詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

2019-10-16 00:05:24 | 映画

ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

監督 ダニー・ボイル 出演 ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ

 これは何というか、イギリス以外では絶対つくることができない「味」を持った映画。どこが「イギリス味」かというと、みんな、相手がだれであろうが自分の「身分」を離れないということ。うーん、イギリスというのは徹底的に「階級社会」なのだ。自分の属する「階級」とは「親密」につきあうが、そうでなければ知らん顔。たとえ知っていても、知らない顔をする。これは逆の言い方をすると「分断社会」、「個人主義の社会」ということにもなるのだけれど。
 象徴的なのが、主人公ヒメーシュ・パテルの歌(といってもビートルズの歌)だけれど聞いたシンガー・ソングライターのエド・シーラン(本人/私は知らないけれど、有名人らしい)が主人公の家を尋ねてくる。主人公の父親は、彼を見ても「エド・シーランに似ているなあ」「本人だよ」「ふーん」という感じ。「階級(住む社会)」が違うから、何の関係もない。たとえ有名人だとしても、それがどうした?という感じ。主人公にとってはびっくり仰天だが、それは主人公とエド・シーランとの関係であって、父親とエド・シーランは無関係。言い換えると、究極の個人主義とも言える。(「ノッティングヒルの恋人」にも似た感じの味がある。大女優・ジュリア・ロバーツとイギリスの普通の男が恋愛するけれど、それでどうした、という感じで周囲が見ている。)
 だから、というと奇妙に聞こえるかもしれないけれど。
 ヒメーシュ・パテルが「新曲」と言って家族に「レット・イット・ビー」を弾き始める。でも最初の部分だけで、つぎつぎに邪魔が入って最後まで歌えない。家族や父親の友人は「聞きたい」とは口では言うが、真剣に聞く気持ちは全然ない。どうせ、つまらない曲、自己満足の曲だと思っている。思っているけれど、口にはしない。この「個人主義」もなかなかおもしろい。日本だと、「聞きたい」と言った手前、最後まで聞く。でも、イギリスは気にしない。聞く方には聞く方の「事情」がある。そっちを優先させてしまう。ヒメーシュ・パテルは「家族」だけれど、音楽という違う「階級」にも属していて、そんなもの私の知ったことじゃないと、両親も、その友人も、どこかで思っている。
 最後のコンサートシーン。父親が楽屋(といっても、ホテルの一室)を尋ねてくる。そこで何をするかといえば、皿に載っている手つかずのサンドイッチを見つけて「それ、全部食べるのか」と息子に聞く。ヒメーシュ・パテルは、父親に全部やってしまう。いったい全体、これはどういう親子? でも、これがたぶんイギリスの「親子関係」なのだ。一緒にいても、それぞれの「領域」があり、個人と個人の「つきあい(社交)」がある。それを優先する。つまりは「個人」を優先する。
 これが映画(ストーリー)と何の関係がある?
 とっても深い関係がある。この奇妙な「個人主義」(階級の分断)と共存こそが、この映画の神髄なのだ。
 ビートルズ。世界のアイドルだが、イギリス人にとっては世界と共有する音楽でとはなく、あくまで個人とビートルズの関係にすぎないのだ。「すぎない」と書くと語弊があるが。あくまでひとりの人間としてビートルズが好き。他のひとがビートルズが好きであっても、その「好き」はひとりとは関係がない。「個人」とビートルズが音楽を共有するのであって、「個人」が「大勢のファン」と共有するものではないのだ。
 このことをはっきりと語るのが、ビートルズを知っているふたり。ふたりは、ビートルズを知っていて、そのことをヒメーシュ・パテルに告げに来る。「盗作」というか「剽窃」だと知っているけれど、非難しない。逆に、「ビートルズを世界に広げてくれてありがとう」と言う。ビートルズと世界のひとりひとり(個人)がつながる。そのことに悦びを感じている。ちょっとイスラム教徒の神と個人の関係に似ているかなあ。そこにあるのは「個人契約」だけ。あくまで「個人」がビートルズを楽しむ。
 アメリカの音楽業界の「一致団結」してビジネスにしてしまう感覚とは大違い。
 ヒメーシュ・パテルはアメリカ資本主義が提供する大成功をほっぽりだす。全部の曲を無料ダウンロードできるようにして、ヒメーシュ・パテルは「自分」にもどって行く。みんなが好き勝手にビートルズを楽しめばいい。大勢で楽しむのはそれはそれで楽しいが、「個人」で楽しんでもいいのだ。みんなで楽しまないといけないというものではない。
 いいなあ、この「愛し方」。「階級」で分断されているから、「独立」というか「自立」の精神も強いのだ。「個人」でいることの「自由」を知っている。たしかに自由は「個人」であることが大前提だ。ダニー・ボイル監督は「私はこんなふうにビートルズが好き」と、自分のビートルズの愛し方を映画にしたのだ。
 ジョン・レノンとの出会い、会話の部分も、そういうことを語っていると思う。
 イギリスの「個人主義」はいつ見ても美しいと私は感じる。絶対に自分を離れない。生まれ育った世界に自己という足をくっつけて生きている。ヒメーシュ・パテルが、ビートルズの「ことば」を思い出せなくて、リバプールを尋ね歩くことも、そういうことを象徴している。知っていることしか、ことばにできない。(ということを、ビートルズを覚えているふたりが主人公に語る。)ビートルズが、なんとも不思議な形でスクリーンいっぱいに広がる。ビートルズを聞きながら、イギリスへ行ってみたくなる、ビートルズの歩いた場所を歩きたくなる映画だ。

 (2019年10月15日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)


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山本育夫「抒情病」十八編

2019-10-15 18:29:51 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「抒情病」十八編(「博物誌」41、2019年10月01日発行)

 山本育夫「抒情病」十八編は、フェイスブックでタイトルを見かけ、とても気になっていた。「抒情」は病気か。と、書くと、とたんに「抒情病」という病気があるのか、という意識を破って「抒情が病気になっているのか」ということばが、私の「肉体」のどこかからか飛び出してくる。書くまでは、そんなことは一度も思ったことはないのに。
 さて、どっちのことを山本は書こうとしているのか。いや、私は、どっちを読みたいと思っているのか。

1 手術

(花鳥風月はあぶない
ことばに浸食してきたら
注意深く手当てをする)
かかりつけの医者は
声を潜ませてそういい
手術台にのせて
切開手術をはじめた
切り口からもうもうと
情緒があふれ出す
あぶないけど
魅了される匂いだ

 「花鳥風月」が「抒情」か。それが「ことばに侵入してきたら」「手当てをする」。こういう「論理」で読み取れば、「抒情」という名の病気があり、それはことばにとっては「あぶない」病気ということになる。
 そのあとも、同じ調子で読み進めることができる。「切開手術」をすると「情緒があふれ出す」。「抒情」は「情緒」と言いなおされている。「もうもう」というのは「抒情」とはとらえどころがないものだ、ということを意味しているかもしれない。とらえどころがないからこそ、「あぶない」。そして「魅了される」。「もうもう」はいつの間にか「匂い」にかわっている。「あぶない」は感染力の強さを語っていることになるが、一方的に病が襲ってくるのではなく、「ことば」の方も罠にかかったみたいに近づいていくということがあるのだろう。
 考えるとめんどうくさいが、こういうめんどうくささをひきよせてしまうのが「抒情」の特徴の一つである。「抒情」は「感情」をあらわしているようで、意外と「ととのえられた感情(知性によって整理された何か)」を指し示している。「ととのえ方」が「情緒」であり、「知的」でなければ「抒情」ではない、のかもしれない。だから「抒情病」というのは、もしかすると「感情」ではなく「知性」の病なのかもしれない。あからさまな感情、むき出しの感情を「抒情」と呼ぶことはないからね。あるいは、こんな風に「分析」してしまう私が「抒情病/知性で世界をととのえようとする病」そのものにかかっているのかもしれないし。
 問題は、そのあとだな。終わりの四行。
 
菌類まで届けば
抒情病はなおる
医師はそういって
ことばにそれをふりかける

 突然「菌類」ということばがあらわれる。同時に、ことばが大きく転換するのを感じる。「医者」が「医師」へとことばを変えていることからも、それがわかる。もっとも、この「医者」と「医師」の書きわけは、どこまで意識化されているか、疑問ではあるが。
 「切開手術」をしたのは「抒情」を取り出すため。「抒情」を取り出したのは「ことば」の病気(抒情病)を治すため。がんを手術で取り出すようなものだ。がんならば、取り出した段階で、いったんは「治る」。でも「抒情病」は、それだけでは不十分である。あふれ出した「情緒」が「菌類」に届かなければ、治らない。
 これって、かなり奇妙な「論理」である。
 で、そう感じた瞬間、最初に書いたことが思い出される。「抒情病」は病気の名前なのか、それとも「抒情」が「病気」という状態なのか。「抒情」そのものが「病気」であり、それを治療するために「菌類」をふりかける。このとき「抒情」は「ことば」と同じ意味を持つ。
 あれっ、そうすると、やっぱり「抒情」という名の病にかかっている「ことば」がなおるということにもどってしまう。

 私は、どこで間違えたのか。どこから「迷路」に迷い込んだのか。

 簡単だ。「論理」で詩を読み進めようとしたところから間違えている。「論理」をおいつづけたために「迷路」があらわれたのだ。
 これは逆な言い方をすると、「論理」を追いかけていけば、ことばは「抒情病」に簡単につかまってしまうということだ。先に少し書いたが、「抒情病」というのは、やっぱり「感情の病気」ではなく「知性の病気」なのだ。
 「知性」とは「ことば」とほぼ同じ意味でもある。「知性」は何かを明確にするために、ことばに圧力をかける。ことばが指し示しているものをありのままの状態ではなくしてしまう。「比喩」にしてしまう。
 この詩には「抒情病」をはじめ、それにつらなるようにいくつもの「比喩」がある。「手術」が「抒情病」のふたつが組み合わさって、その組み合わせのなかに「手当て」とか「医者」を抱え込み、構造を明確にしながら、同時に複雑化する。迷路化する。

 では、この「迷路」を抜け出すためにはどうすればいいか。蹴飛ばして、そんなものなどなかった、この作品は存在しない、ということにするしかない。禅問答のようだが。「考案」への禅僧の、ひとつの答え方のように。
 でも、わたしはもう、ここまで書いてしまった。書いてしまったことは、たとえ全部削除したとしても、私の「肉体」のなかに残る。
 だから、私は、それをかかえたまま、詩を読み続ける。

2 声

ギシギシと
クルミのからを脱ぐように心を脱ぎ
長い髪が漂う空に
身を潜めている抒情!
巨大なそれを袋詰めにして
つぎつぎにパンパンと割っていく

 あ、これでは、まさに「考案」を蹴飛ばして席を立つ禅僧ではないか。「そんなものなど存在しない」。「無」だけがある。「無」が答えだ、というような。

おおそれならわかる
それならわかると
遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる

 「無」とは何か。あるがままの「自然」である。私は禅僧ではないから、テキトウなことを考える。「わかる」とは受け入れることである。何もつけくわえずに、それを受け入れる。
 この詩には、そういう気持ち良さがある。禅僧の「悟り」とは、こういう感じかなあ。また、私はテキトウなことを書く。こういうとき、「無知」というのは都合がいいなあ、と自分のことながら感心してしまう。「禅」と向き合ったことがあるひとは、私のように簡単に(テキトウに)、こんなことは書けないだろうなあ。

3 猫とは

その朝
日だまりを見ると
驚いたことに
ことばが
ほっこり猫のかたちになって
吹きこぼれている

 ここにも「ことば」が出てくる。「ことば」が「対象」を指し示さず、「ことば」であること自体を問題にしている。
 山本は、こういうことを「抒情病」と呼んでいるのかもしれない。
 「ことば」は一義的に「もの」を指し示す。でも、「もの(存在)」を指し示さずに、「ことば」を動かしている「意識」そのものを指し示し、その指し示し方を問題にするというのが「抒情病(ととのえられてしまった感情)」である。これはもちろん「知性の病」である。「感情」は「感情」をととのえるとうめんどうくさいことをしない。「感情」は「感情」を暴走させるものである。
 「ことばが/ほっこり猫のかたちになって」までは、まだ「比喩」である。しかし、それが「吹きこぼれている」は「比喩」を逸脱している。「吹きこぼれ」たなら、そこに形はない。形を超えていくことが「吹きこぼれる」だからである。でも、「ことば」はそういう「ありえない」ことを語る(書く)ことができる。「ありえない」は「無」なのか、それとも「無」を超えた「絶対有」なのか。その「絶対有」こそが「無」かもしれないし。と、私は、またまたテキトウな知ったかぶりを書く。私のことばは「知ったかぶり」が好きなのである。
 ひとつ省略し、

5 こと橋

その橋は危(あや)ういことばでつくられているから疑うと
崩れおちるおたがいをつなぎあわせていることばしことば士
という仕事をしている三大さんは毎日ことば練機でことば
をねっているそれをポケットに入れて明け方の路地に放り投
げている

 「こと橋」は「ことば、し」であり、「ことば、士」である。「こと橋」には、「ことば」と「し」が隠れている。隠れながら、あらわれている。隠れているものを見るか、あらわれているものを隠すか。
 前号の書き下ろし詩集「ごはん」のときは「ノイズ」について書いた。今回の詩は「ノイズ」とは逆のものが書かれている。「ノイズ」が「有」なら、今回書いているものは「無」だ。「論理」が論理的であろうとして、解体してしまう瞬間というものがある。それを素早いスケッチのように「放り出している」。山本はこの詩では「放り投げている」と書いているが。

 で、ここまで書いて思うのだが、あれ、「抒情病」って、どこへ消えた?
 たしかに最初の作品では「抒情」も「病」と登場したが、山本のことばは、それを患っているようには感じられない。

遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる

 というような描写は「抒情」に似ているが、ぜんぜん違ったものだ。「響きわたる」が万葉のことばのように強い。古今、新古今のように「耳元」で聞かせる「音」ではない。ここには「健康」しかない。「抒情病」を蹴飛ばして生きているぞという宣言が「抒情病」ということばに込められているのかもしれない。




*

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宮せつ湖『雨がふりそう』

2019-10-15 00:00:00 | 詩集
雨が降りそう
宮 せつ湖
ふらんす堂


宮せつ湖『雨がふりそう』(ふらんす堂、2019年09月20日発行)

 宮せつ湖『雨がふりそう』は「抒情詩」である。たとえば「汀」の後半。

砂浜に群れる
白い小さな花は
特別な夜空が好きなのでしょう
閉じることを 忘れています

濁音が砕け 零れ散る音
同時に たくさんの私がよみがえる音
あなたとの 花火の時間
花火の時間 あなたとの

水、
水の音
花火と花火の間を打つ汀の水音に
どうして気づいてしまったのでしょう わたし

 美しいことばが丁寧にととのえられている。「濁音」ということばさえ「零れ散る」ことで美しい軌跡を残す。「たくさんの私がよみがえる音」とは高鳴る胸の鼓動だろう。もし「あなた」が「花火と花火の間を打つ汀の水音に」気づくなら、きっと「私の胸の鼓動の音」にも気づくだろう。「私の鼓動」は「花火と花火の間を打つ汀の水音」のように、それを聞くひとには聞こえるのだ。
 この聴覚の繊細さに私は驚くが、好きなのは「初蛍」。

蛍は月明りを嫌うという

闇に燈る蛍のいろは
月の光と同じいろ
ふぉろうふぉろうと祖先が零すいろなのに
どうして?

黄々々々黄々々々々
ほそく小さく蛍の声
黄々々々黄々々々々

 「ふぉろうふぉろう」という「音」が私にはわからない。やわらかくつかみどころがない。宮の他の詩にでてくるフルートの音がここに隠されているかもしれない。私にはわからないが宮には、それ以外のことばではあらわすことのできない「必然」としての音の形。それを感じる。
 そのあとの「黄々々々黄々々々々」も、とても変である。「ふぉろうふぉろう」が「音」から「形(蛍が飛ぶときの軌跡)」になるのだとしたら、「黄々々々黄々々々々」は蛍の明かりが消えたりともったりしながら「音」にかわる様子を描いている。
 どちらも「むり」がある。
 言い換えると、これはそのままでは他人につたわらない。つまり、そこに書かれているのは学校で習う「共通語」とは違うことばである。だからこそ、そこに詩がある。「共通語」ではいえない宮の必然としての、「宮語」というものがある。
 宮は、ことばをととのえ整理しているのだが、まだそこには整理しきれない「不純物」があり、そしてその「不純物」がもっとも透明であるという矛盾もある。この矛盾のなかに「抒情」がある、ときょうは定義しておく。


*

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今野和代『悪い兄さん』

2019-10-14 00:28:25 | 詩集
悪い兄さん
今野 和代
思潮社


今野和代『悪い兄さん』(思潮社、2019年09月30日発行)

 今野和代『悪い兄さん』の巻頭の「ひかる兄さん」は傑作である。

「かくめい は 腐りました」
暗たん色の失つい。うつろ。
じゅくと、きょだつと、もんどりを、
喉いっぱいにふりつもらせながら。

 書き出しの、この四行には「傑作」の予感がある。というのは、いいかげんな私の感想である。正確にいえば、「何が書いてあるかわからない」。しかし、何かことばになろうとするものが、ことばになる前の「声」として書かれている。
 「かくめい は 腐りました」と言ったひとは、革命を夢見ていた。しかし、失敗した。あるいは失望した。そのひとのなかには、いろいろな思い、感覚がうずまいている。そのひとつが「虚ろ」、あるいは「虚脱」。でも「じゅく」とは何か。わからないなあ。わからないから、ここには「ほんとう」があると感じる。私は、この詩に書かれているひとのことを知らない。だから「わからない」ことがあってあたりまえなのである。私が「わかったつもり」になっていることも、ほんとうは違うかもしれない。「うつろ」は「虚ろ」ではないかもしれないし、「きょだつ」は「虚脱」ではないかもしれない。「かくめい」だって「革命」かどうか、はっきりしない。
 こういう「はっきりしないもの」があるということを直接ぶつけるようにして始まる詩はすごい。まるで、まったく知らないひとの「肉体」そのものを、しかも裸の「肉体」を見せられたような気がする。まったく知らないといったって「肉体」だから、わかるところがある。わかると思ってしまうところがある。それが危険で、刺戟的なのである。
 道で腹を抱えてうずくまっているひとを見れば、「あ、このひとは腹が痛いのだ」と思ってしまうのに似ている。勘違いかもしれない。しかし、だれにだって「わかる」ほんとうが、そこにはあるのだ。そういうものを、「裸」のまま見せられている感じがする。
 この、ぎくしゃくした「文体」に。

 途中を省略してはいけないのだが、省略する。省略せずに書くと、私自身がどこへ行ってしまうのか、わからない。どこへ行ってしまってもいいのかもしれないが、そして、それこそが詩を読むということなのだろうけれど、それができるほど、私は強くない。
 おっかなびっくりしながら、私は読んでいるのだ。

たちまち、世界がなだれてきて、逆さに吊るされている。
「想像もできない!」この地上の、キガの、幻になる。
そのひとつの黙劇を生きる。
惨劇でつぶされ、くり抜かれた眼(まなこ)だけを揺らして射ぬく。
もう一歩も遠くへ行けなくなった、ぬかるみの男の、脚だけで走る。
処刑され、石を投げられ、引きちぎられ、炎上だらけの、手だけで掴む。

 「脚だけで走る」「手だけで掴む」。これは、ほんとうに走るときや、掴むときの「肉体」の動きではない。ほんとうに走るとき、掴むときは「全身」で走り、掴むものである。ほんとうは「全身」で走りたい、掴みたい。だが、もう「全身」が動かない。それで、最低限(?)必要な、脚、手を懸命に動かすのだ。その「必死」さが、ここにしっかりと書かれている。
 したいことができない。しかし、それをするしかない。「かくめい」とはそういうことかもしれない。「腐りました」と認識するとき、まだ「腐らないもの」が「肉体」のなかにはあって、それが最後の力となって、ことばにならないことばを動かしてしまう。それが「脚だけで走る」「手だけで掴む」という壮絶な力になって噴出している。

「あんにゃ」
(いや「ショコショコショウコー」)よびかける子どもの私を視た、
年老いたおとこの暗いまなざしになる。
一九一七年十月の、
一九五八年十月の、
一九九五年三月の、
二〇一九年五月の、
敗れを知らない人のはるかに遠い前方の記憶を裂いて現れてくるものを、
街路樹よりも傾いて待つ。
乳房を噛み裂かれ、群がる仔どもに埋もれながら、
「みんなあんたの種!」
微かに叫ぶ女の声を四つん這いになってきく。

 「あんにゃ」は「兄」だろう。「一九一七年十月」「一九五八年十月」「一九九五年三月」「二〇一九年五月」に何があったか。「みんなあんたの種!」ということばを手がかりにすれば、誰かが生まれたのだろう。このときの「あんた」はひとりではないだろう。「あんた」に象徴される「あんにゃ」だろう。
 そういう「わからない」けれど「わかる」(と勝手に「誤読」できる)ことばが、詩を貫いて疾走していく。それは「華麗な疾走」ではない。「肉体」まるだしの、醜い疾走である。醜いまま存在できる、全体的な美しさというものかもしれない。つまり、どんなにそれを「醜い」と呼んで否定しようとしても、同じものが自分の「肉体」につながっているという「連帯」が、最終的には「肯定」を引き寄せてしまうような「絶対」が、そこにあるのだ。
 それをなまなましく語るのが「年老いたおとこの暗いまなざしになる。」の「なる」という動詞だ。今野は「子どものわたし」にも「あんにゃ」にも「年老いたおこと」にも「四つん這いの女」にも「なる」のだ。なってしまうのだ。生きているから。「肉体」があるから。

 おなじ強さが「厄災の赤ちゃんを」にもある。

バスを待っているわたしに    バスがきた    ファミマの
角からヌッと曲がって  こっちにぐんぐん向かってきている  
バスを待つしかないので  ずっと待っていた    その我慢づ
よいうつむいた感情が  みぞおちあたりからスルッと弾けて
甘い安堵の唾液が  口いっぱいに広がった

 しかし、「わたし」はバスには乗れない、ということがこのことばのあとに続くのだが、ここにも「肉体」の「絶対」がある。「我慢づよいうつむいた感情が」「みぞおちあたりからスルッと弾け」るという比喩に私は打ちのめされてしまう。
 他の詩もいいが、他の詩は「ことば」そのものが「詩」を目指していて、言い換えると「詩」っぽくて、なまなましさに欠ける。といっても、いま引用した二篇に比べるとということだが。

 私の感想は乱暴である。「正確さ」に欠ける。もっと時間をかけて、「正確に」書いた方がいいのかもしれないが、「正確」を目指すとき、きっと「乱暴」に書いたときにだけ可能な何かが欠落する。
 だから私は「間違い」を承知で、乱暴なまま、この感想をほうりだす。
 私のことばは、今野の書いた二篇の詩と向き合うためのことばをまだ持っていない。おそらく、これからも持てないままだろうと思う。

*

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ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

2019-10-13 10:30:25 | 映画
ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、リャオ・ファン

 ジャ・ジャンクーといえば「長江哀歌」。あの映画の衝撃が強すぎて、他の作品はどうしても見劣りがする。「長江哀歌」は「日常」というものが「時間」をもっている。つまり「歴史」であるということをたいへん静かな映像でつかみ取っていた。「日常」というのは激変しているのだが、その激変はつねに静かさの中に沈んでいく。ちょうどダムの水底に集落が沈んで行くように。
 この映画では、女と男の「日常」が、つまり「時間」がとてもていねいに描かれる。
 「激変」というか、ストーリーを要約すれば、暴力団(?)のボスが対立する組に襲われる。女は男を救うために発砲する。銃の不法所持で服役する。出所してみると、男は他の女と一緒になっている。さて、どうするか。
 この十数年の「時間」をチャオ・タオとリャオ・ファンが演じる。しかも、ほとんど無表情に。あ、これは中国人の表情を私が見慣れていないために感じることかもしれない。日本人の表情は「能面のようにのっぺりしている」といわれるが、中国人もおなじだ。アジア人が表情に乏しいのかもしれない。
 事件を起こすまでは、まだ表情に活気があるが、事件の後、男をかばって(銃は男がもっていたものだ)逮捕されてからのチャオ・タオは、彼女自身のなかにとじこもる。財布を盗んだ女を問い詰めるところ、バイクの男をだますところ、列車のなかで知り合った怪しげな男についていくところなど、隠していたものがぱっと噴出するのだが、リャオ・ファンとの「絡み」になると、無表情に近い。とても静かになる。感情を滲ませる部分もあるが、とても静かである。たとえばアメリカ映画、フランス映画の女と男のように、ののしりあいやとっくみあいがあるわけではない。そんなことをしなくても相手の思っていることがわかる。相手の「過去(時間)」がわかり、「いま」の苦悩もわかる。わかった上で、そのわかっていることを語る。
 これが「日常」である。
 時代は変わる。そして女と男の考えも変わる。変わるけれど、変わらないもの、変えられないものがある。それを要約して、「渡世の義理」とこの映画では言っている。「渡世」とはひととひととの関係である。ひととひとが出会ったら、そこに義理が生まれる。
 男は、義理を捨ててしまうが、女は義理を守る。その義理に男は頼るが、頼りきることはできずにやっぱり出て行く。これを甘えというのだが。
 そういうあれこれを見ながら、私は「長江哀歌」のひとつの美しいシーンを思い出していた。「長江哀歌」で私がいちばん好きなシーンは、どこかの食堂のシーンである。テーブルが壁にくっついている。テーブルは食事のたびに拭かれる。そうするとテーブルが接している壁にも雑巾が触れることになる。テーブルと壁の接していた部分に、だんだん「汚れ」がついてくる。拭き痕が残る。食堂はダムのために立ち退きになる。テーブルが運び出される。すると、壁に雑巾の拭き痕だけが残る。「義理」とは、こういうものなのだ。繰り返し、積み重ねが残す、とても静かな「痕跡」。それは「汚れ」に見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、ほんとうは「美しさ(清潔さ)」を守り続けた「暮らしの痕」なのだ。私の、その短いシーンで思わず涙が出てしまったが。
 おなじものをチャオ・タオの振る舞いに見るのだ。かつて愛した男。いまは愛しているかどうかわからないが、あの愛にもどれたらいいのに、という思いが消えない。あの愛を守ろうとしている。それは、あのときの自分を守るということとおなじ意味である。テーブルに雑巾がけをしてテーブルをいつも清潔にするように、事件と呼べないような小さなあれこれが起きるたびに、それを片づける。ととのえ、清潔にする。つまり、あのといの自分自身にもどる。その繰り返しが、壁にではなく、チャオ・タオの「肉体」に残る。それは「汚れ」に見えるときもある。麻雀店を取り仕切る「女親分」に、とくにその「汚れ」が見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、暮らしをととのえる過程で積み重なった、どうすることもできない「時間」なのである。
 その重さと悲しさと苦しみと、それでも「義理」を生きる悦び(愛した男といっしょに「いま」を生きている、という実感)が交錯する。チャオ・タオの「姿勢」の「正しさ」のなかに、それがくっきりと見える。映画ではとくに、リャオ・ファンが脳梗塞から半身不随になっているので、「姿勢」の対比としてそれがくっきりと浮かび上がる。この「肉体」の対比は、こうやってあとから整理しなおせば、いかにもストーリーという感じだが、映画を見ている瞬間は、そういう感じがしない。チャオ・タオの「意志の強さ」がスクリーンを支配しているからだろう。そして思うのは、こういう「姿勢」の対比を見せる映画では、たしかに「ゆれ動く表情」というものは邪魔なのだ。無表情は選びとられた演技なのだ。「顔」で演技するのではなく、「全身(肉体)」そのもので演技する。「ジョーカー」のホアキン・フェニックスの「全身の演技」にも驚いたが、チャオ・タオの「静かな全身の演技」にも驚いた。引きつけられた。

 それにしても、と思うのは。
 どこでも、いつでも「日常」はある、ということ。その「日常」というのは「過去」をもっているということ。中国は経済発展とともに大きく変わっている。そういう大きな変わり方は目につきやすい。その一方、「日常」の感じ方も少しずつ変わっている。変わるものと変わらないものが絡み合って、うごめいている。この押しつぶされながらつづいていく「日常」の感じは、巨大なビル群や、経済活動だけでは見えない。なんといっても「大きい」ものは見えやすく、「小さい」ものは見えにくい。そういうことを感じさせてくれる映画である。チャン・イーモーは「紅いコーリャン」(日常)から「シャドウ(影武者)」(グローバル経済)へと激変したが、ジャ・ジャンクーは「日常」(いま、そこにいる人間)に踏みとどまっている。そういう点も、私はとても好きだ。

 (2019年10月12日、KBCシネマ・スクリーン1)

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八重洋一郎「白梅」

2019-10-12 09:31:01 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「白梅」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 八重洋一郎「白梅」は

ある夏 どしゃぶりの中を「ひめゆり記念館」を訪れた

 と始まる。「どしゃぶり」が「劇」を予想させるが、「散文的」な文体である。いいかえると「どしゃぶり」ということばのなかにかろうじて「詩」があるということ。
 八重は、そこで「叔父の写真」を見る。叔父は父に似ている。叔父は「石コロ」になって帰って来た。遺骨はない。「父が位牌に叔父の戒名を書いていた」ことを思い出す。「劇」はそんなふうに語られる。自分で語る「劇」に引き込まれ、八重は記念館を離れられなくなる。
 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。

思いきって外へ出ると瀧のどしゃぶり 急いで
タクシーを拾い 北へ向けて走り出す
何キロか過ぎた頃 突然運転手が小さな声をかけてくる
「見えましたか ホラ 左手の少し盛りあがったあのあたり」
「見えましたか 白梅の娘たちです こんなどしゃぶりになると
いつも身ぎれいにした娘たちが二人 三人と並んで立っているのです」
「かわいそうに アイエーナー」
「平凡な言い草ですが どしゃぶりは もっと生きていたかったことの
娘たちの涙です」
降り込められた車内は暗く 運転手さえ あらぬ姿に見えてくる
車は更に北へ向けて疾走するが いつまでも
目的地に着く気配はない--

 ここに書かれているのは「ことば」か「事実」か。
 きのう読んだ吉田文憲「残声の身」と比較すると不思議な感じがする。吉田は身の回り(?)の現実を書いている、いま起きていることを書いているのに、なぜか「リアル」には迫ってこない。むしろ「肉体」から離れた場所で起きていること、「肉体」がここにあるのに、ここが遠いという感じがする。吉田の詩は「ことば」だけがあり、「現実」がない。
 八重の詩は逆だ。どしゃぶりの日に、死んだはずの娘たちがあらわれるというのは「ことば」でしかありえない世界である。そこには娘たちはいない。娘をそこに「出現」させてしまうのは「ことば」なのだ。しかし、感じるのは、「ことば」ではなく、そこに娘たちがいるという「現実」である。ほんとうは存在しないものが「現実」として迫ってくる。

 これは、どういうことだろう。「ことば」と「現実」は、どんなふうに交錯しているのだろうか。

 別な言い方をしてみる。
 私は「抒情詩」について考え始めたのだが、この八重の詩は「抒情詩」か。ぱっと読んだ感じ、「叙事詩」に見える。八重が体験したことを淡々と「事実」を連ねて書いている。「感情」を書こうと意図している感じはしない。「どしゃぶり」が劇的だが、そのどしゃぶりにしたって、実際にあったことだ。「わざと」書いたわけではない。
 でも最後に残るのは「事実」ではない。「事実」かどうかわからないものが語られ、「こころ」はその「事実かどうかわからないもの」を「事実」にしようと動いている。その「こころ」の動きを「肉体」で感じてしまう。「こころ」の動きを感じるなら、それはやっぱり「抒情詩」と呼んでもいいのではないだろうか。

 さらにこんなことも考える。
 どしゃぶりの日に姿をあらわす白梅の娘たち。それを、ひとは、どんなふうに語ることができるのか。

平凡な言い草ですが

 この「ことば」に私は突き動かされる。何度か「劇」ということばを私は書いてきたが、「平凡」は「劇」とは対極にあることばだ。作為がない。
 「平凡」は、しかし、どうやって生まれて来るのだろうか。
 きっと何度も何度も語られ、少しずつ「劇」を振り落として「平凡」になるのだ。語りたいことは山ほどある。実際に、「娘たち」の両親、あるいは友人、彼女たちを知っているひとたちは何度も何度も語り合ったのだ。書かれていないが、そこには「叔父の遺骨が石コロになって帰って来た」というような「劇」もあったかもしれない。けれど、そういう「劇」を語っていると、「思い」が「劇」の方にひっぱられて、なんだか嘘っぽくなる。嘘ではないのだけれど、言いたいのは、もっと「単純」なこと、いつでもだれでも感じていること、という思いが強くなる。いつでも感じていること、それだけを言いたい。それが、

もっと生きていたかった

 なのだ。
 ここには「劇」がない。たとえば「叔父は石コロになるまで、国のために戦った」というような「美辞」が入り込めない。娘たちは「国のため」というような「名目」を求めていないし、「国のため」というようなことばで称賛されることも望んではいない。「いきたかった」。「もっと行きたかった」。
 それは娘たちを知っているひとから言わせれば、「もっと生きていてほしかった」である。「もっと生きたい」という思いを、ひとは「もっと生きていたかった」ということばに託し、「白梅の娘たち」になって、いまを生きるのだ。
 「叙事」を生きるとき、そこに「抒情」ではないもの、もっと「強い意思」が生まれる。

 私はまた、不思議なことを体験する。
 詩のなかのカギカッコのなかのことばは運転手が語ったものだ。しかし私にはそれが八重のことばとして聞こえる。運転手は何も言っていない。むしろ、八重が「こころ」のなかで運転手に語りかけている。私は、その八重の声をシャドーイングしながら、自分が運転手に語りかけている気持ちになる。八重になってしまう。


*

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吉田文憲「残身の声」

2019-10-11 10:22:24 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残身の声」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 吉田文憲「残身の声」は「抒情詩」と呼べるかどうか。きのう読んだ井上瑞貴「白い花はすべての光を反射する」に「私は記憶」ということばがあった。「記憶」は吉田の詩にも登場する。

飛燕草の記憶。

 この一語を取り出して云々するのは詩の感想を書くことにならないかもしれないが、私は、あえてこの一語を取り出して考えていることを書き始める。
 「飛燕草の記憶。」と書くとき、吉田は「記憶」をだれのものとして書いているのか。吉田が飛燕草を見た記憶、つまり「吉田(わたし)の記憶」なのか。それとも「飛燕草自身の記憶(どうやって芽を出し、花を咲かせたかという記憶)」なのか。
 こういうことはむずかしく考える必要はない。たいていの場合、前者である。後者の場合は、もっと「わざとらしい」文体になる。
 そうはわかっていても、私は、ふいに前者である、と考えたい衝動にかられる。前者の考え方は不自然だが、不自然だからこそ、ことばがその不自然につられて動きたがるのである。違うものに触れたい、という欲望がことばのなかで動く。
 こういう衝動が、私には非常に強くて、それが「抒情詩」というものを「分類」するときに働いていることを自覚しないではいられない。なんらかの「不自然なことばの操作」。この「不自然」を「頭による操作」と言い換えてもいい。
 ふつうなら(自然なら)ありえないことを、「頭」で動かす。つまり「自然」を、「頭」で切断し、さらに「接続」する。このときの「不自然な刺戟」のなかに「抒情詩」があると、私は感じる。
 と、書くとますます抽象的になってしまうが。
 「飛燕草の記憶。」は「作者(わたし/吉田)」の「飛燕草を見た記憶」であり、そこには「わたし(吉田)」が隠れているのだが、私は隠れている「わたし(吉田)」、あえて隠したままにしておく。むしろ、表に出てこないように押さえつけながら、それからつづく「もの(わたし以外の存在)」の運動、つまり「叙事詩」として読み続ける。

飛燕草の記憶。銀色のひれが空中で跳ねた。樹陰にエンジンをかけ
たままのライトバンが停っていた。家が白みはじめた記憶。レコー
ドのカートリッジが閃くフォークの切尖にみえた。それから耳に四
声のフーガが流れた。おまえは重ね棚の上に並べられた乾涸びた果
実を一つ手に取っていた。そこに同時に別の陰を運んでいるものが
いたのだ。残身が通ったあとの音域。テーブルの器に張られた水の
いつまでも続く小刻みな波紋。氷雨が窓ガラスを散弾のように叩き
続けた。

 「みえた」(見える)という動詞がつかわれている。「みた」ではなく「みえた」。ここには「意思性」がない。「わたし(吉田)」を隠している。存在しても「脇役」としての存在におしとどめている。これも「叙事」につながる。主役は「もの」(わたし以外の存在)なのである。
 おもしろいのは、この「みえる」という「主体」を感じさせることばは、その「主体性」を隠すようにして、つぎのことばを引き寄せている点である。
 「それから耳に四声のフーガが流れた。」は、もっと「肉体」になじむことばで言いなおさば「四声のフーガが聞こえた」だが、吉田は「聞く、聞こえる」というこ動詞を避けている。「肉体」、あるいは「人間の感覚(五感)」を隠し、あくまでも「主役」を「わたし(吉田)以外のもの(存在)」に譲り、その動きとして提示する。
 そして、そこに書かれているものが「わたし以外のものの動き」であるにもかかわらず、それをひとつづきのものにする視点がどこかに存在する。隠されたまま存在する、この不自然な「私性」。
 これが、たぶん、現代詩の「叙事詩」なのだ。

 そうであるなら。(というのは、とんでもない飛躍かもしれないが。)

 そうであるなら、きのう読んだ井上の詩と、きょうの吉田の詩を比較したときに、私が受ける「感動」の強さは何に支配されているか。何に影響されて、どちらの詩の方がおもしろいと感じるか。
 感じ方はひとそれぞれだから、私とは違う判断をするひとがいるだろうけれど、私には吉田の詩の方がおもしろい。
 なぜ、おもしろいと感じるのか。より「抒情性」がつよいと感じるのか。
 「抒情」ということばとはうらはらに、そこに書かれている「もの(わたし以外の存在)」が多くて、さらに、その接続さかげんが「ばらばら」だからである。「飛燕草」に接続するものが「銀色のひれ(川魚?)」である必然性はない。それに「ライトバン」の「エンジン」の音がつながらなければならない必然性もない。そこには隠された必然性、「わたし(吉田)」が「いる」ということだけなのだ。「わたし以外の存在」が多く登場すればするほど、そしてその存在と存在の距離が隔たっていればいるほど、「わたし(吉田)」が「いる」ということが明確になってくる。
 いま「明確になってくる」と書いたのだが、この「なってくる」という感じのなかにこそ「抒情」があるともいえる。ほんとうは私(谷内)が勝手に、それを「明確にさせる」のである。思い込むのである。勝手に「連続した世界」を想像し、その「世界」に入っていくだけなのである。「叙事」の世界へ「感情」が入ってゆき、吉田の「感情」を無視して自分(谷内)の感情をつくりだすとき、「誤読」するとき、詩が誕生する。

 「誤読」が「抒情」なのだ。いままで存在しなかった「誤読」を許してくれるのが「抒情」と言いなおすこともできる。


*

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井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」

2019-10-10 09:54:11 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」(「侃侃」32、2019年09月20日発行)

 井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」を読みながら、「抒情はどこへ向かうか」ということばが頭に閃いた。きのうフェイスブックで山本育夫の書き込みに「抒情病」ということばを見かけたせいかもしれない。山本の作品はまだ読んでいないのだが、抒情はたしかに「病」かもしれない。
 どんな病か。どんなふうにことばをむしばむか。あるいは、そこからことばはどんなふうに回復できるか。そういうことを、ちょっと考える。ことばにできるかどうかは、書いてみないとわからないが。
 で、井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」の一連目。

二行目から始まる詩を書きながら
背後の影に住む女に振り返っている
いつでもその日は間に合わないあくる日だけど
なんのあくる日なのかぼくはしらない
私は記憶
遠い耳にささやく雷鳴のような
日没化する日々の消された記憶

 書き出しの「二行目から始まる詩を書きながら」が、「いまの抒情」だともいえるし、かつての「モダニズムの抒情」だともいえる。歴史は繰り返す。どこに特徴があるか。「二行目」と書くことで、存在しない「一行目」を浮かび上がらせる。というよりも、それは「存在しない」ということを、つまり、「ない」ということを浮かび上がらせる。言い換えると、テーマにする。
 ふつうひとは、「ある」ことを書く。「ない」ことは書けない。はずだけれど、ギリシャの昔から「ない」ということが「ある」を発見したひとは、その「ない」を書かずにはいられない。矛盾が「頭脳」を刺戟するのである。
 これが「いまの(そしてモダニズムの)抒情」。「感情」ではなく、まず「頭」をゆさぶる。思考へ向けてことばを動かす。
 これは考えてみれば、ちょっとおかしなことである。
 「抒情」は文字を見ればわかるが「情(感情)」を描くものである。「感情」は「頭(理性)」とは別個のものである。でも、「感情」といわずに「感性」と言いなおすと、「感性」と「知性」はどこかで交錯する。そして、この交錯する「現場」が「いまの(そしてモダニズムの)抒情」ということになる。
 「頭(知性)」への刺戟が「感性(感情)」に反映する。そのときの微妙な動き。
 これは「背後の影に住む女に振り返っている」という古くさいことばをとおったあと、「いつでもその日は間に合わないあくる日だけれど」という、えっ、いま何て言った?と問い返したくなるようなことばになって「頭」を刺戟する。「間に合わないあくる日」というのは、何かに間に合わなかった「あくる日」ではなく、「あくる日」という時間そのものが何かに間に合わないのだ。「あくる日」というのは、まだ来ていない(現実になっていない)日なのに、それが「何か」という現実に間に合わない。これは「『ない』が『ある』」という定義と同じで、ことばの運動としては成り立つ。そして、ことばとして成り立つ以上、そのとき私たちは何かを了解しているのだが、その了解を「わかることば」で言いなおすのはむずかしい。「肉体」がかってに納得しているだけで「頭」は完全に「解明」していない。こういうことを「感性と知性の交錯」といえるかもしれない。「勘違い」かもしれないし、インスピレーションだけが教えてくれ「真実」かもしれない。
 まあ、ことばなので、何とでも言える。どうとでも「論理」にしてしまうことはできる。で、こういうことに深入りしてまうと、窮屈だし、何というか「危険」なものを含んでしまう。だから、私はこれ以上追いかけないし、また、井上の詩もそれを追いかけていない。
 「なんのあくる日なのかぼくはしらない」。「しらない」と突き放した上で、「私は記憶」と飛躍する。「ぼく」は「しらない」。それが「私」であり、「私」とは「記憶」なのだということは、これもまた、テキトウなところで切り捨てて、ここには「ぼく」と「私」が「記憶」というもののなかで交錯しているとだけ指摘しておく。「ぼく」と「私」のどちらが「知性」であり「感性」なのか、読者は好きに考えればいい。井上だって、そこまでは考えて書いていないだろう。ただ「ぼく」のままにしておきたくはなかった。かといった「他人」にしてしまうのもいやなので「私」と呼んでみただけだろう。
 書いている詩人にもわからないことがある。わからないから、ことばに身をまかせるということがある。そして、わからないものに身をまかせるというのが、「抒情」ということでもある。わかった瞬間に「抒情」ではなくなる。
 ここで終われば「いまの抒情」になると思う。でも、こうい中途半端なところでことばを終わらせるというのはなかなかむずかしい。どうしても「結論」のようなものを書きたくなる。「おとしまえ」をつけたくなる。「中断」(あるいは判断停止)ではなく、「結論」がほしくなる。
 詩は昔から「起承転結」が基本で、「知性」も「感性」も「結」を必要とするのかもしれないが、「結」で閉じてしまうと、とたんに「モダニズム」になってしまう。「知らない」はずが「知っている」ものとして存在してしまう。「ない」が「ある」ではなく、「あった」が再び「ある」としてあらわれる。
 あ、抽象的で、わからない? そうだねえ。
 でも、私は、井上の書いている「二連目」を引用したくないのだ。どこがつまらないか、ということも書きたくない。「一連目はおもしろかった」とだけ書いておきたい。別なことばで言いなおせば、「一連目は、現代詩でも抒情が再び動き出した」ことを感じさせるが、「その向かう先(行先)は二連目ではない」と私は感じている、ということだ。
 気になるひとは、ぜひ、「侃侃」32を読んでください。
 (私の書いていることは、新手の詐欺商法かもしれないし、詐欺予防かもしれない。)





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愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)

2019-10-09 13:26:48 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)
             自民党憲法改正草案を読む/番外294(情報の読み方)

 前の文章(情報の読み方、294)でこういうことを書いた。
 愛知トリエンナーレで天皇の肖像を燃やすという作品に関連してである。たしかに天皇の肖像が燃えるのを見て不快感を覚えるひとは多いだろう。
 一方、次のような文章はどうか。
①天皇の写真が写っている新聞を犬のトイレにつかった
②犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかった
 たぶん、なぜ、わざわざそこで「天皇の写真」ということばをつかうのか、という問題が起きる。そのことに対して不愉快だというひとが現れることは簡単に想像できる。
 しかし、これが
③犬のうんちを拾うときヒトラーの肖像が載っている新聞をつかった
④犬のうんちを拾うときスターリンの肖像が載っている新聞をつかった
⑤犬のうんちを拾うとき毛沢東の肖像が載っている新聞をつかった
⑥犬のうんちを拾うとき金正男の肖像が載っている新聞をつかった
⑦犬のうんちを拾うときエリザベス女王の肖像が載っている新聞をつかった
⑧犬のうんちを拾うとき妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
⑨犬のうんちを拾うとき孫の写真が載っている新聞をつかった
⑩犬のうんちを拾うとき離婚した妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
 はたして、天皇の写真と同じように「だめ」というひとが日本人の何人いるか。なかには、「やれやれ」というひともいるかもしれない。
 ⑩という文章に出会ったら、笑いだしてしまうかもしれない。
 これは、どういうことだろうか。
 写真に写っているひとに対して自分が何を感じているか、どう感じているか、ということと「不快さ」(あるいは「快感」)の度合いは変化するということである。つまり、天皇の写真についていえば、日本人の多くは不快に感じるだろうが、他国のひとはなかには快感に感じるひともいるだろうということである。
 そして、⑩の例が、いちばんわかりやすいのだが、ひとは「わざと」そういうことをするときもある。それは自分の感情を解放するためである。離婚した妻(夫)は「何やってるんだ。私をバカにするつもりか」と怒るかもしれないが、それは怒らせるためにやっているのだから、怒る姿を見るのが快感でもある。  
 芸術は、ときにはそういう「作用」があるのだ。ひとをあえて不愉快にする。あるいはひとが怒る、眉をひそめるのを確かめるということが。人間の感情はどう動くか。そういうことを明確に知るのが芸術である。自分とは何ものなのかを知るのだ。そのために存在している面もある。
 美しい、気持ちがいいものだけが「芸術」ではない。
 もし、先にあげた①から⑩までの「表現」を規制するとしたら、それなりの「理由」が必要である。どうして、それが駄目なのか、理由と基準が必要である。「天皇」だから駄目、というのは、かなりむずかしい基準だろう。
 天皇は日本の「象徴」である。憲法に書いてある。しかし、国民には(個人には)、それを認めないという「権利」もある。否定し、批判する権利もある。そういうことも含めて考えないといけないのに、河村は、無条件に天皇を絶対視している。そこに非常に大きな問題点がある。
 河村が展覧会に要求しているのは、芸術の問題ではなく、「ある思想」の絶対視である。

 もう一つ考えたいのが「公金」の問題である。河村は「反日」(ということばをつかっていたかどうか、正確ではないのだが)的企画に公金を支出することは問題がある。公共施設をつかうことには問題がある、というような発言をしていたと思う。
 しかし、これは逆の言い方もできる。もしそこに「反日」的な作品があるとしたら、それこそ、なぜ「反日的作品」が存在するのか考えるきっかけになる。展覧会から排除する(見えなくする)ということで、「反日的思想」がなくなるわけではない。「反日」とひとくくりにされる思想とどう向き合うか、それこそ今の日本の課題だろう。
 いつの時代、どんな場所にも、あることがらに対して「賛成」と「反対」のひとがいる。ものの見え方・見方はひとによって違っている。違いがあることを前提にして考えないといけないのに、違うから排除してしまえでは何もはじまらない。
 安倍が都議選で「安倍辞めろ」と叫ぶ国民に対して「あんなひとたちに負けるわけにはいかない」と叫んでから、自分とは違う意見の人間を排除しようとする動きが非常に強くなっている。安倍は、そして、こういう動きを歓迎しているようでもある。河村の動きは、こうした安倍の姿勢に迎合するものである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高塚謙太郎『量』

2019-10-09 11:19:45 | 詩集
高塚 謙太郎
七月堂


高塚謙太郎『量』(七月堂、2019年07月15日発行)

 高塚謙太郎『量』はA4版の 250ページ近くある詩集だ。読む前にひるんでしまう。詩の組み方もさまざまで、手に負えない。だから、テキトウなところをパッと開く。そのページを読み感想を書こうと思うが、なかなかうまくいかない。つまり、高塚のことばと私のことばは、一緒に動こうとはしない。一緒に動かなくてもいいのだけれど。だから、正確に言いなおすと、私のことばが勝手に面倒くさがるのである。このページのことばについては書きたくない。これは、まあ、他のページとどうつながっているか考えないといけないかもしれないと思うからなんだけれど。そういうことを繰り返していると、だんだん私の方がいいかげんになってくる。最初からいいかげんではあるのだが。「組み方が嫌いだなあ」とか、「この詩は上揃えと下揃えが対になっているから引用がめんどう」とか。こういういいかげんな思いも感想ではあるのだが、と開き直って。
 えいっ。
 それが、58ページ。

何回目かの第二外国語のガラスを貫いてバイパスの朝と
始発の合図を知らないバイパスの朝と
カタカナ英語のディープキスの燃え滓の下で

 の「ディープキス」に「註釈(?)」がついている。これがおもしろい。

紙片の置かれたテーブルにカップを並べ、隣に座って
いる。温かい飲み物は言葉を奪う。近道を教えたこと
はない。どちらかが椅子を動かして出ていった。カッ
プが1つになっている。カップには小さな影がついて
いる。影には形があり、人の顔に見える。カップの中
には温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。

 これは「註釈」のほんの一部。ナボコフの「青白い炎」でも思い出せばいいのかもしれない。というようなことは書いてもしようがないか。
 私は、「どちらかが椅子を動かして出ていった。カップが1つになっている。」で一瞬立ち止まった。「カップが1つになっている。」を一瞬、ふたつあったカップがひとつに融合したと読んだのだ。よく読めば(よく読まなくても)、二人のうちのひとりがカップを持って去ったのでカップがひとつになったという単純な描写なのかもしれないが、ちょっと「ことば」というか「認識」が行き来するのである。たぶん「ことば(一文)」の短さが錯覚を誘うのである。
 そのあとの「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」でも、印象が奇妙に動く。「カップには小さな影がついている。」は、カップはひとつになったが影と向き合い「ふたつ」であることを意識している。ここには「ひとつ」と「ふたつ」、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯している。世界がばらばらになったり、くっついたり、そしてまた散らばっていく、「意識の流れ」みたいなものがある。
 「影には形があり、人の顔に見える。」というのは、まさにその「意識」そのものなのだが、ここで私の「ことば」は突然、「影なんかを人の顔として見るなよ」と叫ぶのである。その「ことば」の声を私は聞くのだ。この部分を、「わかる」けれど、「うるさい」と感じたのだ。
 そして、高塚の書きたいのは、「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」なのか、それともそのあとの「カップのなかには温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。」なのか、という謎の中に迷い込む。
 こんなことばを書くなよ、といいながら、次のことばで否定したはずのことばのなかへ帰っていく。高塚のことばが、前に書いたことば「温かい飲み物は言葉を奪う」に迷い込むように。(そういう「ことば」の運動が起きる。このときの、私自身の「わけのわからなさ」が、私は好きなのだ。
 ふーむ。
 「言葉を奪う」と書きながら、そのことを「ことば」にしている。「ことば」は「ことば」でなくなりながらも、そこに起きていることを「ことば」として存在させてしまう。「ことば」を奪われることで「ことば」が生まれる。もし「ことば」が奪われなかったら、次の「ことば」は生まれることはない。つまり、世界は違ったものになる。
 このあと、

                     顔が立
ち上がってテーブルに手をついた。最後のカップも運
ばれていった。紙片から一番近い場所に手をついた。
しばらく時間が経って新しいカップが並べて置かれ
た。光がなければ、カップがテーブルに置かれること
もなかっただろう。

 と、もってまわった「散文」(説明)がはじまる。「顔」「手」が「意識」の流れを切断して主役になって動く。「意識」の物体性(?)のようなものが消えてしまって、妙につらい。無理がある。という感想は、この部分だけを取り上げているから、そうなってしまうのかもしれないが。
 でも、「光がなければ、」というのは美しいなあとも思う。

 何を書いているか、わからない?
 そうだろうなあ。
 私も何を書きたいのか、よくわからない。
 こんなふうに、きょうはことばが動いた、という以外は何もいえない。

 もっと「体力」があるときでないと、読めない詩集だ。






*

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愛知トリエンナーレ再開

2019-10-09 09:40:41 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開
             自民党憲法改正草案を読む/番外293(情報の読み方)

 愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」が再開された。2019年10月09日読売新聞朝刊(西部版・14版)の35面(社会面)では、よくわからないのだが、こういう文章が記事の最後にある。

再開に反対する実行委会長代行の河村たかし名古屋市長は8日午後、会場と県庁で抗議活動を行った。支援者らとともにプラカードを掲げ、「表現の自由という名の暴力だ」などと訴えながら、一時その場で座り込み、展示の中止を改めて訴えた。

 これまで伝えられていることから推測すると、河村は、
①「少女像(慰安婦像)」は河村の歴史認識と一致しない、日本の歴史を歪曲しているから許すことができない
②天皇の肖像を焼くことは許されない
 という観点から、「暴力だ」と訴えているのだろう。
 だが①の慰安婦については、「歴史認識」が河村と同一でなければならない理由はどこにもない。「慰安婦」は日本軍によって強制されたものという認識は、多くの人がもっている。その根拠も示されている。これは「表現の自由」の問題ではなく、歴史認識の問題である。
 ②の天皇の肖像も、実際を見ていないのではっきりしないが、どうも本を焼却処分をしたらそこに天皇の肖像が見えた(天皇の肖像が燃えるのが見える)というものらしい。もちろん、それは「わざと」そういうように撮影したのだろうけれど。
 問題は、人の肖像を焼くというのは失礼なことかもしれないが、怒りのために焼きたいという人もいるかもしれない。そういう感情はおさえられない。もし、そういう行為を禁止するなら、それは「表現の自由」ではなく、別の概念で規制するものだろう。
 だいたい「表現の自由」は、そのことばを単独で取り上げても意味はない。「表現の自由は、これを保障する」というのは「国民の表現の自由については、これを保障する。つまり、国家権力は、表現がどういうものであれ、それに介入し、表現する行為をさまたげない(妨害してはいけない)という規定であって、国民が何を表現してはいけないかという規定ではない。憲法は、国家権力を拘束するが、国民は拘束されない。
 憲法には、国民の義務として、教育、勤労、納税を上げているが、勤労していない人、働いていない人が憲法違反で罰せられることはない、ということだけを見てもわかる。
こどもに教育を受けさせなかったら、憲法違反ではなく、もっと具体的な法律が適用される。納税を怠ったときも憲法ではなく、法律が適用される。
 同じように、表現に問題があったとしたら、それは「憲法の概念(表現の自由)」ではなく、別の法で取り締まるべきである。そういう手続きを踏まずに、展覧会を中止するという行為が権力の越権行為(憲法違反)なのである。
 だいたい「慰安婦像」をつくること、展示すること、天皇の肖像を焼くことが、どの法律に違反するのか。
 天皇の肖像が焼かれるのを見るのは不愉快だ、ということはわかる。しかし、河村が不愉快だからといって、全員が不愉快とはかぎらない。私はわざわざ天皇の写真を焼きたいとは思わないが、思うひとがいるのも充分に理解できる。たとえばヒトラーの写真を焼く、スターリンの写真を焼くというのは、どうか。それを想像するといい。「教科書の歴史」ではどう書かれているか知らないが、昭和天皇を太平洋戦争の責任者、戦犯と考えるひともいる。怒りや憎しみからある人の写真を焼いてはいけない、特に天皇の写真を焼いてはいけない、焼くところを見せてはいけないというのなら、それを禁止するなら、禁止するための法律がないといけない。その法律を元に河村は主張しないといけない。河村の感情が法律であってはならない。
 河村にとって天皇は絶対的な存在なのかもしれないが、その絶対視を国民に押しつけるととんでもないことがおきる。天皇の写真が写っている新聞は犬のトイレにつかってはいけないとか、犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかってはいけないとか。さらには、こういうふうな文章に天皇を持ち出してはいけないとか。
 天皇ということばをつかうときは、天皇の尊厳に配慮すべきだというのなら、そう言うための根拠になる「法律」が必要である。昔は「不敬罪」というのがあったらしいが。と、考えると、河村のやったことは、単なる「抗議」をとおりこして、「2012年の自民党改憲草案」の先取り実施であることがわかる。そこでは「天皇」は明治憲法と同じように「元首」と定義されている。
 あ、少し脱線したか。いや、脱線ではないだろうなあ。
 どんなときでも、個人の感情が「法律」であってはいけない。特に権力者の感情が法律として他人の行動を規制するものになってはいけない。

 これは河村に直接関係することではないが。
 多くの「嫌韓派」のひとが、河村と同じ意見を主張している。朝鮮半島を日本軍が侵略し、植民地化したことを無視している。「慰安婦像」は日本人を傷つける、不愉快だ、と主張している。撤去しろと訴える。その一方、韓国人が「旭日旗」は不愉快だ、オリンピック会場へ持ち込む(応援につかう)のはやめてほしいと訴えると、何をつかって応援するかは自由だ、と言う。韓国人がどれだけ不愉快に思い、不安に駆られるかは気にしない。
 これは、おかしい。
 「嫌韓派」のひとにとって不愉快なことは許さない。しかし韓国人にとって不愉快なことを「嫌韓派」のひとがするのはかまわない。自由だ。
 こういう態度が、「日本は太平洋戦争を反省していない。韓国に対して充分な謝罪をしていない」という批判につながるのだ。二度と外国に侵略しないという反省と誓いの気持ちがあれば「軍旗を応援につかわない」というのは当然のことだろう。
 何回か書いたが、「謝罪」というのは「申し訳ない、ごめんなさい」というだけではないのだ。すぎたことは、どんなにしても取り戻せない。だからこそ、「もう二度としません」と言うこと、将来同じことをしないと誓うことが大事であり、それが「謝罪」なのだ。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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天皇と象徴の定義

2019-10-08 22:23:04 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇と象徴の定義
             自民党憲法改正草案を読む/番外292(情報の読み方)

 2019年10月08日朝日新聞朝刊(西部版・14版)の28面(社会面)に、作家・赤坂真理の「考 令和の天皇」を読みながら、やっと、という思いがした。天皇と象徴についてのインタビュー記事である。そのなかで赤坂は、天皇と象徴について長い間考えてこなかった。しかし、2016年のビデオメッセージを見て考えるようになった。天皇のことばに共感した、と書いている。そのあと、

でも、よく考えると、おかしくないですか。象徴の主体である天皇自身が、象徴のあるべき姿を語る。本来、私たち主権者が考えるべきことでしょう。

 「やっと」と書いたのは、この問題は私はすでに何度も書いてきたからである。
 「天皇の悲鳴」(象形文字編集室)の前書き(3ページ)で、ビデオメッセージについて、私はこう書いた。

 タイトル(象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば)が明らかにしているように、天皇は「象徴」について体験を語り「象徴とは何か」を定義したのだが、政治問題にならなかった。「退位」を求めることが憲法に触れるなら、憲法で定義されていない「象徴」について語ることも憲法に触れる。
 政府はなぜ問題にしなかったのか。「生前退位」に意識が奪われ、「象徴の定義」を見落としたのか。大問題とわかったから触れないようにしたのか。

 私は、前者だと思う。天皇を強制的に生前退位に追い込むことができた。それが実現して有頂天になってしまった。
 この生前退位騒動(籾井NHKをつかった情報操作)がうまくいったために、安倍は暴走する。
 いろいろブログに書いてきたが、その「頂点」は令和の天皇が即位するときの「象徴」というこことばの定義に「2012年の自民党改憲草案」でつかっている定義をそのまま言わせたことである。安倍もおなじことばをつかっている。安倍と、令和の天皇が同じことばで「象徴」を定義し、それは「2012年の自民党改憲草案」の文言である。
 多くの人が見逃しているが(私は、その問題を指摘する文章をいままで読んでいない)、これは大問題である。
 たぶん、平成の天皇が「象徴」を定義したことの重大さに気がついた誰か(安倍の側近)が、今度はそういう失敗をしないように、周到に天皇のことばを検閲し、修正したのだろう。そして、この「2012年の自民党改憲草案」の「先取り」が批判されなかったことで、さらに浮かれてしまった。
 何でも思いのままにできると浮かれている安倍は、徴用工問題で嫌韓ムードをあおり、それが一部で歓迎されていることをいいことに、暴走をつづける。所信表明演説では、大東亜戦争ということばは避けているが、大東亜戦争の「理念(?)」を持ち出している。(このことは、すでにブログで書いた。)これは、「生前退位騒動」の延長線にある暴走なのだ。
 私たちは、もっと安倍のことば、その周辺のことばのひとつひとつを厳しく点検しないといけない。天皇のことばも、きちんとチェックしないといけない。そこに安倍の意向がどう反映されているか。マスコミの取り上げ方も含めて、そこから多くのことが見えてくる。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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朝日カルチャーセンター福岡「谷川俊太郎の世界」・10月07日

2019-10-08 11:34:59 | 現代詩講座
朝日カルチャーセンター福岡「谷川俊太郎の世界」・10月07日の講座

 受講生の作品を読んだ。

再生  池田清子

いつからはじまったのか
思い当たるふしがある
なぜそうなったのか
思い当たるふしがある

何度崩れても
どれだけ壊れても
また 再生

何ていじらしい
我が細胞
我が組織

フレー、フレー、フレー!

青柳「一連目が音楽性があっていい。三連目の、我が細胞、我が組織というのは意味はわかるが、もっと具体的な方がいいのでは。何ていじらしいとかいている、そのいじらしいを活かしていくといいのでは。最後の、フレー、フレーもいい」
谷内「いま、具体的に、という指摘があったけれど、我が細胞、我が組織を具体的に言いなおすと?」
池田「免疫細胞、皮膚細胞」
谷内「うーん、具体的とは言えないかもしれない。私も一連目はとてもいいと思った。思い当たるふし、というのは、どういうことですか? 具体的に言いなおすと」
池田「細胞が崩れていくはじまり」
谷内「あ、私は、まったく逆に読んだ」
池田「えっ」
谷内「何かが崩れてしまう。思い返すとあのときが崩壊のはじまりだったというのは、多くの人が言う。私は逆に、あのときから再生がはじまったのだ、と読んでいいなあと思いました」
池田「それは考えたことがなかった」
 というようなことをきっかけに、私が話したのは、「再生」をどんなふうに具体的に言いなおすか、「再生」ということばをつかわずに表現するか。再生ということばから何を連想するか。新芽、卵、生き物ということばが聞かれた。新芽は希望の象徴、とも。
 再生に似たことばに(再生ほど強くはないが)回復ということばがある。免疫細胞という説明が池田さんからあったが、免疫細胞は病気を連想させる。病気が治る。回復する。それも再生というものだと思う。だから、たとえば麻痺していた指が動くようになったとか、頬に赤みがさしてきたというのも再生といえるかもしれない。そういった「自分の肉体」そのものを「いじらしい」ということばをつかわずに具体的に書けば詩の世界はひろがるかも。
 再生は感情でも起きる。不孝があって泣き暮らしている。そこから立ち直るというのも再生だし、また逆に、泣き暮らしのあと平常な生活にもどり、そのあとふっと悲しみを取り戻す、泣いてしまうというのも「再生」かもしれない。悲しむことができる、悲しみに堪えるだけの力がついた、という証拠になる。
 そういうことを具体的に書けば、とてもいい詩になる。そういう「再生」が「いつからはじまったのか」、いろいろ考え「あ、あのとき、花の美しさに驚き、笑ったな」とか、「家に帰り明かりをつけた瞬間に泣いてしまった」とか。
 そういう詩を読んでみたい。


そよぎ  青柳俊哉

夕雲の森には
雪をかぶったブナやケヤキにまじって
シダ類のようなものも低く波うっていて
それらがそよぐたびに
雪の光のつぶがただよっている
ただよう松の実のきらめきも
葦の葉のうえでゆれている月の光のつぶも
月の光の中にきえていく水鳥の翼の
くらい藻のようなそよぎも
雪の森をさまようアゲハ蝶の羽の
黄色い波つぶもようの
ほたるの光のようなものもただよっている
それらがただよいながら
永遠に休らうようにしずかにねむっている 
あまりにもしずかすぎる
夕雲のそよぎである

池田「感性に感心した」
谷内「感性に感心したという抽象的なことばよりも、もっと簡単なことばで感想を言った方が、いろいろいえると思う。私には書けない、とか。どこがいちばん気に入りました?」
池田「(笑い)それらがそよぐたびに、それらがただよいながらと繰り返されていて、そのあいだを風がそよいでいるように、イメージが漂っている感じが、いろいろなことばで書かれている。夕雲というのは夕方の雲のことですか?」
青柳「冬の夕暮れの雲です。他の季節とは違った美しさがある。この詩は実は一枚の絵を見て思いついた。雪をかぶった木が海の底でそよいでいる。気持ちがいい。やすらぐ。巨大な樹木のうねりを感じた。何篇かの詩を組み合わせてみた。以前の詩では抽象的なことばだったものを具体的なことばに書き換えた」
谷内「私は葦の葉のうえでからの三行が好きです。とくに月の光の中に消えていくの、消えていく動詞が印象的。存在するものが書かれているのに、消えていくということばがあると、そこにあるものが強くなる」
青柳「西脇の詩に、末尾を「の」で繋いでいく作品がある。それを意識して「も」を繰り返してみた」
谷内「それはおもしろいですね。いま、「の」をつかっている部分も「も」にしてみるのもいいかもしれない」

ただよう松の実のきらめきも
葦の葉のうえでゆれている月の光のつぶも
月の光の中にきえていく水鳥の翼も
くらい藻のようなそよぎも
雪の森をさまようアゲハ蝶の羽も
黄色い波つぶもようも
ほたるの光のようなものもただよっている

谷内「「の」を「も」に変えてしまうと意味が違ってしまう部分が出てくるけれど、池田さんがイメージが漂っているといったけれど、この詩は意味よりもイメージが強い。そうだったら、意味にならないように最初から最後までイメージにしてしまうのも楽しいかもしれない。ちょっとそういう練習みたいなものをしてみましょうか。ただよう松の実のきらめきもという行を利用して、末尾をかならず「きらめきも」で終わる行を書いてみる」
 そうやってできたのが、次の九行。

ガラスの器のきらめきも
テーブルに落ちた影のきらめきも
ふやけた皮膚のきらめきも
小さなこどもたちの顔のきらめきも
あわてて逃げる蝶の怒りのきらめきも
詩を書いているペン先のインクのきらめきも
遠くに見える星のきらめきも
ことばにならない悲しいきらめきも
永遠の悲しい詩のきらめきも
 詩になっているとはいえないけれど、そうやって書いたものを削ったり、動かしたりしていると、イメージ同士が呼び合ってひとつの世界になっていくことがあると思う。
谷内「青柳さんの詩のイメージを中心にして言うと、私は雪の森にアゲハ蝶が出てくるのはいいと思う」
池田「冬に蝶っているんですか?」
谷内「凍蝶、ということばもありますね」
青柳「イメージとして書いたものだから、何が登場してもいいと思う」
谷内「私も何が登場してもいいと思う。ただ、蝶という夏の生き物を出した後、ほたるが出てくる。これはイメージの飛躍、攪乱、拡散という感じを邪魔してしまう。夏を感じさせないものの方がイメージが自由になると思う」





*

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スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)

2019-10-07 20:26:15 | 午前十時の映画祭
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マルコム・マクドウェル,パトリック・マギー
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント


スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)

監督 スタンリー・キューブリック 出演 マルコム・マクダウェル

 「暴力」とは何なのか。この問題を考えるとき、まっ先に思い浮かぶのがこの映画。暴力描写がとてつもなく美しい。しかし、同時に、隠れさている暴力が、とてつもなく醜い。ふたつのものがぶつかりあっている。
 冒頭の老人に対する暴力は冷酷だ。冷酷としか言いようがないが、これは私が被害に遭う老人の年齢に近づいたせいか。このシーンは、美しいとも醜いとも感じない。ありふれた暴力だ。これは私が暴力というものになれてしまった、感覚が麻痺しているということか。
 しかし、次の廃墟になった劇場での対立グループとの格闘は、ほんとうに美しい。わくわくする。音楽が鳴り響き、まるでバレエである。このままずっとつづいてくれたらいいのに、と思う。
 これは、私のなかの「いかがわしい」感覚である。「いかがわしい」快感である。そうわかっているが、この美しさを私は否定できない。あんなふうにして、自分の肉体の中にあるものを外に出してしまいたいという欲望を刺戟される。セックスよりも、もっと快感だと思う。
 それにつづく郊外の作家の家でのレイプも、不謹慎といわれるかもしれないが、美しい。体にはりついた赤い服。おっぱいの部分を鋏で切ると丸い穴があく。そこにおっぱいがはみ出る。丸い穴を押し広げるようにして。女性は被害者なのに、まるでおっぱいが暴力をふるっている、世界をかきまわしているという錯覚に陥る。つまり、じわーっと自己主張してくるおっぱいなんかに負けないという欲望がマルコム・マクダウェルを突き動かしている感じが、まるで私自身の欲望のようにわかるのである。
 グループの主導権を奪われそうになったマルコム・マクダウェルがテムズ川沿いを歩きながら、三人と戦うシーンもいいなあ。スローモーションが美しい。サム・ペキンパーから盗んだのか。いや、違うな。やっぱり、バレエなのだ。音楽と一体の動きなのだ。
 この、少年のわかりやすい暴力だけではなく、陰湿な、つまり見えにくく暴力、隠された醜い暴力も丁寧に描かれる。
 強制更生の拷問(?)もすごいが、まだマルコム・マクダウェルに手を下す場面が直接描かれているので、「半分見える」感じが、醜さを見えにくくしている。強制更生を終えた後、マルコム・マクダウェルが警官になった元の仲間に殴られ、かつて女性をレイプした作家の家にたどりついてからの部分がぞくぞくする。最初は、あのときの少年とは作家は気がつかない。作家は強制更生に反対しているので、マルコム・マクダウェルを利用しようとする。その過程で、マルコム・マクダウェルが「雨に唄えば」を歌っているのを聞き、あのときの少年と気がつく。復讐を思いつく。このときの表情がなんとも不気味である。暴力の犠牲者であり、暴力を否定している。その暴力の否定は強制更生という暴力に対しても向けられているのだが、自分の肉体の中から燃え上がってくる暴力の欲望をおさえきれない。でも、実際に手を下すわけではない。殴るとか、蹴るとか、という直接的な暴力をふるわない。だから見えにくく、醜い。(醜いは、見にくい=見えにくい、から派生したことばか、と思ってしまう。)強制更生のときつかわれたベートーベンの第九がマルコム・マクダウェルを苦しめると知って、音楽を大音響で鳴らすのだ。これは、愉悦なのか、苦痛なのか、よくわからないまま私の肉体の中に入り込む。マルコム・マクダウェルが苦しんでいるだろうと想像する作家の、手を下さない暴力の残忍さに、不思議な快感を覚える。醜さに、こころをひっかきまわされる快感というものもあるのだ。
 さらに、さらに。
 強制更生プログラムを指示した閣僚が、第九に苦しみ自殺しようとしたマルコム・マクダウェルを尋ねてくる。そして、マルコム・マクダウェルに、強制更生プログラムのせいで政権が倒れないように協力してくれ、と申し込む。これも非常に醜い。権力にしかできない「暴力」の醜さがある。なんだか、すっごくご都合主義な政治がらみの暴力に、しかし、マルコム・マクダウェルはどうも協力するらしいのである。協力しながらどんな形で復讐するのか、それは描かれていないのだが、何を思っているのかわからない不気味さのまま映画が終わる。この暴力性にも、なんだか圧倒される。暴力がこんなに醜くていいのか、と思ってしまう、と言えばいいのか。
 でも、これは正直な「最後の感想」ではない。
 約三〇年ぶりに見直してみて、「あれっ、最後は、こうだっけ?」と、私は実は驚いたのである。私は、「強制更生」から復活し、元の暴力的な少年にもどったマルコム・マクダウェルが街で暴力をふるっている(あるいは、仲間を連れ歩いている)シーンが最後にあったように記憶している。その最後の幻のシーンは、三〇年前の私の欲望だったのか。その欲望を私はいまでも覚えているのか、ということにも驚いたといいなおすこともできる。私は「美しい暴力」が、人間らしい「肉体」をつかった暴力が復活してくることを祈りたい気持ちなのである。

 今回見た映画の「結末」に、私は驚いた、とも言える。私の三〇年、何があったのかなあ、とも思ったりした。
 そして、最後に。
 この三〇年でいちばん変わったのは「性」の描写である。最初に書いた暴力バレエの前には、対立グループの女性をレイプするシーンがあるのだが、そのとき女性の性器(陰毛)が映る。三〇年前は、ぼかしというか、引っかき傷が入っていて見えなかったものが見えるようになっている。作家の家でのレイプも同じだ。日本での「性描写」の許容範囲は、そこまで広がってきた、ということになる。
 そういうことを思いながら、では、「暴力」に対する感覚はどれくらい変化しただろうか、と考えるとなかなかむずかしい。

 と書いて。
 なんだか、まだ書き漏らしたことがある、と私は思う。まだ書きやめるな、と私のなかの誰かが言っている声がする。
 だから、ちょっと映画からずれるが、書いておく。
 私は先日「ジョーカー」を見ながら、最近の「嫌韓のうねり」を思い出していた。「嫌韓派」の中心に「ジョーカー」はまだ存在していない。「嫌韓派」の動きは、何か自分の中に鬱積しているものを吐き出したいという欲望だけで成り立っている感じがする。行動の基準は「嫌韓」というだけである。「ジョーカー」はほかにいる。それは、もう誕生しているとも感じる。この「ジョーカー」は世間にあふれる「嫌韓派」のなかにではなく、外にいるという感じが、非常に、嫌韓派のひとたちのことばを醜くしている。
 そういうことをいちばん感じるのは、嫌韓派のひとたちが韓国人の行動や韓国政府の行動を批判する一方、「平和憲法では日本は守れない。中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してきたらどうするのか」と主張することである。戦争を抑止するためには核武装が必要だという人までいる。
 この「論法」になぜ醜さを感じるか。「幼い」からである。
 戦争が実際にあったとき、いちばんの武器は「拳銃」とか「戦車」とかではない。「土地」である。どこまで「占領」しているか。つまり、「陣地」はどこまでか。「領土」が問題になる。土地があれば、そこに「基地」をつくれる。戦争の拠点である。だからこそ、ロシアは北方四島を日本に返そうとしない。中国は尖閣諸島を中国の領土だと主張する。
 そのことを考えるなら、中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してくるとき、韓国は、その「前線基地」をになうことになる。中国も北朝鮮もロシアも、まず陸続きである韓国を支配し、そこを足場に日本への攻撃をしかけるだろう。逆に言えば、韓国が韓国として成立しているかぎり、日本の脅威はずいぶん弱まる。これはアメリカの世界戦略とも関係している。アメリカが米韓同盟を結んでいるのは、そのためだ。韓国に米軍が基地を持っているかぎり、中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。同じように、韓国に米軍があるかぎり、米軍は中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。その結果として日本は危険を回避できる。韓国は日本にとってもとても重要なのだ。嫌韓などと言っていたら、言うだけ中国、北朝鮮、ロシアからの「脅威」は強くなる。それに気づかずに、嫌韓派のひとたちは安倍の「嫌韓」というかアジア蔑視に利用されている。そこに「無知の醜さ」を感じるのだ。
 だれの中にも「暴力性」はあると思うが、その「暴力性」を権力に利用されている。それに気づかないというのは、暴力の醜さ以上に、もっと醜いものを持っている。あるいは考えない人間の醜さを利用して、嫌韓をあおる権力の智恵の醜さにぞっとするといえばいいのか。実際に手を下さない醜い暴力(見えにくい暴力)が絡み合って、醜さを増幅させている。
 「時計じかけのオレンジ」の奇妙な終わり方を見て、ふいに、そういうことを思ったのだ。もし私が三〇年前に見た「幻のラストシーン」だったら、そういうことは思わなかったかもしれない。暴力がはっきり目に見えるものだったら、こんなことは感じなかったかもしれない。
 個人の暴力を利用して、権力は動いている、権力はいつでも個人を利用するだけだというようなことを考えてしまうのである。安倍はきっというだろう。「私は嫌韓派ではない。しかし多くの人が韓国を嫌っている。私は多数派に従ったのだ」と言って逃げるのだ。「私ではなく、官僚が勝手にしたことだ。私は知らない」という醜い手法だ。安倍の手法は、いつでも醜さだけで成り立っている。

 ここまで書いて、私はあらためて「ジョーカー」の悪の美しさを思い出すのだ。ジョーカーは、明確な個人である。個人が、個人をないがしろにする社会に対して怒り、暴力を生きる。それは美しい。自分自身の「悲しみ」を出発点としているからだ。
 しかし、権力の暴力は醜い。安倍は、せいぜいが「民主党政権時代、自分への企業献金が少なかった」という国民とには無縁の「悲しみ」しか持っていない。憲法を改正して、戦争をしてみたいという「欲望」しかもっていない。なぜ、戦争をしたいか。戦争になれば、みんな戦争を指揮する人間に従わないと生きていけないからである。独裁と戦争は一体になっている。こんな安倍に「嫌韓派」のひとたちは、あおられている。
 あおる方も、あおられる方も、醜い。

 (2019年10月07日、中洲大洋スクリーン2)

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新保啓『朝の行方』

2019-10-06 20:11:18 | 詩集
朝の行方
新保 啓
思潮社


新保啓『朝の行方』(思潮社、2019年09月30日発行)

 新保啓『朝の行方』を読みながら、私が詩を感じる部分と新保が読んでほしいと思っている部分は違うかもしれないなあ、と感じた。
 たとえば「池の夏」の最初の部分。

いつも見慣れている
かんがい用水池では
夏になると
一部に 砂浜が現れる

そのほとんどを
水の底で過ごしていたが
新しい生命を貰ったように
現れる

 新保は二連目の「水の底で過ごしていたが」を丁寧に書いている。たぶん、ここがいちばんの読ませどころ。この一行があって「新しい生命を貰った」ということばが強く響いてくる。
 そう理解した上で書くのだが、私は、一連目の方が好きなのだ。

夏になると
一部に 砂浜が現れる

 事実が事実として、ただほうりだされている。この瞬間、池と、水が少なくなって現れた「底」が見える。まだ「底」ということばが出てこないのに。こういう部分が、私には美しく感じられる。「水の底で過ごしていたが」は、ことばでしかたどりつけない世界、つまり詩なのだが、その詩がはじまる前の事実を簡単にとらえてしまうところに、新保の正直な時間(それまでの生き方)が凝縮されていると感じる。
 あとは、その正直さを言いなおしたものである。
 「雨上がり」の前半。

詩のためのノートに
「朝から雨が降っている」
と 書く
雨も地面に何かを書いている
お互いに書くことは違うけど
雨はやがて上がる

「朝からの雨が上がった」
と 書く
あとはもう 書くことがないので
私は
そこからいなくなる

 「「朝から雨が降っている」/と 書く」「「朝からの雨が上がった」/と 書く」の二行は、もうこれ以上正直に書きようがない。事実がそこにあるだけだ。
 事実を出発点とするから、それを引き継いで動くことばが自然だ。

あとはもう 書くことがないので
私は
そこからいなくなる

 「そこからいなくなる」がとても強い。「そこ、って、どこ?」と問いかける前に「そこ」が存在している。そして了解してしまうのだ。「いなくなる」と同時に消えてしまうのが「そこ」だ、と。
 で、この「そこ」を読んだ後、「「あ」と「こ」のちがい」という作品を読む。巻末の作品だ。

「あの世」と
「この世」のちがいは
「あ」と「こ」がちがうだけ

 指示詞を「こそあど」というが、この詩では「その(そこ)」ではなく「あの」と「この」が比較されている。
 「あの」は遠いところにある、「この」は近くを指す、「その」はその中間? そんな具合にぼんやり考えるが。
 「あの」には不思議なつかい方がある。
 「またパスタ食べに行こうか」「駅前の、ワインがうまかったあの店がいいなあ」というような会話。こういうとき「この」でも「その」でもなく「あの」がつかわれる。それは今いる場所から遠いというだけではなく、ふたりとも「知っている」という意味を含んでいる。会話しているふたりはそこに行ったことがある。だから「あの」というのだ。
 そうすると、「あの世」というのはただ遠いところにあるだけではなく、もしかしたら知っているところ? でも、どういう具合に知っているのだろうか。
 これは説明がむずかしい。
 その説明がむずかしいものを探しながら新保のことばは動き、こんなふうに展開する。

世が世であれば
あのひとと会えるかもしれない

 ここに「あの」が出てくる。「あの世」は「あの人」が教えてくれるものなのだ。「あの人」は、あなたにとって何人いますか? 「あの世」を教えてもらいましたか? ふいに、そう問いかけられたような気持ちになって、私は驚くのである。
 新保には「あのひと」はたしかに存在するのだ。その突然の告白のようなものに、私は新保の正直を感じる。









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