詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」

2018-12-10 10:49:56 | 2018年代表詩選を読む
倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 倉橋健一「そのときも」(初出「時刻表」3号、5月)には不思議なことばがある。

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
手を伸ばせばすぐ届くところに居ながら
あの人の姿はしぶとく
この自然の昏いきつい装いのなかに溶けていった
私はもう手当たりしだいに呼び続けるしかなかった

 三行目の「しぶとく」が不思議だ。「しぶとく」という副詞は「持ちこたえる」(維持する/変化しない)ということばと結びつくのがふつうだと思う。けれど高橋は「溶けていった」ということばへとつないでいっている。「溶けていかなかった」ではない。ここに、つまずく。つまずくけれど、倒れる、という感じではない。なぜ、「しぶとく/溶けていった」なのか。この、学校文法では否定されることばの動きで、倉橋は何を明るみに出そうとしているのか。
 「溶けていった」けれど、そこには「抵抗」があった。簡単に溶けていったのではなく、あらがいながら、時間をかけて「溶けていった」ということを予感させる。
 詩は、こうつづいている。

電線の音だけがびゅうびゅうと耳元を掠めていった
私は綾取り用の細いしなやかな組紐を買うために
臥った姉さん頼まれて町へ行った帰りだった
姉さん!セピア色のフィルムのなかにしか姿を残せなかった姉さん
私は山間の廃線トロッコ道を枕木を踏みながら急いだのだった

霧に被われたのはどのあたりだったか
今になってみればそれはもうどうでもいい気がするが
瞼に残るのは小さな琴、小さな鼓、小さな乳母車、月にむら雲、
ああ私の生きている分量の百分の一にも満たなかった
全身赤ん坊のままだった姉さん

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
なんといっても姉さん!霧に溶けていったのはあなただからだ
じわじわと霧は私の目、私の手、私の足、に襲いかかり
恐いことなんか少しもないのにまったく動けなくなってしまった
身近な彼方にでもあの人は(そのときも)居るはずだった

 最後の連に「動けなくなってしまった」(動けない/動かない)という動詞が出てくる。これが「しぶとく」と呼応している。「しぶとく/動けなくなった」とは、やはり、言わない。けれど「動けなくなった」けれども「しぶとく」そこに「居た」ということはできる。
 「居る」という動詞が何回か出てくる。この「居る」と「しぶとく」が深いところでつながっていて、その感覚が、ことばを貫いている。
 「しぶとく/溶けていった」「しぶとく/動けなくなってしまった」はつながりにくいが、その「溶けていった」「動けなくなってしまった」けれど、そのときの「時間」の「長さ」が「しぶとく/居る(存在する/生きている)」とつながる。「しぶとく」は「長い時間」という形で、そこに「居る」人を浮かび上がらせる。
 「私(倉橋)」が霧に囲まれて身動きできずにいたとき、姉は病床で死と戦い身動きできずにいたのかもしれない。「私」と姉は、「身動きできない」という動詞の中で「ひとつ」になり、それぞれに「しぶとく」その時間を生きたのだ。その「しぶとさ」を倉橋は思っている。さらに、その「しぶとさ」は、姉の場合は「恐さ」との戦いであったかもしれない。



 須永紀子「中庭へ」(初出「栞」7号、5月)の二連目。

踏み出した足が土中にめりこみ
なかなか上がってこない
象のように沈んでいく身体
〈重い〉感覚が思考を中断させ
脳に侵入する
〈重い〉苦痛が脳を占拠して
神経系を分断する

 「〈重い〉感覚」を「〈重い〉苦痛」と言いなおしている。「侵入する」は「占拠する」と言いなおされる。「中断させる」は「分断させる」と言いなおされる。ただし動詞の呼応は、「中断する/占拠する」「侵入する/分断する」という順序で書かれている。だから「侵入する/占拠する」「中断する/分断する」と読むのは、「正しい」読み方ではなく「誤読」なのだが、この「誤読」のなかには、倉橋が書いていた「私/姉」の交錯のようなものがある。交錯した瞬間に、瞬間的につかみ取る何かがある。



 中村稔「言葉について1」(初出、詩集『新輯・言葉について 50章』5月)の最終連。

言葉は質量をもたず、鋭利でもないけれど、
集落が頽廃したとき、集落を消失させるほど
威力をもつことに誰も気づいていない

 しかし、また、ことばは「消失してしまったもの」をも呼び出し、いのちを与えることもある。
 倉橋の詩では、姉は死んでしまっているが、その詩を読むとき、私が思うのは「生きている」姉である。須永の詩からは、「重い」と感じるときの「時間」そのものである。それらはいずれも、詩を読む瞬間の、「いま/ここ」に生きている。



*

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失せる故郷
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新倉俊一『ウナ ジョルナータ』

2018-12-09 16:18:01 | 詩集
新倉俊一『ウナ ジョルナータ』(思潮社、2018年10月30日発行)

 西脇順三郎のことを、きのう少し書いた。新倉俊一を思い出した。『ウナ ジョルナータ』に「ある一日」という詩がある。

まだ神無月だというのに
アフロディーテやアテナイやら
女神たちがつぎつぎと
海を渡ってやってくる
そして冷たいゼフィロスに
つぎつぎと鮮やかなに色の
花束を部屋いっぱいに
吹き送らせるのだ
安酒場からファミレスへ
能の「六浦」から運慶の
上野へと連日のように
まさに移動祝祭日だ
だが運命の回転は惑星
よりも速いアイアイ
ささやかな幸運が
いつか訪れたら行こうと
心に決めていたあの
映画の題名のような店
Una Giornata はもう
無くなってしまい
わたしの夢の中にしか
残っていない

 「アフロディーテ」と「ファミレス」の同居、「アテナイ」と「能」の同居。「アイアイ」ということば。どれも西脇を思い起こさせる。西脇も書くかもしれないなあ、と思わせる。もちろん西脇とは違う。こう書くと新倉に申し訳ないが、西脇の方がもっと「音」が強い。活字にすれば同じものなのだけれど、「ほんもの」という感じがする。前後の音との響きあいが違うのだと思う。
 でも。
 きのう読んだ城戸朱理の嘘っぽさ(気取り)と比較すると、ぐっと「真実味(ほんとうらしさ)」が強い。特に、最後の五行が響きあっている。そこに西脇とは違う新倉の音楽がある。
 「無くなってしまい」を「わたしの夢の中にしか/残っていない」と言いなおすときの、静かさ。「心に決めていた」と「心」から始まったことが、「夢の中」と「夢」に変化している。「心」と「夢」は微妙に違う。その移行の動きのなかで行われているのは、店の確認なのか、自己確認なのか、判然としない。店と一体になっている。店について思うことが、新倉自身を思うことと重なっている。
 同じことが新倉の夢と心の中で起きるのだと思う。つまり、西脇を思うとき、そこに新倉が姿をあらわすということが。そのことを新倉は喜んで受け入れているように感じられる。西脇を押し退けて新倉を出さないといけないとは思っていない。西脇によって導かれた世界があるということを、淡々と書いている。「頭」で強引に整理しようとしていない。整えない。
 そこに新倉の「正直」がある。
 だから、誘われるようにして、「ウナ ジョルナーレ」か、と思わず声を漏らしてしまう。どこにあった店なのだろう。東京か。イタリアか。もう新倉の夢の中にしかないという店に行ってみたいなあ、と思ってしまう。それができたら新倉の心の中へ入っていける。そこで新倉だけが知っている西脇にも出会える気がしてくる。

 詩集の最後におさめられている「ウインターズ・テイル」はとても美しい。工藤正廣が書いていた少年パステルナークのように、それは新倉自身のことというよりエミリー・ディキンスンのことなのだが、繰り返し繰り返しディキンスンに触れることで、ディキンスンに重なってしまった部分が自然に動いている。好きな人になってしまう。誰かを愛するということは、自分が自分ではなくなってもかまわないと決心することだが、それを「決心」とも思わず、自然に重なってしまう。そこに新倉の「正直」があらわれていて、美しいなあと思う。ディキンスンが美しいのか、新倉が美しいのか、考えることなく、ただ美しいと思う。





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ウナ ジョルナータ
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(154)

2018-12-09 11:14:43 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 「家族ゲーム または みなごろしネロ」は「ネロ」が語り手だ。

ぼくが 父を殺した
理由は 老いぼれで
大喰らいで 大淫ら
つまり 醜悪至極だったから
彼は死んで 神になった
へどまみれ 淫水まみれの神
彼を神に挙げた手柄は
ぼくのもの

 と始まる。このあと「僕は 弟を殺した」「妹を殺した」「母を殺した」「妻を殺した」「息子を殺した」とつづいていく。
 同じリズム、同じ展開である。
 「理由は」と語り、「つまり」と言いなおす。これは「論理のことば」だが、ここでは「論理」が効果的だ。「定型」をかたちづくり、ことばにスピードを与える。意味が明確になり、軽くなる。陰惨な内容だが、童謡のような明るさ、無邪気な声が響きわたる。「定型」が陰惨さを洗い流してしまう。
 「神話」が誕生する、と言ってもいいかもしれない。
 「神話」というのは、口から口へつたわっていかないといけない。耳から入ったことばが肉体を通り抜け口から出ていく。その繰り返しが、ひとの「肉体」そのものをつくる。音、リズムと響きが、ひとの肉体で共有され、ひとは「ひとつ」になる。

 この詩は大好きだが、不満もある。
 「ぼくは 師を殺した」と「ぼくは ぼくを殺した」のパートはおもしろくない。「論理」が完結してしまう。「定型」が閉ざされてしまう。「ぼくは 息子を殺した/(略)/彼を存在に転じた手柄は/ぼくのもの」で終わっていれば、「ぼく」は開かれたままだ。殺されて存在しないのに、殺されることで記憶(歴史)に存在してしまうという「矛盾」に打ちのめされる。読者は「ぼく(高橋)」になって「ネロ」の快感、歴史に批判されるという超人にしか味わうことのできない快感を味わうことができる。
 「神話」の主人公になることができる。

 詩の最後の「遺書」の部分は、「定型/完結」に二重化している。すべてを「論理」のなかにことばをとじこめている。
 高橋の「個人的事情」なんて、私は知りたくない。



 このシリーズは、今回が最終回です。

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つい昨日のこと 私のギリシア
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工藤正廣「すべての祝福の始まり」、野崎有以「塩屋敷」、城戸朱理「目覚めよ、と呼ぶ声がして」

2018-12-08 10:57:20 | 2018年代表詩選を読む
工藤正廣「すべての祝福の始まり」、野崎有以「塩屋敷」、城戸朱理「目覚めよ、と呼ぶ声がして」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 工藤正廣「すべての祝福の始まり」(初出「午前」13号、4月)には「リルケとパステールナーク」という副題がついている。

遥かな野辺とプラットホーム
二人の話すドイツ語
少年はすでにドイツ語は完璧なほどに分かる
しかしこのひとのドイツ語は なぜだろう
いままで聞いたこともないふしぎなひびきだ

 これは少年パステルナークが出会ったリルケの印象である。工藤自身の経験ではない。でも、とても自然にことばが響いてくる。工藤自身がパステールナークになってしまっている。何度も何度も思い返した結果、自然にそうなってしまったのだろう。
 ブログに書いたが、この詩はとても好きな詩である。



 野崎有以「塩屋敷」(初出「交野が原」84号、4月)は、誰の記憶を書いているのか、わからない。野崎の体験を書いているとは思えない。詩は、詩人本人の体験を書くものではない、と言えばそれまでだが。

アメリカに行った女が大雪になりそうな日に戻ってきた
女はいつか大雪の日に雪かきをしろと亭主に言われたせいで出ていった
地主の亭主はえらく反省した
女このことを思い出すたびに家の若い衆を集めて塩を買いに行かせた
雪の降りはじめに塩を撒いておくと積もらないのだと聞いたからだ

 一種の「物語」として読めばいいのだろうか。
 間延びした「散文」のように感じられる。
 唯一おもしろいと思ったのは、次の部分。

こたつの上には亭主の読んでいた『家の光』
ノサカ・アキユキ
いるのかいないのか
往復書簡だけが連載され続ける
重なった生八つ橋のような往復書簡を一枚ずつはがしていくと
「農村生活の改善はカマドから!」というスローガンが発掘された

 という部分である。
 なぜ、おもしろいと感じたかというと固有名詞『家の光』が出てきたからだ。『家の光』は見たことがある。兄の父が死んだとき、兄の父の家で見た。私の家は貧乏だったから、教科書以外に本などなかった。初めて教科書ではない本だったから覚えている。農村向けの雑誌である。それこそ農村生活を改善するために発行されていたのだろう。
 でもこれは、私自身の個人的な体験を、野崎のことばに重ねて、過去を思い出しているだけであって、野崎が書こうとしていることと関係があるのかどうか、わからない。
 だから、詩を読んだ、という気持ちにはなれない。



 城戸朱理「目覚めよ、と呼ぶ声がして」(初出「マドレーヌの思ひ出」1号、5月)はカキを食べながらワインを飲む詩である。ワインは途中でスコッチに変わる。

二枚貝が成熟して
美味しい季節には
ワイングラスを片手に
退屈を噛みしめる
それは子供には味わえない夜だから
八時には口腔から鼻孔へ
潮風が吹き抜ける

 「味わう」というのは、なかなかむずかしい。何度も何度も体験して、やっと「ほんもの」に出会うということがある。あ、これがカキの味だ。これがワインの味だ、と気がつく。
 初めての体験なのに、いきなり「ほんもの」に出合うということもあるだろう。初めて食べるのにカキがとてもうまいと感じる。(おそらく多くの子供は、生カキをおいしいとは思わないだろう。)これは、たいへん幸福な人である。
 もうひとつ、とても不思議な「味わい方」ができるタイプの人間がいる。
 何度も何度も食べている、飲んでいる。それなのに、「いま初めて食べた、飲んだ」という生き生きとした肉体の動きをそのままことばにできる人がいる。そういう人にであうと、思わず、その人が食べているものを食べたくなる。飲みたくなる。食べたり、飲んだりだけではなく、あらゆることをそのまま体験したくなる。
 こういう書き方(ことばの使い方)ができる詩人に西脇順三郎がいる。教養が、西脇の体験を、瞬間瞬間、洗い流し、生まれ変わらせる。どこかの、田舎のおかみさんの里ことばさえ、古典のように「歴史」をかかえこんで、いま、ここに噴出してくる。西脇の教養が、そうさせるのだ。
 さて。
 きょう読んだ工藤、野崎、城戸の詩。
 工藤の詩は、繰り返し繰り返しの果てに発見した「ほんとう」が書かれていると感じられる。繰り返すことで、ことばの音楽を整えてきた。そういう美しさを感じる。
 野崎は、初めてなのに(未体験なのに)、「ほんもの」をつかみとるというタイプを目指しているのかもしれないが、「方法論」がそうなっているだけという感じがする。
 城戸は西脇を目指しているのだろうが、気障というか、気取りというか、「ほんもの」がつたわってこない。七行目の「潮風」は単なることばだ。カキだから「潮風」と書いただけだ。「定型」だ。城戸が食べているのは、粒が揃っているかもしれないが「養殖カキ」であり、その「潮風」も「養殖」されたものにすぎない。「潮風」を「ほんとう」にするためには、ほんとうの海を見る、自然に触れるという教養が必要なのだ。


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パステルナーク全抒情詩集
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(153)

2018-12-08 10:48:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」

 「異神来る オリュンポス神族が言う」。オリュンポスの神からキリストのことを語っている。

どんな男神 どんな女神にも 似ない神
どんな逞しさ どんな美しさも 無い
汚れて 痩せこけて 顔いろすぐれず
およそ生気なく 景気のわるい 神

 これがその姿。否定的なことばが並んでいるが、「これはひどいなあ」という感じのものはない。「悪口」になっていない。言い換えると、思わず笑ってしまうような「悪口」がない。
 こどもの喧嘩の常套句、「おまえの母ちゃんでべそ」のような「無意味さ」がない。だから「ほんとう」のことばという感じがしない。「おまえの母ちゃんでべそ」は常套句だが、まだ、その方が感情が動いている。ひとの「悪口」を言うというのは、こういう「無意味」を言えるかどうかなのだ。
 「そこまで言うか」というおと炉木が、喧嘩(批判)の楽しさである。「そこまで言うか」ということばが、批判されている人も、批判している人をも救うのだ。
 高橋のことばは優等生の「批判」である。
 しかし、

や これは何だ この両の蹠の踏み応えのなさは?
脛にも 腿にも 両の腕にも まるで力が入らない
それに 鼻から 口から 吸い込む息の この希薄さは?
目を凝らせば 周りの男神 女神が ぼやけていく
ということは 見ているこの身も 薄れていくのだな

 ここは印象に残る。「ということは」というのは「論理」のことばだが、ここには「論理」だけがたどりつける「嘘」がある。
 高橋はオリュンポスの神ではない。だから、この詩のことば全体が「嘘」なのだが、「嘘」をいいことに「嘘」を重ねる。そこに、詩の「力」が生まれてくる。「力」に引き込まれ、思わず笑ってしまう。
 指し示している内容は違うのだが、「力」の感じは「おまえの母ちゃんでべそ」に似ている。無意味になっている。高橋は「意味」だと言うかもしれないけれど、不思議なばかばかしさが生き生きしていて、ここには「ほんとう」があると感じる。








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ジェフリー・アングルス「残るのは」、若松英輔「幸福論」

2018-12-07 07:52:15 | 2018年代表詩選を読む
ジェフリー・アングルス「残るのは」、若松英輔「幸福論」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 ジェフリー・アングルス「残るのは」(初出「ミて」 142号、3月)に印象深い行がある。

通りすぎるものはすべて消え
裏の風景だけが残存する
例えば 小学校の細やかな
出来事の代わりに残るのは
運動場の奥に連なる丘

「裏の風景」は抽象的だが、「運動場の奥に連なる丘」は具体的だ。「奥」というかぎりは「手前」がある。「前」が「表」になるだろうか。「表」はまた「出来事」でもあるだろう。日本の小学校ならば、たとえば「運動場」の「表」の「出来事」は運動会である。その記憶。運動会の風景そのものは消えたが、あのときもあった運動場の奥の丘は、いまも存在する。それは、いまの「出来事」だ。いま、ここにあらわれてくる。
その不思議な「関係」を思う。ジェフリー・アングルスが小学生のとき「運動会」というものを体験したかどうかわからないが。私は、作者の体験ではなく、自分の知っていることをジェフリー・アングルスのことばを読むことで確かめるのだ。
また、この詩では「例えば」ということばも、とても印象に残る。この「例え」は「比喩」ではない。「暗喩」「直喩」「換喩」でもない。あえて言えば、「見本」だ。「言い換え( ことば) 」ではなく、「実物 (もの) 」なのだ。「運動会」は「もの」ではなく「こと( 出来事) 」なのだが、そこには実際に動いた自分自身の「肉体」という「もの」がある。その「手触り」のようなものが、そのまま「丘」につながっていく。「実際にあるもの」。目の前にあるもの。
 「暗喩」「直喩」「換喩」のどれでもいいが、そのときつかわれる「ことば」はたいていの場合、「いま/ここ」にはない。けれど、ジェフリー・アングルスは、「いま/ここ」に、そして「永遠」に「ある」ものを語る。「例えば」ということばをつかって。



 若松英輔「幸福論」(初出、詩集『幸福論』3月)。

闇にあるとき 人は
もっとも 強く
光を感じる そう
言った 人がいます

あなたが わたしの
心に 残していった
この 暗がりも
光との 出会いを
準備する
ものなのでしょうか

 こういう抽象的というが、一種の宗教的なことば、その指し示す「世界」というのは、私は好きではない。「意味」が強すぎて、うさんくさい。
 でも。

でも わたしは
薄暗い 場所で
あなたと いられれば
それで 十分だった

 この三連目はいいなあ。
 「闇」ではなく「薄暗い」が「現実」なんだなあ。「闇」とか「光」だと「比喩」がそのまま「抽象」(意味)になってしまう。「薄暗い」は「抽象」になりにくい。あいまいだ。それが「現実」を感じさせる。
 「光」なんか、どうでもいい。重要なのは、「あなた」と「いる」という事実なのだ。「現実」なのだ。それを人が何と呼ぼうが関係ない。
 
明るいところで
ひとり
何をしろと
いうのでしょう

 「闇」と「光」が「対」なら、「あなた」と「わたし」も「対」である。「対」は向き合っているが、「対立」ではなく「出会い」である。
 「闇」と「光」がであったら、どうなるか。どちらにも「抽象」されず、「薄暗い」という、あいまいで、どうしようもないものになるのかもしれない。でも、それがいい。



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(152)

2018-12-07 07:40:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 「殺したのは」はソクラテスを描いている。

あの男を殺したのは 誰か
滑稽な怪士の面相の 内側に
美しい魂 を匿し持った あの男を?

 と始まる。「滑稽な怪士の面相」は外側にさらけ出され、「内側」には「美しい魂」を「匿し持つ」という対比。この対比は三連目では、こうなっている。

学問と同じほど 体育にも励み
精神と等しく 身体も強健
氷の上も 素足で歩いた あの男を?

 「学問」と「体育」、「精神」と「身体」。一連目にはなかった「同じ」「等しい」が書かれている。
 この「同じ」「等しい」を「即」と読み直せば、「一元論」になるかもしれない。しかし、高橋は「一元論」をソクラテス、あるいはギリシアに読み取り、このことばを書いたのか。
 そうではなくて対比を明確にするために、両極を分断するために、そこに「同じ」「等しい」ということばを挿入したのではないのか。

 いくつかのソクラテス像を描いたあと、詩は、こう閉じられる。

あの男を殺したのは それは 私たち
あの男の高潔無比に 耐えられず
嘘の罪状を でっち上げた 私たち

いまは 激しく後悔し 彫像を押し立てて
広場で 慟哭の限りを尽す 私たち
私たちだ あの男を殺したのは

 ソクラテスと「私たち」が簡単に対比されている。「殺す」という動詞で「対比」を結ぶ。そして、このとき「殺す」は「同じ」「等しい」ではなく、明確な「分断」として働いている。「後悔する」「慟哭する」という動詞が、ソクラテスと「私たち」を結びつけている、と読むことができるかもしれないが、それを意図しているかどうか、私にはわからない。
 「殺す」にしろ、「慟哭する」にしろ、ソクラテスと「私たち」が、その動詞のなかで結びつくには、愉悦のようなものがなければならないと私は感じる。一種のエクスタシーがないといけない。
 プラトンの「ソクラテスの弁明」を読み、そのときの投票の結果を比較すると、あの裁判には「熱狂」がある。「混乱」がある。弁明に反発を感じ、有罪の投票をしたひとがいることがわかる。「反発」は理性の働きではない。「感情」が暴走している。憎しみが拡大している。わけのわからないものが、かってに動いている。
 その「熱狂」を「私たち」は、ほんとうに持っているか。「私たち」と書く高橋は、持っているのか。
 それが、この詩からは、わからない。私には、高橋の「熱狂」、その暴走がわからない。高橋は、単に「あの男の高潔無比に 耐えられず」という「説明」のなかに逃げ込んでいないか。

 これから書くことは、高橋の詩への感想から離れる。でも、書いておきたい。
 ソクラテスは、私には、どう考えてもわからない「謎」である。
 私にとって人間の最大の不幸は死である。死んでしまっては幸福というものはない。不幸もないかもしれないが、死んでしまえば、何もないということになる。
 あらゆる「正しさ」は人間が生きるためのものである。
 ソクラテスの論理はどこまでも正しい。高橋の書いている表現を借りれば、その「正しさ」は「高潔無比」という「比喩」になるかもしれない。
 その「正しい」が、なぜ、ソクラテスのいのちを守れなかったのか。いのちを守れなくて、それでも「正しい」と言えるのか。

 私には、それがわからない。

 私がソクラテス(プラトン)から学んだことは、「論理」は必ず間違いを含んでいるということ。「ソクラテスの弁明」のどこが間違いなのか、私は指摘することができない。けれど、ソクラテスが死刑の判決を受けたということは、弁明に間違いがあったからだ。市民の判決が間違っていると言うことは簡単だが、その間違いをソクラテスは正すことができなかったというのは「事実」なのだ。
 たぶん「完結している」ということに「原因」のようなものがあると思う。論理はいつも完結する。完結することが論理にとって正しいことだからである。でも、それは論理にとって正しいという意味であって、論理が正しいということではない、と私は考えている。
 「ソクラテスの弁明」は他の対話篇と違って、ソクラテスのことばしかない。ソクラテスの論理(ことば)が単独で完結を実現している。もしかすると、このあたりに間違いの原因があるかもしれない、とも思う。



つい昨日のこと 私のギリシア
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中上哲夫「叔父さんと叔母さん 父の兄弟たち」、広瀬大志「風景の機会」

2018-12-06 09:55:49 | 2018年代表詩選を読む
 中上哲夫「叔父さんと叔母さん 父の兄弟たち」(初出「space 」 138号、2月)には「言い換え」がたくさん出てくる。
 一連目には「叔母さん」が描かれているが、そのなかの「棘の塊を踏んだり」の「棘の塊」はウニのことだろう。比喩である。この叔母さんの名前は明らかにされていない。結婚して「船橋の叔母さんが清水の叔母さんになった」。名前ではなく、地名で呼ばれる。
 二連目には岡山の叔父さんが出てくる。「手に球状の物体を重々しくぶらさげて」やってくる。「球状の物体」とはスイカである。この言い換えも比喩である。岡山の叔父さんがくると、いつも鰻重をとった。「で、ぼくらはいったものだった。鰻の叔父さんがきたと。」この「鰻の叔父さん」という言い換えは、いわゆる換喩である。比喩ではない。この叔父さんは名前ではなく、換喩で呼ばれる。
 そして三連目。

ぼくらにはもう一人叔父さんがいた。ヒデちゃんという名前の。間違いなく、祖父母にもっとも愛された人間だった。とても勉強ができて、とってもやさしい子だった、と。でも、ほんとに、ほんとうだろうかとぼくらは思った。叔父さんはとっくの昔に亡くなっていたのだ。ぼくらが生まれるずっと前に。結核で。

 ここには比喩も換喩も出てこない。「言い換え」はない。でも、「ほんとう」が書かれているのか。「ぼくら」は疑っている。けれど、疑いようのない「ほんとう」が書かれている。「祖父母にもっとも愛された人間だった」。
 「清水の叔母さん」も「鰻の叔父さん」も嘘ではない。ほんとうである。でも、その「言い換え」は、ヒデちゃんの「ほんとう」とは少し違う。
 この詩は、それを明らかにしている。
 詩は、比喩でも換喩でもない。言い換えが不可能なところにある。

 広瀬大志「風景の機会」(初出「みなみのかぜ」3号、2月)は「言い換え」かどうかは、ちょっと言いにくいところがある。比喩とはっきりわかるものもあるが、そうではなく抽象的としか言えないものもある。でも、具体的なことを言わない、抽象的に指し示すという点では「言い換え」の一種だろう。

客観性のない避難場所
(そこでの薔薇)が
図星によると
おれの必然的な遅延であり
複製された時間の中で
次の衝突が起きるまで
絶望的な選択肢に
自慰する谺だ

 「自慰する谺」は何のことかわからない。完全な「暗喩」である。それまでの抽象的なことばを引き継いで、抽象を一気に「意味」に転換するための暗喩だと「解釈する」ことができる。どういう「意味」かはわからないが、「意味」を浮かび上がらせようとしている、広瀬の意図を感じる。
 作為、と言った方がいいかな?キザったらしくて、そのキザをあえてぎくしゃくとしたものにみせている。
 で、どこに詩がある?
 よくわからないが、この「作為」が詩なんだろうなあ。西脇は、わざと書くのが詩と言っていた。「わざと」というのは「作為」を持って、ということだ。
 そんなふうに「理解」する(頭で、なんとか考える)のだが、私の「肉体」がついていかない。私には教養がないので、広瀬のことばがどんなことば(出典)と交流しているかわからない。わからないなら読むな、という怒りが聞こえてきそうだが。
 中上の詩を読んでいたときは、具体的には書かれていないのだが、おじいちゃんおばあちゃんの「声」が聞こえてくる。「ほんとうだろうか」という中上の声も聞こえてくる。はっきり聞こえるので、それを「詩」と感じる。



*

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中上哲夫詩集 (現代詩文庫)
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(151)

2018-12-06 09:25:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
151  ヘレニスト宣言

 「ヘレネスとはヘラスの教養を頒ちあう人」というイソクラテスのことばを引いたあと、こう書き始められる。

何者かと問われたら ヘレニスト
ただし 黄色いヘレニスト
ついでに 老いぼれの と加えよう

 「ヘレニスト」「ヘレネス」が「教養」というものと関係しているとしたなら、「黄色い」とか「老いぼれ」とは関係ないだろう。そういうことばをひきずって「ヘラス」へ近づいていく限り、ヘレニストにはなれないというのは、「論理的」な批判になってしまうだろうか。

ヘレニスムが ヘラスに始まり
ヘラスを超えて 若さなるもの
みずみずしいものへの 永遠の憧れ

 という行を挟んで、詩は、こう閉じられる。

二十一世紀の 盛りの若さのヘラスびとよ
窮極の恋の切なさは 十八歳の肉の輝きに
ではなく 八十歳の魂の闇にこそ

 「若さ(十八歳)」と「老い(八十歳)」、「肉の輝き」と「魂の闇」が、「恋」のなかで交錯する。でも、私はそれを「論理」としか読み取ることができない。「切なさ」を感じることができない。
 また「論理」が「教養」であるとも思わない。「教養」が「論理」を含むということはあるだろうが、「論理」が「教養」を含むとは思えない。



 私は一度、アテネへ行ったことがある。古代の市場あとを歩いた。ゆるやかな坂があった。坂だと気づいたとき、プラトンの対話篇に、人が「坂道を降りてくる」という描写があったことを思い出した。あ、坂は(地形は)プラトン、ソクラテスの時代から変わらない。変わらないものがある、ということが、私のアテネ体験だった。坂か変わらないように、精神の地形も変わらない、と私は思っている。私はプラトンが伝えているソクラテスが好きだ。

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岩木誠一郎「夜のほとりで」、北川透「出会い」

2018-12-05 12:57:24 | 2018年代表詩選を読む
岩木誠一郎「夜のほとりで」、北川透「出会い」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 岩木誠一郎「夜のほとりで」(初出『余白の夜』1月)については、感想を書いた記憶があるが、もういちど書いてみる。

のどの渇きで目覚めて
台所に向かう
いやな夢を思い出したりしないように
そっと足を運び
ひんやりした空気に
触れる頬のほてりが
しずまるまでの時間を歩いてゆく

ずいぶん遠くまで
来てしまったらしい
冷蔵庫の扉には
たくさんのメモが貼られていて
読みにくい文字をたどるたび
失われたもののことが
ひとつずつよみがえる

 二連目の「ずいぶん遠くまで/来てしまったらしい」がとてもいい。寝室から台所までだから「遠い」ことはない。空間としての距離は「近い」。空間ではなく、時間が「遠い」のだ。
 「時間」ということばは、すでに一連目に登場しているが、「時間」の指し示すものは違う。一連目は、あくまで「短い間」である。家のなかでの、寝室から台所へ移動するまでの「時間」。一分とか、二、三分とか。その短い間にも、頬は冷気に触れて冷たくなる。
 二連目は、「短い時間」ではない。「思い出」にかかわってくる。しかし、「いやな夢」の思い出ではない。それは、やはり「近い時間」だ。
 そうではなくて、「いつかわからない」時間だ。いつ、とはっきり思い出せないから「遠い」。でも、なぜ思い出せないのに、思い出なのか。
 「たくさんのメモ」が、メモが書かれた瞬間を思い起こさせるからだ。いや、これは正確ではない。メモを書いた瞬間など、めったに思い出さない。何も思い出さないけれど、メモは、ある「時間」があったことを告げている。メモのなかには、岩木が書いたものではなく、家族が書いたものもあるだろう。それは岩木とは無関係かもしれない。岩木の思い出ではない。けれど、そこに「時間」が「あった」ということを教えてくれる。この「あった」という感じが「遠い」なのだ。
 だから、この「遠い」は、それこそ次の行にあらわれる「たくさん」と言い換えることができる。「たくさんの時間をくぐりぬけてきてしまった」(たくさんの思い出を生きてきてしまった)。
 誰もが知っている簡単なことばなのに、読むたびに、そのことばが指し示すものが違ったものに見えてくる。こういう瞬間が、楽しい。

 北川透「出会い」(初出「西日本新聞」1月1日)。「これまで生きてきた年数よりも/これから生きられる わずかな年月を/想うようになった」と始まる。その最終連(三連目)。

賑やかな街の交差点で
大勢の人と並んで信号を待つ
誰もむっつりしてことばを発しない
でも 人はことばだけではなく
存在でも語りかける 青信号で一歩を踏み出す
働く者の喜びと悲しみ それがどうして
わたしの心音と共鳴しないことがあろうか

 「人はことばだけではなく/存在でも語りかける」が北川の書きたかったことだろうか。これはさらに「働く者の喜びと悲しみ それがどうして/わたしの心音と共鳴しないことがあろうか」と言いなおされている。
 感動的ではある。この「感動」というのは、自分が感じたことがないところへ自分を連れていってくれるという感動である。「働く者」(自分ではない者、労働者)と「自分」は同じ人間ではない。同じ立場の人間ではない。けれども、どこかで「心音」が共鳴する瞬間がある。いっしょに生きているのだから。そういう「夢」を見せてくれる。
 感動というのは、別なことばで言うと、自分が自分ではなくなることを夢見ることができる瞬間に動いているのだろう。「いま、ここ」にいる私を忘れ、他人の「いま、ここ」に自分を重ね、同じ気持ちを感じるというのが感動なのだろう。
 それこそ「心音が共鳴する」瞬間。
 でも、私は、そのことばよりも、その直前の

誰もむっつりしてことばを発しない

 がいいなあ、と思う。この一行が好き。
 ここには「感動」はない。この瞬間、むっつりしている人と「心音」は「共鳴」しない。むしろ、共鳴しないことを実感するといってもいい。
 何の接点もない「他人」がいる。「非人情(非情)」が、ここにある。この「拒絶感」の「手触り/不機嫌さ」のようなものが、リアルでいいなと思う。
 「現実」を感じることができるからだ。感動よりも「事実」の方がおもしろい。




*

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北川透現代詩論集成3 六〇年代詩論 危機と転生
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(150)

2018-12-05 09:27:34 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
150  立ち尽くす

 高橋の書庫(あるいは書斎か)の様子が書かれている。

前庭と裏庭に向けて引戸のある東西両面が 硝子の素通し
南北両面 十段の書棚から溢れた書籍や雑誌が 床に山積み
おまけに酒瓶や食料品 骨董品 我楽多の類が 通行を阻んで
この書庫は 雑神低霊スクランブルの霊道と化している!

 この四行の、どこに詩があるか。
 「前庭」「裏庭」という対。「東西」に対して「南北」という対。思いつくままにことばを動かしているのではなく、「対応」を考えて動かしている。
 「雑然」とした部屋の描写なのに、「論理」がある。
 そして、それは「雑然」を「雑神低霊」ということばに整理し直す。「霊道」ということばが、それを強化する。
 「化している」は、「現実(写生)」を詩へと「化している」ということ。「写生」の技術、どのことばを選ぶかという意識。その結果、「現実」は「詩」に「化す」。
 でも、その「化す」は「論理的」すぎる。読んでいて、「化かされた」という感じがしない。
 高橋は、これでは「健やかな詩」は降りてこない。大掃除が必要だ、といったんは考えるが、これはこれでもかまわない、とも考える。
 で。

まさに邪神淫霊入り乱れ 蛮族侵入の噂に脅えつつ 身動きならない
古代末期ローマ人さながら 薄志弱行の腐儒老生 即ちわたくし

 と、ことばは動いていくのだが、この展開(開き直り)も、やっぱり「論理」だなあ、と思う。「薄志弱行」「腐儒老生」ということばを私は知らない。だから、あ、こんなことばがあるのか、と驚くけれど、それは「知識」への驚きであって、高橋が発見したものへの驚きではない。言い換えると、「肉体」の実感がつたわってこない。「論理」を書いているだけだ、と思ってしまう。
 「論理」を知的なことばで装飾していく。ことばのゴシック建築のようだ。それはそれで、「頑丈」な何かを感じさせる。「定型」と言い換えうるものだと思う。だから、私の「肉体」の奥が揺さぶられることはない。また、高橋が書いている「知的なことば」をまねして書いてみたいなあ、という気持ちにもならない。













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岡本啓「野ウサギ」、新川和江「さわる」

2018-12-04 11:07:24 | 2018年代表詩選を読む
岡本啓「野ウサギ」、新川和江「さわる」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 岡本啓「野ウサギ」(初出「かばん」17年12月号)。

なにを眺め
なにを見落としているのだろうか
しゃがむと
野ウサギはまだあたたかかった
純白の腹と灰の毛並み
息をひきよせようと
身体をのばしているかのように見えた

 一連目。最後の二行が「写実」。「ひきよせる」と「のばす」という反対方向の運動が結びつき、ウサギの死の瞬間を活写する。「見えた」は「なにを眺め/なにを見落としているのだろうか」と書き始めたために、おのずとあらわれてしまった動詞だが、ない方が「真実」になる。「見えた」は、「真実」を「客観化」する分、ことばが弱くなる。
 でも、いいなあ。
 思わず傍線を引き、読み返してしまう。
 詩は、こうつづいていく。

あと数分でついえてしまう
野のむき出しの魂

市街では知ることのない存在が
ハイウェイにかかる孤独な橋で
あらゆる関係からほどけて
ひとりでに去っていく

 「写実」が崩れる。
 岡本は「見えた」というかもしれないが、私は「魂」を見たことがない。「むき出しの魂」も、わからない。「見えた」というよりも、ことばの力を借りて、「見ようとしている」と感じた。
 ここからは、ことばでしか書けないこと、言い換えると肉眼で見たものではなく、意識(精神)の運動が見たものへとことばが動いていく。「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」は、そういうことばの運動の、この作品での頂点であると思う。こういう抽象力を実際の風景のなかで動かすところに岡本の力があるのかもしれない。
 でも。

立ち上がり
そのまま白鳥山の森にはいって
クモの巣をはらった
山頂はみつからなくて、だれともすれ違わなかった
また枝を踏み、もとの橋にさしかかる
さっきの野ウサギがいない

ハイウェイの速度は
どこまでも湧きあがっていく
晴れやかな空に
はるか一羽、旋回する鳶が
白をつかんでいるのが見えた

 「野ウサギがいない」。これは「事実」だろう。そして、そのことばのあとには「見えた」ではなく「見た」ということばが省略されている。
 抽象へ踏み込んだことばを、もう一度「現実」に引き戻し、ことばを落ち着かせている。私は「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」、いや、「去っていってしまった」ものを思い、とても静かな気持ちになる。
 でも。
 最終連で、いやあな気持ちになる。鳶が死んだ野ウサギをつかまえて空を飛んでいるのが、ほんとうに「見えた」のか。「魂」が鳶の力を借りて、天へ帰っていく、飛翔していくと読んでもいいのだけれど。
 嘘っぽいなあ、と思う。
 ほんとうに何かを見たときは「見た」という動詞は、知らず知らず省略される。「見たもの」「見えてしまった事実」に驚き、「見た」ということばを補うことを忘れてしまうのが人間だ。「さっきの野ウサギがいない」には「見た」がなかった。
 「見なかった」ものを「見た」というために「見えた」ということばがあるように思う。「見なかった」けれど「見えた」と書くことで、ことばの運動を終わらせる。「事実」を終わらせるのではなく、「ことばの運動」(論理)を完結させる。そのための最終連だね、これは。
 私は、こういう作品が嫌い。
 ちょっと村上春樹を思い出しながら、「嫌い」ということばを追加しておく。ここには「論理の運動」が詩を装って書かれているだけだ。

 新川和江「さわる」(「阿由多」17年12月)と比較してみよう。

公園のベンチに
老人がひとり 腰かけている
なんという木か知らないが
背後に大きな木があって
いちばんしたの枝が
ときどき 老人の肩にさわる
吹くともない風があって
枝をそよがせているのだが
じぶんの肩に手をおいてくれるひとが
まだいるのだ と老人は思っている
木の枝であることを
じゅうぶん承知していながら
振り向かず
そう思っている

 ここには「見た(見る)」がないが、書き出しの二行は、「公園のベンチに/老人がひとり 腰かけている」のを「見た」である。もちろん、ベンチに座っている新川自身を「客観的な目」で描写しているのであって、肉眼で見ているのではない、と読むことができるが、いずれにしろ「見た」を補うことができる。
 同じように「背後に大きな木があ」るのを「見た」、「いちばんしたの枝が/ときどき 老人の肩にさわる」のを「見た」と読むことができる。
 さらに、「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」と補うことができる。
 で、この「見た」なのだが。
 私は「過去形」で書いてきたが、日本語のことば(動詞)は不思議で、何かに感動すると「過去」のことなのに「現在形」で描写してしまうことがある。感情の動きには「現在」しかないからだろう。
 この「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」は「見る」の方が、強い「実感」になる。「見た」ではなく「見る」、「見ている」なのだ。
 そして、いったん「実感」が動き出すと、とんでもないことが起きる。
 「木の枝であることを/じゅうぶん承知していながら/振り向かず/そう思っている」のを「見る」のだが、「思っているのを見る」は「思ってみる」へとするりと変化する。「見ている老人/見えている老人」が「思ってみる」ということばのなかで、するりと新川に変わってしまう。「自画像」が突然出現する。
 新川は公園で見かけた老人を描いたのか、自画像を描いたのか、という区別はなくなる。見かけた老人を描いたにしろ、それはことばで描いている内に自画像になってしまう。主客が「一体」になる。「ひとつ」になる。この瞬間、詩が生まれる。
 私は、こういう作品が好きだ。「論理」を「実感」が壊して動いてしまう詩が好きだ。

 私は、好きと嫌いを、こんなふうに区別している。


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新川和江詩集 (ハルキ文庫)
新川 和江
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(149)

2018-12-04 09:49:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
149  モンテニューに準って

死がそんなに甘美なものならば その逐一を味わい尽したい
そのためには 死の床を囲む家族や友人は 味方というより敵
愛しているというなら どうか死にゆく私を独りにしてほしい

 こう書くとき、高橋は、死を自分のものと実感しているのか。私には、そうは感じられない。「そのためには」「……というなら」ということばには「論理」しか感じられない。「論理」というのは「感じ」がなくても動かすことができる。あるいは「感じ」がない方が簡単に動かすことができる。「感じ」というのはあいまいで、まだことばになっていないことが多い。だから「感じ」は「論理」を邪魔する。しかし、「論理」はたいがいの場合、すでにことばになっている。ことばをつないでゆけば、必然的に「論理」になってしまう。
 「味方」に対して「敵」という組み合わせが、それをいちばんあらわしている。「愛している」に対して「独り(孤独)」というのも、すでに「論理」として言い尽くされている。
 私は自分の死を実感として感じたことはないので、私の考え方がまちがっているかもしれないのだが、論理的なことばの運びを読むと、高橋も死など実感していないのだろうと思う。
 実感しているなら、高橋にしかわからないこと、つまり、これはどういう意味?と聞き返したくなるものが含まれるはずだ。私の論理(既知の論理)では追いつけないものが書かれているはずだ。

最終的に私を看取る者は私自身 介添えは闇と沈黙の二人だけ

 これは、いま日本で起きていること。独居老人は闇と沈黙を介添えにして死んでゆく。それだけではない。死んでからも放置されたままということがある。そのひとたちは、いったい、最後に何を見ただろうか。
 誰も知らない。
 人は誰でもが死ぬが、その死を語ることはできない。だから、高橋の書いていることは「論理」ではなく「真実/事実」であると受け止めることもできる。つまり、誰も否定はできない。でも、私は、それを承知で否定したい。ここには「論理」の運動しかない、と。
 もちろん「論理の運動」こそが詩である、という考え方もあるが。










つい昨日のこと 私のギリシア
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貞久秀紀「松林のなかで」

2018-12-03 12:28:32 | 2018年代表詩選を読む
貞久秀紀「松林のなかで」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 貞久秀紀「松林のなかで」(初出「カルテット」4、17年11月)は、どう読まれているのだろうか。
 読んだあと、私のことばは、どう動いていくことができるか。

松林のなかの道を歩いていたひとで
この子もまたわたしと歩いていることにいくどか気づくようにみえたのは
松ぼっくりにかけ寄り
近くしゃがんでこわごわ触れてもどるたび
あいた目でわたしをさがしては
とらえた一果を分けあたえてくれるときだった

 「主語」は何だろうか、「述語」はどれだろうか、何だろうか、と問うことは詩の読み方として適切ではないかもしれない。しかし、私はいつでも「主語/述語」を探して読む。
 私は「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読む。「気づくようにみえたのは」の「気づく」の「主語」は「この子」かもしれないが、私は「歩いていること」と「誤読」する。「わたし」とか「子ども」とか、「人間」ではなく、「動詞を含むできごと」と読む。「動詞(できごと)」が「主語」となって、別の「動詞」を「述語」へと動かしていく。「人間」は「わたし」も「子ども」も「ことばの運動」を成立させるための「方便」であり、また、「論理(意味)」を攪拌させる手段にすぎない。
 ここに書かれているのは「歩く」「気づく」「かけ寄る」「しゃがむ」「もどる」「さがす」「とらえる」「分ける/あたえる」という「動詞」であり、その「動詞」の方便として「わたし」や「子ども」がつかわれている。「きみ」でも「老婆」でもいいのだ。もちろん「子ども」と「わたし」がいれかわってもいい。「子ども」は「記憶の子ども」、「わたし」が「想像のわたし(未来のわたし)」であってもいい。というか、そういう不確定な「入れ換え」を促すために仮に書かれている。人は(読者は)、誰に自分を重ねて読むか。作者の指示にしたがう必要はない。作者自身も、自分を作品の登場人物に重ねているわけではない。たとえそれが「私小説」であっても。
 しかし、読者は「動詞」を自分の「肉体」で反復しながら、ことばの世界へ入っていく。「歩く」という動詞にであったとき、走りたくても走れない。泳ぎたくても泳げない。車で移動したくても移動できない。もちろん飛行機でも行けない。「動詞」のなかで、読者は作者と出会い、また登場人物と出会う。それ以外に、出会いようがない。
 で。
 (ここから、かなり飛躍する。私自身、まだ、考えていないことを、これから書くので、飛躍するしかない。私は「結論」というものを想定して書いているわけではなく、ことばがどこまで動くかを知りたくて書くからである。)
 で、「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読むとき、「主語」と「述語」のあいだに入り込んできたいくつもの「動詞」が気になる。「動詞」というのはとても簡単な仕組みをもっている。「動く」。そして「動き(動詞派生の名詞)」というのは「時間」を必要としている。「ときだった」は「とき」という「名詞」と「ある」の「過去形」がくっついたもので、正確には「述語」とは呼べないものかもしれないのだが、私は国語学者でも国語教師でもないので、テキトウにそう呼んだ「ツケ」みたいなものに直面する。そして同時に、この「とき」こそが問題なんだよなあ、とも思う。
 ここが、飛躍だね。
 そして、飛躍してしまうしかないところに、実はこの詩のキーワードがある、とも思う。一回限り、強引に「ことば」にしないことには動かせないものに出会う。私自身は「わかっている」が、それを「他人にわかる形」で書くために、どうしてもつかわないといけないことばがある。
 たぶん、貞久も、無意識というか、どうしようもなくてつかったことばが、ここに隠れている。「とき」が。
 それが証拠に(?)、貞久は、この「とき」をすぐに言いなおす。言いなおすことで隠そうとする。隠そうとすることは、あらわしてしまうことでもあるが。
 どう隠すのか。どう、あらわすのか。

ある日

 このほとんど無意味な一行を挟んで、詩のことばは反復する。

ある日
この子が松ぼっくりをたづさえ
あたえようと来てさがしはじめているところに小さな余地がひらけ
触れうる固さをもつわたしが待っていた
それを子はともによろこび
ひらかれてゆくこの手のひらの途中に
乾いた松を置いた

 この「ある日」は、いつ? 前半の部分よりも「あと」? そうではなくて、これはやはり「とき」のずれのなかで反復し、「とき」とは何かを「意味」にしようとしているということだろう。
 「わたし」と「子ども」の関係、松林のなかを歩き、松ぼっくりをみつけ、それを「分け/あたえる」ということが繰り返されている。繰り返すことで、動詞の意味と、時間の意味を、辞書には書かれていない意味にまで高めようとしている。抽象といってもいいし、概念といってもいいし、哲学と呼んでもいい。
 で。(再び、「で」であるが……)
 私は、こういう詩、こういうことばの運動が嫌いである。
 うさんくさい。(なんといっても、「あたえる」という動詞が「外国語」っぽい。)
 「ある日」を中心にして、「対称」の世界が描かれ、対称になった瞬間に「比喩」が「抽象」に変化し、「意味」が動く。その「意味」が「哲学」を指向する。たぶん「外国」の。
 この運動は、完結している。学者の「論文」のようだ。完結しているから矛盾はない。矛盾はないから「完璧」に見える。たぶん、その完璧さゆえに、こういう詩は評価される。「完璧」をうさんくさいという人は、たぶん、いない。でも、私はうさんくさいと感じる。身を引いてしまう。身を引きながら、遠くから、「違うぞ」と声を上げる。





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具現
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estoy loco por espana (番外28)

2018-12-03 11:45:36 | estoy loco por espana
 Joaquin Llorens Santa のマドリッドで個展が始まった。私は見に行けないのだが、ホアキンが写真を送ってくれた。少し紹介と感想を書く。(写真は、一部、ホアキンが撮ったものではないものを含む。)

 

 6月にアトリエで見た制作途中の作品は、赤く塗られていた。よく似た白いバージョンのものもある。赤い方が好きだ。
 ホアキンは黒い色の服がとても似合う。白い色も似合う。赤い色は似合わないかもしれない。だからこそ、赤い色の作品が強く響いてくる。もうひとりのホアキンという感じがする。
 6月にみたときは、制作途中だから、もちろん色はない。
 彩色された作品が何点かあったので「これにも色を塗るのか」と聞いた。ホアキンは「そうだ」と答えた。「赤」と答えたのか、「青」と答えたのか、忘れてしまった。「白」ではなかったと思う。「白」は純粋すぎて、彩色されていないものよりも素裸を見ている感じになるかもしれない。
 この作品をアトリエで見たときは、まるで素裸のホアキンを見たようで、少しびっくりした。素裸といっても、服を脱いだ素裸ではなく、服を着る前の素裸。つまり、生まれたばかりの赤ちゃんのような、はじけるような輝き。裸なのに旗かを意識しない「強さ」を強く感じた。見た瞬間、「あ、この作品が好きだなあ、これいいなあ」と叫んだことを思い出す。
 赤く塗られたいま、その作品は、とてもすましている。成長して、気取っている。
 ホアキンが客と話している。少し離れて「ぼくはここにいるよ」と、人が話しかけてくれるのを待っている。見てくれるのを待っている。そういう感じがする。
 横顔なのではっきりしないが、壁を背にした右側の女性はホアキンの連れ合い。そういうことも、この作品に反映して、私は「社会にデビューした子供」のように見てしまうのかもしれない。
 作品は、どこにおかれるか、誰に見られるかによって、表情を変える。この展覧会では、「無防備」な感じは消え、自分の存在を静かに、しかししっかりとアピールしている。うーん、マドリッドの会場で「見に来たよ(会いに来たよ)」と言えたらいいのになあ。

 6月の、制作途中の作品をアップしておく。
 ホアキンが隣にいるときと、私が隣にいるときでは、やはり違って見える。
 ホアキンが隣にいると、作品は安心した顔をしている。



 まず、これまで紹介してこなかった作品。


 ふたつの曲線が、あいだに空間を抱えている。空間は上部で開かれている。
 二羽の白鳥に見える。左側の白鳥は空を見ている。右側の白鳥は、左の白鳥の顔を見ている。もちろん、白鳥はこんな「線」ではできていない。けれど、それが白鳥に見える。あいだにある「空間」が白鳥のしなやかな「肉体」に感じられるのだ。
 ふたつの線が、いまそこにないものを、浮かび上がらせている。
 出会った瞬間、(あるいは別れた瞬間ということもあるかもしれない)、こころのなかにぱっとはじける何か。
 そういうものを感じさせる。

 



 曲線のリズムがとてもいい。見る角度によって、強さも違って見える。こういう変化を見ると、やはり美術館に足を運ばないことには何もわからない、と思ってしまう。
 このダンスする彫刻の左右に、赤と青で、おなじシリーズの作品が見える。私は赤の方が好きだ。青の方は、私の知っているホアキンの印象とは違う。もちろん青の方が好きという人もいると思う。こういう「好み」の変化は、その日の気持ちによっても違う。それが、また楽しいのだが。

(日食を含む三点)

 作品は見る角度によって変わる。そのことをこの2枚の写真は教えてくれる。
 左のふたつの局面は、私は波だと思っていた。いまでも波だと思うが、その動きの印象は、以前、フェイス文句で見たときとは大きく異なる。絡み合い、戦っている。ただしその戦いは官能の戦いだ。より強い愉悦を求めて、激しく肉体をうねられている。
 「日食(月食)」に見えた作品も、単なる重なりではない。重なることで、隠していたものが見える。重なりを突き破って、官能が光りを発する。「出会い」は、かならず官能を呼び覚ますものなのか。
 奥の曲面の作品も官能的だ。女を背後から犯している。ペニスは女のからだを突き抜けてしまっている。女は男を振り返りながら、悦びとも苦しみともなづけられない瞬間の到来を告げている。(この呼応は、最初に触れた白鳥に似ている。)壁に映った影も美しい。
 この部屋の三点は、海(波)と空(月と太陽)と地上(男と女)がセックスし、命を生み出す部屋なのだ。



 半円と柱が組み合わされた作品は、何だろう。とても素朴だ。セックスと書いたあとだからかもしれないが、私は、子供を思い出した。三頭身の、やっと立つことができた子供。
 また、月に照らされて浮かび上がる木のようにも。その木は、半分闇に溶け込んで隠れている。木は月に照らされながら、月の形をあらわしている。対話している、とも思った。




 この作品は、子供の楽隊を思わせる。直線と曲線、面と線の組み合わせが楽しい。音楽が聞こえてくる。「子供の」という印象は、はやり全体のバランスが三頭身を想像させるからだろうか。

 ホアキンの作品の中には「血」が流れている。鉄が「血」として生きている。それが「子供」になったり、官能を追い求める「大人」になったりして動いている。「子供」を含むからかもしれないが、見ていると、いつもふっと笑いがこぼれてしまう。純粋さを感じるのだ。純粋さに、わくわくしてしまう。

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