詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高岡淳四「その日の俺はかなり飲んでいた」ほか

2012-01-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高岡淳四「その日の俺はかなり飲んでいた」ほか(「現代詩手帖」2012年02月号)

 高岡淳四の詩は、私にはいつもおもしろい。ことばの速度に矛盾がない。そのため非常に軽快である。そして、この軽快には、明晰という「哲学」がひそんでいるのだが、さらにその明晰を客観という「哲学」が裏打ちしている。この客観を、笑いという「哲学」が貫いている。客観的で、明晰で、軽快なものは、常に笑いにまで昇華する、ということかもしれない。
 「その日の俺はかなり飲んでいた」は、まあ、タイトル通りの、「その日」の行動を書いている。

駅のトイレに寄るべきだった
深夜のコンビニのトイレは誰かが使用中である
買い物を先に済ませて、雑誌を読みながらドアを窺うが
一向に出てくる気配がない
俺はノックしてみた
誰かはノックを返してきた
ふとドアの向こうの知りもしない奴のことをからかいたい気持ちになって
今度は人差し指の第二関節で強くノックした
奴は拳でノックを返してきた
俺はトイレのドアを蹴り上げた
人間のものとは思えないわめき声がした
コンビニの入り口に下がってドアが開くのを待つ
青ざめた男が飛び出してきた
きっとこいつはゲロ臭い
俺は笑いながらコンビニを出た
赤信号を無視してクラクションを喰らわされながら横断歩道を渡り
タクシー乗り場のタクシーに乗り込んで去った
通行人たちが車内の俺を凝視している

 書き出しの「駅のトイレに寄るべきだった」は散文的な、味気ない1行に見えるかもしれないが、これがまずおもしろい。この1行は高岡が「思ったこと」が書かれているのだが、「思ったこと」が「思い」のなかにとどまらず「事実」になっている。--この「思い」と「事実」の距離感が、そのままこの詩を貫き、その距離感の一定の感じがことばの速度の一定につながる。そして矛盾のなさにつながる。
 「買い物を先に済ませて、雑誌を読みながらドアを窺うが」という行の正直さに、とてもうれしくなる。この正直さが、そのまま「一向に出てくる気配がない」という「思い」を「事実」にかえてしまう。
 だれもが経験したことがあるようなことなのだが、--そうか、あのとき、ことばはこんなふうに動いていたのかと、あらためて思う。「事実」は、書き手と読み手の垣根を消してしまう。まるで高岡の「体験」を読んでいるというよりも、私自身の「肉体」のなかにあったことばを見つめなおしているような感じになる。
 で、そうなると。
 そこに書かれていることは高岡がやったことであって、私のやったことではないのだが、私がやったかもしれないことになってしまう。
 「今度は人差し指の第二関節で強くノックした」の「人差し指の第二関節」というこまかな肉体の特定が、ほら、思わず自分の手で「人差し指の第二関節」を確かめてしまうでしょ?
 この客観と主観、他者と私のを混同させることばの強靱さがいいなあ。
 それで……。
 高岡のやっていること、これはかなり「いやあなこと」だねえ。こんなこと、されたくないなあ。されたくないことを、でも、してみたいかも。「いやあなこと」には何か、そういう本能的な矛盾がある。
 そういうことを、最後の1行、

通行人たちが車内の俺を凝視している

 で、ぱっと突き放してしまう。「凝視」というのは特別「客観」を意味しないけれど、その視線の力が、高岡を「対象化」する。そして、それは同時に高岡自身が高岡を「対象化」する、ということでもある。「対象化」というのは「客観化」へと自然に移っていく。その、ことばの速度、意味の変化の速度が、私には気持ちがいい。
 通行人たちが凝視しているのは「車内の俺」なのだが、その「車内の俺」が、高岡にとっては「俺の内部」(俺の気持ち)へと自然に移行していく。その変化が、私には、とても気持ちよく感じられる。

 「所詮、詩と関係ないことで詩人の悪口を言った俺が悪いのである」も、まあ、タイトル通りのことを書いている。

詩人がいっぱいいる宴会で、ある詩人のことをボケ老人と言ってみた。
どうして? と聞かれてから
答えられないことに気がついた。

 この書き出しの3行はヶ策だねえ。「答えられないことに気がついた」の正直さに笑いだしてしまう。正直が客観化されて、事実となるときの、このスピードは高岡以外にはないことばの運動だと思う。(←ここが、高岡の「天才」。)
 で、途中を省略してしまうけれど、

所詮、詩と関係ないことで詩人の悪口を言った俺が悪いのである。
本当に今更、どの面を下げて、
こんなところに顔を出しているんだろうねえ。
わざわざビール瓶とコップを持ってこちらのテーブルに来る間抜けもいた。

 ここで笑っていいのかどうかわからないが、最後の1行も大好きだなあ。そうだねえ、「間抜け」というのはこういうときにつかうんだねえ。こういう具合につかうんだねえ。




おやじは山を下れるか?
高岡 淳四
思潮社
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クリント・イーストウッド監督「J・エドガー」(★★★★★)

2012-01-31 20:30:26 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 レオナルド・ディカプリオ、ナオミ・ワッツ、アーミー・ハマー、ジュディ・デンチ

 この映画はとても変わっている。タイトルから、驚いてしまう。なぜ「フーバー」が省略されているのだろう。私は映画館でチケットを買う時「フーバー」と言ってしまって、係員から「J・エドガーですね」と念を押された。えっ、「フーバー」という名前はタイトルにないのか、とその時気がついた。そうか、イーストウッドはフーバーを題材にしながら、フーバーを描いていないのか。タイトルはファーストネームさえイニシアルにしている。
 では、何を描いたのか。
 愛、だね。
 表面的にはアメリカへの愛。国家というか、理想の体制への愛。そこには不思議な不寛容がある。なぜ、他人を寛容できない? それは、言いかえると自分を寛容できない、ということだね。緊張した時の吃音のみっともなさ。女性ではなく、男性の方にひかれること。それは、アメリカの理想、あるいは母親の理想とは違う。だから、肯定できない。肯定すべきは「理想」だけである。その「理想」実現のためなら、違法行為もかまわない。あるいは、そうすることが「違法」なら、「違法」にならないように法律を作りかえればいい。――この、激烈な情熱の不思議さ。
 もしフーバーがこの情熱を、彼自身の内部にうごめく本能を実現するために傾けていたらどうなっただろうか。簡単に言うと、男にひかれるという本能は間違っていない、男にひかれてもいいのだ、と言い切ってしまえたらどうなっていただろう。ゲイに対する世間の不寛容に対して怒り、その不寛容を打ち破るために情熱を傾けていたら、どうなっただろう。
 情報管理、情報操作のエキスパートではなく、性の解放のリーダー、マイノリティーの解放のリーダーになっていたかもしれない。
 自己の内なるマイノリティーに対して不寛容を貫き、その反作用のようにしてアメリカ社会のマイノリティーを拒絶する。あるいは社会的悪を撲滅する。その激しさの奥に、彼自身のマイノリティー、悪とみなしている本能が燃え上がっている。
 この葛藤を、イーストウッドは相変わらずの慎み深い抑制で描き切る。描きようによってはどこまでもエキセントリックになるところを、エキセントリックを避けている。ディカプリオに対しても、演技を拒絶して、ただそこに存在させている。演技は必要がない。カメラが演技をする――カメラの演技を受け入れるのが役者の肉体である、とでも言うように。
 たしかに映画はそういうものだろう。カメラが演技をし、役者は肉体を提供する。カメラの演技が世界を切り取るのであって、役者の肉体が世界のフレームを作るわけではない。
 このときのイーストウッドの「カメラの演技」というのが、相変わらずすごい。語りすぎない。完璧に言い切らない。映像の頂点寸前で閉じる。一番いいシーンは観客の想像力の中にある。出だしの、1919年当時の司法長官の家が爆弾テロ事件の爆弾シーンが象徴的である。「ヒア・アフター」の津波のシーンもそうだったが、もっと強烈なシーンがあるはずなのにその手前で終わる。7語れば10わかる――それが人間だと信じている。10語れば、ひとは12を想像してしまう――つまり反応に余剰(過剰)が生まれ、それが世界を汚してゆく。あ、まるでフーバーの世界への向き合い方だね、この余剰・過剰反応は。イーストウッドはこういう余剰・過剰が大嫌いなひとのように見える。
 この余剰・過剰を排除した映像は、ディカプリオとアーミー・ハマーの愛のシーンにすばらしい輝きを与えている。ディカプリオがハマーを見染める。ハマーがディカプリオに見染められたと直感する――これを目の色の変化、目の輝きの変化だけで見せる。ふーん、愛が行き交う瞬間は、直感は、こんなに短く、こんなに強いのか、とびっくりする。男も女も、この直感の力に差はないね。そのあとの、2人が手を握り、握りかえすアップもいいもんだねえ。秘密の愛が行き交う感じが濃密で、あ、私もディカプリオの手を握り返してみたい、なんて思ってしまったなあ。(あ、フーバーじゃなくて、ほかの役をやっているときがいいけれど。「キャッチ・ミー、イフ・ユー・キャン」ならうれしいけれどね、なんちゃって。)で、この抑制が利いた映像が下地にあるから、2人が喧嘩し殴り合うシーン、キスするシーンが、感情の発露として非常に効果的。最初から燃え上がっていたら、この喧嘩はありふれた痴話喧嘩になりさがるからねえ。
 ナオミ・ワッツ、ジュディ・デンチとディカプリオの愛も、とてもおもしろい。2人の女性の間で、ディカプリオは均衡を保っている。1人ではだめなのだ。献身的な女性と激しく叱ってくれる女性の2人がいて、ディカプリオは安定する。フーバーが生涯独身だったのは、二面性を持つ女性がいなかったということかもしれない。副長官との愛がつづいたのは、彼がフーバーの行動を実践的に支えると同時に、「それは違法なのではないか」と批判もするという二面性をもっていたのではないのか、という気がする。
 ――と、ここまで書いてくると、この映画のもうひとつのテーマも、「肉体的」に見えてくる。ディカプリオの肉体として見えてくる。つまり、アメリカの現代史の光と闇が、フーバーの行動のなかで不思議なバランスをとって動いている、ということがわかる。何にでも二面性がある。その二面性を、ひとつの「肉体」として具現化したのがフーバーなのである。
 ディカプリオは、このイーストウッドの要求をきちんと把握し、しっかり演技していた。名演である。ナオミ・ワッツもジュディ・デンチもよかった。リンドバーグを演じたのは誰かよくわからないが、彼もよかった。



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小池昌代『黒蜜』

2012-01-30 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『黒蜜』(筑摩書房、2011年09月20日発行)

 小池昌代『黒蜜』の帯に「瑞々しくも恐ろしい子どもの世界」と書かれている。そして「倦怠を知ったのは、八歳のときだ」という刺激的な文が引用されている。でも、私の読んだ印象は、そこに書かれていることとかけ離れている。子どもが描かれているが、そうして子どもが主人公のように書かれている作品もあるが、子どもの視線ではない部分の方がわたしにはおもしろく感じられる。
 「鈴」という作品の最初の方に飛行機事故をテレビで知る場面がある。解説者がコメントしている。事故から微妙にずれて、奇妙な解説である。

 人生の奥義につきあたったのか、解説者は口ごもって歯切れが悪い。その淀みにこそ面白さを覚えて、翼の母はじっと画面を凝視したが、アナウンサーは、さっと残酷に切断して、天気予報へとつないでしまった。

 「その淀みにこそ面白さを覚えて」という部分が楽しい。「淀み」と「面白さ」の結びつきに、小池の「肉体」を感じる。そして、この「淀み」を「面白い」と感じる感覚は、子どもの感覚とは相いれないものだと思う。
 「淀み」を「面白い」と感じる「肉体」だけが、アナウンサーの切り換えを「残酷に切断して」と言える。
 そうか、「淀み」の反対のことばは「切断」であり、その「切断」を「残酷」と言うのか。「残酷」は「淀み」の対極にあるのか。「淀み」とは、何事も「切断」しないことであり、その「淀み」のなかには「残酷」ではなく、「温かさ」のような「触覚」がごちゃごちゃにいりみだれているということだろう。「淀み」には、たしかに受け入れなければすんだものがたまりつづけて濁っていくときの、妙な「不自由さ」と、それゆえの「ぬるい」感じ、触覚を誘い込むとろりとしたものがあるなあ、と思う。
 小池の書いているのは短編であり、詩ではないのだが、こういう部分に出合うと、詩を感じるのである。

 こんな、なにもしゃべらない子といっしょにいて、翼はほんとうに楽しいのか。
 翼の母は、一瞬、高行のことを憎みたいような気持ちになった。

 この母の(大人の)描写も、面白いというか、説得力がある。「憎んだ」ではなく「憎みたいような気持ちになった」という「ことばの長さ」のなかに、私はやっぱり、ほーっと思うのである。
 「切断」ではなく、「接触面」というのだろうか--あ、これは、適当なことを書いているので、正しい用語なんかじゃないからね--何かを切るにしろ、そのとき動いていくことばの距離が長い。長いので、切る対象にずーっと触っている感じがする。その「触覚」に、私は女を、つまり小池の「肉体」を感じ、ほーっと思うのである。
 小池には会ったことがないのだけれど、こういう瞬間に、私は「肉体」を感じるのである。

 作品のなかでは「姉妹」が私はいちばん好きだ。
 夫の知り合いの女からピアノをもらうことになる。そして、そのピアノを再び返してくれと言われる。そこに姉妹が登場する。ピアノのメーカーも「姉妹」という意味の名前をもっている--というようなことは、まあ、申し訳ないが、私にはあまり関心がない。
 ここはいいなあ、と思ったのが次の部分。

鍵盤そのものは硬いのに、底に沈んで戻ってくるとき、指先に、やわらかな布に押し返されたような感触が広がる。なんて官能的。ピアノはまるで内臓を持っているかのようだ。

 「官能的」と「内臓」が結びつくところがおもしろい。そうか、「官能」は触覚にあるとしても、それは「肌」にあるのではないのだな。「肌」のように直接目に見えるものではなく、その目に見えるものに隠されている「内部」、つまり「内臓」(蔵--隠すとか納める、という意味があったな)のうごめきが「官能」なのだ。
 視覚や表面的な触覚ではなく、内臓そのものが、そこには肉が蔵(かく)しているものが交わることがセックスなのだな。そのなかには「もの」としての「肉」だけではなく、「肉」とは定義されていない感覚や精神の動きもきっと含まれる。どこからどこまでが視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といえないような、奥深いところで融合している核に触れたとき、そこから官能が動きはじめるということだろう。
 子どもの感覚(官能)は、そういう部分を小池が書いている大人のようにゆっくりとは辿らない。辿れないものがあって、その辿れないところをジャンプして跨いでしまう。飛翔してしまう。--まあ、ここから「童話」がはじまるのだが(そうして、小池はそういう「童話」めいたものを書いているのだが)、私は、やはり大人を書いた部分がいいと思う。
 「切断」のことば、「淀み」のないことば--は、小池の「肉体」には似合わない。





黒蜜
小池 昌代
筑摩書房
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「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」

2012-01-30 13:55:34 | その他(音楽、小説etc)
「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」(石橋美術館、2012年01月28日)

 「石橋コレクション」がパリで1962年にパリで紹介され、話題を呼んだという。そのときの「コレクション」をそのまま東京で紹介している。
 私はピカソとセザンヌが大好きだが、「石橋コレクション」のピカソとセザンヌはちょっと不思議な感じがする。強烈には惹きつけられない。おだやかに、その絵の前で呼吸したくなる。なんだろうなあ、これは。マチスにしても同じだ。過激さがない。私は過激なものが好きなので、こういう静かな感じにつつまれると、一瞬困惑するが……。

 ピカソ「女の顔」(1923年)は不思議なところがふたつある。
 ひとつは、ざらりとした絵肌の感じ。白の絵の具の感じが、ざらざらしている。そして、それがギリシャの夏の光を乱反射させると同時に、目に見えないような影を内部に抱え込む。矛盾。そして、その矛盾が、何か、絵の暴走、色の暴走を押さえ込んでいる。
 もう一つは顔の輪郭。バックの青--そのグラデーションの美しさがあるのだから、白い顔に輪郭はいらないだろう。白い肌、白い布の境目に線があるのはまだ納得がいくが、顔の輪郭線はなぜ? しかも、それは正確(?)ではない。一部が顔の内部に食い込んでいる。あるいは白い頬が輪郭をはみだしているというべきなのか。しかし、これがまた、ざらざらの白の絵の具の肌と同様、不思議に絵を落ち着かせている。「ゆらぎ」というとまた別の概念になるのかもしれないが、そこに自然な動きがある。固定されない「ゆれ」がある。呼吸がある。

 その呼吸について考えていたとき。

 私はふと、山田常山の急須のつなぎ目の手の跡を思い出したのである。完璧ではなく、むしろ不・完璧(非・完璧?)であるものが持つ力。そこから広がる余裕のようなもの。その不完全なところで、鑑賞者が遊べる、参加できる余地がある。「女の顔」の頬の大きさを線にまで引き戻したり、白い頬の形そのままになるまでひろげたり。そうして、自分にとっての「女」はどっちだろう、どっちが美人、と思ったり。どっちが母親らしい? あるいは娘らしい? どっちが悲しい? どっちが恥ずかしい顔? 恥じらいを秘めた顔?

 これはなかなか楽しい時間である。
 あ、私はこんなことも思えるんだ、とちょっとびっくりした。「女の顔」の輪郭については、長い間、あれは一体なんだろう、どうしてなんだろうと思っていたが、こんなふうにことばが動くとは思わなかった。

 これはきっと山田常山を見た影響である。
 芸術はどこで見るか、どの順序で見るかによって、毎日、姿を変えるものかもしれない。だからこそ、何度も何度も見なければならないのかもしれない。

 セザンヌの「帽子をかぶった自画像」(1890-94年頃)の塗り残しも、自己主張のない、ほんとうの塗り残しに見える。それが自然で楽しい。「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」も、色が色になる前の運動のように思える。
 石橋正二郎は、静かな絵を呼吸するのが好きな人だったのだろう、と思った。
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野田順子『うそっぷ』

2012-01-29 23:59:59 | 詩集
野田順子『うそっぷ』(土曜美術社出版販売、2011年10月20日発行)

 野田順子『うそっぷ』のタイトルは「イソップ物語」を連想させる。童話。そして、それは「嘘」でできている。--このタイトルの印象がそのまま、この詩集の印象になる。というと、はしょりすぎか……。
 ことばは嘘に決まっている。それをわざわざ「嘘」と言ってしまうのは「弁解」である。あらかじめ謝罪している。いい方に受け止めれば、野田は正直で、嘘を貫き通すことができないということなのかもしれない。けれど、それではおもしろくない。
 「嘘でしょう」「いえ、本当です」「だって、こんなこと、現実にありえないでしょう?」「それはあなたが現実を知らないだけ」と言い張ればいいのだけれど、そして、嘘を貫き通して、野田そのものが変わってしまえばとてもおもしろいのだけれど。
 「これって、ほんとう?」「いや、違います。嘘です。タイトルに、きちんと『うそ』ということばをいれているでしょ?」では、読む気が進まない。もちろん、これは嘘です、と言い張りながらほんとうのことを言うということもあるけれど、野田は、そういうことはしていない。
 嘘を貫いて、野田自身が「一個の嘘」そのものになってしまうかわりに、その嘘を動かしている「構造」のようなものを整理して、ことばをとじる。「嘘の構造解明」というべきことがらをして、とてもわかりやすい「設計図」を提示する。
 だから、「結論」(結末?)は、おもしろくない。
 この詩集のなかの作品は、最後まで読まず、途中で断ち切るとおもしろい。「未完成の設計図」(過程の設計図)の方が、いったい何ができあがるのかわからないという興奮を呼び覚ますのである。
 おばさんが「液体」は石油缶に娘を入れて散歩させている。娘は「わたし」と同級生だと言う。だが、石油缶をのぞくと、

中身は……濁った水だった
呆然とするわたしにおばさんは言った
「今はこんなだけどね 呪いをかけられた最初は
大きくなれないだけだったのよ
でも大きくなれないから どうしてもふつうの人を妬むでしょ
そういう悪い感情を持つたびに身体が溶けていって
何年かで水になっちゃってね
思春期の頃には だんだん毒も出てきたの
けれど親としてはずっと家に閉じ込めておくのもかわいそうで
こうやってときどき散歩させてるの
この子 やっぱりあなたに会えたのはうれしいみたい
ちょっと透き通ったでしょ?
さっきまでもっと濁っていたのよ」

 ここは、とてもおもしろい。
 少女が呪いをかけられて水になる。これは、もちろん嘘である。その嘘を、だってほんとうなのよ、というためには、その嘘が自立して(自律運動で、と言った方がいいかな)動いていかなければならないのだが、ここではそれが2段階に動く。
 まず思春期。妬みに「毒」がまじりはじめる。そして濁る(「わたし」が最初に見たのは、この「濁った水」である。)
 つぎに、「あなた(詩のなかのわたし)」に会うと「ちょっと透き通ったでしょ?」。濁りが変化する。
 この2段階の「嘘」の後押しが、嘘を嘘ではない「事実」へと育てる。
 で、その事実というのは、まあ、「設計図」風にいえば、たまったままの水は淀む。そこにはいろいろな不純物がまじり、不純物は不純物と出会い、ますます汚れる。これは現実で私たちが体験することである。
 その一方で、私たちは水が濾過され、きちんと処理すれば透明になるということも知っている。
 水は濁ることもあれば、その濁りを解消することもできる。濁った水は、透明になることができる。
 これは知っているというより、肉体が覚えていることがらである。そして、その覚えていることがらが、このおばさんのことばと一緒に、ことばにならないものを突き動かす。私は、突き動かされる。--まあ、単純に、バケツにためていた水が濁り、その濁りがあるとき沈殿して上澄みのようなものがあらわれることがある、そういうバケツ、そういう水を見たことがあるなあ、ということを思い出すだけなのかもしれないけれど、そこにはなにかしら、ことばにならないものがある。
 野田の書いていることがらではないものを、私は私の記憶から引っぱりだし、野田のことばに重ねる。そして、あ、そうか、水はそういうふうに変化するものなのだというとこを、はっきりと覚え直す。
 こういうことが、私にはとても楽しい。

 けれど。
 ある日、おばさんは水をこぼしてしまう。水には毒があるので、「踏まないでください」と注意される。でも、「わたし」は毒の影響を受けないことがわかる。だれかが「もしかして 呪いを解きにいらした方ですか?」と問う。
 そして、そのあと、「解説」がつけくわえられる。

わたしははっとした
わたしも今までいろいろあった
『彼女』の毒のもとになった悪い感情より
わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた
だが それを話すと家族は怒り 友だちも離れていった
どうして人は妬みを打ち消そうとするのだろう?
さびしかった

 「わたし」の「妬み」の方が友だちの「妬み」より大きかった。毒が強かった。だから、友だちの「毒」では影響を受けない。
 「毒」の強弱の算数(科学?)である。
 でも、こんなことを算数で説明されても、「頭」では理解できるが、「肉体」にはなじまないなあ。
 「わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた」と抽象的に書いたのでは、「わたし」はけっして傷つくことがない。「中傷」では人は傷つくかもしれないが「抽象」ではだれも傷つかない。どんな感情、どんなふうにそれが悪いのか、具体的に書かないと、「わたし」は傷つかず、そして、「わたし」は「いま」のままで何の変化もないことになる。
 「わたし」が「悪い感情を抱いて生きてきた」といくらいっても、そんなことばでは誰も「わたし」に石をぶつけられない。「おまえ、そんな悪いことをしてきたのか」と批判できない。主人公が変わらなければ、読者も変わりようがない。

 書いているうちに「わたし」(主人公)が変わってしまう--というのが、詩でも小説でも、またあらゆる芸術に共通したことがらなのだが、野田のことばのなかでは、誰も変わらない。野田の「世界」の「設計図」がより精密になるだけである。「頭」は、その構造を揺るぎないものにするが、その設計図は野田を超えない。



うそっぷ―野田順子詩集
野田 順子
土曜美術社出版販売
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「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」

2012-01-29 19:59:59 | その他(音楽、小説etc)
「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」(出光美術館、2012年01月28日)

 三代山田常山という人を私は知らなかった。常滑焼の急須は家にあった、といってももちろん山田常山のつくったものではなく、スーパーで売っている類のものである。つるりとしていて朱色である。こういう日常的につかうものを「芸術」に高めるとはどういうことなのか。わからない。
 わからないまま、会場に入る。まず朱泥の急須がある。むかし家にあったものと似ているか--というと似ていない。朱色の具合がまず違う。妙に静かである。手にとるわけにはいかないが、どれもずいぶん軽そうである。そして、こういう印象があっているかどうかわからないが、不思議なやわらかさがある。肌がはりつめながらも、何か余裕がある。緊張感、硬さがない。しなやかである。そうか、これが芸術というものか、と素人は思ったままに書く。
 途中で、あれっ、と思う。注ぎ口、把手と胴というべきなのかなんというべきなのかしらないけれど、本体とのつなぎ目がスーパーで売っているようなものとは違う。きちんとしていない。土をのばしてくっつけた手の跡(指の跡?)が残っている。手でつくっているという証拠? 滑らかな肌を無造作に汚している(?)ところがおもしろい。ふーん、芸術とはこういうものか、と知ったかぶりをしてみる。「この手の跡がいいんだよね」と言うと、通らしく聞こえるかな? 今度言ってみよう、とひそかに思ったりする。
 藤田穐華の彫刻(文字)入りのものもある。これはこまかい。拡大鏡がそばにあるが、私は目が悪いので拡大鏡越しにもその文字は読めない。不思議なのは、文字が刻まれていても、急須の肌が傷ついていないという感じがするところだ。さっき、しなやかということばをつかったが、硬いだけだと、たぶん傷になる。他者をしなやかに受け止める力があるのだろう。
 でも、こういうものって、実際につかうのなかなあ。
 朱泥の急須を見たあと、紫泥、烏泥の急須がある。白泥、藻がけ、彩泥といろいろな種類があり、さらに酒器、食器があり、自然釉の壺などがある。つるりとした急須の印象はここでは完全に消えて、泥そのままの、ざらりとした感じがなかなかおもしろい。あ、こういう自然な感じがいいなあ。こういうのがほしいなあ--と思った瞬間。
 変なことが起きた。
 いやあ、やっぱり、最初に見た朱泥の急須がいちばんいいんじゃないかなあ。私のなかでだれかが、静かに異議を唱えたのである。
 引き返して見なおした。ほら、静かだろう? 自己主張がなく、見落としそうだろう? こういうのを実際につかうとぜいたくだぞ。つかいながらうれしくなるぞ。人をひきつけるというより、人といっしょにいるという感じを呼び寄せる。この急須でお茶を入れると、そのまわりに自然に人が集まってくる。そして、ああ、おいしいお茶だねえ、とお茶をほめる。急須ではなくて。それを急須がうれしそうに聴いている。そのとき、空気が和むのを聴いている。そういう静かさがあるなあ。
 自然釉の壺は、どうつかう? 花を飾るには自己主張が強すぎる。庭の隅にころがして、気がつく人だけ気がつくように飾っておく? でも、なんだかそれはわがまますぎるなあ。気がつく人は気がつけよ--というのは、気がつかない人は相手にしないと主張しているようなものだ。思わず、身構えてしまう。

 帰りがけに、ふと壁を見ると山田常山が妻と一緒に急須をつくっている写真があった。ほーっ、と思った。これはいいなあ、とも思った。妻は何やらブラッシング(?)しているような手つきだが、--うーん、「芸術」なら、どんな作業も他人にはまかせないなあ。妻にはまかせないなあ、と私は思う。でも、常山は、何かを平気で妻にまかせている。それじゃあ、ここにある急須は常山と妻の合作? じゃないんだね。そこが、おもしろい。そこがすばらしい、と思った。
 私が最初に急須に感じたしなやかさはこういうことなのかもしれない。他人に何かをまかせる度量の大きさ。それがしなやかさにつながる。そして静かさにつながる。人があつまって、なごむ。そのための器、ということを感じた。
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唐十郎「下谷万年町物語」(2)

2012-01-29 11:44:55 | その他(音楽、小説etc)
唐十郎「下谷万年町物語」(2)(2012年01月27日、シアターコクーン)

 きのうの感想はかなり大雑把すぎたかもしれない。
 宮沢りえの演技に夢中になった、ということを書こうとして、結局、どこに夢中になったか書きそびれている。
 どの部分もすばらしいが、特に火事のなかをブロマイドを探しに行ったときの「思い出」を語る部分がいい。燃え上がる無数のブロマイドの向こうに、すばらしいブロマイドがある。それに手をのばし、それは鏡に映った自分の姿である--と知った、と語る。
 この部分をどう理解するか。役者はナルシストであるという意味か。役者は自分しか見ていないという意味か。
 役者は、自分を発見することで役者になる、ということかもしれない。
 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、その瞬間、ほんとうに鏡に映った宮沢りえを見ている宮沢りえが舞台にいるのである。それはキティ瓢田という「役者」の記憶のはずなのに、そして宮沢りえにはそういう記憶がないはずなのに、私がそこに見るのは「キティ瓢田」ではなく、宮沢りえなのだ。
 白いタキシードを脱いで赤いシュミーズになる瞬間も、びっくりするくらいすばらしい。「男装の麗人」というキティ瓢田の「役」から、「役」を捨ててキティ瓢田にもどる瞬間なのだが、そのとき何度も同じことを書いてしまうが、宮沢りえは、その「演じている役」をすてて自分に帰るという運動そのもののなかで、宮沢りえになる。キティ瓢田を突き破って、宮沢りえが動く。--だから、というのは、私自身のすけべごころをさらしているようで恥ずかしいが、あ、宮沢りえの乳房が見えるかもしれない、宮沢りえの恥部が見えるかもしれない、芝居だから何が起きるかわからない、と一瞬思ってしまうのだ。
 こういうはらはらどきどきで劇場の視線をひっぱっていく力はすごい。はらはらどきどきを、はらはらどきどきさせながら、瞬間瞬間には忘れさせてしまう力がすごい。実際に宮沢りえの乳房がこぼれるということがないのだが、たとえ乳房がこぼれたとしても、それを見たことさえ忘れるに違いない「肉体」の迫力がある。肉体があれば乳房があるのは当然という清潔さがある。
 これは、たとえば藤原竜也がオカマの集団に襲われ、ズボンを脱がされるシーンと比較すると歴然とする。藤原竜也の下半身は肌色のタイツでしっかり防御され、生身をさらしていない。そこには「役」としての「洋一」はいるけれど藤原竜也はいない。
 この宮沢りえと藤原竜也の差は、非常に大きい。藤原竜也の演技は安定しているが、はらはらどきどきがない。
 はらはらどきどき--と書いたついでに。
 宮沢りえの歌ははらはらどきどきする。音痴の私が言うと、じゃあ、おまえ歌ってみろと言われそうで困るのだが、音が不安定である。高い音から低い音へ下がってくるときの、そのいちばん下の音が特に不安定に感じる。感じるのだけれど--これが、また非常にびっくりする。どこから出で来る声なのかわからないが、その不安定な音を突き破って、ハスキーな、非常に広い声が聴こえてくる。えっ、これテープ? 口パク? と思ってしまう。最初の歌の、最初の低音で、それを感じた。宮沢りえの肉体から離れた場所、劇場の空間の、どこかわからない場所からすーっと広がってくる声。 あ、もういちど聴きたい。もう一度リプレイして、と言いたくなる。
 ハスキーな声というのは、基本的には硬質な声だと思うが、宮沢りえのハスキーな低音は、とてもやわらかい。声の出所が「のど(声帯)」ではなく、違うところにあるような印象がする。「肉体」の内部に、不思議な共鳴装置がついているのかもしれない。

 蜷川の舞台はけれんみが充満している。この芝居には、そのけれんみがとてもあっているとも思う。水の張った池(地下)から3階建て建物まで、天地の空間も存分につかって肉体が動くのは、まさに「見せ物」であり、とても楽しい。どんな哲学も「見せ物」にして肉体化するというのは楽しい。
 特に池に水を張り、役者がそこに飛び込み走り回るとき、観客に水しぶきがかかる。そのとき、観客席はもう舞台なのだ。観客の全員が濡れるわけではないが、ひとりでも濡れれば、そのとき観客は全員濡れるのである。
 芝居は、やっぱり、いい。そこに「肉体」があるというのは、すばらしい力だ。
 この芝居は、芝居に関する芝居なのだが、見ながら、詩のことばは、いまここで演じている役者の「肉体」のような力を獲得しないと、ほんとうの詩にはならない、とふと思った。




下谷万年町物語 (1981年)
唐 十郎
中央公論社
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唐十郎「下谷万年町物語」

2012-01-28 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
唐十郎「下谷万年町物語」(2012年01月27日、シアターコクーン)

 演出・蜷川幸雄、出演・宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘。(2012年01月27日、シアターコクーン)

 玉手箱のような芝居である。劇とは何か--さまざまな角度から問いかける。
 いろいろな見方があるだろうが、私は劇・芝居とは、そこにないものをそこにあるものとして存在させることである。舞台の上で演じられていることは、いまここで起きていることではなく、かつて起きたことである。かつて起きたことであるけれど、いまここで役者が演じるとき、かつて起きたことが、いまここで起きていることになる。ここには、不思議な矛盾がある。
 だれかの役を演じる。そのとき役者は役者であるけれど、役者ではない。いまここにいないだれかである。いまここにいないだれかであるけれど、それではほんとうにそのだれかなのかといえばそうではなくて役者である。
 わかりきったことだが、そのわかりきったことのなかにある矛盾。
 このことを、この芝居では「そこにいる」「そこにいない」ということばで簡単に表現している。
 そこにいないのに、それを求めるとき、そこにいる。いや、そこにいてほしいと求めるとき、そこにはいなくて、「ここ」にいる。「ここ」とは求める人間そのものの「肉体」のなかにいる。
 というのも、矛盾である。
 この矛盾を、宮沢りえが、実に美しく、実に劇的に、具体化する。具現化する。宮沢りえは、宮沢りえでありながら、キティ瓢田であり、キティ瓢田はキティでありながら、洋一を演じる。その洋一は、いまそこにいて、キティに洋一を演じさせている。このとき、宮沢りえと洋一の関係は?
 考えると、ややこしい。
 だが、芝居はややこしくない。演劇に通じるいろいろな問題をことばにして語るが、それはどうでもいい。そこに宮沢りえがいて、体を動かしている。演じている。それは、しかし宮沢りえが演じているのではないのだ。
 という書き方(言い方)は矛盾だが、あえて言う。
 そこでは宮沢りえが演じているのではない。キティが、宮沢りえを演じているのだ。あるいは洋一が(キティによって演じられた洋一が)、宮沢りえを演じている。宮沢りえとはこういう役者であると、演じている。
 私は芝居を見ていないのである。劇を見ていないのである。ただ、宮沢りえという役者の肉体を見ている。その動きを見ている。声を聴いている。歌を聴いている。ダンスを見ている。白いタキシードを見ている。赤いシュミーズを見ている。あ、脱げそう、とすけべごころを抱きながら、その衣装を肌そのものにして動き回る宮沢りえを見ている。細い細い宮沢りえを見ている。細いけれども、絶対に折れない強靱な何かを持っているその肉体を見ている。白い肌を見ている。その肌を汚す血のあざやかさを見ている。宮沢りえそのものを見ている。
 人と人が出会い、そこで何かが動くとき、その動きは矛盾に満ちている。どんなに志が同じであっても、人と人はそれぞれの肉体を持っているから、どうしたってひとつにはなれない。けれど、その不可能へ向けて人間は動く。矛盾を肉体の内部にとりこみ、肉体で押さえ込む。あるいは肉体をとおして矛盾を噴出させる。押さえ込むことは噴出することは相反することがらだけれど、つまり矛盾することがらだけれど、その矛盾があらわになるとき、そこにかけがえのない「ひとつ」の絶対的な「肉体」が屹立する。
 それにしても美しい。白と赤がとても似合う。この世に、ほかの色があるのを忘れてしまうくらい、宮沢りえには白と赤が似合う。
 宮沢りえはいつ出てくるんだ、なぜ出でこないと我慢しきれなくなったころ、みどりの瓢箪池から瀕死の状態でひきあげられる。そのときの白の輝き。ライティングで輝いているのではなく、宮沢りえがライトに向かって発光しているのだ。強い光を投げかけているのだ。だからこそ、その輝きは劇場全体をつつむ。
 このときからほんとうの芝居がはじまる。宮沢りえの肉体が、ほかの役者のすべての肉体を引き寄せ、突き放す。宮沢りえの肉体をとおって、純粋になり、猥雑になり、狂おしくなり、悲しくなり、切実になる。「芝居」なのに芝居ではなく、いま、ここで起きていることになる。役者たちは唐十郎の書いたことばを声にしているのではない。蜷川の演出に従って動いているのではない。宮沢りえが、唐十郎にこういう芝居を書かせたのだ。蜷川にこういうおおげさな舞台を要求したのだ。--というのは、もちろん時系列的にいって矛盾だが、しかし、芝居が演じられるとき、役者が動き、ことばが発せられるとき、事態は逆転するのだ。そこにあるのは、まず役者の肉体である。そのなかで唐のことばが動き、蜷川の演出が動くだけである。
 繰り広げられるのは、どこまでがほんとうなのか、ほんとうは何が起きたかのか、わからない。しかし、そのわからなさを貫いて、そこに宮沢りえがいるということがわかる。宮沢りえのなかで、いくつもの激情が炸裂し、疾走し、暴れているのがわかる。それがどこまでつづくのかわからなくなる。もう、それは唐の書いた芝居ではない。蜷川の演出した芝居ではない。宮沢りえの肉体が舞台そのものになっている。劇そのものになっているのだ。
 もし肉体というものがなければこころはもっと傷つかずに生きられるのか。あるいは逆に肉体というものがあるからこころは傷ついても傷ついても生きられるのか。--こんな問いかけはおろかだ。どっちでもいい。そのときそのとき、人はどちらかを選ぶだけに過ぎない。どちらを選んでも、そこには肉体がある。そのたしかさ、その強さに震えてしまう。




下谷万年町物語 (1983年) (中公文庫)
唐 十郎
中央公論社
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「フェルメールからのラブレター展」

2012-01-28 21:42:12 | その他(音楽、小説etc)
「フェルメールからのラブレター展」(ブンカムラ ザ・ミュージアム、2012年01月27日)

 「フェルメールからのラブレター展」は、2011年07月20日に京都市美術館で見ている。2011年07月25日の日記に感想を書いた。今回、時間の都合でフェルメールの3点だけを見に行ったのだが、
 うーん。
 京都で見たときとまったく印象が違うので驚いた。
 ブンカムラの展示では、フェルメールの作品だけ、壁面が赤い布で覆われていた。また絵のなかに出てくるような厚手のカーテンが装飾的に天井近くに飾ってある。これがうるさい。絵のまわりで不愉快な音がするのである。そして、そのために絵のなかにある(絵から聴こえてくるはずの)音楽が少しも聞こえてこない。
 「手紙を読む青衣の女」の場合、私の記憶(アムステルダムで見たときと京都で見たときの記憶)では、左側の窓からの透明な光そのままに、しずかな音からほんのすこしずつさらに静かになって右下の椅子の青い座面に落ち着く。沈黙。--しかし、沈黙ではなくて、そこには聞きとれない音がある。音を飲み込む音かもしれない。あれは、まぼろしだったのだろうか。
 絵全体がもっている青と白の波長と、赤の波長が違いすぎるのかもしれない。
 京都で見たとき、壁面がどうだったのだろう。思い出せない。やはり赤い色の布が背後を覆っていただろうか。そうなら、そのときうるさい音を感じなかったのはなぜだろう。壁面の大きさだろうか。室内の空間の大きさだろうか。あるいは他の壁面の色、床の色が関係しているのか。
 照明の仕方も非常に気になった。何かうるさい。光がわざとらしい。フェルメールの絵は光の諧調が美しいのが特徴だと思うが、絵のなかの光の音楽と、会場の絵を照らす光の音楽があわない。絵が窮屈に閉じ込められている感じがする。絵がカンバスの外に広がってゆかない。
 ただし、「手紙を書く女」の場合は、背後は赤でもいいかな、と思った。絵のなかの黄色い色が、不思議に強い音に聴こえてきた。背後というか、周囲の赤い色を吸収して、黄色が輝きを増す。そのとき、何か強い音が響いてくる。

 京都展も東京展も主催に「朝日放送、テレビ朝日、博報堂」が名を連ねており、「京都市美術館」と「ブンカムラ」が違うだけなのだが、展示の指示はだれがやっているのだろうか。

 でも、こういう体験をすると、絵はやはり生きものという感じが強くなる。どこで見るか。いつ見るか。それもきっと絵の大切な要素なのである。その土地の空気、光もきっと影響する。自然光を遮断した室内で見るにしても、空気が違う。絵が呼吸する空気が違うと、絵は変わってしまうのかもしれない。
 ブンカムラで見た人は、ぜひ、違う会場でもう一度見直してください。きっと印象が違うはずです。
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白井明大「葉と空 道と」

2012-01-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
白井明大「葉と空 道と」(「ル・ピュール」11、2010年10月17日発行)

 白井明大「葉と空 道と」は、2010年の秋に発表された作品である。本を整理していたら、向こう側から、目に飛び込んできた。私の「日記」はできる限り新しい作品を紹介しているのだが、きょうは時間を無視して、白井の作品の感想を書くことにする。

曲がるほどではなく公園との境に沿う道を
右に左にゆるやかに辿りながらいき
みあげたら樹上に生い茂る葉が黄赤く
雲のない空の青さがとおくかさならないで
色と色とが葉のかたちをこまかくしるしあっている

葉はあたっている日のせいで黄赤く
木じたいのかげになっている葉はくろみがかり
向かいの日のとどく側とへだてる道のうえに枝をのばし葉を出す

道は辿っていくとバス停に辿り着くけれど
バス停と道を境わけることなくとなり歩く友だちを送り着き
友だちが乗ってバスが走るとはなれ発っていった

 作品の全行である。
 友だちをバス停まで送っていった。その途中に公園があり、そこには紅葉した木があった--ということはわかるのだが、とても奇妙である。
 対象というか、風景が書かれている感じがしない。
 では、何が書かれているのか。
 「間」。それも、なんといえばいいのだろう。ことばが、その対象にまでたどりつくを書いているように思える。
 ここで「たどりつく」ということばが出てくるのは、たぶん、白井の詩のなかに「辿る」「辿り着く」ということばがあるからだろう。
 でも、変だよなあ。
 家からバス停まで--それって、「辿り着く」ような距離ではないね。「辿り着く」というのは、「やっと」という感じの距離があるときだ。そんな遠くのバス停なんて、バス停じゃないね。
 どうも、この詩では「間」が変である。

曲がるほどではなく公園との境に沿う道を

 この1行目には、問題の「間」を含めて、2か所、奇妙なところがある。
 「間」から言えば、「公園との境に沿う道」の「境」。言う? 「公園との境」なんて。私は言わない。公園の横の道、公園に沿った道--私なら、そう言う。でも白井は、「境」ということばをわざわざ挿入している。
 白井は「境」を見ているのだ。
 「境」というのはほんらい何かと何かの接点にある。つまりそれは、「ある」けれども「ない」ものだ。「ない」のに意識でつくりあげて「ある」にしている。
 --と、ここまで書いてきて、白井の書いていること、やっていることがおぼろげに見えてくる。
 白井は、本来は存在しない「境」を「間」に拡大して書いている。そうすることで、「世界」そのものと白井の接点に「間」をつくりだしている。
 「世界内存在」ということばがある。「世界」のなかに「私」がいる。「世界」は「私」を取り囲んでいる。その「私」を取り囲んでいる「世界」との「接点」を「点」という存在しないものではなく、「間」に拡大する。
 なぜ、そんなことをする?
 まあ、したいからだね。そうとしかいいようがない。

 で、この「間」としての「境」なのだけれど--それは白井にははっきり意識できるのだろうけれど、読んでいる私にははっきりとはわからない。(他の読者にもはっきりとわかるものではないと思う。)
 このことは白井も意識していると思う。
 それを象徴するのが「ほどではなく」の「ほど」である。
 「ほど」って何?
 わかるけれど、言いなおすことがむずかしいねえ。
 「公園との境」というのも、「境というほどのものではない/境」である。そりゃあ、呼びたければ「境」でいいけれど、わざわざ「境」という必要はないでしょ? 公園との境に沿う道--なんて、白井以外の誰も言わないのは、もし「境」というものがあったと仮定しても、言う「ほど」のものじゃないからだね。
 何かよくわからないが、こういう「余分」なのものが、微妙にことばに混じってきて、「余分な間」をつくっている。「間」を拡大している。

右に左にゆるやかに辿りながらいき

 2行目の「辿りながらいき」というのも、わかるけれど変だよなあ。「辿りながら」か「いき」のどちらかで「意味」は通じる。でも、詩は「意味」ではないからね。
 正確には(?)、「境」を辿りながら「道」をいき、なのかもしれない。そう読んだところで、変なことにかわりはない。
 この変な「間」、何か世界から剥離した意識が、剥離したまま世界のまわりをただようような雰囲気は、「ゆるやかに」ということばでいっそう強調される。
 白井の書いている「間(境)」は、急いでいては見ることのできないものなのである。

 うーん。どれが「キイワード」になるのだろう。
 「境」「ほど」「ゆっくり」。どれを中心に据えると、白井のことばがしっかり把握できるのかなあ。わからないなあ。
 三つのことばの、正確な違い、それこそ三つのことばのあいだにある「境(間)」がはっきりしない。「境(間)」はあるのに、どうも重なり合うのだ。というか、その三つは、一緒に存在しないと、それぞれも存在しえないような感じがする。
 奇妙だなあ。

雲のない空の青さがとおくかさならないで

 この行の「とおくかさならないで」が、またまた、変だねえ。
 一緒に存在する。でも、黄赤い葉っぱと空という「二つ」は遠く離れていて、重ならない。それはあたりまえといえばあたりまえなのだけれど--そういう「あたりまえ」をなぜ書く?
 「あたりまえ」に何かが挿入されている。「あたりまえ」のことに「境」をつくろうとしている。「間」を挿入しようとしている--その白井の意識を感じる。
 あらゆる行が、わざと書かれているのである。「わざと」のなかにだけ、詩は存在するのである。「わざと」つくりだした「境(間)」が、白井にとっての詩なのである。

色と色とが葉のかたちをこまかくしるしあっている

 「しるしあっている」は「印しをつけあっている」ということか。今風にいえば「刻印しあっている」ということになる。対象に私を刻印する。刻印するということは、実は、「間(境)」の否定でもあるのだけれど--つまた、それは私としっかり密着しているという表明なのだけれど、白井はこの「刻印」を逆手にとっている。
 二つの存在は密着していない。離れている。だからこそ「刻印」できる。密着している--その結果として、それが「私のもの」なら、刻印は必要がない。「私のもの」ではないがゆえに、刻印する。刻印は、白井にとっては「間(境)」をつくりだす作業なのだ。

 --とはいえ。(あ、こんな使い方でいいのかどうか、よくわからない。)

 この白井の詩には、そういう不思議な「矛盾」がある。
 不必要な「境」「間」というものがあって、その「境」「間」を成立させるために、あるいは「境」「間」がある証拠として、対象をそれぞれ刻印してまわる。(私の肉体には私の証明はいらないが、私のものではないもの、私から離れて存在するものが私のものであるということを知らせるためには、署名の刻印が必要である)。で、証明を刻印した瞬間に、どうしても「矛盾」が生まれてしまう。
 署名を 刻印するということは、対象と私との関係を緊密にするということである。第三者は署名の刻印を見て、それがだれのものであるかを判断する。
 「境」(間)をつくりたいの? それとも「境」(間)を消したいの?
 わからないねえ。

 で、このわからなさを強調するのが「しるしあっている」の「あっている」、「合う」である。
 白井が署名を刻印するのではない。存在が相互に署名を刻印し「合う」。
 この「合う」ということばも、「矛盾」だなあ。
 「矛盾」というか、変な具合に、意味が拡大していくことばだなあ。
 たとえば「境」ということばにもどってみる。「境」は何かと何かがぶつかったところ、何かと何かが(出)合ったところに存在する。出合いが「境」をつくりだす。

 ひとつではなく、二つの存在。それがつねに意識されている。
 「ふたつ」ということばは書かれていないが、「二つ」が「合う」--その「二つ」と「合う」が白井のキイワードかもしれない。
 まるで「キイワード」だらけの詩である。
 つまり、読めば読むほど、煮詰まってしまって、こまってしまう詩である。
 わからないことばは何ひとつない。そして、書いてあることが「わかる」と言えばわかるのだけれど--奇妙さを言い表すことができないから「わからない」と言うしかない--なんて、変でしょ?

 まあ、いいか。先をつづける。
 「二つ」が「出合う」。そうすると、そこに「境」(間)が意識されるだけではない。「二つ」は互いの刻印を抱きながら、新しい運動へと動いていく。

向かいの日のとどく側とへだてる道のうえに枝をのばし葉を出す

 うまく言えないから省略してしまうが、ここでは「へだてる」が重要である。これは最終連では「わける」「はなれ(る)」ということばにかわっていくのだが。
 このことばが、なんとも私の肉体には居座りが悪い。
 変なものを刺激する。
 1連目に「辿る」という動詞が出てきた。その「辿る」と「へだてる」「わける」ははなれる」がうまく合致しない。
 「辿る」とは、私にとっては、何かに密着しつづけることである。はなれないこと。それが条件である。
 しかし、白井は「辿る」ことで「境」を意識し、「へだてる」「わける」「はなれる」を呼び寄せるのである。白井の肉体が「辿る」と「隔てる(わける、はなれる)」の「境」になって、「矛盾」を接合するということになるのか。

 そういうこと(思想、哲学)を「ほど」の領域で、ことばにしているのかなあ。
 この白井の「肉体」は、まあ「肉体」としか言えないなあ。「頭」を押し退けて、ただ「肉体」で動いていく。
 一篇の詩であれこれいってもはじまらないのかもしれない。
 詩集になったとき、複数の詩が影響し合って、そこから新しい「肉体」の全体像が浮かび上がるのかもしれない。
 詩集になったとき、また考えてみよう。
 きょうの「日記」は「メモのメモ」である。




白井 明大
思潮社
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武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』

2012-01-26 23:59:59 | 詩集
武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』(銅林社、2011年12月16日発行)

 武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』は句集。
 武田肇の俳句について感想を書くのは、ちょっと面倒くさい。前回感想を書いたら、私の読み方が間違っていて「あれは間違いです。でも気にしないで感想を書いてください」という電話をもらった。
 そうか、私の読み方は間違っていたか、と思ったが、それが間違いであるかどうか、私は気にしたことがない。「気にしないでください」と言われても、気にしようがない。だから、面倒なのである。面倒くさい。
 私は俳句に限らず、どんな文学でも、書いた人の「意図」、あるいは「意味」なんか気にして読まない。自分が読みたいように読む。つまり、自分の知っているように読む。ことばを読むというのは、知らないことを読むのではなく、自分が知っているつもりのことを確かめるために読む、というのが私の基本的な考えだ。
 何かに触れて、何かを感じる。感じたということは、なんとなく肉体のなかに残る。でも、それをどういえばいいのかわからない。だから、それを探してことばを読む。他人のことばを手がかりにして、そうか、私の知っているのはこういうことなのか、と納得するために読む。
 そのとき、そのことばを書いた人の肉体と私の肉体が重なるときもあれば、まったく重ならないときもある。セックスと同じで、私だけ興奮して果てるということもある。まあ、そういうものだろうと思っているから、「読み方が違っています。でも、気にしないでね」と言われたってねえ。「あんただけ、先にいかないでよ」と言われたようで、「あ、そうなんだ」と言うしかない。

 今回も、まあ、そういうことになるのだと思うが--それは、仕方のないことだ。肉体の感じるところが違うのだから。

 --と、どうでもいいことを書いてしまったが。(これは、あまり書くことがないからだね、と私は、もう面倒くさい気持ちになっているのだが……。)

日盛の深さ尋ねる盲者かな

 この句が私にはいちばんおもしろかった。興味深かった。つまり、このことばの動きのなかに、武田の肉体、武田のことばの肉体を感じた。
 「闇の深さ」は感じることがあるが、「日盛の深さ」か。真っ白な光の氾濫。一種の拒絶のような強さ--あ、あれは「深さ」だったのか、と思い出すのである。たとえば、夏休み、家から飛び出した瞬間の野の輝きを。そして、どきりとするのだが……。
 「亡者かな」は、けれど私には「意味」が強すぎる。
 目が見えない人にとっては「闇」は「深さ」ではなく、自分の知り尽くしている世界である。(と、私はかってに考えるが、それが正しいかどうかはわからない。)「闇」については「盲者」は詳しい。つまり「明るい」(何かについて熟知しているとき、「明るい」ということばをつかう)。一方、「日盛(光の氾濫)」については「盲者」は詳しくない。「盲者」にとっては、光が、目のみえる人の「闇」に相当する。そして、その規模(?)はやはり「深さ」で測る、ということになる。
 --と、考えると、あ、これは「論理」が強すぎる。
 私は、このとき、情景を感じていない。描かれている情景のなかにすっぽりと溶け込んでいない。言い換えると、情景と私が往復するのではなく、情景と論理が往復している、「頭」で考えている、と思ってしまう。
 武田の俳句には、何か、その「頭で考えたこと」が動いている。それをときどき感じる。それはそれでいいのだろうけれど、私の感じている「俳句」とは微妙に違う。

少年が春の厠に香を残し

 この句も、「意味」が強すぎる。射精の、精液のにおい。それと「少年」「春」「厠」が近すぎて、オナニーの「意味」が噴出してくる。鼻で感じる前に、そして肌で感じる前に「頭」が動いてしまう。--これは私だけのことかもしれないが。
 この「頭」が動いてしまう、「意味」が強すぎるを別のことばで言うと。
 私の肉体が解放されない。私の肉体が、そこに描かれている情景のなかで、情景が私なのか、私が情景なのか、よくわからないという感じではなく--情景の外にいて、それを「これは、こうですよ」と説明を受けている感じになる。
 あれっ、何かを感じたいのに、自分で何かを見つけたいのに、「教えられてしまった」という感じ。
 まあ、それはそれで、いいのかもしれないが。
 でも、別に学校で教科書を読んでいるわけじゃないんだから、教えてもらわなくてもいいや、という気持ちにもなる。

 「意味」から遠い句も、しかし、武田は書いている。

塀ぞひに径のほかなし日の盛

 これは感心した。ことばのなかで、私が消えていくのを感じた。夏の盛り。塀がある。径がある。ほかには何もない。そういう情景なのだが、「もの」が何もないだけではなく、あ、影もない。そうか、影も日の光に吹き飛ばされて、真っ白な道、真っ白な塀--その輝きだけがある。--そういう一瞬、そういう永遠。たしかに、見たことがあるぞ、と肉体が納得する。肉体が覚えている情景が、いま、武田のことばを通ることで、「あっ、それ知っている」「あっ、その感じを肉体が覚えている」と思い、その瞬間、私がいなくなる。私が日盛りの塀と径と光になってしまう。

大岩のみちのまなかの大暑かな

 これもいい感じだなあ。

 句集のカバーには16句、抜粋されている。「自選句」なのかな? そのなかでは、

秋深し何処にでもある家の裏

 この句が落ち着いて読むことができた。秋と家の裏とどういう関係にある? それがどうしたの? と言われれば、何も答えることができない。それは、言い換えると「意味」がないということなのだが、その「意味がない」ということが、私の肉体の奥にある何かとしっかり結びつく。そうか、あのとき見たのは「家の裏」というものだったのか、と納得するのである。




ゑとらるか―武田肇詩集
武田 肇
沖積舎
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藤原綾乃「あめんみやざか」

2012-01-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
藤原綾乃「あめんみやざか」(「どぅるかまら」11、2012年01月10日発行)

 藤原綾乃「あめんみやざか」は散文詩で、段落の変わり目が段落ではなくまるまる1行分の空白である。

(略)
母親は叔母だという秘密の物語に幼い私は生きていた
                        夥
しい紅葉を背に叔母と手を繋いだ私は 唇を結んだまま
作り笑いをしているようだ(略)

 私はこういう形式についてあまり注意をはらってきたことがなかった。読むのにわずらわしい感じがして敬遠していたので、気がつくべきところに気がつかなかったのかもしれない。
 この詩でも、私には、ちょっと嫌な感じ(なじめない感じ)があるにはあるのだが、途中は引き込まれた。
 叔母を母であるという「物語」を生きている「私」。その「私」と叔母の写真。叔母はショールをかけているが、「似合っているような いないような そういうところが叔母だと思う」で3段落(?)が終わって……。

                       シ
ャッターが切られ 叔母と私と紅葉は印画紙に瞬間凝
結した 静寂だけが今も動き続ける 時を切断する音
は消え 閉じ込められた無音が耐えきれず漏れ出るとで
もいうように
      でももしかしたら静寂は 叔母の沈黙なの
かもしれないし 赤や黄を縁どるぎざぎざとぎざぎざの
間から覗く 薄青の空から滲み出てくるのかもしれない
 記憶が剥がれていく むしろ剥がそうとする私の荒涼
かもしれない
      物語の最終頁で 道は急坂になった 私が
しゃがみ込むと誰かが背を向けて腰をかがめた だめよ
自分で歩きなさい 初めての激しい叔母の叱責に 私は
うろたえて泣き出したのではなかっただろうか

 「閉じ込められた無音が耐えきれず漏れ出るとでもいうように」ということばには、「動き続ける」という動詞が省略されている。その、藤原にはわかりきったことを藤原は省略して、意識が横に滑るように1行分の空白をおいて次の段落へゆく。
 藤原の省略した「動き続ける」は読者にもすぐわかることだが、読者にわかるときのスピードよりも、藤原自身がわかっていることの方が速い。ほとんど差はないかもしれないが、なんといっても藤原がことばを書いているのだから、そのことばが先にあり、読者がそれを追いかける分だけ、藤原が先にいる。
 この微妙な差のなかを、藤原は疾走する。
 省略したのは、藤原にはその「動き続ける」が、その前の「静寂だけが動き続ける」ということばを書いたときから、藤原の肉体になっているからである。
 で、その省略したことばの、省略する--省略するということは、そのことばを飛び越すことである--という運動、その運動することばの肉体の動きにそのままのって、ことばが一気に加速する。

でももしかしたら

 この4段落から5段落への切断を、もう一度接続するときの、「でももしかしたら」がとても魅力的だ。
 「でも」は、それまで書いてきたこととは反対の方向へことばが動くことを暗示する。そしてその動きは「もしかしたら」というあいまいなものである。「もしかしたら」だから、そこには根拠はない。あるのは、ただ藤原の「肉体」だけである。藤原の「肉体」のなかを、藤原のことばが動く--それしか「事実」はない。自分の「肉体」のなかをことばが動くのだから、それは、他人にとってはどうであろうと、藤原には「事実」なのだが、その「事実」が、

叔母の沈黙なのかもしれないし

私の荒涼かもしれない

 と並列になる。
 同等になる。
 「沈黙」と「荒涼」。これは、ひとつのことばではないね。たとえば、4段落に出てきた「静寂」は「沈黙」と「意味」が共通している。ひとつのことばである。けれど「沈黙」と「荒涼」は、「意味」が通い合わない。「ひとつ」ではない。同等ではない。
 けれど、藤原はそれを「ひとつ」のありようとして書いている。
 そして、そのことばを読んでいる私も、「沈黙」と「荒涼」をつないでいる何かしらのものを感じているのだが……。
 「沈黙」と「荒涼」をつないでいるのは何?
 こういうことは、「意味」のあることばにはならない。というより、する必要がない。「沈黙」と「荒涼」をつなぐのは、それぞれの「肉体」のなかにあることばである。「意味」ではなく、意味のまわりについてまわるさまざまなものが、ふたつのことばをつないでしまう。意味を特定するのではなく、通い合わせるのである。
 この意味の通い合わせ(通い合い)のとき、私たちは、実はことばを省略している。ことばを使わずに納得している。肉体が肉体自身で持っている「感覚」でことばをつつんで動かしている。
 「頭」はこういう「省略」ができない。でも「肉体」はこういう「省略」を生きる。
 わかっていること--あるいは肉体で「覚えている」ことを省略し、その省略を利用してさらにことばが加速する。

 この加速の瞬間を、私は「……とでもいうように」(1行あき)「でももしかしたら」という段落のつかい方のなかに感じたのだ。
 そうか、段落を構成するのは、「飛躍」というより、「省略」なのか。そして、ことばはその「省略」されたものを土台にして飛躍するのか……と感じたのである。
 さらに、省略と飛躍は、結局、客観的事実の方向へことばを突き動かさず、肉体のなかにあることばをいじめながら動くのだなあと思った。言い換えると--肉体のことばは結局、「わからない」にたどりつく。
 「静寂」は「叔母の沈黙」か「私の荒涼」か「わからない」。そして「わからない」からこそ、それが「肉体」にしみついて、「肉体」の記憶になり、それを「覚える」ことになる。「肉体」で覚えていること、にかわる。
 この「肉体で覚えていること」というのは、なんというか、絶対に間違えることのないものなので--あ、この私の書き方には飛躍が多すぎるかもしれないが……。
 強引に書いてしまう。
 肉体で覚えていることというのは、絶対に間違えることのないものなので、そういうことを無意識に自覚したことばは、大胆に飛躍する。「……とでもいうように」(1行あき)「でももしかしたら」のときよりも、激しく「飛翔」する。

物語の最終頁で 道は急坂になった

 写真からはじまった詩が、ここで、突然「証拠」のない記憶へと飛翔する。(「証拠がない」というのは、写真のように、だれかと共有できる「もの」がない、という意味である。)
 これはなんといえばいいのだろうか。
 「叔母の沈黙」と「私の荒涼」を「ひとつ」のものと感じる何かさえも、たたき壊していく何かである。たたき壊されて、いっそう「叔母の沈黙」と「私の荒涼」に似たものになりながら、けれども、そこから違うものを生み出していく。
 この不思議な交錯--この一種の不明瞭さ(非論理性)と不明瞭さだけが持つ手触りのたしかさを一緒に書くためには、藤原のとった「1行分のあき」という段落のつくり方は必要なのだと感じた。その「1行分あき」の段落に、私は藤原の「肉体」を感じた。

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河邉由紀恵「秋の庭」

2012-01-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「秋の庭」(「どぅるかまら」11、2012年01月10日発行)

 河邉由紀恵のことばは、切断と接続の具合がどうも変である。
 「秋の庭」の1連目。

空がひくく
たれた秋草のなかで
わたしは荒れた庭にはびこる草をといだ鎌で刈りとる
 
 私は行目でつまずく。
 「たれた秋草」(くたびれた秋草)が目に浮かぶ。
 しかし、それでいいのかな?
 「たれた」は「秋草」を修飾することばでいいのかな?
 よくわからない。
 1行目の「空がひくく/たれた」と続いていくのかもしれない。
 ふつうは、どう書くのか。書き方に「ふつう」はないのかもしれないが、私なら最初の2行は

空がひくくたれた
秋草のなかで

 となる。
 空がひくく垂れている--と書いたあとで、句点「。」を置き、それから「秋草のなかで」と場面転換(?)する。けれど河邉は「空がひくく」で切断してしまう。そのため、「たれた秋草」という変なことばが動きはじめる。
 「たれた秋草」がひとつのことばなら、「たれた」って、何がたれている。葉っぱ? それとも花? あるいは実? 何かわからないけれど、何かが「垂れている」、草の一部が「垂れている」という具合になる。
 そして、それが「空がひくく/たれた」よりも、おもしろい。
 奇妙な言い方を承知で書くのだが、「空がひくく/たれた」は、一種の「流通言語の詩」である。「描写」である。「常套句」といえばいいのか。
 一方、「たれた秋草」は「流通言語の詩」を拒絶して、変になまなましい。「○○がたれた秋草」ならふつうの言い方だが、主語の「○○が」がないために、奇妙に何かがなまなましい。
 「主語」を切断されて、そのまま「秋草」にことばが接続されていくとき、そこに不思議な何かを感じる。
 これは、3行目で、さらにねじれる。

わたしは荒れた庭にはびこる草をといだ鎌で刈りとる

 書いてあることは不思議なことでもなんでもない。草を刈っているだけのことである。それでも、私には、そのことばがとてもなまなましく、奇妙に感じられる。
 なぜか。

といだ鎌で

 そこにある「といだ」が奇妙なのである。「言い過ぎ」なのである。なぜ、わざわざ「といだ(研いだ)」ということばがあるのだろう。錆びた鎌ではなく、よく切れるように研いだ鎌であることを強調したいから--と言われれば返すことばがないのだが、私はどうも落ち着かない。
 「荒れた/庭」「はびこる/草」「といだ/鎌」と修飾語がいちいちついてまわるのがうるさいからだろうか。
 違うなあ。
 どうも、ことばが、鎌で草を刈り取る--と単純に動いていかず、「荒れた」「はびこる」「といだ」といちいちい逸脱していく感じかするのだ。
 そこに書かれているのは「草を刈る」という行為ではなく、「荒れた」「はびこる」「といだ」という「逸脱」の方であると私は直感してしまう。
 そして、このなかでは、特に「といだ」が異様に逸脱している。「荒れた」や「はびこる」は「わたし」とは関係がない。それは「庭」や「草」の一種の属性である。ところが「といだ」には「わたし」の行為がからんでいる。私が鎌を「といで」、そしてその鎌で草を刈る。草を刈る前に、鎌を「といでいる」。そのことを、河邉はわざわざ書いている。
 草を刈るという行為の前に、鎌を研ぐという行為がある。その二つの行為の切断と接続--それは逸脱と収斂かもしれないのだが、その矛盾とは言わないけれど、不思議な「余剰」としての肉体が、
 うーん。
 なまなましい。
 直前の「空がひくく/たれた秋草のなかで」にも、何か、それに共通する「呼吸」がある。肉体に触れてくる何かがある。

がざりざり九本ずつ左手でたばねて刈りとられるさだ
めの笹葉たちやみょうがたち枝にからまる枯れたやぶ
がらしのながい蔓をわたしは刈りとるがざりざりああ

 「がざりざり」という音が、とてもいい。「といだ鎌」が無残に硬いものにぶつかりながら、壊れながら、それでも何かを切っていく。刈り取っていく。その濁った強さがいい。ここにも、「肉体」が深く深くからんでいる。鎌を「といだ」肉体の記憶が、鎌の音、その悲鳴を聞き取るのである。

本当に刈ってゆくのがどんなに楽しい音なのかとうて
い誰もきづかないけれどがざりざりはわたしだけのじ
ゅう低音だから

 「重低音」ではなく「じゅう低音」。
 ここで「流通言語」に反逆しているのはなんだろう。「じゅう」というひらがなである。意味を拒絶して、「音」そのものを生きている。そのとき、耳が、つまり肉体が聞き取るのは「重低音」ではない音、「ずれ」そのもの、「逸脱」と私が仮に呼んだものである。
 それは、それでは、いったい何?
 そんなふうに問われたら私は答えることができないのだが、でも、そこがおもしろい。不思議に私の肉体を刺激してくる--というか、逆だね、河邉の、会ったこともない女性の肉体を知らず知らず思い浮かべてしまう。あ、それが肉体を刺激されるということなんだけれど。

 で、詩のつづく。

                  がざりざり穴
まどいのみどりの蛇がでてほんとうはずうっとおとこ
がほしいのよとやわらかい舌をぬらせてうったえるど
うしてもおとこと一緒にさんざしの生け垣をおしわけ
てくらい巣穴にはいりたい冬になる前にふかい穴の底
にこもりたいとなまのうろこをかたい庭にこすりつけ
て泣いている蛇の濃みつどは笹葉のしたやぶがらしの
うら萩のうえをはいまわるわたしの脳髄のおくまでた
っする気のとおくなるようなじゅう低音となるけれど

 あっ、と私は叫んでしまったところがある。勘違いならいいのだけれど、

濃みつど

 これを何と読むか。
 私は「のうみつど」と読んで、あ、私は河邉になってしまったと感じたのだ。
 他人の肉体、他人のことばを読む(聞く、感じる)ではなく、自分のことばのように、膿のようなものが私をつつんだように感じたのだ。「膿みつど」という文字まで身近にせまってきた。そしてこれが「脳」髄の奥まで広がったら、それは「膿」髄? 「濃」髄? そして、その「肉体」の「みつど(密度)」は?
 いやあ、知りたくないなあ。
 知りたくないのだけれど、ここまで来てしまうと「じゅう低音」に飲み込まれているんだろうなあ。
 切断と接続なんて、頭で処理できる世界はどこかへ消えてしまっている。
 困ったぞ。




桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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橋本和彦「踊り場をめぐる断章」、渡辺正也「冬の空」

2012-01-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
橋本和彦「踊り場をめぐる断章」、渡辺正也「冬の空」(「石の詩」81、2012年01月20日発行)

 橋本和彦「踊り場をめぐる断章」は階段の踊り場について書かれた詩である。その最後から2連目におもしろいことばがある。

踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。

 私はこの1行で立ち止まった。何度も読んだ。何度読んでも、「律儀な折り返しを強いられる。」である。思わず読み返したのは、私は「律儀に折り返す。」と最初に読んでしまって、あ、なんとなく文字が余っている。もっと違ったことが書いてあると気がついたからである。--私は黙読しかしないが、目が文字を追いかけるスピードと、肉体のなかでひびく音と、文字数が何か微妙に違っている感じがして、ゆっくり文字を追い直した。そして「強いられる」ということばに出会ったのである。
 そうか、あの方向転換は「強いられた」ものだったのか。でも、だれに? 階段に? それとも階段の設計者に? うーん、違うような気がする。なぜだかわからないが、私は直感的に、自分に強いられていると思ったのである。自分に強いられ、自分の意思で律儀に折り返す。律儀ということばが、私には、人間が自分自身にかした「きまり(生き方)」のように思えるからである。他人からいわれても律儀には生きられない。自分の声にしたかうときだけ律儀である、と私は感じるのだ。
 そう思いながらつづきを読んでいくと。

そこを通り過ぎるとき、僅かながら違った顔
つきになっているのかもしれない。或いは、
外面は同じでも、内側には今まで無かった炎
が生じているのかもしれない。

 他人ではなく、自分の声に従うからこそ、人は「違った顔つき」になる。他人に「強いられ」て動くのなら自分の意思は必要がない。顔つきは、その人の内面からの変化があって初めて生まれるものだと思う。橋本自身「内側」ということばをつかっている。内側が変われば、顔つきは変わる。「律儀」を守り通せば、顔つきはかわる。
 なぜ、橋本は「律儀に折り返しを強いられる」と書いたのかなあ……。
 その前の段落が関係しているかもしれない。

踊り場では、窓から奇妙に白い(或いは黄色
い)光が差し込んでいる。斜めに差し込む光
によって、踊り場のその部分だけが、ある種
の幾何学性を帯びることになる。そのため、
何かしらの非現実性や違和を、感じとってし
まうことになる。また、踊り場では、意図不
明の意匠が施されていることもある。抽象的
な模様が壁に刻まれていたり、一部分が張り
出していたりする。

 ここには二つのことがらが書かれている。ひとつは天体(自然)の動き。光が窓から差し込む。その光のせいで、踊り場は特権的な場になる。もう一つは、踊り場には変な意匠がある。そして、その変な意匠を説明するのに、橋本は「意図不明」ということばをつかっている。
 そこに、私は何か不思議なものを感じたのである。太陽(光)の色と動き。それは人間の思いとは無関係である。人間と無関係なものが、何かしら人間の感性に働きかけてくる。ここでは、人間は幾何学性を感じている。
 でも、なぜ? 
 そう考えたときに、ふと「意図不明」ということばが、今の私の疑問を補いにくるのである。天体の考えていることは「意図不明」。同じように、踊り場の設計者(他人)の「意図」も「不明」なことがある。
 私たちは「意図不明」のものにかこまれ生きている。
 そういう印象があって、

踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。

 を、私は、どうしても「律儀に折り返す。」と読んでしまうのである。他者(自分以外のもの、と考えると人間以外の天体も他者になる)の「意図は不明」。そうい「他者」の「意図」に左右されるのではなく、自分の意図を明確にしながら、自ら折り返す。「律儀」は、常に自分の「意図」を確かめるということである。

 でも、これはあくまで私の考え方である。
 橋本は、私と他者の関係を「強いられる」と感じている。
 それは、もしかしたら天体の動き(太陽の光の動き方)が、天体の「律儀」さにしたがっているということを強調したいのかもしれない。
 「律儀」というと、それはどうしても「人間」に属した感覚と考えてしまいがちだが、「律儀」なのは人間だけではない。天体も(太陽も)「律儀」なのだ。
 「律儀」と「律儀」が正面衝突したとき、どうするか。橋本は自分の「律儀」をゆずる。天体の「律儀」の方を優先する。それはそれで、なるほどなあ、と思う哲学である。特に、東日本大震災を体験したあとでは、天体の「律儀」の方が人間の「律儀」よりはるかに上である。それにしたがう律儀が人間にはひつようなのだなあ、と思う。

踊り場が視界を遮るため、この階段が結局ど
こに続いているのかは、本当は誰も知らない。
 
 私たちは(私は、というべきか)、何も知らない。けれど、橋本は「律儀」ということばを知っていて、そのことばを通して世界と向き合っている。「律儀」を肉体化することで、何かをつかもうとしている。「律儀」と向き合った、そのときに変わる「内面(内側)」というものを信頼しているのだと思う。
 その信頼が、詩のことば全体を、とても静かな緊張感につつむ。律儀への信頼が、ことばの肉体を鍛えている。



 渡辺正也「冬の空」。

ヒイラギの実を啄む鳥たちの語りが
わずかに光る透明な朝の水を
乾いた林に撒き散らすと
空と海の境目がひと筋くっきりあらわれる
だれかが来る前に
海に向かってひらくぼくのほしい空は遠い

 この「うみに向かってひらくぼくのほしい空は遠い」という1行のゆっくりねじれるような文体は「踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。」よりはるかに複雑である。複雑だけれど、「ぼくの」ということばを通して「律儀」に「私」というものが姿をあらわしている--つまり、そこに「主語」の切実さを感じる。そして、その「主語」の切実さが運んでいる抒情に、ほう、と息をもらしてしまう。。



零れる魂こぼれる花
渡辺 正也
思潮社
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往復詩第2弾の書き手募集。

2012-01-23 23:40:14 | 
聴こえてくるのは     谷内修三


聴こえてくるのは 朝の雨、聴いているのは 朝の雨
手探りで枯れた枝の曲がった角度をゆっくりたどり
まだ暗い光のなか こらえきれなくなるまで膨らみ
たとえば閉ざされたガラス窓の虚無を白く映し
夢が落ちていくときの輝き 落下の垂直の無音
その音のない音を 沈黙を 
眠る男はどこでそれを手に入れたのか
聴いているのは 朝の雨のその一粒

聴こえてくるのは レモンを断ち切る音、聴いているのは レモンの断面
オリーブのヴァージンオイルにほどかれる干しぶどうの襞
歯と舌のあいだでよみがえるミニトマトの記憶
チシャ パセリ カブのにおいと遠い国の岩塩の荒々しさ
一滴の酢の鋭い一撃
それらが男ののどぼとけの裏を通るとき
にぎやかに騒ぐいくつもの声 わがままな主張
聴いているのはサラダボールに残されたレモンの断面

聴こえてくるのは モーツァルト、聴いているのは モーツァルト
絃のなかを移動するかなしみのしなやかさ
休止のあいだに飛び込んでくる悪戯っ子のピアノに似た音
ではなく 台所で割れるいちばん繊細なグラス
ではなく 皿の上のフォークのつくりだす影
いまモーツァルトとともにあるすべてが
男の目のなかへ侵入するとき乱反射する色彩
聴いているのは モーツァルト、一月二十七日の朝のモーツァルト

聴こえてくるのは 雨、レモン、モーツァルト、聴いているのは 雨、レモン、モーツァルト
半分開いたカーテンとガラスに残る雨の足跡
女が座っていた椅子は角度がずれて女のカタチをあいまいに崩している
ナボコフの短編小説はとじられ ことばは帰る場所をなくしている
犬はなつかしいような疲れたような目で男をみつめている
そのとき男はどんな沈黙、どんな声帯、どんな色調になろうと考えているのか
聴いているのは 雨、レモン、モーツァルト
聴いているのは 雨、レモン、モーツァルト





フェイスブックでやりとりした八柳李花さんとの往復詩がとても楽しかったので、またやってみたいと思い、「第2弾」の相手を募集しています。
少し変則スタイルを考えています。
書き手は私を含め3人。先行する作品の最後のことばをタイトルにして書きはじめる「尻取り詩」を書いてみたいと思います。

1作目は上記の、私の「聴こえてくるのは」。
「尻取り」のルールは、最終行、最後のことば「モーツァルト」。
これが第2作目の書き手のタイトルになります。
作品の締め切りは先行作品の掲載後、1週間以内。

前回同様、名乗りを上げていただいた順に2名の詩人との「往復詩」を書いてみたいと思います。

フェイスブックから谷内修三→象形文字編集室と進み、コメントする形で書き込みをしてください。
作品は1週間後で大丈夫です。
まず、参加の意思をお知らせ下さい。


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