詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫「抒情病」十八編(2)

2019-10-18 09:47:46 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「抒情病」十八編(2)(「博物誌」41、2019年10月01日発行)

 江代充『切抜帳』から山本育夫「抒情病」に引き返してみる。

9 最近

紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった

 視線が自然に動いていく。「見える」という動詞が二行目に出てくるが、一行目にも隠れている。書かないだけで、意識は「見える」を補っている。いたることろに「見える」を補うことができる。
 あるいは、こういった方が正しいかもしれない。

ことばのかたまり

 こんなものは、「見えない」。だからこそ、ここに「見える」を補うと山本の書こうとしていることがわかる、と。
 言いなおそう。
 この詩は、「見える」という動詞を消しても成立する。
 やってみよう。

紫陽花が咲いている
窓越しに
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった

 何か変わりましたか?
 最初の詩を知っているから二行目から「見える」が消えたことに気づく。しかし、「原典」を知らなければ、これはこれで詩として成立する。「見える」がないぶんだけ「不安定」になり、「叙情性」が高まるかもしれない。「見える」があると、「見る」主体としての「肉体」を感じる。そのために安心する。「見る」肉体(山本)に私自身を重ねあわせ、自分で見ている気持ちになるのだ。「見える」がないと「ゆれる」。「感じる」を補って読むこともできるからだ。「感じる(感じ)」とは、とらえどころがなく「ゆれる」ものだからだ。

紫陽花が咲いていると感じる
窓越しに感じる
風に揺れていると感じる

 これでは「超抒情」になってしまう。
 「見える」ではなく「聞こえる」だと、どうなるか。

紫陽花が咲いているのが聞こえる
窓越しに聞こえる
風に揺れているのが聞こえる
色彩のない
ことばのかたまりが聞こえる

 一瞬とまどうが、こういうとまどい(なぞかけみたいなもの)を「わざと」押し込むと、一気に「現代詩」にかわってしまう。西脇が言ったように「現代詩」とは「わざと」書くもの、ことばを「わざと」動かして見せて、そこにいままで存在しなかったものを出現させる運動だからだ。
 でも「聞こえる」だと「ことばのかたまり」が妙にくっつきすぎる。べたべたする。おもしろくない。
 やっぱり「見える」でないといけないのだ。一度だけしかたなしに書かれてしまうことば、作者の「肉体」のなかにしみこんでしまっていて、無意識で動くことばを私はキーワードと呼んでいるが、この詩では「見える/見る」という動詞がキーワードである。
 「見えない」ものが「見える」。「ない」が「ある」というギリシャから始まった「哲学」(理性の運動)がここにある。そして、その運動のテーマは「ことば」なのだ。「見える」と緊密に結びついて「ことば」もキーワードになっている。「ことば」という表現を削除すると、この詩は成り立たない。
 もう一度やってみよう。

紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
かたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった

 ほら、単なる「風景」になってしまう。「抒情詩」というより「情景詩」か。この「情景詩」にすぎないものを「詩(あるいは抒情詩)」にしているのが「ことば」という表現なのである。
 ここがポイント。

 であるだけではない。
 このポイントを簡単に指摘できるのは、実は、山本のことばが非常に「論理的」な動線を描いているからだ。部屋の中から視線(見る、という動詞)は外へ出ていく。それは引き返したりはしない。停滞しない。突っ走る。そして、これは単なる私の思いつきでテキトウな印象になるのだが、この論理的なスピードの正確さは、吉本隆明のことばのスピードに非常によく似ている。
 ここに江代のことばの運動との違いがある。江代はスピードを正確に守るのではなく、「歩幅」を正確に守る。対象との「距離」の取り方を正確に守ると言いなおしてもいい。スピードというのはだんだん「加速」するが、「歩幅」は「加速」しない。広がったりしない。その、一種のじれったいような「停滞」が江時の「抒情」である。
 山本にもどって、加速する抒情、スピードを上げた結果、おいおい、どこへ行ってしまうんだとあきれかえさせる「脱線」の例を引用しよう。高く評価したいときは、一般に「飛翔」と言うのだが、私はあえて「脱線」ということばをつかっておく。その方が、今回の山本の詩の「暴力のやさしさ」に似合うからだ。

14 干し場

オオ!サンショウウオ
ことばの体力が
落ちている
謎解き探偵は
明け方の光を浴びながら
注意深く表皮に
巣食っているそれを
ピンセットで
つまみだす
(よくここまで成長したね
(たいしたもんだ
潮風をうけながら
静かに乾燥していく
ことばの
干し場

 強引にストーリー(意味)をつくれば、サンショウウオを見た。でも、それをどう詩にしていいかわからない。「謎解き」のように「答え(詩)」を組み立てられない。それでもそこにサンショウウオは「ある」。ことばにならないまま、ことばも「ある」。「ない」のは詩だ。で、「ある」ものをとりあえず動かしてみる。何が動くか。
 「(よくここまで成長したね/(たいしたもんだ」はオオサンショウウオに対する「感想」かもしれない。それはたまたまオオサンショウウオに向けられているが、ほかの対象でも言えることでもある。ことばの、使い回しだね。つかいすぎては汚れる。汚れたら洗濯する、洗濯物は乾かさないといけないと考えたのどうかわからない。単に水のなかにいるサンショウウオを見て、水とは反対のことを想像し、「干し場」を思いついたのかもしれない。
 この変な「結論」は、簡単に言えば、「暴走」である。悪口風に言えばデタラメである。でも、それをデタラメと感じさせないのは、ことばのスピードが加速していくという運動をとっているからである。ブレーキをかけたりしないのだ。デタラメであるからこそ、それを放り出してしまう。
 江代のように、引き返し、引き返すという行為を「肉体」の運動だけではなく、「内面」への運動に転換させ、そこに「抒情」(感情の深まり)を生み出そうとはしないのだ。
 あ、でも、こんなことを書くと、山本は引き返すという運動をしないのか、「引き返しの抒情」を書かないのか、というとそうでもない。「18 蝉しぐれ」は「いま」「ここ」から動き始めて、「遠く」へ行くことが「過去(記憶)」になり、それが「いま」噴出してきて世界が新しく輝くという感じの詩だ。どういう詩か。なぜ、それを引用しないのか。うーん、時間がなくなったということなのだが、「いい詩だから、みなさん、私のことばに汚される前に、博物誌で読んでください」と宣伝して終わりにしよう。


 



*

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高井 ホアン『戦前不敬発言大全』

2019-10-17 23:15:29 | 詩集
戦前不敬発言大全: 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説 (戦前ホンネ発言大全)
高井 ホアン
パブリブ



高井 ホアン『戦前不敬発言大全: 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説 (戦前ホンネ発言大全)』(合同会社パブリブ、2019年05月24日発行)


とてもおもしろい。
いまの人間は「言論の自由」を信じているが、昔のひとの方が「自由」だ。
憲兵に取り締まられたかもしれないが、そして実際に拷問で死んで行ったひともいるが、なんといっても「精神が自由」だ。
言い換えると、「批判力」がある。
いまの日本は「批判力」をなくした人間しかいない。
「批判」をしないから、圧力をかけられない。
それだけのことなのに「自由」だと思い込んでいる。
それは愛知トリエンナーレを見ただけでもわかる。
天皇と自分を同一視した画家が、他人に作品(天皇)が焼かれるのは我慢ができない。自分で焼いて「浄化」しただけなのに。
この本の172ページに、

天皇ハ一介ノ「オメコ」スル動物ナリ

という文言が書かれている。
こういうことを「文書」にするだけの「自由」が、いまの日本にはない。
天皇は人間である、という視点でみつめる「批判力」がなくなっている。
自分で自分の「自由」を捨てているのが、いまの日本人だと思う。
戦前(戦中)は、みんな死ぬか生きるかの「真っ只中」にいたから、真剣にことばを発している。
自分の考えたことを、自分でことばにしている。
そこに「精神の自由」と「批判力の健康」を見る。
いまこそ読まれるべき一冊である。

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「遠近を抱えてパート2」 について(再追加)

2019-10-17 22:55:24 | 自民党憲法改正草案を読む

「遠近を抱えてパート2」 について(再追加)

YouTubeでみた大浦信行の「遠近を抱えてPart2」には少しわからないところがあった。
山本育夫さんが紹介してくれたビデオで作品の背景が分かった。

https://video.vice.com/jp/video/nobuyuki-oura/59e0485e177dd454fe3412f1?fbclid=IwAR09Yk3YCqetKKcKkOrNjZrj4c6W5_yQc3XnMNUoEjTimF6Bjl6K9SZs_5E

「遠近を抱えてPart2」に先立つ作品がある。「遠近を抱えて」である。その作品は
①富山の美術館で展示された。展覧会が終わった後、富山県議会で作品が批判され、最高裁まで争った。そして、その後(?)、展覧会の図録が焼却された。
②「遠近を抱えてPart2」は、そういう経緯を踏まえて作られている。
なぜ、大浦は「遠近を抱えてPart2」で作品を焼いたのか。
理由は簡単である。大浦にとって天皇は大浦自身なのである。大浦はアイデンティティを天皇に直結させている。日本の感情、情緒、精神もすべての天皇を中心とした「遠近法」のなかにある。それが「遠近を抱えて」で大浦が表現したことだ。(ポエティックというようなことばを使って、大浦は「遠近を抱えて」を紹介していた。桜とか入れ墨とか、日本のポエジーが天皇の周辺で、一点透視とは違う遠近法、縄文の渦巻き、らせんで構成されている、というのが大浦の「哲学」だ。)
ところがその作品図録が焼却処分にあった。これは大浦には、大浦自身が否定されたように感じられた。きちんとした「批評」で否定されたのではなく、芸術を理解しない人間によって、無残に否定された。大浦自身だけではなく、大浦が「一体」と感じている天皇も「無知」によって踏みにじられた。理想の「遠近法」も否定された。)
何としても、天皇と大浦自身を「無知」から救済しないといけない。彼の「芸術」のすべ
てを救済しないといけない。
どうするか。
大浦自身の手によって、「完璧」に死へと昇華させる。「もの」ではなく、「精神(霊)」にまで高めるのである。それが焼くことであり、灰を踏みにじることなのだ。もう、「無知」な人間には「大浦自身である天皇」の作品など見せない。
大浦は、そう決意したのだ。そして彼一人で「儀式」をしたのだ。
天皇の「評価」はいろいろあるだろう。大浦は、天皇は日本人の精神を戦争によって高めたと感じているのだろう。稲田なんとかという国会議員のように。その「証拠」として従軍看護婦の少女の手紙を「パート2」の中に抱え込んでいる。大浦は、少女の手紙を紹介することで、彼自身が「少女」になって、天皇の命ずるままに戦地に行き、血まみれになって死ぬのだ。彼女の遺体(遺骨)は日本に帰ってきたか、たぶん帰ってこない。その少女も、同時に「美しい霊」にしてしまうのだ。天皇と戦争というものがなければ、少女の精神は「美しい霊」にはなれなかった。天皇のおかげで「靖国の霊」になれた。
この作品のなかで、大浦は、生きていながら「靖国の霊」になっているのだ。
とんでもない作品だ。
この作品を批判している人は、天皇の写真が焼かれている部分だけしか見ていないのかもしれない。もしかすると、その部分も見ていないかもしれない。
天皇の肖像は、写真のコラージュのようにも見えるが、大浦が描いたものにも見える。自分が描いたものが気に食わなくて、破ったり焼いたりする人は多いだろう。そうすると「完璧には描けなかった天皇」を焼くということは、不謹慎なことではなく、天皇を愛するひとなら当然のことかも知らない。「完璧な天皇の肖像」だけを提供したいと思ったから焼いたということもあるのだ。
「表現の自由」が話題になった作品だが、この作品を他の画家たち、この作品を実際に見た人たちはどう見ているのか。作品に対する感想を聞いてみたい。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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「遠近を抱えてパート2」 について(追加)

2019-10-17 06:40:48 | 自民党憲法改正草案を読む
「遠近を抱えてパート2」 について(追加)

この作品の印象は先に書いたが、どうにもわからないことがある。
この作品の天皇の肖像は、たしかに昭和天皇をかたどっているが、それは「写真」なのか、それとも「描いたもの」なのか。そして、「描いたもの」だとしたらだれが描いたのか。
作者自身が描いたのだとしたら、この作品は「逃げ道」を用意している。
「天皇の肖像を焼くのは許せない」という批判に対して、「天皇を描いたが、うまく描けなかった。だから失敗作を焼いた」と言い逃れができる。失敗作であっても、天皇の肖像であるかぎりはそれを大事に保存しなければならない、というのはあまりにも無理がある。批判するひとは「しかし、焼いているところを公開しなくてもいいじゃないか」というかもしれない。これに対しては「失敗作をごみとして他人の処理にまかせるのではなく、自分で責任をとって処理していることを明確にするため公開した。自分の作品に責任を持っている」ということもできる。論理はいつでも、どんなふうにでも完結させることができる。論理というのは「後出しじゃんけん」なのである。
こういう「後出しじゃんけん」を用意しているものは「芸術」としては「うさんくさい」ものがある。
そういうところにも、私は、かなり疑問をもつ。

そして、これから書くことは作品そのものとは関係がないが。「天皇崇拝」思想に関する疑問である。
天皇制は正しく言えば「父系天皇制」である。
正妻のこどもであっても女子は天皇になれない。側室のこどもであっても男子なら天皇になる。そこには「男尊女卑」の思想がある。
男子を生んだ側室は、「歴史」にきちんと書かれるかもしれない。正妻の生んだ女子も「歴史」に書かれるだろう。しかし女子を生んだ側室、側室から生まれた女子はどうなるのだろうか。
私は「歴史」にはうといのでよくわからないが、たとえ書かれたとしても「父系天皇制」の脇に追いやられ、名前がふつうのひとの口にのぼるということはないだろう。
「男尊女卑」を前提とした「家」制度が、ここに隠されている。そういう「家制度」をそのまま「理想」として受け入れることに、多くのひとたちは納得しているのか。
とくに「天皇制」を支持する女性は、このことについて「理不尽さ」を感じないのだろうか、と疑問に思ってしまう。

で、先に「これから書くことは作品そのものとは関係がない」と書いたのだが、「男尊女卑」を出発点にして考え直すと、いま書いたことは作品と深い関係を持っている。
この作品では、従軍看護婦の手紙が朗読される。どうも死んだらしいことが暗示される。さらにチマチョゴリを着た韓国女性らいしシルエットが「紙人形」で表現されている。背後に韓国語らしい歌が聞こえる。
女性の死と天皇が結びつけられている。
女性の死は「必然」のように描かれている。
でもそれは「必然」と認めていいのか。
もちろん、戦闘で死んだ男子以外の犠牲者に目を向けさせるためにそうした、という論理は成り立つ。
しかし、やっぱりよくわからないのである。
「論理」というよりも「情緒」を刺戟しているだけなのではないか、という「うさんくささ」が残るのである。

また別の疑問も残る。
私はあるブログで、この作品は「どんど焼きのとき燃やした新聞にたまたま天皇の肖像が写っていたようなものだ」というような感想を読んだ以外には、「批評」を目にしていない。
感想、批評さえも、そこに天皇が登場するのは問題なのか。
天皇について語ることは、なぜ、問題なのか。
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江代充『切抜帳』

2019-10-17 00:00:00 | 詩集
切抜帳
江代 充
思潮社


江代充『切抜帳』(思潮社、2019年09月30日発行)

 江代充『切抜帳』は「叙事詩」か「抒情詩」か。感情の動きというよりも、肉体の動き、視線の動きに重心を置いているので「叙事詩」ということになるかもしれない。
 「木切れの子」という作品。この作品については書いたことがあるかもしれない。でも、書いてみよう。前に書いたことと、まったく違うことを書くかもしれない。

出掛けたあと
一面に畑地の見える
目先にちかい所に仮小屋があった

 なんでもないような書き出しだが、とても「くせ」がある。「出掛けたあと」とあるが、だれが出掛けたのか。これはたぶん、作者が外に出たということだろう。ふつうは自分のことを「出掛けたあと」というような奇妙な言い方で「客観化」しない。
 そのあとの「一面に畑地の見える」というのも、「くせ」がある。「見える」という動詞をつかうにしても、ふつうは「畑地が見える」だろうし、わざわざ「見える」とは言わないだろう。「一面に」ということばもとても奇妙だ。わざと「一面」「見える」と言って、「視線」を広げた上で、その動きをねじまげるように(引き返すように)「目先にちかい」ということばを動かす。ことばにあわせて、私は「肉体(視線)」が奇妙にねじれるのを感じる。ことばが「感情」ではなく、「肉体」の動きをなぞるように動いていると感じる。

一度その前を過ぎ
山へ向かう奥の草地のほうへ抜けてしまうと
遠くなった小屋の正面は見うしなわれ
こちらに傾いた小さな屋根の上に
拾われた細枝のバラ束がおおまかに敷かれていて
その内から所所
間を置いて跳ね上がる小枝の列が
上方へななめに傾き
か細い茎の柱のように突っ立っていることが分かる

 「動詞」が非常に多い。「その内から所所」以外にはかならず「動詞」がある。そのなかには「傾いた小さな屋根」のように修飾語として働いていることばもあるが、そのひとつひとつが「動詞」であるがゆえに、「肉体」をひっぱりまわす。それにしたがって「正面」は「見うしなわれ」、「正面」ではないものがあらわれる。つまり、普通は意識しないもの「内」(内面)が、内面ではなく「外面」としてあらわれる。いや、逆か。ふいにあらわれた「正面」以外の「外面」が「内面」として「肉体」のなかへもぐりこみ、往復する。出たり、入ったり。行ったり、引き返したり。往復だ。それを繰り返していると「見える」「見うしなわれる」が、「分かる」にかわる。「分かる」とは「意識化される」ということである。「肉体」のなかに、それが入ってくるということだ。
 「分かる」というのは、「予兆」のときもあるし、「現在」のときもあるが、過去になってから「分かる」というものもある。
 だから、こんなふうに言いなおされる。

あとになって
遠く空にいるヒバリがしずかに先を越し
わたしもそこへ引き返すとき
牛やうまや飼い葉桶のある
あの仮設小屋の内側に宛てがわれている
新しく設えられた
よろこびの素材の板の一つに触れようとする

 「見たもの」が「肉体の動き」にあわせて「肉体」のなかにしまいこまれる。この「しまいこみ方」は、先日読んだ山本育夫の「抒情病」とはずいぶん違う。山本は「知性」でととのえた。それを内部にためこむのではなく、外へ出しつづけ (ことばにしつづける)、肉体と感情の健康を保つ。一方、江代は「知性」を遠ざけ、「肉体」の動きにこだわっている。「先を越す」「引き返す」「宛てがう」「設える」、そして「触れる」。「触れる」は「目で見る」ではなく「手で見る」ということだな。そのとき、肉体の内部にためんこんだものが、ふいに「よろこび」、つまり「感情」となってあふれる。
 「叙事」が「抒情」に転換するのだ。

 この奇妙な文体は、山本育夫の『ヴォイスの肖像』の切断と接続の感覚に似ていないこともないが、いちばんの違いは、山本の切断と接続が「意識」の運動であるのに対して、江代の場合は、どこまでも「肉体」であるということだろう。「肉体」はけっして切断されないし、接続できない。あえていえば「接触」しかできない。その運動のなかで、「意識」はゆっくりゆっくり、ときには滞ったり引き返したりしながら、「自己」を守る。そして最後に、息をするように「抒情」を吐き出すのだ。

 ここから、また山本育夫へ引き返してみるのもおもしろいかもしれない。これは後日の課題だ。


*

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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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愛知トリエンナーレの「問題作」

2019-10-16 19:09:17 | 自民党憲法改正草案を読む
https://youtu.be/WSM9PSOsOFY

「遠近を抱えてパート2」をユーチューブの画像で見た。

どうしてこれが天皇を侮蔑していることになるのだろうか。
たしかに天皇の肖像はバーナーで焼かれている。
だから、天皇を蔑視している?

私はまったく逆にとらえた。
天皇を崇拝するな、というか、天皇を批判しないで戦争を語れないじゃないか、と怒りを感じた。

途中に少女が出てくる。従軍看護となって戦地へ行く。その手紙が読み上げられる。
海のなか(波打ち際)に立っている。海のいろは砂で濁っている。まるで血のように赤い。それは少女が死んだことを暗示している。
この少女、何の罪もない少女が戦争に奉仕させられて死んだのだ。
そのことを「美化」するために、天皇という存在が利用されている。少女の手紙のことばは「天皇の存在」ぬきでは成立し得ない美しさである。
それなのにその戦争を引き起こした天皇は、炎で焼かれてまるで存在しなかったかのように、消えていく。
「焼く」という行為のなかに、どんな「批判」も感じられない。

後半に、少女が砂浜で焼け焦げた写真を拾う。その写真は天皇の写真ではなく、見知らぬ少年(?)のものだ。
それを少女は慈しむようにかざす。
だれか、同じように、遠い戦地で死んでいった少女の写真を手に取って、少女のことを思うひとがいるか。
おそらく「肉親」だけである。「肉親」以外のひとは、少女のことを思い出さない。

これは「理不尽」だろう。
「天皇の肖像」は日本中にあふれ、みんなが「天皇」のことを知っている。そして、多くのひとが「天皇陛下万歳」と言って死んでいった。
その天皇が生き残り、なお敬われている。
少女のことは、だれが敬うのか。何人が敬い、思い出すのか。

「焼く」という行為には、「火あぶり」というものがある一方、その存在を別の次元に高めるというものもある。
「火葬」というのは後者であるだろう。
ここでは作者は「天皇の火葬」をしている。
火葬することで、犯罪者である天皇を「霊」に高めている。
そこにはどんな「批判」も「憎しみ」もない。

この少女は、きちんと火葬され、その「霊」を清められたのだろうか。
そのことを想像するだけで、「天皇」と「少女」の違いの理不尽さに怒りが込み上げてくる。

名古屋市長や、この作品を批判しているひとは、いったい何を考えているのだろう。
私は天皇崇拝者ではない。天皇制度はなくすべきだと考えている。
もし私が天皇崇拝者なら、この作品に感謝するだろう。
親元を離れて死んでいった少女を、「美しい手紙」という形閉じ込め、その「手紙のことば」をととのえる力としての「天皇」を讃美し、その存在を「焼く」という行為を通して、批判の彼方へ消してしまっている。
これでは、いったいだれが、どうやって天皇を批判すればいいのか。
批判封じの作品ではないか。

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ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

2019-10-16 00:05:24 | 映画

ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

監督 ダニー・ボイル 出演 ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ

 これは何というか、イギリス以外では絶対つくることができない「味」を持った映画。どこが「イギリス味」かというと、みんな、相手がだれであろうが自分の「身分」を離れないということ。うーん、イギリスというのは徹底的に「階級社会」なのだ。自分の属する「階級」とは「親密」につきあうが、そうでなければ知らん顔。たとえ知っていても、知らない顔をする。これは逆の言い方をすると「分断社会」、「個人主義の社会」ということにもなるのだけれど。
 象徴的なのが、主人公ヒメーシュ・パテルの歌(といってもビートルズの歌)だけれど聞いたシンガー・ソングライターのエド・シーラン(本人/私は知らないけれど、有名人らしい)が主人公の家を尋ねてくる。主人公の父親は、彼を見ても「エド・シーランに似ているなあ」「本人だよ」「ふーん」という感じ。「階級(住む社会)」が違うから、何の関係もない。たとえ有名人だとしても、それがどうした?という感じ。主人公にとってはびっくり仰天だが、それは主人公とエド・シーランとの関係であって、父親とエド・シーランは無関係。言い換えると、究極の個人主義とも言える。(「ノッティングヒルの恋人」にも似た感じの味がある。大女優・ジュリア・ロバーツとイギリスの普通の男が恋愛するけれど、それでどうした、という感じで周囲が見ている。)
 だから、というと奇妙に聞こえるかもしれないけれど。
 ヒメーシュ・パテルが「新曲」と言って家族に「レット・イット・ビー」を弾き始める。でも最初の部分だけで、つぎつぎに邪魔が入って最後まで歌えない。家族や父親の友人は「聞きたい」とは口では言うが、真剣に聞く気持ちは全然ない。どうせ、つまらない曲、自己満足の曲だと思っている。思っているけれど、口にはしない。この「個人主義」もなかなかおもしろい。日本だと、「聞きたい」と言った手前、最後まで聞く。でも、イギリスは気にしない。聞く方には聞く方の「事情」がある。そっちを優先させてしまう。ヒメーシュ・パテルは「家族」だけれど、音楽という違う「階級」にも属していて、そんなもの私の知ったことじゃないと、両親も、その友人も、どこかで思っている。
 最後のコンサートシーン。父親が楽屋(といっても、ホテルの一室)を尋ねてくる。そこで何をするかといえば、皿に載っている手つかずのサンドイッチを見つけて「それ、全部食べるのか」と息子に聞く。ヒメーシュ・パテルは、父親に全部やってしまう。いったい全体、これはどういう親子? でも、これがたぶんイギリスの「親子関係」なのだ。一緒にいても、それぞれの「領域」があり、個人と個人の「つきあい(社交)」がある。それを優先する。つまりは「個人」を優先する。
 これが映画(ストーリー)と何の関係がある?
 とっても深い関係がある。この奇妙な「個人主義」(階級の分断)と共存こそが、この映画の神髄なのだ。
 ビートルズ。世界のアイドルだが、イギリス人にとっては世界と共有する音楽でとはなく、あくまで個人とビートルズの関係にすぎないのだ。「すぎない」と書くと語弊があるが。あくまでひとりの人間としてビートルズが好き。他のひとがビートルズが好きであっても、その「好き」はひとりとは関係がない。「個人」とビートルズが音楽を共有するのであって、「個人」が「大勢のファン」と共有するものではないのだ。
 このことをはっきりと語るのが、ビートルズを知っているふたり。ふたりは、ビートルズを知っていて、そのことをヒメーシュ・パテルに告げに来る。「盗作」というか「剽窃」だと知っているけれど、非難しない。逆に、「ビートルズを世界に広げてくれてありがとう」と言う。ビートルズと世界のひとりひとり(個人)がつながる。そのことに悦びを感じている。ちょっとイスラム教徒の神と個人の関係に似ているかなあ。そこにあるのは「個人契約」だけ。あくまで「個人」がビートルズを楽しむ。
 アメリカの音楽業界の「一致団結」してビジネスにしてしまう感覚とは大違い。
 ヒメーシュ・パテルはアメリカ資本主義が提供する大成功をほっぽりだす。全部の曲を無料ダウンロードできるようにして、ヒメーシュ・パテルは「自分」にもどって行く。みんなが好き勝手にビートルズを楽しめばいい。大勢で楽しむのはそれはそれで楽しいが、「個人」で楽しんでもいいのだ。みんなで楽しまないといけないというものではない。
 いいなあ、この「愛し方」。「階級」で分断されているから、「独立」というか「自立」の精神も強いのだ。「個人」でいることの「自由」を知っている。たしかに自由は「個人」であることが大前提だ。ダニー・ボイル監督は「私はこんなふうにビートルズが好き」と、自分のビートルズの愛し方を映画にしたのだ。
 ジョン・レノンとの出会い、会話の部分も、そういうことを語っていると思う。
 イギリスの「個人主義」はいつ見ても美しいと私は感じる。絶対に自分を離れない。生まれ育った世界に自己という足をくっつけて生きている。ヒメーシュ・パテルが、ビートルズの「ことば」を思い出せなくて、リバプールを尋ね歩くことも、そういうことを象徴している。知っていることしか、ことばにできない。(ということを、ビートルズを覚えているふたりが主人公に語る。)ビートルズが、なんとも不思議な形でスクリーンいっぱいに広がる。ビートルズを聞きながら、イギリスへ行ってみたくなる、ビートルズの歩いた場所を歩きたくなる映画だ。

 (2019年10月15日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)


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山本育夫「抒情病」十八編

2019-10-15 18:29:51 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「抒情病」十八編(「博物誌」41、2019年10月01日発行)

 山本育夫「抒情病」十八編は、フェイスブックでタイトルを見かけ、とても気になっていた。「抒情」は病気か。と、書くと、とたんに「抒情病」という病気があるのか、という意識を破って「抒情が病気になっているのか」ということばが、私の「肉体」のどこかからか飛び出してくる。書くまでは、そんなことは一度も思ったことはないのに。
 さて、どっちのことを山本は書こうとしているのか。いや、私は、どっちを読みたいと思っているのか。

1 手術

(花鳥風月はあぶない
ことばに浸食してきたら
注意深く手当てをする)
かかりつけの医者は
声を潜ませてそういい
手術台にのせて
切開手術をはじめた
切り口からもうもうと
情緒があふれ出す
あぶないけど
魅了される匂いだ

 「花鳥風月」が「抒情」か。それが「ことばに侵入してきたら」「手当てをする」。こういう「論理」で読み取れば、「抒情」という名の病気があり、それはことばにとっては「あぶない」病気ということになる。
 そのあとも、同じ調子で読み進めることができる。「切開手術」をすると「情緒があふれ出す」。「抒情」は「情緒」と言いなおされている。「もうもう」というのは「抒情」とはとらえどころがないものだ、ということを意味しているかもしれない。とらえどころがないからこそ、「あぶない」。そして「魅了される」。「もうもう」はいつの間にか「匂い」にかわっている。「あぶない」は感染力の強さを語っていることになるが、一方的に病が襲ってくるのではなく、「ことば」の方も罠にかかったみたいに近づいていくということがあるのだろう。
 考えるとめんどうくさいが、こういうめんどうくささをひきよせてしまうのが「抒情」の特徴の一つである。「抒情」は「感情」をあらわしているようで、意外と「ととのえられた感情(知性によって整理された何か)」を指し示している。「ととのえ方」が「情緒」であり、「知的」でなければ「抒情」ではない、のかもしれない。だから「抒情病」というのは、もしかすると「感情」ではなく「知性」の病なのかもしれない。あからさまな感情、むき出しの感情を「抒情」と呼ぶことはないからね。あるいは、こんな風に「分析」してしまう私が「抒情病/知性で世界をととのえようとする病」そのものにかかっているのかもしれないし。
 問題は、そのあとだな。終わりの四行。
 
菌類まで届けば
抒情病はなおる
医師はそういって
ことばにそれをふりかける

 突然「菌類」ということばがあらわれる。同時に、ことばが大きく転換するのを感じる。「医者」が「医師」へとことばを変えていることからも、それがわかる。もっとも、この「医者」と「医師」の書きわけは、どこまで意識化されているか、疑問ではあるが。
 「切開手術」をしたのは「抒情」を取り出すため。「抒情」を取り出したのは「ことば」の病気(抒情病)を治すため。がんを手術で取り出すようなものだ。がんならば、取り出した段階で、いったんは「治る」。でも「抒情病」は、それだけでは不十分である。あふれ出した「情緒」が「菌類」に届かなければ、治らない。
 これって、かなり奇妙な「論理」である。
 で、そう感じた瞬間、最初に書いたことが思い出される。「抒情病」は病気の名前なのか、それとも「抒情」が「病気」という状態なのか。「抒情」そのものが「病気」であり、それを治療するために「菌類」をふりかける。このとき「抒情」は「ことば」と同じ意味を持つ。
 あれっ、そうすると、やっぱり「抒情」という名の病にかかっている「ことば」がなおるということにもどってしまう。

 私は、どこで間違えたのか。どこから「迷路」に迷い込んだのか。

 簡単だ。「論理」で詩を読み進めようとしたところから間違えている。「論理」をおいつづけたために「迷路」があらわれたのだ。
 これは逆な言い方をすると、「論理」を追いかけていけば、ことばは「抒情病」に簡単につかまってしまうということだ。先に少し書いたが、「抒情病」というのは、やっぱり「感情の病気」ではなく「知性の病気」なのだ。
 「知性」とは「ことば」とほぼ同じ意味でもある。「知性」は何かを明確にするために、ことばに圧力をかける。ことばが指し示しているものをありのままの状態ではなくしてしまう。「比喩」にしてしまう。
 この詩には「抒情病」をはじめ、それにつらなるようにいくつもの「比喩」がある。「手術」が「抒情病」のふたつが組み合わさって、その組み合わせのなかに「手当て」とか「医者」を抱え込み、構造を明確にしながら、同時に複雑化する。迷路化する。

 では、この「迷路」を抜け出すためにはどうすればいいか。蹴飛ばして、そんなものなどなかった、この作品は存在しない、ということにするしかない。禅問答のようだが。「考案」への禅僧の、ひとつの答え方のように。
 でも、わたしはもう、ここまで書いてしまった。書いてしまったことは、たとえ全部削除したとしても、私の「肉体」のなかに残る。
 だから、私は、それをかかえたまま、詩を読み続ける。

2 声

ギシギシと
クルミのからを脱ぐように心を脱ぎ
長い髪が漂う空に
身を潜めている抒情!
巨大なそれを袋詰めにして
つぎつぎにパンパンと割っていく

 あ、これでは、まさに「考案」を蹴飛ばして席を立つ禅僧ではないか。「そんなものなど存在しない」。「無」だけがある。「無」が答えだ、というような。

おおそれならわかる
それならわかると
遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる

 「無」とは何か。あるがままの「自然」である。私は禅僧ではないから、テキトウなことを考える。「わかる」とは受け入れることである。何もつけくわえずに、それを受け入れる。
 この詩には、そういう気持ち良さがある。禅僧の「悟り」とは、こういう感じかなあ。また、私はテキトウなことを書く。こういうとき、「無知」というのは都合がいいなあ、と自分のことながら感心してしまう。「禅」と向き合ったことがあるひとは、私のように簡単に(テキトウに)、こんなことは書けないだろうなあ。

3 猫とは

その朝
日だまりを見ると
驚いたことに
ことばが
ほっこり猫のかたちになって
吹きこぼれている

 ここにも「ことば」が出てくる。「ことば」が「対象」を指し示さず、「ことば」であること自体を問題にしている。
 山本は、こういうことを「抒情病」と呼んでいるのかもしれない。
 「ことば」は一義的に「もの」を指し示す。でも、「もの(存在)」を指し示さずに、「ことば」を動かしている「意識」そのものを指し示し、その指し示し方を問題にするというのが「抒情病(ととのえられてしまった感情)」である。これはもちろん「知性の病」である。「感情」は「感情」をととのえるとうめんどうくさいことをしない。「感情」は「感情」を暴走させるものである。
 「ことばが/ほっこり猫のかたちになって」までは、まだ「比喩」である。しかし、それが「吹きこぼれている」は「比喩」を逸脱している。「吹きこぼれ」たなら、そこに形はない。形を超えていくことが「吹きこぼれる」だからである。でも、「ことば」はそういう「ありえない」ことを語る(書く)ことができる。「ありえない」は「無」なのか、それとも「無」を超えた「絶対有」なのか。その「絶対有」こそが「無」かもしれないし。と、私は、またまたテキトウな知ったかぶりを書く。私のことばは「知ったかぶり」が好きなのである。
 ひとつ省略し、

5 こと橋

その橋は危(あや)ういことばでつくられているから疑うと
崩れおちるおたがいをつなぎあわせていることばしことば士
という仕事をしている三大さんは毎日ことば練機でことば
をねっているそれをポケットに入れて明け方の路地に放り投
げている

 「こと橋」は「ことば、し」であり、「ことば、士」である。「こと橋」には、「ことば」と「し」が隠れている。隠れながら、あらわれている。隠れているものを見るか、あらわれているものを隠すか。
 前号の書き下ろし詩集「ごはん」のときは「ノイズ」について書いた。今回の詩は「ノイズ」とは逆のものが書かれている。「ノイズ」が「有」なら、今回書いているものは「無」だ。「論理」が論理的であろうとして、解体してしまう瞬間というものがある。それを素早いスケッチのように「放り出している」。山本はこの詩では「放り投げている」と書いているが。

 で、ここまで書いて思うのだが、あれ、「抒情病」って、どこへ消えた?
 たしかに最初の作品では「抒情」も「病」と登場したが、山本のことばは、それを患っているようには感じられない。

遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる

 というような描写は「抒情」に似ているが、ぜんぜん違ったものだ。「響きわたる」が万葉のことばのように強い。古今、新古今のように「耳元」で聞かせる「音」ではない。ここには「健康」しかない。「抒情病」を蹴飛ばして生きているぞという宣言が「抒情病」ということばに込められているのかもしれない。




*

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宮せつ湖『雨がふりそう』

2019-10-15 00:00:00 | 詩集
雨が降りそう
宮 せつ湖
ふらんす堂


宮せつ湖『雨がふりそう』(ふらんす堂、2019年09月20日発行)

 宮せつ湖『雨がふりそう』は「抒情詩」である。たとえば「汀」の後半。

砂浜に群れる
白い小さな花は
特別な夜空が好きなのでしょう
閉じることを 忘れています

濁音が砕け 零れ散る音
同時に たくさんの私がよみがえる音
あなたとの 花火の時間
花火の時間 あなたとの

水、
水の音
花火と花火の間を打つ汀の水音に
どうして気づいてしまったのでしょう わたし

 美しいことばが丁寧にととのえられている。「濁音」ということばさえ「零れ散る」ことで美しい軌跡を残す。「たくさんの私がよみがえる音」とは高鳴る胸の鼓動だろう。もし「あなた」が「花火と花火の間を打つ汀の水音に」気づくなら、きっと「私の胸の鼓動の音」にも気づくだろう。「私の鼓動」は「花火と花火の間を打つ汀の水音」のように、それを聞くひとには聞こえるのだ。
 この聴覚の繊細さに私は驚くが、好きなのは「初蛍」。

蛍は月明りを嫌うという

闇に燈る蛍のいろは
月の光と同じいろ
ふぉろうふぉろうと祖先が零すいろなのに
どうして?

黄々々々黄々々々々
ほそく小さく蛍の声
黄々々々黄々々々々

 「ふぉろうふぉろう」という「音」が私にはわからない。やわらかくつかみどころがない。宮の他の詩にでてくるフルートの音がここに隠されているかもしれない。私にはわからないが宮には、それ以外のことばではあらわすことのできない「必然」としての音の形。それを感じる。
 そのあとの「黄々々々黄々々々々」も、とても変である。「ふぉろうふぉろう」が「音」から「形(蛍が飛ぶときの軌跡)」になるのだとしたら、「黄々々々黄々々々々」は蛍の明かりが消えたりともったりしながら「音」にかわる様子を描いている。
 どちらも「むり」がある。
 言い換えると、これはそのままでは他人につたわらない。つまり、そこに書かれているのは学校で習う「共通語」とは違うことばである。だからこそ、そこに詩がある。「共通語」ではいえない宮の必然としての、「宮語」というものがある。
 宮は、ことばをととのえ整理しているのだが、まだそこには整理しきれない「不純物」があり、そしてその「不純物」がもっとも透明であるという矛盾もある。この矛盾のなかに「抒情」がある、ときょうは定義しておく。


*

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今野和代『悪い兄さん』

2019-10-14 00:28:25 | 詩集
悪い兄さん
今野 和代
思潮社


今野和代『悪い兄さん』(思潮社、2019年09月30日発行)

 今野和代『悪い兄さん』の巻頭の「ひかる兄さん」は傑作である。

「かくめい は 腐りました」
暗たん色の失つい。うつろ。
じゅくと、きょだつと、もんどりを、
喉いっぱいにふりつもらせながら。

 書き出しの、この四行には「傑作」の予感がある。というのは、いいかげんな私の感想である。正確にいえば、「何が書いてあるかわからない」。しかし、何かことばになろうとするものが、ことばになる前の「声」として書かれている。
 「かくめい は 腐りました」と言ったひとは、革命を夢見ていた。しかし、失敗した。あるいは失望した。そのひとのなかには、いろいろな思い、感覚がうずまいている。そのひとつが「虚ろ」、あるいは「虚脱」。でも「じゅく」とは何か。わからないなあ。わからないから、ここには「ほんとう」があると感じる。私は、この詩に書かれているひとのことを知らない。だから「わからない」ことがあってあたりまえなのである。私が「わかったつもり」になっていることも、ほんとうは違うかもしれない。「うつろ」は「虚ろ」ではないかもしれないし、「きょだつ」は「虚脱」ではないかもしれない。「かくめい」だって「革命」かどうか、はっきりしない。
 こういう「はっきりしないもの」があるということを直接ぶつけるようにして始まる詩はすごい。まるで、まったく知らないひとの「肉体」そのものを、しかも裸の「肉体」を見せられたような気がする。まったく知らないといったって「肉体」だから、わかるところがある。わかると思ってしまうところがある。それが危険で、刺戟的なのである。
 道で腹を抱えてうずくまっているひとを見れば、「あ、このひとは腹が痛いのだ」と思ってしまうのに似ている。勘違いかもしれない。しかし、だれにだって「わかる」ほんとうが、そこにはあるのだ。そういうものを、「裸」のまま見せられている感じがする。
 この、ぎくしゃくした「文体」に。

 途中を省略してはいけないのだが、省略する。省略せずに書くと、私自身がどこへ行ってしまうのか、わからない。どこへ行ってしまってもいいのかもしれないが、そして、それこそが詩を読むということなのだろうけれど、それができるほど、私は強くない。
 おっかなびっくりしながら、私は読んでいるのだ。

たちまち、世界がなだれてきて、逆さに吊るされている。
「想像もできない!」この地上の、キガの、幻になる。
そのひとつの黙劇を生きる。
惨劇でつぶされ、くり抜かれた眼(まなこ)だけを揺らして射ぬく。
もう一歩も遠くへ行けなくなった、ぬかるみの男の、脚だけで走る。
処刑され、石を投げられ、引きちぎられ、炎上だらけの、手だけで掴む。

 「脚だけで走る」「手だけで掴む」。これは、ほんとうに走るときや、掴むときの「肉体」の動きではない。ほんとうに走るとき、掴むときは「全身」で走り、掴むものである。ほんとうは「全身」で走りたい、掴みたい。だが、もう「全身」が動かない。それで、最低限(?)必要な、脚、手を懸命に動かすのだ。その「必死」さが、ここにしっかりと書かれている。
 したいことができない。しかし、それをするしかない。「かくめい」とはそういうことかもしれない。「腐りました」と認識するとき、まだ「腐らないもの」が「肉体」のなかにはあって、それが最後の力となって、ことばにならないことばを動かしてしまう。それが「脚だけで走る」「手だけで掴む」という壮絶な力になって噴出している。

「あんにゃ」
(いや「ショコショコショウコー」)よびかける子どもの私を視た、
年老いたおとこの暗いまなざしになる。
一九一七年十月の、
一九五八年十月の、
一九九五年三月の、
二〇一九年五月の、
敗れを知らない人のはるかに遠い前方の記憶を裂いて現れてくるものを、
街路樹よりも傾いて待つ。
乳房を噛み裂かれ、群がる仔どもに埋もれながら、
「みんなあんたの種!」
微かに叫ぶ女の声を四つん這いになってきく。

 「あんにゃ」は「兄」だろう。「一九一七年十月」「一九五八年十月」「一九九五年三月」「二〇一九年五月」に何があったか。「みんなあんたの種!」ということばを手がかりにすれば、誰かが生まれたのだろう。このときの「あんた」はひとりではないだろう。「あんた」に象徴される「あんにゃ」だろう。
 そういう「わからない」けれど「わかる」(と勝手に「誤読」できる)ことばが、詩を貫いて疾走していく。それは「華麗な疾走」ではない。「肉体」まるだしの、醜い疾走である。醜いまま存在できる、全体的な美しさというものかもしれない。つまり、どんなにそれを「醜い」と呼んで否定しようとしても、同じものが自分の「肉体」につながっているという「連帯」が、最終的には「肯定」を引き寄せてしまうような「絶対」が、そこにあるのだ。
 それをなまなましく語るのが「年老いたおとこの暗いまなざしになる。」の「なる」という動詞だ。今野は「子どものわたし」にも「あんにゃ」にも「年老いたおこと」にも「四つん這いの女」にも「なる」のだ。なってしまうのだ。生きているから。「肉体」があるから。

 おなじ強さが「厄災の赤ちゃんを」にもある。

バスを待っているわたしに    バスがきた    ファミマの
角からヌッと曲がって  こっちにぐんぐん向かってきている  
バスを待つしかないので  ずっと待っていた    その我慢づ
よいうつむいた感情が  みぞおちあたりからスルッと弾けて
甘い安堵の唾液が  口いっぱいに広がった

 しかし、「わたし」はバスには乗れない、ということがこのことばのあとに続くのだが、ここにも「肉体」の「絶対」がある。「我慢づよいうつむいた感情が」「みぞおちあたりからスルッと弾け」るという比喩に私は打ちのめされてしまう。
 他の詩もいいが、他の詩は「ことば」そのものが「詩」を目指していて、言い換えると「詩」っぽくて、なまなましさに欠ける。といっても、いま引用した二篇に比べるとということだが。

 私の感想は乱暴である。「正確さ」に欠ける。もっと時間をかけて、「正確に」書いた方がいいのかもしれないが、「正確」を目指すとき、きっと「乱暴」に書いたときにだけ可能な何かが欠落する。
 だから私は「間違い」を承知で、乱暴なまま、この感想をほうりだす。
 私のことばは、今野の書いた二篇の詩と向き合うためのことばをまだ持っていない。おそらく、これからも持てないままだろうと思う。

*

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ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

2019-10-13 10:30:25 | 映画
ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、リャオ・ファン

 ジャ・ジャンクーといえば「長江哀歌」。あの映画の衝撃が強すぎて、他の作品はどうしても見劣りがする。「長江哀歌」は「日常」というものが「時間」をもっている。つまり「歴史」であるということをたいへん静かな映像でつかみ取っていた。「日常」というのは激変しているのだが、その激変はつねに静かさの中に沈んでいく。ちょうどダムの水底に集落が沈んで行くように。
 この映画では、女と男の「日常」が、つまり「時間」がとてもていねいに描かれる。
 「激変」というか、ストーリーを要約すれば、暴力団(?)のボスが対立する組に襲われる。女は男を救うために発砲する。銃の不法所持で服役する。出所してみると、男は他の女と一緒になっている。さて、どうするか。
 この十数年の「時間」をチャオ・タオとリャオ・ファンが演じる。しかも、ほとんど無表情に。あ、これは中国人の表情を私が見慣れていないために感じることかもしれない。日本人の表情は「能面のようにのっぺりしている」といわれるが、中国人もおなじだ。アジア人が表情に乏しいのかもしれない。
 事件を起こすまでは、まだ表情に活気があるが、事件の後、男をかばって(銃は男がもっていたものだ)逮捕されてからのチャオ・タオは、彼女自身のなかにとじこもる。財布を盗んだ女を問い詰めるところ、バイクの男をだますところ、列車のなかで知り合った怪しげな男についていくところなど、隠していたものがぱっと噴出するのだが、リャオ・ファンとの「絡み」になると、無表情に近い。とても静かになる。感情を滲ませる部分もあるが、とても静かである。たとえばアメリカ映画、フランス映画の女と男のように、ののしりあいやとっくみあいがあるわけではない。そんなことをしなくても相手の思っていることがわかる。相手の「過去(時間)」がわかり、「いま」の苦悩もわかる。わかった上で、そのわかっていることを語る。
 これが「日常」である。
 時代は変わる。そして女と男の考えも変わる。変わるけれど、変わらないもの、変えられないものがある。それを要約して、「渡世の義理」とこの映画では言っている。「渡世」とはひととひととの関係である。ひととひとが出会ったら、そこに義理が生まれる。
 男は、義理を捨ててしまうが、女は義理を守る。その義理に男は頼るが、頼りきることはできずにやっぱり出て行く。これを甘えというのだが。
 そういうあれこれを見ながら、私は「長江哀歌」のひとつの美しいシーンを思い出していた。「長江哀歌」で私がいちばん好きなシーンは、どこかの食堂のシーンである。テーブルが壁にくっついている。テーブルは食事のたびに拭かれる。そうするとテーブルが接している壁にも雑巾が触れることになる。テーブルと壁の接していた部分に、だんだん「汚れ」がついてくる。拭き痕が残る。食堂はダムのために立ち退きになる。テーブルが運び出される。すると、壁に雑巾の拭き痕だけが残る。「義理」とは、こういうものなのだ。繰り返し、積み重ねが残す、とても静かな「痕跡」。それは「汚れ」に見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、ほんとうは「美しさ(清潔さ)」を守り続けた「暮らしの痕」なのだ。私の、その短いシーンで思わず涙が出てしまったが。
 おなじものをチャオ・タオの振る舞いに見るのだ。かつて愛した男。いまは愛しているかどうかわからないが、あの愛にもどれたらいいのに、という思いが消えない。あの愛を守ろうとしている。それは、あのときの自分を守るということとおなじ意味である。テーブルに雑巾がけをしてテーブルをいつも清潔にするように、事件と呼べないような小さなあれこれが起きるたびに、それを片づける。ととのえ、清潔にする。つまり、あのといの自分自身にもどる。その繰り返しが、壁にではなく、チャオ・タオの「肉体」に残る。それは「汚れ」に見えるときもある。麻雀店を取り仕切る「女親分」に、とくにその「汚れ」が見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、暮らしをととのえる過程で積み重なった、どうすることもできない「時間」なのである。
 その重さと悲しさと苦しみと、それでも「義理」を生きる悦び(愛した男といっしょに「いま」を生きている、という実感)が交錯する。チャオ・タオの「姿勢」の「正しさ」のなかに、それがくっきりと見える。映画ではとくに、リャオ・ファンが脳梗塞から半身不随になっているので、「姿勢」の対比としてそれがくっきりと浮かび上がる。この「肉体」の対比は、こうやってあとから整理しなおせば、いかにもストーリーという感じだが、映画を見ている瞬間は、そういう感じがしない。チャオ・タオの「意志の強さ」がスクリーンを支配しているからだろう。そして思うのは、こういう「姿勢」の対比を見せる映画では、たしかに「ゆれ動く表情」というものは邪魔なのだ。無表情は選びとられた演技なのだ。「顔」で演技するのではなく、「全身(肉体)」そのもので演技する。「ジョーカー」のホアキン・フェニックスの「全身の演技」にも驚いたが、チャオ・タオの「静かな全身の演技」にも驚いた。引きつけられた。

 それにしても、と思うのは。
 どこでも、いつでも「日常」はある、ということ。その「日常」というのは「過去」をもっているということ。中国は経済発展とともに大きく変わっている。そういう大きな変わり方は目につきやすい。その一方、「日常」の感じ方も少しずつ変わっている。変わるものと変わらないものが絡み合って、うごめいている。この押しつぶされながらつづいていく「日常」の感じは、巨大なビル群や、経済活動だけでは見えない。なんといっても「大きい」ものは見えやすく、「小さい」ものは見えにくい。そういうことを感じさせてくれる映画である。チャン・イーモーは「紅いコーリャン」(日常)から「シャドウ(影武者)」(グローバル経済)へと激変したが、ジャ・ジャンクーは「日常」(いま、そこにいる人間)に踏みとどまっている。そういう点も、私はとても好きだ。

 (2019年10月12日、KBCシネマ・スクリーン1)

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八重洋一郎「白梅」

2019-10-12 09:31:01 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「白梅」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 八重洋一郎「白梅」は

ある夏 どしゃぶりの中を「ひめゆり記念館」を訪れた

 と始まる。「どしゃぶり」が「劇」を予想させるが、「散文的」な文体である。いいかえると「どしゃぶり」ということばのなかにかろうじて「詩」があるということ。
 八重は、そこで「叔父の写真」を見る。叔父は父に似ている。叔父は「石コロ」になって帰って来た。遺骨はない。「父が位牌に叔父の戒名を書いていた」ことを思い出す。「劇」はそんなふうに語られる。自分で語る「劇」に引き込まれ、八重は記念館を離れられなくなる。
 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。

思いきって外へ出ると瀧のどしゃぶり 急いで
タクシーを拾い 北へ向けて走り出す
何キロか過ぎた頃 突然運転手が小さな声をかけてくる
「見えましたか ホラ 左手の少し盛りあがったあのあたり」
「見えましたか 白梅の娘たちです こんなどしゃぶりになると
いつも身ぎれいにした娘たちが二人 三人と並んで立っているのです」
「かわいそうに アイエーナー」
「平凡な言い草ですが どしゃぶりは もっと生きていたかったことの
娘たちの涙です」
降り込められた車内は暗く 運転手さえ あらぬ姿に見えてくる
車は更に北へ向けて疾走するが いつまでも
目的地に着く気配はない--

 ここに書かれているのは「ことば」か「事実」か。
 きのう読んだ吉田文憲「残声の身」と比較すると不思議な感じがする。吉田は身の回り(?)の現実を書いている、いま起きていることを書いているのに、なぜか「リアル」には迫ってこない。むしろ「肉体」から離れた場所で起きていること、「肉体」がここにあるのに、ここが遠いという感じがする。吉田の詩は「ことば」だけがあり、「現実」がない。
 八重の詩は逆だ。どしゃぶりの日に、死んだはずの娘たちがあらわれるというのは「ことば」でしかありえない世界である。そこには娘たちはいない。娘をそこに「出現」させてしまうのは「ことば」なのだ。しかし、感じるのは、「ことば」ではなく、そこに娘たちがいるという「現実」である。ほんとうは存在しないものが「現実」として迫ってくる。

 これは、どういうことだろう。「ことば」と「現実」は、どんなふうに交錯しているのだろうか。

 別な言い方をしてみる。
 私は「抒情詩」について考え始めたのだが、この八重の詩は「抒情詩」か。ぱっと読んだ感じ、「叙事詩」に見える。八重が体験したことを淡々と「事実」を連ねて書いている。「感情」を書こうと意図している感じはしない。「どしゃぶり」が劇的だが、そのどしゃぶりにしたって、実際にあったことだ。「わざと」書いたわけではない。
 でも最後に残るのは「事実」ではない。「事実」かどうかわからないものが語られ、「こころ」はその「事実かどうかわからないもの」を「事実」にしようと動いている。その「こころ」の動きを「肉体」で感じてしまう。「こころ」の動きを感じるなら、それはやっぱり「抒情詩」と呼んでもいいのではないだろうか。

 さらにこんなことも考える。
 どしゃぶりの日に姿をあらわす白梅の娘たち。それを、ひとは、どんなふうに語ることができるのか。

平凡な言い草ですが

 この「ことば」に私は突き動かされる。何度か「劇」ということばを私は書いてきたが、「平凡」は「劇」とは対極にあることばだ。作為がない。
 「平凡」は、しかし、どうやって生まれて来るのだろうか。
 きっと何度も何度も語られ、少しずつ「劇」を振り落として「平凡」になるのだ。語りたいことは山ほどある。実際に、「娘たち」の両親、あるいは友人、彼女たちを知っているひとたちは何度も何度も語り合ったのだ。書かれていないが、そこには「叔父の遺骨が石コロになって帰って来た」というような「劇」もあったかもしれない。けれど、そういう「劇」を語っていると、「思い」が「劇」の方にひっぱられて、なんだか嘘っぽくなる。嘘ではないのだけれど、言いたいのは、もっと「単純」なこと、いつでもだれでも感じていること、という思いが強くなる。いつでも感じていること、それだけを言いたい。それが、

もっと生きていたかった

 なのだ。
 ここには「劇」がない。たとえば「叔父は石コロになるまで、国のために戦った」というような「美辞」が入り込めない。娘たちは「国のため」というような「名目」を求めていないし、「国のため」というようなことばで称賛されることも望んではいない。「いきたかった」。「もっと行きたかった」。
 それは娘たちを知っているひとから言わせれば、「もっと生きていてほしかった」である。「もっと生きたい」という思いを、ひとは「もっと生きていたかった」ということばに託し、「白梅の娘たち」になって、いまを生きるのだ。
 「叙事」を生きるとき、そこに「抒情」ではないもの、もっと「強い意思」が生まれる。

 私はまた、不思議なことを体験する。
 詩のなかのカギカッコのなかのことばは運転手が語ったものだ。しかし私にはそれが八重のことばとして聞こえる。運転手は何も言っていない。むしろ、八重が「こころ」のなかで運転手に語りかけている。私は、その八重の声をシャドーイングしながら、自分が運転手に語りかけている気持ちになる。八重になってしまう。


*

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吉田文憲「残身の声」

2019-10-11 10:22:24 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残身の声」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 吉田文憲「残身の声」は「抒情詩」と呼べるかどうか。きのう読んだ井上瑞貴「白い花はすべての光を反射する」に「私は記憶」ということばがあった。「記憶」は吉田の詩にも登場する。

飛燕草の記憶。

 この一語を取り出して云々するのは詩の感想を書くことにならないかもしれないが、私は、あえてこの一語を取り出して考えていることを書き始める。
 「飛燕草の記憶。」と書くとき、吉田は「記憶」をだれのものとして書いているのか。吉田が飛燕草を見た記憶、つまり「吉田(わたし)の記憶」なのか。それとも「飛燕草自身の記憶(どうやって芽を出し、花を咲かせたかという記憶)」なのか。
 こういうことはむずかしく考える必要はない。たいていの場合、前者である。後者の場合は、もっと「わざとらしい」文体になる。
 そうはわかっていても、私は、ふいに前者である、と考えたい衝動にかられる。前者の考え方は不自然だが、不自然だからこそ、ことばがその不自然につられて動きたがるのである。違うものに触れたい、という欲望がことばのなかで動く。
 こういう衝動が、私には非常に強くて、それが「抒情詩」というものを「分類」するときに働いていることを自覚しないではいられない。なんらかの「不自然なことばの操作」。この「不自然」を「頭による操作」と言い換えてもいい。
 ふつうなら(自然なら)ありえないことを、「頭」で動かす。つまり「自然」を、「頭」で切断し、さらに「接続」する。このときの「不自然な刺戟」のなかに「抒情詩」があると、私は感じる。
 と、書くとますます抽象的になってしまうが。
 「飛燕草の記憶。」は「作者(わたし/吉田)」の「飛燕草を見た記憶」であり、そこには「わたし(吉田)」が隠れているのだが、私は隠れている「わたし(吉田)」、あえて隠したままにしておく。むしろ、表に出てこないように押さえつけながら、それからつづく「もの(わたし以外の存在)」の運動、つまり「叙事詩」として読み続ける。

飛燕草の記憶。銀色のひれが空中で跳ねた。樹陰にエンジンをかけ
たままのライトバンが停っていた。家が白みはじめた記憶。レコー
ドのカートリッジが閃くフォークの切尖にみえた。それから耳に四
声のフーガが流れた。おまえは重ね棚の上に並べられた乾涸びた果
実を一つ手に取っていた。そこに同時に別の陰を運んでいるものが
いたのだ。残身が通ったあとの音域。テーブルの器に張られた水の
いつまでも続く小刻みな波紋。氷雨が窓ガラスを散弾のように叩き
続けた。

 「みえた」(見える)という動詞がつかわれている。「みた」ではなく「みえた」。ここには「意思性」がない。「わたし(吉田)」を隠している。存在しても「脇役」としての存在におしとどめている。これも「叙事」につながる。主役は「もの」(わたし以外の存在)なのである。
 おもしろいのは、この「みえる」という「主体」を感じさせることばは、その「主体性」を隠すようにして、つぎのことばを引き寄せている点である。
 「それから耳に四声のフーガが流れた。」は、もっと「肉体」になじむことばで言いなおさば「四声のフーガが聞こえた」だが、吉田は「聞く、聞こえる」というこ動詞を避けている。「肉体」、あるいは「人間の感覚(五感)」を隠し、あくまでも「主役」を「わたし(吉田)以外のもの(存在)」に譲り、その動きとして提示する。
 そして、そこに書かれているものが「わたし以外のものの動き」であるにもかかわらず、それをひとつづきのものにする視点がどこかに存在する。隠されたまま存在する、この不自然な「私性」。
 これが、たぶん、現代詩の「叙事詩」なのだ。

 そうであるなら。(というのは、とんでもない飛躍かもしれないが。)

 そうであるなら、きのう読んだ井上の詩と、きょうの吉田の詩を比較したときに、私が受ける「感動」の強さは何に支配されているか。何に影響されて、どちらの詩の方がおもしろいと感じるか。
 感じ方はひとそれぞれだから、私とは違う判断をするひとがいるだろうけれど、私には吉田の詩の方がおもしろい。
 なぜ、おもしろいと感じるのか。より「抒情性」がつよいと感じるのか。
 「抒情」ということばとはうらはらに、そこに書かれている「もの(わたし以外の存在)」が多くて、さらに、その接続さかげんが「ばらばら」だからである。「飛燕草」に接続するものが「銀色のひれ(川魚?)」である必然性はない。それに「ライトバン」の「エンジン」の音がつながらなければならない必然性もない。そこには隠された必然性、「わたし(吉田)」が「いる」ということだけなのだ。「わたし以外の存在」が多く登場すればするほど、そしてその存在と存在の距離が隔たっていればいるほど、「わたし(吉田)」が「いる」ということが明確になってくる。
 いま「明確になってくる」と書いたのだが、この「なってくる」という感じのなかにこそ「抒情」があるともいえる。ほんとうは私(谷内)が勝手に、それを「明確にさせる」のである。思い込むのである。勝手に「連続した世界」を想像し、その「世界」に入っていくだけなのである。「叙事」の世界へ「感情」が入ってゆき、吉田の「感情」を無視して自分(谷内)の感情をつくりだすとき、「誤読」するとき、詩が誕生する。

 「誤読」が「抒情」なのだ。いままで存在しなかった「誤読」を許してくれるのが「抒情」と言いなおすこともできる。


*

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井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」

2019-10-10 09:54:11 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」(「侃侃」32、2019年09月20日発行)

 井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」を読みながら、「抒情はどこへ向かうか」ということばが頭に閃いた。きのうフェイスブックで山本育夫の書き込みに「抒情病」ということばを見かけたせいかもしれない。山本の作品はまだ読んでいないのだが、抒情はたしかに「病」かもしれない。
 どんな病か。どんなふうにことばをむしばむか。あるいは、そこからことばはどんなふうに回復できるか。そういうことを、ちょっと考える。ことばにできるかどうかは、書いてみないとわからないが。
 で、井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」の一連目。

二行目から始まる詩を書きながら
背後の影に住む女に振り返っている
いつでもその日は間に合わないあくる日だけど
なんのあくる日なのかぼくはしらない
私は記憶
遠い耳にささやく雷鳴のような
日没化する日々の消された記憶

 書き出しの「二行目から始まる詩を書きながら」が、「いまの抒情」だともいえるし、かつての「モダニズムの抒情」だともいえる。歴史は繰り返す。どこに特徴があるか。「二行目」と書くことで、存在しない「一行目」を浮かび上がらせる。というよりも、それは「存在しない」ということを、つまり、「ない」ということを浮かび上がらせる。言い換えると、テーマにする。
 ふつうひとは、「ある」ことを書く。「ない」ことは書けない。はずだけれど、ギリシャの昔から「ない」ということが「ある」を発見したひとは、その「ない」を書かずにはいられない。矛盾が「頭脳」を刺戟するのである。
 これが「いまの(そしてモダニズムの)抒情」。「感情」ではなく、まず「頭」をゆさぶる。思考へ向けてことばを動かす。
 これは考えてみれば、ちょっとおかしなことである。
 「抒情」は文字を見ればわかるが「情(感情)」を描くものである。「感情」は「頭(理性)」とは別個のものである。でも、「感情」といわずに「感性」と言いなおすと、「感性」と「知性」はどこかで交錯する。そして、この交錯する「現場」が「いまの(そしてモダニズムの)抒情」ということになる。
 「頭(知性)」への刺戟が「感性(感情)」に反映する。そのときの微妙な動き。
 これは「背後の影に住む女に振り返っている」という古くさいことばをとおったあと、「いつでもその日は間に合わないあくる日だけれど」という、えっ、いま何て言った?と問い返したくなるようなことばになって「頭」を刺戟する。「間に合わないあくる日」というのは、何かに間に合わなかった「あくる日」ではなく、「あくる日」という時間そのものが何かに間に合わないのだ。「あくる日」というのは、まだ来ていない(現実になっていない)日なのに、それが「何か」という現実に間に合わない。これは「『ない』が『ある』」という定義と同じで、ことばの運動としては成り立つ。そして、ことばとして成り立つ以上、そのとき私たちは何かを了解しているのだが、その了解を「わかることば」で言いなおすのはむずかしい。「肉体」がかってに納得しているだけで「頭」は完全に「解明」していない。こういうことを「感性と知性の交錯」といえるかもしれない。「勘違い」かもしれないし、インスピレーションだけが教えてくれ「真実」かもしれない。
 まあ、ことばなので、何とでも言える。どうとでも「論理」にしてしまうことはできる。で、こういうことに深入りしてまうと、窮屈だし、何というか「危険」なものを含んでしまう。だから、私はこれ以上追いかけないし、また、井上の詩もそれを追いかけていない。
 「なんのあくる日なのかぼくはしらない」。「しらない」と突き放した上で、「私は記憶」と飛躍する。「ぼく」は「しらない」。それが「私」であり、「私」とは「記憶」なのだということは、これもまた、テキトウなところで切り捨てて、ここには「ぼく」と「私」が「記憶」というもののなかで交錯しているとだけ指摘しておく。「ぼく」と「私」のどちらが「知性」であり「感性」なのか、読者は好きに考えればいい。井上だって、そこまでは考えて書いていないだろう。ただ「ぼく」のままにしておきたくはなかった。かといった「他人」にしてしまうのもいやなので「私」と呼んでみただけだろう。
 書いている詩人にもわからないことがある。わからないから、ことばに身をまかせるということがある。そして、わからないものに身をまかせるというのが、「抒情」ということでもある。わかった瞬間に「抒情」ではなくなる。
 ここで終われば「いまの抒情」になると思う。でも、こうい中途半端なところでことばを終わらせるというのはなかなかむずかしい。どうしても「結論」のようなものを書きたくなる。「おとしまえ」をつけたくなる。「中断」(あるいは判断停止)ではなく、「結論」がほしくなる。
 詩は昔から「起承転結」が基本で、「知性」も「感性」も「結」を必要とするのかもしれないが、「結」で閉じてしまうと、とたんに「モダニズム」になってしまう。「知らない」はずが「知っている」ものとして存在してしまう。「ない」が「ある」ではなく、「あった」が再び「ある」としてあらわれる。
 あ、抽象的で、わからない? そうだねえ。
 でも、私は、井上の書いている「二連目」を引用したくないのだ。どこがつまらないか、ということも書きたくない。「一連目はおもしろかった」とだけ書いておきたい。別なことばで言いなおせば、「一連目は、現代詩でも抒情が再び動き出した」ことを感じさせるが、「その向かう先(行先)は二連目ではない」と私は感じている、ということだ。
 気になるひとは、ぜひ、「侃侃」32を読んでください。
 (私の書いていることは、新手の詐欺商法かもしれないし、詐欺予防かもしれない。)





*

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愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)

2019-10-09 13:26:48 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)
             自民党憲法改正草案を読む/番外294(情報の読み方)

 前の文章(情報の読み方、294)でこういうことを書いた。
 愛知トリエンナーレで天皇の肖像を燃やすという作品に関連してである。たしかに天皇の肖像が燃えるのを見て不快感を覚えるひとは多いだろう。
 一方、次のような文章はどうか。
①天皇の写真が写っている新聞を犬のトイレにつかった
②犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかった
 たぶん、なぜ、わざわざそこで「天皇の写真」ということばをつかうのか、という問題が起きる。そのことに対して不愉快だというひとが現れることは簡単に想像できる。
 しかし、これが
③犬のうんちを拾うときヒトラーの肖像が載っている新聞をつかった
④犬のうんちを拾うときスターリンの肖像が載っている新聞をつかった
⑤犬のうんちを拾うとき毛沢東の肖像が載っている新聞をつかった
⑥犬のうんちを拾うとき金正男の肖像が載っている新聞をつかった
⑦犬のうんちを拾うときエリザベス女王の肖像が載っている新聞をつかった
⑧犬のうんちを拾うとき妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
⑨犬のうんちを拾うとき孫の写真が載っている新聞をつかった
⑩犬のうんちを拾うとき離婚した妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
 はたして、天皇の写真と同じように「だめ」というひとが日本人の何人いるか。なかには、「やれやれ」というひともいるかもしれない。
 ⑩という文章に出会ったら、笑いだしてしまうかもしれない。
 これは、どういうことだろうか。
 写真に写っているひとに対して自分が何を感じているか、どう感じているか、ということと「不快さ」(あるいは「快感」)の度合いは変化するということである。つまり、天皇の写真についていえば、日本人の多くは不快に感じるだろうが、他国のひとはなかには快感に感じるひともいるだろうということである。
 そして、⑩の例が、いちばんわかりやすいのだが、ひとは「わざと」そういうことをするときもある。それは自分の感情を解放するためである。離婚した妻(夫)は「何やってるんだ。私をバカにするつもりか」と怒るかもしれないが、それは怒らせるためにやっているのだから、怒る姿を見るのが快感でもある。  
 芸術は、ときにはそういう「作用」があるのだ。ひとをあえて不愉快にする。あるいはひとが怒る、眉をひそめるのを確かめるということが。人間の感情はどう動くか。そういうことを明確に知るのが芸術である。自分とは何ものなのかを知るのだ。そのために存在している面もある。
 美しい、気持ちがいいものだけが「芸術」ではない。
 もし、先にあげた①から⑩までの「表現」を規制するとしたら、それなりの「理由」が必要である。どうして、それが駄目なのか、理由と基準が必要である。「天皇」だから駄目、というのは、かなりむずかしい基準だろう。
 天皇は日本の「象徴」である。憲法に書いてある。しかし、国民には(個人には)、それを認めないという「権利」もある。否定し、批判する権利もある。そういうことも含めて考えないといけないのに、河村は、無条件に天皇を絶対視している。そこに非常に大きな問題点がある。
 河村が展覧会に要求しているのは、芸術の問題ではなく、「ある思想」の絶対視である。

 もう一つ考えたいのが「公金」の問題である。河村は「反日」(ということばをつかっていたかどうか、正確ではないのだが)的企画に公金を支出することは問題がある。公共施設をつかうことには問題がある、というような発言をしていたと思う。
 しかし、これは逆の言い方もできる。もしそこに「反日」的な作品があるとしたら、それこそ、なぜ「反日的作品」が存在するのか考えるきっかけになる。展覧会から排除する(見えなくする)ということで、「反日的思想」がなくなるわけではない。「反日」とひとくくりにされる思想とどう向き合うか、それこそ今の日本の課題だろう。
 いつの時代、どんな場所にも、あることがらに対して「賛成」と「反対」のひとがいる。ものの見え方・見方はひとによって違っている。違いがあることを前提にして考えないといけないのに、違うから排除してしまえでは何もはじまらない。
 安倍が都議選で「安倍辞めろ」と叫ぶ国民に対して「あんなひとたちに負けるわけにはいかない」と叫んでから、自分とは違う意見の人間を排除しようとする動きが非常に強くなっている。安倍は、そして、こういう動きを歓迎しているようでもある。河村の動きは、こうした安倍の姿勢に迎合するものである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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