詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)

2014-09-27 09:27:27 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)2014年09月27日(土曜日)

 「一九〇六年六月二七日午後二時」は公開処刑の様子を描いている。息子が処刑される場に立ち会った母親の姿。

「ああ、たったの十七年。十七年だ。一緒にいたのは!」
息子が絞首台の階段を登らされ、
十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、
暗い怒りのすすり泣きがたえだえに聞こえてきた時、
犠牲の母は大地に転がりまわった。
彼女の嘆きはもう歳月ではなかった。
「たったの十七日」と彼女は号泣した。
「おまえとおれたのはたったの十七日だったよお」

 「十七年」が「十七日」にかわっている。区別ができなくなっている。混乱している。それが母親の嘆きの深さを語っている。
 原文がわからないので推測だが、この「十七年」と「十七日」は「十七年」と「十七」かもしれない。後の嘆きは「歳月」をあらわす序数詞をもたないかもしれない。どのような時間の「単位」を選ぶかは、読者に任されているかもしれない。それを中井久夫は、対比が明確になるように「日」を補って訳したのかもしれない。
 この母の激しい動き(精神の混乱)を描くと同時に、カヴァフィスは、絞首刑にあった青年の姿も描いている。

十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、

 この描写は母親の描写に比べると、とても静的である。この「静」があって、母の「動」の激しさがより際立つ。
 また「若い形の良い身体」という表現がなまめかしい。美しい身体には死が似合う。それも不幸な死が似合う。これはカヴァフィスの好みなのかもしれない。
 若者の死に向き合いながら、こういう「感想(思い)」が動くのは不謹慎かもしれない。けれど、感情というのはいつでも不謹慎なものである。つまり、その場の「雰囲気」にあわせるよりも、まず自分の欲望にしたがって動くものである。
 それは母親の激情と同じである。母親は、そんなふうに大声で嘆くことがその場にふさわしいことかどうかなど考えない。その姿が息子の精神にどんな影響を与えるか、その母の姿をみた息子がどう思うか、など考えない。また、その場に居合わせた他人がどう思うかも考えない。同情するのか、批判するのか。そこには「主観」しかない。

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