大橋政人『反マトリョーシカ宣言』(思潮社、2022年09月01日発行)
大橋政人『反マトリョーシカ宣言』の巻頭の詩、「肉の付いた字」。
肉水
肉草
肉雨
肉花
肉雪
肉火
肉土
肉歩
肉体
肉歩
「肉体」は、わかる。ほかのことばは知らない。「肉歩」が繰り返されている。自分の肉体で歩いて書いた詩、ということか。
次は「花力」。
草
と言ったら
やっぱ
草力でしょ
花は
花力
雨
と言ったら
やっぱ
雨力でしょ
雪は
雪力
雲
と言ったら
やっぱ
雲力でしょ
空は
空力
そうすると、「肉」は「肉力」か。
まあ、ただ、そう思っただけ。
そして、「反マトリョーシカ宣言」と大橋は言うのだけれど、この二つの詩を読むと、どうしたって私は「マトリョーシカ」を思い出してしまう。人形の中に、同じ人形が入っている。同じように、同じことばの構造の中に、同じことばの構造が入っている。
こういう感想は、意地悪だろうか。
しかし、人間は、たぶん、正直な人間は、何を書いても「マトリョーシカ」になってしまうのだと思う。
だから「反」なんてふりかざさずに、ただ、そのままでいればいいと思う。
詩集の中で、私がいちばん気に入ったのは「空も悪い」。
空が大きいから
私は小さい
空が広がっているので
私はすぼまっている
夜には
星が光るが
あんなにもいっぱい
星が必要だったのか
朝には
太陽が出てくるが
太陽の考えていることが
太陽の真意が
太陽の本音が
いくつになってもわからない
空が大きいから
私は小さい
私も悪いが
空も悪い
いいなあ。「空が大きいから/私は小さい」と「空が広がっているので/私はすぼまっている」は「マトリョーシカ」の関係。その一連目の「空が大きいから/私は小さい」がもう一度登場して「マトリョーシカ」性が強調される。これは、「マトリョーシカ」を開いていったところ? それとも閉じ込めていったところ? それは、区別したってはじまらない。同じこと。
で。
転調する。
私も悪いが
空も悪い
これが
空も悪いが
私も悪い
だったら、全然、おもしろくない。「空/私」という、もうひとつの「マトリョーシカ」がつづくだけ。開いていくのなら開くだけ、閉じ込めていくのなら閉じ込めるだけ。でも、逆転する。「マトリョーシカ」は、それだけでは「マトリョーシカ」ではない。それを、開くか、閉じるかする人間(私)がいるから「マトリョーシカ」なのだ。
つまり、「主役/主語」はあくまで「私」。
最初の詩にもどれば「肉体」は「歩く」。でも「歩く」「肉体」にとって、「主語/主役」は「肉体」というよりも、やはり「私」なのだ。
「花力」も、やはり「私」が生きている。「私」ということばは書かれていないが、繰り返される「と言ったら」という一行に私は注目する。「私」が言うのである。「私」が「言ったら」その「言った」ことばに中から「マトリョーシカ」があらわれる。「花」と言えば、「花力」という「マトリョーシカ」が。それは「花」より小さい? つまり「花の内部」にある? それとも「花」を突き破り、「花」を包み込む「大きさ」をもっている? つまり「花」より「花力」は大きい?
さて。
「空」と「私」は?
空が大きいから
私は小さい
ほんとうかな?
「私」ではなく「私力」だった、どう?
そう考えると、
私も悪いが
空も悪い
がおもしろくならない? 「悪い」って、とても楽しいことに思える。「悪い」ことを、してみたくならない?
「マトリョーシカ」ならば、中を、全部出してしまう。あるいは、中に、全部閉じ込めてしまう。
で、「悪い」のは、どっち?と考えてみる。
この「考えてみる」がいちばん「悪い」ことだね。だから、楽しい。ほら、子どもって、「してはいけません」と言われると、絶対に、それをしたくなるでしょ?
「反マトリョーシカ宣言」と言われると、私なんかは、賛成、というかわりに、反対と叫んで、大橋のことばを「逆撫で」してみたくなるのである。
そういう詩集。