詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「車内で」、岩佐なを「きげん」

2014-02-28 11:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「車内で」、岩佐なを「きげん」(「孔雀船」83、2014年01月15日発行)

 坂多瑩子「車内で」、岩佐なを「きげん」は、ともに電車のなかで隣り合った人との関係を描いている。知らない人とのあいだで、ことばはどう動くか。肉体(思想)はどう動くか。私は、こういうあからさまな(?)思想(肉体)が大好きである。
 まず、坂多瑩子「車内で」。

人違いです
で終わるはずが
嘘をついているだろう なぜ逃げる
顔がすっと近づいてきた
目のなかに豹変したとなりの男が坐っている
出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない

 なんとなく都会で起きそうな人違い、言いがかり(?)、新手の軟派(古い!)のようでもあるけれど……。
 「目のなかに豹変したとなりの男が坐っている」の「目のなかに……坐っている」が、うーん、すごい。男と坂多の「目のなか」ではなく「隣の座席」に坐っている。それを坂多は「目で」見ている。でも、「目のなか」と感じる。それくらい男は坂多の「肉体」の内部にはいり込んでいる。そのとき坂多の「肉体」は「目」だけになってしまっている。「全身」が「目」なのである。こういう一言を読むと、もうそれだけで一篇の詩を読んでしまった感じ、一冊の詩集を読んでしまった感じになる。その詩人に会った気持ちになるなあ。
 だれかに夢中になっている人のこと、よく「目のなかに○○がはいり込んでいる(○○しか見ていない)」というような感じのことばでからかうことがあるが、坂多以外のひとから見たら、まあ、「夢中」ではないのだけれど、そんなふうに見えるくらいにその男の姿(態度)に釘付けになってしまっているということなのだろうけれど、そういうときの「客観」と「主観」が入り交じった感じだねえ。この「入り交じり」がおもしろいなあ。うん、わかる。坂多のことばを読んでいる(体験を聞いている)にもかかわらず、まるで自分で体験している感じ。
 で、次の「出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない」にも、「主観」と「客観」が不思議に入り組む。「気の弱いわたし」って、「主観」、それとも「客観」? わからないけれど、私たちはしばしばこういう言い方をする。その変なまじり具合は「出ていってよう」の「よう」という引き延ばされた語尾のなかにも含まれている。「出ていって」あるいは「出ていって」というきっぱりした言い方ではなく、「困るんだけれど……」という「ニュアンス」を含んでいる。「意味」は「出ていって(近づかないで、離れて)」なのだが、そこに坂多の「心理」が、つまり「こころ」が含まれている。坂多は「困った」とは書いていないんだけれど、その「心理」がわかる。それは、単にそういう「語尾」を聞いたことがあるだけではなく、そういう「語尾」で何かを訴えたことがある--それを「肉体」がおぼえていて、よみがえるんだねえ。
 こういう「肉体」の反応(相手の「語尾」だとか、ほんの小さなしぐさ)というのは、ことばでいろいろ説明する以上に他人につたわる。他人というのは……自分の思いを伝えたくない人をも含む。たとえば、この詩の場合、男、だね。男にも坂多のこころは手にとるようにわかる。わかってしまっている。小さな「肉体」の変化で、「肉体」の外に出てしまっているんだからね。
 あ、こうなると、だめだねえ。
 「こころ」はいったん体の外に出てしまったら、「こころ」をつかまえられてしまう。それは「肉体」をつかまれたときより始末が悪い。坂多以外の人は、そこで起きている「こと」を知らない男と坂多の「肉体」の争い、ぶつかりあいではなく、「こころ」のつかみあいと見てしまうからね。簡単に言いなおすと、それは「男女のなれあい」に見えてしまう。「こころ」がつかみあいをしているのは、ふたりが「こころ」を通い合わせている仲、つまり知り合いと思われてしまう。
 この変な感じが、紆余曲折して(?)、

豹変男を真っ正面からにらみつけてやった
それで
一件落着したけど
乗客はいつのまにかいなくなって
うすぐらい車内には
わたしそっくり女がうすく立っている
豹変男はもっとうすくなっている
わたしと間違えられるといけませんから
こちらにきてかけませんか

 さて、「こちらにきてかけませんか」とは、坂多が、だれに対してかけたことばなのだろうか。「わたしそっくりの女」なのか。それとも「うすくなった豹変男」なのか。
 「意味」的には、「わたしそっくりの女」かもしれない。その女に、豹変男が近づいてく、そして「なぜ逃げる」と詰問する……そんなことが起きるといけないので、「こちら(わたしの)となりにきてかけませんか」と「こころ」のなかで言ってみる。
 「立っている女」は、一度は男から逃げるようにして席を立った坂多自身かもしれない。それを追いかけるようにして男が席を立った。そのしつこさに、坂多が「真っ正面からにらみつけ」、人違いだと言った。そのあと、少し気まずいような感じ、気まずい感じを男に与えてしまったという妙な気弱さのようなものが出て、それが「うすく」という印象なのかもしれない。
 で、そんなことろに立っていないで、あなたは(わたしは)悪くないのだから、もとの場所に座ろう、と自分自身に呼び掛けているのかもしれない。
 でもね、私は、坂多が男に対して、「こちらにきてかけませんか」と呼び掛けているように読むのもおもしろいかなあ、と思う。
 人違いを多くの人の前で、きっぱりと指摘され(人違いです、だけではなく、追いかけまわすのはやめてくださいというような調子で指摘され)、ちょっと困っている男。それは、いわば「嘘をついているだろう なぜ逃げる」と迫られたときの坂多のように困惑している。周りの人がみんな男の「目のなかに」視線を注いでいる。はいり込んでいる。
 それが、坂多には、わかる。「肉体」の感覚としてわかる。腹を抱えてうずくまっている人間を見るとその人が腹が痛いのだとわかるように、わかってしまう。だから、同情して(?)、思わず声をかけてしまう。
 そう読んでもおもしろいかなあ、と思う。そんなふうに、なんだか人間が入り乱れてしまった方が、坂多には申し訳ないが、おもしろいと思う。詩の最初に出てきた「目のなか」の「目(肉体)」の感じがずっとつづくようでおもしろいと思う。
 きっぱりとした態度よりも、何かあいまいに揺れてしまって、ほんとうはそんなことをしたくないのにしてしまった……というようなことのほうが、そういうことってあるよなあ、と肉体の奥を刺戟される感じがする。

 あ、こういうことの、どこが「思想」かって?
 「思想」というのは、別に、むずかしいことばで解きあかす「世界の秘密」ことではないからね。世界の構造分析することばが「思想」なのではなく、「いま/ここ」で生きている「肉体」といっしょにあるすべての「思い」、生きているときに生きているままのことばが「思想」というものだからね。
 幸せになりたい、幸せになるためにはどうすればいいか--それを語ることばはすべて「思想」。だれかが人違いして自分に近づいてくる。そのひとをどう振り切って、自由な自分になれるか、というのが、このときの坂多の思い。そして、実際に振り切ったあと、それとは違う「幸せ」をみつけて、その幸せにむけてことばを動かす。それが「思想」。そこにある「肉体の動き」が「思想」。この詩でいえば、ほら「こちらにきてかけませんか」と声をかけている。この「肉体」の動き、声をかけるという「動詞」が「思想」。
 という具合に、適当に書いておこう。

 岩佐なを「きげん」についてもいろいろ書きたいが、時間がなくなってしまった。(私は40分以上モニターに向かっていると目が働かなくなる。)で、端折って書く。

電車の中で目をあけると
となりに幼児がいる
幼児はきげんが、いい
拙者はきげんが、ない

 坂多のように「なぜ逃げる」ということばで追いかけては来ないが、「目」と「目」があってしまうと、人間関係がはじまってしまうから、やっかいだ。

幼児は手をのばしてくる
以前出合った子の
ひとみの中にはるりの海
はりの原があって
かがやいていた
まぶしすぎて返答に困った

 岩佐の書いていることは、私が引用したこととは別な部分に「ポイント(要点)」があるのかもしれないけれど、私は「意味」は気にしない人間なので、そこからちょっと逸脱した、こういう部分に立ち止まって、あ、ここはいいなあ、と思うのである。
 無垢なこどもの瑠璃、玻璃のようなひとみ。あまりに美しいので、ちいさなひとみが海原に見えてしまう。吸い込まれてしまう。実際に、その海のなかに岩佐は入ってしまったのだろう。そういう体験をできる肉体(目--「目をあけると」ということばで詩ははじまっていた)といっしょに動くことばが私は好きだ。


ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人
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西脇順三郎の一行(102 )

2014-02-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(102 )

「ヒルガオ」

骨接ぎの入口のザクロの花に                   (112 ページ)

 「骨接ぎ」は「整骨院」のことである。いまは「骨接ぎ」とは言わないだろう。西脇がこの詩を書いた当時も医院(病院)には「整骨院」と書かれていると思う。しかし、西脇はそのとりすましたことばよりも、昔からひとが口にしている「音」が好きなのだろう。昔からある「音」は、それだけ「肉体」をくぐってきている。「肉体」によってととのえられた「思想」を含んでいる。
 それは「工業品(加工品)」の音ではなく、野菜や雑草のように、人間の「大地」から自然発生的に生まれてきた「音」になったことばである。「骨」を「整える」ではなく、あくまで「骨」を「接ぐ」。「接ぐ」には「整える」よりも生々しい肉体のうごきがある。
Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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劉暁波『牢屋の鼠』

2014-02-27 10:04:34 | 詩集
劉暁波『牢屋の鼠』(田島安江・馬麗 共訳)(書肆侃侃房、2014年02月15日発行)

 劉暁波は「08憲章」で知られる中国のノーベル平和賞受賞者。『牢屋の鼠』は、その詩集。日本で初めての詩集である。--というようなことは、気にしないで読んでみる。どんなことばにも「背景」があるし、「事実」がある。けれど、そういう「背景(事実)」によってことばの「意味」を限定するということは、私の好みではない。「思想」を好みで判断していいのかと問われると、私は「それしか判断材料を持たない」と答える。自分の好きじゃないことをしてまで貫き通したい「思想」というものを私はもっていない。自分が好きなものにあわせて「思想」を作り替えていく。もし私に「思想」と呼ぶことができるものがあるとすれば。
 詩集のタイトルになっている作品。「霞へ」というサブタイトルがついている。霞、というのは妻か、恋人か、娘か……大切な人である。

一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い
窓縁の上を行ったり来たりする
剥げ落た壁が彼を見つめる
血を吸って満腹になった蚊が彼を見つめる
空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい

今宵の鼠は紳士のようだ
食べず飲まず牙を研いだりもしない
キラキラ光る目をして
月光の下を散歩する

 獄中の風景を描いている。鼠がいる。蚊がいる。窓からは月が見える。獄中にいる詩人にとってできることは、見ること、考えること(ことばをうごかすこと)。それだけ。ということが、この詩から切実につたわってくる。
 で、私はいま「見る」と簡単に書いてしまったのだが……。
 詩を読むと「見る」が微妙に変化している。
 最初の2行は詩人が見つめた風景である。鼠が鉄格子の窓縁を歩いている。でも、そのあとの、

剥げ落た壁が彼を見つめる

 これは、どうだろう。この訳では「主語」は「壁」、「動詞」が「見つめる」。補語が「彼」ということになる。「壁が見つめる」は「比喩」である。その「比喩」は少し後回しにして……。
 「彼」ってだれ? 鼠? 違うね。
 瞬間的に(あるいは無意識のうちに)、私は「彼」を獄中の詩人・劉暁波その人と思った。「私(劉暁波)を見つめる」。
 そのあとの「蚊」が見つめるのも「私(劉)」である。蚊は劉の血を吸って満腹し、劉を見つめている。
 そうすると、この詩の中で、動詞(見る/見つめる)の主語が交錯していることになる。
 最初は劉が鼠を見つめる。次に壁が劉を見つめる。蚊が劉を見つめる。
 でも、蚊が劉を見つめるは蚊が生き物だからまだ考えられうることだが、壁が劉を見つめるというのは、どうかな? 壁がほんとうに劉を見つめていたかどうか、確かめる方法はない。(蚊が見つめたかも確かめる方法がない。)
 これは、実は、劉が、劉自身の姿をそんなふうに「見つめた」ということだろう。そのときの「見つめる」は鼠を見るときの視線とは違って、肉体から外へむけて動くのではなく、肉体を外側から見つめる。一種の「想像(空想)」だね。このとき、そこに「壁」とか「蚊」とか、具体的な「もの」をもってきて、「他者」に自分の視線を託している。ただ単に自分を外側から見るのではなく、外側にある「もの(他者)」になって、その「他者」から自分を見つめる。自分ではないものに何かを語らせる--それが「比喩」というものなのだろう。
 そして、そのとき、つまり「比喩」をつかうとき、「比喩」を生きるとき、「比喩」のなかで「他者」と「私(劉)」が固く結びつき、溶け合い、見分けがつかなくなる。どこまでが「外部」でどこまでが「内部」かわからなくなる。というより、「外部/内部」という区別がなくなったもの、とけあったもの、が「ひとつ」のあり方として見えてくる。この詩でいえば、獄中にいる劉がより鮮やかに見えてくる。獄中にいて、何も見るものはなく、鼠や剥落した壁、蚊を見て、この限られた世界が「いま/ここ/劉」なのだと認識していることがわかる。
 「見る」ということ、「目」を動かすこと--それをとおして「生きる」を確かめなおしていることがわかる。
 で、こうした「主語」の融合のあと、「見る」の「主語」はもういちど変化する。

空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい

 この3行では、「見る」のは「私(劉)」である。鼠、壁、蚊を見つめてきた龍は、いま鉄格子の窓から見える月を見ている。銀色。いままで「見たことがないぐらい美しい」。
 そう読んで、私は、しかし、一瞬だけ立ち止まる。
 「空の月にまで魅きつけられる」の「主語」を(この場合、補語というべきなのかもしれないけれど)、いきなり「私」にしたくない。「私」は空の月の美しさに「魅着付けられる」という具合には、読みたくないのである。
 壁が彼を見つめ、蚊が彼を見つめたように、一瞬でいいから、月が彼を見つめたということばを挿入したいのである。月が彼(劉)を見つめ、見つめられることを「わかって」、私(劉)は月を見つめる。「見つめる」という動詞の中で月と私が交錯し(こころを交わし)、「ひとつ」になる。
 「見つめる」ことは「こころ」をかわすこと、「ひとつ」になること。

 そうであるなら。

 私(劉)はいま、獄中の鼠(牢屋の鼠)であるけれど、そこから出ることはできないのだけれど、目は(見るという動詞)は、牢獄という枠に囚われない。月を見ることができる。もし、きみが(霞が)、同じようにこの月を見ているならば、私たち(劉と霞)は、この月を「美しい」と見ることで「ひとつ」になれる。その月は「(いままでに)見たことがないぐらい美しい」。
 だから、霞よ、月を見ておくれ。月を見て、月を見ている私を想像してくれ、と叫んでいるように聞こえる。
 霞よ、私はいま、「キラキラ光る目をして/月光の下を散歩する」。だから、きみもキラキラ光る目をして、月光の下を散歩してくれ、と呼び掛けているように思える。

 「いま/ここ」にあるもの、生きているものと一体になりながら、ことばを動かしていく。他者と自分の「肉体」を融合させながら、いっしょにことばを動かしていく。そのときのことば--他者と自己をつなぎとめることばを、私は「思想」と呼びたい。
 恋人よ、同じ月を見て美しいと感じてほしい、離れていても「月光の下を散歩する」という同じことをしよう、「肉体」で、ことばで、同じことをしよう、そのためにことばを動かそう--そのことばが「思想」なのだと私は信じている。


詩集 牢屋の鼠
劉暁波
書肆侃侃房
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西脇順三郎の一行(102 )

2014-02-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(102 )

「ヒルガオ」

骨接ぎの入口のザクロの花に                   (112 ページ)

 「骨接ぎ」は「整骨院」のことである。いまは「骨接ぎ」とは言わないだろう。西脇がこの詩を書いた当時も医院(病院)には「整骨院」と書かれていると思う。しかし、西脇はそのとりすましたことばよりも、昔からひとが口にしている「音」が好きなのだろう。昔からある「音」は、それだけ「肉体」をくぐってきている。「肉体」によってととのえられた「思想」を含んでいる。
 それは「工業品(加工品)」の音ではなく、野菜や雑草のように、人間の「大地」から自然発生的に生まれてきた「音」になったことばである。「骨」を「整える」ではなく、あくまで「骨」を「接ぐ」。「接ぐ」には「整える」よりも生々しい肉体のうごきがある。
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ジェームズ・グレイ監督「エヴァの告白」(★★★★)

2014-02-26 09:49:23 | 映画
監督 ジェームズ・グレイ 出演 マリオン・コティヤール、ホアキン・フェニックス、ジェレミー・レナー

 マリオン・コティヤールが主役なのだけれど、そしてマリオン・コティヤールにぐいと引きつけられるのだけれど、同時にホアキン・フェニックスにも引きつけられる。女を利用して生きているのだが、どこかに純情がある。汚らしさ、いやらしさ、いやしさ。それと純情が交錯する。純情を言えない。純情を言ってしまうと、女を利用するということができなくなる。そうわかっていて、両極端を揺れる--のではなく、その両極端をひとつにしようとする。揺れてしまえば簡単(?)なのかもしれないけれど、揺らさずに自分の内部で「ひとつ」にしようとするので、なんとも不思議な手触り感(存在感?)がある。別な言い方をすると、「愛している、こんな生活をやめて新しい暮らしをはじめよう、と言ってしまえよ」と横から言いたくなってしまうのである。もしホアキン・フェニックスがそう言ってしまえば、この映画はまったく違った「純愛映画」になる。しかし、この映画は、それを感じさせながら、そこへ踏み込まない。そこに複雑な魅力がある。味がある。
 で、このあいまいな、透明感からはるかに遠い男の純情と、それを引き出すマリオン・コティヤールの目の力、その背景(?)のくすんだ色、時代の色が、とてもおもしろい。先日見た「ゴッドファザー2」のロバート・デニーロが活躍している時代と重なるのだが、蛍光灯がまだなくて、陰影がやわらかく濃密な時代の、その「背景の色」が、人間の欲望を、欲望の奥底で結びつけてしまう。この映画では明るいシーンは、マリオン・コティヤールの回想シーンに一瞬出てくるだけで、あとはひたすら茶色っぽく汚れた感じで暗い。明確な色がない。形がない。あらゆるものの影が存在をつつみこむように背後から押し寄せてくる。
 現代の明瞭すぎる光は人と人を明確に区切りすぎる。グラデーションがない。表面を明確にしすぎる。内部を内部に押し込めて、隠してしまう。ほんとうの影に結晶させてしまう。昔の光は、光によって何かを照らしだすと同時に、その反対側へしずかにこぼれていく暗いものを影にしてしまう。その影は背景の暗い部分にとけてしまう。影は形にならずに、闇として漂う。そういう時代の色、陰影を映画はしっかりと描いている。
 そういう世界で、それでは何がひとりの人間を人間として「区切る」のか。独立した存在として感じさせるのか。その肉体の内部からあふれてくる光、目の輝きである。目のなかに見える生きる力--それが闇のなかでひとりの人間を「形」にする。マリオン・コティヤールは、そういう目をしている。美人であるかどうかを忘れてしまう。目と、その周辺にだけ視線がしぼられてしまう。ほかの肉体の部分も見ている(見えている)はずなのに、思わず目だけを見てしまっている。
 手品師のジェレミー・レナーが観客席を歩きながら、マリオン・コティヤールを見つけ、吸い寄せられるようにして目を見つめ、花をプレゼントするシーンがあるが、あの感じ。目を見た瞬間に、まわりがぼんやりした薄暗がりに溶けてしまう。目だけがそこにあって、その目が彼女の顔をろうそくの明かりのように、陰影をもって照らしだす。あたたかく、さびしい、かなしい陰影。そういうものをつくりだす何かが、目の奥に、つまり彼女自身の「肉体」のなかに、「人間」の奥にある。その彼女の肉体の奥にあるものが自分に照射してくる、自分が忘れていた何かを照らしだしてくれる。そう錯覚する。恋というのは、まあ、そんなふうにしてはじまる。自分の知らない自分を、他人をとおして、無意識のうちに発見するという感じで。
 あ、少し脱線したが……。
 マリオン・コティヤールとホアキン・フェニックスは、いわばまったく逆の生き方(演技)をしている。マリオン・コティヤールは生きるために売春をしている。暗い闇に肉体を置きながら、しかし、その闇にはそまらず、自分自身の光を守りつづけている。光をもやしている。「生きたい」という純粋な力を維持しつづけている。その純粋な光を目からあふれさせている。目を中心にして、どこでもはっきりと自己を浮かび上がらせている。ホアキン・フェニックスは目の光を隠している。顔の造作がつくりだす影の部分に目はいつも隠れている。目が、スクリーンに明確に形として映し出されることはない。そのかわりに、全身が背景の影をひきつれて動く。光のなかで男の体が動くというのではなく、闇のなかに半身を溶かしこみながら、グラデーションの感じで肉体の大きさが浮かび上がる感じ。どこまでが「肉体」かわからない。まわりの闇を含めて、ホアキン・フェニックスである。闇が彼の「肉体」を大きく、強く感じさせる。マリオン・コティヤールが目でマリオン・コティヤールとわかるのに対し、ホアキン・フェニックスは背景の闇の深さでホアキン・フェニックスとわかる感じなのだ。
 で、そういう感じなのに、なぜかホアキン・フェニックスの純情も感じてしまう。それは、マリオン・コティヤールの目の力があって初めて浮かび上がるものである。マリオン・コティヤールの目の光が、ホアキン・フェニックスの肉体の奥に隠されている純情にまで届いている--その光によって、観客はホアキン・フェニックスの純情を初めて見ることができるということかもしれない。逆な言い方をすると……。ホアキン・フェニックスのまわりには女がたくさんいる。そのたくさんの女たちのあいだでは、ホアキン・フェニックスの純情は見えない。ただの大きなやみである。マリオン・コティヤールの目を前にしたときにだけ、マリオン・コティヤールの目と向き合ったときにだけ、ホアキン・フェニックスは純情になる。それはホアキン・フェニックスの目の力がホアキン・フェニックスの内部の純情を照らすということでもある。
 この二人の関係がスクリーンのグラデーションを動かしている。非常に凝った映画なのである。私は目が悪いので、こういうシャキッとしない影像はなかなか苦しいのだが、苦しいながらも、そこに引き込まれてしまう。
 で、この映画の最後は、マリオン・コティヤールが去って行ったとき、ひとり残ったホアキン・フェニックスの「肉体」そのものが、男の純情として屹立するというロマンチックというか、センチメンタルというか--まあ、泣かせるねえ、という形で閉じられる。かっこわるいけれど、かっこいいねえ。そういう男になるのはいやだけれど、そういう男をやってみたいねえ。
                        (2014年02月23日、天神東宝3)

 




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西脇順三郎の一行(101 )

2014-02-26 06:00:00 | 西脇の一行

「ヒルガオ」

この燃えているおつさんの                    (111 ページ)

 太陽を「燃えているおつさん」と呼んでいるのだが、「おつさん」という音がおもしろい。どこか「もったり」として響きがある。不透明な感じがする。それは激烈な太陽の比喩には、私の感覚では、そぐわない。
 しかし、こういう「変だなあ、自分ではそういう比喩は思いつかないなあ」ということばがあると、その詩に手触り(手応え)のようなものが生まれてくる。
 「おつさん」という田舎臭いイメージよりも、田舎臭い「音」が、私の何かをつかまえて離さない。その何かが何か--私にはわからないが、こういう変な音が私は好きである。
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振り返ると、

2014-02-25 11:04:03 | 
振り返ると、

歩いてきた歩道は振り返るとアメリカスズカケの根元が暗くなった。
風が出てきたのか、自転車店のウインドーで光と影が散らばった。
もう昔のことになってしまうが、開いた自動扉の右と左ですれ違いざまに振り返った。
その出会いとは違う場所で、どこでだったか忘れてしまったが、
互いに振り返る姿をみつめあって別れてしまった。



詩は以下のURLで書いています。
https://www.facebook.com/pages/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%AE%A4/118161841615735

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山本純子「一日いちど」ほか

2014-02-25 09:50:05 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「一日いちど」ほか(「息のダンス」11、2014年03月01日発行)

 山本純子の詩は読んでいて「声」が聞こえる。その声は谷川俊太郎の書いている「声」とはかなり違う。「かっぱらっぱかっぱらった」のような、「音」を聞かせるぞ、という「意図」のようなものが少ない。自然に、そうなるまで待っていた、という感じがする。「楽しんでいる」という感じが、そのぶん少ないのだけれど、その「少なさ」が不思議と気持ちがいい。
 「一日いちど」の全行。

一日いちど
あちこちの
しらない人のことを
かんがえる

みんな、あしたも
きげんがいいか

よる
天気よほうをみる
だけだけれど

 天気予報を見ながら、知らない土地の知らない人のことをちょっと思う。そういうことを書いているだけなのだけれど。なぜか、何度も読んでしまった。
 1連目の「しらない人のことを」がとても印象に残る。違った「音」が聞こえてくるような感じがする。
 よく読むと(よく見ると?)、1行目は「い」の音が多い。2行目は「あ」の音が大岩家ではないが、1行目の「い」に対して「あ」の音が印象的だ。3行目は、ある意味では「い」の音がたくさん出てくるのだけれど、「い」単独ではひとつ。あとは「し」「ひ」と微妙な子音が前についている。すごく弱い音だねえ。その「弱さ」に何か引き込まれる感じがする。そして4行目「かんがえる」でまた「あ」が明るく響くので、よけいに3行目の「し」「ひ」の子音の弱さが際立つ。
 2連目の「きげんがいいか」は「意味」的に飛躍があるのだけれど、なるほどなあ、そういうことを考えていたのか、と3連目で納得する。
 そして、この「きげん」なのだが、何度も何度も口のなかでころがして見つけたんだろうなあ。「天気がいい」に似たことばってないかなあ。「元気がいい」、ちょっと違うなあ。「気分がいいか」これも違う。「きげんがいいか」。なんとなく、これがぴったり。「きげん」は「きぶん」よりも天気屋という感じもするねえ。
 茶の間で(いまでもあるんだろうか)、そんなことを口走って、そのあとで3連目のように、ちょっと「いいわけ」をする。このリズム、意識のリズムが、そこに「人間」を浮かび上がらせる。
 山本は「少年詩篇」というくくりで書いているのだが、そうだね、ちょっとだけ「おしゃま」な少年、少し大人ぶっている少年の意識と肉体のリズムが、ここにあると思う。山本は谷川俊太郎とはまた違った耳で、他人の「呼吸」のようなもの、「息」のようなものをつかみとり、それを自分の「肉体」をとおして確かめているのだろうなあ。
 なぜだかわからないが、時間をかけて、それが生まれてくるのを待ってことばにした、という印象がある。谷川も時間をかけるのだろうけれど、その時間のかけ方は、谷川自身の内部での時間。山本は、他人がそれを発見するまで待っているという時間--そういう違いがあると思う。

 「はおと」も気持ちがいい。

ぶんぶんと
はおとのおおきい
むしがとぶ

しーんと
はおとのちいさい
むしがとぶ

ひとに
きこえる
きこえない

きこえた?

むしのはーとが
はおとをたてて
とんでいく

 最後の連の「はーと」を「はあと」と書き直してみたい気持ちに襲われる。「はあと」「はおと」と繰り返しながら、小さな虫になってしまう。そうか、あれは羽根の音ではなくて「はあと(心臓)」の小さな小さな音だったのか。
 ほんの少しの思いつき(?)なのだろうけれど、「はおと」と「はあと」が似てるなあ、と気づくまで、そてその気づいたことを、こんなふうにことばにするまで、少年なら(少女なら)、ずいぶん口のなかでことばを転がしたんだろうなあ。そういうことがなんとなく想像される。そういう印象が、なぜか、私の「肉体」をくすぐる。
 谷川俊太郎のことば遊び歌を読むと私はこどもになってしまうが、山本の詩を読むとこどもを見守っているおとなになって、あ、こどもはかわいいなあ、こどもの息はおもしろいなあ、と思う。
 そういう違いがある。

あまのがわ―詩集
山本 純子
花神社
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西脇順三郎の一行(100 )

2014-02-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(100 )

「ヒルガオ」

漢人は「セン」といつて心の中で反動する             ( 110ページ)

 この作品も長いので1ページ1行を選んでみる。
 「セン」は「ヒルガオ」の中国語(?)の呼び方。このあと、ミルトン、ランボー、羅馬人、希人は「ヒルガオ」をどう呼ぶかが書かれていく。「音」がカタカナで再現される。どのように描写しているか、ということだけではなく、必ず「音」が書かれている。このことは、西脇が「もの(対象)」そのものに対して接近しているだけではなく、必ず「音」として「もの」を把握していることを意味するだろう。
 この詩には、たとえば「あの花のうすもも色は/地球上何属にも見られない/薄暮の最高の哀愁の色だ」というような行があるので、西脇が「絵画的詩人」であるというふうにとらえる人もいると思う。
 私は、そういうイメージの結晶のような部分よりも、「音」を手がかりに散らばっていくイメージの方が西脇の本質であると思う。イメージを固定化するのではなく、壊していく。乱していく。そういう部分が好きだ。乱調のなかで、乱調を越えて輝く美しさが好きだ。
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伊藤悠子「ひろやかに雲が」、山口賀代子「街」

2014-02-24 10:18:50 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「ひろやかに雲が」、山口賀代子「街」(「左庭」27、2014年02月15日発行)

 伊藤悠子「ひろやかに雲が」は短い詩である。したがって、情報量も少ない。

直に触れてはきっといけない
布を墓石にあて
洗礼名
氏名
年月日
そして年月日
とてのひらをあてていく
そしてもどり
洗礼名
氏名

カトリック府中墓地
ただひろやかに雲があたためている
白百合を持ってきました

 カトリックの墓地で墓石にそっと触れている。磨いている(汚れを落としている)のかもしれない。手で、そこに刻まれた名前、年月日をなぞっている。そこに眠っているのがだれなのか、伊藤とどういう関係にあるのか。そういうことは一切わからない。けれど、伊藤がその人を大事に思っていることがわかる。
 「直に触れてはきっといけない」「てのひらをあてていく」という行のなかにある「動詞」が「大事」を浮かび上がらせる。
 そこに美しさがある。
 そして、最後。

白百合を持ってきました

 これがいいなあ。
 ここには明瞭な情報がある。1連目はどんな情報も持っていないのに対して、いくつかの情報がある。墓のなかで眠っているひとは「白百合」が好きだった。そして伊藤は、そのことを知っている。だから白百合を持ってきたのだ。好きな花を持ってくるということは、また伊藤がその人を大切に思っている証拠でもある。
 それ以外にも、とてもとても重要な情報がある。
 この行には、実は、動詞がふたつある。
 ひとつは「持ってくる」。これは、読めばすぐにわかる。
 もうひとつは省略されている。書かれていない。この省略された動詞の方がもっと大切で感動的だ。
 省略されているのは、「語る(語った/話しかけた)」である。
 伊藤は白百合を持ってきただけではなく、「白百合を持ってきました」とその人に語りかけているのである。語りかけるとき、その人は伊藤の目の前にいる。
 この感じが、実にあたたかで、実に美しい。

 伊藤は、いつでもだれかに語りかけているのかもしれない。語るということばをつかわずに、直に、ただ語りかけた内容だけを書く。その語りかけは、読者には関係がない。伊藤は、伊藤の向き合っている「そのひと」にだけ語りかける。それは伊藤の肉体にしみついた思想なのである。直に、その人にだけ語りかける。それでいい、というの生き方。そのときの「直(直接性)」が、いいなあ。
 この「直」を知っているからこそなのだろう。伊藤は「直に触れてはいけない」何かも知っている。直接触れながら、同時に、その直接性から身を引くこと、相手に負担をかけないという方法も知っている。
 そういう「折り目正しさ」のようなものが静かで、とても美しい。



 山口賀代子「街」にも、はっとする1行がある。

橋をわたる
左岸から右岸へ
それだけのことなのに
とおい国へいくような
とおい国からきたような

こんなところに銭湯が
と おもう
駄菓子屋が ある
(略)

ぴらぴらの菫色のワンピースがなびいている
洋品店
だれがかうのだろう
犬と婆さんしかみかけない街角で
いつのまにかなじんでいる
この街へ

 「とおい国」のようなのに、「いつのまにかなじんでいる」。この「いつのまにか」が私はとても好きだ。むりやりではなく、「いつのまにか」。その「間」は、私の「感覚の意見」では、2連目に、少し姿をあらわしている。

こんなところに銭湯が
と おもう
駄菓子屋が ある

 改行と1字空き。そこにある「間」。一瞬立ち止まり、それから、そこにあるものを「事実」として受け止める。そのときの「間合い」。強引ではなく、かといって、なげやりでもなく、ゆっくりと自分の知っているものとそこにあるものを突き合わせてみつめる感じがする。そこにあるものと山口がおぼえているものを突き合わせ、「なじませ」、なじんだものをことばにしている。銭湯も駄菓子屋も、山口がおぼえている銭湯、駄菓子屋につながっている。つなげて「間」をうめている。「間」のなかに、山口の「肉体」が入っていく--という感じがする。
 こういう言い方は「あやふや」かもしれないが……。

きたことがあったのかどうか
あやふやでもある

 「間」がなじむと、「区切り」が「あやふや」になる。そういう「こと」を山口は、きちんと書いている。そこが、ていねいでおもしろい。



ろうそく町
伊藤 悠子
思潮社
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西脇順三郎の一行(99)

2014-02-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(99)

「しほつち」

すきとおるラムネビン色の

 ふつうに書けば「すきおとるラムネのビンの色の」かもしれない。西脇の大好きな「の」がここでは2回も省略されている。不自然なことばなのかもしれないが、その不自然さがラムネのビンのまがった形と色をひとつにしている。色だけがあるのではなく、形がいっしょに、そこにある。そこにはラムネの炭酸水の透明も含まれるのかもしれないが、ラムネが入っていなくても「ラムネビン」なのだ。形と色がラムネビン。
 この全体的な結合が美しい。「の」がないことによって結合が強くなる。
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「ゴッドファザー2」(★★★★★)

2014-02-23 10:05:55 | 映画
「ゴッドファザー2」(★★★★★)

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 ロバート・デニーロ、アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル


 映像の情報量が多く、しかも美しい。変質したフィルムを再現するデジタル技術の確かさに唸る。暗い光の陰影が、ともかく美しい。白熱灯の作り出す光が柔らかくて深い。人間の表情、肉体の動きにそってやわらかな影になり、そのまま部屋の空気になっていく。街のにおいになっていく。まるで「名画」を見ている感じ。どのシーンも絵になっている。映画はこうでなくては。時間を忘れてしまう。
 一番好きなシーンは、休憩の寸前の映像。(初回の時も休憩って、あったっけ? 3時間半、ぶっ続けじゃなかったっけ……。忘れてしまった。)デニーロがやくざのボス(?)を殺してきて、家族のもとへ帰る。道ではキリスト教の何かのお祭り(パレード)がおこなわれている。階段に妻と3 人の子供。アル・パチーノのが演じるマイケルはまだ乳飲み子。その乳飲み子に「マイケル」と話しかけると、赤ん坊の手がデニーロの手を握る。握ろうとする――と見るのは、まあ、私の勝手なのだが、その瞬間、父と子の絆がしっかり浮かび上がる。あ、すごいなあ、と思う。赤ん坊は演技などできない。赤ん坊がデニーロの手を握る瞬間を待って、それをしっかり映像にしている。映像に語らせている。
 ほかのシーンも同じように、その映像になるまで待って、しっかりとっている。古い時代のニューヨークの雑然としたひとの動きも、きっと何度もリハーサルをして、自然な人ごみを作り出しているのだろう。時間と手間を惜しまないと、映画はこんなに美しくなるのだ。
 で、赤ん坊のシーンに戻るのだけれど、あのあたたかな感じは、もっぱらデニーロの性格を表しているんだね。だれもがすり寄ってくるあたたかさ。
 映画は、ゴッドファザーの若い時代(デニーロ)とアル・パチーノの現在を対比するように交互に描かれるのだけれど、実際に人殺しをするデニーロの方が人間ぽく、温かいのに対し、自分の手を汚さないアル・パチーノの方が冷たく、残酷な感じがする。デニーロにはだれもが近づいてくる。そして、その近づいてきたひとがデニーロを自然に守る砦になる。一方、アル・パチーノの側からはだれもが離れていく。ダイアン・キートンが演じる妻さえ、離れていく。生まれるはずのこどもも堕胎によって離されてしまうというのは、あまりにも強烈な仕打ちだが、兄弟も離れていく。離れていくどころか、殺されてしまう。どんどん孤立する。孤独になっていく。
 デニーロのゴッドファザーとアル・パチーノのゴッドファザーの対比を描くことがこの映画のテーマなのだろうけれど、理屈っぽくならずに、デニーロの人懐っこい顔を生かして、あくまで「肉体の印象」を前面に出しているのがいいなあ。マフィアであることを忘れて、デニーロの温かみに吸い寄せられていくね。
 アル・パチーノはデニーロの引き立て役に終わってしまって、残念だね。私はアル・パチーノのファンではないので、まあ、どうでもよいが。
 あと、好きなのはロバート・デュバルが昔なじみの男に、自殺を勧めにゆくシーン。「自決することで家族を守る」と相手に言わせるところがすごい。押し付けにならないからね。で、そういう予告をしておいて風呂場での自殺シーンを見せるのも、残酷そうで、残酷じゃない。予備知識があるので血の色も残酷というより、「悲しい」色が濃くなる。うまいなあ、と感心する。
 *
 付記。私は天神東宝5で見たのだが、このスクリーンは中央に縦に汚れがついている。私は目が非常に悪いのだが、その私が気づく汚れなのだから、よっぽどひどい。映画館とはいえない。
                        (2014年02月22日、天神東宝5)

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西脇順三郎の一行(98)

2014-02-23 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(98)

「夏至」

ヨハネのマラルメのゲジゲジの

 ここからは詩集『人類』の作品。
 ヨハネとマラルメは西洋の古典的(学問的/精神的/芸術的?)な存在。ゲジゲジは虫。ゲジゲジが1行に紛れ込むこと、結合されることによって、ヨハネはマラルメに「知識」のエッジとは違う輪郭ができる。
 たとえば、これが

ヨハネのマラルメの薔薇の

 だったとすると1行はおもしろくない。薔薇がヨハネとマラルメを統合してしまう。薔薇ということばがもっている「文学(教養)」がひとつの「美」になる。けれどゲジゲジという異質なものが結合されると、それは美にはならない。なりようがない。つながっている何かが切断される。
 その切断の、断面としてのエッジがある。
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中嶋康雄「水たまりのヤスオ」

2014-02-22 09:13:13 | 詩(雑誌・同人誌)
中嶋康雄「水たまりのヤスオ」(「めらんじゅ」15、2013年12月03日発行)

 中嶋康雄「水たまりのヤスオ」は引用しようとして、いま気づいたのだが「自画像」なのかもしれない。「ヤスオ」は「康雄」。そうとは気づかずに読んだのだが……。

倉庫の裏のちょっとした空地
水たまりにヤスオがいる
孑孑と一緒にフラフラしている
水たまりの水が少なくなってくる
時折、遊びに来ていたアメンボの奴も
遊びに来なくなった

 「水たまりにヤスオがいる」といっても「水たまり」のなかではなく、そのまわりにフラフラしているということだろう。孑孑はわかるが、そういうところへアメンボが来るのはどういうわけだろうなあ。水がつながっているわけでもないのに、確かに離れた水のなかにアメンボを見かけることがある。空を飛んでくる? わからないが、まあ、確かに「遊びに来る」のだろう。(ほんとうは孑孑を食べに来るのかも。)で、ヤスオも、遊びになってくる。このときの「遊び」は何もしない、フラフラするくらいのことだけれど。
 で、ここに出てくる孑孑、アメンボ、ヤスオがなんなとく「ひとつ」に見えるね。「ひとつ」に感じるね。通い合うものがある。「遊び」「フラフラ」という感じかもしれないなあ。それから「倉庫の裏」「空地」も「遊び」「フラフラ」に似ている。孑孑、アメンボにはそういう気持ちはないかもしれないが、無用、役に立たない、そして何かが有り余っている感じ……。
 この調子がなんとなくつづいていく。

水たまりはただの水たまりで
雨が降らないので
水が
少なくなって
埃っぽくなって
孑孑の奴
へらへら笑いながら
蚊になって水たまりを離脱する
ヤスオは孑孑がいなくなっても
フラフラしている

 孑孑とヤスオはヤスオの気持ちのなかでは「ひとつ」。だから、水たまりを去っていく孑孑はヤスオに取っては「離脱」。--この「離脱」のなかに、妙な共感がある。笑いがある。軽くて、さみしくて、いいなあ。「へらへら」も、そんなふうに笑われたらさびしくなるという感じを強くする。孑孑のいなくなった水たまりの周辺をフラフラするとき、そのヤスオのフラフラを受け止めてくれる孑孑がいないので、ヤスオはさびしいなあ。夏の光だけがまわりにあって、影も短くなって、よけいさびしい--と書いていないのだけれど、私はヤスオになって妄想する。捏造する。つまり「誤読」する。
 「誤読」を誘うように、ことばが重なり合う。論理的に意味を重ねるというのではないのだが、あいまいな領域で重なり合って、「肉体」をじわりとつつんでくる。この感じが自然で、とてもいい。
 詩はここでおわってもいいのだけれど、つづきがある。

ヤスオはただのヤスオで
他にどうしようもない
水はもうお湿り程度
もうすぐ
カラッカラだ
ヤスオはからっぽの体を
元水たまりの場所で
もてあますだけだけもてあます

 1連目で「倉庫の裏」「空地」「孑孑」「アメンボ」「遊び」「フラフラ」、さらに「へらへら」「離脱」というようなことばが重なり合っていると書いたけれど、2連目も「カラッカラ」「からっぽの体」と似たような重なりあいが繰り返される。ことばの「質感」が同じ。
 同じだから省略してもいいのだけれど、なんとなく「全部」を引用したくなる。
 1連目では「離脱」が端的でとてもおもしろかったが、2連目では、

元水たまり

 あ、この「元」のつかい方がいいなあ。昔は水たまりだった。いまは違う。それを説明するための「元」。--「意味」は「わかる」。わかるけれど、ふつうは、言わない。じゃあ、ふつうは何というのか--急に聞かれたら、一瞬、わからない。「かつて水たまりがあった場所」ということになるかもしれないが、そういうまだるっこしい表現を吹き払って「元水たまり」。そのことばに引っぱられてしまうね。
 これは、いいなあ。

 深読みすれば、「元」はヤスオも何かであったのだ。その「元」は干上がってカラッカラ、からっぽ。で、フラフラしている。へらへら笑われているのを感じている。そういうことかもしれないけれど、面倒くさいことは書かずに、フラフラを感覚のまま、そこに書いている。ときどき「元」とか「離脱」とか、それでなければぴったり来ないことばを、ぴったりと決めて。--この「ぴったり感」に詩がある。

何も待たない
何も持たない
じっとしている
元水たまりの場所が
ただの場所になる頃
ただの透明な穴になり果てたヤスオは
久しぶりにフラフラしている

 「待つ」「持つ」は音も似ているが、字も似ているなあ。
 「ただの場所」「ただの透明な穴」のなかにある重なり合いもいいなあ。「透明な穴」なんて、もう「穴」ではなく単なるへこみみたいなものかもしれないけれどね。そういう微妙な手触り感がいいなあ。
 「意味」を全部、読者の方に投げ出してしまって、詩のなかでフラフラしている。
 「元水たまり」を探しにゆきたいなあ。そこでフラフラしたいなあという気持ちになる。







詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(97)

2014-02-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(97)

「奇蹟」

地獄の色彩のように

 この行も、前後を引用してみる。

フキノトウもイタドリも
地獄の色のように
やつとにじみ出ている

 「地獄の色のように」ということばを独立させたかったのだ。色を強調するためだろうか。違うだろうなあ。色を強調するのなら、次の「やっと」がきびしい。いや、かすかなものを強調するという方法もあるけれど、繊細な感覚と地獄の色彩は、どうも私の感じではそぐわない。
 「フキノトウもイタドリも/やつとにじみ出ている」では、あまりにも風景が自然になりすぎる。「日本的抒情」になりすぎる。それを壊したかったのだろう。西脇は「日本的情景」も好きなのだと思うが、その「情景」が「日本の定型」のなかで語られるのが嫌いなのだ。「日本の定型」をたたき壊して、非情な自然そのものにかえしたい。感性の定型と切断した場所で、「もの」そのものを見たかったのだと思う。
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