詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(145)

2018-11-30 10:11:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
145  送辞

 誰に対する「送辞」なのか。とても厳しいことばである。詩人が死んだあと、その詩を読んでみた。しかし、

詩を読むよろこびも おののきも ついに感じえなかった
それはつまり あなたの「詩」がじつは詩ではなかった
そして あなたはつまるところ はじめから詩人ではなかった

 「144  きみに」も「きみ」が誰かわからなかった。もしかすると、この詩に書かれてる詩人かもしれない。一度では気がすまず、否定を念押ししている。そこに凄味、高橋の真実がある。

賢すぎるあなたのことだ 自ら気づかなかったはずはない
詩人ではないと自ら知りながら 詩人を振舞いつづけることは
どんなに辛かったことか もうもう らくになってください
詩人であることが特別立派なわけでもないのですから ね

 「144  きみに」の「きみの中がきみでいっぱい」が「賢すぎる」ということかもしれない。「からっぽ」ではない、ということかもしれない。
 でも、こういうことは指摘してみても楽しくない。それこそ、こういう部分は「詩ではない」。
 どこが、詩、か。
 「もうもう」ということばに、詩がある。このことばは書き換えようがない。書き換えられない。「もう」で十分なのだが、高橋は「もうもう」と書く。その繰り返しは、一回限りのものだ。だから、詩、だ。
 同じように、最後の「ね」という念押しの「しつこさ」。ここに「肉声」がある。「論理」を超えて、噴出してくる高橋の「肉体」がある。

 「あなた」が誰であるかわからないが、単なる「論理」ではなく、「肉声」であの世に送ってもらえるのだから、この詩人は幸福な人である。高橋は、本当に言いたいことを言っているのだから。

 (私は、高橋の肉声を思い出している。ある詩人が死んだ。その詩人への厳しいことばを、小さな集まりで偶然聞いた。高橋には一度会ったことがある。その一度の機会に、そのことばを聞いた。--こう書けば、その集いにいた人には、私が想定している詩人が誰であるかわかると思う。もし、高橋のことばを覚えていれば、だが。)


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ジョージ・スティーブンス監督「ジャイアンツ」(★★★★)

2018-11-29 10:27:13 | 午前十時の映画祭
ジョージ・スティーブンス監督「ジャイアンツ」(★★★★)

監督 ジョージ・スティーブンス 出演 エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーン

 冒頭のシーンが好きだ。牛の水飲み場。牛が遠くからやってくる。その牛の膨大な数、膨大な数の牛が徐々にスクリーンを埋めていく感じが、なんともすごい。いまならCGで映像にしてしまうかもしれないが、あの時代はカメラを据えて、集まってくる牛を待っている。その「時間」のかけ方がていねいだ。
 それからロック・ハドソンを載せた列車が走る。野原には馬をつかって狩りが行われている。「時間」が交錯する。「過去」と「現在(未来)」がぶつかりながら動いていく。それが自然に表現されている。これは、そのまま映画のテーマになっていく。
 農場と石油。過去と未来がぶつかり、未来が現在を破壊していく。破壊していくというと語弊があるかもしれないが、未来(石油)の方が支配力を強めていく。新しいものが古いものを破壊し、さらに巨大になっていく。
 でも。
 ほんとうは、そうではない。「過去」はいつでも「現在/未来」に対して反逆してくる。復讐してくる。ひとは「過去」を忘れることができない。このドラマをジェームズ・ディーンが好演している。あ、うまいなあ、と感心した。
 ロック・ハドソンがそうであったように、ジェームズ・ディーンもエリザベス・テイラーに一目惚れする。でも、そのときはすでにエリザベス・テイラーはロック・ハドソンの妻になっている。しかもロック・ハドソンはジェームズ・ディーンの使用人なのだ。最初から不可能な恋に恋してしまうのだ。かなえられない恋なのだ。エリザベス・テイラーを見た瞬間の、鬱屈したジェームズ・ディーンがとてもいい。ロック・ハドソンとエリザベス・テイラーが恋に落ちる瞬間は、誰の目にもはっきり見える。まわりのひとが気づく。けれどジェームズ・ディーンの恋は、観客は気づいても、他の登場人物は気づかない。他の登場人物には、恋を隠しているからである。
 これは、なかなか手が込んでいて、おもしろい。昔の映画は、こういうことをていねいに描いていたのだ。
 で、鬱屈した恋だから、復讐も鬱屈している。ジェームズ・ディーンは遺言で手に入れた土地から石油(油井)を掘りあて、成り金になっていく。ロック・ハドソンの「使用人」から脱出し、ロック・ハドソンとエリザベス・テイラー、さらにその家族を支配するというと大げさだが、強い影響を与える。だれもジェームズ・ディーンに逆らえない。だれも逆らえないのだけれど、ジェームズ・ディーンはいちばんほしかったエリザベス・テイラーを手に入れることができない。
 いまなら違った展開、違った人間模様が描かれるのだと思うが、昔の映画なので、愛は「恋愛」ではなく、「家族」へと収斂していく。その「収斂」のなかに、人種差別(メキシコ人差別)が組み込まれていくところが、当時としてはきっと「新しい」要素、「革命的」な要素だったと思う。
 私はエリザベス・テイラーを美人だと思ったことはない(目が嫌いだ)し、ロック・ハドソンも演技がうまいとは思わないが、なんというか、そこにただいるだけ、ストーリーになっているというだけの「存在感」のいい加減さ(?)が、不思議なことにいい感じだ。冒頭に触れた「牛の群れ」のような感じ。「牛」に個性はないのだが、それが世界にとけ込んでいる。最後の最後、エリザベス・テイラーがロック・ハドソンに惚れ直すのだが、その惚れ直し方が、私が「あの牛の群れはよかったなあ」というような感じに似ている。「自然」を発見するという感じとでも言えばいいのか。
 この「背景(人間の自然)」があるから、ジェームズ・ディーンの悲しい独白が胸に響く。ジェームズ・ディーンにしか似合わない鬱屈が切なく響く。こういう青春映画(?)は、もうつくられることはないだろうなあ、と思うと、私の「青春」はほんとうに終わったのだと感じる。でも、年金生活者になっても、やっぱり「青春」を感じたいなあ、とも思う。
 そういう人は多いのか、「午前10時の映画」に来ているのは、高齢者ばかりだった。「あれは、妹の方よ」とかなんとか、女性が一生懸命、連れの男性にいちいち説明していた。かなりうるさいのだが、こういううるささも、こういう映画を見るときは、ひとつの「味」になる。そういえば、昔、「寅さんシリーズ」を見ていたとき、単なる風景シーン、そこがどこであるかをあらわすシーンなのに「まあ、おいしそうなミカン」と後ろの席で話していたおばさんグループがいたなあ。家でテレビやDVDを見ていてはわからない「味」というものが映画館にはある。

(午前10時の映画祭、2018年年11月27日、中洲大洋スクリーン3)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(144)

2018-11-29 09:24:43 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
144 きみに

このところ詩が降りてこない と きみはぼやく
最初から降りてこなかったんだよ きみのところには

「きみ」が誰を指すのか、わからない。批判はつづく。

降りてこないのには じつは確かな理由がある
理由というのは外でもない きみの中がきみでいっぱいだから
かりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない

 ここからは「詩」というものが「きみ」とは「異質」のものであることが推測できる。「異質」ものものは「きみ」という「同質」のもののなかに入り込めない、と。
 そういう「論理」よりも私は「理由というのは外でもない」ということばにつまずいた。このことばはなくても「論理(意味)」は通じる。

降りてこないのには じつは確かな理由がある
きみの中がきみでいっぱいだから
かりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない

 ない方が、ことばのスピードが速い。早く「結論」に到達する。論理の経済学からいうと不要のことばである。でも高橋は書いた。なぜか。「理由」を強調したかったからだ。「理由」の内容(意味)よりも、理由が「ある」ということを強調したかったからだ。
 こういういう「強調」は次の部分にも感じられる。

自分をからっぽにしなきゃ 詩は入ってこないさ
まず きみ自身をからっぽにすることを憶えなきゃ
でも どだい無理だよね きみは最初の最初から
きみでいっぱいだから きみだけでいっぱいなのが
きみなのだから もともと詩なんか必要じゃないんだよ

 「最初の最初から」「きみでいっぱいだから きみだけでいっぱいなのが」。同じことばの繰り返し。「論理」そのものからいうと重複は不経済である。学校の「散文」なら重複を削除させられるかもしれない。
 けれど詩は「論理」ではない。
 むしろ、こういう無駄(過剰)こそが詩なのだ。意味を超えて、高橋は、「きみ」が嫌いだったということがわかる。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(143)

2018-11-28 09:53:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
143 誘拐者

人は抱擁の悦びにおいて 関わりのない魂を攫ってわが子にする
だから 生殖には本源的な罪がある と聞いたことがある

 私は、聞いたことがない。ここに書かれていることが、よくわからない。聞いたことがあったとしても、わからないから、聞いたことがないと思うのかもしれない。
 人はあらかじめ知っていることしか、わからない。

 私はまず「魂」を知らない。「聞いたことはある」が見たことも触ったこともない。「魂」が「ある」と考えたことがない。ひとがそのことばをつかっているので、しかたなくつかうが、自分から進んでつかうことはない。
 それがこの詩がわからない、いちばんの理由かもしれない。
 わかることは「抱擁」を高橋が「生殖」と言い直しているということだ。この「言い直し」は、とても冷たい。「魂」と同様に、私はこういう「言い直し」を自分のものとして引き受けることができない。「抱擁の悦び」「性交の悦び」というものはありうるが、「生殖の悦び」が「ある」かどうかわからない。
 少なくとも男には「抱擁/性交の悦び」はあっても、「生殖の悦び」は「肉体」としてはありえない。「精神的」なものなら考えることはできる。
 「精神的 (抽象的) 」なものを出発点として、高橋のことばは「だから」「ならば」「だから」と論理を、つまり「精神の運動」を突き動かしながら、こう展開する。

私が異性との抱擁を避けるのは 無辜の魂を攫うことを怖れてか
とはいえ 独りから産まれる詩に対し 責めがないといえようか
しかも 私は恥知らずにも その産子を白日 市で競売にかけている

 「生殖」というのは「生む/産む」であって「産まれる」ではないと思う。なぜ「産まれる」という表現を高橋が選んだのか、これも、よくわからない。
 「攫う」という動詞を高橋はつかっているが、むしろ「攫われた」という意識の方が強いのかもしれない。高橋は「詩に攫われた人間」である。「父母」は人間ではなく、「ことば(文学)」であるというところから、この詩を読み直すべきなのかもしれない。省略してきた二行は、次の通り。その中にある「父母」「肉親」を「文学」と読み直すと、高橋の姿が見えてくる。

ならば わが父母はわが肉親にして 同時にわが誘拐者
だから われらは父母を深く愛し しかも激しく憎むのか



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(142)

2018-11-27 06:28:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
142  この詩は

これは自分が書いた詩だ と自信をもって言えるのか
ほんとうは 自分ではなく誰かが書いたのではないのか
よしんば書いたのは とりあえず自分だったとしても
じつは 見えない誰かに書かされたのではないのか
だからこそ くりかえし読み返すのではないのか

 「この詩」「これ」ということばがつかわれているが、それが実際に「どれ」を指しているかは書かれていない。しかし、詩一般についての「認識」が書かれているのではなく、固有の「自分が書いた詩」を指している。
 「固有」とは、ことばにしてしまうと簡単だが、単純なことではないかもしれない。「固」と呼ぶとき、そこには同時に別のものが存在する。「他」の存在によって「固有」になる。
 常に対比があり、その対比の中で揺れている。
 それはかなえられない夢(理想)と、逃れられない現実を浮かび上がらせる。
 その対比のなかへ踏み込んでいけば(ギリシアの集中力で突き進んで行けば)、この詩は違った展開になるかもしれない。
 しかし。
 「よしんば……としても」と仮定ではじまり、「じつは」ということばを通りながらも「……ではないのか」と仮定で終わってしまう。「実」は「通り道」になってしまう。そして、「書く」をテーマにしながら「読む」という違った動詞の中に「結論」が逃げ込んでしまっている。

 厳密な意味では「論理」ですらない。論理「的」という「定型」の運動だ。



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重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』

2018-11-26 10:44:21 | 詩集
重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』(思潮社、2018年08月31日発行)

 重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』は「邪」という作品がおもしろい。

人間でないものに
なりたい
たどたどしい川とか
満載喫水線
たどりつけない驟雨
きれいな足首
駱駝の固い頭
ふやけたスタジアム
なめらかな水掻き
正しいものの横に
そっと置かれた誰かの悪意に
そして いつも
間違っていますように

 「きれいな足首」は「人間でないもの」ではなく、人間の一部に感じられる。だから、そこが詩としては弱い部分なのだが、これがあるから「正しい」とか「悪意」が肉体に響いて来る。
 それぞれの行の形容詞、形容動詞は「感覚(感情)」をくすぐる。それも「人間」を感じさせる。「人間でないもの」はどこにも書かれていない。「満載」さえ客観的事実を超えて「感覚」としてつたわってくる。「いっぱいになっている」というような。
 「誰かの悪意」の「誰か」は人間以外に考えられないが、そうすると「人間ではないもの」とは、単純に、「私ではないもの」ということになる。
 そう読んだ上で、「誤読」を進めるのだが。

間違っていますように

 この一行は、何が「間違い」と言うのだろうか。「正しいもの」が間違っているのか。「悪意」というものが間違っているのか。言い換えると「正しい」と判断した重本、「悪意」と判断した重本が間違っているのか。もし、重本が間違っているのだとしたら、「正しいものの横に/そっと置かれた誰かの悪意」は、どうなるのだろうか。
 わからない。
 わからなからこそ、感じる。重本は、ここで真剣にことばを動かしている、と。ことばを動かすことで、重本自身をつくりかえようとしていると。
 この運動こそが「人間でないもの」(自分ではないもの)になる、ということだと思う。めれが「……ますように」という祈りになっている。

 「翼のある生活」は、こんな具合に始まる。

翼があります
飛べません
肩の付け根が重いです
売っていません
ある日
へなへなと
生えてきたんです

 「へなへな」がおもしろい。この「へなへな」を、このあと視点をかえながら少しずつ明確にしていく。
 重本の詩は、一行一行が短くて、昔の、手書き詩のような感じがする。この「手書き」という印象を呼び起こすところも、妙におもしろい。切断と接続を、「小さく」見せる。「小さく」見えるけれど、ほんとうは「大きい」かもしれない。
 「小さい」ものがよく見ると少しずつ「大きく」なる。けれど、「結論」にたどりついてみると「大きい」はずが、やっぱり「小さい」。「大きさ」を問題にするようなことではない。かといって「深さ」を見つめる、という感じでもない。
 そういうところが印象に残る。





*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(141)

2018-11-26 09:56:04 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
141  梟

 日本語と外国語はどう違うのか。あるいは日本人と外国人はどう違うのか。「観念」と「比喩」の結びつき方が違う気がしてならない。ある存在を見つめ、凝縮する。「比喩」になり、「観念」に変化する。そこから「観念(抽象)」がもう一度「比喩/象徴」に変化する。こういう絡み合いに対する訓練が日本語(日本人)には欠如しているような気がする。単に、外国人のことば(翻訳でしか知らないけれど)の方が、抽象と象徴、観念と比喩の結びつきが強靱に感じられるということなのだけれど。
 ことばを熟知している高橋の詩を読んでも、同じことを感じるときがある。

フクロウを宰領とする知恵の女神が
甲冑を身につけているのは 理由のあること
強い翼で飛びかかり 鋭い爪と嘴を立てないでは
血の滴る詩も真実も掴めないのだよ ホーホー    (「掴む」は原文は正字体)

 「知恵の女神」から、すでに日本語ではなく「翻訳」(借り物の観念)の匂いがする。借り物だから「強い翼」「鋭い爪」「嘴」は比喩から象徴に変化していかない。「血の滴る詩」「真実」は観念のままだ。外国人なら、「鋭い爪で肉を掴み、嘴を立てて内臓をむさぼるとき、爪と嘴から血が滴る。フクロウの肉体が噴出させる血のように鮮やかな真実となって」というような感じで、動詞をもっとことばの動きにからませるだろう。「名詞」の組み合わせではなく、「名詞」を「動詞」の動きの中でつかみなおす、あるいは「動詞」の動きを「名詞」として結晶させるというような使い方をすると思う。
 高橋のことばは、「名詞」によって静かに抑えられている。観念/抽象、比喩/象徴の激しさというか、スピードを欠いている。フクロウが鳴いている声を聞いて想像しているだけで、ふくろうがネズミや蛇を襲って食べている姿を目撃して書いた詩ではないからだろう。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(140)

2018-11-25 09:22:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
140  他人の庭

 「139  悲しみ」の続篇か。

昼寝から目覚めて見る 自分の庭は
他人の庭のようによそよそしい

 「昼寝から目覚めて」は「昼の夢から目覚めて」かもしれない。夢は本能が見ている。本能から見れば、現実は「他人」なのかもしれない。そしてこのとき、「他人」とは「本能の自分ではない」という以上の意味を持たない。
 しかし、詩は、こうつづいている。「意味」をつくりはじめる。

そうではなくて ほんとうに他人の庭なのだ
もともと自分のものなど どこにもありはしない

 「ほんとう」というのは、むずかしい。定義できない。「ほんとう」と信じるものがあるだけであって、「ほんとう」などないかもしれない。「ほんとう」にしたいだけなのだ。「ほんとうの自分」というものなど、ない。
 あるのは「そうではなくて」という論理がつくりだす運動だけである。そして論理は動き出すと、論理であることをやめることができない。

そういう自分だって 自分のものではない
他人のものである自分が 他人の庭を見る自分を
見ている

 まるで合わせ鏡のなかの像のように、論理は増えるばかりだ。決して「減る」ということをしらない。そうして論理は意味という「無意味」になる。「本能の自分」は、完全に消え失せてしまっている。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(139)

2018-11-24 09:59:04 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
139  悲しみ

 老人と赤ん坊を対比させている。

昼寝から帰ってくるたび
世界が新しく見えるのは なぜだろう
眠りの中で自分が老いたぶんだけ
世界が若くなった と思いたいのか
ほんとうは そのぶん世界は老い
自分も 確実に老いている
そのことを 曇らされず知っているから
目覚めた赤子は 激しく泣くのだ

 「意味」はわかる。けれど、「悲しみ」はだれのものを指して言っているのか。老人(高橋)の悲しみか、赤子の悲しみか。高橋は赤子になって悲しんでいるのか。
 ことばは、不思議だ。
 「悲しみ」は高橋にも赤子にもあり、それは「悲しみ」と呼ばれるがそれぞれ別なものである。けれど「悲しむ」という動詞で考えると、「ひとつ」のものに見えてしまう。悲しみにはいろいろ種類があるかもしれないが、悲しむという動詞はひとつ。
 自分が老いたことを知らず、若くなったと思うのは「悲しい」ことである。自分が老いたと知ることも「悲しい」ことである。どちらの「悲しみ」であれ、ひとは「悲しむ」という動詞を生きる。
 これは、奇妙なことだ。
 動詞が「ひとつ」だから、高橋は老人でありながら、同時に赤子も生きてしまう。

 この詩では、もうひとつ「思う」と「知る」の違いにも目を向けなければならない。
 「世界が若くなった と思いたい」の「思う」は、「知る」を超えている。「知っている」けれど、それを知らないことにして「思う」。「こころ」は、どこかわがままなところがある。
 赤子はまだ「思う」ことができない。「知っている」けれど、それを否定してこころを動かすということを知らない。
 そう考えると、さて、「悲しい/悲しむ」はどうなるのだろうか。どういう「姿」をとるだろうか。
 こういうことは考えなくてもいいのかもしれない。知らなくてもいいのかもしれない。わからないまま、放り出しておけばいいのかもしれない。



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estoy loco por espana (番外27)

2018-11-23 12:15:37 | estoy loco por espana


Miguel González Díazの作品。
この作品は、木と出会うことで表情が変わった。
背景が空間だったときは、現代人の不安を感じさせた。
木と出会うことで、そこに不条理が加わった。
不安をつくりだしているのは人間(ブロンズ)ではない。
人間(ブロンズ)ではない何か(木)が、ことばにならない接続と切断を迫っている。

Obra de Miguel González Díaz.
La expresión facial de este trabajo cambió al encontrarse con un árbol.
Cuando el fondo era espacio, sentí ansiedad por la gente moderna.
Al encontrar árboles, allí había un absurdo.
No es un ser humano (bronce) que crea ansiedad.
Algo (árbol o madera) que no es humano (bronce) está presionando para una conexión y desconexión indescriptibles.


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志村喜代子『後の淵』

2018-11-23 12:02:43 | 詩集
志村喜代子『後の淵』(水仁舎、2018年08月16日発行)

 志村喜代子『後の淵』は、凝縮度の高いことばで構成されている。「凝らす」という作品の全行。

いちぶ始終を 見たい

土ふまずに音は こぼれ
のんどは声をしたたらせ
地獄耳 生え

狂おしきひとあり

凝らすあまり
眼球 落ち
耳 枯れ
冴え
されこうべ
をして なお

這いすがる愛着
ひばばの ははの また母の はるかより
ゆずり受け

いちぶ始終を 見たい

 何の「いちぶ始終」か。「されこうべ」を手がかりにすると、ひとの一生のすべてということになるかもしれない。だれの一生か。「這いすがる愛着」のあとに、女系の祖先がつらなる。おんな(志村自身)の一生か、おんなの連れ合いの一生か。たぶん、連れ合いの一生のすべてを見たいということなのだろうが、連れ合いの一生を見るということは自分自身の一生を見るということでもある。
 それは分離できない。知らない(知らなかった)部分を含めて、それは「連れ合って」生きてきたのだから。分離できないから「狂おしい」のである。
 この作品では、二連目が、特に印象的だ。「土ふまず」は土を踏まないところ。何かを踏みつぶし、踏みつぶしたものが音を立てるとしても、土踏まずはそれを踏んでいない。あるいは、そこに「空隙」があるから、そこから音はこぼれるのか。足裏の暴力を伝えるために土踏まずはあるのか。「のど」ではなく「のんど」と書いているのも「神話」のような強さを感じさせる。「のんど」というとき「ん」の音が肉体の中に残される。声を滴らせながら、声を「肉体の内部」にも滴らせる。何かしら、矛盾した動きが隠れている。それがことばを強くしている。
 四連目の「冴え」が「されこうべ」へと動いていく音にも強さがある。「されこうべ」は「さえこうべ」と聞こえてしまう。「冴える」は「透明になる」という感じにもつながる。髑髏は、肉が透明になったら見ることができる。そういうことは書いていないのだが、書いていないことを「誤読」してしまう。
 私は、こういう「誤読」を誘うことばが好きだ。「意味」は「誤読」のなかでひろがっていく。

 「夜叉」も強い。

生まれた日を
何十回くり返したら
あした澄むのか
雲ま厚く
ぱたぱた雨がくる

 「雨がくる」は言われたら意味がわかるが、ふつうは、言わない。「雨が降る」というのが一般的だが、その一般的でないところに、ため込んだ力を感じる。何か言いたいことがある。それは力をためる、あるいはたわめないことにはことばにならない。そういうことを感じさせる。
 「あした澄む」の「澄む」も同じだ。あしたは晴れ渡るのか、晴々とした気持ちになれるのか。そういう「意味」だと思うが、「晴れる」ということばをつかわずに、「澄む」ということばのなかにあるものを突き動かそうとしているところに、志村自身が抱え込んでいる「澄んでいないもの」を感じさせる。

秋の風立ち 生き返す穂の波音
葉脈にあふれ土にしむ
ひそやかな しぶき
末期をこえ生きのこるという耳は
海鳴りをたずさえ
ふれあった声をつれ
摺り足で橋をわたる

 その橋は、渡ってはいけない橋である。そうわかって、その橋を渡る。「生き返す」「末期をこえ」「生き残る」は、その対極に「死」があることを語る。ことばは、それが指し示すものだけではなく、それが指し示さなかったもの、指し示すことを拒んだものをより強く出現させることがある。「意味」とはことばの延長線上にあるだけではない。そのことばが生まれてきた場(出発点)よりも「過去」をも同時に暗示してしまう。そして、その「暗示」のなかには、表面上の「意味」以上のものが動いている。

季(とき)は菩提樹
散華のはちす
には 母の陣痛(いたみ)を記せない

産まぬ契り
うまん うましめん
流し棄てた頭蓋
血の干潟には
洪水さえとどかない

新月のほねに
熱(いき)れる夜叉 あした
生き直せるか

 妊娠したが出産はしなかった。「母」になるのではなく、「おんな」を、「性」を生きようとしたことが「夜叉」なのか。
 簡単には言えない。
 こういうことも簡単に言ってしまってはいけないのだとおもうが、志村は「おんなの神話」を書こうとしている。「神話」によって「夜叉」を生きることを選んでいる。それが生まれなかった子供を生きることだと言っているように感じられる。
 私は、そう「誤読」したい。






*

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日の遣い―詩集
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(138)

2018-11-23 10:26:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
138  蝉の夏 田原に

 中国では、脱皮する前の蝉を食べる--という話を高橋は田原から聞いたらしい。そこからこんな具合にことばを動かしている。

土から出て幹を登る蝉を採り 袋に入れる
母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ
五十歳の君の中には いまも何百匹何千匹が
脱皮前の異形で 上へ 下へ 這いまわっている
君の中の無数の沈黙を脱皮させ 飛び立たせてやれ
存分に鳴かせてやれ それが彼らと君の夏の完成

 「無数の沈黙」と「存分に鳴く」が対比される。その瞬間に夏がなまなましく動き始める。ことばでしかとらえることができない世界が出現する。この「ことばの構図」は完結していて強烈だが、また予定調和の「論理」という感じもする。
 しかし、私にはなんとなくうるさく感じられる。
 私は、そういう「論理」よりも、

母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ

 この一行の「音立てて」が好きだ。蝉が煎られる音なのだが、まるで蝉の鳴き声そのものに聞こえる。
 食べられる前に、蝉はもう存分に鳴いている。それこそ「無数の沈黙」を鳴いている。「脱皮させる」のではなく、「異形のままの無数の沈黙」の「鳴き声」の方がはるかに強烈だ。
 脱皮させてはいけない。
 そういう「論理的な夢」は高橋にまかせておいて、田原には「鉄鍋の音」そのものを書いてもらいたい。
 閻連科は『年月日』でトウモロコシを通して音の神話を描いたが、田原には蝉を主役にもうひとつの神話を書いてもらいたい、と思った。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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estoy loco por espana (番外26)

2018-11-22 20:26:12 | estoy loco por espana
Joaquin Llorens Santa の「Entre dos aguas 」



 水が動く。水は出会った瞬間にひとつになる。
 しかし、ホアキンは二つの水を描く。
 「波」ではなく「流れ」と思って見つめる。
 ひとつの流れはどこからやって来て、どこへ行こうとしていたのか。
 もうひとつの流れもまた、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか。
 おそらく違ったところから来て、違ったところへ行こうとしていた。
 けれども出会ってしまった。
 出会うことで、互いに影響し合う。
 いっしょに行きたい、ついて来い、と言っているのか。
 おれが行こうとしていたところだ、おれに譲れ、と怒っているのか。
 出会いが、愛であれ、憎しみであれ、出会いは運命だ。
 たとえ二つの水が一つになった後、さらにまた分かれて二つになることがあったとしても、出会ったという記憶はそれぞれの「肉体」のなかに残る。
 記憶に残る。
 いっしょに生きていくしかないのだ。

 すぐれた芸術は、見ているときはもちろん強い影響を受ける。
 しかし、その作品から遠く離れても、見たという記憶、そのときの感情はいつまでも肉体の中に残る。そして、生きていく。
 そういうことも思った。
*

Entre dos aguas, Joaquin Llorens Santa

El agua se mueve. El agua estará unida en el momento en que se encontren.
Pero Joaquín hace dos aguas.
Creo que es "flujo" en lugar de "onda" y lo mira.
¿De dónde vino el flujo y hacia dónde irá?
¿De dónde vino el otro flujo y hacia dónde irá?
Probablemente venía de un lugar diferente y irá a otro lugar.
Sin embargo, dos aguas se encontren y se conocieron.
Al reunirse, se interactúan entre las dos.
Un agua dice : Quiero ir contigo, o Vienes sobre mi.
Otro agua dice : Esa dirección era lo que buscaba, Déjame ir primero.
No sé si los encuentros crean amor u odio, pero el encuentro es destino.
Incluso si dos aguas se han convertido en una, incluso si se divide más en dos, la memoria que encontramos se deja en cada "cuerpo".
Es memorable
Dos aguas tienen que vivir juntos.

El arte excelente, por supuesto, está fuertemente influenciado cuando estamos mirando.
Sin embargo, incluso si está lejos del trabajo, la memoria que vimos, las emociones en ese momento permanecerán en nos cuerpo para siempre. Y, va a vivir.
También pensé en tales cosas.


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50年後の発見(3)

2018-11-22 19:39:52 | 50年後の発見
 岩倉雅美の作品。(追加)(実物を見ていないのだが、何枚か写真を送ってもらったので、その感想を書いておく)



 この作品は、完全な「抽象」ではない。鋭角的な幹から一枚の葉が出ている。若い葉と見るか、老いた最後の一枚の葉と見るか。まっすぐ天を指す幹の勢いを信じ、若い葉と見るのが一般的かもしれない。岩倉の狙いかもしれない。
 しかし、私は、最後の一枚と見たい。ただし、幹にしがみついている一枚ではなく、老いた幹を突き破って出てきた最後の一枚、と。
 この作品のタイトルは「記念樹」なのだが、私はこの木が木である理由は、この一枚の葉にあると思うからである。
 それは「いのち」の象徴である。

 抽象的な作品は、あるとき抽象でおわらず、「象徴」になるときがある。「象徴」とは「意味」のことでもある。「意味」が生まれる。一枚の葉が生まれるように、「意味」も生まれ、育っていく。

 

 「変香合」というタイトルがついている。香を楽しむための器なのか。私は「香合」というものの実際を知らないので、よくわからない。
 一枚の葉には、穴があいている。そして蝶も止まっている。とても小さな蝶だ。
 「香合」の前に、木と葉と蝶が出会っている。そこに、やはり「象徴/意味」を感じ取らせようというのだろう。
 四人の中では「意味指向」が強い作家と言える。
 こういう感じは、たとえば大丸などから見ると、かなり「うるさい」感じがするかもしれない。
 「意味」よりも前に、もっと「木」そのものに語らせるということを、大丸の作品は狙っていると思う。
 大丸の作品について書いたとき書き漏らしたが、大丸の作品は、どれをみても「木」そのものを感じさせる。木が生きている。「意味」を壊して、木が自己主張している。芸術とは、たぶん、意味を超えて行く自己主張なのだと思う。



 「河童の酒盛り」というタイトルの根付。根付だから、たぶん、とても小さい。
 写真でしか見ていないのだが、写真で見た作品の中では、これがいちばん温かい味がある。河童が酒を飲んでいる。昔からある題材だと思う。そこには「形」があるけれど、新しい「意味」はない。意味が付け加えられていない。
 岩倉は私の感想には不満かもしれないが、意味が付け加えられていない作品、「象徴」になることを拒んでいる作品の方が、私は好きである。
 前回紹介したひな人形は、すでに「形」として完成している。どこかに新しい要素が加わっているのかもしれないが、あ、ここが新しいという感じはしない。しかし、そこに「親しみ」というものがある。
 「意味」など、いちいちいわなくてもいい。「形」があれば、そこに生きてきた人の歴史がある。「形」には人の生き方が受け継がれている。そういう作品があってもいいはずだ。
 根付を手で転がしながら、河童と酒を酌み交わすのも楽しいかなあ、と思うことがあれば、もうそれで十分だ。
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(137)

2018-11-22 09:33:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
137  鬼能風に

 誰の死を描いているのか。「能」を手がかりにすれば能役者か。愛煙家。死因は肺がんかもしれない。
 後半部が生き生きしている。「批判」というか、あきれ返っている。批判を含むから生き生きしているといえるし、批判は嫉妬から生まれるから生き生きしているのかもしれない。

しかも 根っからの頑健を信じて 疑いもしなかった
それというのも いつでも勃起する それだけの理由で
なんたる妄信 世には疲れ勃ちということもあるのだよ
ついでにいえば 臨終の一物は 染色体を後に残そうと
死神に抗って むなしく勃ちつづける というではないか

 「それというのも」というのは死んだ能役者のことばではなく、引用している高橋が言いなおしたことばだと思う。頑健を自慢するひとは「それというのも」という理由をみちびくことばなど必要としない。「おれは頑健だ。いつだって勃起する」と直接事実を語る。頑健「即」勃起。「即」はことばを必要としない。だからこそ「即」である。これを「それというのも」と言いなおすと、「事実」ではなく「論理」になる。「論理」だから批判に変わる、妬みに変わる、とも言える。
 未練がましく「ついでにいえば」という論理の追加(補強)がある。補強など必要としないのが「事実」というものなのに。
 高橋は、こうつづけている。

今のきみが纏っているのは 死出三途の川霧か タバコの煙か
(カロン カロン あれは渡し守の 疾く帰れの警告の鈴音)
慌ててきみが沈む河水さえ ニコチンの脂で吐気がしそうだ

 「吐気がする」というのは、追悼のことばとはいえないだろう。ふつうはこんなふうなことばをつかわない。しかし、そういうことばでもつかわないと、高橋は「きみ」を死の国に追いやることができない。
 愛が憎しみを生む。ここにも嫉妬が隠れている。そのために、ことばに不思議な強さがある。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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