詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アメリカ的思考(2)

2025-02-06 23:18:58 | 考える日記

 トランプの「ガザをアメリカが所有する」発言は、いままで私が見落としていたことを教えてくれた。きのうは、アメリカが台湾をすでに「所有済み」と思っていることに気づいたと書いたのだが、きょうは、その続編。
 アメリカ(その一州である日本)の主張のひとつに「開かれた太平洋・インド洋」がある。これはすべての国に対して「開かれた」ということではなく、むしろ「中国が進出してこない太平洋・インド洋」であり、別のことばで言えば「中国を締め出した太平洋・インド洋」なのだが。
 中国(台湾を含む)は太平洋(東シナ海、南シナ海)に面しているから、中国を台湾へ進出させないという論理の是非は別にすれば、「戦略」としては「締め出す」ということは、確かにあり得る。(それに賛成というのではない。)
 しかし、インド洋は? 接していない。なぜ、中国の陸地が接していないインド洋を太平洋と結びつけて問題にしなければならないのか。インド洋から中国を締め出そうとするのはなぜなのか。
 これはアメリカが、インド洋は太平洋とつながっており、大西洋を横断し、北アメリカ大陸を横断し、さらに太平洋も横断して「領土」を広げたアメリカが、さらに西へ向かって「領土」を広げるための「戦略」の一環なのだ。
 インド洋はインドに面しているが、同時にアフリカにも面している。
 アメリカが目を向けているのは、アフリカの東部海岸である。
 アメリカは、アフリカを大西洋側(西側)からとインド洋側(太平洋側、というか東側)の両方から挟み打ちの形で「所有(侵略)」しようとしているのだ。
 その戦略を邪魔させないために、中国をインド洋から締め出そうとしている。そして、そのために日本を利用しようともしている。
 「台湾有事」を演出し、中国は危険な国だと宣伝し、中国が台湾問題に集中している間に、アフリカを「所有」しようとしている。「台湾有事」は、いわば「誘導作戦」というか「おとり」なのであり、そこは日本に任せておけ、ということなのだろう。

 アフリカのことは、私は勉強したことがないので知らないのだが、アメリカは中南米において、いわゆる冷戦時代、中南米の社会主義の動きをたたきつぶすために「独裁政権」を利用した。チリの詩人・ネルーダも暗殺されている。CIAやアメリカ政府が関与していたことは、多くのひとが語っている。
 アフリカの諸国で、反アメリカ主義が広がれば、それを東側からも接近していくことで弾圧したい、とアメリカは考えているのだろう。西側からの接近を阻む国はないだろう。「開かれた大西洋」があるだけだ。中国の海軍がアフリカ西岸(大西洋)へたどりつくにはパナマ運河を通らないといけない。(もちろん太平洋を南下してマゼラン海峡を通る方法もあるが……。) トランプが、パナマ運河を「所有」する狙いは、だから、中国が太平洋を横断したあと、パナマ運河を通って、大西洋を横断し、アフリカ西岸へ向かうことを阻止するという狙いもあるのだ。
 中国をインド洋に進出させない、中国を大西洋に進出させない。そのために、アメリカは、ちょっと私などには想像もできない「構想」を着々と進めているのだ。

 アメリカが「仮想敵国」とみなしている国には、社会主義(共産主義)の国と同時に、イスラム教の国がある。アフリカにも北部を中心に、イスラム教徒の多い国が広がっている。
 北の方からは、NATOを誘導できるだろう。さらには、ガザを「所有」したあとは、アラブ諸国の目をガザに集中させておいて、手薄(?)になったアフリカに手を着けるというわけだ。ガザは、いわば「台湾有事」みたいなものである。ガザを「所有」したとはいっても、実際に対処するのはイスラエル。「台湾有事」に対処するのが日本であるように。

 これはあまりにも「荒唐無稽」な「戦略」に見えるかもしれない。
 しかし、荒唐無稽と思うのは、私が日本人の感覚を捨てきれないからだ。アメリカ人の「強欲主義」の視点からすれば、絶対に、そうなる。
 アメリカ人は、中国がアメリカと同様に強欲であり、太平洋を横断し、その先の大西洋も横断し、東へ「触手」を伸ばしていると感じるのだろう。西への「触手」は、「陸路」を西へ進んでいると感じているのだろう。中国人=アメリカ人、という発想だ。こういう発想は、アメリカ人にしかできないと思う。
 トランプは「馬鹿」だと私は考えているが、「馬鹿」だから、ふつうは隠しておくようなことを平気で明るみに出す。グリーンランド、パナマ運河、ガザを「所有」し、インド洋を「所有」したら、アメリカは「東西南北」の全方向から、中国、ロシア、イスラム教の諸国を包囲し、アメリカの「領土」を拡大し続けるのである。

 「主権」「独立」という概念をさらにさかのぼって、「人間(個人)とは何か」というところから、アメリカの(トランプの)「強欲主義」に立ち向かう思想(哲学)をつくりなおさなければいけないのだろう。

 

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アメリカ的思考

2025-02-05 23:00:29 | 考える日記

 読売新聞2025年2月5日の読売新聞夕刊(西部版・4版)を見て、びっくりした。一面の見出し。

米、ガザ所有構想/トランプ氏「住民は移住」主張

 見出しだけで十分なので、記事は引用しない。ネタニヤフと会談した後の記者会見で言ったという。グリーンランド、パナマ運河につづく、信じられないような暴言である。世界はトランプの所有物ではない。しかし、あまりにもアメリカ的すぎる強欲主義の主張である。
 で、ふいに思い浮かんだのが、つぎはきっと「台湾を所有する」と言うだろうということである。
 すでに、日本、韓国、フィリピンは、トランプにとって(そして、アメリカにとって)、アメリカの「所有物」なのだろう。(自民党政権は、それを完全に受け入れている。核兵器で多くの市民が虐殺されたにもかかわらず、そのことに異議をとなえないばかりか、アメリカの核の傘に入っている。そして、安全だと信じている。アメリカ大陸のアメリカ人が核があるから安全と思い込んでいるように。)
 そして、ここから思うのだが、「台湾有事」について、私は、台湾が独立し、アメリカが基地をつくれば、それは中国にとって、アメリカにおける「キューバ」のような存在になるだろうと書いたことがある。中国が「台湾独立」に反対するのは、何よりも台湾にアメリカ軍の基地ができるからだ。
 でも、この私の認識は、ある意味で間違っていた。今回のトランプの発言で、ほんとうにそう思った。
 先に書いたように、アメリカはフィリピン、台湾、日本、韓国という「防衛ライン」を「所有」していると思っている。フィリピン、台湾、日本、韓国をアメリカの一部と思っている。だから、台湾がもし中国に統合されてしまえば、それはアメリカの「防衛ライン」を破り、そのなかに侵入してきたことになる。つまり、中国の台湾統一は、アメリカにとっての、第二の「キューバ危機」なのである。もっとわかりやすくいえば、それは「台湾有事」ではなく「アメリカ有事(アメリカの防衛ライン有事)」なのである。
 中国人、あるいは台湾に住むひとの立場ではなく、「アメリカ人」になって(トランプになって)考えてみる必要があったのだ。私は、アメリカの政策を批判するだけで、アメリカ人になって考えたことがなかったので、見落としていた。台湾を、まさかアメリカの所有物であり、中国に奪われていると考えているとは思ってもみなかった。アメリカにしてみれば、第二次対戦後の台湾はアメリカの所有物なのに、それを中国に奪われてしまった、取り返さなければならない、ということなのだろう。
 フィリピンを例に考えてみればいい。フィリピンは、アメリカが「所有」する前は、スペインが植民地として「所有」していた。その後、日本が侵攻し、その日本をアメリカが追い出した。そして、「再所有」したのだ。
 第二次大戦後、アメリカがフィリピンに何をしたか。アメリカの資本がフィリピンをどれだけ食い物にしてきたかをみればいい。フィリピンをバナナをつくり、それを輸出するだけの国にし、工業などの産業を育成しなかった。(ソ連がキューバを砂糖生産の国にしたのと似ている。)真の独立には、「工業化」が必要なのだが、そのための協力などしていない。
 そこまで考えて、急に思うのだが、日本とフィリピンの関係も、アメリカの(マッカーサーの)「思想」の延長にあるのではないか。日本とフィリピンをつかって中国(共産党)を封じ込めるという思想とつながっているのではないか。マッカーサーは天皇を利用して、日本を完全に支配したが、少し手を変えて、日本とフィリピンの関係を動かしたのではないのか。フィリピンを利用したのではないか。
 日本とフィリピンは、日本がフィリピンに侵攻したにもかかわらず、良好である。(良好に見える。)人事交流は活発だし、一時期、日本の男性と結婚するフィリピン女性も多かった。あれは単に日本の労働力不足解消のひとつの方法だったのではなく、アメリカの戦略だったのではないか、という気がしてくるのである。他の国の女性でも可能性としてあり得たが、アメリカが日本とフィリピンの関係を強化するために「斡旋」をしたのではないか。
 それに類似したことだが、外国人「介護士」の採用も、まず、フィリピン人からはじまっていないか。日本・フィリピンの「友好関係」が背景にあるとはいえ、「優先」されている感じがする。それは、どこかでアメリカの戦略と重なっているからではないのか。
 日本(北海道)からフィリピンまで、アメリカは「中国封じ込め」の「防衛ライン」がほしかったのだ。そのために、日本とフィリピンの「友好」を演出したのだ。
 世界地図を開いて、日本からフィリピンまで線でつないでみればいい。台湾が含まれれば、その線の「途切れ」は非常に小さくなる。中国は太平洋へ進出できない。

 ヨーロッパから移動した「アメリカ人(になったヨーロッパ人)」は、アメリカ大陸を東から西の端まで移動し(占領し)、さらに海を超えて、ハワイをアメリカにし、そのあとさらにアジア大陸のすぐそばまでやってきた。アジア大陸を侵略しようとしている。その「拠点」として台湾が必要である。
 台湾を「イスラエル化」しようとしているといえるかもしれない。

 東から西へは、いま書いたように、太平洋を横断し、すぐ中国のそばまできている。
 西から東への侵攻は、ワルシャワ条約機構解体後、つぎつぎにNATOを拡大する形で、ウクライナまで「所有」しつつある。
 中東からも同じように、「所有」の範囲を広げることはできないか。イスラエルだけにまかせてはおけない。アメリカそのものが、イスラエルの近くに「領土」を「所有」し、それを基地にしたいということだろう。
 それは中東を飛び越し、インドを視野に入れた計画かもしれない。
 アジアには、中国、インドというふたつの大国がある。そのふたつの国の存在が、きっとアメリカには気に食わない。アメリカの思うがままに動かない。それを何とかしたい、何とか「アメリカ帝国主義」の配下におさめたいということだろう。

 トランプはアメリカの野望そのものである。

 

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Estoy Loco por España(番外篇464)Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

2025-02-04 21:45:25 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz(izquierda) y Miguel González Díaz


 Obras de Luciano y Miguel en una exposición temática en torno a la silla.
 La obra de Luciano me parece más abstracta que la de Miguel. Probablemente esto se debe a que la parte de la estatua que corresponde a la cabeza tiene la forma de una mujer sentada en una silla. Una mujer se sienta en una silla, pensando en dónde está sentada. Me recuerdo de la frase : "pienso, luego existo".  Esta obra tiene el poder de enderezar mi mente.
 Las obras de Miguel son sensuales. El asiento está hecho de una falda de mujer. Siento que quiero sentarme en su regazo. Quiero que me mime. Sentado en su regazo, quiero acaricar sus pechos. En ese momento, podré volver a ser un niño pequeño. En esta obra veo a una madre viva teniendo un hijo por primera vez.

 椅子をテーマにした作品展の、LucianoとMiguelの作品。
 Lucianoの作品はMiguelの作品より抽象的に見える。全体の頭部にあたる部分が、椅子に座る女の姿になっているからだろう。椅子に座りながら、座っている自分のことを考えている女。「我思う、ゆえに我あり」の世界だ。私の精神をまっすぐにする力がある。
 Miguelの作品は、肉感的である。座面は女のスカート。その膝に座ってみたい気持ちになる。甘えたくなる。そのとき私は、幼いこどもに返るかもしれない。この作品のなかには、初めて子供を持った母親が生きている。

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ジェシー・アイゼンバーグ監督「リアル・ペイン 心の旅」(★★★★★)

2025-02-02 22:36:29 | 映画

ジェシー・アイゼンバーグ監督「リアル・ペイン 心の旅」(★★★★★)(2025年02月02日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督・脚本 ジェシー・アイゼンバーグ 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、キーラン・カルキン

 いまは「キネ旬」を読んでいないのでわからないが、昔なら、キネ旬のベスト1に選ばれるような映画かもしれないなあ。淡々としていながら、深みがある。「ハリーとトント」のような感じを思い出した。
 ジェシー・アイゼンバーグは、新しいタイプのウディ・アレンかもしれない。ウディ・アレンは女優のつかいかたがうまかったが、ジェシー・アイゼンバーグはどうか。ちょっと、この映画だけではわからないが、キーラン・カルキンの描き方(役どころ)が、ちょっと「おんなっぽい」。その魅力を引き出している。このときの「おんなっぽい」というのは、まあ、「わがまま」のことなんだけれど。「わがまま」を言い出すと、抑えが利かない。その描き方、演じ方、演技の引き出し方が、どこかウディ・アレンに似ている。
 「わがまま」というのは、主観の問題だから、私の感じている「わがまま」と、他人の感じている「わがまま」は違うかもしれない。女性から見れば、ウディ・アレンの方が「わがまま」かもしれないけれどね。そこは、深入りせずに、ただ「わがまま」だけれど、それを許すひとがいないと、「わがままな人格」は破綻するかもしれないというところまで、イキイキと演じさせている。これが、なかなかいい感じなのである。実際にキーラン・カルキンのような人間が友達だったら困ることがあるかもしれないけれど、ひきつけられるね。そういう要素を引き出す演出方法がいいんだろうなあ。
 ジェシー・アイゼンバーグの描き方(演じ方)と対照的なのも、非常に効果的だ。ウディ・アレンのようにでしゃばらない点で、ウディ・アレンよりも「上」をいくかもしれない。これからどんな映画をつくるのか、とても楽しみだ。
 最初に余分なことを書きすぎたかも。
 映画は、「映像の情報量」が、とても適切である。ノイズが必要な部分にはノイズを入れ、雑音を拒絶する部分では雑音を排除している。しかも、その排除の仕方がとても自然で、違和感がない。墓地のシーンは、とてもすばらしい。こんなたとえでいいのかどうかわからないが、まるである日のランチのような感じ、ランチだから目くじらを立てることもないのだけれど、あるひとのマナーが気に食わない。それについてひとりが批判する。そのあとの、雰囲気。それが作為(演出)としてあるのではなく、まるで実際に起きたことのように、そのまま放り出されている。その放り出し方の、情報量が、ほんとうにしっかりしている。
 ここをポイントにして、「観光ツアー(と呼んでしまうのに抵抗があるけれど)」が「観光ツアー」ではなくなる。観光抜きの「ツアー」になる。しかも、それは過去を訪ねるツアーになる。他人の過去ではなく、自分の過去を訪ねる。このとき「自分の過去」には、矛盾した言い方になるが「自分以外の人間」が含まれてくる。過去は消えない。過ぎ去りはしない。「いま」、自分と共にある。
 ユダヤ人収容所を訪ねる部分はクライマックスなのだが、そのクライマックスよりも、私はその後の祖母の家を訪ねるシーンに非常に感心した。収容所を見たあと、ことばをうしなう。沈黙が人間を支配する、というのは、傲慢な言い方になるかもしれないが、私にも想像できる。きっとことばを失うだろう。何も言えず、いまみてきた沈黙の激しい叫びにつつまれてしまうだろ。沈黙が大きすぎて、声を出しても、それは沈黙に消されてしまうだろうということは、想像できる。
 しかし、その後。
 祖母の住んでいた家を訪ねる。そこにはポーランド人が住んでいる。ここではじめてポーランド人との接触が描かれるのだが、その接触の近づき方、そして離れ方が、いやあ、びっくりする。そうするしかないのだが、そうするしかないその姿の中に、「痛み」と同時に「安らぎ」がある。生きていくということは、「痛み」と「安らぎ」を共存させることである。そのために、どんな工夫をするか。どんな行動を一歩とするか。
 ちょっと、涙が出ますね。
 号泣というのではない。こらえきれないというのではない。つまり、涙をこらえなければ、というような意識を刺戟しない。ふっと、涙がこぼれ、あ、私は泣いてしまったと気づく感じ。
 いいなあ、この映画。
 映画を見た知人の話では、デミー・ムーア主演の「サブスタンス」が非常にすばらしいらしいけれど、私は、その予告編すら見ていない。そうした作品を見ない内にいうのは変だけれど、「リアル・ペイン」が何かの賞をとるとうれしいなあ、と思う。

 

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ペドロ・アルモドバル監督「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(★★★★+★)

2025-02-01 23:58:34 | 映画

ペドロ・アルモドバル監督「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(★★★★+★)(2025年02月01日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン1)

監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーア

 前半、あ、この映画は、ちょっとどうかな……、と思った。単調である。アップが多く、映像の色彩情報が妙に少ない。そのため現実感がしない。
 ところが。
 ふたりが郊外(いなか?)の別荘へ行ってからが、とてもいい。発端は、ティルダ・スウィントンが安楽死のための薬を家に忘れてきたことに気づくこと。ジュリアン・ムーアは「あした取りに戻ろう」と言うのだが、ティルダは受け入れない。このときのティルダの緊張感というか、焦りというか、それしか意識できないという感じが真に迫っていて、そこから映画のスピードが加速していく。目が離せなくなる。
 ふたりの顔の対比もきわだってくる。
 死を覚悟しているというか、死を望んでいるティルダが、徐々に落ち着いてくる。安定してくる。死んでいくのはあたりまえ、という感じで生きている。薬を忘れたと大慌てしたときとはまったく違ってくる。大慌てしたことによって、なんというか、「峠を越した」感じになる。それが、すごい。
 ジュリアンの方は、感情が揺れ動く。まるで彼女の方が死んでいくかのようだ。
 で、思うのだが。
 こういうとき、どちらの役の方が演じるのがむずかしいのだろう。感情のゆれを演じわけるジュリアンの方がむずかしいと一瞬思うが、逆かもしれない。人間はだれでも感情が動き、その感情が顔に表れるとき、そのひとと一体化してしまう。同調してしまう。自分がジュリアンになった気持ちになる。観客を誘い込めばいいわけだから、むしろ簡単かもしれない。「変化」を演じればいいのだから。
 ところが、ティルダの方は「変化」してはいけないのだ。ほんとうは、彼女の肉体のなかで、こころのなかで激しい変化があるのに、それを表面に出してはいけない。しかも同時に、隠している、押さえているという印象をどこかで与えなくてはいけない。それも、あの、アップの連続のスクリーンのなかで。
 彼女はまた、母ティルダと不仲の娘も演じているのだが、そのそっくりであり、かつ違っているという感じも、非常に少ない動きのなかで演じ分けている。
 これは、ある意味で、映画を見るというよりも、演技を見るための映画だなあ。
 で、ね。
 私くらいの年齢になると、どうしても死のことを思う。私は痛みが非常に苦手だから、こんなに痛いなら死にたいと思うときがある。網膜剥離の手術をしたときは、手術後がこんなに痛いなら「目は見えなくなってもいいから、もう目を摘出して」と言おうと思ったが、いや、もう一回手術するともっと痛いかもしれないと、「論理的」に考え、ナースボタンを押すのをやめた記憶があるのだが。そんなふうに、感情・意識は、動いてしまうものなのだ。
 脱線したが。
 ともかく、死を考える。そうするとき、私にはあんな風には振る舞えないなあと思い、なおさら、ティルダの演技力に驚く。映画を見始めたときから、もうティルダが死んでいくのはわかっている。その、わかりきったことを演じきり、視線を引きつけるというのはすごい。ジュリアンの方は、ほら、どんな風に感情が動くか想像できないから、その動きに自然と引きつけられるのだから。そして、揺り動かされるのだから。
 これを際立たせるためには、やっぱり、あの単純な色彩計画、アップの連続が必要だったんだなあ。
 ★一個を追加しているのは、ジョン・ヒューストン監督「ザ・デッド」が引用されているから。あの映画の雪の美しさ。それが、引用だけではなく、再現されていて、それに感動した。余談の余談だが、私はジェームズ・ジョイス「ダブリン市民」が好きで、ダブリンまで行き、「ザ・デッド」のホテルに泊まったのだ。そんなことも思い出した。この映画が、アルモドバル監督なのに「英語」を話すのも、そういうことが関係しているかもしれない。そうか、アルモドバルもジョン・ヒューストンとジョイスが好きなのか、と親近感を覚えたのだった。
 

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池田清子「お友達」ほか

2025-02-01 21:31:04 | 現代詩講座

池田清子「お友達」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月20日)

 受講生の作品ほか。

お友達  池田清子

年に数日しか開かないブドウ園のお店で
デラウエアを買っている
行けばいつでも買えたのに
突然、予約先行になった
フェイスブックで調べ
インスタグラムで予約するという
登録した

時代が進むということは
面倒になるということか

パソコンの画面の右下に
  「お知り合いではありませんか」
と次々に見知らぬ人の名前がでてくる
突然飛び込んでくる一瞬、一瞬のわずらわしさがいやで
退会しようと思っていた

突然、Yさんのブログを見ていたら
フェイスブックを見つけた
面白かった
ブログとは違う個人的な生活があった

  「その気持ちシェアしませんか」
  「お友達になりませんか」
気持ち? シェア? お友達?
結構です

八木重吉の詩集の序
「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、
私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでく
ださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友
にしてください」
即、なりますと私は答えた。高校生の時。
ジョン・キーツからの流れでもあった

「友達は、友達だ。/でも、友達の友達は友達ではない。」
というコラムニスト(小田嶋隆)の言

お友達?

突然、フェイスブックに高校の同級生が現れた
英語、平和、子供食堂など、彼女らしい日常があった
新聞記事等を載せることで、主張している

彼女のお友達の中に、もう一人同級生を見つけた
『ペコロスの母に会いに行く』という漫画を描き映画にもなった
クラスの中で一番静かで寡黙だったのに、二十年後の同窓会では延々とギターを弾いて歌っていた

彼のお友達の中に、また一人知り合いを見つけた
大学の先輩。相変らず映画祭にかかわったり、つるむのは嫌いな人だったのに、街歩きの案内をしたり

友達のお友達のお友達は友達だった

長い年月、変わらないところあり、変わったところもあり、友達の現在を少しわかった気になる
コラムニストは言う「それは仲間と思いを共有していた頃への郷愁である」と

SNSでのつながりを、基本的なしくみも
私は多分まだわかっていない

時代が進むということは
友達の定義も変わるということか
中々時代にはついていけない
少し、ついていっている

 ひととひととのつながり、ひととものとのつながり。時代とともに変わる。ということから始まり、今回は「関係/つながり/変化」というようなことばを中心に詩を読んでいくことにした。
 池田の作品は「友達」を中心にして、「関係/つながり/変化」とらえ、「思いの共有/郷愁」ということばのなかで全体をぎゅっとひきしめている。そのことば自体はコラムニストのことばからの引用なのだが、それこそ「思い」が「共有」されているから、そのまま池田のことばとして響いてくる。
 そして、このことを「先取り」する形で、八木重吉の詩(ことば)との出会いが書かれているのだが、私は、その部分の「即」という表現に、強く引きつけられた。池田がここでつかっている「即」と「即座」の「即」である、間髪を入れず、つまり「時間」をおかずにということなのだが、そうした「時間感覚」以外ものが含まれていると感じたのである。
 「友にしてください」と言われ、「即、なります」と答えるとき、それは「空間」を超えた「即」でもある。そこにはいない八木と池田が重なっている。「お願い」をしたのは八木だが、もしかすると池田が八木に「友にしてください」とお願いしたのかもしれない。そういう「誤読」を誘う「即」である。
 その後、いくつかの「体験」が語られている。「友達(同級生)」を見つけるとき、それは単なる発見ではない。「時間/場所」が一瞬にして、とけあう。「友達」を見つけるだけではなく、池田は「自分」というものをも見つけている。
 「友達即私」。
 その「発見」が、ここにはある。
 「長い年月、変わらないところあり、変わったところもあり、友達の現在を少しわかった気になる」という行の中の「友達」を「私」に書き換えても、何の「矛盾」も起きないだろう。むしろ、私は「友達」ではなく、そこに「今の池田」を見る。
 「時代についていく」というのは、つまりは「今の自分についていく」ということだろう。
 さーっと「書き流した」感じの詩であるけれど、その「さーっ」という感じに、作者の「人柄」が出ている。「詩を書く」という意識ではなく、「書きたいことを、書きたいだけ書く」という姿勢が、自然にことばを動かしている。書いたものが、小説でも短歌でも俳句でもなく、たまたま詩になった、というのが詩の一般的な姿だと私は思う。

ブーゲンビリア  青柳俊哉  
 
ブーゲンビリアが咲き誇るみち
巨木で熊蝉がなきつづける 
 
棺の少年が地下へおりていく
 
蝉が殻を背負って地下から上ってくる
青みをおびた乳白色
 
消えさることのない色の香り

飛び交う飛蝗を捕らえて哲学者がおもう
 
雲がゆっくりと少年を追う
風が花のこうべをめぐらして蝉の声を聴く
 
熊蝉がなきつづける 少年は十二歳のまま 
 
地上を超えていく音楽
ブーゲンビリアが咲き誇るみち

 「少年」がいる。ひとりは「棺」のなか。ひとりは「十二歳」。そして「哲学者」がいる。この関係は? 同一人物、ひとりの人間の、ある瞬間の意識が、その三人に分かれているということだろう。あるいは、ふたりの少年を結びつけるとき、その瞬間に哲学者があらわれてくるということかもしれない。
 もしそうであるなら、ここに描かれているすべての存在は、哲学者が結びつけている存在、あるいは哲学者のなかから分離して生きている存在ということになる。「ブーゲンビリア」も「蝉」も「飛蝗」も、さらに「色/香り/音楽」も。
 「意識」がさまざまな形をとりながら「咲き誇る」。そうした全体が哲学者によって統一されている。このときの「哲学」は「詩学」と同じ意味になるだろう。
 「地上を超えていく音楽」の「音楽」を「ことば」と言い換えれば、それが詩の定義になるかもしれない。

一月の仕事部屋  杉惠美子

この部屋に入ると
机の上に
本棚に
引き出しに
私の傍から離れない
不思議な間がある
壁には 生真面目な
記憶と約束があり
小さな憩いがある

表情をなくさない声かけが
これからも続く

 「私の傍から離れない/不思議な間がある」は不思議な二行である。「間」は何かと何かの「間」。つまり、それは一種の「切断」なのだが、それが「離れない」。「離れない」は密着しているということ、「間」がないということ。つまり、この二行は、何かしら「矛盾」を含んでいる。しかし、それを矛盾とは感じさせない強さがある。
 池田の詩に出てきた「即」は「色即是空/空即是色」の「即」とは違うのだが、違いながらも、いくぶん、それに通じるものを含んでいたが、この二行は、それに似ている。もともと「色即是空/空即是色」自体も矛盾した論理だが、こうした矛盾を「超える」のがことばの運動というものなのだろう。矛盾をつかまえることで、矛盾ではなくなる。矛盾ではなく「法(哲理)」になる。
 それは、杉の詩では「部屋」という「形」になる。部屋が色(形、存在)、間が空か。
 さて。
 終わりから二行目の「声かけ」は、だれの声かけか。部屋から(部屋に存在するものたち)から杉への声かけか、杉からものたちへの、あるいは部屋そのものへの声かけか。これは、すこし考えるだけでいい。「結論」は必要がない。どちらを選んでも、それは「正しい」だろうと思う。それが「即」ということだろうと、私は思う。

三十六億年のDNAの記憶の旅  堤隆夫

わたしとあなたは 融通無碍なる表裏一体
あなたはわたしに他ならない

わたしとあなたの命の旅は 
三十六億年のDNAの記憶の旅
三十六億年の永遠かつ瞬時の縁

而して 時は流れず
わたしの身と心は 
即ち あなたの身と心

わたしを滅ぼし そして蘇らせた神は
あなたを滅ぼし そして蘇らせる神でもある

送るものはやがて送られ 
涙するものは涙され
愛するものは愛され

そして---実存するものは
永遠かつ瞬時なる 親と子の活断層

あなたとわたしは---真紅の火
わたしとあなたは---純白の雪

 堤の詩には、「即ち」ということばがつかわれている。それは、これまで見てきた「即」の別の読み方である。堤は一行目に「表裏一体」と書いているが、それは「即」そのもののことである。さらにおもしろいのは、その「即/表裏一体」が「融通無碍」であることだ。いつも動いている。いれかわっている。
 こうした「変化」を含んだ運動としての「即」は、「かつ」ということばでも書かれている。「即=かつ」。「かつ」というとき、むすびつけられるもののあいだに全体的な「違い」があるから「かつ」なのだが、「かつ」と言えなければ、また「即」という必要もなくなる。そうした関係の「即」と「かつ」。
 こうした存在のありようを、「矛盾」を感じさせないことばで言いなおすと、どうなるか。
 堤は「わたしとあなた」と書き出しているが、「即=かつ」の矛盾を超えると、それは「と」ということばになる。わたし「即」あなた、わたし「かつ」あなた。これは、わたし「と」あなた、ということである。「色即是空=空即是色」であるように、「わたしとあなた」は「あなたとわたし」である。
 この意識が最終連になってあらわれるのだが、この二行は、とても強烈で興味深い。

あなたとわたしは---真紅の火
わたしとあなたは---純白の雪

 矛盾は「真紅の火/純白の雪」という、それこそ反対のものとして結晶するのだが、この鮮烈なイメージへの結晶、昇華、それが矛盾を「超える」という運動である。二行に分けて書かれているが、ここには「意識の時差」はない。それは二行同時に「誕生」したものである。
 池田の詩に書かれていた「即」よりも、もっと「間」がない。それこそ「表裏一体」であり、「融通無碍」に交錯する。しかし、それは「混沌」ではなく、絶対体的な存在形式だ。

幸運  魚本藤子

高台にあるレストランは
一面ガラス張りで
海峡の流れがよく見えるようになっている
どこにも隠れようがない
対岸の門司の街並みがすぐ近くに見える
今 銃口を向けられたら
間違いなく命中するだろう
けれど
どこにも銃声は聞こえず
遠い街並みは
物語のような穏やかさだ

海峡の流れは
日に四度変わる
その間を大きな外国のタンカー船も
小さな釣舟も行き来する

幸運にも
流れに乗ると速く進む
流れに乗る幸運 逆光する不運
小さな釣舟はすいすい進んで行く
どんな苦難も流れに乗れば
 玩具のように軽く見える

今日は多分この上なく幸運な日だ
誰にも銃口を向けられることもなく
怯えて逃げまどうこともなかった 
私たちは
空いている椅子に重い荷物を置いて
穏やかに談笑した
帰る時には
その荷物をうっかり忘れそうになった

 受講生の作品ではなく、受講生がみんなといっしょに読むために持ってきた詩。
 この詩では、「間」は「海峡」という形で描かれている、というとかなり強引な読み方になるかもしれないが、海峡が見えるからこそ「私たち」は「私たちの間」にことばをいきかわせる。ことばによって、切断と接続をくりかえすのだろう。
 最後の四行が象徴的で、とても美しい。「荷物」がなんなのか、何を象徴しているのか、ひとによって意見が分かれると思う。だからこそ詩を読むことは楽しいのだが、そういう「なぞとき」よりも魅力的なのは「うっかり忘れそうになった」ということばである。「うっかり」のなかにある「超越」は、「夢中」とどこかで交錯する。魚本の過ごした時間がどんなに充実していたかをしっかりと伝えてくる。


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トランプ演説から思うこと

2025-01-21 17:52:13 | 考える日記

 トランプの米大統領就任演説要旨を読んだ。(読売新聞、2025年1月21日夕刊、西部版・4版)。いろいろ言っているが、私がいちばん注目したのは、次の部分。

米国はパナマ運河の建設に多額の資金を費やし、人命を失った。パナマによって約束は破られ、米国の船舶はひどい過大請求を受けている。何よりも中国がパナマ運河を運営している。我々は中国ではなく、パナマに与えたのだ。我々はそれを取り戻す。

 これは、「領土拡張主義」である。
 「アメリカ」は、もともとヨーロッパから侵略したひとが、勝手に「建国」したものであり、もともと「拡張主義」の「強欲者」の国である。トランプは、メキシコ湾をアメリカ湾と解消することも主張しているが、いまでこそカリフォルニアやテキサス、フロリダは「アメリカ」だが、それはメキシコから戦争で奪い取ったものだ。テキサスの油田地帯がメキシコのままだったら、アメリカ経済は違ったものになっていただろう。(メキシコも、アメリカと同様、ヨーロッパから侵略してきたひとが力づくでつくったものだが。)
 なぜ、とりわけ「パナマ運河」に注目するのかというと。
 「アメリカ建国」はヨーロッパ人が西へ西へと進んできた結果、つくられた国である。最初は東海岸だけだったが、その「強欲主義者」はアメリカ大陸を横断し、西海岸まで「領土」にし、それだけでは満足せず、いま、それは太平洋を横断し、アジアにまで手を伸ばしている。
 日本はすでに、その支配下にあるし、台湾も「独立」という名目で支配下に置こうとしている。台湾を足場に中国大陸にまで「強欲主義(資本主義とも言う)」を侵略しようというのが狙いだろう。
 この西向きの「領土拡大」の背後では、東向きの「領土拡大」もあって、それはNATOの拡大という形で実現されてきた。トランプはNATO加盟国に軍事費の増大を要求しているが、これはアメリカの軍需産業に金を払えという「強欲主義」の主張である。その主張を隠すためにウクライナを刺戟し、ロシアと戦争をさせた、というのは私の見方だが……。ともかく、東からも西からも、アメリカの「強欲主義」を「自由主義」と言い換えて「侵略(領土拡大)を正当化しようというのが、トランプの狙いである。(バイデンも、この東西からの両挟みを推進していた。やはりアメリカの軍需産業によってコントロールされていたということだろう。)
 で、パナマ運河。
 トランプはすでに、東西両方向からの「強欲帝国」は完成されつつあると考えているのだろう。次は、南へ。南も「強欲主義」で支配すれば、アメリカは「世界帝国」になれる、ということだ。支配の矛先を南へ向けた。
 これは、象徴的な転換である。
 そして、ここでもトランプは「中国がパナマ運河を運営している。我々は中国ではなく、パナマに与えたのだ。我々はそれを取り戻す」と中国を引き合いに出しているのだが、何がなんでも中国を支配してしまおう、中国の影響力を最小限にして、つまり、できれば中国経済を中国国内に封じ込めてしまおうということだろう。
 ここで、私が思うのは、このアメリカの「強欲主義」に立ち向かい、それぞれの国が「独立」を守るためには、アメリカがまだ手を伸ばしていないアフリカの諸国とどうやって連携を築くかということだ。これが、たぶん、唯一の可能性だ。(そういうことを理解しているからこそ、中国は、アフリカの諸国と連携しようとしているように、私には思える。)
 ちょっと脱線したがというか、先走りすぎたが。
 「対南」政策について言えば。
 中南米の諸国は、すでに冷戦時代に、アメリカの政治によってさまざまな支配を受けている。だからこそ、トランプは、パナマを支配することは簡単だと思い、パナマ運河を取り戻すと言ったのだろう。かつての米政権がCIAと軍を利用しながら、南アメリカの政権を自由にあやつった記憶は、トランプにははっきり記憶されているだろう。
 「民主主義」と言えば、聞こえはいいが、冷戦時代に、アメリカが「民主主義を守る」という名目で、南アメリカ諸国で何をしてきたか、その歴史を振り返れば、これから何がおきるか予測できるだろう。
 パナマは「序の口」。中南米には、「親アメリカ」ではない国(政権)もある。そうした国への「工作」もこれから再びはじまるだろう。
 だからこそ。
 アフリカが問題になる。世界を自由で開かれてたものにするためには、まだアメリカが「強欲主義」の手を伸ばしていない地域・国民の活動が重要になる。いや、アメリカには、すでに「奴隷」としてアフリカのひとびとを搾取してきた時代があるのだが、だから、トランプはアフリカに関しては「みくびっている」のかもしれないが。

 ともかく。
 パナマ運河の行方が、今後の世界の行方の「指針」になる。私は、そう思った。


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杉惠美子「春兆す」ほか

2025-01-17 23:07:44 | 現代詩講座

杉惠美子「春兆す」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月06日)

 受講生の作品ほか。

春兆す  杉惠美子

新しい春に佇み
息をひそめて おさな児と手をつなぐ
一瞬の 未来を見つける

透明さの中に立ち
樹々の息づかいを聴く
一瞬の 呼吸の深さに出会う

早朝の心を歩かせ
通り過ぎる 君の声を聞く
一瞬の はるの渦に溺れる

桜木の影に佇み
朧月のほのかさに埋もれる
一瞬の 回想に包まれる

 起承転結の構造がしっかりした作品。一連目「おさな児」と「未来」、二連目「息づかい」と「呼吸の深さ」の呼応がとても自然。それが三連目で「君の声」と「はるの渦」へと変化する。タイトルには「春」と漢字をつかっているが、ここでは「はる」。そこに、ふしぎな官能性がある。「溺れる」がそれに拍車をかける。これを受けて、四連目で「埋もれる」「包まれる」ということばがつづく。その静かさ。
 「春兆す」。しかし、そのとき、もう二度と帰って来ない「春の記憶」もやってくる。よろこびと悲しみが交錯する。記憶は悲しければ悲しいほどいとおしいし、うれしければうれしいほど、逆にいまを悲しくさせもする。人間の思いとは、わがままなものである。
 こうした気持ちがあって「回想」ということばが選ばれているのだと思うが、この「回想」は、少し「答え」というか「結論」になりすぎてしまっているかもしれない。では、どんなことばがいいのかというと、なかなか思いつかないのだが、「回想」というあまりにも客観的なことばよりも、「かなしみ」(愛しみ)につうじるような感情的/主観的なことばでもいいような気がする。
 つまり、というのは変かもしれないが、私は、この詩を、いま、ここにいない人に対する「ラブレター」のように読みたい気になるのだ。

私人--杭に立つ葉  青柳俊哉  
 
木肌からとじられて離れていく 
自由な私人として 
地上のすべてから力を受けて
 
着地点を定めず飛ぶ
 
殯(もがり)をうつ漏刻の森 落ち葉の列が風に立つ
高くうず巻き さらさらと川へ流れる
 
わたしも水を駆ける 堰の杭にとまる
 
葦 かや吊り草 野鴨 
吊り橋で跳ねる青蛙 
過ぎていく他の木の国の葉たち 
 
出会うものたちが
杭に立つまっ新(さら)なわたしをことほぐ

 たとえば、ここに一本の杭がある。杭だから、それは生きている木ではないのだが、枯れている木なのだが、なぜか一枚だけ葉が残っていると思ってみる。そして、その最後の葉は、いまどこかへ行こうとしているのだと思ってみる。
 その葉から見たとき、世界はこんなふうに見えるかもしれない。
 その一枚の葉は、杭を離れながら、かつて木を離れたいくつもの葉に(仲間に)であう。また、その葉のまわりに存在する新しい世界も知る。
 そんな旅立ちを、世界が祝福している、と読んでみたい。


残された者  堤隆夫

年の瀬 残された者は 
どうやって 新年を迎えればいいのか

愛しい思いは 一片の冬の花びらに 
涙の想いの雫を託して 
こころのせせらぎに 流そう

なぜ なぜ いつも善き人が 
先に逝ってしまうのだろうか

あはれ わたしは 朽ちた花そのものでないまでも
あなたの花影だったのかもしれない

思い出があるから 生きられるのか
然らば 思い出の浮草に乗って 旅立とう

わたしは先を越されてしまった 
置いてけぼりにされてしまった

さようなら さようなら
万葉の鐘の音が聞こえてきた

 「思い出があるから 生きられるのか」という一行に、何を読み取るか。ひとそれぞれだろう。「楽しい思い出」があるから、いまがつらくても「生きられる」のか、「悲しい思い出」があるから、生きられるのか。つまり、私には悲しみ、苦しみにを乗り越える力があると実感できるから、生きられるのか。
 青柳の、「杭に残った一枚の葉」(と、読むのは私の「誤読」で、青柳はちがったことを意図しているかもしれないが)は、「わたしは先を越されてしまった/置いてけぼりにされてしまった」と感じたことがあったかどうかわからないが、この堤の詩のなかの「わたし」はそう感じている。そして、そのとき、もし堤の「わたし」が「葉」ではなく「花」だったとしたら、「わたしは 朽ちた花そのものでないまでも/あなたの花影だったのかもしれない」ということになる。「わたし」と「あなた」は、そんなふうに交錯する。
 あらゆる存在(人間)は個別性を生きているが、個別であるのに、どこかで交錯してしまう。
 ひとの感じていること、考えていることは、基本的に「私の問題」ではないのに、他人なのだからほっておいていいはずなのに、考えたり、感じたりしてしまう。時には、そのひと以上に真剣になってしまう。そして、ふしぎなことに、その瞬間、「私」というもの(枠)が消えて、なんだか豊かになる。
 そんな瞬間をもとめて、私は、詩を読んでいる。詩だけではなく、ことばを読んでいる。

柱時計  淵上毛銭

ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二
鳴るのかい
苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ

 「死」が登場するが、ちっとも「死んだ」気持ちにならない。ずーっと生きている感じがする。たぶん、この詩を読んでいるうちに、私は淵上にではなく、淵上が書いた「柱時計」になっているのだろうなあ。柱時計になって、淵上がいようがいまいが関係なく、時を知らせ続ける柱時計になって生きているということだろうなあ。そして、それはまた同時に、この柱時計という詩を書いた淵上になっているということでもある。
 「十二時がきたら 十二/鳴るのかい」という行の展開の仕方も、とてもおもしろい。散文では、こういう展開はしない。そうすると、ここにも、詩が動いていることになる。いわゆる「論理」の踏み外し、踏み外しながら別の「論理」(?)へ移行する。これを「別の論理と交錯する」と書き直せば、今回の「講座」のテーマが浮かび上がるかな? ちょっと、強引かな?

 


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吉田大八監督「敵」(★★★★)

2025-01-17 17:34:44 | 映画

吉田大八監督「敵」(★★★★)(Tjoy博多、スクリーン4、2025年01月17日

監督・脚本 吉田大八 出演 長塚京三、瀧内公美、河合優実

 主人公の年齢が何歳かわからないが、大学教授をやめたあとなので、かなりの高齢。妻が死んで一人暮らしだが、きちんと生活している。その生活が(あるいは、その見る世界が)徐々に変化していく。その変化の過程がなかなか見応えがあるのだが、それは冒頭から暗示されている。そのことに私はいちばん興味を持った。
 朝起きて、朝食をつくって食べる。最初の朝食は、鮭を焼いたものがメインである。この焼いている鮭をアップで見せる。そんなにアップにしなくても鮭とわかるのだが、「わかる」を超えて、鮭であることを主張する。言い換えると、鮭が「自己主張する」。これは、ほかの料理をする部分でも同じ。蕎麦をつくる。そのときの、湯掻いて、水で洗って、という手順、その蕎麦の形。あるいはネギを切るときの包丁、刻まれたネギ。料理番組(料理映画)ではないのだから、こんなにアップにする必要はない。でも、アップ。それは主人公が細部にこだわっているというよりも、細部の主張に押し切られているという感じ。この自分以外のもの、しかも、何かの細部に押し切られるという感じが少しずつ強くなっていく。細部の積み重ねが現実であるというよりも、細部が現実の統一感を破壊して、細部が全体になっていく感じ……。
 その結果、それまで主人公が知っている(統制、あるいは支配していると思っていた)世界が現実なのか、それともその統制を突き破ってあらわれた細部が現実なのか、徐々にわからなくなってくる。
 これを、女との関係に絞って(というわけではないが、中心に)突き動かしていくところが、すけべで、リアルでとてもいい。知っている(支配していると思っている)現実を突き破って動く女は、現実であって、現実ではない。想像、あるいは妄想なのだが、想像や妄想というのは、現実ではないからこそ、男を乗っ取ってしまう。男は、男の頭のなかにあらわれた女に、自在に動かされる。反論できない。女を制御できない。
 主人公を大学教授をやめた男にしたのも「効果的」だ。彼は、現実よりも、彼の頭のなかにある世界の方を「真実」だと思っている。それは日本の現実よりも、フランス文学、とくに演劇のなかにあらわれたものを「真実」と思っている姿の反映かもしれないのだが。
 このなかで、とくにおもしろかったのが、河合優実。「透明な不透明感」を生かして、男をだます。バーのマスターの姪で大学生という設定だが、ほんとうかどうかわからない。男をだまして金を引き出すと、バーのマスターといっしょに姿を消してしまうところをみると、偽学生だろう。これを巧みに演じていた。「あんのこと」「ナミビアの砂漠」は主演ででずっぱりだったから、見ていてちょっとめんどうくさくなったが、この映画のように、ふっとでてきて、「私は主演ではないから」とぱっと消えていく方が「ほんもの」という感じが強く残る。杉村春子が「わき」を演じたときの感じに通じるかもしれない。一瞬、「ほんとう」があればいい。男に「バタイユ」から攻め始めるといか、男を「バタイユ」を利用して釣り上げるところなんか、いいなあ。河合優実が演じる偽女子学生がバタイユの「青空」を理解しているかどうかはわからないが、(筒井康隆の小説が、そうなっているだけなのかもしれないが、原作がどうなっているかを忘れて河合優実を見てしまう。)、男はフランス文学専攻だから、もう「青空」だけで、その主人公になってしまう。性と死の世界、その中心のエロスにどっぷりつかってしまって、まあ、進んでおぼれていく感じになるのだが。だから、その後のプルースト、「失われた時を求めて」をめぐるやりとりなど、河合優実との会話というよりも、すでに男の「妄想」なのだが、ほんとうに「妄想」なのか、現実なのかわからないように、うまく撮っている(演じている)。それが現実か妄想かわからないのは、ちょっと最初にもどって言うと、ここでも河合優実がほとんど「アップ」だからである。「アップ」がリアル性を強調し、かってに動き出すのである。河合優実の「全体」が見えないが、だからこそ効果的なのである。
 「全体」ではなく「部分」に過ぎないのに、それが「全体」になっていく、というのは、「敵」の存在を知らせるメール、あるいは「双眼鏡」などによっても展開されていくのだが、この恐怖は、クライマックスで加速する。このクライマックスも男の家に局限された「アップ」であり、「全体」は描かれないのだが、そして、それがぱっと終わるのもとてもいい。
 最近、私が関心を持ってみた映画は、なぜか監督が脚本も書いている。この映画もそうなのだが、吉田大八のいいところは、「完璧な脚本だろう」という具合に、脚本が自己主張しないところだなあ。クライマックスのシーンなど、脚本で読めば「たわごと」の類だろうけれど、映像になると、いやあ、ほんとうに怖い。もっとも、この恐怖は、若い人にはわからないかもしれない。私が主人公に近い年齢だからかもしれない。そして、変な言い方だが、吉田大八は私より若いはずだが(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を見たのが最初の映画なので、かってにそう思っているのだが)、まだ若いのに、老人の恐怖がわかるのかと驚きもした。

 

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こころは存在するか(46)

2025-01-12 23:29:06 | こころは存在するか

 大岡昇平「レイテ戦記」(全集9、筑摩書房)は、とてもむずかしい本である。知らない地名が出てくる。地図がつけられているのだが、地図を見てもわからないことが多い。たとえば、距離。何キロという具合に客観的に書かれているのだが、山の中と平野では違う。川や沼地では違う。肉体は、数字に向き合って動くのではなく、あくまでも地形、そしてそのときの条件に向き合って動く。その動きが、私には想像できない。さらに、それに海軍、空軍の動きが加わる。人間の動き(それがトラックにのったり、馬に乗ったりしていたとしても)、そのスピードと、海の上の船のスピード、空を飛ぶ飛行機のスピードが違うから、それを組み合わせて理解するのがむずかしい。
 以前見た映画「ダンケルク」(クリストファー・ノーラン監督)では、クライマックスの一日へ向かって陸、海、空が動くのだが、スピードが違うにもかかわらず、まるでそれが「一日」のできごとであるかのように巧みに語られていたが、現実は、そんな具合には動かない。だいたい、映画と違って小説は短い時間で終わらない。本を開いていれば、自然にページが動いていって、おわりがくるわけではない。自分でひとつひとつことばを追っていかないと、おわらない。
 そして、この「戦記」を読んでいると、当時の世界だけではなく、いまの世界も見えてきて、それがとてもおもしろい。
 こんなことばがある。(347ページ)

 一度廻りはじめた戦争の歯車は、その喚起したエネルギーを使い果たすまで廻り続けるヨーロッパと太平洋には、巨大な兵器と軍事物質が送られ続け、それはハワイ、オーストラリア、ニューギニアに蓄積されていた。戦争を続けなければ、アメリカ経済がひっくり返ってしまうのであった。日本突然降伏したら、一番困るのはルーズベルトであったろう。あくまでも定量砲撃で放談を浪費するのは、アメリカの軍需産業を円滑に進行さすために欠くことが出来なかったのである。

 これを、ウクライナとロシアの戦争に結びつけて私は読んでしまった。
 トランプは、大統領に就任したら戦争を終わらせると言って立候補していたが、いまは六か月に後退している。もっと後退するだろうと思う。トランプに能力がないからではなく、アメリカの軍需産業うが許さないのだ。ゼレンスキーが突然降伏したら、アメリカの軍需産業は大慌てをするだろう。イスラエルが突然和平に踏み切っても同じだろう。NATO諸国に、そして日本に、どれだけ多くのアメリカ軍需産業がつくった武器が蓄積されているか、想像してみればいい。
 こうした大きな「枠組み」だけではなく、人間の、あまりにも人間臭い動きも、「レイテ戦記」には克明に描かれている。それをしっかりと描き出す文章にぶつかるたびに、私は立ち止まる。

 


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Estoy Loco por España(番外篇463)Obra, Joaquín Sorolla

2025-01-12 22:50:55 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Sorolla
 "María vestida de labradora valenciana", 1906
Óleo sobre lienzo 189 x 95 cm

 La luz de Sorolla es completamente diferente a la de los impresionistas como Monet, Renoir y Van Gogh. La luz del llamado Impresionismo es un alegre escape de la penumbra del norte de Europa. Viajé a los Países Bajos en invierno hace unos 40 años. Es mucho más frío y oscuro que la oscuridad de las zonas del norte de Japón que conozco. Mientras me dirigía hacia el sur desde allí, me di cuenta de que esta oscuridad era el fondo de los colores impresionistas.
 La luz de Sorolla no tiene nada que ver con la oscuridad ni con el frío. Hay una inundación de luz y reflejos difusos de luz. Incluso las sombras brillan desde dentro.
 En este cuadro, el amarillo de las flores invade la ropa blanca de trabajo. Sorolla pinta la ropa de la mujer de una sola vez con un pincel grueso, pero el brillo de las flores supera la velocidad de las pinceladas del artista y penetra en la ropa. El color de tu ropa no es un reflejo del color que la rodea.

 ソロージャの光は、モネやルノワール、ゴッホらの印象派とはまったく違う。いわゆる印象派の光は、北ヨーロッパの暗さから抜け出したときの喜びである。私は40年ほど前の冬、オランダを旅した。私の知っている日本の北国の暗さよりもはるかに冷たく暗い。そこから南へ向かったとき、ああ、なるほど印象派の色の背景には、この暗さがあるのだと感じた。
 ソロージャの光は暗さ、冷たさは無関係だ。光の洪水、光の乱反射がある。影さえも内部発光している。
 この絵では、白い作業服に花の黄色が侵入してきている。ソロージャは太い筆で一気に布の動きを描いているが、その素早い筆の動きの間を縫って、まさに光が光速の速さ、画家の筆の動きの速さを追い抜いて、キャンバスからあふれてくる。

*

スペインの友人の作品を紹介するコーナーなのだが、ちょっと思い立ってソロージャの印象を書いてみた。

コメント (1)
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こころは存在するか(45)

2025-01-09 12:39:47 | こころは存在するか

 大岡昇平「レイテ戦記」(全集9、筑摩書房)のなかに、こんな文章がある。「十 神風」の204ページ。大岡は、ある特攻隊志願兵の決意を称揚する文章(指揮官が書いた)を引用したあと、こう書いている。

私には、黙って俯向いていた五秒間に、大尉の心中に去来した想念の方が重く感じられる。

  私は、この文章の「私には」が非常に重く感じられる。あ、大岡昇平だと叫んでしまう。大岡の書いている文章は、「私」という主語を省略し、たとえば「大尉の心中に去来した想念の方が重かったのではないか」という具合にも書くことができる。「戦記」全体が主観を退けるように書かれている。「私」という主語が明記されることは少ない。しかし、大岡は、ここでは「私」を、なんとしても書いておきたかったのだ。
 つづいて、こういう文章もある。

基地の兵舎で、特攻と決意してから出撃までの幾日かの間、あるいは飛び立ってから、目標に達するまでの何時間かの間は、人間に最も過酷な生を強いる、と私には思われる。

 ここにも「私には」ということばがつかわれている。「私に」、あるいは「私は」ではなく両方とも「私には」であることに、私は揺り動かされる。私は大岡を文章でしか知らないが、「私には」があらわれたとき、目の前に大岡がいる感じがするのである。活字のなかから、人間がすっとあらわれて、ことばを言っていると感じる。人間の存在の迫力を感じる。
 大岡を「正直」と感じるのは、こういうときである。「正直」というのは、なんというか、人間の「枠」を突き破ってあらわれる。
 211ページには、こういう文章もある。

ただ確かなのは、この頃は特攻実施について、技術的な問題が存在したということである。

 「確かな」も「私には」と同じ強調である。しかも強調しようとして書いたものではなく、自然に出てきてしまう「確かな」である。大岡には、書かなければならないこと、言わなければならないことがあるのだ。
 その正直な気持ちが、たんたんとした文章の中に、ふいに噴出してくる。

 私は「こころは存在しない」と考えているが、もし「こころがある」とするならば、それは大岡の書いている「私には」や「確かに」ということばとなって噴出してくるものだと信じている。そのひとが「肉体」のなかにしまっておくことができないもの、どうしても「あふれでてきてしまうもの」が「こころ」だろうと思う。
 そして、詭弁のように聞こえるかもしれないが、「こころ」は「あふれでてしまうもの/あふれでてしまったもの」だから、やっぱりそれは「ひとのなか」には存在しないと言えると思う。「あふれでなかった」ら、だれも「こころ」に気がつかないのだから。

 


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細田傳造「敵」「ヤヴォール」

2025-01-04 22:45:19 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「敵」「ヤヴォール」(「納屋」2、2024年11月09日発行)

 細田傳造が「敵」「ヤヴォール」という二篇を「納屋」に書いている。「ヤヴォール」の方が「文体」に乱れがない。そのぶん、いくらか借り物めいたところがある。「アメリカ兵」が「話者」だからかもしれないが、ことばは現実との「距離感」(そのとり方)が、どうも1960年代、70年代のアメリカ文学(の翻訳)っぽい。と、いうことで、引用するのは「敵」の方。

選挙がすんだし雨もあがったし
衆愚にまけたし個体の清掃でもするか
ねんいりにシャワーをあびるひねもす洗濯機をまわす
地球がまわっている
黄昏がきた空腹がきた
思想する自転車を駆って
日高屋に挿入
三百八拾圓の支蕎麦啜り
二百圓の餃子も食らったし
孤塁にもどって
辛亥の夢でもみるとするか

 細田には「すること」がある。明確に、ある。だから、あとは「○○でもするか」とテキトウなふりをするのだが、もちろん「○○でもするか」といった瞬間(意識した瞬間)から、それは「必然」になる。絶対に「すること」になる。
 漢字熟語とひらがな(あるいは古語)のつかいわけのなかに、「すること/しないこと」の区分けのような、明確な意識化のちがいがあって、それが強烈なリズムをつくりだしている。
 「選挙がすんだし」が「雨もあがったし」を挟んで「衆愚にまけたし」とつづくときの批判力の強さ、そのあとに「肉体(裸体)」ではなく「個体」をもってくるとき、さらに批判力が強くなるのだが、そこから「社会(世間)」へ踏み込まずに、さっと身をかわして見せるところに細田の力がある。いわゆる「論理(正義)」にひっぱりまわされない。「個人主義の強さ」みたいなものだね。それは、最初に批判した「ヤヴォール」の方がアメリカ風な色でより鮮明なのだけれど、ね。
 私としては、「日高屋に挿入」の「挿入」のつかい方が、とっても好きだなあ。「ヤヴォール」には「もっと落ちこんで小便がしたくなってそのまんまファック」という一行があるが、「ファック」よりも「挿入」の方が、なんというか、教養(?)を感じさせる。品というか、奥ゆかしさというか。
 で。
 その「個」の強さ(これは「孤塁」の「孤」に通じるのだが)というのは、やっぱり「怒り」というものが原点になっている。それを強く感じさせるのが、

省線電車の架橋の下で
そのチャリをどこでかっぱらったのか
絡んでくる酔っ払い爺一匹を轢く
敵の敵は敵である

 この部分の「そのチャリをどこでかっぱらったのか」という一行にこめられた「忘れがたさ」である。いわゆる「恨み」というものかもしれない。
 「挿入」とも関係するのだが、詩の最後が、また、とてもいい。私は、あえて省略しながら詩を引用しているのでわかりにくいかもしれないが、細田には「衆愚」にかぎらず「衆=集団/全体主義」に対する「恨み」のようなものがあり、「衆=愚」とつきはなして「個=孤」へ引き返す動きがあるのだが、それが最後の部分に噴出している。

塹壕にて
綿布に包まり我が銃身をにぎる
カルル・ヴァルターp22
時。来たりなば発す
声。充ちずとも射す
革命は俺ひとりで充分だ敵の敵は敵

 絶対に「衆=愚」には与しない、という強さが美しい。

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大岡昇平「レイテ戦記」とスティーブ・マックイーン「占領都市」

2025-01-04 21:23:39 | 考える日記

 大岡昇平の「レイテ戦記」を読み始めて、すぐに思い浮かんだのはスティーブ・マックイーン監督「占領都市」である。
 私はレイテ島がフィリピンにあること、フィリピンの本島(?)のルソン島の南にあること、レイテ島は大激戦地であったこと(大岡昇平がその戦いに参加したこと)くらいしか知らない。レイテ島はもちろんだがフィリピンにも行ったことはない。アムステルダムについていえばオランダにあること、「アンネの日記」のアンネが住んでいたところくらいしか知らない。アムステルダムには一度観光で行ったこと、レンブラントの「夜警」を見たこと、フェルメールのいくつかの作品を見たことを思い出すことができる。ほかは、なにもわからない。
 「レイテ戦記」を読むと、知らない地名がたくさん出てくる。登場人物も、私には覚えきれないくらい登場する。日本軍もそうだし、アメリカ軍もそうである。さらにフィリピンのゲリラも登場する。彼らは、大岡昇平が書いている地名はもちろん知っている(知らない地名もあるだろうけれど、少なくとも彼ら自身が戦った場所の名前は知っているだろう)。ほんとうの名前(昔からある名前)とは別に、日本軍がつけた名前、アメリカ軍がつけた名前さえある。そして、彼らは、さらにそこにはどんな木が生えているか。その海岸はどんなものか。砂の色はどんなぐあいか。いろいろなことを「肉体」で知っている。「肉体」はある場に存在するとき、その場のなかに広がっていく。拡大していく。そして、他の「肉体」と交わる。「名前」をとおして、その「場」そのもの、空気、時間を共有していく。それはたいていの場合、明確な全体像として意識されないが、「肉体」で触れることのできるものとして、そこにたしかなものとして生きている。山も川も海も、水も風も、台風も。あらゆるものが、大げさに言えば死を否定しながら、生きている。死んでいくときさえ、その死を否定するように、もがき、苦しみ、生きている。
 それはアムステルダムでも同じである。私は映画の中に登場する地名、建物の名前、そしてそこに生きていた人たちの名前を知らない。それがほんとうであるかどうかさえ、私には確認のしようがない。しかし、そこには私の知らない土地の名前、建物の名前、何階であるか、どの部屋であるかを自分の世界の中心として生きていたひとがいた。彼らにとっては、世界の中心であり、世界のすべてだったときもあるはずだ。
 そういうものは、抽象化してはいけないのだ。ストーリーにして、要約してしまってはいけないのだ。レイテ島では大激戦があった、無残に死んでいたひとがいた、あるいはアムステルダムでは何人ものユダヤ人が強制移送されいのちを奪われた、という具合に「要約」してはいけないのだ。一つの場所、ひとりのひと、一つの時間(何をしていたか)をむすびつけ、具体的にしていけないといけない。人間は、いつでも具体的な存在であり、具体をはなれて存在し得ないからである。
  「レイテ戦記」も「占領都市」も、大岡昇平やスティーブ・マックイーンにとっては、まだまだ「具体的」とは呼べないものかもしれない。ことば、映像にはかぎりがある。両方とも長い作品だが、どれだけ長くしてみても、そのことば、その映像からこぼれおちたものは限りなくあるだろう。記録すればするほど、記録できなかったものの「量」が逆に増えてくるように思えるかもしれない。
 そして、たぶん、その「増えてくる」ということが大事なのだ。
 私はレイテの惨劇、アムステルダムの惨劇とは無関係であると思っているが、その無関係であると思っているものがどこかでつながっているかもしれない。そのつながりはとても小さいかもしれない。しかし、同じ地球で起きたことであり、それが起きてから百年もたっていない。
 何もレイテ島やアムステルダムに限ったことではない。いま、まさに、世界でいろいろなことが起きている。そして、それを要約されたニュースとして私は知っているが、その要約からはみ出しているものは数限りなくある。それを全部知ることはもちろんできない。しかし、そうした「個別」の「具体」を意識しないといけないのだ。
 映画の中に、虐殺されたユダヤ人の名前を刻んだ壁が登場するが、その名前だけがすべてではないだろう。もっと多くの記録されていない名前があるだろう。だれも、そのすべてのひとを具体的に知ることはできない。しかし、その何人かを具体的に知っているひとがいる。その「具体性」を、どうやって引き受けることができるか。そのことを、観客は問われていることになる。
 大岡昇平は、死者によりそうだけではなく、批判すべきこと(ひと)は批判し、評価できるものは評価し、体験したことをできる限り「具体的」に記録しようとしている。その「具体」のなかに、私がどれだけ入っていけるか、たぶん一毫もはいっていけないだろう。それでも、私は読む。「具体」を忘れない、忘れてはいけないという大岡昇平の意志に触れるために。映画も同じである。二つの作品に描かれているのは悲劇であり、絶望だが、それが悲劇である、絶望であると意識することのなかにこそ「希望」があるのだと思う。

 

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「シネマ歌舞伎 ぢいさんばあさん」(★★★)

2025-01-04 17:50:03 | 映画

「シネマ歌舞伎 ぢいさんばあさん」(★★★)(2025年01月03日、キノシネマ天神、スクリーン1)

出演 片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村勘三郎

 正月なので、歌舞伎でも。でも歌舞伎は高いし、福岡では見ることができないので、「シネマ歌舞伎」で、その気分だけでも……。
 たいへんな人気だった。私のように考えたひとが多いのか、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村勘三郎という人気者の顔合わせに惹かれたのか。指定席なのに、入場前に列を作らされた。入場をスムーズにするためとか。(私のような高齢者が多いからかもしれない。入場も時間がかかったが、出るときはもっと時間がかかった。立ち上がり、コートを着て、手袋をして、忘れ物がないか確認して……。)
 映画は、というと。
 うーん、歌舞伎そのものをあまり見たことがないから、私の視点が的確かどうかわからないのだが。
 シネマ歌舞伎は、たしかに見やすい。表情もアップで見ることができる。あ、こんなところに体の動かし方に気を配っている、なるほどなあ、と関心もする。若いときのじいさんというのも変だけれど、片岡仁左衛門の座ったときの背中(背筋)の線がいかにも若くて美しい。じいさんになったときの、膝、腰の曲げ方というか角度も、品がある。とても美しく見える角度を保っている。乱れない。この姿勢の「維持」というのがすごいものだなあと思いながら見た。
 でも。
 歌舞伎だけに限らず、芝居というのはやっぱり「映画」ではだめだなあ。「空気」が動かない。先に書いた片岡仁左衛門の肉体、それが動くとき舞台の上の空気も動く。その空気の動きが劇場全体に広がっていく。それはちょっといいようのないものだが、何かしら直覚できる微妙なものがある。そばにいるわけではないのだが、役者の肉体が動くとき、それにともなって動く空気が私にまで伝わってくる。もちろんほかの観客にもつたわっていて伝わった感じが劇場の閉ざされた空気のなかで増幅する。これが感動になる。
 そして、それは何といえばいいのか、役者にも跳ね返っていく。たとえば、「じいさんばあさん」では、第三幕の、ふたりが「つらいことがあったけれど、幸せだねえ、これからもっと幸せになろうねえ」と語り合うシーン(実際に、そう言うわけではないが)では、歌舞伎座なら、きっと観客がすすり泣き、そのこらえてもこらえてもこらえきれない震えが役者に伝わり、また観客に跳ね返ってくるというような「共有感覚」が生まれる。
 観客が役者に声をかけ(大向こう.、と言うのだったっけ?)、役者が「どうだいいだろう」というように観客を見渡す、といような応答も生まれる。
 それが、シネマ歌舞伎では、生まれない。
 これは、「声」についても言えることで、スピーカーで増幅され、役者の口とは違うところから響いてくる「音」も、なんだか奇妙である。はっきり聞こえるが、はっきり聞こえればいいというものではない、ということだろうなあ。
 歌舞伎を見る予習(?)なら、それでいいかもしれないが、シネマ歌舞伎で歌舞伎を見た気持ちになったら、それは大事なものを見逃すことになるかもしれない。
 しかし、まあ、片岡仁左衛門は、うまいね。やっぱり「花」があるね。映画のアップが芝居を損ねない。スクリーンをしっかり引き締める。


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