詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)

2021-09-23 16:31:27 | 映画

セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)(2021年9月21日、KBCシネマスクリーン2)

監督 セバスティアン・ボレンステイン 出演 リカルド・ダリン

 リカルド・ダリンは何本か見ている。「瞳の奥の秘密」が有名だ。シリアスな役者かと思っていたら、コメディーも演じる。スペイン語の練習もかねて、見に行った。「字幕」があるのでついつい字幕を見てしまう。それに、喜劇の方が、深刻な劇よりも「ことば」を理解するのがむずかしい、というようなことを考えながら、それでも笑ってしまう。
 何がおかしいかというと。
 出で来るアルゼンチン人が、みんな正直なのだ。銀行の頭取(?)と弁護士に、農協設立のために出し合った資金をだまし取られる。どうも、その金は、山の中の厳重な金庫に隠してあるらしいという情報を手に入れ、奪われた金を取り戻そうとする。「でも、全部はダメ。自分たちが奪われた分だけ」などと、真剣に相談する。まあ、他人のものまで取り出すと「盗み」になるからね。
 このあたりのやりとりは、私が真っ正直な人間ではないので、やっぱり笑ってしまう。そこまで正直にならなくていい、と。結局、奪い返した金の残りは慈善団体に寄付しよう、という結論にたどりつくのだが、これだって、なんというかアルゼンチン気質をあらわしているなあ、と思う。かたくなに信念を守る、というところがある。
 見どころは、どうやって警報装置のついた厳重な金庫を破るか。二面作戦が楽しい。ひとつは、物理的に金庫を破るためには警報装置が働かないようにしないといけない。簡単に言えば、停電。この簡単(?)なことも、奇妙に失敗してしまうところに味がある。根っからの悪人ではないので、上手くできないのだ。もうひとつが心理作戦。金庫のことが気になってしようがない弁護士を、警報装置を誤作動させることで、ふりまわす。警報装置から携帯電話にメッセージが流れてくるたびに、弁護士は山の中まで車をぶっとばす。何度も何度も。そんなことしなくたって、停電で警報装置を止めてしまうだけでいいじゃないか、というのではちょっと味気ない。単なる金庫破りになる。そうではなくて、金を奪った人間を精神的に追い詰める、という復讐がおもしろいのだ。これは「怒ってるんだぞ」と相手に分からせることだね。相手が、それに気づくかどうかは別問題。自分たちが憂さ晴らし(?)ができればいい。
 これは、最後の最後。悪徳弁護士が、正直者集団の車修理屋へやってくる。彼にオーナーがマテ茶を出す、というシーンに、さらっと描かれている。「何も知らないばかな弁護士」と、ちらっと思う。この「ちらっと」という感じがいいんだなあ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピックは中止すべきだった(35)

2021-09-23 08:29:37 | 考える日記

 9月4日の読売新聞(西部版・14版)の2面のコロナ感染症に関する見出し。(番号は私がつけた。)
↓↓↓↓
①宣言解除 27日にも判断/「まん延防止」一部移行も
②3回目接種 12月100万人/厚労省案 医療従事者が対象
③コロナワクチン追加提供を表明/首相、計6000万回分
↑↑↑↑
 ①を読むと、「宣言解除」へ向けて動いていることが分かる。総裁選、衆院選とつづくから、なんとしても宣言を解除したいのだろう。しかし、本当に感染症対策は大丈夫なのか。コロナは終息するのか。
 ②は、①とは反対の動きである。ワクチン接種は2回では不十分。3回目を実施することにした。まず医療従事者から、という。医療従事者の次は高齢者、それから一般の人ということだろう。少なくともコロナは年内には終息はしない。来年も拡大すると予測するから3回目の接種があるのだろう。
 ①と②は、あきらかに「矛盾する」対策である。もちろん、規制を緩和しながらワクチン接種をつづけるということなのだが、そのバランスの取り方が、どうにも「うさんくさい」。
 ③はワクチン不足の国へワクチンを提供するという内容だが、これはワクチン接種が進んでいない国が多いから。つまり、国内対策だけではコロナは防げないということ。たとえ国内の感染が減ったとしても海外から「新株」を含めてコロナ感染が侵入してくる危険性があるということ。

 こんなさなかに、国会も開かず、そのことを追及するでもなく、読売新聞は「総裁選」の報道をつづけている。同じ2面の見出し。
↓↓↓↓
こども庁創設 3氏意欲/高市氏は言明せず 河野・岸田・野田氏
↑↑↑↑
 コロナ対策についての候補者の「政策」は報道済みなのかもしれないが、単なる「宣伝の言い合い」を紙面化するよりほかに報道することがあるだろう。
 しかしなあ、と思うのは、見出しの順序である。
↓↓↓↓
こども庁創設 3氏意欲/河野・岸田・野田氏、高市氏は言明せず 
↑↑↑↑
 にしないと、「3氏」と「河野・岸田・野田氏」が離れてしまう。「3氏=河野・岸田・野田氏」がわかりにくくなる。これはね、うがった見方をすれば、読売新聞は安倍の意向を受けて、高市をアピールしているのである。
 総裁選報道は、マスコミの「権力すり寄り合戦」という感じだ。コロナ報道がおろそかになっている。
 それは、たとえば29面に書いてある「感染者状況」の記事を見ても分かる。
↓↓↓↓
 国内の新型コロナウイルス感染者は22日、全都道府県と空港検疫で新たに3245人確認された。重症者は前日から46人減って1383人、死者は54人だった。
 東京都では537人の感染が判明。1週間前から515人減り、1日当たりの感染者数は31日連続で前週の同じ曜日を下回った。
↑↑↑↑
 これは、このとおりである。しかし、昨日(22日)の記事には、こうある。
↓↓↓↓
 東京都の新規感染者は253人で、1週間前より751人減少した。300人を下回るのは、6月21日(236人)以来3か月ぶり。
↑↑↑↑
 計算してみよう。537(22日)-253(21日)=284。前日よりも284人も増えている。21日に比べると2倍になっているのだ。
 数字は「基準」を何に置くかによって、評価が違ってくる。一週間前に比べたら「改善」、きのうに比べたら「悪化」。簡単に一方の「基準」だけで判断してはいけない。直前の「連休」の影響があるのかもしれない。連休の影響があるのだとしたら、きょう23日の「秋分の日」の休日も影響するかもしれない。

 東京オリンピック前から、コロナ隠し報道が横行している。政府の発表をそのまま鵜呑みにして報道している。最初にとりあげた①②の「報道内容」自体には間違いがないだろう。政府の発表を忠実に、そのまま提供している。政府の提供するニュースに何の疑問も持っていない。
 私はオリンピックの記事はほとんど読んでいないが、あの大宣伝は、菅の失政をごまかすためのものでしかなかっただろう。

 つくずく思う。東京オリンピックは中止すべきだった。コロナ対策も不完全だったが、オリンピック批判をしなかったマスコミは、いまは、そのまま完全に「自民党の宣伝紙」としかいいようのない状態だ。
 9月4日に書いたことだが、なぜ、衆院議員の任期が切れるのが分かっているのに、衆院選挙が任期切れのあとなのか。それをなぜマスコミは追及しないのか。
 こういうことも東京オリンピック後遺症なのだ。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

U-NEXT光01の対応(2)

2021-09-22 08:44:51 | 考える日記

U-NEXT光01の対応は、不誠実である。前回アップした後のメールのやりとりを掲載しておく。(前回のものを含めて、私が問題にしている点の概略は以下の通り。)

U-NEXT光01は、今回の通信障害について、最初はU-NEXT光01に問題はなく、私が使用している機器(一部はU-NEXT光01提供)に問題があるので、メーカーに問い合わせろと答えている。
しかし、実際には8月11日11時35分から8月16日15時43分通信障害を起こしていた。

この説明の過程で、U-NEXT光01は通信障害は私の住んでいるマンション全体で起きたかのように伝えてきているが、実際はU-NEXT光01だけだった。
私が、何件U-NEXT光01と契約しているかと質問したところ、「個人情報なので伝えられない」ということだった。私が、それはどういう法律に基づいているか、どういう社内規定になっているのかと重ねて問い合わせた。法律については口頭での条項説明だったので、よく聞き取れないし、検討もできないのでメールで連絡してほしいと伝えた。社内規定については言えない、ということだった。
この問題に関して、今回のやりとりで、「法律」と「社内規定」の公表先(リンク)を連絡してきたが、具体的にどの条項を適用したのか不明なので、さらに問い合わせた。
すると、何口契約しているかは個人情報なので公開できる、とだけ伝えてきた。さらに何口なのか問い合わせたが、回答がない。

なぜ、契約口数が問題になるかというと、「補償」が絡んでくるからである。
前回公開したメールには、8月分の使用料金から回線障害が起きた期間の利用料金を差し引くということが書かれている。
しかし、いつ、差し引くのか、その金額はいくらなのか、どうやって計算したのかの説明がない。さらに、質問中のことなので、ここには書かないが、「契約件数」との関係で言うと、「補償」は平等におこなわれていないという「事実」を私は把握している。だから、だれが、どのような計算をし、どのような指示をしたのか、その文書の公開をも求めている。

当然のことながら、回答はない。
私は目が悪く、こういうことをしていると、他のことに影響してくるのだが、悪質としかいいようのない対応なので、ここに公開しておく。
仕事の関係上、私はネット接続が不可欠なので、いまもU-NEXT光01をつかっているが、U-NEXT光01は、そういう利用者の弱み(すぐには契約会社を変更できない)を利用して、不正をしている。上に書いたように、まだ公開はできないが、「不平等補償」の証拠を私は把握している。

(なお、前回の記事は、以下に掲載。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/433e5b5977f1d543612571ea43d32f66)

******2021 年8 月26日以降のメールのやりとり****************************************************************

(1) 2021 年8 月26日 19:55"U-NEXT 光01カスタマーセンター

谷内 修三 様
平素は格別のご高配を賜り誠にありがとうございます。U-NEXT光01カスタマーセンターです。
ご連絡にお時間をいただき誠に申し訳ございません。ご不便をおかけしておりました機器障害ならびに弊社対応について以下に回答を記載致します。
まずお客様お住まいの物件につきましては、弊社にて検知可能な範囲にて過去に通信障害が発生したことはございませんでした。今後同症状が発生した際は、可能な限り迅速な対応を差し上げることが出来るよう回線事業元ならびに管理会社様との連携を密に構築して参ります。

別途ご質問いただいておりますキーボード接続につきまして物理キーボードはインターネット回線を使用しPCと接続される仕様ではございませんのでご申告の症状につきましては弊社回線に起因する問題ではないように見受けられます。

また、物件ごとの契約戸数やお部屋番号、お問い合わせいただいた件数・内容につきましては個人情報保護ならびに弊社方針上の観点からお答え出来かねます。
併せていただいた回線容量や通信回線の規格・スペックに関するご質問につきましても弊社公式ホームページ上にて公開されている内容以上のご回答が出来かねてしまいます。

最後に、回線の通信障害による各種ソフトウェアのインストールに関しまして他のお客様のお問い合わせ状況に該当する為、回答を差し控えさせていただきますが一般的に一時的な通信障害でソフトウェアのインストールが正常に完了しなかった場合は通信環境が正常な状態で再インストールをおこなうことで問題なくご利用可能かと存じます。

上記につきましてはあくまで一般的な回答となりますので各ソフトウェアの詳細情報につきましては各サービス提供元へご相談くださいませ。

ご希望に沿う形で回答を差し上げられないご質問が多々あり大変恐縮ではございますが
上記が弊社にてご案内可能な内容となりますのでご理解賜りますようお願い申し上げます。

(2)2021年8 月27日 20:40谷内修三

何件通信障害が起きたのか、個人情報だから言えないというときの根拠として「通産省の通達(?) がある、第〇条にこう書いてある」と前回の電話では「さの」が言った。
私はそれは口頭ではよく分からないから文書で示してほしいと伝えた。通産省の通達は、「公文書」。
公開しても問題はないはず。なぜ、それを明記しないのか。約束と違う。
また今回の通信障害は、マンションまで貴社の光回線をつかい、建物内部(配電盤? )からから私の部屋までは電話回線を使っていることと関係があるのか。
他の契約者も同じように電話回線を使うタイプなのか。私が契約している二口だけが電話回線なのか。
そのことを教えてほしい。
さらに、部屋まで光回線にした場合は、通信速度はどれくらい違うと把握しているのか、そのことも教えてほしい。


(3) 2021 年8 月29日 20:29"U-NEXT 光01カスタマーセンター谷内 修三 様

重ねてご連絡いただき、お手数をおかけしております。U-NEXT光01カスタマーセンターでございます。

ご質問の件、以前お電話にてご説明させていただきました電気通信事業法につきましては以下URL よりご確認可能でございます。
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=359AC0000000086

なお、弊社では上記法令ならびに個人情報保護の観点に則り「個人情報保護方針」を策定しており、以下URL に記載しております。
https://www.unext.co.jp/ja/legal/privacy

なお、通信障害と物件の配線構造に因果関係はなく、どのような提供タイプであっても
建物レベルの機器障害が発生する可能性はございます。
また、一般的に光配線方式に変更された場合、最大速度は1Gbps になるかと存じますが
U-NEXT光01は光配線方式に対応しておりません。

上記ご参照いただけますと幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。

(4)2021年8 月31日 10:53谷内修三

「ご質問の件、以前お電話にてご説明させていただきました
電気通信事業法につきましては以下URL よりご確認可能でございます。」
↑↑↑↑
以前の電話の説明では「電気通信事業法」の「第〇条」という説明でした。
「第〇条」が明示されていません。
きちんと明示してください。
他の光回線の業者に聞いてみましたが、今現在のマンションの回線は何本で、空きは何本という説明をしてくれました。
何口契約しているか(何回線あるか)は、「個人情報であり、開示できない」とは判断していません。
unext 光01が、回線が何本あり、何本契約しているか言えないという根拠となるのは「電気通信事業法」の「第〇条」なのか、明確に明記してください。

また、私は二口契約していますが、ほんとうに二口分の光回線はマンションまで来ているのでしょうか。
一本の回線を日本の電話回線につないでいるということはありませんか?
配電盤(?)の構造や配線の仕組みはわかりませんが、二口の回線が全く同時に同じ障害を起こしたのはなぜなのか、その説明もしてください。


(5)2021年9 月1 日 16:37谷内修三
追加質問

いくつかの光回線事業をしている業者に聞いてみましたが、VDSL方式での「二口契約」はできない、という回答ばかりでした。
どうしてunexto光01は、二口契約が可能だったのですか? 
いま私がつかっている回線はほんとうに二口なのですか? 
8 月に起きた回線障害は、二口契約にしていることと関係があるのですか? 
ほんとうは一口なのに、二口分の料金をとっていたということでしょうか。


(6) 2021 年9 月2 日 19:27"U-NEXT 光01カスタマーセンター" 

谷内 修三 様

U-NEXT光01カスタマーセンターです。
ご申告の内容につきまして、担当者よりお電話にてご説明させていただきたく存じます。つきましては、お手数ではございますが以下の項目につきまして
可能な範囲でご返答をお願いいたします。

===========================
連絡先  :第1 希望、第2 希望(携帯電話と固定電話など)
連絡希望日:第一希望○月○日、第二希望○月○日、第三希望○月○日( 必ず第三希望までご記載お願いいたします)
指定時間帯:①13~15時まで/②15~17時/③17~19時まで/④19~19時半まで

※即日のご希望ですと、ご要望に添えない場合がございます。
 別日で第三希望まで記載いただけますと幸いでございます。
===========================

お手数をおかけしてしまい誠に申し訳ございませんが
ご返信のほどよろしくお願いいたします。


(7)2021年9 月2 日 20:36谷内修三

私の家の電話は録音機能がついていません。前回のように、口頭で言ったこととメールとでは内容が違うというのでは、埒が明きません。私は眼が悪いのでメールよりも電話での応対のほうか容易ですが、嘘をつかれても「証拠」が残らないので困ります。メールで答えてください。
私の住んでいるマンションでunexto光01と契約している件数は何件なのか言えない理由の根拠となっている法律の「条項」を明示してください。
二口契約しているが、回線使用は1回線ではないのか。料金を二重取りしているのではないか。
光回線の総合窓口(オープンプラット)にVDSLタイプの回線整備(設置)について訪ねてみたら一回線の取り出し口を2箇所にする場合は工事が必要になるが、2回線を使用することはないという説明だった。個別にいくつかの回線業者にも聞いてみたが、どこも1回線の契約しかできないという返事だった。
いったいどういう「配線」をしているのか説明してほしい。
また工事業者について、今井は、子会社であり名前が言えないと言った。さのは「アルテリアネットワーク」と言った。今井が名前を言えないと言ったがと問いただすと、さのは今井は「アルテリアネットワーク」の名前は出している。その子会社の名前は言えないといった。録音を聞いたと言った。そこで私がもう一度、「unexto光01がアルテリアネットワークに工事を委託し、その委託を受けた業者の名前を言えないということか」という趣旨の質問をした。さのは「そうだ」という趣旨の答えをしている。ところが16日に工事をした業者は「アルテリアネットワーク」と管理業務をしている女性に語っている。チラシのようなものが掲示板に張り出されていた。そのチラシには「光ネットワークがこのマンションで利用できる」趣旨の文言が書いてあった。電話番号に連絡してみるとアルテリアネットワークは回線事業を unexto 光01に譲った、いまは回線事業はしていないという返事で、わざわざ unexto 光01の電話番号を教えてくれた。
いったい誰が「嘘」をつきはじめたのか。どこまでが「真実」なのか。

(8) 2021 年9 月4 日 20:08"U-NEXT 光01カスタマーセンター" 

谷内 修三 様
U-NEXT光01カスタマーセンターです。
ご質問の件、以前のお電話にてご説明させていただいた通信事業者法につきましては第4 条が該当致します。

なお、物件内の契約者数につきましては上記ならびに弊社個人情報保護方針に基づき保護されている個人情報に該当しませんので然るべき部署にて確認を実施することで開示が可能でございます。
※お部屋番号等を含む場合は上述の規定に基づき開示を差し控えております
当時ご案内をおこなったオペレーターがお客様のご要望を正しく汲み取ること出来ずご希望に沿った形で回答を差し上げることが出来ておりませんでしたこと、お詫び申し上げます。

また、お客様のお部屋にはU-NEXT光01の回線が2 契約分開通しておりますがそれぞれご契約者様名義が異なっております。
弊社は本サービス用通信回線ごとに1つの会員契約を締結しておりますので同一住所に別名義にてそれぞれ契約することは可能でございます。
上記の場合、配線につきましてはマンション内の共有部機器よりお客様のお部屋の別の電話線差込口へ別個に開通処理が実施されているかと存じます。
併せてご質問いただいた工事作業員に関するご質問につきまして現在もU-NEXT光01の回線事業元はアルテリアネットワークスでございます。
※詳細は以下URL をご参照ください
■運営会社の変更について
https://bb01.unext.co.jp/succession 

通信障害やお客様宅への個別訪問につきましてはアルテリアネットワークスが調査の実施ならびに作業員の稼働調整をおこなっており派遣する作業員はアルテリアネットワークスが自社業務を委託している組織に所属しております。

上記より、アルテリアネットワークスが業務委託を依頼している会社名をお客様へ開示することは出来かねますが、業務委託先の作業員が訪問時に「アルテリアネットワークス」を名乗るケースも起こりうるかと存じます。

お客様へは分かりづらい案内となっており大変恐縮ではございますが上記ご参照の程お願い致します。

何卒よろしくお願い申し上げます。

(9)2021年9 月4 日 21:22谷内修三  

ご質問の件、以前のお電話にてご説明させていただいた通信事業者法につきましては第4 条が該当致します。
↑↑↑↑
契約口数を言えない、根拠として「さの」が口頭で答えたのは「百何条」かであって( 百五十何条、とさのは言ったと記憶している。unext 光01では電話の会話を録音しているとさのは答えていた、今井と私が会話したときはさのは休みだったが、あとで録音を聞いたと言っているので、確認してほしい) 、「第四条 電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない。2 電気通信事業に従事する者は、在職中電気通信事業者の取扱中に係る通信に関して知り得た他人の秘密を守らなければならない。その職を退いた後においても、同様とする。」ではなかった。
この第4条は、憲法の第20条の2 項の「通信の秘密は、これを侵してはならない」に通じるものであって、これは通信事業だけではなく、あらゆる事業に通じること。どの業界でも、「個人情報は事業以外にはつかいません、と明言している。そういうことは私は既に知っている。だから、名前も部屋番号も聞いていない。契約口数だけ質問している。メールにも「契約口数を明示しろ」としか書いてないし、電話でも何度もそう伝えている。
なお、物件内の契約者数につきましては上記ならびに弊社個人情報保護方針に基づき保護されている個人情報に該当しませんので然るべき部署にて確認を実施することで開示が可能でございます。
↑↑↑↑
「開示が可能」であるなら、なぜ、即座にその契約者数を書かないのか。なぜ個人情報保護のために答えられないと、今井もさのも言い張ったのか。さらに、メールでは、カスタマーセンターが全部の問題に対処していると書いている。「然るべき部署」とはどこのことなのか。

弊社は本サービス用通信回線ごとに1つの会員契約を締結しておりますので同一住所に別名義にてそれぞれ契約することは可能でございます。
上記の場合、配線につきましてはマンション内の共有部機器よりお客様のお部屋の別の電話線差込口へ別個に開通処理が実施されているかと存じます。
↑↑↑↑
「存じます」とは、だれが「存じ」ているのか。だれが、どのような方法で確認したのか。
8 月12日のメールでも「いただいた内容につきましては弊社回線ではなくご利用の機器側の設定により発生している症状かと存じます。」と「存じます」ということばをつかっている。回線状況を調べずに、そう書いている。実際に11日から回線障害が起きていた。
いったい、だれとだれが、どの部署がこの件について関与しているのか、なぜ明確にできないのか。どこの企業でも、メールにしろ電話にしろ、かならず「名前」を名乗る。私は「今井」と「さの」の名前は聞いたが、カスタマーセンターは今井、さのの二人だけで営業しているのか。

アルテリアネットワークスが業務委託を依頼している会社名をお客様へ開示することは出来かねますが、業務委託先の作業員が訪問時に「アルテリアネットワークス」を名乗るケースも起こりうるかと存じます。
↑↑↑↑
「アルテリアネットワークスが業務委託を依頼している会社」と書いているが、アルテリアネットワークス自体は業務をしていないと言うことか。その場合、問題が起きたとき、アルテリアネットワークスが責任をとるということか。「そこまでは知らない(unext光01は関知、関与しない) 」という意味か。私が電話したとき「アルテリアネットワークス」は「光回線事業についてはunexto光01に問い合わせてくれ」と答えている。これでは、問題のたらい回しだろう。ここでも「存じます」と書いているが、だれが「存じ」ているのか。「存じます」だけでは、どこにも「事実」がない。
明確に答えてほしい。


(10)2021年9 月11日 9:03 谷内修三

再送です。
9 月4 日に、以下の内容のメールをしています。なぜ、私の住んでいるマンションでの契約口数の返答がないのでしょうか。また、ほんとうに二本の光回線が配電盤まできていて、そこから個別の二部屋に電話回線とつながっているのでしょうか。なぜ返答がないのでしょうか。
***********9月4 日送信のメール。********************
(省略


(11)2021年9 月21日 8:34 谷内修三

なぜ、質問に答えないのか。
マンションでの契約件数は回答しても個人情報保護には違反しないから答えることができるといいながら、回答しないのはなぜか。さらに、通信障害が発生した期間の使用料金は引き下げると言っていたが、どうなったのか。どういう計算で、いくら引き下げ、いつそれを実施するのか。
何の連絡もない。
私は何度か目の都合が悪いと訴えている。目が悪いから放置しておけばいいという判断なのか。
引き下げ料金自体は高額ではないと思うが、引き下げると言っておいて、それを実施しないのなら警察に被害届を出します。
引き下げに当たっては、誰が(どこの部署が)誰に(どの部署に)指示したのか、社内での「文書」があると思うので、それを添付して説明してください。
何度も書きますが、この問題の責任者はいったい誰なのか。さの(文字、不詳。女性と思われる)と今井(男性と思われる)のふたりは電話で名前を名乗ったが、その二人が共同責任者と判断していいのか。
そのことも合わせて知らせてください。警察への被害届を提出するためです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂多瑩子「おまけ」

2021-09-21 10:30:48 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「おまけ」(「すぷん」4、2021年夏発行)

  坂多瑩子「おまけ」は省略して引用するのがむずかしい。作品自体に省略が多いからだ。

非常事態宣言ですこし遠くのスーパーに行くようにしたら
おなじ人を見かけるようになった

きょうは
その人 坂の手前のパン屋のかどをひょいと曲がった
つられて曲がると

わっ
ぐらんどみたいな
空地
ひとっこひとりいない

タケオに似ていた あれっ
埒もないこと考えながらパン屋に寄ってイギリスパンを買って帰った

布巾を洗って麦茶を沸かし
家事の終わりはいつもと同じように終わったが

「おれは、パンに夢をくっつけて食ってるんでさあ」
という一行を菅原克己の本から見つけた

するとちょっぴり夢がふくらんで
なにかを追っかけるようにあたしは走っていた

やぶれたフェンスをくぐると

履物屋
バス停
右に曲がると
小学校
空色のろくぼく

タケオだ ろくぼくの横に立っている

カンナが一列に 黄色

あの道を曲がったところだとあたしは思い
早く行けよ
遠い夕暮れで彼はいうのだった

 実は、この作品を朝日カルチャー講座で読んだ。書かれていることばそのものに難解なものはない。だが、詩を読み慣れていないと、すこし難しいところがある。説明がないからだ。書き出しの「非常事態宣言ですこし遠くのスーパーに行くようにしたら」にも省略がある。非常事態宣言はコロナの非常事態宣言である、ということはすぐに分かる。すぐに分かるから、分かった気持ちになるが、なぜ「少し遠くのスーパー」? これは、分かりにくい。近くのスーパーは人が多いから人の少ないスーパーを選んだということかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。「理由」なんて、どうとでも付け加えられるから、ここは分からなくていい。分からなくいいけれど見落としていけないのが「すこし遠く」という「感覚」。知っているけれど、ふつうは行かない。そして、その知っているけれど、という感覚が、この詩では大事。「おなじ人を見かけるようになった」とさりげなく書かれているが、なぜ「おなじ人」に目が行ったのだろうか。きっと「何か」を思い出したのだ。それが「タケオ」につながっていくのだが。「すこし遠い」けれどは、知っている。そういう関係にあるのだ。
 でも、これが、即座にはわからない。「タケオってだれ?」と受講生に聞いてみると、答えにつまる。「誰って?」「たとえば、夫とか、恋人とか」「夫じゃないことは分かるけれど、恋人でもない感じ」。そこで手がかりを探す。「タケオだ ろくぼくの横に立っている」。これは小学校の体をつかった遊び道具「ろくぼく」の横にタケオが立っているということ。でも、タケオは小学生か。たぶん小学生のときの友達なっだろう。その「タケオに似ていた」から「おなじ人」に目が行ったのだ。ふと、タケオの後をついて行ってしまったのだ。小学生のときのように。
 そこで見かけた空き地。バブル崩壊後、日本のあちこちにある空き地。そこから「ぐらうんど」を思い出す。小学校のグラウンドだ。
 それやこれやの間に、「家事」の日常が紛れ込む。
 「おれは、パンに夢をくっつけて食ってるんでさあ」という一行が突然だけれどとてもおもしろい、という声が受講生から聞かれた。「そして、この一行のあと世界がどんどん変わっていく」とも言う。
 ここからが、ポイント。
 「でも、そのパンは、突然のようだけれど、突然じゃないよ。前にパン屋が出てくる。パン屋に寄ってイギリスパンを買って帰った、という行もある。突然のようだけれど、ことばがつながっている。どんかわるけれど、つながりもどんどん見えてくる。夢ということばは、次の連にも出てくる。夢ということばで連がつながっている」
 そこから詩の中にある「つながっていることば」を探してみる。「ぐらうんどみたいな/空地」はそのまま「小学校」のグラウンドにつながるだろう。それから「空地」と「小学校」の前には「曲がる」という動詞がある。角を曲がると「空地」、角を曲がると「小学校」。昔の子供の遊び場は、「空地」か「小学校のグラウンド」。走って行って、走って遊ぶ。何を追いかけているかわからないけれど、何かを追いかけていたかもしれない。走って、角を曲がると、今まで見えなかったものが突然見える。「あの道を曲がったところ」に何かがある。
 さて。最終行の三行。「早く行けよ」というタケオ。「これは、どこへ行けよ、といっているのかな?」私はまた訪ねてみる。「夕暮れ」を手がかりにすれば「家へ行けよ、家へ帰れよ」ということかもしれない。遊び場をグラウンドから空き地にかえて(学校から空き地に移動して)遊び呆けている。日が暮れてくる。「早く帰れよ」とタケオは、そういうことも言ってくれるような、ちょっと「おとな」の子供だったのかもしれない。
 まあ、こんなことは、どこにも書いていない。
 だから「誤読」なのかもしれないが、詩は(詩だけではないが)、みんな「誤読」で成り立っている。人の言っていることを「正確に理解している」わけではなく、そのことばを自分なりに受け止めて納得している。だから坂多が「書いていることと違う」と言っても、そんなことは気にしない。坂多が書いていることばを通して、私は私の知っていることを「読む」。そして、受講生にも、自分なりに「読む」ということを提案する。
 そして、「読み」をつづけながら、この詩は、ふと小学校のときの友達の面影をのこす人を見かけ、子供のときを思い出した。友達のことを思い出して書いているんだなあ、と考える。それはまた自分自身の小学校のときの友達、何をして遊んだか、どこで遊んだかというようなことを思い出すんだけれどね。
 「小説のなかの、印象的なシーンをピックピップしたような感じの詩だ」
 受講生のひとりが、そう感想をもらした。これは、とても重要なポイント。詩を書き始めたころ、多くの人は「小説」のように「ストーリー」にしたがる。「ストーリー」にしないと「意味」がつながらないような不安に襲われる。でも、何かを思い出すときというのは「ストーリー」ではなく、断片なのだ。断片の背後にはもちろん「ストーリー」もあるだろうけれど、「ストーリー」の上を、イメージが飛び越えてつながっていく。
 「ストーリー」を「意味」と読み替えると、詩の姿がもっと鮮明に浮かび上がるかも。詩は「意味」ではなく、「意味」を飛躍したものなのだ。

 というようなことを語りながら、私は、私の「誤読」にもこだわる。
 私がこの詩でいちばんすごいと思ったのは、

布巾を洗って麦茶を沸かし
家事の終わりはいつもと同じように終わったが

 この二行。ここには「タケオ」や「空地」「小学校」のようななつかしい思いではない。いわゆる「詩的」なものにつながるイメージは何もない。詩からは遠い「散文」が紛れ込んだような、奇妙な言い方をすると、「わくわくする」感じがない。むしろ「がっかり感」の方が強い。いつもとおなじ「日常(家事)」が終わるのだ。何も変わったことばないのだ。この二行だけを取り出すと、どこに詩があるのかわからない。単に一日の終わりを改行して書いただけのように見える。
 でも、これがすごい。
 何も変わらないという「事実」が、不意に思い出した「懐かしいもの」を揺さぶる。揺るぎない事実があるから、思い出の中へすっと入っていける。また、この事実(日常/家事)へ戻ってくることもできる。深くは語られていないが、この静かな「認識」が、この世界を支えている。このことから、これを「日常の経験」を改行し、説明を省略しただけの作品と呼ぶこともできるかもしれないが、私は、そうは思わないのだ。
 散文の力が詩を支えている、と感じる。
 こんな例がいいのかどうかわからないが、大岡信、丸谷才一、石川淳らがやっていた「歌仙」を思い出す。大岡や丸谷は、なんというか、ちょっとまねして書いてみたくなる「鮮やかな一句」を書く。ところが石川は「一句の屹立(鮮やかさ)」を狙っていない。ひたすら句を突き動かす「運動」主体のことばを書いている。「散文的」なのである。
 この不思議な、現実的な力が、

カンナが一列に 黄色

 という詩を支えている。忘れることのできない風景を支えている。それはどこに咲いていた一列なのか。坂多は書かない。どこに咲いていてもいい。思い出しているのは「カンナ」であり「一列」であり「黄色」なのだ。
 「早く行けよ(帰れよ)」と言われたときに「タケオなんか大嫌い」と思って、にらむように見たのが、そのカンナかもしれない。「大嫌い」はもちろん「大好き」と言えないときに言ってしまうことばなんだけれど。
 「おばさん詩」って、やっぱりいいなあ、と思う。私は坂多にあったことがないから、よくわからないが、私は勝手に「おばさん」と思っている。

 この感想も、野沢啓の『言語隠喩論』に対する疑問として書いた。野沢は坂多の詩を堂読むか、それを知りたい。
 

 

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天童大人『ドラゴン族の神-アンマに-』

2021-09-20 09:54:15 | 詩集

天童大人『ドラゴン族の神-アンマに-』(七月堂、2021年08月30日発行)

  天童大人は声が大きい。詩を、大声で読む。そのことが詩集にも書かれている。わざわざ書くことではないのかもしれないが、きょう取り上げるのは、大声ではない詩である。「Bine・Bine」。どう発音するのかもわからないが、私はこの詩から「大きな声」ではないが、「揺るぎない声」を聞いた。

  白いシーツの上
  健やかにのびる淑やかな黒い肢体
  遠目には誰にもわからない

  Bine・Bine

  微かに腰を動かす度に
  触れ合い沸き立つ

  Bine・Bine

  決して他人には
  見せてはいけないもの
  誰にも見せられないもの

 「Bine・Bine」が何かわからない。誰かの「声」だろうか。そう想像してしまうのは「シーツの上」「黒い肢体」という状況と、「腰を動かす」「触れ合う」「沸き立つ」という動詞、さらには「他人には/見せてはいけないもの」という禁止のことば。どうしてもセックスを思い浮かべる。
 そう思っていると、詩は、こう展開する。

  Bine・Bine

  静かなベッドで生みだされる音
  の調べを聴く
  と男と女の愛の営み
  の深さが分かると

  Bine・Bine

 やはりセックスを描いている。でも「Bine・Bine」は何? まず「静かなベッドで生みだされる音」と説明され、「音」は「調べ」と言いなおされる。「音」はきっと人間の耳に入り、人間の「肉体」のなかで「調べ」にかわる。「肉体」によって浄化された「音楽」。
 「声」かもしれない。ベッドのきしむ「音」かもしれない。あるいは肉体が「触れ合う」ときの「音」かもしれない。肉体が「触れ合う」とき肉体の奥から「沸き立つ」官能の「声」かもしれない。
 でも、その「音/声」を聞くのはなんだろう。「耳」だろうか。「耳」を超える何か、「肉体」そのもの、「肉体」を統合している「力」かもしれないなあ。「肉体」の外で鳴る「音」ではなく、「肉体」のなかで鳴っている音。それが聞こえるのは、「愛の営み」をしている二人だけである。
 「決して他人には/見せてはいけないもの/誰にも見せられないもの」とあったが、「見せた」としても「聞こえない」だろう。「調べを聴く」のは愛を営んでいる男と女だけなのである。

 世界には、他人には「聞こえない声」がある。

 これを「大声」で叫ぶには、難しい。大声を発してしまえば、その大声に「聞こえない声」がかき消されてしまう。
 でも、ことばにしたいのは、その「聞こえない声/音」である。

  Bine・Bine

  揺れる車中
  恥じらいながら
  聲を落として教えてくれた美形の詩人
  の握りしめた掌のなかに
  強い香りを塗り籠めた黒いBine・Bine

  これがほんとうのBine・Bineなのか

 「Bine・Bine」は「音/声」ではなく、「もの」なのか。いったい何なのだろう。
 詩は、こう締めくくられる。

  彼女の原色鮮やかな括れた衣服の内に
  巻きつき擦れ合い見えぬ

  Bine・Bine

  から 一瞬 烈しく触れ合う音が聴こえた

 差し出された「Bine・Bine」という「もの」ではなく、天童が受け止めるのは、あくまでも「Bine・Bine」という「音」である。そして、その「音」を天童は「Bine・Bine」という「声」にする。
 美形の詩人の「肉体」で鳴っている「調べ」を、天童の「肉体」が聴き取り、それを「ことば」の調べにかえる。ここに、「肉体」が「声」を発するときの不思議な「共感」があるのだが、さて、これを「どんな大きさの声」で発するのか。「大声」では「聞こえない音」はかき消されてしまうかもしれない、と私は最初に書いた。しかし、それはあくまで他人が発している「音/声」である。もし、それが天童の「肉体」をくぐり抜けた後ならば、どんな「大声」でも、その秘密の「調べ」は聴こえるだろう。「大声」を圧倒して、強い余韻のように「大声」の底から沸き上がってくるだろう。
 そういうことを思った。
 私は、詩の朗読を聞くのが好きではない。「ことば」は自分のペースで読みたいからである。私は「ことば」を聞くのではなく、「ことば」を読んで「ことば」で考えたいからだ。
 しかし、この詩は、「朗読」を聞いてみたいと思った。「Bine・Bine」がどういう「音/調べ」で「声」にされるのか聞きたいし、それが実際に私の耳にどう響くかを確かめてみたいと思った。それがどんなものであれ、そこには天童の「肉体」を通り抜けることでたしかなものになる何か、揺るぎない何かがあるはずだと思うからだ。

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇101)Roberto Mira Fernandez

2021-09-19 15:08:06 | estoy loco por espana

Roberto Mira Fernandezを見たときの最初の印象は絵画的ということである。
どこが絵画的なのか。

写真でしか見たことがないから間違っているかもしれないが、作品を見るときの位置が固定されている印象がある。正面から見なくてはいけない。

横からはもちろん背後から見てもいけない。いけないということはないかもしれないが、たぶん横や背後から見られることを想定していない。これはRoberto Mira Fernandezが絵を描いていること、芝居をやっていることとも関係しているかもしれない。絵や芝居には「背後」から見るという習慣がない。作品も「正面」を向いて見る人と対面するのだ。

 

さらに、別の印象にも、絵画、芝居のイメージが入り込んでくる。

まず、絵画。

二つの作品は、どれも不思議なバランスを保っている。倒れそうで倒れない。まるで絵画なのだ。絵画は絶対に倒れない。逆さまにしてさえ倒れないのが、絵画の中に描かれた世界だ。不安定な形であるのに、その不安定を維持している。不安定であることが、Roberto Mira Fernandezにおいては安定なのだ。そして、私はその不安定に誘い込まれていく。

そのとき、芝居の印象が作品の背後からやってくる。

芝居では、役者は突然あらわれる。小説のように「背景」説明されない。役者は登場人物人物の「過去」を肉体で感じさせなければいけない。透明であってはいけないのだ。

Roberto Mira Fernandezの不思議な形は、「私には過去があります」と主張している。「過去があるから、こういう形をしているのです」と告げる。その過去に耐えてきて、いま、ここにあるから、それが不安定に見えても過去に耐えてきた時間がその不安定を逆に安定させる。

これはなんだろう。「過去」とはなんだろう。

まだわからない。
わからないからこそ、私はそれを見てみたいと思う。

 

*

 

存在が形になるまでには「過去」がある。
形になってしまった作品は「いま」の姿しか見せない。
何を経験してきたから、いまの姿になったのか、自ら語り、説明し、共感を強要したりはしない。
こうした作品の前では、鑑賞者は自分の過去と向き合わないといけない。
私はどうして私になったのか。

そう自問するとき、Roberto Mira Fernandezの彫刻は、この不安定なのに直立している形の背後にあるものを語り始めるだろう。
それまで私は自問する。

なぜ私はこの作品の前に誘われ、見つめ合っているか。

答えが見つかったとき、きっと作品を抱きしめたくなる。

そういう作品だ。

Hay un "pasado" antes de que una obra se convierta en una forma concreta.

La obra que ha ido tomando forma sólo muestra la apariencia del "ahora".

No habla de lo que ha experimentado el trabajo y cómo se ve ahora. Por supuesto, no fuerza la empatía.

Frente a estas obras, el espectador debe enfrentarse a su pasado.

¿Por qué me converto en yo? ¿Por qué me encuentro contigo?

Al preguntarse eso, la escultura de Roberto Mira Fernández comenzará a decir qué hay detrás de esta forma inestable pero erguida.

Hasta entonces me pregunto.

¿Por qué me invitan a mirar este trabajo?

Cuando encuentres la respuesta, seguramente querrás abrazar tu trabajo.

Es un gran trabajo.

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓『言語隠喩論』(11)

2021-09-19 11:21:02 | 詩集

 

2021年09月19日(日曜日)

野沢啓『言語隠喩論』(11)(未來社、2021年7月30日発行)

 あとがき。
 野沢も「あとがき」を書いているのだが、その「あとがき」についての感想ではない。私がこれまで書いてきたことに対する、私自身のあとがき。
 野沢はこの本の中で「身分け」「言分け」ということばを紹介している。このことばは、とても刺戟的だった。私はそのことばを知らなかったが、読んだ瞬間、あ、これは私が考えていることに似ている、と「文字面」から思った。私は野沢が紹介している市川浩、丸山圭三郎を読んでいないので、私の考えている「身分け」「言分け」は野沢の考えている「身分け」「言分け」とは違ったものであると思う。しかし、このことばはつかえるなあ、と思ったのである。
 「身分け」「言分け」とはなにか。私たちは「肉体」をもって世界の中に存在している。世界と向き合うとき、必ず「肉体」も動く。「肉体」を動かすことで世界を確かめ、世界の中へ入っていく。これを、世界に対する「身分け」と私は勝手に理解する。「身分け」ということばをつかって、私が考えてきたことを、整理する。そして、こういう「身分け(肉体をつかって世界に入っていく)」をするとき、同時に「ことば」も動く。「肉体」を通して、あ、これはこういった方が自分の「肉体」には納得がいくなあと思い、今までとは違うことばのつかい方をする。これを「言分け」と呼ぶことができると思う。「身分け」と「言分け」には強い、密接な関係かある。「肉体の運動」と「ことば」の間には切り離せない関係がある。
 私は、この「肉体」と「ことば」の密接な関係を、誰から学んだか。ソクラテス(あるいはプラトン)、ハイデガー、マルクスである。プラトンはときどき読み返す。ハイデガーは「存在と時間」を三回読んだが理解できなかった。マルクスは読んだことがなく、私の周りで見聞きしたことを頼りに、これがマルクスとかってに思い込んでいる。この三人には共通点がある。ソクラテスはことあるごとに「靴職人」「馬の飼育係」を例に引き出す。靴職人も馬の飼育人も自分自身の「肉体」をつかって靴をつくり、馬を育てる。そのとき彼らは、私の知らない形で「肉体」をつかっている。そして、そこから「智慧」を自分自身のものにしている。「智慧」とは明確な「ことば」にならなくても、「ことば」を含んでいる。ハイデガーは「存在と時間」のはじめの方にハンマーと手のことを書いていた。手を使ってハンマーを動かす。そうすることで鉄に変化を生み出す。それは世界へ「肉体」をつかって入っていくということである。このときも「ことば」が存在するはずである。ハイデガーは「投企」というようなことばをつかっていたと思う。それはハンマーを動かす人が思いついたのではないが、ハイデガーがハンマーをたたく人間になったときに思いついたことばである。「肉体」が世界に入っていくとき、どうしてもそのことを「正当化」するための「新しいことば」が必要である。この新しいことばをつくることを「言分け」と呼ぶことができると思う。マルクスは、労働(基本は「肉体)」と金の関係を考えた。金は「ことば」そのものではない。しかし、「ことば」のように「関係」を描き出す。一枚の布がある。それをつかって上着をつくる人がいて、一方にハンカチをつくる人がいる。肉体の動かし方は違う。それは支払われる金の違いになってあらわれる。これは「言分け」というよりも「金分け」と呼ぶべきものかもしれないが、その金が1000円とか100円とか、明確に区別されるとき、それは「ことば」の区別でもある。この三人から、私は「肉体」が動くとき、世界が変わり、同時にその世界を語る「ことば」がかわるということを学んだ。それを、私は、市川、丸山、そして野沢がつかっている「身分け=言分け」とは違うかもしれないが、同じ「身分け=言分け」としてつかうのである。借用するのである。こういうことを「誤読」「誤解」「誤ったつかい方」と言うのだろうが、私は私の考えを進めるために、私なりの解釈で、ことばをつかう。他人の言ったことばを正しく理解するというのは大切なことだろうが、私は市川や丸山と対話するわけではなく、ただ自分の考えを書くためにつかうのだから、「正しさ」を気にしない。市川や丸山、野沢に、私の考えを「採点」してもらうために書くのではない。

 で、ここからが本題。
 野沢は安藤元雄の「からす」を引用し「身分け」「言分け」ということばをつかって感想を書いている。「からす」は、

さて おれはここにとまって
空がしきりと赤い方角を眺めているが
別にあれが何かのしるしというものでもあるまい
飛ぼうと飛ぶまいと おれはどっちみち
空と地面の間に閉じ込められているだけだ

 と始まるのだが、この詩に対して野沢は、「身分け」「言分け」ということばをつかってこう書く。「どこともわからない〈ここ〉から詩が開始されるのだが、〈ここ〉とはまさに詩人=哲学的カラスが未知の世界へ身をもって対峙しているスタートの地点である木の枝なのであり、それは世界に対峙する詩人の〈言分け〉の姿勢なのであって、そこから最初に分節される〈空がしきりと赤い方角〉とは夕陽のことをさしていることがあとでわかってくる。(略)詩人=哲学的カラスは動かないという断固たる選択をおこなうことによってじつはみずからの詩を、この対象たる世界にたいしてのひとつの身分けの行動を発動しているのである」。
 私なら、こう書く。枝に止まって動かないという「肉体」のあり方が世界に対する「身分け」である。それは「とまっている」という動詞で表される。そして、その動かないという姿勢でいるとき、「とまっている自分」の外にある世界は、まず「空がしきりと赤い」ということばで言い表される。「言分け」される。そして、その「言分け」された「空がしきりと赤い(方角)」は「眺める」という動詞(肉体の動き)」によって完結される。「見分け=言分け」が一体になった動きを「分節する」と言いなおすことができると思う。
 安藤のこの詩の「肉体」の動きは「とまる/眺める」である。「とまる」は詩の後の方で「枝に載ってさえいれば」「枝を一本掴んでいるだけで」と「載る/掴む」と言いなおされているが、「とまる」は「閉じ込められる」にも通じるだろう。「とまる」には「閉じ込められる」という「隠喩」が隠されていることになる。そして「とまる」の反対の動詞としては「動く」がある。「閉じ込められている」ものは動けないが、閉じ込められていないものは「動く」。動かないまま、動くものを、眺める。それがこの詩の「肉体」のあり方、「身分け」の姿勢であり、その姿勢から世界かどう認識されるかが言語化(言分け)されるという構造を持っている。
 「〈空がしきりと赤い方角〉とは夕陽のことをさしていることがあとでわかってくる」と野沢は書いているが、カラス、空が赤いなら、これは夕焼け(夕陽)のことであるのは、あとで補足されなくても、多くの日本人なら想像してしまう「定型」の風景だろう。夕焼けの赤は、当然のことながら変化していく。暗くなっていく、というのも「常識=定型」である。定型を利用しながら、安藤は、カラスは枝に「とまっている」が、そのときも世界は「動いている」を暗示している。「隠喩」している。
 そして、その後、「とまる」と「動く」の想像力の交渉がある。「言分け」が進み、詩の世界が展開する。その過程で、

飛び立ったが最後 おれの体はたちまち散らばって
嘴だの目玉だの何枚もの羽根だの
その羽根の軸だのということになる
(略)
或いは輪の中心に死んでいる一匹の鼠
を見つけるまでは
おれは密度がゼロになるまで拡散し
それから鼠の上で収斂するのだ

 と、もし「とまる」ではなく「飛ぶ」ならば、世界はどう分節(身分け=言分け)されるかが書かれている。これは飛んでいる自分の姿を想像し、それを眺めているのである。「飛ぶ」ときは肉体のさまざまな部分を酷使する。「足」でとまっているときとは違う。目も嘴も羽根も動かし、鼠に襲いかかる。(それは死んでいる鼠だが)。餌を見つけるまでは、「世界」の中を飛び回る。飛び回ることで、カラスが「世界」を動かすのである。それは羽根の動きが、そのまま世界の動きになるのである。「眺める」は、「動かない」ものを探すことに従事する。獲物を探すから、「肉体」は動く。それを「安藤は「散らばる」と書いている。そして、獲物が発見されたら「照準」のずれが「ゼロ」になり、つまり「肉体」も一点に向かって収斂し、鼠を手に入れる。世界は完全に「停止」する。この世界の完全な一体化、完全停止がカラスの理想である。これは逆に言えば、このカラスは飢えて木の枝の上にとまっている。死んだ鼠さえ自分のものにすることができないということだ。それくらいに「肉体」が弱っている。だからこそ、「飛び立ったが最後 おれの体はたちまち散らばって」と自分の死も予想する。そして、そこから他のカラスを見ているのである。他のカラスだって、やがて自分のようになる、と「眺めている」。世界が、一匹の鼠のように、完全に停止することを待っている。「あの鼠、殺さなければ死んでしまう」と言ったのはベケットの戯曲の中の誰だったか知らないが、このカラス、殺さなければ死んでしまうというくらいの状況の中で、まだ世界へと入っていっているのである。「ことば」は、そんなふうにいつでも「生きている」のである。生きていけるのである。
 詩は、こう結ばれている。

おれが目をつぶったところで
ここに平べったく降り注ぐ光
は相変わらずだ
まだああやって赤い方角からよろよろ帰って来る奴らが
全部揃って目をつぶることが必要なのだ
そうすれば夜が来るだろう 顔のない夜が
それまでは いま暫く
どすぐろい羽根の軸でも嘴でこすってやるだけだ

 書き出し二行目の「眺める」は「目をつぶる」にかわっている。「目をつぶる」は単に眠るではない。「永眠する/死ぬ」である。まだカラスは死んでいないが、死ぬことによって永遠に生き続ける「隠喩」になる。「死んでいる一匹の鼠」ということばのなかの「死ぬ」という「動詞」の重さを見逃してはいけないと思う。「とまる」は「死ぬ」でもあるのだから。
 野沢は簡単に「哲学的カラス」と書いているが、それが不満だったので、「あとがき」という形で追加しておくことにした。

 私は詩を読むときにかぎらないが、ことばを読むときは「動詞」に注意して読む。「動詞」になら、自分の「肉体」を重ねることができるからである。私は、精神やこころというものもほんとうに存在しているかどうかあやしく感じている。左手はこれ、右足はこれ、と確認することができるか、精神やこころが果たして頭にあるのか、小腸にあるのか、指先にあるのか、わからない。そのときそのときで場所をかえるかもしれない。わかるのは「肉体」があるということだけだから、「肉体」を動かす「動詞」と、動いた肉体が見つけ出すものを読むしかないな、と考えている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓『言語隠喩論』(10)

2021-09-18 14:44:48 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(10)(未來社、2021年7月30日発行)

 「終章 現実をそのまま書けるという幻想」。
 「終章」の最初の方に野沢は「どうも読んでくれているらしいのだが、残念ながらちゃんと理解してくれているとは思えない文章に出くわすことがあって、がっかりさせられることもすくなくない」と書いている。うーん、これは私のことかとも思うが、「ちゃんと理解する」というのは、私の場合、誰に対してもできないなあ。「読む」というのは「理解する」ということではなく、「読む」ことを通して「考える」ことであり、書くというのは自分の考えを「ことば」にして動かしてみる、確認するということだからだ。私は「理解したい」から読むのではなく「考えたい」から読む。開き直りみたいだが、まあ、開き直りである。
 何度でも書くが、私は、野沢の詩に対する特別な意識が理解できない。たとえば「詩を書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」と書いているが、なぜ「詩」なのだろうか。私は「詩」に限定して考えることができない。また「書く」ということに限定して考えることもできない。「ことばを書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」「ことばを話すことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは話してみるまえにはわからない」。それはさらには「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んでみるまえにはわからない」であり、それは「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んで、考えてみるまえにはわからない」でもある。
 野沢は「散文を適当に改行したものがほんとうの詩ではないのは、そこにあらかじめ仕込まれた平凡な流通的意味-価値しか存在しないからである」と書くが、それは野沢の問題視している作品が「散文文学」ではない、「文学」の領域に達していないということだろう。逆に言えば、散文の中には「適当な改行」を許さない文章というものがある。私がいま思い浮かべているのは、サラマーゴの『白い闇』というタイトルで邦訳されている作品である。原文は、読点(コンマ)はあふれているが、句点(ピリオド)がなかなか出てこない。この文章は、「適当な改行」を許さないし、「きちんと理解して」「改行」したとしても詩になるかどうかわからないが、読む瞬間瞬間において、私は、あっと驚く。読点の間合い、ことばの切断と接続の生き生きとしたリズムに出会ったときの、この驚きは、「詩」と呼んでいいものだ。それこそ「隠喩」に満ちたことばだ。ことばの衝突の「間合い」を含めて「隠喩」だと私は感じた。
 たとえば。
 書き出しは「Se ilumino el disco amarillo.」。「disco」は丸いものである。「丸い、黄色いものが光った」くらいの意味になるか。だから、この書き出しを読んだあるアメリカ人(スペイン語ができる)は「太陽を想像した」と言った。実は「信号」の円形の光のことである。ふつうに聞く信号「semaforo」という表現は後で出てくる。なぜ一般的なことばをつかわなかったのか。それは、この小説が、突然盲目になるという感染症が広がった世界を描いた小説だからである。私たちは、ふつう、信号を見るとき「色」だけを見る。でも、そこに色があるとき見ているのは「色」だけではない。かたちも見ている。その無意識に肉体が見て、無意識に肉体が排除しているものの存在が「disco」なのだ。つまり、この小説の書き出しは、人間には見ていながら見ないものがある。そしてそれは見えなくなる(盲目になる)ことによって見えるときがあるということの「隠喩」なのだ。この深い人間観察(洞察)を、人間ではなく、街のどこにでもある信号の描写のなかに集約させている。
 これは野沢もつかっている「身分け=言分け」という表現をつかって私なりに言いなおせば(野沢は違うかたちでつかうかもしれない)、こういうことになる。信号を見ているとき、人は色も形も見ている。しかし、ふつうは色しか意識しないので、その意識が色を識別するという肉体を動かし(身分け)、「黄色が点滅した」ということばになる(言わけ)。サラマーゴが書いているように丸い黄色(黄色い丸)が点滅したとことばが書かれるとき(言分けされるとき)、その背後では肉体が形と色を見るという具合に動いている(身分け)。肉体が色だけではなく形も見るという具合に動いてた(身分けしていた)からこそ、ことばは「黄色い丸が点滅した」という具合にことばがつかわれたのだ(言分けされたのだ)。「身分け=言分け」は、あらゆることばの現場で起きていることである。
 言いなおせば。
 「隠喩」は詩の特権ではない。優れた作品ならば、それが「散文」であっても「隠喩」に満ちている。「隠喩」が結び合って動き、世界を隠しながら切り開いて見せてくる。サラマーゴの書き出しでは「disco」ということばは「semaforo」ということば、その存在を隠しながら、ふつう、人間は信号を見ているとき信号のかたちが「丸い」ということを見逃しているという「事実」を切り開いて見せてくれる。この作品の書き出しには、歩行者用の信号が「青い人間のシルエット」を持っているということばも出てくるが、歩行者はたいてい「青」しか見ていない。しかし、そこには「歩く人間」がかたどられている。大抵は「四角い信号」のなかに「青い人間のシルエット」。でもね、ふつうは、そんなことを気にしない。「青」が見えればいい、と思っているからだ。信号の中のシルエットではなく、実際に生きている人間を、他の人間がどう見ているかはもっと複雑である。そのことも次々にあきらかにしていくこの小説にとっては「青い人間のシルエット」も強烈な「隠喩」である。もちろん、「隠喩」であることに気づかない人もいるだろうけれど。つまり、ことばから何を読み取るかという問題が、つねに「隠喩」にはつきまとう。それは「書く」人間だけの問題ではない。詩人だけが利用していることばの「働き」でもない。
 このことは、これから、もう一度触れる。

 野沢はデリダを引用しながら、「隠喩化作用(比喩が哲学的コンテクストのなかで隠喩になり、隠喩が固有の意味になること)」について、こう書いている。「第一の意味と第二の意味の二重の消失がどうしておこらなければならないのか」。これはもちろん反問のようなものであって、野沢は彼自身で、こう答えを代弁している。「隠喩」とは、「隠喩としては自ら消失し、その消失においてこそ隠喩としてひそかに復元するというじつにやっかいなシロモノなのだ、とデリダは主張する」。
 さて、ふたたび、サラマーゴの『白い闇』の「disco(円盤)」である。これは「信号」の言い換え、「譬喩」である。第一の意味は「信号」である。そして、「信号」の「意味」であると理解したとき、実は「信号の譬喩である(隠喩である)」という意味は消えて、「信号を見るとき、人は信号の色を見ているのであって形を見ているのではない」という別の「隠喩」、「人間の見ているものは何か」という問いとなって「復元」してくる。その問いは、もちろん気づかなければ気づかないでもいい。野沢は「ひそかに」という副詞をつかって書いているが、これは「わかる人」がわかればいいだけのことであり、「わかる人がわかればいい」だけなのだけれど、サラマーゴは「わかってほしい」と願って書いているだろうと思う。この小説にはいろいろな人々が登場し、いろいろなことばを言う。その「発話」のひとつひとつが、汲めどもつくせぬ「隠喩」になっている。「意味」がわかったと思った瞬間、「黄色い丸/丸い黄色」が「信号」だとわかった瞬間、「信号」という意味が消えて違う「意味」、人間は信号を見ているとき形ではなく色を見ているという「意味」があらわれると同時にそれさえ消えて、人間は何かを見るとき何かを見落としているという「深い意味」、「隠喩」を超えた「哲学(人間認識)」があらわれる。つまり、知っているはずの人間の中から、新しい人間が生まれてくるのを目撃することになる。その瞬間に立ち会うことになる。
 それは「黄色い丸が点滅した」(雨沢泰の訳は「丸い」を省略していて、サラマーゴのやっていることをたたき壊している/NHK出版)だけでも、そうなのである。人間は信号を見ているとき色だけではなく実は形も見ているという意識の覚醒が、その後の「見る」ということをめぐる「身分け=言分け」の世界を深め、肉体とことばは「哲学」そのものになっていく。繰り返しになるが、『白い闇』の書き出しから、読者は「新しい人間」の誕生に立ち会っているのである。

 かなり脱線したかもしれない。
 野沢は、デリダを、さらに他の多くの人をルソーの《最初の言語は比喩的でなければならなかった》と結びつけて、考えを進めている。はっきり理解しているわけではないが、野沢がこのことばを引用するとき、野沢の視点は「比喩(的)」ということばに向いているように思う。
 だからこそ、私はあえて問いかけてみたいのだが、ルソーが書いている「言語」とは、いったい何を指しているのか。ルソーの書いている「言語」というこばこそ「隠喩」なのではないのか。つまり「意識化されたことば」のことではないのか。言いなおすと、「いま私が言ったことばは、これまで言われていることばと違う」という意識でつかわれていることばを指すのではないのか。この本の最初の方で野沢は雷を体験した古代の人間が、驚きの中で発することばについて書いていたが、その驚きとともに発する「ことば」は、それまで知っていることばではない。知っていることばでは伝えられない驚きをなんとか伝えようとすることば、言いなおせば「最初のことば」を否定する「ことば」である。野沢の書いている古代人がいったい何歳の人間を想定しているのか知らないが、雷を初体験したわけではなく、雷を体験してきたが、それまでの体験をこえる雷に遭遇したとき、今までとは違うことばをいいたいという気持ちになったのだろう。つまり、そのときのことばは、「雷」ということばを知っていて、その知っていることを否定して、なおかつ伝えたいものを伝えようとするものだったと思う。「最初の言語」は最初に「意識化」された言語のことだろう。「意識化」を補わないことには、私には意味が理解できない。
 野沢の書いていることは、この「意識化」のことなのかもしれないが、どうにもわかりにくい。詩の特権化が無意識におこなわれているように、いくつかのことばが無意識的につかわれている(定義が明確にされていない)と私は感じてしまう。
 (この問題は、パロールとかラングとか、さらにエクリチュールとかという「用語」と関係づけて見ることもできると思うが、私はカタカナを正確に読むことができないので、これ以上は書かない。)

  もうひとつ。
 そして、このときの「意識化」の問題というのは、人が生きている「現場」によって、それぞれに違う。だから「隠喩」としての詩を必要とする人もいれば、違うかたちの詩を必要とする人もいるということも忘れてはならないことなのではないだろうか。野沢の求める詩は野沢の求める詩。ことばは、たとえば「日本語」とか「英語」とか言ってしまうけれど、ほんとうは個人個人の「野沢語」「谷内語」のようなものであって、「文法」が違うのだ。それは何も「文学語」だけではなく「日常語」においても。その「違い」をどう意識化するか、どう違いを共存させていくかということを考えないといけないような気がする。少なくとも、私は「詩の言語の特権化(隠喩の独占)」という野沢の視点には疑問を感じてしまう。私には私の目指す「言語」というものがあるけれど、だからといってその他の「言語」を排除はしたくないのである。他人の言語がなければ、私はことばで考えることができない。他人の言語は多ければ多いほどいい、と思っている。もちろん、それを全部つかえるわけではないし、つかいたいとも思わないが。

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(24)

2021-09-18 09:23:39 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(24)

(現行憲法)
第四章 国会
第41条
 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第42条
 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
第43条
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。

(改正草案)
第四章 国会
第41条(国会と立法権)
 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
第42条(両議院)
 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。
第43条(両議院の組織)
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律で定める。

 表記の変更と、「これを」の削除。「これを」という書き方がテーマの提示であることは、第42条、第43条の「文体」をみればはっきりするだろう。「これを」という再提示はしつこく、うるさい感じがするかもしれないが、憲法のような基本的なものには必要なことだと思う。

(現行憲法)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
(改正草案)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。

 大きな変更点は「障害の有無」が改正草案で付け加えられたこと。これは、改正草案のいい点である。「但し」を「この場合において」と書き換えている理由はわからない。「この場合において」ということばを改正草案では他の部分でもつかっているか。丁寧に読んでみないと、「意味」(狙い)がわからない。
 「又は」については、先日、現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない、と書いた。「財産」と「収入」は基本的には違うが、「財産はあるけれど収入のない人」「収入はあるけれど財産のない人」の区別をしないためのものだろうか。「又は」の前に読点「、」があると印象が違う、ということを先日、書いた。
 これは強引な読み方かもしれないけれど、私は、とりあえずそう読んでみた。
 ところが「但し」「この場合において」は、どういう「違い」を明確にするために「この場合において」をつかったのかわからない。「但し」を「ただし」と表記変更する例は、次の第45条に出てくるが、「この場合において」とはしていない。
 ここには私には気がつきようのないとんでもない「罠(落とし穴)」があるかもしれない。第45条のように変えなくてすむなら、わざわざ変える必要がない。変えたからには何らかの「意図」があるはずだ。


(現行憲法)
第45条
 衆議院議員の任期は、四年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
(改正草案)
第45条(衆議院議員の任期)
 衆議院議員の任期は、四年とする。ただし、衆議院が解散された場合には、その期間満了前に終了する。

 「但し」「ただし」は先に書いたので触れない。
 この条項では「衆議院解散の場合には」を「衆議院が解散された場合には」を書き直している。ここには大きな問題がある。
 「衆議院が解散された場合には」という文体の中では「国会」は「受け身」である。誰かが「国会を解散する」のである。だれがするのか。
 現行憲法では、第69条に「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」という規定がある。衆議院(主語)が内閣不信任案を可決(内閣信任案を否決)した場合、その決議が正しいかどうか国民に問うために内閣は国会を解散し、総選挙に訴えることができる。いわば衆議院の議決に対する「対抗手段」として内閣に「解散をする権利」を与えている。この「対抗手段」がないと、内閣は「独自性」を確保できないという考えに基づいている、と私は読んでいる。あくまで、衆議院の可決に対する「賛否」を問うのが「解散→総選挙」である。「議会制民主主義」に対して、一定の「歯止め」をかける条項といえる。内閣の構成員(首相)は選挙で選ばれた人である。その選挙で選ばれた人が「不信任」されたときは国民にその是非を問いかけることができる、という「権限の付与」ということになる。
 国会(衆議院)は「自動的」に解散できるわけではない。ちゃんと「任期」が決められており、任期の変更ができる(解散ができる)のは、内閣と国会が対立したとき(内閣不信任が可決されたとき)だけなのである。現行憲法第7条第2項を「借用」して、解散権を振りかざす首相が何人もいたが、第7条は天皇の「権能規定」であって、内閣(首相)について規定したものではない。あきらかに憲法を逸脱したものである。
 改憲草案の第45条は、そういう「経緯」を抜きにして「衆議院が解散された場合には」と書いている。内閣=首相(主語)が勝手に(不信任されたわけでもないのに)国会を解散するという一方的な「暴力」を許すことになっている。いま横行している内閣(首相)による民主市議の破壊を追認し、それを推進する条項である。「解散権」は、「内閣」の条項にふたたび出てくる。ここでは、その問題を「主語」を隠すことで、こっそりと忍び込ませていることになる。
 憲法は権力(内閣、首相)を拘束するためのものなのに、そのことが隠され、内閣(首相)が「主語」になって、国民を拘束するということが改憲草案で押し進められるのである。首相がかってに国会(衆議院)を解散できるのであれば、衆議院議員の「任期」はあってないに等しい。ある議員を落選させるために国会を解散するということさえできてしまう。内閣に人気があるうち解散し、野党の議席を減らす、内閣が不人気の場合は人気が回復するまで選挙をしない、という方法が横行することになる。
 実際、そういうことが、いま、起きている。
 きょうの読売新聞は「自民総裁選告示」のニュースと同時に、今後の「日程」について書いている。
↓↓↓↓
 政府・与党は、衆院選の日程について、10月26日公示、11月7日投開票を軸に検討を進めている。衆院議員の任期満了日(10月21日)以降の衆院選は、現行憲法下では初めてとなる。
↑↑↑↑
 任期が10月21日に満了になるのはわかっている。わかっているなら、任期が満了になる前に選挙をすべきだろう。なぜ、それができないのか。できないのではなく、しないのだ。いまは、菅が辞めたとはいえ、自民党の不人気がつづいている。ここで選挙をすればコロナ感染が終息しないことも影響して、きっと自民党は議席を減らす。その影響を少なくするために、選挙を先のばしにしているのだ。
 菅が辞任を表明したときは、国会を開いて、国会を解散させ、解散による総選挙というかたちにすることで11月28日まで投票日を延ばせる、ということが読売新聞によって報道されていた。コロナ感染がどうなるかわからないが、いまの感染者減少傾向がつづけば、自民党のコロナ対策は「成功した」という印象を生むことになるかもしれない。それを狙っているのだ。
 自民党の「議席確保」だけのために選挙(解散)が利用されようとしている。
 「衆議院解散の場合」「衆議院が解散された場合」の違いを見逃してはならない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建畠晢『剥製篇』

2021-09-17 10:46:03 | 詩集

 

建畠晢『剥製篇』(思潮社、2021年09月01日発行)

  建畠晢『剥製篇』の一篇、「犯罪惑星の斥候」。これを取り上げるのは、野沢啓『言語隠喩論』を読んだからである。私の言いたいことを書くのに、この作品が都合がいいからである。野沢の論を読むと、野沢が「隠喩」こそが詩の出発点であると言っているように思う。しかし、それではその「隠喩」はどうやって生まれるのかを説明しているようには思えない。「原始」とか「原初」とかが「隠喩」にかかわっていると考えていることはわかるが、どうやったら「原始」「原初」を手に入れることができるか。そのことを書いているとは思えない。唯一の手がかりのようなことばは「身分け=言分け」であるが、そのことを具体的な作品に触れながら書いているとは私には思えなかった。哲学者のことばをくっつけて「身分け=言分け」と論を進めているように思えた。
 野沢がどう考えているかわからないが、私自身が「身分け=言分け」をどう考えているかを書いてみたい。野沢が引用した哲学者のことばとも、野沢自身のつかっていることばとも違うかもしれない。いや、きっと違うだろう。私は野沢が引用している哲学者のことばをほとんど読んだことがない。私は目が悪いせいもあって、ほんとど本は読まない。
 一連目は、こうはじまる。

 惑星の朝ぼらけ。戦いの野は薄明に眠り、鉄の館はいまだ門
を閉ざし、私は惑星の犬とともに斥候に出る。
 
 この書き出しのなかにも「隠喩」がある、と私は読む。そして、そこには「身分け=言分け」がある。「朝ぼらけ」は「薄明」と言いなおされているが、その二つのことばは「眠る」という動詞と一緒に動いている。ふつう、「朝」になれば人は「起きる」。「眠る」ではない。「起きる」ことで初めて「朝ぼらけ/薄明」を認識できる。実際に、ここに書かれている「私」は起きている。しかし、起きているのに、起きていることを意識せずに、「眠る」という動詞の方へ意識をむける。なぜか。「斥候」は、他人に気づかれないように相手の動きを探ることだからである。「斥候」にとっては相手が無意識である(=意識が目覚めていない=眠っている)ということが好条件である。「私」は、相手が(そして世界が)眠っていることをまず確認するのだ。「戦いの野は薄明に眠り」の「眠る」という動詞は「斥候」にとっては不可欠な条件なのだ。「眠る」は「閉ざす」とも言いなおされている。「眠る」「閉ざす」は「斥候」自身の動詞(身分け)をあらわすことばではないが、「斥候」のしなければならないことを「暗示」している。「暗喩」している、といってもいいだろう。「相手に気づかれないように相手を探る」。「眠っている/意識を閉ざしている」ものを「探る」。「閉ざしている」「鉄の館の門」と敵の門ではなく、味方の門かもしれないが、それは「斥候」というものが多くの「味方」の知らないことを先に探るという仕事ととも関係しているからだし、もし「斥候」が「味方の知らないこと」を探るものなら、同時に味方を裏切るということも、どこかに含んでいるかもしれない。このままでは負ける。寝返ってしまえ、ということが「斥候」の行動になるかもしれない。
 そんなことを暗示させることばが、すぐつづく。

                    あいまいな意図を
もった犯罪はどの方角でなされるのであろうか。

 「あいまいな意図を持った犯罪」という、それこそ「あいまい」なことば。「戦い」なら「あいまいな意図」など、ふつうは、ない。「勝つ」という「意図」しかない。もちろん、この一文だけでは「意味」はわからないが、「味方も眠っている/敵も眠っている」という状況の中で、「斥候」である「私」が「はっきりとした意図」をもっていないからこそ、その意識のなかに「あいまいな意図をもった犯罪」というものが浮かび上がってくる。「探る」という「斥候」の「動き=身分け」が「あいまいな意図」という「言分け」を引き寄せるのである。
 これは、さらにおもしろい展開を見せる。

                      すべてを見逃
すための斥候であるから、朝霧に沈む川向こうの砦から点呼の
声が響いたとしても、あるいは不意に馬の嘶きが聞こえてきた
としても、気持ちを騒がせることはない。

 「斥候」がここでは「見逃す」という動詞で定義されている。ふつうに私たちが考える「斥候」とは違う「動詞」を「私=斥候」は考えている。そうなのだ。人間は、ふつうに考える「定義」とは違った「定義」を選び、生きることができる存在なのである。それは「他人」を裏切るだけではなく「自分」をも裏切るということかもしれない。「忠誠」であるという「自分」を否定して「不実」であることによって「生きる」を選ぶこともできるのである。
 人間は矛盾した存在である、ということが「隠喩」されているかもしれない。そして「隠喩」が指し示す世界は「動詞」のなかから生まれてくる。ある行動を選択する。「身分け」する。肉体をその選択にかかわらせていく。そうすると、その肉体の動き(身分け)によって、今までとは違った世界が「言語化される=言分けされる」。「身分け」する瞬間というか、「身分け」するまでに、人間は「あいまいな、どっちを選んでいいかわからない場」をくぐりぬける。そうした「場」を、私は「混沌」と呼んでいるが、混沌をくぐり抜け、実際にひとつの行動が決定されると、それに合わせるかたちで「ことば」も違って見えてくるのである。
 「斥候」が「点呼の声(戦いの準備の声)」を意図的に見逃す、「馬の嘶き」をあえて見逃す。それは、味方が戦いに勝つという意図に反する。「斥候」の目的に反する。その意識のなかから、さらに新しいことばが動き始める。「言分け」が始まる。

                   誰かが誰かをさらっ
た日は犯罪惑星の起源であり、彼らは暫定的な罪と罰を繰り返
しながら記憶の中を生き延びてきた。

 「罪と罰」は「暫定的」なもおよすぎない。「生き延びる」という動詞を選択するとき、罪や罰を気にするいのちはない。罪も罰もまた「身分け=言分け」にすぎない。そして、「言分け」とは「記憶」にすぎないのである。
 さて。
 では「言分け」(身分けを通して生まれてきたことば)が「記憶」であるならば、ここに書かれた建畠のことばの世界は、そのまま「詩」の「隠喩」になっていないか。
 最後の段落は、こう書かれている。

 犯罪惑星が音もなく運行する暗い宇宙。あいまいな意図を
もった犯罪の起源。暫定的に繰り返される罪と罰。点呼の声は
止んだ。静けさの中で時折聞こえてくる馬の嘶き。樹木の下で
惑星の犬は耳を立てる。やがて喊声が沸き上がるのであろう。
私はそのすべてを見逃すための斥候である。

 「喊声」は味方の声か、敵の声か。どちらでもいい。「すべてを見逃す」は、どちらにも与しないということを意味するだろう。どっちでもいい。それがあったということを、「見逃す=語らない」ことによって、別な世界を暗示する(隠喩する)のが「詩人」なのだ。建畠にとって、詩人とは「語らない」ことなのだ。もちろん、この「語らない」は「隠喩」である。「語らない」といいながら、「語らない」という方法を「語っている」からである。ことばは「語らない」ということを「語る」ことができるのである。
 「矛盾」したかたちでしか言えないことがある。「隠喩」でしか言えないことがある。そういう世界に建畠は対峙して、ことばを動かしている。

 建畠の詩の紹介というよりは、野沢の書いていることへの疑問だけにおわったかもしれない。
 だから、少し書き加えておく。詩集の中では「霧と剥製」が一番好き。巻頭の「あの声をどうして防ぐのか」も好きである。野沢の評論を読んでいなかったら、その二篇に触れながら感想を書いたかもしれないが、私は、どうしてもいま読んでいる本や、現実に私が直面していることにひきずられながら他の本を読んでしまう。だから、どうしてもこういう感想になる。
 「引用」抜きで、さっと書いておけば、建畠のことばには無駄がない。同じことばが繰り替えされてもうるさくない。また逆に、削りすぎているという窮屈感もない。ことばの呼応がしっかりしていて、構造にゆるぎがない。一方で、「わからない? そんなこと、私の知ったことじゃない」というような突き放したところもある。それも気持ちがいい。いいさ。どっちにしたって、他人のことばなんか、わかるわけがない。私は私の「意味」を生きている。私以外の「意味」を生きることができない。だから、自分の好みのままに読んで、自分が思ったことをただ書くだけだ。


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(23)

2021-09-16 10:54:41 |  自民党改憲草案再読

 

自民党憲法改正草案再読(23)

(現行憲法)
第38条
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
(改正草案)
第38条(刑事事件における自白等)
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 拷問、脅迫その他の強制による自白又は不当に長く抑留され、若しくは拘禁された後の自白は、証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない。
 現行憲法の「強制、拷問若しくは脅迫による自白」を「拷問、脅迫その他の強制による自白」と改正する意図はなんなのだろうか。現行憲法の「強制」は必ずしも「拷問、脅迫」だけを指すわけではないのだろう。「お願いします」というかたちでの「強制」もある。「助言」というかたちの「強制」もあるかもしれない。しかし、改憲草案では「依頼」「助言」は「強制」にはならないだろうなあ。
 よくよく他の条文と(さらには法律と)あわせて読んでみないとわからない問題が隠れているかもしれない。
 「刑罰を科せられない」の削除も、有罪ではないのなら刑罰がないのは当然と思うけれど、では、なぜ現行憲法にはわざわざ「刑罰を科せられない」があったのか。それがわからない。13条の「個人」から「個」が削除され「人」になったのと同じで、よくよく考えてみないとわからないことが隠されているかもしれない。
 前にも書いたが、私自身が刑事事件を引き起こすという「可能性」について考えてみたことがないので、どうも真剣になれない。何かを見落としているだろうなあ、という不安がつきまとう。

(現行憲法)
第39条
 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
(改正草案)
第39条(遡及処罰等の禁止)
 何人も、実行の時に違法ではなかった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。同一の犯罪については、重ねて刑事上の責任を問われない。

 「適法であつた行為」と「違法ではなかった行為」は、まったく違う。たとえば「売春」が公認されていた時代、「売春」は適法だったと言うことができる。ちゃんと法律が「売春」を認めていたのである。ところが「違法ではない」というのは、法律が現実においついていかない場合のことがある。たとえば「著作権法」では昔の法律では「デジタルコピー」とういものは存在していなかったので「デジタルコピー」は「違法ではなかった」。「違法ではなかった」が法律を見直し、被害者を救済する(加害者を罰する)ということが改憲草案ではできなくなる。加害者を罰するはむりだとしても、それに連動する被害者の救済もむずかしくなる。これでは、なんというか、「法律ができる前に、やれることはやってしまえ」という風潮を生まないか。そして、そういう風潮は、普通の国民ではなく、法律をつくったり、施行したりするひとの「有利」にならないか。
 情報公開を請求された政府の資料。「完全公開しなければならない」という法律がないかぎり、どれだけ「黒塗り」にするかは資料をもっているひとの判断に任せられ、黒塗りした人は「違法ではなかった行為」をしたにすぎないから「無罪」だね。「無罪」なら、被害者救済も進まない。事実の解明も進まない。「赤城ファイル」問題は、こういうことを明るみに出す。きっと、これも「改正草案」の「先取り」というものだろう。

(現行憲法)   
第40条
 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
(改正草案)
第40条(刑事補償を求める権利)
 何人も、抑留され、又は拘禁された後、裁判の結果無罪となったときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

 「又は」のつかい方が、微妙に違う。「抑留又は拘禁された後」「抑留され、又は拘禁された後」。読点「、」があるかないか。現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない。
 ここから振り返ると、第38条の「有罪とされ、又は刑罰を科せられない」という条文ができたとき「有罪」と「刑罰を科す」は「同一のもの」ではなかったということになる。「、又は」という書き方は「有罪」と「刑罰を科す」は同一でないという考えがあるから「、(読点)」を必要としているのだ。それがどういうときか、私には想定できないが、別のものと考えることが一般的だったのだろう。
 第39条の「又、」が改憲草案では削除されているが、これは「又、」があると「同一のものではない」という強調を消すためのものだろう。
 改憲草案に多く見られる「これは」という文言の削除、あるいは「及び」「又は」という何気なくつかっていることばの微妙な変化は、大きな「落とし穴」かもしれない。意味(というか、その条文の拘束力)が同じものなら、わざわざ変更する必要がない。時代の変化に合わせて緊急に変更しなければならない問題点なら、そういう「細部」にこだわらず、「細部」は踏襲して、必要な部分だけを最小限に改正するという方法があっていいはずなのに、改憲草案がやっていることはあまりにも「細かい」。「細かい」ことは、たぶん、見落とされる。見落とした方が悪い、と言い逃れる「悪徳商法」のパンフレットみたいなものだ。
 ことばは、「意味」だけではなく、「意図」を読み取る必要がある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓『言語隠喩論』(9)

2021-09-16 09:42:06 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(9)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第八章 言語の生命は隠喩にある」。
 私の書いていることは「揚げ足取り」というか、「後出しジャンケン」のように見えるかもしれない。しかし、公表されている『言語隠喩論』についての感想なのだから、どうしたって「後出しジャンケン」的な「揚げ足取り」になってしまう。
 私の疑問は、野沢の「詩の特権化」につきるが、その「特権化」の方法にはかなり強引なものがある。
 たとえば野沢は、こう書く。「散文的論理はあくまでもひとつの整合性をめざすものであってその先になんらかのテロスをもっているのにたいして、詩はそうした論理的帰結とはもっとも縁遠いものである。理屈で詩は書いてはならないし、そもそのまともな詩が書けるわけがない」。
 この文章をよく読むとわかるが、野沢は「散文的論理」と「詩」を比較しているが、実際にやっていることは「散文」と「詩」の比較ではなく「論理」と野沢が「詩」と読んでいるものの比較である。詩には詩の「論理」があるはずである。たとえば野沢は「詩は隠喩でなければならない」という「論理/結論」を持っている。その「論理」にしたがって野沢は詩を書いているし、詩の評価もその論理に基づいている。
 「論理」は当然「結論」を持つが、それは「散文」が「結論」を散文の先にもっているということではなく、あくまで「論理」がもっているのである。これは「音楽」でも「絵画」でも同じだろう。音楽そのものは「結論」をもたないかもしれない。しかし「音楽的論理」は「結論」を持つだろう。音楽(楽曲)はたいてい、いわゆる「ド」や「ラ」で終わる。これが「ファ」や「シ」で終わったら、妙に感じるかもしれない。私は音痴なので、はっきり妙な感じをもつとは言えないが、それでもたとえば「月の砂漠」の最後が「ドシラ」で終わらずに「ドシファ」だったら変だなあと思うだろう。ピカソの「ゲルニカ」に青の時代の貧しいピエロのようなタッチと色が紛れ込んでいたら、ここの部分、どうもおかしいと感じるだろう。「論理」というのは明確に言語化されないときでも存在している。言語化されていないから存在していないとは言えない。そして「論理」というのはいつでも「後出しジャンケン」だから、必ず「結論」は正当化される。ピカソの「アビニョンの娘たち」は最初は批判されたが、いまでは現代絵画の出発点のように「評価(結論)」されている。その「評価/結論」にむけて、新しい「論理」が展開されたのだ。これはピカソが「論理」をもって、そういう「結論」にむけて「アビニョンの娘たち」を描いたかどうかとは関係がない。ピカソは「論理(ことば)」で描き、「結論(ことば)」に到達したのではないからだ。「ことば(論理/結論)」は遅れてやってくるのだ。
 つまり、というのはかなりの「飛躍」というか、脱線、いや「誤読」なのかもしれないが。
 野沢は詩は「論理」なし、つまり「結論」を想定せずに書かれているというが(これはたぶん野沢の実感)、散文だって「結論」を想定せずに書くということはあるのではないのか。森鴎外は「渋江抽斎」を書いたとき、渋江抽斎が作品の途中で死んでしまう、ということを想定していたか。渋江抽斎が死んだ後でも、「結論」を目指してことばを動かし続けたのか。私には、どうしても、そう考えることはできない。プラトンというかソクラテスと言っていいのか私にはよくわからないが、「対話篇」のことばは「結論」を想定して動いたのか。話し始めたら、たまたまそうなった、というだけではないのか。そして、その「対話」が終わった後、それを読み返せば、そこに「論理」が存在するというだけのことではないのか。もう一度書くが、「論理」も「結論」もあとからやってくる。それは「後出しジャンケン」である。
 これは、こう言いなおせるだろうか。私には作者の「論理/結論」とは別に、受け手の「論理/結論」というものがあるように思える。そして「作者の論理/結論」と「受け手の論理/結論」は完全に一致するものではないからこそおもしろいと思う。受け手が「作者の論理/結論」をそのまま受け入れれば、すべての作品が「傑作」になるのではないだろうか。
 現代物理の「論理」は少し違って見えるかもしれない。「論理」が先行する。「結論」が正しいかどうか、膨大な実験で「実証」し、実証されてはじめて「理論」になる。逆に見えるが、「後出しジャンケン」が起きていることを決定するという意味では同じなのだ。実験で起きたことを「論理」でととのえ直すことができるから、その論理は正しいということなのだ。
 「理屈で詩は書いてはならないし、そもそのまともな詩が書けるわけがない」と野沢は書くが、散文(たとえば小説)だって同じだろう。詩だけを特権化してしまう「根拠」が私にはわからない。ただ野沢が詩を書いている、ということ以外に特権化の理由がないのだとしたら、同じ主張を散文を書いている人、音楽をやっている人、美術を自分の人生だと思っている人が小説を特権化し、音楽を特権化し、美術を特権化してもいいだろう。詩の特権化に意味があるとは、私は思えないのである。

 「散文的論理」を野沢は「哲学」と同一視しているように見える。「詩と接近と訣れ」という項目を立てて、哲学と詩の違いを検証している。
 そのなかで私がいちばん注目したのはニーチェのことばである。野沢は、次の文章を引用している。「われわれの感官知覚の基礎になっているものは譬喩であって、無意識的な推論ではない」。これは、私の受け止め方では「われわれの感官知覚の基礎になっているものは譬喩であって、譬喩というのは、言いなおすと意識的な推論(論理)である」という意味になる。そして、その「意識的な論理」を言いなおすと「類似のものを類似のものと同一化すること--一方の事物と他方の事物とにおけるなんらかの類似性を見つけ出すこと、これが根源的な過程である」になる。「一方の事物と他方の事物とにおけるなんらかの類似性を見つけ出す」というのは「AとBは別のものであるけれど、二つのものの間には似たものがあると、ふたつの存在を知った後で、後出しジャンケンのように指摘すること(見つけ出すこと)」である。この「後出しジャンケン的発見」は「記憶」となる。そして「記憶はこの活動によって生き、間断なく練習をつづけている。混同ということが、根源的な現象なのである」。野沢がこの文章をどう読んだか、私にはよくわからないが、私なりに読めば、「類似」をつぎつぎに発見し、「A=B」という「譬喩」を「記憶」として積み重ね続けると、いつしか「混同」がおきる。「A=B」が「B=A」になったり、「A=B」「B=C」から「A=C」になったりする。「君はバラだ」「バラは甘く匂う」から「君は甘く匂う」になったりする。「バラの花びらは柔らかく傷つきやすい」から「君はバラの花びらだ」になったりもする。この「混同=根源的な(錯覚)現象」のために必要なのは「無意識的な推論」ではなく「論理的なことば」である。「論理的なことば」だけが「間違える」ことができる。もっと正確にいえば「正しく間違えることができる」。私の考えでは、この「正しく間違える」ことが「隠喩」なのだ。そして「正しく間違える」ためには、まず「論理」が必要なのだ。
 野沢が「原初的な叫び声」と読んでいるものは、私からみると「正しく間違える」という欲望になる。他人の語っていることばでは満足できない。そして、「正しく間違える」というとき、その主眼は「間違える」ではなく「正しく」にある。「間違える」けれど、そこには「正しさがある」というのが「譬喩/隠喩」の「論理」ということになるだろう。「譬喩」をつかうとき、そこには「私には私の正しさがある」という主張があると思う。それはあくまでも既にあるものへの「異議申し立て」であり、「論理」である。

 野沢はシェリーのことばも引用している。「言語の生命は隠喩にある。すなわち、言語は、事物の、まだ理解されずにいた関係を明確にし、その理解を永続せしめるものである」。野沢は、これを詩にだけに結びつけるのだけれど、私は詩以外の言語にも、それは適用できるものだと考える。私はいまサラマーゴの『白い闇』という小説を読んでいる。視界が真っ白になるという感染症が広がる。そのとき人はどう行動したかを描いている。それは私から見れば「《喩だけで成立している》テキスト」である。「《喩だけで成立している》テキスト」のことを野沢は「詩と呼ぶべきものである」と定義しているが、それでは『白い闇』は詩なのか。

 私の書いていることは、「論理」ではなく「支離滅裂」なことばかもしれない。それは、そうなのである。私はいつでも「結論」を想定せずにことばを書いている。つまり、野沢は「散文的論理はあくまでもひとつのひとつの整合性をめざすもの」と書いていたが、それはあくまでも「論理」の問題であって「散文」の問題でも「ことば」の問題でもない。だから詩の対極に「散文的論理」を設定し、その枠内で「言語隠喩論」を展開しても、それは「散文」と「詩」の違いを証明することにはならないと思う。詩を特権化することは、詩の強化にはつながらないと思う。特権化はいつでも「排除」と背中合わせだからである。野沢は「哲学」と詩を接近させて論を展開するが、ことばの到達点は「哲学(書)」のなかにだけあるのではないと思う。言いなおせば、参照すべきなのは「哲学(書)」だけではないのではないだろうか、と思うのである。

 さて。
 この章では、野沢は島崎藤村、土井晩翆の詩を吉本隆明がどう読んだかを引用しながら、とても興味深いことを書いている。土井晩翆の「星と花」の一部。

同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

 吉本はこれを「この詩の芸術的自立感は、ただ星を空にある花として意味連合し、花を地上の星として意味連合させたことによるだけであることに注目すべきである。いわば、喩法だけで成立している詩ということができる」と書いている。これを受けて、野沢はこう書く。「ここでの〈意味連合〉とは、いまならたんに初歩的な隠喩と呼んでもかまわないものだが、こうしたレベルであっても原初的な喩が動き出した時代を的確につかんで《喩法だけで成立している詩》として方法的に見出していく吉本の詩史論的嗅覚はさすがである。わたしからすれば、《喩法だけで成立している》テクストこそ詩と呼ぶべきものなのであって、吉本はそこまで喩の自立性を信憑していなかったことになる」。
 「初歩的な」ということわりをつけているのだけれど、野沢は「星と花」のことばを「隠喩」と呼んでいる。そして「《喩法だけで成立している》テクストこそ詩と呼ぶべきもの」と言っているのだが、ここに書かれている「初歩的」と「現在の詩(初歩的ではない詩)」への移行がどうやって行なわれたのか、その「詩史」が書かれていないので、わたしはびっくりしてしまう。いまでも、野沢は、この「星と花」を詩であると「評価」するのだろうか。この本のなかに引用されてきた安藤元雄、石原吉郎、高倉勉、氷見敦子の作品などと比べると、私には、その接点というものがみつけられない。
 さらに「喩法」ということばを野沢はつかっているが「法」であるなら、それは「論理」ではないのか。今回の最初に引用した野沢のことばに「散文的論理」という表現があった。「喩法」とは「譬喩の論理」のことではないのか。「散文の論理」ではなく「譬喩の論理」だけで成立していることばの運動、それが詩、というものならば、やはり詩にも論理が存在し、論理が存在するところでは結論が生まれてしまうということにならないか。

 書かれなければならないのは「喩の論理(隠喩の論理)」なのではないのか、と私は思っている。具体的には、「星と花」が「喩法だけで成立しているテクスト(詩)」であるというのなら、その「喩法」のなかに、野沢がこれまで書いてきた「身分け=言分け」がどんなふうに実行されているかを書かなければならないのではないのか。「初歩的」というのは多くの人ができることに通じると思うが、野沢は、この詩にどんな「身分け=言分け」の動きを見ているのか、ことばの「初心者」にもわかるように書いてほしいと思う。

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長田典子『ふづくら幻影』

2021-09-15 08:58:46 | 詩集

 

長田典子『ふづくら幻影』(思潮社、2021年09月01日発行)

  長田典子『ふづくら幻影』の「夏の終わり」にも「降りる」という動詞が出てくる。野沢啓が高く評価している高倉勉、氷見敦子の作品に出てくる「降りる」である。「降りる」という動詞の働きについて野沢は書いていなかったが、私は「降りる」という動詞こそが高倉勉、氷見敦子の作品を読むときの「キーワード」だと思った。地底(鍾乳洞)へ降りることで、地上では見えなかったものを発見する。それを明るみに出す。
 長田の作品では、こうつかわれている。

ダムの施設点検のために
湖から水が全部抜かれたことがあった
家の跡が見られるかもしれないというので
家族で底まで降りて行ったのだ

 この「降りる」は高倉、氷見のつかっていた「降りる」に通じる。「降りていく」ことで過去(歴史)に出会う。隠れていたものに出会う。それは知っているには知っているが、自分ではまだことばにしたことのないものだ。
 それは、何か。

わたしたちは 無意識に
庭の入り口だった場所から
失われた空白となった土地に入って行った
ここが庭 このあたりが築山
ここには柚子の大木があった
母屋はここ 玄関 台所 風呂場
製紐工場は母屋に対して直角に建っていた

 この部分は、「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画に出てくる、東日本大震災の被害者の中学生(だったかな?)のことばに似ている。津波で跡形もなくなった家の跡を訪ねる。そこで、ここが台所、ここが私の部屋というようなことを言う。それは単に場所の記憶ではなく、場とともに生きる肉体の記憶だ。肉体で何をしたか。玄関で靴を脱ぐ。台所で大根を切る。風呂場で体を洗う。肉体の記憶へ、肉体の時間へ「降りて行く」。そのことばの前では、谷川の詩は無力である。突然噴出してきた「他人のことば(他人のことば)」が谷川を圧倒して、存在している。そこに私は「詩」を感じた。谷川が主人公の映画なのに、谷川がかすんでしまう。それを谷川は受け入れている。
 きのう書いたことに関連して言えば、谷川はその女子中学生のことばをどんなに詩に書きたかっただろう、と思ったに違いないと思った。でも、書くことはできない。映画の中で少女が言ってしまっていて、谷川が出てくる映画を見た人は、そのことばが少女のことばだと知っているからだ。谷川も、その少女の肉体を見て(直接か、間接かはわからないが)、その肉体を覚えている。それは谷川の肉体とは絶対に違う。ことばはときどき「肉体」そのものをもって動くのである。
 長田は、その映画を見たかどうか、私は知らない。見ていたって、かまわない。同じ映画の中で長田と少女が一緒にいたわけではないのだから。谷川は少女とは顔を合わせていないかもしれないが、映画の中で一緒にいた。それが問題。もし、バスの中で聞いた誰かのことばなら、谷川はそのままつかえる。同じバスのなかにいたということを知っているのは谷川だけであって、私たちはそれを目撃していないからだ。だれも少女の肉体を思い出せない。そこには単純に「ことば」があるのだ。詩のことばは「自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ」というのはそういう意味だろう。映画の中の少女は、自分でことばを選んでいる。それが自分の肉体だと差し出すことを選んでいる。映画に、ことばと肉体を撮られていることを知っている。でもたまたまバスの中でいっしょになった少女は、肉体を差し出しながらことばを選ぶということをしていない。だから、谷川は肉体を引きずっていないことばを「選ぶ」のである。それに谷川の肉体(谷川のなかに存在する少女の肉体)を重ね、少女になる。ことばとともに少女として生まれ変わる。これは野沢がつかっていた表現で言えば「再=構成」「再=創造」ということになる。私の「誤読」では、だが。
 長田は、このあと、こんなことばを「選んでいる」。

いつも陽が射した明るい道は見当たらず
棚田は埋もれ
土が水平に広がって
集落は もう本当に閉じられてしまった、

 「埋もれる」という動詞がつかわれている。「埋もれる」は「閉じられる」と言いなおされている。「降りて行って」「埋もれる」「閉じられる」を長田は見つけ出している。その途中で、長田は、

ここは むかし道だったのだから

 ということばを繰り返している。「埋もれた/閉じられた」ものは家や田んぼだけではない。「記憶」が「埋もれ/閉じられた」のである。だから、それを「掘り起こし/開く」のである。
 この「埋もれる/閉じる」と「掘り起こす/開く」という相反する動詞の動きを通して、私はたとえばダムが支えた経済成長の時代、そのために失われたものというものを想像したりする。「埋もれる/閉じる」「掘り起こす/開く」という動詞を通して、単に長田(一家)の歴史/世界を見るだけではなく、その時代の世界と人の動きそのものを見る。つまり「隠喩」としての詩がここに成立していると見る。
 野沢は、どうだろうか。

 「ここが庭 このあたりが築山」というような行の展開だけだったら、私は、この詩についてそんなに感動しなかったかもしれない。けれど「埋もれる/閉じられる」という動詞を含むことばの動きに、長田の書きたいことは「掘り起こし/開く」ということだったのだと気づき、そのことを書いておきたいと思ったのだ。私たちの暮らしのなかには「掘り起こし/開く」ことが必要なものがあるのだ。
 「ツリーハウス」には、こんな行もある。

村はたべられちゃったの?

なにに?

あは、
食べられてなんかいないさ
ドングリの大木みたいに
続いていくのさ

 村が「食べられた」のなら、「食べた」のは何? 高度成長という日本の経済政策かもしれない。でも、長田は「食べられていない」という。そして、それに対抗して「続いていく」という動詞を向き合わせている。
 ある世界に対し、あることばをつかって向き合い、向き合うことで見えなかった世界を浮かび上がらせようとする働きを「隠喩」と呼ぶならば、この長田の世界もまた「隠喩」の世界であると思う。長田の「掘り起こしている」のは「原始」というものではなく、数十年前の、ひとつの村の記録であるけれど。沖縄の激しい戦闘の記憶、あるいは胃がんの壮絶な苦しみというものではないけれど。そこにはたとえば「白いセドリック」のような、まばゆい夢もあるのだけれど。

 かなりいびつな感想になっているかもしれない。私は、何かを書くとき、純粋にそれだけに向き合って書くということがなかなかできない。そのとき考えているほかのことがどうしても混じってくる。いまは野沢の『言語隠喩論』を読んでいるので、どうしてもそのことと関連づけて書いてしまう。私の感想は、その日、その日で変わってしまう。「ひとつの答え」を想定していない。「絶対詩」のようなものを考えないからだ。

 

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鴎外の日本語

2021-09-14 16:15:33 | 考える日記

 

いま、日本語を勉強しているアメリカ人と一緒に森鴎外の「雁」を読んでいる。新潮社の文庫の20ページ。
「坊主頭の北角の親父が傍から口を出した。」という文章がある。「口を出した」は、他の地の文の「こう云った」と同じ意味である。しかし、ニュアンスが違う。「口を出した」には「余分なことを云った」というニュアンスがある。
で、これを「頭をつるりと撫でて云った」と言いなおしている。
「頭をつるりと撫でる」という動作は「余分なことを言いまして、申し訳ありませんね、へへへ」という感じだ。
「余分なことを言いました」と実際に言う人もいるが、この北角の親父は、それを言わずにかわりに「頭をつるりと撫でる」。
このことばの連携(口を出した-頭をつるりと撫でる)の「絶妙」としか言いようのない感じをアメリカ人に伝えたいのだが、これはむずかしいね。
理解されないかもしれないと思いながら、しかし、私はそれを説明する。いま伝わらなくても、いつかきっとわかる日がくるだろうと信じて。
このことばの連携のニュアンスがわかるようになれば、N1というより、「日本語の達人」という感じか。
私の経験で言うと、こういうことばの連携に気をつけて「ことば」を読むということを、いまの若い世代の多くの人はやっていない。
「口を出した」という表現から、あ、次には「余分なこと」がくるな、と予測して読む人はもっと少ない。
でも日本語を教えるかぎりは、そういうところまで教えたいなあ、と私は思ってやっている。
外国人相手だけではなく、日本人相手にも、そういうことをしてみたいなあと思っているが……。


どうでもいいが、この新潮文庫「国の女房や子供を干し上げて置いて」の「干し上げる」に注釈をつけていない。
これは、なんというか、いまの若い人にも通じにくいだろう。
「上戸」などは辞書を引けばわかるし、若い人もつかうが、「干し上げる」はどうか。
「ひもじい思いをさせる」なんだけれど。
「口を出す」と同じで、なかなか、ね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓『言語隠喩論』(8)

2021-09-14 08:28:25 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(8)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第七章 詩という次元」。
 「われわれは、言葉が制度化している世界のなかに生きている」というメルロ・ポンティのことばを引用した後、野沢は「われわれはこうした日常的消費のもとにあることばを超えて、ことばの〈根源〉にさかのぼり、〈始原の沈黙〉を見いだしてそれを破る所作で記述できるところまでいかなければならない」と書く。さらに「〈思惟の感性的世界への現前〉〈思惟の身体〉こそ、いかなる要請も受け付けずみずからの成立根拠を世界と同致させることばの実存であり、それを目的意識に実現する詩の言語であり、その言語の世界開示生の隠喩的本質にほかならない」と。
 あ、だんだんわからなくなる。
 これを言いなおしたのが、たぶん、つぎのことばだ。やはりメルロ・ポンティを踏まえて、こう書いている。メルロ・ポンティは「《知覚がまず与えられるのは、たとえば因果性の範囲が適用できるような世界のなかでのひとつの出来事としてではなく、それぞれの瞬間における世界の再=創造ないし再=構成としてである》と述べているが、このことは知覚のみならず詩の言語にもあてはまるだろう。そしてその場合、知覚とは違って詩の言語の世界は再=創造ないし再=構成されるのではなく、まさにあらたに創造ないし構成されるのである」。
 野沢が引用している範囲のことばを手がかりに、私なりに考えれば、メルロ・ポンティは、世界は「われわれ」に先立って言語化されている。そのなかで「知覚」というものが生まれるのは、「ことばによって制度化されている世界」のその「制度化」をそのまま受け入れる(たとえば、学校で教えられた通りに理解する)ときではなく、自分のことばでもう一度納得できる形につくりなおすときである」と言っている。「再=創造」「再=構成」には、すでに存在する「制度」への疑問と、解体が含まれている。「再=」には、とても重要な意味が込められていると思う。この「再=」という考え方は、その後、フランス(?)で展開された「脱構築」というような思想につながっていったのではないか、と私はぼんやりと考えている。
 野沢はこの「再=」の部分を否定し、「世界は再=創造ないし再=構成されるのではなく、まさにあらたに創造ないし構成されるのである」と書くのだが、では、「疑問、解体」なしに、どうやって「あらたな創造」「あらたな構成」が可能なのか。〈根源〉とか〈始原の沈黙〉とか、野沢は書いているが、それはどのようにして獲得できるものなのか。このことを野沢は書いていないように私には思える。
 野沢は、メルロ・ポンティの「知覚」に対して「未知」を対峙させ「詩を書くことはひとつの未知の世界をつくりだすことだと断言してしまっていいだろう」とも書くのだが、私の読み方ではメルロ・ポンティは「知覚するということは、ひとつの未知の世界をつくりだすことだ」になる。つまり、規制の「制度化されたことば」では把握できない(表現できない)ものを「あらたなことばで、あたらしい世界として再=創造、再=構成することが知覚する」ということである。「知識」をそのまま教えられるままに受け取るのではなく、自分自身が知に目覚める、認識に目覚めるが「知覚」だろう。
 野沢は「ことばを通じて既成の世界のなかにひとつの世界の開けを見いだす者こそ詩人と呼ぶべきものである」とも書いているが、メルロ・ポンティなら「ことばを通じて既成の世界のなかにひとつの世界の開けを見いだす者こそ知覚した人と呼ぶべきものである」というのではないか。そうであるならば、たとえばソクラテスは「対話」を通じてそういう仕事をしなかったか。ソクラテスは「知覚する人」ではなかったか。
 野沢は「詩にかぎらず創造的な思想においてことばの連鎖である言説、言表、言述とはそれを表出した個人の存在を超えている」とも書いているが、では、なぜ詩だけを特別視するのか。
 野沢はフーコーのことばも引用している。「言表の主体を定式的な表現の作者と同一なものとして考えるべきではない。(略)それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--ひとつの場所である」。この「ひとつの場所」を野沢は〈ひとつの次元〉と言い直し「ことばの語ることのもっとも深い審級に立っているのが詩人である」と書く。でも、フーコーの言っている「ひとつの場所」が、定冠詞つきの場所ではなく、定冠詞の存在しない場所、つまり、意識が確定していない場所(そこには相異なった諸個人の「定義」が確定されないままうごめいている)ということなら、それは東洋哲学で言う「混沌」というものではないのか。それはメルロ・ポンティのことばでいえばことばが制度化される前の状態ということではないのか。その「混沌」のなかをくぐりぬけて生み出されることばこそが「表現」になるのではないのか。そして、その「表現」は「詩」に限定されるものではないだろう、と私は思う。

 野沢はメルロ・ポンティの「画家や語る主体にとって、絵画やことばは、すでにつくられてある思想を展示する行為ではなく、その思想そのものをわがものとする行為なのだ」ということばも引用している。メルロ・ポンティメルロ・ポンティは「画家や語る主体」と言っている。「詩人は」と特定していない。

 でも、こういうことはいくら書いても「すれ違い」になるだろうなあ。なんといっても、私はメルロ・ポンティとかフーコーとか、野沢の引用している他の人のことばを直接読んだことがない。野沢の引用を通して読んでいるだけだ。次の谷川俊太郎のことばも、私は読んだことがないが、とても印象に残った。野沢は谷川を引用しながら、こう書いている。「谷川は(略)《詩の才能てのは、有限の語彙から何を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ》とも発言している。谷川らしい目ディエーターとしての立場を自覚した発言になっている」。
 私なりに谷川のことばをフーコーのことばと結びつけて読めば、谷川は「自分のことばを書く必要はない。詩に書かれていることばは、詩の表現の作者のものである必要はない。詩に書かれていることばを谷川のことばであると考えるべきではない。それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--ひとつの場所から、谷川が選んだものである。不特定多数のひとがつかっている(話している)ことばから、そのときの状況に合わせて選んだものである」ということになる。「他人のことば」を選ぶとき、その瞬間瞬間、谷川はいわば谷川を自己否定する。そうすることで「個人」を超える。「個人を超える」方法として、谷川は「他人のことば」に耳を傾ける、「他人のことば」を選択し、それを「再=構成」するという方法を選んだ。それは谷川にとっては世界の「再=創造」すると言いなおせば、それはメルロ・ポンティの言っていることにもつながる。
 詩人ではないが、私の大好きなセザンヌは、キャンバスの塗り残し(空白)について聞かれたとき、「ルーブルで色が見つかったら、それを塗る」というようなことを答えている。これは谷川の言っていることにつながる。「画家の才能というのは(才能のひとつは)、有限の色のなかから何色を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ」。ことばも色も、すでに世界に存在している。そして、それはそれぞれ「制度化」されている。この「制度」をどうやって「再=創造」「再=構成」するか。
 野沢は「詩人」を特権化し、「原始」や「根源」というようなことばを提示するだけで、「方法」を語っていないように私には思える。

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする