詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇469)Obra, Sergio Estevez

2025-04-02 23:01:39 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez 

 

                                                                                                                                            inspirado en el trabajo de Sergio

 Poesía. Unas palabras escritas por poetas. Una de ellas está inquieta. "¿Desde cuándo he llegado a existir?" ¿Quizás sea desde el momento en que el poeta pone la palabra en el papel? Tal vez sea cuando de repente se le ocurrió una idea al poeta. Pero ¿no existían todas las palabras antes de que escribiera el poeta? El poeta simplemente recopiló y ordenó las palabras que había escuchado. "Me pregunto quién fue realmente el que me dio a luz", la palabra murmuró, y la siguiente transmitió eso a la otra siguiente, creando un laberinto de palabras. "¿Dónde estoy?". Incluso las palabras que simplemente se pensaron en la mente (las palabras que nunca fueron escritas) esparcidas en la distancia, serpenteando a través de callejones estrechos.  Desde lo alto se escuchó una voz silenciosa y regañona: "¡Cállaos!" Pero ni siquiera se puede decir que esa voz fuera algo que el poeta hubiera recogido de algún sitio.

 詩。そのなかの、詩人によって書かれたことば。そのことばは、悩んでいた。「私は、いつから存在しているのだろうか。」詩人が、紙にことばを書いた瞬間からだろうか。詩人のこころのなかに閃いた時からだろうか。しかし、どのことばも詩人が生まれる前から存在していたのではないのか。詩人は、聞いたことばを、ただ集めて並べたのではないだろうか。「私をほんとうに生んだのは、いったい誰なのだろうか。」そうつぶやくと、隣のことばが、それをさらに隣のことばに伝え、ことばの迷路ができあがった。「私はどこにいるのだろうか。」という、こころのなかで思っただけのことば(書かれなかったことば)さえも、細い路地をぬって遠くへ広がってゆく。高いところから、沈黙の「うるさい。」と叱りつける声が聞こえてきたが、それさえ詩人が、どこからか集めてきたものではないと、どうして言えるだろう。

 

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こころは存在するか(48)

2025-03-31 16:21:41 | こころは存在するか

 鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(「文藝春秋」2025年3月号)を読んだ。そのなかに「ジャムとサラダ」という「比喩」が出てくる。ジャムは混淆、サラダは渾然という概念に相当する。混淆は混沌とも言い換えられている。曼陀羅や万有ということばも出てくる。ストーリーを概念で彩りながら、ティーバッグのタグに書かれていた「名言」がほんとうにゲーテの書いたものが(言ったものか)を追いかける一種のミステリーである。ミステリーであるから、まあ、それでいいのかもしれないが、人間が描かれていない。「あ、こういう人間がいる」という感じで「肉体」が見えてこない。
 というのは、きょうの「枕」。
 鈴木が書いている「ジャムとサラダ」=「混淆と渾然」から、私は「無と空」ということばを思い出してしまった。「ジャム=混淆(混沌)=無」「サラダ=渾然=空」。さらに「ジャム=混淆(混沌)=無(肉体)」「サラダ=渾然=空(ことば)」という具合に考えた。
 私は、世界に存在するのは「肉体」だけだと考えている。「こころ」は存在しない。少なくとも「肉体」のような存在の仕方ではない。「こころ」は「肉体(人間)」が作り出したものであって、どこかに存在するのではない。作り出さない限り、存在しないものである。人間が作り出したものを存在させる「場」が「空」である。そこが「空」であるからこそ(何も邪魔するものがないからこそ)、なんでも作り出せる。しかし「真理」でなければ、それは瞬時に消え去る。「真理(法)」ならば、いつでもそこに呼び出し存在させることができる。それを足場に、さらに何かを作り出せる。
 「無」はすべてのものが区別なく、存在する「場」である。つまり、すべてのものが溶け合って存在する「場」である。そこから必要なものを引っ張りだして(必要なものを作り出して)「空」のなかに存在させるという運動を人間はしているのだと思う。
 それぞれが、それぞれの「運動」をしているのだと思う。作り出したものを「精神」とか「こころ」とか呼んでいるのだと思う。
 この作り出したもののなかには「行為」というものもある。「行為」というのは「人間(肉体)の運動」のことである。これは「声」とおなじように、たしかにそこに存在しているかのように見えるが、いつでも存在し続けるわけではなく、なんらかの形で「記録」しないと消えてしまう。「行為」とは「肉体のことば(声)」なのである。

 これはメモなので、テキトウに飛躍するが。

 大岡昇平は「推理小説」をたくさん書いている。「謎解き」をたくさん書いている。それは「ストーリー」なのだが、鈴木の「ゲーテはすべてを言った」とはまったく違う。大岡は「謎解き」よりも人間に関心がある。ストーリーは、大げさかもしれないが、どうでもいい。言いなおせば、「解決」を必要としない。それは、大岡がイギリスの「未解決事件」を「未解決」のまま、「こんな未解決な事件があった」と書いていることからもわかる。同時に、「わからないものはわからないままにしておくイギリス人の生き方(選択)を高く評価しているところにもあらわれている。
 「結末」というのは人間が作り出したものであって、ほんとうは存在しない。存在するのは、人間である。人間が「わからないもの」を抱えたまま、行動しているということである。それが描ければ、それでいい。

 で、なんだったか、よく思い出せないが。
 大岡昇平の小説(推理小説ではなかったかもしれない)に、たしか、女が夫の客を見ながら「この人、胸毛があるかしら」と思う瞬間がある。そのことがストーリーとは無関係にぽつんとさしはさまれている。いやあ、びっくりしますねえ。えっ、今、何が書いてあった? 同時に、そのことばを読んだ瞬間、その女が「肉体」として見えてくるから不思議。人間というのは、思ってもみない瞬間に、思ってもみなかったことを思ってしまうものである。それが、ストーリーとは無関係に(ほんとうはあとで関係してくるかもしれないけれど)、あらわれる。「こころ」がつくられてしまう。
 これは女が、「あのとき、私は、あの男に胸毛があるかしら、と思った」と言わなければ、「事実」として存在しない。
 イギリスの「個人主義」というのは、これに似ている。男に胸毛があるかないか、それを想像したかどうかは、ひとがそれを「ことば」にしない限りは「事実」として存在しない。あるひとが「犯罪」を犯したとしても、それをそのひとが「犯罪を犯した」と言わない限り、「犯罪」は存在しない。そのひとが隠しているなら、存在しない。(証拠があって、それで証明できるときは別だが。)
 これは、たとえばある男とある女がキスをしているのを偶然見てしまったとする。しかし、その二人がキスをした(あるいは愛し合っている)と誰かに言わない限り(ことばにしない限り)、他人が(目撃した人が)キスをしていたと言ってはいけないということである。二人が言えば「事実」になる。しかし、第三者が言っても「事実」にはならない。「事実」として認めない。こういうプライバシー感覚が、たぶんイギリス人の「個人主義」である。それはアメリカの個人主義ともフランスの個人主義とも違う。
 「こころ」の作りが仕方が違うのである。
 「こころ」は存在しない。「こころ」は作り出していくものである。それは「ことばの運動」である。


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鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」

2025-03-30 23:59:47 | その他(音楽、小説etc)

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(「文藝春秋」2025年03月号)

 

 

 鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」は第百七十二回芥川賞受賞作。その書き出し。(ルビは基本的に省略。)

 先頃、私は義父・博把統一の付き添いで、ドイツ・バイエルン州はオーバーアマガウ村の受難劇を観て来た。統一が長年要職を歴任してきた日本ドイツ文学会から依頼を受けての取材旅行。といっても、間も無く定年を迎えようとする功労者に対し、ささやかな餞別といった意味合いも多分にある仕事で、PR誌「独言」に何頁でもいいから文章を書いて欲しい、との話であった。勿論、統一本人は至って真面目にこの仕事に取り組んでいたが、そうはいってもやはり久々のドイツ。(文藝春秋、P318)

 私は、「取材旅行」でつまずき、「ドイツ」で立ち上がれなくなった。読む気がしなくなった、という意味である。この「体言止め」が落ち着かない。あ、ここには隠された「意味」があるのだな、と暗示している。それが、とてもいやあな気持ちにさせるのである。
 で、それは何を意味しているかというと。
 「体言」は簡単にいうと「名詞」。これに対することばは「動詞」になるが、鈴木は「行為」ということばをつかっている。「体言」ということばは書かれていないから(あえて探し出せば「言葉」がそれにあたる。これは「行為=肉体」ということばとの対比によって浮かび上がってくる)、これは正確には鈴木の「意図」的な組み合わせではないかもしれないけれど、私は、ここにはふたつの概念の出会いがあり、それが小説を動かしていくのだなと直覚してしまった。名詞(言葉)と動詞(人間)の出会いによって、「現象」が表現される、それが小説である、と鈴木は「定義」しているのかもしれないけれど、それがあからさまに見えてくる、まだ読み始めたばかりなのに、それを直覚してしまった。
 で、つまずいた。つまずいた、とは、そういう意味である。
 最初に登場するのは「ジャム」と「サラダ」。ゲーテの世界を象徴するものとして、登場人物の統一(彼が主人公)が考え出した「比喩」である。ジャムは「素材」がとけてしまって、素材の区別がつかない。サラダは素材がジャムのようにはとけあっていない。まざっているだけだ。
 ジャムとサラダは「混淆と渾然」に言い換えられる。

 ジャム的世界とは、すべてが一緒くたに溶け合った状態、サラダ的世界とは、事物が個別の具象性を保ったままひとつの有機体をなしている状態(P334)

 を手がかりに考えれば、ジャム=混淆(肉体/行為/動詞)、サラダ=渾然(言葉/名詞)だろう。「肉体」にも各部位に手とか足とか目とか、名前がついているが、ある行為(運動)のとき、「肉体」はその全体が動く。切り離せない。肉体の各部位は、切り離せない(溶け合った)状態で動く。
 ここからさらに、「曼陀羅」とか、「万有」ということばも誘導されるのだが、それは一瞬で、ジャム・サラダとは、あまり交渉しない。
 ゲーテの「色彩論」、ゲーテは色(光の三原色)をまぜると「灰色」になると主張し、エジソンと対立したのだが、そのこととも関係するのだが、ヘブライ語が出てきて、こんなことばがつづいている。

ヘブライ語の『バーラー』という動詞--『創造する』と訳されている部分だけれど、無数の色の混じり合ったバケツの中から、一つずつ色を抽出するイメージだ(P377)

 ここでは色を「混ぜる」ではなく一色ずつを「抽出する」が「創造する」と言いなおされるのだが、このばあい「抽出された色(区別された色)」が「ことば(サラダ)」であり、区別を消してしまう(混ぜる)という行為が「ジャム」につながっていくだろう。

 手の込んだ概念対比の組み合わせなのだが。
 「色」が出てきたついでに思うことがある。
 鈴木は「混淆と渾然」ということばのほかに「混沌」ということばもつかっている。

最初の混沌はすべての色が混じり合った世界だった。(P377)

 この「混沌」ということばに誘い出されて、私は「無」ということばを思い出した。同時に「空」ということばも。
 「混沌」から「無」を思い出したのは、私は「混沌=「無(秩序がない、区別がない)」ととらえているからである。それに対して「空」とは「絶対(揺るぎない区別)」のことである。「絶対」は「混沌(無)」から「空」が作り出したもの、あるいは「無」は「空」を通ること生まれる。
 この小説で繰り広げられていることばの運動を「流用」して、私なりに言いなおせば、「混沌(無)から抽出(創造)された色は、空によって絶対になる(青なら青、赤なら赤、という『名』になる。『名』になる前は、すべてが混じり合った世界)」ということになる。
 ジャムとサラダ、混淆と渾然、無と空は「重なり合う」。ジャム=混淆(混沌)=無、サラダ=渾然=色。これにあわせる形で私の考えていることを書いておけば、無=肉体、空=ことば、なのだが、このことは、そう書くだけにとどめておく。ここでは説明しない。
 で、この「色」につられて思い出すのは、「混淆」「渾然」ではなく、なによりも「空」である。
 「空」は「色即是空」「空即是色」のように「色」と関係している。この場合の「色」はゲーテの「色彩論」でいう「色」ではないが(私は、それを「存在=名」と把握しているが)、「色」につられて思い出すのである。特に「一つずつ色を抽出する」という表現に誘われて。
 で、ざーっと読んだだけなので、はっきりとは言えないが、この鈴木の小説には、「無」と「空」が出てこない。日本人にとてもなじみのある(したがって、特別に定義などされない「概念」である「無」と「空」を省略したまま(すどおりしたまま)、「混淆(混沌)」「渾然」「曼陀羅」「万有」だけが出てきて、世界が閉じられてしまう。日本語の、日本人の小説を読んでいる気がしない。日本人の「肉体」をとおって生まれてきたことばを読んでいる気がしなくなってしまう。
 もし「無」「空」が出てきたら、私は「つまずき」から立ち直ることができたと思うのだが、「無」「空」が出てこないので、私は、倒れたままだ。なんだか、翻訳された「概念」だけを上手に並べて書かれた小説のように思えたのである。
 別なことばで言うと。
 私の知っている「人間(肉体)」が動かないのである。あるいは「私は知らないけれど、知らない人間が肉体として、突然、小説の中にあらわれてきた」と感じないのである。「概念」だけが動いている。「体言」と「動詞」を組み合わせているが、その運動から「人間(人間)」が飛び出してこない。別のことばで言えば、ある日誰かと会って話していて、「あ、この人(この肉体)は、鈴木の『ゲーテはすべてを言った』に出てきたひとそっくりだ」とは決して思わないだろうと感じたのである。この小説には「ストーリー」はあるが、「人間」がいない。これは、とても残念なことである。

 そういうことと関係があるのかどうかわからないが。
 「済補」と書いて「スマホ」と読ませたり、「もじもじ(ためらう)」を「文字文字」と表記する方法にも、いやなものを感じた。「概念」を組み合わせているだけ、という印象が残る。

 

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小倉金栄堂の迷子(4)

2025-03-29 23:02:45 | 小倉金栄堂の迷子(メモ)

小倉金栄堂の迷子(4)

小倉金栄堂の迷子
   あるいは破棄された詩のための注釈

 ふたつの断章と登場人物のリストのあとに、ページの中央に大きな文字で、そう書かれていた。夢のなかで、夢で見たと思った。あるいは、夢で見たと、夢のなかで思ったのか。わからないが、それは絶対に間違えることのできないことばとして、夢のなかへ何度もあらわれた。
 小倉金栄堂の、角がすり切れた函のなかから本を引き出したとき、雪のように舞い落ちた紙を拾い上げたとき、まだことばになっていないことばは、誰も書いたことのない詩集の書き出しを、まるできのう見た夢を思い出すように、思いついたのだ。
 「閉店です」と告げながら角口が階段をおりていく。足音が消え、シャッターを下ろす音が聞こえる。「きょうも『あの手』の本は一冊も売れなかった」という、角口がこころのなかに隠した声が聞こえてきた。路面電車のパンタグラフがスパークし、まき散らす火花の光が本棚を駆け回り、天井を滑って、再び出て行く。
 閉じ込められてしまったみたいだ、とまだことばになっていないことばは思ったが、どうしてそんなことが起きてしまったのか、その本には何も書いてなかった。本のことばとはそういうものである。

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エミリア・ペレス監督「エミリア・ペレス」(★★★★★)

2025-03-28 16:32:47 | 映画

エミリア・ペレス監督「エミリア・ペレス」(★★★★★)(2025年03月28日、キノシネマ天神スクリーン3)

監督 ジャック・オーディアール 主演 カルラ・ソフィア・ガスコン、ゾーイ・サルダナ

 奇想天外(と言ってはいけないのかもしれないけれど)のストーリーなのだが、そこから「奇想天外」を取り除き、「芸術」に昇華させているのは、この映画がミュージカル仕立てであることだ。ストーリーを突き破って、登場人物の感情が爆発するとき、それが「会話」のトーンから「音楽」にかわる。「芸術」になる。
 この映画は、ストーリーをみせるものではなく、「感情」を爆発させる、「感情」そのものをみせる映画なのである。
 と、書いて、ふと思うのは、「ミュージカル」に相当する日本の芸能(演芸)とはなんだろうか、ということ。歌舞伎、かもしれないが……。私は、この映画を見ながら、あ、これは「文楽」だなあ、と感じた。人間ではなく、人形が演じる。しかも、その人形をあやつっているひとも見える。「文楽」は、最初から、これは「現実そのものではない」と言っている。あるいは「ストーリーを見せるものではない」と言って、芝居を始める。そこで展開されるのは、あくまで「感情」である。その「感情」を太夫が声で響かせる。人形は、太夫の声(感情)を引き立たせるためのものである。(こう断定してしまうと、まあ、間違っている、という指摘が来るだろうけれど。)
 この映画でも、ストーリーを中心に見ていくと、まあ、ご都合主義だね。でも、映画はもともとストーリーなんかがなくても成立するものである。だから、ご都合主義でかまわない。芸術というものは、だいたいそうだろうと思う。表現したいものがあれば、それに焦点をあてて、浮き彫りにする。あとは、テキトウ。
 この映画のポイントは、麻薬王が女性になりたいという欲望(感情)をどう説得力のあるものとして描き出すか、なのだが。
 いやあ、おどろいた。もしかすると「紋切り型」かもしれないけれど、「紋切り型」にはやはり「紋切り型」ならではの強さがある。なぜ、麻薬王は女性になりたいと思ったのか。幼いときから願望があったのだが、それを抑えきれなくなったのはいつか、なぜなのか。妻が「二人目のこどもが生まれてから」と言うようなことを言う。こどもが生まれ、接しているうちに「父性愛」ではあらわしきれない「母性愛」が生まれたということだろう。それは、妻への愛(異性愛)を超えるほどに強烈だったのである。
 彼(彼女というべきか)の暮らしは、この「母性愛」(こどもと一緒に暮らしたい)という感情にひっかきまわされる。クライマックスの引き金は、妻がかつての部下(?)と結婚すると言ったことよりも、結婚するとき「こどもを連れて行く」と言ったことが原因である。こどもがもし彼の家にとどまるなら、彼は何もしなかったのである。
 この「母性愛」は、その前にも「伏線」として描かれている。失跡した息子の情報を求めて街をさまよう女性。彼女から、「失跡した息子のビラ」をもらうと、彼は刑務所にいるツテを利用して「遺体」を探し出す。そこから、失跡者探しは彼の仕事になっていくのだが、この原動力も「母性愛」である。あのビラを配っていたのが父親だったら、彼があんなに熱心になったかどうかわからない。
 セックスも描かれるのだが、この奇想天外なストーリーのなかで「母性愛」を芯に据えたことが、この映画を揺るぎないものにしている。欲を言えばというか、この映画の唯一の弱点は、その「母性愛」が歌のメインになっていないことだろうなあ。主人公が、眠れない息子の部屋にきて、ベッドで添い寝しながら語りかけるシーンがあるが、そのときのやりとりというか、語りかけが「主題歌」になれば、とてもいいと思う。(文楽ならば、ここが泣かせどころ、サビである。)このシーンは、何やら部屋に飾られた「宇宙」の星々が主人公にふりそそぐという「映像」で処理されているのが、とても物足りない。まあ、監督としては、「母性愛は宇宙の広さに匹敵する」という思いを込めたのかもしれないが、そんなものは「意味」だからね。「感情」になっていないからね。
 でも、今年見たなかでは(そんなに見ているわけではないが)、「ブルータリスト」についでおもしろい作品だといえる。


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小倉金栄堂の迷子(3)

2025-03-25 23:00:55 | 小倉金栄堂の迷子(メモ)

小倉金栄堂の迷子(3)

 『破棄された詩のための注釈』という本があった。100ページもないのに、箱に入っている。売れ残った他の本の箱と同じように、角がこすれて毛羽立っているということばは、削除され、かわりに本を引き出したのと同時に一枚の紙がふわりと舞った、と書き直された。北陸の冬の海。雪のように、カモメの羽毛が舞う、そのように、とブルーの万年室で書かれたことばはつづいていたが、そのことばこそ破棄されなければならない詩である、と詩人は書いている。
 
 一行の余白があり、小さな文字で「登場人物」というタイトルで、ことばが並んでいる。目次のように。


海の匂いのすることば、
海から帰って来たことば、
肩に雪をつもらせたことば、
淫らなことば、
淫らなことばに侮辱されたと感じていることば、
ノスタルジーに汚染されたことば、
繊細なことば、
繊細なことばのとなりにいる横柄なことば、
たとえば木曜日、
横柄と横着の区別がつかないことば、
ノスタルジアをからかうことば、
禿げて太ったことば、
消毒液のにおいのすることば、
非情階段にすわり空を見ることば、
歌のない音楽が好きだといったことば、
絵の具ではほんとうの黒を表現できないがことばでならできるといったことば
淫らなことばをまねしたがることば、
指で宙に文字を書きたがることば
橋が好きなことば、
接続法のことば、
過去完了形からやってきたことば、
未来完了形へなりたがることば、
アルファベットで呼ばれたいことば、
あるいはを繰り返すことば
キュウリを刻むことば
雨の日にキュウリを買いにいくことば、
犬論のためには犬の形ということばが必要だということば、
ことばを一つずつ消していくことば、
蹴られるたびに新しいことばのために物語を考えることば、

秘密のことば
瞑想のことば
沈黙のことば

重力のことば
論理のことば
空想のことば

 ことばを登場人物にした詩を書こうとしたのは、あの男ではない、私だ、声を出さずに夢のなかで叫んでいることば。

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小倉金栄堂の迷子(2)

2025-03-24 23:03:10 | 小倉金栄堂の迷子(メモ)

小倉金栄堂の迷子(2)

 路面電車が通りすぎる寸前、小倉金栄堂へ入っていく「ことば」が見えた。帽子を目深に被り、顔を隠すようにしている。夢のなかなので、路面電車の影に隠れたにもかかわらず、店員の角口をつかまえ「あの手の本はないのか」と聞いているのが見えた。私のまねをしている。間違いない。
 「あの手の本はちょうど売り切れたところだが、二階にはまだだれも目をつけていない本があるはずですよ」
 先回りして二階で待っていたが、だれも上がってこない。夢の階段を踏み間違えたのか。路面電車のパンタグラフがまき散らす火花の光が書棚を走る。そのとき、一冊の本が目に入った。『削除された詩のための注釈』。私が盗んだメモに書いてあったことば。それが詩集になってしまっているのか。あるいは、これは特別な思想書の、手の込んだタイトルなのか。
 「逃げ出したことばが本のなかにもぐり込んだので、別のことばがはじき出され、はじき出されたことばがまた別の本に侵入し、小倉金栄堂の二階の本棚に並べられた本は、つぎつぎに文章が変わっていくのだった」。開いた本のページには、私が書きたいと思っていたことが印刷されていた。どの本を開いても、開いたそのページには同じことばが書かれていた。
 呆然としていると、「悪夢とは姿を変えて追いかけてくるものではなく、いつまでも変わらずにそこに存在し、ひとを巻き込むものである」ということばが、私のそばに男の姿で立っていた。どこかで見たはずの男だが、どこで見たのか、思い出せなかった。過去ではなく、これから起きることのなかで出会うのだろう。

 

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Estoy Loco por España(番外篇468)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

2025-03-24 00:00:32 | estoy loco por espana

Obra, Juancarlos Jimenez Sastre 

 Esta obra de Juancarlos tiene un ritmo misterioso.
 En sus obras ha utilizado múltiples materiales, entre ellos hierro, piedra y madera. También había allí un ritmo único, pero el ritmo de esta obra no es el que se crean mediante la unión de diferentes materiales. Es un ritmo que nace del encuentro de sólidos, planos y líneas.

 Esta fotografía tiene otro ritmo también. ¿La cosa parecida a la suciedad en el suelo es una mancha o parte de la obra de arte? Las líneas creadas por el papel en el fondo y el suelo, cuya pendiente se asemeja a la mesa de un bodegón de Cézanne, y la gradación de las sombras en el fondo crean una estimulación misteriosa y tranquila.

 Juancarlosのこの作品には、不思議なリズムがある。
 彼の作品は、鉄、石、木と複数の素材をつかったものを見てきた。そこにも独特のリズムがあったが、この作品のリズムは異なった素材が出会うことで生まれるリズムではない。立体、平面、線が出会うことで生まれるリズムだ。(すべては立体なのだが、形状、大きさの違いのために、立体、平面、線という印象が生まれる。)

 この写真には、また別のリズムがある。下の汚れのようなものは、汚れなのか、それとも作品の一部なのか。背景の紙(だと思う)と床の作り出す線の、セザンヌの静物画のテーブルのような傾斜、さらには背景のグラデーションを含めた陰影を含めて、不思議な、静かな刺戟に満ちている。

 

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池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか

2025-03-22 23:18:55 | 現代詩講座

池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年03月17日)

 受講生の作品。

三月、歌ってくれないか  池田清子

すぐに終わると思っていた
三年前の三月
突然の破壊
穏やかに人々の暮らしていた
美しい街並み

本当は
春に向かって 明るい豊かな 三月
らっぱ水仙、レンギョウ、ユキヤナギ、ムスカリ・・・
自由で伸びやかな 三月

終わるまで
書き続けようと思っていた詩も
2回でとん挫
無力さを恥じる

こんな時 昔は
若者が歌っていたよね

「イムジン河」「戦争を知らない子供たち」
「死んだ男の残したものは」「フランシーヌの場合」・・・

ねえ、髭男よ、YOASOBIよ、Mrs.GREENAPPLEよ
歌わないか、歌ってくれないだろうか

ボブディランのように
風に吹かれて

 「三年前の三月/突然の破壊」はロシアのウクライナ侵攻を指す。それは五連目のいくつもの歌によってくりかえされる。
 私は最近の歌は知らないのだが(六連目に登場するグループの歌はもちろん知らないのだが)、彼らはどんな歌を歌っているのだろう。「歌わないか、歌ってくれないだろうか」からは、若者に期待する声が聞こえる。そういう声が聞こえるということは、彼らは、「反戦ソング」を歌わないということなのか。
 私たちの時代には、池田が上げている歌のほかに、最終連に登場するボブ・ディランやジョーン・バエズもいた。
 そうした歌は、つづいてほしいと思う。
 三連目の「終わるまで」はすこしむずかしい。書いている池田にはわかっていることだが、読者に通じるかどうか。一連目に「すぐ終わると思っていた」ということばがあるので「戦争が終わるまで」と読んでしまう。私は、そう思って、ここでつまずいたのだが、池田によると「書き始めた詩が、書き終わるまで」という意味。戦争を知って、それについて書こうとした。けれど書き終わることができなかった。この場合、「終わる」ではなく「書き終わるまで」か「完成するまで」の方がいいだろうと思う。つぎの行の「書き続ける」に配慮して(「書く」ということばを重複させたくなくて)省略したのだと思うが、わかりにくい。
 この連が「自分は挫折したけれど」と反省をこめた連だとわかると、それからあとの若者に託す「思い」ももっと明確になると思う。ノスタルジーとして書いているのではなく、祈りとした書かれた詩なのだった。

巡る  杉惠美子

庭の土が ほぐれる音がする
春の光をうけて
木々はいっせいに 自分の呼吸を確かめる
土は温かい感触で 顔を出し
いのちの波動を足もとから伝える

今更ながらに
はるは幾度も巡り来る
かならず巡り来る

みずに映る透明な春は
芽吹き
動き
押し上げ
包み
そして 呟く

私の内なる
重さと軽さも
弾み始める

春は全てが 自分のできることをはじめる

 漢字とひらがなの書き分けが、とてもおもしろい。興味深い。最終行の「はじめる」を読んだとき、その直前の「始める」との対比と同時に、ふと、一行目の「ほぐれる」とも呼応している感じがするのである。
 自分で何かをする。そのとき、それまでの自分が「ほぐれ」てゆく。固いものがやわらかくなり、そうすることで何かがはじまる。「始まる」では意味が明確になりすぎる。「解れる」もイメージが固定されてしまう。「ほぐれる/はじまる」と意味から解放されて「音」になると、「ほぐれる」というのはどういうことだったか、「はじまる」というのはどういうことだったか、と一瞬、あいまいになる。同時に、「肉体」が意味から離れて、いのちそのものとして手さぐりで動く感じがする。
 二連目の「巡り来る」の繰り返しの前に「かならず」がつけくわえられているのもいい。「幾度も」を言いなおしたものとも言えるのだが「かならず」がひらがななのも、読んでいて落ち着く。
 三連目の「みずに映る透明な春は」の「は」という助詞は、ない方がリズミカルになるだろうなあと思う。「呟く」は次の連の「内なる」ものと結びつくのだが、「弾む」で終わって、次の連の「弾む」と連動させると、四連目のなかに三連目のリズムがよみがえると思う。

糸水仙  青柳俊哉  
 
ホワイトアウトきえ
あしもとへ 水仙
ふる 鮮麗な
藍のそらから 凍
土へ
 
北極から 腐敗した地
へ 
 
恩寵--
 
 
うみへむしんにみしんふみならすときはなれる
なみをおるぶぁいおりんししゅう
あいのそらきらら
さんしょくのね

 「ホワイトアウト」は猛吹雪で視界が真っ白になること。「地吹雪」という言い方もあるかもしれない。地面の雪さえも風で吹き上げられ、目が白い闇に覆われる。そういうときひとは足もとしか見ないのだが、水仙が見えたからホワイトアウトが消えたのか、ホワイトアウトが消えたから水仙が見えたのか。わからないのが、いい。「凍/土」という行わたりの表記も、おもしろいと思う。ホワイトアウトが消えたのと同時に、藍色の空が見えたのと同時に、「凍土」が「凍る」と「土」に分かれた。それは水仙が突然あらわれるのと同じ感じだろう。
 最終連のひらがなの連続。「うみへむしんにみしんふみならすときはなれる」この一行が、とても音楽的。その音楽が「ぶぁいおりん」を呼び寄せるのだと思う。「さんしょくのね」の「ね」は「音」かな、と思ったりする。
 一連から四連目への変化のためには、二、三連目が必要なのかもしれないが、思い切って省略しても楽しいかもしれない。その方が飛躍が大きくて、いろいろ想像できる。「腐敗」「恩寵」に意味があるすぎる感じが残る。

最後の晩餐  堤隆夫

最後の晩餐について思う時
戦争や災害や事故のため
最期の晩餐にありつけることなく
この世から逝ってしまった
幾千万の方々の魂の感しみを 思わざるを得ない

果たして 最期の時 私は最後の晩餐をすることができるのであろうか
その時 私の身体に口から食することができる機能は 維持されているのだろうか
病のため 中心静脈栄養や経管栄養等の人工栄養法に頼らざるを得ない時
元気だった日々の食の喜びを想起することは
残酷な思い出でありはしまいか
思いは千々に乱れる--

生きることを続けていれば
私たちは皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 摂食・嚥下が困難となる
口腔機能を可能な限り維持することは 死を迎えるまでの間 
生活する意欲や回復への意欲 生き続ける希望を維持することでもある
自分の口で食べること 飲むことは その人らしく生きるための人としての尊厳

最期の時 私は叶うことなら 愛し 信頼している人と共に 
たとえ一個のおにぎりを分けあってでもいい
小学生の時の遠足の日のように 安穏で幸せだった日々を思い出しながら
最後の晩餐ができれば もう それで十分だと思っている--
 
 堤の詩は、論理/倫理性が強い。「最後の晩餐」というと、いや「晩餐」というと、どうしても豪華なものを連想するが、それと「一個のおにぎり」を対比させる。単に「一個のおにぎり」なのではなく、それは「分け合う」ものとしての「一個」なのである。「分け合う」とき、そこには「愛」がある。「幸せ」がある。
 この詩では、私は、そうした「論理/倫理」のことばの運動よりも、三連目の「生きることを続けていれば」に強く引かれた。「生きていれば」でも意味は似ているかもしれないが「続ける」が挿入されることで、意志というか、祈りのようなものが、ことばの奥をささえている。
 堤の詩に何回も登場する「愛」とは、「生きる意志」のことなのだろうと私は思っている。「愛する」ということと「生きる」ということは、「意志」の根本なのだろう。堤のことばは、常に、そこから動いている。

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Estoy Loco por España(番外篇467)Obra, Jesus Coyto Pablo

2025-03-19 21:37:45 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo 

 Los cuadros están pensados ​​para colgarlos en la pared y contemplarlos. Pero me gustaría ver este cuadro en el suelo. En lugar de mirarlo desde el nivel de los ojos, me gustaría mirarlo desde arriba.
 Creo que la razón por la que me sentí así probablemente está relacionada con el clima de este año. Este año el frío ha durado más de lo habitual. Cayó nieve en mi ciudad, Fukuoka también.
 Lo que se representa en este cuadro es una flor que se ha abierto a través de la nieve acumulada. La vida está explotando de una vez. Debido a esto, el color no puede tomar forma. No puede convertirse en un pétalo, un tallo o una hoja. Sin embargo, tiene el poder de romper aquello que aprisiona la vida. Todos los colores son muy fuertes.
 El suelo es negro, frío y húmedo. En lo profundo de la nieve que lo cubre, se pueden ver los distintos colores de la vida. La nieve atormenta cruelmente esa vida. Sin embargo, la primavera está a la vuelta de la esquina, triunfido el frío y rebosando de colores de vida.

 Cuando era niña, me encantaba ver las flores florecer en la nieve. Recuerdo observar la nieve derretida y preguntarme de qué color sería la próxima flor nueva.

 絵は、壁につるして見るものである。しかし、この絵を、私は床において見てみたい。視線の高さで見るのではなく、上から見下ろしてみたい。
 こんな気持ちになったのは、たぶん、今年の気候と関係する。今年はいつもよりも長く寒さがつづいている。私の街、福岡にも雪が降った。
 この絵に描かれているのは、降り積もった雪を突き破って開いた花だ。いのちが、一気に爆発している。そのために色は形になりきれない。花びらや、茎や、葉になりきれない。ただ、いのちを閉じ込めるものを突き破る力だけがある。
 土は、黒く、冷たく濡れている。それをおおう雪の奥には、いのちのさまざまな色が見えている。それが一斉に爆発する春は、もうすぐだ。

 私はこどものころ、雪を突き破って開く花を見るのが大好きだった。次に新しく飛び出す花はどんな色だろうと思い、解け始める雪を見ていた記憶がある。

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小倉金栄堂の迷子(1)

2025-03-18 22:43:21 | 小倉金栄堂の迷子(メモ)

小倉金栄堂の迷子(1)

 「ことばが逃げ出した」。夢のなかへ、顔色をうかがうことが得意な「ことば」が密告しに来た。駆けてきたらしく、やっと、それだけを言った。私は、雪道で転び、大腿骨を骨折し、手術の麻酔のあいまいな意識のなかで、そう知らされたのだった。「どのことばだ」と私は聞き返したが、麻酔の夢から覚めると同時に、密告した「ことば」は消えてしまい、同時に「こたえ」も消えたのだった。

 しかし、私にはわかった。「あのことば」に違いない。小倉金栄堂の二階、売れ残っていた『廃棄された詩のための注釈』だったか『廃棄された注釈のための詩』だったか、タイトルははっきりとは覚えていないが、その本に、栞のようにノートの切れ端が挟んであり、そこに書いてあった「あのことば」。
 活字のように正確な文字。群青のインク。メモというよりは、テキストを筆写したような揺るぎない筆跡。私は、その五文字を記憶すると、紙片を破いてポケットの中に入れ、書店を出ると、側溝に捨てた。雪の季節で、それは雪のように舞った。服のなかに忍び込んだ雪が、服を揺らすとこぼれるように。

 「あのことば」は、私が手術で歩けないと知って、つまり追いかけることができないと知って、逃げ出したのだ。だからこそ、私は行かなければならない。小倉金栄堂へ行って、「あのことば」をつかまえ、印刷し、私の詩集に閉じ込めなければならない。なぜなら、「あのことば」は私のものではなく剽窃したものだからだ。そのままにしておくと、「あのことば」は「私は剽窃された。私のいる場所はここではない」と大声を張り上げるに違いない。

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Estoy Loco por España(番外篇466)Obra, Joaquín Llorens

2025-03-18 21:49:19 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 A mí me parece que las obras de Joaquín han cambiado un poco respecto a antes.
 Los movimientos son suaves y naturales. Siento como si el hierro se hubiera movido naturalmente, o más bien, hubiera crecido naturalmente como las flores y las plantas, tomando su forma actual.
 En otras palabras, la forma que veo aquí no son las formas finales, sino que continuarán creciendo y cambiando. Cada parte está atenta al crecimiento (movimiento) de las otras partes, todas trabajando hacia un todo mayor.
 Hay una flexibilidad oculta en el proceso de cambio que sólo poseen las cosas capaces de cambiar.
 Por eso, aunque están hechos de hierro, percibo su suavidad en lugar de su dureza.

 Joaquínの作品は、以前と比べると少し変化してきたように感じられる。
 動きがしなやかで、自然である。鉄が自然に動いて、というより、まるで草花のように自然に育って、いまある形になったように感じられる。
 別のことばで言えば、ここにある形は、これが完成形ではなく、これからさらに成長し変化していく。それぞれの部分が、他の部分の成長(動き)に気を配りながら、全体としてさらに大きな形を目指している。
 変化していく過程、変化することができるものだけが持つ秘められたしなやかさがある。
 鉄なのに、固さよりも、鉄の柔らかさを強く感じるのは、そのためである。

 

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こころは存在するか(47)

2025-03-17 23:19:02 | こころは存在するか

 大岡昇平全集6(筑摩書房)『事件』。映画にもなった作品。166ページ。

金田町という都市隣接町村の生活の姿全体が、事件の背景として、浮かび上ってきた。これこそ菊地の望んでいたことであった。

 「全体」ということばに注目した。
 「全体」がなくても意味は通じるが、大岡は「全体」ということばをこそ書きたかったのだと思う。この部分は、弁護士・菊地の「思い」なのだが、それは同時に大岡の「思い」そのものだと思う。
 大岡は「野火」「俘虜記」を書いた。それは戦争の「一部」であった。個人的体験であった。戦争の「全体」ではなかった。だから、大岡は、あの『レイテ戦記』を書いたのである。もちろん『レイテ戦記』が、日本が体験した「戦争全体」ではない。しかし、大岡が体験した戦争の「全体」と言えるだろう。(アメリカ、マッカーサーの思いを含んだ「全体」も、作品の最後で触れられてはいるのだが。)
 「全体」のなかで、個人がどう動いているか。個人の動きは「全体」とは切り離せない。
 「こころ」というものがあるとしても、それは「個人」の思うがままではない。「全体」からの影響を受けている。そして、それはもしかすると「個人のこころ」ではなく、「全体があってのこころ」かもしれない。
 しかし、そうだとしても、それは「全体への責任転嫁」にはならない。「全体の問題」であって「個人の問題」ではない、とは言えない。

 大岡昇平の文章が厳しいのは、常に「全体」をとらえようとしているからだ。

 この大岡の文章でおもしろいのは、その「全体」の上に「姿」がついていることである。「姿全体」。「姿」というのは、ちょっと強引な言い方になるが「こころ」ではない。「生活のこころ全体」(生きている人間のこころ、思い、考え、思想全体)ではなく「姿全体」と大岡は書く。
 「姿全体」は「慣用句」かもしれないが、慣用句だとしても、そこに「こころ」よりも「客観的」な「姿」ということばを選びとっているところに、私は大岡昇平の「視線」(肉眼の動き)を感じる。

 

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犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(2)

2025-03-12 14:22:17 | その他(音楽、小説etc)

犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(2)(読売新聞、2025年03月11日夕刊、西部版・4版)

 歌舞伎で何を見るか。歌舞伎をほとんどみたことがない私が、歌舞伎の批評を書き続けている犬丸の文章を批判しても無意味かもしれないが、少し補足しておく。
 きのう引用した文章の前に、次の文章がある。

白装束姿で切腹する菊之助の判官=写真右=が清冽で、客席も粛然と、咳ひとつしない。

 さて、この「清冽」「粛然」を引き出したのは「白装束」だけなのか。それでは芝居を見たことにならないだろう。
 写真を見ればわかることだが、菊之助の腰が少し浮いている。ここに芝居のポイントがある。切腹は座ってやるものだが、菊之助は腰を浮かせている。なぜか。ほんとうに力を入れるには正座のままでは無理がある。力を込めるには全身の力が必要である。そのために、自然と、腰が浮く。足に力を入れると正座したままではいられなくなるわけである。菊之助の「全身にこもる力」が「清冽/粛然」を引き出しているのである。
 そして、それが「全身の力」であるからこそ、刀を握った手は(指は)力がこもりすぎて、切腹が終わった後も刀から離れない。「全身の力」が指を硬直させている。それほどまでに「全身の力」がこもっている。
 だからこそ、松緑の由良之助は、その指をほどこうとして、撫でるのである。
 松緑の指、菊之助の指は、よほどいい席でないと、それが見えないだろう。しかし、正座から腰を浮かし、足に(全身に)力を込める動き、その肉体のありようは、劇場のどこからでも見えるだろう。菊之助は、それを見せている。そして、その動きに「清冽/粛然」が呼び寄せられるのである。だから緊張して、咳もしなくなる。役者の「肉体」の動きに観客の「肉体」が反応するのである。
 芝居(舞台)は、「頭」で見るものではなく、「肉体」で見るものである。観客の「肉体」が舞台に参加したとき、「劇場」は生きる。その体験を味わうために、観客は「劇場」へ行くのだと思う。その興奮がなければ劇場へ行く意味がない。

 指の動き(手の動き)で思い出すのは、団十郎の「俊寛」である。(だと、思う。はっきり覚えていないが、何やら写真を見た記憶がある。)俊寛が島を去っているひとを見送るシーン。崖の上。手を伸ばして、別れを告げている。このとき、団十郎は手で(指で)芝居をしているのだが、これが効果的なのは、崖の上、中空に存在するのは、彼の手(指)だけである。観客は、その手の動きに吸いよせられる。それを「見てしまう」。それしか「見えない」。観客の視線を集中させて、観客の目がはっきり手を見ることを知って、指で、手で演技する。それは松緑が菊之助の指に触れる演技とはまったく違うのである。
 団十郎は、手、指の動きで「全身」にこもる悲しみを表現する。菊之助は「腰(全身)」の動きで指にこもる力を表現する。その表現の差に、歌舞伎の(あるいは芝居の)醍醐味がある。
 (読売新聞の写真は、菊之助が腰を浮かしているシーンをとらえているが、トリミングがへたくそである。松緑の左半身をカットすれば、読者の視線は菊之助に集中する。菊之助の肉体の動きが鮮明になる。そうすれば、迫力が出るはずである。臨場感が出るはずである。)

 批評の末尾。これは前回触れなかったが、ここも傑作である。

「引揚げ」では、尾上菊五郎の服部逸郎が義士一同を馬上から見送り大団円。

 これも読売新聞には写真が載っているのだが、なんとも「締まり」がない。義士はばくぜんと座っているだけで「肉体」を感じさせない。彼らは芝居をしていない。衣装を着ているだけである。菊五郎にしたって、馬に乗っていなかったら義士に紛れ込んでしまいそうだ。(だから馬に乗っているのだろう。)つまり、まったく芝居をしていないのだ。
 写真で見る限り、馬子が「目立ってはいけない」と必死になって姿を隠そうとしているが、それが逆に目立ってしまう。それくらい奇妙である。
 このあたりの問題、さらには「台詞回し」についての言及もほしい。犬丸の今回の批評には「声」のことが何も書いてない。「声」は、その場で消えてしまう。その瞬間にしか存在しない。それについて言及できるのは、その場に立ち会った人間(観客)だけなのだが、台本(というのかどうか知らないが)と写真を見れば書けるような批評は批評とは言えないだろう。

 

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犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」

2025-03-11 16:33:37 | その他(音楽、小説etc)

犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(読売新聞、2025年03月11日夕刊、西部版・4版)

 私は歌舞伎をほとんど見たことがないし、その批評もほとんど読んだことがない。きょう紙面を開いたら、いつもの倍くらいのスペースで批評が載っていた。「仮名手本忠臣蔵」についての評である。私が、それを読んでみる気になったのは、ひとつはいつもより広いスペースをとっていることと、私が日本語を教えている生徒(アメリカ人)が日本文化に関心を持っていて、歌舞伎・人形浄瑠璃で「仮名手本忠臣蔵」を取り上げたことがあるからだ。いま彼はアメリカにいて、今度来日したとき、これを教材につかってみようと思ったからである。
 ちょっと前置きが長くなったが。
 犬丸治の書いている批評には「菊之助と松緑 主従の絆鮮明」という見出しがついている。これは、まあ、なんとも「適切」な見出しなのだが。そして、この歌舞伎のポイントをついたものなのだが。あ、これでは「仮名手本忠臣蔵」を勉強するときに役に立つ、アメリカ人相手に説明するのに役に立つとは思っても、ちょっと「味わう」という感じにはなれない。
 こんな批評で、歌舞伎ファン、あるいは歌舞伎を演じている役者は満足なのか。ハイライトの部分は、ここである。菊之助の判官が切腹する。そのときの菊之助、由良之助を演じる松緑の演技を、こう書いている。

判官に後事を託されて胸を叩き、死してなお切腹の刀を放そうとしない判官の指を優しく撫でるあたり、主従の思いがにじむ。ひとりの男が主家断絶という思いがけぬ事態に投げ込まれ、仇討ちの覚悟を固めていく姿が鮮明だ。

 もしこのシーンで、主従の絆が鮮明に伝わってこなかったとしたら、それは芝居ではないだろう。それは「台本」を読んでも伝わってくるものだろうし、なんといっても日本人にはなじみのあるストーリーなので、このシーンは主従の絆を象徴的に描いていることは観客のみんな(私のように歌舞伎をほとんど見たことがない人間)にもわかりきっていることである。犬丸が書いているような批評では「役者」が見えてこない。歌舞伎(芝居)はストーリーを確認するものではない。役者を見るものである。役者の肉体を見て、自分の肉体が反応するのを楽しむものである。
 「判官の指を優しく撫でる」と犬丸は見どころを的確にとらえているが、その「優しく撫でる」が、ほかの役者とどう違うのか。その「撫で方」を見て、犬丸の「肉体」がどう反応し、それが犬丸の「感情」をどう揺さぶったかを書かなければ批評とは言えないだろう。
 そこに「主従の思いがにじむ」のは、当たり前のことであって、もしそのシーンから「主従の思い」が感じられなかったとしたら、それは、よっぽど芝居が下手なのだ。「主従の思いがにじむ」という、見なくても書けるような批評ではなく、劇場でみなければわからない「主従の思い」を犬丸が、役者の「肉体」にかわって、犬丸自身のことばで書かないと批評とは言えない。
 「仇討ちの覚悟を固めていく姿が鮮明だ」というような、抽象的なことばではなく、「どんな具合に鮮明なのか」を具体的に書かないと、役者に対して失礼ではないのか。
 今回は菊之助と松緑が演じているが、これがほかの役者の場合でも、犬丸は「判官に後事を託されて胸を叩き、死してなお切腹の刀を放そうとしない判官の指を優しく撫でるあたり、主従の思いがにじむ。ひとりの男が主家断絶という思いがけぬ事態に投げ込まれ、仇討ちの覚悟を固めていく姿が鮮明だ」と書くことが可能なのではないか。役者が誰であっても、この部分は、そのまま当てはまるのではないか。
 言い換えると。
 歌舞伎の演技が「伝統」の繰り返し(なぞり)で成り立っているように、歌舞伎の批評も、何やらすでに語り尽くされたことばを繰り返し、なぞっているだけなのではないか。単に役者の名前を入れ換えて書いているだけにすぎないのではないか。
 そんな疑問を、私は、持ってしまった。犬丸の文章は「教科書」的で、どこにも犬丸の「個性(肉体)」を感じさせるものがない。

 
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