詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「愛読御礼」

2014-12-31 20:09:13 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「愛読御礼」(「谷川俊太郎のポエメール デジタル」vol.56、mailmag@mag2.com2014年12月26日発行)

 谷川俊太郎はベートーベンと誕生日が同じだという。12月16日、ということになるのか。この詩は、その誕生日のあとに書かれたものか。

愛読御礼

いつの間にか八三歳
八三だから一寸先はヤミだ
ハミ出してもいいし
ヤサぐれてもいい

虎穴に入って
虎の子をゲットしようか
親虎に噛みつかれたら
私の負け

それとも
羊の毛皮にくるまって
詩が年賀に来るのを
待つとしようか

じゃあね2014
おやもう2015
まだ書くよ
また読んで

 「八三」を「ヤミ」「ハミ」「ヤサ」と読み替えている。語呂合わせ。ほかに語呂合わせのできることばがあるかどうか、私は、こうしたことを考えるのが苦手なのでわからないが、どのことばも「肯定的」な感じがしないのがおもしろい。「はみだす」「やさぐれる」ということばが乱暴な感じがするのもいい。「闇」なんか、まんたく気にしていない。「闇」と言ってみただけ。まだまだはみ出すぞ、やさぐれるぞ、という勢いがいい。「闇」なんか突き破ってしまう。83歳なのに、「若造(失礼!)」の感覚。
 明るい。
 人のやらない乱暴なこと(?)をする、は2連目もつづく。「虎穴に入って/虎の子を……」というのは、語呂合わせ(語呂合わせ)ではないけれど、「故事」を踏まえ、その「音」を替えているところがおもしろい。「ゲットする」というきわめて新しいことばと故事が出会うことで、故事が故事ではなくなっている。これは、とてもおもしろいことばの革新方法だと思う。
 石川淳が、たしか「狂風記」で「ポンコツのカー」というような表現をつかっていたが、ことばに厳しそうな作家や詩人が率先してこういうことをするのは、とてもおもしろい。ことばをいつも耳で聞いているのだと思う。耳で聞いた「声」を自分のなかに取り込んで、文体を守ったまま自分の声として出すことができるのは、基本の文体が強靱だからだろう。新しいことばを文体に組み込む力があるからだろう。
 そういうことをしておいて、「親虎に噛みつかれたら/私の負け」というような展開をするのも愉快だ。故事は「私の負け」というようなことを想定していない。故事から微妙にずれている。故事は危険を犯さないと大きな成功は得られないというだけであって、虎に噛まれるということを直接的には言っていない。「得る」を「ゲットする」と言いかえるような、不思議なずれがある。想像力による「誤解」のようなもの、「暴走/飛躍」がある。「若造」ならではの「解釈」がある。つけくわえた「意味」がある。
 この「ずれ」のおかしみは、1連目の「八三」を「ヤミ」「ミハだす」「ヤサぐれる」という具合にずれていく感じと、何か似ている。「若造」の特権で誤読を突っ走る奇妙な軽さ。そして、速さ。重くない。もたもたしていない。かつ、明るい。
 そのあと羊が出てくるのは、来年の干支がヒツジだから。でも干支の未は方角だから、それを羊とするのも、同じ「ずれ」? あ、そこまでは考えていないかも。でも、何か通じるね。
 詩が年賀に来たらというときの詩は紙に書かれている? もしそうなら、虎が羊を食べるように、羊は紙(詩)を食べてしまう? 「虎穴にいらずんば……」ではなく、「果報は寝て待て」? 賀状が来たら食べられるぞ。寝て待っていよう、楽ちんだなあ。あ、これも故事の意味は「寝て待て(なまけていろ)」ではないから、ちょっと違うんだけれど、また谷川は「果報は……」までは書いていないから、これは私の勝手な「暴走/妄想」なのだけれど、そういうことを勝手に想像させてくれる。
 最終連も、とてもおもしろい。単なるあいさつのようだけれど、

まだ書くよ
また読んで

 「まだ」と「また」のかけあい。「書く」と「読む」の交錯。これが楽しい。「あいさつ」は、こういう軽い感じがいいね。谷川は、あいさつの仕方がとても上品だ。
 このあいさつには、こう答えよう。私は人見知りするのであいさつは苦手だから、谷川をまねして……。

まだ読むよ
また書いて

 「ポエメール」は今回でいったん「休刊」というメールが12月31日18時に送信されている。そうか、すでに決まっていて(決めていて)、この詩を書いたんだ……。
 だからこそ、もう一度、

まだ読みたい
また書いて

 「また読む」ではなく「まだまだ読む/読みたい」、「ずーっと(いつまでも)読む」。「また」はじまるのを待っています、谷川さん。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社
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秋山基夫「ひな(抄)」ほか

2014-12-30 12:39:11 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
秋山基夫「ひな(抄)」、石牟礼道子「さびしがりやの怨霊たち」、一方井亜稀「残花」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 秋山基夫「ひな(抄)」(初出『長編詩 ひな』)。感想を書けるかなあ、むずかしいなあ、と思いながら、ついに感想を書かなかった長編詩。長さに、ひるんでしまった。「現代詩手帖」には「抄」という形なので、この長さならひるまずにすむ。とは言いながら、やっぱり半分ひるんでいるなあ。「抄」だけで感想を書いていいのか。でも、いま書いている「日記」は、さまざまなの詩のなかで、私自身のことばがどこまで動いていけるかということを確かめるための「テスト」みたいなものなので、思うことをただ書いてみよう。もともと私は「結論」を書こうとは思っていないのだし。

女に化けて お話をしましょう
これは冗談では ありません
女のあたしが 冗談なんかいうものですか

 1行目が、この詩の全てだと思う。「土佐日記」みたいだけれど、男が女になって書く。それは最初から「嘘」。人間は「嘘」を書くことができる。
 でも、どうしてだろう。
 「嘘」を書くとき、ひとは何を「頼り」にしているのだろう。ことばのなかに「何か」ほんとうのものがある。嘘の場合にも、嘘ではないものがある。それを頼りにしている。ことばは、人間でも、ものでもない。--こんな、ことは書きはじめると抽象的になって頭が煮詰まってしまう。
 1行目。ここで私が信じるのは「化ける」ということば(動詞)。「話す」ということば(動詞)。秋山はここでは「嘘をつく」と言っているのだが、その「嘘をつく」ということば(動詞)を、私は信じてしまう。「化ける」は「ふりをする」ということだと思うが、私も「ふりをする(ばける)」ということができる。「話す」ということができる。つまり「嘘をつく」ということができる。
 私に「できる」ことがあるから、そこに書かれていることを信じてしまう。「猫に化けて お話しましょう」「宇宙人に化けて お話ししましょう」--というとき、その「猫」「宇宙人」を信じるわけではなく、「化ける」「話す」を私は信じる。「化ける」「話す」は「ほんとう」で「女」「猫」「宇宙人」は「嘘」。
 いろいろなことばがあるが、私は「動詞」を信じている。「動詞」のなかに、自分との「共通」するものを見ている。私はいつでも「動詞」を頼りにして、そこに書かれていることを追いかける。
 「化ける」「話す」--このふたつの「動詞」のうち、秋山の重きはどっちにあるのだろう。「化ける」が今回の詩の「特徴」かもしれない。「話す」の方は「特徴」というよりも、秋山の「基本」的なありかたなのかもしれない。
 秋山は、ひたすら「話す」人間なのだ、と、この詩を読みながら思った。

あたしって毛皮のコートも学問もないでしょ
だから散文も詩もだめなの
せいぜい口でお話しするだけ
せいぜい紙テープをてきとうにちぎって
横へ横へとならべていくだけ
*たしか朔太郎がそんなことを書いていた。行分けをやめてつ
ないだら下手な随筆にしかならない口語自由詩のことだ。

 このとき「話す」というのは「ならべていく」「つないでいく」と同じことである。「話す」が「ならべていく」「つないでいく」と言いかえられている。
 つないだら、つながってしまう--それが、ことばなのだ。どんなにつながりようのないことも、つないだら、つながって、「ひとつ」になってしまう。「ひとつ」として存在してしまう。変なものなのだ、ことばは。
 この変なものを変じゃないものにする、嘘やでたらめではないものにするために、秋山はひとつの方法をとっている。「引用」。「引用」されるものは、すでに存在していることば。それを借りてきて「話す」。そうすると、「引用」という「ほんもの」が「嘘」を支えてくれる。念押しするように、秋山は「たしか」ということばをつかっている。「私のいうことは嘘かもしれない、けれど、たしかなことがある。それは……」という具合だ。推測というか、あやふやなものなのだけれど、それを逆に「たしか」と言い切ってしまうと、それが「たしか」に変わる。

*土井晩翆の「荒城の月」を踏まえているに違いない。たし
かにあれは滅びの美学的で偉かった。

 という部分にも「たしか」は出てくる。そして、これは「朔太郎」についても言えるのだが、「たしか」と一緒に「ほんもの」も書かれる。「土井晩翆」「荒城の月」。「ほんもの」をときどき利用しながら、なんでもかんでもつないでゆく。そのために、最初に「女に化ける」という「嘘」を実行する。嘘だから何をつないでも嘘--ほんものにならなくてもいい。でもね、ときどき「ほんもの」を利用する。その「ほんもの」を何にするか--そこに、実は秋山の「個性」があらわれてくる。
 これが、朔太郎、晩翆だけではない。なんでもかんでも。何でもかんでもつないでしまう「粘着力」の強さが秋山の「ことばの肉体」の強さなんだなあ、思う。私は、それにあきれる。笑ってしまう。あ、こんなに強靱な「ことばの肉体」を自分のものにすることができたら楽しいだろうなあと思う。



 石牟礼道子「さびしがりやの怨霊たち」(初出『祖さまの草の邑』7月)。

さびしがりやの怨霊を
悶え神たちの間においてきた
そこがいちばん安心と思ったのだが
うろうろと集まりすぎて
どれがわたしやら わからない

 「さびしがりやの怨霊」が「わたし」だろうか。「悶え神」は「さびしがり屋の怨霊」に似ているのか。「悶え」ることと「さびしい」は似ているのか。「怨霊」と「神」は似ているのか。それらかまったく違ったものなら、「わたし」以外のものがどれだけ多く集まろうと「わたし」の区別はつく。
 それとも最初は違っていたが、集ってきたものたちの影響を受けて、似てしまったのか。集ってきたものたちが「わたし」に似てしまったのか。あるいは、そういうことが同時に起きたのか。
 それは、しかし、どうでもいいことなのかもしれない。石牟礼は「わからない」ことをあまり気にしていない。

ちがいます ちがいます
ということを呪符にして
わたしは逃れたいのだが
そのわたしが うろうろのなかの
どれだかわからない
むかし 火をつけて 燃やしてしまった
草の邑の共同体から
ゆくえ不明になった怨霊たちよ

 と、「うろうろすること」を受け入れている。--と、私には感じられる。「うろうろ」しながら「共同体」の一員になってしまう。それは、その「共同体」の「怨霊たち」の一人になるということでもあるのか。
 そうすると、変なことが起きる。

夕べの暗い岬が わたしをよぎる
邑というからには川があった
河口があって 当然海があった
命たちはそこから陸に上がっていた
命には花が咲くのだった

 「共同体」のひとりになってしまうと、その「意識」なのかに「共同体」の「土地」があらわれてくる。「怨霊(意識?)」の「共同体」のなかに、岬、川、河口、海が広がり、海からは「命」が陸へ上がってくる。それは「怨霊」の「過去(必然)」のように見える。怨霊と土地が一体になる。怨霊が土地か、土地が怨霊か--そして、そう感じるとき「わたし」は「怨霊」か「土地」か。「わたし」は「怨霊」でも「土地」でもなく、「花」なのだ。「命の花」。
 それは「怨霊」と「土地」が一体になったときに開くのだろう。
 うろうろしながら、「どれがわたしやら わからないまま」、石牟礼は「命の花」になって咲いているのを感じる。それは「わたし」か、それとも「共同体」の「命」か。
 両方なのだろう。



 一方井亜稀「残花」(初出『白日窓』7月)。

ぬかるんでゆく土壌の
影は疾うに掻き消され
名指されないものたちが
通過するのを見逃す朝の
のつなぎ目にほどけてゆく

 何度読んでも、ここが魅力的だ。「通過するのを見逃す朝の/のつなぎ目にほどけてゆく」。「通過するのを見逃す朝の」と言って、それから何かを言おうとする。その一呼吸(改行)の瞬間に、何かと何かを結びつけようとした「の」、それがそのまま「ほどけてゆく」。
 書き出しの、

投げ出されていた
雨が
地上を覆う時
傘の列が途絶え
子供たちの声は聞こえない
舗道にはブレーキ跡ばかりが残り
投げ出されてゆく身体の
指先が語を取り逃してゆく

 ということばを読むと、朝の登校途中、児童が車にはねられた情景が思い浮かぶ。その死んだ児童の指差すもの、何かを言おうとしたことば。それが未完のままうしなわれていく。指先が指し示すことで結ぼうとしたもの、声にだすことでつながろうとした何か、その「何か」がそこから「ほどかれ」て、遠くなってしまう。そういう情景を思い浮かべる。
 そうしたことを「論理的な散文」にしてしまうのではなく、乱れた形のまま書く「の」の不思議な力。

鵜は立ち竦んでいる

 最終行の「鵜」(なかほどにも出てくる)は事故を目撃した一方井かもしれない。「残花」は事故現場に捧げられた花かもしれない。


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武正晴監督「百円の恋」(★★★★★)

2014-12-29 14:50:26 | 映画
監督 武正晴 出演 安藤サクラ、新井浩文

 安藤サクラ。はじめて見るのだが、こんな女がいるのか。いるんだろうなあ。いや、だろう、じゃなくて、いる。いるけれど、私なんかは、こういう女は嫌いだから見ても見なかったことにしている。まともに見て、感情移入なんかしていたらたまらない。
 どういう女かというと32歳の、いわゆるニート。セックスは未経験。はんぶん引きこもり。深夜に百円ショップで駄菓子を買って、家でむさぼり食っている。家族には文句ばっかり言っている。で、こういうシーンを映画はドキュメンタリーのように克明に撮っている。撮っているのがわかるけれど、私は克明には見ていない。半分、そうか、と思いながら半分目をそらしている。真剣に見ると「肉体」が汚染されそう。そういう不気味な力がある。まるで「現実」を見ている感じ。実際に、この女に出会った感じ。ほかの用事でその家に行って、そこで偶然出会ってしまって、「あ、知り合いになりたくないなあ」と思いながら怖いもの見たさの好奇心半分でちらっちらっと盗み見しながら、目が合いそうになるとあわてて目をそらしてしまう感じ。映画なのに、観客には「見る特権」があるはずなのに、思わず、「特権」を半分放棄してしまう。
 まいったね。
 出戻り(バツイチ、こどももち)の姉と喧嘩して、家を飛び出し、行きつけの百円ショップで深夜のアルバイトをすることになる。そこに出入りしている根岸李江(こんな字だったかなあ)の売れ残りの弁当あさりおばさんと知り合う。女のだらしなさが、そういうだらしないおばさんを引き寄せて、汚染が拡大していく感じ。また、ボクシングジムにかよっている男と知り合う。そこから女の転機がはじまるのだけれど、ここは最初の女のだらしなさだけを描いた導入よりも、わりとしっかりと見る。8割くらいの真剣さで見てしまう。あいかわらず安藤サクラには肩入れせず(感情移入しないようにしながら)、まわりの人物を、その人間造形の仕方(人間描写の仕方)を念入りに見てしまう。だらしなさが拡散して、そのぶん、一人にひきずられないという安心感、意識が散らばっていくので、笑って見ていられる。安藤サクラが風邪をひいて、新井浩文が女のために肉を食わせる。そのステーキがでっかい。かじりつきながら安藤サクラが笑ってしまう、新井浩文が「何で笑うんだよ」というシーンは、「アニー・ホール」のエビのシーンでダイアン・キートンがほんとうに笑い出すシーンを思い出させる。映画を見ているというより、そこにいる「ほんもの」の人間のほんものの反応を見てしまう感じ。そして、そこで展開するそういう「どたばた」を経たあと、安藤サクラがボクシングを真剣にやりはじめるころから、目がスクリーンに釘付けになる。視線の集中度が5割→8割→10割と高まってくる。
 おいおい、こんなに変われるのか? おまえは女ロッキーか?
 ファイティングポーズもろくにとれなければ、縄跳びをしていたらだんだん後ろにさがってしまうような女が、プロボクサー試験に合格し、試合に出ることになる。試合は、まあ、定石通り、コテンパにやられる。途中、「もう、いや」と言っているのか、安藤サクラの「役」を忘れた地のような瞬間が見えたあと、クライマックス。一発もヒットしなかったパンチが相手をつかまえる。相手の体がぐらりと傾く。
 おおっ、やっぱりロッキーか。ついに勝つのか。この瞬間、視線の集中度は12割。つまり、スクリーンを見ないで、自分の「期待」を見てしまう。「期待」にあわせてスクリーンが動いてくれることを願ってしまう。
 が、そんなうまい具合に映画は展開しなくて、相手の女は倒れかけた態勢から、そのまま反動でパンチを繰り出してくる。それが決定的なパンチ。油断しているから、余計こたえる。そのまま、立ち上がれない。「立て!」と叫んでいる恋人や姉や家族の「肉体」が見える。声は聞こえない。声を通り越して肉体が見える。でも、立てない。
 負けてしまう。
 負けてしまって、あざだらけの顔になって、帰る。外で男が待っている。その男に泣きながら「勝ちたかった、一度でいいから勝ちたかった」と言う。これがアップではなくて、ロングのところがいいなあ。おっ、勝つのか、と思わせた瞬間が12割の集中度。それからあとは、やっぱり10割、8割へとだんだん集中度を下げていって、こういう女、いるんだよねくらいの感じで終る。10割、12割だと、きっと自分がつらくなる。
 完璧な構成。完璧な演技。完璧なカメラ。いやあ、大傑作。福岡での公開は「0・5ミリ」と時系列が逆になったみたい。正月明けの「0・5ミリ」が楽しみ。
                       (2014年12月28日、中州大洋4)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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村瀬和子「萩の闇」、八木忠栄「母を洗う」、若尾儀武「在るだけの川」

2014-12-29 09:50:15 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
村瀬和子「萩の闇」、八木忠栄「母を洗う」、若尾儀武「在るだけの川」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 村瀬和子「萩の闇」(初出『花かんざし』6月)は、萩の季節、新しい御仏の誕生があると聞いて道祖神が武蔵寺へ集まってくる。なかなか誕生の知らせ(?)がない。飽きはじめたころ、六十の尼をともなって老人がやってくる。

もはや喪うものを持たない古希を過ぎた翁は
わずかに残された白髪を剃ることで仏の弟子になりたいと希うのである
武蔵寺の老僧は涙を抑えながらひとつまみの髪を剃ってやり
連れ添う老尼は
手桶の湯でていねいに頭を浄めてやった

道祖神たちが感動して馳せ参じた新仏誕生の奇瑞とは
たったこれだけのことであり
無一物となった翁が
妻の老尼と連れ立ち
とぼとぼと帰って行った道には
ただ白く埃が立つのみであった

 このことばを「物語」ではなく「詩」にしているのはなんだろうか。行替えというスタイルだろうか。そうかもしれない。改行によってうまれる、ことばとことばの「間」(空間)が、ことばを読むスピードを落とさせる。このやったりした感じが、ここで展開されている「物語」のスピードと合致している。
 「御仏誕生」というから赤ん坊だとばかり思っていたら、老人だったという「裏切り」(予想外のこと)が、「詩」と言えるかもしれない。
 あるいは「予想外」なのに、それを「たったこれだけ」とぱっと突き放したようなところがいいのかも。
 不思議なことだが、「道祖神たちが感動して馳せ参じた新仏誕生の奇瑞とは/たったこれだけのことであり」という批評がなくても、老人が出家したという「事実」(物語)は変わらない。そして、そのことばがない方が「これだけのこと」と思わずに、もしかすると感動が強くなるかもしれない。
 なぜ、こういうことばが、ここに挿入されているのだろう。
 たぶん。
 詩とは「事実」ではなく、その「事実」をどうみるか、という「思い」のことなのだ。
 「たったこれだけ」という「批評」を加えることで、御仏の誕生に期待する神々たちの欲望(?)のようなものを洗い流し、「仏」とは何?と問い直す。そういう姿勢、世界を見つめなおすというのは、自分の価値観を見つめなおすことだ、という具合に「思い」を揺さぶる。そういう「動き」が詩なのだろう。
 「たったこれだけ」という俗な口調が、神々の「俗」を洗い流し、とても気持ちがいい。



 八木忠栄「母を洗う」(初出『雪、おんおん』6月)。ここに書かれている「母」とは生きている母だろうか。死んだ母を清めているような響きがある。

生家のうらを流れる川
月の光あふれる川べりで 今夜
母を洗う
--ばかげたいい月だねか。
つぶやきながら 母はするすると
白い小舟になって横たわる

 死んだ人間がものを言うはずがないから生きている、ということもできる。しかし、生きている人間がそのまま小舟になる(変身する)ということもないから死んでいると言うこともできる。
 さて、どっち?
 死んでいても、八木の「肉体」のなかには母は生きているから、その母がことばを発しても不思議はない--と私は考える。「ばかげたいい月だねか。」という「口語」のまま、母は生きている。「意味」ではなく、その「語り口(肉体から出てくる音)」として生きている。
 これがこの詩の魅力だ。
 注釈で八木は「ばかげた--たいへんに」と書いているが、これは注釈がないほうがいい。「ばかげた」という「方言」は「意味」をつたえにくいかもしれない。けれど、そういう「つたえにくもの」を八木と母が共有している、という感じは説明されないほうが魅力的だ。「わからない」何かを八木と母親が共有しているのを「感じる」のがおもしろい。また「わからない」とは言っても「ばかげたいい月だねか。」の「いい月」ということばから、「ばかげた」は強調のことばなのだとわかる。「たいへんに」か「とても」が「すばらしく」かわからないが「いい」を強調している。それも、いつも母親が息子にいうことばそのままで(息子以外の他人にわかろうとわかるまいと関係ないという感じ/息子にさえつたわればいいという感じで)言っている、そしてそれを聞いている(聞いて納得している)ということがわかる。「直接」わかっている。その「直接」の力。
 この「わからない」から「わかる」へ飛躍する瞬間(「誤読」かもしれないけれど)が詩なのだと私は思う。「直接」を「直接」受け止めるしかない瞬間の、「誤読/錯覚」のうようなものが詩だと思う。(で、その「直接」がどんなことば、どんな形で書かれているか、ということに私は興味がある。--このことを、別な形で書き直せば「批評」というものになるのかもしれないが、そういうことを書きはじめると詩から遠ざかる感じがしてしまう。)
 「誤読」しながら、私は、八木の母ではなく、自分の母のことを思う。母が死んだときのことを思う。母の口癖を思い出す。そして、そのなかで「母を思い出す」ということが重なる。重なってしまうので、あ、この詩は八木が死んだ母のことを書いているのだと思う。八木の詩にもどって、ほっと息をつく。だれかが具体的に見えてくる(その瞬間が具体的に見えてくる)詩はいいなあ、と思う。



 若尾儀武「在るだけの川」(初出『流れもせんで、在るだけの川』6月)の感想を書くのは二度目である(と、思う)。くず鉄(?)を売り買いする。そして折り合いがついて百十円ということになるのだが、

それやのに金受け取る段に間の悪い
肝心の十円玉受けそこのうて
そこが板敷きつめた橋やったから
二転び版
のばしたワシの指先をひょいとかわして
板と板の隙間から
油テコテコの川づらに落ちよった

 と、口語で語られる。この「口語」の手触り、その手触りを支えている暮らしが詩である。「意味」ではなく、そこに「肉体」があらわれてきて、「肉体」を訴えてくる。十円玉を落としてしまった、ということ以上の「実感」が口語の「肉体」の重さとなって伝わってくる。

確かにワシは払うたで
分かってま
これはワシの落ち度や

 ふたりの「ワシ」の「肉体」が見える。「いつか/どこか」で出会った人(見た人)が、そこで違った形だけれど、「本質」としては同じ姿、違うから本質がより鮮明に浮かび上がる形で、そこに動いている。こういうとき、そのふたりのどちらを自分の「肉体」と思えばいいのかわからない。きっと、そのふたりのともが「私の肉体」と重なる。こういう「やりとり」をするということと「肉体」が重なる。
雪、おんおん
八木 忠栄
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湿った夜が終わり朝がはじまるとき

2014-12-29 00:54:21 | 
湿った夜が終わり朝がはじまるとき

湿った夜が終わり朝がはじまるとき、
古い瓦屋根が波のようにうねり広がり海になる。

灰色の諧調のなかから色があらわれて、
それを縁取る影は魚のように路地と路地のあいだを自在に動いていく。

それは、ことばの記憶の故郷のこと。
何かを間違えた次の日は、そうやって視力をととのえた。

湿った夜が終わり朝がはじまるとき、この街では
感情を劣化させる粗雑なものが不機嫌になる。





*

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田中清光「訪問者」、水谷有美「ナバホ族」、峯澤典子「回診前の窓」

2014-12-28 11:09:16 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
田中清光「訪問者」、水谷有美「ナバホ族」、峯澤典子「回診前の窓」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 田中清光「訪問者」(初出『生命』6月)には省略されたことばがある。1連目。

おとずれてくるのは一人だけになった
これまで次々にやってきては
幾世代を生きてきた人人
でもその一人一人が去るのを 誰も繋ぎとどめることはできなかった

 「おとずれてくるもの」(訪問者)は誰なのか。「一人だけ」と書いてあるが、それは誰なのか。友人か、家族か。私は直感的に、これは田中自身のことなのだと感じた。自分を「訪問者」と呼ぶのは変かもしれないが、自分自身と向き合って対話している--そのときの感じ。自分自身と対話しながら、人間の歴史(幾世代を生きた人人)を思っている。そのとき、「人人」というのは歴史的な何かをするというよりも、生まれて、生きて、死んで行くということをする。人間の生と死について思いを巡らしている--そういう感じが、この静かな1連目、「主語」を明記しない(特定しない)書き方のなかに感じられる。

なんの見張りも立てずに
この寂しい峡谷に生きる--
飛び巡る黒揚羽のやさしい訪問を迎えて
野の花影を眼に挿して

 「訪問者」は「黒揚羽」と言いかえられている。さらに「野の花影」とも言いかえられている。蝶も花も客観的には「私(田中自身)」ではない。けれど、それを田中は「私」のように感じ、対話者と感じ、迎え入れている。田中が蝶を見る。そのとき蝶は対話者となって生きる。野の花を見る。そのとき花は対話者となって田中の「肉体」のなかで動く。そういう静かな一体感。

有なるものの結び目はどこにあるのか
一事に捉われ 見えなくなった自己を
四季のめぐりのなかで円座に戻し

 この3連目に「自己」ということばが出てくる。いままで書かれなかった(省略されていた)「主語」である。
 田中の「思想(肉体/ことば)」について私は詳しくはない。だから直観で書くしかないのだが「有なるものの結び目」という表現のなかに、「一元論」に通じるものを感じる。2連目にもどって言えば、蝶を見る。蝶が「有る」と見る。そのとき、蝶の形のなかに、蝶と「私」が結び合わさって「有」る。蝶がいなければ、「私」はない。同じように野の花がなければ「私」もない。野の花が「有る」とき「私」も「有る」。
 「一事」とは何か。具体的には書かれていないが、社会的なことがら(仕事?)などに手一杯で、「私」の存在について(どのような形、運動で「有」として存在しているのか)、考えるのを忘れていた。感じるのを忘れていた。そういう「自己」が、いま、ふと蝶を見て、野の花を見て、その瞬間に「有」を感じている。
 友や家族がいなくても、「私」は「私」の訪問者になって対話している。
 この「訪問者」は最終連で、また別の形になる。

やがておとずれてくる最終の訪問者を待つ
あるがままの生命の流れのなかで
ここに今しかない言葉で 語るために

 「最終の訪問者」。私はこれを「死」と感じた。いまは「生きている私」が蝶や野の花の形として私を訪問し、対話する。その「結び目(出会い)」のなかに、「私」というものが「有」の形で存在する。
 その最後の「訪問者」は「死」である。「死」と対話する。
 1連目で書かれていた「幾世代を生きてきた人人」は「あるがままの生命の流れ」という形で甦っている。その「流れ」のなかに田中は入っていく。そうして「幾世代を生きた人人」の「ひとり」になる。
 そういう予感が、静かに書かれている。この静けさは美しい。



 水谷有美「ナバホ族」(初出『予感』6月)。「北米先住民の一部族」というサブタイトルがついている。私はナホバ族について知らない。こう書くと、知らないことは調べればいい(調べないといけない)と叱られるのだが、調べるといってもどこまで調べれば「わかる」になるのか、見当がつかない。だから、私は「知らない」まま、「北米先住民の一部族」と言いなおしている水谷のことばを信じて詩を読む。水谷が「ナホバ族」をどう書いているか、その書き方のなかにあるものを読む。
 水谷の詩も「主語」が省略されてはじまる。

何を食べ
何を着るか
思い煩うことはない
今 ここにあるものを口にし
手の届くところにある衣に
袖を通す

 誰が? 水谷だろうか。「ナホバ族」だろうと私は思う。ナホバ族は「何を食べ/何を着るか/思い煩うことはない」。そんなふうに水谷には見える。その生き方がいいなあ、と感じる。そうすると、ちょっと変なことが起きる。

私が 土になれば
草木は成長し

私が 川になれば
流れに魚はもどるだろう

私が 風になれば
花々は薫り

私が 道になれば
小石は鎮まるだろう

 突然「私」が出てくる。しかし、この「私」は水谷なのか。水谷というよりも「ナホバ族」のだれかであろう。ナホバ族の「思想/肉体」がここでは書かれている。ナホバ族の「思想/肉体」なのに、水谷はナホバ族に共感し、一体化しているために「私」と書いてしまうのだ。
 「土になれば」「川になれば」と「なる」ということばがつかわれているが、ここでは、水谷は、そうしたものに「なる」前に、ナホバ族に「なる」。なってしまっている。そうして、ナホバ族の「肉体」で世界と結び合う。田中が「有なるものの結び目」といっていたときの「結び目」に近いものが、ここにある。
 「一元論」の世界である。

全ては
世界に用意され

めぐりめぐって
まだ見ぬ岸辺に
たどり着く

 「まだ見ぬ岸辺」とは「彼岸」だろうか。「死」さえも「世界」の「ひとつ」。世界のなかに「死」は共存している。死と私が結び合うとき、死ぬ。いや「死に、なる」のだ。それは自然の摂理であって、あるいは道理であって、忌避することがらではない。「死」へたどりついて、「永遠」に「なる」のかもしれない。
 「なる」という動詞のなかに、無限の可能性がある。「なる」が繰り返されるたびに、世界がどんどん豊かに美しくなっていく。そういう「肉体/思想」を生きているのがナホバ族だと、私は感じた。ナホバ族だと、水谷の詩をとおして「わかった」。



 峯澤典子「回診前の窓」(初出「文学界」6月号)はタイトル通り、病院で回診前にまどから外を見ている。

麻酔が切れると夕暮れの部屋にいた
腹部の傷に慣れるまで
窓から屋上のシーツを眺めて過ごした
雨が乾けば 風をはらめる
たやすさがひとにもあることに 長い間気づけなかった

 「長い間気づけなかった」ことがある。それに気がついた。ひとは「たやすく」に何かになれる。(風をはらめる--と、峯澤は書いてるが、私は水谷の詩を読んできたつづきで「なる」という運動としてこの詩を読んでしまう。)
 どうすれば?

数年前 別の病棟に 生まれたばかりの赤ん坊を見に行った
日向で かるく広げられた両手には
ひかりが ふんだんに集められていた
母になったひとは 手渡したひかりのぶんだけ
かんたんに風をはらみ 空に近づいて眠っていた

 「無心」ということばがふいに思い浮かぶ。赤ん坊を無事に産んで、いまは何も考えずに(無心で)眠っている女(友人だろうか、家族だろうか)。その人は風をはらんで輝くシーツのように、空に近づいて、ゆったりしている。
 「たやすく」はこの連では「かんかんに」と言いなおされている。
 「風をはらむ」よりも、この「たやすく」「かんたんに」の方が、峯澤には大切なことばなのかもしれない。何かに「なる」ことはむずかしくはない。「たやすく」「かんたんに」何かに「なる」。赤ん坊が出てくるからかもしれないが、「無心」になれば、「たやすい」「かんたん」なことなのだ。
 最後の2行。

横たわってみる空は
高くなっていた

 これは高くて手が届かないではなく、峯澤自身が風をはらんだシーツになって、空の高みまでのぼっていったために、その高さが実感できたということだろう。
 異物を摘出したあとの、ただ回復を待っているだけの時間--そのなかで気づいたことが、静かに書かれている。

夕暮れの地球から
田中 清光
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夜遅く帰ってきたあと

2014-12-28 01:25:31 | 
夜遅く帰ってきたあと

アパートに夜遅く帰ってきたあと
隣の女がものを食べている音がする。
箸をときどき動かしたあとしつこいくらいに噛んでいる。
もくもくと肉体が食べることを我慢して、食べている。
(こんな表現でいいのだろうか--とことばが考えていると、
足を組み換えたのか、いや体をお茶をとるために動かしたのだろう、
椅子が床をこする。座り直して、あるいは足をくみかえて、
お茶をすすりおわると歯も磨かずに
その奥の部屋に行って布団を敷いて寝る。
(つかいこんだ部屋の沈黙--という表現がことばの頭のなかに浮かぶ。





*

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池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」

2014-12-27 12:14:48 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 池井昌樹「蜜柑色の家」(初出『冠雪富士』6月)。『冠雪富士』については全作品の感想を書いたので、ここではあまり繰り返さない。

しかし、あれから、ラーメンと鉄火巻に満ち足りた私と訪
問着姿の若い母はどうしただろう。煮干の出汁の匂いのす
る薄暗い駅舎の改札を抜け、微かに潮鳴りを聞きながら、
いまはないディーゼル列車にゆられ、いまはない窓外を眺
め、いまはない、何処へ帰っていったのだろう。

 「いまはない」が繰り返される。そのたびに、かつてあったものが思い出されている。けれど思い出せない。「何処へ帰っていったのだろう」。これは、わかりすぎているために「何処」と言えない場所だ。「何処」と言う必要がない場所だ。言わなくても、池井にはわかっている。
 「思い出す」という動詞が必要がない。池井が「いま/ここ」にいるとき、いつも池井の「肉体のなか」にある。

あの頃は祖父母もいたな。愛犬コロも尻尾振り振り迎えて
くれたな。父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。
いまはもうなにもかもことごとく喪われてしまったにも拘
さず、いまもなお、あの頃のまま、蜜柑色の陽に包まれた
家。

 「父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。」ということばが、「家」が池井の「肉体」のなかにあることを語っている。「いま」は「過去のいま」とぴったり重なっている。「いま」そこにいるはずのない父と姉が「過去のいま」として「いま/ここ(池井の肉体)」のなかに生きている。それは「思い出」ではなく「現実」である。



 管啓次郎「アイツタキ」(初出『遠いアトラス』6月)。

「おれにはきみの世界観はわからないよ
俺たちの地図は縮尺がちがう
それにおれはときどき地図に嫌気がさして
存在しない海岸線や火山まで描きこむことがある」
と私はわざといった。何という意地悪。ぬるいビールを
茶色の瓶の口から少しずつ飲みながら
それからふたりで長いあいだ黙っていると
太陽が水平線を出たり入ったりした

 「黙っている」その時間のうちに「太陽が水平線を出たり入ったりした」というのは「矛盾」。そういうことは、ありえない。「現実」にはありえないけれど、意識のなかではありうる。この「意識」を何と呼ぶか。まあ、「意識」と呼ぶのが一般的なのだろうけれど、私は「肉体」と呼びたい。
 また、「肉体」と呼んでしまうので、たぶん、私の書いていることは、ほとんどの人に伝わっていない。
 でも、この詩なら、多くの人が「意識」と呼んでいるものを、私が「肉体」と呼んでいる「理由」のようなもをの説明するのに役だってくれるかもしれない。(こういう読み方は、詩の味わい方として「正しい」とは言えないのだが、あえて、そうしてみると……。)
 二人は会話しながら夕陽を見ている。会話している。その会話は「合意」に達しない。一致点を見出せない。でも、だからといって二人が対立するわけではない。一緒にいる。それだけではなく、ビールを飲んでいる。二人とも瓶の口から直接ビールを飲んでいる。そのとき、そこにあるのは「飲む」という「動詞」と、その「飲む」を実現する「肉体」。そういう「具体的なもの/こと」がそこにあって、「ビール/飲む」という「もの/こと」は何度も何度も繰り返されている。そのことを「肉体」は覚えている。「ぬるいビール」という表現が出てくるが、「肉体」はそれが「ぬるい」と「わかる」。それは「ぬるい/冷たい」を「肉体」が覚えていて、それを思い出すからだ。「意識」が覚えているのではなく、「肉体」が覚えている。「意識」が思い出すのではなく、「肉体」が思い出す。この「肉体」はあすも、あさっても、それからずーっとつづいていく。その「肉体」がつづいていく時間のなかで太陽が昇ったり沈んだりする。それは「肉体」がこまれでつづいてきた時間のなかで繰り返されたことと同じである。太陽が昇り、太陽が沈む--ということを「肉体」が覚えていて、「肉体」が思い出すのである。
 海(水平線)も太陽も「肉体」の「ひとつ」である。ビールも「肉体」の「ひとつ」である。それは「意識」によって「方便」で別個の存在としてとらえられているけれど「肉体」としては時間を越えてつながっている。
 いつまでも「いま」。
 そういう「永遠」がここにある。
 美しい詩だ。



 鈴江栄治「視線論」(初出『視線論』6月)。空白の多い詩である。1行のあと、必ず1行のあきがあり、1行のなかにも1字あきがある。文字を見るよりも空白を見る方が多い。私には、そういうことくらいしかわからない。
 おわりの方の部分。

総身の 不定を

はるかにも 探るものとして

深みのみを 貫いている

なお 明るみに 加算する

結び目は 放たれて

終らない 淵を 晒す

 「動詞」がいくつか出てくるが、それが「肉体」としてつながらない。私の「肉体」では「動詞」をひとつのつながった「こと」として再現することができない。
 「探る」「貫く」「加算する」「放つ」「晒す」(「終る」+「ない」という用言もあるが……。)
 これは「肉体」ではなく「精神(意識)」で読む詩なのだろう。「意識」を飛躍させる(空隙、空間を飛び越えさせる)ことでつかみ取る詩なのだと思う。
 「視線」と書かれているが、その「視」は肉眼で見るというのとは違うものなのだろう。「示す」へんがついている。もしかすると、その「示す」ということが「視」の重要なことがらなのかもしれない。「見る」という「動詞」はもともと「肉体」から離れたものを「見る」、つまり対象と「肉体」のあいだに距離があるときに可能な「動詞」だけれど、その離れたもの(対象)を指で指し示して、それを見る。「いま/ここ(肉体)」からはなれる、「肉体」の限界を飛び越えるということが、そこに含まれているのかもしれない。
 「肉体/精神」という「二元論」でこの詩を見ていくと、鈴江の書いていることがあざやかに実感できるのかもしれない。
 私には「わからない」詩である。


ストレンジオグラフィ Strangeography
管 啓次郎
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田中庸介「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」

2014-12-27 11:26:42 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 先日、くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」の感想を書いた。それについて田中庸介から「ピンネシリ」が「知らないのならちょっとでも調べれば」という指摘をいただいた。そうですね。調べればいいのだと思う。でも、詩のなかで「アイヌモシリ」ということばが出てきたので、私は、北海道のどこかだろうと見当をつけた。大事なことばなら、作者はどこかで説明し直す。私は、そう信じている。
 同じ調子で、根本明の「潮干のつと」についても感想を書いた。「潮干のつと」ということばがわからない。でも見当はつく。その見当で感想を書いたところ、

言語の異化効果はもはやあまりにも手垢がつきすぎていて、ぼくら「妃」とか俊太郎さんはあえて採らないテクニックなのですよ。いくら平易なことばで書こうとしても、世界は十分に神秘的だと思う。そこのところでだれもが勝負できるように、詩の舞台をあと一段、前にファクチュアルに引き出しましょうよ。ぼくが現代詩年鑑で書いたことも基本的にはそういうこと。お時間があったら読んでみてください。

 という指摘。「現代詩手帖」は読んでいたが、田中の文章については感想を書いていなかったので、書くことにする。
 私の読み方は「手垢がつきすぎてい」るということだけれど、私には、まだまだ手垢を付けたりないという感じなので、同じことの繰り返しになってしまうだろうけれど。

 最初に「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」を読んだとき、あ、田中はどこかの大学の教授なのか、と思った。外国語(翻訳)文学に精通しているようだ、と思った。何冊かの詩集が取り上げられているが、私が読んだことのある本は限られている。そして、私の感想と田中の批評とには「共通点」がない。つまり違った読み方をしているということしか印象に残らなかった。
 何が書いてあったのだろう。読み返してみた。

作者が事物(ファクツ)を丹念に書き記したはずの詩が、その評価の段になると、「事物(ファクツ)」の部分の面白さがぞろっと抜け落ち、「丹念に書き記した」書記行為の強弱のみが問題とされるのは、どういうわけか。詩における事物(ファクツ)の意味性の蕩尽のすさまじさは筆舌に尽くしがたいほどであり、それを幾度も経験すると、事物(ファクツ)の記述を丹念に行うことが馬鹿馬鹿しくなってくるのだが、(以下略)

 ここが、たぶん田中の私への批判の出発点なのだと思う。
 私は「事物」(こと、もの、でいいのなかな?)をどうとらえるかというとき、どうしても「動詞」で考えてしまう。「動詞」を抜きにしては「もの」「こと」がつかみきれない。「肉体」とどういう関係にあるかを抜きにしては「もの」「こと」がわからない。たとえば、いま、こうしてワープロを打っているキーボード、文字を確認しているモニターは、手と目とつながっている。というより、それはほとんど手であり、目であり、また頭である、という感じ。
 詩を読みときも、そこに書かれている「もの」「こと」が作者の「肉体」とどういう関係にあるのか、どこまで「肉体」になっているのか、を「ほんとう」か「うそ」かの判断基準にしてしまう。
 で、田中の文章を読みながらいろいろ感じたのだが、それをそのまま(いま書いてきたような調子で)書いていくと……。

 四方田犬彦『わが煉獄』についてふれた部分。

ソクラテスは「哲学は死の予行演習」と述べ、その理由として魂が肉体という牢獄から解放されることが「哲学」と「死」に共通するものだと言った故事があるが、

 私はソクラテス(あるいはプラトンの文章)は好きだが、「魂/肉体」という「二元論」については、自分自身の「答え」をまだ持っていないので、田中の読み方に簡単に「同意」できない。(ソクラテスの「哲学」を語るときの出発点にはできない。)
 私がソクラテス(プラトン)からわかったことは、ひとつ。ソクラテスのことば(智恵)を慕って若者が集まった。そして一緒にある問題を語り合ったということ。それを楽しんだということ。これは、孔子にも通じる。「論語」の「友あり遠方よりきたる……」というのは、同じことを学びあう友が遠くからやってくる(集まってくる)。そうして一緒に学んだことを学び直すのは楽しいね、ということだと思う。道元のことばにも、これに似たのがあったと思う。仏法を真剣に学んでいるとだんだん人に知られるようになって、人が集まってくる。そういう人と一緒に同じことを学ぶのは楽しい。
 ソクラテス(プラトン)を読む楽しさは、私は、これにつきる。一緒の時代にいるわけではないが、読むと、一緒に考えることができる。いろいろ誤読しながら、それを叱られる。それが楽しい。
 で、田中が「けっして破滅することのない韻律のもとに」という行を中心にして、

これは破滅しうるものとしての生身の人間存在による絶対的な詩性への讃歌であり、この著者の「韻律」への信頼感の強さに驚く。

 と書いている部分。この「韻律」とは何か。田中は最初に引用したソクラテスと結びつけて「魂」と言うだろうか。
 私がソクラテスに結びつけて考えるなら、それは「語ること」、「語り方」だと思う。何かがテーマになる。それをどう語って行くか。どう語れば、求めている「真理」に近づいていくかということだと思う。人間は滅んでも、何かを求めて語るときの「語り口」(語り方)は滅びない。
 これを「魂」と呼んでいいかどうかは、私にはわからない。私は「魂」とは思っていない。あくまで「語る」というときの「肉体」、口を動かし、耳を傾けるという「行為(動詞)」そのものだと思っている。(これは、うまく説明できない。つまり、私のなかでは「予想/予感」のようにしてあるだけで、ことばにはなじまない。私には未解決の問題なので、説明しきれない。)

 ここまで書いてきて、私の感想は田中の指摘(批判)とうまくかみ合っていないなあ、と思う。原因は、田中の指摘している「事物(ファクツ)」というものを私が把握しきれていないところにある。「事物」という日本語を私はめったにつかわない。「ファクツ」という英語(?)もつかわない。「ファクチュアル」ということばもつかたことがない。そのことばは私の「肉体」になじんでいない。
 だから、どうしても疑問が多くなる。疑問を書くことになってしまう。

詩において事物(ファクツ)とは、つねにその「素材」としてしか取り扱われず、「何が」書いてあるかということよりも、「どのように」書かれているかということのほうがはるかに重要視される、

 こういう詩の読み方に対して田中は疑問を投げかけている。そこから推測すると、田中は「事物(ファクツ)」を「何が」ということばで言いかえているように思える。私のことばで言いなおせば、そこで起きていること(事件)。
 もしそうであるなら、(ここからは、私の「誤読」の暴走になるのだが)、私も、やはり「こと」を浮き彫りにすることで感想を書いている、というしかないのだが。
 つまり、「起きていること」というとき、そこには「場」があり、「時」があり、「人間」がいる。その三つをつかみ取るとき、私は「人間(肉体)」を基準にして考える。「肉体」の「動き」(動詞)を基本にして考える。「肉体」が「動く」と、その動きにあわせて「場」の大きさがきまり、「時」のひろがりも決まる。どんなふうに「動詞」をつかって「こと」と「肉体」を関係づけているか、その「書き方」から作品に近づいていこうと試みている。そういう読み方は、田中に言われば「手垢がつきすぎて」いるということになるのだが……。

 「書記行為」ではなく「事物(ファクツ)/何が」が重要と田中は言うのだが……。
 清岡智比古『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』に関する次の評価、

瞬時に作品を閉じてしまうこの暴力的な書法など、まるで野球の「スライダー」そのものとさえ言えるような、著者の高度なことばのあしらいの技に感じ入る。

 こう書くときの「書法」とは何なのだろう。「事物(ファクツ)」なのか。
 さらに、

<ここではないどこか>を求めつづけようとする永遠のアドレセンスの、すばらしい換喩となっている。(中村和恵『天気予報』についての言及)

この詩集が作者自身の深奥の苦悩を、これほどまでに親しみ深く、われわれに語りえたのは、(くぼたのぞみ『記憶のゆきを踏んで』についての言及)

馬や猫を主人公にした『第九夜』の書法を受け継ぎつつ、こちらはあれやこれやの引用を含めもっと日本的で繊細な感受性によって彩られている。(竹内新『果実集』についての言及)

 そこでつかわれている「換喩」「語りえた」「書法」「感受性によって彩る」というような表現は「事物(ファクツ)」なのか。「書記行為」への注目とどう違うのか。
 そういう部分に、私はつまずいてしまう。
 「事物(ファクツ)」のおもしろさよりも、「表記行為」の充実に目を向けて、田中は作品を紹介(批評)しているように思える。

 「事物(ファクツ)」って、何?

 そういう疑問を脇に置いておいて。
 私がおもしろいなあと感じたのは、岩切正一郎『視草の襞』から「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」という行の前後を引用したあとに書いている次の部分。

Wiosnaは予想通りポーランド語で「春」の意味。

 田中は「Wiosna」の意味を調べる。私は、こういうとき調べない。「知らない」は「知らない」と書く。けれど、「Wiosnaを、春を」と書いているので、「Wiosna=春」だと考える。ひとは大事なことはことばを繰り返して説明する。それが私の知っている「肉体」の動きだからである。そして、聞く方(読む方)は、その「知らない/わからない」ことばに対して「予想する」。知らなくても、わからなくても、それまで聞いてきたことば、読んできたことばの動きから「何か」を感じ、それを「予想」し、その予想が的中するか、外れるか、考えながら(そのことばを持続させながら)、ことばを追う。
 「知らない/わからない」、けれど、ことばを「追う」。「追う」という動詞(肉体の動き)が何かとぶつかり、その瞬間、詩がぱっと輝く。

この詩はスラブ圏の秋、冬、そして春への季節の巡りを描いたものだろう。そしてそこから「光の枝」(ポーランド語ではOddaialy swiatla)という美しい表現にたどりついたところで、詩が体内でにわかに沸騰するのを作者は覚えたのだろう。

 「詩が体内でにわかに沸騰する」。田中の表現をかりれば、これが、私の書いている「肉体」に「起きていること」。「Wiosna」は何か「知らない(わからない)」をかかえたまま、そのことばを追っていって、「Wiosna」ということばをつかう人間の「肉体」と自分の「肉体」が重なる(セックスする)瞬間、その「重なること」が、詩。
 そしてそれは、ことばをどう書いているか(「表現」しているか)を、「肉体」で動かしてみないとわからない。「肉体」を動かしてわかれば、それが「誤読」であってもかまわない、と私は思っている。
 「事物(ファクツ)」よりも「動詞」。
 「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」に合わせて、「Wiosnaを、春を、口ずさ」むとき、おのずと「肉体」のなかで「Wiosna=春」が生まれてくる。「予想」は「肉体」のなかで「事実」をつくり出す。この瞬間が、私はおもしろいと思う。そういう瞬間へ向けて、私は「肉体」を動かしたいと思う。
 私は「動詞」をとおして、詩人の「肉体」をひっぱり出したい。そして「肉体」を重ね合わせたい。セックスしたい。ことばのセックスをとおして、私の「肉体」の奥にひそんでいるものをひっぱり出してみたい。

 山崎佳代子『ベオグラード日誌』について書いた部分にもおもしろいところがあった。田中の文章ではないのだが、

「旅はお好きですか」と聞かれた詩人シンボルスカさんは、タバコをくゆらせ、にっこり微笑み、「私、還ってくるのが好きなの」とおっしゃった。

 「還ってくるのが好きなの」。このことばのなかにある「還ってくる」という「動詞」。私は、「動詞」にあわせて、そこで起きている「こと」を確かめる。旅へ出る。それから「還る」。その「還る」ときの自分の「肉体」のなかで起きたあれこれを思い出し、それが「好き」と言った人の「肉体」のなかで起きていることを想像する。そうすると、自分の「肉体」のなかから何かが思い出される。「肉体」が覚えていることが、「好き」ということばになって動く。その「肉体」の重なり(ことばのセックス)のなかで、私は暴走したい。
 どういう「動詞」で「こと」と「肉体」を関係づけているか。そのことに私は関心がある。
 田中が「事物(ファクツ)」で書いていることが何かはっきりしない。それが「予想通り」の「予想する」であったり、「還ってくるのが好き」の「還ってくる(こと)」という「動詞」に関係しているのなら、「事物(ファクツ)」という「名詞」でことばを進めていることは、私には、できない。
スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷

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南公園の遊歩道に

2014-12-27 01:00:00 | 
南公園の遊歩道に

南公園の遊歩道に雨が降る。
砕かれた木のチップが獣の匂いになって土をやわらかくする。
その色と、坂を歩くときの興奮が好きになったのは昨日。
崖下の森の奥には動物園があり、虎の檻が見える。
黄色と黒の縞と檻の鉄柵が干渉しあって
空間と空間の間隔が消えて
恐怖がはじまる。
やわらかい土の奥から昔の血の色が滲み出してくる。
南公園の遊歩道に雨が降ると、





*

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根本明「潮干のつと」、山田亮太「戦意昂揚詩」、有馬敲「ほら吹き将軍」

2014-12-26 11:14:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
根本明「潮干のつと」、山田亮太「戦意昂揚詩」、有馬敲「ほら吹き将軍」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 根本明「潮干のつと」(初出『海神のいます処』5月)。詩集の感想を書いたとき、何か書いたはずだが、忘れてしまった。同じことを書くかもしれない。まったく違ったことを書くかもしれない。

しおひのつと、と
祈りのように口ずさむと言葉は
弦月のように東岸の潮をひきしぼり

 この3行がとても好きだ。
 「しおひのつと」という音を口にするとき、ひとは何を思うのだろう。根本は何を思うのだろう。私は、あらゆることばに無知で、この「しおひのつと」の「意味」がよくわからないのだが、わからないままに魅力を感じる。
 (「潮干のつと」については、根本が「潮干のつととは/海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と言っているので、干潮のとき海からもたらされるもの、たとえば貝とか昆布とかだろう。)
 「しおひのつと」には音の魅力がある。「潮干(しおひ)」は「しおひ」と読むのか、「しおひ」と書くけれど「しおい」なのか。私には「お+ひ」という音は発音しにくい。「つと」は「しおひ」の弱い子音とは違って強い子音が動いている。「つと」の「つ」は、話し慣れてくると母音が脱落して子音だけになるかもしれないが、私はそのことばを知らないのではっきり子音と母音を音にしてしまう。「しおひ」は聞いたことはないが漢字で読んでしまったので干潮のときという意味がわかる。で、意味のわかることばはどうしても早口になって「ひ」のなかの子音(H)が邪魔になり、読みとばしたくなるのだ。
 脱線したかな?
 こういう意味が半分わかって半分わからない、そして音も正確にはどう発音していいかわからないことばというのは、一種の「いのり」に似ている。こどものときに聞く、おとなの「いのり」。何を言っているかわからない。音も意味も不正確。しかし、それを口真似すると何かがわかる。「声」のなかにある、何かに働きかけようとする力のようなものを感じる。人間の力ではできないことを、ことばの力で動かす感じだな。「いのり」というのは。
 で、それが「弦月のように東岸の潮をひきしぼり」と、干潮を引き起こす。海の潮が引くと、潮干狩り。海の幸を、海に入らずに取ることができる。そのよろこびが、そのことばからあふれてくる。
 ことばと宇宙(干満の動き)が、まだ、生きていた時代。野蛮というか、原始的というか、あるいは「絶対的」というか。あらゆるものの形が定まっていない「混沌」の魅力がそこにある。ことばにすることによって、世界が生まれてくるときの生々しい動きが、肉体に直接響いてくる感じがする。こういうとき、ことばの「意味」ははっきりわかってしまうといけないのだと思う。はっきりわかると、ことばの「限界」もわかってしまうから。半分わかって半分わからない。このいいかげん(?)な感じが、きっと「もの/こと」を動かしていくんだなあ。宇宙と呼応するんだなあ、と私は感じる。
 で、この感じは、私にはセックスを思い起こさせる。セックスというのは半分わかって、半分わからない。「わかっている」というのも勘違いかもしれない。でも、わかっていようと、わからないままであろうと、肉体は交わって、快感をむさぼってしまう。限界がわからなくなり、私が私ではなくなる、私が私の外に出てしまう--エクスタシー。

私は聴く
はだかの海人の男女が一列にかがみ
はるかな時の影に滲みながらすなどっていく
あの猥雑な哄笑を

 潮干狩りだから、貝を取る。貝はどうしたって女性性器である。まわりには昆布などの海藻もあるだろう。それは陰毛である。裸の男女が、そういうものを取りながら話すとなれば、どうしたってセックスがからんでくる。明るい光のなかで、きのうの夜を思い、あるいは今夜のことを夢みて、猥雑なことをほのめかし、笑いあう。その豊かさのなかに、「豊漁」もある。

さらに聴く
海崖の松林で小さなものらが
草書のように乱した歌をうたうのを
幼い私もその中にあり
海神の御告げをうたっていたのではないか

 「草書のように乱した歌」とは「猥歌」であろう。そのことばは、こどもにはやはり半分わかって、半分わからない。「草書」だから「楷書」のようになじんでいないが、おぼろげな形をしかわからない。「正解」と「誤解」のあいだをゆらいでしまう。そんな感じで、「意味」はわからないけれど、「あのこと」だとわかる。「あのこと」もほんとうは半分わかって半分わからない。おとなになったら全部わかると「肉体」でわかっている。「あのことだよ」「あのことって?」「あ、ごめん、まだ知らないんだね」というようなこどもの知ったかぶりの会話みたいな感じだね。そのなかにかいま見える「絶対」の印象。
 この「神話」のような、根源的な力。それが、いま引用した部分に凝縮している。
 根本の詩は、そういう宇宙の神話(海辺の神話)のようなものが、コンビナートによって破壊されている現実を批判しているのだが、その批判は「神話」が魅力的であればあるほど強烈になる。根本の書いていることばは、私には強烈に響いてくる。「音」として聞こえてくる。



 山田亮太「戦意昂揚詩」(「アフンルパル通信」14、5月)の1連目。

きみにはおはようと言う最後の朝
さようならこの正しい場所の何が間違っているかを見る
自分の目によってではなく世界中のひとびと
未来のひとびとそして死んでしまったひとびとの目で
これは
きみひとりの選択だから

 文章が、不思議な感じで切断/接続している。「意味」をつかみ取ろうとするとことばを補わないといけない。たとえば2行目の「さようなら」のあとに「と言う」とか。でも、もし「さようならと言う」ならば、そのあとには「最初の朝」、あるいは「最後の朝」が必要になるのかなあ。もし、「と言う」を補ってしまったら、それは「誤読」になるのか、正しく読んだことになるのか。
 「意味」をつかみ取ると「意味」を捏造するは、どう違うだろう。そういうことも気になってしまう。
 山田はこの1連目を、少しずつ変えながら、何度も何度も書き直している。

言いたいときに言いたいだけおはようと言う
さようならと言うここから逃げたいと思う気持ちも永遠ではないから
好きなものを好きなだけ食べる家で何もかもが正しいその正しさに挑む未来を

 この不思議なことばの接続(切断)は、根本の書いている「いのり」に通じると思う。半分わかって、半分わからない。そういう状態のまま、ひとりひとりが動く。



 有馬敲「ほら吹き将軍」の「77」(初出『ほら吹き将軍』6月)には藤圭子(その後、名前の表記を変えたようだが)をまねする「ほら吹き将軍」が登場する。

ほら吹き将軍はマスカラを付けた両眼を
京人形のように愛くるしく見開き
私ガ男ニナレタナラ 私ハ女ヲ捨テナイワ
とドスのきいた低音でスポットライトを浴びる

ほら吹き将軍が女装して行く
時代の波に巻き込まれて身動きできず
闇夜に花を咲かせた女歌手の死を悼みつつ
夢ハ夜ヒラク と帰り道で口ずさむ

 私は藤圭子の歌では「新宿の女」がいちばん好きだ。デビュー作(最初のヒット曲?)だから印象が強いのだろう。
 私は音痴なので、有馬の詩を読みながら「ドスのきいた低音で」にとてもびっくりした。そうか、藤圭子は「低音」だったのか。たしかに思い出すと低い声かもしれない。でも、私には「低い声」という「感じ方」はなかった。声の高い低いではない、別なものをきいていたのだと思う。「意味」でもない。のどが窮屈な感じ。のどが苦しい感じ。声を出すときのどが苦しい--そのときの感情のようなもの。「うれしい」とは反対の何か。「うれしい」ではないということはわかるが、それでは何かというと、こどもの私にはわからなかった。
 私はいつでも、わからないけれど、何かが「わかる」と錯覚する(錯覚させてくれる)ものが好きだ。
 脱線した。
 この詩の「ほら吹き将軍」とは誰だろう。架空の人物か。架空の人物に仮託した有馬のことか。わからない。「ほら吹き将軍」が男であり、男だから「女装」している、ということは「わかる」。自分ではないものになりたいのか、あるいは他人から定義される「自分」というものから脱出したいのか。言いかえると、「ほんとうの自分」に還りたいのか。わからない。わからないけれど、「いま/ここ」に満足していないことは感じる。
 それが藤圭子の姿にも、藤圭子が歌った「女」の姿にも見える。
 「わかる」は、きっと、あとから、思い出したようにやってくるものなのだろう。それまでは、「ほら吹き将軍」が「女装」する、嘘をつくように、嘘で何かをつかみ取るふりをするしかない。そんな余裕のなさ(?)みたいなものが、藤圭子の硬い声の響き(音)の中にあったように思う。
 また脱線した。



ほら吹き将軍
有馬 敲
澪標

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もし書いたことばが

2014-12-26 01:33:51 | 
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くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」ほか

2014-12-25 10:02:50 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」、嶋岡晨「追悼 故片岡文雄に」、中神英子「あかつきの木」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ JMCへ」(初出『記憶のゆきを踏んで』5月)。
 うーん、私はつくづく「もの」を知らない。固有名詞がわからない。「ピンネシリ」は地名であるらしい。どこかの岬とつながっているらしい。「JMCへ」というのはきっと人の名前なんだろうけれど、見当がつかない。

ニアサランド製のサンダルはいた
爪の先から土埃はらい落とすように
男は 真夏の岬の街から船に乗り
赤道をひらりとまたぎ
降りた港はサウサンプトン

 イギリスのどこか? たしかサウサンプトンはイギリスあたりにありそう。

植民地生まれのエリオットや
パウンドみたいに 住みついて
仕込んだファッション
ほら 岬の街に帰ってきた
髭をはやした23歳
黒いスーツにネクタイしめて
手にはこうもり傘と革鞄
プロヴィンシャルの 属国の田舎者
美しい風景を闊歩する

なあんだ
60年代は世界中どこも
そんな時代だったのか

ここから出て行く
閉じ込められずに
プロヴィンシャルとは
地方とは
そんな思いを募らせる場所

 よくわからないが、くぼたは60年代、20代だったのだろうか。他人の60年代と自分の60年代を比較している。あるいはJMCにかわって60年代の青春を思い出しているのだろうか。
 プロヴィンシャルということばも知らないが、地方と言いなおされているから、「地名」ではなく地方という意味なのだろう。そこから出て行くことを60年代の青春は思い描く。それは世界中で起きたこと--と書くならば、くぼたは「外国」にはいなくて、日本にいたということかな? 日本の地方にいて、どこかへ出て行くことを夢みていた。「ピンネシリ」から「岬の街」へ。

粉雪が舞い狂うピンネシリの
ふもとに広がる青い幕
その彼方へ
先住びとの邪魔をせずに
アイヌモシリのすみっこに
どろん
紛れさせていただけるかな
そんな祝祭はくるかこないか
tokyo の初冬から初夏へくるり反転
岬の街まで出かけていって
青い山から幾度も 幾度も
遠く離れて 考える

 「アイヌモシリ」ということばから想像すると、北海道と縁のある土地のようだが。
 くぼたは「地方」から出て行くのではなく、東京から北海道のどこかへ来たのか。北海道から東京へでて再び北海道へもどってきたのか。
 たぶん、後者だろうなあ。
 もどってきて、60年代の青春を思い出している。そういう詩なのだろう。そういう思い出に、エリオットやパウンドが紛れ込む。「地方」でも「東京」でもなく、「世界」が紛れ込む。60年代は青春は「世界」とつながっていたのだ。
 いまでも、世界はどこでもつながっているだろう。青春はかけ離れた場所をまだ見ぬ「ふるさと」とすることができる。そういう特権を持っている。そんなことを思い出している詩なのかもしれない。
 この詩の特徴は、そういう思い出というか、思い出を思い出すいまの感じを描くのに、やたらとカタカナをつかうことである。私はカタカナ難読症(正確に読めない、書けない)である。そのせいかもしれないが、くぼたの書いていることが、いま/ここから切り離されているように感じてしまう。カタカナのために。
 ノスタルジーはセンチメンタルと同じように肉体に絡みついてくるようで気持ち悪いものが多いが、カタカナのせいで、私とは「無関係」という軽さで聞こえてくる。「ピンネシリ」がわからないせいもある。
 「ピンネシリ」がわかり、ほかのカタカナのことばもわかる人には、逆に、精神(頭)にべったりとはりついてくる詩かもしれないなあ、とも思った。外国のカタカナ、その文体で世界へ出て行こうとした青春、それを生きた人には、まるで自分のことを書いているように見えるかもしれないなあ。

ニアサランド製のサンダルはいた
爪の先から土埃はらい落とすように

 は、私なら、助詞を省かずに

ニアサランド製のサンダル「を」はいた
爪の先から土埃「を」はらい落とすように

 と書くだろうなあ。「を」を省略すると「歌(歌謡曲)」のようにも感じられる。「意味」というより「声」を感じる。そこが、なんともべったりした感じなのだが、このべったりをカタカナが洗っていく。
 と、私は感じるが。
 カタカナに強いひとは、その「を」の省略のときの「声」の感じで、カタカナの音と意味を受け止めるかもしれない。
 抽象的に書きすぎたかもしれない。
 わからないことを書くと、どうしても抽象的になる。



 嶋岡晨「追悼 故片岡文雄に」(初出『洪水』5月)。
 具体的な思い出が書かれていない。かわりに、

齢(とし)も順序もわきまえず
才能のありなしにも会釈せず
死はてっていしたデモクラシー

 という「哲学(思想)」が書かれている。びっくりしてしまった。びっくりしたまま読みつづけると、

おまえさんもキリストの汗の一滴なら
  わたしの頬にしたたり 語り
つづけて人生の 脇腹のまっ赤な穴から
  わたしへの悼(いた)みの声を もらしてくれ。

 追悼するかわりに、追悼を求めている。それくらい悲しい、ということなのだろうけれど、これではあまりにも「思考」が強すぎないか。
 片岡のことはわからないが、嶋岡は、こんなふうにことばを「哲学」にしてしまのうが好きな詩人なのか、と思った。「意味」を考えれば、嶋岡が悲しんでいるとわかるけれど、追悼は「意味」でするものなのかなあ、と奇妙な疑問が浮かんだ。
 一か所、「キリストの汗の一滴」ということばから、あ、片岡はキリスト教徒だったのか、と初めて知った。そこだけが「具体的」に見えた。「事実」が見えた。



 中神英子「あかつきの木」(初出『群青のうた』5月)。初夏の、明け方の時間を書いている。その最後の連。

誰かと無性に自分たちを問い合いたい奇妙な渇きのある
夜。どこかに深い深い群青の本物の夜が川になって流れて
いると思える夜。川はやがてその大きな木の元で夜明けの
光を帯びる。まだ、遠い。そこだけうっすらと朱に染まり、
枝枝を豊かに広げた黒い姿を見せるあかつきの木、です。

 夢のなかで、夢なのに、「本物の夜」を見ている。それがおもしろい。現実よりも夢のなかに「本物」がある。
 そうしてみると。
 この視点から嶋岡の追悼詩を読み直してみると、どうなるだろう。
 具体的な片岡の思い出よりも、片岡の死を思うときにふと浮かんできた「哲学(ことばの夢)」である数行、

齢も順序もわきまえず
才能のありなしにも会釈せず
死はてっていしたデモクラシー

 ここに「本物」の片岡が「いる」ということになるのかもしれない。嶋岡は嶋岡自身の考えを書いているようにも見えるが、その考えには片岡の思考も紛れ込んでいる。片岡は死についてきっとこう考えるだろう、片岡の「本物」の考えが、このことばのなかに動いている、その「本物」の片岡と、嶋岡は詩を書きながら出会っている--そういう詩なのかもしれない。


影踏み―嶋岡晨詩集
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傘の音

2014-12-25 00:31:09 | 
傘の音

赤坂門の手前で雨がはじまった。
ことばの背後で一つ傘が開く音がした。
とってのところにあるボタンを押すとバネが働いて、
ぽんと空気をはねとばして開く傘の音が。

足音がさらに背後から駆けてきて、
空中に残っている音を追い越していく。
少し遅れて、ことばの隣で透明な傘が開き、
それから次々に、ぽん、ぱん、しゅっ、ぽん、ぱんっ。

東西に走る明治通り、南北にのびる大正通り、
区役所の裏の路地にも図書館横の一方通行の道、
会社の屋上から見える海につづく道に。
小学校の校庭だけは無音のまま放課のチャイムを律儀に待っている。

耳は、風に舞いあげられた傘になって、
傘が開きつづける街の上を飛んでいく。
足は、傘の進んでくる方向を逆に歩き、ジグザグに歩き、
リズムをひっかきまわしている。




*

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四元康祐「images & words 言葉の供え物2」、春日井建「デスモスチルス」、北川朱実「夏の音」

2014-12-24 09:37:08 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
四元康祐「images & words 言葉の供え物2」、春日井建「デスモスチルス」、北川朱実「夏の音」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 四元康祐「images & words 言葉の供え物2」(初出「びーぐる」23、4月)は写真と詩が一体になっている。写真は引用できない。街角でだれかがシャドーボクシングをしている。

あなたが未だ書かざる詩の一行の
僕は孤独なシャドウ・ボクサー
ことばをタップ、ピンチ、そしてスワイプ!
叩きつける雨足の向こうにひろがる夕焼けの端っこで
いつか一緒に泣けたらいいね

 写真が先にあって、ことばを後から書いたのだろう。あまりに写真とことばが一体になりすぎていて(説明になりすぎていて)、おもしろみに欠ける。ことばの自立性がない。ことばがどこへ行ってしまうのか、という不安になることがない。雨とは対極(?)にある「夕焼け」がおもしろくない。「いつか一緒に泣けたらいいね」というセンチメンタルもいやだなあ、と思う。



 春日井建「デスモスチルス」(初出『風景』5月)。「デスモスチルス」とは何だろう。見当がつかない。わからないまま、読む。
 きのう読んだ吉野弘「噴水昂然」は「噴水」という知っているものが書いてあったが、実際に書かれているのは私の知らない噴水であった。詩とは、何を対象にして書いていても、結局「私の知らないこと」が書かれているとき、詩として立ち上がってくる。知っていることが書かれている限り、それは詩ではない。--いや、これは正確ではないなあ。対象がすでにもっているのに、それを見すごしてきたもの。それを、ことばの運動で明確にしたもの、それが詩である。噴水が水を噴き上げ、その水が落下することは知っていたが、そのことをことばにすることで、そこからはじまる意識の運動があるとは知らなかった。考えてこなかった。それがことばになっているために、吉野のことばを読んだとき、そこに詩を感じた。
 詩がそういうものであるなら、何が書いてあるかは問題ではない。どう書いてあるかが重要になる。だから、「デスモスチルス」が何であるかを、私は調べない。目が悪いから辞書は引きたくない、というだけのことなのだが、私は何でも「理屈」にしてしまう。
 で、その作品。

過ぎた歳月を惜しむな
私は曝(さら)されて立つ
永劫の番人となることを夢みながら
すきとおる寒さを越えて
私は光と共に在る

失った肉を悲しむな
空洞となった私は
もはや目蓋さえ閉じることができぬが
私は知っている
遥かなる日に
数えきれぬ愛の技をもって
私は光の淵を渉(わた)っていた
その追憶に浄(きよ)められて
私は抽象の古代と成り果(おお)せた

 「過ぎた歳月を惜しむな」「失った肉を悲しむな」という行からは、「デスモスチルス」がいまは存在しないことがわかる。死んでしまっている。そして、「私は光と共に在る」と、春日井がデスモスチルスに同化して(デスモスチルスになって)、私は存分に生きたのだからと生涯を誇っていることがわかる。「闇と共に在る」ではなく「光と共に在る」というとき、「光」は「栄光」である。栄光と共にあるのだから、「悲しむな」というのである。
 最終行の「抽象の古代と成り果(おお)せた」にも、自分を誇る意識が見える。「成り果(は)てた」というのが他人の見方かもしれないが、私は「成り果(おお)せた」のである。自分の一生を生き、望みを果たした。
 ギリシャ、ローマ時代の英雄のひとり? ギリシャ神話の神?
 神かもしれないが、人間ではないだろうなあ。一緒にその時代を生きた人の気配が感じられない。「永劫の番人」「抽象の古代」は抽象的すぎて、まるで「科学記号」か「数学の記号」のように見える。
 古代の、私の知らない生き物なんだろうなあ。小さい生き物というより、巨大な生き物。ティラノサウルスみたいなものか。「曝されて立つ」「永劫の番人」「空洞となった」ということばが、白骨化した恐竜、恐竜の骨格標本を感じさせる。巨大な胸郭がのなかに「空間」が広がっている。過去の記憶が時を越えて広がっている。

数えきれぬ愛の技をもって

 は、その生き物が世界を支配していた(世界にいっぱいいた)という印象を呼び起こす。最強の恐竜だったのかもしれない。全盛期は、その生き物は「神」そのものだっただろう。無意識に世界を支配していただろう。
 そういう生き物と一体化して、春日井は自分の生涯(いままでの生活)を振り返っているのか。
 うーん、いいなあ。かっこいいなあ。
 四元の書いている「いつか一緒に泣けたらいいね」のセンチメンタルとは大違い。他人に感情を押しつけない。他人の感情なんかいらない、ということばの調子がさっぱりしていて気持ちがいい。
 詩は谷川俊太郎が「1対1」(朝日新聞デジタル版)で書いているように「一対一」で向き合うものなのだろうけれど、私は、何篇かの詩をつづけて読むと、どうしてもほかの詩と比較/関連づけをしてしまう。感想にほかの詩の感想が紛れ込んでしまう。
 春日井の詩だけを読んでいたら、あまりにさっぱりしすぎていて(抽象的すぎて)感想を持たずに素通りしてしまったかもしれないが、センチメンタルなことばのあとに読むと、この具体的には書かない書き方に強い意思を感じ(文体意識を感じ)、この詩はいいなあと思うのである。
 「デスモスチルス」が何のことがわからないが、ある生涯を終え、消えていくもののいさぎよさがあふれていると感じる。



 北川朱実「夏の音」(初出「東京新聞」5月31日)。

ネアンデルタール人が
熊の大腿骨の欠片で作った
小さなフルート

アフリカのひんやりした洞窟を出発し
ユーラシア大陸をさまよって
中央アジアで消えた三万年が

細くふるえながら
祭の村を巡っていく

(音も時間も
(うまれた場所へ帰ろうとして

 うーん、今度は「ネアンデルタール人」か。これも古代だな。古代と現代の往復。フルート(笛)から「音楽」の誕生そのものを思いめぐらしている。村祭り(日本の? 中央アジアの? アフリカの?)の笛。その音は、ネアンデルタール人が熊の骨でつくったフルートの音を共有している。
 スケールが大きい。時間のとらえ方が巨大だ。

カーン、   カーン、
人の笑い声に似た鹿(しし)おどしの音が
反転しながら空に吸われていく

碧い水を庭じゅうに巡らせたまま
蜜蜂を追って行方をくらました父が

頭に花粉を積もらせて
草ぼうぼうに立ち尽くしている

 「鹿おどし」「父」。そうすると、「祭の村」は日本か。そうともいえないかもしれない。アフリカか中央アジアか、どこかで村祭りに出会う。そのとき北川は日本の祭りを思い、父を思ったということかもしれない。
 どっちでもかまわない。
 北川は

(音も時間も
(うまれた場所へ帰ろうとして

 という「時間」と「場所」を超えた運動に詩を見ている。それがわかれば、それが「どこ」「いつ」かは問題ではない。
 それがどんなに遠く離れた「時間」「場所」であろうと、人がそれを思うとき、その「時間」「場所」は「いま/ここ」のすぐ隣にある。密着している。切り離すことができない。
 この接続感(離れているのに、いまここにある感じ)が詩なのだ。
 春日井の詩にもどっていえば、デスモスチルスが遠い存在であっても、春日井はことばを書くときデスモスチルスと一体になっている。そのことが詩を成立させている。
 しかし難しいもので--四元の詩も写真のなかのボクサーと一体になっているのだが、それが写真で示されているためにおもしろくない。「わからない」がないから、おもしろくない。わからないもの(たとえばデスモスチルス)を想像しながら、その想像力のなかへ自分の肉体を投げ込んでいって「一体感」をつかみとるとき、「おもしろい」という感じが生まれてくる。自分の「肉体」で、詩人が書いたものを盗み取るときに「おもしろい」が生まれる。書かれていることが、詩人の書いたことか、自分の肉体が体験していることかわからなくなるとき「おもしろい」がはじまる。「わからない」を自分の「肉体」のなかから引き出す(誤読する)ときに詩は生まれるのだと思う。

詩集 風景
春日井 建
人間社
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