詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』再読(4)

2021-07-27 15:54:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嵯峨信之『小詩無辺』再読(4)

 「時間」ということばを中心に読み返してみる。
 「人名」という詩のなかには、こういう行がある。

  ぼくはいま
  誰かの記憶のなかを通つているのかも知れない

  人の名とは
  時間にとらえられた人間の影ではないのか

 「誰かの記憶」というのは「誰かの魂しい」だろうか。人と人をつなぐもの。「時間にとらえられた人間」とは人間は時間を生きているということだろう。生きているあいだは「人の名」がある。死んでしまう、つまり「時間」の外に出てしまうと「人の名前」はなくなり、「魂しい」になる。
 嵯峨は「魂しい」に固有名詞を与えていないように思える。

  その無名の島をつつむ春の雨
  海は一枚のみどりの褥のようにひろがつている
  誰も時の行衛を知らない

  もういい 何も考えなくても
  さらによりよい時刻の国へいつかは行きつくことを  (無題抄 451ページ)

「無名」、名もないと「時間」ということばがいっしょに出てきている。さらに「時」はいつでもあるものではなく、いまはそこにない。「行衛を知らない」はいまそこにないということを意味している。時はどこへいったのか。「よりよい時刻の国」とはどこだろうか。私はなんとなく「時間の故郷」というものを考える。

  言葉よ
  まだ目ざめないのか
  ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか  (* 450ページ)

 先に引用した詩だけれど、この「どのあたり」というのも「時間の故郷」を思い起こさせる。「魂しい」と「時間の故郷」は重なるのではないだろうか。

 「魂しいを失う日がある」と始まる無題の詩の後半。

  ぼくがぼくの現し身を離れても
  まぎれもなく思いは残る

  そして時はすぎていくだろう
  ぼくを連れて

 「ぼく(現し身)」と「時」といっしょにある。ぼくが「現し身を離れる」というのは死ぬということだろうか。よく「魂しい」が離れていくというけれど、嵯峨は「魂しい」と「肉体」を逆の関係でとらえているように思う。「肉体」を離れていきながら、「思い(魂しい)は残る。過ぎていかない「時」(時間)のなかに。肉体は過ぎていく時間といっしょにどこかに消えてしまう。
 これは人間が死んだ瞬間のことではなく、死後の長い時間で見たときのこと。生滅するが、「魂しい」は残り続ける。だが、どこに。「故郷」に。「魂しいの故郷」が「時間」だとすると、これは同義反復のような言い方になってしまう。
 「魂しいの故郷である時間」のなかに「魂しい」は残りつづける。それは「故郷」というものが思い起こすときあらわれるように、「魂しいの時間」も思い起こすときにあらわれるものという意味になると思う。
 純粋時間、純粋な場、想像の「基盤」のようなものが「故郷」「魂しい」かなあ、と考える。ただ、それは確固とした存在ではなく、思い起こすという運動としてあらわれるもの。そしてその思い起こすという「みちのり」が「魂しい」の「しい」という「長さ」(ひろがり)のようなものではないか、と考える。
 「時」を含む詩には、「偶成二篇」という作品がある。

  おれとおまえとの愛の時が失われたのではない
  運命の前にあるはずの時が
  空をもとめて遠くいづこかへ去つていつたのだ

  ふたりにとつていま生命とは何だろう

  過ぎ去つた時がまたここへ帰つてくること  (455ページ)
  
 「時」は失われ、過ぎ去り、また帰ってくる。この自在な運動の変化は、思い起こすという意識の運動と関係していると思う。意識、精神は、また「魂しい」の同義語だろうと思う。「魂しい」もまた「思い起こすとき」にあらわれてくるものであって、どこかに確実に存在しているのではない。存在している場所から、いま、ここに「あらわれてくる」。「時間」もおなじ。存在しているけれど、ふつうは意識しない。意識したとき、はっきりと存在する。「故郷」「時間」「魂しい」は、そういう意味で重なる部分がおおい。重なるために「しい」という「長さ」「ひろがり」を嵯峨は必要としたのかもしれない。
 「白昼の街」には、こういことばがある。

  人間は
  人間からついに逃れられない

  時の力によつて捉えられ
  時の力によつて解放される  (457ページ)

 「人間」を「魂しい」と読み替えてみたい気持ちになる。「時の力」を「魂しい」と読み替えたくなるし、また「故郷」と読み替えたくもなる。「人間」「魂しい」「時(時間)」「故郷」というのは、かさなりあう運動だろうか。

 おなじ詩のなかに、こういう三行もある。

  ぼくがおまえにやれるものは透明な時の流れだ
  おまえがぼくにくれるものは
  いつも濁つた小さな時の渦である

 「透明な時の流れ」とは「故郷」、「濁つた小さな時の渦」は「現実」だろうか。故郷と現実の対比が「透明」と「濁った」ということば、「流れ」と「渦」ということばで印象づけられている。
 思い起こすとき、透明で流れ続けるのが「故郷の時間」「魂しい」なのだろう。流れるという「運動」、「方向」を暗示するのが「しい」というひらがな。
 美しい、悲しい、さびしいなどの形容詞は「状態」をあらわす。状態というのは、そこにあるものだけれど、それは動かないのではなく、動きながらある。その動きは「透明」をめざしている。「透明なうつくしさ」「透明なかなしさ」「透明なさびしさ」。これは「濁った美しさ」「濁った悲しさ」「濁ったさびしさ」と比較すると、嵯峨のめざしている野もが浮かびあがるような気がする。「濁った悲しみ」というと「汚れちまった悲しみ」の中原中也になってしまう。嵯峨と中也は、そういうところで決定的に違っていたのではないか、と思う。
 でも、こう読んでいくと、

  ふるさとというのは
  そこだけに時が消えている川岸の町だ
  そこの水面に顔をうつしてみたまえ
  背後から大きな瞳がじつときみをみつめているから  (462ページ)

 の「時が消えいている」と矛盾してしまう。
 でも、私は、こういう風に、どこかでわかったつもりになると、別なところでわからなくなるという奇妙な動きをするのが詩だとも思っている。詩は論理ではなくイメージ。イメージには論理にはつかみきれない独自の運動があると思う。
 だから、私は、あまり気にしない。イメージを、ぱっとつかんだ気持ちになる。それで十分だと自分に言い聞かせている。
 「時間が消える」ということばを含む詩には、こういうものもあった。「鐘」。

  大きな鐘がそこにある
  どこを叩いても鐘は鳴らぬ

  沈黙にすつぽり覆われているのか
  魂しいの不在か

  手で撫でる
  強く重く吸いついてしまう

  時間が消えて
  空間だけになつたのだろう

 「鐘」をことばの比喩、象徴として読むと、言葉と魂しい、時間と空間の関係が浮かびあがる。それはみんな「一体」になっていないと意味を持たない。何かひとつでも書けると不完全なものになる。時間が消えて空間だけになってはいけない。時間と空間はいっしょに存在しないと世界ではない。故郷と現在の街もいっしょに存在しないといけない。それは同時に「思い起こすことができる」ということである。いっしょに存在するというのは。そこにことばも重なる。なんといっても思い起こすということは、ことばをうごかすことだから。ことばによって思い起こす。そのときの「運動」の「軌跡」としての「しい」というものをわたしはぼんやりと考えている。

 


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嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

2021-07-26 09:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

  謎を考えてみよう
  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
  カンガルウは妙な木々に何を習つたのか  (カンガルウ 459ページ)

 「故郷」について考えるとき、宮崎県を題材にした詩を選んだ方がいいのかもしれないけれど、あえて「抽象的」に考えてみたいと思う。嵯峨は宮崎県の出身だけれど、宮崎にいた期間は短い。
 嵯峨はここでは「故郷」を「不思議に曲がりくねつた木々」と結びつけている。土地の形、山の形、川の形ではなく、あるいは名前ではなく、木々。そこにあるもの。それは、ほかの土地にあるものとどんなふうに違っているのだろうか。その違いを「故郷」と読んでいる。

  ふるさとというのは
  そこだけに時が消えている川岸の町だ
  そこの水面に顔をうつしてみたまえ
  背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから  (*462ページ)

 この詩も抽象的だ。「時が消えている」しかも「そこだけ」。時間がない。しかし「川岸」がある。そして、水面に顔を写すとき背後から大きな瞳がみつめる。「背後」というのは自分の背中というよりも、消えたときの背後かもしれない。遠い過去。時間の向こうから、自分をみつめるものの存在としての「ふるさと」。
 「ここは何処なのか」という詩には、こんなことばがある。

  遠いことはいいことだ
  愛が 憎しみが 心だつて
  なにもかも遠くなる  (468ページ)

 「故郷」は「遠い」からいい。「なにもかも遠くなる」と、「遠い」という感じだけがのこる。
 カンガルウの詩にも「遠い」があった。

  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を

 木は「遠い」を教えてくれる目印のようなもの。木々よりも「遠い」の方が重要なことばかもしれない。
 「ここは何処なのか」という詩は「在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか」と自問する詩だけれど、その詩の途中に、こういう行がある。

  別れるのはいいことだ
  なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる

 「別れる」を「ふるさと」と「別れる」と読んでみる。そのとき「なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる」。この「ひとすじ」ということばに出会ったとき、私は嵯峨の「魂しい」の「しい」というものを思い浮かべた。それは魂から自分の方に帰ってくる「ひとすじ」の何か。魂を「背後から見つめている大きな瞳」と考えれば、そこから自分に向けられた視線が「魂しい」の「しい」なのではないか。

 「ふるさと」という詩がある。

  思い出の町はすつかり消えて
  ここはもはや見知らぬ遠い町のようだ

  ぼくは大きな白いキヤンパスを抱えて
  むかしの中央通りを通つていつた

  そして心のなかを一台の空車が
  空の方へのぼつていつた  (486ページ)

 これは、とても象徴的な詩だと思う。「思い出の町」は「ふるさと」。しかし、面影は消えて「見知らぬ町」になっている。それを「遠い」と呼んでいる。「遠い」は距離。魂と私をつなぐ遠さ(距離)が「しい」という文字なのかもしれない、と私は感じる。
 失われたふるさとと私。失われたのなら、それをつなぐものはないはずなのに、「しい」がつなぐ。そう考えると、漢字の「魂」という一文字は「ふるさと」かもしれない。「ふるさと=魂」と「私」をつなぐ「しい」。
 でも、「しい」って何なのか。
 もう一度「対話」という詩を読んでみる。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つていく遠い地が失われているからだ
  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 ことば通りには読むことができないのだけれど、「遠い地」は「ふるさと」。「ふるさと」が失われてしまっているのが嵯峨なのではないのか。宮崎は嵯峨の生まれ育った場所だけれど、それは「遠い」。「ふるさと」とは本来「去っていくもの」。形を変え、面影をなくしてしまうもの。それが「失われている」。この言い方は、とても奇妙だ。面影をなくして消えていくはずなのに、その消えてなくなるということが「失われている」。矛盾だ。昔の面影のまま、ふるさとは存在する、ということか。
 そして、この「矛盾する」ということだけが、何か、詩を詩にする力なのだろうと思う。
 矛盾は

  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

 という行にもあらわれている。遠いと近い、近いと果て。それが「あなたの傍ら」ということばのなかで絡み合っている。
 この奇妙な絡み合いは、

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから

 とい二行にもある。「愛する」ということは「さびしさ」があってはじめて生まれる。さびしいという心がなくなると愛するという心が起きない。さびしいからひとを愛する、というのはわかる。しかし、さびしさを失ったから愛さない、というのはどうなんだろう。わかったようで、わからない。だいたい人を愛したら、さびしいが消えて「うれしい」になるかもしれない。かといって「うれしい」がいっぱいになれば人を愛さないかというと、そうでもないだろうと思う。愛する、うれしい、うれしい、愛するは交錯する「充実」のようなものだ。
 こういうことは、考えるとわからなくなる。
 私がこの詩で注目するのは「さびしさ」ということば。「さびしさ」は「さびしい」。そして「さびしい」といったときに「さびしい」の「しい」が、嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」に似ているなあと、ふと思う。
 「しい」ってなんだろうなあ。「かなしい」「さびしい」「いとしい」「うつくしい」。それは「存在」というよりも「状態」。「状態」というのは、漠然とした「ひろがり」のようなものを持っている。そうすると、先に書いたこととつながるけれど、何かと何かをつないでいる、そのつなぎ方が「しい」なのではないか。「距離」が「しい」なのではないか。
 嵯峨は「魂」を「存在」というよりも、「ある状態」と考えていたのではないか、それが「魂しい」という表記になったのではないか、と私は思う。
 「しい」こそが、嵯峨が求めている「ふるさと」なのではないか、と思ったりする。

 「広がり」「距離」には「空間」と「時間」がある。空間の方は「ふるさと(自分が生まれたところ)」と「いまいるところ」という「間」があり、時間の方には「過去(自分が生まれた時)」と「いま生きている時」という「間」がある。時間はそれだけではなく「過去の過去」と「いま」という隔たり(間)というものがある。
 嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」は、その「間」の「状態」につながっている、と私は感じている。これをつきつめて考えるには、「時間」について見つめなおす必要がある。詩の中で「時間」を嵯峨はどんなふうに書いているか。それを見る必要がある。

 

 

 

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嵯峨信之『小詩無辺』再読

2021-07-17 18:16:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

2021年07月17日(土曜日)

嵯峨信之『小詩無辺』再読

 嵯峨信之『小詩無辺』は1994年の詩集。(テキストは「全集」をつかった。)
 「魂しい」という嵯峨独特の表記が出てくる。「魂しい」とは何なのだろうか。

  言葉よ
  まだ目ざめないのか
  ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか (* 450ページ)

 「言葉」と「魂しい」は関係がある。だが、どんな関係なのか、わからない。「魂しい」をきちんと通過したら、「言葉」は「目ざめる」。

  もし ぼくの魂しいだけが
  走りさつた多くの魂しいに置きざりにされたのなら
  夕べの川ぎしで
  ぼくは夜明けを待つだろう  (孤独 452ページ)

  魂しいを失う日がある
  横糸のひきつつた絨毯のようなものだ
  人を憎んだことを
  愛したことを
  生命の皿の上にのせてみる

  ぼくはぼくの現し身を離れても
  まぎれもなく思いは残る  (* 453ページ)

 「魂しい」と「思い」に似通っているか。ぼくが死んでも「思い」は残る。ぼくの魂しいがぼくの肉体を離れても、つまり死んでも、ぼくの思い(魂しい)は残る。 
 「魂しい」はぼくのものだが、ぼくを超越している。
 人を憎む、愛する。それを思い出すとき「魂しい」を失う、と言っているのか。「魂しい」は「思い」よりも繊細な存在か。

  空をゆく鳥は跡を残さない
  なぜ地上を歩くものは跡を残すのか
  それは言葉があるからだ
  その言葉が魂しいの影を落とすのだ  (* 461ページ)

 言葉と魂しいは関係がある。言葉は魂しいによって影響を受ける。言葉は、それ自体はだれにでも共通しているが、それぞれがつかう言葉にはそれぞれの魂しいの影響があり、そのために違って見える。違って聞こえる。違った意味になる、ということか。

 「言葉」については、こういう一行がある。

  言葉はだれが脱ぎ捨てた影だろう  (* 464ページ)

 「影」という表現がある。言葉のなかに、ひとは魂しいを脱ぎ捨てる。それが「かげ」か。
 「影」については、こういう一行がある。

  生命は
  どんな小さなものでもやさしい影を落としている  (* 465ページ)

 生命は、どんな小さなものでも、やさしい「魂しい」を抱えている。「影を落としている」は影響を受けているということだろうが、影響を受けることができるのは、似通ったものが生命のなかにあるからだろう。そう考えれば、「生命は、やさしい魂しいを内に抱えている、持っている」という意味になるかもしれない。

  夢は
  魂しいの内側をすべつて
  夜明けは
  魂しいの外側から明るくなつてくる  (* 465ページ)

 「夜明け」は「目ざめる時間」と考えれば、最初に引用したことばと、不思議な交錯がある。ことばが不思議に交錯する。

  魂しいよ
  まだ目ざめないのか
  ぼくの夢のどのあたりを急いでいるのか 

 と読み替えたくなる。そして、そのとき、目覚めた魂しいとは、言葉なのだ。夢を破って、言葉の中で目覚める、夢の外に飛び出してくるものが魂しいなのだ、と言ってみたくなる。
 「どのあたり」とははっきりしない場所。遠いところ、だろう。「ここは何処なのか」という詩には、こういう行がある。

  遠いことはいいことだ
  愛が 憎しみが 心だつて
  なにもかも遠くなる  (469ページ)

 魂しいが、「遠くなる」、遠くなることで「愛/憎しみ」とは違う存在になる、と読むことはできないか。
 同じ詩の最後。

  ああ 在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか 
  ここは何処なのか--  (469ページ)
 
 ぼくの魂しいは、どこを彷徨っていたのか。いま「ここは何処なのか」と自問するとき、やはりそこには魂しいは存在しない。いま、ここは魂しいから遠い場所なのかもしれない。
 魂しいの不在については、「鐘」という詩がある。

  大きな鐘がそこに在る
  どこを叩いても鐘は鳴らぬ

  沈黙にすつぽり覆われているのか
  魂しいの不在か

  手で撫でる
  強く重く吸いついてしまう

  時間が消えて
  空間だけになつたのだろう  (472、473ページ)

 「鐘」は「言葉」の比喩だろう。象徴だろう。沈黙とは、言葉不在。言葉と魂しいは、ある部分では同じものである。言葉のなかに魂しいが存在するとき、言葉には何かが在る。「意味」と言ってしまってもいいのかもしれないが、むしろ「意味」を超えるものだろう。だから、それを「魂しい」と呼ぶのかもしれない。
 そして、この魂しいの不在を、嵯峨は「時間の不在」と同じ意味につかっている。「魂しいの不在」によって取り残される「空間」とは「空虚」のことかもしれない。魂しいは言葉も、空間も充実させるのである。
 「人間小史」には、こんな不気味な行がある。

  ぼくの魂しいに灯をともすと
  言葉の上を
  死んだ女の影が通りすぎる  (473ページ)

 女の影は、女の魂しいの影だろうか、女の肉体の影だろうか。女の愛の影だろうか。憎しみの影だろうか。言葉ではあらわすことのできない何かだろう。だから「影」と比喩にしている。
 「嘘の傘」は、こういう詩である。

  どこまで行つても一つの言葉にたどりつけない
  言葉は人間からはなれたがる

  水のような
  こうもりの翼のような言葉は
  魂しいにさしかけている嘘の傘ではないか  (476ページ)

 私は、無意識にことばを入れ換えて、こう読んでしまう。

どこまで行つても魂しいにたどりつけない
魂しいは言葉からはなれたがる

水のような
こうもりの翼のような嘘は
人間にさしかけている言葉の傘ではないか

 嘘が行き交うとき、魂しいは不在である。あるいは、魂しいは行き場、居所を失う。

  ぼくの魂しいのなかで大きな梯子が揺れはじめた
  その日から友だちからしだいにぼくは離れていつた  (483ページ)

 「死んだ女」のかわりに「友だち」が登場していると言えないだろうか。「嘘」にでじんたとき、魂しいは揺らぐ。魂しいを守る(安定させる)ために、ぼくは女から離れ、友だちからも離れる。
 孤独は魂しいを守る方法のひとつである。
 「引力をめぐる夏野」は中西博子を追悼する作品。「眠つた ああ 魂しいと全身で眠つた」(484ページ)という行で始まる。その作品の途中に、

  生命から遠くへ帰るのだ  (484ページ)

 という一行がある。「遠く」とは「永遠」のことである、と私は読んだ。魂しいは永遠とつながっている。個人の命から離れ、永遠の命になる。
 でも、永遠とは何か。

  人間も
  言葉もはてしなくむなしい
  そして〈永遠〉という言葉の意味はいまもつてわからない
                        (永遠とは何か、486ページ)

 「ふるさと」には、こんな行がある。

  思い出の町はすつかり消えて
  ここはもはやぼくの見知らぬ遠い町のようだ  (486ページ)

 さらに「対話」には、こう書かれている。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つて行く遠い地が失われているからだ
  遠い地つて何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

  ぼくに人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 「遠いところ(永遠)」の場所を生きる魂しい、いま(いちばん近いところ、時間)を生きる生きる言葉。ふと、そういう思いが浮かんでくる。
 「言葉」に帰って、もう一度『小詩無辺』を読み返さないといけない。

 


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(116)

2021-04-24 15:47:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(どこといつて方角になじみがなかつた)
<blockquote>
生命が辛うじて何かにつまずきながら辿つていつた
</blockquote>
 「つまずく」と「辿る」が組み合わさっていることろがいいなあ、と思う。
 私は具体的なもの、手で(肉体で)確認できるものが好きである。そして「つまずく」というのは好きである。自分の「肉体」のなかにある「欠陥」のようなものが見えてくる。つまずいて、転ぶときもあるし、つまずいて、態勢を立ちなおすときもある。その態勢を立ちなおすとき、それは何かを「辿ってる」。辿るというのは、何かにさわりながらという印象がある。そのときの、不思議な「肉体」の交流のようなものが、安心できる。自分の「肉体」のなかにある「他人の肉体」、それは「無自覚のいのちの肉体」ということかもしれない。
<blockquote>
そしていまぼくを揺するものは
とどろくような大きな沈黙だ
</blockquote>
 この詩は、こう閉じられる。「揺する」と遠くにあって「辿る」ことを誘っている何かだと思ってみる。「無自覚のいのちの肉体」というのは、どこにあるかわからない。自分の「肉体」のなかにあるときもあるし、自分の「肉体」の外にあって、見えない力で「揺する」ときもある。
 嵯峨はそういう存在を「大きな沈黙」と呼んでいる。

 この詩の感想で、嵯峨信之全詩集の作品をすべて読んだことになる。最初は「誤読」という詩集の形でまとめたが、その後は、思いつくままに感想として書いてきた。これもまた、別の「誤読」である。
 つまりそれは「評価」ではないし、「批評」でもない。ただ、私が考えたことだ。嵯峨のことばに触れて、私のことばが動く。
 他人から見れば、何の意味もないことだと思う。
 また、私にしても、何か意味があると思ってやっているわけではない。「意味」はやってくるとしても、遅れてやってくる。いずれ遅れてやってくるもののために、書いてみるということが大事なのだと私は思っている。

 

 

 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(115)

2021-04-23 15:35:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(なるほど死は不動である)
<blockquote>
人間の掟ではなく 宇宙の掟だからだ
</blockquote>
 「意味」が強いことばである。
 嵯峨は、このことばを納得したのか。
 「なるほど」はむずかしいことばだ。納得したときつかう。しかし、ときには「論理としては認める」くらいの意味でつかうこともある。
 いま私が書いたように「なるほど。しかし」とつかうことがある。
 詩は、ときに、感動だけではなく「しかし」という反論を誘うこともある。

 

 

 

 

*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(114)

2021-04-22 11:31:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

人生とは
<blockquote>
人生とは
ある種の不思議な遠さである
</blockquote>
 と書いたあと、これを、こう言い直す。
<blockquote>
そして黄金の国の彼方に横たわる一地方である
</blockquote>
 しかし、これでは「言い直し」にならない。やはりわからないままである。「黄金の国」が何かわからないし、それがわからなければ「彼方」もどっち方向かわからない。
 わかるのは、「そして」という接続詞だけてある。接続詞に意味はないが、接続詞は「方向」を持っている。「しかし」と「そして」は方向が逆だ。「あるいは」は逆かどうかはわからないが、いま向いている方向とは別の方向をあらわす。
 この詩から何か「意味」を引き出せるとしたら、嵯峨は、ここでは「そして」をつかってある方向に動こうとしているということだけだろう。その「そして」は「彼方」へ向かうのである。つまり、とどまらない。
 止まらずに、ひたすら、一つの方向を目指す。詩を目指し続けたと読み直せば、それは嵯峨の人生になるだろう。

 

 

 

 

 

*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(113)

2021-04-21 09:46:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(小さな港まで)
<blockquote>
あの突堤のところまで走つて行つておいで
そこに咲きつらなる希望の花がしほれる前に
</blockquote>
 「咲きつらなる」の「つらなる」がおもしろい。孤立して咲いているのでもない。群れて咲いているのでもない。つらなっている。
 この詩の最終行は「わが子よ」。
 「つらなる」には、嵯峨から子への「つらなり」が託されている。
 「花がしほれる前に」は、子から、さらに先の子への願いがこめられている。港の突堤のように、長くのびるもの。その長さが抱え込む美しさ。そういうことも想像させる。

 

 

 

 

 

*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(112)

2021-04-19 10:43:06 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

机上拾遺


<blockquote>
ぼくが生活のなかに酒を濯ぎこむと
主のいないただの大きな褥になるだろう
</blockquote>
 「濯ぐ」は「すすぐ」ではなく「そそぐ」と読ませるのか。「ぼく」と「主」が「いない」の関係もよくわからない。

やはや永遠の酔いが遠くへ去つたあとの平安に
だれひとり訪つてくるものとてない

 だれも訪ねてこないから「主」がいないのか。
 それは嵯峨にとって好ましいことなのか、好ましくないことなのか。
 好ましいことなのだろうと、想像して読む。

 

 

 

 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(111)

2021-04-18 14:10:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (たいまつの火をかざして四、五人がぼくの前を過ぎていつたことがある)
<blockquote>
それはぼくと関りのない世界のできごとで
記憶もなく想像もない
</blockquote>
 この詩行は矛盾している。「記憶がない」なら「過ぎていったことがある」とは書けない。また「想像できない」なら「ぼくと関わりがない」とは言えない。「関わりがない」のが「世界」なのか「できごと」なのか、この断片からではわからないが。
 たぶん、「たいまつの火をかざして四、五人がぼくの前を過ぎていつたことがある」ということばを書きたかったのだ。それは嵯峨の記憶ではない。また、想像でもない。ことばが、突然、嵯峨にやってきた。あらわれたことばは、書かないことには消えてしまう。だから、それを書いたのだろう。

 

 

 

*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(110)

2021-04-17 09:50:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (そして非在は湖を閉ざした)
<blockquote>
ぼくの歩く音のみがきこえてきた
</blockquote>
 「湖を閉ざした」の「閉ざす」はどういう意味だろうか。湖への入り口がなくなった、ということか。そこにあるけれど、そこに入ることはできない。
 あるいは「非在」と「閉ざす」は同じ意味かもしれない。
 湖が消える。消えたけれど、湖の記憶がある。ここに湖があったはず、と思いながら「ぼく」は歩く。歩きながら、非在の湖を思う。あるいは、いま、ここに非在だからこそ、湖を思うことができる。
 非在は、そのとき比喩になる。
 しかも「非在の湖」という超越的な比喩に。比喩でしか(ことばの運動でしか)存在し得ないものになる。
 そのとき、「ぼく」も消える。非在になる。しかし、「歩く音」は存在する。「ぼく」が存在した証として。
 「聞こえてきた」は、すこしむずかしい。この「きた」は過去形ではなく、現在形である。電車がホームにはいってくる。そういうとき「あ、電車がきた」という「きた」に似ている。「到来」である。「ぼく」が消えたことを認識する、その認識が「音」として到来するのである。

 

 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(109)

2021-04-16 10:59:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (どんなに言葉を忘れていても)
<blockquote>
舟は動いている やつてくる
櫓も櫂もなく
</blockquote>
 このイメージは美しい。
 川や海のように水が動く場所にある舟ではない。動かない水。けれども、舟は「うごいて」「やつてくる」。
 「言葉を忘れていても」と嵯峨は書くが、「舟」ということばは忘れてはいない。「櫓」も「櫂」も覚えている。
 嵯峨が忘れているのは、ほかのことばだ。
 人間の、ことばだ。何か言いたいことがあるが、ことばにならない。
 けれど、舟が、櫓が、櫂が、ことばになってやってくる。

 


*

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なぜ菅か(情報の読み方)

2020-12-20 15:28:38 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
なぜ菅か(情報の読み方)

 安倍が「病気辞任」し、菅が後継の総裁(首相)になった。なぜ、菅なのか。私にはよくわからなかった。二階が裏で工作した、というのが「定説」のようだが。まあ、そうなんだろうけれど。
 けさ2020年12月20日の読売新聞(西部版・14版)を読んで、「あっ」と叫んでしまった。とてもおもしろい記事がある。「わくわく、どきどき」が止まらなくなる。
 アーミテージ元米国副務長官の気候「日米同盟新章」という文章である。アメリカは安倍を捨てて、菅に乗り換えたのだ。その方針がどこかに伝えられ、それにしたがって二階が動いた。それがアメリカの「指示」だったので、みんながそれになびいた。
 私が、アメリカが安倍を捨てた(誰に乗り換えたかは、そのときはまだわからなかった)と気づいたのは、山本太郎が東京都知事選に立候補したときだ。正確に言うと、その立候補にあわせて河野が陸上イージス配備停止を打ち出したときだ。こんな大問題を、河野が担当大臣だからといって、河野の発表だけでおわらせることが私にはよくわからなかった。きっと、安倍はもうアメリカからは用がなくなった。「日米関係」は別の次元に進んだと感じたのである。
 「防衛」から「攻撃」へ。
 これは、陸上イージスの「代替案」が長距離巡航ミサイルの艦船、戦闘機搭載方針にかわったことからもわかる。敵からの「攻撃圏外」というのが「売り」だが、地上の基地とは違って攻撃されにくい、したがっていつでも「攻撃」できる。「防衛」ではなく、「攻撃」である。陸上イージスは、あくまで日本を攻撃してくるミサイルを撃墜する「防御」。それに対して長距離巡航ミサイルは、敵基地を「攻撃」するためのものである。
 でも、なぜ、アメリカはアメリカにあんなに従順な(いいなりの)安倍を捨てたのか。それはよくわからない。いろいろな森友学園、加計学園、桜を見る会などの「不祥事」(国民の不人気)が影響したのか。
 それではなぜ、菅を選んだのか。また、安倍を用なし(使用済み)と判断したのはなぜか。
 その「答え」がアーミテージの文章のなかに隠れている。そして、今後の、菅に何が要求されているかも、そこに書かれている。書いてある順番に、思いついたままを書いていく。(番号は私が付けた。)

①日本を変貌させた功績の多くは、前政権の安倍首相と菅官房長官に帰せられるべきだろう。2人は、長年の懸案だった日本国憲法9条の解釈変更を実現した。環太平洋経済連携協定(TPP11)の締結も先導し、インド太平洋の自由を妨げる中国の野望に対抗する戦略的枠組みを構築した。

 安倍だけではなく菅の名前が出てくるのは「御祝儀」なのかもしれないが、ここからは安倍がなぜ「使用済み」になったかが書かれている。「日本国憲法9条の解釈変更を実現した」からである。言い直すと「戦争法」を成立させ、「集団的自衛権」を確立したからである。アメリカは「憲法9条の改正」など求めていない。単に、自衛隊がアメリカ軍に協力して、海外でも「攻撃」に参加できる態勢を求めている。それさえ可能ならば、ほかのことはどうでもいいのである。「憲法9条の改正」にこだわり、その影響で、せっかく確立したはずの「戦争法(集団的自衛権)」の見直しなどということが、たとえ「運動」の形であり沸き起こっては困るのだ。
 自衛隊の海外派兵(ベトナム派兵)と田中角栄が反対し、そのためにスキャンダルを掘り起こされ、政界から追放されたことを思い出せば、アメリカがいかに自衛隊の海外派兵にこだわっているかがわかる。「戦争法(集団的自衛権)」が確立されたのだから、それを確立させた安倍を「追放」した方が、「戦争法が憲法違反」であるという批判を弱めることにもつながるだろう。「安倍辞めろ」が消え、「法律」という抽象的なものだけが存在することになるからである。

②勢いを維持し、成功を更に積み重ねることが、バイデン次期政権の課題である。(略)米国は指導的な立場を取り戻すだろう。だが、米国単独ではできない。同盟内だけでなく地球規模で日本が積極的な役割を演じ続けることが必要なのだ。

 「地球規模で日本が積極的な役割を演じ続ける」とは、日本の自衛隊が「日本防衛」のためだけではなく、アメリカの方針にしたがって「アメリカ軍の防衛(アメリカ軍と共同で敵に対し攻撃する)」ということである。「集団的自衛権」を「積極的」に行使するということである。「地球規模」と明確に書いていることからわかるように、「日本の防衛(日本周辺)」のことを問題にしているのではないのだ。「地球の裏側」までも「射程」にいれてアーミテージは発言している。
 安倍が「辞任会見」で、首相を辞めていくにもかかわらず、次の「防衛戦略(敵基地攻撃)」を提示したのは、「アメリカの言うことならなんでもするから、また、首相に返り咲かせて」というアピールだったのだろう。(だからこそ、辞任会見の翌日、読売新聞が、安倍の意向を汲んで、「敵基地攻撃能力」を「特ダネ」として報道した。なぜ、「辞任会見」のとき、この問題を読売新聞を含めどの記者も質問しなかったかというと、みんな、自分の用意してきた質問をすることしか考えていなかったからだ。安倍が何を言うか聞いていなかったからだ。そのため、安倍側が、わざわざ「リーク」しなおす形で、読売新聞に「特ダネ」を書かせている。このことは、すでにブログで書いた。)

③我々が言いたいのは、「責任分担」という狭い概念に焦点を当てるのではなく、より広い「力の分担」という概念に切り替える必要があるということだ。なぜなら、同盟とは神聖な絆であり、単なる負担ではないからである。

 これは、②を言い直したものである。「責任分担」というなのら、日本はアメリカに基地を提供している。「予算」もつけている。そういう「抽象的/精神的」なものだけではなく、アメリカは具体的な「力」を求めている。自衛隊の海外派兵を求めているということである。
 アーミテージは「軍事」だけに焦点があたらないようにするために、たくみに経済問題を組み込んで文章を書いているが、主点は「軍事」にある。

④日本が地域で創造的かつ活発なリーダーシップを発揮することは、米国とアジアの利益につながるからである。

 ここには「日本の利益」はことばとして出てこない。「日本」は「アジア」の一部に含まれる形で存在している。つまり、米国と、米国の支配するアジアの利益、言い直すと「米国の利益」にすぎない。

⑤米国と日本はいま、両国の関係史上、最も互いを必要としている。中国の台頭を制御するには、地政学、経済、技術、ガバナンス(統治)という四つの戦略的分野に取り組み、そこに前向きな未来像を構築する必要がある。

 これもアメリカの戦略にすぎないだろう。日本は、なぜ、アメリカを捨てて中国との同盟関係を築いてはいけないのか。アメリカに対抗する形で、中国と共同で「地政学、経済、技術、ガバナンス(統治)という四つの戦略的分野」に取り組んではいけないのか。一つの「アジア」になってはいけないのか。
 ガバナンス(統治)ということばでアーミテージが表現しているものが何かわかりにくいが、もし「民主主義」という問題ならば、「内政不干渉」という立場をとって、「地政学、経済、技術」で日中が共同できることは多いはずだ。インドをも含め「アジア」がひとつになれば、人口でいえば世界の半分を「アジア」が占めるのである。そこで日本がリーダーシップを発揮できれば、すばらしいことではないだろう。
 アーミテージは日本のことを考えて提言しているようであって、実は、アメリカのことしか考えていない。それは、次の文章に端的にあらわれている。

⑥ 日本は既に幾つかの分野で先頭に立ち、共通の価値と高い基準と自由の規範を促進している。実際に、多くの分野において、日本の取り組みと緊密に連携していく方が、米国にとって得策だろう。

 「日本にとって得策」ではなく「米国にとって得策」とはっきり書いている。すべて、「アメリカの得策」が優先している。「アメリカ・ファースト」の視点で、日本を動かそうとしている。アーミテージの提言が「日本の得策」がどうかは、ひとことも書いていないのである。

 で。
 アメリカの「姿勢」はうかがえたとして、なぜ、菅なのか。
 これは、やっぱりわからない。わからないけれど、「憲法改正」に安倍ほどは積極的ではないということが、やはり重要なのではないか。「軍備」のことを意識させず、戦争のことを意識させずに、「軍事力(攻撃力)」は着実に増強していく。「憲法9条」を隠れ蓑にして、「防衛」を前面に打ち出しながら、現実としては「軍事力」を高めていくという方法が、日本国民をだましやすい、ということなのだろう。そういう「二枚舌作戦」には菅が向いていると判断したのだろう。少なくとも、安倍の「改憲」を旗印にしている人間が首相であるよりも、都合がいいと判断したのだろう。
 長距離巡航ミサイルの問題も、本来ならジャーナリズムで「激論」が繰り広げられべき問題なのに、新聞では扱いが小さい。安倍の桜を見る会やコロナ問題があるからかもしれないが、どうも「隠されている」と思うのである。
 最初に引用した「日本を変貌させた功績の多くは、前政権の安倍首相と菅官房長官に帰せられるべきだろう」という文章の「菅」は、「御祝儀ことば」だけとはとれないのである。







#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(108)

2020-12-18 18:16:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (十月の高い空の下にのびている私の道)

落下が私を永遠にのみこんでしまう道
でも
私はそこにひかれる

 「でも/私はそこにひかれる」と言い直しているところは散文的だが、散文的だからこそ直前の「落下が私を永遠にのみこんでしまう道」が強烈に復活してくる。
 「落下」ならば「穴」なのに、「道」。その奇妙さのなかで、「のみこむ/のみこまれる」と「ひかれる」がひとつの動詞のように動く。
 「落下(する)」は自動詞だが、「のみこまれる/ひかれる」は自動詞ではなく「受け身」。自動詞/他動詞だけではなく「態」が変わっている。
 いや、これは「落下が」と「私は」という「主語」の交代というところから見ていくべきなのか。
 「文法」で説明しようとするとめんどうなものが、ことばを制御している。このことばを統合している「めんどうなもの」が詩である。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(107)

2020-12-12 15:51:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


どこからでも手が出る
足ものばすことができる
だが心がでないのはなぜか

 この「心がでない」は「出ない」だろうか。
 「円の中心」ということばがある。それは「ことば」として存在するが、ふつうは見えない。必要に応じて「点」が記される。この「中心」ということばから「心」を取り出し、手、足と対比させたところがとてもおもしろい。たしかに「円」から「(中)心」は出ることができない。中にあるからこそ「(中)心」なのだ。

 こういう「肉体」をつかった表現が、嵯峨には、ほかにあっただろうか。
 私は思い出せない。
 このあと詩のことばは抽象化していく。書き出しの三行も抽象といえば抽象なのだが、手、足という具体的な肉体と「心」が交錯するので、不思議なおもしろさがある。「頭」だけではなく「肉体」を刺戟してくる抽象だと感じる。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(106)

2020-12-11 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (たしかにぼくは過ぎ去つていつた)

ふりかえると
それぞれがあまりに遠い

 「それぞれ」と複数なのが興味深い。
 「ぼく」と「ひとり」であって「ひとり」ではない。それぞれのときと場所によって、そのときと場所の「ぼく」というものが存在する。
 そして、それが複数であるからこそ「たしかに」ということばも必要なのだ。
 「たしかに」は漢字で書き直せば「確かに」。「確認」なのである。
 そして、その「確認」は「過ぎ去る」という動詞に焦点を当てているのではなく、そこには一行目には書かれていない「それぞれ」に焦点が当たっている。そのとき、その場所で、それぞれの「ぼく」があらわれ、過ぎ去る。それは「消えていく」。いなくなる。
 あいまいな認識が、ことばを書くことで「たしかな」ものとなってあらわれてくる。


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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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