詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「こころ」再読(4)

2013-07-31 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(4)

こころ ころころ

こころ ころんところんだら
こころ ころころころがって
こころ ころころわらいだす

こころ よろよろへたりこみ
こころ ごろごろねころんで
こころ とろとろねむくなる

こころ さいころこころみて
こころ ころりとだまされた
こころ のろのろめをさまし

そろそろこころ いれかえる

 3連目の「さいころ」がとても楽しい。「こころ」という音には「お」の音が多い。そしてこの詩も「お」の音が多い。「ころん」「ころころ」「よろよろ」「ごろごろ」「とろとろ」「ころり」「のろのろ」「そろそろ」。みんな子音+「お」で始まる。「さいころ」だけ「あ」の音で始まる。
 この音楽はどこからくるのだろう。
 この「さいころ」の異質な感じは、これまで私が「矛盾」と呼んできたものと似ているかもしれない。異質。異質なものが突然ぶつかり、そこで化学変化をおこす。それに似て、何か、それまでとは違ったものになっていく。そのきっかけ。

 最後の1行の「こころ いれかえる」は「ねころんで」怠けているのをやめてというような「こころを入れ換える」ではないね。「さいころ遊び」をするような、やくざなこころを入れ換えるだろうね。
 でも、そんな簡単には入れ換えられない。もちろんねころんで怠ける癖もそうだけれど、博打(?)ひるの方がもっと、なんというか脱けだせない。入れ換えを許さない力が強い(と思う)。魔力がある(と思う)。
 そして、そこには何かしら「さびしい」感じがある。やくざなことをやってみたいなあ、という未練のようなものがある。「暗い」ものがある。
 それが魅力的。

 ひとつ、注文。

こころ ころころねころんで

 は、ちょっと健康的すぎる。だから「さいころ」で補っている(?)のかもしれない。でも、もうちょっとはみだして、

こころ ころころねんごろに

 くらいのことをどこかにしのばせてくれたらなあ。でも、そうすると、青少年向けではなくなる?
 思い返してみると。
 谷川って、詩が清潔だねえ。
 「さいころ」だって、ほんとうのやくざな感じとはちょっと違う。溺れて脱けだせないという感じがしない。



これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎「こころ」再読(3)

2013-07-30 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(3)

 谷川俊太郎は平気で他人を書く。「私」以外の人間を登場させる。

彼女を代弁すると

「花屋の前を通ると吐き気がする
どの花も色とりどりにエゴイスト
青空なんて分厚い雲にかくれてほしい
星なんてみんな落ちてくればいい
みんななんで平気で生きてるんですか
ちゃらちゃら光るもので自分をかざって
ひっきりなしにメールをチェックして
私 人間やめたい
石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

無表情に梅割りをすすっている彼女の
Tシャツの下の二つのふくらみは
コトバをもっていないからココロを裏切って
堂々といのちを主張している

 前半の「彼女」のことばは、「彼女」がほんとうに言ったことばなのか。そうではなくて、谷川が感じていることを「彼女」に語らせたのかもしれない。どちらでもいいが、どちらにしても、そこには「他人」がいる。

石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

 この2行は、どうみても「彼女」のことばではない。それまでのことばと文体が違いすぎる。こころの奥深くをとおって、整えられている。「石ころ」「泥水」という比喩によって、思考(肉体)が整えられている。
 谷川自身のことばである。けれど、それは谷川が隠していることばという意味では、やはり「他人」だろう。
 この「他人」は、これまでの詩で、私が「矛盾」と呼んできたものかもしれない。
 いま、こうしている。けれど、その、いま、こうしているのとは違うものがある。それはまだことばになっていないけれど(ことばになっていないから?)、ことばになろうとしている。
 そして、ことばになる。そのとき、そこに詩がある。

 前半だけで、詩、が成立しているのだけれど、そしてそれがあまりにも「谷川詩」なので(谷川自身のなかにある「他人」の噴出)なので、谷川はそれをちょっと隠す。
 それが最後の4行。
 若い乳房のみなぎる力。
 それを描くことで、「彼女」の「体(いのち)」と「ココロ」を対比させている。
 それは互いに拮抗して、戦いながら、生きている。それはほんとうは「協力」なのだが、ココロにも体にも「裏切り」に見える。
 その「裏切り」を私は「矛盾」と呼ぶのだけれど、そこに「意味」にしてはいけない詩がある。

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
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苗村吉昭「意味への意志」、北川透「娘腫瘍」

2013-07-30 11:03:21 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「意味への意志」、北川透「娘腫瘍」(「歴程」585 、2013年07月15日発行)

 意味は厄介である。意味はいつでも生まれる。ことばがつながると、そこに意味が生まれてしまう。
 苗村吉昭「意味への意志」は「小さな娘」がかぶと虫の幼虫をほしがって、スーパーで買ってきて育てることを書いている。かぶと虫はそのうちに死んでしまう(だろう)。それにつづけて苗村は、次のように書いてしめくくる。

この一年の命を短いと思ってはいけない
たとえ卵を残せなかったとしてもその命が無駄だと思ってはいけない
息苦しい世界に捕らわれ続けた生活を哀れだと思ってもいけない
なぜなら
僕らもまた
捕らわれたカブトムシなのだから

 ここに、うんざりするくらいの「意味」がある。人間もまた、かぶと虫のように息苦しい生活を生きるものなのだという苗村の人生(?)を重ね合わせ、生きることをの不条理を娘に伝えようとしている。
 わかるけれど。
 なんだかがっかりするね。
 こんなことを言っていいのかどうかわからないのだが、小さなもの(かぶと虫)を引き合いに出して、自分もまた小さなものというとき、「小さい」ものに「共感」しているのかなあ。なんだか自分よりも「小さい」ものを見つけ出し、安心していない? 安心というと変だけれど、「小さい」かぶと虫の人生(?)をことばで定義し、その定義できることに安住していない? かぶと虫よりも、自分の方が「定義」できる(意味づけをすることができる)分だけ、「大きい」というような意識がない?
 「意味」がこういう大小の構造をもった上でできあがるとき、私はなんだか、これはいやだなあと思ってしまう。
 「意味」になる前の部分はおもしろいと思うのだけれど。

おが屑ごと小さな容器に入れられて一匹三十円で売られている
小さな娘がしきりに欲しがるものだから
一年ばかりしかないこの捕らわれた虫を買い求める
小さな我が家に帰ると僕は小さな子のように小さな水槽に土を敷く

 「小さな」が何度も繰り返される。視点がだんだん「小さい」に集約していく。「小さい」にこだわって、そこから何かを育てようとしている。

小さなカブトムシは短い夏のあいだ小さな娘に弄ばれるが
上手くいけば交尾する相手に出会い小さな卵を残してくれるだろう

 「小さな」が美しいものに思えてくる。「小さい(な)」がけっして「小さい」ものではないかもしれない、と思えてくる。「小さい」がどこかで延々とつづいていく。そこに何か引き込まれていく。「小さい」が引き込む引力がある。
 で、これを「小さい」と思ってはいけない--と念をおされた瞬間、「言われたくないなあ、そんなこと」と私は反発を感じるのである。一生懸命「小さい」にこだわり、それを追い続けてきて、それを「小さい」と思ってはいけない。僕らもまた、カブトムシのように小さい存在なのだからという「意味」でしめくくられたくないなあ。
 どうして「小さい」のなかへ暴走していかなかったのだろう。「小さい」を加速させて、「小さい」を内部から破壊してしまわなかったのだろう。あるいは「小さい」をブラックホールにしてしまわなかったのだろう。すべてを吸い込み、放出するブラックホール。「小さい」巨大という矛盾で、「小さい」という「意味」を否定してしまわなかったのだろう。
 「小さい」を書き続け、それが「小さい」でなくなったとき、そこに詩があると思う。「小さい」を書き続け、その「小さい」に「流通思想」のようなものをおしつけられたのでは--「意味」はわかるというより、「意味」が「流通思想」に加担しているようで、いやだなあ。



 北川透「娘腫瘍」は「流通言語」のなかにある「常識」を逆手にとっている。もっとも分かりやすいのが「父腫瘍」。

腫瘍化とは、一つの文化の組織中で、もっとも熱量の高い塊が、ほ
かの塊との親和や連携の関係を断ち切って、自分勝手に成熟しよう
としたり、増幅したり、逸脱したりしようとする時に、過剰に、自
己破壊的に肥大する状態である。その最初のモティーフが父腫瘍で
あり、それに共鳴し、共同戦線を張る熱の塊が母腫瘍である。父と
母の性愛的な結合によって、産みだされるものが息子腫瘍と娘腫瘍
だ。文化にとって腫瘍化は死への道だが、この快楽の死線を走るこ
とによってしか、熱いコブや隆起の陥没は生の歓びを分泌できない。

 「文化の組織」を「肉体の組織(細胞)」と置き換えると、腫瘍(がん)の説明になるだろう。腫瘍とは何かという「流通定義」をその定義が流通している生化学の領域から引っ張りだし、北川は、それを「文化」のなかで動かしている。(あるいは「家庭」という「文化形態」のなかで動かして、父親・母親の権力をからかっている。)
 「意味」ではなく、「意味」になるときの「論理(ことばの運動)」を利用している。それは、いわば「文化」にとってとは余剰なもの、余分な「熱量の高い塊」のようなものである。「文化」という「文脈」のなかに、一種の腫瘍を埋め込んで、暴走させる。
 大事なのは、「意味」ではなく、「意味」になろうとして「動く」ときの、その「動き」方。何と接続し、何との関係を切断していくか。
 「ほんとうの意味」は、そういう「運動」のなかにある。「結論」は「意味」ではなく、いわば「排泄物」のようなものだ。排泄しないと「肉体」に問題がおきる。自在な動きがとれなくなる。だから排泄するだけなのだ。
 運動--動詞のなかに歓びがある。運動/動詞というのは、固定すると死んでしまう。矛盾した言い方しかできないが、腫瘍には腫瘍の生きる歓びがある。その生きる歓びは「正常な細胞」を破壊し、死にいたらしめるかもしれないけれど、そしてその腫瘍の増殖する歓びは言語化するのがむずかしいけれど(意味の否定だからね)、たしかに「存在する」。
 ここには苗村の運動とは別の、明確な「意味への意志」がある。強靱な意志である。「流通システム」に頼らず、自分で動いていく意志、流通になる意志である。それは、まあ、現代詩がそうであるようにけっして流通はしない。だからこそ、そうさせようとするのである。「意志」とは無理強いのこと、わざとのことである。他人に受け入れられたら(流通したら)、それは「意志」ではない。

 --と、ここまで書いたら、突然、変なことを思った。
 この「わがまま」な北川の詩はフランス人向きかなあ。フランス語に翻訳したら、パリなんかでベストセラーになるかも。フランス語は知らないし、フランス文学も知らないのだけれど、はみだしてしまう物を全部受け入れるのがパリだなあ、と思う。映画でしか知らないパリだけれど。

エメラルド・タブレット
苗村 吉昭
澪標



海の古文書
北川 透
思潮社
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谷川俊太郎「こころ」再読(2)

2013-07-29 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(2)

 谷川俊太郎は、「意味」を固定しない。詩のなかに、違った「意味」というか、対立するもの、矛盾するものを用意している。

こころ3

朝 庭先にのそりと猫が入ってきた
ガラス戸越しに私を見ている
何を思っているのだろう
と思ったらにやりと猫が笑った
(ように思えた)

これ見よがしに伸びをして猫は去ったが
見えない何かがあとに残っている
それは猫のあだごころ?
それとも私のそらごころ?
空はおぼろに曇っている

猫がこれから行くところ
私がこれから行かねばならないところ
どちらも遠くではないはずだが
なぜか私は心もとない

 「こころ1」「こころ2」とはまったく調子が違う。
 ここには「耳年増」のことばがない。--言い換えると、すべてが谷川の「体験」に根ざしたことばのように見える。猫を見て、詩を思いついたのだ、という感じがとても強い。
 で、私が今回の詩で書こうとしている「意味の違い」(対比)も、

それは猫のあだごころ?
それとも私のそらごころ?

 という具合。
 そうか、谷川は真剣に考えたんだなあ。
 何を?
 その直前のことを。つまり、猫が去っていって、そのあとに「見えない何か」が残っている。見なないものって、なんだろう。「こころ」。
 そうかな?
 そうなのかもしれない。で、こころがどこかに残ったままだと「心もとない」ということが起きる。最後の行に書いてあることだね。
 この詩は「心もとない」ということはどういうことか--それを「定義」した詩なのかもしれない。そういう意味では「意味」の強い詩だ。

 ということよりも、私がほんとうに書きたかったのは。

それは猫のあだごころ?

 実は、私はこの行を「誤読」して、

それは猫のあごだろ?

 それは猫の「顎」だろう、と読んで、とってもおもしろいと思ったのだ。猫は伸びをしたのであって、あくびをしたのではないのだが、私は伸びとあくびをいっしょに考えているのだろう、その、あくびのときの広がった顎がまぼろしのようにそこに残っている。残像になっていると思い、あ、いいなあそういう残像をみたいなあ、と思ったのである。
 でも、違ったね。
 違ったのだけれど、その残像というものは、実は猫が残したものであっても、猫だけでは成立しない、その残像を受け止める「こころ」がないと成立しない。
 そう考えると、
 あれっ? 私と谷川はどこで交錯しているのだろう。


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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リー・ダニエルズ監督「ペーパーボーイ 真夏の引力」(★★★★)

2013-07-29 20:58:57 | 映画
監督 リー・ダニエルズ
出演 ザック・エフロン、ニコール・キッドマン、マシュー・マコノヒー、ジョン・キューザック


 まるで舞台劇のように濃密な作品である。
 舞台を思わせるのは、なによりもニコール・キッドマンの演技(化粧/衣装)である。みだらな印象を増幅するカツラをつけ、娼婦のような濃厚な化粧をする。細部を強調することで、観客の視線を細部に引きつける。観客の目の自由を許さない。目がぼんやりすることを許さない。南部の街の広い場所が舞台なのに、何かニコール・キッドマンが登場する狭い空間が舞台であるという印象を与える。事件は過去に起きているのに、それは問題ではなくニコール・キッドマンのいる「いま」だけが問題なのだという印象を与える。
 事件というかストーリーのキー空間に水が絡んでいるのも、舞台が「密室」であるという印象を呼び起こす。ザック・エフロンは水泳の選手だったという役どころなのだ水が重要なポイントになってくるのは必然なのだが、水のなかは(潜っていると)、たしかに密室なのだ。ある意味では誰も手が出せない、そしてある意味ではそのなかだけにいることはできない、やがてそこを出ないと死んでしまうという密室。
 で、映画に誘い込まれるにしたがって、ニコール・キッドマンだけにかぎらず、登場人物の全員が「密室」にいて(「密室」を内部に抱え込んでいて)、それが衝突して「いま/ここ」が動いていくということがわかる。「密室」はこじ開けられたり、誰かを誘い込んでとじこめたりするのだけれど。
 ストリーはある殺人事件の被告が、実は冤罪ではないのか、とういことを証明しようとして動くのだが、事件が抱え込んでいる「密室」をこじ開けようとして、それをこじ開けようとする別の人間の「密室」が開かれるという具合に展開する。マシュー・マコノヒーの「密室」が、「いま/ここ」を複雑にする。人間のほんとうの欲望など、どこにあるか、わからない。マシュー・マコノヒーしか知らさないことであるけれど、彼が冤罪を証明しようとするのは、実は、囚人をすくいだし、彼によって殺されたいという欲望があったからだとも思えてくるのである。「真実」はマシュー・マコノヒーのなかにしかない。それを象徴するように(暗示するように?)、彼は「何かを見落としている。事件は、ほんとうは違っている」とザック・エフロンにいうシーンが、「冤罪」が晴れたあとにある。そこは、ちょっと鳥肌がたつほど、こわい。あ、これから大事件が起きるのだとわかり、私は飛び上がりそうになった。
 ニコール・キッドマンは、ある意味では狂言回しで、彼女はいわば「密室」をわざと他人に見せて、ひとを誘い込む。人間には「密室」がある。見たいでしょ? という具合。それは、「同じ密室(ひとつの密室)でいいこと」をしない? という誘いでもある。
 で、そう思って映画を思い出すと。
 冒頭のシーン。雨の日のカーセックス。水の中の「密室」。「密室の中のいいこと」。それを見た人間が殺される--と、うーん、とってもよくできている。まるで小説みたいと思ったら、原作があるとか。小説の冒頭は同じかどうかわからないけれど……。




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西岡寿美子「会話」、粒来哲蔵「萱草」

2013-07-29 11:20:13 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「会話」、粒来哲蔵「萱草」(「二人」303 、2013年08月05日発行)

 西岡寿美子「会話」は、サギ草の球根を植えているとヤマガラがやってきて、その作業を見守っている--ということを描いている。それだけなのだけれど、それがとてもいい。どこが気に入ったののかなあ。自分のことなのに、よくわからない。

きみは
反復作業する動きが好きなのだね
それなら見ててご覧
一人と一羽の付き合いだ
それぞれの思惑
気にならない距離で
ともに時間を過ごすのも悪くない

 ここで、この「一羽」を人間と思うと、それはそれで「付き合い」の理想的なあり方を語っていることになるのかもしれないけれど、そういう「意味」にしたくない。でも、「付き合い」ということばが、妙に印象に残る。
 付き合いって、何?
 西岡は、人間でも、鳥でもなく、植えている球根との「付き合い」を描いている。

床(ベッド)に貝殻も敷いた
鹿沼、赤玉、腐葉の配合土も均し入れた
うららかな春陽を背に
詰めず開けず一球一球土に託し
水苔で覆うまでの気の長い作業だよ

 付き合いとは、ただいっしょにいることではないのだ。相手にとっていちばんいい「あんばい」をつくりだすことだ。西岡は、いま、ここで西岡がしていることを書いているだけだが、実は、そうではない。西岡がしていることは、西岡自身がこれまでもしてきたことであり、西岡以前のひともしてきたことである。その積み重ねが、作業を整える。その整えられたものを、整えられた順序でていねいに繰り返す。そのかわらない「ていねいさ」(気の長い作業)こそが「付き合い」というものだろう。
 「他人」とつきあう、「他人」にあわせる、というよりも、自分自身を整えていく。そういうことなのかもしれないなあ。

きみは三メートル 二メートル
一メートルと近づいてきて
頭を右に左に傾け傾け
何が気に入ったのか
私の指の動きを飽きもせず追う

 いや、私だって追ってみたくなるなあ。そこにはたしかな時間がある。どうしても必要な時間、必然性の時間というものがある。省けない。省いてはいけないものを省かない。それが美しいのだ。
 私は途中を省いて引用してしまったが、何も省かず、何もつけくわえず、淡々と四十分のことを書いている、そのことばが美しい。
 私は西岡のことばに余分なことばをつけくわえてしまった。
 感想を書くのはむずかしいね。
 余分なことを書かず、ただ感想を書いてみたいなあ。



 粒来哲蔵「萱草」にも、余分なことを書き加えてしまいそうだ。とくに、七月の参院選の自民党の圧勝、そしてこれからやってくる八月の「戦争」を思い出す日々のあいだにあって、この詩を読むと、余分なことがいいたくなる。

船べりから鰹を垂らしたまま蒼い海をのぞき込むと、鉢巻きをした八サが海中にいて、じっちゃ、無理すんでねえ、といった。そうだな、と源ザは応じた。源ザは八サのいた海に一本一本野萱草を投げ込んだ。忘れ草というじゃねえか、したが、何を忘れんだべと源ザは呟いて、後から後から花を投げ入れた。遠ざかる鰹の群れにたたき込むようにして野萱草の花は放られ、やがてどの花も源ザの見知らぬ海へと流れて行った。

 忘れられないものがある。忘れられないことがある。源ザにとって、それは八サということになるが、それを西岡のことばで言いなおすと、サギ草の球根を植える手順である。それを実際にするのは西岡であるが、その手順は西岡以前のひとの繰り返してきたことである。そこには、あるものを育てる(いっしょに生きる)という「こと」がある。
 源ザが忘れることのできないもの、それは八サと「いっしょ」に繰り返してきた「こと」である。その「時間」である。

北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子



蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社
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谷川俊太郎「こころ」再読(1)

2013-07-28 22:15:55 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(1)

 谷川俊太郎「こころ」(朝日新聞出版、2013年06月30日)は、朝日新聞に連載中に何回か感想を書いた。詩集にまとまってからも感想を書いたのだが、全部の作品についてもう一度少しずつ書いてみる。書いたことの重複になるかもしれないけれど。
 なるべく「意味」にならないように、最初に読んだ気持ちに帰るように。

こころ1

ココロ
こころ

kokoro ほら
文字の形の違いだけでも
あなたのこころは
微妙にゆれる

ゆれるプディング
宇宙へとひらく大空
底なしの泥沼
ダイヤモンドの原石
どんなたとえも
ぴったりの…

心は化けもの?

 あ、私のこころはは文字の違いだけではゆれません。むしろ、文字の違いだけでゆれると書いている谷川の「こころ」に対してゆれる。えっ、谷川って文字の違いだけで何かを感じる? という具合に。
 2連目が「ゆれるプディング」からはじまることがおもしろい。1連目の「ゆれる」を受けているのだが、もし、プディングがゆれなかったら、それでも谷川はプディングが好きだろうか。
 谷川は、きっとゆれるものが好きなんだろう。それから、辛いものよりも甘いものが。つるりとした、やわらかいものが。
 次の宇宙はどうして出てきたのだろうか。プリンと宇宙って似ている? あるいは、対極にある? よくわからない。きっと、「宇宙」が好きだから、宇宙ということばが出てきたのだろう。谷川は昔から「宇宙」をことばにしている。
 底なしの泥沼は、宇宙との対極にある。宇宙も限りがないけれど、宇宙は底なしではなく、透明。
 この対極のぶつかりあいのなかから、谷川はダイヤモンド(透明)を選んで、そっちの方向へことばを結晶させる。
 でも、どうしてこんなに「こころ」はどんなたとえをもってきても「ぴったり」なんだろう。なぜ、なにもかもを受け入れてしまうのだろう。
 そういう「意味」を考えはじめると、
 その瞬間、

心は化けもの?

 この1行は、「底なしの泥沼」とちょっと似ている。意味=抽象的なものではなくて、抽象的=比喩として「文学」に定着しているものではなくて、もっと「なま」な感じの「もの」をぶつけてくる。
 「化けもの」は「幽霊」よりも形がありそうで、「もの」に近いようで、不気味で、こわい。抽象的=嘘、からは遠い「ほんとう」があるような感じがする。
 谷川は、「意味」を結晶させずに、ぱっと突き放す。そして、そこに私たちが知っているけれど、知らないものをぶつける。
 「知っているけれど、知らない」というのは矛盾だけれど、「化けもの」って定義ができないよね。ずっとむかし、いちばん最初にこわいもののの代名詞として、それでもなんとなく知っている。そういうもの、ことばとしてつかっているけれど、あいまいな、そのくせ「わかる」ものをぶっつける。

 こころは、そういう「わかる」ものと向き合っている。



こころ2

心はどこにいるのだろう
鼻の頭にニキビができると
心はそこから離れない
けれどメールの着信音に
心はいそいそすっ飛んで行く

心はどこへ行くのだろう
テレビドラマを見ていると
心は主役といっしょに旅を続ける
でも体はいつもここにいるだけ
やんちゃな心を静かに守る

体は元気いっぱいなのに
心は病気がこわくて心配ばかり
そんな心に追いつけなくて
そんな心にあきれてしまって
体はときどき座りこむ

 心は矛盾している。心とも矛盾しているけれども、体とも矛盾している。
 でも、そういう「意味」以前に、私は「鼻の頭のニキビ」が気になる。私はニキビに悩んだことがない。これまで生きてきて(?)、数個くらいできたかもしれないが、それは瞬間的なことで次の日には消えている。谷川って、ニキビに苦しんだ?
 どうも、そんなふうには見えないんだけれど。
 で、私は、こういう行に出合うと、あ、谷川は「体験」を書いているわけではないのだな、と思う。なんとなくなんだけれどね。確信があっていうわけではないのだけれど。
 メールの着信音にすっ飛んで行くというのも、そうなのかな? と疑問に思う。だいたい、この詩の「主人公」は誰? 私には谷川ではなく、少女が思い浮かぶ。
 で、
 ここには具体的な体験体験以上に、「まわりから聞いた体験」が入っているような感じがする。「耳年増」という感じ。「少女」の体験を聞きかじって知っていることについて「耳年増」というのは、何か変かもしれないけれど。
 いろんなことばを聞き、そこに「こころ」があることを、谷川は学んでいる。自分の「肉体」からことばを紡ぎだすだけではなく、聞いたことばから「肉体」をつくりだすということもできる詩人なのだと思う。谷川は、そのとき、自分の時間を遡って「過去(若い年代)」をも先取りできる。「耳年増」というより「逆耳年増」かな。「耳年若(?)」かも。

 いろいろな矛盾を書いて、その最後。

体はときどき座りこむ

 この行は不思議だね。たしかにどうすることもできなくなって体は座りこむことがある。でも、そのとき、こころは? 
 こころも座り込んでいるのだと、私は思う。
 「体はときどき座りこむ」という行を読みながら、私は「こころ」こそが座り込んでしまって、そのために体が動けずに座り込んだ形になっているのを想像してしまった。
 谷川は体がこころをとじこめている、という具合に書いているように見えるけれど、そのことばを読んで私が感じるのは、こころが体をとじこめている、という感じ。それはしかし、支配している、というのではなく、こころが体を整えているという感じ。
 そういう感じが、詩の主人公は少女なのに、少女を超えて詩人になっているという印象を引き起こす。詩人が(谷川が)この詩を書いたのだという感じを強める。

 そこからちょっと飛躍して。
 私は、詩が、谷川の体を整えているというか、暮らしを整えていると、なんとなく感じる。谷川の暮らしを私は一度も見たこともないのだけれど。

こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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宮崎駿監督「風立ちぬ」(★★★)

2013-07-28 20:54:37 | 映画
監督 宮崎駿



 この作品は数日前に見たのだが、なかなか感想を書く気になれなかった。いまでも気乗りがしない。予想通り、韓国や中国から零戦をつくった技術者(設計者)を主役にしていることに対する批判が起き、それに対して宮崎駿が「ものづくりの現場」から反論するということが起きたのだが……。
 嫌いな部分から先に書こうか、先に好きな部分を書いておこうか。
 書くのをためらったのだから、嫌いな部分から先に書こう。書いたあと、まで好きな部分について書く気持ちが残っていたら、そのことを書こう。
 何が嫌いかというと、「ものづくりの現場」にこだわるのなら、なぜ、堀辰雄の「風立ちぬ」を合体させたのだろう。堀辰雄の「小説家としてのものづくりの現場」に共感したというのなら、もっと具体的に小説家のこだわりに踏み込まないといけない。「ものづくり」をヒロインの死と組み合わせることで、「ものづくりの現場」をセンチメンタルなものにすりかえてしまっている。「ものづくり」に共感しないひとも、ヒロインの死んでゆくときの姿に共感するだろう、という思いがなかったかどうか。言い換えると、宮崎駿に、そういう「計算」がなかったかどうか。
 私は、うさんくさく感じている。
 うさんくさいもの、一筋縄ではゆかないもの--そういうものに私は体外の場合は共感するし、とても好きなのだが、今回の場合は違う。
 「ものづくり」というものは、実は、それだけでうさいくさい。美しい零戦をつくるということは、それだけでうさんくさい。ひとが旅するためのものではなく、戦争のものだからね。映画のなかでも「笑い話」として出てくるが、「あと少し機体を軽くしなければならない。搭載する機関銃の重さの分を」というようなことを主人公は言う。きわどい話でしょ? うさんくさいでしょ? それこそ中国、韓国から「なぜ機関銃をのせなければならない?」という質問を誘い込む部分である。
 その部分の苦悩をていねいに描かないと、いくら飛行機としての美しさを追求したといっても、うさんくささを乗り越えられない。組み立てのとき必要な留め鋲を軽くする話が出てくるが、それは設計者だけでできることがらではなく、たの技術者をまきこんで可能なことである。描かなければならないのは、設計とそれを可能にする技術--つまり、技術者との正確な交流、おなじ「ものづくりの現場」にいるひとたちとの共同作業のはずである。そういうものが濃密に描かれれば、あ、これは「ものづくりの現場」というものじたいがすばらしいファンタジーだとわかるはずである。
 そこを省略して、ファンタジーを主人公の「個人」に収斂させ、そこにもうひとりのヒロイン(悲劇)を重ねることで、主人公の「ものづくり」とは別の場所手悲劇の主役にする。
 これは工夫というより、手抜きだね。
 こういうものをみると、私は、ちょっと感想を書きたくなくなるのである。
 絵そのものとしても、「ものづくり」があまりつたわってこない。鯖の骨のカーブを美しいという部分にいちばん濃密にでているけれど、同じようなことがらが「留め鋲」でも技術者の側から描かれると、とてもおもしろいものになるのになあ。誰かがきっと同じようなことをしているはずなのになあ、それを探り当てない(嘘でもいいから、それを描いて見せない)といのうは手抜き以外のなにものでもない。
 手抜き--なのかどうか、私はアニメ作家ではないのでわからないが、遠景のときの人物の線も手抜きだなあ。原画の大きさに限りがあるからどうしてもそうなるのかもしれないけれど、スクリーンのなかに人間の全身が登場するとき、それがあまりにもつたない。下書きの線のように見えてしまう。スクリーンに拡大されたときに、全身にみなぎる充実感がない。細部が細部になっていない。「ものづくり」のこだわりが、そこには欠けている。

 好きなところは。
 主人公の夢と、主人公が私淑しているイタリアの飛行機設計家の夢がまじりあうところ。同じ夢をもっているので、互いの夢に「侵入」しあう。それはほんとうに夢見るように美しい。この夢の侵入を、繰り返しになるけれど「技術者」との間でも描いてほしかったなあ。
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暁方ミセイ「アンプ」、池井昌樹「月」

2013-07-27 23:59:59 | 詩集
暁方ミセイ「アンプ」、池井昌樹「月」(「歴程」585 、2013年07月15日発行)

 暁方ミセイ「アンプ」は、ことばの出てくる瞬間がぴりぴりしている。

真夜中はアスファルトに電気をまき散らし
昼間とは無関係の、
たとえば朝へは通じていない路地。
物の表面から溢れ、道に満ちてくる水。
これらの発育を助長する。
細胞と水と、
一瞬ずつ反応する神経が
私である。
同じ夜にいる、あなたの家の前を通る。

 「一瞬ずつ反応する神経」ということばがあるが、力点はどっちだろう。「一瞬ずつ」か「神経」か。ぴりぴりした印象からいうと「神経」なのだが、それがぴりぴりになるためには「一瞬」がないといけない。持続したままぴりぴりではなく、とぎれとぎれにぴりぴり。そして、そのぴりぴりが断絶しながら持続する。
 「一瞬」を増幅するアンプが「神経」ということかもしれない。「一瞬」が増幅し、次の「一瞬」に侵入していく。接続ではなく、何か、侵入し内部から変更していくという感じがする。

わたしが轢き殺されている何かに敗れて
草むらに投げ出されているのを
電車のよごれた明かりのなかから見る。

 「わたし」はどこにいる? 「草むら」に投げ出されているのか、それとも「電車のなか」か。
 両方にいる。
 ひとは同時に別の場所に存在できない、というのは「自明の論理」のようであるけれど、これは「ひと」を不連続の「個人」ととらえるからである。個人個人が「肉体」として別個に独立していると考えるのは合理主義(資本主義)の「方便」である。
 そうではなくて、「ひと(いのち)」はどこまでもつづいていると考えれば、ひとは同時にいくつもの場所に存在しうる。(これもまた「方便」かもしれないが。)
 私はいま「ひと」を「いのち」と括弧のなかへいれることで言い換えたのだが、暁方なら、それを「神経」と呼ぶだろう。

一瞬ずつ反応する神経

 というのは、ごく常識的に考えれば、「ある一瞬」ごとに反応する神経ということになるが、暁方にとっては違うかもしれない。
 暁方の「一瞬」は同時に別の場所で存在する「一瞬」である。離れて存在する何かが「一瞬」という共通の時間に反応する。そして、その反応という動きのなかでつながる。反応は「神経」が反応するのだが、それを「肉体(いのち)」と考えれば、「いのち」の広がりが、かけはなれた「一瞬」を結びつけ、そこに世界を構成する(世界を生み出す)ということになるかもしれない。
 この結びつきを、「接続」ではなく「侵入」という形でとらえなおせば、「いのち」が「ひとつ」であることは、もっと身近に感じられる。
 --まあ、これも、方便だけれどね。
 論理(ことばの運動、説明)というのは、いつでも嘘っぱちで信じてはいけないのものなのだけれど、そういう嘘へ動きだす瞬間のなかには、ある何かが「ある」。
 で、その「ある」が、暁方の「アンプ」に反応し、あ、おもしろいじゃないか、と言っている。--これを「感覚の意見」という。



 池井昌樹「月」は暁方とはまったく別なことばの運動。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
はははしせつにゆくことになり
それはきれいなおつきさま
のぞんでももうかなうまい

 田舎からの電話が、母は施設に行くことになったと告げる。そのとき池井はその電話の声を聞くと同時に、遠い昔の母の声を聞く。「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」。いまの母、かつての母、いまる時間、かつての時間が区別なく「ひとつ」になっている。
 これは「流通経済学(論理学)」としては矛盾。でも、そういうことが「ある」。
 そして、その矛盾から、池井は「いま/ここ」ではなく、「かつてのとき/かつての場所」を選ぶ。

ばんさくははやつきはてて
むすこはみじかいしをかいたのだ
ははとならんでいなかのいえで
つきをみあげるみじかいし
--それはちいさな
  まずしいつきを

 暁方の詩とは違って、ぴりぴりはしない。かといって、ひりひりもしない。かなしいけれど、しずかで、ゆったりする。
 暁方のことばが、はなれた「一瞬」へ侵入していくのに対して(離れた一瞬が侵入し合うのに対して)、池井の場合は、池井をみつめる何かが遠くからやってきて、池井をつつむ。池井は、その抱擁のなかで放心する、という感じ。
 母を介護施設にいれなければならない、ほかに何もできない--という無念さの一瞬でさえ、その池井をつつみこむように母がやってくる。そうして「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と言うのである。


ウイルスちゃん
暁方 ミセイ
思潮社


池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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坂多瑩子「名前」

2013-07-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「名前」(「孔雀船」82、2013年07月15日発行)

 坂多瑩子「名前」はある日の会話を描いている。

うちで飼ってた三毛のほら名前なんていった?
相棒が聞くから
ねり
草はらでみゃーみゃー鳴いてて
あんたが顎のとこふんずけちゃったから
歯がむきだしになったから
明治生まれのばあさんみたいなネコでさ
気がつくと聞き手はいなくなり
なんかてもちぶさたで
それでもまだ
ねりの死ぬとこまでしゃべっていない
かわりに隣りのおばあちゃんがまじめに聞いてくれる

 こいうことは日常ではよくあることかもしれない。でも、おもしろいなあ。とくに「ねりの死ぬとこまでしゃべっていない」がいいなあ。これで、ネコが死んだということがわかり、死んでいるからこそ「ほら名前なんていった?」という会話もはじまる。生きていたら、名前を呼ぶからね。
 で、この会話で、ネコが死んでからある時間が過ぎていることもわかる。
 聞いた「相棒」は名前を思い出したかっただけなのかもしれないが、坂多はもっともっといろいろなことをついでに話したい。名前を口にしたら、名前を呼んだときのことがひとつひとつ思い出されてくるから。

 でも、ほんとうにしゃべりたいことは、ネコが死ぬまでではないね。
 変わった名前だねえ。由来は?

考えて考えてかんがえて名前をつける人もいるけど
ねりは拾ってきた名前
私のは
違うけど
父と祖父が言い争っている
郵便が遅れたからって
せっかちな祖父はさっさと役場に行ってしまった
父のつけた名前が
私のへやの奥でねむっている
そろそろ起きないかなあ
ある朝
ねりの生い立ちをしゃべってみた

 あ、「ねり」はほんとうは坂多の名前になるべき名前だった? 父が「ねり」とつけた。祖父は「そんな名前はだめだ、瑩子だ」と言い争っている。「郵便が遅れた」の部分はわからないのだが、祖父はさっさと役場へ行って「瑩子」と名前をつけてきてしまった。そのため「父のつけた名前/ねり」は坂多の記憶のなかでしか残っていない。「へやの奥でねむっている」。
 それを思い出して、坂多はネコに名前を与えたのだ。それは、ほんとうは坂多だったのだ。
 なるほどなあ。「明治生まれのばあさんみたい」なのは、顔だけではなく、名前がそうなんだねえ。名前は顔をあらわす。坂多のかわりに、拾ってきたネコが明治生まれのばあさんを引き受けてくれたのだ。
 いやあ、これでは、話したいことが山ほどあるよね。
 ネコにかこつけて(?)、自分の生い立ちを話したい。聞いてもらいたい。でも、そういうことって、なかなか聞いてもらえない。「相棒」は、何度か聞かされているかもしれないし。何度、聞いたっていいじゃない。ほんとうのことなんだから。ほんとうのことを繰り返し繰り返し話して、話すことでさらにほんとうになるのだし。
 というのは変かもしれないけれど、きっとそうなのだと思う。
 坂多自身、きっと何度も何度も聞いたのだ。父から、おまえのほんとうの名前は「ねり」だ。それをおじいちゃんが勝手に「瑩子」にしてしまった。
 もしかすると坂多の母は出産のために実家(おじいちゃんの家)に帰っていて、生まれたと父に知らせたけれど、なかなか命名して来ない。おじいちゃんはじれったがって、かってに役所へ行って名前を届け出た。そのあとに郵便で父のつけた名前「ねえ」が届いた。無視したんじゃない、郵便のせいなんだ。少し遅れたって郵便を待てばいいじゃないか。そんなやりとりがあったのかな? そんなやりとりがあったと坂多は聞かされたんだろうなあ。(「郵便が遅れた」がよくわからないので、私は勝手に「捏造」するのだ。)
 お父さんは「聞き手がいなく」なっても、そういう話をしたんだろうなあ。

 そんなことを勝手に想像しながら、どんな名前にもそれぞれに「秘密」があるなあ、と愉快な気持ちになる。秘密というのは、まあ、独自の愛情なんだけれどね。坂多はネコに「ねり」という名前をつけることで、父の愛情にこたえているんだね。父は、たぶん、ねりと同じようにもう他界しているのかもしれない。



お母さんご飯が―詩集
坂多瑩子
花神社
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川邉由紀恵「腐葉土」

2013-07-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川邉由紀恵「腐葉土」(「詩誌酒乱」6、2013年05月31日発行)

 川邉由紀恵「腐葉土」は河邉由紀恵のことばの動かし方にかなり似ている。ことばが「意味」である前に、「音」として動く。「音」が「肉体」の奥から「無意味=意味以前」を引っ張りだしてくる。その「音」に文字という視覚も混じってくる。

そレそレ
ふかい深い
腐葉土の上を
赤ぐろい木づたが
よこに下にはうように
襲うようにからんでくる
節からびろびろびろと根をのばして

 この「うようよ」という感じの「う」の動きまわる助走のあと、

ひろがるからまるこの指がいまつかまるからみとられるきうきうきう

 あ、これはいいなあ。「きうきうきう」に「う」がうようよと出てくるのだが、その直前の「からまる」を基本とした「か」「ま」「る」の反乱。とくに「いま/つかまる」と「いま」を差し挟むことで「ま」がひとつ、動詞以外の部分をからめとってうごくところがいいなあ。「まつかまる」って、何? あ、「いま/つかまる」か……。でも「まつかまる」という動詞ってないのかなあ。「まつかまりたい」なあ--というようなことを思うのは私だけかな? 何かよくわからないが「からまる」というのは、それこそいろんな動詞がからまって動いているのだろう。そうし、それが「きうきうきう」と「音」をたてている。
 この反対が、たぶん、その直前の「びろびろびろ」という広がりなんだろうなあ。一方で広がる。他方でからんで、つかまって、「きうきうきう」と窮屈な感じ。でも「うきうきうき」と何かしらうれしい感じ。セックスのような感じ。何か苦しいような、でもそれがうれしいような、「からみあい」。
 腐葉土の土の中で、それが起きている。それを「指」で感じている。

指をいれればなかはあたたかい女のなかのようなふかい腐葉土

 とつづく部分は、そのままセックスになるのだろうけれど、そういう「外形」としてのセックスは省略して、ふたつ先の、ひとかたまりのことば。

ふかい腐葉土のなかで球根はねむるけれども夢もみないおもいねむり
この世の音をしゃ音してゆぶゆぶゆぶとあの世の音だけきゅう音する
この腐葉土にながあめが降るああ夜のなかばに球根という鱗けいの鱗
ぺんの鱗けいの腐しふ死こう雨による水分により発芽は可のうとなる

 「鱗けい」「鱗ぺん」って、何?
 わからないことは、ほっておいて。
 わからないといえば「ゆぶゆぶゆぶ」だってわからないが、指が何かにさわって、ぶよぶよぶよとしたものを感じている、その「感じ」だって、実は、わからないからね。省略した部分に「ぶよぶよぶよ」がでてきたなあと思い出して、私がかってに想像しているだけだからね。
 「この世」「あの世」「ああ夜の」--「ああ世の」かもしれないね。「この世」と「あの世」の中間にある「世/夜」。その「夜」の行為のなかで、「あの世の音」を「きゅう音」する。
 「きゅう音」するって吸音、それとも求音--同じか。探し求めて、それを吸収する。そして、腐っていく。「腐蝕」する。でも、それは死んでしまうことではなくて、腐蝕は途中でとまって、「腐し」。死ぬのではなく「ふ死=不死」。
 セックスというのは「死ぬ」といいながら、死なずに、新しく生きることだね。

 こういうことを川邉が書いているかどうかわからないが、河邉由紀恵なら書くかもしれないなあ--と私は「誤読」している。

きうきうきういまつかまるからみとられるひろがるからまるその舌が

 は

きうきうきう今捕まる絡み取られる広がる絡まるその舌が

 かもしれないが、

きうきうきう今掴まるから看取られる広がる絡まるその舌が

 かもしれない。何かに掴まり、それを頼りに生きようとすると、それは死ぬことであり、その死を看取られ、そこから広がる新しい世界(あの世)が、その肉体に絡んでくることかもしれない。
 「音」のなかで「意味」が崩れ、意味の崩れが、そのまま新しい意味の生成をうながす、ということが起きているのかもしれない。





桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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陶山エリ「漂流関係」、田島安江「アオウミガメの産卵」

2013-07-24 23:59:59 | 現代詩講座
陶山エリ「漂流関係」、田島安江「アオウミガメの産卵」(「現代詩講座」@ブックカフェ、2013年07月24日)

 陶山エリ「漂流関係」は、ことばが途中で思いがけない展開をする。いつも相互批評では好評である。

ピュレとは、果物や野菜などを擦り潰して裏ごししたものです
一度も作ったことがないけれど
ピュレって何?と尋ねられたら説明できる

例えばイチゴやキウイの果肉が裏ごし器の網目を通過して
固体とも液体とも呼べない表情になって垂れてゆく
残された粒々は過去なのか思い出なのか低く重く
知り尽くしたような余裕を漂わせる

タクシーの運転手はさっきから花の話ばかりさるすべり ききょう すいれん はなみずき
「そこここで見かけましたよ」
昔恋人に出しそびれた手紙の下書きでもしているのだろうか
月の角膜が濁り始める夜は運転手の袖口が汚れやすい

少しずつ、ずれていく花の匂いを
湿度に似合った速度でずれながら
シートベルトをじゅるんとすり抜け
もっと
車を降りたら冷蔵庫を開けたら夜の海だったらもっと
繊細な網目を

ピュレとは果物や野菜や一般人をすり潰したものです
裏ごししたものです
説明したくてわたしは垂れ続けます

<受講生1>すごい。エロチックに読もうとすればエロチックに読める。
      ことばが生き生きしている。
<受講生2>すごいとしか言いようがない。
      出てくるものの関係がミスマッチなのに、融合している。
      「残された粒々」の行、ことばがどこから出てくるのかわからない。
      観念が固まる前のことば詰めている。
<陶山>  なんとなく出てくる。ピュレを説明してみたかった。
      タイトルに迷った。
<受講生1>4連目が「漂流」感覚をあらわしていて、とてもいい。
      「もっと」がとてもいい感じ。
<受講生3>3連目が異質。ことばが新鮮。
<受講生4>3連目に全体が収斂していく。起承転結の「転」みたい。
      「月の角膜」の一行がとくにいい。
<陶山>  入れていいかどうか、迷った。
<受講生2>最終連の「一般人」というのもいいなあ。
<受講生1>「人間」だったら違ってくる。生々しくなってしまう。
<受講生2>3連目の「花の話ばかりさるすべり」は音楽的でとてもいい。
      4連目の「ずれていく」もおもしろい。
      「湿度に似合った速度でずれながら」はおもしろい。
<受講生1>「わたしは垂れ続けます」の「垂れる」もいい。

 「ピュレ」の説明と、人間に対する思いが融合して、そこがおもしろい作品。相互批評のなかでも出てきたが、3連目が起承転結の「転」のような役割を果たしている。
 実際のピュレは果物、野菜を磨り潰してつくるが、それとは関係のない「人間」が出てきて、その「果肉」のようなものが語られている。タクシー運転手の「中身」(意味?)は運転することではなく、花の話をすること。花の話をすることについては運転手自身の「内面」のこだわりがあるのだろうけれど、それは陶山にはわからない。わからないまま、運転手は恋人のことでも考えているのではないか、と想像する。それから運転手のシャツの袖口が汚れているのに気がつく。人には人の生活があり、それが滲み出る。
 それは4連目のことばを借りて言えば「ずれ」かもしれない。人間は同じようにできているようで、同じではない。「ずれ」がある。それは陶山にもあるだろう。果物、野菜の違いは、もしかすると「人間のずれ」のようなものかもしれない。
 その「ずれ」はみんなかき集めて、ピュレをつくるときのように、磨り潰し、裏ごししたらどうなるだろう。ピュレには「一般人」の「ずれ」も含まれている。--これは、たとえば、つくる人の野菜・果物の選択の違いというものになってあらわれるかもしれない。ピュレと一口に言っても、そこには「ずれ(人間の暮らしの反映)」が含まれている。
 そんなふうに説明してみたい--ということになるのかもしれない。

 詩を書くというのは、書く前と書いたあとで、書いた人が変わっているというのがいちばんおもしろいところ。書いたあと変わってしまうのがほんとうの詩人だと思う。
 この詩では、「わたし」は1連目で「ピュレについて尋ねられたら説明できる」という状態だった。けれど、書いている内に「ピュレについて説明したい」と思うようになっている。自発的に何か語りたいと思うようになっている。そこに変化がある。
 それは1連目でピュレを「擦り潰して裏ごしにしたもの」と言っていたのが、最終連で「すり潰したものです/裏ごししたものです」という同じといえば同じだけれど、微妙に違うことばの形になっているところにもあらわれている。
 この変化は3連目のタクシーの運転手との会話からはじまっている。そして、この「人」を最終連で取り込んでピュレそのものをも変質させている。ピュレとは果物、野菜だけでできているのではなく、そこには「一般人」(この言い方は、私にはよくわからないが)も混じっている。人間がまじっていてこそ、ピュレなのだ。その発見がおもしろい。発見があるから、語りたくてしようがないのだ。
 ただ、タイトルは、私にはよくわからない。「余裕を漂わせる」「夜の海だったら」ということばのなかに「漂流」が含まれるかもしれないけれど、陶山が書いていることは「漂流」というよりは、人間をしっかり見ることによって生まれた意識の変化だと思う。
 私だったらタイトルを「ピュレ」にする。



 田島安江「アオウミガメの産卵」は、アオウミガメの産卵を見たときのことを書いている。産卵を見ながら、それに田島のなかの女を(それをみつめる男を)重ね合わせて書いている。その部分もいいのだが、

月のない夜
南島の海岸を
アオウミガメが産卵にのぼっていく
カメは自分の体より大きい穴を掘って地中深く産卵する
産卵を終えると重いからだをひきずって
迎えの波を待って海に帰っていく

 書き出しの、この「迎えの波」が私にはとてもすばらしい発見に感じられた。波は単なる自然現象である。干満は引力による物理の運動である。そこには「意思/感情」というものはない--はずなのだけれど、そこに田島は「迎えの」という人間的な動詞をつけくわえている。このとき田島は波になって、産卵を終えたウミガメを海へとまねいている。仕事を終えたよ、帰っておいで、と呼んでいる。さらにウミガメは、それを「待って」帰っていく。もし「迎えの波」がこなかったら、ウミガメは帰っていかないかもしれない。そこには「迎えに来てほしい」という「欲望」もあるかもしれない。
 こういう感覚をもったことばは女性にしか思い浮かばないかもしれない。
 今回は、他の受講生の詩も、すべておもしろかったが、私は、この「迎えの波」ということばに出合えたことがいちばんの収穫だった。
 どんな動詞も「肉体」に関係してくる。動詞を「肉体」で反復しながら、たぶん私たちは「肉体」をととのえる。思想をととのえる。どんな動詞をつかうかを見ることによって、私たちは、その人の「肉体(本能/思想)」に出合うことができる。


トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
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森川雅美「天井譚」

2013-07-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
森川雅美「天井譚」(「詩誌酒乱」6、2013年05月31日発行)

 森川雅美「天井譚」は何を書いているかというと、何も書いていない。

なる者はなりますからねと身につまされるほど走り、
ウラニュウムに包まれたりらんらんと越境するから、
終わりまでが近づくままに混迷する悲しみを禁制、
だってねいという笑いに苦しんだりすれば気づく、
おとがいに追われことごとくまでにぶら下がる、
弱まりはついつい崩れても変わらない政権交代の、
オンデマンドされ発射するぶらぶらする小走りが、
ほら師走が埋められて感覚爆弾の交錯されるよ、

 「主語」と「述語」の関係がわからない。1行目(前の行)と2行目(次の行)のつながりがわからない。
 で、このわからないというときの「わからない」は「意味」がわからない、ということ。
 で、これからが大事。
 あすは「現代詩講座」で、いまは、もっぱら受講生の作品を読んで相互に感想を語り合うということをしているのだけれど、架空の教室で質問してみよう。

<質問> 「意味」がわからないのだけれど、何かわかることない?
<受講生>「意味」がわからないのに、わかることなんかない。
<質問> でも、何か気づくことがない? それぞれの行に共通することは?
<受講生>行の最後に必ず読点「、」があること。

 そうだねえ。
 理由はわからないけれど、森川は1行1行で読点「、」を打っている。1行ずつ一気に読ませようとしている。

<質問> 1行をすっと読める?
<受講生>私は読めない。長い。途中で、わからなくなる。
<質問> なぜ?
<受講生>え?
<質問> なぜ、長いと感じる?
<受講生>ややこしいから。
<質問> なぜ、ややこしい?
<受講生>ふたつのことがらが書かれているから。


 そうだね。長く感じるのは、たぶん、1行に二つのことがらが書かれているから。それは「一目」で把握するにはかなり長い1行。
 でも、それだけかな?

<質問> たとえば、朝起きてご飯を食べて、学校へ行きました。--これはどう?
     起きる、ご飯を食べる、学校へ行く。三つのことがかいてある。
     ややこしい?
<受講生>ややこしくない。
<質問> なぜ?
<受講生>知っていることだから。
<質問> それだけ? 森川の書いている1行と、ほかに違うところはない?
<受講生>森川の書いていることは1行で完結していない。

 そうだね。完結していない。つづきがある、と思ってしまう。
 けれども2行目へゆくと、それが1行目とどうつづいているのかわからない。1行のなかの二つのこと、たとえば

なる者はなりますからねと身につまされるほど走り、

 には「なる者はなる」ということと「身につまされるほどに走り」ということが「と」ということばでつなげられているけれど、それをつなぐ「理由」のようなものがわからない。なぜ、つながるのかわからない。
 それが行がかわると、さらに変なことばがつづくので、いっそう、わからなくなる。
 1行目と2行目を強引につなげれば「走って」「越境した」ということかもしれない。さらに続けて読んでいくと、強引に動詞と感情をつないでゆけば、「越境して」「悲しみ」を感じたけれど、その悲しみを「禁制(禁止? 封印?)」してみれは、あることに「気づく」(気づいた)という具合になるのかもしれない。
 論理というのは、あるいはストーリーというのは、ことばをつなげれば、どうしたって生まれてきてしまういいかんげんなものだからね。
 で、そういうストーリー(意味)を強引にでっちあげて、この詩のことを語ってもいいかもしれないけれど、私は、最初の「わからない」にむしろ帰りたい。
 わからなくていい。わかるのは、森川が、1行に複数のことがらをもりこみ、それを完結させないまま、1行のおわりでしっかりと呼吸し(読点「、」で息継ぎをし)、次の行にかけだしていく。そこでもひとつのことではなく、ふたつのことをいっきに吐き出し、また次の行へゆく。--このリズムはわかる。
 森川は「意味」ではなく、「リズム」を書いている。ことばを動かすときの「呼吸の癖」を書いている。
 まだ走りはじめたばかりなのだと思う。この「リズム」で走るのにふさわしいのは何行なのか、そしてそのテーマはなんなのか、まだ把握しきれていない。けれど、このリズムで呼吸すること、ことばを発することが、いまの森川には「快感」なのだ。
 こういう「快感」を、私は、わりと信じてしまう。なかなかいいじゃないか、と思う。「森川節」だね。
 でもね、ほんとうに、これは一瞬のこと。
 森川が自分の「リズム」に快感を感じていること、酔っていることは「わかる」。(想像できる。)でも、私は、その「リズム」をまねしたくない。
 これでは、だめ。
 詩は(肉体は、思想は)、まねしたいと思わせないかぎり、詩ではない。あ、くやしい、このことば、自分で書きたかったのに。これを盗んでしまいたい、というような感じで迫ってこないことには詩ではない。
 森川のことばの場合、そういう気持ちになるまえに、なんだこれは、わからないじゃないかという印象が動いてしまう。
 すぐれた詩の場合逆でしょう?
 「意味」はわからなくても、あ、かっこいい。まねしてみたい。つかってみたい、と思うでしょ? 「ことばなんて覚えるんじゃなかった」とかね。

 でも、こうして私が書いているのは……。

おとがいに追われことごとくまでにぶら下がる、

 この1行のなかの「音」のゆらぎ、濁音の美しさにひかれたからだ。とくに「おとがいに追われことごとく」がすばらしく美しい。次の「までに」が異質で、かなり汚い。私だったら「までに」は書かない。省略する。削る。
 音が響きあえば、きっとこの詩はおもしろくなる。音の動きは「意味」を超えて、それだけで暴走する(疾走する)力をもっている。音が自律して動くと詩になると思う。(谷川俊太郎のことば遊びの詩のように。)森川は音を書いているという意識がないのかもしれない。






山越
森川 雅美
思潮社
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アルフレッド・ヒチコック監督「サイコ」(★★★★)

2013-07-23 10:42:41 | 映画
監督 アルフレッド・ヒチコック 出演 アンソニー・パーキンス

 この映画は二重人格をトリックにつかったホラー、あるいは探偵映画なのかもしれないけれど、後半よりも女がシャワーをあびながらナイフで殺されるまでの部分がとても魅力的である。
 女は男とふんぎりのつかない逢い引きをつづけている。逢い引き--というのは古くさいことばだが、女にはそういう古くさいことばがあっている。その逢い引きのあと、女は仕事場へもどる。不動産の案内所。そこへ金持ちの客がやってくる。大金をぽんと机の上において見せる。金を見せつけながら、女に色目をつかう。女は、客がいやらしい目つきをして見ることに対しては平気だ。セックスをすませてきたから、「御用済み」という感じなのだろう。意識は机の上の金に集中している。誰も、そのことには気がつかない。上司も、同僚の女秘書も、客が女に色目をつかっている、ということの方に気が向いているからである。男と女がいて、そこに何らかの交渉がはじまれば、誰だって、これらか二人はどうなるのか(セックスするのか)というところへ関心が向いてしまう。人間はすけべだからね。逢い引きをすませてきた女は、そういうことにも気がついているかもしれない。
 で、重要なのは。
 ここには二つの意識があるということ。性に関する思い、金に対する関心。女が金に興味を持つのは、その大金があれば、逢い引き相手の男とうまくやれるんじゃないかという思いもある。
 映画はアンソニー・パーキンスの演じる「二重人格」に収斂していくのだけれど、被害者になる女も「二重人格」といえば、そういえるのだ。銀行に大金をあずけに行く、という仕事をしなければならないのに、頭痛といつわり早退を申し出、銀行へ行ったら、そのまま家へ帰ると上司に告げる。実際は、大金をもって、そのまま逃走するのである。女もまた「二重人格」と言おうと思えば、そう言ってもいいのである。平気で嘘をついているのだからね。
 女は逃走しながら、上司や同僚、そして客のことを思い出している。ただ思い出すのではなく、その人たちが言うであろう「批判」を聞く。空想(想像)するを通り越して、しっかりと「確信」する。それは女の「肉体」のなかから溢れてくる、別の女なのである。女は「二重人格」どころか、「三重、四重人格」なのである。
 その女がシャワーをあびながら殺される。そのとき女は悲鳴を上げることしかできないが、悲鳴とともに女は「多重人格」であることをやめる。「二重人格」という女より劣った男によって殺され、「肉体」に帰っていく。
 女より劣った男というときの、劣ったというのは変な言い方だが、女が多重人格なのに対して男は「二重」と、肉体のなかに抱え込んでいる他者の数が少ない。男は男以外にもうひとりしか肉体に抱え込むことができない。
 しかし、これはまた別な見方もできる。
 男は自分と自分のなかの母という「二重人格」に苦しんでいるが、それは男のなかにいる「他者」がたったひとりだから苦しいのかもしれない。女のように、上司も、客も、同僚もというたくさん「人格」を自分の「肉体」のなかで競合していたら、母親に支配されることもないかもしれない。自分のなかに「他人」を存在させることができないことが、アンソニー・パーキンスの不幸だったのかもしれない。
 ということは、しかし、映画とは関係ないことだね。
 後半は映画のストーリーのためには必要な部分だけれど、映画としてはあまりおもしろくないね。殺されるまでがおもしろいので、ついつい最後まで見てしまうという映画だ。いまから思えば。(何度も見ているのでそう思うのかもしれないが。)








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吉田広行『Chaos/遺作』(2)

2013-07-22 23:59:59 | 詩集
吉田広行『Chaos/遺作』(2)(思潮社、2013年07月15日発行)

 吉田広行『Chaos/遺作』は、行分けの詩と散文詩風の詩とあるが、散文詩風のものの方が私には納得できる。反芻(反復)しながら、反芻することをことばの推進力にしていることばの運動が納得できる。反芻とは、いったん帰ることであると同時に、帰ることで生じる違和感を手がかりに最初の運動(ベクトルの方向)を修正することである。そのとき、「差異」というか「ずれ」のようなものが生まれるのだが、その「差異」「ずれ」が詩人の肉体(思想)そのものである--その瞬間に肉体(思想)が見えるからである。(私の「差異」「ずれ」は、いわゆるフランス現代哲学でいう「差異」や「ずれ」と違っている。私は、そういうことばを聞いたことはあるが、実際にフランス現代哲学書を読んだことはないので、まったく自己流に、私の体験した「日本語」の文脈でそのことばをつかっている。)
 「川が、ながれていた」を読んでみる。

川が、ながれていた。そのときわたしのなかの小さな震えが、川のほうへいっ
しょにながれていったのか。それともなにか曲がりくねり屈折したものが、わ
たしのほうへ、この土手のほうへ、押し寄せてきて、いたのか。波、波、波。
息のたわむれのよう。小刻みな浮遊たち。光が独楽のようにまわり、水面を跳
ねていた、跳ねていた。わたしは、いまもしずかに燃える現象--減少の、こ
だま? 無数の、水脈のなかの、振動に添って翳ってゆく、小さなちからの余
韻? まだかすかに残っている? 降りしきる、なにかやわらかいものの、薄
片に満たされて。もう、ここがどんな岸辺であってもかまわない、かまわない
だろう。

 川は流れている。それは私から何かが流れていくという「心象」を呼び覚ます。一方、それはほんとうだろうかと確認しようとすると、川から岸辺に押し寄せている波に出合う。私から流れていくのか、私に押し寄せてくるのか。--これは矛盾したことがらだが、矛盾しているからこそ、そこにいままでことばにならなかった「こと」が起きている。
 この矛盾をみつめる視点(視線)は信じていいものだと思う。
 波と光、その「現象」を「減少」と言いなおすところに、吉田の独特の「肉体」がある。「現象」「減少」は「音」がおなじであり、そこから「差異」「ずれ」がはじまるのだが、波と光の「現象」を「音」が同じだからといって「減少」と言い換える必要はない。音を無視して「増大」のほうへことばを動かしていってもいいはずである。けれども、吉田は「減少」を選ぶ。それは「音」が同じだからではなく、「減少」するものの方がセンチメンタルで文学的だからである。「減少」は「喪失」に通じる。「喪失」は「悲しみ」に通じる。--というのは「流通言語」の「流通文学」の「流通概念」かもしれないが、まあ、「減少」の方が、詩としてなじみやすい。
 だから「減少」は「翳る」「余韻」「残る」「薄(片)」という具合に、青春のセンチメンタルを刺戟するように動くのである。ここに新しさはないかもしれないけれど、一種の「文学的安定」がある。その安定感としての「肉体」、そして「思想」。それを、私は、信じるのである。信じることができる。--これは、私の、ことばへの信頼ということかもしれない。文学がつみあげてきたことばの運動というのは、どこか気持ちのいいものがある。それにそって動いていけば、「肉体」が整えられるような錯覚のなかで安心してしまうのである。
 安心してしまうという意味では、これは、もしかしたら危険なことであるかもしれないけれど。警戒しなければならないのかもしれないけれど。
 「川のほうへいっしょにながれていったのか」「押し寄せてきて、いたのか」の「いったのか」と「いたのか」の不思議な動き、「どんな岸辺であってもかまわない、かまわないだろう」の「かまわない」と「かまわないだろう」のゆらぎも、とてもおもしろい。
 ただ、この詩はまだつづいていて、その部分はあまりにもセンチメンタルすぎて、おもしろくない。センチメンタルが「知性」によって「減少」するのではなく、「抒情」によって増幅する。「千切れてゆけ、言葉たち」という「本音」はそれはそれでいいけれど、

                    いま、無数の風がむすうの色に雪
崩ながら川の上をわたってゆく……そのように。
世界は、あらゆることの限界の、さざ波であり続けるだろう。

 うーん、「いったのか」「いたのか」「かまわない」「かまわないだろう」の、反芻(反復)がどこかに置き去りにされてしまっている。「無数の風」「むすうの色」には「現象/減少」のような客観的(?)な「差異/ずれ」がない。表記の断絶があるだけで、そこでは何も反芻(反復)されていない。そこになるかあるとしたら「断絶」だろう。「無視す/むすう」という「連続」を偽装した「断絶」。「連続」が偽装されているなら、そのけっか生じた「断絶」は、やはり偽りのもの、口先だけのものだろう。
 反芻(反復)はファッションだったのかな、「肉体」ではなかったのかな、という疑念が湧いてくるのである。どこかで、持続力がなくなっている。それが残念。
 きのう私は、論理なんて、ことばをつづければどうしたって論理になってしまうのだから信じるに値しないというようなことを書いたが、そうであってもやはり「持続」は必要なのだ。持続しないことには、「肉体」も消えてしまう。「肉体の思想」は、特に消えやすい。






素描、その果てしなさとともに
吉田 広行
思潮社
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