詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「転落の解剖学」(3)

2024-02-29 13:18:18 | 映画

 他殺か自殺か。裁判(初審)は自殺と判断した。ストーリーの「展開」に満足するだけの観客なら、この映画の結末は「腑に落ちない」だろう。すっきりしないだろう。「ああ、よかった」と満足しないだろう。
 しかし、映画に限らず、どんな作品であり、あらゆる評価は終わったところからはじまる。終わったところから受け手が何を考えるか。監督も役者も、もう動かない。観客を誘導しない。動くのは観客の考え(ことば)だけである。
 さて。私の考えるのは、こういうことである。
 男が自殺した。「事実」がそうであるとして、女(妻)は本当に自由になれるか。「無罪」判決が出たからといって、女は本当に自由になったのか、という問題が残る。
 簡単に言い換えれば、女には、なぜ自殺を防ぐことができなかったのか、夫をなぜ救えなかったのかという問題が残る。これは、たとえ夫を憎んでいたとしても、必ず残る。いのちというのは、それくらいに重いものである。そして自殺の原因は自分にあるのではないか、という疑念に変わる。男は女との生活を苦にして自殺したのではないか、という不安が募ってくる。実際、女と男は不仲だった。それは「秘密」ではなく、もう誰もが知っていることである。女は「殺していない」、けれど男は「女との生活を苦にして自殺した」と誰もが考える。女が推定する原因よりも、他人の推定する原因の方が、はっきりしている。そして、それがはっきりしているからこそ「無罪」になった。こういう結末で、女が「すっきり」した気持ちになれるわけがない。どうしても、「自分のせいだ」と感じてしまう。これは、たぶん、実際に女が殺したことよりも、重くのしかかってくるに違いない。
 女は、結局「救われない」のである。社会的(法律的)には「無実/無罪」。しかし、心理的には「有罪」と考えてしまうだろう。この「心理的有罪」から、どう立ち直るか。これは、とてもむずかしい。「過去」は常に「現在」のなかに侵入し、現在を作り上げ、さらに「未来」を決定する。「過去」は肉体から切り離せないのである。
 女は少年のように「結論」を出せない。夫は、「決意」して自殺したのだとは「結論」できない。少年は音楽と犬を頼りに「結論」を出したが、女は何を頼りに「結論」を出せばいいのかわからない。少年は父が自殺した要因のひとつに自分の障害があるかもしれないが、しかし「自分のせい」ではない、と確信している。父の残したことばは、単に「少年を守っているものがいなくなるときがある」と言うだけで、少年を責めてはいない。逆に、将来を守ろうとして、少年に語りかけている。少年は「愛されている」と知ったのだ。確信したのだ。
 私が感動した少年のピアノの音に対して、ある人が、「事件から一年たっている。一年間練習すれば、上手に演奏できるようになる」と言った。それは、たしかに一理ある。しかし、音楽は「技巧(技術)」ではない。同時に「こころ」でもある。あの少年のピアノの音に「こころ」を聞き取るか、技巧の上達を聞き取るか。これは、もちろん、観客に任されている。すべては、すでに「完結」している。これから先を考えるのは観客の仕事である。
 これは「夫に自殺された女(妻)」の「こころ」をどう感じるかにもつながる。犬は「夫が自殺した女」に寄り添うのではない。「夫に自殺された女」に寄り添うのである。「夫に自殺され」、女のこころは不安定で弱くなっている。それがわかって、犬は女に近づく。女は「ああ、来てくれたんだね」と犬を迎え入れる。

 蛇足だが。「犬の名演技」について。
 アスピリンを飲んで、犬が瀕死になる。白目を剥いて、動けない。あのシーンを、私は「名演」とは思わない。たしかに「迫真」の映像である。どうやって撮ったかのかわからない。コンタクトレンズをつかったかもしれないし、ホンモノの犬ではなく精巧な人形かもしれない。だから、犬が実際に、アスピリンを吐くシーンには映像はなく、音だけである。あのシーンは、ストーリーには重要だが(男がアスピリンを飲んで吐いたことがあるという女の証言を裏付けるためになくてはならないものである。犬は男の吐瀉物を食べたのだろう、一時、ぼうっとしていたときがある。それを少年は思い出す)、そういう「ストーリーの説明」ではなく、「脇」に引いたときの動きがすばらしい。
 「事件」後、家にいろんな人が出入りする。その捜査を、離れたところから伏せたままじっと見守っている目、ラストシーンの女の寝室へ入ってくる足音、ベッドにのぼり、女に寄り添い、犬に触れてくる女の手を受け入れるときの「静かさ」がとてもいい。犬は、こころを読む動物である。「守る」という行動は、とても「静かな」ものなのである。
 「事件」を予兆させる激しい音楽、法廷で展開される激しい「口論」。その一方で、この映画はとても「静かな何か」を非常に丁寧に表現している。

 

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Estoy Loco por España(番外篇435)Obra, Luciano González Diaz

2024-02-27 21:13:23 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 Una mujer con las rodillas sobre el ring y las manos agarrando la parte superior del ring. ¿De dónde partió Luciano al crear esta forma de mujer? Las manos se mueven, los pies se mueven, las caderas se mueven, el pecho se mueve, la cara se mueve. Nace una nueva vida. Lo que se mueve en ese momento es el cuerpo de bronce, y también el propio cuerpo de Luciano. Las manos de Luciano crean la mujer de bronce, y en ese momento me siento como si el bronce estuviera creando el cuerpo de Luciano, especialmente sus manos y sus ojos.
 Voy a escribir en otra manera. Cuando Luciano crea a la mujer de bronce, la mujer de bronce, al mismo tiempo, transforma a Luciano en una nueva persona. Al crear su obra, Luciano renace y mira a las mujer como si viera el mundo por primera vez. Toca a la mujer con manos suaves, como si estuviera tocando el mundo mismo por primera vez.
 Cuando miro la obra y al escultor al mismo tiempo, tengo una idea de cosas que no puedo entender con solo mirar la obra.

 リングに膝をかけ、手はリングの上部をつかむ女。この女の形をルシアーノはどこを起点にしてつくり始めたのだろうか。手が動き、足が動き、腰が動き、胸が動き、顔が動く。新しいいのちが誕生する。そのとき動いているのはブロンズの肉体であり、またルシアーノの肉体そのものでもある。ルシアーノの手がブロンズの女をつくるのだが、そのときブロンズがルシアーノの肉体を、とりわけ、その手と目をつくっているように感じられる。
 言い換えよう。ルシアーノがブロンズの女をつくるとき、ブロンズの女は同時にルシアーノを新しい人間に作り替えている。ルシアーノは、作品をつくることで、新しく生まれ変わって、初めて世界を見るような目をしている。初めて世界そのものに触れるような、柔らかな手をしている。
 作品と作者を同時に見ると、作品を見るだけではわからないものが伝わってくる。

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池田清子「ロウム」ほか

2024-02-27 16:57:29 | 現代詩講座

池田清子「ロウム」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年02月19日)

 受講生の作品。

ロウム  池田清子

古代ローマ帝国の初代皇帝は
オクタウィアヌス(アウグストゥス)という人らしい

私の中のローマは映画の中

「ベン・ハー」
「十戒」

強大なローマ帝国の司令官メッサラが
ユダヤ人の貴族ベン・ハーをガレー船に送る
復讐の戦車レースの為に
馬を提供したのはアラブ人の豪商
ヘブライ人の男の子を拾って育てたのは
エジプトの王女 モーゼと名付けた
若いチャールトン・ヘストン最高!

「シンドラーのリスト」
「サウンドオブミュージック」
「アラビアのロレンス」

ユダヤ、アラブの人たちの苦難を
私は映画で知った
ほんの上っ面な理解かもしれないけれど

イスラエル と ガザ

楽しいものもある
「ローマの休日」
イタリア訪問中の王女が 記者会見で言う
「一番印象に残った訪問地は?」
「ロウム」

オオ レイオロレイオロレーイ

 「フットワークの軽さを感じた。若いときの回想と現在のいろいろな時間を感じる」「映画は見たものとタイトルしか知らないものもあるが、さまざまに関係しているのがわかる。イスラエル、ガザが出て来るのが効果的。最後の一行がハッピーエンドのようで素敵」「何を考えて書いたか伝わってくる力のある詩。ローマも具体感がある。最後の一行がいい」
 池田は「これが詩でいいのかなあ」という思いで書いたという。最後の一行は「サウンドオブミュージック」から。
 何を詩と定義するか。「詩的なことばがなくても、素直に書いたことばだから、これでいい」「そのひとの、その時点でのことばが詩になるのでは?」「映画のなかからのピックアップの仕方が詩的」と受講生の意見。
 受講生が言っているように、ある対象から何を取り出すかに、その詩人の生き方があらわれてくる。思想があらわれてくる。書いたひとの姿が浮かんでくれば、それは文学。
 「若いチャールトン・ヘストン」の一行は、最初は括弧のなかにくくられ、6字下げになっていた。映画で見たストーリーの紹介と、池田の感想を区別するためにそうしていたのだが、これは区別する必要がない。括弧に入れずに、字下げもしない、いまの形の方がいい。ストーリーを紹介する部分も池田の肉体をとおって出てきたことば。どのシーンを選んで書くかということも、すでに「感想」なのだから、ここで「これはストーリー、これは感想」と区別すると、几帳面な堅苦しさが前面に出てきてしまう。

桜並木駅  緒加たよこ

もうすぐ踏切です
もう踏切はないよ と
教えてあげた

「桜並木駅」

随分と綺麗な名前だな

新しい駅が出来る
高架になって
もうすぐ出来る

君はこの辺のひとだから
この桜並木の下を歩いたかな
満開になったら遠足なんかもしたのかな

僕は見てるだけ
通り過ぎるだけだよ いつも

この踏切は道路と線路が斜めカーブに交差する
右見ても左見ても絶対に
電車なんか見えない
イチかバチかで渡るんだ
もうそれもない

もうすぐ踏切です って
明日もきっと云う このナビなら
空耳じゃなくて

 「最後にナビが出てくるのは現実的すぎて、それまでのイメージを壊してしまう。出てくるから、いいのかもしれないけれど」「ナビとの会話だと納得できた。最後から2連目は、ちょっと危ない感じ」「ナビとの会話のずれを書いていて、おもしろい」
 「もうすぐ踏み切りです」はナビの声だが、ほかは、どうだろう。ほかにもナビの声はあるだろうか。
 緒加は、ナビの声は「もうすぐ踏み切りです」だけだと言ったが、2連目は作者、3連目はナビ、4連目は作者、5、6連目はナビ、7連目は作者という具合に読んだ。あるいは、車のなかにはふたりの人間がいるのかもしれない。緒加の、「ナビの声はもうすぐ踏み切りですだけ」という説明は、そのことを指している。
 最終行の「空耳」は、走りながら思い出した同乗者の声(いまは同乗していないひとの声、「僕」の声)をあらわしている。緒加は、運転しながら、そこを二人で走ったことを思い出している。
 しかし、「僕」ということばだけで、それが「ナビ」ではなくて別の人、記憶の人であること、ここに書かれているのが大切な思い出であると読者に伝えるのは、少しむずかしいかもしれない。「僕」が登場する連に、「見る」「通りすぎる」以外の動詞、車ではなく人間を連想させる動詞があれば、「僕(の声)」の印象がかわると思う。
 私は、最終連の「明日もきっと云う このナビなら」の「云う」という動詞から、ほかのことばもナビが言っているのだと思った。ナビが擬人化されているだと思った。
 しかし、池田の詩の「チャールトン・ヘストン」は、どこからどこまでがストーリーで、どこが感想かを区別していたが、緒加はどれがナビの声、どれがだれの声か明示しないことで、世界をゆったりと広げている。読者の読み方に任せている。
 「誤読」されるのは本意ではないかもしれないが、「意味」を作者が限定するのではなく、読者に任せた方が世界が豊かになると私は思う。

かたつむり  杉惠美子

黄色い葉がすべて落ちた
私は
湿った落ち葉の陰に隠れた

慣れ親しんだこの場所で
水平に繰り返すだけの日々
ただ 素通りしただけの日々
このままで良いと言い聞かせた日々

日に日に枯れ葉が上に積み重なっていく
私は 静かに寝返りを打つ

このままで終わりそうな予感の中で
十二月
自分のうしろ姿の夢を見た

ひとりを 丸ごと肯定して
立っている背中が 楽しそうに見えた。。。

 「かたつむりと私(作者)が重なっている。最終連がとてもいい」「書き表すことがむずかしい内容、作者の境地を、書き尽くしている。すばらしい詩。タイトルもとてもいい」「すばらしい詩。ことばが自然に流れている。人為的でなく、かたつむりに没入している。韻律がすばらしく、「日々」の繰り返しが「日に日に」かわるところがいい。最終連は、杉さんらしい終わり方」
 作者は「何を書けばいいのか、わからず、視点の置きかたがむずかしい。自分の気持ちをことばに探して、そのことばで自分を昇華したい」と語った。
 受講生の感想に「境地」ということばが飛び出したが、そういうことばを引き出すような哲学的な印象がある。受講生が指摘した「日々」から「日に日に」への変化は、私もとてもおもしろいと思う。「水平」と「立っている(垂直)」の対比に、「このままで良い」と「肯定」が呼応し、「うしろ姿」が「背中」にかわる呼応もおもしろい。(ほかにも、こうしたことばの響きあいがある。)

ネモフィラ  青柳俊哉

匍匐(ほふく)する葉腋から青い目が開いて
空をみる 鳥の声が花びらに跳ねる
月がそれらをみている

花の意識にとって 
飛ぶ鳥は地軸の振れで 月は光の屈折とおもう

美しく受け止めることをいさめる

水鳥のほかに人影のみえない海辺の小屋

うち寄せる波の音と円周率の限りなさ 
解かれることと解きえないことの境 
虚数と美の 光とかげの類似をおもう
それらはわたしの失われた感覚への補填----

ネモフィラの花冠へ梯子をかけて鳥や月と遊ぶ

 「美しい。2連目で作者(の意識)がネモフィラになって、つづく3連目が引き締まった。水鳥、海辺と水に関係することばが重複しすぎているかも。5連目は、並列か、並列でないのか。最終連、1連目と関係するのか、読み方がむずかしい」「ことばのつかい方、とくに5連目の「うち寄せる波……」「虚数と美の……」は自分とはつかい方がぜんぜん違うと感じてしまう」「花を知らないので、どんな花かな、と 悩んだ。3連目の、いさめるもどういうことかな?」
 「ネモフィラ」は海辺に咲く青い花。芝桜のように、低く、広がって咲くという。
 「いさめる」について、青柳は「人間的なものの見方をやめる、ということ。動物や植物は、人間が感じる美を人はみてはいないのではないか」と説明した。
 最終行の書き方は、とてもむずかしい。
 この詩の場合、5連目のイメージが拡散するので、それを拡散したまま放り出したくなくて、最終連で引き締めようとしているのだが、それまでに出てきたことばが総動員されているので、窮屈な感じがする。受講生が、1連目と最終連の関係がむずかしいと声を漏らしたのも、そういうことが影響していると思う。

 

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こころ(精神)は存在するか(19)

2024-02-27 12:31:56 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。
 「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。

母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。

 この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。
 ベルグソンの書いている「身をのりだす」というのは「比喩」なのだが、その「比喩」をとおして私が知るのは「意味」というよりも「欲望」である。母が「身をのりだす」ときの「欲望」。彼女の「肉体」を動かしてしまう力。「知性」の制御を無視して、暴走する「欲望」。そして、それを「欲望」と感じるのは、私自身に何かに対して「身をのりだした」体験があるからだ。それは私の「肉体」のなかに残っている。
 「つぎに続く世代」というのは、これもまた「比喩」である。実際にはまだ存在しない。その存在しないものに向かって「身をのりだす」とき、そこには何があるのか。ただ、新しいものへの「欲望」がある。「身をのりだす」欲望。そして、「肉体」そのものの、「動き」であって、「肉体」の「動き」をともなわない「欲望」というものはない。
 ベルグソンが書いていることは、私がいま書いたこことは関係がない。
 私がただ「追加」するかたちで考えたことばである。

 

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こころ(精神)は存在するか(18)

2024-02-27 12:30:46 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばは刺戟的である。
目は見るだけではない。目で見たものが有効だと判断すれば、そのときひとは存在に近づくのだが、このとき目は実質的に肉体を動かしている。

 ここに「脳が判断し、手足を動かしている(手足に動けと命令している)」ということばを挿入したとすれば、それは「付け足し」だろうと私は思う。
 あらゆる運動、それが激しい肉体の運動ではなくても、ある瞬間目だけが動くのではない。手だけが動くのでもないし、足だけが動くのでもない。ことによると性器も動くのである。それも同時に、いくつもの場所(肉体の部署)で動いている。
 心臓とか内臓とか、そういう「不随意」の器官(組織)だけではなく、あらゆる肉体が動いている。なかには動くのを怠けている部分もあるかもしれないが。

 

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こころ(精神)は存在するか(17)

2024-02-27 12:29:06 | こころは存在するか

 和辻のことばにヒントを得たのか、ベルグソンのことばにヒントを得たのか、はっきりしないが、たぶん和辻のことばだと思う。こんなメモがノートにあった。

 どんな独創的な比喩であろうも、それがいったんことばにされれば、それはその比喩をとりまくさまざまなことばによって説明、把握されてしまう。これは逆に言えば、どんな独創的な比喩・暗喩も、それを比喩・暗喩としてささえる「過去」を持っているということである。いいかえれば、すでに「ことば」が存在しなければ「比喩のことば」が生まれることはない。「ことば」とは論理でもある。そして、「ことば」とは肉体でもあるからだ。詩だけではない。小説も、哲学も。
 これは、野沢啓が書いている「言語暗喩論」への批判のためのメモだと思う。
 なぜ、和辻のことばの影響なのか、ベルグソンのことばの影響なのか、私がはっきり思い出せないのは、たぶん、いま私がベルグソンの「創造的進化」(ベルグソン全集4)を読んでいるからだ。和辻につづけて読んでいる。
 ベルグソンは、「序論」に、こう書いてる。

理解能力は行動能力の付属物である。

 「行動能力」をどう「誤読」するか。私は「肉体」と置き換えてしまう。「肉体」が動く。そして、その肉体と対象(存在)がうまく合致して動いたとき、私はその存在(対象)を「理解」していると考える。肉体でできること。それを肉体で理解できること、と思うのである。
 さらにベルグソンは、こう書いている。

意識をもつ存在者にとって、存在することは変化するということは、変化するということは成熟することであり、成熟することは限りなく自分を自分で創造することである。

 もの(対象)に働きかけ、対象を変化させ、同時に肉体の方も変化する。動ける範囲が広がる。それは「理解力」の成熟であり、理解力が成熟すれば、新しい行動が可能になる。「自分を自分で創造する」ことができる。
 しかし。
 ここにひとつ大きな問題が横たわる。
 「肉体」は自分自身でつくることができない。「肉体」は、まず、他者によってはじままる。他者によってつくられる。つまり「父」と「母」によってつくられ、「母」の「肉体」から分離されることによって、「ひとりの肉体」となる。
 この、せっかく母というひとりの肉体から分離された私というものを、どう動かしていけば、私は私を「創造する」ことになるのか。
 こんなことを考えるのは、私の「死期」が近いからだと思うが、どうも気になって仕方がないのである。

思考は生命の発散物もしくは一つの相貌にすぎないのである。

 ベルグソンは「生命」ということばをつかっているが、私はやはりこれを「肉体」と読み替える。思考とは肉体の発散物のひとつである。肉体がなければ生まれてこない。
 「生命」ということばと同時に、ベルグソンは「生きられる時間」ということばもつかっている。これは、言い換えだろう。そして「生きられる時間」とは「持続」のことだが。

時間の本性を深く究明していくにつれて、持続とは、発明を、形態の創造を、絶対に新しいものの絶えざる仕上げを意味する

 この文章の中に、「創造」が出てくる。それは「新しいもののたえざる仕上げ」であり、それは「限りなく自分を自分で創造すること」である。
 さて、ベルグソンと和辻は、どこで「交錯」するのか。

生命の諸特性は決して完全に実現されているわけではなく、つねに実現の途上にある。それらる特性は状態というよりも、むしろ傾向である。

 ベルグソンのつかっている「傾向」ということばは、和辻の「構想力」に似ている。私は、だから、これを「構想力」と「誤読」することで、和辻とベルグソンを結びつけるのである。
 さて。きょうの日記に書いた冒頭の文章だが。ベルグソンの、次の文章を「誤読」した結果が、あの文章かもしれない。

われわれる意識的存在の根底そのものは記憶であり、いいかえれば過去が現在のなかへ延長したものであり、要するに活動的で不可逆的な持続である

 どんな比喩・暗喩であれ、その根底には記憶がある。つまり記憶(過去)が現在のなかに噴出してきたものが「比喩・暗喩という新しいことば(表現)」である。私たちは、過去の時間のなかへ、「比喩・暗喩」を持ち込めない。「いまあることば」を「過去」に存在させることはできない。しかし、すでに存在することば、過去のことばを成熟(成長)させ、、それによって自分の意識(肉体)を新しく「創造」することができる。
 そして、そのときの「創造」を手助けするのは、あくまでも「肉体」である。「肉体」の動き(動詞)が、新しい意識の誕生に立ち合っているのである。

 

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こころ(精神)は存在するか(16)

2024-02-27 12:27:37 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8「イタリア古寺巡礼」。ミケランジェロとギリシャ彫刻の違いについて、303ページに、おもしろい表現がある。

この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかもしれない。

 和辻は、技術、技巧とは言わずに「態度」と言っている。これは、人間とどうやって向き合うか、人間の(肉体の)何を評価するかということ、「道」につながることばだろう。
 ミケランジェロ(あるいはローマの彫刻)が、表面的(外面的)であるのに対し、ギリシャの彫刻には「中から盛り上がってくる」感じがあると言い、「中からもり出してくるものをつかむ」とも書いている。
 「中から」は「肉体の中から」である。「中にあるもの」とは「生きる有機力」だろう。それを「つかむ」という態度(向き合い方/生き方/人間の評価の仕方)が違うと和辻はとらえている。
 「知識(技巧/技術)」と言わずに、あくまで「人間全体」の表現(態度)、つまり「目に見えるもの」として和辻は把握している。
 もちろん態度の「奥」には「意識」があるだろうが、それを「意識/技術」とはいわずに、目に見える「態度」ということばでとらえるところに、和辻の「直観」がある。存在するものは、まず、「目に見える」、あるいは「耳で聞き取れる」「手で触れる」「鼻で匂いを嗅ぐことができる」「舌で味わうことができる」。
 存在するのは「肉体」である。「意識」の本意はつかみにくいときがあるが、「肉体」の本意は、だれもが見分ける(識別する)ことができる。どんな子供でも、母親が自分を愛してくれているか、いま喜んでいるか、叱っている、そのときの「意識の論理構造/意識の運動」をことばで言い表すことはできなくても、それを感じ取り、「態度(肉体)」で反応することができる。
 ここで「態度」ということばをつかっていることに対して、私は、やっぱり、はっと驚き、同時に安心するのである。人間は「肉体」であり、「肉体の行動」が人間のすべてである。

 逆に読む。意識的に「誤読する」、そこから「飛躍」が生まれる。私は、こういうことも和辻から学んでいるかもしれない。和辻から学んだという意識はなかったが、こういう「無意識」こそ、「影響を受ける」ということなのだと思う。
 和辻は、どんな風に「誤読」するか。つまり「意識的に読み替える」ことで、ことばを「飛躍させる」。
 システィナ礼拝堂のミケランジェロの壁画、天井画について、こう書いている。それは本来、礼拝堂を装飾するはずのものである。しかし、

この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではない(略)。その位置を逆転しているのである。(316ページ)

 「通説」を逆転させている(これも、私にとっては「誤読」ということである)、そうすることで和辻は自分の言いたいことへと「飛躍」する。
 その上で、この考え(ことば)を次のように発展させている。さらに「飛躍」させている。

堂がおのれをむなしゅうして絵に仕えている結果、絵は完全にその効能を発揮して堂を飾り、堂の装飾の役目を果たしていることになる。

 これは和辻が最初に書いたこと(最初の引用部分)を、さらに和辻自身で「誤読」する形でことばを動かしたものである。つまり、ここには一種の「矛盾」があるのだが、それを止揚するかたちで、ことばは、こう動く。

両者が互いに生かせ合っているのである。

 「互いに生かせ合う」というのが「道」だろう。人と人の出会いのように、礼拝堂と絵が出会っている。その出会いにミケランジェロが立ち会っている。ミケランジェロの「肉体」のなかにある「生ける有機力」があふれ出て、礼拝堂(建物)と絵に分裂し、さらに統合されている。そういうドラマチックな展開があるのだが、こういう「飛躍(止揚)」の過程で「おのれをむなしゅうする」とか「仕える」とか、「互いを生かせ合う」という、私の両親で聞いて納得できることばをつかっているのが、私はとても好きである。
 和辻のことばの運動がたどりついた頂点としての表現も好きだが、その過程でつかわれる「態度」のように、誰もが知っていることばのつかい方が、私にはとても納得が行く。

 

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こころ(精神)は存在するか(15)

2024-02-27 12:24:25 | こころは存在するか

 人はだれでも、自分の求めていることばを探して本を読む。その求めていることば、探していることばとは、直観としてつかんでいるが、まだことばになっていないものである。それはたとえて言えば、昆虫の新種や、未発見の遺跡のようなものかもしれない。あるはず、と直観は言っている。
 和辻哲郎全集8。「風土」にも、そういうものがある。あ、このことばは和辻が探していたものに違いないと感じさせることばが。
 たとえば、ヘルデルの文章の中から引き出している「生ける有機力」ということば。それを引き継いで、和辻は、こう言いなおしている。

我々自身は知らずとも、我々の肉体の内にそれは溌剌と生きている。

 「知らず」は意識できない、ということだろう。
 だから、こうつづける。

理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を十分に知る力さえなく、いわんや肉体を作ったものではない。

 これは、逆に言えば、肉体は知性をつくる。あらゆるものをつくる、ということだ。さらに言いなおしている。

精神的思惟といえども肉体の組織や健康に依存するものであるから、我々の心情に起こるあらゆる欲望や衝動が動物的な暖かみと離し難いものであることは当然のことであろう。これらは何人も疑うことのできぬ自然の事実なのである。

 「自然の事実」には傍点が打ってある。「生ける有機力」から「自然の事実」への「飛躍」。あるいは「飛翔」。「有機力」の「力」は、エネルギーということだろう。それは、不定形。それ自身は、ただ使い果たされ、それを使い果たすときに何かが起きる。何かが生まれる。何かを生み出す。つまり「つくる」。
 そしてそれは「動物的な暖かみと離し難い」。かならず「動物的な暖かみ」を持っている。「動物的」は「人間的/肉体的」と言い換えることができる。この「暖かみ」には、和辻の、とても重要な「人柄」のようなものをあらわしている。

 「生ける有機体」の存在の仕方、風土や生活の仕方は、主体的な人間存在の表現であるというようなことも和辻は書いているが、その「主体的な人間存在の表現」には、そのひと独特の「人道の観念」を明示する。「人道」ということばのなかにある「道」。和辻の父が、和辻に向かってお前の道はどうなっているのか、と「古寺巡礼」のなかで問うているが、その「道」である。和辻はここから倫理へ、つまり歴史哲学へと入っていく。
 人間がつくってきた「道」が「歴史」のなかにある。「哲学」のなかにある。

 「古寺巡礼」のなかには、いろいろなことばが書かれている。そして、その主力は「道」ではなく、古い美術への鑑賞なのだが、私はなぜか、あの「道」ということばが忘れらない。そして、その「道」につながることばを探して、和辻を読んでいるのだと思う。

 

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「落下の解剖学」(つづき)

2024-02-27 12:07:49 | 映画

 前回書いた感想の「つづき」。というよりも、前回書いたものは「メモ」である。

 この映画は「音」が全体を動かしている。いわば、映画のエネルギー源は「音」である。「ストーリー」の本質は、音のなかにある。
 象徴的なシーンが、前回も書いた少年の弾くピアノの音。音楽。練習しているときは、ぎこちない音楽である。ところが、最終証言の前に弾くそのピアノの音が、一瞬、透明な音楽、とても美しい音楽にかわる。これは少年の心が「澄みきった」ことを象徴している。少年には事件のすべてがわかったのである。この「わかった」は、少年が「結論を出した」ということである。
 それを裏付けるのが、判決の日のテレビ放送。少年の家でもテレビをつけている。しかし、そのときレポーターの声が聞こえない。少年は判決を聞く必要がないのだ。母親が無罪かどうか、裁判がどう判断するかは関係がない。少年のこころは、すでに判断を下している。どちらであっても、少年は揺るがない。
 このあと、観客にもわかるように判決を知らせる「声」が流れるが、それは少年にはどうでもいいことである。
 この透明な音楽の美しさと、音のないテレビの対比が、とてもすばらしい。あのとき、少年の耳には、彼が演奏した、あの音楽が静かに響いていたのだと私は思った。すべての雑音(他人の声)をかき消してしまう絶対沈黙のような、あの美しいピアノの音が。

 この音、あるいは自然の音(風の音、雨の音)のほかに「声」という「音」がある。「声」は「ことば」であり、「意味」を持っている。しかし、その「意味」は「正確」ではない。
 あの「11人の怒れる男たち」でも陪審員のひとりが討論の最中に「殺してやる」と口走ることがあるが、それは「殺す」という意味ではない。
 だから「夫婦げんか」の「声(ことば)」が録音されていて、それが実際に再現されたとしても、その「ことば」のすべてが「文字通り」の意味ではない。その場の「文脈」と同時に、そのことばが出でくるまでの「文脈」(夫婦のひとりひとりの文脈)がある。
 この問題は、少年の最終証言の「父のことば」についても言える。少年は最初、それを犬の問題だと思っていた。しかし、実は犬について語ることで、父が自分自身について語っていたと「理解する」、解釈し、そう判断する。大事なのは、ここでも少年の判断である。「事実」は、だれにもわからない。
 そして、少年だけは「わかっている」。自分が「判断した」ということを。

 もうひとつ、この映画には「見どころ」がある。ほんとうのラストシーン。女(母)が寝ていると、犬が近づいてくる。足音で近づいてくるところから表現している。(これも、大切。まず「音」で、これから起きることをこの映画は伝える。それが徹底している。)その犬なのだが。
 犬というのは、基本的に「ボス」に従う。しかし、この映画の犬は、家族、父・母・こどものだれのそばにいたか。父のそばでも、母のそばでもなく、こどものそばにいた。父がこどもに語ったように、犬はこどもを守っていた。この犬は「ボス」に従うのではなく、家族のなかでいちばん弱い人のそばにいて、そのひとを支える存在だったのである。
 その犬が最後になって、少年ではなく、母のベッドへやってくる。犬は知っている。母がいちばん弱い存在だと。少年は「母は無罪である、父は自殺したのだ」と判断した、いや決断した、決意した。そして、「強い人間」に生まれ変わった。「無罪」という判決は出たが、「事実」はだれも知らない。しかし、犬は知っているのだ。犬にはわかっているのだ。こころが揺れている母のそばで、それを支えようと決意して、少年のそばを離れ、母のところへやってきたのである。いままでいろいろな犬を映画のなかで見てきたが、このラストの「名演」には、心底感激してしまう。もちろん監督の「演出」というか、ストーリーなのだが、犬が自分で判断してやってきたような感じだ。ちょうど、少年が自分で「結論」を出したように。

 これは、もちろん私の「解釈」である。私は、母(妻)が夫(父、男)を殺害したと思っているが、「事実」はわからない。裁判で「判決」が出れば、それが「事実」ということに、社会的にはなってしまうが、裁判には「誤審」がつきものである。
 「事実」は、本人にしかわからない。
 これは逆に言えば、母が父を殺したのだとしても、少年は、父は自殺した。母は殺していないと「信じる」。彼のなかでは「事実」は「父親は自殺した」なのである。そうこころが決めたとき、少年はあの美しい音楽に到達した。私が、あのピアノのシーンをとても美しいと書く理由はそこにある。ひとには、ひとそれぞれの「真実」があり、それは他人の判断とは関係がない。自分が「真実」を発見するかどうかがいちばん大事なのだ。
 そして私は、妻が夫を殺害したと信じているが、そう信じていてもなお、いや、妻が夫を殺害したと信じるからこそ、少年が「父は自殺したのだ、母は父を殺害していない」という判断に与するのである。とてもいい判断だと納得するのである。
 この映画を「裁判もの」というよりも、「少年の成長物語」と呼ぶのは、そういう意味である。少年は視力障害のある弱い少年ではなく、自分が下した判断に従って「生きていく」ことを決意したのである。その決意は、何よりも尊いものだと思う。

 あのピアノの音を聞き逃すと、この映画は何がなんだかわからなくなる。あの一瞬に、観客が何を思うか。それがこの映画の「決め手」である。

 

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「世界のおきく」のつづき。

2024-02-27 12:04:09 | 映画

 「世界のおきく」に問題があるとすれば、「さぼる」ということば以上に大きな問題がある。「さぼる」は「表現されたミス」だが、もう一つの問題は「表現されなかった何か」にある。「循環型の世界」を描いたと傑作といわれる映画だが、あの映画には「描かれなかった大事なもの」がある。
 ユーチューブの「批判者」は「糞尿のつまった樽(桶)を手で触るなんて、おかしい。汚いだろう」と言っていたが、問題は、その「汚い糞」をどうやって「美しい肉体」から引き離すか。つまり、どうやって「肉体」を清潔に保つか。糞をしたあと、どうやって、肉体にこびりついている「汚れ」を引き剥がしたか。
 いまならトイレットペーパーがある。ウォシュレット(これは、商品名か)というさらに進んだ装置もある。江戸時代は、どうしていた? ウォシュレットがないのはもちろん、トイレットペーパーなんて、存在しない。紙は貴重品だ。それが証拠に、ある映画では主人公の友達は最初は「反故紙」をあつめて、紙屋へ売りにいくということを生業にしていた。そういうことが成り立つくらい、紙は貴重だった。
 それは前回も書いたように、東京オリンピックがあったころまでは、(都会ではどうか知らないが)、田舎では「常識」だった。そのころは、田舎はまだ「江戸時代」だった。もちろん、江戸時代にはなかった新聞紙というものもあって、ある家ではトイレに新聞紙を切ったものを備えてあったかもしれない。尻を拭くために。しかし、その新聞紙は、新聞が読まれたあとすぐにトイレにやってきたのではない。弁当をつつむかみとしてつかわれ、あるいは子供が習字の練習をする紙としてつかわれたあとだったのだ。新聞紙に毛筆で文字を書くと筆先が傷むが、「白紙」は清書を書くためのものであって、練習をするためのものではなかった。
 江戸時代がつづいていた私の田舎では、どうしていたか。たいていは「藁」をたたいて軟らかくしたものをつかっていた。「お父は土間で藁打ち仕事」という歌詞が「母さんの歌」のなかに出てくるが、それは父が土間で打った藁だったかもしれない。しかし、藁も貴重品だから、糞をぬぐうのにはもったいないかもしれない。名前は知らないが、葉っぱの大きな蔓草がある。それを野山からあつめてきて、トイレットペーパーがわりにしている家もあった。「縄」をまたいで、糞をぬぐう、というのも聞いたことがある。(これは、私は残念ながら見たことはない。)たしか道元の「正法眼蔵」だったか、その弟子が書いた「正法眼蔵見聞録」には木のへらで糞をこそげ落とすという方法が書かれていた。さらに、そのつかったへらをどうするか、どうやって次につかうひとのためにととのえるか、そのあとで、手をきちんと洗うこと、とも。糞を、糞のこびりついた尻をどうするか、はとても大事な問題なのだ。道元のような哲学者が、そんなことまで言っているのだ。(道元の時代と江戸時代では、事情が違うかもしれないが。)
 その大事な問題が、「世界のおきく」では描かれていない。トイレ(その当時はトイレとはいわなかったが)に入り、糞をするシーンはあるが、尻を拭くシーンはない。尻を拭くとき何をつかったかは、もちろん描かれていない。
 こういうことを描かないから、おきくの食べているご飯が白すぎる、とか、糞尿のつまった樽(桶)を手で持つなんておかしい、足で蹴れ、というようなとんでもないことばが「批評」としてまかりとおるのだ。糞は汚いかもしれないが、だから手ではなく足をつかえという論理はおかしいのだ。いったい誰が足で尻を拭いただろうか。大事なものは手で取り扱うのである。

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ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

2024-02-23 23:06:24 | 映画

ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」(2024年02月23日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 山荘で男が死ぬ。自殺か、他殺か、目撃者はいない。第一発見者は男の息子、視覚障害がある。殺人なら男の妻が犯人だ。裁判になる。裁判劇のようだが、、、、。

 映画が始まってすぐ、男の妻がインタビューを受けている時、大音響の音楽。男(夫)が大工仕事をしながら、かけている。この音楽を聴いた瞬間から、この映画は映像ではなく、音の映画だと気づく。

 実に繊細に音が拾われている。山荘での会話には屋外の風の音が混じりこむ。必要がない音だが、観客に耳をすませと要求する。音を聞き逃すな、と。

 実際、裁判の最初のクライマックスは、男が録音していた夫婦喧嘩の声、物音である。それを、どう理解するか。

 しかし、これは見かけのトリックというか、ほんとうの見せ場ではない。

 ほんとうの見せ場というか、耳をぐいとつかんで離さないのは、少年がラスト近くで弾くピアノ。これがすばらしい。いつも練習している曲だが、練習だから上手ではない。それがたどたどしい音から、数秒、実に透明な、美しい音楽にかわる。

 この瞬間、映画の結末、裁判の結果がはっきりとわかる。

 そして、音楽が予告したとおりの判決になるのだが、それで終わりではない。

 その結末は、真実かどうかわからない。

 わかるのは、それが少年の聴いた(見たではない)事実、少年の心が決めた事実であるということだ。それを、判決前の少年が弾くピアノの音が象徴している。

 あの音、ああああ後思わず声に出したいくらいに素晴らしい音。あの音を聞くために、もう一度、見てもいいかなあ、と思う。

 そして、おまけ。

 いつも少年に寄り添っている犬が、ほんとうのラストシーンで、最後の大活躍。少年のこころを代弁する。その時も、犬の歩く足音が効果的につかわれている。

 最初から最後まで、一つの音も聴き逃してはいけない映画。

 だからこそ、少年を視覚障害という設定にしている。そして、これは、少年の成長物語でもある。裁判劇ではなく、映画でしか表現できない音のドラマである。

 

 

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こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-20 21:44:20 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」のつづき。大事なことは、だれでも、それを繰り返して言う。書く。そして、そのとき、そこには不思議な変化がある。飛躍がある。
 たとえば。

明朗なるギリシャ的自然が彼らの肉体となったとき、彼らはこの隠さない自然から「見る」ことを教わった。(81ページ)

 ここから、こう変わる。

「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだしていくことである。(89ページ)

 「見いだしていく」という動詞をつかっているが、この「見いだす」は「創造する」の方が近いだろう。私は「見いだす」を「創造する」と「誤読」して、理解する。
 最初の引用の「肉体」という表現も、私はとても気に入っている。和辻はここでは「身体」とは書かずに「肉体」と書いている。「肉体」で見る。「肉体」で「創造する」。「見いだす」を「創造する」と読み替えるのは、「創造する」の方が多くの「肉体」の部署がかかわると考えるからである。

 179ページには「商業銀行のニオベの娘」に関する美しいことばがある。その特徴を「内なるものを残りなく外にあらわにあらわしている」と要約しているが、これをさらに182ページで、こう言いなおす。

それは外にあらわになるもののほかに内なるものが存せぬことである

 この二つの文章の間にある「飛躍」、目眩を感じるくらいに大きい。はっきりと理解できるが、思わず、「いま、なんて言った? もう一度言って」と言いたくなるくらいだ。そして、「もう一度言って」と言われたら、和辻はきっと言い間違えるだろう。そんなことを感じさせる「飛躍」である。それは「直観」が動かしてしまうことばであり、どうやって動いたかはたぶん和辻にもわからないと思う。つまり、もう一度言いなおせば、また違ったことばになってしまうような、そういう「飛躍」である。
 それはたとえば100メートル走でボイトが世界記録を出したあと、もう一度走って見せてと言われても同じタイムで走れないようなものである。人間の「肉体」が理性だけで動いているわけではない(同じ状態にコントロールできるものではない)のと同じように、「ことばの肉体」もまた理性だけで動いているわけではなく、「肉体」そのもののように、何かコントロールできないものの影響を受けて動いているのである。
 この、私が「肉体」と呼んでいるものを、和辻は「気合い」と呼んでいるかもしれない。「気合い」で「飛躍する」。「気合い」は規則ではない。そして、それは「直覚的に得られた」ものであると、和辻は書いている。
 これは、端折りすぎた、私のためのメモである。この「日記」はメモなのだから、ときどき詳しく書いたり、突然端折ったりする。

 脱線したが。
 先に引用した文章は、さらに、こんなふうに言いなおされる。202ページ。

彼(ポリュクス)の日常寓目する人間の肉体は彼の想像力によって作りなおされ、高められ、類型化され、そうしてたとい現実には存せずとも彼の体験においては溌剌として生きている人間の姿として外に押し出されて来た。

 「想像力によって作りなおされ」は、単なる「修正」ではなく「創造」である。それは「対象」を描写したものではなく、ポリュクスの「肉体」のなかから、ポリュクスの「肉体の外」へと「押し出されて来た」ものなのだ。
 で、この最後の「押し出されて来た」という表現。これが、また、おもしろい。「押し出した」のではなく、「押し出されて/来た」。それは「抑制できない」なにかなのである。想像力には想像力の「肉体」があり、それが自律的に動くのだ。
 和辻のことばは和辻が書いているが、そこにはやはり「押し出されて来た」ことばがあると思う。その感じがあるからこそ、ポリュクスの彫刻を見ても「押し出されて来た」と反応してしまうのだと思う。
 私は大雑把にしか読まないが、もし、ていねいに和辻のつかっている「動詞」を分析していけば、ことばと肉体の関係が、もっとわかるかもしれない。

 

 


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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(81)

2024-02-20 20:37:03 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「青い記憶の歳」。「年」ではなく「歳」なのは、そこに「人間」がいるからである。詩人は思い出している。「ある年」ではなく「あの歳」を。

悲しみである。

 ほかの行は、それぞれに長い。だから、そこに「意味」を見つけ出すことができる。つまり感情移入することができる。感情移入することで、読者は、そのことばを書いた詩人になることができる。
 しかし、この「悲しみである。」という一行は、それができない。
 「悲しみ」は、だれもが知っている感情である。そして、その「悲しみ」にはいろいろなものが含まれている。「悲しみ」だけでは、そのいろいろがわからない。だから感情移入できない。
 ここでは、詩人は読者を拒んでいる。
 詩の中には、いろいろな「悲しみ」につながることばが書かれている。どのことばも「悲しみ」につながる。しかし、その肝心の「悲しみ」は、中心において読者を拒んでいる。それは別の視点から見れば、詩人自身をも拒んでいるのかもしれない。どんなことばにも汚れない純粋な悲しみ。それこそが記憶である、と詩人は言うのだろう。

 

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇434)Obra, 川田良樹 Kawada Yoshiki

2024-02-20 13:10:09 | estoy loco por espana

Obra, 川田良樹 Kawada Yoshiki
初雪 primera nevada140×47×33

 Cuando miro esta escultura de Yoshiki Kawata, los desniveles me parecen misteriosos.
 En general, los desniveles dan la impresión de ser duros. Mis manos se asustan cuando toco los desniveles. No es solo sentido táctil. Visualmente debería causar una impresión similar. Los desniveles provocan una sensación áspera, dura e incómoda.
 Sin embargo, en la obra de Kawada ocurre todo lo contrario. Esta escultura tiene un tacto suave y cálido. Me dan ganas de tocarlo. Aunque las obras de Kawada están talladas en madera, la ropa que representa parece como si hubiera vestido cuidadosamente un cuerpo desnudo tallado. Hay una suavidad y calidez que provienen de envolver suavemente el cuerpo por dentro. Los desniveles crean una misteriosa sensación de amabilidad.
 Contrasta con la piel vivaz y suave del rostro, las manos y los pies de un niño pequeño, que observa la primera nevada.

 川田良樹の彫刻を見ていると、凹凸は不思議なものだと思う。
 一般的には、凹凸は硬い印象がある。凹凸のあるものに触れると、手がおびえる。触覚にやさしくない。それは視覚にも同じような印象を引き起こすはずである。ザラザラしている、硬い違和感を引き起こす。
 しかし、川田の作品では逆である。やわらかみ、あたたかみがある。触ってみたくなる。川田の作品は木を彫ったものなのだが、彼の表現している衣服は、まるで彫りあげた裸体にそっと服を着せた感じがする。内部にある肉体を、そっとつつむときの、やわらかさとあたたかさがある。凹凸が、不思議なやさしさを生み出している。
 初雪を見る幼い子供の、顔や手足の肌の張りつめたなめらかさと対照的だ。

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江戸時代は、いつまでか

2024-02-19 23:16:42 | 考える日記

 私は他人の「評判」を気にしないのだが、知人にすすめられて、ちらりと聞いたユーチューブでの「世界のおきく」の「評判」が、とんでもないものだった。
 何がひどいといって、発言者のだれもが「田舎の生活(昔の生活)」を知らない。
 この映画について、私はすでに「さぼる」ということばは江戸時代にない、と批判した。それに類似したことを批判しているのだが。
 たとえば、(1)あの時代、おきくが食べているご飯があんなに白いはずがない(2)糞尿をつめた樽(桶)を手に持って、糞尿をばらまくというのは変だ。せめて足で蹴るくらいだろう、というものがあった。
 (1)について言えば、モノクロ映画なので、ご飯がどれくらい白いかはわからない。他のものとの対比で白を強調して撮影したかもしれない。それに、彼らは江戸時代の白米を実際に見たことがあるのか。「あんなに白いはずがない」は想像でしかない。
 (2)は、糞尿のつまった樽(桶)に実際に接したことがない人のことばである。それはたしかに汚い。しかし、農民にとって、樽(桶)はとても貴重。足で蹴って、その弾みで樽(桶)が壊れたらどうなるのか。いまの暮らしから見て、どんなに汚い(不衛生)に見えたとしても、それだけで農民が糞尿の樽(桶)を手で触るはずがないと判断してはいけない。貴重な道具を、農民が足で蹴ったりするはずがない。けんかをするときでも、道具は大切にする。

 こんなことを書いてもだれも信じないかもしれないが。
 私の子供時代は、糞尿のつまった樽や桶を担いで、山の畑、山の田んぼまで運ぶというのは、子供もする仕事だった。服が汚れたり、体が汚れたりするが、それは洗えばきれいになる。服にしみついたものは、なかなかとれないが、だからこそ、そういうときは汚れてもいい服で仕事をする。だれもが、それくらいの「工夫」をする。
 糞尿で汚れるのも、泥で汚れるのも、同じ汚れである。友達が肥え壺に落ちたりしたら、みんな笑ってからかったりするが、仕事で汚れているときはからかったりはしない。両親や兄弟、あるいは子供たちがが汚れた体で野良仕事から帰って来たと、彼らに対して、家族の誰が「汚い」と言うだろうか。糞尿は汚いかもしれないが、仕事で、それにまみれるとき、それは汚くはない。生きるために、必要なことなのだ。
 そういうことは、「江戸時代」でおわりではなく、昭和、しかも戦後もそうだったのである。

 「世界のおきく」から離れてしまうが。
 私の生まれ故郷の集落は、みんな貧しかった。いまでこそ、どの家でも畳を敷いているが、私の子供時代は畳を敷くのは、葬式だとか結婚式だとか、特別なときだけであり、ふつうは「板の間」だった。畳が傷まないように、畳を積み上げておく台のようなものも、どの家にもあった。雪国なので、冬はさすがに板の間は寒い。どうするか。筵を敷くのである。その筵は、どうやってつくるか。機織り機のようなものがあって、それでつくる。これも、たいていは子供の仕事である。私もしたことがある。ついでいいえば、縄をなうのも、もちろん大人もするが、たいていは子供に割り振られる。みんなが手を動かして仕事をしていた。それは東京オリンピックのころまでは、どこでも当たり前だった。
 さらに。
 ドン・キホーテに、旅籠屋では、藁の上に毛布をかけてベッドを急ごしらえする描写があるが、薄い布団の下に藁を敷いてクッションにするということも、ごく日常的だった。藁だから、すぐにへたる。これを新しいものに取り替えると、日向の温かい匂いとやわらかい感触につつまれ、なんだか豊かになった気持ちになる。
 そういう時代が、つい先日まであったのだ。100年前のことではないのだ。「江戸時代」の生活は、東京オリンピックのころまでは、まだ日本の隅々に残っていたのだ。

 誰に言うべきことでもないのだが、ふと、書いておく気になった。

 

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