顔から、荒れた部屋へのカメラの切り返し。
 なぜ部屋が「ぐちゃぐちゃ」なのか、何の説明もないが、その説明のなさが「意味」をはぎ取って、詩、そのものになっている。

 次のシーンもとても好きだ。

○ ぐちゃぐちゃの部屋(夕)
声「祈らないと。祈らないと。」
  カーテンを閉めて、真っ暗にする。
  点滅する、電気。やがて、消し、真っ暗になる。
  暗闇の部屋に、夕日が射す。カーテンを少し、開ける。
  祈り終わって、立ち上がり、電気をつける。

 このシーン。私なら、「僕」の姿を映さない。「僕」の姿を映さずに、ただ部屋の明暗、電燈の点滅の変化、カーテン越しの夕日の光というものだけをスクリーンに拡げてみたい。
 光の変化、闇の変化、それにともなってみえるぐちゃぐちゃの部屋の変化--その変化そのものが「僕の肉体」なのだ。
 「僕の肉体」と「部屋」そのものの「肉体」が光の変化のなかで「ひとつ」になる。
 豊原の映画には、いつも「僕」が登場する。そして、その「僕」は「僕」なのだけれど、輪郭が破れている--というと語弊があるけれど、なにか「僕」を超えて、はみだすものがある。そのはみだしたものは、何かに触れて、その何かと「ひとつ」になる。そういう感じがある。それがとてもおもしろい。

○ 居間(夕)
  誕生日の粗末なケーキ。暗い部屋の貧乏さ。
父の顔「33歳、たいへんやったなあ。」
僕の顔「もう一度、挑戦してみるわ。」
父の顔「希望を持って。」
僕の顔「希望を持って。」
  お茶を一気飲みする、僕。
父の声「一気飲みはあかん。」
僕「あっ。」
父の声「お茶はちびちび飲む。」
  茶をコップに入れて、飲む。

 ここには「意味」はない。日常の、「意味」から除外された「存在」がある。「空気」がある。
 
父の顔「希望を持って。」
僕の顔「希望を持って。」

 この繰り返しは、深い過去をもっている。過去があるから、「いま」が繰り返される。「希望を持って」というのだから「未来」が繰り返されるといってもいいが、その繰り返しによって「時間」が濃密になる。
 「時間」が存在として浮かび上がってくる。
 それは、その次のお茶の一気飲みで、違った形で繰り返される。
 お茶の「一気飲みはあかん。」というのは、「僕」が何度も何度もきかされてきたことばである。何度もきかされているけれど、やっぱり、知らずに一気飲みをしてしまう。その「僕」の顔、僕の姿に、父の声が重なる。
 このとき「僕」がいて「父」がいて「父の声」がするのだが、スクリーンの上では「僕の顔」に「父の声」が重なり、「僕」と「父」が「ひとつ」になる。
 違った存在が「ひとつ」になるとき、そこに「時間」がエッジをもって浮かびあがってくる。
 これはいいなあ。
 私は映画のカメラというものを持ったことがないが、豊原のシナリオを読む度に、映画をとってみたくなる。そこに書かれていることばを映像にしてみたくなる。
 詩も、俳句もいいが、映画のシナリオはそれをはるかに超越しておもしろい。




今月のお薦め。
河邉由紀恵『桃の湯』(思潮社)
池井昌樹「無事湖」
吉浦豊久「白い光景」


夜の人工の木
豊原 清明
青土社



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古代ギリシャ展

2011-07-31 15:04:53 | その他(音楽、小説etc)
古代ギリシャ展(国立西洋美術館、2011年07月20日)

 「円盤投げ」の彫像を見ながら不思議な疑問を持ってしまった。
 モデルが誰であるかわからないが、この裸の青年の手足、頭、胸、腹、腰--つまり、その肉体はモデルの肉体を正確に再現しているのだと思うが、それを美しいと感じるのは、いったい、なぜなんだろうか。
 この前にセザンヌを見ていなければ、たぶん、こういう変な疑問は生まれなかった。
 私は、もともとピカソが好きである。それも「青の時代」とか「ピンクの時代」という初期の、リアリズムをある色で叙情的に統一した作品群ではなく、晩年のエッチングに代表されるような、いわばデフォルメの多い、猥雑で、でたらめな作品群が大好きである。そういう作品とギリシャの美術は遠く離れている。
 ギリシャ美術展の前にみたセザンヌの父を描いた絵もデッサンが狂っている。私の好きな絵は、ようするに「正確」とはかけ離れている。「正確」から「逸脱」し、狂っている、狂いを含む作品こそ芸術だと感じている。
 それなのに「円盤投げ」を見ると感心してしまうのである。美しいと思ってしまうのである。それも、その作品が、円盤を投げる動作の一瞬を切り取り、「正確」に再現しているから美しいと感心してしまうのである。「動き」を「正確」に再現している。肉体がそうした姿勢をとるときの「筋肉」の変化を「正確」に再現している。「肉体」のなかの、いのちの躍動を「正確」に再現している。だから、「美しい」。
 「美しい=正確」という「基準」が、なんの躊躇もなく、私のなかに蘇ってくる。
 それだけではない。青年の「肉体」の動き、その筋肉や骨の動きが、私の眼を通って私の肉体のなかに入ってくるとき、この青年のとっているような一瞬のポーズを私は再現できないことを知る。私は円盤投げをしたことがないから、こいうポーズをとれないが、たとえ円盤投げをしたことがあっても、こういうポーズをとれない。その肉体の動きは、私を完全に超越していると感じる。
 「正確」と「美しい」の間に、「私を超越する」という感覚がまじっている。
 と、ここまで書いて、ちょっと私は落ち着く。ギリシャの「正確」は「私を超越する・逸脱する」ことによって「美」に到達している。
 「逸脱」という項目を挟み込むことによって、もしかしたらピカソの逸脱、セザンヌの逸脱と通じるものがあるかもしれない--と考えることができる。(かもしれない)。

 でも、強引だなあ。これは。私のことばは、どこかで、それこそ「逸脱」している。

 「私を超える」ということばを何か別のことばに置き換えて考え直す必要がある。ことばを動かしなおす必要があるのだ。
 「美しい=正確」。その「正確」はほんとうにその青年を「正確」に再現しているのか。それとも「正確」をよそおって何らかなの「加工」が施されているのか。
 ここに「私を超越する」ではなく、作者を超越する、ということばを差し挟んでみる。そのとき作者にとって「作者を超越する」とは何だろうか。作者がたどりつこうとしてたどりつけないもの。
 理想。
 それは単なる「正確」ではなく、「理想」にとって「正確」ということなのだ。
 「イデア」ということばも思い浮かぶ。これは、私がプラトンが大好きだからなのだが、人間には何かしら「いま/ここ」では満足しきれない思いがあって、それがかってにつくりだすものがある。
 理想。
 この不思議なものが「正確」を制御する。「正確」を超えて、別な形にする。「正確」を超えたときにのみ、「美しさ」がほんとうに輝く。

 これ、しかし、ちょっと困ったことだなあと思うのである。
 「美術」さえもプラトンに代表されるギリシャ哲学の「領域」のなかで動いている? ほんとうは違うかもしれないが、私のことばは知らずにそういう領域で動き回る。そこを超えることができない。
 別に超える必要はないとは思うのだが、不思議なのである。
 「正確」であること、そして「正確」をより正しく「正確にする」(理想化する)ということばの運動。精神の運動。意識の働き。
 なぜなんだろうなあ。
 たとえば、そういうこととは完全に縁を切って、自堕落に酒におぼれて肉欲におぼれて、だらしなく生きたら楽しいだろうなあという「理想」も私にはあるのになあ。

 ギリシャ美術を見ながら「美術」を逸脱して「ギリシャ」そのものにとらわれてしまったのかな?
 私は美術のことはまったく知らないが、美術の専門家(あるいは歴史の専門家でもいいけれど)は、ギリシャで生まれた「美」(正確)と、いま・ここで(たとえば東北大震災後の日本で)動いている美意識との関係を、どんなふうに定義しているのだろうか。
 どうことばにすることで「鑑賞」の立場を維持しているのだろうか。
 なんだか、わけのわからないことばかり考えてしまうのだった。
                             (09月25日まで開催)



ギリシャ美術史―芸術と経験
J.J. ポリット
ブリュッケ
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川上明日夫『川上明日夫詩集』(2)

2011-07-30 23:59:59 | 詩集
川上明日夫『川上明日夫詩集』(2)(思潮社、現代詩文庫192 、2011年06月20日発行)

 ひとはことばをどんなふうに肉体に取り込むのだろうか。川上明日夫の場合、「音」に対する嗜好にそって、ことばを取り込んでいるように思えてならない。
 それはそれでいいのだが、というと、ちょっと傲慢な言い方になってしまうかもしれないが、そういうことばの取り込み方を私は嫌いではない。
 しかし。
 この、音の嗜好を中心にことばをとりこむという方法は、とても難しい。いや、取り込んでいる川上自身にとっては難しいことではないのだけれど、読む方として、難しい。
 言い方を変える。
 たとえば食べ物がある。そして誰にでも食べ物に対する嗜好がある。甘いものが好き。辛いものが好き。酸っぱいものが好き。苦いものが好き。そして、そういう嗜好を生きているとき、たとえば私は苦いもの(癖のあるもの)が大好きなので私の嗜好を中心にしていうと、私はチョコレートでもビターなものが好きである。で、私がカカオ90%のチョコレートを食べているとき、誰かが「私も甘いものが好き」と言いながら甘ったるいチョコレートの箱を開けたりすると、ちょっとぞくっとする。そして、そのひとが実際にそのチョコを食べ、その話すことばから「甘い息」がもれてくると、あ、つらいなあ、と感じるときがある。
 何かそれに似た瞬間があるのだ。川上のことばには。

まるい乳房に風をしつらえては
そのひ 水の峠をあなたが
ひくく渡った
染めるには もう とほいできごと
                           (「旅、女ひと染めて」)

 この4行。「とほいできごと」の「とほい」だけが、なぜか旧かなになっている。それを読むとき、私はしかし「とほい」にはつまずかない。ここは「とほい」が美しいと思う。それは、その「ひ」、「ひ」くく、染めるに「は」と「は行」がつづくからである。その「は行」の音のなかで「とおい」が「とほい」になるのはとても自然である。だから、美しいと感じる。
 そして、そう感じた瞬間、肉体の奥から「ぞくっ」がするものが走る。
 いや、これは、正確ではないなあ。
 最初から書き直してみよう。

 「旅、女ひと染めて」という作品がある。タイトルは、とても変である。変である、というのは、私はそういうことばづかいをしない、なじめないということでもある。
 その書き出し。

花のこもった女がいい
天のこもった花がいい
 染めるには もう とほいできごと

 「とほい」はまず3行目に登場する。なぜ旧かななのかわからないが、まあ、書きたいから書くだけなのだと思って読む。同時に繰り返される「花(はな)」という音に「は行」を感じるので、その音のために川上は「とほい」という音を無意識にえらんでいるのだろうと納得する。
 詩のタイトルにはなじめないが、書き出しの3行には、私の肉体はすっとなじむ。
 そしてなじめる音、なじみにくい音のなかをたどってきて、

まるい乳房に風をしつらえては

 にきたとき、私は、ぞくっとする。「しつらえては」が読みづらい。私は音読はしないが、もし声に出すとしたら、ここで絶対につまずいてしまう。「声」の調子が変わってしまう。
 そして、そのつまずいた「肉体」を、

そのひ 水の峠をあなたが
ひくく渡った
染めるには もう とほいできごと

 が、ゆっくり立て直してくれるのを感じる。そして、直前の「しつらえては」が、あ、ひどい「音」とあらためて思うのである。
 最初に読んだときに感じた違和感を、あらためて思い返し、「ぞくっ」と感じたことが、「感じ」ではなく「確信」になってしまう。
 「しつらえては」ではなく「しつらへては」にすればいいのに。そうすれば、とても落ち着くのに、「音」が「音楽」にまで昇華するのに、と思うのである。

 私の書いているのは単なる「音」の好みにすぎなくて、そういうものは「意味」とは無関係だから、詩にはあまり重要ではない--という意見があるかもしれない。
 しかし、私はだめなのである。「音」につまずくと、ことばが読めないのである。

寂しさなら
藍のいろがいいだろう
ききょう という花ことばひとつ
連れそって
やがてわたしも 人に
秋 る
ああ 旅せんか都忘れの咲く頃を
越前(えちぜん) 道守荘(ちもりのしょう) 社郷(やしろのさと)
狐川
やわらかな
おとこの背中にそそのかされて は
おいで おいで と
暮れてゆく

 「おとこの背中にそそのかされて は」という行の「は」だけが独立しているように、この詩では「は行」の音がおもしろい具合に動いている。「いう」は「いふ」、「やわらか」は「やはらか」にすると、その「音」の展開がもっとわかりやすいかもしれない。
 しかし私は「しつらえては」で一度つまずいているので、いま指摘した部分ではつまずかない。その表記が、もう気にならなくなっている。
 けれど。

連れそって

 ここが、我慢ができない。「連れそふ」の「ふ」が「っ」になって、「は行」が完全に消えるその瞬間に、この行は違う、と感じてしまうのである。
 「声」にこだわっている(と、私には感じられる)川上が、どうしてこんな「音」を「声」にしようとするのか、それがわからない。
 で、といえばいいのか、だから、といえばいいのか……。

越前 道守荘 社郷
狐川

 詩集のなかに何度も繰り返される、この美しい音。エッジの明確な音を、川上はどうやって「肉体」のなかに置いているのか--そのことが急に疑問になる。
 私は、その地名の美しさに触れるだけのためのようにして、川上の詩を次々へと読み進むのだが、「音」の関係がどうにも納得できない。
 きのう私は、「越前 道守荘 社郷/狐川」という「他人の音」が川上の音を洗い清めるというような印象を持ったのだが、うーん、洗い清まらない。
 川上のことばがたとえば川を流れる「水」だとすれば、「越前 道守荘 社郷/狐川」は川のなかの「岩」かもしれない。岩にぶつかり、水は砕けて、またひとつになる。砕けながら空気に触れて輝く--ということが、たぶん川上の詩のなかでは起きているのだが、ときどき、その水が砕けて飛び散る音のなかに、とても変なものがまじっていると私は感じてしまう。

 「肉体」があわない。そう感じてしまった。申し訳ないが。




川上明日夫詩集 (現代詩文庫)
川上 明日夫
思潮社



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フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★)

2011-07-30 20:08:01 | 映画
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ 、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、 レックス・バーカー

 この映画は「はったり」が強い。冒頭のキリスト像をヘリコプターで運ぶシーンなど、なんの意味もない。「はったり」である。観客をびっくりさせるだけのものである。けれど、いいなあ、つりさげられたキリストの像の影がビルの壁に一瞬映るシーンの、一回限りの美しさ。これは、その後繰り広げられる「どんちゃん騒ぎ」のなかにも、ふっと姿をあらわす「美」の瞬間を暗示している。(モランディの絵は完璧だ、と突然話すシーンとかね。)
 そして何よりも、まったく無意味と見えるヘリコプターのマルチェロ・マストロヤンニとビルの屋上の美女の声が聞こえないやり取り――これがラストシーンでは、海辺の溝を挟んだマルチェロ・マストロヤンニと少女の会話(?)によみがえる見事さ。
 ヘリのマルチェロ・マストロヤンニと美女たちのやりとりは、もちろん聞こえない。声は美女たちだけ、マルチェロ・マストロヤンニは口は動いているが声は聞こえない。聞こえないけれど、言っていることは美女たちに伝わる。「電話番号を教えろって」云々。
 ラストの海辺では、マルチェロ・マストロヤンニの声は聞こえる。「聞こえない」と叫んでいる声が聞こえる。少女の声はまったく聞こえない。何を言っているか、マルチェロ・マストロヤンニにはわからない。そのわからない声と、純粋な声を背にして、マルチェロ・マストロヤンニは彼が元いた場所へと引き返してゆく。
 どちらも、女と別れ、女の世界へ――という構図になるけれど、ラストが清純・無垢な少女の顔のアップで終わるところが、悩ましいねえ。
 深い溝(といっても、歩いて渡れないことはない深さだけれど)を渡って少女の方へ歩み出せば、マルチェロ・マストロヤンニも変わる可能性があるのだろうけれど、それには背を向けてしまう。背をむけたマルチェロ・マストロヤンニに、それでも少女は透明な視線を送り続けている。
 どこかで、だれかが、そういう無垢な目で見つめていてくれる――というのが、フェリーニの甘い夢なのかなあ。
 あ、この映画の、肝心の「中身」が抜けてしまったね。
 ファーストシーンとラストシーンに挟まれた、なんともしれない「社交界」の、無軌道な生活。これも「はったり」のたぐいだが(ビスコンティと比べてだけれど・・・)、瞬間瞬間が、意味もなくおもしろい。とても充実している。充実しすぎたために、無意味に長くなっている感じがするけれど、やっぱり、ローマだなあ。ローマ帝国の力だなあと思う。誰が何をしていようが、世界はつづいてゆく、ということを信じ切っているというか、つづいてしまう世界に絶望しているというか。・・・倦怠だねえ。モラビアの文体を思い出してしまう。崩れない文体の持続力――じゃなかった、映画だから、崩れない映像文体というべきか。映像文体が揺るがないのが、この映画の力だ。そして、その映像を不思議な力で支えているのがマルチェロ・マストロヤンニである。ときどき寂しげな色になる目(モノクロだけど、目の色の変化を感じる)、少し長めの鼻の下の緊張感の欠如(?)、そして立ち姿の自然さ。他者との距離の取り方に余裕がある。自分で世界を開いてゆくという感じではなく、世界がどんなふうに展開してもそこに存在していられる間合いが面白い。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ26本目、天神東宝3、07月



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川上明日夫『川上明日夫詩集』

2011-07-29 23:59:59 | 詩集
川上明日夫『川上明日夫詩集』(思潮社、現代詩文庫192 、2011年06月20日発行)

 私は川上明日夫の詩をほとんど読んだことがない。『川上明日夫詩集』ではじめて読むといった方が正確である。読みはじめてすぐ、この詩人は「意味」ではなく「音」を書いている、呼吸を書いていると感じた。
 「あなたはひくくたれこめて」には「あ」の音が響いている。

あなたはひくくたれこめて
        ゆたかに
花の方法で眼を閉じる
この部屋 満ちている
苦しい秘密
脱ぎながら
何もいわないで死んでゆく

あなたの気持ち

つーと白い手がのびてくる
あなたから
わたしへの夜間飛行
そんな あなたに
私は野菜(レタス)さえもあげられない

春のようにとても美味しい殺人

 女と部屋にいる。そしてセックスをする。性器と性器が結合するまでのセックスが描かれているのだと思うが、肉体がたしかに結合する前に、喉が開かれ、そこから「声」がもれている。「あ」。一番、開放的な音。「声」を隠したくないのだ。あるいは「声」をたよりに、肉体を動かして行きたいのだ。
 「あなた」「はな」「あなた」「あなた」「わたし」「やかん」「あなた」「わたし」と「あ」の音がつづく。「やさい」と意地悪な感じで「レタス」とシンコペーションするみたいに「た」のなかに「あ」が動いてゆく。そのあと「あげられない」とふたたび「あ」があらわれ……。

さつじん(殺人)

 「あ」の音がほんとうに好きなのだと思う。(詩を読み進むと「ああ」という感嘆のことばがしきりに出てくる。)
 ここには「意味」はない。ただ、「声」を出すこと、「声」がたぶん「感情」をつくっていくのである。感情が「声」をつくるのではなく、「声」が感情をつくる。それは、この詩が、実際に性交する前に、しきりに「あ」の音を発するところに象徴的にあらわれている。
 「あ」と「声」を出せば、そこから「ああ」が始まり、性交が快感へと疾走するのである。

 しかし、この「あ」は、私にはなんだか気持ちが悪い。
 「あげられない」(あげる)ということばの「あ」のせいかもしれない。妙にやさしい。俗なことばでいうと、女っぽい。
 抵抗感がない。
 川上は美しい「音」が好きなのだ--ということはわかるが、その「美しい音が好き」という感情(?)、思想(?)を追いつづけるのは、ちょっと疲れる。

 しかし、この印象は『月見草を染めて』という詩集から少し変わる。(しかし、この詩集のタイトルは、とても気持ちが悪い。「音」になりきれていない--と私は思う。感じる。)
 「道守荘、狐川まで」がおもしろい。

酒を澄ます
手のひらの
丸い淋しさを利く
水映し 水添い
添いきれなかった想いを
じっと 澄ます

 ことば(音)が「しりとり」のように繰り返される。「水映し 水添い/添いきれなかった想いを」という2行では「水/水」「添い/添い」と緊密に動き、そのあと「澄ます」があらわれて、冒頭まで「音」が戻る。戻ることで、そこに不思議な「完結」が生まれる。「閉じる」ことで、その閉じられた世界のなかで「音」が「和音」になる--そういう感じがするのだ。
 途中にはさまれる「想い」は「添い」の「お・い」と結びついているのだが--あ、これは、気持ちが悪い。
 だけれど、そのほかが楽しいので、まあ、我慢して読んでしまう。
 そして「澄ます」が次の瞬間、ぱっと変わる。(あえて、もう一度前から引用しなおす。)

水映し 水添い
添いきれなかった想いを
じっと 澄ます
住ます
ここは旅ふかい地平(とち)
手紙のうえに いま
ぽつりと秋がのぼった
 芒ゆれ
狐川

 この「住ます」のあとの「地平(とち)」の発見がすばらしく美しい。
 「とち」というのは「私」ではない。「肉体」ではない。それは「私の肉体」を無視して存在する「もの」である。「とち」には名前があるが、それは「私の肉体」よりも前から存在している。そこに住んでいる「他人」発した「音」である。つまり「あ」のように、「私の声」とは無関係な「音」をもっている。その強い音に、川上の「あ」の音への偏執的な愛が洗い流されるとでも言えばいいのだろうか。
 突然の「狐川」ということば、「音」が「もの」そのものとして存在している。「音」の肉体がそこにある。それが美しい。
 この音の肉体に出会って、川上の「肉体の音」はうろたえる。必死になって、「肉体の音」を響かせようとする。

あなたの恨みにひときわ
涼やかに酔い
ただ
夢いきれ染め さらに
月 鎮め
ああ 遠いどこかで 何処かで
また こんな夜
あなたの悲鳴も堕ちていった

 「音」のなかに「感情」をつくろうと懸命である。同じ感じがしばらくつづくのだが……。

深々と
水を張るのだ
伏目のように拡げる仕草で
それから 身をおこすと
女は
折りめただしく四方へ
枯れていった

越前(えちぜん) 道守荘(ちもりのしょう) 社郷(やしろのさと)
 狐川

 また、川上の「肉体の音(声)」を蹴散らすように、「音の肉体」が噴出してくる。
 いいなあ。
 「音の力」。自分(川上)のものではない「音の力」。そこに住んでいる誰かが(その誰か以前の祖先が)繰り返すことで作り上げた「音」。
 「あ」のように単純というか、純粋というか、まだ何にも染まっていない「音」ではなく、繰り返されることで濁った音。濁ることで共有された音。「他人の音」。

 「他人の音」の中には「他人の地平」がある。川上は「地平」を「とち」と読んでいるが、私は、それを「ちへい」と読み替えたい。
 川上は、土地の名前をとおして、他人に出会ったのだ。そしてその他人は「他人の音」でもあるのだ。
 ここから川上は変わっていく--そういう印象が直感のようにして、私に向かってやってくる。

越前 道守荘 社郷
 狐川

 この2行と一緒に。

川上明日夫詩集 (現代詩文庫)
川上 明日夫
思潮社
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マルコ・ベロッキオ監督「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」(★★★★)

2011-07-29 23:46:38 | 映画
監督 マルコ・ベロッキオ 出演 ジョヴァンナ・メッツォジョルノ、フィリッポ・ティーミ

 ジョヴァンナ・メッツォジョルノとフィリッポ・ティーミのセックスシーンにびっくりする。特別に過激なこと(?)をしているわけではないのだが、目が離せない。ジョヴァンナ・メッツォジョルノがムッソリーニに夢中になっているのが伝わってくる。セックスの官能の悦び、というのではない。セックスの官能を超えている。それはセックスをするというより、ムッソリーニを発見していくという感じ。ムッソリーニの可能性を子宮で感じとる興奮がスクリーンからあふれてくる。
 フィリッポ・ティーミのムッソリーニはうさんくさくて、ペテン師のにおいがつきまとっているが、その負の部分をセックスで洗い流し、隠れている可能性のすべてを引き出して見せる、誰も知らないムッソリーニを子宮で育てていくのだ、という悦びにあふれている。
 ものすごいですなあ。これだけで、この映画を見た価値がある。
 このあとは、ジョヴァンナ・メッツォジョルノはムッソリーニに裏切られ(ムッソリーニは家庭を選んでしまう)、捨てられるだけではなく、精神病院へ追いやられ、愛の痕跡を消されてしまう。それでもジョヴァンナ・メッツォジョルノはムッソリーニを愛しつづける。ムッソリーニを発見し、育てたのは自分だという自負を生き抜く。ジョヴァンナ・メッツォジョルノにとって愛とは人の可能性を発見し、それを育てることなのだけれど、これはムッソリーニにとってはうれしいことではない。女に育てられ、最高権力者になったということを認めることは、自分の価値を低めることだと思ってしまったんだろうなあ。で、彼女の存在を抹殺しようとする。
 この、一種理不尽な戦いが、延々とつづく。
 映画の力は、その理不尽な戦いを、ジョヴァンナ・メッツォジョルノの肉体に封じ込めているところにある。ジョヴァンナ・メッツォジョルノを捨てて、家庭を選んだあと、ムッソリーニはほとんど登場しない。いや、登場するのだが、ジョヴァンナ・メッツォジョルノとはきちんと向き合わない。セックスしたときのように、真っ裸では向き合わない。だから、ジョヴァンナ・メッツォジョルノは、目の前にいないムッソリーニを相手に、ひとりで戦う。ジョヴァンナ・メッツォジョルノの肉体が、たったひとりで、戦いつづける。愛も、怒りも、絶望も、ただ肉体だけで具体化する。
 このジョヴァンナ・メッツォジョルノの演技力はすごい。演技力というか、存在感、生のジョヴァンナ・メッツォジョルノと言えるかもしれない。実際、彼女の肉体を見ていると、相手がムッソリーニであることを忘れてしまう。ヒットラーでも、スターリンでも、毛沢東でもいい。いや、そういう巨大な人間ではなく、普通の、となりのおじさんでもいい。相手が誰であるかは、どうでもよくなる。愛したのだ、男を育てたのだ、その男の子供を産んだのだという子宮の存在そのものだ。だから、彼女の悲しみや絶望は、「ムッソリーニを愛した女」を超え、女そのものの感情になる。女そのものの肉体になる。
 特別な女の悲劇を見ているのではなく、いま・ここに生きている女という性そのものの絶望と怒り、愛と悲しみ、そして悦びにさえ見える。個人であるけれど、個人を超越して女という普遍に到達している。
 ジョヴァンナ・メッツォジョルノはムッソリーニを愛し、ムッソリーニを発見し、ムッソリーニを育てると同時に、彼女自身を発見し、彼女自身を普遍にまで育てたのである。これを、ジョヴァンナ・メッツォジョルノはほんとうに彼女ひとりの肉体で具現化するのである。
 すごい、すごい、すごい。
 映画は、このジョヴァンナ・メッツォジョルノの壮絶な戦いを、古いフィルム(ムッソリーニの実写を含む)やチャプリンの映画(キッド)、さらには当時の映画の手法(大きな文字をスクリーンに登場させる)などを巧みに融合させながら「ドキュメンタリー」に、あるいは「史実」にしようとしている。とても巧い、とても技巧的に完成された映画である。(あたりまえか……。)完璧な映画になっている。
 しかし。
 それが私にはちょっと不満。ムッソリーニとその時代にこだわったために、ジョヴァンナ・メッツォジョルノの具現化した女が、その時代の女に封じこめられてしまったような感じがしないでもない。相手がムッソリーニだったから、こういう悲劇があったというのは「事実」なのだが、相手がムッソリーニでなくても、女は同じ悲劇を生きる--その普遍的な事実が、なんだか「物語」のなかにとじこめられてしまったような感じがするのである。ジョヴァンナ・メッツォジョルノの演技は「物語」を突き破っているのに、マルコ・ベロッキオがそれをもう一度「物語」に封印してしまっている感じがするのである。
 だからね、というのは少し論理的におかしいかもしれないけれど、映画を見終わるとムッソリーニがとってもつまらない人間に見えるでしょ? 実際につまらない人間なのかもしれない。けれど、ムッソリーニがつまらない人間にみえてしまえば、マルコ・ベロッキオは何のためにそんなつまらない人間を愛したのか--という変な疑問が残ってしまい、彼女の具現化した絶望や怒りが、なんとなく虚しくなる。弱くなる。それが残念。
                              (KBCシネマ1)



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ワシントンナショナル・ギャラリー展(2)

2011-07-29 09:16:09 | その他(音楽、小説etc)
ワシントンナショナル・ギャラリー展(2)(国立新美術館、2011年07月20日)

 セザンヌ「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」は不思議な絵である。素人の私からみるとデッサンが狂っている。セザンヌの父が背もたれ、ひじ掛けのある椅子に腰掛けて新聞を読んでいるのだが、ひじ掛けの描き出す「透視図」が変である。ひじ掛けが手前にむかって狭まって見える。椅子の前面よりも背後の方が広い。椅子の座面が台形になっている。しかも逆台形に。こんな椅子ある?
 で、この狂った透視図をセザンヌは巧妙に隠している。セザンヌの父はまっすぐに腰をおろさず、画面を中心にしていうと向かって右側半分に上半身をずらして座っている。ひじ掛けと座面がつくりだす直角の隅っこを隠すようにして座っている。逆台形の前面の線は足で隠されて見えないようになっている。
 でも、いくら隠したって、これは狂っているよなあ--と思うのだが、絵の前を歩きながら通りすぎたとき、変なことが起きた。
 虎の絵で、どこから見ても(右から見ても、左から見ても、正面から見ても)、どうしても目が合ってしまうというものがある。(たしか小倉城にも、その一枚があった。)その虎の絵のように、動きながら右から見る、正面から見る、左から見ると、どういえばいいのだろう、まるで「ほんとう」の人間が座っているように見えるのである。誰かが椅子に座っている--その前を、その人のことを気にしながら歩いていく。ちらちらと視線をやりながら。そのとき見える「人間」のように、セザンヌの父が見えるのである。
 通りすぎながら対象を見るとき、私たちの目は(私の目は?)、その人のまわりを含め、つまり全体を見ているのは見ているのだが、視線の焦点は体のある一部を見ている。たとえば顔を。あるいは、組んでいる足の組み方を。あるいは、上半身を傾けている、その傾き具合を。
 自然に見えたのである。
 正面からじーっと探るように見たときは、狂って見えるデッサンが、動きながら見ると気にならない。気にならないどころか、自然に見える。
 モノの「日傘の夫人」について書いたとき、モネはモデルの手前にある空間を描いている、と書いたが、同じような言い方をすると、セザンヌは何を描いているのだろうか。絵の前を通りすぎながら見ると自然に見える絵だから、やはり手前の空間? 違うなあ。セザンヌの絵の前では、「空間」を感じない。モデルの奥、モデルから始まる空間しか感じない。モデルの奥の空間を感じるからこそ、その奥に向かっての透視図の狂いが気になるのだ。
 では、何を見ている。
 絵の前を通りすぎる。何度も、往復する。
 あ、絵は動かないが、目は動いている。私が動き回っている。そうなのだ。セザンヌの目は動いているのである。
 考えてみれば、これは自然なことだ。何かを見つめるとき、私たちは「一点」にとどまって何かを見るわけではない。いろいろな角度から見る。私の「肉体の目」は二つだが、その二つの位置は肉体とともに動く。視点はひとつではない。複数ある。複数の目が一枚の絵のなかで出会っているのである。複数の目が一枚の絵を作り上げているのである。
 この複数の目をさらに過激にすると、たとえばピカソになる。ひとりの顔のなかに横から見た目、正面からみた目が同居することになる。セザンヌはそこまで過激なことをしていないが、その先駆けをやっている。それぞれの細部をがっしりと描きながら、複数の視点で画面を再構成している。
 絵とは、セザンヌにとって、対象の「再現」ではなく、「再構築/再構成」なのだ。再構築・再構成のために、対象を四角や円や三角や、揺るぎない純粋な形にまでつきつめているのだ--そう思った。
                             (09月15日まで開催)



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松岡政則「あいさつ」「つくしたんぽぽいぬふぐり」

2011-07-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「あいさつ」「つくしたんぽぽいぬふぐり」(「現代詩図鑑」2011年初夏、2011年06月20日発行)

 松岡政則「あいさつ」は「意味」の強い詩である。

あいさつには現生人類の
底力のようなものがある
間合いを見計らいながら
互いの生をよろこび合う
いにしえからの人間運動

 まあ、そうなんだろうけれど。おっしゃるとおりですけれど。……ちょっと敬遠してしまう。私は「意味」には興味がない。「あいさつ」の強要のようにも感じられて、「困った詩だなあ」とふと思ってしまう。
 が。

脈脈たる血つづきがよい
死者たちも住むのがよい

 えっ、いま、何ていった? 急にわからなくなる。「意味」を読んでいたつもりが、ふいに「意味」がつかめなくなる。

あいさつはひかりの素顔
そのきわはふるふる震え
世界はモノなどではなく
コトの現われだとわかる
躰が晴れてくる菜畑の道
あいさつには逆らえない
いや逆らってはならない

 わからないね。「世界はモノなどではなく/コトの現われだとわかる」というのは松岡の作品、松岡のことばをずーっとていねいに追ってきている読者にはわかる「哲学」だろうけれど、突然、こういうことばに出会うととまどってしまう。
 それでも、私はこの詩に惹かれた。感想を書いてみたいと思った。

あいさつはひかりの素顔
そのきわはふるふる震え

躰が晴れてくる菜畑の道

 この離れて存在する3行、そのことばのなかに「風景」が見えたからである。「意味」ではなく「風景」が、不思議となつかしい感じがしたのだ。
 「菜畑」の「菜」が何かわからない。わからないけれど、緑色が見える。そのまわりには光があふれている。その道を歩くと身体が野菜になったような気持ちになる。そういうときってあるなあ。
 「あいさつはひかりの素顔/そのきわはふるふる震え」の「そのきわ」とは「ひかりのきわ」かな? でも「ひかりのきわ」って何? 「きわ」は「際」だろうけれど、ひかりのはしっこ?
 わからないながら、この「きわ」、そしてそれが「ふるふる震え」ているということばに出会うと、私の肉体の「きわ」がひかりに共振して震えるような感じがするのだ。そして、共振して震えることで、ひかりが私の肉体のなかに入ってくるのか、それとも私を包む肉体の表面の「闇」が解きほぐされるのか、よくわからないけれど、何か変化しているのがわかる。わかる、というか、感じる。
 あ、こういうことが、「あいさつ」ではなく、たとえば「菜畑」の道を歩きながら、野菜を見るとき、その緑を美しいと思うときも、起きているのだな、と思う。
 私と私以外のものが、「きわ」をそれぞれ震わせて「解体」する。ほどけてしまう。「きわ」がほどけてしまうと……言い換えると(松岡のことばを借りて言い換えると)、「私」や「私以外」の「モノ」が「きわ」という「輪郭」をなくし、ほどけてしまう。そうして「もの」がなるなると、きっと「コト」だけが残る。「コト」が「ほどけた輪郭」の奥から「現われてくる」ということかな?
 私は菜畑の道を歩く。そのとき、「私」も「菜畑」も「道」もない。ただ「出会い」がある。「出会い」という「コト」だけがある。「コト」だけになったとき、「躰が晴れてくる」。「晴れる」という「コト」が「現われる」。
 私の「きわ」が消え、「菜畑」や「道」の「きわ」も消える。そのとき、きっと生きている人間と「死者」の「きわ=境界線」も消える。死者というのはこの世から消えてしまった人だけれど、「きわ」がないのだから、死者が、いま/ここに住んでいてもかまわない。いま/ここで死者に出会ってもかまわない。
 実際、そういうことはある。なつかしい道を歩いていて、ふと、そこですれ違った遠い人、死んでしまった人のことを思い出す「こと」がある。思い出すという「こと」のなかで、死者と出会うという「こと」がある。
 「こと」には「きわ」がないのだ。
 「もの」には「きわ」があるけれど、「こと」には「きわ」がない。
 「あいさつ」は、「こと」のなかでの「出会い」なのだ。

 そんなことは、松岡は書いていない?
 そうかもしれない。そして、松岡が書いていないのだとしたら、つまり松岡が書いていないことを私がかってに「誤読」しているのだとしたら……。
 何と言えばいいのだろう。
 このとき、私は松岡の「意味」から自由になって、自分で勝手に動いているという「晴れやかな」気持ちになる。
 そして、あ、この詩、後半がいいなあ、と思う。
 「後半が好きだよ」という「あいさつ」を松岡に送りたくなる。「前半は嫌いだけれど、それは私が松岡をまだよくわからないから。そのうちわかるようになるかもしれないから、それまで待っていてね」と言いたくなる。

 「つくしたんぽぽいぬふぐり」は最初の3行にやはり「意味」が強く書かれているのだが、そのあとは「あいさつ」(誰かとの出会い)と、「あいさつ」による「きわ」の変化が書かれている。「きわ」が消えて「肉体のなかのコト」があらわれてくる様子が、やわらかなことばで書かれている。

どの民族のあいさつにも
人間をささえる運動があるだろう
連綿とつづくさみしい問いがあるだろう
やまのバスをおりて
道ばたで地図をひろげていると
「ええ日和ですのう」
じげの者にあいさつされた
かるく頭を下げてあいさつをかえす
なんか、いい気分
足もとから叱ってもらえたような
祖々(おやおや)の聲に出会えたような
あいさつにはそういう力がある
あとからあとからいいものがやってくる

 「足もとから叱ってもらえたような」の「足もと」がいいなあ。「肉体」を「足」に感じている。「足もと」というのは、まあ、「肉体」ではなく、松岡の立っている「地面」かもしれないけれど、そこに地面があることを「足」で感じている。「頭」で感じているのではなく「肉体」で感じている。だから「足もと」ということばになるのだと思う。
 「肉体」で感じるから、同じ「肉体」をもっている「祖々」が自然に出てくる。人間は、どんな見知らぬ人とも「肉体」でつながっているのだ。
 人間は、見知らぬ人とも「肉体」でつながっている「こと」が、いまえここに「あらわれている」。(あらわれてきている。)
 そして「こと」のなかから、「あいさつにはそういう力がある」という行の「力がある」というような「抽象的なことば」(哲学のことば)が自然に生まれてくる。「哲学」というのは「こと」のなかをとおりぬけてあらわれることばなんだろうなあ、と教えられる。

 松岡は、このあと不思議なことばを動かしている。

総合病院弛緩剤一本所在不明
どうしていいかわからないからあいさつがあるのだろう
ランドセルを揺らしながら坂をかたまりおりてくる
ここらのこども、ここらのこども、
あいさつ以外はじゃまになる
すれ違いざまに次つぎと
「ただいまかえりました!」

 そうなんだなあ。どうしていいかわからないときは、とりあえず「あいさつ」。「きわ」を自分の方からゆるめて、出会った人に、「私はあやしいものではありません」と告げる。

ここらのこども、ここらのこども、
あいさつ以外はじゃまになる

 この2行も好きだなあ。こども--大人の(といっても、私の、ということなのだが)都合を考えないからね。子供は大人とは違う「こと」をしている。「こと」を生きている。「きわ」のつくりかたが違うのだ。
 邪魔だねえ、という感じが、松岡の「肉体」と「こと」を「笑い」のなかで伝わってくる。

 松岡のことばは「意味」から出発しても、しっかりと「肉体」へたどりついている。「肉体」をはなさずに、「こと」の内部へおりて行く。そして「哲学」をつかみとってくる。そういう安定感がある。



ちかしい喉
松岡 政則
思潮社
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ワシントンナショナル・ギャラリー展(1)

2011-07-28 12:35:02 | その他(音楽、小説etc)
ワシントンナショナル・ギャラリー展(1)(国立新美術館、2011年07月20日)

 モネの「日傘の女性、モノ夫人と息子」が展示されているコーナーに入った瞬間、私は、ぐいっとその絵に引きつけられた。駆け寄りたい衝動に襲われた。
 この絵は美術の教科書にも載っている。中学の美術の教科書で見たのが最初である。私は、印象派の絵はもともと好きではないし、この絵も好きと思ったことは一度もない。気障、というか、光の眩しさを強調するために影に焦点をあてているのが「わざとらしい」感じがして嫌いだった。「逆光」の構図が「わざとらしい」と感じて大嫌いだった。
 その大嫌いな絵が、ぐいっと私をつかむのである。「ほんもの」の力といえばそれまでなのだが、何が美しいのだろう。ほかの絵と何が違うのだろう。

 絵というのは--私は素人だから、ごく単純に考えるのだが、たとえば人を描くとき、人が中心である。そして人が中心ということは、人が「前面」にでているということである。バック(背景)はあくまでバック(後面)である。つまり、人の後ろに空間があり、空間はそこに描かれている人の後ろにある。あるいは、人の横(となり)に広がっているものである。もちろん人の前にも空間はあるのだが、それは描く瞬間に消える。描かれている人からしか空間は始まらない。そう思っていた。
 その考えが(そういう絵の見方が)、この絵を見た瞬間、くつがえったのである。びっくりしてしまった。
 描かれているモネ夫人の背後にも空間がある。まぶしい雲と青い空が背後にある。モネの息子もモネ夫人の背後にいて、視線を絵の奥へと誘っている。それにもかかわらず、私は、モネ夫人の背後、あるいはモネ夫人の横に広がる空間を感じる前に、モネ夫人の手前にある空間を強く感じたのだ。モネとモネ夫人の間、モデルと画家との間にある「空間」をとても強く感じたのだ。
 逆光のため、モネ夫人の影が手前に伸びているから?
 そうなのかもしれないが、そうした「構図」を超えたものが、ここには描かれていると感じたのである。

 モネ夫人は絵のなかで振り向いている。そのとき影が動いている。影の占める「領域」そのものは動かないけれど、その「領域」のなかで影が動いている。その動きは、影ではなく、ほんとうは光なのだ。モネ夫人が振り返ったとき、水色の影が涼しく流れたのではなく、光が錯乱したように動いたのだ。光が乱反射したのだ。
 モネ夫人の背後の光は動かない。均一である。けれど、モネ夫人とモネの間では、その「均一」が崩れる。いままで動かずに存在していた光が動いたのだ。モネとモデルの間にある光、それが動いた。その変化をモネは描いているのである。

 対象の表面に存在する光、光の変化としての色ではなく、対象と画家との間にある「空間」そのものの変化をモネは描いている。この絵は、画面の奥に向かって立体的なのではない。画面の手前に向かって立体的なのである。そして、その立体感は「透視図」ではとらえられない立体感である。まるごと、「空間」そのものがそこに存在する。その「空間」のなかに入って、「空間」そのものを見つめるための絵なのだ。

 私は、この絵によって、私の絵画観(大げさすぎるかもしれないけれど)が変わってしまった。絵のなかに描かれた「空間」ではなく、その手前にある「空間」というものに気がついた。
 そして大好きな一枚になってしまった。
 「ほんもの」はすごい。「ほんもの」は見なくてはならない、とあらためて思った。
                             (09月15日まで開催)




モネ (ニューベーシック) (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
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クラウディア・リョサ監督「悲しみのミルク」(★★★★★×5)

2011-07-28 10:11:50 | 映画
監督 クラウディア・リョサ 出演 マガリ・ソリエル、スシ・サンチェス、アフライン・ソリス

 映画の最初から最後まで、すべてのシーンが「詩」である。「現実」を踏まえながらも「現実」を超えて「永遠」に到達している。
 ストーリーを動かしていく「歌」もすばらしいが、なんといっても映像が美しい。
 ペルー、リマの澄んだ空気。荒涼とした丘(山)に散らばる貧しい家。それが美しい。なぜ、貧しい家が美しい風景になるか。--それは、その家が、人間が自分の「肉体」をつかって作り上げたものだからである。それが完成するまでに動いた「肉体」の動き、「肉体」がととのえた美しさがそこにある。「肉体」をはみださない優しさがそこにある。(たとえば原発のある風景と比較するとわかりやすくなる。原発は「肉体」だけではできない。さまざまな重機、高度な機械をつかってつくりあげるものである。そこには「肉体」を超える一種の暴力がある。)
 「肉体」をはみださない美しさは、丘を登る階段に象徴されている。一段一段、人間の「肉体」の力でつくりあげた、ていねいな美しさ。「肉体」を超えない優しさとていねいさが、この映画を貫いている。
 また、「肉体」を超えない悲しさも、「肉体」になってしまっている悲しさも、この映画を貫いている。



 感動しすぎて、どこから書いていいかわからない。最初から、書き直してみる。
 映画は主人公の母親が死ぬところからはじまる。死ぬ間際に、母が歌を歌う。その歌は何度も何度も彼女が歌ってきた歌である。その歌がすごい。彼女自身のレイプされた悲しみを歌っている。「手込めにされるのを娘は全部見ていた。娘は、まだ生まれていないが、子宮のなかですべてを見ていた。殺された夫の逸物を口にくわえさせられてレイプレレたが、夫のそれは火薬の匂いがした。レイプされた母から生まれた娘は、母乳をのんで育つ。その母乳には母の悲しみが流れている。女の悲しみは母乳をつうじて娘に引き継がれる」というような、リアルであると同時に、女の哲学にまで到達した歌である。「国語はその国民の到達した精神の高みをあらわす」というようなことを言ったのは三木清だが、母の歌の中には、母の到達した精神の高みがある。そのことばは、精神の高みに到達しているので、怒りや悲しみを超越して、透明で純粋な「美」になっている。「詩」としての「永遠」になっている。
 その歌を聴きながら育った娘は、レイプを恐れて(レイプした男たちが怖けづくように?)、子宮にじゃがいもを入れている。「肉体」を守り、こころを守るためにとったその行為のために、娘は病気になる。母を亡くして、心底頼れる人がいなくなり、生きる気力もなくしている。母をふるさとの村に土葬したいとだけ考えている。
 --という、不思議なところから映画は始まる。まるで「民話」、あるいはペルーの「神話」のような世界なのだが、ほんとうに不思議で「詩」そのものの映画である。

 繰り返しになるが、「歌」がすばらしい。起きたことすべてを「歌」にしているのだが、歌うことで、その起きたことが「現実」から乖離する。そして、その現実からの乖離には、不思議な美しさがある。「肉体」の美しさがある。
 ちょっと乱暴すぎた飛躍だね。言いなおすと……。
 「歌」というのは、簡単にはできない。(と、思う。)ことばをメロディーとリズムにのせるには、何度も何度も繰り返し確かめてみないといけない。歌いながら、少しずつ修正し、また繰り返す。無意識の「訓練」がある。
 その訓練は、この映画の主人公の場合、母の歌を聴くことで身につけ、また母を真似して歌うことで身につける。その訓練はただ繰り返すことだけと言えるかもしれないが、その繰り返し--繰り返すことで、思いをことばにし、ことばを音楽にのせる(音楽とともに動かす)ということが「肉体」になってしまう美しさがある。
 主人公にとって「音楽」とは「歌」であり、「歌」はあくまで、彼女自身の喉、口を通って溢れ出る。「肉体」から溢れ出る。(彼女の雇い主のピアニストにとって音楽とは、耳から入って指から出ていくものである。つまり「楽器」が「音楽」の発生源である。そのことと対比すると、主人公の「音楽」が「肉体」である、ということがわかりやすくなると思う。)
 主人公は歌っているのだが、歌っているのではない。悲しみを、悲しみに代表される感情を生きているのである。悲しみを、肉体に吸収させることで、こころを救っている。こころだけでは持ちきれないものを、口を動かし、喉を動かし、息をととのえるという歌うという行為のなかで吸収し、和らげているのである。悲しみを和らげる力としての「肉体」--そういうものに、彼女の「歌」は昇華している。

 映画の舞台となっているペルーの風景も、また「歌」のような「肉体」である。
 ば荒涼とした丘(山)を上る階段--その美しさ。一段一段、ひとが作り上げたのだ。「肉体」をつかって作り上げたのだ。丘に散らばる貧しい家。それもまた人が「肉体」をつかって作り上げたものである。「肉体」をつかって、何度も何度も同じことをしながら作り上げたときにできる静かな美しさが、そこにある。
 透明な空気のなかで、人間の「肉体」の歴史のようなものが、「肉体」の範囲内で正確に存在している。そういう美しさがある。
 これは「長江哀歌」の「暮らし」の風景、「静物」としての「室内」の美しさに通じる。「長江哀歌」では主に、建物、特にその室内に残る暮らしの繰り返しの痕跡が美しい形でスクリーンに定着していたが、この映画では、同じことが「室内」ではなく風土のなかに存在している。
 さらに、繰り返される「暮らし」の美しさがある。何度も「結婚式」が描かれるが、その細部がすべて「肉体」である。「花婿」にかわって友人が求婚するというセレモニーや、結婚のお祝いに親類がベッドやゆりかごを贈ること、みんなで歌い、踊ること--そのなかで作り上げられていく「肉体」の「形式」。「形式」になったいく「肉体」、「形式」を共有する「肉体」の美しさがある。「形式」になった「肉体」の強さがある。
 丘の階段もそうなのだ。あれは、「形式」にまで高められた「肉体」の美しさなのである。
 だからこそ、「形式」として「共有」されない悲しみ、レイプされる女の悲しみ、略奪される女の悲しみが鮮烈なのである。
 主人公は、男にレイプこそされないが、この映画のなかでは自分の歌をピアニスト(女)に略奪される。--それは、彼女にとっては、やはり「レイプ」なのである。「歌」は主人公の「肉体」であり、それをピアニストは「ピアノ」という道具で略奪する。ピアニストは女なのでペニスはない。ペニスがないから「道具=ピアノ」で主人公の「肉体」である「歌」を奪い、自分のものとして発表する。
 この悲しみを「共有」する「肉体」は映画のなかでは描かれていない。観客が共有しないと、主人公の悲しみは、あてもなくスクリーンをさまようだけである。

 で。

 うまく説明できないとき、とりあえず、「で、」と私は一方的にことばを飛躍させるのだが……。
 で、その主人公の「共有」できなん悲しみ、映画の登場人物のなかでは「共有」されない何か--それを映画を見ている観客が「共有」できるうよにするために、カメラがある。映像がある。
 この映像が、とてもすばらしい。とても美しい。主人公がどうしていいかわからずにただそこに存在しているだけの瞬間の映像が美しい。--この美しさは、どう書いても説明できないので、説明できるシーンだけを説明すると。
 たとえば、主人公がピアノの音を聞いて、楽屋からステージへむかって歩く。そのとき、通路の光の加減で主人公の顔が見えたり、完全なシルエットになったりする。常に顔が、つまり表情が見えるわけではない。そのことが逆に、その通路を歩く主人公の「肉体」となって迫ってくる。通路を歩く主人公を見ている--のではなく、観客は(私は)主人公となって、暗くなり、明るくなる通路を歩いている。歩く「肉体」になってしまうのである。
 あるいは、主人公が庭師と道を歩くシーン。最初は、ふたりは離れて歩いている。その「離れた」感じが、ふたりの「間」として表現されるのではなく、それぞれがスクリーンのなかで占める「位置」によって表現される。女の前に漠然とした空間がある。庭師の前にも漠然とした空間がある。その漠然とした空間と女、漠然とした空間と男--それぞれを描くことで、二人の間の「空間」のばくぜんとした感じ、感情が「肉体」としてうまく「共有」されていない感じとして浮き彫りになる。
 やがて二人は少しずつなじんできて、並んで歩くようになるが、そうすると二人のまわりにはたとえば「市場」がリアルな形で「肉体」として存在する。「市場」のなかを通るふたりをとらえるカメラは、いつも「市場」に邪魔される。野菜や何かを売る「市場」の、その商品、その屋台(?)の柱や何かが邪魔して、二人の姿は「完全」な形ではスクリーンには映し出されない。かわりに「市場」が前面に映し出され、その「市場」の内部として二人が映し出される。「市場」が(空間そのものが)、二人の「肉体」となって、二人に「共有」されているのである。
 この「空間」が「肉体」に変化する過程というか、「肉体」が何かを「共有」するとはどういうことかを感じさせてくれるカメラ、映像がすばらしい。

 これに先だつ主人公と庭師の「会話」のシーン。庭師が「水を飲ませてくれ」とやってきて、主人公がコップを渡すシーンの美しさもすばらしい。直接コップを渡すのではなく、水の入ったコップを流し台に置く。そこから庭師がコップをとる。すぐには接触できないもどかしさ--もどかしい「肉体」、「肉体」のなかにある「こころ」。
 庭師は「家まで送っていこうか」というのだが、すぐには「お願いします」と言えない主人公のためらい、とまどい。それから思いなおして、庭師に「送って行って」と頼むまでのシーン。窓越しに映し出される二人--そのときの「もの」と「二人」の「位置」の変化が、すべて「意味」ではなく、「意味」を超越した「美しさ(詩)」としてスクリーンに繰り広げられる。

 主人公の「肉体」が「空間」から拒絶されているシーンも、不思議に美しい。主人公が働きに行くピアニストの家。広い家を歩くとき、ぽつんと置かれているソファーが映る。主人公とは無縁のまま、そこに「美しい物体」として、「物体の美しさ」として完璧に存在する。その「もの」の孤独は、主人公の、その家でのありよう、孤独そのもの、だれとも共有できない「肉体」をもって取り残されている悲しみである。

 さらに、さらに。
 主人公が母の遺体と一緒にふるさとの村へ帰るシーン。そのときの風景の、強靱な美しさ。ペルーの荒野を走っているだけといえばそれだけなのだが、人間の悲しみとは無関係にただ「美しい」ものとして存在する風土。
 トンネルを抜けると、突然、道路に巨大な船がある不思議さ。でも、それは不思議でも何でもなくて、海がすぐ近くにあるのだ、とわかる瞬間までの完璧な「絵」。「絵」になってしまう映像の美しさ。
 母の遺体に海(太平洋)を見せに行くために主人公がのぼる砂丘。その砂の色の美しさ。
 すべてが強靱である。鍛え上げられた美しい映像である。
 そして、その強靱な美しさに出会って、あらためて主人公の美しさに気づくのである。風貌が美しいだけではない。風貌のなかにある悲しさが美しいのだが、その美しさもまた強靱なまでに鍛え上げられたものなのだ。
 私は最初、この映画の美しさを「ていねい」と結びつけて書いたが、それはほんとうはていねいに繰り返される「いのち」が身につけた強靱な美しさといった方がいいのかもしれない。
 悲劇を歌にする。悲しい、絶望的な体験を歌にする。そのとき、ことば、そしてことばを歌にする「肉体」は、少しずつ強くなっているのである。もう一度レイプしようと襲い掛かってくるものを拒絶する「意志」のようなものが、「歌」のなかに育ってくるのである。悲しみを生きて、悲しみを伝えていくという強い力。
 弱いだけでは美しくはない。強靱になってこそ、美しいのだ。弱い「肉体(女性)」が、強靱な「いのち」に到達するまでを、この映画は完璧に表現している。

 百回見ても見飽きたりない--そう思った。2011年のベスト1の映画である。福岡での上映期間は2週間しかない。しかも上映回数がとても少ない。私も、もう少しで見逃すところだった。ぜひ、見てください。
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金井雄二「樹木に」

2011-07-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「樹木に」(「独合点」107 、2011年07月17日発行)

 金井雄二「樹木に」は、「もの(対象)」を追いかけているうちに、ふっと「思い(気持ち)」が動く。その瞬間に無理がない。作為がない。だから美しい。

樹には葉があり、葉と葉の間には光があり
光はちいさくおおきく瞬いては消え消えては瞬いていて
そのおかげで緑と言う色の本当の正体がわかったような気がして

 引用したのは詩のなかほどである。
 引用部分の最初の2行は、もの(対象=樹)を描写している。樹を描写することは葉を描写することであり、葉を描写することは葉を輝かせている光を描写することである。とても自然にことばが動いている。ことばとともに樹という大きな存在から次第に葉、葉の間という具合に小さなものに視線が動いていく。そして、その視線は「瞬いては消え消えては瞬いて」という、あるか、ないかわからないものにぶつかり、そこから「思い」というか「気持ち」というか、「もの」ではないものへと飛躍する。
 「緑と言う色の本当の正体」は書かれない。それが何か、書かれない。そのかわりに「わかったような気がして」と「気」が書かれる。
 たぶん、あらゆる「正体(もの)」は金井にとっては「気」(思い)なのである。
 「そのおかげで」ということばは一見「論理的」に見えるけれど、そこには「科学的」な論理は存在しない。そこにあるのは「気」だけである。
 金井は「気」にだけ「気を配っている」のかもしれない。

蚊 虻 蜂
蛇 土竜
ちょっぴりこわかったなあ
朝露にぬれそぼった名もしらぬ花
花の名前は知らないけれど咲いている花を殺してはいけないと思った

 この「蚊……」の2行は私にはわからない。
 「緑という色の本当の正体」ということば、「瞬いては消え消えては瞬いて」ということばに引きずられて、私は一瞬、「虹」を見たのだが、「虹」のかわりに変な虫やら、虫変なのに虫ではない「蛇」、「竜」ではない「もぐら」があらわれたかと思うと、一転して、「虹」が「朝露」のなかに蘇り、それからまた美しいことばがつづくのである。
 そして、そのことばのなかに「気」に通じる「思った」がある。
 その行には、「知らぬ」ということばもある。
 「知る」と「思う」。--この二つのことばのなかで、金井は「思う」の方に肩入れ(?)している。
 「知る」ということは、金井にとってはありま重要ではない。
 それは、最初に見たように、「本当の正体がわかった」をすぐに「ような気がして」とずらしてしまうところに象徴的にあらわれている。「正体」を科学的につきとめることは金井の「本意」ではないのだ。「気」がすればいい。「思」えばいいのである。
 でも、ほんとうに、それでいいの?
 金井は開き直っている。


雑草におおわれた
草の蒸れた匂い
どうでもいいことだが
樹木の肌に触れたときいつまでもそこだけぼくは生きている

 「どうでもいいことだが」。このときの「どうでもいいこと」というのは、私のことばで言いなおせば「論理的であろうがなかろうが」ということになる。金井は「論理」ではなく、「気」で動く。
 だから、

樹木の肌に触れたときいつまでもそこだけぼくは生きている

 という1行には、ほんとうは省略されたことばがある。それを補えば、

樹木の肌に触れたときいつまでもそこだけぼくは生きている「気がする」

 になる。
 なぜ「気がする」が省略されてしまったかというと、その行に「いつでも」ということばがあるからだ。「気がする」というのは「そのおかげで緑と言う色の本当の正体がわかったような気がして」からわかるように「瞬間的」なものである。
 この1行には「瞬間的に」が省略されている。

そのおかげで緑と言う色の本当の正体がわかったような気が「瞬間的に」して

 「思う」の場合も同じ。花を殺してはいけないと「瞬間的に」思ったのである。
 この「瞬間的」を少しずつ書き留めて「いつでも」にかえたい。
 金井はそういうことを願って詩を書いているのかもしれない。


にぎる。
金井 雄二
思潮社
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フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)

2011-07-27 13:50:29 | 午前十時の映画祭
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ

 好きなシーンが二つある。
 ひとつはザンパーノ(アンソニー・クイン)がジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を置き去りにするシーン。毛布をかけ、体が冷えないように、思わず人間らしいことをしてしまう。そして、いよいよ出発というとき、荷台のトランペットに目がとまる。この一瞬。毛布をかけたときより、もっと人間っぽい。トランペットを荷台から取り出し、ジェルソミーナの体の横にそっと置いていく。
 置き去りにして逃げるのだから、毛布をかけなくたっていい。トランペットを残していかなくたっていい--はずなのに、そういうことをしてしまう。
 いいねえ。このときのアンソニー・クイン。
 どきどきしてしまう。何度も見ているので、次に何が起きるかわかっているにもかかわらず、どきどきする。ジェルソミーナが目を覚ますんじゃないか。気がついてオートバイを追いかけながら「ザンパーノ」と声を上げて泣くんじゃないか……。
 存在しないフィルムが私のこころのなかでまわりだすのである。アンソニー・クインの、目の表情が、そういうことを期待させるのである。もしかすると、アンソニー・クインはジュリエッタ・マシーナが目を覚まし、追いかけてくるのをどこかで期待していたかもしれない。追いかけてくるのを見ながら、それを振り切って逃げてこそ、置き去りにするという残酷な行為になる--そうなってほしいと願っていたかもしれない。
 なんといえばいいのだろう。「逆説の期待」、裏切られることで安心する「期待」のようなものが、どこかにひそんでいる。
 これが最後の、大好きな大好きなシーンにつながる。
 ジェルソミーナがいつも吹いていた曲をザンパーノはふと耳にする。そして、ジェルソミーナの、それからを知る。死んでしまったことを知る。
 そのあと。
 夜の海辺をさまよい、砂浜にうっぷすザンパーノ。一瞬、空を見上げる。カメラは空をうつさないのだけれど、満天の星がきらめいている。それがわかる。アンソニー・クインの目が孤独のなかで純粋になる。トランペットを見つけ、ふと目がとまったときと似ているが、それよりももっと純粋な暗い色、暗いけれど透明な輝きになる。孤独のなかで、一瞬、ジェルソミーナとつながる。そして、ふたたび、そのつながりが消えてしまう。
 このとき、ふと、思うのである。トランペットを荷台にみつけ、それを「置き土産」にしようと思った瞬間、ザンパーノのこころはジェルソミーナとどこかでつながっていた。それを断ち切って、ザンパーノは逃げたのだ。その結果が、孤独である。そして、孤独であると気がついた瞬間、ザンパーノはジェルソミーナと深く深くつながるのだが、そのつながりが深く、また強ければ強いほど、現実の孤独はいっそう残酷にザンパーノに襲い掛かってくる。
 残酷で野卑だったアンソニー・クインが、泣きながら、砂をかきむしり、砂浜を叩く。海はアンソニー・クインの悲しみなど知らないというふうにただそこになる。波はあたりまえのように打ち寄せている。暗い闇。そして、スクリーンにうつることはないけれど、空にはきっと満天の星。そのひとつはジェルソミーナの星かもしれない。

 この映画はしばしば綱渡りの「奇人」が語る石のエピソード(「どんなものでも世の中の役に立っている。この石も」とジェルソミーナに語るシーン)とともに取り上げられるけれど、私にとっては、この映画は何よりもアンソニー・クインの映画である。
               (午前十時の映画祭青シリーズ25本目、天神東宝3)



 天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中でかならずブォーンというような雑音が入る。大音響でごまかしている作品の場合は気づかずにすむこともあるが、「道」のような静かな映画では気になってしようがない。



道 [DVD]
クリエーター情報なし
アイ・ヴィ・シー
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レンブラント光の探求/闇の誘惑

2011-07-27 09:01:35 | その他(音楽、小説etc)

レンブラント光の探求/闇の誘惑(名古屋市美術館、2011年07月20日)

 レンブラントの版画(エッチングなど)を意識的に見たことはなかった。名古屋市美術館の催しは油絵よりも版画が多かった。版画も油絵同様、夜の闇とろうそくの光を描いたものが多いのだが、「ヤン・シックス」は昼の光を描いていておもしろい。
 男が窓辺に立って、窓を背にして、雑誌を読んでいる。逆光である。逆光だから、顔は暗くなる--はずなのだが、雑誌の照り返しが顔にあたり、完全な逆光にならずにやわらかな光をただよわせている。とても微妙である。その微妙な陰影と、無傷(?)の窓の外の光の対比がとてもおもしろい。
 フェルメールの光も繊細だが(フェルメールを見た直後なので、どうしても思い出してしまう)、この「ヤン・シックス」の光の繊細さには圧倒される。繊細な豊かさ--というような、ちょっと矛盾したことばがかってに動きだしてしまう。
 フェルメールは昼の光、レンブラントは夜のろうそくの光と私はかってに思い込んでいたが、レンブラントにも、こんなに美しい昼の光があるのだ、と驚いてしまった。
 油絵に、どんな昼の絵があっただろうか--そう思いながら会場をめぐっていると、「アトリエの画家」に出会う。全体のトーンの明るさが「昼」をあらわしているが、「昼」を決定づけるのはカンバスの角の真っ白な光である。カンバスの板の断面。それがまるで太陽の光を反射する鏡のように輝いている。真っ白な、すべてを拒絶する力が、そこにある。
 朝日新聞で大西若人がこの絵について書いていたことがある。その大西の文章に対する感想を、このブログで書いたことがある。何を書いたか忘れてしまったが、あ、大西はこの真っ白な拒絶する光を見たのだ--とそのとき思った。
 拒絶する光--と私は書いたのだが、なぜ、拒絶するということばが突然浮かんだのだろう。
 記憶のなかで、もう一度絵を見つめなおす。そうすると、その白は、太陽の光の反射ではなく、それ自体で発光しているように見えてくる。
 この強い光に対抗できるのは、セザンヌの塗り残しの空白だけである、とも思った。
 色になる前の、純粋な光、純粋な白。純粋すぎるので、それに追いつけない私が、拒絶されていると感じてしまうのかもしれない。
 そうすると……私がなじんでいるレンブラントの夜の光とは何だろう。昼の太陽の光が色になる前の純粋な透明な白だとすると、夜の光は色になってしまったものの「何か」である。
 色が、いくつもの色と出会い、その差異のなかから見つけ出す「何か」。「色」自身のなかにある燃え上がるものかもしれない。
 それが「ろうそく」の光に向かって動いているのかもしれない。ろうそくが照らしだしているのではなく、いくつもの色がまじりながら--色がまじると黒になる--まじることで生まれた黒から、もう一度生まれようとする「色の力」かもしれない。

 あ、私は何を書いているのだろう。

 実際に絵を目の前にしてことばを動かしているのではないので、どうも「自制」がきかない。ことばが暴走し、絵から、そしてレンブラントの色から離れて行ってしまう。
 絵の感想というのは、絵を見ながら、その場でことばを動かさないことには、結局のところ、奇妙なものになってしまうのかもしれない。

 目をつぶって、もう一度、あの「白」を思い出してみる。画面のほぼ中央、斜め右上から左下へ、まっすぐに伸びた輝き。--あの「白」に拮抗する夜の「白」をレンブラントは描いているだろうか。「夜警」のなかに、あの「白」に拮抗する輝きはあるだろうか。それを確かめるためにアムステルダムへ行きたい--と、急に思ってしまう。



 版画に戻る。
 レンブラントは驚いたことに和紙にも印刷している。和紙で版画をすると、インクが微妙ににじむ。全体がやわらかくなる。そうして、そのやわらかさのなかに「色」がひろがる。洋紙に印刷したときは版画の線は線なのに、和紙では線が色になる。--これはもちろん錯覚なのだが、とてもおもしろい。
 もうひとつ。
 版画というのは「面」ではなく「線」の交錯である。交錯する線が増えると、その部分が「黒」になる。これは常識的すぎて、わざわざ書くべきことではないのかもしれないが、それをわざわざ書いたのは……。レンブラントは、「面」を「色の線」の交錯と見ていたのかもしれないと、ふと、思ったからである。
 で、そうであるなら、というのは飛躍のしすぎかもしれないけれど。
 「アトリエの画家」のカンバスの白、その強い直線は、やはり「線」なのだ。どの方向の「線」とも交わることを拒絶した力なのだ。光の力なのだ。
 版画--交錯する線によって作り出される「闇」の絵のなかに「アトリエの画家」を置いて見ると、そんなことを思ってしまう。
 この絵を、版画から切り離して、たとえば「夜警」や「自画像」と並べてみたとき、また、違った感想を持つだろうと思う。
 絵はきっと、「美術館」のなか、展覧会という会場で生きている。いつも違った表情に生まれ変わる。だから何度見た絵でも、その絵を見にゆかなければならないのだとも思った。
                            (09月04日まで開催)


もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術
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お薦めの一品

2011-07-27 09:00:00 | その他(音楽、小説etc)
【送料無料】グッドヘルス オリーブオイル ポテトチップス(プレーン)12袋
グッドヘルス
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これは、おいしい。
硬さがいい。余分な味がついていないのがいい。
オリーブオイルとポテトのシンプルな組み合わせが最高である。

スコッチや焼酎にもあうが、ワインにもあう。

手(指)に細かなポテト滓がくっつかないのもいい。
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吉浦豊久「白い光景」

2011-07-26 23:59:59 | 詩集
吉浦豊久「白い光景」(「ネット21」23、2011年07月20日発行)

 吉浦豊久は「くせもの」である。「くせもの」加減は、少し岩佐なをに似ている。しかし、この少し似ているというのは私だけが感じることかもしれない。岩佐のように「音」そのものが「くせもの」というのではない。
 どこに、「くせもの」を感じるか。
 「白い光景」という作品。その前半。

出無精で 住んでいる地区のことはほとんど知らない。友人が訪ねてきて、こ
の近くに岩塩の採掘場があるらしい、と言うのだ。

地区の外れの竹林の道を 友人と歩く
竹林の登りくねった道の果てに
樅の林が広がり そこのこす暗い道を抜けていくと
あたりは 白熊の群のような岩山が続続
試しに舐めてみると塩辛い岩塩の山だ
白い岩根を巧みに彫ってつくった幾つもの白い家が 隠し砦みたい
遠目に犬小屋程度の大きさと思っていたのに
近づくと普通の大きさの白い街道が展がっていた
「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた

 塩は死をイメージさせる。「死海」という海があるが、その海は塩分濃度が高すぎて生きられない。塩の白は、また死のイメージでもある。
 「まるで死んだ村みたい」ということばは、当然、その後の展開を想像させる。死の世界が始まるのだと思わせる。
 ところが、吉浦は、改行して(つまり、少し「間」をおいて)、「という形容は見事に外れた」とつづける。吉浦も実は「死」をイメージした、想像したと「告白」しておいて、それが「外れた」と告げる。
 この呼吸が「くせもの」である。

「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた

 という2行は、「事実(?)」というものだけを見ていくとき、あってもなくてもいい。いや、ない方がいい。吉浦の「想像」は事実とは無関係だからである。どんなふうに想像しようと、そこにある「村」の姿がかわるわけではない。「想像」によってかわるのは、つまり、想像したことによって影響を受けるのは「村」ではなく、吉浦自身であるからだ。吉浦が、あっ、と驚いているだけで「村」には何の変化もない。
 ないはずなのだが……。
 ないはずなのだが、変なことが起きる。
 「文体」が変わる。

「岩鹽賣買處」の立て札の前で 下帯襦袢だけの女たちが荷馬車に麻袋を乗せ
ていた 垂れ乳房の透けてみえる半袖腰巻姿の女たちが 「砂糖取扱處」の旗
の下に停っている牛車に木箱や樽を運び 「米穀仲買取引處」の板看板がある
倉庫から引き綱のついた荷車に 刺子もんぺ姿の女たちが 米俵を積んでいた
白い風景の中に
真っ黒い汗びっしょりの女たちが働いているそれらの白い三品を扱っている建
物の背後に登ってみた
白い地蔵堂か
白い炭小屋
白い納屋に
白髪の老婆や子供たちが 白い仏像を転がしたように寝そべっていた

 「岩鹽賣買處」という立て札の「旧字」。突然、「古い」村が登場する。「現代」の世界を描いているものだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 「新字」「旧字」の違いを「文体」の変化というのは大げさかもしれないが、文字が変わると、そこに描き出される世界がかわる。
 村の様子を「旧字」を利用して、一気に、現代から引き剥がしてしまう。
 そこでは「文体」が変わっている。
 村の様子を具体的に描くときに、ことば(表記)そのものが変わっている。変わっているのだが、そのことを「立て札」のせいにして、変わっていないと感じさせる。
 そのところが「くせもの」である。
 想像が「見事に外れた」のだから、吉浦の目撃する「村」の姿が、それまで書かれていることと完全に違っていても当然である。「下帯襦袢」「垂れ乳房」など、「現代」から遠いものが次々に出てくるが、想像が「見事に外れた」のだから、そういうものが出てきてもまったくかまわないのだが、それを「旧字」によって、ずるーっと、地殻をずらすように動かしていくところが「くせもの」である。
 そんなふうにずるーっと世界を動かしたあと、「白い地蔵堂か」以下、あれっ、これって「死んだ村」見たいじゃない?と思わせる世界へ戻る。
 そのとき、「岩鹽賣買處」からの数行が「散文」形式にだらだらつづいていたのに対して、突然「行わけ」形式に変わるのも絶妙である。
 ことばを「意味」ではなく、呼吸や文字の形によって動かしているのである。「意味=頭で整理できるもの」ではなく、改行の呼吸(ことばの息継ぎ)や文字の形という視覚--つまり「肉体」で動かしている。
 吉浦のことばは「村」を描写しているのであるが、そのことばを追っていくとき「村」が見えるというよりも、吉浦の「肉体」が見える。吉浦の感じている、「変な感じ」の、肉体のなかの「変」に、私は共振してしまう。
 変な「村」(見たこともない村)に驚くというよりも、その村を変と感じるときの、吉浦の「肉体」のなかで起きている異変に共振してしまう。
 だから、次の展開がとても自然に感じられる。

ここは果して どこなのか
何時代なのか
一瞬そう思った時 立暗が襲ってきた

地区の地図の中を捜してみても
それらしき岩塩の山は見当たらない
自分の体の中に もう一人自分の知らない自分が住んでいるのかも知れない
数世紀飛び越した自分が

 「自分の体の中に もう一人自分の知らない自分が住んでいる」。その「自分の知らない自分」が何かを見てしまう。感じてしまう。
 吉浦は、その「自分の知っている自分」と「自分の知らない自分」の違いを「文体」の「違い」として表現するのだが、「自分の知っている自分」から「自分の知らない自分」へとすりかわる(?)瞬間に、

「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた

 という、とんでもなく客観的なことばをさしはさむのである。
 吉浦は「自分の知らない自分」をもちろんコントロールできないけれど、「自分の知っている自分」は完全にコントロールしている。
 「自分の知っている自分」は完全にコントロールしながら、「自分の知らない自分」がふわっと遊びに出てくるのを受け止めている。
 この呼吸が「くせもの」である。



 岩佐のことばが「音」を巧みに利用して動くのに対し、吉浦のことばは「音」(聴覚)ではなく「字面」というか「視覚」を利用して動いているとも言えるかもしれないが--これは困ったことに(というのは、私にとって困るということなのだが)、ちょっと不気味な「肉体」である。
 私は「頭」とか「視覚」というものを、あまり重視していない。(視覚よりも聴覚の方が、人間にとって重要な感覚であると感じている、といった方がいいのかもしれない。)
 「頭」ではなく、「頭」ではないもの、「視覚」ではなく「視覚ではないもの」のなかにこそ「思想」があると感じているのだが、そういう私の感じていることと、吉浦の書いている世界はうまくかみ合わない。
 論理的にかみ合わないのだけれど、なぜか、共振もしてしまう。
 それも「肉体」として共振してしまう。

 いや、それとも、これは「肉体」の共振ではなく、「頭」の共振なのかなあ。あこがれなのかなあ。

「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた

 想像力--定型化した想像力を捨てていく時のきっぱりした力と、肉体のなかにある「いのち」をしっかりみつめる視力。
 「くせもの」と私は書いてしまったが--これは私の「ごまかし」かもしれない。たどりつけない何か「くせもの」と呼ぶことで私は私を安心させようとしているのかもしれない。





或る男―吉浦豊久詩集 (1984年)
吉浦 豊久
風琳堂
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