詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2005-03-30 00:27:23 | 詩集
3月29日(火曜)
 晴れ。朝の光がやわらかい。裁判所近くの濠の水の色が穏やかである。風が吹く。水面が揺れる。水の白い背中は大きく引き伸ばされ、腹は黒くとぎれとぎれに丸くなる。その白と黒のつながりが穏やかである。水の穏やかさは、そこから生まれている。



 森鴎外「藤鞆絵」(「鴎外選集 第三巻」岩波書店)を読む。
 文章が非常に速い。そのなかにあって、芸者が主人公に語る次の文章だけが、うねりながら深みへ降りていくようでおもしろい。

「あら。それが薄情なのだわ。なんでももう書いてゐるのが間だるつこしいやうで、大急ぎでポストにいれて来させて、やつと少し気が落ち着く位でなくては、ほんとに思つてゐると云ふものではないのだわ。」

 単に「意味」だけではなく文体のスピード、文章の連絡の仕方にこそ、人間の個性が描き分けられている。
 鴎外の描く男のことばには漢文の短い強靭さと、文脈の鋭角的なスピードがある。それに対して女のことばには、頭脳ではなく、こころのうねりをくぐりぬけてきた感じ、肉体の甘い感じがある。体温がある。女のことばは「意味」よりも体温そのもののようにしてじっくりと肌になじんでくる。

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コブシ

2005-03-28 12:35:27 | 詩集
3月28日(月曜)
咲き始めたコブシを小雨がつつむ。空気が静かに灰色の空へつづく。コブシの静かな色が空気のなかに広がるように。――どこか奥深いところで静かな緊張と緩和が調和している。矛盾でしかいえないものがかすかな灰色のグラデーションをつくっている。



 ナボコフ「ラ・ヴェネツィーア」(「ナボコフ短篇全集」作品社)の160ページ。マゴアが絵の鑑賞について語ることば。
 陶酔があふれている。絵はこうやって味わうべきである――という手本のように思える。

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詩はどこにあるか(29)

2005-03-21 14:37:23 | 詩集
ナボコフ「港」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)


床屋がシャンプーを手のひらに取った。心地よい冷気が頭のてっぺんを通りぬけ、指がねっとりした泡をしっかり擦り込み、それから氷のように詰めたいシャワーがほとばしって、心臓がどきんとし、ふかふかのタオルが顔や濡れた髪の上で働き出した。

 「心臓がどきんとし」という一文が「詩」である。
 床屋でシャンプーされている。意識は頭にある。頭部の描写は綿密だが「詩」ではない。その描写はリアリティーがあるようで実際にはない。というか、「心臓がどきんとし」という一文がなければ、引用文は、単なる描写である。

 意識が頭から心臓へと急に動き、再び頭(顔)に戻って来る。そのとき、肉体が突然浮かび上がる。その激しい運動が「心臓がどきんとした」に凝縮している。
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詩はどこにあるか(28)

2005-03-17 23:34:40 | 詩集
西脇順三郎「近代の寓話」(「定本西脇順三郎全集Ⅰ」筑摩書房)


考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ

 形而上学的な問題(人間の存在は死後にある云々)と「お湯にはいる」こととが同じ次元で語られる。この唐突なことばの出会いに「詩」がある。
 また「お湯にはいる」はきわめて肉体的な感覚である。
 形而上学と肉体との出会いが唐突で楽しい。

 この詩は、

アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている

とつづくが、この「たおやめ」から「女同士で碁をうつている」という展開も楽しい。女性が横になって(くつろいだ感じで)碁を打つ――碁というのは、多くの人にとって男がやるものだろう。それを女性が横になって打っている、というのは刺激的だ。
 こうしたことばが引き起こす乱気流のようなものにも、西脇の「詩」がある。
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詩はどこにあるか(27)

2005-03-17 11:47:33 | 詩集
ナボコフ「翼の一撃」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)

 主人公カーンがイザベルとダンスをしている。別の若者があらわれ、パートナーを交換する。今は、カーンは若い娘と踊っている。踊りながらカーンはふと思う。

音楽家の一人が白い口ひげをつけたのだが、カーンにはなぜだかそれが恥ずかしく思えた。

 この唐突な一行が「詩」である。
 カーンは若い娘と踊りながら若い娘のことを考えていない。イザベルのことを考えているのだが、そのことをそのまま書いてしまっては「詩」にはならない。単なる未練に、情緒にまみれたつまらないものになってしまう。
 イザベルの欠如――それを埋めようとするカーンの精神、肉体の彷徨いが、ダンス音楽を演奏しているミュージシャンに向けられる。そこにどんな迷路があるのかわからない。わからないけれど、その迷路を通り抜けたこころが唐突に口ひげをつける行為を恥ずかしいと感じる。

 この距離の遠さ、あるいは濃密な密着感――矛盾したどちらのことばでも受け入れる何物か。そこに「詩」がある。

 「詩」は気まぐれである。私たちの意図とは関係なしにやってくる。やってきて、立ち去っていく。その瞬間にだけ「詩」は浮かび上がる。
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詩はどこにあるか(26)

2005-03-15 23:03:54 | 詩集
ナボコフ「響き」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)


ぼくは白樺の木の輝かしい樹皮に目をやり、突然、感じた――自分が持っているのは手ではなく、小さな濡れた葉に覆われた傾げられた枝なのだ、そして脚ではなく、よじれながら地中へ入っていき、その養分を吸い取る千本もの根なのだ、と。

 こうした文体を読むと、ナボコフが短編小説ではなく、短編を書くときでさえ長編小説の文体で書いていることがわかる。
 ことばのひとつづきの運動のなかで、そこに描かれている人間そのものが変化していく――それが長編のダイナミックなところだろう。

 「詩」は、こうした変化のなか、運動のなかにもある。
 存在の唐突な出会いと出会いのなかにだけあるのではない。
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詩はどこにあるか(25)

2005-03-13 13:25:57 | 詩集
森鴎外「桟橋」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 冒頭の部分。

靴の踵や下駄の歯を噛みさうな桁の隙から、所々に白く日の光を反射してゐる黒い波が見える。

 「白く日の光を反射してゐる黒い波」という切り詰めた的確な描写に「詩」を感じる。具体的な視力、肉体を刺激してくる視力を感じる。

 頭の中には「白い波」ということばがある。波――というと「白い」という形容詞がどこからともなくあらわれてくる。
 しかし白い波というものは本当は少ない。時化のとき嵐のとき――天候が悪いときにあらわれる。普通は波頭が白くなるというようなことはあまりない。
 私たちは、ことばで風景を見ている。(風景を見てことばを発しているわけではない。)というか、ことばにあわせて風景を知らず知らずのうちに隠してしまっている。
 そうした無意識を打ち破る具体的なことばが「詩」である。

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詩はどこにあるか(23)

2005-03-12 14:31:47 | 詩集
森鴎外「青年」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 小泉純一が国府津に着いた。ぶらりと歩いている。

ぶらりと停車場を出て見ると、図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たはつてゐる。

 風景の把握に緩急がある。「図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たはつてゐる。」は強靭な俳句の世界を見るような感じだ。
 鴎外は、松を見たのか。海を見たのか。松と拮抗する海、海と拮抗する松を見たのだ。二つの存在が拮抗しながら、同時に融合する。
 こうした描写を、鴎外は非常に素早くやり遂げる。

 ここに鴎外特有の「詩」がある。
 自在なことばの緩急。存在の屹立。しかも、その瞬間に世界が広がり、その広がりが空虚ではなく、充実として押し寄せて来る。
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詩はどこにあるか(22)

2005-03-12 01:43:50 | 詩集
森鴎外「青年」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 主人公小泉純一が大村の手紙を読んだあとの描写。

これ丈の文章にも、どこやら大村らしい処があると感じた純一は、独り微笑んで葉書を机の下にある、針金で編んだ書類入れに入れた。これは純一が神保町の停留場の傍で、ふいと見附けて買つたのである。

 「これは純一が……」以下の文章に私は非常に惹きつけられる。単なる描写のようであって、実は単なる描写ではない。この文章がなくても、小説の構造には影響がない。登場人物の思考・精神に変化はない。いわば、「むだ」な一行である。しかし、その「むだ」にひきつけられる。「むだ」があるからこそ、主人公が本当に生きているという感じがして来る。
 こうした部分にも私は「詩」を感じる。

 「詩」とは手触りである。

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詩はどこにあるか(21)

2005-03-11 01:43:43 | 詩集
森鴎外「青年」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 主人公の小泉純一が大村と歩く描写。

暫くは話も出来ないので、影と一しよに急ぎながら空を見れば、仁丹の広告燈が青くなつたり、赤くなつたりしてゐる。(92ページ)

 主人公が考えていることとは無関係に、唐突に、街の描写、広告の描写があらわれる。この瞬間に「詩」を感じる。現代の「詩」を感じる。
 あらゆる存在は、個人の思惑とは無関係に存在している。その存在の唐突な描写。それは、個人の時間とは無関係な時間、関係を明らかにする。

 あらゆるものは感情に染まる。感情に染まったものはセンチメンタルである。感情に染まらない存在が「詩」である。
 小説のなかにおいても、詩のなかにおいても、それは同じことである。
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詩はどこにあるか(20-2)

2005-03-09 14:15:37 | 詩集
森鴎外「電車の窓」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 電車には、また別の男達も乗って来る。そして「鏡花の女」を見る。ある駅につくと主人公は鏡花の女を残して降りる。別の男達も降りていく。

 廂髪の二人もここで降りたが、互に肘で突つ突き合つて囁いて、それから声高に笑ひながら、忽ち人込みに隠れてしまつた。

 この末尾に「詩」がある。
 男達は何について話したのか。それは書いていない。しかし、それが何であるかは誰でもわかる。男達が実際に何を語ったかは問題ではない。その男達の姿、肘でつつきあうようす――それが主人公に語りかけるものがある。そして、それは、鏡花の女が目で「言ふ」のと同じように、肘でつつきあう姿をとおして主人公に言うのである。
 その「言う」たものを語らないのは語ってもしようがないからである。読者が想像するとおりのものである。読者が想像できないならそれだけのことである。

 「詩」と「余韻」はこのとき同じものになる。どちらも動かしがたく、くっきりと存在するものである。あいまいではなく、明確でありすぎるために、それまでのことばではとらえきれない(書いてしまえば嘘が混じる)存在が「詩」であり「余韻」である。
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詩はどこにあるか(20)

2005-03-09 01:17:15 | 詩集
森鴎外「電車の窓」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 亘の長い目で、瞳が黒い星のやうに輝いた。
 この目がこんな事を言ふのである。「あなたも千万人の男といふものの中のお一人でございますね。(略)」
(略)
 鏡花の女は矢張鼠のコオトの袖を柿を掻き合せて、俯向加減になつてゐる。
 その姿勢がこんな事を言ふのである。「まあ、なんといふ詰まらない身の上だらう。(略)」

 「目」や「姿勢」はもちろん何も言わない。言っているかのように「感じる」(感じられる)。そして、その「感じる」(感じられる)を省略したとき、対象がくっきたと浮かび上がる。対象が明確な存在となる。
 その瞬間が「詩」である。 
 そして、その「詩」を成立させている語が「言ふ」である。
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詩はどこにあるか(19)

2005-03-05 22:48:45 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)


七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき

 「学校の便所のわき」という卑俗なもの。こうしたものを文学のなかに持ち込むとき、笑いと衝撃が起きる。そこに「詩」はある。ただ、こうした「詩」は西脇にかぎらない。古くは芭蕉の句にもある。
 「まがつてゐた」と「をかしさの淋しき」にこそ西脇の「詩」がある。

 「淋しさ」とは西脇にとっては、ある存在が、存在として、他のものと関係付けられていない状態を指す。――この哲学に、西脇の「詩」のすべてがある。

 便所のわきの桂の木。曲がった桂の木。それは、法師が書いていた桂とは無関係なのだ。無関係に、そこに立ちあらわれてきて、法師が書いていた桂の木を拒絶する。法師の書いていたことがらを断ち切って存在する。「便所」が断ち切り、「まがつていた」という状態が、法師の書いていた桂を断ち切るのである。
 ここに西脇の「詩」がある。


七九
九月になると
長いしなやかな枝を
藪の中からさしのばす
野栗の淋しさ
白い柔い皮をむいて
黄色い水の多い実を生でたべる
山栗の中にひそむ哀愁を

 熟れていない山栗。熟れた栗の渋は茶色いが、熟れていない栗の渋は白い。柔らかい。その実は黄色くて水分が多い。――この具体的な描写が「詩」である。

 そうしたものを「哀愁」と西脇が呼ぶのは、西脇には、それを食べた経験があるからである。経験があるから、具体的に書くことができる。具体的なもののなかには「詩」がある。

 西脇は、おそらくこの経験を他の文学仲間と共有していない。だからこそ、そういうものを「哀愁」と呼ぶことができる。
 この「哀愁」は、西脇のことばを借りていえば「淋しい」哀愁である。絶対的に孤立した哀愁である。

 西脇はどこかのエッセーで、栗は熟れたものより、熟れる前の、この詩に書いてあるような状態のものの方が好きと書いていた。
 私もまた、そうした栗が好きである。
 西脇の作品には、自然を具体的に描いたものが輝きをはなっている。
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詩はどこにあるか(18)

2005-03-05 00:12:20 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

四四
小平村を横切る街道
白く真すぐにたんたんと走つてゐる
天気のよい日にただひとり
洋服に下駄をはいて黒いかうもりを
もつた印度の人が歩いてゐる
路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「小平村」から「印度の人が歩いてゐる」までを読むと、非常に新奇な光景のように見える。この新奇さのなかに「詩」はあるのか。あるように感じられる。田舎の道。インド人。洋服に下駄。黒いこうもりがさ。そうしたものの出会い、衝突に「詩」があるように見える。
 だが、本当は、そうではない。西脇の狙った「詩」は、そうしたものではない。

路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「バツト」はたばこの「バット」である。「時々」という前の行のことばが指し示しているように、それは非日常ではなく、いつも繰り返されている日常である。
 田舎の道を風変わりな格好でインド人が歩いている。それは珍しい光景ではなく、日常である。珍しい光景が珍しい光景であるかぎり「詩」ではない。珍しいものが日常であるというところに「詩」がある。
 「バツトを買つてゐる」という短い描写で、そうした日常を把握する、表現する――この瞬間に「詩」がある。

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詩はどこにあるか(17)

2005-03-03 23:36:31 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

三八
窓に欅の枯葉が溜まる頃
旅に出て
路ばたにいらくさが咲く頃
帰つて来た
かみそりが錆びてゐた

 「かみそりが錆びてゐた」に「詩」がある。欅、いらくさという自然の情景(季節)に人間の生活をぶつける。人間の日常をぶつける。しかも、鉱物であるかみそりにも、草木のように時間の変化を感じさせるものがあるという現実をぶつける。

 このとき「詩」が生まれる。「詩」はいつでも思いがけないものの出会いだ。そして、いつでも納得できる出会いだ。
 私たちはいつでも自己中心的な時間を生きる。たとえば欅を見る、いらくさを見る。そのときは草木の変化の中に季節を見るという時間を生きている。そういう視点で世界をみている。
 ところが世界をつくっているのは、草木だけの時間ではない。鉱物にも時間があるのだ。
 
 この発見の中に「詩」がある。新しい精神の運動のなかに「詩」がある。
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