詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(26)

2017-09-07 10:17:55 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(26)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「メモへメモから--友人たちへ」は、友人たちの詩に触れている。あるいは「詩にならない詩」(6行目)について書いている。詩なのだが、詩になりきれていない。だからこそ、詩であるという部分に。
 「悲し(律詩)」に触れたとき、「出来事は遅れてあらわれる/ことばは遅れてあらわれるということについて書いたが、それは多くの人の「実感」なのだと思う。
 ということを書けば繰り返しになる。何度でも繰り返して書かなければならないのこともあるのだけれど、違うことを書いておきたい。

秋の虫たちは涸れて、編集後記のなかで、
鳴いています。 鈴虫……

 あれは、何という「同人雑誌」だったろうか。私も「編集後記」のなかで秋の虫が鳴いているという文章にであったことがある。最近だったと思う。その編集後記を書いた「友人」のことを藤井は思っているのかもしれないが。
 ただそれだけではなく、たぶん藤井は「編集後記」ということばを詩の中に書きたかったのだ。
 「確信」はないが、私の「直感」はそう言っている。
 ふつうは詩の中に入ってこないことば。「編集後記」なのだから、編集したあと、「奥付」の近くに置かれることばだ。しかも、「編集後記」というのは「内容」のことではなく、その「入れ物」のことである。
 うーん、「編集後記」か。美しいことばだなあ。音楽があるなあ、と私は思う。「意味」をとおりこして、「音楽」を感じてしまう。
 似たようなことばに、「物語」がある。藤井の詩には「物語」ということばがしばしば出てくる。

鳴く声ぞ する」。 すると物語から、
立ち上がる兵部卿宮。 私の魂、
私の魂。 草むらがどんなに悲しい
物語に濡れても、と思いながら

 ここでも「物語」は「意味/内容」というよりも「入れ物」である。「物語」のなかで別のことばが動いている。「編集後記」のなかで別のことばが動いているように。
 藤井は、こういう「ことば」同士の関係に強く動かされる性質を持っていると思う。
 こういう例もある。

「ぼくの地方では
せんそうのような有様で
じつにしずかに放射能がはびこっている
そしてその放射能さえ上書き更新されて
いつも新しい」と高坂さん。

 ここに出てくる「上書き更新」。高坂の書いている「内容」にももちろん反応しているが(それを問題にしているが)、藤井がこの数行を引用しているのは「内容」よりも、そこに「上書き更新」ということばがあるからだ、と私は感じる。「編集後記」と同じように「上書き更新」ということばを書きたかったのだ。

 これは、いったい、どういうことだろう。
 「編集後記」「物語」「上書き更新」。ここには、いったい何が隠れているのか。
 「名詞」ではなく、「動詞」に書き直してみると、わかることがある。
 「編集後記」は「編集を終わったあとで書き記す」、「物語」は「もの(ひと)が動いたあとで、その動き(こと)を語る」、「上書き更新する」とは「あることが書かれたあとで、さらに書く」。
 どのことばで、「あとで書く/語る」という動詞が隠れている。「あとで、ことばにする」という行為が隠れている。「あとで、書く(ことばにする)」ということのなかに、藤井は人間の「思想」をつかみとっているのだと思う。「あとで、書く(ことばにする)」という行為のなかにある人間性に直感的に触れて、そのことを書きたいと思っているのだろう。
 タイトルの「メモへメモから」というときの「メモ」は作品として整えられる前の「ことば」。そはれ「あとで、書く(ことばにする)」ということを含んでいる。
 あることが「ことば」になり、それがさらに語りなおされる。書き加えられる。それは「引き継がれる(語り継がれる)」ということでもある。
 そういう「動詞」を、藤井は読み取っているのかもしれない。

 詩は、こう閉じられる。

「無味無臭無色で降ってくる怒り」、五十嵐さん。
五月のブルガリアでは、タクシーの運転手が、
降りようとする私どもに小さな声で、
心配そうにひと言、「フ、ク、シ、マ」。

 語り継ぎ方はいろいろある。「小さな声」「心配そうなひと言」。それは「作品」にならずに消えていく「声」かもしれない。その「声」を引き継ぐ。
 あの運転手の声も、何かを引き継いでいる。

 この作品のあとに、藤井はいわゆる「あとがき」を書いているが、この詩そのものが「あとがき(編集後記)」のようにも読むことができる。



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藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)

2017-09-06 09:15:22 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「悲し(律詩)」に、

十九人を喪うわれら、何を愛(かなし)と言おう。

 という行がある。相模原障害者施設殺傷事件のことを書いているのだと思う。「十九人」という数字が事件を連想させる。
 書き出しは、

人のさがはここに行きつくのか、家族の心痛を知らず。
ことばよ、空しく駆け去って応えはどこにもない。

 とある。
 
 こういう大事件に、詩は(詩のことばは)どう向き合うことができるのか。
 八行という「律詩」の形式を借りて動いたことばのあとに、こう書かれている。

(反辞)
われらとは、現代に律詩とは。 立ち向かうとは。

 「現代に律詩とは」がつらい。現代詩があるのに「律詩」を借りてこなければならないのはなぜか。
 ことばは、いまここにあるものと、簡単には「立ち向かう」ことができない。いまここできていること、しかもそれがいままで体験したことのないことの場合は、ことばは動いてくれない。
 私は阪神大震災を描いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。読み方はいろいろできるだろうが、私は、ある出来事がほんとうの姿をみせるまでには時間がかかる。それがことばになって、ほんとうの姿をみせるのは、「出来事」に遅れるしかない、と読んだ。「ことばは遅れてあらわれる」と読んだ。ひとは、「いま/ここ」で起きたことを「過去」のことばのなかに探し出す。確実に生きていたことばに頼って、「いま/ここ」をとらえなおすしかない。すでにあったことばが「いま/ここ」に遅れてあらわれる。そのとき、はじめて、ひとは何が起きたのかわかる。何が起きたのか「わかる」ためには、「過去」をていねいに探るしかない。
 そう藤井が書いているわけではないが、私はそんなふうに感じた。

 何をしていいかわからなくなったとき、ことばがわからなくなったとき、ことばがこれまでどんなふうに動いてきたのか、それを探るしかないのである。「いま」を語ることばがみつからなくても、ことばは「過去」の中になかにしかない。
 古典から現代まで、文学のことばを往復する藤井の、ことばにかける祈りを感じる。
 この詩には、ことばへの「祈り」のようなものがある。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(24)

2017-09-05 09:49:19 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(24)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「転轍--希望の終電」は、

操車場を水田に、しないでくだ、さーい 田遊びを、中止し、まーす

 と始まる。「さーい」「まーす」は「紫式部さーん」の「さーん」と同じもの。「意味」ではなく「音」が動いている。「音」の中にこそ「意味」があるという藤井の「肉体の嗜好」をあらわしていると思う。「肉体の嗜好」は「頭の思考」よりも優先する。「嗜好」は「思考」にかわる。「脳(頭)」というのは、「頭(脳)」に都合のいいように、すべてを整える。「嗜好」にすぎないものを「思考」と言い張り、論理化する。

 で、それじゃあ、「さーい」「まーす」はどう論理化されているかというと。

あぜはぶっこわ、してよいでーす すさのーさん うまをさかはぎにし、まーす
なわしろにまきちらかした農薬のかわりに 馬からぶちのもようをはぎ取って
きれいに投げ入れてくだ、さーい 二枚の板をならべて、落書(らくしょ)に

 とか、

それでも、それでもあなたはいけにえがほしいですかあ むすめさんのうでが地面のしたから
突き出され、突き出され、ごこうしゆいあみだ、ごこうしゆいあみだ、かくすため
かいづかの貝いちまいいちまい かぞえるご詠歌、でーす お大師さまが戸板に乗せられ

 とか、なんでもかんでもがつながっていく。つなげていく。それを可能にするのが「音」である。響きである。
 途中に出てくる「ご詠歌」。私は、その実際を知らないので信者から叱られるかもしれないが、「ご詠歌」の「意味」を完全に理解し、歌っている人は少ないだろう。歌の内容よりも、歌うことによってひととつながるということの方が大事なのだろう。いっしょに歌えば、声が揃い、みんながひとつになる。ひとりで歌っているときでは、そのひとは声をとおしてそこにいないひととつながっている。ひとつになっている。そのためのものだろう。
 そういう「一体感」のためには、「音」が節とリズムをもっている方がいい。節とリズムを作るのは声であり、肉体(発声器官)である。
 「ご詠歌」を歌うひとは、声と音楽をとおして、「肉体」をひとつにする。「肉体」というのはけっしてひとつにならないもの。他人の肉体と私の肉体はいつでも別個のものだが、「声の肉体」が「ひとつ」になると、そこから錯覚が始まる。「肉体」がひとつになって、融合したという錯覚が生まれる。「同じ肉体を生きている」と錯覚する。このときの「同じ」は「肉体」を修飾しながら、同時に「生きている」という「動詞」の方へ重点を移していく。「同じように肉体をもつ人間(あるいは肉体というものを持つ同じ人間)」が「同じように生きていく」というように。
 この「同じ」をうみだすのが「さーい」「まーす」「さーん」というリズムなのだ。響きなのだ。

 でも、ほんとうに、そんなことを藤井は書いている?
 違うかもしれないね。
 「誤読だ」と怒るかもしれないなあ。
 でも、「誤読」というのは強引なもの。
 途中を端折って(すでに、ずいぶん端折っているのだが)、私はこう考えるのである。

のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し、まーす
どこへゆけばよいのだろう 繰り返す転轍に、ゆくえを知らない終電は
あぜの消失点を走りつづけているみたいですね

 「のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し」のことばの動き、「音」がうつくしいなあ。「か」の音の響きがおもしろいし、「あやめ池」は「菖蒲池」であると同時に「殺め池」でもあるんだろうなあ。
 「転轍」ということばを手がかりにすれば、「音」のなかで「意味」が切り替わる。方向転換する。同じことばを、だれかが「誤読」する。
 「誤読」こそが「他人」と「私」を「同じ人間」であるという「思想」を育てる。そして、「誤読」というのは「読む」という字をつかっているが、ことばの「発生」を考えると「誤聴(聞)」の方が基本なのだ。ことばは「文字」になるまえに「音」である。「音」が人を呼び寄せ、人をつなぎ、同時に「誤読」を育てる。
 「さーい」「まーす」と語調をそろえると、そのとき「誤読の音楽」がハーモニーになる。藤井のことばはいつでも「うた」なのだ。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(23)

2017-09-04 10:31:47 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「散水(さんすい)象」では高橋和巳(藤井はタカハシ・カズーミと書いている)の『邪宗門』を読んでいる。「八終局」という「思想」に触れて、こう書いている。

最後の飲酒、最後の歌唱、最後の舞踏、最後の誘惑、最後の旋風と、
そこまではわかるんです。 最後の石弾戦もわかります。
最後の散水象って、何だろうなあ。 象が鼻で水を撒いたのかもしれません。

 簡単に言うと、『邪宗門』のなかにわからないことばがあった。「散水象」って、何なの? わからないから「象が鼻で水を撒いた」って想像するのだけれど。
 私が注目したのは。
 「わかるんです」「わかります」「しれません」のことばの変化。動詞の変化。
 「わかる」とはどういうことか。「最後の飲酒」は最後に酒を飲むこと。「肉体」が参加している。酒を「飲む」。「肉体」が「動詞」になる。「最後の歌唱」は「歌う」。「最後の舞踏」は「おどる」。ここまでは「わかる」とは「肉体」で反芻できること。藤井は高橋の「肉体」と藤井の「肉体」を重ね、追体験できる。
 「最後の誘惑」はちょっととまどう。誰かを「誘惑する」。「飲酒」が「誘惑」かもしれない。そういう場合は「誘惑される」。「能動」と「受動」が混在する。それまでが「能動」なので「誘惑する」と読めばいいのかもしれない。
 「最後の旋風」は? 「旋風」は「肉体」では引き起こせない。「旋風」を見るということかなあ。「比喩」かもしれない。ここでは藤井の「肉体/動詞」で高橋の「肉体/動詞」を追認するということはむずかしい。「わかる」の性質が変わっている。「旋風」という「ことば」がわかる。「旋風」の意味するものがわかる。「頭」でわかる、に変わっている。
 「散水象」は、ちょっとわきに置いておいて。
 「石弾戦」は「石をぶつけ合って戦う」ということかなあ。これは「肉体」を動かすこともできる。「石を投げる(ぶつける)」。でも、実際に石を投げるという「肉体」を反芻するというよりも、「頭」で想像する部分の方が大きいだろうなあ。
 ここには「肉体でわかる」ことと、「頭でわかる」ことが混在している。「肉体でわかる」ことは「わかる」と明確に書いている。
 「散水象」は「わかる」とも「わからない」とも書いていない。かわりに「何だろうなあ」と書いている。この「何だろうなあ」を「動詞」にするとどうなるのだろうか。「考える」になると思う。「考える」は「肉体で考える」ということもあるにはあるが、一般的に「頭で考える」というだろうなあ。
 で、「頭」で考えたあと「しれません」ということばが出てくる。「わかりません」ではなく「しれません」。漢字をまじえていいのかどうかわからないが「知れません」と書き直してみる。
 「わかる」「知る」というふたつの動詞が出てきたことになる。そして「知る」には「考える」という動詞が関係している。
 (「象が鼻で水を撒いたのかもしれません」ではなく、「象が鼻で水を撒いたのかもわかりません」という言い方ができないわけではないだろうけれど、「しれません」の方が私には落ち着くように感じられる。「想像する」「空想する」、その結果は「頭」のなかに動いている。「知」に属する、と私は無意識に考えているのだろう。)
 「何だろうな」と「考える」。
 この「考える」という「動詞」は、どういうことをしているのだろうか。
 藤井の書いていることに則していうと、まず藤井は高橋の「考え(思想)」を取り戻そうとしている。高橋は死んでしまっていない。『邪宗門』は書かれてしまったあとである。その『邪宗門』のなかに書かれた「過去」を「いま」に呼び戻す。それが「考える」の最初にすること。
 そして「考える」とは、実は何が「可能か」(できるか)を「考える」ということである。何かを「可能にする」。
 前に逆戻りするが「最後の飲酒」は「飲酒を可能にする」ということであり、その「可能にする」を「肉体」で実践すると「酒を飲む」ということになる。だから、そこにも「頭」(思考)は動いているのだが、「肉体の動き」の方が「面倒くさくない」ので、私は「肉体で反芻する」と省略してしまう。私は安直へ流れる人間である。この「可能にする」は「欲望する」と言い換えると、もっと「肉体」に近づく。「飲むことを考え、それを可能にする」ではなく、簡単に「飲むことを欲望する」、つまり「飲みたい」という「欲望」のままに「肉体」を動かす。ほら、また「知」を遠ざけ、欲望に身を任せてしまうだらしない人間になってしまった。

 ちょっと態勢を立て直して。
 「考える」ことが「可能にする」ということなら。
 「散水象」ということばから何が可能か。「象」は藤井の「肉体」ではないが、そこにある。その象に何をさせることができるか。「散水」。水を撒く。どうやって? 象なら鼻をつかってか。
 なんだか、よくわからない。
 藤井も「何だろうな」と考え始めたが、わからないまま、

カズーミ「最後の愛による最後の石弾戦は、石が華に変わるとき、

 と書き続けられる。括弧があるから、「最後の愛による……」からは「引用」なのかもしれない。それが最後までつづいている。途中を省略して、最後の二行。

それが報道されずには、知られぬまま終るならば、ここから消されるならば、
天上は最後の散水で世界を大きな水槽にし終えることだろう、と知れ」。

 ここに「知られぬまま」「知れ」と「知る」という動詞が出てくる。「わかる」ではなく「知る」。
 藤井は「わかる」から出発して「知る」という動詞へ向かっている。その変化がこの詩の中に書かれていることになるのだが……。
 「知る」という動詞について、この二行からどんなことを言えるだろうか。少し考えてみる。
 「終るならば」「消されるならば」。「……ならば」というのは「仮定」であり、そこでは「可能性」が考えられている。「考える」というのは「可能性」を考えることと、ここでも言いなおすことができる。「終えることだろう」の「だろう」は、やはり「仮定」であり、それは「可能性」のひとつである。
 「考える」ということは「可能性を知る」ということなのかもしれない。

 と、書いた瞬間、私の思考は、突然、飛躍する。

 「考える」と「可能性を知る」とのあいだには、何があるのか。「ことば」がある。「ことば」で「考える」のだと気づく。
 詩にもどると、「飲酒」「歌唱」というのも「ことば」。「散水象」というのも「ことば」。「ことば」をどう動かせるか。それを「知る」には「過去」にことばがどう動いているか、それを「知る」必要がある。高橋は、ことばをどう動かしていたか。藤井は、それを探っているのである。
 藤井は、シェークスピアではないが「ことば、ことば、ことば」の人である。
 「ことば」に触れて、ことばの「可能性」を探る。どこまでも過去(文献)を耕し、過去にあったものを呼び戻し、育てる。「遠い過去」だけではなく、高橋というような、わりと「近い過去」をも懸命に耕す。
 「わかる」ものだけを引っぱりだすのではなく、わからないもの、「何だろうな」としか言えないものをこそ、引っ張りだし、考える。ことばでつなぎ、動かそうとする。「知ろう」とする。そういう欲望で動いているように見える。

 この詩に何が書いてあるのか。私にはわからない。けれど、藤井はいつでも「ことば」といっしょに動いていると言えると思う。



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藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)

2017-09-03 08:08:04 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「この世への施肥」には宮沢賢治が描かれている。宮沢賢治を読んだときの藤井が書かれている、といった方がいいのか。

「師父よ もしもそのことが
口耳の学をわずかに修め
鳥のごとくに軽跳な
わたくしに関することでありますならば」……(野の師父)
と、宮沢賢治はここまで書いて、
「軽跳」という語でよかったか、
誤字のような気がするし、と
でも軽跳でゆきましょうや はは と
ふりむいてわらう。

 「誤字のような気もするし」と宮沢賢治が実際に思ったわけではない。藤井が「軽佻」の誤字なのではないかと思った。でも、「軽跳」でもいいか、と思いなおしたということなのだろう。このとき、宮沢賢治と藤井が重なる。その重なりへ、私も重なって行く。
 「軽跳」を「誤字」と思うことが「誤読」なのか、「軽跳」が「誤字」ではないと思うことが「誤読」なのか、とてもむずかしい。いいかえると、宮沢賢治は「軽佻」ということばを知っているけれどあえて「軽跳」と書き、そうすることで何らかの意味を込めたのかもしれない。もし、そうだとすると、それはどういう意味か。それを藤井(読者)に考えろと迫っているのか。
 なんだか、ごちゃごちゃしてくる。
 それがおもしろいと同時に、「軽跳」の直前にある「口耳の学」ということばに私の肉体はざわめく。聞きかじりの、知ったかぶり。聞いたことを、よくわからないまま口にすることをいうのだと思うけれど。
 で、これが「軽佻(軽跳)」とも重なる。「軽佻」は「口耳の学」の言い直し。いや「口耳の学」を言いなおしたものが「軽佻」なのだが。
 「意味」よりも、私は「口耳の学」ということば(表現)に私の「口」「耳」が興奮する。「口」は「ことば(声)」を発する器官。「耳」は「ことば(声)」を聞く器官。「けいちょう」という「ことば(音)」を「耳」で聞き、「口」で発する。このとき「軽佻」と「軽跳」の区別はない。区別がないから、それが混同して「軽佻」が「軽跳」になってしまう。「目」をつかって、「けいちょう」を「文字」としてつかみとっていれば、間違えることはないのだが。
 もちろん逆もある。人間は、いろいろな間違え方をする。安倍は「云々」を「でんでん」と読んだ。「目」でつかみとっていることと「耳/口」でつかみとっていることが違っている。
 どちらがどうとも言えないのだけれど。
 でも、言いたい。
 宮沢賢治は「ことば」をまず「耳」でつかみとる人間なのだ。そして、「声」にする人間なのだ。藤井もそうだと思う。「目」でことばと「意味」をつかみとる人間ならば「軽跳」とは書かないだろう。「目」で「軽佻」を読んだことがあるだろうけれど、「目」で確認しながらも「けいちょう」という音の方が「肉体」にしみついている。「ことば」は「音」なのだ。
 何度か書いてきたことだが、藤井の「ことば」も、まず「音」が出発点だ。「音」に反応して「ことば」を動かしている。
 「音」で「ことば」に反応する肉体(思想)が、「軽跳」ということばに触れて、思わず反応してしまったのだと思う。そのときの肉体の動きを感じてしまう。

 詩は、こうつづいている。

でも軽跳でゆきましょうや はは と
ふりむいてわらう。 振り返りながら、
「そのこと」とはなんでしょう、賢治さん、
作物への影響 二千の施肥の設計、
そうね、施肥。 「風のことば」をのどにつぶやく。

どこへゆくの、賢治。

 「意味」、あるいは「文意」といえばいいのか、そういうものを探っている。
 賢治がしていることは、作物にほどこす肥やし、施肥のように、「この世への」施肥なのである。賢治の文学は人間を育てる肥やしである。世間への肥やしになろうとしている、と賢治の生き方をとらえ、藤井は肯定している。
 でも、こんなふうに読むと「道徳」になってしまう。
 書きながら「嘘」をでっちあげている気になってしまう。
 あ、賢治の生き方や文学を否定するつもりはないのだけれど。
 私がこの部分でおもしろいと思ったのは、いま書いたような「意味」の部分ではない。

「風のことば」をのどにつぶやく。

 ここに「のど」ということばが出てくる。「肉体」が出てくる。「のど」は「口」と同じようにことば(声)を発する器官。「口」よりも「肉体」の「奥」に属するね。ことばを、「のど」でとらえ直している、というところに藤井を感じる。
 こういう部分が、私は好きなのだ。

 さらに。
 最終行。「どこへゆくの、賢治。」は、「閉館」の最終行「きみとどこにいるのか、いま。」を思い起こさせる。とても似ている。一行空きのあと、ぽつんと置かれた一行一連。
 「きみ」を私は藤井少年と読んだ。しかし「この世の施肥」では「賢治」と書かれているから、同じ調子ならば「きみ」は「中城ふみ子」かもしれない。あるいは逆に「賢治」は「これからの藤井(少年ではない藤井)」かもしれない。
 「結論」を出さずに、どっちなんだろうなあ、と思うのが楽しい。

「きみ」は藤井少年でよかったのか、
誤読のような気がするし(中城ふみ子のような気がするし)、と
でも「藤井少年」でゆきましょうや はは と
ふりむいて(振り返って)私はわらう。

 という気分。だからこの詩の最終行は、私の「誤読」では、

どこへゆくの、貞和。

 になる。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(21)

2017-09-02 11:19:21 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(21)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「閉館」では藤井少年(!)は中城ふみ子歌集『乳房喪失』を読んでいる。少年は「乳房」だけでも勃起する。「喪失」には中城の思いがこめられているだろうが、孤独な少年は「誤読」の方を好む。歌人が書いていることよりも、自分が読みたいものを読み取る。

あたりの書架がまぶしかったから、少年は、
中城ふみ子歌集を盗み出した。
乳房を喪失する少年の図書館。
ぼくらは自由の女神にさよならする。 「ノミ、
すら、ダニ、さへ、ばかり、づつ、ながら」。
ああ、文法とも定型詩とも「さよなら」しよう。

 中城は乳房と「さよなら」したのだろう。藤井は中城の感情とも「さよなら」し、自分の世界へ突っ走る。

黒雲が覆う自由の女神、
かえらないだろう、ふたたびは、
ぼくらの図書館に。 ノミ、
カエル、ヘビ、ダニが、
詩行から詩行へ跳躍する、
ぴょいぴょいの歌。

 最初に引用した「ノミ」「ダニ」は昆虫ではなく、「助詞」である。歌の中にでてきたことば。「すら」「さへ」「ながら」と少年でもつかうが「……だに」というような言い方はしないだろうなあ。歌集のなかで見つけたのだ。「だに」だけなら違ったことも思うだろうけれど「のみ」も出てくるので、知っている昆虫の「ノミ、ダニ」へ脱線していく。「誤読」していく。つまり「文法」と「さよなら」をする。短歌(定型詩)とも「さよなら」し、勝手なことを思う。
 それが暴走し、「かえらない(乳房)」ということばに出会って「かえる→カエル」という具合に逸脱していく。「帰る、返る」ということばは知っているが「ノミ、ダニ」の影響で「カエル」を連想する。それがさらに、たぶん、歌集には書かれてもいない「ヘビ」をも呼び寄せる。
 こういうことは短歌の「鑑賞(批評)」とは、まったく関係がない。むしろ、そういう「読み方」をすれば「学校文法(教育)」では拒否される。
 でも、少年は、そういうことをしてしまう。
 これはなぜだろう。
 こんなことは考えても仕方かないことかもしれない。考えても文学の鑑賞、批評には無関係なことかもしれない。
 でも、そこに何か「まぶしい」ものがないだろうか。いきいきとしたものがないだろうか。

 助詞の「のみ」「だに」を、昆虫の「ノミ、ダニ」と読む。それは、ことばの「意味」からの解放である。「哲学」からの解放と呼ぶこともできるだろう。
 「文法」には「哲学」がある。ことばの動かし方を「整える」力がある。文法に従うと、ことばが正確に「つたわりやすい」。「哲学」というよりも「経済学」かもしれない。
 「意味」からの解放は、別のことばで言えば「むだ」。「のみ、だに」を昆虫と読む(理解する)というのは、何の役にも立たない。「むだ」は「経済学」に反する。
 この「むだ」を拒絶する「経済/資本主義」も、ひろく言えば「哲学」。「人間の行動の規範」が「哲学」なのだから、「文法」はことばの「経済学(哲学)」と言える。
 「文法」とは「哲学」である。
 「文法」とはことばの動かし方を支配する力、「動詞」であると定義することもできる。「文法」というのは「名詞」だが、実際には動き回るもの。そこにあるものではなく、ことばのなかを動きまわり、ことばを整えるのが「文法」である。
 そして「文法」によって整えられたものが「意味」ということになる。
 その「文法」に支配されていることばを別な視点で見つめなおす、「文法支配」を拒絶する。それは、まったく「むだ」なことなのなだが、でも、この「むだ」が、なぜか、おもしろい。
 なぜだろうか。
 「ことば」を「ことば」以前に引き戻す力が、そのとききらめくのだと思う。「まぶしく」光るのだと思う。
 「ことば」は「意味」である前に「音」であった。そのことを思い出させてくれる。言いたいことがあるのに「ことば」にならない。それでも、大声を出す。そのときの「肉体」の解放感。「むだ」な解放感かもしれないけれど、「声」の衝動が、ある。

 あ、また余分なことを書きすぎたなあ。

 藤井の詩には、「声」がある。「音」の喜びがある。「文字」(整えられた意味)になる前の「声(音)」の自然がある。
 人間はたぶん「文法(ことばの哲学)」を生き続けるうちに、この自然から遠ざかり、人工的に(経済的に)なっていくのだと思うけれど、それから逸脱する力を藤井の「音」から私は感じ取る。
 聞いていて「楽しい」と感じさせるものがある。「音」にかえろうとする欲望がある。
 藤井の「声」を聞いたこともないし、詩を読むときも私は音読はしない。黙読はしないのだけれど、なぜか「音(音楽)」を感じる。
 助詞の「のみ、だに」を昆虫の「ノミ、ダニ」と言い換えているだけの(?)詩なのだけれど。

閉館の時刻。 光がとどかない館内に、
短詩をまた送って。

きみはどこにいるのか、いま。

 この最後の「きみ」は「藤井少年」だろう。
 「意味(哲学/文法)」を蹴散らかして「音」に遊んだあのときの喜び。その喜びは、しかし、消えてはいない。「どこにいるのか」と問うとき、藤井にはその「存在」をおぼえている。つまり「存在」がわかっている。
 詩をとおして、「少年」と交流している。それが「声」の「音楽」となって聞こえてくる。

神の子犬
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(20)

2017-09-01 09:44:22 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(20)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「揺籃」は四つの部分(章?)から成り立っている。どれも「現代語」というわけではない。「文語」らしいもの、「文語文体」が含まれている。含まれている、とういよりも文語文なのかもしれない。

  (Ⅲ)山を出でて
謂はば芸術とは、山を出でて「樵夫(きこり)山を見ず」の、その樵夫にして、暗き道にぞ、而(しか)も山のことを語れば、たどりこし、何かと面白く語れることにて、いまひとたびの「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふことが、逢ふことにより、謂はば生活である。(和泉式部さん、中也さん)

 この詩の「要約」は、

謂はば芸術とは、……謂はば生活である。

 になる。
「要約」のあいだ(?)にあることは、「芸術」と「生活」をつなぐ「比喩」である。言い直しである。「比喩」といわずに「経路」と言えばいいのかもしれない。
 ここで私が注目したのは読点「、」である。「謂はば芸術とは、……謂はば生活である。」のあいだに、いくつもの「、」がある。息継ぎである。この「、」が「比喩(経路)」の分岐点といえばいいのか、一息継ぎながら次のことばへ進む。地図で言えば「一区画」ごとに確認しながら進む感じ。「一区画」のそれぞれは「直線」であり、まっすぐ見とおせる。つまり、「一区画」そのものは迷いようがない。分岐点へきて、曲がるか、真っ直ぐに進むかを考えながら歩く感じ。
 ことばに則していうと。
 「謂はば芸術とは」はテーマの提示。何が書いてあるか、わかる。
 「「山を出でて「樵夫(きこり)山を見ず」の、」には、「芸術とは」を受ける「述語」が登場しない。だから「横道」に曲がった感じがする。「道」をかえたのだ。変えたのだけれど、そこに書いてあること自体はわかる。「山を出れば、樵夫は山を見ない」か、あるいは樵夫というものは木を見るけれど山というものは見ないということかあいまいだが(どっちともとれるが)、そこには樵夫と山とのことが書かれていることがわかる。
 「その樵夫にして、」は、視点が山から樵夫に動いたことを明らかにしている。これからは樵夫のことが書かれるのだと、わかる。
 「暗き道にぞ、」で、また、横道に曲がった。樵夫が山の中で歩く日の差さない暗い道かもしれない。よくわからないが、道が暗い、暗い道そのものは、わかる。
 「而(しか)も山のことを語れば、」は、あ、ここからは樵夫が山のことを語るのだなあ、とわかる。分岐点を通過したことがわかる。継ぎに何が始まるか予測ができる。
 という具合に、進んでいく。
 このときの「、」の区切りが、とても読みやすい。
 藤井が何を書こうとしているのか私には即断できないが、藤井はわかって書いているという「安心感」をよびおこす読点「、」である。
 古文(昔の書き方)には読点「、」も句点「。」もない。だから、どこで区切ってよんでいいのかわからないが、藤井の文には句読点があるので、一区切り一区切りがわかる。藤井が「一区切り」ずつ確認してことばを動かしていることがわかり、私は安心して(?)ついていくことができる。
 このときの「わかり方」というのは、「子供のときのことばの体験」に似ている。「全体の論理」はわからないが、瞬間瞬間はわかる。
 あ、少し、ずれてしまったか。
 この藤井の読点「、」の区切りが「わかりやすい」というのは、読みやすいということ。「ことばのかたまり」がつかみやすい。
 ことばには「意味単位」と「リズム単位」がある。それが藤井の場合、一致している。別の「意味単位」に動いていくとき、その「分岐点」に読点「、」を必ず入れる。息継ぎをする。
 そこに「肉体」を感じる。
 で、私は安心する。
 子供が親のあとについて歩くとき、まわりを見ていない。道を見ていない。親の「肉体」だけを見ている。そうやってついていくときの、どこへ行くのかわからないけれど、一緒にいると感じるときの「安心」に似ているかなあ。
 最近の若い人の「文体」には、この「安心感」がない。「リズム」と「意味」の「単位」が一致する感じ、この人は「道」を知っている(文体が確立されている)という感じがないときが多い。

 また、ずれてしまったか。
 それとも、ずれずに書いているか、わからなくなるなあ。

 最初にもどって、別なことを書こう。

謂はば芸術とは、……謂はば生活である。

 これがこの「文(句点「。」で区切られた単位)」の「要約」になる。そのあいだにあることは、「芸術」と「生活」をつなぐ「比喩」である。「比喩」といわずに「経路」と言えばいいのかもしれないけれど、私は「比喩」というこことばの方を好む。「比喩」の方が「意味領域」が広く、いろいろのことを持ち込めるからである。
 藤井は「芸術は」と言い始めて、それを説明するのに「樵夫」を持ち出してくる。これは「論理」をすでに「比喩化」している。「芸術」と「樵夫」は同じものではない。「芸術」を「絵画」とか「音楽」「文学」と言いなおしたときは、「芸術」の範疇を限定し、論理の動きを整えようとしている感じがつたわるが、「芸術」を語るのに「樵夫」を出してきては、視線が拡散される。「論理」がはぐらかされる。
 もちろん「樵夫」を出してくるのは、「絵画/音楽/文学」を引き合いに出すことでは語れないものがあるからそうするのだが、「芸術」と認められてすでに存在するもの(いま、そこにある絵画や文学など)を利用せず、「芸術」には含まれないものを借りてきて「芸術」を語ろうとするから、それを「比喩」という。(比喩は、どんなときでも、対象そのものではないものを借りてきて、対象を代弁することである。)
 で、「樵夫」の何を、藤井は「比喩」にするのか。「語る」という動詞がある。「語る」こと、そのことばの動きに「芸術」を見ている。
 そのキーポイントが、

「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふ

 部分。
 ここには『山』(名辞)という「註釈」がついている。
 ここが、わっと叫び声をあげたいくらいに面白い。
 一方に「山」という概念がある。でも樵夫は「概念」を語らない。「あの山」「この山」という具体的なものを語る。
 これを、藤井の書いている「一文」ぜんたいにあてはめると、

あれが「芸術(あるいは詩)」(名辞)で、あの語り口(文章)はこの語り口(文章)より、どのうこうの、

 ということになるかもしれない。
 「概念」なんか問題にしても何も語ったことにならない。具体的な「山(作品)」があるだけである。
 そして、その「具体的」なことのなかには、

たどりこし、

 が反映されている。そのひとが生きてきたことが反映されている。そこが面白いのである。
 こういう「具体的な語り」に触れることを、

逢ふ

 という動詞で言いなおしている。単に「語り」を聴くのではなく、それを語る人に「逢う」。会って、そのひとの暮らしをしっかりとわかる。共感する。
 そういうことが起きたなら、それは「芸術」を味わったことになる。「芸術」とは「生活(暮らし)」の具体的な「細部」を知ることだ、生活の具体的な部分に「芸術」がある、ということだ。

 こんなふうに、「比喩(経路)」を別なことばで言いなおすことができるかもしれない。
 でも、これは余分なことだね。
 「意味」なんて、本(他人のことば)を読む動機にならない。
 私は、いま書いた「意味(ストーリー)」よりも、藤井の「息継ぎ」を信じている。ことばといっしょに動いている「肉体」を信じている。「息継ぎ」を信じているから、それにあわて、「誤読」を拡大することができる。これが楽しい。
 「息継ぎ」が合わないと、ついていくことができない。私のついていき方が「正しい」か「間違っている」かは、この際、問題ではない。
 私の「肉体」がついていけるかどうか、それが私にとっての問題である。
 「間違っている」としても、それは私の問題であって、だれに迷惑をかけるわけでもいない。
 「芸術(文学)」の読み方なんか、間違っていようがどうしようが、他人には関係ない。作者にも関係ない。私はそう思って読んでいるし、感想も書いている。

美しい小弓を持って
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(19)

2017-08-31 10:22:43 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(19)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「紫の群生」には紫式部が出てくる。いや、名前が出てくるだけで、実際は出て来ないのかも。こう始まる。

紫式部さーん、
わたしはあんたに仕える約束を、
ときにほったらかして、
ちがう哲学、
ちがう物語で、
生のすきまを重ねる毎日だ。

 紫式部の研究(源氏物語の研究?)が藤井の専門なのか。でもときどき横道にそれてて違うことをしている。たとえば、こうやって詩を書くこととか。まあ、そういう「自画像」を書いているのだと思う。
 この詩(引用部分)で私が注目するのは二か所。ひとつは「紫式部さーん、」という書き出し。「紫式部さん」ではなく「さーん」と音引きが書かれている。そうすると、そこから「声」が聞こえてくる。藤井は「声(音)」を大切にしている。「声(音)」のなかにこそ「意味」があると感じているのかもしれない。
 もう一か所は「ほったらかして」。ここも「意味」よりも「音(声)」の方が前面に出てくる。口語だね。ひとの声が聞こえてきそうなことばだ。
 と、書いて、私は不安になる。
 「ほったらかす」は、正しい日本語(?)というか、文章語でいうとどうなるのだろうか。思いつかない。「放置する」ということばが最初に頭に浮かんだが、「放置する」はどんなにがんばっても「ほったらかす」という「音(声)」にはならないなあ。
 いちばん音が近いのは「ほうっておく」かなあ。でも、これでは「らかす」が結びつかない。「らかす」の方に重点を置いて知っていることばを探すと「散らかす」。うん、「ほっ散らかす」ということばがあるな。「ほっ」と「らかす」には、何か手を「はなす」(放す=放る)と、それをそのままにしておく。「そのままにしておく」が「ら+かす」? 「ら」は五段活用? でも、「放る」は五段活用じゃないだろうなあ。
 「たる」は何だろう。「……てある」がつまったもの? 「してある」。ほうりだしてある、放置してある、散らかしてある。「ある」は「あり」で、「ら変」というのだったっけ、「あら」という活用があったなあ。「して+あら」は「たら」か。そうかもしれないなあ。
 で、こういうことは、まあ、どうでもよくて。
 いや、いちばん関係があるのかなあ。
 「して+あり」が「たり」で、「して+あら」が「たら」だとしたら、ここに「口語」特有の「短縮」がある。「ほうる」を「ほっ」というのも「口語」の「短縮」だね。文法用語があったなあ。促音とか撥音とか拗音とか、音便とか……忘れてしまったが、ことばを「肉体」のうごきがめんどうくさがって短縮してしまう。いいやすいようにしてしまう。この瞬間「音(ことば)」が「肉体」と深く結びつく。「意味」よりも「肉体」の方が優先される。
 ここに、私は何かを感じる。「生きている」感じ。「頭」ではなく、「肉体」が動いていて、それが私に響いてくる感じ。
 あ、まだ「かす」が残っているか。
 「かす」は「させる(強制)」という感じかなあ。そうすると「かす」は「課す」なのか。そのままを「強制する」。うーん、違うけれど、新たに何かする(動詞)を禁止する、禁止の強制(?)なのかもしれない。いや、絶対に違うぞ。なぜ違うと断言できるかというと、このことを考えていたとき、私の「肉体」がぜんぜん動かなかったからだ。「頭」だけが動いていた。こういうのは、全体に間違い。
 「かす」の「か」ではなく「す」に目を向けるべきなんだろうなあ。「す」は「する」。「ほったらかす」は「ほうりだしたままにしてある」ということを「する」のだ。「ほうりだしたままにしてある」でも「ほうりだしたままにする」でもなく、「ほうりだしたままにしてある、ということをする」。
 そのとき「か」は? うーん、わからないが、「春雨」ということばは「はるあめ」ではなく「はるさめ」。ことばの調子を整える(?)ために、本来存在しなかった音がまぎれ込んでいる。その方がいいやすい。そういう何かなのではないだろうか。「頭」ではなく、「肉体(舌や口の動き)」が要求する何か。
 あ、こんなことは、詩の「鑑賞」とは何の関係もないことか。
 そうかもしれないが、私は気になる。

 「ほったらかす」はきちんとした日本語かどうか私は知らないが、「口語」という印象が強い。たぶん、「文章語」にはなじまないだろうなあ。少なくとも役所やなんかがつくっている文章には出てこないだろうなあ、という感じがする。
 口語、俗語というものではないにしろ、どうしても「声」が聞こえてくる。そして「肉体」が見える。「肉体」で共有するものだと思う。「頭」で処理したものではなく、「肉体」が先に動いて、納得(?)している何かをあらわすと思う。この方がいいやすい。あるいは聞きやすい。つまり「わかりやすい」。
 そして、この「声」(聞こえる音)というのが、藤井の詩を動かしていると、私はいつも感じる。
 「紫式部さーん」や「あんた」にも、「意味」以上に「口語(声)」を感じる。藤井が詩を書くとき(あるいは推敲するとき)音読するかどうかは知らないが、ことばを「声」にしなくても「肉耳」は「声(音)」を聞いていると思う。文字を黙読するだけで、藤井の「肉耳」には「音」が聞こえるのだと思う。
 藤井がおぼえている「音」が「声」になって「肉体」のなかで動いている。
 「耳」で聞くというよりも、「舌」や「喉」の動き(あるいは手足も動いているかもしれない)が、無意識に「耳」につながって、「音」になるか。「舌」「喉」など発生器官が「ひとつ」になって「肉耳」になっている。そういうことを感じる。
 こういう「肉耳」の感じが、私は好き。

 「ほったらかす」という「音」のなかにある、解放された感じ。「あ」の音が多くて、とても明るい。何もかもが自由な感じは、ものを「ほったらかした」ときの解放感に似ている。「放置する」では解放感がない。「ほったらかす」というとき、手も足も、肉体全体が束縛から解放されるような喜びがある。
 あ、こんなことは藤井は書いていないし、この詩のテーマ(意味)でもないかもしれない。
 けれど、私は「意味」とか、その作品を「文学史(文学見取り図)」のなかで位置づけるために読んでいるのではないので、こういう感想になるのだ。
 「紫式部さーん」「ほったらかして」という「音」が、ほかのことばの動きにも影響している。それが楽しい。

春楡の木
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(18)

2017-08-30 09:33:39 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(18)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「ひとりして」には岸上大作の歌が二首引用されている。

「美化されて
長き喪の列訣別の
歌ひとりしてきかねばならぬ」(池上大作)

「巧妙に
仕組まれる場面おもわせて
一つの死のため首たれている」(同)

 詩の中に樺美智子と佐藤泰志だが登場する。岸上は樺美智子を追悼しているのだが、藤井は樺美智子、佐藤泰志、岸上大作の三人のことを思い、書いている。
 なぜ三人を書いているのか。理由が最後に書かれている。

あなたはだれか、歌人たち、
そして泰志。 逝ったひとを呼ぶ現代詩があってもよかろう。

 三人を呼び寄せる、思い起こす現代詩を書きたい。だから、書いた。
 でも、なぜ、この三人なのか。
 岸上の歌の中にある「ひとり」「一つ」ということばが手がかりになるかもしれない。樺美智子は群衆のなかで死んだ。岸上と佐藤は自殺した。死ぬときの状況を考えると「ひとり」「一つ」ということばは「共通項」といえないかもしれない。
 けれど、

ひとりしてきかねばならぬ

 というときの「ひとり」は「葬列(複数の人)」のなかにいて、なおかつ「自分ひとり」という思いがある。「複数の中にいて、なおひとり」というのは樺美智子の状況に似ている。
 そして、「ひとりしてきかねばならぬ」は、たとえ複数の人がいても「私は一人」という強い自覚と、また思い出す相手は「ひとり」という意識がある。樺の「ひとり」の声をきかねばならない。「一対一」という関係で聞かねばならないと「誤読」することもできる。
 藤井は、そのときの岸上の態度と藤井を重ね合わせているのだろう。
 岸上を思う、樺を思う、佐藤を思う。そのとき「一対一」になる。藤井自身を、いま藤井の周囲にいる人から切り離し、孤絶して、「一対一」になる。「一対一」になって故人を呼び出す。対話する。

 また、この作品には「要約」という形で、佐藤の「読書感想ノート」が引用されている。

樺美智子を
生きのこったにんげの
身勝手な美化においてはならないと。

祈る姿を人に見せない
心遣いをたいせつに秘めて
歌人は逝ったと。

 連の最後の「と」は「読書感想ノート」に、「……と書いている」をあらわしている。「書いている」が省略されたものだろう。
 佐藤は「ひとり」で樺のことを思い、岸のことを思い、二人を呼び出して「読書感想ノート」を書いた。
 その姿に藤井は自分自身を重ねている。
 どうして、藤井は佐藤に自分の姿を重ねたのか。どのことばに藤井を重ねたのか。

忘れるな、すべての美化ははじき返されるしかないと
佐藤泰志は二十一歳の小説家志望だ、その時。
読書感想ノートのなかで。

 「忘れるな、すべての美化ははじき返されるしかないと」も「読書感想ノートのなかで」書いているということだろう。
 この「すべての美化ははじき返される」は、岸上の書いた「ひとり」「一つ」に通じると思う。岸上の歌のなかの「美化」と重ねながら、そう思う。
 「美化」の「化」は「変化」である。それは「他との関係」のなかでおきる。他の何かと比較し(あるいは他の何かを美を支えるものとして存在させることで)、「美」が「美」になる。「美化」がそういうものであるなら、それは他の存在によって「醜化」ということも起きうる。あるときは「美」とたたえられ、あるときは「醜」と否定されるということが起きる。
 こういうことに藤井は異議を唱えているのだと思う。
 佐藤のことばの中に、そして岸上の歌の中に、そういう異議を感じ取り、それに共感しているのだと思う。
 だれを、何を、どうとらえるか。それは「一対一」の関係のなかでおこなわれるべきことなのである。自分を「集団」のなかに組み入れ、「集団」として何か(誰か)を「美化」するということはしない。「美」であろうと、「醜」であろうと、それは「一対一」の関係のなかで、自分「ひとり」で判断する。決定する。
 佐藤が、はたしてそういうことを書いているかどうかわからないが、藤井の詩を読みながら、私はそう感じた。佐藤の中にいる「ひとり」を感じ取り、共感している藤井がここに書かれていると思う。

 「美化」の否定は、岸上の歌と佐藤の「読書感想ノート」に共通する意識であり、藤井は、その意識に共感しているということがいえる。佐藤のノートに「ひとり/一つ」ということばがあるかどうかわからないが、佐藤の孤独に藤井は「ひとり/一つ」を感じているのだと思う。岸上と佐藤をつなぐ「自殺(ひとりで死ぬ)」という行為が「ひとり/一つ」と重なるかもしれない。

 とりとめもなく書いてしまったが、「ひとり/一つ」と「美化の否定」がこの詩のなかを動いている。藤井自身が、それに身を寄せている。身を寄せながら、そうやって生きた岸上と佐藤を詩の中に呼び出している。

 でも、こういう感想は「意味」に傾きすぎているかもしれないなあ。こんな感想を書いてはいけないのかもしれないなあ、という気がする。

水素よ、炉心露出の詩: 三月十一日のために
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(17)

2017-08-29 09:38:02 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(17)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「透明な おめん」は中原中也の詩について書いている。未刊詩篇の「泣く心」のなかに「透明なかめん」が出てくる、と藤井は書いている。
 中原中也は、私は関心がない。何度か読もうとしたが途中で挫折する。「音」がどうも合わない。そこに「音」があるのだろうが、私の耳には聞こえない。「透明なおめん(かめん)」というよりも「透明な音」である。
 藤井は、その「音」をどう聞いたのだろうか。

作ってみるとどうでしょう、透明なおめんを。
みんな、悲しい表情を隠しても、
その隠した表情が透き通るのか、
おめんが悲しいのか。

 「透明なおめん」を中也の詩と置き換えて読む。
 中也の詩は「悲しい表情」を隠している。けれど「詩が透明」なので、隠しているはずの「悲しさ」が見えてしまう。でも、そうではなくて、詩自体が悲しいのかもしれない。表情はしっかり隠されているのかもしれない。
 詩(表現)と感情が「悲しい」という「音」で一つになっている。
 どの詩からも「悲しい」という「音」が聞こえてくる。

 そう読み替えると、うーん、なるほど。よくわかる。
 でも、この「わかる」というときの「わかる」は「論理」がわかるということ。
 これが、どうも妙に気に食わない。
 ここには「音(声)」がない。「耳(聴覚)」がない。
 これは「姿」の論理である。「視覚(目)」の論理である。
 これは、ほんとうに中也なのかな?

 藤井は、どうやって、この中也をつかみ取ったのか。
 この連にたどりつく前、二連目にこういう行がある。中也が幼稚園に「透明なおめん」(正確には中也が透明になるおめん)を忘れて帰った。そのため、先生が怒っている。

置いて帰ったおめんが、
泣いていた。 ひとばんじゅう、
つくえのした、抽斗(ひきだし)のなかで。
透明だから、見えないのさ、
だれにも。 中也にだけは、
見えたんだって。

 ここにも「見る」という動詞がある。
 一方に「泣く」という動詞がある。「泣く」は「聞く」でもある。「聞こえる」でも「姿が見えない」。この「泣く」から「聞こえる」への順序を逆にして、「聞こえる」から「見える」という「肉体」の運動の変化をしてしまうのが中也であって、ほかのひとにはできない。
 そういうことが書かれていると思う。
 先生は「聞こえる」、しかし「見えない」。そのために困ってしまった。それで怒ったということ。

 で、ここから「聞こえる」を「声」ではなく、「見える表情」に「比喩」化することで、聴覚と視覚の問題を藤井は乗り越えようとしている。
 中也の詩には「泣き声(→悲しい表情)」が隠れている。隠しても隠しても見えてしまう悲しさ(表情)がある。
 そう言ったあとで、その「悲しい表情」を「声」という比喩にもう一度転換する。
 「悲しい表情」というのは実は「泣き声」。
 「声」というのは目をつむっていても聞こえるね。「見えなくても」存在していることがわかる。「見えなくても」というのは「隠している」につながる。「隠れている」にもつながる。「隠れて、泣いている」。だから、「見えない」。
 中也は隠れて泣いている。泣いている自分を隠している。
 「隠れる/隠す」が「おめん」である。「おめん」の下には「悲しい声」が隠れている。

 書いていて混乱してしまうが、「視覚」と「聴覚」、目と耳の擦れ違い、いれかわりがあり、そこに中也の詩のポイントがあるということなのだろうけれど。

 私は、この「論理」はうさんくさいと思ってしまう。妙に説得力があるところが「うさんくさい」。

 藤井さん、中也の詩が好きなの? 無理に「論理化」していない?

 そう問いたい気持ちになってくる。
 私は最初に書いたように、中也の書いている「音」が聞こえない。そこに「音」はあるのだろうけれど、それは私の知っている「音」ではない。
 中也が好きという人は、たぶん、その「音」が好きなのだと思う。その「音」を「視覚」で明るみに出すというのは、「感覚の融合」を活用する(感覚の融合をたよりに肉体の深部に入り込む、肉体の未分節の領域に踏み込む)というよりも、「頭」で世界を「図式化」している感じがしてしまう。
 ほんとうに中也の詩が好きなら、「泣く」を「視覚化」しないだろうなあ。
 嗅覚とか触覚とか、何かわからないけれど、もっと「肉体」にまじりこむ感覚をつかって「泣く」をつかみとるだろうなあ、と思う。

 こういう言い方は「言いがかり」というものかもしれないが、藤井の書いていることは「論理的」に「わかる」。しかし、「論理的にわかる」がゆえに、何か「違う」と感じてしまう。
 私は中也の「音」がわからない。そのわからないものが、こんな簡単に「視覚」を利用して説明されるのは、どうもおかしい。
 藤井ももしかすると私と同じように中也の「音」がわからないのかもしれない。「肉耳」で受け止められないのかもしれない。そのために「肉眼」ではなく「意識化された目(論理)」で説明してしまうのかもしれない。
 そんなことを、ふと感じた。

 詩集のなかでは、この作品が一番「論理的」でわかりやすいが、わかりやすいがゆえに、とても違和感が残る。
 藤井さん、次は「中也なんか大嫌い」という感じの詩を書いてみて。
 そう注文したくなる。
 きっとおもしろくなる。

# 中原中也

国文学の誕生
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(16)

2017-08-28 09:11:53 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(16)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「オルタナティヴ」とは何か。こんなことばを話す人が私の周囲にはいないので、私には何のことかわからない。わからないけれど、考えることはできる。そのことばがつかわれている「作品」を読んで。
 きのう私は「オルタナティヴ」というタイトルの詩を読みながら、文体としてのオルタナティヴということを考えた。藤井がつかっていることばを借りていえば「反論しつづける」文体としてのオルタナティヴである。
 あることがらについて言われている「定説」がある。「流通言語」がある。それに対して「反論しつづける」。反論することで「定説」をひっかきまわし、「流通言語」がとらえているものとは違うもの、別のものを選びとって、それ「自説」として展開する。
 具体的に言いなおすと。
 石川淳の「焼跡のイエス」では、石川淳は、どうみても汚らしい浮浪児を「イエス」として呼んだ。「浮浪児」という「定説(流通言語/既成概念)」で少年をつかみとるのではなく、汚れを洗い落とす存在として浮かび上がらせた。この「イエス」を「表象」とよぶことができるが、それはオルタナティヴの運動の結果である。「流通概念(言語)」ではとらえきれていない何かを選び続ける文体が、「表象」としての「イエス」に収斂していく、と私は読んだ。
 これは「誤読」である、と私は承知している。私の「オルタナティヴ」の定義は「流通定義」とは違っていることは、わかっている。わかっているけれど、私は私の「誤読」をさらにそのまま推し進めたい。

 「アメリカ」は文字通りアメリカを描いた詩である。しかし、アメリカとは何か。すでにいくつもの「流通言語」がある。一方、特異な定義のアメリカもある。たとえば、この詩のなかでは、鮎川信夫が出てくる。小田実が出てくる。彼らは彼らのことば(文体)でアメリカをとらえている。鮎川にしか見えなかったアメリカ、小田にしか見えなかったアメリカ。それが独自の「文体」でとらえられている。この文体の「独自性(オリジナル)」を生み出しているものとしてのオルタナティヴというものがある。世界から何を選び、何を描くか。文体そのものと連動する。
 私の書いていることは、昔はやった「ゲシュタルト」ということに近いかもしれない。ただ、ゲシュタルトというとき、「文体」の射程距離が長い。オルタナティヴは至近距離という感じがする。言い換えると、「遠い結論」を想定しているというよりも、身近な問題の答えを、「結論」を考慮せずに選びとっているという感じ。--こういうことを考えるとき、私は石川淳や森鴎外のことを考えているのかもしれない。石川淳の散文も森鴎外の散文も、「結論(結末)」を想定せずに、目の前にあるものと正直に向き合うことで突き進んでいる。
 あ、なかなか藤井の作品にたどりつけないので、端折ってしまうが、この「結論」を想定しないで、目の前にあるもの(出会ったもの)に向き合いながら、ただ自分のことばを探し出す(選び取る)という運動として、藤井の「アメリカ」は書かれていると私は感じる。

ホピの人々に会いにゆく、
でもかれらのテープには、
風だけがはいっていた。
ニューヨークの路上で、
すこし話を交わして別れた。

 「ホピの人々」というのは誰か。私は無知なので見当もつかないが(前後の文脈のなかでは、ネイティブアメリカンの一族という印象があるが)、藤井はそのひとたちと話した。何か語られたはずだが、藤井は話の内容よりも「風(の音?)」が印象に残った。ホピの人々が風について語ったのかもしれないが、そのことばよりも「風」という「もの」の方が藤井に迫ってきた。ことばよりも、内容よりも、藤井は「風」を選んで、それにつながることばを探す。

ブラックマウンテンから、
アメリカ合衆国がウランを採掘して、
広島市・長崎市に投下された、
原子爆弾の原料にもなったと、
一説では言われている。
母なる大地の内臓を、
えぐってはいけないと言う。

 「風」は「大地」を呼ぶ。つまり「自然」を。あるいは「宇宙(世界)」を。
 そして、それが「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」ということば、たぶんホピの人々のことばを選び出す。ホピの人々はもっとたくさんのことばを話しただろうけれど、そのなかからそのことばを選び出し、それにつらねるように「ウラン採掘」「原子爆弾」ということばをも選び出す。
 この選び出しの順序は、いま私が書いた順番とは違うかもしれないが、それは瞬間的な噴出のように思える。選び出したのか。ことばが噴出してきて、それを藤井がつかまえたのか。あいまいなところというか、区別できないところが、詩の「命」だろうと思う。
 この「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」は、

黒人兵のバーから、
ベトナム兵の、
ひからびた指を米本土まで持ち帰ってどうする。

 というようなことばとも呼応する。
 「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」ということばがなくても、この三行は書かれたかもしれないが、先に「母なる……」を書くことで「黒人兵の……」ということばが選び取られたという気がするのである。
 もちろんこれは私の単なる直感のようなものであって、藤井は違うことを考えてそうしたのかもしれない。私の推測には何の根拠もない。つまり私の書いていることは「論理的」ではないのだが、感想というものはもともと論理的ではないものだろうから、私は気にしないのである。
 この詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。藤井はそういうことばを「選び」ながら、いままで見えなかったものを見ようとしている、と私は直感する。

小田実(まこと)はグラウンド・ゼロの土に、
小便をする(HIROSHIMA)。
この小便をおぼえていてくれ。

 こういう部分も、私には「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」に通じるものを感じる。「母なる大地の内臓に/HIROSHIMAをしみこませる」。そうすることで、「大地」を健康にする。「小便」は「軽蔑」ではなく、「肥やし」なのだ。あらゆる大地はHIROSHIMAを肥やしにしてゆたかになってゆかねばならない。HIROSHIMAを肥やしにして、ひとは生きていかなければならない。
 そういう「声」に藤井は共感し、それを「選び」詩に取り込み、文体を完成させる。

 私の書いたことは「意味」に偏りすぎているかもしれない。藤井は「意味」ではなく、「音」そのものを「選び」、詩に組み込み、詩をゆたかにしている。そういうことも私は直感として感じるのだが、これはなかなか説明しにくい。
 オルタナティヴの瞬間に、「音」が藤井を突き動かしていると私は感じるとしか言いようがない。
 この詩の最初の三行の、

風だけがはいっていた。

 は「風の音だけがはいっていた」だと思う。「音」は藤井にとって「肉体(思想)」そのものであり、藤井にとっては「自明」すぎるので省略してしまうのだと思う。

 さらに、ここからこれまで読んできた詩を振り返ると。
 何篇かあった「回文詩」、あれは「音のかたまり」のなかから「何を選ぶか」ということと関係していると思う。「反論する」という形をとるわけではないが(論理を問題にしているわけではないが)、「既成のことば(音の並び)」反転させつづけることで、違う「意味」を引き出す、選び出すという作業だと思う。
 「意味」よりも前に「音」がある。「音」を聞いて、その「音」から「意味」を選び出すという「文体」なのだ。「音」が藤井の文体の基本にあるのだと思う。

詩を読む詩をつかむ
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(15)

2017-08-27 08:50:16 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(15)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「オルタナティヴ」というのは、いまはやりのことばなのか、ときどき見かける。だけれど、私には何かよくわからない。私は耳で聞いたことばしか理解できない。話されるのを聞かないことには理解できない。私のまわりには、このカタカナ語を話す人はいない。
 それに「カタカナ難読症」と私が勝手にいっているのだが、カタカナが読めない。すぐ読み間違いをする。知らないことばなら、なおさらである。最初「オルナタティヴ」と書き写して、どうも見た感じが違う。一字一字指で押さえながら確認し、「ナタ」ではなく「タナ」かと気づいて書き直したくらいである。でも、口に出すと「オルナタティヴ」になってしまって、なかなか「オルタナティヴ」にならない。
 最初からつまずき、詩の感想を書く気持ちが半分いえてしまうのだが。

意味不明の突出した描写は
焼跡から イエスから
無頼派、戯作の文体が
描かれている なおそのうえで
兵隊服の男が朝鮮人男性と言えるかしら

 あ、これは石川淳の「焼跡のイエス」のことを書いているのかな? (最後に註釈があって、そうなのだと確認する。)
 石川淳の文体は強烈だ。
 「突出した」ということばが石川淳の文体の力をあらわしている。その「突出した」を修飾する「意味不明の」ということばが、さらに石川淳の「文体の力」をあらわしている。藤井の書いている「意味不明の」というのは、書かれている「内容/指し示すもの」が不明ということではなく、「突出力」が「意味不明」、つまり「常識はずれ」ということだ。
 「描写」が突出しすぎていて、「意味」がわからなくなる、と言いなおせばいいだろうか。度の強いメガネをかけると、網膜にものが焼き付けられて、それが取れなくなるような感じに襲われる。「見ているもの(対象)」が網膜に貼りつき、それ以外のものが見えなくなる。「脳」だけではなく「肉体」そのものが「見たもの(対象)」になってしまうような、激しい酔い、混乱、苦痛に襲われる。
 そういう「常識はずれ」の文体。不必要に「存在」が突出してくる文体。

意味不明の突出した描写は

 この一行だけで(次の行の、「焼跡から イエスから」がもちろん見えいてるから、そう感じるのだが)、あ、これは石川淳だと感じ、私はそれだけで、この詩に満足してしまう。
 私は石川淳が大好きだ。石川淳の文体を藤井も好きに違いないと思い、それだけで藤井の書いていることに「共感」してしまう。
 まだ、何も読んでいないのに。読んだとは言えない状態なのに。
 これは、ある曲の最初を聞いただけで、「あっ、この曲はすごい、大好きだなあ」と思うのに似ている。

 で、さらに読み進んでいくと。

野坂や 大江さん
終戦を扱う マンガ
若い世代が絶えず参照する
七十年間の オルタナティヴ

 野坂は野坂昭如、大江さんは大江健三郎。ふたりとも独特の文体をもっている。そのふたりも石川淳が好きだったのかな? 私は知らないが、藤井はそういうことを聞いたのかもしれない。実際はどうかはわからないが、物書きは石川淳の文体を「参照」するだろうなあ。
 というか。
 石川淳を読んだあとでは、自然に文体が石川淳にならないだろうか。
 いや、私の文体は、どんなに石川淳をまねしても石川淳にはなりようがないのだが、それは「客観的」な評価であり、私としては石川淳そのもの。あ、これって、石川淳の文体になっているなあ、と思うのである。いま書いている文章のことではなく、石川淳を読んだあとに書く文章のことだけれど。そういう思いにつきまとわれるので、私は石川淳の作品について感想を書いたことがない。

 あ、何を書いてるんだっけ。
 藤井の詩についての感想を書こうとしている。でも、脱線しっぱなし。思いは、石川淳に引っぱられてしまう。
 藤井はどうなのかなあ。
 そんなことを思っているうちに、詩は最終連にきている。

雪のまんなかで
ヴェロニックな顔が(あれ
ヴェロニカとは何か)と思いながら
黒いドロになる、と
それは作家 石川淳の表象だと
きのうのいちにち
反論しつづける娼婦のオルタナティヴ

 うーん。
 ここで、私の「肉体」は妙な具合に動く。突然「意味」に触れたような感じになる。「突出してくる何か」が「肉体」を突き破る感じ。「肉体」が突き破られる感じ。
 どういうことかというと。
 「表象」ということばが「オルタナティヴ」と結びついて、何か語りかけてくるのを感じる。こういう「現場」を何度か経験して、私は「ことば」の意味をつかむのだと思う。「正解」ではないが、自分で納得できる「意味」を自分の中にしまいこむといえばいいのか。
 この連で、私が特に注目したのは、

反論しつづける娼婦のオルタナティヴ

 である。「オルタナティヴ」というのは「反論しつづける」ということと深く関係している。そう直感する。
 この「反論」、言い換えると断定と否定のあり方は、その前の、

ヴェロニックな顔が(あれ
ヴェロニカとは何か)と思いながら

 と、何か似ていないか。
 何かを「引き寄せる」(想像する)、同時にその「引き寄せる何か」に対して「何か」と疑問を持つ。疑問は反論の一種。その瞬間、その「何か」はふたつになる。ふたつになりながら、「ひとつ」を探る。「オルタナティヴ」とは、いくつかの中から「ひとつ」を選びとって「表象」する。「ひとつ」に「表象」するということではないのか。
 石川淳の小説では、汚い少年が「イエス」として表象されている。少年は他のものにもなりうる。けれど石川淳はイエスを選びとって、イエスとして表象した。
 「オルタナティヴ」という「意味」はわからないが、「オルタナティヴ」の「運動」とはそういうことではないか、と私はここで思うのだ。 

 で、ここからさらに私は考える。
 人は誰でも大事なことは繰り返し言う。これと似たことを藤井は、詩のどこかで、いっていないか。
 読み返す。そうすると、一連目、先に私が引用した五行のあとに、こうある。

と煩悶し おいらはたしかに
内向きに収斂する

 最初に読んだときは何か書いてあるかわからずに、めんどうくさくて省略したのだが、そうか「収斂する」か。「オルタナティヴ」とは、「ヴェロニックな顔が(あれ/ヴェロニカとは何か)と思いながら」という具合に混乱する思い(反論にぶつかり、困惑する思い)を経て、そこから何かを「選び」、選び取ったものへ向かって「収斂する」ということか、と思う。勝手に、想像する。つまり、「誤読」する。「煩悶する」は「思いが乱れる」であり、それが「収斂する」とは「思い」が「表象」に結晶する。
 客観的なというか、流通言語としての「オルタナティヴ」がどういう意味かわからないが、藤井は、そんなふうに理解していないだろうか。
 そして、藤井は、石川淳の文体に、意識の衝突と、その意識を「ひとつ」に「表象」する運動を見て取り、それを「詩」の運動と理解し、引き継いでいこうとしている、と読む。私は「誤読」をそんな具合に拡大する。

 これは詩を読みながら感じ取った「意味」なので、間違っているかもしれない。藤井が話しているところを聞けば(声をとおして聞けば)、もう少し「意味」がつかみとれるかもしれない。
 勝手な「オルタナティヴ」の定義だけれどね。
言葉と戦争
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(14)

2017-08-26 08:43:56 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(14)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「倭人伝は草へ帰る--日本史」の書き出し。

あかつきの物語が終って 倭人伝は草へ帰る

 タイトルはここから取られている。どういう意味だろう。二行目は、

さびしさの 表情ゆたかに歴史の筐で息絶える古代史

 ここまで読んだだけではわからない。
 でも「倭人伝は草へ帰る」と「息絶える古代史」は同じことだろうなあ、と思う。「草へ帰る」は「自然に帰る」というよりも「土に帰る」に似ている(と、私はかってに思う。つまり「誤読」する)。死んで土に帰る。死んでは「息絶える」。
 とはいうものの。
 ことばの「力点」は「息絶える/死ぬ」ではなく、「表情ゆたか」の方だろうなあ。「表情ゆたか」というのは「さびしさ」とは反対のような気がするが、反対だからこそ「表情ゆたか」を引き立てる。色で言えば「補色」。
 同じことが一行でも言えるなあ。「あかつき」というあかるいもの、これから始まるものが「終わる」という動詞と結び対いてる。そのとき、やはり「補色」に触れたように「あかつき」がより鮮明になる。
 「終わる」「帰る」「息絶える」と動詞はどれも否定的(?)な「意味」を持っているのに、なぜか、逆に「始まる」「行く(出発する)」「生まれる」という感じがつたわってくる。「補色効果」だ。「あかつき」「表情ゆたか」という「意味」だけではなく、ことばの「音」そのものが「消えていく」というより、「増えてくる」(増殖する)という感じの「活気」を持っている。まあ、これは、私の印象だから、違う印象をもつひともいるだろうけれど。
 で。
 「息絶える古代史」と書かれているのだが、どうも逆に「古代史が生まれる」という感じがする。いわゆる「学校教育」でいう「歴史(古代史)」は「終わる/消える」のかもしれないが、「教科書」から逸脱していく「古代史」が動き始めると言えばいいのか。
 「古代史」が始まるといっても、「古代」の見直しというのではなく、「新しい古代」を出発点に「新しい歴史」が始まるといえばいいのかなあ。

さきをゆく水軍のあとの白波 偽造の集成される内海文書(ないかいもんじょ)
群書類従(るいじゅう)がびしょぬれで歴民博へたどりつく ない城壁に
のろしの火を塗る 学芸員の手腕がもっとも問われるところ

 「さきをゆく水軍のあとの白波」の「さき」とあと」の組み合わせがやはり「補色」だが、「教科書の歴史」の「補色となる別の歴史」というものが、さまざまな文書の読み直しをとおして始まる。読み直しは「学芸員の手腕」ということばであらわされていると思う。
 「教科書の歴史」をはみだしている「歴史」が、いたるところにある。それをどうやっていきいきと動かし「歴史」として生み出すか。いや、生み出せるか。
 丸山真男や吉田茂も登場したあと、最後の四行はこう書かれる。

歴史はどんな時代にも生産されつづけたのであり
アートの試み映画演劇 小田さん(実)の「何でも見てやろう」
身を躍らせていた仮面よ それらの
芸能史をどう評価してゆくか 歴史の最難関

 「歴史」はたいがいが「権力の変遷」の歴史である。そこではある権力が誕生し、また滅んで行く。その周辺に動いている「非権力(庶民)」の歴史はなかなかストーリー(意味)にはならない。「教科書」には書かれない。けれども、そこにも「歴史」はある。ひとの暮らしがあり、暮らしをいろどる「芸能」がある。
 「芸能」のなかで、ひとは何をしているのだろう。何のために「芸能」にかまけるのか。

 詩も(文学も)、どこかで「芸能」と通じているはずである。
 一方、「権力」の「文学」というものがある。「万葉集」や「古今集」には「読み人知らず」の歌もあるが、基本的には「権力者」の歌が「歴史」をつくっている。
 それはそれとして、藤井は「別の歴史」にも目配りをしている。「教科書」にはない「歴史」を掘り起こそうとしている。そういう「願い」をこの詩のなかで語っているように思う。「権力」に与しない詩を書こうとしている。「権力」にくみしないことばの響きを甦らせようとしている。
 「ストーリー(意味)」にならないように、瞬間瞬間の、イメージの炸裂として書いているように感じられる。

日本文学源流史
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(13)

2017-08-25 11:31:30 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(13)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「戦後の歴史」は、こう始まる。

私たちは 皆、(とアーサーが言う。)
第五福竜丸に乗っている、と。

 「第五福竜丸」はビキニ環礁の水爆実験で被爆した。いま、私たちは(地球は)、福竜丸に乗っている状況とかわりがない。世界に存在する核兵器の数を思うと、誰もが被爆する危険を生きていることになる。
 「アーサー」というのが誰のことなのかわからないが、私は最初の二行をそう読んだ。そして、これから「戦後」のことが書かれるのだ、と思った。
 ところが、一行空いて、二連目は、こうである。

そこにある花の村が季節に美しい瓣をひらく。

 福竜丸(水爆実験、被爆)との関係がわからなくなる。
 しかも、「花の村が」「美しい瓣をひらく」ということばの動きが、ふつうとは違う。「村の花が」「美しい瓣をひらく」ではない。一瞬、混乱する。けれどもすぐに村にある花が全部開いた。村中が花でおわれている「美しい」風景が目に浮かぶ。「村の花が」「美しい瓣をひらく」よりも、劇的である。「村が花になって」その花が「美しい瓣をひらく」。
 ここには全体と個別の混同というか、全体が個を支配するのではなく、個が逆に全体を支配する(代弁する)という不思議な力がある。全体と個の逆転がある。そしてそこには「なる」という動詞が省略されている。
 ここから最初の二行へもどってみる。
 福竜丸は地球に比べると小さな船である。皆が福竜丸に乗っているわけではない。人間は地球の各地に散らばっている。福竜丸が一輪の花だとすれば、村は地球。地球が村だとすれば、福竜丸は一輪の花。けれど、その花は地球全体を象徴する。その花の動きは、地球全体に広がる。
 小さな船で起きたこと。それは地球規模で起きることである。
 そういう風に読むことができるだろう。
 三連目。

標的の紫が隠される、普通の船の普通の声がする。
あじさいと言いましたね、咲いていたのは。
宗教学者が答える。 三月の季語と、
六月の季語とを向き合わせる。

 ここに書いてあるのは、どういうことだろう。何を「象徴」しているのだろうか。よくわからない。
 「標的の紫」とは、水爆実験の「標的」のことだろうか。「普通の船」は福竜丸を思わせる。「普通の声」とは福竜丸に乗っている普通の乗組員の声である。何も知らないで仕事をしている。
 「紫陽花」は標的の「紫」に通じる。「紫」と聞いて、さらに「花」と聞いて、普通の人なら「紫陽花」を想像するということだろうか。「紫」に隠されている「事実」を私は知らない。標的が紫だったのか、水爆実験のときの「光」が紫に見えたのか。
 水爆実験がおこなわれたのは三月。紫陽花は六月(雨の季節)に咲く。ここに微妙な「ずれ」があるのだが、その「ずれ」は、「そこにある花の村が季節に美しい瓣をひらく。」という行のかかえる主語の入れ替わりに似た「ずれ」かもしれない。何かが、いれかわる。いれかわることで、世界の姿が一変する。

 こういうことは、詩の世界の「事件」である。ことばが「文法」を超えて、奇妙に錯乱する。論理が破壊され、乱れる瞬間に、「文法」ではとらえられない何かが噴出してくる。
 ということと関係があるのかないのか、よくわからないが、ここから藤井は突然「文学」について語り始める。

光らせる俳人のおもて、一語の俳句で。
きみとともに生きている白いバリウム。 四千の霧をへだてて、
白い花園はのこっているか。

自然よ つく(=滅亡)すな。 定型の歌姫 かりそめに去りゆく。
古代の人の復活するその懐に永世の眠りを誘う詩人の習性、
としての命脈、さいごの祈り。

からく言語の語る時の間の安らぎに還る、
荒地のひとの普通の詩人。 荒地の墓の白いバライト。
氷島のひとの普通の詩人。 蒼い猫の首輪のチップ、江ノ島で。

 俳句、定型の歌(姫)を経て、古代の文学が戦後詩(「荒地」の詩)に引き継がれていく。「氷島」と「猫」の朔太郎もそのなかにまぎれ込む。
 そのことを思うと、タイトルの「戦後の歴史」は「戦後詩(現代詩)の歴史」と読むこともできる。「詩」が省略されているが、詩の歴史を藤井は書いている。「戦後詩(現代詩)」であっても、そこで動いていることばは「戦後」だけを舞台に動いているわけではない。ことばのいのちは古代の定型詩(和歌)とも俳句とも朔太郎の詩ともつながっている。(このあと、詩には西脇順三郎も登場する。) 
 で。
 ことばは、激しく時間と場所を飛び越えて動くので、「意味(ストーリー)」を追うことが私にはできないのだが、気になるのが「普通」ということばの繰り返しである。
 「普通」ということばで藤井は何を言いたいのか。
 一方に「特別」な何かがある。朔太郎は「特別な人」かもしれない。けれど、その「特別な人」にも「普通」はある。「普通」と「特別」が「花の村が季節に美しい瓣をひらく」というような乱れ方でつながっている(ひとつになっている)からこそ、人はそのことばを通ることで「普通」以外のことを体験する。あ、これこそが自分の体験したことと錯覚する。
 「読者」にとっての「戦後詩の歴史」というものも、「普通」ということばで象徴しようとしているのかもしれない。

 まあ、これは、私が勝手に「誤読」したことである。
 わけのわからないまま、瞬間瞬間に感じたことである。

 詩の最後は、こう閉じられる。

二千年が経過する、眠る龍の船名を刻印する、
先住するひとびとの記録、どこに。 しゅんこつ丸の、
ゆくえもまた知らない。

 「ことば」は何事かを記録する。詩もまた、その時代の「記録」だろう。その「記録」はどう読まれるか。わからない。わからないけれど、「書く」。
 この「書く」という動詞を、「なる」という動詞で言いなおすとどうなるか。ことばを「書く」ことは「詩人になる」ことである。
 そう読むとき、藤井がことばを書かずにいられない理由がわかる。「詩人になる」ために「ことばを書く」。「いま」と「過去」と「未来」を結びつけ、また切り離すために書く。「ことばの歴史」を書く。ことばの歴史に「なる」。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(12)

2017-08-24 08:45:10 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(12)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「のたうつ白馬」「冷却の音」「「この国家よ」と三篇の「回文詩」がつづいている。テーマは東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故である。
 「のたうつ白馬」の最初の連。

震源は
震源は
のたうつ白馬

 東日本大震災の「震源」は東京電力福島第一原発ではない。けれど事故が起きてしまうと、東京電力福島第一原発こそが「震源」ではないのか、と思えてくる。もちろん、原子力発電自体が地震を引き起こすわけではない。けれど、原子力発電の仕組みそのものが世界の原子に影響し、それが地殻にも影響する。こういうことは「非科学的」な発想だが、ひとは「非科学的」なことも発想できるし、それをことばにすることもできる。
 原子力発電の発電の仕組み、原子核の分裂というものが、地殻に影響する。発電所の下には「白馬」がいる。事故の起きた場所は「相馬」。その名前の中には「馬」がいる。その「馬」が「白馬」なのだ。白馬が原子力発電の影響で苦しみ、のたうつ。それが「震源」になって地震が起きる。
 いや、そうではなくて、いま東京電力福島第一原発が引き起こした事故が、新しい「震源」になって「白馬」をのたうたせている。その「白馬」は原発の地下にいるのではなく、地上を(地球を)走り回っている。のたうちながら。その「白馬」の苦悩にあわせて、地球規模で地震がおきている。その地震を「感知」しているひとにだけわかる形で。「環境破壊(健康破壊)」という「後遺症の大地震」が始まっている。
 こういう連想(誤読)は、無意味だろうか。
 「意味」の定義からはじめないと、考えたことにならないのだが、「考え」以前の「考え」というものがある。直感のようなものが。そして、直感は「非科学的(非論理的)」だからこそ、何かしら刺激的でもある。
 藤井がはっきりと書いていないことを、勝手に読み取る、「誤読」する。さらに「意味」を拡大して語る。「無意味」かもしれないが、「誤読」することが、ことばの魔力に触れることになるかもしれない。
 最初の連は、最後で、どう変化するか。「回文」にすると、ことばはどうなるか。

爆発 うたの
反原子
半減し

 あ、「のたうつ白馬」は、その苦悩のなかで、原子を「半減」させている。苦悩が「制御棒」のよう働くのかもしれない。ここには、何か、祈りのようなものがある。ことば、その「音」をあれこれ動かしながら(ここでは逆さまに読む)、ことばのなかに潜む別な「ちから(いのち)」を探してきていると読むことができる。
 途中に「うた」ということばが出てくるのは、藤井の、ことばにすることで、ことばが「反原子力」を引き寄せてほしいという祈りがこめられているのかもしれない。
 ことばを語る。読み直す。その繰り返しのなかで、ことばが隠しているものを探り当てる。探り当てたものに自分を懸ける。それが祈りということかもしれない。

 「冷却の音」の最初と最後は、こうなっている。

爆発、うたの発生か、
嘘か、

似れば仮装か、
異説は のたうつ白馬。

 「爆発」と「白馬」、「うた(う)」と「のたうつ」、「発生」と「異説」、「嘘」と「仮装」。部分部分を取り上げると回文にはならないのだが、「単語」のわくを超えて動き、連なる音の組み合わせのなかに(音の交錯のなかに)、ことばを超える「力(いのち)」を感じる。
 「意味」に固定される前の、「声」の力を感じる。そういうものを感じさせてくれる。

 「この国家よ」は、「意味」を探しすぎているかもしれない。最初の部分と最後の部分は、こうなっている。

暗い来歴に
かなしいよ
人災よ
この国家よ
炉の震源は
遠のくより
箴言せよ

原子力の音
反原子の
炉よ
かつ、この
今宵、惨事よ
石中に
きれい、磊落

 「人災」が「惨事」と言い換えられている。ここにポイントがあるのだが、「のたうつ白馬」のように、肉体に生々しく迫ってこない。「意味」が概念になっている。
 私は「のたうつ白馬」のような、むき出しの「いのち」が見えることばの方が「誤読」を突き動かすように感じる。そういうことばの方が好きだ。「人災」「惨事」では「意味」におさまってしまうが、「のたうつ白馬」は「意味」を生み出しながら動く。

詩を読む詩をつかむ
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