詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(31)

2019-11-29 09:24:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2019年11月29日(金曜日)

* (わたしは水を通わせようとおもう)

愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら

 「愛する女」と「多くのひとの心」の対比がおもしろい。「多くのひとの心」と「愛する女の心」は違うのだ。もちろん、それは当然のことなのだが、わざわざ「多くのひと」と書いているところが興味深い。
 このあと「多くの人」は「針鰻」「蛙」「翡翠」という生き物の比喩となり、「蝉の啼いている水源地」へと変化していく。
 奇妙といえば奇妙だが、生き物がいる自然が嵯峨にとっての「ふるさと」なのだ。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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「桜を見る会」の暴走

2019-11-29 08:30:26 | 自民党憲法改正草案を読む


写真は、フェイスブックに投稿されていたものである。
菅の発言(字幕)がむごたらしい。


シュレッダー裁断の予約を担当しているのか、裁断の業務を担当しているのかしらないが、もし予約(の申し込み?)から2週間もかかるのだとしたら、それは「障害者」に責任があるのではない。
もしほんとうに担当が「障害者」だったために時間がかかったというのならば、「障害者」を適切な部署に配置できなかった人事上の問題。
できない仕事を「障害者」におしつけて、「障害者」のせいで業務が遅れたというのは変ではないか。

さらに、「障害者」が2週間も懸命に仕事をしているのに、誰も手助けをしないという職場に問題がある。
「障害者」が「すみません、仕事が立て込んでいるので、誰か手伝ってください」と職場仲間に言えない環境だとしたら、これも職場に問題がある。
「無言のパワハラ」が起きていることになる。
「障害者雇用」という名を借りた人権侵害である。

TBSのニュースを私は見ていないので、どういうことばが前後にあるのか、「文脈」がはっきりしないが、「字幕」で見るかぎり、とんでもない発言だ。
菅が自分で考え出したのか、官僚が書いてきた文章を読んでいるだけなのかわからないが、官僚がそういう報告書を書いてきたのなら、「職場点検」(適切な処遇がおこなわれているか、パワハラは起きていないか)を先にすべきだろう。
「障害者」(ひとり?)の人権も守れない内閣に、多くの国民の人権が守れるのか。
自分たち(お友達)が楽しく生きていけるなら、他人の人権(あんな人たち=安倍は都議選の応援演説で、批判する市民を、あんな人に負けるわけにはいかないと発言した=の人権)はどうでもいい、ということだろう。
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白石和彌監督「ひとよ」(★★)

2019-11-28 23:00:31 | 映画
白石和彌監督「ひとよ」(★★)

監督 白石和彌 出演 佐藤健、田中裕子

 久々の田中裕子。その前に見た日本の邦画がどうも気に食わなくて、「ひとよ」も見ようか見まいか、ずいぶん迷った。予告編で見た田中裕子が「浮いて」見えたということも気がかりだった。
 そして、気がかりどおりの映画だった。
 田中裕子は「おさえた演技」する。うまいのだが、「おさえた演技」をしているということが「主張」になってしまっている。それが、どうも、落ち着かない。ほかの役者とのバランスが乱れる。
 唯一感心した部分は、次男が中学生のとき、コンビニでエロ本を万引きする。そのこどもを引き取りにいった帰り道。田中裕子は、万引きしたエロ本を道を歩きながら開いて読む。そのあとを少年が「みっともないから、やめて」というようなことを言いながらついてくる。このシーンでは、田中は「おさえた演技」をしていない。むしろ、こどもをからかう(?)ために、おおぴらな、わざとらしい雰囲気を出している。これが、とてもいい。なんといえばいいのか、「役」をばかにしている。母親の感情を、親身をもって演じているというよりも、ばかにしている。こどもを叱る(注意する)にしても、もっとほかにも方法があるだろうという思いがあるのかもしれない。だけれど、この映画ではこういう設定になっている。そのことを突き放して演じている。だから、その瞬間、「演技」ではない、田中裕子自身の「肉体」が動く。それがおもしろい。
 映画にしろ、芝居にしろ、観客はたしかに「演技」を見に行くのだけれど、「演技」だけではつまらない。「演技」以前の「肉体(人間)」をみたいという気持ちもある。「美人」とか「美男子」とか「かわいい」とか、「役」を忘れてしまって、そこにいる「生身」の役者も見たいのだ。
 それで、というのも変な言い方だが。
 このエロ本を開きながら街を歩くシーンを見たとき、私は「北斎マンガ」(漫画だったか?)の田中裕子を思い出したのだ。北斎がいなくなったあと、「どこへ行ったんだよう」と半分泣きながら歩くようなシーンだった。こどもの格好をしていた。自分はこどもではないのだから、これは「真実」を演じるのではない、単に「役」を演じているんだというような、突き放したような、さっぱりした感じがあった。
 私は、どうも、しつこい演技は苦手なのだ。
 しつこい演技が好きなひとは感動するかもしれないけれど。
 そして、これに輪をかけてストーリーがしつこい。こどもを守るために父親を殺した母親が15年ぶりに帰ってくる。それだけで充分めんどうくさいストーリーなのに、「親子」「家族」の話が、ほかにも登場するのである。それは微妙に絡み合っているというよりも、田中裕子の一家の問題の一部をほかの家族のなかでも展開してみせるという構造になっている。「伏線」ではなく、補強である。たとえていえば、色と面で描く絵画(洋画)の人物に、線で輪郭を描き加え(日本画)、形をはっきりさせるという感じ。たしかにストーリーで訴えたいこと(意味)は明瞭になるが、そんなものを押しつけないでくれよ、といいたくなる。「意味」というのは、人間がだれでももっている。他人の「意味」なんか、必要ない。だから、私は、拒絶反応を起こしてしまう。

(2019年11月28日、中洲大洋スクリーン4)
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「桜を見る会」の決着のつけ方

2019-11-28 13:36:15 | 自民党憲法改正草案を読む

「桜を見る会」の決着のつけ方
             自民党憲法改正草案を読む/番外306(情報の読み方)

 2019年11月28日の読売新聞(西部版・14版)の4面(13S版)の見出し。

「桜を見る会」/反社会勢力の出席焦点/野党 追及の構え

 を読み、思い出すのは、2019年11月14日の読売新聞(西部版・14版)1面の記事である。そこには、こういうことが書いてあった。(番号は、私がつけた。)

①首相は同日、「私の判断で中止することにした」と首相官邸で記者団に語った。
②菅氏は「長年の慣行」として、内閣官房が招待者を取りまとめる際、首相官邸や与党に対して招待者の推薦依頼を行っていたことも明らかにした。

 ここで注目すべきことは「内閣官房が招待者を取りまとめる」ということばである。官邸や与党が「招待者推薦」をおこなったとしても、とりまとめる(整理する、取捨選択する)のは「内閣官房」。だれが出席するかは「内閣官房」の判断ということになる。言い換えると、安倍が誰を、何人招待したかは「不問」にされる。(このことは、すでにブログ「詩はどこにあるか」で書いた。(https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/ff179cc5d37c33a83443bcff0d4bf4c8)
 そして、いま、「内閣官房」の「長官」である菅が、桜を見る会で暴力団組員と握手している写真が出てきた。誰が、その男を「推薦」したのか。いちばんの問題は、そこにあると思う。しかし、「誰が推薦したか」ではなく、追及の矛先が「どうして出席できたのか」という「結果論」に向けられている。菅の責任は、どうなるのか。
 それを強調するように、読売新聞は、菅の発言と、立憲民主の安住の発言を「対話」のようにチャート図(?)にしている。(番号をつけるなど、少し加工している。)

①菅「(版社会的勢力の)出席は把握していなかったが、結果的に入られたのだろう。」(26日)
②安住「会に加わっていたと認めた以上、菅官房長官は大きな責任を負った。進退に関わる問題だ。」(27日)
③菅「(反社会的勢力の)定義は一概に言えない。出席していたとは申し上げていない。」(27日)

 安住の追及の仕方に、読売新聞は乗っかるようにして書いているのだが、この論理で行くと、きっと菅を辞任させて、桜を見る会の問題は「決着」という方向に動いているのだと思う。
 招待者を取りまとめた内閣官房の長官、菅を辞任させることで、この問題をかたづけてしまう。安倍が、そういう作戦に切り換え、それをマスコミが追随している。そういう構図が見えてくる。いろいろな問題が起きるたびに、以下に安倍以外のだれに責任をとらせ、安倍を守り抜くかという工作がおこなわれる。そのことに、マスコミも加担しているように見えてならない。
 「反社会的勢力の定義は一概にはない」と菅は言っているが、「桜を見る会」で問題になっているのは菅と握手をしている暴力団組員だけではない。
 共産党・田村が追及している問題に、マルチ商法大手の「ジャパンライフ」会長が出席している(出席を宣伝につかっている)というものがある。(2015年の会だが。)そして、そこには安倍が関係していると「推測」できる。そういう資料を田村は公開している。
 反社会的というか、被害者の多さでは「ジャパンライフ」は暴力団以上かもしれない。その問題は「焦点」にしなくていいのか。
 「焦点」を「暴力団組員」と菅の握手写真に絞って、菅を辞任させれば、桜を見る会の問題は解決するのか。

 いちばんの問題は安倍の関与である。税金をつかって支持者を招待した。選挙活動に利用した。それが問われている。菅の問題も大きいが、ほんとうの「焦点」をすりかえるような「論理展開」には疑問を感じる。菅を辞任させて終わり、という「決着」ではいけないと思う。誰が参加しているかではなく、誰が、誰を、何人招待したか。そして、その目的は何か。それを追及し、明確にしないかぎりは「桜を見る会」問題は決着とは言えないはずである。

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(30)

2019-11-28 08:41:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはかぎりなく慕わしいために)

歩みよることができなかつた
運命がたちどまつてまた歩きだす僅かなあいだに

 詩は、このあと「僅かなあいだ」を別なことばでいいなおすのだが、言い直す前の、この二行を私は「倒置法」の文章として読む。そうしたい気持ちになる。「慕わしいために」という言い方が私にはなじめず、そのなじめなさが倒置法を私の「肉体」に求めてくる。
 倒置法は不自然な文体である。言いたい何かが、正常な文体(?)を突き破って動く。そういう生々しい動きが「慕わしいために」という不思議な言い方をすでに要求しているのだ。








*

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2019年11月27日(水曜日)

2019-11-27 11:08:02 | 考える日記
2019年11月27日(水曜日)

 ものの名。木を木と呼ぶとき、木は木である。しかし、木を別の名で呼ぶときがある。比喩である。そこには木ではない何かがある。つまり、「ない」が「ある」。
 たとえば木を、直立する精神である、と定義(比喩)する。精神は大地に深く根を張り、どこまでも迷い続け、不明なのもがあることを自覚する。その自覚が純粋化され樹液になって幹を駆け上り、枝や葉、さらには花となって開き、散ろうとする。そうことばにするとき、何が起きているのか。
 ことばにする前はなかったものが、つまり「ない」が「ある」として動いている。
 逆に言うこともできるにちがいない。「ある」を「ない」にするのが、ことばである。一本の木があり、花を咲かせている。それは散っていくが、それは「もの」ではない。私の知らないところから生まれ、育ってきたもの、形を変えて動き続けるものを、私は「形」と「名」を借りて「ある」ものと考えているだけで、それは「真実(実態)」ではない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(29)

2019-11-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛というものは)

 「薔薇の新種のようなものだろう」とつづくが、その詩の最後の二行。

もしそれを数え唄にうたおうとすれば
それはどこまでも果しなくなつてしまう

 「数え唄」がおわらない。
 私が「不思議(奇妙)」と思うのは、そういう「事実(意味)」のことではない。
 「それを」「それは」と繰り返される「それ」である。
 「それを」は「愛を」であり、「それは」は「数え唄にして歌うこと」である。微妙に違うのだが「それ」という共通のことばでくくられるので、「愛」と「数え唄にして歌うこと」が同じものとしてあらわれてくる。そのとき、「愛」とは「ひとつ」ではなく、どこまでも数え続けられないと愛ではない、という形で復讐(?)してくるように感じられるのだ。







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2019年11月25日(月曜日)

2019-11-26 23:49:58 | 考える日記
 「ことば」に本来の意味はない。ほんとうの意味はない。
 ことばには、すでにある意味を否定しようとする、「追加」があるだけだ。「追加する」という動きがあるだけだ。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(28)

2019-11-26 13:18:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (男のかなしさを知るまい)

おもいきり太鼓を打ち鳴らして
大きく胸を張つて歩いていく
だれかきてそのいじらしい機会をすばやくとらえて放りこめ
しずかなしずかな古里の入江に

 「故、長峰英七に」という註釈がついている。
 太鼓を鳴らしたあと歩いていく男の姿を「いじらしい」と呼ぶ。そこに目が(意識が)行ってしまうが、直前の「だれかきて」ということばの方に「不思議」がある。つまり「切実さ」がある。嵯峨にしかわからない「正直」がある。
 「来る」は「男のそばに来る」である。遠くからみつめていることでは「知る」ことにならない。「とらえる」「放りこむ」も「比喩」ではない。つまり、頭で処理する動きではない。そばに「来た」もの、いっしょに生きている人間だけにできることである。
 嵯峨には、長峰といっしょに生きていた時間があるからこそ、こう書けるのだ。








*

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2019年11月25日(月曜日)

2019-11-25 23:38:35 | 考える日記
2019年11月25日(月曜日)

 「ある」と「ない」について書こうとしたが、書けなかった。
 何もない「ある」がある。「無」が「ある」と書いてしまうと、違うのだ。「名づけられたもの」が「ない」。
 何もないは「具象(名)」がないということである。「具象」はそこにはなくて、しかし、「何か」特定できないものがある。そこから「具象(名)」生まれてくる。「具象がある」という状態。「世界」が生まれる。それはたしかに「ある」のだが、それを「ない」と言ってしまうのが、最初に想定された「ある」なのだ。
 もし「実在」するものがあるとすれば、「生まれてくる」という運動(具象を生み出す力)と、具象になった瞬間に「具象はない」と断定する力だけである。
 そのふたつは、ともに「ことば」であって、それ以外のものではない。「ことば」は、そういうことを明らかにするためにある。

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野沢啓『発熱装置』

2019-11-25 20:31:50 | 詩集
発熱装置
野沢 啓
思潮社


野沢啓『発熱装置』(思潮社、2019年10月31日発行)

 野沢啓『発熱装置』の巻頭の詩。その「1」の部分。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 「ことば」が主語/主役である。
 「ことば」は野沢ではない。だから「ことばは放たれたい(放たれることを欲する)」ではない。「がっている」という「ことば」が追加されている。つまり、野沢は「ことばははなたれたいと欲している+ようにみえる」と野沢自身の「立ち位置」を表明する。
 しかし二行目では、野沢は姿を消す。「+ようにみえる」がない。「ことば」がほんとうに「場所をもとめている」かどうかはわからないのに、野沢は「代弁」してしまう。
 三行目はどうだろうか。「ことば」と野沢の関係はどうなっているか。
 「ことば」は「この空間」に「放たれる」ことを願ったか。わからない。「ことば」がそう欲した、そう願ったのではなく、野沢が「放ちたがっている」のである。ことば「を」放ちたがっている。主語(主役)が一行目とは完全に違っている。交代してしまっている。野沢が「能動」として動いている。そして「この空間」を「用意した」のである。「用意された」と「受け身」の表現がつかわれているが、それは自然に用意「される」ものではない。野沢が用意しないかぎり、それは存在しない。
 「誰のものでもないことば」があるとすれば、「誰のものでもない空間」もあるだろう。しかし、その「誰のものでもない」は瞬時に「誰かのもの」になる。その「刻印」が「この」ということばのなかに残っている。
 「この」「その」あの」。「この」は身近なものをさす。「この」と言えるのは、どうしてもこの三行を書いている野沢である。「誰のものでもないことば」はどこに存在するか、それ自体わからない。あるいは存在するかどうかもわからない。そういう不確定な存在が「この」という指示詞をつかうことにはむりがある。

 ちょっと面倒くさいことを書いたが、何を言いたいかというと。
 ここに書かれているのは「ことば」それ自体ではない。「野沢」それ自体でもない。「ことば」と「野沢」が交渉している。そして、その交渉では、「ことば」はみずから何かを発言するということはないので、「野沢」が「ことば」になりかわって発言するということが起きる。
 問題は。
 「誰のものでもないことば」はほんとうに存在するかということがひとつ。だぶん、そういうものはない。だから早くも「2」では「他人のことば」が引用される。

「われはすべての書を読みぬ」
とうたったフランスの象徴詩人のことばを
真に受けて批判するロシア文学研究者は
世界文学の涯知れなさについて
論理的に語ってみせる

 このとき「引用されたことば」は、マラルメのものであるけれど、引用された瞬間から野沢が「引用したことば」になる。引用しなくても存在しているが、引用しなければ「この空間」には存在しない。「この空間」が野沢が用意したものである以上、「引用されたことば」は「この空間」に「放たれたがった」かどうかはわからないが、野沢が「放ちたかった」ということであろう。

 あ、こんなことを書いていけば堂々巡りか。
 もっと飛躍して、遠いところから、「ことば」と野沢の「交渉」(関わり合い)を見つめなおした方がいいのだろう。
 「18」まで飛んでみる。

そのひとにしか意味のない方法が
それがことばだ

 「意味」という表現がつかわれている。「ことば=意味」だと仮定して(途中を端折っているので、こういう乱暴を私はしてしまうのだ)、「意味」とはなんだろう。
 「ことば」が指し示すものに「現実/実在」がある。
 たとえば「机」。それは私がつかっている机の場合、木でつくれらている。四角い板がいちばん上にあり、脚がついていて引き出しがある。それをとりあえず「現実/実在」と呼んでおく。「机」の「意味」は、それでは何か。私の場合、「ものを書くときの台」と言えるかもしれない。
 でも別のひとは花を活けた花瓶を置く場所、さらに別なひとはドアが開けられないようにおさえるための「もの/道具」としてつかうかもしれない。「意味=つかい方」は人によって違う。
 野沢が書いていることは、そういうことではない、というのは承知の上で、私は、そういう具合に「ことば」と「意味」の関係を「誤読」する。つまり野沢が書き記したことばを利用して、自分勝手に私自身のことばを動かし、考え始める。
 私は、いつも、そうしている。だから、私の書いていることは詩の感想でも批評でもないことになるが、それはテキストを出発点としているという意味では、何らかの感想や批評でもありうるだろう。
 で。
 私が、ここからさらに考えたことというのは、こういうことである。
 「ことば」は「もの」の存在を指し示すと同時に、「意味」をも指し示す。「意味」というのは「人それぞれ」が何を必要とするかによって違ってくる。ひとは、それぞれの「意味」を生きている。だから「意味」が「共有」されるということはありえないと考えることもできるが、それにもかかわらず人間は「意味」をもとめ、それを共有したがる。このときの「意味」とは「真実」ということかもしれない。
 その「真実」とは、どこにあるのか。もちろんひとりひとりのなかに、そのひとだけの「真実」というものがあるのだろうけれど、そのことを厳密に語り始めると収拾がつかなくなるので、またまた端折って、私は……。

 「真実」というものは「ある」にはあるのだが、それ自体を指し示すことはできない。「意味」はいつでもどこにでも「ある」が、それ自体も直接的に指し示すことはできない。世界が「ことば」によって具体的な「もの」を出現させる。その「もの」としてあらわれた「ことば」を自分で動かすとき、必然的に「自分の意味(つかい方)」と「他人の意味(つかい方)」の違いに出会い、「意味」の修正が始まる。その「修正」作業をささえるもの(許すもの?)が「真実の幅」のようなものなのだ。「意味の修正」とは「間違いの修正」でもあるから、間違うことをとおして「真実」の方向を見出すと言ってもいいのかもしれない。
 「真実」は「ある」。でも、それは明示できない。「方向」として指し示すだけ、つまり、その方向へことばを動かしていくだけ。もし「真実」があるとしたら、そういう「動き(運動)」そのもののなかにある、ということになるだろう。
 で、書き出しにもどる。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 私はこの三行を、ことばは「間違い」から開放されたがっている。「真実」をもとめて動きたがっている、と野沢は感じている。(真実を「詩」と言い直すと、詩について語ることになるか。)
 ことばはすでに語られている。語られていないことばはことばではない。だから「誰のものでもないことば」というのは厳密にはない。ことばとことはの結びつけ方、ことばをつかって、ことば自体を動かしていく「方法」には、誰かの方法というものがある。「文体」と呼んでもいい。また単に、「確立された表現」と呼んでもいい。そのことばは「引用できる」。しかし、引用した瞬間に、それはテキスト(文脈)を失い、別の存在になる。引用したものが、引用に別の「意味」をつけくわえてしまう。別の「意味」になりたがっている、つまりいま「ことば」を拘束している「意味」から放たれたがっていると感じてしまい、どうしても別の「意味」をつけくわえてしまう。ひとはそれぞれ別の人生を生きているからである。引用される前から「別のテキスト」を求めているように感じられたが、引用してしまうと、物のテキスト(意味)になりたいという運動が加速する。これを「ことば」を主語ではなく、人(野沢)を主語にして言い直すと、野沢は別のテキストに組み込みたいからこそ「引用」するのである。そして、自分の「意味」をつけくわえることで、「真実」というものに近づこうとする。
 そして、その運動の場が、野沢の場合、この詩という空間なのだ。
 「運動」というのは熱を発する。「発熱装置」と野沢がこの詩集を呼んでいるのは、そういう意味、比喩なのだろう。



*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(27)

2019-11-25 08:43:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは空しいものを集めて)

長い橋をつくつた
いつたいその橋はどこへ架かつているのだろう

 この橋をつくる、橋を架けるとき、嵯峨は「対岸」がどのような場所か知らない。橋はここ(此岸)ではないどこか(彼岸)へとつながる。
 だから、詩は、必然的に、こう展開する。

その橋は女の方へむかつて架かつているだろう
すでにその女が死んでいたら
それでもぼくはその橋を渡つていくだろう

 橋を架けるは、橋を渡るという「動詞」を動かすために、絶対に必要なものだ。この絶対的な必要性を、切実さと呼ぶ。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(26)

2019-11-24 20:01:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこにぼくの星々はあるか)

自由な会話がはじまるといつかあなたの心に星はのぼり

 と詩はつづく。この比喩は美しいが、あまりにも比喩的でありすぎる。
 二連目で、ことばは調子を変える。

村々ではどこもかしこも小庭で火をたいていて
穏やかな追憶の日がもう暮れかける

 その空に星は姿を現わす、ということだろう。
 「村々」を直接目で見るのは難しい。だから、この行自体が「追憶」である。想像である。「自由な会話」の一行も、その「追憶」のひとつである。
 「星はのぼり」の「のぼる」という動詞が興味深い。星から見た村々ということなのだろう。






*

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2019年11月24日(日曜日)

2019-11-24 19:26:27 | 考える日記
2019年11月24日(日曜日)

 生きるとは自由であること。
 自由とは、自由に語ること。自由に思考すること。生きるとは、思考を存在させること。
 「名詞」としての「思想」ではなく、「動詞」としての「思想」を確立すること。「思想」を「動詞」の形で存在させること、つまり「動かす」こと。

 ふつうに日々つかっていることばでは、いろいろなことを明確にするのはむずかしい。「定義」が揺れる。流動的で、あいまいに見える。何も「知らない」ように見える。
 しかし、「何も知らない」まま、ひとは生きられないだろう。「知っている」ことを信じて生きているはずだ。
 だれもが「思想」をもって、「思想」を生きている。
 それを「動詞」として書くことはできないか。ことばにできないか。


 逆のことを考える。

 明確に定義されたことばがある。たとえば外国の、現代思想のことば。そういうことばはすでに固定された意味をもっている。固定されているので「事実」のように見える。そういうことばをつかうと、何かを「知っている」とみなされる。

 「知っている」(知識)は重要だが、知識よりも「考える」ということの方が重要だろう。
 間違っていてもいいから、考える。
 「知っている」ことではなく、考えたことを書く。
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徴用工問題、振り出しに戻る

2019-11-24 13:52:40 | 自民党憲法改正草案を読む
徴用工問題、振り出しに戻る
             自民党憲法改正草案を読む/番外305(情報の読み方)

 きのう、2019年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面に「GSOMIA失効回避/韓国が方針転換/日本 輸出管理 対話再開」という大きな見出し。
 そして、きょう2019年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面には

日韓 来月首脳会談へ調整/外相一致 「徴用工」意思疎通図る

 その記事には、こう書いてある。

 日韓首脳の正式な会談は昨年9月が最後で、韓国人元徴用工への賠償を日本企業に命じた昨年10月の韓国大法院(最高裁)判決以来開かれていない。

 1年間、あれこれやってきたが、「出発点」へ戻っただけだ。いや、もっと悪いかもしれない。この1年間で、GSOMIAと貿易を、いつでも「交渉の武器」としてつかえることが明確になったのだから。そして、そのGSOMIAも貿易も、なんといえばいいのか、互いが互いを必要としている。GSOMIAでは日韓が米を含めて情報を共有する。貿易は相互に輸出入する。互いに「利点」がある。
 徴用工問題は、かなり条件が違う。
 韓国の元徴用工が賠償を受け取る。日本の企業(日本政府ではない)は賠償を支払う。相互に「利点」があるわけではない。徴用工は金を受け取る。企業は金を払う。一方通行である。
 GSOMIAと貿易は、情報の共有、品物の相互購入(輸出入)がなければ、お互いが困る。困り方の度合いは違うかもしれないけれど、あくまで双方が「利点」を受け取れる。
 もし、徴用工問題で、双方が「利点」を受け取るためにはどうすればいいか。言い換えると、日本の企業(日本政府ではない)が徴用工に賠償金を支払わずに、納得するためには、日本政府(日本企業ではない)がどう対処すればいいか。
 これを考えないといけない。
 方法はある。とても簡単である。日本政府が徴用工問題で、ちゃんと謝罪すればいいのである。徴用工を働かせたのは日本の企業だが、そういう政策をとったのは日本政府である。この歴史を認め、日本政府が謝罪する。一度謝罪したから終わりというのではなく、求められれば何度でも謝罪する。それで解決するはずである。きちんとした謝罪がないから、謝罪する気持ちがないなら金を払え(賠償しろ)という要求が起きるのだ。
 安倍は、「徴用工には、ぼくちゃんかかわっていない。ぼくちゃんの生まれる前のことだし、ぼくちゃんには責任はない」という理由で、謝罪を拒んでいる。「悪いのはぼくちゃんではなく、ほかの人」という論理をここでも展開していることになる。それに「ここで韓国人徴用工に賠償金を払ったら、お友達の麻生が困る。だって、麻生は炭鉱で朝鮮人を酷使して金もうけをした。賠償訴訟が起きたから、負ける。麻生が金を払わなければならない。なんとかしろよ、と麻生から責められる」。安倍は、「ぼくちゃん」と「お友達」以外のことは考えないのだ。
 安倍が、日本の歴史をちゃんと認め、韓国に謝罪しないかぎり、この問題は解決しない。1年間かけて、それがわかったはずだと思うが、安倍は謝罪しないなあ。つまり、永遠にこの問題はつづく。

 二面に「識者の声」が載っている。米ヘリテージ財団上級研究員ブルース・クリングナーの意見が、こういうことを正確につたえている。(日本、韓国の立場ではなく、中立、客観的な事実を解説している。)(番号は私がつけた。)

①文氏は日韓関係を悪化させ続ける危機から抜け出す重要な最初の一歩を踏み出した。
②ただ、決断は条件付きで一時的なものになる可能性がある。
③次は安倍首相が同じように対応し、対韓輸出管理厳格化措置を撤回することを期待したい。
④厳格化は、韓国の歴史問題にからむ行動に対する反応であることは明確だからだ。

 ②については、きのうの「情報の読み方」ですでに私も書いた。韓国はGSOMIA破棄を「停止」しただけであって、「撤回」したわけではない。これに先立って、トランプが「撤回」させようと圧力をかけたと書いてあるが、そこに「撤回」ということばはつかわれているが、最終的には「継続」ということばと、その決断が「一時的」であるということを明確にしている。「停止にすぎない」を、そう言い直しているわけである。
 ③では、明確に「撤回」ということばをつかっている。クリングナーはトランプではないが、間接的に「撤回せよ」と読売新聞をつかって、安倍につたえようとしている。あるいは、トランプは安倍にそうつたえたということを間接的に「公表」している。
 ④は、安倍の「対韓輸出管理厳格化措置」が「歴史問題(徴用工問題)」とリンクしていると認めている。(安倍は、否定しているが。)クリングナーはトランプではないが、やはり、ここでアメリカの基本的態度を安倍に通告していることになる。安倍の「歴史修正主義」を批判している。「人権問題」を放置していては、結局同じことが繰り返される。
 二面には、クリングナーのほかに日韓の「識者」が意見を書いているが、どちらも安倍ベッタリという感じの視点である。そのなかにあって、クリングナーは、アメリカの立ち位置を語っていておもしろい。読売新聞は、よくこんな「客観的」な声を載せたなあ(公表したなあ)、と私は思った。
 2016年年末の日露首脳会談(山口で開催)の直前に、ラブロフが「経済協力は日本が持ちかけてきたもの。ロシアが要請したものではない」という「本番交渉」前の裏話を語ったという記事も読売新聞だけに載っていた。ラブロフは、そう語ることで「だから日本が経済協力をするからといって、ロシアが北方四島を日本に見返りとして引き渡すというようなことは絶対にない」と間接的に告げたのだ。きっと事前交渉した岸田が「日本が金を出すのだから」というような、安倍の金ばらまき意図を口走ったために、ラブロフが怒って内幕をばらしたのだと、私は、そのとき読んだ。そして、日露会談は、大失敗。安倍は日露会談の成果(北方四島の返還)を掲げて年末総選挙する予定だったのだが、それができなかった。読売新聞には、よく読むと、こういう「裏情報」(クリングナー見解、ラブロフ会見)のようなものが載っている。

 いままた年末(年始?)総選挙が噂になっているが、桜を見る会の大スキャンダル、徴用工問題の振り出しへの逆戻り。(安倍はGSOMIA失効回避を「手柄」として強調するだろうけれど。)
 どうなるかわからないけれど。
 この「徴用工」と「桜を見る会」の「根っこ」は同じ。どちらも、「あったことをなかったことにする」(私は関与していない、知らない)と言い張るところに問題がある。
 日本(の企業)は、戦時中、朝鮮人を強制的に働かせ、搾取した。
 安倍は招待者を恣意的に選んで、優遇した(税金をつかって接待した)。
 「桜を見る会」は「資料」がいろんなところに、いろんな形(参加者の声)として存在しているのに、必死になって「名簿」を隠して、恣意的招待がなかったとこにしようとしている。
 徴用工問題と違って、いま、日本で起きていることなので、「歴史修正主義」のように「修正」しようにもごまかせない。目撃者が多すぎる。関係者がいまもみんな生きている、という難問(安倍にとって)がある。
 と、こんなことを追加して書いたのは、「徴用工」と「桜を見る会」には、もうひとつ「共通項」があるからだ。「選挙対策」である。「徴用工」を利用して安倍は嫌韓ムードをあおった。嫌韓ムードをあおって統一選、参院選で勝利を収めた。(参院選は、敗北を免れたといった方がいいのかもしれないが。)「桜を見る会」では地元有権者を800人も招待した。安倍は、選挙に勝てばいいだけなのである。選挙に勝つためなら何でも利用する。独裁者になること以外は考えていない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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