詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(4)

2020-01-22 08:28:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年01月22日(水曜日)
自画像というものがあつた

言葉は
言葉以外の意味にあふれている

 詩を語るとき、思い出してしまう二行だ。
 たぶん私は書かれていることばを、辞書に書かれている意味とは違った意味に受け取っている。余分なものをつけくわえ、その余分を楽しんでいる。
 では、この二行については、どうか。
 「意味」を主張することばには警戒しなければならない。
 「意味」は「意味」を完結させる。「意味」をどうやって破壊して、「ことば」を読むか。
 そのことを考えなければならない。







*

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山下修子『空席の片隅で』

2020-01-21 09:52:57 | 詩集
山下修子『空席の片隅で』(東夷書房、2018年、06月10日発行)

 山下修子『空席の片隅で』は東日本大震災、東京電力福島第一原発事故のことを書いている。
 どうしても戻ってきて何度も読む行がある。「蝶の浴衣」の中に出てくる。

家はやがて朽ち果て、あたり一帯は荒れ野ではなく、原野と化す。
弘ちゃんの見通しは的確だ。
地図からも、やがては消える。
私は、どんな言葉をかけたらいいのか。それがわからない。
ただただ聞き続け、弘ちゃんの話すその内容を、肯定するだけだ。

 「肯定する」。
 このことばの前で、私は立ち止まる。
 「家はやがて朽ち果て、あたり一体は荒れ野ではなく、原野と化す。」この悲劇を肯定していいはずがない。でも、それでは、どうすればいいのか。
 「わからない」。
 「わからない」から「肯定する」。このときの「肯定する」は「被害者を肯定する」という意味である。生きているその人を「肯定する」、という意味である。
 それ以外の意味を持ちようがない。
 つまり、それ以外にできることはない。

「会いたいなあ、近くに来たら、寄ってね!」

 それはいつのことばだろうか。震災前に聞いた声か、震災後に聞いた声か。答えはあって、答えはない。 
 そして、なかには「肯定できない」こともある。「花は何処」。

交差点の歩道に立って
プラカードを掲げる 午後
悪意の悪罵が 目の前を過ぎて行く
「おまえらは 〇〇かあ--」
〇〇は □□の場合もあれば
△△のこともある
週に一度の立ちんぼは 一時間

 罵声を浴びせていくひと。その「批判(声)」を「肯定する」ことなどできない。でも、山下は反論を書いていない。書かなくても、この詩を読むひとに反論がわかるからか。そうなのかもしれない。しかし、私は少し違うことを考える。
 山下は、浴びせられた声を「批判」はしない。いや、批判はするが、そこに生きている人間を「否定しない」。生きている、ということを「肯定する」。それが、たとえ自分の思いと違っていても。
 「蝶の浴衣」に戻ってみる。

家はやがて朽ち果て、あたり一体は荒れ野ではなく、原野と化す。

 こういう状況を「肯定する」ことはできない。しかし、それを否定し、次に進むためには、いま、こういうことが起きているということを「肯定する」ということろから出発するしかない。
 事実がある。
 事実を見ないことには、どこにもゆけない。
 山下のいう「肯定する」は「事実の存在を認める」ということである。「存在」を認識するということである。

 私たちは、どこまで「事実の存在」と向き合うことができるか。
 「蝶の浴衣」には、こういう部分もある。「弘ちゃん」を訊ねてゆく。だが、返答がない。

「もう一度、呼び鈴をおしてみたら?」

 しかし、その部屋は静まり返っている。何の音もしない。このところ具合が悪く、塞ぎ込んでいると言っていた。人に会ったり出かけたりも面倒。気持ちに張りを持てないとも。だから、予感はあった。多分、訪ねても無理だろうと・・・・。実は、私にもそういう時期があった。在宅でも居留守はあり、なのだ。

 「肯定する」は「受け入れる」ということである。
 もちろん「受け入れる」ことのできないものもある。あるけれど、それを「否定する」だけでは何かがこぼれおちていく。
 複雑な気持ち、の複雑さがこぼれ落ちていく。
 山下は、そのこぼれ落ちそうなものの、傍に寄り添っている。「肯定する」は、「寄り添う」ということでもあるのだ。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(3)

2020-01-21 08:49:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年01月21日(火曜日)



皺一つない告白

 「泉」は港の比喩か。
 「告白」を「皺一つない」と修飾する。このとき「告白」ということばが微妙に動く。そうか、「告白」というのは何かしらの「皺」を持っているのが普通なのか。「皺」は何かを隠したためにできる「乱れ」のようなものだろう。
 そこに書かれているのが「皺一つない」なのに、想像力に迫ってくるのは「皺」の「意味」である。「皺」が比喩になっている。
 ここには比喩がもう一度比喩になるという不思議な運動がある。「港」というタイトルを忘れてしまいそうだ。







*

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西川詩選(中国現代詩人シリーズ1、監修=田原)(訳=竹内新)

2020-01-20 10:05:54 | 詩集


西川詩選(中国現代詩人シリーズ1、監修=田原)(訳=竹内新)(思潮社、2019年02月20日発行)

 西川詩選に収録されている『深浅』の「近景と遠景」は、十八篇の作品で構成されている。「1 鳥」は、こう始まる。

鳥は、僕たち人間が肉眼によって眺めることのできる、一番高いところにいる生物だ。

 言われてみれば、そうかもしれない、と思う。「反論」が見つからない。
 「2 火」の書き出しは、こうである。

火は火そのものを照らすことはできず、火に照らし出されるものは火ではない。

 そうかもしれない。しかし、私は「火」であったことがないので、「火に照らしだされるものは火ではない」が「ほんとう」かどうか、納得できない。
 私の感想は、変だろうか。
 「1 鳥」を読んだときは、それほど違和感がなかったのだが、「2 火」を読んで、西川のことばの特徴(詩の特徴)のようなものが、この書き出しに隠れていると思った。しかし特徴は「2」ではなく「1」に隠れているのかもしれない。「1」と「2」の間に隠れている、と言い直せるかもしれない。
 どこに違いがあるのか。

肉眼によって眺めることのできる

 このことばが「1」にあって、「2」にはない。
 「2」は「肉眼によって眺めること」で確認したのか。肉眼によって確認できるのは「火」がそこにある。「火」が燃えているということだけである。「火は火そのものを照らすことはできず、火に照らしだされるものは火ではない」は「火」を見つめることから出発しているかもしれないが、「肉眼」で確認していることではない。
 ここから「1」にもどってみる。「肉眼によって眺めることのできる」と書かれているが、「一番高いところにいる生物だ」という断定は「肉眼」がおこなっているのではなく、「意識」がおこなっていることだ。
 「1」と「2」は違っているのではなく、同じことばの動きだ。どちらも「意識」が主体となってことばを動かしている。「意識」の運動としてのことばだ。それなのに「1」では「肉眼」ということばがつかわれ、「眺める」という動詞がつかわれている。
 「2」を読んで、私は「違和感」を覚えたが、それは読み直してみると「2」に原因(?)があるのではなく、「1」にこそ原因がある。

肉眼によって眺めることのできる

 ことなど、西川は書いてはいないのだ。それなのに「肉眼によって眺めることのできる」という具合に詩を始めている。読者を「裏切る」、あるいは「罠にかける」かたちでことばを動かしている。
 「1」のつづき。

時に歌い、時に呪い、時に沈黙する。鳥の上方の空について、僕たちは何も知らない。そこは理性のおよばぬ王国。広大無辺の虚無が広がる。鳥は宇宙秩序の支点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ。

 「意識」ではなく、西川は「理性」と書いている。「理」をもった「意識」。「理」こそが西川の詩なのである。「肉眼」は関係がない。むしろ「理性の眼」によって世界(宇宙)を眺める、というのが西川のやっていることだろう。
 このとき「鳥」はもう「鳥」ではない。単なる「比喩」である。そしてそれは「理性」を意味している。「鳥は宇宙秩序の視点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ」は「理性は宇宙秩序の視点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ」である。つまり、「理性」のおよぶかぎりが「宇宙」だということである。
 「理(性)」がすべてを生み出すのだ。生み出す力を「理」、生み出され確立したものを「理性」と区別した方がいいかもしれない。
 西川は「理」で世界を整えなおし、それをことばとして提出している。彼は「肉眼」で世界をみつめるのではなく、「理」でみつめる。それはいつでも「肉眼によってながめたもの」を逸脱している。あるいは超越している。
 「5 牡丹」の書き出し。

牡丹は享楽主義の花だ。薔薇が肉体と精神のふたつを備えているのと違って、肉体だけを持つ。菊には精神しかないのと同じだ。

 ここに書かれていることが「正しい」(理性的に合理的)かどうかは知らない。しかし、そうなのかもしれないとも感じさせる。「納得」するわけではないが、「納得」へむけて動くものが、確かに私の肉体の中に動いている。それは、たぶん、そういうようなことばを聞いた記憶がかすかにあるからだ。西川は特別ふうがわりなことを書いているわけではない。私たちの「理性」として聞かされてきたことを整えなおしている。
 「1」も「2」も、すっとことばが「肉体」のなかに入ってくるのは、そのせいである。共有される「理性」というものが、人間にはある。その共有される理性に、国境はないのかもしれない。
 しかし、もし西川が「共有される理性」だけを書いているのだとしたら、それは「詩」とは呼べないだろう。「数学の公式」のような「定型」で終わってしまう。なぜ、「肉眼」ではなく「理」で整えなおしたものが、「詩」という「個性的な存在」としてあらわれるのか。
 「理」と「理性」が違うものだからである。
 言い直すと、「答え」ではなく、「問い」として提出されるからである。あるいは「異議」として運動することばだからである。問い、異議を申し立てるのは確立した「理性」ではなく、「理性を生み出す理」(理性にはなっていない理)だからである。
 「15 幽霊」にこんなことばがある。

僕が比喩のやり方で議論するのは、幽霊についてではない。僕が議論するのは、古くからの観念だ。

 これは西川の詩(世界)に対する向き合い方を語っている。「比喩」と呼ばれているのもは、たとえば「鳥」であり、「火」であり、「牡丹」である。それは「実在」して見えるが(肉眼によって眺めることができるが)、すでに存在する「名前」で呼ぶかぎり、そこにはすでに「観念/理性」が定着している。「鳥は、僕たち人間が肉眼によって眺めることのできる、一番高いところにいる生物だ」ということさえ、「定着した観念」である。だからこそ、私たちは、それをつまずかずに読むことができる。疑わずに読んでしまう。「火は火そのものを照らすことはできず、火に照らしだされるものは火ではない」も同じである。その疑いようもないところから出発し、それに対して異議をぶつける。問いをぶつける。「理」からことばを生み出す。つまり、その後を、西川自身のことばで、再構築する。
 「16 廃墟」につかわれていることばを利用して言い直せば、そうすることに「創造の本質、人類精神の本質」があるからだ。西川は、定着した観念を問い直すこと、異議を申し立てることを「創造」と呼ぶのだ。そしてそれを「本質」と定義しているのだ。
 こういうことを「17 荒野」では、こう言い直している。

荒野は人間を否定し、忘却を引き受ける。それは河のない場所だ。どんな区域にも決して属することなく、自身を世界の中心とする。そこは、いかなる精神も決して持たない。だが精神は荒野を持っていなければならない。

 ここでは、ことばが一瞬一瞬生み出しなおされている。書かれていることばを簡単に「ひとつの意味」で固定してはいけない。
 最初の「荒野」は「観念(意味の定着したことば)」である。それは人間の創造を否定する。人間に創造を忘れさせる。「荒野」は「理性の世界」である。一方、「河」は「水」であり、「水」は「流動」である。(先につかったことばで言い直せば、「理」である。)そして「流動」は変化であり、創造であるだろう。
 いわゆる「荒野」は、普通に考えれば価値を持たない。だからこそ、それを自分の中心に据え、そこから自分のことばを生み出していかなければならない。
 「そこは、いかなる精神も決して持たない」は、「荒野(固定した意味、観念)」は「精神」と呼ぶに値する「自由」な「創造力/想像力」を持たない。だが、「自由な精神」は常にその「固定した意味/観念/荒野」を破壊する形で動かなければならない。創造力に富んだ「自由な精神(理)」を働かせる「場」として、西川は、「固定した意味/観念/荒野」を選ぶのだ。そこにこそ「理」が必要とされているのだ。
 世界は「「固定した意味/観念」であると自覚するとき、はじめて「詩」が必要になる。
 「18 蜃気楼」の最後は、とても強く、美しいことばで締めくくられる。

見たことがなくても、虹から想像することができる。

 「見たことがなくても」とは「1」にあることばを借りて言えば「肉眼で見たことがなくても」である。そしてそれは「存在しなくても」であり、「事実でなくても」でもある。存在するとか、しないとか、そういうことは関係がない。「想像することができる」かどうか、それが「創造することができる」かどうかにつながり、「想像する/創造する」ということが「人間の本質」なのだ。「理」の働きなのだ。
 既成の世界(理性)を揺さぶり、もう一度「理」そのものにもどってことばを生み出しなおす。そういう世界への向き合い方を明確に主張する詩人だ。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(2)

2020-01-20 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


窓の近くに
大きな黄金色のザボンの実が重く垂れさがつている

 これは詩の三連目の二行である。ひとつの情景の描写である。描写そのものには謎はない、ように見える。しかし、実は謎だらけである。
 なぜ、嵯峨はザボンを「現実」の中から選び出したのか。さらに「大きな」「黄金色の」「重く」「垂れさがつている」と描写を重ねるのか。それは「ザボンが実っている」という描写と、どこが違うのか。
 どのことばにも「意味」がこめられている。そして「意味」が重なることで「謎」になるのだ。








*

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アルメ時代27 秋の女

2020-01-19 14:42:56 | アルメ時代
27 秋の女



夕暮れになると
「こころのかわりをしてくれそうなものが
静かにやってくる」
影が長くのびて
テーブルの上に胸の形が休み
頭は床の上に落ちる
「川を渡ってくる光の角度
ビルに隠れる風のしめり」
私は小学校の
チャイムの音の行方をながめる
女はサッシの窓をすべらせ
カーテンを引いてゆく
「でも頼りすぎてはいけない」
床に散った夕日の色が
粉のように集められ
隙間から吸い出されてゆく
「でも頼りすぎてはいけない
ある日突然気づいた
ガラスの中に半透明の私がいて
私を見つめ返していた」
逆光に透けていたシャツが消え
女はくらい顔になってふりかえる




(アルメ247 、1987年02月10日)
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竹内健二郎『四角いまま』

2020-01-19 14:30:36 | 詩集
竹内健二郎『四角いまま』(ミッドナイト・プレス、2019年12月25日発行)

 竹内健二郎『四角いまま』の「あくび」。

プラットホームで
男は
鼻からけむりを
大きく吐き出し

くび をはじめた

 「あくび」とひとことにするのではなく「あ/くび」。その一呼吸のずれが、男を見ている感じを端的にあらわしている。あくびをするときも「あ」と肉体の中からおさえきれないものが漏れ、それにかたち(あるいは意味)を与えるようにして、残りの息が追いかけてくる。
 これを竹内はさらに言い直している。

閉じられていく まぶた
開かれていく くちびる
開きながら閉じていく ひとの身の

どこかに
男は

吸い込まれてしまったようなのだが

 さて、吸い込まれたのは「男」か、「男」を見ている竹内か。あるいは、この詩を読んでいる私か。
 見ること(読むこと)は自分の肉体をつかって、「事実」を反芻することである。くりかえすことによって「肉体」のなかで「事実」が「真実」になる。
 そこには「あ/くび」のように、ちょっとことばにしにくい「間」のようなものがある。「間」を「意味」にしないで、「間」のままにしておくと、それは「魔」に変身するだろうと思う。
 どうやって「意味にしない」か。
 これは難しい。





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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(1)

2020-01-19 09:29:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


井戸端に咲きみだれている山吹の花に
太陽が火を放つ
だれの嘘よりも
もつと見事な黄金の大きな嘘のように

 二行目の「太陽が火を放つ」を、私は「太陽に火を放つ」と読み替える。太陽が山吹に火を放つのではなく、山吹が太陽に火を放つ、と。
 山吹は、大地から生まれた太陽であり、それは天にある太陽の輝きには負けない。
 それはもちろん「真実」ではない。「間違い」というよりも、「嘘」である。しかし、嘘を承知で、そう書くのだ。そう読むのだ。
 ことば(詩)は客観的な「事実」ではなく、錯乱が生み出す「真実」である。










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クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

2020-01-19 09:06:13 | 映画
クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ

 ポール・ウォルター・ハウザーとサム・ロックウェルが、ファミリーレストランみたいなところで会っている。そこへジョン・ハムがFBIはリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の捜査をやめたという通知を持ってくる。そのあとのシーンが、私は好きだ。
 ポール・ウォルター・ハウザーがケーキ(ドーナツ?)に食らいつく。食べているではなく、味わっている。歓びの味。これが、このケーキのほんとうの味。自分が無実であることは知っている。その無実が受け入れられたことへの安心感。達成感。いろいろあるが、ともかくうまい。これがこのケーキの味。自分のいちばん好きな味。
 このときの表情をクリント・イーストウッドは逆光で撮っている。これが、すばらしい。普通なら、この感動の表情を、正面からの光(順光?)でとらえるだろう。逆光では、肝心の表情が見えにくい。だが、この見えにくさが、私の視線を引っ張る。もっとよく見たい。そして、気持ちが集中する。ポール・ウォルター・ハウザーが向こうからやってくるのではなく、私の視線がスクリーンのポール・ウォルター・ハウザーに近づいていく。そして、ポール・ウォルター・ハウザーと一体化してしまう。
 ここにイーストウッドの映画の基本というか、原点というか、魅力が凝縮している。役者は演技をする。カメラはそれをとらえる。だが、それは押しつけではない。あくまでも観客がスクリーンに近づいていくのだ。家を出て、バスや電車に乗って映画館へゆく。その「移動」と同じことを映画館のなかで観客はするのだ。椅子に座って見ている。たいていはぼんやりと時間を潰している。しかし、あ、ここがいいなあ、と思ったとき観客は身を乗り出してゆく。家から映画館へ来たように、座っている席からスクリーンに気持ちが近づいていく。
 このポール・ウォルター・ハウザーの無言でケーキを食うシーンは、イーストウッドの映画にしては長いシーンだった。一度ケーキに食らいつき、歓びがあふれればそれでも充分なのだが、二度、三度、ケーキに食らいつき、ゆっくりとかむ。その繰り返しが、とてもいい。逆光が「後光」のようにさえ見えてくる。
 このあと向き合っていた席からサム・ロックウェルが動いてきて、ポール・ウォルター・ハウザーの隣に座る。肩を抱く。ここも涙が出るくらいに美しい。カメラは二人を正面からではなく、背後から、つまり背中を映し出すのだ。だれも、彼らの表情を知らない。泣いているかもしれない。ポール・ウォルター・ハウザーもサム・ロックウェルも。しかし、だれも、それを知らない。考えてみれば、だれも何も知らないのだ。二人がどんなふうに苦しんできたかを。とくに、ポール・ウォルター・ハウザーの味わった苦悩や怒りをだれも知らない。ひとはだれでも、だれにも知られないことを持っている。どんなにそれが語られようとも、知らないものがある。あるいは、それは見てはいけないものかもしれない。そのひとだけの「宝」かもしれないのだから。
 これに似たシーンが、もうひとつ。捜査のために押収されていたものが家に帰ってくる。そのなかにタッパーがある。キャシー・ベイツが、「私のタッパーが、事件と何の関係がある」と抗議したタッパーである。ふたに番号が書いてある。それはたぶんFBIが整理のために書いた番号だと思う。つまり、汚れ、傷、である。でも、それは傷つきながらもキャシー・ベイツのところに帰って来た。キャシー・ベイツがタッパーを手に取り、それを眺める。カメラがキャシー・ベイツの視線になり、タッパーを見つめる。すると蓋の上に数字が書いてある。こういうシーンにも、私は、涙を流してしまう。しかし、このシーンは、いつものイーストウッドのようにさらりと短い。
 感動させるのではなく、感じさせる。考えさせる。感動して、観客が自分の感動によってしまってはいけないのだ。そうさせないように、イーストウッドは、さっとシーンを切り換える。もっと見たい、という気持ちがわいてきたところで、ぱっと別のシーンになる。その手際に私はいつも感心する。

(2020年01月18日、t-joy 博多スクリーン2)
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ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

2020-01-18 09:37:35 | 映画
ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

監督 ジェームズ・マンゴールド 出演 マット・デイモン、クリスチャン・ベール

 私は車にはまったく関心がない。しかし予告編で見た車が走るシーンが、とても自然に感じられて見に行く気になった。「自然」と書いたのは、わざとらしさがない、スピードを強調していないということである。
 マット・デイモンだったか、クリスチャン・ベールだったか。たぶん、クリスチャン・ベールだろうなあ、車が最高速度に達すると、逆にゆっくりした感じになる、というようなことを言う。別世界に入ってしまう。ハイになって感覚が世界と融合してしまう、ということだろう。
 これをどう映像にするか。
 難しいと思う。しかし、ちゃんと映像化できていると思う。クリスチャン・ベールがレースでトップにたったあと、そのシーンがある。前に誰もいない。どこまでもどこまでも走っていってしまいそうだ。この愉悦にすーっと吸い込まれる。
 これはもう一度あらわれる。クリスチャン・ベールが、テスト走行中、その感覚に誘い込まれる。この瞬間、あ、このままクリスチャン・ベールはこの世から去っていくのだとわかる。そして、実際、そうなるのだが、それが必然に感じられる。
 自然から、必然へ。
 これを映像で体験できる。この二つの「ハイ感覚の走行映像」を見るだけで、この映画を見る価値がある。
 しかし、他の部分は、あまりおもしろくない。
 「フォードvsフェラーリ」と言うが、ほとんどはフォード内部の「権力闘争」である。その欲望のつまらない闘いが、クリスチャン・ベールの快感を純粋に見せるという効果を上げているのかもしれないけれど、そういうものがない方がより純粋になったと思う。
 それはマット・デイモンのちらりと見せる「レース駆け引き」のうさんくさい部分についても言える。ライバルのストップウオッチを奪い隠したり、ナットを落としてみたりして、相手の動揺を誘う。実際にそういうことがあるのかもしれないが、クリスチャン・ベールの快感の、必然の美しさを傷つけてしまう。
 レーサーの純粋さを追求する映画ではない、といえばそれまでだが。

(2020年01月16日、t-joy 博多スクリーン3)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(74)

2020-01-18 08:53:44 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
メモラビリア

眼をひらいていると見えない白昼の星が
眼をつむると深紅のまぶたのうらに遠い砂漠のようにひろがる

 「眼をひらく」「眼をつむる」、「見えない」「ひろがる(のが見える)」。「見える」という動詞は書かれていないが、「意味」はそういう対句になっている。
 「対」は対になることで、単独のときは存在しないものを出現させる。

われわれになんの関わりもないその静かな世界を
あこがれの深いまなざしで仰いでいると
誰も触れたことのない大きな空間に触れる

 「大きな空間」よりも「誰も触れたことのない」の方が重要である。「触れる」と嵯峨は書くが、それは「生み出す」のである。嵯峨のことばが。
 詩はいつでも、「誰も触れたことのない」ものを出現させる。

(このシリーズは今回でおわりです。)









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編

2020-01-17 12:30:12 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編(「博物誌」44、2020年01月15日発行)

 最近、山本育夫の書いている詩について書き続けている。書き続けているけれど、この場合の「つづけている」はかなりあやしい。私は「つづけている」というよりも、そのつど「切断」している。あるいは、そのつど「別のこと」を書いている。「つづいている」ものなどなにもない、というのが私の「実感」だからである。
 もし、私が山本の詩に、なにか「つづいているもの」を見たとしたら、それは「幻」であり、「嘘」というものだろう。また、だれかが私が書いているもののなかに「つづいているもの」を感じるとしたら、それは私のことばが不徹底だからだろう。
 私は「ことば」というのもが「つづいている」とは思えないのである。そのつど「新しい」ものとして生まれてきていると感じる。そして、その「新しく生まれる」瞬間、その動きに、ぐいと引きつけられる。

 正月、私はいつも「古典」を読み直すことからはじめる。「古典」というよりも、すでに読んだ本と言い直した方が正確かもしれない。私自身の「無軌道」を少し修正したいからである。どんなことばも、そのつど「新しい」が、それを「新しい」と感じるためには「古い」ものが必要なのだ。
 今年は、和辻哲郎の『古寺巡礼』(ワイド版岩波文庫)を読んだ。法隆寺の五重の塔について書いた部分の、最後の数行。(丸数字は私がつけた。)

 ①ことにわたくしが驚いたのは屋根を仰ぎながら軒下を歩いた時であった。各層の速度が実に著しく違う。あたかも塔が舞踏しつつ回転するように見える。②その時にわたくしは思わずつぶやいた、このような動的な美しさは軒の出の少ない西洋建築にはみられないであろう。

 ①は和辻のいきいきとした感性をあらわしている。「塔が舞踏しつつ回転する」という文章には、ああ、かっこいい、ああ、すごい、と思う。私はこの文書を思い出しながら法隆寺の五重の塔をめぐってみたことが二度あるが、二度とも和辻の体験を味わうことができなかった。もっとゆっくりと和辻の足跡を探せばよかったのかもしれないが、他人の感性をそのままたどるのは難しい。
 そのときの悔しさや、何度読んでもかっこいいという気持ちとは別に、今年は②の部分に思わず傍線を引いた。
 とくにかっこいいことばが書かれているわけではない。まねして書いてみたいことば(剽窃したいことば)があるわけではない。しかし、①から②にかけて、不思議な飛躍がある。①では、和辻の「肉体」と「感性」が書かれている。②は、その感性(肉体)を振り切って、「理」(美の論理)が動き始めている。「理」がつかんだものが動いている。
 和辻の文章には、ときどき、こういうことが起きる。
 中将姫伝説について書いた次のような文章にも、それを感じる。

 ①蓮糸で織ったということは嘘なのである。しかし蓮糸で布が織れるものではないということは、昔のひとにも明らかなことであったろう。②蓮糸でなくてはならないのは幻想の要求である。③蓮糸で織ったことが嘘であってもこの幻想の力は失せない。

 ①で事実を書く。②は事実に対する批判である。しかし、③はその批判を批判して、①のなかに動いている「理」でしかつかみとることのできないものをつかみだしている。「幻想の力」を「理の力」と呼んでいるに等しい。
 この、切断力と飛躍力、新しいものを「生み出す」とことばの動きに私はひきつけられる。あらゆることは、ことばといっしょに生まれてくる。

 長い長い前置きになったが、今回の書下し詩集を読んで感じたのは、和辻の切断力、飛躍力に重なるものを感じたからである。
 でも、すぐにそう感じたわけではない。

01しはしは

しはしをあわせもって
しとしととふる

かろうじて
帰郷したしは
しのやまをこえ
しをこえ
したにしたに
ともぐりこんでいく
しになりたがっていることばは
清潔な朝食の
木のテーブルに
浮かび上がってくる
てぎわいい
中国人の手で
さばかれて

それをこつこつと
食べる

 「しはしは」は「詩は詩は」なのだろうが、「しばしば」かもしれない。奇妙な語呂合わせのようなものがあって、そのあと「中国人」が出てくる。なぜ? わからない。わからないけれど、この部分には、なにかを引きずるような「粘着力」を感じる。
 ところが三連目でトーンがかわる。「こつこつ」ということばには、それまでのことばの「つながり」を感じるが「食べる」には音のつながりはない。「朝食」「中国人の手で/さばかれて」には「意味」のつながりはあるが、それは同時に「詩」(ことば)とのつながりを切断している。
 変な飛躍が起きている。
 これはいったい、何?
 最初に読んだとき、そう思った。

05井戸

よじのぼっていくと
落ちる
爪を剥ぎながら落ちる
落ちる

ことばが
落ちて落ち着いて
たまる
たまっている
血の層になって
(少し怖いがさわってみる

見上げるとはるかかなたに
丸い空ということばが
浮かんでいる

 三連目は、完全に飛躍している。この飛躍をどう呼んでいいのかわからないが、丸い空は丸いだけではなく、なにか「完璧」という印象をもたらす。その「完璧」は、「理」なのだ。
 「理」が世界を支えている。貫いている。『古寺巡礼』に一回だけ出てくることばで言えば「道」になる。世界を新しく「生み出す」力がそこにある。丸い空という「ことば」が丸い空を生み出し、同時にそれは「ことば」であると宣言している。
 「浮かんでいる」は奇妙な言い方になるが、山本を超越して、そこにあるということ。山本のことばなのに、山本のことばではない。あえて言えば「理=真理」のことばになっている。

 で。
 読み進むと、だんだん「理」が強すぎていやだなあ、みんな「意味」になってしまいそうだなあという気がしてくるのだが。

11あげた

ペデストリアンデッキを歩いていると
向こうに見える藤村記念館の
欄干にだらりと
ことばがたれているのが見える
見上げると城址の上を
ひらひらと流れていることばも
見える見える見えることばが見える

ピックアップして
そのかたまりを
手提げの中に放り込む
のぞき込んだ女子高生が
(このことばをもらえる?
というから
いいよととりだしてあげた

 突然登場する「女子高生」には「理」というものは存在しないが、存在しないからこそ究極の「理」がある。言い直すと、「世界(現実)」というものは、そのつど生まれつづけている(新しくなりつづけている)のだから、何があらわれようと、それまでの世界とは矛盾していない。無意味であればあるほど(つまり「意味」を否定する力がそこにあればあるほど)、それは正しいと言える。
 和辻は、そういう「無意味」を書いていないが、それは和辻の世界が「倫理/哲学」だからである。
 詩人は「意味」を完全に否定する瞬間を提示できるから詩人なのである。
 「意味」は読んだひとがかってにつくりだせばいい。どうせ「意味」は個人を離れては存在しないものだ。
 そしてこの、突然の「理不尽」に向き合ったとき、「ことば」と山本の向き合い方が、また突然大転換する。それまでは「見る(見つめる)」「ピックアップする」「放り込む」という、いわば「収集」だったのが、「あげる」にかわる。「あげる」のまえに「とりだす」がある。さらに、それを「いいよ」と肯定する変化がある。

 強引に。

 ほんとうに強引に和辻の世界と山本の世界を結びつけることで、一種のビッグバンを描くならば。
 和辻は古寺をめぐり古仏をみながら天平時代の人の「構想力」というものと和辻を重ねることで、「構想力」という「道」そのもののなかへ突き進んだが、山本は女子高生の「構想力」に彼が集めたことばをまかせたということになる。
 「構想力」だけが世界に存在するのだ。

17欲を書く

いけそうなので
いけるところまでいってみますか
ことばのカミサマ
意味にまで届かないことばに伴走しながら
次々に意味に落ちることばを


ふり捨て
フリして
なんかその先に思いもがけない
新しい感性なんかが不意に
現れたりしないかと
欲を書く

 まあ、そうだね。世界は一瞬一瞬生まれ変わっている(生み出されつづけている)から、小さなことが突然大きなことになることもあるだろう。それは書いてみる(ことばを動かしてみる)以外に、どうなるか、わからない。

18締めは静かに

それでいいのだよ
山本くん
おしっこをはじいて
ズボンを濡らさないように
水道で手を洗いなさい

ことばの道は遠いので
あせることはない
口に含んで
ふっと吹き出すことばのタネの
その放物線のように
詩を書く

 あ、「道」が出てきた。
 見落としていたのか、無意識のうちにこの「道」に導かれて、私は和辻のことを書いたのか。わからない。けれど「道」はどこにでもある。そこからあらゆるものが生まれてくるということだけは、確信できた。「それでいいのだよ/山本くん」と私もいってみる。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(73)

2020-01-17 09:28:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (とどまりたい 心の上に)

 この詩も、ことばが次々にかわっていく。「とどまりたい」という思いを裏切るように動いていく。そして、その最後。

しかし雨のなかを長い橋を渡つていくとき
そのためにはわたしはすつかり別人にならねばならぬように思う

 「別人になる」とは「心」が「別の心になる」ことである。長い橋を「渡る」のは「別人」ではなく同じ「肉体」。「渡る」という動詞の前に、「心(感情、あるいは認識かもしれない)」は変わってしまっていなければならない。そう思っている。
 このとき「心」には「上」も「下」もない。 
 「心」のあり方そのものが、一行目とは「別」のものになってしまっている。
 ことばを動かし、書くということは、こころを変えてしまうものなのだ。







*

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青柳俊哉「未来の朝」、池田清子「何罪」、谷川俊太郎「あなたの私」

2020-01-16 10:26:50 | 現代詩講座
青柳俊哉「未来の朝」、池田清子「何罪」、谷川俊太郎「あなたの私」(朝日カルチャー講座、2020年01月06日)

 朝日カルチャー講座の作品。

未来の朝             青柳俊哉

雨まじり 雹(ひょう)ふる朝の 雹まじり 
雪ふる朝の 人かげのすくない 未来の街に 
路面も 建物も 樹々も すけるように凍りつき
神聖なしずけさにつつまれている
そのうすあかりの空から 
金色のとんがり帽子をかぶった未生(みしょう)の子や
ピカピカした銀色の服を着た死んだ子たちが 
たくさんとびだしてきて 
舟の形をしたちいさな氷の靴をはいて
路面や 建物や 樹々のうえを
すべったり ころんだり 空中をとびまわって
あそんでいる 
雨や 雹や 雪つぶの中からとびだしてきて
ひかりながらかすかな音をたてて
あそんでいる

 冬の朝の描写。「雹ふる朝の」「雪ふる朝の」という「……朝の」というリズムをひきついで、「すけるよう」「しずけさ」「うすあかり」ということばが透明感を強調している。
 そのあとで、

金色のとんがり帽子をかぶった未生(みしょう)の子や
ピカピカした銀色の服を着た死んだ子たちが 

 と転調する。「未生の子」「死んだ子」ということばにどきりとする。そして、この衝撃的なことばが、詩の読み直しを求めてくる。
 冬の朝の描写と簡単に書いてしまったが、ほんとうにそうなのか。
 タイトルに「未来の朝」とある。二行目にも「未来の街」ということばがある。「いま(現実)」ではなく「未来(まだ存在しない)」朝のことなのだ。
 「未来」なので、そこにいる子どもは「まだ生まれていない=未生」であり、またすでに年をとって死んでしまっているかもしれない。死んでしまったけれど、記憶(意識)が残っている。子ども自身の意識か、子どもに対する親の意識かは判断が難しい。どちらも可能だろう。もちろん子どもが幼いときに死んだのではなくて年をとって死んでしまったのなら、その親も死んでいるだろうけれど、どんなときでも子どもを思う親の気持ちというのは変わらないので、こういうことは「時間」を無視していい感覚である。「時間」を無視することで「永遠」になると言い換えてもいい。
 「未生の子」「死んだ子」が飛び出してくるというのは現実にはあり得ない。存在しないもの(不在のもの)が動くというのはあり得ないのだけれど、このあり得ないという感覚が逆に「リアル」になる。
 現実の冬の朝の街に、現実の、いま生きている子どもたちが飛び出してきたら、「静かな透明感」とは違ったものになってしまうだろう。
 「未来の朝(街)」という不在をリアルに変えるためには、不在の存在(想像力がつかみ取った存在)が必要なのだ。不在と不在とがぶつかると、数学の世界でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、世界が逆転して、リアルを生み出すのだ。
 この二行を境にして、世界はにぎやかになる。「しずけさ」が消え、ざわめきが広がる。しかし、書き出しの透明感は維持される。持続する。いや、透明感を通り越して、「光」そのものになる、という感じか。「金色」「銀色」「氷の靴」ということばが、「反射」を感じさせる。
 最後の部分に、それらは「ひかりながら」ということばになって動く。名詞ではなく、動詞として動く。その動きが「音」、「音楽」を呼び出す。音楽に合わせて動くとき「あそんでいる」は「踊っている」に自然にかわっていく。青柳は「踊る」ということばを避けて「遊ぶ」を繰りかえしているが、その反復が自然で、楽しい。



何罪         池田清子

テレビの中にいる人に
好意をもっただけで
それは姦淫だと
父が言った
姦通罪?
何度牢に入ったろう

テレビの中でない人に
秘めて、告げず、ひそやかに
だったら
これは秘匿罪?

 「テレビの中にいる人」「テレビの中でない人」が「対」になっている。「対」は同一ではないことによって「対」になる。この詩の場合は、同一ではないは「反対」である。テレビの中(虚構)、テレビの外(現実)という矛盾するものが「対」になっている。
 しかし、「対」は対立を明確にするだけではない。ほんとうは、違った存在なのに共通のものを持っている、その共通をあかるみにだすためにこそ存在する。
 好意、ひとに思いを寄せることが「共有」されている。
 その「共有」は「理」によって浮かび上がらせられるものである。「理」は「論理」の「理」である。この詩は「論理的」である。
 二連目に「だったら」ということばがあるが、これは論理のことばである。一連目に「だったら」を補うと、「対構造」がもっと明確になる。

それは姦淫だと
父が言った
だったら(それは)
姦通罪?

 二連目の最後に一連目の最後の行をつけくわえと、「対」はさらにわかりやすくなる。

だったら
これは秘匿罪?
何度牢に入ったろう

 「それ(テレビの中)」と「これ(テレビの外)」。そのどちらにも動いているひとを好きになる瞬間。「何罪」と問うことで、池田は、それは罪ではないと言う。



 詩の対構造をもう少し考えるために、谷川俊太郎の「あなたの私」(『私の胸はちいさすぎる』集英社文庫、2019年06月30日発行)を読んだ。

あなたが傍にいるとき
暖かい指に目隠しされて
私にはあなたが見えなかった
あなたの息を耳たぶに感じるだけで

あなたが体を離したとき
かすかな風がふたりを隔てて
私からコトバが生まれた
生まれたての生きもののような

あなたが出て行ったあと
どこにいるの何しているの
私はもう問いかけずにいられない
あなたの幻に向かって

あなたの裸を想うとき
歓びに飢え 幸せに渇き
恋にひそむ愛に怯えて
あなたの私を私は抱きしめる

 「あなたが傍にいるとき」と「あなたが体を離したとき」が対である。傍にいる(密着している)、傍にいない(密着していない)という反対のものが向き合っている。そして、反対のものが向き合うことで、その「間」に共有されるものを明確にする。
 あなたを思う気持ちだ。
 あなたが傍にいるときは、それを感じる必要はなかった。自分の気持ちを感じるのではなく、あなたそのものを(暖かい指、息)を肉体で感じていた。あなたが傍にいなくなって、あなたの肉体を感じられなくなったときに、「コトバ」が生まれた。ことばとは気持ちである。
 二連目の四行のなかにも対があるといえる。あなたが消えた、そのかわりにコトバが生まれた。消えたものと生まれたもの。ことばは私からあふれてくるが、私から離れては行かない。
 三連目は、起承転結でいえば「転」である。同時にそれは二連目の言い直しである。「コトバ」と抽象的にしか表現されていなかったものが、具体的に語られる。「どこにいるの何してるの」。一連目と二連目の対構造で明確になった「あなたを思う気持ち」が具体的に言い直されていることになる。ひとを愛するとは「どこにいるの何しているの」と問うことであり、愛されるということは、その答えが返ってくることだ。
 「結」の四連目は、かなり難しい。抽象的だ。
 「あなたの私を私は抱きしめる」という「私」の二重構造も詩を難しくさせているが、「恋にひそむ愛に怯えて」の「恋」と「愛」の対比(あるいは、ここでも「対」と呼ぶべきか)をどうとらえるかが難しい。
 なぜ「恋」と「愛」という別のことばがあるのか。「恋」と「愛」はどう違うのか。漠然とした感じだが、愛の中に恋が含まれる、愛の方が恋より大きい(広い)という印象がある。
 で、こんなことが言えるかもしれない。
 あなたを愛しているのなら、あなたのために私は私の恋をあきらめないといけないのかもしれない。でも、あなたに愛された私(恋された私?)を私は忘れることができない。あなたが愛してくれた私を、私は私の愛で抱きしめる。なぐさめる。
 どこかで聞いたような「歌謡曲」になってしまうかもしれないなあ。







*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(72)

2020-01-16 08:37:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (小さな時を)

むかいあつて持ち合う

 と静かに「意味」をつないで動くことばは、転調し、思いがけないことばを呼び寄せる。

皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる

 「遠い」ということばが象徴的だが、このことばにたどりつくまでは「遠い」もの(そのとき=過去)が書かれている。しかし、皿の上の林檎は現実だ。事実だ。そして、それを強烈に印象づけるのが「匂う」という動詞だ。
 「匂い」が動いている。「匂い」が嵯峨の体のなかに入ってくる。「匂い」と嵯峨が一体になっている。
 「事実」とは対象と自己が一体化して生まれる。









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