詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポール・バーホーベン監督「エル ELLE 」(★★★★★)

2017-08-31 12:40:20 | 映画
監督 ポール・バーホーベン 出演 イザベル・ユペール、ローラン・ラフィット、アンヌ・コンシニ、シャルル・ベルリングリ、ビルジニー・エフィラ 

 イザベル・ユペールが出ている。舞台はパリ。セーヌ河が登場する。しかし「フランス映画」という感じがしない。フランス人を見ている感じがしない。
 なぜなんだろう。
 監督がポール・バーホーベンだった。オランダ人だ。そうか、オランダ人から見るとフランス人はこう見えるのか、と思ってしまった。
 もし私とポール・バーホーベンとのあいだでフランス人に対する「共通認識」があるとすれば「逸脱力」というものかもしれない。私は、この「逸脱力」をフランス人の「わがまま個人主義」と呼んでいるのだが、ポール・バーホーベンは「わがまま」というよりも「自立性」になるかもしれない。
 「わがまま」と「自立性」は、どう違うか。
 「わがまま」は簡単に言うと「他人をまきこむ」(他人に頼る部分がある)。「自立性」は「他人をまきこまない」。
 この映画に則していうと、たとえばイザベル・ユペールの息子や別れた夫、同僚女性の夫は「わがまま」である。好き勝手なことをしながら、イザベル・ユペールに頼っている。息子が極端な例だが、経済的にはイザベル・ユペールに頼りっぱなしである。そのくせ、自分の主張をする。
 同僚の夫なんかもすごいなあ。自分がセックスしたいのに、「おまえの方がセックスしたいんだろう。我慢できないんだろう」というような調子で迫ってくる。これを、許してしまう。受け入れるというよりも、むしろ誘い込んでいる。
 ふつうの(?)フランス映画だったら、ここでイザベル・ユペールの方も「わがまま」を発揮して、他人に頼る。他人の人生をかき乱す。
 でも、彼女はしない。
 レイプされて、犯人を自分で探し出す。それも犯人を警察に突き出すということが目的ではない。ただ犯人を知りたいのだ。どんな欲望が犯人のなかに動いているか、それを突き詰めたいのだ。
 これには父親の過去が影響している。父親は残忍な殺人犯である。なぜ、人を殺したのか。その理由はイザベル・ユペールにはわからない。この映画のなかではイザベル・ユペールは父親を受け入れてはいないが、いつも思い出している。そして、「答え」を探している。「答え」と自分との関係を探しているともいえる。
 イザベル・ユペールは、わりと簡単に犯人を探し出す。そして、そのあとが、またすごい。犯人と共存する。つまり、レイプを再現する。そして、そのときの自分の欲望をも再確認するのである。
 これは、すごい。
 すごいし、ぞっとする。
 こんなふうに「逸脱」していいのかどうか、私にはわからない。何か、私の感じている「人間」というものから完全に「逸脱」しきっている。
 これは一体、なんなんだ。
 そう思ったとき、この映画の主人公が携わっている仕事が重要だと気づいた。
 イザベル・ユペールはゲームソフトの開発をしている。そのゲームは、何やらレイプシーンがあるというか、セックスと暴力が一体になったものである。そのゲームのセックスが影響している、というのではない。
 ゲームは、たぶん一回限りのものではない。リプレイする。なんどもプレイする。そのことが、イザベル・ユペールの「意識」を支配している。リプレイすることで、何かを確かめる。
 ふつう、人間は嫌いなことは再現しない。リプレイしない。
 けれどイザベル・ユペールにとってはリプレイこそが人生なのだ。生き方なのだ。
 彼女の不幸は父親が殺人犯だったことにある。だから、それから逃れるように、父親とは接触していない。けれど、それは表面的なことであって、意識はいつでもリプレイしている。
 このリプレイに関係づけていうと、映画の中に非常に興味深いシーンがある。イザベル・ユペールはレイプされたときのことを思い出す。そのなかで彼女は単にリプレイするだけではなく、一度、犯人に反撃する。ただ犯されるのではなく、男を攻撃する。その瞬間、それはリプレイではなくなる。「空想」になる。「現実」ではなくなる。
 ここが、たぶん、この映画のポイント。
 「現実」を描きながら、どこかで「空想」になっている。「現実」と「空想」の関係のなかで、イザベル・ユペールがもがいている。もがきながら、完全に「自立」している。その「自立」は、異様である。完全に、「人間」を逸脱していると思う。
 この「逸脱」を受け入れることができるかどうか。私は受け入れたくない。ぞっとする。だから最初の感想は★2個。こんな映画は嫌い。私の大好きなルノワールの描く人間から、あまりにも遠い。こんなフランス人とは知り合いになりたくない。
 でも、実際に感想を書き始めると、イザベル・ユペールがその前で動くのである。生身の人間として目の前にあらわれてくる。だからよけいにぞっとするのだが。
 あ、この映画はイザベル・ユペールなしにはできなかったなあと思う。「逸脱」しながら、周囲の人間から浮いてしまわない。「逸脱」しているのに、周囲の人間を「引きつける」。イザベル・ユペールを受け入れるかどうかは、彼女は問題にしていない。彼女が他人を引きつけ、支配する。
 レイプというのは男が女を犯すことだが、その瞬間においても、彼女はレイプを受け入れているのではなく、レイプを主導している。支配している。支配できる「犯人」を手に入れ、リプレイする。リプレイを強要する、と言ってもいいかもしれない。
 そして、そのことを、どうもイザベル・ユペールは「ゲーム」としてとらえている。すべてを「ゲーム」としてリプレイする。この奇妙な「逸脱」の原因を、父親の殺人にもとめると安易な「心理分析」になってしまう。そういうことをせず、ただ「逸脱」を、目に見える「現実」として描ききっている。
 こんな映画は大嫌い。
 でも、見ていると引き込まれる。
 力業の映画である。
                      (KBCシネマ1、2017年08月30日)
 *

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(19)

2017-08-31 10:22:43 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(19)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「紫の群生」には紫式部が出てくる。いや、名前が出てくるだけで、実際は出て来ないのかも。こう始まる。

紫式部さーん、
わたしはあんたに仕える約束を、
ときにほったらかして、
ちがう哲学、
ちがう物語で、
生のすきまを重ねる毎日だ。

 紫式部の研究(源氏物語の研究?)が藤井の専門なのか。でもときどき横道にそれてて違うことをしている。たとえば、こうやって詩を書くこととか。まあ、そういう「自画像」を書いているのだと思う。
 この詩(引用部分)で私が注目するのは二か所。ひとつは「紫式部さーん、」という書き出し。「紫式部さん」ではなく「さーん」と音引きが書かれている。そうすると、そこから「声」が聞こえてくる。藤井は「声(音)」を大切にしている。「声(音)」のなかにこそ「意味」があると感じているのかもしれない。
 もう一か所は「ほったらかして」。ここも「意味」よりも「音(声)」の方が前面に出てくる。口語だね。ひとの声が聞こえてきそうなことばだ。
 と、書いて、私は不安になる。
 「ほったらかす」は、正しい日本語(?)というか、文章語でいうとどうなるのだろうか。思いつかない。「放置する」ということばが最初に頭に浮かんだが、「放置する」はどんなにがんばっても「ほったらかす」という「音(声)」にはならないなあ。
 いちばん音が近いのは「ほうっておく」かなあ。でも、これでは「らかす」が結びつかない。「らかす」の方に重点を置いて知っていることばを探すと「散らかす」。うん、「ほっ散らかす」ということばがあるな。「ほっ」と「らかす」には、何か手を「はなす」(放す=放る)と、それをそのままにしておく。「そのままにしておく」が「ら+かす」? 「ら」は五段活用? でも、「放る」は五段活用じゃないだろうなあ。
 「たる」は何だろう。「……てある」がつまったもの? 「してある」。ほうりだしてある、放置してある、散らかしてある。「ある」は「あり」で、「ら変」というのだったっけ、「あら」という活用があったなあ。「して+あら」は「たら」か。そうかもしれないなあ。
 で、こういうことは、まあ、どうでもよくて。
 いや、いちばん関係があるのかなあ。
 「して+あり」が「たり」で、「して+あら」が「たら」だとしたら、ここに「口語」特有の「短縮」がある。「ほうる」を「ほっ」というのも「口語」の「短縮」だね。文法用語があったなあ。促音とか撥音とか拗音とか、音便とか……忘れてしまったが、ことばを「肉体」のうごきがめんどうくさがって短縮してしまう。いいやすいようにしてしまう。この瞬間「音(ことば)」が「肉体」と深く結びつく。「意味」よりも「肉体」の方が優先される。
 ここに、私は何かを感じる。「生きている」感じ。「頭」ではなく、「肉体」が動いていて、それが私に響いてくる感じ。
 あ、まだ「かす」が残っているか。
 「かす」は「させる(強制)」という感じかなあ。そうすると「かす」は「課す」なのか。そのままを「強制する」。うーん、違うけれど、新たに何かする(動詞)を禁止する、禁止の強制(?)なのかもしれない。いや、絶対に違うぞ。なぜ違うと断言できるかというと、このことを考えていたとき、私の「肉体」がぜんぜん動かなかったからだ。「頭」だけが動いていた。こういうのは、全体に間違い。
 「かす」の「か」ではなく「す」に目を向けるべきなんだろうなあ。「す」は「する」。「ほったらかす」は「ほうりだしたままにしてある」ということを「する」のだ。「ほうりだしたままにしてある」でも「ほうりだしたままにする」でもなく、「ほうりだしたままにしてある、ということをする」。
 そのとき「か」は? うーん、わからないが、「春雨」ということばは「はるあめ」ではなく「はるさめ」。ことばの調子を整える(?)ために、本来存在しなかった音がまぎれ込んでいる。その方がいいやすい。そういう何かなのではないだろうか。「頭」ではなく、「肉体(舌や口の動き)」が要求する何か。
 あ、こんなことは、詩の「鑑賞」とは何の関係もないことか。
 そうかもしれないが、私は気になる。

 「ほったらかす」はきちんとした日本語かどうか私は知らないが、「口語」という印象が強い。たぶん、「文章語」にはなじまないだろうなあ。少なくとも役所やなんかがつくっている文章には出てこないだろうなあ、という感じがする。
 口語、俗語というものではないにしろ、どうしても「声」が聞こえてくる。そして「肉体」が見える。「肉体」で共有するものだと思う。「頭」で処理したものではなく、「肉体」が先に動いて、納得(?)している何かをあらわすと思う。この方がいいやすい。あるいは聞きやすい。つまり「わかりやすい」。
 そして、この「声」(聞こえる音)というのが、藤井の詩を動かしていると、私はいつも感じる。
 「紫式部さーん」や「あんた」にも、「意味」以上に「口語(声)」を感じる。藤井が詩を書くとき(あるいは推敲するとき)音読するかどうかは知らないが、ことばを「声」にしなくても「肉耳」は「声(音)」を聞いていると思う。文字を黙読するだけで、藤井の「肉耳」には「音」が聞こえるのだと思う。
 藤井がおぼえている「音」が「声」になって「肉体」のなかで動いている。
 「耳」で聞くというよりも、「舌」や「喉」の動き(あるいは手足も動いているかもしれない)が、無意識に「耳」につながって、「音」になるか。「舌」「喉」など発生器官が「ひとつ」になって「肉耳」になっている。そういうことを感じる。
 こういう「肉耳」の感じが、私は好き。

 「ほったらかす」という「音」のなかにある、解放された感じ。「あ」の音が多くて、とても明るい。何もかもが自由な感じは、ものを「ほったらかした」ときの解放感に似ている。「放置する」では解放感がない。「ほったらかす」というとき、手も足も、肉体全体が束縛から解放されるような喜びがある。
 あ、こんなことは藤井は書いていないし、この詩のテーマ(意味)でもないかもしれない。
 けれど、私は「意味」とか、その作品を「文学史(文学見取り図)」のなかで位置づけるために読んでいるのではないので、こういう感想になるのだ。
 「紫式部さーん」「ほったらかして」という「音」が、ほかのことばの動きにも影響している。それが楽しい。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(18)

2017-08-30 09:33:39 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(18)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「ひとりして」には岸上大作の歌が二首引用されている。

「美化されて
長き喪の列訣別の
歌ひとりしてきかねばならぬ」(池上大作)

「巧妙に
仕組まれる場面おもわせて
一つの死のため首たれている」(同)

 詩の中に樺美智子と佐藤泰志だが登場する。岸上は樺美智子を追悼しているのだが、藤井は樺美智子、佐藤泰志、岸上大作の三人のことを思い、書いている。
 なぜ三人を書いているのか。理由が最後に書かれている。

あなたはだれか、歌人たち、
そして泰志。 逝ったひとを呼ぶ現代詩があってもよかろう。

 三人を呼び寄せる、思い起こす現代詩を書きたい。だから、書いた。
 でも、なぜ、この三人なのか。
 岸上の歌の中にある「ひとり」「一つ」ということばが手がかりになるかもしれない。樺美智子は群衆のなかで死んだ。岸上と佐藤は自殺した。死ぬときの状況を考えると「ひとり」「一つ」ということばは「共通項」といえないかもしれない。
 けれど、

ひとりしてきかねばならぬ

 というときの「ひとり」は「葬列(複数の人)」のなかにいて、なおかつ「自分ひとり」という思いがある。「複数の中にいて、なおひとり」というのは樺美智子の状況に似ている。
 そして、「ひとりしてきかねばならぬ」は、たとえ複数の人がいても「私は一人」という強い自覚と、また思い出す相手は「ひとり」という意識がある。樺の「ひとり」の声をきかねばならない。「一対一」という関係で聞かねばならないと「誤読」することもできる。
 藤井は、そのときの岸上の態度と藤井を重ね合わせているのだろう。
 岸上を思う、樺を思う、佐藤を思う。そのとき「一対一」になる。藤井自身を、いま藤井の周囲にいる人から切り離し、孤絶して、「一対一」になる。「一対一」になって故人を呼び出す。対話する。

 また、この作品には「要約」という形で、佐藤の「読書感想ノート」が引用されている。

樺美智子を
生きのこったにんげの
身勝手な美化においてはならないと。

祈る姿を人に見せない
心遣いをたいせつに秘めて
歌人は逝ったと。

 連の最後の「と」は「読書感想ノート」に、「……と書いている」をあらわしている。「書いている」が省略されたものだろう。
 佐藤は「ひとり」で樺のことを思い、岸のことを思い、二人を呼び出して「読書感想ノート」を書いた。
 その姿に藤井は自分自身を重ねている。
 どうして、藤井は佐藤に自分の姿を重ねたのか。どのことばに藤井を重ねたのか。

忘れるな、すべての美化ははじき返されるしかないと
佐藤泰志は二十一歳の小説家志望だ、その時。
読書感想ノートのなかで。

 「忘れるな、すべての美化ははじき返されるしかないと」も「読書感想ノートのなかで」書いているということだろう。
 この「すべての美化ははじき返される」は、岸上の書いた「ひとり」「一つ」に通じると思う。岸上の歌のなかの「美化」と重ねながら、そう思う。
 「美化」の「化」は「変化」である。それは「他との関係」のなかでおきる。他の何かと比較し(あるいは他の何かを美を支えるものとして存在させることで)、「美」が「美」になる。「美化」がそういうものであるなら、それは他の存在によって「醜化」ということも起きうる。あるときは「美」とたたえられ、あるときは「醜」と否定されるということが起きる。
 こういうことに藤井は異議を唱えているのだと思う。
 佐藤のことばの中に、そして岸上の歌の中に、そういう異議を感じ取り、それに共感しているのだと思う。
 だれを、何を、どうとらえるか。それは「一対一」の関係のなかでおこなわれるべきことなのである。自分を「集団」のなかに組み入れ、「集団」として何か(誰か)を「美化」するということはしない。「美」であろうと、「醜」であろうと、それは「一対一」の関係のなかで、自分「ひとり」で判断する。決定する。
 佐藤が、はたしてそういうことを書いているかどうかわからないが、藤井の詩を読みながら、私はそう感じた。佐藤の中にいる「ひとり」を感じ取り、共感している藤井がここに書かれていると思う。

 「美化」の否定は、岸上の歌と佐藤の「読書感想ノート」に共通する意識であり、藤井は、その意識に共感しているということがいえる。佐藤のノートに「ひとり/一つ」ということばがあるかどうかわからないが、佐藤の孤独に藤井は「ひとり/一つ」を感じているのだと思う。岸上と佐藤をつなぐ「自殺(ひとりで死ぬ)」という行為が「ひとり/一つ」と重なるかもしれない。

 とりとめもなく書いてしまったが、「ひとり/一つ」と「美化の否定」がこの詩のなかを動いている。藤井自身が、それに身を寄せている。身を寄せながら、そうやって生きた岸上と佐藤を詩の中に呼び出している。

 でも、こういう感想は「意味」に傾きすぎているかもしれないなあ。こんな感想を書いてはいけないのかもしれないなあ、という気がする。

水素よ、炉心露出の詩: 三月十一日のために
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(17)

2017-08-29 09:38:02 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(17)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「透明な おめん」は中原中也の詩について書いている。未刊詩篇の「泣く心」のなかに「透明なかめん」が出てくる、と藤井は書いている。
 中原中也は、私は関心がない。何度か読もうとしたが途中で挫折する。「音」がどうも合わない。そこに「音」があるのだろうが、私の耳には聞こえない。「透明なおめん(かめん)」というよりも「透明な音」である。
 藤井は、その「音」をどう聞いたのだろうか。

作ってみるとどうでしょう、透明なおめんを。
みんな、悲しい表情を隠しても、
その隠した表情が透き通るのか、
おめんが悲しいのか。

 「透明なおめん」を中也の詩と置き換えて読む。
 中也の詩は「悲しい表情」を隠している。けれど「詩が透明」なので、隠しているはずの「悲しさ」が見えてしまう。でも、そうではなくて、詩自体が悲しいのかもしれない。表情はしっかり隠されているのかもしれない。
 詩(表現)と感情が「悲しい」という「音」で一つになっている。
 どの詩からも「悲しい」という「音」が聞こえてくる。

 そう読み替えると、うーん、なるほど。よくわかる。
 でも、この「わかる」というときの「わかる」は「論理」がわかるということ。
 これが、どうも妙に気に食わない。
 ここには「音(声)」がない。「耳(聴覚)」がない。
 これは「姿」の論理である。「視覚(目)」の論理である。
 これは、ほんとうに中也なのかな?

 藤井は、どうやって、この中也をつかみ取ったのか。
 この連にたどりつく前、二連目にこういう行がある。中也が幼稚園に「透明なおめん」(正確には中也が透明になるおめん)を忘れて帰った。そのため、先生が怒っている。

置いて帰ったおめんが、
泣いていた。 ひとばんじゅう、
つくえのした、抽斗(ひきだし)のなかで。
透明だから、見えないのさ、
だれにも。 中也にだけは、
見えたんだって。

 ここにも「見る」という動詞がある。
 一方に「泣く」という動詞がある。「泣く」は「聞く」でもある。「聞こえる」でも「姿が見えない」。この「泣く」から「聞こえる」への順序を逆にして、「聞こえる」から「見える」という「肉体」の運動の変化をしてしまうのが中也であって、ほかのひとにはできない。
 そういうことが書かれていると思う。
 先生は「聞こえる」、しかし「見えない」。そのために困ってしまった。それで怒ったということ。

 で、ここから「聞こえる」を「声」ではなく、「見える表情」に「比喩」化することで、聴覚と視覚の問題を藤井は乗り越えようとしている。
 中也の詩には「泣き声(→悲しい表情)」が隠れている。隠しても隠しても見えてしまう悲しさ(表情)がある。
 そう言ったあとで、その「悲しい表情」を「声」という比喩にもう一度転換する。
 「悲しい表情」というのは実は「泣き声」。
 「声」というのは目をつむっていても聞こえるね。「見えなくても」存在していることがわかる。「見えなくても」というのは「隠している」につながる。「隠れている」にもつながる。「隠れて、泣いている」。だから、「見えない」。
 中也は隠れて泣いている。泣いている自分を隠している。
 「隠れる/隠す」が「おめん」である。「おめん」の下には「悲しい声」が隠れている。

 書いていて混乱してしまうが、「視覚」と「聴覚」、目と耳の擦れ違い、いれかわりがあり、そこに中也の詩のポイントがあるということなのだろうけれど。

 私は、この「論理」はうさんくさいと思ってしまう。妙に説得力があるところが「うさんくさい」。

 藤井さん、中也の詩が好きなの? 無理に「論理化」していない?

 そう問いたい気持ちになってくる。
 私は最初に書いたように、中也の書いている「音」が聞こえない。そこに「音」はあるのだろうけれど、それは私の知っている「音」ではない。
 中也が好きという人は、たぶん、その「音」が好きなのだと思う。その「音」を「視覚」で明るみに出すというのは、「感覚の融合」を活用する(感覚の融合をたよりに肉体の深部に入り込む、肉体の未分節の領域に踏み込む)というよりも、「頭」で世界を「図式化」している感じがしてしまう。
 ほんとうに中也の詩が好きなら、「泣く」を「視覚化」しないだろうなあ。
 嗅覚とか触覚とか、何かわからないけれど、もっと「肉体」にまじりこむ感覚をつかって「泣く」をつかみとるだろうなあ、と思う。

 こういう言い方は「言いがかり」というものかもしれないが、藤井の書いていることは「論理的」に「わかる」。しかし、「論理的にわかる」がゆえに、何か「違う」と感じてしまう。
 私は中也の「音」がわからない。そのわからないものが、こんな簡単に「視覚」を利用して説明されるのは、どうもおかしい。
 藤井ももしかすると私と同じように中也の「音」がわからないのかもしれない。「肉耳」で受け止められないのかもしれない。そのために「肉眼」ではなく「意識化された目(論理)」で説明してしまうのかもしれない。
 そんなことを、ふと感じた。

 詩集のなかでは、この作品が一番「論理的」でわかりやすいが、わかりやすいがゆえに、とても違和感が残る。
 藤井さん、次は「中也なんか大嫌い」という感じの詩を書いてみて。
 そう注文したくなる。
 きっとおもしろくなる。

# 中原中也

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(16)

2017-08-28 09:11:53 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(16)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「オルタナティヴ」とは何か。こんなことばを話す人が私の周囲にはいないので、私には何のことかわからない。わからないけれど、考えることはできる。そのことばがつかわれている「作品」を読んで。
 きのう私は「オルタナティヴ」というタイトルの詩を読みながら、文体としてのオルタナティヴということを考えた。藤井がつかっていることばを借りていえば「反論しつづける」文体としてのオルタナティヴである。
 あることがらについて言われている「定説」がある。「流通言語」がある。それに対して「反論しつづける」。反論することで「定説」をひっかきまわし、「流通言語」がとらえているものとは違うもの、別のものを選びとって、それ「自説」として展開する。
 具体的に言いなおすと。
 石川淳の「焼跡のイエス」では、石川淳は、どうみても汚らしい浮浪児を「イエス」として呼んだ。「浮浪児」という「定説(流通言語/既成概念)」で少年をつかみとるのではなく、汚れを洗い落とす存在として浮かび上がらせた。この「イエス」を「表象」とよぶことができるが、それはオルタナティヴの運動の結果である。「流通概念(言語)」ではとらえきれていない何かを選び続ける文体が、「表象」としての「イエス」に収斂していく、と私は読んだ。
 これは「誤読」である、と私は承知している。私の「オルタナティヴ」の定義は「流通定義」とは違っていることは、わかっている。わかっているけれど、私は私の「誤読」をさらにそのまま推し進めたい。

 「アメリカ」は文字通りアメリカを描いた詩である。しかし、アメリカとは何か。すでにいくつもの「流通言語」がある。一方、特異な定義のアメリカもある。たとえば、この詩のなかでは、鮎川信夫が出てくる。小田実が出てくる。彼らは彼らのことば(文体)でアメリカをとらえている。鮎川にしか見えなかったアメリカ、小田にしか見えなかったアメリカ。それが独自の「文体」でとらえられている。この文体の「独自性(オリジナル)」を生み出しているものとしてのオルタナティヴというものがある。世界から何を選び、何を描くか。文体そのものと連動する。
 私の書いていることは、昔はやった「ゲシュタルト」ということに近いかもしれない。ただ、ゲシュタルトというとき、「文体」の射程距離が長い。オルタナティヴは至近距離という感じがする。言い換えると、「遠い結論」を想定しているというよりも、身近な問題の答えを、「結論」を考慮せずに選びとっているという感じ。--こういうことを考えるとき、私は石川淳や森鴎外のことを考えているのかもしれない。石川淳の散文も森鴎外の散文も、「結論(結末)」を想定せずに、目の前にあるものと正直に向き合うことで突き進んでいる。
 あ、なかなか藤井の作品にたどりつけないので、端折ってしまうが、この「結論」を想定しないで、目の前にあるもの(出会ったもの)に向き合いながら、ただ自分のことばを探し出す(選び取る)という運動として、藤井の「アメリカ」は書かれていると私は感じる。

ホピの人々に会いにゆく、
でもかれらのテープには、
風だけがはいっていた。
ニューヨークの路上で、
すこし話を交わして別れた。

 「ホピの人々」というのは誰か。私は無知なので見当もつかないが(前後の文脈のなかでは、ネイティブアメリカンの一族という印象があるが)、藤井はそのひとたちと話した。何か語られたはずだが、藤井は話の内容よりも「風(の音?)」が印象に残った。ホピの人々が風について語ったのかもしれないが、そのことばよりも「風」という「もの」の方が藤井に迫ってきた。ことばよりも、内容よりも、藤井は「風」を選んで、それにつながることばを探す。

ブラックマウンテンから、
アメリカ合衆国がウランを採掘して、
広島市・長崎市に投下された、
原子爆弾の原料にもなったと、
一説では言われている。
母なる大地の内臓を、
えぐってはいけないと言う。

 「風」は「大地」を呼ぶ。つまり「自然」を。あるいは「宇宙(世界)」を。
 そして、それが「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」ということば、たぶんホピの人々のことばを選び出す。ホピの人々はもっとたくさんのことばを話しただろうけれど、そのなかからそのことばを選び出し、それにつらねるように「ウラン採掘」「原子爆弾」ということばをも選び出す。
 この選び出しの順序は、いま私が書いた順番とは違うかもしれないが、それは瞬間的な噴出のように思える。選び出したのか。ことばが噴出してきて、それを藤井がつかまえたのか。あいまいなところというか、区別できないところが、詩の「命」だろうと思う。
 この「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」は、

黒人兵のバーから、
ベトナム兵の、
ひからびた指を米本土まで持ち帰ってどうする。

 というようなことばとも呼応する。
 「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」ということばがなくても、この三行は書かれたかもしれないが、先に「母なる……」を書くことで「黒人兵の……」ということばが選び取られたという気がするのである。
 もちろんこれは私の単なる直感のようなものであって、藤井は違うことを考えてそうしたのかもしれない。私の推測には何の根拠もない。つまり私の書いていることは「論理的」ではないのだが、感想というものはもともと論理的ではないものだろうから、私は気にしないのである。
 この詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。藤井はそういうことばを「選び」ながら、いままで見えなかったものを見ようとしている、と私は直感する。

小田実(まこと)はグラウンド・ゼロの土に、
小便をする(HIROSHIMA)。
この小便をおぼえていてくれ。

 こういう部分も、私には「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」に通じるものを感じる。「母なる大地の内臓に/HIROSHIMAをしみこませる」。そうすることで、「大地」を健康にする。「小便」は「軽蔑」ではなく、「肥やし」なのだ。あらゆる大地はHIROSHIMAを肥やしにしてゆたかになってゆかねばならない。HIROSHIMAを肥やしにして、ひとは生きていかなければならない。
 そういう「声」に藤井は共感し、それを「選び」詩に取り込み、文体を完成させる。

 私の書いたことは「意味」に偏りすぎているかもしれない。藤井は「意味」ではなく、「音」そのものを「選び」、詩に組み込み、詩をゆたかにしている。そういうことも私は直感として感じるのだが、これはなかなか説明しにくい。
 オルタナティヴの瞬間に、「音」が藤井を突き動かしていると私は感じるとしか言いようがない。
 この詩の最初の三行の、

風だけがはいっていた。

 は「風の音だけがはいっていた」だと思う。「音」は藤井にとって「肉体(思想)」そのものであり、藤井にとっては「自明」すぎるので省略してしまうのだと思う。

 さらに、ここからこれまで読んできた詩を振り返ると。
 何篇かあった「回文詩」、あれは「音のかたまり」のなかから「何を選ぶか」ということと関係していると思う。「反論する」という形をとるわけではないが(論理を問題にしているわけではないが)、「既成のことば(音の並び)」反転させつづけることで、違う「意味」を引き出す、選び出すという作業だと思う。
 「意味」よりも前に「音」がある。「音」を聞いて、その「音」から「意味」を選び出すという「文体」なのだ。「音」が藤井の文体の基本にあるのだと思う。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(15)

2017-08-27 08:50:16 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(15)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「オルタナティヴ」というのは、いまはやりのことばなのか、ときどき見かける。だけれど、私には何かよくわからない。私は耳で聞いたことばしか理解できない。話されるのを聞かないことには理解できない。私のまわりには、このカタカナ語を話す人はいない。
 それに「カタカナ難読症」と私が勝手にいっているのだが、カタカナが読めない。すぐ読み間違いをする。知らないことばなら、なおさらである。最初「オルナタティヴ」と書き写して、どうも見た感じが違う。一字一字指で押さえながら確認し、「ナタ」ではなく「タナ」かと気づいて書き直したくらいである。でも、口に出すと「オルナタティヴ」になってしまって、なかなか「オルタナティヴ」にならない。
 最初からつまずき、詩の感想を書く気持ちが半分いえてしまうのだが。

意味不明の突出した描写は
焼跡から イエスから
無頼派、戯作の文体が
描かれている なおそのうえで
兵隊服の男が朝鮮人男性と言えるかしら

 あ、これは石川淳の「焼跡のイエス」のことを書いているのかな? (最後に註釈があって、そうなのだと確認する。)
 石川淳の文体は強烈だ。
 「突出した」ということばが石川淳の文体の力をあらわしている。その「突出した」を修飾する「意味不明の」ということばが、さらに石川淳の「文体の力」をあらわしている。藤井の書いている「意味不明の」というのは、書かれている「内容/指し示すもの」が不明ということではなく、「突出力」が「意味不明」、つまり「常識はずれ」ということだ。
 「描写」が突出しすぎていて、「意味」がわからなくなる、と言いなおせばいいだろうか。度の強いメガネをかけると、網膜にものが焼き付けられて、それが取れなくなるような感じに襲われる。「見ているもの(対象)」が網膜に貼りつき、それ以外のものが見えなくなる。「脳」だけではなく「肉体」そのものが「見たもの(対象)」になってしまうような、激しい酔い、混乱、苦痛に襲われる。
 そういう「常識はずれ」の文体。不必要に「存在」が突出してくる文体。

意味不明の突出した描写は

 この一行だけで(次の行の、「焼跡から イエスから」がもちろん見えいてるから、そう感じるのだが)、あ、これは石川淳だと感じ、私はそれだけで、この詩に満足してしまう。
 私は石川淳が大好きだ。石川淳の文体を藤井も好きに違いないと思い、それだけで藤井の書いていることに「共感」してしまう。
 まだ、何も読んでいないのに。読んだとは言えない状態なのに。
 これは、ある曲の最初を聞いただけで、「あっ、この曲はすごい、大好きだなあ」と思うのに似ている。

 で、さらに読み進んでいくと。

野坂や 大江さん
終戦を扱う マンガ
若い世代が絶えず参照する
七十年間の オルタナティヴ

 野坂は野坂昭如、大江さんは大江健三郎。ふたりとも独特の文体をもっている。そのふたりも石川淳が好きだったのかな? 私は知らないが、藤井はそういうことを聞いたのかもしれない。実際はどうかはわからないが、物書きは石川淳の文体を「参照」するだろうなあ。
 というか。
 石川淳を読んだあとでは、自然に文体が石川淳にならないだろうか。
 いや、私の文体は、どんなに石川淳をまねしても石川淳にはなりようがないのだが、それは「客観的」な評価であり、私としては石川淳そのもの。あ、これって、石川淳の文体になっているなあ、と思うのである。いま書いている文章のことではなく、石川淳を読んだあとに書く文章のことだけれど。そういう思いにつきまとわれるので、私は石川淳の作品について感想を書いたことがない。

 あ、何を書いてるんだっけ。
 藤井の詩についての感想を書こうとしている。でも、脱線しっぱなし。思いは、石川淳に引っぱられてしまう。
 藤井はどうなのかなあ。
 そんなことを思っているうちに、詩は最終連にきている。

雪のまんなかで
ヴェロニックな顔が(あれ
ヴェロニカとは何か)と思いながら
黒いドロになる、と
それは作家 石川淳の表象だと
きのうのいちにち
反論しつづける娼婦のオルタナティヴ

 うーん。
 ここで、私の「肉体」は妙な具合に動く。突然「意味」に触れたような感じになる。「突出してくる何か」が「肉体」を突き破る感じ。「肉体」が突き破られる感じ。
 どういうことかというと。
 「表象」ということばが「オルタナティヴ」と結びついて、何か語りかけてくるのを感じる。こういう「現場」を何度か経験して、私は「ことば」の意味をつかむのだと思う。「正解」ではないが、自分で納得できる「意味」を自分の中にしまいこむといえばいいのか。
 この連で、私が特に注目したのは、

反論しつづける娼婦のオルタナティヴ

 である。「オルタナティヴ」というのは「反論しつづける」ということと深く関係している。そう直感する。
 この「反論」、言い換えると断定と否定のあり方は、その前の、

ヴェロニックな顔が(あれ
ヴェロニカとは何か)と思いながら

 と、何か似ていないか。
 何かを「引き寄せる」(想像する)、同時にその「引き寄せる何か」に対して「何か」と疑問を持つ。疑問は反論の一種。その瞬間、その「何か」はふたつになる。ふたつになりながら、「ひとつ」を探る。「オルタナティヴ」とは、いくつかの中から「ひとつ」を選びとって「表象」する。「ひとつ」に「表象」するということではないのか。
 石川淳の小説では、汚い少年が「イエス」として表象されている。少年は他のものにもなりうる。けれど石川淳はイエスを選びとって、イエスとして表象した。
 「オルタナティヴ」という「意味」はわからないが、「オルタナティヴ」の「運動」とはそういうことではないか、と私はここで思うのだ。 

 で、ここからさらに私は考える。
 人は誰でも大事なことは繰り返し言う。これと似たことを藤井は、詩のどこかで、いっていないか。
 読み返す。そうすると、一連目、先に私が引用した五行のあとに、こうある。

と煩悶し おいらはたしかに
内向きに収斂する

 最初に読んだときは何か書いてあるかわからずに、めんどうくさくて省略したのだが、そうか「収斂する」か。「オルタナティヴ」とは、「ヴェロニックな顔が(あれ/ヴェロニカとは何か)と思いながら」という具合に混乱する思い(反論にぶつかり、困惑する思い)を経て、そこから何かを「選び」、選び取ったものへ向かって「収斂する」ということか、と思う。勝手に、想像する。つまり、「誤読」する。「煩悶する」は「思いが乱れる」であり、それが「収斂する」とは「思い」が「表象」に結晶する。
 客観的なというか、流通言語としての「オルタナティヴ」がどういう意味かわからないが、藤井は、そんなふうに理解していないだろうか。
 そして、藤井は、石川淳の文体に、意識の衝突と、その意識を「ひとつ」に「表象」する運動を見て取り、それを「詩」の運動と理解し、引き継いでいこうとしている、と読む。私は「誤読」をそんな具合に拡大する。

 これは詩を読みながら感じ取った「意味」なので、間違っているかもしれない。藤井が話しているところを聞けば(声をとおして聞けば)、もう少し「意味」がつかみとれるかもしれない。
 勝手な「オルタナティヴ」の定義だけれどね。
言葉と戦争
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大月書店
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池井昌樹「豊旗雲」ほか

2017-08-26 10:23:06 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「豊旗雲」ほか(「森羅」6、2017年09月09日発行)

 池井昌樹「豊旗雲」の全行。

どこへゆこうとしていたんだろう
このぼくは
どこへゆこうとしていたんだろう
ひとふろあびてはだかのままで
そらみあげながらかんがえる
いろんなやまやたにをこえ
みちなきみちをみちとして
あるときはひつじのすがた
またあるときはいわしやうろこ
いまとよはたにてりはえながら
くっきりかげをおとしている
ひとふろあびてはだかのままで
そらみあげているかげひとつ
おきざりにして
どこへゆこうとしているんだろう
あのくもは
どこへゆこうとしているんだろう

 一行目の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「このぼく」。ところが最後の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「あのくも」。風呂上がりに雲を見ているうちに主語が交代する。「ぼく」が「くも」になってしまう。「この(近く)」が「あの(遠く)」になる。
 これが、とても自然。
 誰でも何かを見ていて放心するということがあると思う。「放心」の定義はむずかしいが、「こころ」が自分から「放れていく」ということ。「放れて行った」こころは、どうなるんだろう。何かを見つけ、そこに住みつく。「ぼくのこころ」が「何かのこころ」になって生きているのを見る。
 それは、もうひとりの「ぼく」の可能性かもしれない。

 「帰郷」は、こう書かれている。

これがぼくだとおもえるぼくが
このよのどこかにひとりいて
これがぼくだとおもいながら
よろこびにうちふるえたり
かなしみにうちひしがれたり
このよにいきているのだけれど
これがぼくだとおもえるぼくは
きえてなくなることがあり
これがぼくだとおもえるぼくが
もうあらわれないそのときから
はじめてそらをくもがながれる
はじめてほしはまたたきかける

 繰り返される「はじめて」が美しい。「はじめて」を動詞として言いなおすと「生まれる」。「ぼく」は雲や星として「はじめて」生まれてくる。生まれ変わるのである。

明星
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思潮社
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(14)

2017-08-26 08:43:56 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(14)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「倭人伝は草へ帰る--日本史」の書き出し。

あかつきの物語が終って 倭人伝は草へ帰る

 タイトルはここから取られている。どういう意味だろう。二行目は、

さびしさの 表情ゆたかに歴史の筐で息絶える古代史

 ここまで読んだだけではわからない。
 でも「倭人伝は草へ帰る」と「息絶える古代史」は同じことだろうなあ、と思う。「草へ帰る」は「自然に帰る」というよりも「土に帰る」に似ている(と、私はかってに思う。つまり「誤読」する)。死んで土に帰る。死んでは「息絶える」。
 とはいうものの。
 ことばの「力点」は「息絶える/死ぬ」ではなく、「表情ゆたか」の方だろうなあ。「表情ゆたか」というのは「さびしさ」とは反対のような気がするが、反対だからこそ「表情ゆたか」を引き立てる。色で言えば「補色」。
 同じことが一行でも言えるなあ。「あかつき」というあかるいもの、これから始まるものが「終わる」という動詞と結び対いてる。そのとき、やはり「補色」に触れたように「あかつき」がより鮮明になる。
 「終わる」「帰る」「息絶える」と動詞はどれも否定的(?)な「意味」を持っているのに、なぜか、逆に「始まる」「行く(出発する)」「生まれる」という感じがつたわってくる。「補色効果」だ。「あかつき」「表情ゆたか」という「意味」だけではなく、ことばの「音」そのものが「消えていく」というより、「増えてくる」(増殖する)という感じの「活気」を持っている。まあ、これは、私の印象だから、違う印象をもつひともいるだろうけれど。
 で。
 「息絶える古代史」と書かれているのだが、どうも逆に「古代史が生まれる」という感じがする。いわゆる「学校教育」でいう「歴史(古代史)」は「終わる/消える」のかもしれないが、「教科書」から逸脱していく「古代史」が動き始めると言えばいいのか。
 「古代史」が始まるといっても、「古代」の見直しというのではなく、「新しい古代」を出発点に「新しい歴史」が始まるといえばいいのかなあ。

さきをゆく水軍のあとの白波 偽造の集成される内海文書(ないかいもんじょ)
群書類従(るいじゅう)がびしょぬれで歴民博へたどりつく ない城壁に
のろしの火を塗る 学芸員の手腕がもっとも問われるところ

 「さきをゆく水軍のあとの白波」の「さき」とあと」の組み合わせがやはり「補色」だが、「教科書の歴史」の「補色となる別の歴史」というものが、さまざまな文書の読み直しをとおして始まる。読み直しは「学芸員の手腕」ということばであらわされていると思う。
 「教科書の歴史」をはみだしている「歴史」が、いたるところにある。それをどうやっていきいきと動かし「歴史」として生み出すか。いや、生み出せるか。
 丸山真男や吉田茂も登場したあと、最後の四行はこう書かれる。

歴史はどんな時代にも生産されつづけたのであり
アートの試み映画演劇 小田さん(実)の「何でも見てやろう」
身を躍らせていた仮面よ それらの
芸能史をどう評価してゆくか 歴史の最難関

 「歴史」はたいがいが「権力の変遷」の歴史である。そこではある権力が誕生し、また滅んで行く。その周辺に動いている「非権力(庶民)」の歴史はなかなかストーリー(意味)にはならない。「教科書」には書かれない。けれども、そこにも「歴史」はある。ひとの暮らしがあり、暮らしをいろどる「芸能」がある。
 「芸能」のなかで、ひとは何をしているのだろう。何のために「芸能」にかまけるのか。

 詩も(文学も)、どこかで「芸能」と通じているはずである。
 一方、「権力」の「文学」というものがある。「万葉集」や「古今集」には「読み人知らず」の歌もあるが、基本的には「権力者」の歌が「歴史」をつくっている。
 それはそれとして、藤井は「別の歴史」にも目配りをしている。「教科書」にはない「歴史」を掘り起こそうとしている。そういう「願い」をこの詩のなかで語っているように思う。「権力」に与しない詩を書こうとしている。「権力」にくみしないことばの響きを甦らせようとしている。
 「ストーリー(意味)」にならないように、瞬間瞬間の、イメージの炸裂として書いているように感じられる。

日本文学源流史
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青土社
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(13)

2017-08-25 11:31:30 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(13)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「戦後の歴史」は、こう始まる。

私たちは 皆、(とアーサーが言う。)
第五福竜丸に乗っている、と。

 「第五福竜丸」はビキニ環礁の水爆実験で被爆した。いま、私たちは(地球は)、福竜丸に乗っている状況とかわりがない。世界に存在する核兵器の数を思うと、誰もが被爆する危険を生きていることになる。
 「アーサー」というのが誰のことなのかわからないが、私は最初の二行をそう読んだ。そして、これから「戦後」のことが書かれるのだ、と思った。
 ところが、一行空いて、二連目は、こうである。

そこにある花の村が季節に美しい瓣をひらく。

 福竜丸(水爆実験、被爆)との関係がわからなくなる。
 しかも、「花の村が」「美しい瓣をひらく」ということばの動きが、ふつうとは違う。「村の花が」「美しい瓣をひらく」ではない。一瞬、混乱する。けれどもすぐに村にある花が全部開いた。村中が花でおわれている「美しい」風景が目に浮かぶ。「村の花が」「美しい瓣をひらく」よりも、劇的である。「村が花になって」その花が「美しい瓣をひらく」。
 ここには全体と個別の混同というか、全体が個を支配するのではなく、個が逆に全体を支配する(代弁する)という不思議な力がある。全体と個の逆転がある。そしてそこには「なる」という動詞が省略されている。
 ここから最初の二行へもどってみる。
 福竜丸は地球に比べると小さな船である。皆が福竜丸に乗っているわけではない。人間は地球の各地に散らばっている。福竜丸が一輪の花だとすれば、村は地球。地球が村だとすれば、福竜丸は一輪の花。けれど、その花は地球全体を象徴する。その花の動きは、地球全体に広がる。
 小さな船で起きたこと。それは地球規模で起きることである。
 そういう風に読むことができるだろう。
 三連目。

標的の紫が隠される、普通の船の普通の声がする。
あじさいと言いましたね、咲いていたのは。
宗教学者が答える。 三月の季語と、
六月の季語とを向き合わせる。

 ここに書いてあるのは、どういうことだろう。何を「象徴」しているのだろうか。よくわからない。
 「標的の紫」とは、水爆実験の「標的」のことだろうか。「普通の船」は福竜丸を思わせる。「普通の声」とは福竜丸に乗っている普通の乗組員の声である。何も知らないで仕事をしている。
 「紫陽花」は標的の「紫」に通じる。「紫」と聞いて、さらに「花」と聞いて、普通の人なら「紫陽花」を想像するということだろうか。「紫」に隠されている「事実」を私は知らない。標的が紫だったのか、水爆実験のときの「光」が紫に見えたのか。
 水爆実験がおこなわれたのは三月。紫陽花は六月(雨の季節)に咲く。ここに微妙な「ずれ」があるのだが、その「ずれ」は、「そこにある花の村が季節に美しい瓣をひらく。」という行のかかえる主語の入れ替わりに似た「ずれ」かもしれない。何かが、いれかわる。いれかわることで、世界の姿が一変する。

 こういうことは、詩の世界の「事件」である。ことばが「文法」を超えて、奇妙に錯乱する。論理が破壊され、乱れる瞬間に、「文法」ではとらえられない何かが噴出してくる。
 ということと関係があるのかないのか、よくわからないが、ここから藤井は突然「文学」について語り始める。

光らせる俳人のおもて、一語の俳句で。
きみとともに生きている白いバリウム。 四千の霧をへだてて、
白い花園はのこっているか。

自然よ つく(=滅亡)すな。 定型の歌姫 かりそめに去りゆく。
古代の人の復活するその懐に永世の眠りを誘う詩人の習性、
としての命脈、さいごの祈り。

からく言語の語る時の間の安らぎに還る、
荒地のひとの普通の詩人。 荒地の墓の白いバライト。
氷島のひとの普通の詩人。 蒼い猫の首輪のチップ、江ノ島で。

 俳句、定型の歌(姫)を経て、古代の文学が戦後詩(「荒地」の詩)に引き継がれていく。「氷島」と「猫」の朔太郎もそのなかにまぎれ込む。
 そのことを思うと、タイトルの「戦後の歴史」は「戦後詩(現代詩)の歴史」と読むこともできる。「詩」が省略されているが、詩の歴史を藤井は書いている。「戦後詩(現代詩)」であっても、そこで動いていることばは「戦後」だけを舞台に動いているわけではない。ことばのいのちは古代の定型詩(和歌)とも俳句とも朔太郎の詩ともつながっている。(このあと、詩には西脇順三郎も登場する。) 
 で。
 ことばは、激しく時間と場所を飛び越えて動くので、「意味(ストーリー)」を追うことが私にはできないのだが、気になるのが「普通」ということばの繰り返しである。
 「普通」ということばで藤井は何を言いたいのか。
 一方に「特別」な何かがある。朔太郎は「特別な人」かもしれない。けれど、その「特別な人」にも「普通」はある。「普通」と「特別」が「花の村が季節に美しい瓣をひらく」というような乱れ方でつながっている(ひとつになっている)からこそ、人はそのことばを通ることで「普通」以外のことを体験する。あ、これこそが自分の体験したことと錯覚する。
 「読者」にとっての「戦後詩の歴史」というものも、「普通」ということばで象徴しようとしているのかもしれない。

 まあ、これは、私が勝手に「誤読」したことである。
 わけのわからないまま、瞬間瞬間に感じたことである。

 詩の最後は、こう閉じられる。

二千年が経過する、眠る龍の船名を刻印する、
先住するひとびとの記録、どこに。 しゅんこつ丸の、
ゆくえもまた知らない。

 「ことば」は何事かを記録する。詩もまた、その時代の「記録」だろう。その「記録」はどう読まれるか。わからない。わからないけれど、「書く」。
 この「書く」という動詞を、「なる」という動詞で言いなおすとどうなるか。ことばを「書く」ことは「詩人になる」ことである。
 そう読むとき、藤井がことばを書かずにいられない理由がわかる。「詩人になる」ために「ことばを書く」。「いま」と「過去」と「未来」を結びつけ、また切り離すために書く。「ことばの歴史」を書く。ことばの歴史に「なる」。

美しい小弓を持って
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思潮社
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エドガー・ライト監督「ベイビー・ドライバー」(★★)

2017-08-24 10:03:16 | 映画
監督 エドガー・ライト 出演 アンセル・エルゴート、リリー・ジェームズ、ケビン・スペイシー、ジェイミー・フォックス

 オープニングは非常におもしろい。音楽と映像が一体になっている。音楽はイヤホンでアンセル・エルゴートが聞いているものなので、現実には聞こえないはずなのだが、それを観客も聴く。そうすると、観客の「耳」というか、「頭」というか、「肉体」が、そのままアンセル・エルゴートになった感じ。「のり」に感染してしまう。車は、もう車ではなく、走るアンセル・エルゴートの「肉体」。
 音楽がアンセル・エルゴートの「肉体」そのものをかえてしまうのは、車を降りて街を歩くシーンでも再現される。コーヒーを買い、秘密のオフィスにもどるだけなんだけれど、なかなか楽しい。
 私は、この映画でつかわれている音楽にはなじみがないのだが、つかわれている曲を知っている人はもっと楽しいと思う。「のり」に酔ってしまうかもしれない。
 最初のエピソード部分は、★10個のすばらしさ。
 でも、
 まあ、映画の「お約束ごと」なんだろうけれど、ボーイ・ミーツ・ガールの部分から、面白みがなくなる。リリー・ジェームズの好んでいる歌は、車を暴走させる音楽にはふさわしくない。まあ、母親を思い出す、ということで、そういう音楽がつかわれている。「意味」はあるのだが、その「意味」がわざとらしく、重苦しい。
 それを無視してしまえば。
 アンセル・エルゴートと里親(?)の黒人との関係がおもしろい。「耳鳴り」で苦しんでいて、音楽で耳鳴りを消している。ことばは「唇」で読む、ということと里親が口が聞けない、手話で会話するというような部分が、不思議に、映画全体をしっかりと支えている。細部が生きている。「情報」が「情報」でおわらずに、ストーリーとなって動いているところがいい。
 アンセル・エルゴートが録音した「音(声)」をもとに音楽をつくっていくところもいいなあ。ケビン・スペイシーの声が、私はわりと好きである。一度ネットで歌っているのを見たことがあるが、話している声の方が音楽的。その声をミキシングして音楽にする。最後のタイトルバックでも、ケビン・スペイシーの声が聞こえたとも思うが。
 ケビン・スペイシーついでにいうと。
 「ユージュアル・サスペクツ」のころの初々しさ(?)は消えて、すっかり太って、でぶに拍車がかかっている。さらに禿がすすんだのか、カツラで懸命にごまかしている。前からだけではなく、頭の後ろ、カツラのつなぎめ(?)をどう処理しているかまで克明にみせているのが、なんともいえずおかしい。 
                 (t-joy 博多スクリーン4、2017年08月23日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う! (字幕版)
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(12)

2017-08-24 08:45:10 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(12)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「のたうつ白馬」「冷却の音」「「この国家よ」と三篇の「回文詩」がつづいている。テーマは東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故である。
 「のたうつ白馬」の最初の連。

震源は
震源は
のたうつ白馬

 東日本大震災の「震源」は東京電力福島第一原発ではない。けれど事故が起きてしまうと、東京電力福島第一原発こそが「震源」ではないのか、と思えてくる。もちろん、原子力発電自体が地震を引き起こすわけではない。けれど、原子力発電の仕組みそのものが世界の原子に影響し、それが地殻にも影響する。こういうことは「非科学的」な発想だが、ひとは「非科学的」なことも発想できるし、それをことばにすることもできる。
 原子力発電の発電の仕組み、原子核の分裂というものが、地殻に影響する。発電所の下には「白馬」がいる。事故の起きた場所は「相馬」。その名前の中には「馬」がいる。その「馬」が「白馬」なのだ。白馬が原子力発電の影響で苦しみ、のたうつ。それが「震源」になって地震が起きる。
 いや、そうではなくて、いま東京電力福島第一原発が引き起こした事故が、新しい「震源」になって「白馬」をのたうたせている。その「白馬」は原発の地下にいるのではなく、地上を(地球を)走り回っている。のたうちながら。その「白馬」の苦悩にあわせて、地球規模で地震がおきている。その地震を「感知」しているひとにだけわかる形で。「環境破壊(健康破壊)」という「後遺症の大地震」が始まっている。
 こういう連想(誤読)は、無意味だろうか。
 「意味」の定義からはじめないと、考えたことにならないのだが、「考え」以前の「考え」というものがある。直感のようなものが。そして、直感は「非科学的(非論理的)」だからこそ、何かしら刺激的でもある。
 藤井がはっきりと書いていないことを、勝手に読み取る、「誤読」する。さらに「意味」を拡大して語る。「無意味」かもしれないが、「誤読」することが、ことばの魔力に触れることになるかもしれない。
 最初の連は、最後で、どう変化するか。「回文」にすると、ことばはどうなるか。

爆発 うたの
反原子
半減し

 あ、「のたうつ白馬」は、その苦悩のなかで、原子を「半減」させている。苦悩が「制御棒」のよう働くのかもしれない。ここには、何か、祈りのようなものがある。ことば、その「音」をあれこれ動かしながら(ここでは逆さまに読む)、ことばのなかに潜む別な「ちから(いのち)」を探してきていると読むことができる。
 途中に「うた」ということばが出てくるのは、藤井の、ことばにすることで、ことばが「反原子力」を引き寄せてほしいという祈りがこめられているのかもしれない。
 ことばを語る。読み直す。その繰り返しのなかで、ことばが隠しているものを探り当てる。探り当てたものに自分を懸ける。それが祈りということかもしれない。

 「冷却の音」の最初と最後は、こうなっている。

爆発、うたの発生か、
嘘か、

似れば仮装か、
異説は のたうつ白馬。

 「爆発」と「白馬」、「うた(う)」と「のたうつ」、「発生」と「異説」、「嘘」と「仮装」。部分部分を取り上げると回文にはならないのだが、「単語」のわくを超えて動き、連なる音の組み合わせのなかに(音の交錯のなかに)、ことばを超える「力(いのち)」を感じる。
 「意味」に固定される前の、「声」の力を感じる。そういうものを感じさせてくれる。

 「この国家よ」は、「意味」を探しすぎているかもしれない。最初の部分と最後の部分は、こうなっている。

暗い来歴に
かなしいよ
人災よ
この国家よ
炉の震源は
遠のくより
箴言せよ

原子力の音
反原子の
炉よ
かつ、この
今宵、惨事よ
石中に
きれい、磊落

 「人災」が「惨事」と言い換えられている。ここにポイントがあるのだが、「のたうつ白馬」のように、肉体に生々しく迫ってこない。「意味」が概念になっている。
 私は「のたうつ白馬」のような、むき出しの「いのち」が見えることばの方が「誤読」を突き動かすように感じる。そういうことばの方が好きだ。「人災」「惨事」では「意味」におさまってしまうが、「のたうつ白馬」は「意味」を生み出しながら動く。

詩を読む詩をつかむ
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(11)

2017-08-23 14:58:32 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(11)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「となか--黙示録」は、東日本大震災、東京電力福島第一原発のことを書いている、らしい。

 海の炉心をだきしめよ
 幼い神々

 の「炉心」というようなことばがら、そう感じるであって、間違っているかもしれない。そこにはまた、

叙事詩にたいせつな遺伝子情報を載せて、
針の精子は斃れ、胎内で聴く母語のはて、やさしいな--

 と、清水昶を追悼した「針の精子」に出てくることばもある。
 あるいは、清水なら東日本大震災をどう詩にしたかを考えているのかもしれない。
 「母語」ということばがあるが、ことばはどこかでだれかとつながっている。だれとつながっているか、ふつうは考えないけれど、同じことばを使うひとはどこかでつながっているだろう。そうであれば、同じことばを使えば、ひとは見知らぬ人ともつながることができるということでもある。そのつながりは「時代」を超える。「いま」生きている人だけでなく、かつて生きていた人、これから生きる人にもつながる。
 ことばは「遺伝子」である。
 そんなことは、書いていないというかもしれないけれど、書かれていることばを私は「誤読」する。
 そして、その「ことばのつながり」には、不思議なものがある。「意味(論理)」ではないものがいつでも忍び込んでくる。

叙事詩の主人公たち。 言えなくなった、意志・苦痛、意志・苦痛。
「うつく・しい」とさかさまに言おうとしただけなのに、
虫のことばになりました、消える人称的世界!

 これは、たぶん詩の書き出し「ことしの紅葉はさびしかったよ。地上では/うたったさ、そりゃあがんばったよ。 土偶も、空の神も、/みんなで、哲学の徒であろうとしたさ。」を言いなおしているのかもしれない。
 震災後、紅葉を語ることばがない。「美しい」とは言えない。でも、どう言えばいいのか。「美しい」けれど「美しい」とは言えないので、たとえば「美しい」を逆に(さかさまに)言えば、紅葉を語ることができるか。「うつくしい」「いしくつう」。「意志・苦痛」になる。「回文」ではないのだが、「さかさま」にするだけで、違うものが忍び込んでくる。
 これは「翻訳」不可能なものだね。日本語を「母国語」としている人間にはわかるが、そのことばを日常的に話していない人には、「美しい」を「さかさま」にすると「意志・苦痛」になるかなんて、わからない。
 もちろん「いしくつう」をどう読むか。「音」にどんな漢字をわりふって「意味」にするかは人によって違うだろうが、藤井が「意志・苦痛」という「漢字のルビ」をふったとき、そこに日本人には「わかる」意味が出現する。それしか意味がないように思われる。
 「意味」は単に「意味」ではなく、「ストーリー」をひきつれてくる。震災後を生きることは「苦痛」を伴う。しかし、その「苦痛」を引き受け、さらに生きていく「意志」を人間は持つことができる。そして、「意志・苦痛」ということばは、ある意味で、これからの生きる「指針」にもなる。
 ことばのなかから、予想もしなかった何かがあらわれて、人間を引っぱっていく力になる。
 昔、「若いという字は苦しい字ににてるわ」という歌謡曲があったが、「意味」が人間を引っぱる力になる。支えになる、ということがあるのだ。「苦しいけれど、それは若さの特権である」という具合に。
 「意志・苦痛」にも、そういうものを感じる。それは「美しい」とは簡単に言えないけれど、「美しい」何かに触れている。ことばの中には、予想外のものが含まれている。そして、それは「母語」の「遺伝子」のように、意識されないまま生きている。
 藤井は、「音」の中に、それを感じている。

哀吾、哀吾よ、きみの名は「哀吾」か
秋にもなれば、晩秋のあらしになれば、
紅葉にかわって、終わるらんぎくが栄えることでしょう、
叙事詩のなかに、一人また一人 名前は浮上する。
終わりの始まり、

 「哀吾」をどう読むか。「あいご」と読めば、それは韓国語の「アイゴー」になるかもしれない。喜怒哀楽、特に強い悲しみを訴えるときのことばに。
 「母語」のほかにも、「ことば」はまじってくる。それは「感情」がまじってくるということでもある。人間は、そうやって「つながる」ともいえる。

 私の「要約」では、藤井が何を書いてあるかわからないと思うが……。

 一篇の詩のなかで、何かがすり変わるように動いている。何と何がすり変わったのか、何のためにすり変わったのか。それを読み解けば、また、「意味」が強い形で生まれてくるのだろうけれど、それを書くことは私にはできない。
 いいかえると、わからない。
 わからないけれど、この詩のなかでは、ことばが「音」を中心にして、「越境」を繰り返していると感じる。「意味」の越境、「意味」の破壊。それでも生きることば。それを、「生まれる瞬間」にこだわって書いていると感じる。


日本語と時間――〈時の文法〉をたどる (岩波新書)
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紫圭子『豊玉姫』

2017-08-22 10:41:36 | 詩集
紫圭子『豊玉姫』(響文社、2017年05月15日発行)

 紫圭子『豊玉姫』は「詩人の馨叢書」の第5弾。
 私は詩を音読することはない。朗読もしない。(仕方なしにすることもあるが。)なぜかというと、書くときに声を出さないからである。声を出さずに書いたものを、声に出して読むと、まったく違ったものになる。
 朗読しているひとたちは、どうやって書いているのか。
 「声」を想像しながら読んでみる。

 「豊玉」という詩の一連目。



波の音
海底から空は広がり
天空から海は満ちて

 最初の三行は「声」として聞こえる。でもそのあとの二行は、私には「声」として聞こえない。「意味」はわかるが、「声」の強さが前の三行と違いすぎていて、同じひとの「声」と感じられない。
 「広がり」「満ちて」という中途半端な声は落ち着かない。
 「から」ということばも、「間延び」している。
 「から」には「論理」が動いている。つまり「から」は「頭」を通過して、「広がる」「満ちる」という動詞を誘い出すという「文法」として動いている。言い換えると、この二行は「声」ではなく「文章」なのだ。
 「海底」から「海」へ、「空」から「天空」への言い直しも奇妙である。紫は「海底」と「天空」、「空」と「海」が対になっているというかもしれないが、うーん、その対は「頭」で整理した対ではないかなあ。
 非常に気持ちの悪い二行である。
 紫が「声」に突き動かされているというよりも、「ことば」で読者をだまそうとしている感じがするの。
 途中を端折って、

豊玉
ふりそそぐいのち
わたくしは海のはじまる地点に立った
豊玉姫の息吹にひれ伏し
対馬海底に触って
いのちの実を両手にうけて
わたつみの豊玉姫に射す陽の環

 ここも「詩」ではなく「散文」。
 「ふりそそぐいのち」「いのちの実」ということばから、紫の「頭」は感動している(何かに感応している)ことは理解できるが、「声」がまったく聞こえてこない。
 人間というのは感動したとき、「文章」をつくれないものではないだろうか。「文章」というのは、「肉体」に起きたことをあとから整理して「頭」でつくるものであって、「肉体」が感動しているとき、「声」は喉の奥をひっかいて飛び出すだけである。
 「海底(対馬海底)」ということばは一連目にも出てきたが、「海底」というときの「肉体」のリズムは、どういうものだろうか。「つしまかいてい」と聞いて、ひとは「海底」と理解できるか。このことばを書いたとき、紫はほんとうに「声」を出しているのか。そういうことに、私はつまずくのである。
 一連目の「天空」がここでは「陽の環」になっているが、「天空」というリズムで「「陽の環」ということばを発することができるだろうか。そこにも、私はつまずく。

太陽の祭り
月の祭り
陽と月と地を結ぶ鏡のような朝
五月二十一日
新月
金環食
わたくしの
豊玉元年!

 「太陽の祭り/月の祭り」と叫んだ「声(肉体)」が「陽と月と地を結ぶ鏡のような朝」という「声」を発するとは、私には考えられない。「太陽の祭り/月の祭り」をつらぬいている「恍惚」が「ような」ということばで完全に消えてしまう。
 「太陽」「月」が「鏡」に変わるのだから、そこにはエクスタシー(逸脱)があるはずなのに、「ような」では逸脱にならない。「命綱」を頼りにやっと歩いている感じである。

 「声」には「声の文法」というものがあると思う。「声の定型」と言いなおしてもいい。それが、紫の詩からは聞こえてこない。「声」は出してみたものの、「頭」で「意味」を整えている。
 こういうことをするのなら、最初から「頭」だけで書けばいいのに、と思う。「頭」で書いたものを、わざわざ「声」にする必要はない、と私は思う。
 紫は「声」に「緩急(変化)」をつけたと主張するかもしれないが。

豊玉姫 (詩人の聲叢書)
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響文社
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(10)

2017-08-22 09:09:40 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(10)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「冷暗室--清水昶さん追悼」には、俳句が差し挟まれている。晩年俳句を書いていた清水をしのんでのことだろう。

ゆくはさびし 山河も虹もひといろに

 「虹」は七色。それが「ひといろ」になる。死に行くひとのみる風景だろうか。「ひといろ」の「ひとつ」が寂しい。それはひとりで死んでゆくしかない人間のさびしさだが、そうか、藤井は清水に「さびしい」ものを見ていたのか、と気づかされる。

思想の詩終わる六月 きみがゆく

 「思想」ということばが生硬だが、生硬なことばを輝かせる力が清水にはあった。「思想」で終わらせず「思想の詩」とロマンチックし、それを「終わる」ということばでセンチメンタルにする。
 青春の抒情というものを感じる。1960年代の青春だけれど。

水売りの声も届かぬ 幽境へ

 清水の詩のことばの特徴は、「思想」というような生硬なことばと、「水売り」というような土着に近い日常(現代は消えてしまった暮らしと肉体)の風景が交錯するところにあった。それを思い出す。
 それだけではなく「声」が魅力的だ。独特のリズム、スピードがある。それに反応して藤井は「水売りの声」と書いているのだと思う。
 この年代のひとの詩には「声」がある。それは「地声」であり、「音楽」でもある。
 いまの若い世代のことばにも「音楽」はあるのだろうけれど、どうも、それは私には聞き取れない。
 「水売りの声」はなくなってしまったものの「象徴」かもしれない。

五七五終わる わたしの初夏に

 「終わる」「わたし」「初夏」も清水の詩には印象的につかわれている。それは「意味」であるよりも「肉体」そのものである。
 こういう感想は「印象批評」というものなのかもしれないが、「印象批評」のまま書いておく。
 ことばそのものに「肉体」を感じ、その「肉体」に反応する、ということが1960年代の詩にはあったように思える。
 先に取り上げた「思想」ということばなど、生硬そのものだが、生硬なものに正面からぶつかる「肉体」のやわらかさがあった時代だと思う。

 「針の精子--「白鯨」」もまた清水を追悼する詩である。「まぼろしの党員は/首都の地下室で花を噛んで眠っている」という清水の二行が引用されている。

灰白色から火の野のいろに変わる
あけがたの裂け目の日付変更線
巨きな夢に託した
野の舟のゆくえ 「暗視」とあなたはいう

 死んだのに朝日が差してくる。燃え上がるように赤く染まる野。「火」というまがまがしい比喩。「日付変更線」という即物的な概念。その衝突。その瞬間に見える何か。それを見る力を「暗視」というのだろう。明るい視力は存在を正しく見る。暗い視力は存在を「比喩」にかえて見てしまう。
 「野の舟」とは何か。
 こういうことを問うことは意味がない。「野の舟」が見えるかどうか、それが問題である。読者に、その「比喩」を「現実」として見る(実感できる)視力を清水は要求していた。「暗い視力」。それは「現実」を「見る」というよりも「現実」を「歪める」力だ。「歪める」瞬間にだけ見える「亀裂」のようなものと「暗視」は共犯関係にある。

 この詩は「ハムレット」のパロディーかもしれない。夜明けの描写は、次のように言いなおされるから。「ことば、ことば、ことば」と書いたシェークスピア。清水も「ことば、ことば、ことば」を書いたのだ。その「ことば、ことば、ことば」に藤井は感応し、こう書いている。

四十年と言う轟音
父の亡霊
山からのあいさつはあるか
亡霊に物語は回復するか
こどもたちのこどもたちのこどもたち

 「ことば」という「亡霊」。その「亡霊」に託す「物語」。「物語」とは青春が傷つき破れるという「定型」を必要としている。抒情とセンチメンタル。センチメンタルだけれど、それをたとえば「回復する」というような、何か生硬なもので傷つける。
 「まぼろしの党員」の「まぼろし」と「党員の衝突も、そういう類のものだろう。
 「こどもたちのこどもたちのこどもたち」は、わたしには「ことばのことばのことば」と聞こえてくる。

どこかにあるはずで
地図にはない県庁所在地
生殖可能な
さいごの男女を神の県外に避難させること
革命の卵子が
神殿で産むこどものたちのために
無事でありますように

 清水と藤井の文体、ことばが交錯している。私の思い込みなのかもしれないが「どこかにあるはずで/地図にはない県庁所在地」ということばのねじれ方は清水の「文体」である。「生殖」や「革命」も清水のことばであると思う。でも「圏外」ではなく「県外」と書く方法、「神殿」ということばには藤井の「色」が強い。
 「意味(ストーリー)」ではなく、こういうことば、文体の交錯に、あ、藤井は清水の詩が好きだったんだなあと感じる。藤井が清水と一緒になって詩をつくっている感じがする。
 亡くなった人と一体になる、というのが藤井の「追悼」の形なのだろうと思う。
源氏物語の始原と現在――付 バリケードの中の源氏物語 (岩波現代文庫)
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セスク・ゲイ監督「しあわせな人生の選択」(★★★)

2017-08-21 09:42:46 | 映画
監督 セスク・ゲイ 出演 リカルド・ダリン、ハビエル・カマラ、トルーマン(犬)

 ガンを宣告された俳優と、その友人のストーリー。俳優は治療を拒否している。死期が近いとわかったら服毒自殺するつもりでいる。でも、そのまえにしたいことがある。何より気がかりなのは、愛犬の将来。飼い主を失ったら犬はどうなるのか。喪失感にとらわれるのか。獣医のところに相談にゆき、里親探しもはじめる。
 それから仲違い(?)した人とは仲直りをし、離れて暮らす息子にも会いたい。これからのことを語りたい。友人は、その手助けのためにカナダからマドリッドにやってきた。その友人との4日間を描いたものだが。
 終わり間際のセックスシーンがすばらしい。
 主人公に「服毒自殺するつもりだ」と告げられて、女友達は怒りだす。カナダの友人はどうしていいかわからない。女友達は怒って家を飛び出す。ところが電話を忘れてきたことに気づきもどってくる。その女と友人が道で出会う。女を引き止め、「こんなふうに怒りの感情を抱いたまま別れるのはつらい」と言う。これは女も同じ。ふたりは、でも、どうしていいかわからない。わからないまま友人のホテルへ行く。そこでセックスが始まる。なぜ、こんなところで、セックスが?
 この伏線が、実は、ある。アムステルダムまで主人公の息子に会いにゆく飛行機の中。主人公の不安に反応して(感応して)、友人がナーバスになる。そのとき主人公が「マスでもかけよ。不安なときは落ち着く」という。セックスには、こういう「忘我」の効能がある。
 主人公が死んでしまうという不安に、友人と女友達はどう向き合っていいかわからない。支えなければいけないとは「頭」でわかっていても、「こころ」がついていかない。どうしても怒りだしてしまう。感情を爆発させてしまう。主人公を傷つけてしまう。それが「こころ」にははっきりとわかる。そうして、ますますどうしていいかわからなくなる。わからないから、不安の中でセックスをする。「忘我」をもとめる。「忘我」をもとめながら、「肉体」はそのとおりに反応するのだけれど、「忘我(エクスタシー)」の瞬間、ふたりとも泣き出してしまう。まるで射精するように泣き出す。
 「肉体」で受け止めるしかないものがある。
 ふたりして泣くことで、ふたりは主人公の死を、受け止める「用意」ができる。もちろん、それは完璧なものではないが(つまり、実際に主人公が死んだら、また苦しみ、悲しむのだと思うが)、なんとなく、これが「生きる」ということなのだとわかる。すこし晴々とする。
 友人がカナダへ帰る日、主人公がホテルへやって来る。友人と女友達が一緒に階段を降りてくる。何が起きたのか、主人公は「わかる」。「そういうことか」という顔をする。起きたことを「受け入れる」。
 生きることは、起きたことを「受け入れる」こと。「受け止める」こと。と、書いてしまうと、「理屈」になってしまってよくないのだけれど。そういうことが、なんとういか、「肉体の欲望」と一緒に描かれるところが、なかなかおもしろい。あ、スペイン人って、こういう人間だったのか、と気づかされる。(主人公はアルゼンチン人が演じているが、舞台はマドリッド。)
 最後の最後、主人公は犬のことでわがままを言う。(犬の名前は「トルーマン」で、これが映画の原題になっている)。ここも、なかなかいい。わがままが言える相手がいるというのはすばらしいことだ。わがままを受け止めてもらえる人がいるというのは、とてもいいことだ。
 ここから振り返ると、さまざまなエピソードが「受け入れ/受け止め」という形で展開していたということに気がつく。アムステルダムでの主人公と息子のハグのシーンなんか、見ていて「あれっ」と思うのだが、その「あれっ」と思ったことが静かに補足説明されるところなんかも美しいなあ。
                      (KBCシネマ2、2017年08月20日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

アイム・ソー・エキサイテッド! [DVD]
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松竹
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