詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(36)

2013-08-31 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(36)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「シヴァ」は東日本大震災の翌月に発表される予定だったが、遅れて発表された。「事実」をことばとして受け入れる準備が、たぶんだれにもなかった。そのことを朝日新聞の担当者が配慮して、発表を見合わせたのだろう。

大地の叱責か
海の諫言か
天は無言
母なる星の厳しさに
心はおののく

文明は濁流と化し
もつれあう生と死
浮遊する言葉
もがく感情

破壊と創造の
シヴァ神は
人語では語らず
事実で教える

 地震、津波の描写よりも、いま、こうやって、大震災から間を置いて読んでみると2連目の「浮遊する言葉」が気になる。見たものをなんとかことばにしようとして、ことばになりきれていない。「浮遊」している。「浮遊」して、「シヴァ神」という「神話」(でいいのかな?)に頼っている。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』のなかで「出来事は遅れてあらわれた。」と書いた。出来事が出来事になるにはことばが必要だが、そのことばはすぐにはやってこない。「知らないこと」が起きたので、その「知らないこと」をどう書いていいのかわからない。
 そういう困難が谷川にもあったのだと思う。
 東日本大震災について書きたい--けれど、それが「肉体」のなかにうまく入って来ない。肉体のなかからことばが出てこない。「人語」にはならない。で、「頭」で知っていること、シヴァ神が出てきたのだと思う。

 ことばが動くには、ほんとうに時間がかかる。ことばは、遅れてやってくるしかないのだと思う。
詩人 谷川俊太郎 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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丁海玉「融解」

2013-08-31 09:34:50 | 詩(雑誌・同人誌)
丁海玉「融解」(「space」111 、2013年08月20日発行)

 知らないこと、体験したことがないことでも「わかる」というのは、どういうことだろう。きっと「肉体」が、その「わからないこと」と重なり合う何か(何かのこと)を覚えていて、それが「肉体」を揺さぶるのだと思う。--だから、どんなときでも「動詞(述語)」が大事、動詞のなかへ「肉体」を投げ込むと、そこにある「肉体(筆者の肉体)」とセックスしたような感じになり、セックスがそうであるように、やってしまう(?)となんとなくこころまで通じたような錯覚に陥る。これを「誤読」と私は呼んでいるのだが、そういう「誤読」をすることが、私の趣味。大好きなこと。
 ときには、「ヘンタイ! ばかやろう、あっちへ行け」と叱られることもあるのだけれど、まあ、気にしない。とういより、私はヘンタイだから、怒るひとを見て、「あ、怒った、怒った」と楽しくなる方。
 で、きょうの「肉体」は丁海玉「融解」。丁海玉は私の記憶では法廷で通訳の仕事をしている。そのことを書いている。その法廷も、通訳も私の知らないこと(体験をしたことがないこと)なのだが、これがなぜか、「わかる」のです。「誤読」できるのです。

ことばを訳しながら私は男にかぶさる
男は私を持てあます
ゆるゆると音と音の境目が溶ける
男のこめかみに
青い筋が膨らんで
つたう汗が顎に向かってしずくになった

 外国語を訳す--というだけではなく、ことばに触れる。そのことばを自分のことばで言いなおすというのは、それを言ったひと(書いたひと)に、そのまま自分が「かぶさる」ことだね。「かぶさる」は「一体になる」「ひとつになる」ということ。これを私はセックスと呼んでいるのだが、これがなかなかむずかしい。
 「一体になる」つもりでも、どこか、あわない。何かが違う。ぴったりしない。そこで「持てあます」ということも出てくる。「持てあます」だけならいいけれど、そのぴったりこないところ、「境目」の「ずれ」みたいなものに、いらだつくこともある。そうすると、その「いらいら」が怒りになって、こめかみには青筋が立って、汗も滲んできて--というのは、もうセックスではなくなっているけれど、そういう「肉体」の動き、「肉体の内部で動き、こころが「肉体」の表面にまで出てきてしまう。--そういうことを私の「肉体」は「覚えている」ので、ここに書かれていることを、私が体験したことでもないのに、まるで体験したことを思い出すように、目の前に見てしまう。見えてしまう。
 こういう一瞬が、いいなあ、と思う。セックスの快感とは違うのだけれど、私が私の外へ出てしまって(エクスタシー)、私ではなくなってしまう。丁海玉になってしまって、そこにいる。これを「一体になっている」と言いなおすと、またセックスになるけれど。
 と書いてしまうとセックスにこだわりすぎた脱線になってしまうかもしれないけれど、私がことばを読んで感じるのは、そういうことである。

 で、この詩のおもしろいのは、法廷なのだから、そこで展開される「論理(ことばが描き出す事実)」がいちばん重要なのだけれど、人間は「肉体」をもっているので、そういう抽象的な「論理」だけを相手にするわけではないということ。現実には、省エネ(節電のため?)、法廷も室温が28度におさえられていて、暑い。汗が出てくる。でも、汗をふくハンカチがないという、という問題に直面する。
 で、

ここには窓がない
空調のボタンもない
体温調節は各自で行わなければならない
しずくが落ちて床に染みないように
それぞれが
拭き取るものを持参することになっている

 「体温調節」云々の4行は法律(決まり?)で定められているわけではないだろうけれど、まあ、気持ちとしてそうなんだろうね。
 「体温調節は各自で行わなければならない」というのは、「状況」の説明なのだけれど、なんとも不思議。汗が出てきて困る、という「肉体」が「覚えていること」を刺戟する。「体温調節」なんて、しようと思ってもできないよ、と「肉体」が反論している声が「肉体」の内部から聞こえる。自分でできないからこそ「空調」があるんだろう、といらだっている声が聞こえる。
 そういう声を丁海玉は書いているわけではない。でも、そういうことばを読んでしまう。聞いてしまう。つまり「誤読」してしまう。で、その「誤読」のなかで私は勝手に丁海玉と「一体になる(セックスをする)」。
 そして、

(ハンカチを忘れてきた

 このことばを、自分の「肉体」の「覚えている声」そのものとして、いっしょに 「声」に出す。その「声」には、男の「声(肉体の内部の声)」も重なる。

男は手にした借り物のタオルを
使おうとしない
代わりにめがねを外し
かっと眼をひらいて部屋をみまわした
もうすぐだ
塩をふくんだしずくが床へ落ちる

 法廷で争われている「事実」と「肉体」は「一体」にはならないが、そこにいる男と、そして男のことばを通訳する丁海玉の「肉体」は「一体」になり、その「一体」に私もかぶさっていく。暑さにいらだつ「肉体」、その「覚えていること」を思い出しながら。
 「肉体」が「覚えていること」を思い出させる力が「動詞」にはある。「動詞」を中心にことばを読むと、いつでもことばのセックスが始まる。ことばの肉体がセックスをしはじめる。



 中上哲夫「アメリカはいつも雨だった」は、「動詞」ではなく、「ことばの言い回し」が直接「ことばの肉体」にセックスしようよ、と秋波を送ってくる。

東京国際空港で飛行機に搭乗したときからぽとぽと
落ちてきた
シカゴ国際空港でローカル線に乗り換えて
草ボーボーの飛行場に降り立ったときには
犬や猫がふってきた
雨具の準備もないままに
雨季に入ってしまったのだ
土地のひとたちは傘もささずに歩いていたのに
ひとり鼠のように濡れて歩いていたのだ
わたしが夢想したのは

目覚めたときに雨がやんでいることだった

 中上は「雨男」だね。--ということは、おいておいて。
 「ぽとぽと」という雨の降る様子。「ボーボー」という草の繁る様子。それは何気なく口にしているけれど、実際に「ぽとぽと」という音や「ボーボー」という音が聞こえるわけではない。「日本語の肉体」になってしまっていることば、無意識(意識がない/意識ではない)、つまり「肉体」だね。そういうものが、私の「ことばの肉体」に接近してくる。「色目」をつかって、迫ってくる。中上がどういう「意味」でつかったかわからないけれど、私の「肉体」が覚えている何かが、そのとき呼び出され、中上の「肉体」と向き合うことになる。「そのことば、私を誘っているでしょう(その目つき、いま、誘ったでしょう)」ということになる。
 「犬や猫がふってきた」と「土砂降り」をあらわすときの英語の表現が日本語に翻訳されている。そういう「ことばの肉体(慣用になってしまって、意味を考えない)」が私に近づいてくる。「鼠のように濡れていた」も「濡れ鼠」という「日本語の慣用句」とし私に近づいてくる。なぜ、犬? なぜ、猫? なぜ、鼠? そういうとは考えない。考えるということを放棄して、「肉体」が近づいてくる。その「動き」が見える。
 その近づいてきた「ことばの肉体」と交わり、あ、中上はこういうことばをつかうのか、と思うところから「ことばの肉体のセックス」が始まる。こんなセックスは技巧的で燃えない、と思うか、あ、この軽い感じが欲望丸出しではなくていいなあ、と思うかは、そのひと次第だね。
 比較対象の範囲内で言えば、私は、中上のことばよりも丁海玉のことばの肉体の方にひかれるね。



 草野早苗「訪問」はかなり交通の便の悪いところを訪問する詩だが、

川の向こうにも凝灰岩の壁がそそり立つ
白みを帯びた岩壁は頑なで
ところどころ墨汁のような汗が流れている

 「墨汁のような」という比喩が「本物(草野の肉体が覚えていること)」を感じさせる。

 (ギプスがとれて、親指シフトのキーボードがつかえようなると、急に「肉体」ということばが暴れ出した。私は考えながらキーボードを打つわけではなく、ブラインドタッチで指を動かし、それがことばになっているので、自然にそういう変化が出てしまったのだが、うーん、肉体とことばは、私がうすうす感じていること以上に密接かもしれないと思うのだった。)


こくごのきまり (エリア・ポエジア叢書)
丁 海玉
土曜美術社出版販売
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谷川俊太郎『こころ』(35)

2013-08-30 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(35)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「まどろみ」という作品の「話者」は「老人」である。「老い」と抽象化して、誰とは書いていないが、谷川も高齢者なので、その「老い」を谷川と思って読むこともできる。

老いはまどろむ
記憶とともに
草木とともに
家猫のかたわらで
星辰を友として

 「星辰を友として」ということばにちょっと驚く。どういう意味でつかっているのかな? 星? うーん、宇宙かな……。星そのものではなく、星のある「場」とういことかな? 「友として」と「とともに」「かたわらで」にはどんな使い分けがあるのだろうか。「意味」はきっと重なり合っているのだと思う。
 まどろんでいるとき、「老い」は何をしているのか。

老いは夢見る
一寸先の闇にひそむ
ほのかな光を
まどろみのうちに
世界と和解して

 そうだねえ。世界と対立したまま、まどろむということはむずかしい。うつらうつらしているのは、世界と和解しているからだ。
 で、そのあと、

老いは目覚める
自らを忘れ
時を忘れて

 まどろんで、夢見て、目覚める--その「主語」を谷川は「老い」と書いているが、ここに書かれていることは「老い」に限られたことだろうか。
 「星辰を友として」という表現は若者にはできないけれど、若者もやはり、記憶や草木や家猫とともにまどろみ、そのときは世界と和解しているだろう。そして、目覚めるとき、やっぱり自分のことを瞬間的に忘れている。時間を忘れている。--これも、また、人間誰にでもあてはまることだと思う。
 それなのに。
 「老い」ということばが主語であるときの方が、「若者」が主語であるときよりも、この詩はぐいと迫ってくるように感じられる。だからこそ谷川は「老い」を主語にしているのだけれど、
 うーん、
 なぜだろう。なぜ「老い」が主語の方がぴったりと感じるのだろうか。
 私が「老い」の領域に近づいているからか。
 そして。
 ああ、老いたら、こんなふうにまどろみから目覚めたいと感じたいと思っているからだろうか。自分が何歳であるか忘れ、いまが何時かも忘れ、まったく新しい瞬間の誕生そのものとして目覚めたいと思っているからだろうか。
 若いときは自分が誰であるか、何ものかを忘れてはいけないし、何をするべきときなのかを忘れてはいけないけれど、老いたら、そういうことを忘れて、「放心」して生きる--それが、人間の「理想」かもしれない。
 なんだかよくわからないが、ここには不思議な「しあわせ」がある。

ことばあそびうた (また) (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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高橋秀明「家族」

2013-08-30 09:30:01 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「家族」(「雷電」4、2013年08月05日発行)

 高橋秀明「家族」は家族の変化を描いている。子供が成長し、独立し、さらにはいろいろな波風も立ったりする。その具体的なことを描かず、あるとき飼った二匹のイモリのことを描いている。

わたしの家族は二匹のイモリを飼っていた
とても仲良いイモリで
大きいほうがモートン
小さいほうがウォートンと呼ばれていた
名づけたのは若かった妻だ
子ども用の童話から兄弟蛙の名を流用して
イモリも子どもたちもよくその名になじんだ

 一家の親和力のようなものが、どこからともなく浮かび上がってくる。「仲良い」とか「大きいほう」「小さいほう」「若かった」「なじんだ」というようなことばに、なつかしい美しさがある。イモリに名前をつけるように、日常をことばをとおして整えていく力のようなものも感じる。
 そこにはイモリから教えられることも含まれている。それはたとえば天気予報--水からあがれば雨、水中にいれば晴れというような生き物の生態からわかることがらもあるし、その他のこともある。

大きいモートンは
次男が小学五年に亡くなり
それまで 水からあがっているときは
前脚の片方をモートンの背中にのせ
なにか慰めるようなスキンシップを
心がけていた 小さいウォートンは
水槽の中でひとりぼっちになった

 ああ、そうか、イモリのスキンシップか。それはイモリにとってスキンシップであったかどうかは別問題。その姿をスキンシップと呼ぶことで、整えられる暮らし、生き方がある。思想は、こういう形で「ほんもの」になる。
 いいなあ。
 そして、しんみりと落ち着いた気持ちになる。
 こういう詩が、私は好きだなあ。

ひとりぼっちのウォートンは
遅れて一年後に亡くなり
モートンと同じ「墓」に埋葬された
二匹のイモリがわたしの家族に飼われていた
十年に満たないその時間
名を呼ぶと鎌首を宙にもたげるための
餌の糸ミミズがいつも保存されていた
わたしの家族の時間の棚板

 後半、ちょっとわかりにくくなるね。
 イモリのことを書いている? 「わたしの家族の時間棚板」がとてもわかりにくい。棚の上にイモリの餌の糸ミミズの缶があったのかな。そういうことは想像できるが、そのことを「家族の時間の棚板」と呼ぶところが、イモリをモートン、ウォートンと名づけた(呼んだ)という感じとはかなり違う。
 あ、ここから、高橋にとっては書きにくいことがあり、でも、それを書こうとしているんだな、とわかる。感じられる。
 で、それは、

ベルリンの壁が崩れた一九八九年から
失業中の私に松下昇氏の訃報が垣口さんから伝えられた
一九九六年までのその時間の棚板で
わたしの家族からわたしが崩れ落ちていく

 と、抽象的に、しかし私にはわからない固有名詞とともに、つまり具体的に何事かが語られる。ここに何かがあるのだけれど、高橋は、それについては詳しくは語らない。詳しく語っても、詳しく語れば語るほど、わからなくなると高橋は思っているのかもしれない。
 まあ、たぶん、わからないのだけれど。
 でも、わからなくても、聞きたい--と、私のような離れた場所にいる読者ではなく、実際にそばにいる家族なら思うかもしれないなあ。「わかる努力をするから、聞かせてよ」というかもしれないなあ。
 しかし、高橋はやっぱり語らないんだろうなあ。
 という思いが、ふっと押し寄せてきて、その思いのに、イモリの「しあわせな時間」がよみがえる。懸命に、という気持ちがあったかどうかわからないけれど、たぶん無意識なのだろうけれど、イモリを飼っていた時間、ことばが暮らしを整える力となって働いていたんだなあ、それが「しあわせ」だったんだなあと実感できる。
 イモリを飼った。名前をつけた。天気予報のかわりになった。それが死んでしまった--それが、おちついた不思議なことばで語られ、いや、ほんとうにしんみりしてしまうのだ。
 いい詩だなあ。


言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社
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谷川俊太郎『こころ』(34)

2013-08-29 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(34)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「丘の音楽」には、わからないところがある。

私を見つめながら
あなたは私を見ていない
見ているのは丘
登ればあの世が見える
なだらかな丘の幻
そこでは私はただの点景

 「登ればあの世が見える」の「あの世」というのは、「死後の世界」ということだろうか。でも、その丘は「丘の幻」、幻であって、実在しない。なぜ「あの世」ということばがここにあるのか、わからない。
 しかし、そういうものを見つめる「あなた」にとっては、「私はただの点景」であるのは、わかる。「私」の見ることのできないものに夢中になっている「あなた」には「私」は見えないだろうと思う。

音楽が止んで
あなたは私に帰ってくる
終わりのない物語の
見知らぬ登場人物のように
私のこころが迷子になる
あなたの愛を探しあぐねて

 「丘」は音楽が聞こえているときだけ存在したのか。音楽のなかにある丘なのか。そうだとすれば、「あの世」もまた音楽といっしょに、音楽が存在するときだけ存在しているのだろうか。
 「あの世」は「永遠」ではないね。
 音楽が鳴っているときは「あの世」を見ていて、音楽が鳴り止むと「この世」に帰ってくる「あなた」。その「あなた」に戸惑っている。

 これは、ほんとうに「愛」のことを書いているのかな? ひとへの愛のことをかいてるのかな? 「あなた」への愛を探しあぐねている「私」のことを書いているのかな?
 それとも谷川の音楽への愛について書いているのだろうか。
 音楽を聞くとき、谷川は「あの世」を見ているのだろうか。
 そして、そのときの音楽とは、具体的にはどんな音楽なのだろうか。どの音楽でも「あの世」が見えるのかな?
 わからないけれど、音楽を聴くとき「あの世」に谷川がいるのなら、うーん、谷川を愛するひとは、かなり戸惑うね。「迷子」にならざるを得ない。
 「あの世」が「現実」ではなく、「没我の世界」の比喩だとしても。
夜のミッキー・マウス
谷川俊太郎
新潮社
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片野晃司「筋肉賛歌」ほか

2013-08-29 10:15:49 | 詩(雑誌・同人誌)
片野晃司「筋肉賛歌」ほか(「hotel第2章」32、2013年07月15日発行)

 片野晃司「筋肉賛歌」はタイトル通り、筋肉のことをほめたたえている。

ぎゅんぎゅんと花々の茎と茎の間を抜けて、背丈よりも低い峠をいくつも越えて、あのランナーはわたし。ふくらはぎ縮み、ふともも縮み、南風燃え上がり、握りこぶしほどの小さな山をいくつも踏んで、森の奥のか細いせせらぎをせき留めればあふれ出す、崖から飛び出して向かい風なら旋回する。筋肉から、骨格から、関節から、神経から、わたしをつくる言葉のすべてがこの地勢に逐一符合して、あの海沿いの道のカーブ、あのトンネル、あの崖の褶曲、朝は昼、夜は星々、球体のみどり、球体のあお、脳はどこまでも膨張し拡張し、

 筋肉そのものの描写は「ふくらはぎ縮み、ふともも縮み、」くらいしかないのだが、書き出しの「ぎゅんぎゅん」といういきおいのいいことばが筋肉を思わせる。それだけではなくて、

わたしをつくる言葉のすべてがこの地勢に逐一符合して

 この一文が代弁するように、ことばでとらえられた地勢そのものが、実はことばではなく「筋肉」のように見えてくる。

わたしをつくる「筋肉」のすべてがこの地勢に逐一符合して

 という感じ。「言葉=筋肉」なのだ。
 「背丈より低い」というのは地勢の描写ではなく、筋肉が感じる地勢の実際なのである。峠の場合、まだ「背丈より低い」だが、走っている間に筋肉が鍛えられるのか、山になると「握りこぶしほどの小さな山」になってしまう。筋肉が山を「握りこぶしほど」に感じさせるのである。
 これはいいなあ。
 ランナーなのだけれど、も「わたし」は走っていない。土地そのものになる。海沿いの道のカーブ、トンネルも、みんな「わたし」の筋肉であり、それは走る場所ではなく、筋肉の内部になってしまう。
 「脳=言葉」が膨張する、拡散するのではない。筋肉が膨張し、土地そのものになる。で、そこに突然「球体のみどり」「球体のあお」というような、わけのわからないものも登場するのだが、これは筋肉が「ハイ」になってつかみとってしまう真実なのだ。
 筋肉はさらにさらに躍動する。

筋肉はぎゅんぎゅん収縮、はじけ、ひきつれ、ひねくれ、こねくりまわし、握り潰した指のすきまをすいすい泳いでいくメダカたち、その一尾のメダカはわたし。何度も叩きつける靴底の迷路できらきらとひらめくユスリカたち、その一羽のユスリカはわたし。

 「ひきつれ」「ひねくれ」というような負のイメージがあることばさえ、筋肉は飲み込んでゆく。そんなのもを気にしない。土地になるだけではなく、ある瞬間に見たもの、メダカや、靴底で潰されるユスリカにさえなって、この世界全体に広がっていく。
 筋肉で走るのではなく、走る筋肉が、すべての「もの」を筋肉にかえる。このリズム、明るさ、スピードはとても気持ちがいい。読んでいて、肉体が若返る感じがする。うれしくなる。



 福田拓也「古代都市の記憶が木々の葉の一枚一枚に線刻され……」は句読点のない詩を書いている。

古代都市の記憶が木々の葉の一枚一枚に線刻され光を透かして浮き
上がる文字群はモザイク状に空を覆い空は字画となって崩壊するそ
の向こうには何もない風の吹かない土地の表面の罅割れはその運命
を模倣する読み取る視線のないところでかつて眼球のはまっていた
であろう眼窩の窪地で渦巻く眼窩のその奥に何も見えて来ない何も
帰らない

 句読点がないと、文章の区切りがあいまいになるけれど、そのあいまいさは逆に意識そのものの連続の強さを浮かび上がらせる。
 はずなのだけれど。
 いや、実際そういうことばの運動のなかにおもしろいものがあるのだけれど、特にタイトルになっていることばのように、木の葉の葉脈がまるで古代都市の路地というか迷路というか、そういうものをひきつれて動く感じはおもしろいのだけれど。
 うーん。
 書き出してすぐあらわれる「その」が、ちょっと、ねえ。
 「その」というのは指示詞、先行することばを指し示す。「その」によって、ことばの運動がいったん先行する部分にもどる。そうすると、せっかく句読点なしで、前へ前へと動いてきた運動が反復することになり、どうしても意識のなかに句読点を持ち込んでしまう。
 句読点をなしにしてしまった以上、文章は引き返してはいけない。突っ走らないといけない。わけがわからなくならない、おもしろくない。わけがわからないのだけれど、をわーっ、遠くまできてしまったなあ、というのが句読点のない文章の魅力だと思う。えっ、こんなところまできてしまったのか、という驚きが、「わかる」ということにとってかわるとき、私は感動する。
 そういう感動的な何かを、福田は「その」によって半減させている。
 もうひとつ。
 「その」と同じように繰り返される「ない」という否定も、私は、句読点のないことばの運動には不向きだと思う。「風の吹かない」「視線のない」「見えて来ない」「帰らない」と否定されるたびに、読んでいることばが止まってしまう。突っ走っていかない。これは、かなり興をそがれる。

尾形亀之助の詩―大正的「解体」から昭和的「無」へ
福田 拓也
思潮社

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谷川俊太郎『こころ』(33)

2013-08-28 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(33)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「手と心」を読みながら、すけべっていいなあ、と思う。年齢に差がない。そして国籍にも差がない。人間のすることは同じだ。その「同じ」が全部を引き寄せる。

手を手に重ねる
手を膝に置く
手を肩にまわす
手で頬に触れる
手が背を撫でる
手と心は仲がいい

 「手と心は仲がいい」かどうかわからないけれど、手はこころのいうことを聞いて動いてくれる。いや、それとも手の動きに合わせてこころが動くのかな?
 で、ここまでは、すけべもそんなにたいしたこと(?)はないのだが、2連目はどうかな? 「こころ」は朝日新聞の夕刊に連載された。そのページは子供も読むページだったと思うけれど(私は子ども向けのページだと思って読んでいたけれど)、うーん、

手がまさぐる
手は焦る
手が間違える
手は迷走しはじめる
手ひどく叩かれる
手はときには早すぎる
心よりも

 これって、すけべな手が、「だめ」と叱られて、手をたたかれるってことだよね。こういうことって、若いときにも、中年のときにも、谷川のような老人になっても起きることなんだね。
 これを、子供にも、平気で、ことばとして差し出す。ここが、不思議。
 人間って、いったいいくつからすけべなんだろう。
 ここに書いてあることば、それが肉体の動きとして「見える」のは何歳からだろう。わからないけれど、きっと、このことばを読むことができる年齢の人間なら、そのまますぐわかるし、ことばが読めなくても、そういう肉体の動きを見たことがあれば、きっとすぐわかる。

 最後の2行が、まあ、「意味」なんだろうけれど。鑑賞のポイント(分かれ道)なんだろうけれど、私は「意味」から離れて、つまり「文学」に背を向けて、もっと切実な問題として(すけべになって)、考えてみたい。

手はときには早すぎる
心よりも

 この手は、女の体をまさぐった手? それとも間違えたふりをして微妙なところへのびてくる手をたたいた手? どっちのことを言っているのだろう。相手のこころに気を配るよりも、まず自分の欲望で動いてしまう手(肉体)を「早すぎる」と言っているのか。それとも、そんなふうに動いてくる手を拒んでしまった手に対して、「だめ」と叩いたりしなければよかったと思っているのか。
 つまり、というか、なんというか……。
 で、すけべは、それからどうなるの?
 いたずらな手は叩かれておしまい? 叩いておしまい?
 そうじゃないかもしれない。それが刺戟になって、「早すぎる」展開が、さらに加速することもあるよね。
 というところまで妄想すると、うーん、これは子供の妄想を通り越しているかな?



女に
谷川 俊太郎
集英社
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ローランド・エメリッヒ監督「ホワイトハウス・ダウン」(★★★)

2013-08-28 23:02:44 | 映画
監督 ローランド・エメリッヒ 出演 チャニング・テイタム、ジェイミー・フォックス


 アメリカ映画は最近、家族愛が譲れぬテーマのようである。世界を救うのは大義名分ではなく家族愛。愛する家族を守るために闘う--その結果が国を救うということになる。世界を救うということになる。
 帝国主義をカムフラージュするための方便かな……。
 ということは、あまり話題にする必要もないのかもしれない。
 この映画がおもしろいのは、一方に核兵器という巨大な兵器があり、他方にペンではなくてユーチューブという庶民の兵器があるということだね。綿密に仕組んだ計画も、瞬間的に盗られた映像の公開には負けてしまう。チャンスさえあれば誰でも情報を公開し、世論を味方にすることができる。
 まあ、いいことではあるんだけれどね。
 さらに。
 だれもがスマートフォンをもつ時代(私はもっていないけれどね)、それを逆手につかってポケットベルを活用して情報を伝達する。だれも、そんなものをつかうと思っていないから、チェックしない。そういう情報網の「盲点」をつく。--これは、おもしろかったなあ。
 やったね、という感じ。
 で、そういう「小業」をていねいに描いて、一方で大仕掛けの銃撃戦、だけではなく戦闘機や戦車まで出てくる。視線のひきつけどころが、とても変化に富んでいる。情報量が多くて、それが、ひとつひとつ光っている。
 カーチェイス(?)がホワイトハウスの敷地内に限定されているなんて、笑っちゃうよね。マリリン・モンローとケネディ大統領の密会のための秘密の廊下、なんてくすぐりもきちんと折り込んで、伏線もしっかりしている。
 これは、まあ、脚本の勝利だね。
                        (2013年08月28日、天神東宝5)
インデペンデンス・デイ [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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本多寿編「みえのふみあき『枝』」

2013-08-28 10:45:06 | 詩集
本多寿編「みえのふみあき『枝』」(本多企画、2013年08月01日発行)

 この詩集はみえのふみあきの詩集ではない。みえのが「乾河」という同人誌に発表した「Occurence 」というシリーズを中心に編集しているふりをしているが、みえのの作品が一冊になっているわけではない。
 「Occurence 」は、私は「乾河」で全部読んでいる。しかし、この本にあつめられている作品は、どれもこれもみえのの書いたものとは違う。私は、このうちの、どの作品も読んだことはない。手元に「乾河」がないので比較できないが、こんな詩ではなかったはずだ。一篇、「窓辺」だけは、もしかしたら、これだけはみえのの作品かもしれない、と思ったが……。
 で、いらいらするような違和感を覚えながら、本多寿の書いた「あとがき」を読んで、びっくりした。

 彼が生きていたら、おそらく改稿したであろう個所は私が手直しするわけにもいかないので、生前に指摘していた明らかな間違いだけを改稿した。また発表時、すべてのタイトルについていた「にて」については、少々気になるので削除した。(96ページ)

 「明らかな間違い」は「誤植」のことだろうか。「生前に指摘していた」とは誰が指摘していたのか。みえのが語ったのか。「誤植」には単純なミスもあるかもしれないが、あえて「誤植(誤字)」をつかうこたともある。造語もある。(あとで引用する作品には「過ぎり」という奇妙なことば--私の知らないことばが出てくる。意味の見当はつくが……。)それはきちんと確認したのだろうか。
 こういう疑問をもつのは、

また発表時、すべてのタイトルについていた「にて」については、少々気になるので削除した。

 とあるからだ。「少々気になる」とはどういうことだろうか。みえのは、必要があって「……にて」というタイトルにしている。それを「気になる」としたら、それは本多がみえのの作品を理解していないからである。
 こんな改悪をしておいて、

みえのの秀れた詩を埋もれたままにしておくのが忍びなかった

 とは冗談にもほどがある。みえののことを思ってつくられた詩集ではなく、本多が本多自身と本多企画を宣伝するためにみえのを利用しただけである。友人を名のり、売名行為をしているとしか思えない。
 虫酸が走る。
 ほんとうにみえのの作品をすばらしいと思うなら、この詩集は廃棄して、タイトルを発表時に戻し、「誤植」を直した場合は補註として明記すべきだろう。詩集をつくり直すべきだろう。



 一篇、「窓辺」(正確には「窓辺にて」というタイトル)がみえのを思い起こさせるのは、この詩のなかにみえののキーワードがあるからである。そして、そのキーワードは「……にて」の「にて」と深い繋がりがある。

窓を隔てて
雨滴が流れ
窓を隔てて
猫が過ぎり
窓を隔てて
枯葉が舞い
窓を隔てて
古紙収集車の呼声が通りすぎる

 「窓を隔てて」という行が繰り返される。この行の中の「隔てて」がみえのの詩のキーワードである。少なくとも「Occurence 」のキーワードである。
 「ぼく」(詩の後半でつかっている「主語」)は、世界認識の仕方が独特である。対象と一体化しない。「ぼく」は「ぼく」のなかにとどまり、「ぼく」から隔たったところに「ぼく以外の世界」が存在する--それを見つめている。あるいは聞いている。「感覚」を動かして把握している。
 「ぼくの内部」にあることは、「ぼく」自身の決定で変更ができるが、「ぼくの外部」については変更はしない。「ぼく」は「外部」と交渉し、外部をつくりかえる形での一体化はしないのだ。それは、みえのの「つつしみ」のようなものである。「ぼく」が「外部」に積極的に働きかけ一体化するということは、「外部」が「ぼく」によって変更してしまうということである。「ぼく」がいないときの「外部」は、「ぼく」と一体化させられてしまうと、それまでの「外部」のままではいられない。--そのこと、そのときにおきる変化が、みえのには「重荷」のように感じられるのだろう。働きかけを暴力的だと思うのかもしれない。
 だから、切り離すのだ。
 「世界」がある。その「世界」に、みえのはやって来る。やって来はするのだが、あくまでそれは「接近」の一種である。どんなに「内部」に入ろうとも、そこに小さな「部屋」のようなものをつくり、「窓を隔てて」外部の「世界」を見る。何か問題があれば、すぐにその場を離れる準備をしている。直接交渉ではなく、間接交渉。常に「隔たり」がある。
 それが「……にて」の「にて」なのである。

 「窓辺にて」、みえのは「世界」と自分の関係を見つめている。それは「窓辺」のことを描いているのではない。「窓辺に/いて」(窓辺までやって来て)、「世界」と「自分」が隔たっているということを自覚して、自分がいなくても動いている世界(完結している世界)というものを見つめている。
 その「世界」で起きていることは、自分の内部でも起きたこと(記憶/過去)であり、これから起きること(未来)でもある。「外部の世界」と「ぼく(の内部の世界)」は、その「起きたこと/起きること/起きうること」の「こと」のなかで重なるが、
 この「こと」というのも「もの」ではない。
 「こと」というのは「認識」である。「こと」は「もの」を借りて浮かび上がるが、その「こと」自体は、「ぼく」が「ことば」をとおして定義し直したものである。ことばを借りて定義し直したものである。
 で、このことばを借りて定義し直した「もの」、「もの」としてのことば--それが詩であり、それが「こと」なのだ。
 「Occurence 」ということばを私は知らない。聞いたことがないし、つかったことがない。だからみえのの詩のなかだけで判断するのだが、それは私の知っている日本語にすれば「こと」である。「こと」は基本的に、個人の内部で生起する。もちろん「外部」でも何事かは起きるが、それを自分なりに把握しないかぎり、それは「こと」としては迫ってこない。
 津波が襲ってきても、原子力発電所が爆発しても、それは「津波の襲来」「原発の事故」である。「こと」ではない。それが「大変なこと」になるのは、自分の内部にとりこみ、自分のことばで、自分を組み立て直すときである。津波に対してどうしていいかわからない。原発事故に対してどうしていいかわからない。逃げる、と簡単に言うけれど、どこへ、どこまで? わからないから「大変なこと」なのである。「大変なこと」としか言いようがないのである。
 だから。
 たとえば「窓辺にて」、窓を隔てて、自分の外にある世界で起きている「こと」を、自分のことばでとらえ直し、同時にそうすることで自分を作り直し、自分のなかでおきている「こと」を整えるのだ。
 津波がくるとわかったら、それを「見ること」をするのではなく、「逃げること」をするのだ。そういう準備を自分の内部でするのだ。
 ときには、自分の内部で起きている「こと」を代弁してくれる外部の「こと」を探すのだ。「そっちじゃない、右の方、山の方へ逃げて」と祈ったりするのだ。
 室内に閉じこもりながら、外を歩き回る猫に自由や、あるいは孤独なこころを遊ばせ、自分を解き放つのである。

 「窓辺にて」の後半を読むと、その関係がわかる。私の、まだるっこしい「こと」の繰り返しの説明はいらないはずだ。
 だったら、それを引用すればいいではないか--という声が聞こえてきそうだが、私は、しない。
 本多寿への抗議として。
 みえのふみあきは病気で死んだ。病気がみえののいのちを奪った。そして、それに追い打ちをかけるように、本多寿がみえのふみあきのことばから詩を奪った。みえのふみあきのことばを殺したのだ。

方法―みえのふみあき詩集 (1982年) (レアリテ叢書〈10〉)
みえの ふみあき
レアリテの会
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谷川俊太郎『こころ』(32)

2013-08-27 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(32)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心よ」という詩は「矛盾」している。

心よ
一瞬もじっとしていない心よ
どうすればおまえを
言葉でつかまえられるのか
滴り流れ淀み渦巻く水の比喩も
照り曇り閃き翳る光の比喩も
おまえを標本のように留めてしまう

 比喩にしてつかまえると、それは「標本」のようになってしまう。だから、それはつかまえたとこにはならない--ということは、動いたままの心をつかまえたいということなのだけれど、
 うーん、
 動き回っていたらつかまえたことにならないよね。
 で、思わず「矛盾している」と書いてしまうのだが、実は、それが矛盾とは感じられない。
 こういうところが詩の不思議なところ。
 そして谷川の詩の不思議なところ。

 比喩をつかって、あることをつかみとる。ふつうは、そこで詩が完結する。ところが谷川は、そういう完結を自分で否定して、つかみとったものを捨て去る。
 矛盾したもの、というよりも、矛盾する力に詩の秘密を見ているだ。
 かけ離れたもの(日常ではであうはずのないもの、いわば「矛盾」に通じるようなもの)の出会いに詩があるというけれど、その詩は固定してしまうと、もう詩ではなくなる。手術台の上でミシンとこうもり傘が出合ったときに詩が生まれたとしても、その出会いを繰り返してしまうと、もう詩ではなくなる。繰り返せば、もう「矛盾(新鮮な出会い)」ではなくなる。

 矛盾する力とは、でも、何だろう。

音楽ですらまどろこしい変幻自在
心は私の私有ではない
私が心の宇宙を生きているのだ
高速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「矛盾する力」とは「私を否定する力」と言いかえることができるかもしれない。「私」を否定するとき「私」が存在する--という矛盾の中から生まれてくる「真実」とは、この世には「宇宙」があるということかもしれない。「私」を産み出す宇宙--それと谷川の詩はつながるのだ。

谷川俊太郎の33の質問 (ちくま文庫)
谷川 俊太郎
筑摩書房
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大倉元『祖谷』

2013-08-27 10:49:51 | 詩集
大倉元『祖谷』(澪標、2013年05月25日発行)

 大倉元『祖谷』は故郷の日々のことが書かれている。先日読んだ谷元益男『骨の気配』との違いは、暮らしを美化していないことである。谷元益男『骨の気配』の方がことばの洗練(熟練?)という意味では熟達しているのだが、それはあくまで「流通詩(流通近代詩?)」の「文法」内のことであって、それが「流通詩」におさまっているところが気持ちが悪い。大倉は「流通詩」の内部に入らずに書いている。「流通詩」の外部にいて、詩を書いている。
 「飴買い子育て幽霊」というのは戦後の旅回りの芝居を見たときのことを書いている。大倉は母親といっしょにそれを見た。タイトルは芝居の演目で、その内容というのは、

夜毎女が飴を買いに来る
女が帰った後で金は木の葉に変わっていた
女は墓の前で幽霊になり
乱れた髪を振りながらゆっくり辺りを見わたし
スーと消えて行く
墓からは赤子の泣き声が聞こえてくる
女は死んでから赤児を生んだのだ
幽霊となりながらも
生まれたばかりの児を育てているのだ

 で、この芝居は、京名物「幽霊 子育て飴」の由来そのままであることを知る。

土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返
し見ればなくなりし妻の産みたる児にて
ありき、然るに其の当時夜な夜な飴を買
いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる
後は、来らざるなりと。

 ここに書かれていることは「理不尽」である。非現実的(非科学的)である。死んだ妻が妊娠している、というところまでは現実にありうる。死んだ後に赤ん坊が生まれる、ということもないではないが、墓に埋められてから赤ん坊を産むということはありえないし、その赤ん坊が飴で育つということもありえない。その赤ん坊を夫が土中から掘り返して育てるということもありえない。
 でも、そういうありえないことの中に「真実」がないかといえば、そうではない。かぎりない真実がある。妊娠したまま死んでいく母親の無念、哀れという真実があり、引き継がれる命を育てたいという切実な真実がある。ひとは、それを感じ取り、それが嘘だとわかっていても、それを引き継ぐ。その真実の中に、自分のかなえられない何かがあるからだ。
 大倉は母といっしょにその芝居を見ながら何を感じたか。きちんとことばにしようとするときちんと言えないかもしれないが、そばにいる母親も、きっと幽霊の母親と同じ気持ち(母親には幽霊の気持ちがわかっている)だろうと感じた。それはまた、大倉が土中で泣いている赤子を自分であると感じたということでもある。「常識」を越えるものが母と子、肉親のあいだに存在する。それは「非常識」であるからこそ、真実なのである。そこには「祈り」という本能がある。

飴を口に入れる
甘い香りのなかに
六十年前の
母やんとぼくが居る
母やんの手が温かい

 「温かい手」のその温かさは「肉体」で感じることしかできない。「頭」ではつかみとれない真実である。
 私は「頭」で整えられた詩、詩を偽装した修辞学よりも、「肉体」が信じ込んでいる「嘘」のなかにある「祈り(欲望/本能)」を信じる。

 苦しい暮らし(貧しい暮らし)のなかで、大倉は「泥棒」を3回はたらいたと書いている。そして、泥棒被害にあったことも書いている。高校に入学し、教科書を買う。その教科書を盗られてしまう。下宿先の親類のおばさんに金を借りて教科書を買い直し、大倉は授業を受けるのだが……。

ぼくは思った
ぼくより貧乏な生徒がいるものだと
僅かばかりの山林はほとんどなくなっていた

都会での高校生活は
村では一番の賢い坊主とおだてられてたが
正直 勉強にはついていけず成績も良くなく
大運にも恵まれなかった

どんなことがあってもあの時の悲しみを
他人様に与えてはならないと
心に命じて生きてきた
どうにかこうにか古希を超えた

あの教科書で授業を受けた者も
どうか幸せであってほしい

 ここに書かれている「他人様」「幸せ」ということばは美しい。ほかに言い換えがきかない。そこに詩がある。


祖谷―詩集
大倉元
澪標
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谷川俊太郎『こころ』(31)

2013-08-26 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(31)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 詩の話者はだれか。「午前四時」という作品。

枕もとの携帯が鳴った
「もしもし」と言ったが
息遣いが聞こえるだけ
誰なのかは分かっているから
切れない

無言は恐ろしい
私の心はフリーズする

 谷川自身とも読むことができる。ところが、私は、谷川自身よりも、谷川ではないだれか、若い女性を思い浮かべてしまう。若いといってもティーンエイジャーではない。18歳くらいから20代の後半くらいまでの女性を思い浮かべてしまう。
 さらに電話をかけてきた相手は男で、彼とは恋愛関係にあったのだが、いまは関係がややこしくなっている、というようなことまで思い浮かべてしまう。
 そして、そういう状況にある若い女性が、こころを凍らせているところを想像する。
 なぜだろう。
 最近(といっても、数か月というよりは、ここ 2- 3年)、ストーカーなどが話題になっているからだろうか。「無言電話」がいやがらせとして社会的に「認知」されているからだろうか。
 そうだとして。
 どうして谷川は若い女性を「話者(主人公)」にして詩を書くことにしたのだろうか。いや、どうして私は谷川が若い女性を「話者」にしていると感じたのだろうか。
 どこかで、私は若い女性を「枠」にはめてとらえているのだろうか。

 この疑問は疑問として、そのまま保留して。
 次の展開に私は驚く。

言葉までの道のりの途中で
迷子になった二つの心を
宇宙へと散乱する無音の電波が
かろうじてむすんでいる

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 これが、若い女性のことばとは思えない。--というのは、私が若い女性をある一定の「枠」でとらえているという証拠であり、谷川は、「流通女性像」にとらわれず、自在にことばを動かすことで、そこに新しい女性を産み出していることになる。
 「宇宙へと散乱する無音の電波が」の「宇宙」は、私には「谷川語」に見える。その「谷川語」をかかえたまま、谷川は若い女性になっていく。若い女性と「ひとつ」になる。この「融合」の仕方が、なんともすごい。
 自在とは、こういうことをいう。谷川以外に、こういうことばの展開はできないと思う。「私の心はフリーズする」というようなことばをつかったあとでは、どうしたって「やばくない?/やばいっすね」というような、「若者ことば」を動かすことで「話者」を浮かび上がらせがちだが、そういう「読者」の想像力(流通想像力)を谷川は、すばやく裏切って、詩をさらに別次元へと切り開いていく。







こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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ピーター・ウェーバー監督「終戦のエンペラー」(★)

2013-08-26 10:08:03 | 映画


監督 ピーター・ウェーバー 出演 マシュー・フォックス、トミー・リー・ジョーンズ、夏八木勲

 トミー・リー・ジョーンズがどんなふうに天皇を裁くのか、天皇と向き合うのか--それを楽しみに見たのだが。
 期待外れ。
 映画は、マッカーサーが主役ではない。マッカーサーの部下の日本通の兵士が主役。マシュー・フォックスが開戦、終戦に天皇がどう動いたかを調べる過程を追う。天皇の側近や軍部の幹部と面会しながら事実を探る。
 それだけならおもしろくなったかもしれない。そこに恋愛が絡んでくる。日本の女性がマシュー・フォックスの恋人で、マシュー・フォックスは天皇の戦争責任を調べると同時に恋人の消息も探している。
 若い男にとって恋人の消息と、天皇の戦争責任の追及は「同じもの」なのかもしれないけれど、これは、ちょっとねえ。あまりにも戦争責任というものをあまく見ていない? 同時並行で調べるのにはむりがない?
 ここに描かれている天皇の姿が「真実」かどうか知らないが、これでは、ご都合主義のフィクションに見えてしまう。ほんとうに、そうだったの? 逆に疑問がわいてくるね。いま、なぜ、こんな映画?

 映画のなかでは、唯一、夏八木勲が天皇を信じきって演技していて、彼が登場するシーンだけ不思議な充実感があった。
                        (2013年07月39日、天神東宝3)


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林嗣夫「明るい余震」

2013-08-26 09:12:10 | 詩集
林嗣夫「明るい余震」(「兆」159 、2013年08月01日発行)

 林嗣夫「明るい余震」を読んでいて、一瞬タイトルを忘れた。

近くの畑に枝豆の種を植えて
庭の蛇口で手足を洗って
立ち上がったとき
そばの これから咲こうとするアジサイの花房で
日光浴をしていたトカゲが
ぴょーんと
下に向かってダイビングした
宇宙遊泳するように

いや
わたしが立ち上がったからトカゲが驚いたのか
トカゲが光ったからわたしが立ったのか
それとも何か
例えば
先ほど植えた枝豆のせいだったのか
アジサイの小枝が揺れた

 「アジサイの小枝が揺れた」から「地震(余震)」を思い浮かべればいいのかもしれないけれど、地面が揺れる感じがしない。トカゲがダイビングする感じがいいなあ、宇宙遊泳か、とこころが別な方向に動いて行ってしまう。
 で、最後の連。

トカゲはダイビングして
どこの木の下闇に潜ったのだろう
わたしは屋根の下に隠れたのだが
しばらく
明るい宇宙の
余震がつづいた

 あ、「宇宙の余震」か。
 林が立ち上がり、トカゲがアジサイから飛び下りる。そこにどんな繋がりがあるか。わからないけれど、それは「宇宙」で起きたことがらなのだ。宇宙は、そのことに驚いて、まだ揺れている。
 宇宙はどこからでも揺れるのだね。

 (きょうから右手もつかってみる。恐る恐る、である。ことばがなかなか動かない。ことばは、やっぱり頭だけで動かすものではない、ということを実感する日々。--ということで、短い感想。)
 

風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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谷川俊太郎『こころ』(30)

2013-08-25 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(30)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 谷川はときどき少女(女性)を「話者」にして詩を書く。私はその詩がとても好きだ。「絵」も、その一篇。

女の子は心の中の地平線を
クレヨンで画用紙の上に移動させた
手前には好きな男の子と自分の後姿(うしろすがた)
地平に向かって手をつないでいる

 地平線を画用紙の上に移動させたのは、地平線によってできる野原(?)にふたりの姿を描きたかったからだ。頭が地平線の上にあるのではなく、あくまで地平線の下。地平線は遠く、その向こうは見えないのだけれど、そこにあるものを一緒に信じて歩いてゆくふたり。

何十年も後になって彼女は不意に
むかし描いたその絵を思い出す
そのときの自分の気持ちも
男の子の汗くささといっしょに

わけも分からず涙があふれた
夫に背を向けて眠る彼女の目から

 3連目が、突然世界を変える。「夫」は「男の子」と同じ人物だろうか。違う人物だろうか。同じ人物だとしても、むかしとは「雰囲気」が違ってしまったのだろう。「手をつないで」ではなく「背をむけて」という具合に。
 で、その突然の変化が、分裂になるのではなく「ひとつ」になる。「起承転結」の「転結」が一気におしよせた感じで、最初の「絵」を切なく浮かび上がらせる。楽しい、ほほえましい絵が、一気にせつなくなる。
 うーーん、短編小説のようだ。

 そう思うと同時に、あ、このこころの急激な変化は女そのものだ。男はこういう急展開の変化をしないなあ、とも思う。女が、くっきり、見える。
 ジョイスの「ダブリン市民」のなかの「死者たち」のラストのようでもある。
 すごい変化なのに、女はかわらないんだなあ、とも思う。かわらないから「せつない(かなしい)」ということも起きる。
 こういうことを10行で書いてしまうのはすごいなあ。


すこやかにおだやかにしなやかに
谷川 俊太郎
佼成出版社
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