詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫「消滅」

2008-06-30 10:59:57 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋山基夫「消滅」(「ドッグマン・ソース」4、2008年04月25日発行)
 1連が20字4行。そのスタイルで11連つづいている。形式が固定されている。その固定された文字のなかで、ことばに緩急が出てくる。その「急」よりも「緩」の方に、詩人の「本質」のようなものが出てくる。「肉体」ののようなものが出てくる。「急」の方は、言いたいことがつまっている。「急」の方は「頭」である。

彼らは自分らの使命をぼんやり知っていたが
さっきから後悔がちくちく首筋を刺していた
どれだけ進むのかわからず帰るには遠すぎた
羽の裏にかかえたビラの束が汗で湿っている

二羽のカラスは学生服も靴も土埃で白くなり
目ばかりキョトキョト動かしてのろのろ動く
急に道が平らになって広々とした高原に出た
なだらかに続く丘陵は見渡すかぎり煙草畑だ

 「ちくちく」「キョトキョト」「のろのろ」。繰り返されることば。それは「肉体」を停滞させる。どんなに速度のある擬態語であっても、繰り返されるとき、それはスローモーションになる。「びゅんびゅん」ということばはこの作品には出てこないが、たとえ出てきたとしても、やはり繰り返されることでスローになる。目に見えるものになる。というか、「他人の肉体」なのに、それをあたかも「自分の肉体」であるかのように、追認できる。単なる動きではなく、その動きにともなう感情(思い)とからみあったものとして感じるようになる。
 この作品では、それが効果的である。
 詩の登場人物たちはカラスとなって「ガリ版刷りのビラ」を配るという任務を帯びている。それは最初は任務だった。そして最初はカラスもその任務に真剣だったかもしれない。しかし、だんだん疲れてくる。「頭」で考えていた任務は「肉体」にまみれてしまっている。(「羽の裏にかかえたビラの束が汗で湿っている」)
 この、「頭」の敗北(「理想」の敗北と言い換えてもいいかもしれない)、「肉体」として書かれているところが、この作品のいちばん「正直」な部分だと、私は感じる。そういう部分、そういうことばが、私は好きである。
 伝える「意味」は何もない。ただ、そこに「肉体」があるという、そのことだけを表明することば。「だらしないことば」と書くと、秋山の意図とは違うかもしれないけれど、停滞したまま、ただそこにあることによって自己主張するしかない「だらしないことば」。言い換えると他者を説得する「意味」にはならないことば。それが、作品のなかで少しずつたまってくる。その瞬間が、私はなぜか好きである。

白い土塀をめぐらした立派なお屋敷が見える
春には桃の花が咲き夏には大きな実もみのる
二羽のカラスはおずおずと大きな門をくぐる
それっきり二度と彼らの姿を見た者はいない

 「お屋敷」の「お」、「大きな実」「大きな門」の「大きな」の繰り返し。
 「敗北」がそんな「だらしないことば」として具体化されている。「敗北」をセンチメンタルな「頭」のなかに閉じ込めていない。そこが、この詩の魅力だ。




オカルト
秋山 基夫
思潮社

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北川透「眠られぬ夜のために--二〇〇七年六月十三日から二十二日までの十日間の記録。」

2008-06-29 07:53:54 | 詩集
北川透「眠られぬ夜のために--二〇〇七年六月十三日から二十二日までの十日間の記録。」(「ドッグマン・ソース」4、2008年04月25日発行)
 詩の政策現場の実況中継のようにして作品は始まる。

岡山での「大 俗」の会に招かれている。
何ヶ月も先のことだったので、すっかり忘れていたが、
もう、十日後に迫っているではないか。
カレンダーが風に揺れている。私は取れ立ての鰯のような、
新鮮な詩を朗読しなければとならない。
さあ、たいへん、私に朗読する詩があるか。
屑箱の中はカラッポ。書き損じの紙一枚入っていない。
でも、あわてない。あわてない。
毎晩、寝る前に一行書けば、十日で十行。
毎晩、十行書けば、十日で百行。
毎晩、百行書けば、十日で千行。
毎晩、千行書けば、十日で一万行。
わーい、たやすいことだ。塵も積もれば十万行。
私は十日で大詩人?

 この実況中継の始まりをつげる連の、どこに詩があるか。「カレンダーが風に揺れている。」という、北川の状況とは無縁の風景の挿入に詩があるのか。「取れ立ての鰯のような、」という比喩が詩だろうか。--それも、たしかに詩のひとつだろうけれど、一番の魅力は、「毎晩、……」の4行である。私は、この4行に詩を感じる。この4行があるから、感想を書きたい、という気持ちになる。
 「毎晩、……」の4行に書かれているのは単純な「算数」である。
 なぜ、それが詩なのか。
 書かなくてもいいことだからである。ていねいに一行、十、百行、千行とくりかえして「算数」をやって見せる必要はない。過剰な「算数」である。この、余分、過剰に詩がある。北川のことばの特徴がある。余分、過剰は、いつでも書かなくていいことである。その書かなくていいことを、何行にもわたって書いてしまう。「わざと」書く。そこに、詩の楽しみがある。
 書き出しそのものが「余剰」である。「過剰」である。
 北川が「岡山」の「大朗読」に招かれようが、「東京」の「小朗読」に招かれようが、そんなことと詩は関係なく成立するはずである。読者は、北川の事情など、知ったことではない。ただ詩を読みたいだけだ。しかし、北川は「岡山」という場所、「大朗読」という状況にしっかりことばを結びつけてことばを動かす。「過剰」な緊密感のなかでことばを動かす。そして、その「過剰」な緊密感が、北川の詩なのである。
 「過剰」な緊密感が、「算数」に働きかけ、単純な「算数」を増幅させる。増幅した「算数」はそのまま「過剰」である。この「増幅」と「過剰」がことばにリズムを与える。「増幅」「過剰」から、北川はリズムを引き出し、そのままそのリズムに乗って、疾走する。ことばを走らせる。このことばの疾走も「過剰」である。
 必要なことは、そこには何も書かれていない。必要な、というのは、人間の生活にというか、実際の暮らしに必要な、という意味である。だから、詩なのである。詩は余剰、過剰そのものである。暮らしの役になど立たない、からこそ詩である。
 暮らしに役立たないことば、不必要なことばは、いま、暮らしのなかにあることば、生活の必要にしばられていることばを吹き飛ばす。忘れさせる。「流通」していることばを、さーっと洗い流して行く。--北川のしている仕事は、そういうところにある。
 無意味・無価値なことばの過剰な疾走。どこまでも暴走する力。
 それを引き出しつづけることで、「流通する言語」から自由になる。ことばの自由を奪い返す。そのために暴走する。無意味、無価値のことばを疾走させつづけるエネルギーだけが、たぶん「流通言語」に対抗できるのである。
 まだ、その力は弱いかもしれない。北川ひとりがどんなにがんばってみても、「流通言語」は無傷である。かもしれない。そうかもしれない。たしかに、そうなのだろう。しかし、そうであっても北川は戦う。「わざと」戦う。その戦いのあり方も「過剰」である。しかし、その「過剰」のなかにしか、ことばの自由は存在しない。

 2連目に、美しい行がある。

本当のことを言おうか。
わたしは男の振りをしているが、男ではない。
詩を書き始めると声が変わる、でも、朗読しなければ分からない。

 「詩を書き始めると声が変わる」。その「変わる」。このことばはきらきらと輝いている。「変わる」とは自分が自分でなくなってしまうことである。自己を逸脱してしまうことである。(自己拡張という言い方もあるかもしれない。)そうなると、「わたし」という存在がもっていた、他人(知人)との関係が狂ってしまう。「わたし」とはいったいだれ?という大問題が起きてくる。それは「わたし」自身の問題でもあるし、他人が思い描く「わたし」の像の変化の問題でもあり、また他人が思い描く「北川像」と「わたし」がど折り合いをつけるかという問題でもある。--ちょっと面倒くさい問題である。
 面倒くさい問題なのだが、北川は、これを「かわる」を「過剰」に「増幅」させることで解決する。ただ、「過剰」の「増幅」を、さらに「増幅」させる。ようするに、かわりつづけるのである。
 詩を書かなければならない、という自己をかかえたまま、その自己がどこまでかわれるか、それをただひたすらことばのなかで繰り広げる。自己が完全にかわってしまえば、「詩を書かなければならないという自己」はそこには存在しなくなる。つまり、問題が解決してしまう。
 かわりつづけ、かわるということを増幅し、過剰にあふれさせ、完全にかわってしまうこと--それが、その瞬間に、詩とイコールになる。
 北川は、かわるということと詩の「算数」問題を、この作品で証明している。証明しようとしている。

 で、どうなったでしょうか。
 それは作品を読む読者の楽しみ。ここでは、私は私の「こたえ」を書きません。




谷川俊太郎の世界
北川 透
思潮社

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三谷幸喜監督「ザ・マジックアワー」

2008-06-28 09:15:17 | 映画
監督 三谷幸喜 出演 佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、綾瀬はるか、西田敏行

 いくつもの嘘が入り乱れる。「映画」そのものが「映画」という嘘である。その「嘘」のなかで、「嘘」がはじまる。それも「映画」という嘘が。そして、その「嘘=映画」を「映画という真実」と思い込んでいる人間(佐藤浩市)と、「映画ではない真実」と思い込んでいる人間(西田敏行)が、互いを誤解したまま動かして行く。佐藤浩市は西田敏行(とその周辺の人物)を役者だと思いこみ本物ののギャングとは思わない。西田敏行は佐藤浩市を本物の殺し屋だと思う。こうした展開のなかで、「偽物(殺し屋)」(佐藤浩市)が「本物(ギャングのボス)」(西田敏行)を超えてしまう、というのは、この種類の映画の基本的なパターンである。この映画もその基本を忠実に踏まえている。忠実に踏まえていながら、同時に、その忠実を超えようとしている。「映画」を前面に出すことで、いままでのパターンを突き抜けている。
 特徴的なのが、佐藤と西田の出会いのシーンである。
 佐藤は映画であると思っているから、同じ演技(?)を繰り返す。「映画」の取り直しだと思って、同じ演技を違ったバージョンでやり直す。西田の机の上に腰を下ろし、ナイフをなめる。そのなめながら同じことばを繰り返す。西田はそれを「映画」とは思っていないので、佐藤の行為に不気味さを感じる。普通の人間は、同じ行為を現実のなかで3回も繰り返さない。へたくそな「演技」もへたくそゆえに、異様さを強め、おもちゃのピストルさえ「度胸」(狂っている)の証明となる。「殺し屋」は常軌を逸している。狂っている。狂っているからこそ、殺し屋である--と論理的(?)に西田を説得してしまう。この掛け合いが絶妙である。
 「カット」という単純な映画用語も効果的につかわれている。(単純ゆえに、おかしい。)嘘を仕組んだ妻夫木聡(佐藤にはインディーズの映画監督だと自己紹介している)は佐藤と西田の関係がどうにもならなくなると「カット」と叫ぶ。「撮影中止」。妻夫木は西田には「カット」は佐藤の仇名だと説明する。佐藤にはそういう説明はせず、佐藤は「カット」を撮影の中止を知らせることばだと信じている。この「嘘」が、ギャングの子分が「カット」と佐藤を呼んだとき、異様な効果を発揮する。「カットと言ったのはだれだ、カットと言えるのは(監督である)妻夫木だけなんだ」と突然怒りだす。「映画人」の本能が、異様な怒りとなってあらわれる。その怒りは「演技」ではなく「地」である。その「地」に他の人間が圧倒される。
 へたくそな演技の不気味さが西田を圧倒し、佐藤を本物の殺し屋に仕立て上げる。役者の本物の怒りが、西田の手下たちを圧倒し、佐藤を本物の殺し屋に仕立て上げる。嘘の不気味さと本物の強さが佐藤の肉体で具現化されるのだけれど、これは佐藤が、自分のやっていることを「映画」だと信じているからこそなのである。
 銃の密売(取引)のシーンも傑作である。佐藤は「演技」だから鞄のなかに「銃」を入れる必要はない。空っぽでも思い鞄をもっているという演技はできる、と思い、銃を鞄から取り出し、空っぽの鞄で取引現場に向かう。そして、取引開いてから「紙屑」の紙幣の鞄を渡されても驚かない。銃撃戦が始まっても驚かない。「映画」と信じているから。一方、西田たちは佐藤を「嘘の取引」を見破った切れ者と「誤解」する。
 佐藤の「ほんとう」の役どころは、は売れない役者である。売れない役者であるからこそ、強いこだわりをもっている。こだわりが佐藤を「くさい」役者にしてしまい、それゆえに売れないという悪循環を生きているのだが、その「くささ」「異様さ」が、「役」としてではなく「地」として露骨にあらわれ、その露骨な「地」が、西田たちに「現実」そのものとしてたちあらわれる。佐藤は、いわば、「役」と「地」を交互にみせる演技するのだが、こんなにおもしろい役者だとは知らなかった。矛盾したものを瞬時に、連続的に演じる。そのスムーズなスピードがすばらしい。
 この映画はちょっと見た目には、三谷幸喜の脚本がとてもよくできているので、おもしろさは脚本にあるという感じがするが、その脚本を佐藤の演技は超越している。凝った脚本は舞台では効果的だが映画では問題が多い。ストーリーが主役になって、映像がぎくしゃくしてしまう。
 その「ぎくしゃく」を佐藤が、佐藤の「役」と「地」の演技の切り換えるスムーズなスピードが消して行く。西田との最初の出会い、西田の手下に対する怒り、銃取引の現場--そこにあらわれる佐藤の「狂気」と「ばか」と「純粋」。それは「売れない映画役者」というひとつの結晶に乱反射する強烈な光である。「狂気」「ばか」「純粋」を行き来するスピードが、あらゆる映像のぎくしゃくを消して行く。いい役者だ。とてもすばらしい。「雪に願うこと」の佐藤の演技も好きだが、今回の演技には、とても感心してしまった。映画の成功をひとりで担っている。佐藤浩市が好きになってしまった。


 
 この映画では、もうひとり、好きになった。
 ラストシーンが「映画讃歌」というか、「裏方讃歌」になっているのも、実は、この映画を魅力的にしている。ラストシーンで「映画」の「嘘」がそのまま現実で展開されるのだけれど、その「嘘」を準備する裏方のていねいな仕事。そういうものへの賛辞がこめられている。その裏方のなかには、この映画で演じた佐藤のような「裏方役者」も含まれている。映画にかかわるすべてのひとへの愛がこめられている。
 このラストで、実は、私は三谷幸喜が好きになった。

 


コメディーのあとは、リアルな佐藤浩市の魅力があふれる映画も見てください。
雪のボールをぶっつけて、車の中の弟を呼び出すシーンがとても美しい。
ラストの雪晴れの朝の光は絶品。スクリーンを超えて新鮮な空気があふれてくる。
根岸吉太郎監督の傑作です。

雪に願うこと プレミアム・エディション

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水無田気流『Z境』

2008-06-27 09:57:53 | 詩集
 水無田のことばには不思議な軽さがある。奇妙な表現しかできないが、それは「重さ」を持たない軽さである。あるいは重さを欠如している。これは、いい意味での欠如である。重さに汚れていない、と言い換えた方がいいかもしれない。意味に汚されていない、と言い換えた方がいいのかもしれない。
 「異種混交故郷(ハイブリッド・ハイマート)--再起動(リスタート)」という作品の書き出し。

ゆうべ 通告されたのは
故郷特定装置の時間失認(タイムグノシア)
私の短い人生が さらに 短縮されたということ
ユニバアサル・ホウム ハイブリッド・フルサト

「私の血液はポリネシア産かもしれない」

失ワレタ時間 を求め
私は逃亡/再起動する

 1行1行に、たぶん「意味」を塗り込めることはできる。
 「故郷」を「特定」できないという現代。「故郷」喪失の現代とは、故郷という濃密な時間の連続する流れを失ったに等しい。「故郷」によって継承される時間、連続して流れる時間を引き継いでいないということは、ひとりの人生の時間が膨大な過去を失うこと。それは個人の人生が短縮されたというのに等しい……。
 たとえば、今、引用した数行の「故郷」「特定」「時間」「失認」「短縮」から、そんなふうな「意味」を捏造することができる。
 しかし、水無田は、そんな「意味」を浮かび上がらせるためにことばを書いているのではない。むしろ、そういう「意味」を捨てるために書いている。ことばが「意味」になってしまうのを拒絶している。「意味」とは「特定」のなにかにつながる、そのつながり方のことである。だれでも何かにつながっている。たとえば「故郷」につながっている。そのつながりを拒絶するとは、「特定」のものを「特定」ではなくするということである。「特定」がなくなれば、つながりもなくなる。
 「意味」の拒絶とは、「特定」との関係を拒絶する、ということである。

ユニバアサル・ホウム ハイブリッド・フルサト

 この1行は象徴的である。ここでの「ユニバアサル」は「ユニバーサル・デザイン」というときの「ユニバアサル」だろう。だれにでも、つまり不特定の、特定の何かに限定されないホウム(故郷)。「不特定」「特定されない」を水無田は「ハイブリッド」と言い換えている。「特定されない」とは異なったものが混じり合っているということと同じ意味なのである。
 「特定」を拒絶し、常に「不特定」(異種混交)であること。

 「特定」を拒絶するための方法として、たとえば水無田は「ユニバアサル・ホウム」というようなことばをつかう。まだ「意味」が固定されていないことば。「故郷」に、つまり水無田の生まれ育ってきた「場」に完全に共有されていないことば、生まれ育ってきた「場」とはつながっていないことばをつかう。
 それは、「故郷」から「逃亡」することである。そして「異境」とつながること、「異人」として再生することでもある。ことばはどんなことばにしろ、かならず何かとつながっている。「故郷」とつながらないことばは「異境」とつながっているのだから。その「異境」とのつながりを利用して、「故郷」とのつながりを拒絶する、切断する。そうして再生する。
 それはひとつの、切り離せない行為である。
 だからこそ、次のような1行が生まれる。

私は逃亡/再起動する

 「逃亡」と「再起動」は「/」によって緊密に結びついている。ぜったいに切り離すことはできない。「/」はしばしば「改行」とおなじような意味合いでつかわれるが、水無田は、「改行」とはまったく別の使用法をしている。「逃亡」と「再起動」のあいだにある「/」は「切断」と同時に「=(イコール)」なのである。強引に私のことばで言い換えれば「/」は「つまり」と同じである。
 しかし、水無田は「つまり」とは書かない。「つまり」ということばはすでに「故郷(日本語の故郷、という意味、日本語の歴史という意味)」に汚れている。「重さ」を持っている。そういうことばはつかいたくない。そういうものと「無縁」のことばへの指向が水無田を動かしている。それが「/」に特徴的にあらわれている。
 そして、そこにこそ、水無田の「軽さ」の美しさがある。まだ「意味」に汚れていないことば(ここでは、まだ記号であるけれど)--それを求める強い力が、あらゆる「故郷」から水無田を引き剥がす。
 詩はたしかにこういうところからはじまる。ここからしかはじまりようがない。いままでとは無縁のことば。新しいことば。その力で、自分が自分でなくなる。自分の「
故郷」と完全に切れて、「異境」で新しく生まれ変わる。

 「/」は「=」と同じである。(古い意味、つまり言い換えるときつかうことばでは、同じになる。等しいものになる。)しかし、その「同じ」であるものを、水無田は「=」ではなく「/」で書く。ここに、ひとつの「意味」の誕生がある。(これは「詩」の誕生とも言い換えることができる。)
 「イコール」であるけれど、「イコール」ではない。
 「イコール」は別個の存在を結びつける。「=」は別個の存在の硬く結び合った両手の「象形文字」でもある。そこには「境目」がない。「境界線」がないことが「=」なのである。
 しかし、水無田は「境界」(境界線)を意識するのである。「境界」(境界線)の意識を欠落した「=」は水無田にとって、なんの価値もない。水無田にとって重要なのは「境界」(境界線)なのである。

 「境界」(境界線)が人間を作り替えていく。人間を再生させる。「境界」(境界線)を超えるのではなく、「境界」(境界線)そのものになり、常に「再起動」しつづけること--そういう夢を水無田のことばは追いかけている。
 「境界線」として成長しつづけることを夢見ている。
 これは、かつて安部公房が「壁」でこころみたことばの運動と同じである。水無田のことばは安部公房のことばの運動とぴったりと重なり合う。(水無田が安部公房を読んでいるかどうか知らないが。)「境界線」として「再起動」することで、自己を消滅させる。自己消滅の軽さ、明るさ。それはたぶんけっして手に入らない。
 なぜなら、どんなに「境界線」を生き続けても、そこへは、他者がやってきて、つながってしまう。たとえば、私がこうして、水無田の作品について何かを書いているように--書くということは対象とつながることだ。
 それでも水無田は「逃亡」する。たとえば私のことばのとどかない新しい境界線へ。あらゆる「意味」の特定を拒絶し、ただ「再起動」する「境界線」になろうとする。この激しい欲望は美しい。とても美しい。安部公房のことばの美しさに通じる美しさがある。


Z境 (新しい詩人)
水無田 気流
思潮社、2008年05月25日発行

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音速平和
水無田 気流
思潮社

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瀬崎祐「備忘録SIDE A・迂回」

2008-06-26 12:58:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 瀬崎祐「備忘録SIDE A・迂回」(「風都市」18、2008年春発行)
 書かない、ということを書いている。矛盾した言い方だが、瀬崎がこころみているのはそうしたことばだ。「何か」がある。しかし、その「何か」には言及しない。「何か」が引き起こす「場」の歪みのようなものを、「何か」を書くことを拒絶したまま、書こうとする。瀬崎はこの号で「備忘録SIDE B・秘匿」という作品も書いている。タイトル通り、瀬崎は「何か」を「迂回」し、また「秘匿」している。「迂回」と「秘匿」は瀬崎にとっては同じ行為である。
 「何か」を「迂回」し、「秘匿」すると、ことばはどう変質するか。「迂回」の書き出し。

山上の展望台からはいろいろなものが見える
いろいろな観光地をめぐったが
こんなに気持ちの良い曇りの日も珍しい
わたしを取りかこんだ湿った空気はねっとりと重い
わたしの鋳型がいたるところで一人歩きを始めてしまいそうだ

 具体的な存在は描写されず、ただ感覚だけが描写される。何が見えるか。「いろいろ」。どんな観光地をめぐってきたのか。「いろいろ」。そして「気持ちの良い」「ねっとり」「重い」。読者は瀬崎の外の風景ではなく、瀬崎の内部、感覚の「場」へ知らずに引き込まれることになる。
 「何か」を描写することを避けると、ことばは、作者の内部(感覚)を描写するしかなくなるのである。
 これは逆の位置から見ると、瀬崎は、瀬崎の内部へ読者を引き込むために、「迂回」という方法をとっているのである。「観光地」の「展望台」なら、そこからは「特別」な「何か」が見えるはずである。「特別な何か」が見える(存在する)からこそ観光地というものである。しかし、そういう「場」で「特別な何か」を描くことを拒絶すると、そこにはただ外部を拒絶した人間の「内部」だけが残されることになる。
 とはいっても、「内部」は「内部」だけでは存在し得ない。「内部」は「外部」があって、はじめて「内部」となりうる。
 だからこそ、次の行がある。

わたしの鋳型がいたるところで一人歩きを始めてしまいそうだ

 「鋳型」。「わたしの鋳型」。
 「外部」を描写することを拒絶したために、さらけだされた「内部」。
 そういうものは、しかし、とても困った存在である。誰も他人の「内部」になど直接触れたくはない。形のないもの(形が常に揺れ動くもの)は困るのだ。だからこそ、「鋳型」が必要なのだ。「鋳型」でひとつの「形」をつくって、そこに閉じ込めて、むりやり外部・内部の区別を生み出す。「外部」はそういうふうに、瀬崎の「内部」に働きかける。
 このときの瀬崎の「印象」が「ねっとり」「重い」である。「内部」は「ねっとり」と「重い」に向かって凝縮する。瀬崎にとって生きることは「ねっとり」「重い」を実感することである。

 この1行で、特におもしろいのは「ねっとり」である。
 「外部・内部」と書いたが、その接点としての「ねっとり」。「ねっとり」は触覚に属することばだ。
 「いろいろなものが見える」と書きながら、実際は視覚は何も描写しなかった。視覚は視覚であることを放棄している。そのとき、視覚のかわりに触覚が、瀬崎の「位置」を決定する。「ねっとり」という人間のあり方を決定する。「ねっとり」はからみつく。からみついたものを、そしてひきずる。からみつき、ひきずられる、ひっぱられると、「内部」は、からみつき、ひっぱるものの「重さ」(重い)のために、どうしても歪んでしまう。「鋳型」はぐりゃりと崩れ、「鋳型」があるのに、「鋳型」の形以外のものになってしまう。歪みとは、「重さ」の配分が均等ではないときに生まれるものだ。

 このゆらぎと、ゆらぎを引き起こす「ねっとり」を書くために、瀬崎は「迂回」している。

 人間が存在する。そのとき人間を変質させるのは、「触覚」である。触れ合いである。「ねっとり」である。
 瀬崎は「何か」を「迂回」するふりをしながら、実は、「ねっとり」を直視し、それを見るだけではなく、「ねっとり」そのものになろうとしている。「迂回」は「ねっとり」になるための方便である。

年月はねっとりと重いのだから

という行が詩のちょうど中心部分に出てくる。瀬崎は「年月」のなかにあるもの、その構成要素(存在)そのものには触れず、「年月」の感触だけにふれる。「外部・内部」の境界線にふれる。「ねっとり」。
 この「ねっとり」を強調するために、この作品では「恭子さん」という読者にはだれのことかわからない人物が挿入される。「鋳型」ではなく、「鋳型」のなかに紛れ込んだ1個の異物。その異物のために「内部」はさまざまな方向に動き、つまり「鋳型」の隅々にまで動いて行き、「鋳型」によってつくられるものを単なる「形」ではないものにしてしまう。「人形」ではなく「人間」にしてしまう。「形」と「間」の違いが、ここから生まれてくる。
 「間」は「魔」でもある。
 「魔」によって、「ねっとり」は「悲しみ」(この詩には、そういうことばはつかわれていないが)にもなれば、よろこび(このことばもここではつかわれていない)にもなる。つまり、「いのち」(このことばも、つかわれてはいない)になる。

 「迂回」し、「ねっとり」を引き出すことで、瀬崎は、「いのち」を描く。そういうことを試みているのだ。





風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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平田好輝「ある日、見知らぬヤツが」、坂多瑩子「母」

2008-06-25 11:21:06 | 詩(雑誌・同人誌)
 平田好輝「ある日、見知らぬヤツが」、坂多瑩子「母」(「鰐組」228 、2008年06月01日発行)
 平田好輝「ある日、見知らぬヤツが」は、押しかけてきた「屋根診断士」(?)とのやりとりを描いている。訪問詐欺の一種だろうか。

診断をしたからといって
ぜったいに一銭もいただくものではないと
口から唾を垂らして言い
一銭ももらわないから屋根にのぼる権利があると
言っているみたいだった

 私はこの連で、ふーん、と思ってしまった。何が「ふーん」かというと「一銭もいただくものではない」という口のきき方である。ほんとうに「屋根診断士」が言ったのか、それとも平田が脚色したのかわからないが、「一銭」と「いただかない」ということばの「古さ」に、あ、「ふーん」と同時に「これだなあ」とも思ったのである。
 今は「一銭」というお金の単位はない。それなのに「ことば」だけが残っている。「いただく」というへりくだったことばも、日常ではあまりつかわない。自己主張の強い時代にあって、この身の引き方は、ひとをぐいと誘い込む力を持っている。そのふたつのことばが重なって、たぶん「古い」人間(ようするに、お年寄りのことだけれど)を、一種の「安心」(なつかしさ)のようなものに引き込むのだな、と思ったのである。
 これがたとえば、「1円でも払ってくれと要求するわけじゃありません」と言われれば、ちょっと身構える。何を言ってるんだ、こいつ、と思ってしまうだろう。乱暴な口のきき方をするなあ、と気分を悪くするだろう。
 ひとはたぶん「意味・内容」ではなく、口調に反応するのだ。ひとの意識は「ことば」の「意味」よりも、その「ものごし」に反応するのだ。「訪問詐欺」というのは、そういうことを、きちんと踏まえているんだなあ、ふーん、そうかあ。
 そして、あれこれあって。

ぜったいにのぼってもらっては困ると
わたしが言い
せっかくの無料診断の特典なのだからと
見知らぬヤツが粘り
しばらく無駄な時を過ごした

 「無料診断」「特典」。「ことば」が急に新しくなる。あ、押して行くときは、こういうちょっと「新しいことば」、なんとくなく「意味」はわかるけれど、実際の「内容」はわからないことばが有効なんだなあ。ほら、もう10年くらい前になるんだろうか、政府が突然予算の「スキーム」なんてことばをつかったように、「内容」を隠して、何かをごり押しするとき、人間は、こういうことばをつかうのだ。
 「無料診断の特典」って、いったい、何が得? あ、「特典」の「トク」は「得する」の「得」じゃない。もちろん「道徳」の「徳」でもないじゃないか。「特」って何? どうして具体的じゃない? ね、ひとをだますときのことばって、押しの後ろには何が存在するかわからないでしょ? 政府のカタカナ用語そっくりでしょ?
 「一銭もいただかない」という引き、そして「無料診断の特典」という押し。これは政治家の「公約」と当選後のふるまいの関係に似ているかな。

 私の書くような野暮や言い方は平田はしない。平田は、さらりと「状況」を描いて見せる。

やっと退散して
空地のことろで車に乗るのを見ていると
車の屋根に
長い梯子が積まれてあって
その梯子が意味もなくピカピカと輝いているのが見えた

 「ピカピカ」。
 すべてのうさんくさいものは「ピカピカ」している。(「スキーム」と同じだね。)真新しい。ほんとうに無料で屋根を診断するというようなことをしつづけているのなら、梯子は「ピカピカ」であるはずがない。「ことば」は嘘をつくけれど、「ことば」を話さない「モノ」は嘘をつかない。
 「一銭もいただかない」「特典」「ピカピカ」。
 「ピカピカ」は嘘だよ、と平田のことばは「日常」で踏ん張っている。この踏ん張りはいいなあ。



 坂多瑩子「母」。認知症の母とのやりとりを描いている。施設に入っているのだが、毎日帰って来て(あるいは、この「帰ってくる」は坂多の「思い出」かもしれないが)、ちょっと困ることをする。

あまり毎日帰ってくるので
おんぶして夜の道を歩いた
たしかに軽い
とりよりはかるいものよ
明るい声でこたえて
あしたももどってくるから
あしたの夢のなかでそう云った

 「としよりはかるいものよ」が泣かせる。啄木の歌を思い出してしまう。そして、母は母で、そういうものを思い出すに違いないと知っていて「としよりはかるいものよ」という。この、なんといえばいいのだろうか、共通の「知識」(啄木の歌)を、「知識」ではなく「知恵」にしてしまっている感じがいい。(肉体にしみこんでしまって、共有されているものを、わたしは「知恵」と呼ぶのだが……。)
 私は坂多を知らないし、もちろん坂多の母はまったく知らない。それでも、この「知恵」のことばに触れた瞬間、ぐい、と目の前に「母」が浮かんでくる。

 平田の詩のことばにもどっていえば、「一銭もいただかない」は、この「としよりはかるいものよ」に共通するものを持っている。「一銭もいただかない」には、私たちの父や母、祖父母たちの「暮らし」の「知恵」のようなものが存在していて、それがひととひととの距離をすーっと縮める。
 他方、「特典」とか「スキーム」は、知らないこと(知識として存在しないこと)、「無知」へつけこむ形でひととひととの距離を縮める。一気に押す。
 この一気に押してくる力に対抗するためには、「ピカピカ」のようなことばが必要だ。
 「としよりはかるいものよ」ということばには対抗する必要がない。体の奥で、誰にも見えない涙を流すだけでいい。誰にも見えないからこそ、誰にでも見える。涙は「ピカピカ」していない。せめて「あかるく」、隠す。夢の中であっても。



詩集 恩師からの手紙
平田 好輝
エイト社

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スティーブン・スピルバーグ監督「インディー・ジョーンズ4クリスタル・スカルの王国」

2008-06-24 08:27:36 | 映画
監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ハリソン・フォード、ケイト・ブランシェット、ジョン・ハート

 映画が始まってすぐ、つまりファーストシーン直後、10秒も、この映画は持ちこたえていない。「あ、だめだ」と直感的に体が反応してしまった。つまらない。
 問題のファーストシーン。「未知との遭遇」の岩山を思わせるオブジェ。その頂上がゆっくり崩れる。すると、そこから鼠(?)が顔を出す。そして、すぐに引っ込む。タイヤの大写し。車が暴走してきた。「激突」みたいである。だが、スペクタクルのファーストシーンにしては鼠が小さすぎて、だめ。大きい、と思っていたものが小さいではなく、小さいと思っていたものが大きい時にひとは感嘆する。たとえば「2001年宇宙の旅」の放り投げた骨がくるくるまわって宇宙ステーションになる。その瞬間に、ひとはびっくりする。声が出なくなる。逆の場合は、笑いが込み上げる。たとえば「ポルターガイスト」。猛烈な車レースと思っていたら、こどもたちのラジコンカーが大人の自転車を追いかけてからかっている。小から大へと、大から小へでは、印象がまったく違う。
 しょっぱなに度肝を抜いて、そのまま猛スピードで駆けて行かないと、もう映像について行く気がしなくなる。だいたい「岩山」が「未知との遭遇」を連想させ、タイヤが「激突」を思い起こさせるようでは、それから先のことは見なくてもわかる。その「未知との遭遇」(あるいは、それ以後のすべてのスピルバーグの宇宙もの)と「激突」の自己模倣も、結局、前の作品を超えることはない。
 自己模倣はクライマックスにもある。クリスタルの頭蓋骨が宇宙人のもとにもどる。宇宙人の超越した頭脳--それに向き合ったときのめまい。感動。「未知との遭遇」の「ディレクターズ・カット版」の宇宙船の内部のようではないか。宇宙人をクリスタルにしてしまうこと自体が、もう、繰り返されすぎた自己模倣で、新鮮さがまったくない。
 自己模倣だけならいいが、さらに悪いことには、どのシーンを見ても他の映画がちらつくことである。軍隊アリは「ハムナプトラ」の黒い甲虫集団を想像させる。森の中のカーチョイスは「スターウォーズ」を連想させる。どちらもオリジナルの方が迫力、スピード感がある。砂がこぼれて、巨大な石の建造物が動くのは、正確なタイトルは忘れたが「ピラミッド」を思い起こさせる。(最後に、砂がこぼれ、ピラミッドが閉じる、という美しいシーンがある。)
 スピルバーグは、いったい、どうしてしまったのだろうか。
 醜悪なのは、冒頭のクライマックスの原子爆弾である。「鉛」でできた冷蔵庫で助かる? シャワーで洗浄すれば放射能を除去できる? シリアスな映画ではなく、ジェットコースター・ムービーだとしても、これはあまりにもひどい。
 前作にはインディー・ジョーンズの父親がでてきたが、それから十数年、今度は息子が出てくるというのも、実にくだらない。冒険というのは常に日常から逸脱していくことである。家族はそういう逸脱を封じ込める力である。最後は、遅い遅い結婚式でしめくくられるのだが、なんというくだらなさ。冒険家が「家族」に帰還して、すべてが終わる。冒険とは、「日常」へ帰還するための巨大な迂回路にすぎないのか。映画である。そんなところに帰還せず、ひたすら日常から逸脱し、いま、ここには絶対にありえないものを映像で驚かせなくて、いったい何になるのだろう。

 今書いたようなこと以上に問題なのは、映像にスピード感がなくなったことかもしれない。たとえ自己模倣であっても、あるいは他の作品のコピーであっても、映像にスピードがあればまだいいのだが、どのシーンももったりとしている。重厚というのではない。切れがないのである。(こういうことは文字では説明しにくい。説明の仕方があるのかもしれないが、私は知らない。)ひとつひとつのシーンが長いだけではなく、ほんとうに「遅い」。映画が舞台としている時代の車のスピードが遅い(今と比較して)から遅くていいのだ、という見方もあるだろうが、映画なのだから(作り物なのだから)、そういう「感覚」(スピード感覚)は嘘であってかまわないのだ。20キロしか出ない車でも、ジャングルを150キロで走ってかまわない。150キロの印象がないとおもしろくない。映画で重要なのは「事実」ではなく、印象なのだ。感覚に訴えてくる力なのだ。

 スピルバーグの映画は見たくなくなる--そういう印象を残す、今年最大の「駄作」である。


*

近年のスピルバーグ映画では、見るなら、やはり、これ。
女テロリストに復讐する殺しのシーンは絶品。

ミュンヘン スペシャル・エディション<2枚組>

角川エンタテインメント

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古い時代のお勧めは、

カラーパープル

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ウーピー・ゴールドバーグも若くて新鮮(?)。
色彩がとてもきれいだ。
アカデミー賞の作品賞、監督賞を逃したのが信じられない。
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中尾太一「[東京涙歌]」

2008-06-23 11:56:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 中尾太一「[東京涙歌]」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 中尾太一の詩については、感想がとても書きにくい。多くのひとがすでに書いている。その批評を私はていねいに読んでいるわけではない。すでに書かれていることがらと重複するかもしれない。また、まったく反対の部分もあるかもしれない。そうした「重複」(コピー)、「反論」に対する準備が私にはまったくない。(準備するつもりもないのだけれど。)
 06月号の作品では「(東京なみだブタ)」ということばをタイトル(?)にもつ部分にひかれた。ことばのスピードにひかれた。

サナエ
盾になる景色を見ている
国道29号線、戸倉あたりでは過ぎていくトラックを見送り、殺意よりも悲しく勃起する下部を、パーキングエリアに捧げた

 「殺意よりも悲しく勃起する」。この抒情たっぷりのことば、センチメンタルなことばを長い長い1行に隠すことによって、逆に見せつけるときの、ことばのスピードが魅力だ。センチメンタルの隠し方と、隠すことで見せるそのことばのスピードが美しい。
 隠す-見せる。その対立したベクトルが1行を凝縮させ、結晶させる。その結果、長い長い1行が、書き出しの「サナエ」ということばと正確に対峙する。

誘蛾灯のように割れている服の、下
そのやわらかさを賭して
「僕の生まれたところに連れて行くが、ここに残る数行がそれを責める」、すでに雪が責めているんだが

 60年代、70年代なら、たぶん中尾が書いている長い1行を目指して詩は動いた。そして、その1行は複数の行に改行され、ことばをもっと「独立」したものとして動かしただろうと思う。
 「数行」「責める」「雪」、そして強調するための「すでに」。
 谷川雁なら、きっとこの1行とそのまわりの数行を華麗に因数分解し20行の1篇に仕上げただろうという感じがする。
 だが、中尾は、いわば1篇の詩を1行に封印することで、センチメンタルを超越しようとする。読者が(たとえば、私が)センチメンタルにつまずくならつまずけばいい、センチメンタルだけが詩ではない、とことばをセンチメンタルから脱出させるように動かしていく。その拒絶の仕方、(隠し方、と私は書いてきたが、拒絶の仕方といった方がいいのかもしれない、と今、思う)、そこに、ことばにかけるエネルギーを感じる。

 その一方で、

最後に顔を見た交差点の陸橋が好きだった
あえて、環七の、せめて、高円寺の、蔑視を、みんなに
サナエ、誰が泣いている、何処へ行った

 という、凝縮ではなく、一点から全方向へ散らばっていくような数行がある。
 凝縮と拡散、求心と遠心--そういう矛盾の中にこそ詩は存在するという力学、「ことばの古典的力学」を、きちんと守った上で、その力学に揺さぶりをかけている。

 こうした詩人は、たぶん1篇、1篇を取り上げて感想を書いても、あまり意味はない。1冊の詩集、あるいは数冊の詩集という単位でないと、ほんとうのことばの動く先がとらえにくい。
 (書きはじめてみたものの、やはり中途半端な感想になってしまった。)


数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社

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田島安江「たまねぎ」

2008-06-22 08:11:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 田島安江「たまねぎ」(「侃侃」12、2008年06月30日発行)
 比喩とは何か。わけのわからないものである。いま、ここにないものが「比喩」である。いま、ここにあれば、それは比喩にはならない。簡単に言えば、女の唇を「薔薇」と呼ぶとき、薔薇は女の唇のある場所には存在しない。したがって、比喩は、常にある存在、「事実」や「真実」を否定していることになる。否定しながら、いま、ここではない「場」へと精神を動かしていくのが比喩である。したがって、それは、わけがわからない。わかってはたまるものか、というのが比喩である。
 田島の「たまねぎ」は、そんな感じで始まる。

わたしのなかで
ながい時間をかけて育てたたまねぎは
かんたんには収穫しない
あしたを忘れさせる満月の夜とか
雲間にただよう飛行機の音が聞こえたときとか

 「たまねぎ」は「何」を言い換えたものか、さっぱりわからない。「薔薇」が「女の唇」であるという具合には言い換えることができない。
 さらに「あしたを忘れさせる満月の夜とか/雲間にただよう飛行機の音が聞こえたときとか」に「収穫する」のか「収穫しない」のかもわからない。そして、実は、この詩は、この2行の、収穫するのか、しないのか、どっちかわからないことによって、さらに詩になっていく。詩のことばが動く契機になっている。つまり、収穫するのか、しないのかわからないために、視点は、もう「たまねぎ」に集中するしかなくなる。「あしたを忘れさせる満月の夜」「雲間にただよう飛行機の音が聞こえたとき」というまがりくねったことばの迷路は、そういうものは、さっさと忘れてしまいなさい、という逆説的な描写である。面倒なものを描写し、出現させることで、そんな面倒なものから視線を単純なものに向けさせるための「方便」である。こういうややこしい2行があるために、2連目でわかることばは「たまねぎ」だけにある。「たまねぎ」がわかるのは、わたしたちの日常に「たまねぎ」がありふれているからである。そして、「たまねぎ」がありふれているということが、また、逆説的に「たまねぎ」って何?という問いを浮かび上がらせる。
 わからない。わかりっこない。なんの説明も1連目ではしていなからである。

 読者の意識を、何がなんだかわからない「たまねぎ」に集中させておいて、田島は、2連目以降を書きつなぐ。

新しいたまねぎは芯まで真っ白
時間がたつと少しずつ緑の色を浮かばせる
台所の奥で
誰にも気づかれないところで
たまねぎの芯は緑に侵されていく
緑の色はいつか白を抜き去る

 「たまねぎ」だけを描写する。「たまねぎ」の変化を描写しはじめる。たしかに芯たまねぎは収穫したあともまだ成長する。芯が真っ白なたまねぎから緑の芽が出て、それが巨大に育つ。そういうことを田島は描写している。そのとき、わたしたち読者にみえるのは「実物」の「たまねぎ」である。何かの「比喩」であった「たまねぎ」、何かの「言い換え」としての「たまねぎ」ではなく、ほんもののたまねぎである。
 比喩じゃ、なかったの?
 そんなはずはない。比喩以外の、ほんもののたまねぎを人間は「わたしのなかで/長い時間をかけて育て」ることはできない。

 比喩なのに、もうたまねぎは比喩であることを拒絶している。比喩が比喩であることを拒絶し、比喩であることを超越してほんものとしてあらわれてくる。
 そして、それがさらに変化しつづける。

やがて白は食いつぶされて
見る影もなくなるだろう
たまねぎの白は
精神を崩壊させるだろうか

まろやかな白の楕円が
緑に刺しぬかれる
ひょろりと伸びた緑いろは
もう たまねぎではない

 「たまねぎ」は「たまねぎではない」と定義されて、この詩は終わる。「たまねぎ」は「たまねぎではない」ものにまで変化しつづける。「たまねぎ」はいったい何の比喩なのか、一度も説明されないまま、「たまねぎではない」ものになってしまう。
 この詩は何? 「たまねぎ」ということばで何を書きたかった?
 だれにもわからない。たぶん、田島にも、わからない。そして、わからないからこそ、書いているのである。わからないからこそ、詩、なのである。
 ある日、「収穫」したのではないたまねぎ、たぶん買ってきた「新たまねぎ」から、知らない間に芽が出て、長い葱が育つ。それをただ田島は書いてみたかった。「意味」としてではなく、「無意味」として。「意味」を拒絶する、単なることばの運動として。

 「意味」にはならないものが、世界には存在する。人間のこころのなかには存在する。そういうものを田島は、ここでは、「たまねぎ」をとおして描いている。たまねぎを描写することで、たまねぎの変化を追うことで描いている。常に自己が「意味」になるのを拒んで動いていくものがあるのだ。
 そして、その瞬間には、美しいことばが立ち上がってくる。

緑のいろはいつか白い色を抜き去る

 あ、いいなあ。とても、いいなあ。緑が白を抜き去る。その瞬間を、その持続を、だれも見ることはできない。気がついたら白いたまねぎが緑の芽をだし、緑に染まっていた。その気がつかない瞬間の、その瞬間という時間の長さ。矛盾したものが、とてもきれいに動いている。きれいな軌跡を描いている。このきれいさに、わたしは「ほーっ」と息をもらしてしまう。
 その瞬間には、たぶん「新たまねぎ」のいちばん「たまねぎ」らしい「いのち」が存在しているのだが、その瞬間を生きることでたまねぎはたまねぎではなくなる。そういうことの不思議さが、ただ「きれい」として書かれている。それがいい。
 「比喩」であるはずなのに、「比喩」であることをやめて、「比喩」が突き動かすことばの運動、その運動の美しい1行だけがほうりだされて、そこに存在する。そのときの、ただ「きれい」としかいえない何か。
 とても、いい。





トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房

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石川敬大「三月、あかるい背中--追悼・山本哲也」

2008-06-21 11:47:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川敬大「三月、あかるい背中--追悼・山本哲也」(「侃侃」12、2008年06月30日発行)
 追悼詩。読みながら、山本哲也の作品を思い出した。

線路には
どんな電車も走っていないが

 書き出しの2行。「どんな」の強調のあり方に私は山本を思い出した。山本の詩に、私は「標準語」を感じるのだが、その「標準語」の典型がここにある。「どんな」ということばを何で締めくくるか。「走っていないが」の「ない」。否定形。とても静かにおさまる否定形である。
 否定形によって世界が洗われる。洗浄される。そして、そこから新しい世界が始まる。その世界は現実を描いているふりをしながら精神(感情)を描いている。抒情が始まる。山本は、そういう具合にことばを動かした。
 いったん否定された世界であり、そこから始まる世界で頼れるのはことばだけである。ことばの動きだけである。--ということろから「新古今」や「古今」に似た、ことばの「構築」がはじまる。
 そして、そのきっかけが「どんな」という少しゆるんだ(?)口語であることを忘れてはならない。
 やまもとは「口語」をやわらかく詩の中に持ち込んだ。「口語」によって、山本の「構築」する世界が「文語」(古典文学)ではなく「現代」詩であることを告げようとした。「文語」は「標準語」そのものでできているが、「口語」には肉体がよりつよくからんでくるだけに、「標準語」にみえても「九州弁」だったりするのだが、山本の「口語」は「標準語」であった。少なくとも、私には、山本の書くことばだけが九州で書かれる、数少ない「標準語」にみえた。つまずかずに読むことができた。「つまずく」というのは、え、なんで、このことばとこのことばが結びつくの? という疑問である。そういう疑問が山本のことはには感じたことがない。
 「どんな」は「ない」という否定形とともにつかう。「ぜんぜん」は「ない」という否定形とともにつかう。そういう一定のルール。ルールの持っている安定感。安心感。それがあって、はじめて、否定形後の、ことばで「構築」される世界の「構築」運動そのものが信頼できる。

始発といい執着という
附近くにはどんな駅舎もないけれど
はじまりとおわりはどこかに、確かにあって
零へと向かうカウントが刻まれている
きのうのむこうからつづく
夢のなかには
あかるい踏切があり
こっちとむこうを区切る
ドアも把手もないガラスの壁が天まですくっと伸びていた

 「確かにあって」「あかるい踏切」。この「確かに」と「あかるい」にも山本を感じた。
 「確かに」は山本が山本のことばをはげますためにつかっている。具体的な例をあげることができないけれど、山本なら、そんな具合につかう。その呼吸が、石川のこの作品の行にも存在する。自分をはげまして、現実とはすこしずれた精神風景(感情風景)へ入って行く。そういう世界へ読者を誘い込む。「確かに」ということばはあってもなくても、その指し示す世界に変化はないが、「確かに」によって「感情」というか「意志」というか「精神」というか、そういうものが一歩踏み出す。そうするために「確かに」という。それは繰り返しになるが、自分自身を(自分自身のことばを運動を)はげますための、ひとりだけの「口語」、掛け声のようなものなのである。掛け声を、「よいしょ」というような声ではなく「確かに」にということばで静かにひそませる。それが山本であった。
 「あかるい」は、そのひらがな表記に山本を感じた。「明るい踏切」ではなく「あかるい踏切」。「あかるい」と口が、喉が、肉体が動くときに「口語」という感覚が甦る。口語の感覚が鮮やかになる。
 「あかるい踏切」。そのひらがなと漢字の組み合わせ。その瞬間に動く肉体(口語)と意識(精神)の瞬間的な交錯。この瞬間的な感覚--重くならず、軽くならず、という感覚が山本の、そして「標準語」の感覚なのである。

 *

 私の書いていることは、たぶんに感覚的すぎて、この文章を読んでいるひとにはわからないかもしれない。特に九州のひとにはわからないかもしれない。私は九州の生まれではない。そして九州へきて一番驚いたのが、そこで書かれていることばが私の知らないことばであったということだ。私のことばが「標準語」であるというわけではないが、ともかく読めども読めども、読めない。読み進めることができない。つまずきつづける。山本のことばだけがすーっと、肉体へも精神へも入ってきた。ほかのひとの書くことばは、九州の甘い甘い味付け(食事)と同じように、肉体が拒絶して入って来なかった。
 ただし、今は、入ってくる。甘い食事を、これしかない、と覚悟して食べたときのように、いつか、どこかで覚悟して読みはじめたのだと思う。
 入ってくる、とはいうものの、やはりどこかで拒絶してしまう部分もある。
 たとえば、最初に引用した2行を含む1連目は、次のようになっていた。

線路には
どんな電車も走っていないが
そよ風よりも秘めやかにひそやかに
カニの気配が
そここにあふれ
胸にするどく触れてきた
サフランの香りも漂っていた

 「そよ風」「秘めやかに」「ひそやかに」のことばの過剰な繰り返しの気持ち悪さ。「するどく」が「触れてきた」を強調するときの、何かの欠如。「過剰」と「欠如」のあり方が、私には「標準語」ではないと感じさせる。肉体が、つまり、口が、喉が、声帯が、そういうことばのつながりに対して拒絶反応を起こしてしまう。
 「そここにあふれ」の音のつながりも、とてもつらい。

 石川には申し訳ないが、石川の詩のことばは、私が山本の詩から感じる魅力とは別の方向へ動いていっていて、それは私には無縁のものだという印象が最後に残った。ひとそれぞれ受けとり方が違う。それが詩だ。だから、違っていて当然だし、それでいいのだろうけれど。

一篇の詩を書いてしまうと
山本 哲也
思潮社

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みえのふみあき「小道にて」

2008-06-20 00:49:04 | 詩(雑誌・同人誌)
 みえのふみあき「小道にて」(「乾河」52、2008年06月01日発行)
 誰の作品を読んでも、わからないところがある。みえのの作品にもわからない部分がある。そして、私には、そのわからない部分が魅力である。
 「小道にて Occurrence15」。その前半。

小道は川にそって曲がっている
川は小川の曲がり角を絶えず侵食し
思いあまって小道にあふれだそうとする
ひとすじの時をうみだす川とちがって
小道は空白の天空にしずかに懸かり
編目のように展延して
行き止りとなることはない

 小道と川が対話のように描写されている。対話のように存在するのだろうけれど、対話しない部分もある。そしてそれは対話しない、無関係であるということで、また別の対話をしていると言えるのかもしれない。

ひとすじの時をうみだす川とちがって
小道は空白の天空にしずかに懸かり

 時間と空間。川と小道の対話が、突然時間と空間の対話に変わる。川と小道は接するのをやめて、たがいに離れてゆく。しかし、ほんとうは離れるふりをして、より接近しているのかもしれない。接することでは接し得ないもの--つまり、内部へとたがいに侵入し、そこで対話をしはじめたら、それが突然時間と空間という哲学に炸裂したのだ。この瞬間の、

小道は空白の天空にしずかに懸かり

が、私には、よくわからない。わからないけれど、とても好きだ。錯覚のように、私は「天の川」を思い浮かべた。道が天に昇って天の川になる。そんなことは、みえのは書いてはいないのだけれど、私はみえののことばをかってにねじ曲げて、小道が天の川になって天を流れる音を聞くのである。そして、かってに、いいなあ、この透明な感じは、と思うのだ。
 夜の野。川。小道。夜の野は平面であることをやめて、突然、宇宙の中に立体的にひろがる。時間は、宇宙ではどんなふうに存在するのだろう。地上では川が流れる--その流れるという運動とともに時は存在するけれど、宇宙では? 天の川が流れて時をうみだす? 時を刻む? その「時」は遠い星をもとめて「編目」のように広がっていく。
 野を見ているのか、それとも夜を見ているのか。夜という「夢」を見ているのか。
 なにもわからなくなる。
 ただ「小道は空白の天空にしずかに懸かり」ということばだけが、音楽として耳に残る。この瞬間、私は至福を感じる。
 みえのは作品を誤読している、というかもしれない。
 そういう批判は、私は、まったく気にならない。詩なのだから。詩は書いたひとのものであるより、読んだひとのものなのだから。そのことばを必要としているもののものなのだから。

 「小道にて Occurrence16」も美しい。全行引用する。

行きかう人がいなくても
小道はまだつないでいるのだ
星座の星々をつなぐ見えない線のように
愛憎と抗争 昼と夜
桃が咲いた
朝 籠の中で椋鳥が死んでいた

ぼくはただ春の雨に溶けていたいだけだ

 「つなぐ」。ひとはなんでも「つなぐ」。つながらないはずのものさえつなぐ。小道と川をつないで、そこから時間と空間(宇宙)を導き出す。遠く離れた星をつないで星座をつくり、存在しない熊や白鳥を天空に呼び出す。
 「つなぐ」ことは呼び出すことだ。
 だが、「ぼく」は呼び出されたくはない。「ここ」にいたい。「ここ」で春のあめに溶けていたい。
 このときの「とける」は「つなぐ」とはまったく別のものである。対極にある。
 「つなぐ」は遠く離れたものを「つなぐ」。「つなぐ」ことで一体になる。
 「とける」は近くにあるものと一体になる。溶けて、そこから広がるにしても、それは「遠い」距離へとは広がらない。もし広がるとしても、それはその広がりを凝縮させるためのものである。もし、「ぼく」が春の雨に溶けて、「わく」という形をなくし、野へと広がり、さらに山を超え、空を超えて、宇宙へと広がってゆくとしても、それは宇宙へ広がっていくという拡大が目的ではない。宇宙を「ぼく」へ凝縮させるためのものである。空を、山を、野を、凝縮し、その呼吸を春の雨のように静かに呼吸するために、呼吸するための一点に凝縮させるために広がっていく。

 「つなぐ」と「とける」は「遠心・求心」である。


 




春2004―詩集
みえの ふみあき
鉱脈社

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岡田利規「三月の5日間」

2008-06-19 12:35:01 | その他(音楽、小説etc)
 岡田利規「三月の5日間」(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』新潮社、2007年02月25日発行)
 第2回大江健三郎賞受賞作。偶然であった男女が渋谷のラブホテルで4泊5日をすごす。その間に、イラク空爆が始まる。個人的な行為と世界のできごととが乖離している。そのことを感じながら、どうしていいか何も見いだせないまま、ただ、いま、感じること、考えていることを、正直にたどろうとしている。いわば、ことばがどこまで正直になれるかを試している。ことばの冒険である。小説とは(あるいは文学とはと言い換えた方が正確かもしれないが)ことばの冒険である--ということを感じさせてくれる作品である。

 見終わったとき、気が付くと左半身が痺れたようになっていた。もちろん今はもうその痺れはひいている。でもまだそれは皮膚の一枚内側の場所に待機していて、取り出してこようと思えばいつでも取り出せてすぐに生々しくなるような気がする。

 その文体の特徴は、自己の感覚を「存在」ととらえるところにある。
 「取り出してこようと思えばいつでも取り出せて」が象徴的である。感覚は「取り出せる」「もの」なのである。感覚というものは常に自己そのものを侵略し、自己を自己ではなくさせるようなものなのだが、岡田は、それを「もの」として主人公に感じさせている。
 同時に、その「もの」の存在のあり方を、対象として突き放しながらも、肉体と地続きの感じで描いている。

 それは皮膚の一枚内側の場所に待機していて

 この「もの」として感覚をみつめながら、他方でその「もの」が自己とはいつでも地続きであるという世界のとらえ方(文体、思想)が、この作品の特徴だ。

 この感覚を「もの」としてとらえる視点、感覚の独立性というか、相互侵略による融合の欠如の感覚は、「乖離」ということばを思い起こさせる。あ、この男、自分の感覚すら、自分のなかで「乖離」している、と思ってしまう。それは「客観化」を通り越している。「客観化」するまえに、「もの」として孤立していて、それを自己が操作するという形で、そこに「連続性」が生まれてくるのである。こういう感覚が、今の若い世代の共通のものなのかどうかはわからないが、岡田は、そういう若者を描こうとしている。

 こういう文体(思想)をもった若者が他者と出会う。その他者もまた同じように感覚をものとしてとらえ、同時に肉体と地つづきであると感じている。その二人が出会ってセックスをする。ただセックスをしているだけなのだが、肉体と肉体が接触し、地続きになることで、感覚が「乖離」したまま、奇妙にいりまじる。融合するのではなく、混合する。
 そこでは感覚を統合しようという意識はない。ふれあった感覚を「愛」に結晶化させようという意識がない。(この小説は、いわゆる恋愛の成就を目指していない。)他人の感覚はあくまで他人の感覚である。どんなに語り合っても他人のままである。

 この感覚を、岡田は主人公を男から女にかえることで、次のように書いている。(この小説では、前半は主として男の視点、後半は主として女の視点から作品世界が語られる。)

女のほうは別れたあと、しかしすぐ電車にはのらなかった。このまま電車に乗ってしまって渋谷を離れたら、今感じているこの渋谷--知っているのに知らない街--みたいなモードが自分の中から消えるだろうし、そうしたらもう二度と、これは戻ってこないだろうと、正しく予感していたので、女はもう少しこれをひきずっていたかったから、まだ離れたくなかった。

 この文章のなかの「知っているのに知らない」という感覚。女は男とセックスをした。それは相手を知ることでもある。たしかに、知った。しかし、ほんとうは「知らない」といってもかまわない。「知った」けれど、これからは同じ時間を生きていくわけではないのだから、無関係である。無関係なものは「知らない」としか言いようがない。「知っているのに知らない」とは「過去」は「知っている」が未来は「知らない」ということでもある。
 そして、それが「自分の中から消えるだろう」という予感。
 「自分の中」というのは「知っているのに知らない」が「自分」と地つづきであるということだ。過去は自分と地続きである。しかし、それは未来とは地続きにはならない。「消える」とは「過去」が「未来」から存在しなくなることである。それはある日、何かによって「取り出」されてしまうのか。女には、それはわからない。わからないまま、ただ「知っているのに知らない」という「時間」を抱きしめている。「現在」を抱きしめる。

 「知っているのに知らない」。

 この自覚は、女を変えてしまう。自分の中にある「乖離」をはっきり自覚する。(たぶん、最初に引用した文の男の自覚のなかには「乖離」という意識は明確ではない。)その部分が、とても美しい。

坂の路面は朝の光を受けて凍っているみたいに見えた。朝のごみの匂いがした。両脇に電信柱が立っていた。女から見て道の左側の、電信柱のひとつの、脇に、大きなポリバケツがおいてあり、そのバケツの隣には、大きな黒い犬がいた。犬は前屈みになっいて、バケツからこぼれたごみが地面に落ちているのをクンクンあさっているように見えた。でも、よく見るとそうではなかった。女は犬と人間を見間違えていた。犬の頭部と思っていた部位は人間の尻、それも剥き出しになった尻だった。女はホームレスが糞をしているのを見ていたのだった。それが分かって女が吐き気を催すのと、女が、というより女の喉が「あ」と声を上げるのとは、ほとんど同時だった。その声に反応したホームレスが、かがんだままでこっちを向いた。それは鋭く見るというより、風の音を聴くような感じの柔らかさだった。

 それから女はトイレを探して駈けだす。

文化村の中のトイレは知っていた。でもそれがあく時間よりも今はずっと早い朝だった。他のトイレを知らなかったので、どこか開いている店みたいなのがないか探したが、見つからなかった。どうせ見つかりっこないと思いながら捜していたから、もうだめだった。溢れてきて道に吐き散らした。吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒があったことがおぞましかったからだ。そのことがわかりながら吐いていて、吐き終わると、落ち着くまで長い時間が要った。

 引用しながら、引用がやめられなくなった。
 女は「世界」を見たのではなく、「自分」を見たのである。それまでは自分の「感覚」を「もの」として見てはいたが、「自分」を見てはいなかった。自分の感覚を「もの」のように「知っていた」。ちょうど文化村のトイレのように存在を知っていた。しかし、「知らない」感覚があるということを「知らなかった」。別の開いている店とトイレを「知らなかった」ように、どこに何があるか「知らなかった」。しかし、知らなくても存在するものはあるのだ。見えなくても存在するものはあるのだ。扉を閉ざした店、その奥にあるトイレのように。そんなものが女にもあったのだ。

人間と動物を見間違えていた数秒があったことがおぞましかった

 そんな感覚があるとは女は「知らなかった」。人間を動物と見間違えるような感覚が女の中にあるとは知らなかった。それは、どこにか「融合」して隠れていた。それが分離し、ふいに、混合物のように独立して表に出てきた。
 この変化が、そして、その変化にうろたえる女と渋谷の街が美しい。







わたしたちに許された特別な時間の終わり
岡田 利規
新潮社

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デヴィッド・クローネンバーグ監督「イースタン・プロミス」

2008-06-18 12:39:43 | 映画
監督 デヴィッド・クローネンバーグ 出演 ヴィゴ・モーテンセン、ナオミ・ワッツ、ヴァンサン・カッセル

 ヴィゴ・モーテンセンは不思議な役者である。目に透明感があり、存在も控えめである。ぐい、と押し出てくるのが役者の魅力だが、ヴィゴ・モーテンセンは押し出てくるのではなく、一歩手前で立ち止まっている。こちらから近づいて行かないかぎり接触のしようのない役者である。いわば、待っている役者なのである。
 その役者が全身にタトゥーをしている。タトゥーは自己顕示である。存在は控えめなのに、その肌だけが自己顕示する。それは、肌以外は人には見せない、という意志の表明であるように感じられる。実際、ヴィゴ・モーテンセンは、こころを見せない役どころを演じている。ダークなアルマーニのスーツに身を包み(非常に細身に見える、が、実際は違う)、表情も殺して、マフィアの下っぱ、運転手兼ボスの息子の子守(?)をやっている。タトゥーは、感情を隠す「よろい」でもあるのだ。タトゥーが犯罪者の「経歴」を証明するものであれば、なおさら「こころ」が見えなくなる。ひとは「こころ」ではなく、犯罪の履歴と、それを誇示して生きる「悪」しか見えない。
 タトゥーは、しかし、「感情」を他者からは守っても、肉体そのものを守りはしない。タトゥーを見せれば見せるほど、肉体は無防備になっていく。ここにヴィゴ・モーテンセンが生きていること、その存在の「矛盾」が噴出する。映画のクライマックスは、その「矛盾」が華麗な花になって舞い散る。
 サウナ風呂でヴィゴ・モーテンセンはマフィアに襲われる。2人組である。ナイフを持っている。マフィアの2人は、タトゥーが無防備なものであることを体験的に知っている。タトゥーが見えれば見えるほど、その相手は襲いやすいのである。2人組に襲われたとき、ヴィゴ・モーテンセンが頼ることのできるのは、彼自身の「肌」ではなく、肉体(肌の内部に存在する、筋肉、運動能力)だけである。黒いスーツに隠されていたものが、一気に解放される。発散される。2人組のナイフはヴィゴ・モーテンセンの肌を切る。血が噴き出る。血がタトゥーを消してゆく。それは、ヴィゴ・モーテンセンがタトゥーという「他人向けの肌」を脱いで、肉体そのものにかえる一瞬であり、彼自身にかえる一瞬でもある。内部からあふれてくる血でタトゥーを消しながら、ヴィゴ・モーテンセンは彼自身になる。マフィアと戦う人間になる。この一瞬、マフィアと直接のために、ヴィゴ・モーテンセンはタトゥーをしていたのである。
 タトゥーはマフィアに接近し、その内部へ潜入するための「手形」であったことがこの瞬間、わかる。内部に潜入してしまえば「手形」はいらない。内部に潜入し、そこで戦うとき、ヴィゴ・モーテンセンはタトゥーが血で消えていくことを承知している。そして、その瞬間のためにこそ、体を鍛え、同時に肉体を隠していたのである。
 隠すとは、その存在を温存することでもある。ある瞬間まで、その存在を知らせずにおく。守り通す。そして必要な瞬間だけ、その力を利用すれば、その効果は非常に大きい。タトゥーを破り、あらわれてくる力、その動きは非常にかっこいい。

 *

 隠すことと現わすこと、透明と不透明--これはタトゥーだけではなく、ほかの形でもこの映画ではつかわれている。ロシア訛りの英語。ロシア訛りは英語を不透明にする。そして同時に、その不透明さが「くっきり」と、つまり「透明なまでに」明瞭に、登場人物がロシア出身であることを物語る。
 どうしようもなく現われてしまう「地」。あるいは「血」。
 それをどう隠し、どう現わしてゆくか。その接点をどこに求めてゆくか。そういう手さぐりの生き方そのものがクローネンバーグのテーマなのだろうと思う。ダークな色彩、思わず身を引きたくなるような手触り--そして、その対極にある透明な何か、ひとを誘い込む何か。そのせめぎ合い。
 映画は基本的に視覚と聴覚の世界だが(この映画では、タトゥーとロシア訛りがそれを象徴している)、クローネンバーグはそのふたつに「触覚」を付け加えている。肌触り、というものを付け加えている。「肌」ざわり、の「肌」。人間の内と外をわけている何か。そこが、透明と不透明の「接点」であることを知っていて、その部分を刺激する。ざわめかせる。そういう映画監督のように思える。
 ヴィゴ・モーテンセンは、そういう「ざわめき」の要求にこたえる演技をしていた。引き込まれてしまう。ナオミ・ワッツも透明感を生かし、ヴィゴ・モーテンセンの透明感と不透明感を、よりいっそう「ざわめかせる」演技をしていた。とてもいい響き合いだった。



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伊達風人「水錘」

2008-06-18 00:13:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 伊達風人「水錘」(「kader0d 」2、2008年05月10日発行)
 ことばがとても美しい。特に、2連目が。

   静寂の頂きのかたわらで
     果てることのない耳殻は
音もなく 自らの輪郭を奏でている
   線という線をひきつれて

 ここには「矛盾」がある。そして、その「矛盾」が美をつくっている。「静寂」と「音もなく」は同義語だが「奏でている」は「矛盾」である。「奏でている」というとき、音は存在する。「静寂」のかたわらに「音」が存在するとき、「静寂」は「静寂」ではいられない。
 しかし、たとえば私たちは知っている。

閑かさや岩にしみいる蝉の声

 この芭蕉の俳句は「閑かさ」と「蝉の声」を同時に存在させている。これは「矛盾」であるが、「矛盾」とは互いを強調する言語表現であって、ほんとうの矛盾ではない。その強調が、さらに「岩にしみいる」によって激烈になっている。「岩」には何も「しみいる」ことはない。その「岩」に「しみいる」のが「閑かさ」を破る「蝉の声」か、あるいは逆に「蝉の声」によって存在が明るみに出た「閑かさ」であるか--これは読者によって受け止め方が違うだろう。どちらをとっても同じであろう。「閑かさ」と「蝉の声」は同等の存在として、互いに、一期一会の出会いをしている。
 この芭蕉の俳句の「音」をめぐる構造が、この作品でも繰り返されている。

 伊達のことばの美しさには「既視感」がある。それは、いま、芭蕉の句を例に引いたが、ことばの動きが「伝統」を踏まえている、という美しさである。「伝統」によって鍛えられた美しさを持っているということである。
 これは現在では貴重なことばの運動だと思う。

 「耳殻」「輪郭」「線」ということばの動きも、とても美しい。無理がない。視覚の動きを誘いつづけることばに、まったく無理がない。
 ここに「現代」があるかと問われたら、少し答えに困るけれど、私はこういうことばの動きが実はとても好きである。安心する。あ、私は保守的な人間だなあ、と思いながらも、やはりこういう配慮の行き届いたことばは美しいなあ、とほっと息がつける思いがする。
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広田修「眼」「3ページ」

2008-06-17 11:33:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 広田修「眼」(「kader0d 」2、2008年05月10日発行)
 広田修は同じ号に「笹野裕子『今年の夏』をめぐって」という論を書いている。そのなかで広田が言及しているのは「主体と客体の入れ替わり」という問題である。私が笹野から感じるのは「主体と客体の入れ替わり」ではなく、「主体と客体の融合」である。ただし、笹野の論については、ここでは触れない。触れないにもかかわらず、ここで取り上げたのは、その「主体と客体の入れ替わり」というテーマが、そのまま「眼」にあてはまるからである。

私は眼を鑑賞する////壁の空いたところに三十万円で購入した生きた眼を植えつけたのだ////まばたきすることによって眼は私から知識を食べていく/そのときの私の軽い疲れも顫動をも眼は知識として食べる//眼はまばたきの強さの微妙な違いを色相としてまぶたの裏に知覚する/まぶたの裏は力の海だからだ///私は眼のまばたきのリズムを楽しむ/音のない楽器だ//私はまばたきの速度には三段階あることに気づいた/速い順に管楽速・弦楽速・打楽速と名づけた

 「眼」は「知識」を食べるというが、その「知識」について広田は具体的に説明していない。ことば、ことばに含まれるものがすべて知識だから、いちいち言及する必要がないということだろう。知識=ことばという関係が成り立つなら(成り立たせないと、この作品は成立しないのだが)、「眼」が食べているのは「私」のことばであり、そのことばは「私は眼を鑑賞する」からすでに始まっている。「まばたきすることによって眼は私から知識を食べていく」というのも「ことば」であり、その「ことば」の全部を「眼」は食べる。ここでは、「眼」が書かれているのか、それとも「私」のことばが書かれているのか、つまり「眼」が食べてしまった「ことば」が書かれているのか、区別がない。区別せずに、広田は「眼」と「私」を入れ換えている。「主体」「客体」の区別はなく、「主体」と「客体」があるという「知識」があるだけである。そして、その、存在には「主体」と「客体」があるという「知識」が、「主体・客体の入れ替え」を可能にしている。また「主体・客体の入れ替えが可能」という「知識」が、主体・客体の融合を妨げている。

 夜の瞳は表面に細かい月の根をはやしている/(略)/眠っている私の眼からも月の根がびっしりと生え出してくる/////

 作品の最後で、「眼」(厳密には、「眼」は「瞳」に変化している)と「私の眼」が同じ状態になる。この同じ状態になることを、広田は「主体・客体の入れ替え」と感じているのかもしれない。笹野なら「主体・客体の融合」として書く部分を広田は、あくまで「入れ替え」として書く。そんなふうに書くことが、たぶん広田にとって「論理的」なのだろう。

 広田の作品のおもしろさも、つまらなさも、この「論理的」という「枠」のなかにある。あるいは、あくまで「主体」「客体」の区別を維持しようとするところにある。
 人間のほんとうのおもしろさは「主体」「客体」の区別がつかなくなり、錯覚のなかで(錯覚を通路にして)、私が私以外の人間になってしまう。ときには動物や草花、無機質な鉱物にも、風や水にもなってしまう。その瞬間に、詩は輝くのだが、広田はそういうものを目指していない。
 「論理」にこだわるのである。
 「論理」のはてに何があるか。

私は意味のだらしなさにうんざりして部屋を出る

 魅力的な1行である。美しい、とても美しいことばである。論理の果てには「意味のだらしなさ」が残るのである。それ以外は残らない。
 ただ、このことを広田は実感して書いているのが、誰かのことばに触発されて実感のないままになぞっているのか、よくわからない。
 ほんとうに「意味のだらしなさ」を感じているのだとしたら、詩の最後の「眠っている私の眼からも月の根がびっしり生え出してくる」と、「意味」を重ねることで「眼」と「私」を「おなじもの」に「なる」という「だらしなさ」を具体的に表現しているのならいいのだけれど。よくわからない。「意味のだらしなさ」の実感というよりは、逆に、「意味の生成する力」として書いているように感じられる。

 笹野は「哲学」をはじめないところから「ことば」をはじめ、「哲学」になっている。広田は「哲学」をはじめるところから「ことば」をはじめ、「哲学」に拒否され、「論理」にぶら下がっている。「意味」にぶら下がっている--私には、そんなふうに感じられる。
 「意味のだらしなさ」に対してどう向き合うのか、まだ結論を出していないように思える。その結論を詩のなかで探しはじめるとおもしろいと思うけれど、広田は違う場所で探しているようにも感じられる。「主体」「客体」の厳密な区別が広田を支配しているが、たぶん同じような構造、「哲学」と「詩」の区別がどこかにあって、そのふたつの「入れ替わり」を広田は楽しんでいるように感じられる。



 広田は「3ページ」という作品も書いている。書いているといっても、空白が3ページ用意されているだけで、ことば、文字は存在しない。
 これは単純に、広田が「作者」であることをやめ、「読者」との「入れ替わり」を要求しているという「構造」を提出して見せたものである。「空白」。それを見ながら、どんなことばが読者の中に沸き上がるか。そのわきあがったことばそのものが「詩」である。それを広田は「読み」、「読んだまま」を提出している。「詩」はことばのなかにあるのではなく、ことばを読んだものの中にあり、「空白」にさそわれて動きはじめることばすべてが「詩」である。
 広田がやろうとしていることはよくわかるが、それではほんとうに「意味のだらしなさ」しか、そこには存在しない。

 もしかすると、広田は「意味はだらしない」ということを、世間のひとはみんな知っているということを知らないのかもしれない、と思った。


コメント (1)
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