詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本純子「朝」「シャボン玉」

2011-11-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「朝」「シャボン玉」(「息のダンス」10、2011年12月01日発行)

 山本純子「朝」は、読んでもらえば、それだけで紹介したことになる作品である。私があれこれ感想を書くことはないかもしれない。

おはよう、
って言ったら
おはよう、
って言われて

また会ったから
おはよう、
って言ったら
おはよう、
って言われて

あら、
さっきもたしか
言ったわね
と思いあたると
今のは明日のぶんですよ
と、するっと
わきを抜けられて

わたしも
明日の分を言ったのかな

明日も会う人でよかったわ

明日も会う人ばかりで
よかったわ


一日がはじまるのである

 4連目がとてもいい。
 1-3連は、誰もが経験したことがあることかもしれない。朝のあいさつだから、無意識的に「おはよう」と言う。言ったか、言わなかったか、なんていちいち考えない。めんどうくさいからね。でも、言ってしまったあとで、あ、さっきもあいさつしたな、と思う。
 そのあと。
 「明日も会う人でよかったわ」から「明日も会う人ばかりで/よかったわ」までの呼吸のつながりぐあいがいい。
 「と」
 これは、「明日も会う人でよかったわ」の直前の「と」からはじまっている。
 いや。
 この「と」は3連目にも登場している。3連目では「と思いあたると」「と、するっと」。ふたつの、行頭の「と」はよく見ると(よく読むと)、呼吸がちょっと違う。
 「と思いあたると」はとても早い。「呼吸」がない。「息継ぎ」がない。行末の「と」と呼応している。ほんとうは行頭にこないことば。ことばのあとについでに(?)、ついてくる「呼吸」をふくまないことばだ。
 「と、するっと」は行頭にくることで、息が深くなる。意識が飛躍する。飛躍の呼吸である。
 この「飛躍」を引き継いで、4連目がある。
 「と」があらわれるたびに、少しずつ「飛躍」する。この「飛躍」は「飛躍」といっても、「日常」と地続きである。「きょう」と「明日」がつながっている感じで、つながっている。
 「きょう」と「明日」のあいだ、つながっている場所(?)なんて、わからないでしょ? でも、「きょう」があり、「明日」がある。その区別--「区別」があるから、「飛躍」もある、という程度のことである。
 で、とっても軽い「飛躍」の「と」なのだけれど、

明日も会う人ばかりで
よかったわ


 さて、ここから、つぎにどこに飛んでいいのか、わからない。
 さて、困ったねえ。
 山本は、どうしたか。
 飛ばない。
 1行開けて「一日がはじまるのである」と「きょう」へもどってくる。
 これが、じつに、気持ちがいい。
 「飛躍」がかっこいい、気持ちがいいからといって「飛躍」しつづける必要はない。無理をする必要はない。「飛躍」は「呼吸」なのだ。吸ったら、吐く。吸いつづける(吐きつづける)という無理はしない。

 「シャボン玉」は人と会ったとき「はじめまして」というあいさつをかわすが、その「はじめまして」という誰もが知っていることばの「言い方」をていねいに教えてくれる詩である。

はじめて
シャボン玉を吹いたとき
たぶん
吹き方が
つよかった

すぐに
自分を小出しにする
吹き方を
身につけた

それで
いまでも
シャボン玉を吹くように
はじめまして
と、言う

 そうか、その「呼吸」、その「息の強さ(おだやかさ?)」が重要なのか。
 山本は、いつも「声」のなかにある「呼吸」の加減を教えてくれる。






豊穣の女神の息子―詩集
山本 純子
花神社
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粒来哲蔵『蛾を吐く』再読

2011-11-29 23:59:59 | 現代詩講座
「現代詩講座・粒来哲蔵『蛾を吐く』」(2011年11月28日)

 粒来哲蔵『蛾を吐く』(思潮社、2011年10月01日発行)を読みます。私が今年いちばん感銘を受けた詩集です。
 まず、読んでみましょう。長い作品だけれど、一気に読み通し、そのあと、少しずつ読み直していきたいと思います。

(朗読)

 何が書いてあると思いましたか? そして、それについてどう思いましたか?

「闘病のことが書いてある。喀血だから、肺結核かな?」
「血を蛾という比喩でして、自分の過去のことも書いている。母と女がでてきて、異様な感じがする。何歳のひとなのだろうか。」
谷内「略歴に1928年生まれと書いてあるから83歳かな」
「喀血を、別のことばであらわしたいのかも」

 「蛾」は、どう見ても「血の塊」ですね。食道ガンか胃ガンかわからないけれど、ガンを患っていて、病院で血を吐いた。大変な経験、大変な苦しみだろうと思うけれど、苦しいという印象ではなく、妙に力強い感じがしますね。
 病気だと気弱になるのに、そうなっていない。そこがとても不思議。
 こう言ってしまうと、もうそこで感想は終わってしまうのだけれど、どうして妙に力強い何かを感じるのか--そのことを考えてみたいと思います。「わかっている」と思っていることを再確認してみる。「わかっている」ことをより掘り下げてみる。そういうことをしてみたいと思います。

 この詩は、6段落で構成されている。でも、大雑把にいうと、4つに分けられる。起承転結ということばがあるけれど、その起承転結に分けられると思う。
 起は第1、2段落。病院で血を吐いた。
 承は第3段落。病院から自宅へ帰ってからのことが書いてある。
 転は第4段落。「蛾」以外に吐かれるものが出てくる。「もう一つおれ内から吐き出されるものがある。」
 結は第5、6段落。大吐血のことが書かれている。

 医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い箇所に在る腫物様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。医師には血の塊と見えただろうがおれの吐いたものは一匹の蛾だった。蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落ちた。おれはただそれを見ていた。
 やがて蛾は看護士の白いユニホームの裾に貼り付き、赤黒いものを二筋三筋滴らせて運ばれていった。おれはそれも見ていた。
  (「もがいて」は「足ヘン」に「宛」。感じが表記できないのでひらがなにした。
   腫瘍様の「様」には「よう」とルビがある。これも省略した。
   以下も引用は正確ではない。私のワープロの関係で表記を変えたものがある。)

 このことばの力はいったい何だろうか。
 ことばが「肉体」と緊密につながっている。「肉体」そのものになっている。
 路傍に倒れてうめいているひとをみたら、あ、このひとは腹痛で苦しんでいる、と感じる。「腹痛」のほんとうのありかはわからないが、その痛み、苦しみが肉体のどのあたりまで広がっているかが、わかる。他人の痛み、自分の肉体ではないのに、それがわかってしまう。--それに似ている。
 最初に聞いた感想と重なるのだけれど、もう一度整理してみますね。食道ガンとか、胃ガンということばが同時に思い浮かぶ。でも、ここにはガンということばはない。どうしてガンと思うのだろうか。

質問 なぜ、食道ガンだと思うのだろう。
「腫瘍、ということばが出てくるから」

 「腫瘍」ではなく、粒来は「腫物様」と書いていますね。私も最初「腫瘍」と読み間違えたけれど、よく見ると「腫物」。「「腫物」の「腫」が「腫瘍」の「腫」と同じ文字。それに、食道ということばがあり、また嚥下困難ということばもある。食道にガンがあって、だからものをのみこむのがつらい、むずかしい。--どうしても食道ガンを思いますね。腫瘍」と読み間違えるのは、それだけ「腫瘍」が迫ってくるからですね。
 でも、粒来はガンということばをつかっていない。
 これが、この詩の秘密です。書きたいことを直接書かない。知っていること、わかっていることを、知っていることばで書かない。誰もがつかっていることばで書かない。誰もがつかっていて、誰もに理解されていることばを、私は「流通言語」というのだけれど、粒来はその「流通言語」をつかっていない。
 「流通言語」というのは、この場合、食道ガンになる。食道ガンということばをつかうと、ここに書かれていることはわかりやすくなりますね。めんどうくささがなるなる。理解がはやくなる、めんどうくささがなくなることを、私は「ことばの経済学」とも呼んでいるのだけれど、粒来は、ことばが簡単に通じてしまうことを拒否して、わざと遠回りしている。
 この「わざとする遠回り」が、詩なのだと私は考えています。
 そして、どうやって遠回りするか--その遠回りの仕方に詩人の特徴があらわれてくる。粒来の特徴はどこか、それに少しずつ近づいていきたい。

 少しずつていねいに読んでいくと、いろいろなことがわかります。
 「医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い箇所に在る腫物様の存在を暗示していた。」という書き出しの後半。「その目は」というのは医師の目ですね。その目が、腫れ物のようなものがあると暗示していた。
 何気ないように書かれているけれど、とってもおもしろい。
 医師は食道ガンということばを言っていない。「嚥下困難」と言っているだけですね。でも目が、暗示していた。
 これは、どういうことだと思いますか? どんなことが想像できますか?

 私は、「おれ」、つまり粒来が「嚥下困難」という、まあ、ふつうはつかわないことばを聞いて、何かを感じたのだと思います。医師そのものが、遠回りして何かを告げようとしている。直接言わない。これは病気が重いときですね。風邪くらいだと、「風邪ですね」という。でも、ガンだといまはそうでもないのかなあ、あんまり簡単には言わない。遠回しというか、慎重に言う。いのちにかかわるという感じが強いからかな?
 で、その「遠回し」に言ったことばを、粒来はどうやって受け止めたか。どうやって、「真実」を探り当てたか。
 何気ないことばで書いているのだけれど、おもしろいですよ。

質問 「目の奥は……暗示していた」。これは、別の表現で言いなおすとどうなりますか? 
「目が語る」
質問 そこから何か慣用句を思い出しませんか?
「目は口ほどにものを言う」

 私も、それを思い出しました。目は、語る。ことばをつかわずに何かを語る。そのことば(?)を私たちはどうやって聞き取るか。耳ではないですね。目を見て感じる。目で「意味」を感じる。ことばを感じる。
 これが、この詩では最初の大事な部分です。
 粒来は、ことばを「聞いた」のではなく、「見た」んです。
 「嚥下困難」ということばと医師が告げた。それを粒来は、ここには書いてないけれど「聞いた」。「告げる-聞いた」ということばの伝わり方があるけれど、この「目は……暗示していた」は、そういうことばの伝わり方と違って、あくまで「見る」です。
 だから、そのあと「見た」ということばがつづきます。

医師には血の塊と見えただろうが

おれはただそれを見ていた

やがて蛾は……おれはそれも見ていた。

 そして、このときおもしろいことが起きている。
 「見る」と対になっているのは「見えるもの」ですね。「見る」があって、「見えるもの」がある。そして、一般的に、「見えるもの」というのは誰にでも共通している。

質問 (ペットボトルを掲げ)たとえば、私が手に持っている、「これ」は何ですか?
「ペットボトル」
谷内「ほかにありませんか?」
「水」
「入れ物」

 そうですね。ペットボトル、水、入れ物--という誰でも言うと思います。これを「楽器」といったり、「小説」あるいは「詩」と言うひとはいないと思います。
 でも、この詩ではどうですか?
 粒来が吐いたもの。それは何?
 「医師には血の塊」、粒来には「蛾」ですね。といっても、粒来に「血の塊」と見えないことはない。「血の塊」というふうにまったく見えなかったわけではない。血の塊という具合にまったく見えなかったのだとしたら、「医師には血の塊に見えただろうが」という表現は出てこない。粒来にも、実は「血の塊」と「見える」。「見える」けれど、それを「血の塊」と言わない。
 「蛾」と「見る」。
 これは「錯覚」かもしれない。けれど「錯覚」ではなく、あえて自分自身の「意思」(こころ)で、「蛾」として見ようとしているのかもしれない。あとで「意思」ということばが出てきますが、きっと「意思」ですね。
 医者が(意思ということばをつかうと混同しそうなので、医者といいますね)、医者が「嚥下困難」ということばを言うとき、ことばをコントロールしている。どういうべきかを、探りながら言っている。それと同じように、粒来は、ここでは「見えるもの」「見たもの」をあらわすことばを懸命に探して、「血の塊」とは言わずに「蛾」と言っている。

質問 この「蛾」を、「血の塊」を「蛾」と呼ぶような言い方、書き方をふつうはなんといいますか? 最初に感想を語ってもらったとき、そのことばがでてきたけれど……。
「比喩」

 そうですね。「比喩」ですね。「比喩」というのは、そこにあるものを、そこにないことばで言うということ。一種の「嘘」ですね。
 その嘘、比喩というのは、ふつうにつかっていることばだけでは言えない何か、特別な思いをあらわしたいからつかうと思います。
 実際に粒来の吐いたのは「血の塊」だと思う。けれど、粒来は、それを「血の塊」と言いたくなかった。粒来にとっては、それは「血の塊」ではなかった。

 では、粒来は、この「蛾」ということばで、何を言いたかったのだろうか。
 「蛾」は「血の塊」。粒来は食道ガンを病んでおり、病院で血を吐いた。そして、そのことと、それ以後のことを書いている、とこの詩を「解説」してしまうと、もう何も言うことがなくなりますよね。
 「意味」としては、そういう「理解」でいいのだと思うけれど、詩は意味ではなく、もっと別なものだと私は思っています。で、その「意味」ではないものを考えるのが、きょうの講座のテーマです。粒来は、私は食道ガンで、吐血しましたと書かずに「蛾を吐いた」と書く。それはいったいどういうことなのか。そして吐血したということばよりも、「蛾を吐く」の方が衝撃的というか、印象に強く残るのはなぜなのか、そういう、ちょっと面倒くさいことを考えてみたいと思います。

 私はどんな詩でも書き出しをていねいに読みます。まだ最初の数行、起承転結の「起」でうろうろしているのだけれど、もう少しうろうろします。少し前へ戻ります。

 医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い箇所に在る腫物様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。

質問 この「おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。」の「手」は何ですか? 突然、でてきますね。
「医者が粒来のからだにふれている、その手かな」

 診察を受けているのだから、触診(手で触って診察する)ということはあると思うけれど、血を吐くくらいの食道ガンだと、もう触診の状態ではないですよね。
 「手」はもしかすると「手」ではないかもしれない。

質問 もしここに書かれている「手」が「手」ではないとしたら、なんだろう。「遮って」を手がかりに考えると何になりますか?
「声、ことば、かな」
「食道ガン、ということば」

 そうですね。「ことばを遮って」という「慣用句」がありますね。
 粒来は「嚥下困難」ということばにつづいて医者が言おうとしたことば、たとえば食道ガンということばを遮って、吐いた。治療のことば、病名を告げることばを遮って吐いた、という具合に読めると思う。
 ことばを遮って--というのは、そのことばを聞きたくなくて、という意味になりますね。
 でも、ことばではなく、あくまでも「手」と言っている。手を遮ってと言っている。ここに粒来の詩の特徴がある。「肉体」と「ことば」が拮抗している。激しく闘っている。肉体の病気をあらわすことばが激しく遠ざけられている。拒絶されている。その拒絶の感じが「手を遮って」の方が強いですね。「手を遮る」のは「肉体」ですね。ことばでは手を遮ることができない。
 どんなふうに「肉体」をつかって、「手」を遮るか。「吐く」という、押さえきれない肉体の反応をつかって遮られている。これが、すごいですねえ。
 ことばをさえぎるを肉体(手)をさえぎると言う--ここに何か、粒来が「食道ガン」ということばを、まるで「肉体」そのもののように感じていることがわかる。
 
 それから、吐く--だれかが吐いているのを見ると、一瞬、からだが後退する。退いてしまう。吐くことは他人を拒絶するということではないのだけれど、何かすごい力を感じますね。
 だれかが何か自分にとって不都合なことを言い出しそうなとき、大声をあげてそのことばを遮るように、粒来は、「吐く」ことで医者のことばを遮っている。
 突然、目の前で血を吐かれたら、そのまま「あなたは食道ガンです」と言っているひまはないですね。すぐ行動しないといけない。
 食道ガンということばを遮るために、粒来は肉体をかけている。これは、ちょっとおおげさな言い方かもしれないけれど、そんな感じがする。
 もちろんこれは、粒来が意図的にそうしたというよりも、実際に、診察を受けいているとき突然血を吐いて、そのことを思い出して、何がおきたのかをことばでたどり直してこう書いているのかもしれないけれど、そんなふうに書くということは、そんなふうに自分をとらえ直したいということなので、まあ、粒来の意志がそういう具合に動いたと考えてもいいと思います。

 食道ガンということばを遮って、そして遠ざけるようにしてことばが動いていく。そのとき、まず「目」ということばがつかわれ、つぎに「手」がでてきました。それから「吐く」ということばもでてきた。吐くというのは動詞なので、そこには実際には肉体の部署を示すことばはないのだけれど、胃とか、喉とか、口とか、そういことばを思い出しますね。胃から、何かを吐く。吐いたものは、喉をとおって、口をとおって、あふれる。
 粒来のことばは、食道ガンということばのかわりに、肉体を刺激する。「頭」ではなく、肉体を刺激する。食道ガンというのは、体験したひとならわかるのだろうけれど、ふつうは、どういうことかわからないですね。でも、こんなふうに目、手、それから「吐く」ということばの奥にある「肉体」とつなげて考えると、なんとなく、身にせまってくる。それが「血を吐く」「蛾を吐く」ということばになって迫ってくると、ぎくっとしますね。見てはいけないものを見てしまったような感じがする。恐怖心のようなものを感じる。
 粒来は食道ガンということばを避けているのだけれど、避けた分だけ何か強烈になって噴出してくるものがある。食道ガンと聞くと、自分の体験と結びつけられないし、「血を吐く」も私は吐いたことがないので実感できないのだけれど、「蛾を吐く」は何かぞっとする。血を吐く以上に強烈な何かを感じる。変ですよね。私は、血はもちろんだけれど、蛾を吐いたことはない。それなのに、蛾を吐くの方が生々しく迫ってくる。
 「蛾」はなんだろう。
 基本的には「血」なのだけれど、血以上のものですね。

 で、「承」の部分を読みます。

 それからだった。帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ、咽喉から翔び出した。


質問 ここに、いままでとは違ったことばが出てきます。何でしょう。何が違ってきているでしょうか。
「吐く、という表現が、吐かれる、になっている」
「少し後に出てくるけれど、血が自分の『意志』として出てくる」

 「意志」のことは、ちょっと後回しにしますね。
 「起」では粒来が「蛾」を吐いていた。いま、指摘があったように、この部分にも「吐く」は「吐かれ」とかわっている。そのこによって、気づきにくいかもしれないけれど、主語が変わっています。
 前の文章からのつづきで言えば、ふつうは「帰宅してからもおれは蛾を吐いた」となると思います。主語は「おれ」のまま、そういう文章を書くことができます。
 けれど、ここでは粒来は「おれ」を主語にしていない。「蛾」を主語にして書いています。「蛾」を補って文章をていねいに書き直してみると、よりわかりやすくなります。

帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ、「蛾は」咽喉から翔び出した。

 詩を読むときは、作者が省略したことばを補いながら読み進むと、書かれていることがはっきりわかるようになります。作者が省略してしまうことばというのは、作者にはわかりきっていることば。言う必要がないことば。もう肉体になじんでしまっているので、わさわざ言わなくてもすむ。
 でも、それは読者にはわかりにくい。だから、補って読み直します。

 「おれ」(粒来)は「主語」ではなくなっている。これが、実におもしろいし、この詩を複雑にしていく要素です。
 「蛾」は「おれ」ではありませんね。これは、しかし、なんというか「頭」で考えた文法ではそうなる、ということです。自分の「肉体」にひきつけて考えると、「蛾」ははたして「おれ」ではないのか。それを考えてみましょう。
 「蛾」は現実には「血」でしたね。血の塊。それは、おれのからだのなかから吐き出される。おれの血。そうすると、それは「おれ」のある部分、おれを構成するある部分、おれ、ということになりませんか?
 主語は「おれ」から「蛾」へ変わったのではなく、「おれ」から「おれのからだの内部のあるもの」に変化したんですね。大きくみれば「おれ」であることにかわりはない。
 おれのからだから、おれの何かが飛び出した。そんなふうに、この部分は読むことができます。そして、おれのからだから、おれの何かが飛び出したと読むとき、次の部分が生き生きと感じられる。

それはまるで緊縛されていたある種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるといった風だった。

 「蛾」「血の塊」は「意志」ということばにかわっている。肉体のなかにとじこめられていた「意志」、それも縛りつけられていた「意志」が解き放たれ、あばれまわっている。そんなふうに感じられる。さっき指摘があったように、血が「蛾」と言い換えられ、それがここでは「意志」ということばでも言い換えられている。

 「意志」になる。「肉体」に閉じこめられ、「肉体」の限界を生きるしかなかった「意思」が、「意志」であること(肉体のなかにとどまり、肉体を動かすこと)を拒絶して、自由に動いている。
 粒来は、ここに不思議な「自由」を見ている。
 粒来の「精神」ではつかみ取ることのできなかった「自由」を「血」が「蛾」となることで獲得している。
 --こんなことは、「いのち」を物差しにして考えるとき、あってはならないことかもしれないが、「ことば」を物差しにするとき、起り得ることなのである。
 いや、ほんとうは(ふつうは?)、起こらない。
 粒来の「ことば」だから起きる。それは粒来の「ことば」が引き起こした、まったくあたらしい「現実」であり、粒来の「ことば」でしか獲得できない「自由」である。
 その「自由」は簡単に言うと、人間に「死」をもたらすものかもしれないが、「死」というのは誰にも体験できないことであり(体験したあと、それを報告することができないものであり)、「ことば」を超越している。そういう「ことば」を超越したものは無視して、粒来は「ことば」にできるものを「ことば」にするという「自由」を生きて、「蛾」そのものになるのだ。
 「蛾」が「おれ」であると主張すること--それを受け入れ、それに「従事」するというか、従う。「蛾」が、つまり、意志なのだ。肉体が意志に従って動くように、いま肉体は蛾に従って動く。
 といっても、これは「現実」のことではなく、あくまで「ことば」のことであり、「ことば」であることによって「現実」のこととなる。

 粒来の「ことば」は「血」を「蛾」と呼ぶことで、「現実」を強い力で整えなおす。「蛾」を生きる「意志」に従って、「いま/ここ」を整えなおす。その整えなおしは、人間の「いのち」を基準にすると理不尽というか、ほんとうはあってはいけないことなのだが、詩人は、そのあってはいけないこと、してはいけないことを「ことば」の力でやってしまう。
 人間が触れてはいけない部分を侵害してしまう。人間のやるべきことがら、人間の生きる領域を「超越」してしまう。
 「ことば」が「いのち」になる。「ことば」が「いきる」。
 実際、そうなっている。「ことば」が書かれるかぎり、粒来は生きている。不吉な言い方で申し訳ないが、死へ向かって「ことば」で生きる。そうすることで、「いま/ここ」で死を超越する。
 その瞬間、「肉体」が、いっそう強く甦ってくる。

 で、そんなふうにして、この部分を読んだとき、何か変だなあと思うことはありませんか? 「それはまるで緊縛されていたある種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるといった風だった。」このことばから、何か違ってきたぞ、と思うことはありませんか?
 いままで、「肉体」ということばで粒来の詩を読んできました。目、手、口、咽喉と、肉体を指し示すことばがつづいていますね。血も肉体の一部ですね。
 でも、「意志」はどうですか?
 肉体ですか?
 ふつうは肉体とは言わないですね。
 意志は意志。--まあ、精神かもしれない。
 でも、粒来は、その意志を肉体のように書いている。肉体の一部のようにして書いている。
 それで、とっても奇妙な文章がそれにつづいている。

おれはあえて逆らわなかった。なぜならおれ自身は蛾の跳梁に関わりなく日毎少しずつ痩せ細っていったからだ。

 おれはあえて蛾が飛び出すのにさからわなかった。まあ、これは、それでわかるのだけれど、そのあと、「おれ自身は蛾の跳梁に関わりなく日毎少しずつ痩せ細っていったからだ」がよくわからない。血を吐けば、まあ、痩せます。病気をすれば、痩せます。 痩せていったので、あらがう力がなくなった、ということになるのかもしれませんね。
 で、さっき、「蛾」を「意志」だと言いました。もし、その「意志」が「肉体」とは別個のものだとすれば、意志がいくら肉体から飛び出しても肉体は減りませんね。でも意志が肉体だとしたら、どうなりますか? 肉体から「意志という肉体」が飛び出しつづける。そうすると「意志をつつんでいる肉体」は少しずつ量が減りますね。痩せ細っていく。
 これはちょっと変な算数、変な肉体の数学だけれど、そういうことなる。ここには「蛾」と「肉体」の「一体感」がある。
 粒来は、意志と肉体を、混同している。区別しないでいる。

今や蛾を吐く感触が日常になってみると感触が日常のそれになってみると、朝の口漱ぎの折々の分厚い幅広のあらがわが口中から翔び出してまずおれの歯列に突き当たり、次いで翅粉を撒きながら狂ったように床を転げ回るという状況さえ身近なものになっていった。おれは日々黙って床を掃いた。
   (谷内注・「あらがわ」は「皮」という文字が3つピラミッド状に重なった漢字)

 ここでは、肉体のなかにあるもの、「意志という肉体」と仮に呼んでおくけれど、その「意志という肉体」とそうではない「肉体」のぶつかりあいが書かれている。そして、ここに書かれている描写を見ると、そのぶつかりあいが、非常に生々しい。ただごとではない。
 「歯列に突き当たり」までは、まだ「肉体の内部」のぶつかりあい。そこでは、「意志という肉体」が暴れるさまと、その攻撃を受け止める肉体が「歯列」ということばで具体的に書かれている。これで、粒来の書いている「肉体」の部位はまたひとつ増えましたね。「目」「手」「口」「咽喉」「歯列」。--でも、ここでも主語は「蛾」ですね。「蛾」が「歯列」に突き当たる。「蛾」が粒来の「肉体」を目覚めさせている。
 「肉体」のなかに「意志という肉体」があり、それが「肉体」にぶつかり、「肉体」を目覚めさせている。「意志という肉体」が「肉体」にぶつかってくる。そのときの「痛み」をとおして「肉体」を実感する、ということかな?
 そのあと、「蛾」は、

次いで翅粉を撒きながら狂ったように床を転げ回るという状況さえ身近なものになっていった。

 これを粒来は見ている。最初に、粒来は医者の目の奥にひそんでいることば、目が暗示していることばを見つめていた。同じように、こんどは、「蛾」を見ている。

質問 この「蛾」の特徴はなんですか?
「血の力、病気のエネルギー、活動力をあらわしているのかな?」

 「病気のエネルギー、活動力」というのはいい指摘ですね。ほんとうにそうですね。病気がエネルギーを持っていたら、人間は困るし、医師というのはその病気のエネルギーを抑える仕事をしているわけだから、こんなことをお医者さんに言ったら叱られるかもしれませんね。
 でも、「エネルギー」なのだと私も思います。
 そして、そのエネルギーのあり方を、「翅粉を撒きながら狂ったように転げ回る」という激しい運動のなかで表現しているのだと思います。「狂ったように転げ回る」には力がいりますね。力がないと、エネルギーがないと、転げ回れない。
 なぜ、苦しくて転げ回っているかといえば、実は、粒来の「肉体」が苦しみ、痛みを抱えているからですね。食道ガン。そして、吐血。日毎痩せ細るくらい苦しい。そこからあばれるようにして飛び出した「意志という肉体」は、飛び出す前、まるで「緊縛されていた」ようだったのに、それから解放されて躍動しているようだったのに、いま、苦しんでいる。「肉体」から飛び出して、自由になったはずなのに、苦しい。もがき苦しんでいる。
 「意志という肉体」と「肉体」が「苦しみ」のなかで共振している。苦しみをともに感じ取っている。
 そう書いたあと、主語が突然変わります。「おれは日々黙って床を掃いた。」
 そして、主語が「蛾」(意志という肉体)から「おれ(粒来)」にかわったまま、詩は「転」へと進んでゆきます。

 蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。それは一旦は床に落ち、おれを見あげる風だが、やがて直ぐさま翔び去っていく--。蛾の重い羽搏たきが消えた後、おれの痩身のあちこちに食い込まれたような痛みが走る。時折それが出かかる咽喉元からの悲鳴を圧し殺し、おれはおれ自身の終末を迎える前に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 ここは、ものすごく変ですね。さっき主語が「蛾」から「おれ」にかわると言いました。「おれは黙って床を掃いた」の部分ですね。
 で、いままで、私たちは「おれ」と「蛾」がこの詩の「主役」であると思って読んでいたのだけれど、ここにまた別の「主語」(主役)が出てくる。
 「もう一つ」。

蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。


質問 この「もう一つ」とはなんだろうか。
「あとの方に出てくる、母、女共と関係があるのかな」

 そうですね、それと関係があるかもしれません。
 先へ進まずに、ちょっとこの「転」の部分だけのことばで考えてみましょうか。
 「それはいったん床に落ち……」という文章の「それ」は「もう一つ」を指していますね。それは、「一旦は床に落ち、おれを見あげる風だが、やがて直ぐさま翔び去っていく 。」なんだか、とても「蛾」に似ている。「蛾」と区別がつかない。けれど、粒来は、それを「もう一つ」と呼んでいる。

質問 「もう一つ」なんだろうか。
「蛾は『ガン』そのものなのじゃないでしょうか。『ガン』というかわりに蛾といっている。一字、ことばを省略している」

 あ、すごい指摘ですね。蛾はガンから派生したことば、比喩なのか。ちょっと、私は思いつきませんでした。
 で、また「もう一つ」に戻りますね。
 実は、私には何のことかわかりません。ここに書いてあることだけでは「もう一つ」は何か、わからないですね。
 「承」の部分に「意志」ということばがでてきて、それは「蛾」と同じもの、「蛾」に似たものと考えたけれど、似ているという点では「もう一つ」はその「意志」に似ているかもしれない。けれども「意志」ではない。「意志」なら、ここで「もう一つ」という抽象的なことばであらわす必要はない。

 わからないときは、ちょっと視点をずらして考え直してみる。読み直してみる。
 「蛾が吐かれると」は受け身ですね。「蛾が飛び出すと」でもないし、「蛾を吐き出すと」でもない。
 ほんとうは、「肉体」と「蛾」との関係が、「おれ(粒来)」でも「蛾」でもない立場から見つめなおされているということになるかもしれない。主語は「蛾」でも「おれ」でもなく、「蛾とおれの関係」--「関係」が主語。
 「関係が主語」というのは変な言い方ですね。
 「関係」がテーマになっている。
 それは、どういう関係かというと、蛾はいったん床に落ちると、おれを見上げ飛び去っていく。
 そして、それが飛び去ったあと、おれのからだに「食い込まれたような痛みが走る」。蛾が外であばれているのを見ているときは、蛾に感覚が奪われている。けれど、蛾が見えなくなると肉体のなかで痛みが目覚める。
 どうも、肉体よりも蛾の方が「強い」。意識に占める割合が大きい感じがする。
 でも、これだけでは、わかった気持ちにならない。説明しきれない--と粒来もたぶん思っていると思う。
 --でも、いま、私が言ったことも変ですねえ。
 話しながら、あ、何かまとまりのないことを言ってしまっているなあ、と感じます。

 で、こういうときは、どうするか
 わからないものはわからないまま先へ進む。むりやり「答え」を出さずにわからないまま、先を読む。
 私は何度もこの講座で言ったけれど、ひとは大事なことは繰り返して言いなおすと考えています。この詩も、血を吐いたということを繰り返し、ことばを変えながら言いなおしています。そうして、言いなおすたびに、少しずつ粒来の言いたいことがはっきりしてくる--そういう構造になっていると思います。

 最後「転」の最後の文章は、ちょっとややこしい。
 ここでは、何かわからない「もう一つ」が残されたことになる。それを粒来は「結」の部分で言いなおしていると思う。
 で、「結」の部分です。

 ある日大きな吐き気が来た時、おれは翔び出しかかる蛾を床の上に圧し留めた。蛾はしきりに暴れたがやがて萎えた。おれは奴の翅を拡げ、展翅板にでも乗せるような恰好で用心しいしい戒めを解いた。蛾の翅は翅粉が剥げ落ち、破れかかっていて見る影もなかったが、翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた。蛾の紋様には寝乱れ姿の母の後ろにおれと縁の女共の顔があった。翅は歪んだ母の裾から黄色い翅粉を零した。すると女共の顔が一斉に笑った。その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆けずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。
 その夜だった。おれに大喀血が来たのは--。

 この「結」の前半、「紋様はまだありありと残っていた」までの文章は、ちょっと変ですね。「もう一つ」が出てこない。蛾といっしょに「もう一つ」が出てくるはずなのに、「もう一つ」がない。
 ただ、蛾と闘っている。
 変ですね。
 でも、変ではないかもしれない。
 なぜ、闘っているかな?
 そのことを考えると、変ではなくなる。
 これは、粒来がはっきり書いていることではないので、私の勝手な読み方なのだけれど……。
 私は、蛾のなかに「もう一つ」があって、それをはっきりさせるために闘っているのだと思いました。蛾のからだのなかに「もう一つ」がある。それをはっきりさせるために、蛾をつかまえ、解剖する。「展翅板」に乗せるというよりも、蛾をつかまえて、蛾がきている衣装をはぎ取って裸にする--そういうことをするために、蛾と格闘していると思いました。
 そうすると、何が見えてくる。
 粒来は、まず、「寝乱れ姿の母」と書いています。それから「おれと縁の女共の顔」と書いています。母はひとりだけれど、「女共」は複数ですね。「縁のあった」とは関係のある、ということだと思う。それもたぶん形式的な関係ではないですね。精神的な関係ではないですね。肉体関係があるのだと思います。「寝乱れ姿」を知っている女ということだと思います。
 女たちと肉体関係があるのだから、これまで読んできた「意志という肉体」というのは、ここではあてはまりませんね。「意志という肉体」というのは「誤読」ですね。
 では何だったのだろう。

質問 どう言い換えればいいですか?
「本能」

 そうですね。私も「本能」ということを思いました。「本能」、あるいは「欲望」としての「肉体」。だれでも「本能」や「欲望」、この場合もっぱら「肉欲」をあらわすのだけれど、そういうものを持っている。それがあるから生きているともいえる。
 でも、それはいつでも野放しにしておくわけにはいかない。たいてい、それを抑制する形、肉体の奥にとじこめておく。こういうことを、「承」にでてきたことばで言いなおすと、「緊縛」してからだの奥にとじこめておく、ということかな?
 縛りつけられ、鬱屈していた「ある種の意志」、それが緊縛を解かれて躍動している。その「ある種の意志」は「意志」ではなく、「本能」と言い換えてみると、「結」のことばとつながりやすい。
 「承」では、それがまだ粒来には「本能/欲望」とはわからなっかた。だから「ある種の」というあいまいなことばを被ったままの表現になっている。
 でも、いまは、それが「本能/欲望」だとわかった。「いのち」の根源であるとわかった、ということだと思う。
 そして、最後に、またおもしろいことが書かれている。

懸命に駆けずりまわるもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。

 「もう一つ」は実は「おれの醜悪な顔」。粒来は、そう言い換えている。醜悪な、というのは、簡単に言いなおすと肉欲におぼれた本能、肉欲の本能にふりまわされてつぎつぎに女と関係したこと--というと「反省」っぽくてあまりおもしろくないけれど、そんなことかなあ。
 「蛾」は「女」の顔をしているけれど、それは単なる「女」ではない。一般名詞としての「女」ではなく、その「女」は「おれ」がいるから初めて存在する「女」なんですね。それは「女」だけれど、実は「おれ」がなかに隠れている「女」。「女」だけれど「おれ」ということになると思います。

「ここに書かれている女共は、そうじゃなくて、祖母、曾祖母など、女の家系じゃないでしょうか? 母の後ろに、とあるから母よりも時代が古い祖母、曾祖母ではないのでしょうか。縁--というのは、そして墓のことじゃないのでしょうか。墓のなかの女、祖母、曾祖母。そして、おれ自身の醜悪な顔というのは、死ぬのがこわい、ということじゃないのかなあ。女というのはいのちを産み、つないでいく存在、生き続ける人間。それに対して、おれは死んでいく。そして、そのことがこわいということじゃないのかなあ。」

 あ、私は、それは思いもしなかったなあ。
 びっくりしました。
 つぎに何かいうことを考えていたのだけれど、全部、吹っ飛んでしまいました。
 祖先としての女。「後ろ」はいまからみて母の後ろ、過去、なのか。
 いまの指摘はすごいですねえ。
 この視点から読み直すと、この詩はまったく違ったものになるでしょうねえ。

 頭の中が「真っ白」で、何も考えられないなあ。どうしようかなあ。
 もう時間もないので、なんとか私の考えたことだけ、思い出しながら言ってみます。強引な進め方で申し訳ないけれど、聞いてください。
 ここに書かれている「母」も「女(共)」も、他人ではない。「おれ」である。私は、そう考えました。
 「女がおれ」というのは、変な言い方だけれど、「女=おれ」の「イコール」が「縁」かなあ、と私は考えました。
 粒来は「おれと縁の女共」と書いているが、ここに書かれているのは、「縁」。「母」や「女」が問題なのではなく(といってしまうとまた間違ってしまうことになるのだけれど)、「縁」が「おれ」。
 もっと別な言い方を考えていたのだけれど、さっきびっくりして、ほんとうに忘れてしまいました。
 いいかげんな感じになるけれど、言いなおすと「もう一つ」とは「縁」。「おれ」と「他者(女共)」とのつながり。関係。関係といっても、固定化されたものではなく、関係の中で、生起してくるもの。動くもの。それが縁かなあ。
 粒来が書いていることは、「いま/ここ」に「何か」があらわれてくるときの「運動」だと思う。ひとつの「場」があり、その「場」のなかで、あるときは「蛾」がという形で何かがあらわれ、あるときは「意志」という形であらわれ、あるときは「肉体」という形であらわれる。それは別個の存在ではなく、「おれ」の、ある一瞬の「純粋化(?)」されか姿なのである。常に何かを潜り抜けながら、「ひとつ」の形になって見せているに過ぎない。
 粒来の書いているのは、「混沌」あるいは「無」という「場」のなかで起きる「運動」。それを「縁」と粒来は呼んでいる。
 言いなおすと、その「運動」に何かの影響を与えるもの--あるいはその「運動」の形式、運動の「枠」となるものとして、粒来は「縁」を考えているのだ。

 「縁」ということばが、粒来の「思想」なのだ。

 私の書いていることは、飛躍が多いし、一種の「でたらめ」も含んでいるが--詩だから、これくらいの「でたらめ」はあって当然だと私は思うのだが……。ちょっと強引な補足をすると、
 たとえば「蛾」。
 「蛾」について触れたとき、私は私自身の蛾を押し殺した体験(記憶)を書いたが、その体験のなかで、私は蛾と「縁」を持った。その「縁」は蛾にとってはまあ気の毒なものだけれど、それが「縁」というものである。
 粒来は、この詩の冒頭から「蛾」という「ことば」をつかっているが、喀血した血を「蛾」と呼ぶとき、そこには無意識の「縁」が働いている。蛾と粒来にも「縁」があり、「縁」があるかぎり、「経験」がある。「過去」がある。「時間」がある。
 「縁」が--その意識できない「つながり」が「ことば」にいつのまにか反映してきている。
 「縁」こそが、真の「もう一つ」(もうひとりのおれ)なのだ。
 その「縁」が、いま、ここで--最後の部分で「女」という形であらわれているのだが、それが「縁」であるかぎり、そこにあらわれたものが「女」であっても、それは「女」そのものではなく「おれ」でもある。

女共の顔が一斉に笑った。その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆けずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。

 女共が笑った。そのとき、そこに「おれ自身の醜悪な顔」があった。女共が笑わなければ、「おれ自身の醜悪な顔」も存在しない。それは「同時」に存在する。そして、その「同時」を支えるのが「縁」。
 「おれ」がいる。そのとき「おれ」は「血」に代表される「肉体」をもっている。また「意志」に代表される「精神」というものをもっている。それは融合して「おれ」という存在をつくっているのだが、「おれ」をそこに存在させるのは「血」や「意志」だけではない。「肉体」と「精神」だけではない。
 もうひとつ「縁」というものがある。
 「縁」をとおして「蛾」ということばもやってくる。「意志」も「血」も同じかもしれない。
 「縁」が、「蛾」というものをとおして、いま/ここに噴出してきている。



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粒来 哲蔵
書肆山田
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クリント・イーストウッド監督「ミスティック・リバー」(★★★★★)

2011-11-29 19:28:49 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコン

(2004年1月14日に、panchan worldで一回感想を書いている。下の方に、それを再掲する。このサイトは、ある事情で閉鎖状態。)

福岡の「ソラリアシネマ」が閉館する前の特別企画で、「ミスティック・リバー」を上映していたので、もう一度見てみた。
なぜ、この映画がアカデミー賞作品賞、監督賞を受賞できなかった不思議でしょうがない。「ロード・オブ・ザ・リング」1、2が受賞を逃し。3も逃すと無冠に終わる――という配慮から票が流れたんだろうなあ。で、イーストウッドにはお詫びのようにして「ミリオンダラー・ベイビー」の時に賞が来たんだけど。「ミリオンダラー・ベイビー」も傑作だけれど、やっぱり「ミスティック・リバー」の方がすごい。救いがないというか、カタルシスがないところが、賞には向かないのかもしれないけれど。

どこが、すごいか。
イーストウッドの映画はどれどもそうだが、映像に抑制がある。演技にも抑制がある。もう少し見たい、もう少し見ることができればじっくり共感できるのに、と思う寸前で映像が切り替わる。
そうすると、私の想像力がかってに働く。映し出されなかった表情を、自分の内部に感じるのである。
多くの映画が、クリマックスというか、見せ場をじっくり見せるのとまったく違う。多くの映画は観客が涙を流し、――それだけではなく、あ、隣の人も泣いている、みんな泣いていると気がつくまで、つまり、映画を忘れ、観客の変化にまで気がつく余裕が生まれるまでクライマックスを映し続けるのとはまったく違う。
この映像文法、映像リズムをイーストウッドがどうやって身につけたのかわからないけれど、とても感心する。

前回見た時は、ティム・ロビンスの演技にびっくりしたが、今回はショーン・ペンの演技に驚いた。
たぶん7年前に見た時は、ショーン・ペンの演じている役の「過去」が、最後の方になった突然噴出してきて、事件がどんでん返しのように解決するというか、構造がはっきりする部分が「種明かし」のようで、それが気になって、感想を書くとき、つまづいたのだと思う。今回はストーリーが分かっているので、「種明かし」は気にならず、その分、ショーン・ペンの演技そのものを見ることができた。
「過去」の表し方、特に、娘のボーイフレンドを拒絶しようとするときの演技がすごい。人が「なぜ、あの少年が嫌いなのか」と聞くが、その理由が演技からまったくわからない。不可解である。この「不可解」がすごいなあ。わかっては、困るのだ。ショーン・ペンは、そのわかっては困る、という演技を、演技している。嫌っている――のではなく、娘と一緒になってしまうと人生が複雑になりすぎる。「過去」がいつも「目の前」に存在してしまう。それが、困る。誰かに言いたい。でも、言えない。そして、隠す――その演技の、妙に中途半端な、つまり感情が分かりにくい演技を演技している。うーん。
これが、観客には分かってしまっているティム・ロビンスの演技と交錯する。それが演技だけじゃなく、ストーリーそのものになっていく。「過去」が「いま」を突き破って、「未来」が思いもかけない方向へ動く。
でも、その「未来(というか、現在)」を、イーストウッドは、また深追いしない。それは深追いしても、結局、カタルシスにはならないからねえ・・・。
逆にいうと、イーストウッドはカタルシスに終わらせない映画の終わらせ方を知っているということかなあ。




****以下は2004年の感想**********************

 映像がどのシーンをとっても非常に抑制が効いている。品がある。
 そして、その抑制の効いた映像の積み重ねによって、悲しみが静かに静かに積もっていく。
 俳優人の演技も抑制が効いている。けっして大げさにならない。
 クリント・イーストウッドの音楽も、音楽を主張せず、しかも音楽でありつづける。形にならない不安、こころのように、断片的に響き、その断片がずーっとつながりつづける。
 主役の3人の運命のように、重なり、離れ、また重なることで、深い深い川のように流れる。ゆったり、ぶきみに、哀しく。
 (音楽に★1個追加。)

 結末の描き方に、イーストウッドの人間観察の深さを強く感じた。
 3人の少年の1人はつらい過去によって苦しみ続けた。
 そして、残された2人は、これからつらい時間を生き続ける。
 遠い昔、2人(ショーン・ペンとケビン・ベーコン)は友達の1人(ティム・ロビンス)を救えなかった。3人のうちの2人(ショーン・ペンとケビン・ベーコン)は偶然被害者にならず、1人(ティム・ロビンス)は被害者になった。そして今、その被害者(ティム・ロビンス)はもう一度被害者になり、1人(ショーン・ペン)は加害者になり、もう1人(ケビン・ベーコン)はその関係を察知しているが「証拠」を見出していない。また、その1人(ケビン・ベーコン)はもし事件の解決がもっと早ければティム・ロビンスが被害者にならずにすんだ、ショーン・ペンが加害者にならずにすんだことも知っている。
 偶然が、何かのはずみが、人生を狂わせる。そして、それを人はどのように生きていけばいいのか、誰も知らない。どうすれば人生が狂わないのか、そのことを知っている人間は誰もいない。
 本当の哀しみとは、たぶん、そうしたことなのだろう。

 映像――。
 抑制が効いていると最初に書いた。抑制と同時に、非常に工夫された映像であるとも思った。
 何度が木を、木の葉を、木の葉越しの空の映像が出て来る。たとえば、少年のティム・ロビンスが監禁場所から逃げるシーン。何を見ただろうか。彼が本当に見たのは、木の葉と空だったのか。誰も自分をささえてくれなという不安、恐怖だったかもしれない。
 それとは逆の映像がひとつある。(いくつかあるかもしれないが、私が思い出せるのはひとつだ。)
 ショーン・ペンが娘が殺されたと知って取り乱す。警官に取り押さえられながら叫ぶ。天を仰いで叫ぶ。――このシーンだけが天からの視点である。
 ショーン・ペンは叫びながら何を見たのか。何を見なかったのか。その叫びを、苦悩を見ていたのは誰なのか。
 そして、そのときショーン・ペンに自分の哀しみが他人に理解されているという自覚があったかどうか。
 彼には、たぶん、ない。
 しかし、彼が天を仰いで絶叫するとき、その哀しみは多くの警官によって支えられている。共有されている――この点が、実は、ティム・ロビンスの場合とまったく違う。
 そして、そのまったく違うと言うことをショーン・ペンはこのとき知らないのだ。
 彼がそれを知らない、けれど多くの人がショーン・ペンが苦しんでいるということを瞬時のうちに理解、共有しているということを天からの視点で完璧に描いてみせる。
 (このシーンが、この映画で一番美しい。)
 一方、ケビン・ベーコンが見ているのは何か。
 天を仰がない。天を見つめない。そして、天もケビン・ベーコンを見下ろしてとらえることはない。
 彼が見ているのは、今、彼の目の見えるところにいる妻ではなく、見えない場所にいる妻――そして、その口元だ。ことばだ。
 彼は、今、ここにいない人間が実は自分を支えている――そう想像して、その想像を頼りに自分を律している。生きている。ティム・ロビンス、ショーン・ペンの視点が垂直に動くのに対して、ケビン・ベーコンの視点は水平に動いている、といえるかもしれない。

 また別の視点から……。
 ティム・ロビンスの孤立、絶対的な孤独は、妻が彼の言動を信じないところにも描かれている。つらい過去、こころの苦悩を語っても、理解されない。逆に誤解される。妻の不信をまねいてしまう。誰も彼を支えない。
 監禁場所から逃れながら少年のティム・ロビンスは天を見つめた。木の葉、空を見つめた。絶対的な何かにすがろうとしたのかもしれない。
 皮肉なことに(ショーン・ペンのことについて後で書くが、そのとき、「皮肉」の意味を補足できると思う)――彼の孤独、苦悩は、恐怖のためにティム・ロビンスを拒絶する妻によっていっそう深まる。
 妻は恐怖ゆえにティム・ロビンスを疑う。そして、その疑いがティム・ロビンスを完全な孤独に陥れる。
 誰ひとりティム・ロビンスを支えてくれないと感じてしまう。本当に恐怖を感じているのはティム・ロビンスなのに、誰もその恐怖について理解してくれないという絶望が彼を孤立させる。
 一方、ショーン・ペンには犯罪者の仲間がいる。絶対的にショーン・ペンを支えようと思う妻がいる。
 ショーン・ペンは娘が殺されたと知ったとき、天を仰いで絶叫した。その瞬間、彼とは直接関係のない警官が彼の絶叫を支えた。そしてそのあとは仲間が、妻が彼を支える。彼のしていることが正しいかどうかではなく、彼が必要だから(彼なくしては生きていけないから)、彼を支え、彼を守るために動く。
 ティム・ロビンスの妻が不正義に対する恐怖のために動いたのとは逆に、正義に目をそむけた人がショーン・ペンを支えている。ショーン・ペンを支えている人間は、ショーン・ペンのしていることが正義であるかどうかではなく、自分たちと常に手を取り合っているかどうかなのである。
 ショーン・ペン自身の行動規範も「連帯」である。
 裏切る奴は許せない。行動するとき支えあわない人間は許せない――というのがショーン・ペンの役どころである。
 他方、ケビン・ベーコンを支えているのは何だろうか。「正義」。人が行動するとき何を基準にすればいいか、そういことを少しずつ積み上げてきた結果としての「法律」。そういうものだろうか。
 そうしたものを手がかりに、人の行動を調べていく。(犯罪捜査をしていく。)そうすると、そこに「正義」(何が間違っているか、誰が間違っているか)だけではとらえきれない人間の苦悩が浮かび上がってくる。哀しみが浮かび上がってくる。
 犯罪捜査の結末には人間の苦悩、哀しみなど二次的なものである。しかし、その二次的なものが人間全てを結び付けているものだということが浮かび上がってくる。

 また別の視点から……。
 この映画では、ケビン・ベーコンが、なぜか私にはクリント・イーストウッドに見えた。
 目の表情が似ているかもしれない。演技が似ているかもしれない。――ということとは以上に、たぶん上に書いたことと関係があるかもしれない。
 ケビン・べーコンの役どころは、犯罪を捜査するというストーリーを演じながら、実は犯罪そのもの(犯人探し)ではなく、その犯罪が起きたときの人間の引き起こす苦悩、哀しみの総体を浮かび上がらせることである。
 犯人探しなど、どうでもいい。犯人が誰であろうとどうでもいい。
 重要なのは、その犯罪が起きたとき、その周囲で起きる人間の感情である。
 そういうものを浮かび上がらせるために、脇役に徹し続ける。ティム・ロビンスやショーン・ペンのように、顔で(表情で)演技をしない。目立たない。ティム・ロビンス、ショーン・ペン、その妻達の表情(感情)を浮き彫りにするために、あくまで引いた演技を続ける。
 最初に音楽のことを書いた。
 たぶんイーストウッドは音楽に対する本能的把握が鋭いのだと思う。
 いくつかの音が重なり合い、ひとつながりの音楽になり、それぞれの楽器が独特の表情を持つことで、それが豊かになる。
 そのとき自己主張するだけではなく、他の音を支えることに徹する音も必要なのだろう。そういうバランス感覚がイーストウッドにはあるのだろう。
 思い返せば、あの『ダーティー・ハリー』のときでさえ、イーストウッドは相手役を引き立てるような演技をしていたような気がする。





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タケイ・リエ『まひるにおよぐふたつの背骨』

2011-11-28 23:59:59 | 詩集
タケイ・リエ『まひるにおよぐふたつの背骨』(思潮社、2011年10月30日発行)

 タケイ・リエ『まひるにおよぐふたつの背骨』の「声」はとても不思議である。確かに、そこに「声」があるのだけれど、きのう読んだ宮尾節子『恋文病』のように、その「声」は明瞭には聞こえてこない。美しく聞こえてこない。とても濁っている。「喉」を感じない「声」である。
 言い換えると、--詩で言い換えるとむずかしいので「声楽」で言い換えると、たとえばパバロッティの声を聞くと、こんなふうに歌えたら気持ちがいいだろうなあ、という欲望が生まれる。肉体がパバロッティの「喉」に反応する。「喉」を中心とした「肉体」に反応する。あまりいい表現ではないかもしれないが、パバロッティの声には、ひとつの「理想」がある。「望ましい声」がある。その「声」と一体になるとき(なれるとしたら、ということだが……)、とても気持ちがいいだろうなあ、と感じる。あんなふうに声を張り上げて歌ってみたい、という欲望が生まれる。
 タケイ・リエの「声」は、なんといえばいいのか、そういう「望ましい声」ではないのだ。宮尾節子の「声」にも、ある種の「望ましい」感じがあるが、タケイ・リエの「声」にはそういうものが、ない。少なくとも私にはないように感じられる。聞き苦しい。聞いていいて、とても「肉体」が苦しくなる。
 たとえば詩集の巻頭の「karman」。

指になじんだひとつの
熟れた葡萄を荒れた息で弾く
育った毛を両腕で押さえこみ
うつ伏せに暮れはじめて
感嘆符を血が滲むまで噛んでいる

 何が書いてあるか、よくわからない。そのよくわからないことが、「指」「息」「毛」「両腕」「血」という「肉体」を指すことばをとおって動く。「弾く」「押さえこみ(押さえこむ)」「うつ伏せ(うつ伏せる)」「噛む」という「肉体」の動きをしめす動詞をとおって動く。そうすると、そのことばを「声」がとおるとき、私の肉体の「「指」「息」「毛」「両腕」「血」がざわめく。「弾く」「押さえこみ(押さえこむ)」「うつ伏せ(うつ伏せる)」「噛む」という「動作」につながる「肉体の内部(神経?)」もざわめく。ざわめくが--はっきりした何かに結晶しない。
 違和感だけが残る。そして、これが実に気持ち悪い。困ったなあ、と思うのである。

 ただし。

 この「困ったなあ」が曲者なのである。いやだなあ、嫌いだなあ、と思いたいのだが、何か「肉体」の内部の何かが引き込まれてしまう。
 また「歌」の例を出すと、昔(30-40年ほど前)西川峰子という歌手がいた。とても泥臭い、いやーな声の歌手だった。いやな声なのだが、肉体の内部に届いてくる。気持ち悪いのだけれど、私のなかにいやな部分と共鳴しているのだと思う。
 タケイ・リエの「声」は、たとえて言えばそんな感じなのだ。だから、困るのである。拒絶したいが、拒絶したいという気持ちのバリアを突き破って、「声」が私の「肉体の内部」に届いてしまう。「肉体の内部」がつかまれてしまう。「喉」とか「鼓膜」という「一部」ではなく、先に引用した詩で言えば、「指」「息」「毛」「両腕」「血」をとおって、まだことばにされていない「肉体の内部」がつかみとられてしまう。遠くで、その「共鳴音」が聞こえるのだ。
 これは、いったい、どういうことなのだろう。
 「声(ことば)」は、たぶん、「肉体」をとおるとき、ふつうは「ひとつ」の「部位(器官)」をとおる。「ひとつ」の「感覚」をとおる。「肉体の部位(器官)」と「感覚」がきちんと結びついたとき、「声」は透明になる。たとえば、指が葡萄の丸みにふれ、その形のなめらかさを感じるとき、「指」と「触覚」がきちん結びつき、理解しやすいものになる。「葡萄に指でふれると、その丸みのなめらかさがわかった」という具合。
 タケイのことばは、そういう具合に動かない。

指になじんだひとつの
熟れた葡萄を荒れた息で弾く

 「指」のなかでことばは完結せず(声にならないまま)、「息」で弾くという動きに映ってしまう。「息」のなかには「口」や「喉」もふくまれるかもしれない。その「息」の力で葡萄を弾くとき、「指」はどこへいった? 「指」は何をして、何を感じた? それは語られない。ことばにならないまま、「指」のなかに封印されている。とじこめられている。で、そのとじこめられたものが「見えない」状態なら、まあ、気持ち悪くはないのだが、1行目を読んでしまっているので、私は、「指」が感じるはずの何かがとじこめられている、ことばにならないうちに、次の行にいってしまっていると感じ、とても不思議な気持ちになる。ことば、声がとじこめられたまま、「指」が存在していると感じる。
 気持ち悪さ--というのは、そのとき、「指」だけが見えて、「指」の「声」がきこえない。「指」がつかみとったものが「ことば」になっていないということだ。そして、ことばになっていないくせに、そこにはことばにならなかったゆえの、「聞こえない声」(不透明な声)が響いている。
 しかも。
 それは「指」なのかだけではないのだ。「指」のなからだけなら、「声」は聞こえたことになる。「指」のなかで「声」になるべきだった何かが、「息」に移っていき、さらに「毛」や「両腕」「血」へと移っていく。「血が滲むまで噛む」だから、書かれていないから「歯」にも移っていく。さらに、もし「血が滲む」部位が「唇」なら「唇」も含んでしまう。
 タケイのことばは、いくつもの「肉体(の部位/器官)」を移動しながら「声」になろうとうごめいているのだ。「感覚」は「ひとつ」に統合されない。そして、この動きが、私には何か、タケイが「肉体」のあらゆるところに放火しているような感じにも思えるのだ。とても危険で、何かしらとても魅力的なのだ。危ない感じがあって、ぞくぞくしてしまうのである。

 タケイはいったい何をめざしているのか。タケイのことばは、いったい何になろうとしているのか。よくわからないが、次の4行を強引に「論理化」できるかもしれない。
 「水脈」の後ろの方である。「声」がわりと聞き取りやすい。

眠っている土の湿り気が上がってくる
あしうらを経由して
眉間をめざしてくる
その第三の目で何が見えるの

 ある「もの」が「肉体」の「ある部位(器官)」を「経由」して、「別の部位(器官)」に接近する。そのとき、「肉体」を「経由」してきた「もの」は、「第三の肉体の部位(器官)」で何かを見るのだ。
 何かを見るためには、新しい何かを見て、それをことば(声)にするためには、ことばは肉体の複数の部位(器官)を「経由」しなければならない。複数を経由することで、ことばは複数の肉体に汚れ、同時に、その複数を渡り歩くだけの力を蓄え、何かを強靱にする。その、強靱に生まれ変わった力が、新しい何か、「第三の存在」を「ことば」にする。それが、詩。

第三の目で何が見えるの

 その「答え」をタケイは、いま、その「疑問形」でとらえている。まだ「声」にはなっていないのかもしれない。でも、「声」の予感がいたることろに満ちている。噴出している。私は、そのタケイの「声」を正確には聞き取れないけれど、あ、ここに「声」が確かにあると感じる。
 聞き取れないのに、感じる--この矛盾が、私がタケイの「声」を気持ち悪く感じる理由かもしれない。


まひるにおよぐふたつの背骨
タケイ リエ
思潮社
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宮尾節子『恋文病』

2011-11-27 23:59:59 | 詩集
宮尾節子『恋文病』(微風通信、2011年09月13日発行、精巧堂出版発売)

 宮尾節子『恋文病』は非常に読みやすい。ことばを「目」ではなく、「喉」で書いている。「耳」、というより、も。
 「いいよ」という作品。

よくない

いいわけがない
のに
いいよ という

いいよ
それでも いいよ

こころの垣根を
低くして
きみを受け入れると

猫のおしっこや 花や
土のにおいが近づく

なつかしい
このひくさを
からだが覚えている

しゃがんで背負った
小さな おまえを

いいよ

こんどは
越えて行かせるために

 子どもが成長し、宮尾を「踏み台」にして、家を出ていく。親離れしてしまう。そのときの気持ちを書いているのだと思う。
 「こころの垣根」という比喩、そしてそれにつづいて宮尾と子どもとの関係が抽象的に書かれている。この、比喩と抽象が、すぐに「猫のおしっこや 花や/土のにおいが近づく」という具体的なものによって乗り越えられる。このタイミングというのか、スピードがとてもいい。そのあとの「なつかしい/このひくさを/からだが覚えている」もすばらしい。
 「このひくさ」の「ひくさ」は「垣根」よりももっと抽象的である。「垣根」はまだ「具体的なもの」をつかった比喩だが、「ひくさ」は概念である。けれど、その抽象的な概念が、すっーと「肉体」へ入ってくる。
 「からだが覚えている」と宮尾は書いているが、その「からだ」と「覚えている」の関係が親密である。しっかりしている。「頭」で覚えているのではなく、「からだ」が覚えている。「からだ」が知っている。「からだ」がわかっている。
 子どものとき、自分が土台になるようにして育てた。(背負って、育てた--というのは、「からだ」が覚えている感覚である。)その子どもがいま自分を乗り越えていく。それを宮尾は「頭」ではなく、「からだ」で感じる。
 その「からだ」は、「猫のおしっこや 花や/土のにおい」ということばのなかでは「におい」とともにある。嗅覚だ。この「頭」から「からだ」そのものの感覚への広がりがとても自然だ。
 そして、その「におい」が「地面」に近い場所と結びついて、それが「ひくさ」にかわるところ。「ひくさ」とひらがなで書いているところ--そこに、この詩人の良質な部分が結晶している。(直前には「こころの垣根を/低くして」と漢字で書いている。)
 「頭」ではなく、「からだ」でことばを動かしている。(「肉体」で、と私はいつも書いているのだが、きょうは宮尾のつかっている「からだ」を借りて書いておく。)
 この「からだ」でことばを動かすということは、「音」にも反映している。それも耳で聞いて感じる音ではなく、声に出すことよって生まれる音(変な書き方だね)、喉にむりのない音--。たぶん、宮尾は、話すときにつかうことば、喉をとおることばしか書かないのである。ことばが喉をとおるとき、そのことばは「からだ」を駆け回って、それから「頭」へやってくる。ことばと「喉」とは密着しているが、ことばと「頭」はちょっと距離がある。「間」がある。その「間」を、なんといえばいいのだろう、こころが埋める。こころとは、「からだ」のすみずみ、感覚のすみずみ、ということかもしれない。この詩で言えば、「におい」を感じる鼻をとおって、「いいよ」ということばが「いいよ」になる。子どもの「土台」になりうる力を持つ。
 ことばの動きをもう一回整理すると、

喉→こころ(からだ)→頭。
 
 ということになるが、この「間」としての「(こころ(からだ)」は、一種のクッションのようなもの。クッションといっても、そのクッションが受け止めるのは、「こころ(からだ)」そのものなのだけれど。つまり、一人二役をしているようなものなのだけれど。
 あ、こういうこことは説明がむずかしいのだけれど、その一人二役のなかで、なにかが往復する。それこそ「こころ」が「からだ」になって、「からだ」が「こころ」になってという往復をする。この往復を「矛盾」といってもいいかもしれない。(混沌、というと哲学的になりすぎるかな?)

よくない

いいわけがない
のに
いいよ という

いいよ
それでも いいよ

 この「よくない」と「いいよ」の往復。何度も往復し、「こころ」と「にくたい」をなじませる。そして「いいよ」ということばを最後に選び出す。「それでも いいよ」の「それでも」には、「こころ」と「からだ」を往復した「かなしみ」が小さな傷になって残っている。「それでも いいよ」は「それじゃないほうが、もっといい」ということなのだが、そのほんとうはいいたいことばを「からだ(喉の奥)」にしまいこむ。
 自分のいいたいことを、ぐいと飲み込み、喉の奥にとどめる。その「からだ」の動きが「こころの垣根を/低くして/きみを受け入れる」ということなのだ。
 「こころ(の垣根)」を低くするとは「からだ」を低くする--地面に近づける、しゃがむということと重なる。だから、そのあと「地面」が自然にことばになる。猫のおしっこ、花、土のにおいが、そのまま「からだ」に入ってくる。
 その「からだ」が覚えている「ひくさ」を、宮尾は「なつかしい」とも呼んでいる。これは、単に「土」が「なつかしい」のではなく、自分の「からだ」そのものがなつかしいのである。自分の「からだ」のなかにあった「力」を、宮尾は再発見しているのである。もう一度、子どもの「踏み台」になれる。そんな力があったことを再発見して「なつかしい」と呼んでいる。
 かなしいけれど、うれしい。
 うれしいけれど、かなしい。
 この「矛盾」が、この作品のなかで往復している。「頭」のなかではなく「からだ」のなかを「こころ」となって動いている。ことばが「喉」をとおることで、その往復が、「からだ」そのものの厚みになる。
 声に出してみるとわかる。喉がどんなふうに動くか、ためしてみると、わかる。

いいよ
それでも いいよ





かぐや姫の開封―宮尾節子詩集
宮尾 節子
思潮社
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山崎純治『通勤どんぢゃら』

2011-11-26 23:59:59 | 詩集
山崎純治『通勤どんぢゃら』(思潮社、2011年09月05日発行)

 山崎純治『通勤どんぢゃら』はタイトルが象徴しているように、「通勤(電車?)」が主要な「内容」である。車内風景、それからつながってゆく「会社」の風景。ことばが「流通言語」のまま淀んでいる。あ、これは、と思うときもあるのだが、その肝心なときにことばが動いていかない。

べったり沈んだ屋根の群れ
高速道路が伸びるずっと向こうまで
隙間なく埋め尽くし
そこから這い上がってくる男たちの
朝は鈍く重たい
自動ドアが軋んでようやく閉まると
超過密の無人称空間で
初めて一人称になる
ネクタイを締めて立つ
妙になま温かいかたちとなり
ニンニク臭い息を吐きかけられ
無遠慮に押し付けてくる腰や肩が
どこまでも狭くするから
身を委ねるだけ
                                「リピート」

 私は満員電車・バスが苦手で、歩くか自転車で通勤しているので、山崎の書いていることが「リアル」かどうかはっきりとは判断できないのだが、まし、そういう感じだろうなあと思う。この知らないことなのに、そういうものだろうなあと思ってしまうのは、ここにかかれていることばが「通勤電車」を語るときに常用される「流通言語」だからである。私は現実を知らない。けれど、多くのひとが語る「通勤電車」にまつわることばと山崎のことばのあいだには「差異」がほとんどない。
 唯一、

超過密の無人称空間で
初めて一人称になる

 ここが、不思議である。人込みのなかで、「ひと」であることを許されず、ただ「こんでいる」状態を構成するだけの存在。それが「超過密の無人称空間」ということだと思う。そこでは誰も、そこにいる「ひと」のことを配慮しない。--それなのに、その「超過密の無人称空間」で「一人称になる」。「一人称」とは「私」。「私」に帰る、と山崎は書いているのだと思うが、
 どうして?
 どうしてそんな超過密な状態、人間が人間扱いされない空間で「私」を自覚するのだろうか。
 ここには何かしら矛盾--つまり、山崎のことばでしか語りえない「真実」があると思うのだが、それを追っていくことばがどうも「真実」っぽくない。「真実」にせまっていく迫力がない。
 きのう取り上げた時里二郎の詩に、

ことばになる萌芽のその芯に含んでいるような《声》、ことばを胚胎した《声》、

 ということばがあった。そのことばが何を指し示しているのか、私は私のことばで言いなおすことはできない。つまり、ほんとうに理解しているとは言えない。けれど、そのわからないままの時里のことばのなかで、私はかってに自分の思っていることを「捏造」できる。時里を置き去りにして、自分で何かを考えることができる。そのとき考えたこと、考えることによって動いた私のことばは「真実ではない」かもしれない。でも、少なくとも、いままで存在しなかった何か、ではある。
 山崎のことばを読んでいても、その「いままで存在しなかった」なにかが動きださない。あらわれて来ない。

ニンニク臭い息を吐きかけられ
無遠慮に押し付けてくる腰や肩が
どこまでも狭くするから

 これは簡単に想像がついてしまう。ニンニク臭い息はいやだねえ。触れるを通り越して圧迫してくる他人の肉体はいやだねえ。--というのは、もう語られ尽くしている。
 「一人称」はどこへ行ってしまったのか。
 「初めて」一人称になったのに、すぐ消えてしまっては、それが「一人称」であるかどうか、判断しようがない。

 「通勤電車」と関係があるのかないのかよくわからないが、「半島」という詩はおもしろかった。

毛の生えた耳が
いきなり突き出してくる
(半島だ)
がさがさした祖父の感触
幼い頃聞かされた記憶に
ぽつんと取り残され
そうじゃて、
塩生植物の砂浜で
膝を抱え
ぎざぎざの海岸線を
ひとりなぞっていた

 「通勤電車」に関係があるとしたら、ある拍子に、だれかの耳が目の前にあらわれ、その耳から祖父を思い出したということだろう。それも漠然と祖父を思い出したのではなく、記憶を語る祖父を、祖父がどこでその記憶を語ったかということまで、具体的に思い出したということだろう。その「思い出」へ、ことばが動いてゆく。
 「そうじゃて、」が何を肯定しているのか私(読者)にはわからない。けれど、祖父が何かを肯定するとき「そうじゃて、」ということがわかる。「声」がわかる。「声」というのは、耳と同じように肉体である。「がさがさ」という感触も「触覚」という肉体である。「膝を抱え」と肉体の名称も出てくる。そこに、私の知らない人間(祖父)が出現してくる。それも、山崎の聞いた「声」の調子そのものとして出現してくる。
 こういう感じはいいなあ。

もう返してくれないよね、
耳の祖父を
じゃがのう、
無造作に素描された等高線は
昔の声を刻みながら
勝手に縮んでゆき
ある日
水っ鼻をすすり上げながら
にじりよってくる
(半島だ)

 どんな記憶が語られたのか、私(読者)にはわからない。けれど、祖父が「そうじゃて、」とあることがらを肯定し、他方で「じゃがのう、」と意見を留保したということがわかる。肯定と留保のなかに、祖父がいる。そしてそれを「声」として聞き取った山崎がいる。「口調」として聞き取った山崎がいる。
 そのとき、山崎の、祖父のことばを聞いている耳と、祖父そのものの耳が何か重なって感じられる。「肉体」として「ひとつ」になっているような感じがする。
 この詩には書かれていないことが非常に多い。情報量は非常に少ない。けれど、その少なさのなかには「肉体」がはっきり存在している。
 こういう「肉体」が「リピート」の「一人称」にも加わると詩がおもしろくなると思う。





通勤どんぢゃら
山崎 純治
思潮社
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時里二郎「『《mozu》声のためのテクスチュア』についての補足」

2011-11-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「『《mozu》声のためのテクスチュア』についての補足」(「Loggia」10、2011年06月13日発行)

 散文詩にはいろいろな形がある。一昨日、昨日とつづけて読んだ金子鉄夫、榎本櫻子の作品は何が書いてあるか、その「内容(意味)」がよくわからない。ことばが、瞬間瞬間に爆発し、暴走していく。そのときの、爆発の仕方、そしてそこからはじまる暴走の勢いを楽しいと感じれば、まあ、その「楽しい」という感じの瞬間に、私は金子や榎本と出会っていることになる--と私は単純に考えている。だいたい現実の人間のつきあいというのも「意味」ではなく「楽しい」が優先してしまう。それでいいと、私は思っている。
 時里二郎の作品の場合は、事情がかなり違う。「内容(意味)」を私が理解しているかどうかわからないが、金子や榎本の作品に比べると、何といえばいいのか、要約が可能である。つまり、なんとなく「わかった」という感じがする。「わかる/わからない」とは、ようするに自分のことばで要約できるかできないか、ということにつきるからね。
 で、「『《mozu》声のためのテクスチュア』についての補足」は、どう要約できるか。ある日本人作曲家が北欧の寒村で生涯を終えた。彼は「テクスト」を残していた。「私(時里と考えると理解しやすいが、架空の話者である)」はそれを読み、感想を持つ。その「テクスト」と「感想」のあいだをことばが動いている。--と、要約できる。
 要約はできるが、しかし、それで「理解」したことになるかといえば、これがまた面倒くさい。要約できた分だけ、金子や榎本の詩よりも、難しいかもしれない。私がいったい時里のことばのどこに共鳴し、楽しいと感じたのか語ろうとすると、簡単にことばが動いてはくれない。
 だいたい、最初の「テクスト」がほんものなのか、架空なのか、ということろからつまずいてしまう。もし、それが架空のものなら、その架空のテクストに触れて動く「私(時里--と書いておく。これは、谷内、と区別するためである)」はいったいどういう存在なのだろうか。「私(時里)」も架空の存在にならないだろうか。ほんとうの「時里」は、架空のテクストに触れてことばを動かしている「私(時里)」をことばのなかで動かしているのであって、詩のなかに出てくる「私(時里)」はことばに過ぎない。
 でも、こういう論理がほんとうに成り立つかどうか、わからない。たとえば時里が現実の風景を書いて、そこに「私(時里)」を登場させたとしても、それが果して「ほんとうの時里」であるという保証はない。「私(時里)」は架空の存在である、ことばのなかだけにしか存在しないと言わないだけなのかもしれない。
 どんなふうに書こうと、それがことばで書かれた存在である限り、それが「ほんもの」か「架空」かという区別は読者にはできない。
 時里のことばがめんどうくさいのは、その「区別できない」ということを意識するように仕向けてくることばだからである。常に、そこに書かれているのは「ほんもの」とは判断できない。いや、それ以上に、時里は、ここに書かれていることは「架空」によって動いている世界であるといいつづける。
 時里にとって、「架空」と「書く」は同義なのである。まるで悪質な冗談のようだが、書くとは「架空」を生きることであり、「架空」のなかで「書く」行為が鍛えられる。別のことばで言うと、ことばがことばの自由を獲得する。
 で、その「自由」のために、「自由」を暴走させるために、時里はこの詩ではさらに「ずるい」ことをしている。「架空」から出発し、「架空」を相手にするだけではなく、「補足」をつけくわえる。まあ、この「補足」を最初の「架空のテクスト」に対する「補足」とみれば、それほど「ずるい」とはいえないかもしれないけれど、「架空のテクスト」を読んだ自分自身の考えの点検(補足)ととらえるとどうなるだろう。ただでさえ「架空」なのに、「架空」の二乗、あるいは三乗(さらには複数乗)ということが起きないか。何かをわかったような気になるが、それは「ほんとう」のことではなく、「架空」の「架空」の「架空」、つまり、現実としては何も知らないということにならないか。
 変だよねえ。これが変とわかっていても、あ、時里のことばは楽しい--と思ってしまう。
 なぜ?
 「架空」の「架空」の「架空」のなかで、現実のことばが抱え込んでいる「論理」以外のものが振り落とされ、「純粋論理」(透明論理?)のようなものが見えてくるようで、それが快感なのである。その「架空」の「架空」の「架空」のことばを動かしているのは時里なのだが、そのことばを追いかけ、ついていけている(つまり、要約できるくらいには理解できている)と思うとき、何といえばいいのだろう、そのことばを動かしているのは時里なのに、私(谷内)もそんなふうにことばを動かして何かを考えられるのではないか、と錯覚してしまう。
 しかも。
 そのときのことばというのは、先に書いたことと重なるのだけれど、とっても透明。とっても論理的。--に感じられる。たとえば、 9ページの終わりの方から10ページにかけて。

 男の声と女の声、それから男とも女とも識別できない中性的な声(おそらく電子的処理をほどこされたもの)。男女とも年齢の階層が幼年期から老年期まで、三-四種類ほどの声が識別できる。それらの声と、さまざまなノイズ(ホワイトの伊豆のような電気的な発生音ばかりでなく、どこから採取してきたものなのか不明な雑音)とを電子処理した作品なのだが、どの作品も、作り手の初々しいおどろきと発見と、未知なものへの不安な手探りを、その手探り状態のまま投げ出したような、そしてそれが彼の生得の感性とでもいうべき音楽的なポエジーと結びついて、ほとんど奇跡的な《詩》のフレーズと紛ごうばかりの《ことば》の萌芽を認めることができた。ことばになる萌芽のその芯に含んでいるような《声》、ことばを胚胎した《声》、ことばと声との間で揺れ動く音の運動、その接近と後退を、繊細にしかしくっきりと表現して見せた作品だった。

 「男の声と女の声」云々、「ノイズ」云々、「電子的処理」云々は、まあ、うるさい。何かめんどうくさいことを書いている。しかし、

ことばになる萌芽のその芯に含んでいるような《声》、ことばを胚胎した《声》、ことばと声との間で揺れ動く音の運動、

 ここがすごいねえ。それって、いったい何、と考えはじめるとわからないのだけれど、美しいなあ。ことばになる萌芽としての《声》か。あこがれちゃうね。声のなかに、ことば--つまり「意味」をつくりだしていくものがある。その「意味」は「感情」でもあるんだろうなあ。「肉体の音」としての「声」、ことば以前の響き。
 それが、ふいに聴こえたような気持ちになるでしょ? 錯覚するでしょ? そして、それが「わかる」ということは、私(谷内/読者)も、それを共有したということでしょ? うーん、「誤解」(誤読)なんだろうけれど、何だか、その純粋論理(透明論理)を自分で発見したような興奮につつまれる。「抽象」に達した興奮、と言い換えることができるかもしれない。

 詩は(詩のことばの運動は)、「結論」を求めるものではないけれど、時里のことばは一種の「結論」へと突き進む運動の純粋さ、強靱さのようなものを強く感じさせる。「架空」からはじまる「物語」だから、「結論」も「架空」に過ぎないのだけれど、そのとき動くことばの強さゆえに「結論も架空である」ということを忘れて興奮してしまう。「架空」は「抽象」である、と錯覚してしまう。「具象」から余分なもの(?)をそぎ落として、純粋に到達した「美」がそこにあると錯覚してしまう。
 時里のことばは「架空」を現実にしてしまう。「抽象」を現実であると、錯覚させてしまう。そして、その錯覚を時里は「論理」で支える。ことばを積み重ねることで、階段を一段一段のぼるように、「純粋」になっていくと感じさせる。
 それは、もしかすると「混沌」なのかもしれないけれど、「論理」が強靱なために、そこにある世界を「混沌」ではなく、「透明」と感じてしまうのかもしれない。
 金子や榎本のことばは、こういう「論理」を感じさせないのと対照的だ。


ジパング
時里 二郎
思潮社
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八柳李花ー谷内修三往復詩(5)

2011-11-25 00:54:55 | 
枝分かれした解釈   谷内修三


 枝分かれした解釈を泳ぐように男が会話をずらした。それは男がその話題から私を遠ざけようとしているのか、あるいは私が傷ついてはいけないという配慮が働いたためなのか。つまり、私を嫌っているためなのか、あるいは私を気づかっているからなのか。一瞬問い詰めたい気持ちに襲われる。しかし、どのようなことばをつないでゆけばこの新しい流れを遅れさせたり止まらせたりせずに動かせるのか思いつかなかった。
 もし会話のはぐらかしが私への配慮であった場合、問い詰めることは男の好意に反することになる。男が私を拒もうとしてそうしたのなら、男を気のおけない唯一の友と信じている私は絶望的な気持ちになってしまうに違いない。つぎにつなぐことば次第では私と男の関係はとりかえしがつかないものになるかもしれない。
 あるいは会話をずらされたと感じる私のこころのなかには、私と男の関係が破綻するのではないかという予感があったのかもしれない。そのために男から返ってきたことばを先取りするようにして私は誤解しているのかもしれない。もしそうならばすべては私に起因することになる。

 (水差しの、影の部分に遠いピアノの脚が映っている。)

 男のことばが泳ぐ男がひきおこす冷たい水の乱れのように私の肉体を引き込み、そのなかで私はおぼれていくのかもしれないと感じ、息継ぎをするようなあいまいな声で、「それはあれですか?」と私が言うと、「もちろんあれだよ」と、私がそう言うのを知っていたかのようなすばやい反応が返ってきて、私は再び遠くに置き去りにされていると感じた。

 (声の横を、しなやかな脚が通りすぎてゆく。)

 男は私を拒んでいるのか、あるいは拒絶を明確にすることで私が完全に立ち直れなくなるのを心配しているのか。私は判断したくはない。それは、いずれにしろ、私の否定だ。その延滞のなかで、私はことばを失ってしまうのだが、ことばを失うことと思いが肉体のなかで交錯することは別問題で、私の感情は暗く汚れてしまって、その汚れが表情に出てしまったらしい。
 「そんな顔するなよ」と男は時間を押し流すように声を出した。私は「そうかもしれない、しばらくひとりで考えてみるよ」とことばにするしかなくなる。どうもそれが男の求めていたことばだったらしい。「それじゃあ、おれは帰るよ」と薄暗い椅子を残して消えてしまうのだった。

                 (2011年11月25日)



八柳さんの詩は、フェイスブックでお読みください。
フェイスブック→谷内修三→象形文字編集室
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榎本櫻子「蜜柑の樹になる一角獣」

2011-11-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻子「蜜柑の樹になる一角獣」(「さくらこいずビューティフルと愉快な仲間たち」4、2011年11月01日発行)

 榎本櫻子「蜜柑の樹になる一角獣」は、きのう読んだ金子鉄夫「ゴッホ」と同じように、「意味」を求めても何もみつからないだろうと思う。「意味」はそこに書かれたことばの「全体」からは見えて来ない。(と、私は、思う。)つまり、「結論」というものがない。榎本を動かしているもの、榎本のことばが動いている「理由」は「結論」ではない。--という言い方が正確かどうかはわからない。私には「意味」がみつからないだけで、ほんとうはあるのかもしれない。私の読み方が「誤読」に偏りすぎているのかもしれない。

 「意味」や「結論」ではなく、では、私は榎本のことばに何を読んでいるのか。

しどけない微熱をおびた壁に浸して(なにを?)、気の抜けた炭酸水に芍薬が生けてある、斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に、優しい拡散を放射する球面、ゆるやかに滲む霙の幻影の繊細さ、雪の筋力に喚く喫茶店の色硝子で百合を象った照明器具が、絶対的な根拠を産み戻そうとしている、という風景と石鹸とのあいだに、どのような関係があるのか、説明しなさい、

 「微熱をおびた壁」というようなことば--それが文全体のなかでどのような「意味」を担っているのか私にはわからないが、そのことばに私は反応する。そのことば、そしてそのことばが指し示すものが、全体から独立して、そこに存在する。その「独立して存在する」という力に、私はひかれる。「意味」を破壊して(「意味」を無視して)、ただ、そこにあることば。それは文の「意味」から独立しているだけではなく、独立することで、乖離し、私のことばを刺激する。
 --と書くと、何のことかわからない?
 言い方を変えると、あ、このことば、もしかしたらつかえるかもしれない。いつかつかってみよう、という気持ちを私におこさせるということである。榎本の「意図」は無視して、私は私のことばのなかに、強引にそのことばを組み込み、その瞬間に生まれる「違和」を手がかりに、私自身のことばを破ってしまいたいと、ひそかに思うのである。
 こういうことばがあると、私は、その詩が好きになる。詩は、ようするにことばなのだ。「意味」ではなく、「もの」のようにして、そこにある素材。それは、ある日突然、何か特別なものにかわる。ほかのことばに出会うことによって。

微熱をおびた壁

 これはなんだろうか。たとえば、太陽に照らされ、徐々に熱を帯びてくる壁か。近くに火があるのか。あるいは、太陽が沈み、しだいに壁から日中の熱が消えていく状況なのか。--でも、こういう読み方は、つまらない。
 私は「微熱をおびた壁」ということばに触れた瞬間、壁が生きていると感じた。
 「微熱」は基本的には人間をはじめとして生きているものの変化である。ウィルスの侵入に肉体が抵抗するとき、熱が出る。発熱する。その熱がまだおだやかな状態が微熱。壁にはそういうことが起きない。起きないのだけれど、「微熱をおびた壁」と書いた瞬間に、それが起きてしまう。この、ことばの運動が「現実」を動かしてしまう(歪めてしまう)がおもしろいのだ。壁が人間のように、何かにおかされて、熱をもってくる。壁のなかで何かが動きはじめている。
 榎本はそんなことを書きたいのではないかもしれない。--でも、私は、そう読みたいのである。

優しい拡散を放射する球面、

 このことばもとても気に入った。特に「拡散を放射する」がいい。文字も美しいし、音も美しい。
 「優しい」という屁のようなことばが冠についているのがちょっと気に食わないといえば気に食わないけれど、

斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に、拡散を放射する球面、

 では、ことばが続かない。リズムが続かない。「斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に」が重たすぎる。その重さをいったん「優しい」で受け止め、吸収してしまわないと「拡散を放射する」というスピード感あふれることばにならない。
 「優しい」に「意味」(文のなかで占める「位置」)があるとすれば、前のことばを一気に引き受け、前のことばを「無意味」にするという「意味」がある。そこで働いているのは、いわゆる「意味の経済」(どういう表現をすれば「内容」が正確につたわるか、という経済学)ではなく、どうすれば次のことばが動きやすくなるかという「ことばの運動学」、「ことばの肉体の経済学」である。
 正確な「比喩」にはならないが、「優しい」は水泳で言えばクロールの「息継ぎ」のようなものなのだ。息継ぎのために顔をあげるとスピードが落ちるから、はやく泳ぐだけのためなら息継ぎをしないでがんばればいい。でも、それでは持続しない。持続のために、きちんと息継ぎをする。それは「肉体」の本能である。欲望である。ことばの肉体にもそういうものが働く。

 で、こういう詩をどう「評価」するか。私は、詩のなかに、おもしろいことばがあるかどうか、で判断している。おもしろいことばが多ければ、「好き」というだけなのだ。「好き」と感じたあと、まあ、適当に「理由」を捏造する。女を口説くようなものである。最初からいいたいことがあって口説く男などいないだろう。口説きなんて、口からでまかせである。どこまででまかせをつづけられるかが、口説きの勝負どころである。
 あ、余分なことを書いてしまった。
 で、詩にもどる。
 途中を省略して、50ページの次の行。

肛門は幾何学模様で圧迫された心臓の悲鳴、素数の分だけ割かれた世界を往還する

 わくわくしない? どきどきしない? 何が書いてあるかはわからない。特に「素数の分だけ割かれた世界を往還する」はいったい何語? 日本語で書いてね、といいたいくらいだけれど、音がきれいだなあ。「素数」と「割かれた」が美しく響く。「往還」のゆったりした音と「素数」も響き合うねえ。
 それに先立つ「肛門は幾何学模様で圧迫された心臓の悲鳴」が、また、むちゃくちゃでおもしろい。「肛門」と「心臓」が「幾何学模様」でつながってしまうところが、過激でかっこいい。その「幾何学模様」が「素数」と呼吸し合う。

 榎本のことばには、何やら余分な皮下脂肪のようなものがたくさんあって、それがことばの筋肉をもったりさせている。シャープな印象を疎外している。けれど、これはアスリートがパフォーマンスをつづける内に、最適な肉体の形に到達するように、しだいにそぎ落とされていくものだろう。
 そのときまで、私はここが好きだけれど……とだけ私は書きつづけたい。
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ベネット・ミラー監督「マネーボール」(★★★★)

2011-11-24 20:43:02 | 映画
監督 ベネット・ミラー 出演 ブラッド・ピット、ジョナ・ヒル、ロビン・ライト、フィリップ・シーモア・ホフマン

 とても手際のいい映画である。特にブラッド・ピットの「過去」の描き方がいい。挫折した人生は感情移入しやすい(感情移入を誘いやすい)ので、描き始めると情報が多くなる。それを最小限に抑え、あくまで「未来」に力点を置いている。そのため、映像にスピードが出る。野球映画なのに、野球のシーンそのものは少ない。「20連勝」さえ、カタルシスはない。はらはらどきどきが少ない。(私だけ?)妙に安心して見てしまっている。
 それよりも。
 ブラッド・ピットとフィリップ・シーモア・ホフマンの対立。どの選手を起用するかでもめる。監督のやり方に反対するブラッド・ピットは、メンバーを変更させるために、監督が使いたい選手をトレードで放出するという強硬手段をとる。この「冷酷」な選手の使い方(首の切り方?)や、その実行の仕方(ジョナ・ヒルをつかって「首切り宣告」する)がとてもおもしろい。ジョナ・ヒルに予行演習させ、だめだしするところなど、何気ないのだが「過去」がしっかり描かれている。あ、ブラッド・ピットはこういうふうに選手であることをやめさせられたのだと分かる。ブラッド・ピットの「過去」が「18歳のルーキーの映像」と「いまの決断、いまの行動」の組み合わせで立体的になる。そしてその立体感がそのまま、ブラッド・ピットという人物の立体感になる。
 このブラッド・ピットの立体感――他の登場人物とは違うね。他の人物も「過去」を持ってはいるのだが、それは「線的」。特徴的なのがスカウト陣。彼らはどうやって選手を評価するか、誰をスカウトしたかという「線」しかもたない。「未来」もその「線」の延長線上にある。疑問がない。「過去」は「いま」をうしろから押すだけであって、「いま」を突き破って行かない。というか・・・。そういう「時間」を生きている人間は「いま」がそれまでの「過去」と分断してしまうことを恐れている。
 ブラッド・ピットは「過去」の「線」を交錯させ、「面」にし、さらにそこに自分の持たない「過去」(ジョナ・ヒルの経済学的分析)をからませ、「立体」にしてみんなを飲み込んでゆく。それがさらに「野球理論」をものみこんでゆく。これが、おもしろい。こんなややこしいことを、この映画はさらりと描いてしまう。
 もしかしたらブラッド・ピットはこの映画以降変わってゆくかもしれない、という期待まで抱かせる映画である。


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金子鉄夫「ゴッホ」

2011-11-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「ゴッホ」(「さくらこいずビューティフルと愉快な仲間たち」4、2011年11月01日発行)

 金子鉄夫「ゴッホ」には、ところどころおもしろいところがある。ところどころ、というのは何だか書いていて申し訳ないが、それが私の実感である。

まず脱いで白い紙の上に置いておく美しい美しいこどものこどもの目玉が見る、見るのは痛々しい遺体、僕の遺体だ。その傍で喚く実体のないサルばかりの図式、それからは「それからを」チューブに詰めて食べようとしたところで「したところ」に似た恋をしようがへばりついて離れないガムみたいに泣くから

 ことばが動いていくとき、たぶんその運動の先には何かがある。その何かを「目的」と仮に呼んでみる。(結論、でもいいかもしれないが……。)それは、まあ、話者がことばを発するときに想定している何か、ということになる。
 しかし、実際に話者がことばを「目的」にむけて動かすとき、ことばが話者の思い通りに動いてくれないときがある。
 --というのは、ふつうは、話者が明確に語りたいことを整理していない(目的が事前に明確に想定されていない)ために起きることのように思われている。きちんと語りたいことを整理してことばを動かせば、ことばは話者の精神の動きにあわせて動く、と思われている。
 --というのは、ほんとうはそうではなくて、話者の精神のあり方とことばの運動が整然と目的に向かって動いているのを読むと、読者が安心するというだけのことかもしれない。話者の精神とことばの一致を、「わかりやすい」という表現でくくり、読者が安心するために考え出された、一種の「ことばの経済学」かもしれない。
 --と長々と、どうでもいいことを書いて、やっと金子の詩に私はもどろうとしている。

 金子の詩のことばの運動は、「わかりやすい」(流通しやすい、学校教科書の散文)運動に逆らっている。簡単に言うと、「目的」にさっさと進まない。ことばがあるところまで進むと、自己反芻する。同じことばが繰り返され、ことばは目的に向かって動く金子の精神ではなく、ことばそのものの内部(?)に向かって動く。動こうとして、立ち止まる。
 これはもちろん、逆の言い方もできる。
 ことばが勝手に「目的」をめざして動くことに対して金子の精神が異議を唱え、金子の精神そのものの内部へ向かって動こうとする。そして、立ち止まってしまう。
 両方の言い方が成立するのは、どっちでもいい、どっちにしても同じことであるということかもしれないが、それは違うことによってはじめて同じになりうる何かということもできるかもしれない。

 何を書いているかわからない?

 あ、そうだねえ。私もよく整理できていないのだ。わからないことがあるのだが、それを書くことで少しでも納得できるものにしたいと私は思うのだけれど、その瞬間、その「……したいと思う」という気持ちがことばのなかに混じってきて、ごちゃごちゃする。
 で、その、私のなかの「ごちゃごちゃ」が一瞬、金子のことばを読むと重なったような気になるところがある。
 そこに、私は「おもしろみ」を感じている。

 何を書いているかわからない? そうでしょうねえ。でも、もう少し、私のことばの動きにつきあってみてください。
 具体的に書きますから。

 引用部分でいうと、「美しい美しいこどものこどもの目玉が見る、見るのは痛々しい遺体、僕の遺体だ。」という「しりとり」のような部分は、おもしろくない。「痛い」が「遺体」に転換するのは、ことばの「立ち止まり」というより「飛躍」で、詩は、たぶんそういう「飛躍」のなかにあると定義されることが多いと思うが、そこはちょっとおもしろくない。
 それよりももっとおもしろい部分がある。

それからは「それからを」チューブに詰めて食べようとしたところで「したところ」に似た恋をしようがへばりついて離れないガムみたいに泣くから

 「したところ」というカギ括弧で括られたことば。ここには「意味」はあるのかな? 何か「意味」ではないものが、ある。
 「意味」は、私の「用語」では「頭で把握する整理したことがら(論理の経済学)」なのだが、私の定義に従えば、金子の書いている「したところ」は「意味」ではない。この「意味」ではないという感覚を別のことばで言えば、「言い換えができない」ということにもなる。「したところ」をほかのことばを補足しながら、私の頭で理解できるものにしようとすると、とってもめんどくさいのである。めんどうくさいから、私は「できない」と言ってしまうのだが……。

 と、ここで私が言いよどんでいるのは。

 めんどうくさくて説明できないくせに、私はその「したことろ」が「わかる」のである。私の「肉体」がわかってしまう。いや、私の肉体のなかにある「ことばの肉体」がわかってしまうのである。
 あ、それ。
 何というのだろうか、たとえば背中がかゆい。「背中をかいて」と家人にたのむ。なかなかかゆいところに届かないのだが、ある瞬間、ぴたっと当たる。その瞬間の「あ、そこ」というのに似ている。
 私には確実に「わかる」、けれど他人には「わからない」。その「わからない」が偶然「わかる」と重なって、ひとつになる。

 あ、それ。ここがいい。

 そういう声が思わず出てしまうのである。--これは、しかし、私以外にはわからないよね。背中のかゆいところが私にしかわからないようなものだ。
 この、不思議な気持ちよさ--それが、この詩には、あと少し出てくる。

そんなことはどうだっていい、どっだっていいって言っているのがママ、ママっだったりするのだけれど「するのだけれど」があまりに豚臭がキツくて、そんなことをいまさら言われても「言われても」が腫れてしがみついているパパ

 「するのだけれど」がいいなあ。そこには「意味」ではなく、きっと「こと」があるのだ。動いている何か、動くことで存在する何か、がある。「意味」のように固定できない何かと言い換えることもできるかもしれない。ことばが動きときの、「遊び(余裕)」のようなもの。「遊び」がないと、機械は傷む。同じように、ことばも「遊び」がないときっと傷んでしまって動いていけない。
 そういうものに金子は触れながら、ことばといっしょに動いている。そういう感じがする。そこがおもしろい。

 ただし、「言われても」は窮屈である。「遊び」が少ない。最初に引用した部分の「それからを」はもっと窮屈である。
 で、私の希望というか、要望というか、まあ、欲望の方が正確かもしれないのだが。「したところ」「するのだけれど」というカギ括弧の繰り返しに通じることばをもっとたくさん詩のなかに組み込んで、ことばの肉体を生々しい感じにしてもらえたら最高なんだけれどなあ、ということ。
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青山かつ子「別れ」

2011-11-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
青山かつ子「別れ」(「repure」13、2011年10月15日発行)

 青山かつ子「別れ」は東日本大震災の体験を書いている。大震災の直接の体験というより、間接的にかかわっていく--かかわらされてしまう体験を書いている。

避難生活の疲れからか
よそったごはんがあたたかいまま
叔母は台所で急死した

(先だって
 叔母の自慢の手料理を
 味わったばかりだった…)

トウキョウへ行く日
駅で待っていた叔母は
一夜で仕上げたセーターを持たせてくれた
しのばせてあった千円札
それはお守りのようで
なかなか使うことができなかった

べそをかきながら
心配顔の叔母に手を振ったのは
半世紀まえ
ホームのむこうには
緑の松林と
真っ青な海がひろがっていた

あの駅は
常磐線富岡駅
原発警戒区域
津波で壊滅

 叔母の死に出会い、叔母の思い出を書いている。そういう詩で、何か特別新しいところがある、というわけではないのだが、こころに残る。それは、書かれている内容、つまり、叔母がセーターを編んでくれたとか、そっと千円札をくれたとかという「あたたかさ」がていねいに書かれているからなのだが、それだけではない、と、ふと感じた。
 最終連は、ほとんど漢字で書かれている。何か近寄りがたい強さがある。--そう思って詩の全体を見わたしたとき、1行目の「避難生活」という「熟語」も目に入ってきた。硬く冷たい漢字が、3、4連目の、あたたかさ、ひらがなのことばをはさんでいる--対比のような形で書かれていることに気がついた。
 青山は意識して、漢字とひらがなをつかいわけているかどうか、よくわからさないが、つかいわけのなかに何かしら不思議な力が働いているように思う。
 最初の3行、

避難生活の疲れからか
よそったごはんがあたたかいまま
叔母は台所で急死した

 これも、ただ事実だけを書いているように見えるけれど、「避難生活」「急死」という冷たいことばの間にはさまれている「よそったごはんがあたたかいまま」が、何といえばいいのだろう、肉体の内部にふっと入り込んできて、涙を誘う。「避難生活の疲れ」も「台所で」の「急死」も、私には「頭」でしか理解できないが「よそったごはんがあたたかいまま」は、そのまま私の日常につながっている。つながってくる。
 大震災で避難しているひとたち。その日常は、私たちの日常とは少しもかわらない。その、あたりまえのことが、何か強く迫ってくる。ひらがなが、「肉体」をゆさぶる。「よそったご飯が温かいまま」と書いても意味は変わらないのだが、何かが違う。
 そうした何かが、3連目の、

しのばせてあった千円札
それはお守りのようで
なかなか使うことができなかった

 と、不思議な近さで響き合う。くらしにしっかりなじんだ「あたたかさ」、肉体をつつみこむ「あたたかさ」が、そこにある。
 特に「なかなか使うことができなかった」の「なかなか」が、とてもいい。
 ほかのことばで言い換えられない。そして、その「なかなか」を説明することばがない。--たのひとはどうか知らないが、私には、この「なかなか」を自分のことばでもう一度言いなおすことができない。「なかなか」の「意味」は知っているが、それは説明できない。「肉体」が覚えていることばであって、「頭」では言いなおせないのだ。

 硬く冷たい漢字熟語とひらがな--その差異に感じていることは、たぶん「頭」と「肉体」のどちらが覚えているか、どちらで理解しているか、ということと関係しているのだと思う。
 4連目のホームの向こうの「緑の松林と/真っ青な海がひろがっていた」の「ひろがっていた」は「肉体」が覚えている「ひろがり」である。「広がっていた」とは何かが違うものがある。くぎりのなさ。限界のなさ。永遠につながる「ひろがり」。
 それは、5連目の「あの駅」の「あの」にはつながる。
 「あの駅」の「あの」を漢字でどう書くかわからないけれど、ひらがなの「あの」がとても切実に、しかも強く「肉体」をつかまえにくる。
 そして、「あの」駅が、

常磐線豊岡駅

 とはっきり漢字で書かれた瞬間、さらにそれが「原発警戒区域」という漢字と並べられて書かれた瞬間、「肉体」では近づけないものになる。
 「肉体」では近づけないもの、なじめないもの。「ことば」ではなく、「文字」になってしまう。(と、書いてしまうと、また、ちがったことろへずれていくようだが……。)
 青山が「ひらがな」と「漢字」をつかいわけて書いていることば--ここから、「肉体」と「頭」の分離(切り離し)がはじまり、そのどうすることもできない「間」で、絶望や悲しみが生まれているように思える。私は安易に、何も考えないままに、「絶望・悲しみ」ということばをつかってしまったが、何か、ここに、私たちのことばがしなければならない問題が動いているような気がする。
 それをどうこうできるというのではないのだが……。
 青山は、そのどうこうできないことと、しっかり向き合っている--それをひらがなと漢字の対比、表記の違いのなかに感じた。

常磐線富岡駅
原発警戒区域
津波で壊滅

 この3行を、ひらがなの世界にときほぐす(?)までにはどれだけ時間がかかるかわからない。それができるまでは、これはこれで漢字のまましっかり記録しなければならないのだ、とも思った。
 思い出(記憶)にしてしまうのではなく、記録にすることで、「肉体」は生き延びるのだ、というようなことばが、私のなかで、ふと動いた。


詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社
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滝川優美子『オーロラいため』

2011-11-21 23:59:59 | 詩集
滝川優美子『オーロラいため』(砂子屋書房、2011年11月15日発行)

 滝川優美子『オーロラいため』では「収穫」という作品がおもしろかった。

彼はごろんとねころんだ
彼の耕した土の上に

野良着がじんわり浸みてくる
土の息で湿ってくる

 この書き出しがとてもいい。「浸みてくる」は「しみてくる」と読ませるのだと思う。「野良着がじんわり浸みてくる」というのは正確(?)な日本語ではない。状況から判断すると「野良着に」何かが「じんわり浸(し)みてくる」ということを書いている。しかし、その「何か」を省略して、滝川は「野良着が」と「野良着」を主語のようにして書いている。この「が」は「水が飲みたい」というときと同じ「が」。「補語」を提示するときの「が」なのだが、そうだとしても舌足らずである。正確な文章になっていない。滝川は、「野良着」に何かが「しみてきて」、野良着「が」しみてきたものによって変化していく--と書きたいのだ。しかし、それを正確に書けずに主語、述語、補語が入り乱れ、その入り乱れのなかで交錯し、重なり合っている。それが、私には、とても美しく感じられる。
 その入り乱れ、交錯し、重なり合うことばが「土の息で湿ってくる」と言いなおされる。野良着「が」土の息で湿ってくるのである。土の息「が」じんわり浸透して(この意識が働いているので、浸みてくる、という表記になってしまう)、湿り気を帯びた感じになる。
 1行1行を独立して読むと文法的に変なのだが(学校教科書では許されないような--つまり、そのまま直訳すると外国語に置き換えられないようなことばの動きなのだが)、2行を続けて読むと、「頭」ではなく「肉体」でわかってしまう。土の上にねころんで、土から「湿り気」が浸透してくるのを感じたことを「肉体」が覚えていて、書かれていることを納得してしまう。(土の上にねころんだことのないひとはたぶんいないだろう。)
 そして、その「土の湿り気」を「息」ということばでつかみ取っていることも「肉体」にはとてもいい感じでひびいてくる。土が息をしている。それだけでは何かわからないことがあるのだが、「息」ということばそのものは人間の「息」を思い出させる。「肉体」が覚えているのは、結局自分の「肉体」のことだけでなのかもしれない。
 で、息。
 息のなかには「水分」がある。人間の息のなかには「水分」があるのだ。はーっと吐いただけではわかりにくいが、冬のつめたい朝に息を吐き出すことを思い出すとわかりやすい。息のなかの水分が白い蒸気になってみえる。--いや、そうではなくて、温かい息によって、空中の水分が反応して白く見えるだけなのだ。その現象は飛行機雲と同じ現象なのだ、と「科学的」なひとなら言うかもしれないけれど……。
 いいんです。そういうことは。私は錯覚したい(誤読したい)のだから。
 科学的にはどうであれ、息をふきかけると、何かしっとりした感じになる。息に水分があると思いたくなる。--その息の水分と似たものが耕した土にある。そういうことを滝川は書いている。
 土にはじっさいに水分が含まれている。そこから、「息」ということば、滝川の「肉体」が覚えている「息」を思い出し、滝川は、いわばその前の行の変な文法の間違い(?)を強引に整えているのだけれど、いいなあ、この感じ。
 何が正解、何が間違いということは問題じゃない。そこに動いていることばに「肉体」が反応して、納得するかどうかが問題なのだ。肉体が納得すれば、それでいい。あとから「頭」で適当になんでもでっちあげればいい。

 このあと、詩はつづいてゆく。

彼は採ったばかりのブロッコリーを
ふとんのように体にかけた

首だけ出して妻に言った
ちょっと上に乗っかってくれないか

まぶしい空にうす目をあけ
土の上にいる 横になっている

妻はブロッコリーのふとんの上から
そっとうつぶせに寝た

サンドイッチになっている二人
空と大地と五段重ねだ

 童話のような明るい風景、明るい感想である。2連目の2行のように、不思議なおもしろさがあるわけではなく、単純な明るさがあるだけなのだが、なんとなくうれしい。「五段重ね」に、空と大地が自然に含まれる広がりが楽しいのである。2連目2行の、一種の入り組んだ感じ、交錯し、重なり合い、肉体の内部(?)が深まるような感じが、ここで一気に解放される。宇宙的になる。それが、とてもいい。
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小林稔『遠い岬』

2011-11-20 23:59:59 | 詩集
小林稔『遠い岬』(以心社、2011年10月20日発行)

 小林稔にはいくつかの種類の詩がある。小林自身もそのことを自覚しているのだろう、この詩集は5つのパートに分かれている。しかし、そこには同じものも通っている。ひとりの詩人が書いているのだから、あたりまえといえばあたりまえだけれど。
 「時の形相」とぱいどろす」を並べて読んでみるとおもしろい。

雨に烟(けぶ)る田園の蛇行する畦道を
傘も持たずに少年のきみが歩いている
私は薄暗い部屋の窓越しに眺めているが
瓦を打つ雨音がどこか頼りなく聴こえ
身体に滲む入る雨水を気化させるきみの体温に
これほど離れて私は胸の芯部を熱くする            「時の形相」

女は男にとって休息の船着場ならば
少年はくめどもつきせない追憶の泉であろう
山道を散策すると岩清水があふれ出ている
立ち止まりふり返ると枝が左右に重なり合った道がある
先ほどひとりの少年とすれ違ったように思った
男は忘れ物をしたように思い足を止め踝を返す
すると岩清水に続く道が葉陰に消えている
私もその水に唇を濡らしてみたが
甘美な味に酔いしれ船着場への道を忘れてしまった        「ぱいどろす」

 「少年」が出てくる。その少年は実在なのか、それとも記憶なのか。たぶん記憶だろう。そして、少年が記憶であるとき、少年は詩人そのものでもある。自分を見ているのである。そこに一種の「理想」のようなものが入っているかもしれない。少年だけがもつ「理想」、つまりもうそれを失ってしまった男が、かつてそういうものがあったと美化する視線がそこに働いているかもしれない。余剰をそぎ落とし、足りないものをつけくわえる「画家」の視線のようなものが。
 「画家」と思わず書いてしまったが、小林のことばには、とても視覚的なところがある。「時の形相」には「眺めている」という直接的なことばも出てくる。だが、それだけでは、たぶん「視覚的」とは思わないかもしれない。小林のことばを視覚的にしているのは「烟(けぶ)る」「薄暗い」「窓越し」というような、視覚を邪魔するものである。あらゆる感覚は邪魔されて、妨害されて、抵抗にあって、より強くなるということかもしれない。
 疎外するもののなかで、鍛えられ強靱さを目指すというのは、小林のことば全体の特徴なのだが--そのことを思うと、小林は、ここではほんとうに少年が雨の畦道を歩いているのを見ているのか、それとも雨は降ってはいないけれどあえてことばのなかで雨をふらせているのか、はっきりしない。--と書きながら、私は、小林は、降ってもいない雨を降らせて少年を歩かせているのだと信じている。「記憶」「追憶」だから、ほんとうに雨が降っているかどうかは問題ではないのだ。
 なぜなら。
 と、ちょっと飛躍しよう。
 なぜなら、「追憶」「記憶」のなかには、「時差」がない。雨が降っている「時」と雨が降っていない「時」の差がない。雨が降っていなくても、そこに雨が降っている「時」を重ねて思い出すことができる。1960年04月20日に晴れていたと仮定する。その晴れた日の畦道を少年が歩いている。その姿に詩人は1960年04月19日の雨を重ねて思い出すことができる。思い起こすときが、それぞれの「いま」であり、「いま」のなかに「時差」などないのだ。
 「想起」と言えばいいのだろうか。この「想起」なのかで、小林は自在にことばを動かしている。ほんとうかけ離れている存在が「想起」という行為のなかで(精神の運動のなかで)、「時差」をなくす。想起するとき、あらゆる瞬間が「いま」であり、「過去」と「いま」はぴったり重なってしまう。
 こういうことは「時」だけではなく、「場」でも起きる。
 「時の形相」は「日本」を感じさせる風景である。「ぱいどろす」も、まあ、「日本」の風景といえるのだけれど、そこには「日本」ではない場所、その空気が想定されていて、「思うこと」の力が「ぱいどろす」の方ではより強く働いていて、風景を「日本」でありながら「日本」とは違う感じにもしている。
 「想起」とは、「いま/ここ」でありながら、「いま/ここではない」世界なのである。「いま/ここ」と「いま/ここではない」世界が重なり合い、その瞬間に、ことばが「中立」になる。「自由」になる。「いま/ここ」「いま/ここではない」にとらわれずに動き回る。

 私のことばはだんだん暴走が激しくなって、小林の詩から離れて行っているようだが、そうとばかりは言えないかもしれない。具体的に説明するのはめんどうくさいが、小林のことばはいつでも「想起」をめぐって動いている。「おもいおこす」。そのとき、「現実(いま/ここ)」が洗い清められる。そして「いま/ここ」から「いま/ここではない」ものが噴出してくる。「いま/ここではない」ものが噴出してくるために「いま/ここ」がある。
 このときの「いま/ここ」を畦道の雨、あるいは薄暗い部屋と思い、「いま/ここではない」を「少年のきみ」と思えば、私の書いていることが小林の世界に近づくだろう。それは切り離せない。「いま/ここ」と「いま/ここではない」は出会うことが「運命」なのだ。そして、その出会いなのかで、「いま/ここ」が変化していく。
 この「変化」を「哲学」と定義してみると、また、別の角度から小林に近づけると思うけれど--これも、ちょっとていねいにことばにするには面倒くさい。だから思いついたふりをして「メモ」の形で残しておくことにする。

 「いま/ここ」と「いま/ここではない」が出会ったとき、何が起こるか。「時の形相」を例に少しだけ考えてみる。ことばを動かしてみる。
 私は小林のことばの運動を「視覚的」と書いてきた。その「視覚的」が変わる。「肉体」が変わる。豊かになる。

瓦を打つ雨音がどこか頼りなく聴こえ
身体に滲む入る雨水を気化させるきみの体温に
これほど離れて私は胸の芯部を熱くする  

 眺める(視覚)から、雨音/聴こえるという聴覚へ。さらに滲む入る(滲み入る)/体温ということばのまわりに動く皮膚感覚(触覚)へ。
 それから小林特有の「離れて/熱く」という非接触の反応。そのまえに、「気化」という小林にとってはなくてはならない一種の「飛翔」につながることばがある。
 存在が出会うとき、小林の場合、まず視覚から入っていくのだが、それが身体のなかで聴覚や触覚と融合しながら、存在を「固形物」ではなく「気体」のようなもの、形がなく、しかし、それ自体の「要素(分子?)」は維持したものに変化し、自在に変形する。大昔の「哲学用語」でいうと「エーテル」かなにか、そういうものになる。それは、いわば「私(小林)」と「存在(もの)」の間にあって、間そのものを構成する。その「間」のなかで小林は変身するのだが--この感覚を「離れて私は胸の芯部を熱くする」というところが、なかなかおもしろい。
 「間」は「胸」の内と離れたまま重なり合い反応する。この「胸」は「頭」といいかえても同じである。「ことば」と言い換えても同じである。何かと出会い、ことばが変化していく。何かの「重要な要素」を発見し、その発見によってことばがいままでとは違った次元へ動いていく。そして、詩になる--ということなのだろう。
 この変化を、とてもすっきりした「散文体」というのだろうか、主語、述語の関係が明確な文体で小林は書き留める。その主語、述語の関係の明確さは「翻訳体」に近い。小林が日本語を外国語の文体で洗い直して鍛えている。--これも、時間をかけて書きたいことなのだが、今回は「メモ」に留めておく。






砂の襞
小林 稔
思潮社
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スティーヴン・ソダーバーグ監督「コンテイジョン」(★★★★)

2011-11-20 18:44:22 | 映画
監督 スティーヴン・ソダーバーグ 出演 マット・デイモン、ケイト・ウィンスレット、ローレンス・フィッシュバーン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウ

 映像の情報量が非常に多い。ウィルスの構造や変位のように見てもそれが正しいかどうかわからないものもある。そしてそれが、これはいったい何?と思う間もなく次々に展開してゆく。この情報の洪水とスピードがこの映画の命である。実際に変位ウィルスが猛威をふるう時というのは何もわからないまま状況が変化してゆくのだろうと納得させられる。
 おもしろいのは女優陣である。グウィネス・パルトロウは出てきたかと思うとすぐ死んでしまうのだが、この死に顔がとてもいい。無機質で、何が起きたか分からないまま、つまり死の準備ができないまま死んだ人間の、他者とのつながりを欠いた顔をしている。病理解剖されるときの顔も、うーん、とうなりながら見とれてしまった。どうやって撮影したのかわからないが、いやあ、死んでも生きているねえ。この表情だけでアカデミー賞決定と思った。賞なんか関係ないのだけど。好きな女優ではないのだが、とっても好きになってしまった。死んで、解剖される顔に見とれる――という私は変態?かもしれない、なんて心配までしてしまった。あ、それほど引き込まれたということです。この顔を見るだけのために、もう一回見ようかな、とも思った。
 それに、死んでからも映画を支配してゆくうさんくささがとてもいい。彼女の不倫がウィルスを思わぬ方向へ拡散させてゆくのだが、この「裏切り」の平然さと、死ぬ時の「なぜ?」の対比――その表情、肉体の動きが、役者を見ているということ、映画を見ているということを忘れさせる。脚本というか、映画をはみ出した情報がとても多い役者なのだ。
 ケイト・ウィンスレットは状況を完全に理解しているので、同じウィルスに侵され死んでゆくのだが表情がまったく違う。そうか、死を理解しているかどうかで、人間の顔はこんなに違うのかと驚いてしまう。ケイト・ウィンスレットは、死ぬ寸前に、隣のベッドで「寒い、毛布をくれ」という男に自分の来ているコートを譲るそぶりを見せるが、これがとても自然。他のシーンでも、でてくるだけで状況を完全に把握していることがよくわかる。存在感がすごいなあ。やはり肉体(顔)の情報量が多いのだ。
 ジュード・ロウは女優ではなのだが、色の売り方(?)というのか、美形であることで嘘を隠してしまうところが楽しい。これで体が大きければ違ってくるのかもしれないが、小ぶり(中型?)の野心家は、こんな風に世界を渡り歩き、自己の存在感を確立するのか――と、間違った(?)情報を正確に伝える。
 という具合に、個々に見ていくとおもしろい映画なのだが、私にはちょっと物足りない。人間は本質をこんな具合に肉体の中にかくしているのか、それはこんな時に美しく出てくるのか――というような感動がない。グウィネス・パルトロウたちの頑張りを「ストーリー」の方が上回ってしまった。人間ではなく、ストーリーの映画になってしまった。ソダーバーグのストーリーを突き破りあふれだす人間の魅力というのが完全に輝いているとは言えないのが、とても残念。
 ストーリー優先の意識が働いたのかもしれない。映画が「2日目」から始まり「1日目」で終わる種明かし(その前のワクチン製造を含む)という構造、その「文字」による説明などが映画の完成度を邪魔しているのかもしれない。






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