荻野央「なみだ」(「木偶」93、2014年04月30日発行)
荻野央「なみだ」について、どう書こうか迷っている。
書き出しのこの3行は平凡だ。悲しい涙とうれしい涙。でも、そのあとが少し変わっている。
「アカの他人」という言い方が、私には何かこわいものがある。近づきがたいものがある。「アカの他人」というよりも、そのあとの「たいして変わらないと知ってしまった」かな? いや、「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」が怖いんだなあ。
他人と変わっていないといけないの? 同じだったら問題があるの?
荻野は、何か自分は特別な人間であると考えているのかもしれない。そういう視点が、たぶん私には、こわい。近づきたくないなあ、という感じ。
自分が特別な存在であるとわかったら、また涙を流すだろう。それまでは、涙は「わたしのなかにある」。
そのちょっとこわい荻野が2連目で、こんなふうにことばを動かす。
「砂漠」は1連目の「乾いたままだ」ということばを源にして動いている。そこまでは自然なことばの展開だが、そのあと「文法」が激しく乱れる。「……のは」ということばは次に「理由(原因)」を述べるときにつかわれる。2連目にその「原因(理由)」を探してみると、「悲しくなったから」という部分に「から」が出てくる。「……したから」という原因/理由をあらわすことばがでてくる。
しかし、この「悲しくなったから」は次の「乾いた眼から砂が吹き出て」の原因/理由にも読むことができる。
どっちなの?
どうも、よくわからない。そして、よくわからないのは、もしかすると「地平線が存在しないのは」の「のは」に原因があるのではないかな、という気がする。「……のは」と、いま起きていることに対して「原因/理由」を求める気持ちが強くて、そのために荻野のことばが捻じれているのではないのかなあ、と思ってしまう。
(1)わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しない
(2)人びと向こうからやって来た
(3)その人びとのために(わたしは)砂の絵を描いた
(4)その人びとは砂の絵を踏みにじった
(5)絵を踏みにじられて悲しくなった
ひとつの文にひとつの用言(動詞/形容詞)を組み合わせる形に書き直してみると、荻野の書いているのは、そんな具合になる。
で、ひとつの用言の文章と別の文章を接続させるとき。
荻野はそのときに、「……のは」という原因/理由を誘い出す「論理的」なことばを利用する。「論理」で全体を統合する意思がそこには働いている。これは、ある意味では「論理」の強要、押しつけかもしれない。
あらゆることに原因と結果があるわけではない。ものごとの「接続」には原因/理由があるとは限らない。風が吹けば桶屋がもうかるわけではないし、桶屋がもうかるには風が吹かなければならないわけではない。原因/理由というのは、ひとの勝手で、どうにでも都合がつくものなのだ。
でも、そのどうにでも都合がつく部分に荻野はこだわっているということだろう。
何と言えばいいのか……論理への意識の粘着力が強い。
の「ために」も、非常に粘着力が強い。なぜ、向こうからやって来た人びと「のために」絵を描かないといけない? その「ために」はどこからやって来た? つまり、描くことを依頼された? あるい自分から描こうと思った? もし自分から描こうと思ったのなら、それは「わたし(荻野)」の勝手であり、やって来たひとには無関係。
無関係であるものに対しても、荻野は粘着力を発揮する。強引に接続する。接続して、その瞬間に自分の意図したものとは違った反応が返ってくると、自分が傷つけられたと感じる。
何か、そういう「感じ方」をしている人間に見えてくる。
これは1連目の「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのに、何か、非常に緊密な形でつながっている。深いところでつながっているように思える。
アカの他人に「わたし(荻野)」を接続させなければ、変わっているか変わっていないかを判断する必要はない。アカの他人と接続した「ために」、荻野は「知ってしまった」のである。そういうことが起きたのである。そして、その起きたことに対して、アカの他人は何の関係もない。
もし、アカの他人が、わたしはあなたの「ために」これこれのことをしました。それなのにあなたはわたしの好意を踏みにじりました、と言ったとしたら、こわいでしょ?
で、それじゃあ、ほんとうに荻野はそんなふうにこわい人なのかというと、まあ、わからないのだけれど。
私の推測で言うと。
1連目の「アカの他人」はアカの他人ではないのだ。ほんとうは知っているひと、熟知しているひとである。そのひととは親密な関係にある。ところが何かが原因で「アカの他人」になってしまった。「アカの他人」になってしまったら、特別なものは何もない。「わたし」にとってそのひとは「ほかの他人」とは変わらない。「わたし」が「アカの他人」と変わらないのではなく、それまで大切だったひとが「アカの他人」と変わらず、そのために「わたし」もそのひとから見れば「アカの他人」と変わらない存在になってしまったということなのだ。
別ないい方で言うと、特別なひとといっしょにいるとき「わたし」は特別なひとだった。特別なひとと別れてしまえば、「わたし」は特別なひとではなくなった。
「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのは、その意味内容だけをなぞると「客観的」に見える。意地悪な言い方をすれば、あなたはそんなに特別なひとだと思っていたんですか? 人間なんて、みんな同じようなものですよ、知らないんですか?ということになるが、荻野はそういう「客観」を書いているのではない。あくまでも「主観」を書いている。それも「わたしは特別なひとと別れてしまって、もう特別なひとであると言えなくなってしまった」と、別れたひとにだけ向けて、悲しみを語っている。
そして、そういうことを語るときに「……のは」「……のために」「……から」という粘着力のある「論理」を偽装してしまうことばをつかうために、何かが捻じれていくんだなあ。「悲しい」が「悲しい」ということろに結晶せずに、捻じれていく。
捻じれつづけていけばそれはそれでとてもおもしろいのだが。
捩れを放り出してしまう。
3連目。
あ、抽象的だねえ。
書いている荻野は抽象的と思わないだろうけれど(具体的な事実を思い浮かべられるだろうけれど)、「過去」ということばでわかる「過去」なんてない。「過去」ということばからは「いま」ではないということ以外はわからない。
こんな抽象的なことばで、他人(読者)が「わたし(荻野)」と「特別なひと」との間の「特別」がどういうものか、わかるはずがない。
「過去」ということばをつかわずに、ふたりの関係のなかへことばでわけいっていかないことには、どうしようもない。
荻野の粘着力のある文体はおもしろいものを含んでいるのに、おもしろくなりきれていない。粘着するというのは他人と私を分離できなくなって、何かしようとすると突然化学変化のようなものが起きてしまうものだが、そこまでいくにはもっともっと丁寧に、ガムテープのねばねばが手からとれなくなるくらいに粘着しないといけないのに、「過去」とか「別れ」とか、なみだが枯れた(乾いた)と書かれても……。
荻野央「なみだ」について、どう書こうか迷っている。
別れにあふれるもの
願いがかなって めぐり会え 滲みでてしまったもの
なみだ
書き出しのこの3行は平凡だ。悲しい涙とうれしい涙。でも、そのあとが少し変わっている。
わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった日から
眼の皮膚は ずっと乾いたままだが
なみだはいつも わたしのなかにある
「アカの他人」という言い方が、私には何かこわいものがある。近づきがたいものがある。「アカの他人」というよりも、そのあとの「たいして変わらないと知ってしまった」かな? いや、「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」が怖いんだなあ。
他人と変わっていないといけないの? 同じだったら問題があるの?
荻野は、何か自分は特別な人間であると考えているのかもしれない。そういう視点が、たぶん私には、こわい。近づきたくないなあ、という感じ。
自分が特別な存在であるとわかったら、また涙を流すだろう。それまでは、涙は「わたしのなかにある」。
そのちょっとこわい荻野が2連目で、こんなふうにことばを動かす。
いま わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しないのは
向こうからやって来た人びとのために描いた砂の絵が
彼らに踏みにじられて 悲しくなったから
乾いた眼から砂が噴き出て
しょっぱくて温かい その液体のことを
しまいこんだままでいる
「砂漠」は1連目の「乾いたままだ」ということばを源にして動いている。そこまでは自然なことばの展開だが、そのあと「文法」が激しく乱れる。「……のは」ということばは次に「理由(原因)」を述べるときにつかわれる。2連目にその「原因(理由)」を探してみると、「悲しくなったから」という部分に「から」が出てくる。「……したから」という原因/理由をあらわすことばがでてくる。
しかし、この「悲しくなったから」は次の「乾いた眼から砂が吹き出て」の原因/理由にも読むことができる。
どっちなの?
どうも、よくわからない。そして、よくわからないのは、もしかすると「地平線が存在しないのは」の「のは」に原因があるのではないかな、という気がする。「……のは」と、いま起きていることに対して「原因/理由」を求める気持ちが強くて、そのために荻野のことばが捻じれているのではないのかなあ、と思ってしまう。
(1)わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しない
(2)人びと向こうからやって来た
(3)その人びとのために(わたしは)砂の絵を描いた
(4)その人びとは砂の絵を踏みにじった
(5)絵を踏みにじられて悲しくなった
ひとつの文にひとつの用言(動詞/形容詞)を組み合わせる形に書き直してみると、荻野の書いているのは、そんな具合になる。
で、ひとつの用言の文章と別の文章を接続させるとき。
荻野はそのときに、「……のは」という原因/理由を誘い出す「論理的」なことばを利用する。「論理」で全体を統合する意思がそこには働いている。これは、ある意味では「論理」の強要、押しつけかもしれない。
あらゆることに原因と結果があるわけではない。ものごとの「接続」には原因/理由があるとは限らない。風が吹けば桶屋がもうかるわけではないし、桶屋がもうかるには風が吹かなければならないわけではない。原因/理由というのは、ひとの勝手で、どうにでも都合がつくものなのだ。
でも、そのどうにでも都合がつく部分に荻野はこだわっているということだろう。
何と言えばいいのか……論理への意識の粘着力が強い。
向こうからやって来た人びとのために描いた砂の絵
の「ために」も、非常に粘着力が強い。なぜ、向こうからやって来た人びと「のために」絵を描かないといけない? その「ために」はどこからやって来た? つまり、描くことを依頼された? あるい自分から描こうと思った? もし自分から描こうと思ったのなら、それは「わたし(荻野)」の勝手であり、やって来たひとには無関係。
無関係であるものに対しても、荻野は粘着力を発揮する。強引に接続する。接続して、その瞬間に自分の意図したものとは違った反応が返ってくると、自分が傷つけられたと感じる。
何か、そういう「感じ方」をしている人間に見えてくる。
これは1連目の「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのに、何か、非常に緊密な形でつながっている。深いところでつながっているように思える。
アカの他人に「わたし(荻野)」を接続させなければ、変わっているか変わっていないかを判断する必要はない。アカの他人と接続した「ために」、荻野は「知ってしまった」のである。そういうことが起きたのである。そして、その起きたことに対して、アカの他人は何の関係もない。
もし、アカの他人が、わたしはあなたの「ために」これこれのことをしました。それなのにあなたはわたしの好意を踏みにじりました、と言ったとしたら、こわいでしょ?
で、それじゃあ、ほんとうに荻野はそんなふうにこわい人なのかというと、まあ、わからないのだけれど。
私の推測で言うと。
1連目の「アカの他人」はアカの他人ではないのだ。ほんとうは知っているひと、熟知しているひとである。そのひととは親密な関係にある。ところが何かが原因で「アカの他人」になってしまった。「アカの他人」になってしまったら、特別なものは何もない。「わたし」にとってそのひとは「ほかの他人」とは変わらない。「わたし」が「アカの他人」と変わらないのではなく、それまで大切だったひとが「アカの他人」と変わらず、そのために「わたし」もそのひとから見れば「アカの他人」と変わらない存在になってしまったということなのだ。
別ないい方で言うと、特別なひとといっしょにいるとき「わたし」は特別なひとだった。特別なひとと別れてしまえば、「わたし」は特別なひとではなくなった。
「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのは、その意味内容だけをなぞると「客観的」に見える。意地悪な言い方をすれば、あなたはそんなに特別なひとだと思っていたんですか? 人間なんて、みんな同じようなものですよ、知らないんですか?ということになるが、荻野はそういう「客観」を書いているのではない。あくまでも「主観」を書いている。それも「わたしは特別なひとと別れてしまって、もう特別なひとであると言えなくなってしまった」と、別れたひとにだけ向けて、悲しみを語っている。
そして、そういうことを語るときに「……のは」「……のために」「……から」という粘着力のある「論理」を偽装してしまうことばをつかうために、何かが捻じれていくんだなあ。「悲しい」が「悲しい」ということろに結晶せずに、捻じれていく。
捻じれつづけていけばそれはそれでとてもおもしろいのだが。
捩れを放り出してしまう。
3連目。
別れに浮かべるもの
めぐり会えて 嬉しくてほとばしるもの
ふたつの眼から なみだのように落ちる 過去はふたつ
あ、抽象的だねえ。
書いている荻野は抽象的と思わないだろうけれど(具体的な事実を思い浮かべられるだろうけれど)、「過去」ということばでわかる「過去」なんてない。「過去」ということばからは「いま」ではないということ以外はわからない。
こんな抽象的なことばで、他人(読者)が「わたし(荻野)」と「特別なひと」との間の「特別」がどういうものか、わかるはずがない。
「過去」ということばをつかわずに、ふたりの関係のなかへことばでわけいっていかないことには、どうしようもない。
荻野の粘着力のある文体はおもしろいものを含んでいるのに、おもしろくなりきれていない。粘着するというのは他人と私を分離できなくなって、何かしようとすると突然化学変化のようなものが起きてしまうものだが、そこまでいくにはもっともっと丁寧に、ガムテープのねばねばが手からとれなくなるくらいに粘着しないといけないのに、「過去」とか「別れ」とか、なみだが枯れた(乾いた)と書かれても……。
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谷内 修三 | |
思潮社 |
「なみだ」について詳しく批評を書いていただいてありがとうございました。論理性の強要と「コワイ」。図星な感じです。できるだけ「理に落ちる」傾向を消して、もう少し言葉の"湿度"とでもいうべきものを増やして書いていこうと思っています。
ありがとうございました。(5.1)