詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日朝会談の行方

2019-05-21 19:49:08 | 自民党憲法改正草案を読む
日朝会談の行方
             自民党憲法改正草案を読む/番外268(情報の読み方)

 一日遅れの新聞だが、2019年05月20日の読売新聞(西部版・14版)の30面(いわゆる「第二社会面)。

拉致解決 署名1341万筆/国民大集会 首相、日朝会談に意欲

 という記事。見出しだけ読んで、「どうせ何も書いてない」と思っていたのだが、びっくり仰天のことが書いてあった。
 前文。

首相はあいさつで、「条件を付けずに金正恩(朝鮮労働党)委員長と会い、虚心坦懐に話したい」と野辺、あらためて日朝首脳会談に意欲を示した。

 これは、既報のニュースと何も変わらない。
 ところが、本文を読むと、安倍は、

集会では、「残念ながら日朝首脳会談が行われるめどが立っていないのは事実だ」とも語ったが、粘り強く(拉致問題の)実現を目指す考えを強調した。

 えっ、えっ、えっ、これどういう意味?
 日朝会談のめどが立っていて、(日付が先に決まっていて)、「議題」はこれからつめていく、というときは「条件をつけずに会談する」(会うことが大事だから)というのは、「論理」としてわからないでもない。
 でも「条件をつけずに」が最初にあって、日にちのめども立っていないのなら、これは「拉致問題」は安倍からは言わないと「条件をつけた」ということではないだろうか。言い換えると、「会談のテーマは安倍の方からは何も言わないから、ともかく会ってほしい」と申し入れたということではないか。
 水面下でどういう交渉が行われているのか知らないが(外交だから、国民やマスコミには知らせないまま、交渉が続いているのかもしれないが)、これは「大失態」ではないか。北朝鮮は、絶対に拉致問題を議題にしない。「解決済み」としか言わないだろう。
 北朝鮮とどういう水面下の交渉をしているのか知らないが、こんな「裏話」を拉致被害者の会の前で語る(読売新聞もそれを書く)というのだから、びっくりしてしまう。
 日朝会談がもしおこなわれるとしても、そのとき「条件をつけずに会談したいと行ってきたのは安倍であり、北朝鮮の方から申し込んだわけではない。解決済みの拉致問題など議題にできない」と言われておしまい。
 拉致問題を安倍は、捨ててしまったのだ。

 思い出すのは2016年の「日露首脳会談」である。
 あのときは、「日程」は決まっていた。しかし、水面下の交渉で岸田が大失態をしている。それをラブロフが暴露している。「経済協力は日本が申し入れてきたこと。ロシアが二島(あるいは四島)返還するから経済協力してくれ、と言ったわけではない」と受け取れることを語っている。岸田が「金を出すんだから、最低二島を返せよ」と言ったのだと思う。新聞の記事から私が推測したことだから、「事実」は違うかもしれないが。
 このことは
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/292e823a4dc83b1427e2bfbf40607266
に書いたので、読んで見てください。その続きは、
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/5adc5e67a6314a6248f2737c32dbef6f
に書いた。

 こんな「失態」つづきで、それでもなお「外交の安倍」を信じる人がいるのが、どうにもわからない。

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池澤夏樹のカヴァフィス(153) 

2019-05-21 10:56:21 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
153 一九〇八年の日々

 若い男の、だらしのない生活が描かれる。

夜を徹しての疲れるゲームが
一週間かそれ以上も続くと、
朝、水浴に行って身体を冷やした。

 その最終連。

あなたは別の彼を見るべきだ。
みっともない上着を脱いで、
継ぎの当たった下着も脱ぎ捨てた、
一点の瑕疵もない全裸の姿、その奇蹟、
櫛を入れてない髪を後ろに流し、
少しだけ日に焼けた手足で、
浴場や砂浜に立つ朝の裸体を。

 「櫛を入れてない髪を後ろに流し、/少しだけ日に焼けた手足」が非常に印象的だ。「一点の瑕疵もない全裸の姿、その奇蹟、」という抽象的な表現を内側から突き破ってあらわれてくる。まるで、服を脱ぎ捨てたばかりの「裸体」のように。
 声を失って、ただ、見つめてしまう。

 池澤の訳、特に最後の一行の、最後の「を」は「一点の瑕疵」を通り越した致命的な傷だ。「あなたは別の彼を見るべきだ。」と呼応しているのだが、この論理的すぎる翻訳がカヴァフィスの音楽を壊している。詩なのだから、論理のことばを隠した方が、ことばが輝くと思うのは私だけだろうか。

 池澤の註釈。

 まるで短篇映画のような作品。生活に困る姿、職を断り、流行遅れの上着を着て夜のカフェで稼ぐ。そして最後の場面で本来の姿を見せる。

 この註釈の「本来の」ということばも、論理のことばだろうなあ。




 



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読売新聞の価値(うそとほんとうの書き分け)

2019-05-21 08:35:11 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞の価値(うそとほんとうの書き分け)
             自民党憲法改正草案を読む/番外267(情報の読み方)

 読売新聞は「安倍寄り」ということで、ネットなどではしきりに叩かれているが、「安倍寄り」だからこそ、貴重な情報が載っていることもある。

 2019年05月21日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

GDP2期連続プラス 年2・1%増

 という記事。賃金が減り、「不景気」といわれているのに、なぜ? 自分の身の回りの金の動きしかわからない私には、「大局」の経済がさっぱりわからない。「統計」もゆっくりと見つめたことがない。だから、「なぜ」がほんとうにわからない。
 1面の記事には

個人消費や設備投資がふるわなかったが、公共投資が景気を下支えした。輸入が大幅に減少したことも、計算上、GDPを押し上げた。

 と書いてある。注目したのは「計算上」ということば。これはつまり、「GDP2期連続プラス」になったのは、単に「計算上」のことにすぎなくて、景気がよくなっていることではない、という意味なのだ。
 景気がよくなったと、読売新聞は「嘘」を書いた、と非難されるのを恐れて、こっそり「ほんとう」を書いている。「私はちゃんとほんとうのことを書きました。ていねいに読んでください」と「言い訳」を隠している。こういう書き方が多い。
 で、一面の記事だけでは、何のことかよくわからないが、3面に解説がある。
 「輸入」との関係については、こう書いてある。

 輸入は海外で生み出されたモノを買うことにあたり、国内で生み出された価値とはみなされない。このため、GDPの総額から差し引かれている。輸入が増加すればGDPを押し下げ、減少すれば押し上げる関係にある。

 日本人が金持ちになってどんどん外国製品を買えばGDPは下がる。貧乏になって、不景気で買えなくなればGDPは上がる。日本人が貧乏になった証拠だ。
 「個人消費」の説明を読むと、「不景気」が、さらにぞっとするくらい身に迫ってくる。こう書いてある。

 速報値では、企業の在庫の積み上がりを示す民間在庫が0・1%分、GDPを押し上げる方向に働いた。生産活動の結果、在庫が増えたとみなすためだ。しかし、実際にはモノが売れずに在庫が積み上がった可能性もあり、今後の景気にマイナスに働く恐れもある。

 慎重に書いているが、「実際には」に注目。
 ものが売れずに在庫が増えただけというのは「可能性」ではなく、「現実」なのだ。
 先日のコンビニの「食品ロス」対策とあわせて読むと、「実際(現実)」が「可能性」ではなく「リアル」に迫ってくる。
 「食品ロス」は簡単に言えば「食品が売れなくなった」ということに過ぎない。売れれば「ロス」は少なくなる。「環境対策」と言えば聞こえがいい。「不景気」という印象が薄れるから、そういうだけなのだ。
 コンビニの「食品ロス」対策は「弁当」などの「食品」限定のことだが、売れないのは「弁当」だけではない。ほかのものも売れない。企業に在庫が増えるばかりだ。つまり、企業の在庫は、消費を見込んで製品をたくさんつくったからではなく、見込みよりも消費が少なくて売れ残ったということ。
 こっそり書かれている「みなす」にも注目したい。「みなす」は1面の表現にしたがえば「計算上」ということになる。「みなす」ことができるだけであって、実際は、違う。

 ようするに、GDPがアップした。景気はよくなっている、というのは嘘。
 でも、「政府」が発表しているから、発表は発表として書くしかない。ほんとうはどうなのかは、「事実上」とか「実際には」ということばのあとに、そっと書く。
 読売新聞(だけではないと思うが)、ニュースは、「事実上」とか「実際には」ということばのあとに書かれているところに、読むべきものがある。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(152)

2019-05-20 08:45:44 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
152 紀元前二〇〇年に

我らは、まずアレクサンドリア人であり、
またアンティオキア人であり、その他
エジプトやシリア、メディアやペルシャ、その他、
数えきれないほど諸地域の民だが、しかしギリシャ人なのだ。
我らの圧倒的な優越性、
柔軟な政策と、叡知による統一感、
遠くパクトリアやインドまでも通用する
普遍語としてのギリシャ語。

 でも、それはもう誰も気に留めない。それはかつて「但しラケダイモンの民を除く」と碑文に書かれたラケダイモンのことを気に留めないのと同じ。言い換えると、現代ではギリシャ人はかつてのラケダイモンの民になった、という構造になっている詩の、終わりから二連目。
 池澤は、「柔軟な政策と、叡知による統一感、」という一行に、

空疎な讃辞の羅列である。

 という註釈をつけている。
 たしかにギリシャは敗北したのだから、そういうしかないのかもしれないが。
 でも、カヴァフィスは「空疎な讃辞」と思って書いたのか。
 ちょっとむずかしい。
 「ギリシャ人」が「ギリシャ語」と言いなおされる。そのときカヴァフィスが思い描いているのは「人」というよりも「人」を動かしている「叡知による統一感」ではないのだろうか。そしてこの「叡知による統一感」こそ、その国のたどりついた「頂点」であり、その国の「頂点」はいつでも「国語」によってあらわされる。
 ギリシャ人もギリシャ語も、もう過去の存在かもしれない。しかし、その過去は生きている。ギリシャ語を話す人がいるかぎり、それは生き続ける。
 最終連の一行、

今、ラケダイモンの民のことなど誰が口にしよう!

 は「今、ギリシャの民のことなど誰が口にしよう!」なのだが、誰も口にしなくても、カヴァフィスは「ギリシャ語」を口にする。その思いが隠されていると読んだ。






 



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水下暢也「あかり」

2019-05-19 23:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
水下暢也「あかり」 (「現代詩」2019、2019年04月30日発行)

 水下暢也「あかり」はH氏賞を受賞した『忘失について』のなかの一篇。全行を引用する。

弓張りの霊光は
明かり取りに絡めとられた形で
きざはしにかけた左足と
手摺をたのんだ左手の力を緩めてゆく内に
雲に遮られたのか
かいなをひいてゆき
半ば影絵となった
物腰の硬い立ち姿が
踊り場の手前で往生し
夜陰にうっすらと
影だけが見えると話にきかされた
顔鳥の一頻り啼くのを縁にして
きざはしを上がり
ふたたびの光が肩にかかって
間近の一声のあと
暗闇は翡翠の尾を垂れ
逃げていった

 さて、これをどう読むべきか。
 「叙述」にこそ詩があるという書き方が、最近は、とても多いと思う。そして、とても「評価」が高い。
 重要なのは「意味(内容)」よりも「叙述」というのは、たしかにその通りだと思うのだが、その「叙述」で水下は何に抵抗しようとしているのか。ほかの多くの詩人でもそうなのだが、私は疑問に思っている。
 なぜ疑問かといえば、その「叙述」が「動詞」に重点があるのではなく、むしろ「現代語」ではないことばのつらなりにあるからだ。これでは「叙述」ではなく「意味」である、と私には感じられる。「意味」をわかりにくくしているだけであって、「意味=対称(主語)」をそのまま踏襲している。一種の「先祖返り」に思える。
 こういう抽象的な批判はよくないのだが。
 そしてこれから書く「比喩」は水下にとっては「暴言」に聞こえるかもしれないが。
 私には、この奇妙な「先祖返り」は、安倍の進めている「改憲」の本質にとても似ているように感じられる。「動詞」を「名詞」に置き換え、「名詞」によって「世界」を統一するという「先祖返り」。「名詞」の「頂点」に「天皇(家長)」があり、「存在の意味」によって「世界」を統一する。そういう方法に似ていると感じる。
 一行目。「弓張りの霊光」ということば。「弓張り」は「弓張り月」のことだろうか。私は、こんなことばをつかわない。私の周りのひとがつかっているのも聞いたことがない。「霊光」になると、これは、聞いたことも読んだこともない。
 知らない人間、無知な方が悪いのだといわれればその通りだが、知らないことばをつかう人は、たいてい「知らないものは黙っていろ(命令に従え)」ということを私は経験として知っている。ある種の人は、他人を支配するために、ひとのつかわないことばをつかう、ということを知っている。だから私は、そういうことばをつかう人間を疑う。
 脱線した。
 「霊光」は「漢字」をたよりに推測すれば「幽霊の光」(まさか!)「霊魂の光」「霊の光」、つまり「現実」に存在するというよりも意識によって存在させられる光なのだと思うが、そのときの「存在させる意識」(精神)というものの動きが、私に言わせれば、さらにうさんくさい。
 たとえば「iPS細胞」というものがある。これは、つい最近までは存在しなかった。存在していたけれど、わからなかった。でも「科学の力」で存在させることができるようになった。発見、発明。そういうものが現代にはたくさんあるが、そういう「存在のさせ方」とは「方法」が完全に違う。「いま」ある何かをつかって「存在させる」(発見する、発明する)という「動詞(生き方)」が動いていない。
 かつてあった「ものの見方」を再利用している。言い方を変えれば、復活させている。あるいは「ルネッサンス」を行っているとも言えるのだが、それはほんとうに「古典」の「再評価」なのかなあ、と疑問に思う。
 忘れていたものが再び登場してくるので、「感性」としては瞬間的に「新鮮」に見えるけれど、それは「発見/再発見」なのか。「先祖返り」なのか。
 「古語」を「叙述」として復活させることで、現代をどういう方向に動かしていこうとしているのか。
 どうも、「自己保存」の「鎧」として利用しているのではないのか、という気がする。加速する「先祖返り」の風潮にあわせ、「鎧」をまとい、そのなかに「一体化」する。そうすることで生きていく、という若者の姿を見る感じがする。それが安倍と、安倍を支持することで「出世」しようとする若者の姿と重なって見える。

 いま起きているさまざまな社会現象と重ね合わせると、まさに「現代」そのものになるのかもしれない。でも、私は「現代」を、そういう形では受け入れたくない。「現代」とそういう形では向き合いたくない。





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忘失について
水下 暢也
思潮社
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池澤夏樹のカヴァフィス(151)

2019-05-19 11:19:17 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
151 古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方を使って

美を愛するさる人物が言う--「何か方法はないか、
霊験ある薬草の成分などを蒸留して、
それも古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方などを使って
たった一日でも(薬効は長くは続くまいから)、
あるいはせめて数時間でも、
わたしが二十三歳だった時の、
あの二十二歳の友人の、
美と愛を呼び戻せないものか。

 主眼は後半の「二十二歳の友人の、/美と愛を呼び戻せないものか」にあるのか。いや、「古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方などを使って」の方だろうなあ。
二連目は一連目の要約と言いなおしだが、そこにまったく同じことばが出てくる。この不思議なリフレインマジック。意味よりも音楽が聞こえる。

古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方を使って
蒸留した霊薬で過去へと遡り、
私たちが一緒に暮した
あの部屋へ戻れないものか」

そしてその音楽は、エキゾチックで、遠くへと思いを運ぶ。空間の遠さが、時間の遠さ。それを呼び寄せる音楽の近さが、官能そのものに揺らぎに感じられる。この酔いの中で、蒸留されるのは「霊薬」ではなく、「過去」そのものだ。

池澤の註釈。

ギリシャ文化圏にも魔法はあったが、それにシリアを加えることで神秘感は強まる。秘儀は東から来る。






 



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estoy loco por espana (番外32)Joaquín Llorens Santa "Oasis"

2019-05-19 08:44:18 | estoy loco por espana
"Oasis" la obra de Joaquín Llorens Santa



"Oasis" la obra de Joaquín Llorens Santa


Tres árboles están muy juntos.
Recordé "El príncipito".

"El desierto es hermoso", dijo el príncipito. "Porque hay un pozo en algun sitio".

La obra de Joaquín también esconde "el tesoro".
Solo lo que está tratando de encontrar puede ser capaz de encontrarlo.
Los tres árboles protegen el agua.
El agua refleja la apariencia humana. Refleja la mente humana.
El agua también refleja el día cielo azul, el sol, la luna de la noche y las estrellas.


Sumergiré mis manos en agua y beberé agua.
Como beber el cielo estrellado. Bajo los tres árboles de joaquín.

 三本の木が寄り添っている。
 私は「星の王子様」を思い出した。
 
 「砂漠は美しい」と星の王子様は言った。「どこかに井戸が隠されているから」

 ホアキンの作品は「宝物」を隠している。
 見つけ出そうとするものだけが見つけ出せるのかもしれない。
 三本の木は水を守っている。
 水は、人間の姿を映す。人間のこころを映す。
 水はまた、昼の青空をと太陽、夜の月と星を映す。


 私は両手を水に浸し、水を飲む。
 満天の星空を飲むように。
 ホアキンの三本の木の下で。

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アルメ時代 19 小倉金栄堂

2019-05-18 16:49:51 | アルメ時代
19 小倉金栄堂



 平積みの新刊書の横を通った。つややかな色であった。踊り場で出版案内を呼んだ。細かい活字が目の奥で微熱になった。二階でミンコフスキーについてたずねた。眼鏡の店員がノートをめくって二、三教えてくれた。タイトルや内容は忘れてしまった。機敏さだけがもちうる温かさが印象に残っている。人間が人間に伝えられるものは、ととのったことばの形では明らかにできないものである。これは本屋で考えるのにふさわしい内容とは言えない。書棚の陰をまわって文庫本の目録をめくった……。
 三階でペーパーバックをめくり思い出せない単語に出会ったとき、私は私の行為を反芻した。記憶の流れを阻んでいるものを取り除くために。
 状態ではなく、存在そのもののような手応えを持った心理をさすことば--私が思い出したいのはそれだ。しかし私は知っている。平積みの新刊書から順を追って反復しても、決して見出せないことを。記憶をつまずかせるものがほかにあることを。
 順を追って本屋の中での行為をたどり、わけありげな註釈を加えてみたのは、わだかまりから遠ざかるための方法に過ぎなかったのかもしれない。しかし、遠ざかろうとするものはいつだって、引き寄せられてしまうしかない。より深い力で引き寄せられるためだけに、私たちは遠ざかるという方法をとるのだろうか。
 記憶を折り曲げ、もつれさせているのは自動扉のわきにたっていた女である。女は男を待っている。本屋の中で待たないのは、男が本屋に入るような人間ではないからだ。しかし確実に前は通る。たぶん、いつも同じ道順を生きる男なのだろう--想像にはいつも自分の行為が逆さになったりねじれたりしながら統一を与えてしまう。などと考えながら、私は電車どおりの向こう側から女を見ていたのだった。信号が変わった。動き始めた人にうながされるように舗道をわたり、女のたっぷりとしたコートの色を見つめ、本屋に入った。
 「本屋に入り込み、あれこれ活字を眺めまわすのは、何もすることがない人間のすることである。」どこかに沈んでいたことばが、自動扉の開く音をぬって、鼓膜の表面に浮きでてきて波紋のように広がる。少し揺れながら、そんな人間の一人であると自覚するしかなかった。というのも、私が最初にしたのは、新刊のなかに男の肖像を探すことだったからである。ついで、心理学書に待つという行為に耐えるこころの力を探そうとした。カポーティのなかに、男女のいざこざのきっかけを探そうともした。そして突然、ありふれた、しかしそのために日本語ではあまり口にしない単語にぶつかったのだった。
 何とルビを振るべきか。私は人を待つようには答えがあらわれてくるのを待つことができない。待つということは気持ちが悪い。金栄堂の前の女が気にかかるのも、その気持ち悪さをさらけだされたように感じるからだ。
 私は何かがあらわれるのを待てない。見つかるあてがなくても探しに歩きださずにはいられない。そうして強い抵抗にぶつかって神経がぽきりと折れることを願っている。動き回ること、探し回ること、それは私にとって謎を問いにととのえることと同じ意味なのかもしれない。

 「女のこころに謎などありません。それが謎なのかもしれません。」さっきからそこにいたというかのように、書棚の細い通路を通って、すばやくあらわれた女は、私の指さした単語を訳すかわりにそういった。相槌を打つでもなく、再び同じ単語を指さすと、女は本を閉じてしまった。「けさ、私は、ヒゲを剃るとき男は両足をひろげて立つと気づいて笑いだしそうになりました。本を読むと、そうしたポーズというか、型がいくつもあらわれ、私を驚かします。男はいつまでたっても変声期の少年のようです。女という概念に発情し、目の前のものに目もくれず、その奥にあるもの、ほんとうはそんなものなどないのですが、男たちが勝手に概念と名づけたものを追いかけていきます。そうして遠ざかっていく男に女が耐えられる理由はひとつしかありません。男のこわばった感性の運動を見るとほほえましい気がするからです。たしかに感性といいました。私は精神とか知性というものを信じません。つつみこむ感性と入り込もうとする感性があるだけです。つつみこむためにみずから形をかえる感性と、分け入るために自分以外のものを変形させて平気でいる感性、そのふたつがあるだけです。」

 本と女には似たところがある。気ままに開き、気ままに加筆する。すると私がねじれ始める。不定形の鏡の世界へ連れて行かれる。ぼんやりと浮かびあがってくる像は確かに私なのだろうが、納得できない。自分の思うままの像に対するこだわりがあるからだと女はいうだろうか。
 つったたったままの私に、女は新しい本を開いてみせる。「現代物理学は物体から手応えをとりはらった。そのとたん宇宙の似姿ができた。極大を考えることと極小を考えることに夢中で、自分にあった大きさ、手応えの世界を置き去りにした。」

 ことばにふれるたびに、私がずらされていく。あるいはひきのばされていく。しかし不快ではない。むしろ、そのあいまいな感覚がひとつの手応えになってくる。私のもとめていたのは、ひきのばされ空虚になっていく構造をみたす力だったのか。あまい分裂をかかえながら一階から三階までを往復すれば、女はやがて帰ってしまう。
 天井の灯がふたつみっつ増えて、私の影が一瞬まばたき、再びひとつになる時間になっていた。




(アルメ240 、1986年03月25日)
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池澤夏樹のカヴァフィス(150)

2019-05-18 09:00:40 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
150 少しは気を配って

 主人公は政治家(政治屋?)か。自分を売り込もうとしている。

まずはザビナスに接近しよう。
もしあの知恵足らずに拒まれたら、
いつも張り合っているグリポスの方に行こう。
仮にもあの愚鈍がわたしに背を向けるなら、
まっすぐヒルカノスのところに駆け込もう。

 信念がないのが、この主人公の真骨頂か。言い換えると信念を持たないことを信念にしている。
 それをこう言い換えている。

三人の誰がわたしを選ぼうと
わたしの良心は痛まない。
シリアに害を為す点では三人とも同じだから。

 「意味」はわかるが、どうも「信念を持たない」という開き直りのような強さ、ふてぶてしさが、ことばの響きのなかにない。「意味(主張の論理)」はわかるが、「声」が聞こえてこない。
 ことば(訳語)の運びが「論理的」過ぎるのかもしれない。
 「三人とも同じだから」の「だから」に、特に「論理性」を感じてしまう。
 どんな人間にも「論理(意味の構成力)」というものはあるが、「……だから」というような「粘着力」のある論理、ある意味「陰湿な」論理ではなく、もっと「飛躍力」のある論理が「信念を持たない男」にはふさわしくないだろうか。
 「だから」を省略するだけで、印象はずいぶん変わると思う。ギリシャ語の原文には「だから」に通じることばがあるのだろうか。

 池澤の註釈。

 主人公は架空の人物だが、時代は紀元前一二八年から一二三年の間と限定される。

 理由は詳細に書いてあるが、私は歴史の知識がないので、その詳細を読んでも理解できない。思うのは、池澤の註釈に書いてあるように厳密に歴史のなかに詩を組み入れて読んでも、「架空の人物」にカヴァフィスが託した人間の「本質」はつかめないのでは、ということ。「声」にこそこの男の「本質」がある。それは「論理」ではないだろうなあ。





 



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食品ロスとコンビニ

2019-05-18 08:59:28 | 自民党憲法改正草案を読む
食品ロスとコンビニ
             自民党憲法改正草案を読む/番外266(情報の読み方)

 2019年05月18日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

食品ロス コンビニ動く 大手3社が次々対策

 という見出し。売れ残り食品を廃棄していたが、値引き販売は始めるという。記事の書き方は見出しにあるように「食品ロス」対策。食品ロスを少なくするというのは確かにいいことなのだが、ほんとうに無駄に対して意識が強まってそうなったのかどうか。
 むしろ、この背景にはアベノミクスの失敗、つまり「不景気」があると見なければならないのではないか。不景気(売り上げが伸びない)と書けば、安倍批判につながる。だから、そうは書かずに環境問題にすりかえて報道している。そう思えてならない。
 3面には解説。

コンビニ戦略 転機/「24時間」見直し・食品値引き

国内6万店 飽和状態/人手不足 深刻

 「食品ロス」のことも書いてあるが、ポイントはいちばん最後の見出し。「人手不足」だ。
 なぜ、人手不足?
 労働人口が減っている。これは、もっともらしい「説明」。でも、「説明」というのは、どんうなふうにしてでもつけることができる。「説明」はいつでも「後出しジャンケン」である。
 人手不足なのは、簡単に言えばコンビニの店員の給料が安いから。
 最近は、どのコンビニへ行っても外国人労働者ばかりである。外国人労働者の方が賃金が安いからだろう。外国人労働者と同じ賃金だと日本人が集まらない。これが人手不足の要因。
 コンビニ店員の時給を2000円に上げてみればいい。日本人が殺到するだろう。
 時給2000円を払っていたら経営が成り立たない。なぜが。ものがそんなに売れないからだ。これも不景気(国民の所得が減っている)からだ。
 簡単に言いなおすと、アベノミクスが「悪循環」に入り込み、もうどうすることもできなくなった。低賃金で労働力を確保するのも、もう、限界。だから「24時間」も見直せば、「食品値引き」もする。そうやって、少しでも労働力不足と売り上げを維持する。
 入管法を改正し、外国人労働者受け入れを進めようとしているけれど、日本の劣悪な労働環境(使い捨て)が外国人にも知れ渡り、日本で働く人が増えない、ということだろうなあ。入管法は改正されたばかりだが、「効果」をみきわめる「眼力」は現場の経営者の方が鋭いということだろう。安倍の「机上の空論」(嘘だらけのアベノミクス)にさっさっと背を向けて生き残り作戦に転換したということだろう。
 その端的な「証拠」がセブンイレブンの「値下げ」が誰に対しても値下げするのではなく、電子マネー「ナナコ」の所有者へのポイント還元という形をとっていることでもわかる。「値下げ」ではなく、客の「囲い込み」、次も来たら「ポイント」がつかえますよ、というだけ。ほんとうに「食品ロス」対策なら、誰に対しても「値下げ」し、売れ残りを減らすべきだろう。「食品ロス」対策ではなく、それを看板に「顧客確保作戦」を始めたということ。

 身近なコンビニがこうなのだから、人目に触れにくい職場ではもっといろんなことが進んでいるだろうなあ。進むだろうなあ。
 「改元」でいくらあおっても、不景気は「表面」の問題ではない。
 「不景気」を「食品ロス(環境問題)」とすり替えているようでは、もうどうしようもない。トヨタの社長が終身雇用に疑問を投げかけたり、パナソニックの社長が感謝の存続に疑問の声を上げたり。どこもかしこも悲鳴を上げている。
 これからますます労働者の賃金は下がる。経済崩壊が、市民の目にも見える形で始まったのだ。

 しかし、思うのだが。
 新聞は、こんな形で「不景気の問題(アベノミクス失敗の指摘)」は、「食品ロス」対策を書いたととき「人手不足」の問題として触れておきました、というような「証拠づくり(アリバイづくり)」ような書き方を、もうやめるべきだ。
 きちんと問題点を解説すべきだ。


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池澤夏樹のカヴァフィス(149)

2019-05-17 08:32:53 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
149 彼は品質を訊ねた

 若い男が雑貨店に入っていく。働いている男の姿に引かれたのだ。そして、

彼はハンカチの品質を訊ね、
値段を聞いた。欲望で喉がつまり
ほとんど声も出なかった。
同じ口調で答えが返ってきた。
心乱された、かすれた声が
ひそかな同意を伝えた。

 この四連目にカヴァフィスの「声の詩人」の特徴が出ている。欲望すると、声が変わる。それは相手に伝わる。欲望が聞こえてしまう。そして、相手の声も変化する。
 「美貌」については、

街路をゆっくりと歩いた。人目を惹くほどの
美青年。今、官能的な魅力の
頂点にあることが一目でわかる。
一か月前に二十九歳になったところ。

 と、紋切り型(常套句)で手早くスケッチしているのに比べると、非常にリアルだ。
 これは、すでにセックスそのものである。
 
 池澤は、こう書いている。

 同性愛者同士の出会いが主題だが、異性愛ではこんなにドラマチックにはならない、というのはぼくの偏見か。彼らの場合は同類であると互いに識別するだけで仲が始まるようなのだ。いや、やはり美貌が力を貸しているのか。

 そう単純化はできないと思う。
 ルイ・マル監督「ダメージ」は、性の嗜好が一致すると瞬間的にわかり、関係をつづけ、破滅していく男と女を描いている。リリアーナ・カバーニ監督の「愛の嵐」も瞬間的に互いを識別し、愛というより愛欲が燃え上がる。もちろん「美貌」も影響しているが、ひとが相手の何に反応するかは、ひとりひとり違うだろう。
 愛や性を、異性愛、同性愛で区別しても何も始まらないだろうと思う。
 異性愛者であっても、「声の調子」で相手の欲望に気づくことがあるだろう。耳で官能に目覚める人間もいるだろう。






 



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「表現の自由」について、思うこと。

2019-05-16 23:17:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「表現の自由」について、思うこと。
             自民党憲法改正草案を読む/番外264(情報の読み方)

維新の会丸山が、北方四島の問題について「戦争で取り返すしかない」というような趣旨の発言をした。野党などから「辞職勧告決議案」を話が出ている。
これに対して、丸山が、丸山にも「表現の自由」があると主張している。
この問題については、ネットでいろいろな意見が出ているが、私にはどうしても納得できないことがある。

私は憲法学者でもないし、憲法も特に勉強したこともない。
中学で習った記憶しか残っていない。
で、その記憶を元に書くのだけれど、多くのひとが言う( 丸山も言っている) 、「表現の自由」の定義がどうしても納得できない。
憲法が書いているのは、「個人」そのものの権利ではなく、個人と国の間で「いざこざ」があったとき、どうするかということだけだと思う。
国民は国に対して何を言ってもいい。「安倍を倒せ」と言ってもいい。けれど、国は「安倍を倒せ」と言った人間の自由を侵してはならない。国は「安倍を倒せ」と言った人間の「言論の自由」を守らなければならない。
21条に先立つ19条。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」。
「思想」とか「良心」というのは、黙っている限りだれにもわからない。
それが「わかる」のは「表現」を通して。
それが「わかったとき」、そしてそれが国にとって不利益だと判断しても( 国を否定するものであっても) 、国はそれを取り締まってはいけない。
私の読解力では、それ以上のことは書いてあるとは思えない。

個人が個人に対して何か言う。「おまえはばかだ」とか「おまえを殺してやる」というのは「表現の自由」の問題ではない。
それは、「倫理」の問題。「表現の自由 (言論の自由) 」ではなく「表現の倫理 (言論の倫理) 」の問題だ。
もちろん「犯罪」のことも考慮しなければいけないけれど、日常的に問題になるのは「法律」でなく「倫理」だろう。
暮らしの中では「倫理」というものがあり、それに反するからといって、それはすぐに「犯罪」にはならないが、「犯罪」以前の「表現」の問題は、「倫理」の問題であり、そこに「自由」とか「権利」を持ち込んでみてもはじまらない。

憲法は、「倫理」ではない。
個人と国、あるいは個人と公務員の力関係について一定の決まりを決め、個人を守っているのが憲法なのに、その憲法のなかの「文言」を、個人そのものに対する決まりのように受け止めるひとが多すぎると思う。
そして、この国を除外して、個人に対する「決めごと」という意識の延長線上に、「憲法は国民の権利をしばるものでなくてはならない。国民は憲法を守り、国にしたがわなければならない」という安倍の改憲案( あるいは自民党の2012年の改憲草案) がある。
そしてこれは、ことばを変えていえば、安倍の理想とする「国家倫理」なのである。
家長を頂点とする「家族倫理」を国家に転用したものである。
家長(父親)の言うことを、家族は聞くべきだ、それによって「道徳」が守られる、という考え方だ。

丸山は国会議員。いわば、「国」の側の人間。
その国会議員が、一般国民に対して「戦争で北方四島を取り返そう」と言って何が悪い。一般国民は、国会議員( 国) の意見に従え」という意識が丸山にあるのだと思う。
そういう意味では、丸山の発言は、自民党の2012年の改憲草案を先取りしている。
自民党の2012年の改憲草案を先取りするものだからこそ、安倍( 自民党) は丸山を批判できない。
丸山を批判することは、そのまま自民党の2012年の改憲草案を批判することになるからだ。
国は国民を支配する、という「理想」を否定することになるからだ。




















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(148)

2019-05-16 10:25:57 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
148 玄関の鏡

 裕福な家の、玄関での短い描写。

一人の美しい少年が(洋服屋の店員で、
日曜日にはアマチュア運動家)
包みを手にそこに立った。家のものが受けとり
預り証を取りに中へ入った。少年は
一人でそこで待ちながら
鏡のところへ行き、映った自分を見て
ネクタイをなおした。五分たって
預り証は手渡され、彼は帰っていった。

 この少年の姿を映して、古い鏡は「つかの間、完璧な美を映して/それを誇らしく思った。」という行が最終連に出てくる。鏡が「主役」になって独白する。
 池澤は、

数分間の出来事を扱うという点で映画的であり、視点を変えて鏡の側の思いを書くのもおもしろい。

 と書いている。
 少年が自分の姿を確認し、整える描写が簡潔で美しい。「五分たって」という時間の経過を具体的に書いているのも楽しい。ほんとうに五分か。違うかもしれないけれど(池澤の書いているように数分かもしれないけれど)、「五分」ときっちり区切っているのがおもしろい。それはちょうど鏡が少年の姿を鏡の「枠」のなかにきっちりとおさめる感じに似ている。あいまいではだめなのだ。
 このきっちりした「枠」というか、「枠」のきっちりした感じを「預り証」ということばが補足している。できごとはあいまいなようで、実は明確なのだ。明確なものを頼りに動いている。

日曜日にはアマチュア運動家

 このひとことも効果的だ。「政治運動家」ではなく、いわゆる「アスリート」なのだろう。何をしているか書いていない。しかし、余分な贅肉のついていない、しなやかな動きが服をとおしても感じられる。そこにも「かっちりした枠」がある。
 




 



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estoy loco por espana (番外28)

2019-05-15 18:59:07 | estoy loco por espana


La obra de Santa Joaquín Llorens.

Dragón abstracto.
El dragón es un animal ficticio. Abstraer al dragón puede ser una doble abstracción.

¿Dónde vive el dragón de Joaquín? ¿O de dónde viene el dragón de Joaquín?
Nacido de un volcán. Como un pájaro de fuego.
Su movimiento es interesante.
Su cuerpo primero se extiende en un círculo horizontal.
Luego cambia la dirección del movimiento en la dirección vertical. Enfréntate al cielo.
Luego vuelve a descender con un fuego hacia la tierra.

La cola de dragón que se aferra a la cima de la montaña. La cabeza que sopla fuego del cielo y mira al suelo.
Este dragón abstraído puede ser simétrico arriba y abajo.
Debido a esta impresión, el movimiento del dragón parece durar para siempre.

La pasión de Joaquin por esculpir las obras se ha formado tal como es.

 Joaquin Llorens Santa の作品。

 抽象の龍。
 龍は架空の動物。その龍を抽象化するというのは、二重の抽象化になるかもしれない。

 ホアキンの龍は、どこに住むか。あるいは、ホアキンの龍は、どこから生まれるか。
 火山から生まれる。火の鳥のように。
 その動きがおもしろい。
 その体はまず水平方向に円を描いて広がる。
 そのあと垂直方向へ運動の方向を変える。天に向かって立ち上がる。
 それから再び大地へ向かって火を噴きながら降りてくる。

 山の頂上にからみつく龍の尾。天から火を噴き、地上をにらむ頭。
 この抽象化された龍は、天地が対称になっているのかもしれない。
 この印象のために、龍の運動は永遠につづくように感じられる。

 作品をつくりつづけるホアキンの、彫刻にかける情熱がそのまま形になっている。
 
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谷川俊太郎の世界(4)

2019-05-15 14:53:01 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(4)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年05月06日)
                         2019年05月15日(水曜日)

 「チチのこいびと」をもう一度読んでみます。前に一度読んで、みんなで感想を語り合ったけれど、今度は、ちょっと読み方を変えます。私がこの詩を読むとき、どのことばに注目したか、ということを中心に、「こんな風に読んでみたら、どうだろうか」という感じで進めていきたいと思います。
 前回は、「わたし」は誰、何歳、というようなことを想像しながら読んだけれど、今度はそういうことを考えずに、ただ、ことばとことばの関係から何が書いてあるのかを読んでみたいと思います。

チチのこいびと

うちのチチにはこいびとがいます
わたしにはわかります
ハハにはないしょです

わるいことはしていますが
チチはあくにんではない
こいびとのひともきっと
わるいとおもいながら
チチをすきになってしまったのです

わたしはハハとふたりで
せんたくものをほしています
チチのこいびとはひとりで
なにをしているのかな
おひさまはあたたかいけど
わたしのこころはすこし
ひんやりしています

 一連目の「わたしにはわかります」。この「わかります」について、前回は「なぜ、わかるんだろう」というようなことを話し合いました。「わかります」を、別なことば、似たことばで言いなおすと、どう言い換えられますか?

「父に恋人がいることは間違っていない、と思います」「感じます」「知っています」「推測できます」「気づきました」

 「わかります」と「気づきました」「感じました」の違いは何だろう。

 「わかります、の方が確信的、主体的な感じ」
「気づいたよりも、わかりますの方が主観的なのだけれど絶対感がある」
「気づいただと、あるひとつの現象を見て気づいた。わかりますだと、いろんなことを考え合わせてわかる、という感じ」
「わかりますの方が、強い印象がある。絶対的な感じがする」
 
 ちょっと視点を変えてみましょう。
こういうとき「わかります」とは言っても、「気づきます」とは言わないと思う。「気づいています」は言うかもしれないですね。
 どうしてだろう。「わかります」と「気づいた」「気づいています」は何が違うんだろう。

 「日本語の問題として外国人に教えるなら、テンスかな。テンスが違う。気づいたは過去形。わかりますは現在形」

 では、なぜ、「わかりました」ではないのだろう。

 「わかりました、だとことばがきついですね」
 「時間が空いて、それが固定的になってしまって、きまった感じ。わかりますだと、まだ現在形できまった感じがしない。疑問が残る。推測している感じ」

 そうですね。「わかりました」と書くとニュアンスがぜんぜん違ってくると思う。ここが、この詩の最初のポイントだと私は考えています。
 それでは「知っています」と「わかります」は、どんなふうにつかいわけますか?

 「知っています、狭いけれど、わかりますは広い感じ」「知っています、だと確定的だけれど、わかりますは推測」「知っているは、ほかの人も知っているけれど、わかりますは自分が漠然と感じている」

 「わかりました」「気づいた」「知っています」だと「父に恋人がいる」ということが「事実」になる。けれど、「わかります」だと、それが「事実」かどうか、ほんとうは「わからない」ということになりませんか? 

「でも、わからないけれど、確信しているから、わかる、と言う。

 ここで谷川が書いている「わかります」は「客観的な事実として知っている」ということではなく、漠然とわかります、ということになりますね。ただし、漠然としているのだけれど、「確信」に通じる強さもある。

 また、視点を少し変えますね。
 「わかります」というとき、「主語」は何なのだろう。「わたしにはわかります」だから「わたし」が主語なのだけれど、「何で」わかるのだろう。「わたし」の体に属することばでいうと「何で、何を通して」わかるんだろう? 手ではわからないですね。指でもわからないですね。目や耳は、どうかな?

 「娘さんのこころ」

 そうですね、「こころ」でわかるんだと思います。「こころ」というのは、証拠みたいなものと比べると何が違うだろう。

 「こころは目には見えない。意識。物質ではない。でも、いろいろなことはつながっていて、それは感じることができる」

 「証拠」は「客観」ですね。「客観」の反対のことばは「主観」ですね。「主観」で「わかる」。一連目に書いてあることは、「主観」ということになると思う。「主観」は「こころ」。「こころ」が書いてある。父に恋人がいるということは、「証拠」として知っているのではなく、「こころ」で「わかっている」だけ。
 これは、また言いなおすと、「こころ」で「思う」ということですね。「こころ」で「わかっていると思う」。
 だから「ハハにないしょです」というのかもしれない。傷つけたくないという気持ちもあるだろうけれど、証拠がないから言えない、ということもあるかもしれない。「思っている」ことで事実ではないかもしれないからいえない。でも、確信している。少し複雑です。

 二連目に進みます。
 「わるいことをしていますが/チチはあくにんではない」というのは「事実」(客観的なことがら)ですか? 「事実」であるかもしれないけれど、客観ではなく、主観、あくまで思っていることですね。
 だから、この二連目には「思う」を補うことができます。補うと自然に聞こえる。

チチはあくにんではない「と思う」

チチを好きになってしまったのです「と思う」

 谷川の書いていることばは断定だけれど、ほんとうは「思う」が省略されている。「断定」してまうのは、「思い方」が強いからですね。一連目の「わかります」は「思う」が強くなったもの、「確信」のようなものでしたね。
 二連目も

チチはあくにんではない「とわかります」

チチを好きになってしまったのです「とわかります」

 でもいいのだけれど、こういうとき「わかります」はちょっとつかいにくい。これは「確信」とはいいにくい。特に「チチを好きになってしまったのです」は会ったこともない人なので、「わかります」と断定的にはいいにくい。そして、「わかります」がないぶんだけ、二連目はことばの調子がやわらかくなっていると感じませんか?

チチはあくにんではない「と思う」

チチを好きになってしまったのです「と思う」

 「思う」の方が私は自然だと思う。
 それにあわせるような形で「わるいとおもいながらも」と「思う」という動詞が二連目でつかわれている。「わるいとわかりながら」「わるいと知りながら」「わるいと気づきながら」でもない。あくまでも「わるいとおもいながら」。
 二連目で「思う」という動詞が隠されるような形でつかわれているけれど、これは重要なことだと私は思う。

 三連目に進みましょうか。「……と思う」は、三連目には補えるだろうか。
 最初の二行については、どうですか?

 「わたしはハハとふたりで/せんたくものをほしています、は目の前で起きている事実だから、思うは付け加えられない」
 「チチのこいびとはひとりで/なにをしているのかな、と思う。付け加えられる」

 私もそう思います。「恋人は何をしているかな」には「思う」は付け加えられる。付け加えると「意味」がはっきりする。「散文」に近くなる。
 また「思う」をつけると、その前に書かれていることの「意味」がすこし弱くなりますね。「わかります」と断定したときに比べると、弱くなっている。
 一連目の動詞「わかります」が、二連目で「思う」になって、三連目では、そういう動詞もなくなっている。なんとなくトーンダウンしている。非難しているという感じが消える。

 で、三連目で補った動詞「思う」の「主語」は何?

 「こころ」


 そうですね。主語が「こころ」とわかったとき、やっと詩の中にも「こころ」ということばが出てくる。

わたしのこころはすこし
ひんやりしています

 この「こころ」が、この詩の「主役」だと私は思います。
 詩を最初に読んだとき、「わたしはわかります」と書いてあるので、だれでも詩の主語(主人公)は「わたし」だと思う。そして、その「わたし」というのは誰だろう。何歳くらいだろう、と想像する。
 小説だと、「わたし」に名前があるかもしれない。小説の中で名前が呼ばれたり、年齢の説明が出てくる。学校へ行っているとか、働いているとか。女性とか、男性とかもわかる。
 でも、谷川はそういうことを「わからない」ように書いている。読者の想像にまかせている。
 けれども「主語(主役)」は誰なのかということは、明確に書いている。「こころ」が主役なのだと書いている。

 「こころ」と「……と思う」を補って、詩を読み直すと、こういう感じになる。

うちのチチにはこいびとがいます(こいびとがいると、わたしのこころは思います)
わたし(のこころ)にはわかります
ハハにはないしょです(なぜなら、ハハはそのことを知らないとわたしのこころは思っているからです)

わるいことはしています(とわたしのこころは思っています)が
チチはあくにんではない(とわたしのこころは思います)
こいびとのひともきっと
わるいとおもいながら
チチをすきになってしまったのです(とわたしのこころは思います)

わたしはハハとふたりで
せんたくものをほしています
チチのこいびとはひとりで
なにをしているのかな(とわたしのこころは思います)
おひさまはあたたかいけど
わたしのこころはすこし
ひんやりしています

 書き加えると、しつこいけれど、そういうことになるだろうと思います。

 ここから、もうひとつ、別のことを指摘したいと思います。
 この詩のなかで、このことばがないと詩にならない(作品として成り立たない)というのは、どのことばだと思いますか。どの行だと思いますか?
 前回、「チチ」を「ハハ」に変えられないだろうか、「わたし」が男性だとありえないか。恋人が男ということは考えられないか、というような質問をしました。
 そのとき、入れ替えが可能だということがわかりましたね。
 そうすると、それは絶対に必要なことばというわけではない。
 絶対に言い換えができないことばは、何だと思いますか?

 さっき、「わたしのこころは……と思う」ということばを補って詩を読みましたね。何度も何度も「わたしのこころは……と思う」と言っている。でも、それは省略している。ところが、終わりから二行目に、「わたしのこころ」ということばが出てくる。
 ここは、このことばがないと「意味」が通じなくなる。
 だから、ある意味では、しかたなく書いたんですね。
 それまでは省略できるから省略した。というよりも、「わたしのこころは……と思う」というのは、書いてる谷川にとってはあたりまえ、わかりきっていることなので、書く必要がなかった。別なことばで言えば、書き忘れた。でも、最後は、どうしても書かずにはいられなかった。
 私は、こういう作者がどうしても書かずにはいられなかったことば、書かないと意味が通じなくなることばを「キーワード」と呼んでいます。それはたいていの場合、むずかしいことばではなく、ひとが日常的につかっていることばです。
 ひとは誰でもことばをつかって考えている。でも、それがあまりに日常的なことなので、ことばをつかって考えているとは意識しないし、大事なことばになればなるほど、つかっているとも思わない。無意識に動かしている。その無意識になってしまったことばが、その作者にとっていちばん大事なことば。その作品で書きたかったことばなのだと考えています。
 そのいちばん書きたかった「こころ」と「ひんやりしています」が最後に、思いがけない形でぴっりと結びつく。
 「わたしは、父に恋人がいる、と思う。それは確信に近い。でも、そういうことを思う、わたしのこころは楽しいわけではない。あたたかいわけではない。何かみょうにかなしくて、さみしい。ひんやりとした感じ……」
 詩の感想を語り合ったとき「ひんやりした」がとてもいいという声があったけれど、それは「こころ」とぴったり結びついているからですね。最後のさいごで「こころ」を登場させ、「ここす」に読者の意識を集中させることを狙って書いていると思います。

 さらに、もう一つ別の読み方をしてみます。いまの読み方を少し角度を変えただけなのですが。
 私は「キーワード」と同時に「動詞」に注目して詩を読みます。「動詞」が詩の中でどうつかわれているか。「動詞」に注目するのは、「動詞」というのは「肉体」の動き。自分の「肉体」で確かめることができる。まねすることができる。そういうものは、いつでも信じることができる。
 この詩の場合、「まねする」というのはちょっと難しいかもしれないけれど。「わかる」「おもう」という抽象的な動きなので。
 で、動詞に注目すると、一連目は「わかる」、二連目は「思う」、三連目は動詞の変わりに「こころ」という名詞が登場する。いや、そうではなくて、三連目は「ひんやりする」という動詞がつかわれている。文章にすると「こころで、わかる」「こころで、おもう」「こころが、ひんやりする」と動詞の使い方、動詞の種類が少し違う。他動詞と自動詞(でいいのかな?)と違うのだけれど、「こころ」が主語として共通する。「こころ」を共通させながら、動詞を少しずつ変化させて、その変化の中に意味をこめいてる。
 そして、そうやって「キーワード」と「動詞」を組み合わせ直してみると、

わたしのチチにはこいびとがいるとわかります。そしてそのとき、わたしのこころは、「わくわく」でも「ほんわか」でもなく「ひんやりします」

 こういうことが書かれているのだ、私は思います。最後の二行が印象的なのは、そこに谷川の書きたいことが集中しているからですね。
 これはあくまで、私の読み方、私の感想です。


 「つばさ」を読んでみましょうか。

はとにはつばさがある
ちょうちょにもはえにもつばさがある
でもわたしにはつばさがない
それがうんめいというものだとおもう

わたしもそらをとぶけど
ひこうきはうるさい
にんげんはそらをとばなくていい
そらにあこがれているだけでいい

でもやっぱりわたしはとびたい
じぶんひとりでとびたい
だれにもたよらず なににもたよらず
ふんわりあおぞらにうかびたい

どこへもいかなくていい
わたしはただ…ただ…わたしは…
ちきゅうからはなれたいだけ…なんて…
いったいわたしはどうしたいのだろう

 この詩の「キーワード」は何だと思いますか?
 「ない」と「ある」が繰り返されていますね。「できない」と「できる」と言いなおされてもいる。「ある」は「いる」とも言いなおされている。二連目の「そらにあこがれているだけでいい」は「そらへのあこがれがあるだけでいい、あこがれることができるだけでいい」。
 「できない」は「したい」ということば「対」になっている。また「したい」は「とうしたいのだろう」という疑問とも「対」になっている。
 こういう「対」になっていることばは、「論理」を動かすときに必要なものですね。これも確かに必要なんだけれど、こんなふうに形を変えながら何度も出てくるということは、「キーワード」とは少し違う。
 書かずにいられないことばとは少し違うと私は考えています。

 そう思って読んでいくと、三連目に「じぶんひとりで」ということばがある。
 「つばさをつかわずに、じぶんひとりで」飛びたい。「ひこうきにのらずに、じぶんひとりで」飛びたい。「じぶんひとりで」は「だれにもたよらず なににもたよらず」ということですね。
 でも、「ひとり」だとどうなるのだろう。
 もしひとりなら、「はと」や「ちょうちょ」さえいなかったら「つばさ」に気がつくことはない。自分に「ない」ものがほかのものに「ある」から、自分に「できない」ことがあり、ほかのひとには「できる」ことがあるから、ひとはあれこれ考える。
 「ひとり」というのは、どういうことなんだろう。
 宇宙の真ん中で、自分が「ひとり」。これを強調して、四連につかわれている「ただ」を補うこともできる。「ただひとり」。孤独。その孤独が瞬間的につかみ取る「わたしいがいのもののいのち」との交流が「宇宙」そのものをつくっていく。
 これは谷川の多くの詩に共通する「感覚」だと思う。そういうものを谷川は書きたいのだと私は感じています。






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