詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

2024-11-03 00:36:19 | 現代詩講座

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月21日)

 受講生の作品。

歩こう歩こうⅡ  池田清子

五年前に
何のために生きるのか
問うた

何十年も
あいまいなまま
生きたので

心の中への入り方を忘れてしまった
心の外へは出ていけたような気がする

何のために生きるかより
どう生きるのか

ずっと
きっと

片道五分が
往復三十分になった

 五年前、この講座で書いた「歩こう歩こう」。五年後に書く「歩こう歩こうⅡ」。一番の変化は、三連目。「心の中への入り方を忘れてしまった/心の外へは出ていけたような気がする」。この二行は、詩でしか書けない。詩でしか書けないことばを書くようになった、というのが一番の変化である。
 散文でも書けないことはない、というひともいると思うが、散文の場合は、この二行の前後に、いくつかの「説明」がついてまわる。「心の中」「心の外」というときの「心」はどんな状態か。状況がわかるように書く、事実を踏まえて書く、事実を積み上げて書くのが散文の鉄則である。詩にも事実はあるのだが、それを読者に任せてしまう。つまり、読者は、自分の体験のなかから「心の中へ入った」のはどういうときだったか、「心の外へ出た」のはどういうときだったか、考えなければならない。「何のために生きるのか」ということばを手がかりに考えれば、そのときの「心」は苦しんでいたのか、悲しんでいたのだろう。そうした悲しみ、苦しみを、ひとはくぐりぬけ、それに打ち勝つ。意識しないのに、引きずり込まれてしまっていた、あの「心」。だが、いまは「心の中への入り方を忘れてしまった」。それが打ち勝つということだろう。「心の外へ出て行く」ということだろう。それは「気がする」だけかもしれない。こうしたことは、だれでも、何かしら経験したことがあると思う。このとき読者は、詩人のことばを借りながら、自分のいのちをみつめる。そして、それを詩人のいのちに重ねる。
 そのあと。
 「ずっと/きっと」と、つぶやく。「ずっと」のあとにどんなことばが省略されているか。「きっと」のあとにどんなことばが省略されているか。
 「ずっと」「きっと」はだれでもがつかうことばである。「意味」は、それぞれが知っている。でも、それを別のことばで(自分のことば)で言いなおすのはむずかしい。そのとき、しかし、きっと「直覚」しているはずである。池田の省略した「ことば」は自分の考えていることと同じだと。
 書かれていることばのなかで詩人と出会い、詩人が省略したことばのなかで詩人と出会う。読者が思い浮かべる「省略したことば」が、必ずしも詩人が思っていることばと合致するわけではない。しかし、「ずっと」「きっと」ということばのあとに、ことばがある、そのことばは言わないけれど、とても大切である。大切だから、「心の中」にしまって自分だけで確かめればいい、という「思い」(こころの動き)は、きっと合致している。
 「行間」(書かれていないことば)のなかで、詩人と出会えたと思えたとき、その詩は読者にととってとても大切なものになる。「好きな詩」になる。
 そして、それは詩人が好きであると同時に、そんなふうにして動く自分の自身のこころが好きということでもある。「好き」のなかで、ひとは、消える。何かが「好き」になったとき、「自己」は消える。透明になる。ただ「世界」だけが、そこにある。
 この詩は、そういう「世界」へ読者を誘う力がある。

キューピーさん  杉惠美子

朝起きると
裸ん坊の大きなキューピーさんが立っていた
両眼と両手をパッと拡げて
まっすぐに立っていた

四歳くらいのときのこと
私が抱えきれないくらい大きくて
父がやっと見つけたものだったという

あの幼い日の記憶は
時折 甦り 私を元気にする

どこを向いているのか
わからなくなったときも

まっすぐに立って
両手を拡げ
その大きく見開いた瞳の中に
吸い込まれていく

お酒を飲むと よく戦争の話をした
もっと真剣に聴けば良かったな

ごめんね 父さん

 池田の詩に通じるものがある。だれでも「どこを向いているのか/わからなくなったとき」というものがあるだろう。「心の中」に閉じ込められてしまったときかもしれない。「心の中」から、どうやって出て行けばいいのか。杉を支えたものは「大きなキューピーさん」である。それは「立っている」「まっすぐに立っている」。手を拡げ、両目を開いているとも書かれているが、何よりも「まっすぐ」と「立つ」ということばが印象に残る。
 「どこを向いているのか/わからなくなったとき」、杉は、「まっすぐに立つ」ということから始める詩人なのだろう。「まっすぐに立つ」と「元気」になる。初めてその人形を見たとき、きっと杉はキューピーに負けないくらいに「まっすぐに立って」いたのだと思う。キューピーになっていたのだと思う。
 この「まっすぐ」は、「お酒を飲むと よく戦争の話をした/もっと真剣に聴けば良かったな」の二行のなかの「真剣に」ということばのなかに隠れている。父がキューピーを買ってきたとき、それを始めてみたとき、きっと杉は「真剣」だった。「真剣」というのは「好き」に似ている。何か自分を忘れている。「無我」になっている。
 この「無我」は、父の場合、杉にキューピーを買ったときと、「戦争の話をした」ときにおのずとあらわれている。父の思い出だから、そこに父はいるのだが、父は、ほんとうはいない。ただ「戦争」があるだけである。父は戦争にのみこまれて「無」である。「無力」である。「無我」である。「どこを向いているか/わからない」状態でいる。
 父から話を聞いていたときは、そんなことは、わからない。父から話を聞けなくなって、そのときに父の「まっすぐ」を知る。
 二連目に、とても「散文的」に、つまり状況の説明のために登場してきた父が、最後になって「主役」のキューピーを乗っ取るようにしてよみがえってくる。いや、キューピーの内部から、父がキューピーの姿になってあらわれてくるような、強さがある。キューピーを見るたびに父を思い出すとは書いていないのだが、きっと見るたびに思い出すのだろう。父の「まっすぐ」を思い出すのだろう。杉を「まっすぐに立つ」方へ励ましてくれるのだろう。
 そのことへの感謝が最終行にあらわれている。「ごめんね 父さん」と書くとき、杉は父が「好き」である。そして、このとき杉は「無我」。杉のこころのなかに生きているのは父である。

千年眠った後に よみがえる日まで (故・谷口稜曄さんへ) 堤隆夫

背中一面が 真っ赤な血に染まり
うつぶせで苦しみに 顔をゆがめる十七歳の少年
一九四五年八月十五日
あの日から七十九年を経ても
空蝉のこの国は 何も変わろうとしない
何も変えようとしない

今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている
今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている

戦後生まれの私だが
私も 原爆を背負い続けている
二千十一年三月十一日
私の竹馬の友は 福島にいた
友は もういない

広島は ヒロシマではなく
長崎は ナガサキではなく
福島は フクシマではない

私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで
私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで

 堤の「文体」は特徴的である。「空蝉のこの国は 何も変わろうとしない/何も変えようとしない」「今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている/今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている」のように、一種の対句形式のなかでことばの一部を変化させ、ことばの力を増幅させていく。
 この詩では、「広島は ヒロシマではなく/長崎は ナガサキではなく/福島は フクシマではない」の三行のカタカナ表記と否定の「ない」の組み合わせが強烈である。堤は片仮名表記を否定(拒否)する理由を、ここでは書いていない。読者に、それぞれ考えろと迫っている。
 「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」がカタカナで表記されるのは、たぶん「ノーモア・ヒロシマ」に代表されるスローガンのように、外国向けのものが出発点だと思うが、外国に向け発信するのは大切だが、そのとき外国人にわかりやすいように(?)することがほんとうに大切なことなのか。外国人を意識するとき、何か、見落とすものはないか。
 さらにいえば、「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」と書いてしまうとき、そう書くひとは自分から「広島/長崎/福島」を切り離して「外国」のようにとらえてはいないか。あるいは自分自身を「外国人」にして、「外国人」の視点から「広島/長崎/福島」をみつめてはいないか。
 日本人として「広島/長崎/福島」と向き合い、自分をどうかかわらせていくか。微分の「広島/長崎/福島」にしなければならない。自分の「広島/長崎/福島」を具体的に生きなければならない。「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」では、抽象的、観念的になってしまうということだろう。
 堤は谷口稜曄を思い出すこと、祈ることが、その具体化の一歩である。

十字石  青柳俊哉  

垂直の記憶 
海辺から崖のうえを昇り降りするかげ 
無重力の振子
 
海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ
しぶきが石にふれ石をつつむ
 
海中のかげとして石は立つ
すべての水のかげをかれは背負う
すべての海面の光が降下してかれと結ぶ
 
十字に覆される未来 かがやく鯉の背がまう
崖の松の幹の黒い皺が底へきらめく
羽化しない蝉がうたう
 
生まれ変わる空間の表徴として 

 「海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ」の「かげを」の「を」という助詞が不思議である。すぐ「かげと」とつづくので「を」と「と」が交錯し、「とぶ」のが「石」なのか「かげ」なのかわからなくなる。それはそのまま「しぶきが石にふれ石をつつむ」では、石がしぶきをつつむのではないかという錯覚を引き起こす。
 さらに三連目では、その交錯が「かげ」と「石」の位置にも影響する。かげはどこにあるのか。石はどこにあるのか。海の上か。海中か。
 作者には作者自身の「答え」があるだろう。しかし、詩は(詩だけではないが)、作者の答えとは別の、「読者の答え」というものもある。

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奇妙な夢(「こころは存在するか」、番外1)

2024-10-31 11:23:06 | こころは存在するか

 中井久夫に呼ばれて、小さな飲み屋に行った。ちょっと頭を下げて挨拶をし、顔を上げると中井久夫が古井由吉に変わっていた。そこへ大岡昇平が入ってきた。L字形のカウンターに座って、私はふたりが並んで話しているのを斜めから見る形で見ていた。大岡昇平が鞄のなかから一冊の本を取り出した。ずいぶん昔に書いたものだが、どこかに紛れてわからなくなっていた。全集にも収録していなという。「読んでみるか?」と、突然、大岡昇平が私に言った。「はい、感想を書かせていただきたい」。私はなれない敬語をつかって、そう答えた。
 その瞬間、それまで見ていた夢を奥底から破るようにして、大岡昇平があらわれて「おい、書くといっていたあの感想はどうした」と怒鳴った。

 そこで、目が覚めた。
 中井久夫が夢に登場するところまでは理解できる。実際に会ったことがあるし、交流もあった。なぜ、古井由吉、大岡昇平があらわれたのか。古井由吉の文体が好きで、私は全集を持っている。大岡昇平も大好きで、大岡は、私の読んだ限りでは魯迅と並んで正直なひとである。だが、古井由吉も大岡昇平も、全集に収録されている全作品を読んだわけではない。その、私の読んでいない作品のなかに、何か、私にとって大事なことばがあるのかもしれない。びっくりして目覚めた頭で、そんなことを考えた。
 たぶん、そうなのだろう、と思う。
 私は少し思い立って、死ぬまでに読み通すための本のリストを想定していた。いまは第一歩として和辻哲郎を読んでいるが、一年間で読み通す予定が大幅に遅れている。古井由吉も大岡昇平も、そのリストには組み込まれていなかったのだが、大岡昇平はなんとしても読まなければいけないという「啓示」なのかもしれない。
 そして、それはたぶん「正直」と関係があるのだ。「書くといったじゃないか、なぜ、まだ書かないのだ」と叱られているのだ。私は「正直」を貫いていない。「書く」と言ったのなら書かなければならない。
 ここからは、きょうみた夢とは関係がなくなるのだが。
 私には「夢」がある。書こうと計画している二冊の本がある。詩集と評論。どれも構想(頭の中のメモ)だけで、書き散らしたことばはメモにさえなっていない。それを書かなければならない。なんとしても書き始めるときなのだ。そう気づいた。
 私はどう考えてもあと数年のいのちなので、これは、かなりむずかしいことなのだが、そうなのだ、読んで何かを思っているだけではだめなのだ。それをことばにしなければなさらないのだ。「正直」とは、自分のことばをつらぬくことなのだ、と突然気づいたのである。

 こんなことは書いて他人に言うことではないのだが、書くことで自分の怠け癖を直したい。「正直」を貫く方便として書いておこうと思った。会ったこともない古井由吉と大岡昇平がわざわざ夢にまであらわれてきてくれたのだから、そのことに対して「返礼」しなければ、と思う。


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オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」

2024-10-26 17:15:28 | 映画

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」(★★★★、キノシネマ天神、スクリーン2、2024年10月26日)

監督 オリバー・パーカー 出演 マイケル・ケイン、グレンダ・ジャクソン

 映画がはじまってすぐ、あれっと思う。映像が少しかわっている。いまの映画は「市民ケーン」以降、スクリーンの全体がくっきりと映し出されるのがふつうである。ところが、この映画は、「ぼける」。遠景に焦点があたっているときは近景がぼける。近景に焦点があたっているときは遠景がぼける。言いなおせば、「視野」が狭い。しかし、「視野が狭い」という印象はおきない。たぶん、「視覚」というものは、そういうものなのだろう。見たいものを見る。見たくないものは、存在していても見ない。これは、高齢になるとますますその傾向が強くなるから、映画は「老人の視点(老人の視野)」を強調しているともいえる。
 で、これは私がうっかりしていたのだが、最後は、その「狭い視野」が消えて、言いなおすと「ぼやける」が消えて、全部がくっきり映し出されていたかもしれない。これは私の目が「ぼやける/くっきり」の世界になれてしまって、そのことを意識しなくなったのかもしれないが、そうではなくて、ほんとうに「全部がくっきり」にかわっていたのかもしれない。そして、その「全部がくっきり」が、主人公のかかえていた問題が解決した、ハッピーエンディングになったということを象徴しているかもしれない。だから、このことは、最後のシーンの「くっきり」は保留にしておくが……。

 この映画で、私がいちばん感動したのは、主人公がノルマンディーで元ドイツ兵と出会うシーンである。かつての敵。殺し合った関係。しかし、そのとき、そこに「憎しみ」は存在しない。ただ「悲しみ」だけが共有される。不思議な「和解」が一瞬にして、全体をつつむ。
 何があったのか。
 主人公が、ふと漏らすことばがある。「無駄なことをしてきた」。何が無駄だったのか。殺し合ったことである。戦争の過程で、何人もの人間が死んだ。殺そうとして殺した人間(敵)もいるが、殺すつもりがなかったのに死なせてしまった人間もいる。ただ戦争を遂行する(兵士の役割を果たす)ということだけを考えていたのだが、それが仲間を死に追いやったということもある。もし戦争をしなかったら、そういうことはなかったのである。
 それはイギリス人もドイツ人もかわらないだろう。悲劇を体験してきた人間だけが共有する「実感」だろう。
 このことを、多くのことばをつかわず、ただ見つめ合い、テーブルの上で手を重ね合うという行動だけで表現していた。とても美しい。
 この、主人公の漏らした「無駄」ということばを、主人公の妻は、こんな形で繰り返す。
 「戦後、私たちはいっしょに生きてきた。してきたことは、小さな、つまらないことかもしれない。しかし、そこに無駄はひとつもなかった」。このときの「戦後(戦争が終わったあと)」という一言が、とても強い。私の胸には、ずしりと響いてきた。
 この「無駄」が「呼応」する。いろいろな「名目」はあるだろう。しかし、だれかを「殺す」ということほどの「無駄」はない。そういう「無駄」をしなくても、ひとは生きていける。華々しい出来事は何もないかもしれない。しかし、同時に、華々しい「無駄」もないのである。それが「生きる誇り」(生きてきた誇り)である。その「誇り」を取り戻すために、主人公は、共同墓地へ行く。友の墓の前で祈る。彼に同行する男も、また同じように。そのとき、その男が毎日繰り返し口にしてきた詩が語られる。それは、死んでしまった人間への、「もう無駄はしない」という強い決意のように迫ってくる。

 あらゆる世界で「無駄」が排除されようとしている。「話し合っても無駄」(戦争しかない/武力行動しかない対立解消の手段はない)というのが、「戦争支持者」の主張だろう。「話し合い」は彼らから見れば「時間の無駄」なのかもしれない。しかし、その「無駄」をつづけつづければ、それは無駄ではなくなる。何があっても武器はとらないということをつづきつづければ、戦争はおきない。人間が「無駄に」死んでいくことはない。
 戦争で、実際に親しい人間を失ったひとだけが「無駄」に気がつくというのでは、あまりにも悲しすぎる。
 この映画は、いま拡大しつづける戦争に対して、何か有効なことをなしうるか。この映画が与える高価は「無駄」(無力)でしかない、というひともいるだろう。だが、そうであったとしても、この映画に加わったひとは言うだろう。「私のしたことは、ちいさなことである。しかし、私は何一つとして無駄なことはしていない」と。
 で、もうひとつ、忘れがたいシーン。
 主人公を助けるアフリカ系の元兵士。彼は、こころの傷のために、少し主人公たちに迷惑をかける。それが次の朝、主人公にであって謝罪する。それに対して主人公が何か言う。それに答えて、元兵士が何か「立派なこと」を言おうとする。そのときの態度が、いわゆる「軍人風」である。この態度を主人公が、静かに批判する。「そういう軍隊式の反省はやめろ」と。「きみは病んでいる」と。
 ああ、いいなあ。
 「戦争反対」は世界中で叫ばれている。安倍も叫んだし、岸田も訴えた。石破も言うだろう。しかし、そのときの「戦争反対」ということばの奥に動いているのは、どういう精神か。たとえば「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない」というとき、そこにはたとえば主人公の友人の「死ぬのはいやだ、死ぬのは怖い」という気持ちは含まれているか。含まれていないだろう。「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない、そのいのちを無駄にしない」というとき、それは新たな「無駄」をするということだろう。

 声高ではない。だが、はっきりと「ことば」が聞こえる。こういう映画をつくることができるひとがいることに、深く感謝したい。「私は何一つ無駄なことはしなかった」といえるのはすばらしいことだ。
 この映画のなかの主人公の、友人の墓に祈ること、それは「無駄」ではない。もしなにかしてきたことのなかに「無駄」があったとしても、その「無駄」は、その瞬間にすべて消えた。「ぼやけ」ていたものは何一つなくなり、世界は「くっきり」したものにかわった。この「くっきり」を感じたから、私は、主人公がフランスから帰ってくるシーン以後、スクリーンに「ぼける/くっきり」の差を感じなくなったのかもしれない。
 もう一度見るということはないから、私がそう感じた通りの撮り方だったかわからないのだが。


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こころは存在するか(43)

2024-10-20 12:41:09 | こころは存在するか

 私はスペインの友人から、スペイン語をならっている。その友人が、こんな「課題」を出した。

Si Mahoma no va a la montaña, la montaña va a Mahoma.
Explica el significado de la frase y escribe algún ejemplo.

 「もしマホメッドが山へ行かないのなら、山がマホプッドの方へゆく。この諺の意味を説明し、その具体例を書け」
 何のことか、その諺自身の「意味」もよくわからない。山が動くということはありえない。だから、何かを熱望したとき、常識では考えられないことが起きる、くらいの「意味」を想像し、こんな文章を書いた。(私の「解釈」は完全な間違いなので、結果的にとんちんかんな作文になってしまったのだが、何かしら友人を刺戟したようである。で、ちょっと書き残しておくことにした。)

Al leer un libro, a veces tengo experiencias extrañas.
Leer un libro significa visitar al autor del libro. Quiero saber sobre el autor. Poco a poco me gustan las ideas del autor y quiero leer más.

Mientras sigo leyendo sus libros, un día el autor me visitará. A veces me encuentro con palabras que me dan fuerte impresión, como si el autor viniera a mí desde dentro del libro, en lugar de que yo entrara en él.

"Aislamiento(鎖国)" de Tetsuro Watsuji(和辻哲郎). Un barco español dió la vuelta al mundo. Cuando regresó a España, descubrió que la fecha de su cuaderno de bitácora era un día diferente a la fecha de España.
Ahora todo el mundo conoce la línea de fecha internacional. Pero en esa época nadie lo sabía. Se puede decir que descubrió la línea internacional de cambio de fecha. Esta es una hazaña aún mayor que la llegada de Colón a América, yo lo pienso.
Desde que encontré este artículo, Tetsuro Watsuji me ha gustado aún más. Cuando amo a alguien, esa persona me busca. El me ama más que le amo.
 
 訳しみてると、(というのは、変な言い方だが)、こんな感じになる。

本を読んでいると時々不思議な体験をする。本を読むということは、その本の著者を訪ねること。私は、作者について知りたい。読むにしたがって、少しずつ作者の考え方が気に入り、もっと読みたくなってくる。
そして、その著者の本を読み続けていると、ある日、著者が私を訪ねてくる。時々、私が本の中へ入って行くのではなく、著者が本の中からやって来たかのような、強く印象に残る言葉に出会うことがる。

和辻哲郎の『鎖国』。そこに、こういうことが書かれている。スペインの船が世界一周した。船がスペインに戻ったとき、航海日誌の日付がスペインの日付と異なることに気づく。
今では誰もが日付変更線を知っている。しかし、当時は誰も知らなかった。航海日誌をつけていた人は日付変更線を発見したとも言える。これはコロンブスのアメリカ到達よりもさらに偉大な偉業だと私は思う。
この文章に出合ってから、私は和辻哲郎がさらに好きになった。私が誰かを愛するとき、その人は私を探す。彼は私が彼を愛する以上に私を愛してくれる。そして、誰にも告げなかったことを、私に語ってくれる。

 こういうことを、私はしばしば体験する。私が本を読んでいるのだが、それがいつのまにか立場が逆転して、筆者が私に何か「秘密」を語ってくれているような気持ちになる。そして、そういうことが起きるのは、筆者が私のことを好きだからなのだ。筆者は、私を探して本のなかから姿を現しているのだ。
 これはもちろん「ひとりよがり」なのだが、私は自己中心的な人間だから、「ひとりよがり」の瞬間が、いちばん幸福である。
 で。
 スペイン語では書けなかったことを、書いておく。
 なぜ「鎖国」のあの文章が好きなのか。
 アメリカ大陸は、そこに存在する。たとえコロンブスがたどりつかなくても、誰かがたどりつく。それは「客観的」というか、目に見える「事実」だからである。ところが「日付変更線」は、目に見えない。いまは便宜上、太平洋の真ん中ら引かれているが、それは「世界時間」の基準がロンドンにあるからである。もしそれが東京、あるいは北京、さらにはニューヨークにおかれていたら日付変更線の位置は違ってくる。「客観的」には存在しないものが、「存在させられている」。
 そして、なによりもおもしろいのは、それを「発見」(あるいは発明)したのは、「思考」である。さらにその「思考」を支えているのが、「航海日誌」をつけるという、地道な日々の積み重ねであるということなのだ。もし、航海士が毎日日記をつけるということをしていなかったら、「日にちが違う」ということに、だれも気がつかなかった。
 「世界」を統一的にながめ、そこに起きていることを知るためには「日付変更線」が必要ということに、だれも気がつかなかった。

 ここから、私は、さらに考えるのである。
 私は詩の感想を書き、小説の感想を書き、映画の感想を書いている。そのとき、「感想の出発点」となるのは、私の「くらし」である。航海士が「日誌」をつけるように、私は、毎日ことばを「動かしている」。それは必ずしも「記録」としてのこしているわけではないが、肉体のなかにはその記憶が積み重なっている。
 それが、ある日、だれかの「ことば」と出合う。そして、その瞬間、「あ、このひとのことばは、私のことばと違っている」と気づく。同じことばなのに、何か違う。それは世界一周した航海士が「日付が違う」と気づくのに似ている。「いま、ここに、おなじ日にいるはずなのに、それが違ってしまうということが起きる」。
 「日付変更線」ではなく、私は、ある瞬間「自他区別線」というものを発見するのである。
 私が、そのことを強く意識したのは、谷川俊太郎の「女に」を読んだときだった。その詩集のなかに、一回だけ「少しずつ」ということばが出てくる。そのことばのつかい方は、私の知っている意味だったけれど、私はそんなふうにつかったことがなかった。あ、これが谷川俊太郎なのだ、と気がついたのである。
 そして、それは私が谷川俊太郎を探し当てたというよりも、何かしら、谷川俊太郎が私に会いに来てくれたという感じの驚きだった。
 現実には、そういうことはありえない。しかし、そういう非現実が起きる、ということを私は感じている。「ひとりよがり」なのだけれど。

 何かが「好き」になるとき、いつも、そういうことが起きる。
 前回、詩の講座で入沢康夫の「未確認飛行物体」を読んだときも同じである。「大好きな」ということばが、向こうからやってきた。私が探し出すのではなく、入沢康夫の「大好きな」ということばが、私の方に会いに来てくれた。
 こういうとき、私は、興奮してしまう。
 で。
 どうしても少し補足しておきたいのだが、こういうとき、その「自他」の「日付変更線」になりうることばというのは、いわゆる哲学用語の解説書に書いてあるような「特別なことば」ではなく、私が日常的に、無意識につかっていることばである。谷川の「少しずつ」も、入沢の「大好き(な)」も、意味も考えずにつかっている。そして、意味も考えずにつかっているからこそ、そこに「意味」があらわれたとき、びっくりする。
 航海士が「日誌」を大事なものとして書き続けたように、谷川は「少しずつ」を、入沢は「大好きな」を、しっかり大切につかいつづけてきた。その結果として、それがある瞬間に「輝く」。そして、その「輝き」は、「日付変更線」の「発見」のように、生きていれば自然に出合うことがあるものではなく、あくまでも「主体的」にことばを動かしていくときにだけ、その「主体」のなかにあらわれてくるものなのである。

 ほんとうは、ここまでをスペイン語で書きたいが、書けないなあ。

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杉惠美子「秋の時計」ほか

2024-10-19 22:46:44 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の時計」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月07日)

 受講生の作品。

秋の時計  杉惠美子

彼岸花が咲いています
蜻蛉がわたしのまわりを飛んでいます

少し肌寒くなってきました

散歩するひとも少し増えたような

まわりの視線も少しずつやわらかくなっています

幾度となく風を脱ぎ
混濁の渦を離れました

重心を少し下げて
静かにしていたいと思います

すべてを 一度に語ろうとせずに
慎ましく
じわじわと

誰かと話してみたいと
少し 想うことがあります

 詩の感想をいろいろ聞いたあと、ちょっと受講生の感想(指摘)で物足りないところがあったので、杉に「この詩で工夫したところは?」と訪ねてみた。「少し、ということばをたくさんつかった」という返事が返って来た。
 それについて、やはり、私は気がついてほしかった。詩を読んだり、小説を読んだりするとき、どうしても「意味」というか、全体の「内容」に目が向きがちである。もちろん、そういうことも大切なのだが、「細部」に動いている作者の意識がとてもおもしろいときがある。
 この詩では一連目以外には「少し」ということばが各連につかわれている。
 「いや、五、七連目にも『少し』は書かれていない」という反論があると思うが。
 たしかにそうなのだが、ここがとても大事。
 「少し」は書かれていないが、それに通じることばが書かれている。「幾度となく風を脱ぎ」の「幾度」には「少し」が隠されている。「少しずつ」脱ぐから、それが「幾度」にもなる。「一度に」ぱっと脱いでしまえば「幾度」にはならない。
 私が言い換えた「一度に」は七連目には、ちゃんと書かれている。そして、それは「すべて」と対比されている。さらに「じわじわと」ということばも補われている。「じわじわと」というのは「少しずつ」に似ている。
 そうだとしたら。
 最終連(だけではないが)の「少し 想うことがあります」の「少し」にも、何かしら「特別な思い」がこめられている、もしかしたら五、七連目のように「少し」とは違うことばで伝えたいものがあるのかもしれない。
 その証拠にというと変かもしれないが「少し」のあとに「空白」がある。ほかの部分では「少し」はそのあとのことばに直接つづいていた。しかし、ここには「一呼吸」がある。言いたいことをさがし、踏みとどまっている呼吸が動いている。
 この呼吸に、自分の呼吸をあわせることができたとき、杉の詩は、読者にとってもっと深いものになる。

私がわたしであること  堤隆夫

人々の群れの中にいることによってしか
分かり得ない本当のことを知った
人々と共に住むことによってしか
教科書では学べないことがあることを知った

人々と共に働き 共に喜び 共に涙することによってしか
私がわたしであることを
確かめることができないことがあることを知った

杖をついて歩いた時
ゆっくり歩くことの幸せがあることを知った
片手に杖を持ち もう一方の手で
あなたと手をつなぐ幸せを知った

一人になった時 単調な日々の有り難さを初めて知った
眠れない日々が続いた時
羊水の中にいた時の記憶が蘇り
亡き母のかなしみの愛を知った

死の恐怖を眼前に感じながら うつむいていた時
ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た

失うことによってしか得ることのできない
愛があることを知った

失うことによって より深まる愛があることを知った

 堤の詩にも、杉の詩と同じような「繰り返し」と、その「変奏」がある。「しか/知った」が繰り返される。途中で消える。(ただし、「知った」は、繰り返される。)そして再び「しか/知った」があらわれる。
 なぜ、途中で「しか」は消えたのか。
 「しか」があるときは、そこには「人々」ということば、複数の人間の存在があった。「しか」が消えたとき、「人々」のかわりに「あなた」「母」が登場する。そして同時に「一人になった」ということばが動く。「私」が「一人になった」のは、「人々」(複数)が「あなた」「母」という「一人」があらわれたときである。
 「しか」は「唯一」ということでもあるが、この「しか=唯一」という、どこかに隠れている意識が「あなた」「母」を呼び寄せたともいえる。
 そして、この「しか/知った」という組み合わせは、最終連では大きく変わって「より」「知った」という形になる。
 ここで、私は質問してみた。最終連を「しか/知った」という形で言いなおすと、どうなるか。

 失うことによって「しか」深ま「らない」愛があることを知った

 これは、直前の「失うことによってしか得ることのできない/愛があることを知った」に非常に似ている。繰り返しのリズムを優先するならば「失うことによってしか深まらない愛があることを知った」でも同じである。「意味」はシンプルに伝わるだろう。
 しかし、堤は、そうしたくなかった。「しか/知った」では言い足りないものがある。そして、それは「あなた」「母」と強い関係がある。「より」強い気持ちを明確にしたい、それが「しか」ではなく「より」ということばを選ばせているのである。
 これは堤が選んだことばなのか、それとも詩が堤に選ばせたことばなのか。
 堤は「自分が選んだ」と言うかもしれない。しかし、私は詩が、そのことばを堤に選ばさせたのだと感じる。天啓、のように「より」ということばがやってきたのである。その天啓に身を任せることができたとき、ひとはほんとうに詩人になる。
 何を書いているかわからない。しかし、書いたあとで、ああ、そうだったのだと詩人自身が気がつく。そういう「個人」をはなれたことばの動きがあるとき、詩は、ほんとうに輝かしい。
 この詩には「知った」を含まない連がひとつある。その「ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た」の「視た」は「知った」に、とても似ているといえるだろう。「見る」ことは「知る」ことでもある。ここで、しかし「知る」をつかわずに「視る」ということばをつかっているのも、とてもおもしろい。「知る」をつかって別の表現がなりたつはずだが、それを押し退けて「視る」があらわれている。ここから「知る」と「視る」の違いについて哲学的に考え始めることもできるはずである。
 そうした「誘い」を促すのも、詩の、超越的な力だと思う。

聖餐  青柳俊哉 

隔絶した僧院の日々


空の微点へ凄まじく吸われる雲 
飢餓する子どもたちの生をおもう  

朝霧の隼(はやぶさ)王の食卓
白鳥と孔雀の胸肉の白ワイン蒸し
みつばのお浸しに霧がそそぐ 霧をすする
 
祭壇に子たちのアーモンドをそなえる
 
バラを敷きつめて女(め)鳥(とり)と交わる
 
口腔から胃へ激しい痛みと嘔吐
ながれる汚物 羽にかわるバラの花
 
生きることは異物と交わりそれに同化することであった
 
 
僧院の肥沃な花から女が飛び立つ

 青柳の詩には、杉、堤の詩をとおしてみてきた「繰り返し」はないように見える。しかし、ひとは何かを繰り返さないと何も言えない存在である。というか、ことばとは、ひとことですべてを言い表すことができない、何か不完全なものである。言いたいことを言おうとすると、繰り返しのなかに少しずつ「変化」をまじえながら、それを補強するしかない。
 「生きることは異物と交わりそれに同化することであった」という行があるが、「異物」と「同化」が、繰り返されていると言えるだろう。異物が異物のまま離れて存在するのではなく、「同化」する。そのために「交わる」。
 この異物が異物のまま「離れて」存在することを「隔絶して」存在すると言いなおせば、それは書き出しの一行に通じる。「隔絶した」と書き始めたとき、詩は「異物」を引き寄せ、「異物」は逆に「同化」を引き寄せ、それが「交わる」という動詞を必要としたのだろう。
 「書く」というよりも「書かされる」詩。
 やってくるのは「天啓」だけではない。「悪魔のささやき」もやってくるだろう。「悪魔のささやき」を拒み、「天啓」だけを選択するということができるかどうか。どうやって、その区別をするか。その判断の基準を「直覚」するのも、大切なことだと思う。

未確認飛行物体  入沢康夫

薬罐だつて、
空を飛ばないとはかぎらない。

水のいつぱい入つた薬罐が
夜ごと、こつそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。

天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切つて、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに早かないんだ)
そのあげく、
砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 受講生のひとりがみんなで読むために選んできた詩。みんなにどこが好きか(印象的か)と聞くと、最後の三行という返事が返ってきた。
 ここには不思議なことばがある。
 詩は、「美しい」ということばをつかわずに「美しい」を表現するものという定義のようなものがあるが、それを流用して言えば「大好き」ということばをつかわずに「大好き」を表現するのが詩かもしれない。
 小中学生ならいざ知らず、入沢康夫のような高い評価を受けている詩人が「大好きな」ということばをつかっているが、それでいいのか。
 というのは、まあ、意地悪な「いちゃもん」。
 この詩では、私は、「大好きな」ということばがいちばん大事だと思う。「大好きな」ということばのために、この詩はある。

砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
その白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 でも、詩は(その意味は)成立するし、学校の試験では、「作者はこの花についてどう思っているか、あなたのことばで書きなさい」という質問が出るかもしれない。「大好き」という答えを正解とするかもしれない。
 言わなくても、わかる。
 でも、言った方がいいのである。
 頭のいいこどもは、「お母さん大好き」と言わないことがある。言わなくてもお母さんが大好きなことはお母さんは知っている。でもね、お母さんは、わかっていても、そして時には嘘であっても「お母さんが大好き」とこどもが言ってくれるのをまっている。言ってくれると、うれしい。「大好き」と、ことばにするのことはとても大切なことなのである。
 そして、もし私がこの詩のなかの「白い花」だったとしたら、水を注いでもらったことよりも「大好き」と言われたことの方が、はるかにうれしいだろうなあと感じるのである。
 入沢の詩は、そういうことをテーマとして書いているわけではないだろうが、私はそういうことを思うのである。「大好き」と書くことによって「大好き」がとても美しいことばになる。大切なことばになる。平凡なことばのようで、平凡ではなく、唯一のことばになる。
 入沢は技巧的というか、人工的な詩人だが、彼がこんなふうに「大好き」ということばをとても自然に、力強く書いているというのは、とても楽しい。こんなふうに「大好き」ということばを詩に書けたらいいなあと心底思う。

 

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山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

2024-10-13 12:33:25 | 考える日記

山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

監督・脚本 山中瑶子 出演 河合優実

 山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」は、たいへんな評判らしい。カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したことも、その「好評」を後押ししているようだ。河合優実が主演した「あんのこと」、あるいはグー・シャオガン監督、ジアン・チンチン主演「西湖畔に生きる」もそうだが、「好きになれる人物」が登場しない映画、あ、この役者が演じたこの瞬間をまねして演じてみたいと感じさせてくれるシーンがないと、私は、その作品が好きになれない。
 「好き」ということばは誰でもがつかうが、その定義はむずかしい。私は「好き」というのは、その瞬間に、自分自身が消えてしまうことだと定義している。たとえば「ぼくのお日さま」の主人公は、少女がアイススケートをしているのを見て、フィギュアスケートが瞬間的に「好き」になる。そして、コーチが少女に指導していたことを耳にして、ふとその回転をまねしてみる。あるいは「リトル・ダンサー(ビリー・エオット、だったけっけ?)」でふと見てしまったバレエにひきつけられ、ボクシングをしているのに、ピアノのリズムで動いてしまう。さらに、彼は入学試験の面接で、踊っているとはどういう気持ちかと聞かれて「好き」というかわりに「自分が透明になる」と答える。この「透明」は私が言う「自分が消えること=好き」と同じだと私は感じている。「自分」というものがいなくなる、「自分」が消えて、「自分」では制御できない「肉体」が動き始める。そこには「感情」も「理性」もない。ただ「世界」だけが存在する。「世界と一体になる」という感じである。「好き」とは「世界との一体化」と言いなおすことができる。
 で、ここから「ナミビアの砂漠」を見直す。
 主人公(名前は忘れた)の河合優実は、一緒に暮らしている男(前半と後半は別の人間、つまりふたり)に対して、突然「暴力的」になる。いったん男の存在を否定し始めると、抑えが利かなくなる。徹底的に暴れる。これは、どうしてなのか。私の定義では、その瞬間が「好き」だからだ。男に対して暴言を吐き、暴力を振るう。その瞬間が「好き」なのだ。女は怒っているが、怒っている自覚はないだろう。「夢中」になっている。「無我」になっている。それしか「無我/自分が消え世界と一体化する瞬間」が存在しないのだ。
 それ以前は(それ以外の時間は)、どう「世界」のなかで存在しているのか。女が「暴力的」になる前には伏線がある。最初の伏線は、最初の男に対する伏線は、喫茶店で聞いた「ノーパンしゃぶしゃぶ」の会話である。こんな話題を、いまの若者が知っているのというのは私には驚きだったが、その「ノーパンしゃぶしゃぶ」で女が感じているのは、女は男の欲望の対象だ、という不満である。これが札幌出張の男が風俗店へ行ったことを知り、「怒り」となって爆発する。もしかすると、彼女は、その風俗の女であったかもしれないのだ。いま一緒に暮らしているが、それはほんとうに愛しているからなのか。それとも、セックスの対象とみなされているのか。これは、男が否定しようがしまいが、関係ない。彼女は、そう信じ、傷つくのである。そして、その傷に耐えられず、暴力的に反抗する。男の行為を否定する瞬間、彼女は「無我」になる。あるいは、「ほかの女と一体になる」と言えばいいか。風俗店で男とセックスをした女になる。「世界」になる。男が女を傷つけている世界そのものに向かって「無我」になる。暴力的になっているときだけ、彼女は男の世界から「解放」されるのである。それは世界を解放したい欲望と言いなおすことができる。
 もうひとりの男に対する暴力は、男が前につきあっていた女の「胎児のエコー写真」を見つけたところからはじまる。こどもはどうなったのか。堕胎した/堕胎させたのだろう。つきあっていた女は傷ついただろう。その傷を、男は、どうやってつぐなうのか。男は「小説」を書いている。きっと「小説」のなかで、自分の気持ちを「清算」するのだろう。そう思った瞬間から、暴力的になる。ここでも、女は、男の前の女、妊娠し、堕胎させられた女そのものになる。「無我」になっている。彼女が怒るのではなく、男の前の女になって怒る。
 ふたりの男は、女が「無我」になっていることに気がつかない。自分の目の前にいる、一個の「肉体を持った女」しか見えていない。女と「和解」するには、男も「無我」になるしかないのだが、それは、できない。男(ふたり)が女と暮らし始めたとき、暮らし始めようとしたとき、たぶん男にも「無我」の一瞬があったはずであるが、いまは、それを「再現」できない。男の行為が徹底的に否定されているわけだから、「無我」になれない。「無我」の「無」と「否定」の結果たどりつく世界ではなく、「肯定」のゆえに、自然とたどりついてしまう世界だからである。
 女が「安定」する、つまり世界が「好き」で満たされるのは、セラピーを受けているときではなく、スマートフォンで「ナミビアの砂漠」のシーンを見ているときである。オアシス(?)にシマウマが水を飲みにやってくる。こないときもあるが、くるときもある。それを「無我」になって見ている。「目的」もなく、ぼんやりと。この「無我」は「肯定」の結果ではないが、すくなくとも「否定」のゆえの世界ではない。
 「西湖畔に生きる」には、マルチ商法にのめりこむ女(母)が登場するが、彼女は息子から説得されても、そこから抜け出せない。家も売り払い、商法にのめり込む。言われるままに、大量の商品を買い込まされる。彼女は「買い物をしているときの自分が好き」というようなことを言う。「好き」とは、やはり「無我」なのだ。夫に逃げられ、新しい男との仲も引き裂かれ、彼女が「無我」になれるのは「金を使っているとき」だけなのだ。


 「好き」の結果、たどりつく世界は、たしかにおもしろくはある。山中瑶子は脚本を書き、映画を撮っているとき、たしかに「好き」なことをしているのだと思う。だから、その「無我」の充実感がスクリーンにあふれている。河合優実は、演技をしているときが「無我」なのだろう。だが、これは「頭」で整理した感想であって、無意識に書いてしまう感想ではない。「反感」の方がはるかに強い。
 私は「無我」を見るのが、ほんとうに大好きである。
 たとえば、私がいちばん好きな「木靴の樹」には、ミネクの両親が、ミネクのノートを開き、学校で習って書いた「L」を見ながら、「これはエルという字だ」という。そのとき、父親は字を読んでいることを忘れ、「無我」になって、ミネクになってノートにエルの字を書き続けている。ああ、ノートに「L」を書きたい、と私は思う。
 そういう瞬間が、「ナミビアの砂漠」を見ているとき、私には訪れない。「ぼくのお日さま」でも「リトル・ダンサー」にも、そういう瞬間はある。ビリーの父が、スト破りをする瞬間、あるいはビリーの合格を知って、道を書けていくシーン、仲間に自慢しに行くシーンは、私自身がバスに乗っているし、道を走っている。

 カンヌの「批評家」がどういう評価をしたのか、私は知らない。「評判」をあおっている日本の批評家(?)の意見も、私は調べたわけではない。ただ、二、三、ネットで見かけた記事(動画)では、彼らは「登場人物が好き」とは言っていなかった。あのシーンを自分でもやってみたいと言っていなかった。私は、そういう批評は嫌い。「マトリックス」を見たあとは、弾丸を身を反らして避けるシーンをしてみたり、やくざ映画を見たあとは肩をいからして映画館を出るという人の「行為」(肉体の変化)が好き。
 「頭」では、私は何かを好きになれない。

 「好き」の補足。
 私は和辻哲郎の文章が好きである。何度も書いたことだが「鎖国」には、世界一周をしてきた船がスペイン沖でスペインの船と出合う。そして、そのとき航海日誌をつけていた男が「日付が一日違う」ということに気がつく。この文章を読むとき、私は、和辻なのか、航海日誌をつけていた男なのか、それとも航海日誌をつけていた男に「きょうは○日だ」と告げた男になっているのかわからない。ただ「あ、日付変更線は、この発見があったからできたのだ」と思う。そして、そう思ったのは、私なのか、和辻なのか、あるいは航海日誌をつけていた男なのかもわからない。人間の区別がなくなる。全員が「無我」になる。そして「事実」が「真実」になる。そういう瞬間へ導いてくれることばが、私は好きである。

 

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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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Estoy Loco por España(番外篇457)Obra, Javier Messia

2024-10-12 21:34:39 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia

Hay orden y desorden que lo niega.O hay una unidad que convierte el desorden en orden.
Lo que escribo es contradictorio. Sin embargo, hay algunas cosas que sólo pueden decirse de manera contradictoria.

¿Este trabajo es dos en uno? ¿O están las dos obras más estrechamente integradas en una sola? ¿Se encontraron los dos o se separaron?
Lo mismo sucede dentro de cada obra. Está dividido en partes superior e inferior. O la parte superior y la inferior se encuentran. ¿Lo que está en el centro separa la parte superior e inferior? ¿O la parte superior y la inferior están unidas?
Incluso si es algo que separa a los superiores de los inferiores, o tal vez sea porque están tratando de hacerlo, se llaman fuertemente unos a otros.
Al escuchar esas voces, ¿la división y/o conexión en el centro emite una voz que ahoga las voces de arriba y de abajo, o un silencio que se traga las voces de arriba y de abajo?

Mis palabras están siempre confundidas.

秩序と、それを裏切る乱れがある。あるいは乱れを秩序にかえる統一がある。
私が書いていることは、矛盾している。しかし、矛盾した形でしか言えないことがある。

この作品は、ふたつでひとつなのか、それともそれぞれ個別の作品がよりそってひとつになっているのか。
ふたつは出会ったのか、それともわかれたのか。
ひとつの作品のなかにも同じことが起きている。上下にわかれている。あるいは上下が出会っている。中央にあるものは、上下をわけているのか。あるいは上下を結びつけているのか。
たとえ、それが上下をわけるものであったとしても、あるいはわけようとしているからこそなのか、強く呼び掛け合っている。
また、その声を聞きながら、中央の分断/接続が発するのは、上下の声をかき消す声か、あるいは上下の声を飲み込む沈黙か。

私のことばは、どこまでも乱れていく。

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青柳俊哉「仮晶」ほか

2024-09-29 12:13:57 | 現代詩講座

青柳俊哉「仮晶」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月16日)

 受講生の作品。

仮晶  青柳俊哉

惹かれて野花の咲く原へ

月へむかって花の成分がながれだす

ひとつの茎が指にふれる

かたい腺毛の奥のしずけさ
唇を花びらが噛む
苦みのある繊維質の霧のような香気

月がしぐれて 舌 崩れる

多孔質
スポンジ状の子房の中へそそがれて
種子へ結晶する

接合されて
野花と生きはじめる

 「月へむかって花の成分がながれだす」は、青柳の「詩語法(詩文法)」の特徴である。肉眼では見ることのできない運動が、言語によって実現されている。「花の成分」は具体的に何を指すか。それは読者の想像力に任されている。
 この詩には、ほかにもおもしろい語法がある。
 「ひとつの茎が指にふれる」「唇を花びらが噛む」。「ふれる」「噛む」という動詞の主語は「茎」「花びら」。人間ではないものが、人間に働きかけている。ここでは、人間が自己主張しない。「無」になっている。そして、その瞬間にあらわれる世界を生きている。
 そうした運動のあとに「月がしぐれて 舌 崩れる」という魅力的な行があらわれる。「舌」につづいているのは空白(一字空き)であって、助詞がない。もし「月がしぐれて 舌が崩れる」であったら、どうなるのだろうか。「崩れる」は自動詞であって、他動詞ではないから「ふれる」「噛む」のように、何かが肉体に働きかけた結果の動きではないのだが、何かしら、それまでの運動の印象とは違った感じがしてしまう。助詞「が」を省略することで、「舌」が宙ぶらりんになる。「崩れる」が自動詞なのに、それまで読んできたことばの運動(文体)の影響で、何かの働きかけがあって「崩れる」という動きが起きたのだと感じてしまう。何かが「舌を崩す」と感じてしまう。では、何が? 「月」か「しぐれ」か。(「しぐれて」は名詞ではなく、動詞なのだが。)
 ここには、不思議な「保留」がある。「判断中止」がある。
 それを経て、「私の肉体(と、青柳は書いているわけではないが。青柳は「私の精神(意識)が」と補足するかもしれないが)」「野花」と「接合されて」「生きはじめる」。野の花として、再生する、と読んでみた。

もし神がいるのなら  堤隆夫

子どもたちの未来が、
戦争のない平和な時代でありますように
飢えに苦しむことがないように
環境汚染や被曝のために、
故郷を追われることがないように

病や事故で苦しむ人々が、
少しでも少なくなるように
必要な時、必要な医療が、いつでも受けられますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る

国境を越えて、人々が手を取り合って、友達になれますように
学ぶ環境が、阻害されることがないように
機会の平等が、保証されますように
笑顔で働ける環境でありますように
がんばれば、報われる世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは何度でも祈る

そして--自分と違うからといって、差別やいじめがないように
助け合って生きていく世の中でありますように
個々の人間が、その多様な存在のまま、尊重される世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る
そして--神に栄えあれ

ある詩人の言葉が、今、わたしの胸に突き刺さっている
--「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、俺は絶対風雅の道をゆかぬ」

 「もし神がいるのなら、わたしは祈る」が繰り返される。途中に「何度でも」を挟んで、それが強調される。その強調を、さらに印象づけるのが「ように」の繰り返しである。この詩のポイントは、おなじことばを繰り返すところにある。
 この「ように」は、まだ実現されていないことをつぎつぎに明るみに出す。くりかえすこととで、見落としていたものが、そういれば、これも、あれも、と誘い出されてくる感じである。
 そうしたものが増えてきて、増えることで強くなる。
 「祈り」と書かれているのだが、「祈り」を超えて「欲求/欲望」になっていく。さらに、それを実現する「意志」へと変わっていく。堤自身の「決意」へと変わってく。
 それが最終行に結晶している。そこには「祈り」ではなく「決意」がある。

垣根越しの秋  杉惠美子

目眩のしそうな暑さから
少し抜け出して
クーラーの設定温度も少し上げて
ようやく 視線の行き先も落ち着いてきました

家の中でも動きが出ています
時折 熱い珈琲が欲しくなります

夜になると
月がひときわ明るく 私をたずねてきます
私も思わず話しかけたくなるのです

庭のあちこちには蝉の抜け殻が落ちています

毎年 この姿は不思議な気持ちになります
触れたくはないけれど 見捨てたくもないような

じっと見ていると
ありのままの姿で
今日の私をすり抜けたあとのようで
自分のことばをすり抜け
その先にある もっと広いことばを探しているような気がします

ゆっくりと季節は進み
秋の草が戸惑いながら揺れています

 この杉の詩にも、くりかえしがある。そのくりかえしは、堤のくりかえしとは少し違う。一直線に進まない。高みへのぼっていくというよりも、深みへおりていき、ゆっくりと広がる。
 おわりから二連目。「すり抜ける」「ことば」が「私/自分」を交錯させる。これは「蝉の脱け殻」の「抜け」と「すり抜け」の「抜け」が交錯していることもあって、「私/自分」と「ことば」のどちらが「脱け殻」なのかというような、不思議な疑問を呼び覚ます。
 杉は、たとえば月、あるいは蝉の脱け殻と対話するだけではなく、自分自身とも対話する。それが「戸惑い」「揺れる」ということばのなかに静かに反映されている。

おかしいでしょ!  池田清子

エスコ、ペルー、ゾゾ、マツダ、
バンテ、ケイ、京セラ、みずペ、

一体、どこ?
福岡ドームでいいでしょ

あっ
ブルーのユニフォーム
西武戦か?
えっ
日ハム?

黒と黒のユニフォーム
一体、どっちの主催試合?

おかしいでしょ!

 「おかしいでしょ!」は、怒りである。自分の知っていることが否定された怒り。でも、だれに対して怒っていいのかわからない。この怒りは、堤の書いている怒りのように力にならない。あるいは、力にしないことを目的とした(?)怒りとでもいいのだろうか。つまり、笑うことのない「笑い」でもある。
 こうした詩は、一篇ではなく、たくさんあつめると、不思議な「厚み」を抱え込む。たくさん書き続けることは、一篇を完成させるよりも難しいことがある。

 

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奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

2024-09-29 11:51:19 | 映画

奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)(キノシネマ天神、スクリーン3、2024年09月28日)

監督 奥山大史 出演 佐藤結良、大熊理樹

 冒頭、おじいさんが障子に穴をあけて、外を覗いている。このシーンがラストで少年にかわる。少年が障子に穴をあけて、外をのぞく。おじいさんが何を見たかは描かれない。少年が見たのは、少年が大好きな友人と雪の上でサッカーをしている姿である。
 このシーンは、「ぼくのお日さま」を思い出させる。「見る」とは、何か、ということを考えさせる。
 見る。目で見る。だから、目が直接見ることができないものは、自分の目である。しかし、目で見るとき、そこには「自分」が反映される。つまり、それは単に「自分以外」を見るのではなく、実は「自分」を見ることでもある。
 少年は、障子の穴をとおして、彼と友人が夢中になって(ほかのだれも見えない)になって、サッカーをしているのを見る。そこに自分がいるのだけれど、自分がいない。そして、たぶん、そこには友人もいない。ただ「楽しい」、あるいは「うれしい」が「ある」。「自分」は「無」になり、そこに「楽しい、うれしい」が輝いている。「好き」とは、こういことなんだなあ、と思う。
 「ぼくのお日さま」では、主人公の少年は少女がスケートをしているのを見る。コーチが回転しながらジャンプする、その仕方を教えている。それを見た少年は、少女が教えられた方法を試してみる。このとき少年は少年でありながら、少年ではない。回転しながらジャンプするという「行動(運動)」そのものになっている。自分の肉体の動きを確かめるとき、少女の肉体の動きを確かめていると書くと書きすぎだが、「人間の肉体の動き」(何かを実現する喜び)を確かめているとはいえる。そこには「自他」の区別は存在しない。「自他」を超える「無」の喜びがある。
 奥山大史のとらえようとしているのは、何か、そうしたものである。「無」、あるいは「空」と呼んだ方がいいのかもしれないが、いま、多くの人が見失っている「絶対的喜び(幸福)」をつかもうとしている。提示しようとしている。
 大好きな友達が死んでしまったのに、そこに「よろこび」が表現されるというのは「矛盾」かもしれないが、「悲しみ」を超えてしまう「よろこび」、その純粋さ、透明さが、この「僕はキリスト様が嫌い」でも、とてもよくあらわされている。
 (★が三つになってしまったのは、たぶん「ぼくのお日さま」があまりにすばらしくて、その「反動」のようなものかもしれない。)
 このラストシーン、スクリーンの下の方に「白い何か」がゆらゆら揺れている。これを映画の「キリスト」と結びつけ、「神様が見ている」と言う人がいたが、(「神の視点から見た世界、神はいつでも人間を見守り祝福している」という人がいたが)、私は無神論者なので、そんなふうには見ることはできない。あれは、あくまで障子の穴の、その周辺の紙である。少年の「我」が消え、「無(空)」になったから、あのシーンが見えるのである。もし、どうしても「神」と結びつけなければならないとしたら、「無我」の瞬間、少年は「神」になっていると言えばいいだろうか。「神」にひとしい存在、「自己主張」が消えた視点になっていると言えばいいだろうか。
 主人公の少年は、死んだ友人への「弔辞」を読んだあと、祈祷台(?)にあらわれた小さなキリストを拳で叩きつぶす。「友人を死なせてしまうキリストなんか許せない」という気持ちか。でも、もし「神」がいるとするなら、そういう「神への憎しみ」さえも許してしまうのが「神」というものだろう。裏切ろうが、迫害しようが、人間を許し、受け入れるのが神だろう。
 悲しみを受け入れる。そして悲しみのなかで楽しかったこと、うれしかったことを思い出すほどつらいことはないのだが、不思議なことに、その悲しいときに楽しかったこと、うれしかったことを思い出すことができるということが、人間を「生かす」力となっている。少年は、ラストシーンで、それを語るわけではないが、感じている。そういうことを教えてくれるとても美しいシーンである。
 こういう純粋な透明感をそのまま具体化できるというのは、現代では、とても貴重なことだと思う。奥山大史という監督は、初めて知ったが、これからも作品を見続けたいと思う。

 奥山大史監督の特徴は、「白」にいろいろな白があるということを知っていることだ。雪の美しさ、悲しさはもちろんだが、障子のほのかな白の変化、白い花だけではなく、青い花のなかにもひそんでいる白も含めてとても美しい。黒のなかには無数の色がある、無数の色があつまり黒になると言うが、白のなかにも無数の色がある。奥山大史の、その無数の色は「光の無数の色」なのだろう。だから、最後にその無数の色があつまると、何もない「透明な光」「純粋な光」そのものになる。
 書いていたら、★4個、あるいは5個にしたくなってきた。
 いい映画というのは、こういう変化を引き起こす映画のことかもしれない。

 

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細田傳造特集

2024-09-26 10:39:32 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造特集(「阿吽」復刊01、2024年08月25日発行)

 「阿吽」復刊01の「細田傳造特集」を見た瞬間に(読んだ瞬間にではない)、笑い出してしまった。表紙に「書下ろし一〇詩篇と十二の論考」とある。そして、その「論考」の執筆者が全員女性なのである。(名前だけで判断したので、間違っているかもしれないが。)
 で、これが、笑い出した原因。
 私はだいぶ前から、細田傳造の詩は「おばさん詩」であると言っている。「論考」を書いている詩人のなかには、私が「おばさん詩」と呼んでいる詩を書いているひともいる。そうか、やっぱり細田の詩について、何かまともなことを(まともな反応を)書くとすれば(それを期待すれば)、「おばさん」以外にいないのだなあと思ったのだが、これは私だけの印象ではなく、編集者もそう思っているのかと直覚したのだ。そうでなければ、論考の執筆陣が女性だけ、というのはかなり奇妙なことだろう。
 男では、荒川洋司が、いちばんまっとうな細田傳造論を書けると思うが、ほかには書けそうなひとを私は思いつかない。
 と、ここまで書いたら、もう書くことはないのだが。
 書き始めたのだから、むりやり(?)書き続けてみるか。

 「怒り Anger of a lady」の書き出し。

あの
かたちがきらい

 この二行から何を想像するか。詩、なのだから、「正解」などないのだが、つまり、何を想像しようがかってなのだが。細田は、読者が何を想像するかを「直覚」して、ぱっと、二行をほうりだす。そのあとで、
 おちんちん。
 詩のなかで、そう言いなおされているが、「ひろこさん」がほんとうに「おとなの/おちんちんがきらい/かたちがきらい」と言いなおしたのかどうかは、わからない。細田が、ひろこさんの恋人(注釈に書いてある)にかこつけて「smells の方はいかがでしたか?」なんて聞いたから、ことばがそっちへ動いたのかもしれない。いや、そういう方向へ動くと知っていたから「smells の方はいかがでしたか?」と聞いたのかもしれない。
 まあ、どうでもいい。「説明」なら、あとからいくらでも都合にあわせて言うことができる。修正ができる。そんなものは、「その場しのぎ」である。
 一方、

あの
かたちがきらい

smells の方はいかがでしたか?

 も、また「その場しのぎ」というか、「即興」であろう。
 この「即興」の「幅」というか「飛躍」というか、何を手がかりに、どう動くかという判断の「直覚」が「おばさん」なのである。
 何かを「基本(土台)」にして、そこから飛躍するというよりも、「何か」のなかにすっと溶け込んで、自分を捨て去って(無我になって)、「何か」の内部から新しいビッグバンが起きる。その瞬間の「直覚」。
 こんなことは、ことばでは説明のしようがないのだが、細田のことばの動かし方は、どこで「おばさん」と一体になっている。「無」我になっているから、もうそれ以上なくなりようがない、だからこれでいい、これで平気という感覚かなあ。
 これは、とても難しい。男には、できない。あの、耳のいい谷川俊太郎でさえ、こういうことはできない。

あの
かたちがきらい

 という「おばさんの声」を聴き取り、それを書き留めることはできても、そのあと「おばさん感覚(他人との距離を無視する、無我になって接続してしまう)」で、

smells の方はいかがでしたか?

 と切り返し、「その場」を活性化することはできない。
 で、この「おばさん直覚」を、それでは男のすべてが持たないかというと、そうではない。ちゃんと(?)生活している男は持っている。
 「猪」という詩は、養豚場に猪があらわれ、

いきなり
雌豚の梅子の尻に乗っかった
ぶるぶるぶるっと
三回痙攣し
事をすますと
すたこらすたこら
山へ帰っていった
鈴木さんが
渋い顔をして言った
俺んちのおんなたちに
ワイルドな味をおぼえさすと
男をえらぶようになる
子豚の取れる数が減る

困ったことだ

 豚のことを書いているのか、猪のことを書いているのか。あるいは、「俺(鈴木さん)」の「おんな」のことを書いているか。鈴木さんの体験を書いているのか。鈴木さんは、おんなを寝取られたことがあるのか。
 直覚は、世界の「境界線」を消してしまう。「無我」さえも消え、「無」という絶対があらわれる。「意味」を叩き壊して、「世界」に戻る。

困ったことだ

 これは鈴木さんのことばか、細田の声か。それはほんとうに「困っている」のか、それとも「うらやましがっている」のか。つまり、イノシシになれたらいいなあ、と言いたいけれど、それを言うと「まずい」ので、「困った」と言っているだけなのか。
 「答え(正解)」なんて、ない。
 「答え(正解)」なんてなくても、人間は存在する。存在できる。存在してしまう。細田は、こういう感覚(哲学/直覚)を、こどものときから持っていたようだ。
 「そら」を全行引用する。

そとにだされて
よこにならばされた
そらをみていたら
まっすぐまえをみていろ
みんなでまえをみていた
せびろをきたおとこのひとが
おおぜいきた
えんちょうせんせいやほけんのせんせいや
たんにんのせんせいたちが
じめんをみて
じっとしている
せびろをきたおとこのひとたちの
せんとうの人がぼうしをぬいで
あるくのをやめて
れつのまんなかにいたぼくに
きゅうにはなしかけてきた
ちちはははげんきか
へんじができなくって
だまりこんで
そらをみた
あとでまた
せんせいにしかられるとおもった
せんさいこじいんというところに
ぼくたちはいた

 この透明感は、最近見た映画「ぼくのお日さま」に通じる。細田は「そら」の色、明るさ、光の感じなどを一切書いていないが、私は、何も存在しない「空(くう)」、「絶対空」の透明な光を感じる。「空則ぼく」「ぼく即空」。この「空」は「そら」と読むのか「くう」と読むのか、書いている私にもわからないが、「おばさん詩」のなかにある「絶対」を、こんなふうに昇華していくのが細田の、だれにも追いつけないところだなあ。

 

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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

2024-09-24 06:49:37 | 映画

 ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM

 美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。
 こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透明、純粋、美を理解することはできない。
 とりわけ「好き」ということがもつ純粋さ、透明さ、その美しさを直覚することができない。
 この映画「ぼくのお日さま」は別のことばで言えば、「ぼくは、ぼくのお日さまが大好き」である。大好きなものを「お日さま」と呼んでいる。好きな対象は「お日さま」であると直覚して、言っている。「お日さま」ということばを聞いて、あ、少年は「お日さまが好き」なんだと直覚できなければ、それから先は、何もわからないだろう。
 で、この「好き」ということば、それが何回この映画につかわれているか私は意識していないが、一回だけ、忘れられないシーンがある。
 少年がフィギュアスケートかアイスホッケーか、選択に迷ったとき、父が「おまえが好きな方にすればいい」という。この「好き」をどれだけ「実感」として直覚できるか。少年はフィギュアを選ぶが、その選択を後押しするのが少年の直覚であり、そこには少年自身が純粋な形で具体化されている。
 これは、たとえて言えば「リトルダンサー」の少年がボクシングではなく、ふと見てしまった少女たちのバレエからバレエに目覚めるような、直覚である。それは本能である。説明はできない。
 で、私は、最初の感想に、このとき父親が吃音であることがこの映画の唯一の欠点であると書いたのだが、吃音をとおして父が少年の「好き」を応援していることを強調するのが、なんともいえず「下品」に感じたのだ。ただ単純に、「好きにすればいい」の方が不純なものが混じらない。あ、父親も吃音なのか、というようなどうでもい感想が混じりこまないだろう。

 ことばに関して言うと。

 「シネマサロン、ヒットの裏側」は脚本について、いろいろ難癖をつけているのだが、そのひとつひとつがあまりにもばかばかしい。たとえば、スケートのコーチが仕事をやめてどこかへ引っ越すのだが、その直前の会話から「客(教えている生徒)がたったひとりなのか」(ひとりの客、少女を失っただけで、仕事がなくなるのか)というようなことを言う。しかし、「生徒がひとり」とは、どういうことだろうか。映画では、生徒がひとりとはどこにも描かれていない。だいたい、コーチは、少女と少年のふたりを教えている姿をとおして描かれているが、生徒がふたりだけかどうかわからない。ほかの部分は「省略」されている。スケート場の他のスタッフが登場しないことについても疑問を語っているが、そういうものを描く必要を感じていないから映画は省略しているだけである。
 省略に関して言えば、たとえば少女の家庭はどうなっているのか。父や兄弟はいないのか。少女のかわりに母親がコーチに対して、コーチの解任を伝えるのだが、父親が登場しないことを理由に、少女は「母子家庭」のこどもであり、ひとりっこであると言えるか。
 あるいはコーチの連れ合いが「家業をつぐために北海道に帰って来た」というが、そのとき彼の両親は、あるいは兄弟はどこにいるか説明がないから、彼がガソリンスタンドを経営していることになるのか。そんなことはないだろう。映画に限らず、どんな作品でも、その作品が必要としないものは省略する。
 映画には描かれていないが、北海道の小さな街で(といってもスケート場がある大きな街だが)、その小さな街で「スケートのコーチはゲイである」ということが知れ渡ったら、それを嫌って生徒を引き上げさせる両親というのはいるかもしれない。ひとりの客を失ったのではなく、多くの客を失ったのかもしれない。そう考える方が自然だろう。舞台になっている北海道の街をゲイに対して不寛容な街であるというわけではないが、少数派を受け入れない(歓迎しない)という雰囲気は、どこにでもある。日本政府からして、同性婚を認めていないではないか。コーチは「ひとりの客」を失ったのではなく、その「ひとり」を含む多くの客(生徒)を失ったのである。その結果として、少年をも教えることができなくなった。でも少年がフィギュアが好きなことを直覚しているコーチは、少年にスケート靴をプレゼントして立ち去る。少年にフィギュアが好きなままでいてもらいたいと思うから靴を残していく。その悲しい美しさ。そこにはフィギュアを愛しているコーチのこころも描かれている。
 映画で説明していない部分は「存在しない」のではなく、単に「省略」されているにすぎない。コーチが、最初は「靴はやるんじゃない、貸すんだ」と言ったことを思い出すがいい。そして、そこから靴を残していく気持ちを想像すればいい。また、それを受け取る少年の気持ちを想像すれば、彼がその後なにを選択するかがわかる。想像できる。説明がないものを想像できないのは、想像力の欠如である。
 コーチと連れ合いの関係をゲイの関係である、ふたりは同性愛者であるということを、ユーチューバーは語っているが、映画のなかで二人がセックスをするわけではない。ひとつのベッドに寝ているが、ひとつのベッドに寝ればかならずゲイであるとは言えないだろう。それなのに、ゲイであると断言する。登場人物がゲイであることは想像できても、映画に登場しない人物が彼らの周りには存在するということを想像する能力が、彼らには欠けている。
 テーマではないことがらに関することは想像しても、テーマについては想像しない。簡単に言えば、彼らの想像力は「下品」である。「品がない」。
 想像力の欠如はラストシーンについても言える。ここでは具体的なことばは何一つ明確になっていない。だから、そこから何を想像するかは観客に任されているのだが、彼らがハッピーエンドを想像できなかったからといって、ハッピーエンドではないとは言えない。すでに書いたように、あれ以上のハッピーエンドはない。描かれていない部分から何をつかみ取るか。何を直覚するか。それには、そのひとの「品」が影響する。私は私に品があるとは思わないが、彼らは「下品」だと思う。
 少年と少女が、コーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継がなかった(受け取らなかった)と想像してしまうのは、あるいはコーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継いだと想像できないのは、「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバーに、何かが「好き」になった経験がないからだろう。あるいはそういう経験があったとしても、そのときの気持ちを自分自身でしっかり確かめ、確実にするという意識がないからだろう。自分、そして生活を見つめなおさないことを「品がない」というのである。

 脱線するが。
 「世界のおきく」を批判して、地主農家(?)が主人公たちに対して怒ったとき、肥だるを手で持って、糞尿をぶちまけるというシーンがある。そのシーンに対して「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバー「手で持つなんて汚い。不自然。足で蹴れ」というような批判をしていた。このことについては「世界のおきく」について書いたときに触れたが、肥だるは貴重品である。大事な道具である。そういうことを理解している農家のひとが、いくら怒ったからといって足で蹴ったりはしない。壊れたら大変である。そういう配慮をするのが「品」というものである。問題のユーチューバーには「生活の品」というものがない。「生活」が反映されていない。「きちんとした生活」が反映されれば、そこにおのずと「品」あらわれる。

 「品」とたぶん関係すると思うが。
 この映画の映像の美しさは10年に一作の美しさである。10年に一本の映画である。この映画以前に、10年に一本の映画と書かずにはいられなかった作品は「長江哀歌」である。あの映画も、映像が透明だった。どこにもゆるぎがなく、人間をしっかりととらえていた。人間に密着している。壁にのこる雑巾の痕、壁に密着したテーブルを雑巾で拭くと、そのときの「拭き痕」が壁にのこる。毎日、テーブルを拭いていたから壁に拭き痕が残ったのだ。その美しさ。毎日テーブルを拭いているという生活の品、暮らし方の品がのこる映像が象徴的だが、どの映像も、それをみつめる人間の生活に密着している。落ち着いている。けっして作為的ではない。「品」というのは、そういう形であらわれる。
 柳宗悦やバーナード・リーチが言った「民芸の品」に通じるかもしれない。
 きちんと暮らしていれば、おのずと「品」はあらわれる。
 少年は、アイスホッケー、フィギュア、野球をやる。そのなかで、彼は何を選んだか。ラストシーンには、それが描かれている。何を選んだと想像するかは、観客の「品」によって違うだろう。その選択を「好き」と思うかどうは、観客の「品」によって違うだろう。

 書いてはいけないことまで書いたかもしれないが、思ったことは書いておくしかない。「シネマサロン、ヒットの裏側」の「批評」があまりにもむごたらしいので、書かずにはいられなかった。


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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2)

2024-09-24 00:55:41 | 映画

(この記事の下にある「ぼくのお日さま」の感想のつづきです。先に下の記事を読んでください。)

 私は他人の批評は読まないのだが、ある人が、ユーチューブの「ぼくのお日さま」の批評について、わざわざ教えてくれた。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM
 これが、とんでもない「批評」。
 「最後の詰めが甘い」というのだが、その詰めのシーンで彼らはいちばんのポイントを見落としている。ラストシーンは、少女が遠くから歩いてくる。少年がその姿を見つける。ふたりは、久々に出合う。そのとき少年は何かを語ろうとする。そこで映画は終わる。少年が何を語ったかは、わからない。
 でもねえ。
 この少年は何を持っていたか。ただ学生鞄を持っていただけか。胸に大事にかかえていたのは何か。それはコーチがくれたスケート靴である。それを袋(鞄?)にいれてかかえている。コーチが少年にスケート靴を渡したときの袋(ケース?)の色は覚えていないが、同じ色だったかもしれない。違っていたかもしれない。しかし、どう見てもスケート靴を入れている袋にしか見えない。野球のグラブやバットが入った袋ではない。
 少女はスケート場から帰ってくる。少年はスケート場へ向かっている。少年は再びスケート(フィギュア・スケート)を始める気持ちになったのだ。そして、初めてその気持ちとなったときと同じように少女に出会ったのだ。少年は少女を、少年が初めて少女を見たときの目で見ている。そして、そこで「初めてのことば」を交わすのだ。これ以上に美しいハッピーエンドはない。
 さらに。
 驚いたことに、このユーチューバーたち(3人)は、一種の裏切りをした少女がどう立ち直っていくか(こころに傷を背負っていく)というようなことを語っているのだが、まあ、なんというか。「不潔な理想」だ。男の願望丸出しの感想。少年を、そしてコーチを裏切った少女には、罪の意識を持ってほしい、と思っているようだ。
 少女に、そんな「責任感」を押しつけて、いったいどうなるのだ。
 どうして、いろいろなことがあったけれど、スケートをつづけて立派な選手になってほしいと思わないのだろう。
 コーチが北海道を離れようが、少年がたとえスケートをやめようが(実際は、やめはしない)が、そんなことは少女には関係がない。少女は自分の気持ちに純粋にしたがっただけ。スケートが好きだし、コーチが好きだから、ちょっと自分の方を向いてほしかっただけ。裏切りも、自分をもっとみつめて、という叫び。幼いから、それをことばにできないだけ。
 少年は、そうした少女の「こころ」を知っているかどうか、わからない。少女の裏切りの背後に何があったかも、はっきりとは知らないはずである。
 でも、少年がスケートを再開すれば、それは少女の励みになる。そうなることは、見ている観客にはわかる。ふたりがペアでアイスダンスをするかどうか、そんなことは関係がない。ただ、ふたりはスケートをする。スケートをすれば、それだ楽しい。その喜びが、もう一度始まるのだ。
 「不純な中年(もう、高年?)」の、時代後れの「少女観」が、映画を台無しにしている。上記のURLの感想を聞くと、ただただあきれる。「世界のおきく」のときも、信じられないようなことを語っていた。はっきり書いておこう。上記のユーチューバーたちは、映画業界で金稼ぎをしているだけの人間である。


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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)

2024-09-23 16:00:22 | 映画

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2024年09月23日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 奥山大史 出演 越山敬達、忍足亜希子、池松壮亮

 傑作。
 冒頭の初雪のシーン。とても美しい。透明な空気のなかの水分が結晶して、舞うように空から降ってくる。それが繊細で、美しい。純粋そのものが結晶になって舞っている感じ。みつめる少年の目が、同じように透明で純粋で美しい。
 この印象が、最初から最後まで、まっすぐにつづく。
 ひたすら透明、ひたすら美しい。純粋。
 少女の嫉妬、そしてそこからはじまる「裏切り」さえも透明で美しい。この場合の透明は、何もかもがはっきり見えるということである。はっきり見えるから、それを否定できない。少女は自分の気持ちを裏切ることなどできない。純粋な気持ちが、嫉妬さえも貫くのである。嫉妬が間違っているといえない。嫉妬を間違っていると言えるのは、嫉妬をしたことがないひとだけである。
 こんなことは、しかし、書く必要はないなあ。
 なんの説明も必要としない。
 透明で純粋で美しい、と書けば、それでおしまい。
 この透明さ、純粋な美しさを、最初から最後までつらぬけるのは大変な技量である。人間をみつめる目がまっすぐなのだとわかる。カメラワークに演出がなく、それが映画をいっそう純粋なものにしている。
 唯一、私が気に食わなかった点をあげるとすれば。少年の父親が少年と同じように吃音であること。これは、なんともいえず不自然だった。
 しかし、傑作。今年のベスト1の映画。


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呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)

2024-09-22 13:24:24 | 映画

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)(2024年09月22日、KBSシネマ、スクリーン2)

監督 呉美保 出演 吉沢亮、忍足亜希子

 「侍タイムスリッパー」の対極にある映画。「侍タイムスリッパー」は幕末を生きていた侍が現代にタイムスリップしてきて「時代劇」を体験する。江戸時代と現代、現実と虚構というふたつの世界を主人公が生きている。
 一方の「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、耳と口が不自由な両親から生まれた主人公が、耳が聞こえる世界と、耳が聞こえない人の世界をつなぐ。「ふたつの世界」を生きているという意味では似ている。
 しかし。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を紹介する記事は、私の読んだ限り(あるいはたまたま知人から聞いた範囲内では)、五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を題材にした映画であり、主人公は「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きているという具合にとらえているのだが。
 このとらえ方は、違っていると思う。私は呉美保の作品には何か引きつけられる部分があって、その私が感じている引きつけられる部分が、いま世間で言われている「解説(感想)」とはずいぶんかけ離れている感じがする。それで、ほんとうなのか、という気持ちもあり、映画を見た。(呉は、個人の意識(認識)を深く掘り下げるタイプの作風ではなく、人間の「幅」を広げるタイプの作風だと思う。)
 そして、やっぱり違っていた。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、たしかに簡単に説明すれば、主人公が体験した「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いている。私は見が聞こえない人、口がきけない人と対話したことがないので(手話も知らないので)、私が知っている世界は「聴こえる世界」であって「聴こえない世界」ではないから、このふたつの世界を体験しているということはそれだけで、そこから教えられることは多いのだが。
 でも、この映画を「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きている主人公を描いているというだけでは、この映画を語ったことにはならない。
 たまたま、この映画の主人公は、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いているが、そういう定義でなら、「侍タイムスリッパー」も「武士の世界(幕末)」と「現代」という「ふたつの世界」を生きているということもでき、そこには違いがなくなってしまう。だいたい、ひとはそれぞれ独自の世界を生きている(というか、人はだれでも自分を主人公とする世界を生きている)という言い方をしてしまえば、そして、それぞれの独自の世界を生きていることを認める(マルチ世界を認め、尊重し合う)という方向へ論理を展開していけば、それは、どんな「現実」についても言えることである。こんな抽象的なことを言っても始まらない。
 だいたい、呉美保の映画は、そういう「抽象的説明(解説?)」とは遠い「リアル」な描写そのものに基本がある。抽象的な道徳倫理にくくってしまって、そこから何かを語っても、この映画を語ったことにはならないだろう。
 これまで書いてきた「ふたつの世界」は、実は「主人公が体験した世界」と言いなおせば「ひとつの世界」である。それを「ふたつ」に分割しているのは主人公ではなく、その映画を見ている観客が聴こえるか、聴こえないかの視点である。それは裏を返せば「私は聴こえる」という「ひとつ」の世界からみた世界、いままで気がつかなかった世界というにすぎなくて、それは「ふたつ」と数えてはならないものである。単に、「見てこなかった世界、見ようとしなかった世界」である。それをふくめて「世界はひとつ」と言ってしまえば、それでおしまい。
 なぜ、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのか。
 この日本語は、ふたつの意味をもっている。ひとつは「ぼくが主人公として体験した世界」という意味であり、もうひとつは「ぼくが主人公として生きている世界」である。後者には、実は、もうひとり「主人公」がいる。
 この映画に関して言えば、「母親」である。「母親の世界の中でぼくが主人公として動いている」。主人公「ぼく」は、このことを知らなかった。だれでも自分を主人公と考える(自分中心に考える)から、「ぼくは聴こえる世界」を生きるとと同時に、「聴こえない人のいる世界にも足を踏み入れ、そのひとたちを助けたりする」ことになる。そう考える。しかし、母親にとって「聴こえる世界」はない。「聴こえない世界」しかない。補聴器をつかって主人公の声を聞くことがあっても、それはあくまでも「聴こえない世界」でのひとつのエピソード。その「母の世界」で「母」は主人公であるのはもちろんだが、それだけでは終わらない。「母の世界」のなかで、主人公は「母」ではなかった。「ぼく」だった。「はは」は「ぼく」を主人公にするために生きていた。母にとって主人公は「ぼく」だった、と主人公が気づく。
 これが、この映画のテーマ、呉のテーマである。呉がくりかえし描く「家族」とは何かというテーマである。「私ではない、相手が主人公なのである」。「他人が主人公の世界」。そういう世界でも、私たちは実は生きているのである。
 ラストシーン直前。ぼくと母が列車の中で手話で話している。そのあと母が、ぼくにありがとうという。みんなが見ているところで手話で話してくれて、うれしかったというようなことを言う。こここそが、ほんとうのクライマックス。列車の中で手話で話しているとき、ぼくは「主役」ではなくかった。母が主役であり、ぼくは「脇役」だった。だが、「脇役」もできるというのが「主役」の強みであり、「脇役」は「主役」にはなれない。「母の世界」のなかで「主役」のぼくが「脇役」になり、母を「主役」に引き上げている。母は、それをほんとうにびっくりし、こころから喜んでいる。森進一の歌った「おふくろさん」ではないが、自分ではなく他人のために何かをするとき、そのときこそ、人間は「主役」になっているのである。「人間」になっているのである。
 主人公は、両親のために苦労させられていると感じていた。「こんな家に生まれたくなっかた」と思っていた。しかし、両親は違ったのだ。「生まれてきてくれてありがとう。おまえが私たちの主人公」と思って生きてきたのである。そして「主人公」のおまえが、主人公をやめて「脇役」になる。その瞬間、それは母が主役になるというより、ふたりが「主役」になる、「家族が主役になる」という瞬間なのだ。
 私は映画ではめったに泣かないが、思わず泣いてしまう瞬間がある。呉の、この映画でも、母が「ありがとう」と言ったあと、生きてきた苦しみが何もかも消えてしまったというような、さっぱりした後ろ姿で駅のホームを歩いていくのを見たとき、私は主人公が泣きだす前に泣いてしまった。
 あの忍足亜希子の後ろ姿、歩く姿は、もう一度見てみたい。あの瞬間までは、なんというか、映画のチラシやネットの解説がまくしたてているように「耳と口が不自由な両親をもつ主人公が体験した、聴こえる世界と聴こえない世界」をリアリティーにこだわって描いていた映画だったが、そのリアリティーは「ぼく」が見たリアリティーだけではなく、「母」の見たリアリティーでもあったのだと断言し、その世界で「ぼく」という主人公はどう母から見えていたかを教える。「ぼく」が思い出すのは母の笑顔、「主人公=ぼく」が幸福だったとき、母は「脇役」から「主役」にかわる。それを変えることができるのは「ぼく」だけなのである。
 多くの人は(私も含めてだが)、もしかしたら、私は「誰かの世界のなかで主人公しもしれない(主人公だったのだ)」と気づくことはない。だが、「世界」は、そんな不思議に満ちている。
 ホームを歩く忍足亜希子の後ろ姿までは、すこし紋切り型かもしれない。しかし、このシーンはほんとうに美しい。このシーンのために★を追加した。

 

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Estoy Loco por España(番外篇456)Obra, Laura Iniesta

2024-09-19 00:00:02 | estoy loco por espana

Obra, Laura Iniesta
Mixed media on canvas and crystal resin 30x30cm

 Negro, rojo y blanco. O negro, blanco y rojo. No, rojo, blanco y negro. ¿Cuántas combinaciones hay de estos tres colores? "Matemático" puede contener la respuesta. Pero rechazando esa respuesta, Laura diría: "UNO." Entiendo mal esa respuesta como "infinita".
 Es cierto que la combinación aquí es "única" y, en ese sentido, es "UNO". Sin embargo, no siento que los colores de este cuadro sean fijos. Los colores se están moviendo. Las formas se están moviendo. Sus movimientos no pueden contenerse dentro de un área de 30 cm cuadrados. Está desbordante. Se desborda hacia el mundo y atrae al mundo en el cuadro. El movimiento nunca se detiene.
 Lo llamo "infinito" porque nunca se detiene. El "movimiento" es infinito. A medida que se mueven, los colores de esta obra continúan cambiando. Sin embargo, sigue volviendo al negro, al rojo y al blanco. Vuelven más fuertes y más grandes.

 黒と赤と白。あるいは、黒と白と赤。いや、赤と白と黒か。この三つの色の組み合わせ方は、いったいいくつあるのか。「数学的」には、答えがあるかもしれない。しかし、その答えを拒否して、Lauraは言うだろう。「ひとつ」と。私はその答えを「無限」と聞き間違える。
 たしかに、ここにある組み合わせは「一回限り」のものであり、その意味では「ひとつ」である。しかし、私には、この絵が、絵のなかの色が固定されているとは感じられない。色が動いている。形が動いている。その動きは、30センチ四方の内部に納まらない。あふれていく。世界へ向かってあふれながら、世界を引き込んでいる。その動きは、止まることを知らない。
 止まることを知らないから、私はそれを「無限」と呼ぶ。「動き」が無限なのだ。動きながら、この作品の色はかわりつづける。しかし、なからず黒、赤、白に戻ってくる。より強く、より大きくなって。

コメント (1)
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