詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

竹田朔歩『鳥が啼くか π』

2010-04-30 00:00:00 | 詩集
竹田朔歩『鳥が啼くか π』(書肆山田、2010年04月05日発行)

 井坂洋子が読んだ竹田朔歩『鳥が啼くか π』。そのなかの、高柳重信の「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」の句に寄せた詩。私も読んでみる。

過ぎる道のり ちりぢりに破り
天空に投函する夕暮れ
明日も あさってもあるものか
わが恋も  蛹(さなぎ)

風干しをする
寄る辺ない未知は 隅田川を渡り
通過した断片を思いながら 目で追ってみる
足で追ってみる

「わが身」という
われが ふたつ 育つなり
生きくれて さらに生き
片腕を差し出し ●(も)ぎたし

傍らのひと 三々拍子 てんつく てん
   急げ かなしくも あり
陥ちよ   かなしくも なし
失せよ てんつく てんつく つづくなり
       (谷内注・●は「手ヘン」に「宛」という漢字。以後は「も」で代用)

 竹田朔歩--井坂は「栞」で「彼女」と書いている。私は竹田を知らない。写真も見たことがない。それで(?)、私はずーっと竹田を男性だと思っていた。井坂の「彼女」という文字を読んだあとでも、男性だと思っている。
 ことばにとって、女性・男性の区別などどうでもいいことなのかもしれないけれど、ちょっと気にかかる。
 ことばと肉体、肉体をどう表現するか--という部分で、私は竹田のことばに女性を感じないのだ。私は古い人間で、女性はこう、男性はこう、という無意識に考えているのかもしれない。だから、「肉体感覚」も井坂とはまったく違っていて、そのために井坂が竹田の「身体性」について書いている部分に違和感を感じたのかもしれない。
 (私が心底女性を感じるのは、映画監督のノーラ・エフロンである。彼女の人間描写には、私には絶対に見えないものがある。彼女の描写をとおして、あ、そういえばこういう人間、こういう肉体があった、とはじめて気がつくことがある。)

 ちょっと余分なことを書いたかもしれない。でも、まあ、ついでに。
 書き出しの「過ぎる道のり ちりぢりに破り」。この1行から、私が感じるのは、男性の「音楽」である。「過ぎる道のり」という突然の書き出し--突然の、というのは、そこには「肉体」があるはずなのに、「肉体」が登場する前に「過ぎる」という動詞、運動が登場し、直接「道のり」という抽象と結びつくからである。「道」は具体的に目の前に存在するが「道のり」というのは、いったん「頭」のなかで整理しないと生まれない。「肉体」を押し退けて、「頭」が最初に登場し、その「頭」のなかでことばが動く。そこからはじまる。こういう「文体」は、私には男性の文体に見えてしまう。
 いや、女性もそういう文体を自在に生きるようになったのだ、と言われればそれまでだけれど、私の知っている女性は、そういう文体を生きていない。
 そして、「ちりぢりに破り」。この「音」。ここには「い」の音がびっしりと隠されている。そして、その「い」はすずに「過ぎる道のり」のなかにもひそんでいる。「過ぎる道のり」のなかの「い」を引き継いで「ちりぢりに破り」という音楽がつづく。このつづき方というか、音楽の増幅の仕方も、私には女性という感じから遠い。それは直接的な肉体ではなくて、何か意識的な肉体である。
 「天空に投函する夕暮れ」のなかにひそむ「う」も、意識に作用してくる音楽である。「明日も あさってもあるものか」の「あ」も同じ。ちょっととばして書いてしまうと「われが ふたつ 育つなり」の「つ」、「生きくれて さらに生き」の「生き」、「片腕を差し出し もぎたし」の「し」。随所に出てくる「音」の響きあいが、私には「肉体」でつかみ取ったものというより、何か「文献」からつかみとったもの、ことばになじむことによって、ことばがかってにつかみとっている音楽のように感じられるのだ。「意識に作用してくる」と書いたのは、そういうことである。竹田のことばを読むと、私のなかでは、「肉体」ではなく、何か「文献」のなかの「音」が響くのだ。こういうことは、男性のことばを読んだときにしきりに起きるが、女性のことばを読んだときには、私には、起きない。そういうことば、女性の書きことばを私は意識したことがなかった。
 「わが恋も  蛹も」という乱調になると、もっと、「文献」というか、「ことばの密集した何か」を感じてしまう。

 こんなふうに書いてしまうと、なんだか竹田のことばから「肉体」を感じていないような印象を与えてしまうかもしれない。
 しかし、そんなことはなくて、私は、竹田のことばから「肉体」を感じる。(ただし、それは「女性の肉体」と限定できないものである。)
 私が「肉体」を感じたのは、

通過した断片を思いながら 目で追ってみる
足で追ってみる

 この2行である。ここに、非常にくっきりと「肉体」を感じた。言い換えると、ことばを読むことで、私の肉体そのものが動いた。
 「通過した断片を思いながら」。このとき、「肉体」は動いていない。動いているのは「頭」である。「頭」が「思っている」。動いているのは「頭」、あるいは「こころ」である。「頭」か「こころ」で思うのであって、「肉体」では「思わない」。そして、その「思い」を「肉体」として受け止めるために、「目」が動く。「目で追ってみる」。それから「足」が動く。「足で追ってみる」。
 頭→目→足。
 この順序だった動きの移動。
 ここにも男性特有の融通のきかなさ(?)というか、なんというか、どうしようもない頑固さ(?)に似たものを感じ、その動き自体が「男性の肉体」を連想させる。

 そして、問題の3連目。

「わが身」という
われが ふたつ 育つなり
生きくれて さらに生き
片腕を差し出し もぎたし

 この「ふたつ」ということばは、私には、まず「目」と「足」として立ち現れてくる。「わが身」という「肉体」はひとつである。ひとつであるけれど、それはあるときは「目」になり、あるときは「足」になる。ひとつの肉体なのに「目」だけを意識できる。「足」だけを意識できる。
 こういう「分断(?)」の仕方こそ、「男性」の意識かもしれない。ここに「肉体」の分断をみているのは私だけであって、竹田はそうはみていないかもしれないが……。
 ひとつながりの「目」と「足」さえも、「ふたつ」の「わが身」なら、切断されてしまった片腕(鬼籍に入ってしまった片腕)は、当然、「わが身」である。それはいまでも「頭」とつながっている。「頭」とつながっているかぎり、それは「生きている」。
 死んでしまった(鬼籍に入ってしまった)が、「頭」で呼び戻すとき、それは「生きている」。

 竹田の「肉体」は、いつも「頭」と結びつくことで「肉体」となっている。「わが身」になっている。「頭」と結びつかないときは、単なる「肉体」、「頭」と結びついて「わが身」になる--と言い換えた方がいいかもしれない。

 そう読んできたあとで、最終連を読む。
 「傍らのひと」。それは「肉体」的には、どういう存在だろう。「わが身」は「ひとつ」である。「傍らのひと」はもちろん「わが身」ではない。「わが身」ではありえない「肉体」である。
 そういうひとと(肉体と)、「わが身」はどんなふうに生きることができるのか。どんなふうに「恋」することができるのか。(1連目に「恋」ということばがあった。)
 失った片腕を「肉体」に呼び戻したときのように「頭」を経由するのだろうか。
 そう思ったとき「かなし」みが、急にわいてくる。
 さて、どうしよう。急いで「かなしくも なし」と言ってみる。そして、その「思い」に「失せよ」と命令してみる。
 この「矛盾」。正確には「矛盾」ではないのかれもしれないけれど--うまく整理しきれないなにか。そういうものと向き合う形で「わが身」が、「ことば」(流通言語としての意味)を拒絶した「音楽」といっしょに、ただ、そこにある。

 きのう書いた感想とつながっていないかもしれない。きょうの感想も、最初と終わりではつながっていないかもしれない。
 とりとめもなく、私は、ただ、そんなふうに感じた。



 竹田の作品と重なり合うか、ずれてしまうのか、たぶん重なるだろうと思って書くのだが……。

友よ我は片腕すでに鬼となりぬ

 この句は「我が片腕」では「我は」であるところが、重くて、強い。「我は」に私はゆさぶられる。失ってしまった方の片腕、それこそが「われ」なのである。残された肉体、「頭」とつながっている片腕ではなく、「頭」から切り離された「片腕」、それが「われ」である。
 その「われ」は「肉体」でつながってるのではなく、「頭」でつながっている。「頭」がつないでいる。
 「頭」がむすびつけるとき、あらゆるものが「われ」になる。他者(傍らのひと)も、「頭」でむすびつけるとき、「わが身」になる。
 この暴力性、ことばの暴力。それは、まあ、愛でもあるのだけれど。そういうものに、竹田はどこかで触れているかもしれない。



サム・フランシスの恁麼
竹田 朔歩
書肆山田

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井坂洋子「竹田朔歩という運動体」

2010-04-29 00:00:00 | 詩集
井坂洋子「竹田朔歩という運動体」(竹田朔歩『鳥が啼くか π』の栞、書肆山田、2010年04月05日発行)

 詩集の感想を書く前に、その栞(解説?)の感想を書くのは、いささか変かもしれない。私は、まだ竹田朔歩の詩集を読んでいないので、これから書くことは誤解かもしれないが、あれっ、そうなの?と思ってしまったのだ。

「『多行句へ』に於いての変容の試み」と題された詩は、高柳重信の句をきっかけに発展したものであるが、句の指し示す方向に傾きながら、その句の錘りとは反対に、自分を生かすようにことばを発している。
「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」という句に対して竹田朔歩は、

「わが身」という
われが ふたつ 育つなり
生きくれて さらに生き
片腕を差し出し ●(も)ぎたし

 と応える。「我」と「身」という二つのわれがあるといっているのだが、そこまでだったら単なる認識止まりだ。「育つなり」という動きが加わったことによって、「我」と「身」の裂かれようがこちらにも感得できる。また、高橋重信の句では決して語らぬところの「(片腕を)●ぎたし」という大胆な吐露が、詩の最終連の「堕ちよ   かなしくも なし/失せよ てんつく てんつく つづくなり」の軽みにつながっていて、句から独立した彼女自身の持ち味を楽しめる。

 ●は「手ヘン」に「宛」という漢字である。私のワープロでは、その文字がない。
 私は、高橋重信の句を知らない。また、竹田の詩の全体もわからずに書くのだが(調べてから書け、と言われそうだが)、私には井坂のかいていることがわからない。

「我」と「身」という二つのわれがあるといっているのだが、

 そうなのだろうか。
 高橋の句は、だいたいどんな「意味」をもっているのだろう。私は「鬼となりぬ」を「鬼籍に入った」と読んだ。つまり、死んだ、と。高橋がどういう時代のひとか私は知らないが、第二次世界大戦時のひとだと仮定してみる。戦争で片腕を失った。それを「片腕」が「鬼籍に入った」(死んだ)と表現した。いま、高橋は「片腕」なのだと思う。
 そうすると「わが身」の「われ」が「ふたつ」というのは、「失ってしまった片腕(もがれてしまった片腕)」と、手が残っている方の「われ」の「肉体」のことなのではないのか。片腕の切断によって、「わが身」は「片腕」と「それ以外の肉体」になった。それは「われ」が「ふたつ」になった、ということである。ここには「肉体」こそが「われ」である、という意識が書かれていると思う。
 そして。
 その「ふたつ」が「育つなり」というとき、生きているは「片腕を失った肉体」だけではなく、「切断されてしまった(もがれてしまった)片腕」も生きているということになる。切断されても、その切断された「肉体」は生きていて、「育つ」のである。死んでしまいはしないのである。
 井坂は、

「我」と「身」の裂かれようがこちらにも感得できる。

 と書くが、「我」と「身」は裂かれたりなんかしない。
 だいたい、「我」って何?
 「われ」は「肉体(身)」であり、「肉体(身)」は「われ」であって、それは切り離せない。腕は切り離せても、「肉体」と「われ(私という意識?)」は切り離せない。それはぴったり重なっている。

 竹田がどんなことを書いているのか、私は知らない。けれど、井坂の引用している部分を読むかぎり、私には、竹田が「切断された片腕」は「残された肉体(?)」と共に、生きて、育っていると実感しているように感じられる。
 「切断された片腕」が「生きる」とき、その「片腕」は何を叫ぶだろう。「残された肉体」への恨み、つらみであろうか。なぜ、「切断された片腕」が「われ」ではなく、頭のある方の「残された肉体」が「われ」なのか。「切断された片腕」も「われ」である。忘れるんじゃないぜ。
 その「声」を痛切に感じるからこそ、「残された肉体」は、その肉体から、残された片腕をもぎ取って、恨み、つらみを叫ぶ「片腕」に対し、「ほら、これをやるよ」といいたくなる。そして、「ほら、おまえ(先に切断された片腕)を、こっちの肉体につけてやるよ。おまえのかわりに、こっちの片腕、そしてこっちの片腕のかわりにおまえ。これでだろう?」
 「片腕を差し出し もぎたし」とは、そういうことではないのか。

 もちろん、「残っている片腕」をもぎ取って、「切断された片腕」に対し、「ほら、この手をつかえよ」というのは矛盾である。そんなことは「切断された片腕」にとって、なんの意味もない。そんなことをしたって、なんにもならない。だいたい、そんなことはできっこない。「切断された片腕(鬼籍に入った片腕)」を「肉体」に呼び戻し、くっつけることなどできはしない。
 でも、「切断された片腕」も、「残された肉体」も、ともに「生きている」と感じてしまえば、そんな「むちゃくちゃなこと」も言いたくなる。「生きている」と感じる人間だけが、そういう理不尽な矛盾を叫びたくなる。
 それが「愛」だからである。
 いつだって人間は論理的なことではなく、矛盾したことこそ言いたいのだ。矛盾したことのなかにしか、ほんとうに言いたいことはない。

 この矛盾。矛盾としての「肉体」。それが竹田のことばなのではないか、と私は、思っている。
 「てんつく てんつく つづくなり」。このことばが「軽い」ものであるかどうか、私はわからない。それは、「意味」にはなっていない、ということだけは、わかる。「流通言語」になっていない。
 そして、だからこそ、「片腕を差し出し もぎたし」と呼応していると思う。感じる。


 --あ、なんのために、私は、こんな変な感想を書いたのだろう。
 付け足して書いて、何かが変わるわけではないが……。
 実は、私は井坂の解説にびっくりしたのである。私は、井坂が「我」と「身」と二つのわれがある--という風に感じる詩人だとは思っていなかったのである。私は井坂は「我は身であり、身はわれである」と考える(感じている)詩人だと思っていた。
 それが、この栞を読むことで、なんだか「実感」から遠いものになってしまった。井坂は「頭」の詩人だったんだのか、とふいに、感じてしまったのだ。



続・井坂洋子詩集 (現代詩文庫)
井坂 洋子
思潮社

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渡辺由和「箱」

2010-04-28 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺由和「箱」(「熱気球」9、2010年03月23日発行)

 渡辺由和「箱」を読み、あ、いいなあ、と思った。ぐい、と引き込まれる一瞬がある。1連目はちょっと俗悪というか、手垢がついたようなことばが丁寧に集められていて、そこでいやになってしまうと、この詩の、ぐいと引き込む部分にたどりつけない。(と、あらかじめ、ことわっておく。最後まで、読んでください。そして、最後まで読んで、あ、いやだなあと思っても、ちょっと我慢して私の感想を読んでみてください。)

微笑む女性が
薄絹をまとって
小箱を手にした
小ぶりの絵画がある
背景はセピア色で

柔和に上蓋に右手をそえて
接近を拒んでいる風だ
作者の意図か
小箱が気になる
悪意さえ感じる

僕の興味は小箱なのだが
理想に違わず、添えた手の
指は細く柔らかい
使い道も、中身も解らない

むろん絵画なのだが
身じろぎできない
動かない視線にも
指先にも
強い力が働いている

小箱がなぜここに必要なのか
微笑みだけで充分だと
神秘を秘め事をとするか
封印すべきは封印と
終の棲家でも語れないことは
誰にもあると
歳を重ねて納得もした

それでも
女が封印しているものが何か
どこか乱されながら
許された男がその指を外す姿を
想像する

 3連目の「理想に違わず」。この一節がすばらしい。ふいに、渡辺の「肉体」があらわれて暴走する。「理想に違わず」ということばはなくても、この詩は成り立つというか、渡辺の見ている絵のことを伝えることができる。
 いや、そんなふうに渡辺の「理想」などというものを紛れ込ませない方が、「純粋」に絵を紹介することになるかもしれない。
 けれど。
 けれど、そうではなくて、「理想」という絵を描いた作者には無関係なものを持ち込んだ瞬間から、渡辺と画家とがぶつかりあうだけではなく、そこに描かれていた女性とも「肉体」が触れ合うのである。
 「理想」。「想像」ではなく、「理想」。ひとは誰でも、自分自身の「理想」をもっている。それはまだ実現されていない何かであり、その実現されていないものが人間を動かしていく。ないものに向かって、何かが動く。その瞬間に「理想」がある。
 そういう瞬間を私は美しいと思う。
 「理想に違わず」ではなく、「想像に違わず」だったら、この詩は俗悪である。「想像」ではなく「理想」。まだ実現していない何かが、あらゆる俗悪を洗い流していくのである。

身じろぎできない
動かない視線にも
指先にも
強い力が働いている

 これは、したがって単なる絵画の説明ではない。
 女性が何か秘密を抱えていて、その「肉体」が小さな箱をもつとき、その肉体の細部に彼女の秘密と、それを秘密にしようとする意思のようなものがあらわれる。「強い力」がそこにはある。
 そんなふうにして、「強い力」で秘密をもっていてもらいたい、何事かを封印していてほしい。
 それが渡辺の「理想」なのだ。

 「想像」ではなく「理想」がことばを美しくする。

 これは最終連の「想像する」と比較すると、はっきりするだろう。最終連は、俗悪である。渡辺の描く「想像」は、あらゆる男が思い描くことに結びつく。あるいは、あらゆる女も、同じことを思い描くかもしれない。人間なら誰でも思い描くかもしれない。男の手が女の指にふれる。それを強引に動かす。自分の力で支配する。そのときの肉体の関係から、別の肉体の関係へなだれていく……。
 そのとき「理想」はどこかへ消えてしまっている。そこでは「欲望」が暴走している。「欲望」は暴走してしまうと、俗悪である。暴走し尽くし、蕩尽にまでいたると美しくなるかもしれないが、渡辺のことばは、そこまでは行かない。

 渡辺の詩を読むのは、今回が初めてなので、私にはまだ渡辺がよくわからない。(いままでも無意識に読んできたかもしれないが、申し訳ないが、記憶には残っていない。)よくわからないから、次は「想像」にまみれていないことばの運動を読んでみたい--そう、伝えたい。それを伝えたいと思って、この感想を書いた。

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スティーヴン・スピルバーグ監督「激突」(★★★★)

2010-04-27 19:42:25 | 午前十時の映画祭
監督 スティーヴン・スピルバーグ 出演 タンクローリー、デニス・ウィーバー

 ラストの、タンクローリーが崖を落ちていくシーンがとても好きだ。特に、その映像ではなく、その「音」が。タンクローリーの警笛(?)の音が、野獣の悲鳴のように聞こえる。それを聞いた瞬間、「悪役」であるはずのタンクローリーに同情してしまう。あわれを感じてしまう。大げさに言うと、涙が出てしまう。
 あ、この感覚、「2001年宇宙の旅」で、ハルがメモリーを外されながら「デイジー」を歌うのを聞いたときに感じる悲しさ、あわれみ、涙に似ている。
 私って、人間よりも機械が好きなのかな・・・。
 そして思うのだ。もしかして、私は主人公に恐怖にはらはらどきどきしていたんじゃなくて、タンクローリーの暴力にわくわくしていたんだなあ。恐怖の体験はいやだけれど、どこかで、何かを体験したことがある。けれど、暴力のわくわくは体験したことがないからなあ。
 映画って、自分では体験できないことを、映像と音楽で体験するのが醍醐味。主人公の恐怖は恐怖でいいけれど(?)、やっぱり、主人公を無慈悲に追いつめていく暴力――あ、すごいなあ。いいなあ。
 変? 危険?
 まあ、いいさ。危険な人間になってみたい。私は。
 映画感を出たとき、70年代のやくざ映画をみた観客が肩で風を切って歩いたように、私はもしかしたら、タンクローリーになっていたりしてさ。ママチャリで、いつもは歩道を恐る恐る走っているんだけど、車道のど真ん中を平気で走りながら、「どけどけ」ってわめいたりしてさ。「じゃますると、はねとばすぞ」なんて言ってみたいなあ。
 でも、野獣には悲しい死が待っているだけ。なんとわびしい現代!
 あ、私って、やっぱり危険?
 で、タンクローリーの「悲鳴」に激しく共感した私は、この映画に「けち」をつけたい部分がある。バクグラウンドの音が嫌い。不安をあおる音を狙っているのだろうけれど、耳障りなだけであるはらはらもわくわくもしない。あ、うるさいなあ、と思うだけである。音がない方がもっとおもしろいだろう。
 恐怖のはらはらにしろ、暴力のわくわくにしろ、それは「日常」と対比されると輝きを増すのだ。たとえば冒頭近くの「国勢調査」の「世帯主」に関する男の質問、回答者のやりとりのラジオの音。あるいはガソリンスタンドの毒蛇。タンクローリーに飼育ケージを壊され嘆く女性。――ストーリーと無関係なことがらが、特異なストーリーを浮き立たせる。強調する。だから、「音」もそういうものでなくてはならないのだ。
 いい例が思い浮かばないが、バックグラウンドがマーラーの交響曲のように甘ったるい音だったら、どうだろう。車が走る音、タイヤの音、エンジンの音もなく、流麗な音楽が響いていてら、あの、たたいても壊れないようなタンクローリーのフロントの顔は、もっと不気味になったのではないのか。もっと得体の知れないエネルギーをもった野獣になったのではないのか。


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水島英己「同じ空間で」

2010-04-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
水島英己「同じ空間で」(「すてむ」46、2010年03月25日発行)

 きのう読んだ松岡政則のことばが「肉体」の「正直」にゆさぶられながら動くことばだとすれば、水島英己「同じ空間で」のことばは、それとは逆に、「ことば」の「うそ」に引き剥がされながらことばが裸になっていく詩だと思う。

アレクサンドリアの
玉ねぐくさい部屋。
句読点が皺や浮腫の代わりに背中の文字になる。
アレクサンドリアの
排水の悪い部屋からあなたが出てくる。

 ここには、水島はいない。水島が肉眼で見たひとはいない。そこにあるのは、水島ではない人間が見た「ことば」である。カヴァフィスの「ことば」が水島のことばを引き剥がしているのだ。
 「玉ねぎくさい」が、水島をゆさぶる。水島のことばが裸にされて、それが「現実」になる。反応し、共振し、その震えだけが、「詩」なのである。
 言い方をかえよう。
 「玉ねぎくさい」なんて、きっと水島は知らない。「玉ねぎくさい部屋」なんて、水島は知らない。そして知らないからこそ、その「うそ」の向こうに、「ほんとう」を見てしまう。知らないことばだけが「ほんとう」を運んでくるのだ。
 このとき「ほんとう」を判断する物差しを水島はもたない。そして、その物差しがないことが「うそ」を「ほんとう」にするのだ。やってきてしまえば、それはすべてその主観に「ほんとう」になる。
 いや、やってくるのではない。実際には、水島が、その向こうへ行ってしまうのだ。行ってしまうといっても、水島の「肉体」がそこへいくのではない。ことばへの「あこがれ」が、その向こうへ行ってしまうのだ。
 こういう動きは、いいことか、悪いことか、私にはわからないが、そういう動きが必要だということはわかる。知らないもの、それまでの自分のことばがつかみとったことのないもの--それに対して純粋にあこがれるという力、その力が、いま、ここにないものをつかみとる。
 そのとき「うそ」が「ほんとう」にかわる。

 あこがれに「うそ」はないのだ。

ここに立たせておいてくれ、
朝焼けの二重の色、紫と青がまざりあっている空
立ち去ってゆく夜の背中
やって来る朝の名前
深い沈黙
「そうでなければならない」
欠けているものを何一つ満たしてはならない

 あこがれとは「欠けているもの」を知る力である。それはけっして「満たされない」。「満たしてはならない」というのは、だから「矛盾」である。「矛盾」だから、そこに詩がある。
 「満たされない」ということを承知で「満たしてはならない」という。そのとき、「みたされない」ということを、「正直」は「うそ」によって守るのである。それは隠蔽でありながら、同時に暴露である。その結びつきのなかに、水島のことばの「ほんとう」がある--と、私は書きたい。書いておきたい。




今帰仁(なきじん)で泣く
水島 英己
思潮社

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松岡政則「信じるひと」

2010-04-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「信じるひと」(「すてむ」46、2010年03月25日発行)

 松岡政則「信じるひと」には、とてもおかしなことば(おかしな日本語)が出てくる。

うそをついている手
うそをつきとおす手
でもいまのは知らない手
わたしのではない
何かをひしむしるようなものがあった
聲をさがしているようでもあった
遐い祖(おや)たちの仕業だろうか
さわってはいけないものに
さわってしまったのだろうか
雨をしたくなる
いっぱい雨をしたくなる
(わたしといえばいうほどわたしではなくなってしまうバスはまだ来ない
アーミナ、アーミナ
わたしたちはいま何処にいるのか
詩そのものを伝えたいのに

 「雨をしたくなる/いっぱい雨をしたくなる」。こういう「日本語」はない。「頭」で考えると、わけがわからなくなる。
 それもで、私は、この2行が非常に好きだ。ここに「声」を感じるのだ。「意味」ではなく、「声」そのものを感じるのだ。ことばを発しようとして、ことばにならない。そのときの、「声」を感じる。「声」が聞こえる。
 最初の方に出てくる「うそをついている手/うそをつきとおす手/でもいまのは知らない手」という表現を借りれば、ここにあるのは「知らないことば」である。そして、その「知らないことば」は「うそ」とは正反対にある。「正直なことば」、いや「正直な声」なのだ。
 松岡が最初に書いている「知らない手」というのは、誰の手のことか、この詩だけでは推測できないけれど「うそ」とは正反対の手なのだ。そしてそれがあまりに「うそ」と遠くて、「ほんとう」よりも遠くて、まだ「ほんとう」にすらなっていないような「手」なのだ。「ほんとうの手」なら知っているはずである。でも、知らない。知らないのは、それが「ほんとう」になる前の、なまなましい「いのち」のような手だからである。そういうものを、私は「正直」と呼ぶ。
 何かわからないもの、けれど「正直ないのち」そのもの。それは、ほんとうはさわってはいけないのだ。なぜ、さわってはいけないかというと、さわってしまうと、その「正直」には松岡の何かが添加されてしまう。「いのち」そのものの「正直さ」とはちょっとちがったものになってしまう。それは、「さわる」のではなく、ただ見守るしかないものなのだと思う。「正直ないのち」は、その「正直ないのち」そのものをもっているひとのものであり、そのひとが育てていくしかないものなのだ。
 そう感じた直後に、

雨をしたくなる
いっぱい雨をしたくなる

 雨にぬれて、雨と一体になってしまいたい、私が私ではなくなり、雨、降り注ぐ雨になってしまいたい。いま、この土地にふる雨、その雨をつつむ風、光、そういうものとも一体になってしまいたい。
 松岡の「正直ないのち」はそう叫んでいるのかもしれない。けれど、そういうことばでは言えない「声」があるのだ。

(わたしといえばいうほどわたしではなくなってしまうバスはまだ来ない

 私は「私が私ではなくなり」と書いたが、そのことばのなかに「私」ということばが出てくる。「私」について触れないことには、「雨と一体になる」ということが言えない。これは、おかしいのだ。
 「わたし」ということばをつかった瞬間から「雨をしたくなる」という「わたし」の「正直ないのち」からとおくなってしまう。「わたし(の正直ないのち)」ではなくなる。ことばにはならないのだ。ことば、あるいは、論理ではいえないのだ。「正直ないのち」というものは。
 それはもともと、ことばにならないのだ。まだ「ほんとう」にも「うそ」にもなっていないのだから。それは、これから「ほんとう」や「うそ」になるための、形の定まらないものなのだ。

アーミナ、アーミナ

 これは、松岡が「知らない手」にふれたときに聞いたことばだろうか。それは「日本語」でいえば、きっと「雨をしたくなる」に違いないと思う。「意味」は違っているかもしれないが、「意味」以前の、「正直ないのち」の部分で「雨をしたくなる」と絡み合っている。「ふれあっている」ではなく絡み合って、区別がつかなくなっている。
 その「場所」は、「正直ないのち」と同じように、特定できない。「何処(どこ)」とは言えない。
 そして、その「場」、その絡み合った区別のつかないもの、まだ「ほんとう」にすらならないもの--それが、松岡の伝えたい「詩」そのものである。

からだの内側は
文字よりもかなしいのだ
わたしはこどもらしくないこどもだった
いいやこどもであったことなどなかった
顔で雨を享けながら
くるくると回ってみようか
わたしをばらばらに飛び散らかそうか
いま何かしゃべったら
きっと不潔な聲になってしまう
いつだってそうだった
ことばよりも歩くことのほうが大切だった
(わたしではなくなるわたしをささえているものはもう群れたくさぼだけ
アーミナ、アーミナ
もうわたしを出ていくよ
いよいよ歩くだらけになるよ

 2連目の最後も、なんだかよくわからない。つまり「頭」で考える「日本語」をはみだしているので、「意味」を「共通言語(流通言語?)」として書き直すことができない。
 けれど、私は、その不思議なことばにひかれる。
 そこには「文字よりもかなしい」ものがある。「からだの内側」がある。つまり「正直ないのち」がある。
 私たちは誰でも、その「ことば」にならないものをこそ、ことばにしたい。誰かにわかってもらいたい。けれど、それはけっしてことばにはならない。ゆがんだ「音」にしかならない。

アーミナ、アーミナ

 なんだろう。「雨をしたくなる/いっぱい雨をしたくなる」。そう、言い換えると、「そんな日本語はない」という言われてしまう。そんなふうに否定されながら、そこに「いっぱい」があふれてくる。「正直ないのち」は「ほんとう」にも「うそ」にもなれず、ただ「いっぱい」になるのだ。
 「いっぱい」はただ「声」になるだけだ。
 そして、「いっぱい」だから、それは誰にも聞き取れない。発している松岡にさえも聞き取れない。だから、変な、こんな日本語知らないとしか言えないものになってしまう。
 でも、この変な日本語になってしまうの、「なってしまう」にとても大切なものがある。多くのひとは、そういう「声」を出すことができない。「なってしまう」ことができない。
 松岡は、だから、詩をとおして、「なってしまう」ことの可能性を「声」にしているのだ。「なってしまう」方法を教えてくれているのだ。
 その「日本語」は、ただあてどなく歩いていく。目的地はわからない。きっと最初の「正直ないのち」の不定型こそが、「歩く」先にあるのだと思うけれど、「声」を「肉体」にして、ただ歩く。「歩くだらけ」になる。
 それは「わたしを出て行く」ことによって「わたし」そのものに「なる」ということと、一致してしまう。それは矛盾だ。
 だから、松岡には、松岡の「場所」がわからない。そして「詩」がわからない。

 ああ、でも、ふいに思い出すなあ。
 プラトンの対話篇。どの対話篇でもそうだが、そこで語られていることについて、ソクラテスをはじめ対話者全員が、「答え」をだせなくなる。「何も知らない」という結論に達する。--けれど、それを傍から見ていると、対話者全員がそのテーマについての「答え」を知っているように見える。
 松岡の詩は、どこかでそういう感じがある。
 松岡は、

わたしたちはいま何処にいるのか(わからない)
詩そのものを伝えたいのに(それができない)

 と書いている。かっこ内は、私がかってに補った。「わからない」「できない」ということばを読みながら、あ、松岡だけが、それをわかっている。詩をきちんと伝えていると感じるのだ。
 でもね、プラトンの対話篇と同じ。それに参加して、自分のことばで言いなおそうとすると、ああ、わからなくなる。
 松岡の詩の美しさを、別なことばで書き直す(感想を書く)というのは、とてもむずかしい。「おかしい日本語」。でも、そこに強く惹かれてしまう--そう書くことしかできない。そう書いて、おしまいにすべきだったんだろうなあ。でも、書かずにはいられない。

 あ、ごめんね。不潔なことば(声)で松岡の詩を汚してしまったね。




ちかしい喉
松岡 政則
思潮社

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アナスターシャ・アファナーシェヴァ「水際で」(たなかあきみつ訳)

2010-04-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
アナスターシャ・アファナーシェヴァ「水際で」(たなかあきみつ訳)(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 翻訳された詩というのは誰の作品になるのだろう。原文を書いたひとのものか。訳したひとのものか。つまり、誰の作品を読んだことになるのか。
 わからないまま、何の決定もせずに、私は、そのことばを読む。原文ではなく、そこに書かれている日本語を。そして、やっぱり、わけがわからなくなる。
 たなかあきみつ訳のアナスターシャ・アファナーシェヴァ「水際で」の前半。

水際で
物静かに物思いにひたれよう、
水際で佇みつつ、
砂と接触して、
空き缶空き瓶吸い殻の傍らで
水際で
あれこれすべて思い浮かべられよう。

 「物思いにひたれよう」「思い浮かべられよう」という「日本語」は私にはとても不自然に感じられる。私は、いきなり、そのことばの前で、舌が回らなくなるのを感じる。私は音読をするわけではないが、一瞬、舌が混乱するのを感じてしまう。ろれつがまわらなくなる。「音」と「意味」が分離してしまう。いや、言えなかった「音」が、私を取り囲み、私はうろうろしてしまう。
 私は「音」を封印する。音読はしないが、意識して、「肉体」を封印する。「頭」だけで、考えはじめる。
 そうすると、「ひたることができるだろう」「思い浮かべられるだろう」ということばと、「ひたるだろう」「思い浮かべるだろう」ということばが、私には、同時に浮かんでくる。
 そして、「原文」がどうであれ、というのは、私が「原文」を書くと仮定して、あるいは「原文」を訳すとして、そのどちらであったにしろということなのだが、私は「ひたるだろう」「思い浮かべるだろう」と書いてしまうだろう、と思う。「だろう」という推量(?)は「できる」をどこかに含んでいる。わざわざ「できる」とは書かないだろうと思う。そして、その私の書かないことばを「わざわざ」書く人がいるということを思い、あ、このひとは「できる」ということ、そこに「可能」のニュアンスを書きたかったのだな、それがこのひとの「思想」だな、と思うのだが、こういうときなんだなあ、これって、誰の「思想」? アナスターシャ・アファナーシェヴァの「思想」? たなかあきみつの「思想」? それが気になる。
 「意味」を「音」にかえていくとき、動いたのは誰の「肉体」? それが気になる。

 実は、これは私の書きたいことの「前段」なのである。
 私は、そのあとの行に進んで、もっとつまずいてしまった。(でも、これは最初につまずいたために、つまり態勢を崩したまま読み進んだために、次のつまずきで、それを大きなつまずきと感じただけなのかもしれないけれど。)

きのう映画を見た、
沼のようにどろどろねばねばの
とはいえ沼のようにきれいな映画を。
わたしはあるショットを思い出す。チェス盤上に
ひろげた手。
なんともすごい思いつきだ。砂浜で佇んで
ごみだらけの砂浜で佇んで
水の先端で。

 「なんともすごい思いつきだ」。この「口語」。それは誰の「肉体」をとおってきたのか。アナスターシャ・アファナーシェヴか。たなかあきみつか。
 「口語」でない部分、「書きことば」の部分には、「頭」の制御(?)が働いている。そういう「書きことば」を読むときは、私は、「意味」をとおって、アナスターシャ・アファナーシェヴとたなかあきみつの「共通する頭」につながることができる。「頭」がつながって、アナスターシャ・アファナーシェヴ、たなかあきみつ、私が、「意味」を共有する。(それが「誤読」かもしれないが、まあ、私は、そんなふうに考える。)
 ことろが「口語」は「意味」であるより前に「肉体」である。それは「意味」のような「抽象」ではない。もっと具体的な、手触りというか、抵抗感のあるものだ。だから、それが誰のものであるかわからないと、私はちょっと不安になる。いま、誰の「肉体」と接しいてるのかな? ということが、気になる。
 特に。
 あ、これが問題なんだなあ。
 特に、その「肉体」と私の「肉体」がぴたっと重なって、そこに違和感をまったく感じないときに、それが私には気になる。私は誰の「肉体」に共感したのだろう。
 「なんともすごい思いつきだ」。この一文は、とてもよくわかるのだ。「わかる」とは何かと書きはじめると面倒だけれど、「意味」を通り越して、「声」で出てしまうのだ。自然に、つまり無意識のうちに「なんともすごい思いつきだ」と、私の「肉体」は声を出している。
 いや、これは、本来なら「問題」とは言えないことなのである。私はいつでも、「書きことば」が私の「肉体」のなかで自然に「声」になってしまう部分を中心にして、筆者に近づいて行く。そして、あ、この部分が好き、と書きはじめる。
 この詩でも、「なんともすごい思いつきだ」という一文がいちばん好きなのだが、それが好きだと書いてしまうと……。
 最初に書いた「ひたれよう」「思い浮かべられよう」ということばがくぐってきた「肉体」は誰のもの? それが気になるのだ。私の「肉体」のなかには、アナスターシャ・アファナーシェヴか、たなかあきみつか、そのどちらかと「一致」できないものがあるのだ。それが気になる。気になる部分がなければ、もっともっと、この作品が好きになれるのになあ、と思ってしまうのだ。

 この問題は、「頭」のいい人なら、たなかあきみつが訳を換えればすむ問題であると考えるかもしれない。あるいは、私がかってに読み替えればすむ問題であるというかもしれない。たとえば「ひたるだろう」「思い浮かべるだろう」と私が読み替えれば、この詩は、この詩は私にとってすばらしいものになる、と。
 でもねえ。そんな具合にはいかないのだ。
 そんなことをしてしまうと「音」が消えてしまう。ことばのなかから「音」が消えてしまう。
 この詩のなかの「音」は「なんともすごい思いつきだ」だけになってしまう。それは、まずいなあ、と思う。「ひたれよう」「思い浮かべられよう」という「音」、そのときの「舌のもつれ」と、それを超えて「なんともすごい思いつきだ」ということばの「音」のなかで「肉体」が一致するというのは、なんといえばいいのだろう、一種の「弁証法」のようであって、「不一致」があるからこそ「一致」がよろこびになるという、奇妙な関係にあるからだ。

 だから、やっぱり、ここでは「ひたれよう」「思い浮かべられよう」が、誰の音なのかわからない--とだけしか書くことができない。そう書くことで、たなかあきみつから、なんらかのヒントを引き出したいと思っている、と書いておくしかない。



ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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岡本勝人「ときには移動する風景の音になって…」

2010-04-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡本勝人「ときには移動する風景の音になって…」(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 岡本勝人「ときには移動する風景の音になって…」は、きのう読んだ山路豊子の作品が「現実」を踏まえていたように、「現実」をしっかり踏まえている。

大阪と奈良のさかいには
生駒山、信貴山、竜田山、二上山、葛城山、金剛山と
たてにつらなる山々がある
近鉄南大阪線の当麻駅におりたつと
れんげ草の花畑のむこうに二上山がたたずんでいた
当麻寺は山ふところにいだかれているが
天台僧の源信はこのちかくに生まれている
比叡山の横川の恵心院にすみ
ダンテの『神曲』にくらべられる『往生要集』を著した
二上山の雄岳と雌岳の物語
雄岳の頂上には西をむいて大津皇子の墓がたっている
皇子の歌は万葉集に四首はいっていた
そこへは登ったことはないので
ほんとうは写真でみるばかりだ
彼岸の時期になると
ふたつのいただきのあいだに夕日が沈む音がする
おん。ばさらくしゃ。あらんじゃ。うん。そわか。

 岡本の詩は、しかし、山路の詩と大きく違ったところがある。山路の詩は「天満宮がある」「囲まれている」と「現在形」で書かれていた。岡本の詩は「山々がある」「たたずんでいた」と「現在形」と「過去形」がまじっている。そこが違う。



 実は、山路の詩は「現在形」で書かれている、とはいいながら「過去形」もあるにはあった。そのことについて補足しておく。きのう引用しなかった部分。

両手に乗るほどの木箱を足元において
古い布をごそごそしていたが
瀬戸焼緑釉の狛犬一対を取りだした

瞬間 私は絶滅した恐竜を思った

 「取りだした」「思った」は「過去形」。そして、その「過去形」は、実は句点「。」なのである。それまでの「天満宮がある」「囲まれている」という「事実」を「事実」としていったん、そこで「終わってしまう」ための句点「。」なのである。
 「事実」を句点「。」で終わってしまって、それでは、その次に何を「現在形」として動かしていくか。「思い」を動かしていくのだ。「想像」を動かしていくのだ。小惑星の衝突によって絶滅した恐竜、そしてその粉々になった骨が宇宙に散らばっていくという具合に想像を動かしていく。その散らばった骨について様々な思いをめぐらしている人々、そのいのちを思う。さらには飛躍して、陶器の狛犬が再び木箱から取り出されて風を見る日、人と目を合わせる日を思う。
 その「思い」は句点「。」によって「終わってしまった」ことがらを「過去」として、その上を歩き回る「いま」(現在形)なのである。
 山路の詩は、そういう構造でできていた。



 岡本のことばは、山路のことばのように、はっきりとした「現在形」と「過去形」の区別をもたない。なぜ、「山々がある」「山がたたずんでいた」と書き分けられなければならないのか、そのことが何も説明されない。岡本には「現在形」と「過去形」の区別が存在しないのだ。区別する意識は岡本にはないけれど、そこに無意識のうちに「過去形」と「現在形」があらわれてしまう。「ふたつ」の時制があらわれてしまう。
 この「ふたつ」、しかも無意識の「ふたつ」の存在が、岡本のことばを動かしているのだ。

ふたつのいただきのあいだに夕日が沈む音がする
おん。ばさらくしゃ。あらんじゃ。うん。そわか。

 ここに「ふたつ」ということばが書かれている。雄岳と雌岳という「ふたつ」。そして、その「あいだ」が岡本にとって、もっとも大事なもの、岡本の「思想」である。
 「現在形」と「過去形」。その「ふたつ」の時制の間。そこに何がある。その「境界線」はどこか。
 雄岳と雌岳なら、そのあいだのいちばん低いところを「境界線」と仮定することができるが、しかし、その境界線は単なる過程であり、雄岳の頂上の1メートル手前が「境界線」ではないなどとは、だれも断言はできない。
 「境界線」などというものは、単なる仮説であって、存在はしないのだ。
 それはまた「ふたつ」というものは存在しないというのに等しい。
 あるいは、それは「ふたつ」であることによって、はじめて「ひとつ」であるとも言い換えうるかもしれない。
 「現在形」「過去形」は、ことばの「ふたつ」の形であるけれど、それはことばの「動き」という「ひとつ」のなかに飲み込まれていく。ことばは「動く」。その「動き」があって、その「動き」によってはじめて「過去形」「現在形」というものが生まれるのであって、最初から「現在形」「過去形」というものが存在するわけではない。
 
 この、ことばの「運動」。それをなんと呼ぶべきなのか。
 岡本は「音」と呼んでいる。そして、その「音」には形がある。

おん。ばさらくしゃ。あらんじゃ。うん。そわか。

 ふいにあらわれる句点「。」それは、その「音」を「ひとつ」にしてしまう。「おん」は「おん」で「ひとつ」なのだ。文字に書くと2文字になるが、ほんとうは「ひとつ」。「ばさらくしゃ」も同じ。6文字つかわれているが、「ひとつ」。音楽で言えば「和音」のようなものだ。一瞬のうちに響きあう複数の「ひとつ」である。

 岡本にとっては、すべての存在がそうなのだ。「過去形」「現在形」という「ふたつ」が硬く結びついて、区別ができなくなって「ひとつ」であるように、たとえば先の引用にしたがって言えば、「源信」と「ダンテ」は「ふたつ」であることによって「ひとつ」。『往生要集』と『神曲』は「ふたつ」であることによって「ひとつ」。
 そのあいだには、実は、岡本がいる。
 あ、そうなのだ。
 「現在形」と「過去形」のあいだにも、実は岡本がいた。岡本が「境界線」となって動いていた。岡本が「現在形」で書けばその瞬間が「現在」。「過去形」で書けばその瞬間が「過去」。けれど、それは岡本の存在そのものであるから、区別なんて、そんざいしないのだ。
 「ふたつ」を結びつける、「ふたつ」を同時に存在させる--そのとき、岡本が「和音」になるのだ。

 詩は、先の引用のあと、どんどん動いていく。「日本」と「西洋」を動き回る。「日本」だけでもさまざまな「ふたつ」(向き合った存在)が描かれ、ことばは、そのあいだを動き回る。「西洋」でも同じ。ランボーもゴーギャンも登場する。複数になりながら、それはやはり「ひとつ」の「和音」になっていく。
 「一」篇の詩という「和音」に。

 それが岡本のことばの運動である。

現代詩の星座
岡本 勝人
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都市の詩学
岡本 勝人
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ダンカン・ジョーンズ監督「月に囚われた男」(★★★)

2010-04-23 23:23:58 | 映画

監督 ダンカン・ジョーンズ 出演 サム・ロックウェル、ケビン・スペイシー

 宇宙ものは、やっぱり、「はったり」が一番。最大の「はったり」は「2001年宇宙の旅」。この映画は、その「2001年」の「はったり」を上手に昇華している。、あ、「はったり」を観客の想像力に働きかける「アイデア」と置き換えると、ほめことばになります、はい。
 舞台は月の裏側。登場人物は、月の資源を採取している労働者(宇宙飛行士?)ひとり。相手は「スマイル・マーク」のコンピューター。そのふたりのあいだで変なことが起きはじめる。……ほら、「2001年」と似ているでしょ?
 「スマイル」コンピューターは「ハル」とは違って、パスワードまで教えてくれる「味方」ってところが、なんともうさんくさい。そして、その声がケピン・スペイシーなのだから、うさんくささは最高潮だね。私は、誰が声をやっているか知らずに見たのだけれど、あ、このソフトボイスのねちっこい嘘っぽさ--ケビン・スペイシーじゃないだろうか、と思って見ていたら、最後のクレジットにケビン・スペイシーの名前。やっぱりね、と、なぜか安心してしまった。変だね。
 映画は……。
 平気でうそを積み重ねていきます。映画なんだからうそでかまわないんだけれど、「2001年」同様、どこに金をかけたのかわからないような「はったり」だらけ。主役の男が、いよいよ地球へ帰れる--と思ったころから、突然、その男そっくりの男が宇宙船(でいいのかな? 基地というべきかな?)にあらわれる。幻覚? 現実? まあ、その謎が、このSFのストーリーをひっぱっていくのだけれど、おいおい、出演者はたったひとり? 出演料、ぜんぜん、金かけていないじゃないか。なんて、ことを私は思ってしまいますねえ。「2001年」も、まあ、猿(?)を含めて何人か登場するけれど、印象に残るのは宇宙飛行士とハルのふたりだからねえ……。
 月での資源掘削とか、その現場へ向かう車--あ、全部「おもちゃ」だよねえ。不思議なことに、宇宙ものには「おもちゃ」のぎごちなさが、「リアル」にかわってしまう。月の地表なんか、でこぼこ。そこで車がスムーズに動くわけがない。だから、「おもちゃ」のがたがたがぴったり。「おもちゃのガタガタ、おもちゃのガタガタ」と坂本九(古い!)の歌でも歌いながら見ているととっても楽しい。「2001年」も50センチほどの模型を台スクリーンに映し出して、それが宇宙船になっちゃったんだから、「青きドナウ」のかわりに、「おもちゃのチャチャチャ」で「ぼくらの未来へ逆回転」のリメイク(パロディー?)をつくるとおもしろいんじゃないかねえ。
 あらゆるものの細部は、太陽の強い光の「白」と闇の「黒」のコントラストのなかに分離され、影のグラデーションなんかは吹っ飛ばしてしまう。これも「2001年」どおり。いいなあ。「スターウォーズ」の特撮がばからしくなる。大好きだなあ。この「はったり」。いや、手作りの「やさしさ」。観客を騙すのに必死に何かをつくっている感じ。CGdんかはつかわずに(つかっているのかな?)、こつこつと積み重ねていく感じ。
 名が起きている? その謎解きも、一気に解決じゃなくて、こつこつ、だからねえ。
 傑作は、「2001年」の「ハル」の「メモリー」のかわりが「クローン」ということかな? 人間が部品。それが基地の地下に、「ハル」の「メモリー」のように、ずらーりと並んでいる。で、それを取り外すと……。まあ、クローンだから取り外すかわりに、その「秘密」を暴くと--というのがこの映画のストーリーなのだけれど、その「秘密」をあばくと、コンピューターじゃなくて、その宇宙基地そのものを経営している「会社」がぶっ壊れてしまう。動かなくなってしまう。
 つまり、資源発掘会社の株が大暴落。

 わあ、株が大暴落したから言うわけじゃないけれど、安上がり。最後は、ことばだけ。「2001年」のように、「万華鏡」の光という映像もない。簡単でいいなあ。

 あ、ちょっといいかげんな感想かなあ。
 でも、観客の想像力を最大限に利用している、おもしろい映画だよ。こういう映画を見ると、映画がますます好きになるね。
 「アバター」なんて、観客の想像力を否定しているからね。大嫌い。

 あ、最後に。
 こういう「はったり」「うさんくさい」映画に、「声」だけで出演しているケビン・スペイシーって、曲者だねえ。それも、この映画が大好きな理由かな。
月に囚われた男 - goo 映画
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山路豊子「天空の神社」

2010-04-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山路豊子「天空の神社」(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 山路豊子「天空の神社」のことばは、秋亜綺羅のことばとも野村喜和夫のことばとも違う。ひとが違えばことばが違うのはあたりまえだけれど、その違いを見ていくのは、私にはなかなか楽しい。

国道五一号を塩崎で二四五号へ北上
那珂川を渡って県道六号から市道を行くと
海開橋近くに天満宮がある
さほど大きい神社でもないが
木ぎに守られ 整頓され
低い木の周りは白い石で囲まれている

 書いてあることは全部わかるが、私には山路のことばが、一瞬「外国語」に感じられた。
 理由のひとつには、そこに書かれていること、国道五一号がどこで二四五号と合流しているかというようなことが、現実の地理としてはわからないという問題がある。登場する川や橋、神社もその姿を知らないという問題がある。つまり、そこに書かれている風景がコンスタンチンノーブルやヨハネスブルクの風景と同じように、私の「肉体」とは馴染みがない、ということがある。
 しかし、こういうことなら、誰の書いたことばでも、やはり私には馴染みがないのだから「外国語」になってしまうが、そういう書かれている「対象」とは別の問題がもうひとつある。書かれている「対象」が未知のものであるから「外国語」なのではない。
 山路のことばが「外国語」として響いてくるのは、そのことばが「頭」で整理し直されているからである。
 秋亜綺羅のことばも、野村喜和夫のことばも、それは「頭」で整理される前に、勝手に動いている。その勝手な動きというのは、勝手そのものに目を向けると、一見「外国語」にみえる。どう動いていくか予測がつかない。動いたあとではじめてその動きがかろうじてわかるだけである。しかも、その「わかる」は確かめようもない「わかる」なのである。山路の書いている国道や川、神社などは、地図や写真で確かめることができるが、秋亜綺羅のことば、野村喜和夫のことばは、何によっても確かめようがなく、ほんとうは「わからない」ものなのに、ことばの動きそのもののなかにあるエネルギーのたしかさによって納得してしまう。納得させられてしまう。ことばの「肉体」に、抱き留められ、納得させられる。ことばはこんなふうに動いていける--その可能性に納得させられる。
 山路のことばは違うのだ。勝手に動いていったりはしない。あくまで、「頭」できちんと整理し直した順序、たとえば、ここでは車で走る道順という順序にしたがって整理されて動いていく。「整頓」ということばが出てくるが、山路のことばは、「頭」できちんと整頓されている。
 
 別な言い方をしよう。
 山路のことばは車の動きにあわせて動いていっている。「天満宮がある」「囲まれている」ということばをみるとわかるが、それは、いわゆる「現在形」である。「天満宮があった」「囲まれていた」というふうに「体験」を過去形として書いているのではなく、体験の時間の進行にあわせていっしょに動いていっている。
 そうなのだけれど、これは「過去形」である。
 山路は車を走らせながらことばを書いているわけではない。車を走らせ、走ったあと、その体験を「現在形」の形で反復している。それはみせかけの「現在形」であり、もし、ほんとうに「現在」というものがそこにあるとしたら、反復する「頭」が現在なのである。山路は「体験」した「過去」を整理・整頓し、必要なことがらだけを取り出して書いている。
 そのため、そのことばは、とても理路整然としている。無駄がない。
 一方、秋亜綺羅や野村喜和夫はそういう書き方をしない。「体験」したことを「頭」で整理し直して、ことばにするのではない。
 ことばそのもので「体験」していくのだ。ことばが現実を体験するのだ。そのことばの現実を、秋亜綺羅、野村喜和夫は追いかけていく。ことばが「肉体」をもって動いていくのにまかせ、それにただついていく。秋亜綺羅も野村喜和夫も「頭」を動かしてはいないのだ。「頭」でことばを制御していない。
 だから無軌道である。行き当たりばったりである。
 行き当たりばったりと書くと否定的な意味合いが強くなるかもしれないけれど、よく考えると行き当たりばったりほどすごいことはない。まあ、行き当たりばったりに自分でどこかへ歩いていくことを想像してみるといい。目的がないと、ひとはそんなに長い間歩けない。歩くのが面倒になって、あ、もう帰ってしまおう、と思ってしまう。でも、秋亜綺羅や野村喜和夫は、ことばを動かすことに対して「面倒」という気持ちが起きないのだ。どこまでもどこまでも、読者が面倒くさくてついていくのをやめるその先の先までもどんどん動いていくのだ。ことばのエネルギーだけを利用して。そこには「結論」は永遠にないのだ。そこにあるのは「永遠」の運動だけである。行き当たりばったりは、そういうすごさをもっている。

 では、「頭」で整理・整頓された山路のことばは、つまらないか。
 あ、「頭」で整理・整頓されたままではつまらない、と私は思う。
 でもね、人間というのは不思議なもので、どうしても「頭」で整理・整頓したままの状態でいつづけることはできないのだ。どこかで息抜き(?)というか、寄り道というか、ほんとうの道(目的地へ一直線につづく最短距離の道)をそれてしまう。そういうことをしないと生きていけない。
 その瞬間に、ふっと、「そのひと」があらわれる。そういうことが起きるのでおもしろい。
 山路は天満宮で「うろうろ」し(ほら、ここで「頭」が少しタガをゆるめているね)、神主に出会い、狛犬を見せてもらう。
 そこから山路のことばはちょっと違った動きをする。

瞬間 私は絶滅した恐竜を思った
軌道が地球に近い小惑星は六千個あり
恐竜を絶滅させたのは直径十キロ級
一億年に一度と高橋典嗣氏
(日本スペースガード協会の理事長)は言う

絶滅した恐竜たちの骨格の欠片は
掘り起こされて話題を振り撒いているが
衝突瞬間時のものもあろう
粉ごなになった恐竜たちは
天空を彷徨しているか消えたか
無限の宇宙に神社仏閣教会があって
誰か光や星や祈りを捧げているか

恐竜を私の脳裏に招いた狛犬一対は
再び古布に包まれてそっと木箱に
次に風に或いは人と目を合わせるのはいつか

 狛犬という現実から恐竜への飛躍。その思いがけないさ、「頭」で抑制できない飛躍のなかに山路があらわれる。(その飛躍だけをもっと追いかけていけば、「現代詩」になる。だれそれの、とは書かないけれど……。)
 まあ、そのときも、山路のことばは、地図のようにきちんと整理されたことばを手がかりに動いていく。高橋典嗣の学説(?)にしたがって、という意味では、ここでもまだまだ「頭」はことばを制御している。そこに書かれていることばは「頭」で整理・整頓されたことばである。
 この高橋のことば(学説)の引用が象徴的なのだが、山路はいつでも確立されたことばを引用しているとも言えるのだ。「頭」で書くというのは、多くの人によって共有された「事実」を書くということなのだ。国道五一号、二四五号、那珂川、天満宮--それらは「他者」によって共有された「ことば」である。「流通言語」である。
 そして、そういう「流通言語」にも、実は「空想」というか、現実の肉体では確かめられないものがある。たとえば高橋の説はあくまで仮説であって、それを実際に見たひとはいない。
 そういうものに山路の「頭」が触れ、そのときに山路の「頭」もふっきれたように解放される。
 ここから、ほんとうにおもしろくなる。
 山路は、恐竜の粉々の骨、宇宙に飛び散る骨を夢見る。地球の重力があるから、粉々の骨は宇宙には飛び散らない--などと、意地悪を言っても、まあ、何もはじまらない。というか、そういう意地悪をいいたくなるほど、おもしろくなる。ことばが「頭」を離れて自分自身で動いていくのがわかる。
 そして、最後の3行、いや最後の1行がある。

次に風に或いは人と目を合わせるのはいつか

 ここでは「頭」は働いていない。「頭」は完全にどこかへ後退してしまっている。

 --と、ここまで書いて、やっと、私は私が書きたいことがわかった。
 山路は「頭」で整理・整頓されたことばを書きつづけるが、それは、そのことばを完全にどこかへ後退させるためなのだ。
 秋亜綺羅は「うそ」という「過去」を書く。野村喜和夫は「虚構」という「過去」を書く。山路は「事実(真実)」という「過去」を書く。「事実(真実)」であるから、それは「過去」であっても「現在形」で書いてかまわない。(これは日本語にも、英語にも言えるね。)「天満宮はあった」ではなく「天満宮はある」。それは「過去」も「いま」も「将来」もかわらない。
 そういう「事実」としての「過去」を完全に確立して、それが読者に共有されるのを待って、最後に一回、山路は「うそ」をつく。ことばが「事実」を離れて、勝手に動いていくのを認める。
 この瞬間の、解放感、一種のよろこび、エクスタシーのために、山路はそれまで延々と(?)、正しい「過去」を「頭」で整理・整頓しつづけるのである。

 このエクスタシーの瞬間、山路のことばは「外国語」ではなくなる。ほら、エクスタシーの瞬間、それが「何語」であるかわからず、相手がぶっとんでしまったことがわからない人間っていないでしょ? エクスタシーには「外国語」はない。そこにあるのは「頭」ではなく、「肉体」だからである。「肉体」に「外国からだ」というものはないからねえ。

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野村喜和夫「語ろう午前の巌(その2)」

2010-04-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「語ろう午前の巌(その2)」(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅の軽さの対極にあるのは、誰の詩だろうか。私は、ふいに野村喜和夫のことばを思い出した。根拠があるわけではないが、なんとなく野村喜和夫を思い出した。
 そこで野村喜和夫「語ろう午前の巌(その2)」を読んでみることにした。

語ろう午前の巌、

というのも、ともかくち目を覚ましてしまった彼は、寝床のうえでいったん身を起こし、出ようか出まいか、ちょっとのあいだ考えてみた、たぶん何かの訪問セールスか、管理人か、新聞の集金人か、でなければ毎月訪れるガスの検針係の女か、そんなところだろう、セールスや集金人ならいつだって不在を装うことができたし、検針に来た女なら彼が寝ていようと起きていようとまた外出中であろうと、管理人から借りた合鍵でづかづかと入ってくるし、シンクの下にあるメーターをのぞき込むのが早いか、3秒かそこらで出ていってしまうわけだし、宅配ではなかった、宅配で何かが届くような生活はしていなかったのだから、また友人でもなかった、わざわざアパートまで訪れるような友人は彼にはいなかったのだから、

 この、句点「。」がなくて、読点「、」だけのことばを読んでいると、まあ、私のカンも悪くはないなあ、と思うのだ。
 秋亜綺羅と野村喜和夫の違いが明確に意識できていたわけではないのだが、まず、秋亜綺羅は、こういうだらだらというか、ずるずるとした「意識の流れ」くずれのことばを書かない。ことばとことばを明確に対比させる。ことばとことばを向き合わせ、向き合うときに生まれる力を利用して浮き上がる。磁石の同じ極を向き合わせると、反発して、持ちかた次第でちょっと浮き上がるような感じに。そのときの、向き合わせ(向き合い)には、きちんとした句点「。」が必要である。「ふたつ」というものが必要である。
 野村は、そういう「対」を必要としていない。というよりも、「対」を否定してことばが動く。「対」には「一」という明確な存在が必要だが、野村はその「一」を否定するようにことばを動かす。「一」に「一」が向き合うのではなく、「一」に「多」が向き合わせることで、「一」が「一」である根拠を否定し、「多」にのなかに、その存在を消してしまう。
 「セールスマン」は「管理人」に、「集金人」に、「検針係の女」に。そこでは「一」は否定されながら、それでも、ドアの外の誰かという「あいまいな一」が残される。それは何だろう。
 何かよくわからないけれど、少しだけ気がつくことがある。野村のことばは、その「あいまいな一」の「過去」へと動いていく。たとえば、この詩のドアの外の誰かが誰であるか考えるとき、そこには「彼」の「過去」が入ってくる。「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」。それは、すべて「彼」が以前にあったことのある誰かである。そこには「未知の人」は含まれないのである。「いま」はひたすら「過去」によって証明される。証言される。複数の「過去」なのかに、「いま」という「一」がある。そういうふうに、野村のことばは動く。
 秋亜綺羅のことばは、そういうふうに「過去」を求めない。「過去」は常に「うそ」として語られるだけである。「うそ」によって「過去」を切り離し、切り離すことで「いま」を軽くし、ひたすら「未知」なものをつかみ、それをつかむことでことばが「過去」とは反対の方向へ動いていく。
 野村のことばは逆だ。ひたすら「過去」を求め、その「過去」によって「いま」を複数化してしまうことで、「いま」を「未知」なものにかえるのだ。わけのわからないもの、わからないから、そこではことばがどんなふうに動こうが勝手だ--という具合に動いていくのだ。

 野村のことばに「未知」なものはない。「未知」に触れることで、ことばが動いていくことはない。それは、ドアの外にいる人間が、「彼」の知らない(ほんとうなら「未知」であるはずの)人間の場合でも同じである。

そこに、うす暗い廊下に、俺の部屋のドアは外側に開くものだから、ちょうどそれに体半分ほど隠されたていの小肥りの男が立っているのさ、みるからに窮屈そうなその男の、それとなく差し出された手には黒字に金文字の警察手帳、といえばようするにあの、テレビのサスペンスドラマかなんかによく出てくる刑事の聞き込みらしいのだが、そいつの背後のアパートの入り口がぽっかりと白く、そのためにそいつを逆光の位置に仕立てあげていて、よく確かめられない容貌に眼鏡のふちだけがきらめき、まるで虚構じみてるじゃないか、

 「未知の」警官。一度も会ったことのない警官。けれど、その警官にむけて動くことばというのは、「過去」のことばなのだ。「テレビのサスペンスドラマ」という「過去」を持った「人間」なのだ。まったく知らない人間ではなく、知らないはずの人間さえ、どこかで知ってしまった「過去」をもっている。
 それは別なことばで言えば、野村のことばは常に「過去」からやってくるということである。知っていることばが、「いま」のわけのわからないものを描写するのだ。してしまうのだ。
 野村のことばの軽さは、そしてそんなふうに「過去」からやってくることばの「過去」というものが必ずしも「現実」ではないということだ。たまたま「警官」「サスペンスドラマ」が出てくるからいうのではないのだが、それは「虚構」なのだ。「現実」ではなく、「虚構」。
 これは、また、秋亜綺羅のことばと対照的である。秋亜綺羅の「過去」は「うそ」だが、その「うそ」は秋亜綺羅にとって「うそ」だけれど「虚構」ではない。野村の「過去」はたとえば「テレビドラマ」という「ほんとう」を土台にしているが、それは「うそ」である。野村の実際の「現実」、実生活とは関係のない「虚構」である。
 だから(というのは、飛躍があるかなあ)、最初に書いていた「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」というのも、「虚構」なのだ。もちろん、野村はそういうひとたちと接したことはあるだろう。あるけれど、「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」ということばを書くとき、野村自身が彼の知っている誰それを、そのことばにあてはめてはいない。野村の「過去」は「具体的な過去」ではないのだ。「過去」という「虚構」なのだ。
 そのために、とても軽い。

 あるいは、こんなふうに言いなおしてみることができるかもしれない。
 秋亜綺羅の「過去」は「うそ」ではあるけれど「虚構」ではない。秋亜綺羅自身の「過去」ではなくても、誰かの(読者)の「過去」という具体的なものを持っている。秋亜綺羅に妹がいなくても、読者には妹がいる。そういう「事実」が読者の側にあるから、秋亜綺羅のことばは「過去」へ沈み込んでいかない。いつも読者の「過去」(あるいは、「大衆の過去」といえばいいかもしれない)という「大地」を蹴って、空中へ飛び出すのである。落ちても沈まない「大地」があるから、秋亜綺羅は、その翼で空気をつかみ、飛翔するのである。
 一方、野村の「過去」は「うそ」ではないけれど「虚構」である。「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」は実在するけれど、そのことばをしっかり支える「過去」ではない。そういう「運動」をするものの「しるし」である。「ことば」である。「ことば」にすぎないのである。そういうものは「大地」のように人間を支えてはくれない。まるで底無し沼のように人間をずるずると引きずり込む。そこから逃れるために、野村のことばは「軽い」という状態を生きるしかないのである。

 違う詩を読めば、また違うことを書くかもしれないが、きょうは、そういうことを考えてしまった。





詩集 plan14
野村 喜和夫
本阿弥書店

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秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る--ことばと文字の連想ゲーム」

2010-04-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る--ことばと文字の連想ゲーム」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅のことばは基本的に「書きことば」である。
 「四匹の黒犬が黙る--ことばと文字の連想ゲーム」は副題に「文字」ということばが出てくるが、この作品は「文字」なしには成立しえない。タイトルそのものがこの作品を語っているのだか、「黙」という文字は「黒」と「犬」と「四つの、」からできている。それで「四匹の黒犬」が集まれば「黙る」ということになる。
 作品には、そういう仕掛け(?)がいっぱい書かれている。そして、その仕掛け(?)部分には、傍点が打ってあるのだが、ここでは省略して引用する。

淋しいという文字は木がふたりで住んでいるのにいるのにどうして淋しいのか、なんてことじゃなくて、妹とふたりで海で溺れたときの淋しかったことを考えているのだ。ぼくは次の夏、ひとりで溺れ死ぬ気だったとき、弱いものだけが泳ぎ方を知ればいいのだ、と思った。

 きのうの「日記」にも書いたが、秋亜綺羅のことばは高踏的なところがない。そういう意味では「書きことば」であって、書きことばではないのかもしれない。
 冒頭の「淋しい」ということば。そのセンチメンタルな感じ。そして、その漢字は誰もが知っているものだ。サンズイに木がふたつ。--その「ふたつ」にひそむ「矛盾」。「ふたつ(ふたり)」は孤立(孤独)ではない。だから「さびしい」という感覚をわりふりには何かが違っているという、かすかな印象が「矛盾」のようにして入り込む。そして、その「矛盾」は、でも、「淋しい」のは「ふたり」いるのに「ふたり」であると感じられないからだ、と気がつくと、不思議な気持ちになる。
 もしかしたら、サンズイは涙? ふたりが涙を流せば、それは「淋しい」ではなく、また別の感じになるかもしれない。左側の木だけが涙を流していて、右側の木は流していない。ふたりの間には「同じ感覚」が共有されていない。だから、よけい「淋しい」。
 あ、もしかすると「淋しい」は「沐」と「木」が組み合わさったもの?
 なんてことが、私の頭のなかにはちらりとかすめるが、秋亜綺羅は、そんなところにはまりこまない。同じところにとどまらない。
 サンズイは「林」(大地)から離れて「海」へ、サンズイだらけというか、水がいちばん多い場所へと飛躍していく。そして、そこで「淋」と同じ構造の「文字」を見つける。サンズイのとなりに、同じ文字が並んでいる漢字。「溺れる」。
 でも、この文字は不思議だね。淋しいがサンズイ+木+木なのに、溺れるはサンズイ+弱。「弓」の下の部分にニスイ(?)がついた単独の漢字はない。「弱」は最初から「ふたり」なのである。「ふたつ(ふたり)」に見えて、ほんとうは「ひとり」、切っても切れない関係にある。
 あ、また「淋しい」へもどっていこうとする強力な引力、「意味」の重力のようなものを感じてしまうなあ。
 そういうとき、秋亜綺羅は、どうするか。

エイ、ホー。エイ、ホー。エイ、ホー。そういうわけでぼくは泳げるようになったけれど、過去にも未来にもいける泳法なんて未だ知らない。

 重くならないように、ぱっと、状況を換えてしまう。「文字」にとらわれていたので、「文字」から音へと飛躍してしまう。「ことば」は「文字」であらわすこともできるが、「音」でもあらわすことができるのだ。
 「エイ、ホー。エイ、ホー。エイ、ホー。」これは掛け声であって、掛け声ではない。すぐに「泳法」という「文字」にかわる。「漢字」になって、そこで「意味」をもつ。

 秋亜綺羅の「ことば」の特徴は「意味」を次々に渡り歩く--そんなふうに言い換えてもいいかもしれない。「意味」をちらつかせながら、「意味」から「意味」へと軽々と飛び回る。
 「意味」に重い、軽いはないかもしれない。ことばにも重い軽いはないかもしれない。けれど、秋亜綺羅のことばは「軽い」という印象と共にある。
 それは、いま引用した部分には「未来」ということばと「未」だ知らないということばの関係--未来とは単に未だ来ないだけではない、未だ知らないものが未来だという問題、過去が既知だとてれば未来は未知であるという問題、あるいは「意味」も含まれているのだが、そういうことを「エイ、ホー」「泳法」という軽さが吹き飛ばしてしまうところにもあらわれている。
 秋亜綺羅はあくまで軽さを選びとるのだ。

 ちょっと脱線したが……。
 「エイ、ホー」から「泳法」への転換。そこに、私は、最初に書いたことがら、秋亜綺羅のことばは基本的に「書きことば」である、ということの証拠のようなものを見る。
 「泳法」というのはむずかしいことばではないが、たぶん、ひとは日常的に、口語としてはつかわない。口語では「泳ぎ方」という。クロールだとか、バタフライだとか、そういう具体的な泳ぎ方が話題になっているときなら「泳法」は耳で聞いてわかるけれど、そうではない場合は、一瞬、何のことかわからないだろう。でも、漢字なら、「書きことば」ならわかる。あ、「泳ぎ」に関することだ、とすぐわかる。
 秋亜綺羅は、たぶん、生まれつき、どのことばの方がわかりやすいか、ということを知っているのだ。そして、そのわかりやすいことばを次々につかみながら、つかみとったあと、「意味」というものを考えはじめているのだ。土台から作り上げて建築物をつくるのではなく、まだそこに存在しないものをつかみとりながら、つかみとったものを次々に土台にしていくのだ。

 秋亜綺羅のことばは「書きことば」だから、どんどん飛躍する。暴走する。そこには漢字だけではなく、カタカナもまぎれこむ。

ただし、自分の手相を忘れて相手の手相しか視なくなったタロちゃんという名まえの友だちは、オナニストでしかない。ぼくの初恋のすずめちゃんチロちゃんは舌を切られて死んだ。きみには、自白する自由がある。千口ちゃん。

 ここには何が書かれているか。「意味」は何も書かれていない。ただ、「書きことば」は「文字」をかりながら、「文字」があることによってはじめて可能な運動をすることができるという、その可能性だけが書かれている。
 その可能性を書いているだけなのである。そして、その可能性を明るみに出すことだけが、詩の仕事なのである。
 「意味」なんていらない。ことばは、「意味」を捨てて、動いていける。「意味」という「書物」を捨てて、「意味」という「故郷」をすてて、「意味」と「故郷」が持たなかったものをつかみ取りながら、むさぼり食いながら、ことばの「街」を肉体化する--それが秋亜綺羅が寺山修司から引き継いだものだ。




ココア共和国 vol.2
秋 亜綺羅,響 まみ
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秋亜綺羅「ドリーム・オン」

2010-04-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋亜綺羅「ドリーム・オン」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅。この名前にびっくりした。40年ぶりに再会した。そして、秋亜綺羅のことばにも、40年ぶりに再会した。
 こんなふうに久しぶりに出会ってしまうと、どう感想を書いていいかわからない。「いま」と「むかし」が交錯してしまう。「いま」書かれたことばを読んでいるのか、「いま」のなかに「むかし」のことばを読んでいるのか。
 わからないまま感想を書くのが私の主義(?)だから、まあ、書きはじめよう。
 「ドリーム・オン」というのは「小詩集」のタイトルにもなっている。「ドリーム・オン」ということばが繰り返され、その繰り返しのなかで、変わっていくものと変わっていかないものがある。それは、「むかし」の秋亜綺羅から、「いま」の秋亜綺羅へと生きてくる過程で繰り返されたことにつながるものがあるかもしれない。生きていくというのは反復だけれど、そのなかで変わっていくものと、変わっていかないものがある……。

ドリーム・オン、ドリーム・オン
明日に至る病いを抱えてドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
ベッドに倒れて切符を切るドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
借りなんて返さなくていいドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはシッポがないのでシッポを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはクチバシがないのでクチバシを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはミズカキがないのでミズカキを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはトサカがないのでトサカを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはツバサがないのでツバサを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
鳥には足がなくても飛べるので足を切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたは手がなくても歩ける手を切る
ドリーム・オン

 「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。「シッポがないのでシッポを切る」は、正確(?)には、あるいは「流通言語」的には、

あなたにはシッポがないので、想像でシッポがあると仮定して、それからその想像のシッポを切る。そうすると、「いま」のあなたそのものになる。

 ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
 そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。
 そんなことが、ふと、思い浮かぶ。
 秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。
 そして、思うのだ。
 シッポのある人間。それは「人間」ではない。だから、その「人間」を「人間」を否定した存在であると考えることができるが、一方で、「人間」を超越した存在と仮定することもできる。シッポがあれば人間にできないことをできる。
 あ、もしかしたら、私たちは、その可能性を捨ててしまって「人間」に安住していないだろうか。

 ここでおこなわれていることは、ちょっと前に(かなり前に?)はやったことばで言えば、「脱構築」なのだ。「脱構築」と「再構築」なのだ。その繰り返しなのだ。
 「いま」(そして、「いま」につながる「過去」)を解体してしまう。人間にはシッポがないという常識をいったん捨ててしまう。そうして、シッポがあると仮定して人間を再想像してみる。その再想像された存在を「いま」にあわせるためには人間は何をするか。シッポを切るという暴力を行使する。
 人間は、いったい、何をしているのか。
 ふいに、人間が、その行為の連続が、そのなかにひそむ「暴力」が見えてくる。

 秋亜綺羅は、そういう「暴力」を明るみに出すために、「脱構築」をしている。

 ないものを想像力で切っている間は、それが「暴力」であることが見えにくい。けれども、

鳥には足がなくても飛べるので足を切る

あなたは手がなくても歩ける手を切る

 とたんに、変になる。おそろしいことになる。
 そして、それがおそろししいなら、存在しない「シッポ」を切るということもまたおそろしいことではないだろうか。人間はシッポがなくても人間である。だから、想像力でシッポを切ってしまって、「正しい」人間にしてしまう。
 そのときの、「正しい」という「意識」のなかにある「暴力」。

 みかけの「正しさ」というものを、ことばでどんなふうにして暴いていくか。想像力は、そのためにどんなふうにしなやかになれるか。秋亜綺羅は、「むかし」から、そういうことをやっていたと思う。秋亜綺羅のことばのなかの強靱な軽さは「正しさ」への怒りに満ちていた。そういう「若さ」をもっていた。
 その「若さ」、その「若い美しさ」は、「いま」もかわらない。

ドリーム・オン、ドリーム・オン
眠るのに肉体はいらないから肉体を切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
めくらには目がいらない目を切る
ツンボには耳はいらない耳を切る
オシに口はいらない口を切る

一年二年、ドリーム・オン
ひと昔ふた昔、ドリーム・オン
一秒二秒、ドリーム・オン
あしたあさって、ドリーム・オン

 「正しさ」のなかに「間違い」という「暴力」がひそんでいるなら、「間違い」のなかには「愛」という「やさしさ」が生きている。そして、それは反語でしか語れない。その反語が秋亜綺羅の「脱構築」。
 うーん、40年前には、そんなことは、とても考えられず、ただ、あっ、かっこいい、なんて思って、ただひたすらコピーしていたんだけれど、私は。


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秋亜綺羅「あやつり人形」

2010-04-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋亜綺羅「あやつり人形」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅のことばはいつでも軽快である。明るい。そして、気ままである。「矛盾」のようなものが、ことばにスピードを与えている。「現実」をふりきるスピードを。
 秋亜綺羅「あやつり人形」は小詩集「ドリーム・オン」のなかの1篇。その書き出し。

完璧な暗闇で目をつむると
水溶性の映画がやってくる
世界でいちばん明るい場所がそこにある

 「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
 「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。
 秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。
 「水溶性の映画がやってくる」の「やってくる」は受動的に感じられるかもしれないが、これはあくまで「目をつむる」という行為の先にあることがらである。それは「やってくる」というよりも、「呼び寄せる」ということに似ている。あるいは「選ぶ」ということに似ている。
 だから、「世界でいちばん明るい場所がそこにある」は、偶然、「そこ」にあるわけではなく、自分の意思で(秋亜綺羅の意思で)、選びとったものとして、そこにあるということだ。「そこ」は秋亜綺羅がすでに知っている「場所」なのである。

 そういう意味では、秋亜綺羅のことばは「いま」をふりきるだけではなく、「いま」より先にあるものをつかみ取る形で動いていく、と言い換えた方がいいかもしれない。
 人間は「大地」を蹴って、歩く。走る。けれど、秋亜綺羅のことばは「空気」をつかみながら飛ぶのである。
 軽いはずである。重くては飛べない。

マッチを擦って煙草に火をつけた
瞬きすれば使い捨てガスライターの時代が使い捨てられる

わたしの国の天井では電球から蛍光灯へと吊るし換えられた
わたしたちの命題は夜を暗闇に葬ることなのか

地震が起きて電源が失われる
わたしたちのあやつられる足はそのとき言語を失調する

 このことばには「闇」と「明かり」が交錯している。交錯しながら、その交錯のなかで、新しいことばを探しているのだ。最初から書きたいことばがあるのではなく、翼で空気をつかむように、ことばでことばをつかみ、飛翔しようとしている。
 それにしても、「地震」「震源」「電源」。「震」と「電」はなんと字が似ていることか。
 私たちは「完璧な暗闇」ではなく電気で強いられた明るさを生きているが、その電気が、たとえば地震によって失われたとき、私たちは突然、歩けなくなる。足元をすくわれる。そして、電気にあらつられたいることを知る。そんなことが漢字のなかで、ぱっと動いて、ぱっと消える。
 そして、「電気」というような、いまの現実の世界に絶対的に必要なものがでてきた瞬間に、そのぱっと動き、ぱっと消えるもののなかに、「現実」の「構造」がうかびあがりる。「現実」は「電気」に依存している。まるで、「電気」にあらつられているようではないか。
 ここまでくれば「あやつり人形」に通じることば、「あやつる」が出てくる。そして、ことばは、さらに動いていく。

人生なんて人形芝居
ひとがあやつり人形にすぎないならば

この足は思想が足かせ
こちらの足は装置が足かせ

 秋亜綺羅のことばでおもしろいのは、翼が空気をつかむようにして、ことばが先へ先へと手を伸ばしながら動くときに、そのつかみとることばが、「高踏的」なことばではなく、ひとがよく口にすることばであることだ。
 「人生なんて人形芝居」「ひとがあやつり人形ならば」。
 どこかで聞いたようなことば。歌謡曲のようなことば。むずかしいことばではなく、簡単すぎる(?)ことば。(「現実」をあやつっているのが「電気」というのも、まあ、ありきたり?の分析である。
 そのために、秋亜綺羅のことばの「飛翔」は高い高い上空を飛ぶというよりも、「日常」を飛ぶというよりも、軽く浮いて、その浮力を突っ走るという感じがする。飛んでしまえば、それは「芸術」というかっこつきのことばになってしまう。飛んでしまわず、軽く浮きながら、疾走する。
 このあたりの呼吸が、寺山修司の秘蔵っ子だった理由かもしれない。

少女はわたしにだけ唄う
あんたのこと好きじゃない

殺したいほど好きだけれど
ほんとは殺すほど好きじゃない

少女はわたしにだけ囁く
ねえ、あたしのそばにいてよ
あんたのそばに、いてあげるから

 「少女」は「女」は「おんな」であってはいけないし、「処女」であってもいけない。そういう「領域」のようなものを、秋亜綺羅は自然につかんでいる。




ココア共和国 vol.1
秋 亜綺羅
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シドニー・ルメット監督「12人の怒れる男」(★★★★+★)

2010-04-19 23:40:45 | 午前十時の映画祭
監督 シドニー・ルメット 出演 ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ、エド・ベグリー、E・G・マーシャル、ジャック・ウォーデン

 「午前十時の映画祭」11本目。
 頭のなかで、私は何度かこの映画を繰り返したのだろうか。私の頭のなかにあって、この映画には実際には存在しないシーンが(映像)が三つもあった。
 (1)殺人事件の現場近くを走る電車。そして、その電車の向こう、窓越しに一瞬浮かび上がる殺人事件の瞬間。
 (2)老人がやっとドアにたどりつき、ドアを開けた瞬間、階段をおりてゆく殺人者の影。
 (3)殺人事件を目撃した老婆が実は近眼だった。法廷で、「これが識別できるか」と質問されて、答えにつまる。
 この三つのなかには、他の「法廷劇」のシーンが紛れ込んでいるのかもしれない。
 「12人の怒れる男」は、陪審員が一室にとじこもり評議する「室内劇」だから、そういうシーンはありえないといえばありえないのだが、フラッシュバックの形で三つのシーンがあると思い込んでいた。
 これは、この映画の脚本がとてもすばらしい、ということの証明になると思う。
 「12人の怒れる男」は台詞劇である。舞台は評議する狭い一室にかぎられている。そこではことばだけで、事件が再現される。事件が検証される。
 事件を検証していくことばが「正確」であるとき、観客である私たちは(私は)、そのことばが描写している「映像」をことばの向こうに見てしまう。そういう「映像」をくっきりと浮かび上がらせることばで、この脚本は書かれているのだ。そして、役者たちは、自分の存在よりも前に、その「ことば」をくっきりとスクリーンに定着させているのだ。「ことば」のために演技をしているのだ。そういう演技をひきだす脚本になっているのだ。
 私が見たと思い込んだ三つのシーン。それは、その映像が含まれる映画を見たときに、無意識に「12人の怒れる男」を思い出していたということかもしれない。だから、そのそんなふうに、無意識に古い映画を思い起こさせるほど、ことばの骨格のがっしりした、強靱な映画なのだ。この「12人の怒れる男」は。(よくよく、三つのシーンを思い返すと、電車はなぜかカラーである。「12人の怒れる男」はモノクロだから、そこにカラーの電車が入り込むはずがないのだが、私は、そういうシーンがあると思い込んでいた。)

 そして、思うのだが、裁判というのは、たしかに「ことば」でおこなうものなのだ。どんな物的証拠(この映画では特殊な形のナイフ)さえも、それが「ことば」として「事件」のなかに正確に定着しないかぎり「証拠」にはならない。
 判決が常に膨大な「ことば」で事件を描写し、その背景を説明するのは、「ことば」こそが人間の考えと事実を結びつけるものだという思想によるものだろう。
 これは逆の方向からみると、「ことば」はいつでも「偏見・先入観」に支配されていて、「偏見・先入観」が「事件」をでっちあげてしまうということかもしれない。この映画では「スラム街」に対する「偏見・先入観」が描かれている。「移民」に対する「偏見・先入観」も出てくる。また、「家族」に対する個人的な事情が「先入観」になってしまうこともある、と指摘されている。
 だから、この映画は、「事件」を裁く、というよりも、12人の男たちが、自分自身のもっている「偏見・先入観」を少しずつ捨て去って、「ことば」を美しい形を発見する映画かもしれない。「ことば」は「事実」と結びついたとき「真実」にかわるのだ。「真実」はいつでも「ことば」のなかに存在するのだ。「ことば」のなかに存在できなければ、それは「真実」ではないのだ。

 そのことに気がついた瞬間、ラストシーンがとても美しくなる。
 少年に「無罪」の評決を下したあと、12人の男は街へと帰っていく。誰が誰であるか、互いに知らない--というのが陪審員の姿なのかもしれないが、この映画では、ヘンリー・フォンダと老人が名前を語り合う。告げあう。「名前」とは「個人」につけられた「ことば」である。名前を告げあう、というのは、そこにいる「個人」を「真実」の体現者として認め合うということなのだ。尊敬し合うということなのだ。
 二人は、評議のなかで「ことば」をやりとりして、そして、互いの「ことば」が「真実」になるという瞬間を体験した。そのよろこびを共有する形で、互いに名乗りあうのだが、これはいいなあ。ほんとうに美しい。
 この美しさはプラトンの対話篇そのものだ。



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