詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ「フィアルタの春」

2006-03-31 22:46:09 | その他(音楽、小説etc)
 ナボコフ「フィアルタの春」(「ナボコフ短篇全集Ⅱ」作品社)に少し変わった文章がある。

安っぽく形式ばった親しい「きみ(トゥイ)」という呼びかけを、表現力豊かで心のこもった敬称の「あなた(ヴイ)」に替えて

この文章には沼野充義の訳注がついている。

ロシア語の「トゥイ」は親しい間柄で使う二人称代名詞。ここで「トゥイ」から「ヴイ」に切り替えるのは唐突で異様

 この注釈を読みながら、あ、形式的な判断だなあと思った。
 私はロシア語は知らないが、類似の二人称代名詞はフランス語にもスペイン語にもある。そしてフランス語もスペイン語も「チュ」「トゥ」は「ヴゥ」「ヴゥ」よりも親しく気の置けない間柄でつかう二人称代名詞と「定義」されている。たぶんロシア語も同じだろう。
 ただ、ナボコフ(あるいは、この小説の主人公)が同じふうに感じているかどうかは別問題だろう。
 原文はわからないが沼野の訳に従えば「トゥイ」には「親しい」のほかに「安っぽく形式ばった」という修飾語がついている。親しい間柄、親しみをこめた呼称と定義される「トゥイ」、その定義をナボコフは「安っぽく」かつ「形式的」と感じたのではないのか。本当の親しさは「トゥイ」という表現をつかうかどうかでは決められない。そう言いたいのではないだろうか。
 「ヴイ」も同じ。それは親しくない関係、隔たりのある二人称呼称であるように定義されているが、そうではなく「心のこもった」呼称であるとナボコフは感じていたのだろう。

 ことばは「辞書」の定義どおりではない。辞書になる定義とは違った印象、思いを、それぞれの作家が持っている。ことばにこだわるナボコフならなおさらそうかもしれない。そうした作家の文章を辞書の定義どおりにとらえてしまったのでは作家が表現したものを見落としてしまうだろう。

 なぜ「安っぽく形式ばった」という修飾語をナボコフはつかったのか。
 「トゥイ」を親しい呼称ととらえて、表面的に人間関係を判断するということをナボコフは嫌ったということだろう。そして、その嫌悪感のなかにこそ「詩」がある。ナボコフの個性がある。

 安直な注釈であるように思った。



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白鳥信也「血はダンスしている」

2006-03-31 18:23:58 | 詩集
 白鳥信也「血はダンスしている」(「フットスタンプ」12号)はなかほどにおもしろい部分がある。蚊に血を吸われる。そのことを書いているだけだが……。

私の血液を吸った蚊は新聞配達の青年の血液も吸い宅配便の中年男の血液も吸い
隣の池上さんの血液も吸い
我が家の門前で小便を毎日垂らす茶色の小型犬の血液を吸い
放尿を漫然と待っているどこか近所に住まう中年女性の血液も吸い
家族より愛してやまない私の自動車のボンネットに脱糞する野良猫の血液も吸っているはずだいやいや吸わずにいられないはず

 「血液を吸い」(吸う)ということばの繰り返しが世界を広げていく。ただ、白鳥の試みは私の感覚では「詩」になりきれていない。リズムが重たい。スピード感に欠ける。軽みが足りない。たぶん「脚韻」形式の繰り返しがことばを重くさせるのだと思う。日本語の詩歌は(その伝統は)たいてい脚韻ではなく頭韻をそろえる。

もっと広い湖
もっとお得の湖が必要だ
無数の水面のダンス
無数の水面のキス
無数の血液の交じり合い

 これは先に引用した行のあとに登場することばだが、こちらの方が素早い動きがある。行の短さというより「頭韻」と「脚韻」の違いだろう。「もっと」の繰り返し、「複数の水面の」の繰り返しのなかには、水が動くときの色の動きのようなものがある。これを大切にしてもらいたかったと思う。
 この脚韻と頭韻の処理と同じように、白鳥の作品には複数の要素がまじっている。そのため「生きている水はかゆいな」という最後の行のゆかいなことばが立ち上がりきれていない。それが残念だ。
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吉田文憲「(あなたの)、文字の瞳が、うれしい  福井桂子に」

2006-03-30 12:57:36 | 詩集
 吉田文憲「(あなたの)、文字の瞳が、うれしい  福井桂子に」(「現代詩手帖」 4月号)の冒頭が美しい。

(あなたの)、文字の瞳が、うれしい、……と書いて、息を継げなくなったまま、何年が経ったでしょうか。あなたが、括弧になって括られた、その括弧のところに通う風、ふりそそぐ光、……その括弧のなかに(わたし)も入って、池の白い椅子のまわりを何度も何度も回っていた気がするのです。

 「あなた」について思いめぐらすとき、その「あなた」のなかには「わたし」が含まれる。これは当然のことのようだが当然ではないかもしれない。人はしばしば「わたし」を忘れてしまって「あなた」についてだけ思いめぐらすものである。暴力的に「あなた」を決めつけてしまうことがある。「あなた」を「わたし」のなかの「あなた」の枠に閉じ込めてしまうこともある。
 吉田は、ここではそういことをしない。「あなた」のことばに触れて、なにかを感じる。そのとき、「あなた」のなかに「わたし」も含まれていると感じる。「あなた」のなかに含まれている「わたし」が「あなた」のことばをとおして姿をあらわす、「あなた」と一緒に「あなた」の行為をくりかえす、と感じている。
 引用をつづける。

ここから、遠くまで行って、帰ってきて、別の場所へ行って、また行方不明になって、また別の場所から帰ってきたような気がするのです。別の町で、別の場所で、もうあなたではない別の名前を呼んで、そこで呼ばれていたような気がするのです。あれから、五年、いや六年、なにもわからなくなって、なにもわからなくなって、わたしも、セキレイに魂はありますか、と川にむかって呟いていたような気がするのです。

 「わたしも、セキレイに魂はありますか、と川にむかって呟いていたような気がするのです。」の「わたしも」が重要である。「あなた」と「わたし」は、このとき一体である。ひとを好きになる(ひとに感動する)とは、確かにそういう体験である。「あなた」がなにかをつぶやく。そのつぶやきが「わたし」のなかから同じことばを引き出す。引き出されたことばは「あなた」のものであると同時に「わたし」のものである。引き出されたことばによって「わたし」が新しく生まれる。
 その誕生をなつかしく思い出し、誕生を手助けしてくれた「あなた」に感謝、お礼のことばを述べた、静かで落ち着いた詩である。



 この詩に先立つ「立ち去ったものの息にふれて」も同じく福井桂子にささげられたものとして読むことができるだろう。その最後の2行。

わからないことばを綴る、口の形に--
立ち去ったものの息にふれて、わたしはここまできたのだ

 「ふれる」のは本当はことばではない。ことばとともにある「息」である。ことばは頭のなかをめぐる。しかし「息」は体のなか、肉のなかをめぐる。血のなかをめぐる。それは肉体のなかに溶け込み、肉体と切り離すことはできない。
 「ことば」のように他人に、「これが、その息」というふうに指し示すことはできない。
 だからこそ、吉田は

(あなたの)、文字の瞳が、うれしい、……と書いて、息を継げなくなったまま、何年が経ったでしょうか。

と書くしかない。「あなた」の「息」を、これからは吉田が「わたし」の「息」として、自分自身で呼吸しなければならない。「引き継ぐ」のではなく、新しくはじめなければならない。
 「息を継げなくなった」ことを自覚し、そこから「息」をはじめる。ここから吉田の今度の「詩」がはじまる。
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茨木のり子を読む

2006-03-29 14:21:09 | 詩集
 現代詩手帖4月号が茨木のり子追悼特集を組んでいる。あらためて茨木の詩を読み直した。(引用の作品は現代詩手帖4月号から)

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱   (「根府川の海」)

 「無知」。この自覚が茨木の出発点であろう。何に対する無知か。「わたしが一番きれいだったとき」を読むとそれがわかる。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていった
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 社会の動きに対して無知だった。社会に対してどう行動していいか知らなかった、ということだ。これは「十代」には特別かわったことではない。まして茨木が十代を生きた戦中のことを思うと、そこで起きていることに対して明確な自覚を持ち、行動をとるということは難しい。
 それでも茨木は「無知」と書く。「無知」を「わたしの頭はからっぽ」と言い換えて自覚することをおこたらない。いや、自覚を、さらに奥深いものにしていく。
 「根府川の海」で「無知で純粋だった」と書かれていたことばは、この作品では「頭はからっぽ」「心はかたくな」と書き換えられている。「無知」と「頭はからっぽ」はきわめて近いが、「純粋」と「心はかたくな」はかなりニュアンスが違う。「純粋」と信じていたものは、本当は「かたくな」なだけだったかもしれない。
 自己をみつめるだけではなく、他人をみつめ始めている。他人に対する寛容が、ここにある。それは同時に茨木自身への寛容でもある。「無知」だったことを許す。受け入れる。「純粋」だったことを許す。受け入れる。この寛容があって、茨木のことばは多くの読者に(現代詩をあまり読まない読者にも)とどくものとなる。
 そして、この寛容は、もう一度「無知」へとかえってきて、大変身をとげる。「木の実」に茨木の到達した世界がある。

高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏である

ミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょい引掛けて
それが眼窩であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ

生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない

小さなこめかみのひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指をからませて
やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)
もし それが わたしだったら……

絶句して そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
嵌めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝く

もし それが わたしだったら
に続く一行を 遂にに立たせられないまま

     (4連目の「こめかみ」は本文は漢字。表記できないのでひらがなで代用)

 「無知」は単に「頭がからっぽ」ということではない。社会の動きを知らないということではない。社会に対してどう行動をとるべきか知らないということではない。
 「無知」には常に感情、こころがついてまわっている。「純粋」とか「かたくな」とか、ことばにしてしまえる感情、こころだけではない。ことばにしようとしてことばにできない感情、思いが、いつもついてまわっている。
 茨木は突然それを自覚する。
 「もし それが わたしだったら……」。どうするか、茨木は言うことができない。1年たっても、何年かたっても、どうするかを言うことができない。実際に行動するのではなく、どう行動するか、その想像さえできない。
 人には、そういう瞬間があるのだ。誰でも、どうしていいかわからないことがあるのだ。
 人はみな「無知」だった。人はみな「純粋」だった。それは茨木だけのことではない。そして多くの人は「無知」だったとことばにすることも、「純粋」だったとことばにすることもできない。しようとしても、そのことばがみつからない。
 ことばにできないことがらに出会って、茨木は、多くの人が、またことばにできずに生きているということを知ったのだろう。そういう人と一緒に生きているのが世界だと知ったのだろう。

 茨木の詩は倫理的である。説教くさい部分がある。しかし、それは、そうしたことばを言いたくても言えない多くの人がいると知っているから、それを書かずにはいられないのだろう。
 「自分の感受性くらい」にしろ「倚(よ)りかからず」にしろ、それは他者への叱責ではなく、読者に対して、「あなたもこんなふうに怒りをことばにしてみたいとおもうときがあるでしょ、わたしと一緒にあなたも怒りをことばにしてみませんか?」という誘いかけである。
 読者は茨木の詩を読むとき、茨木のことばを読みながら、同時に、同じことばが自分のなかから立ち上がってくるのにあわせ、声を出すのである。茨木の声に自分の声を重ね、それを自分の声にするのである。
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神尾和寿「子羊ツアー」

2006-03-28 22:18:26 | 詩集
 神尾和寿「子羊ツアー」(「ガーネット」48)。ちょっとおもしろい。いや、かなりおもしろい。そして、とてもかなしい。この「かなしい」がうまくことばにならない。どの連でもいいのだが2連目を引用してみる。


皆様の方から
右手に
出現してまいりますのは、
巨大な観音像でございまして、
ハダシ
と 地元の人からは
呼ばれて すがりつかれております。
何となれば、
夜中の火事に 慌ててしまった結果
と 言い伝えられております。 これから
このバスは
狼狽のにおいを嗅ぐために、
彼女の足元に ぐっと近づいてまいります。
窓と 胸元を
全面にお開けいただけましたなら。
度肝を抜いて
旋回。


 リズムがいい。これは省略が効いているということだ。余分な説明がない、というより説明する気がない。さらにいえば、説明なんかいるもんか、という雰囲気がいい。
 ハダシか。そうか、夜中の火事にあわてて靴を履く暇がなかった。そうだろうなあ。気づいてから狼狽したのか。そうか、「狼狽」とは、よくつかうことばだが、そんなときに「狼狽」というのか。
 説明がないにもかかわらず、妙に納得してしまう。
 たぶん、「ツアー」(旅行)というのは、そういう気分なのだなあ。「ほーっ」と日常を忘れてしまう。しかし、その「ほーっ」にはなぜか日常が、奥の方で残っている。
 それが「かなしい」。
 「窓と 胸元を」からの4行も、奇妙にこころに入り込んでくる。
 肉体が納得していて、こころも薄々感じている、しかし頭でははっきりとは理解していない。そういうことがらが、ありきたりの「口語」で書かれている。「口語」であることが「かなしい」につながっているのだと思う。
 肉体では知り尽くしている。こころは知っているけれど知らんぷりをしたがっている。頭は、その関係を整理できずにいる。そういう「口語」、知らずに口をついて出てしまうことば、その「かなしみ」のようなものが神尾の詩にはある。
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高岡修句集『蝶の髪』

2006-03-27 23:18:59 | その他(音楽、小説etc)
 高岡修句集『蝶の髪』(ジャプラン「かごしま俳句文庫 2」)の作品群は、ことばが強い。情景よりも先にことばが立ち上がってくる。

昼の馬あおい湖底を吐いている

白葱のしろい性器がみえている

肉欲の光(かげ)を出てゆくかたつむり

花の奥ひかり潰れる音がする

寂寥が来て山斧をかなします

枯野着て鶴がとかしている夕日

 ことばが立ち上がってきて、それから「個性」が立ち上がってくる。「高岡修」という人間が立ち上がってくる。
 これはあたりまえのことであり、ことばというものはそういうものでなくてはならないと思う。思うけれど、なぜか少し目障りに感じてしまう。「私は世界をこんなふうに見ている(認識している)」と宣言しているように感じてしまう。世界と一体となった高岡、たとえば、「寂寥が来て山斧をかなします」なら、その斧が高岡なのか、高岡がその斧なのか、という一体感の愉悦ではなく、なんだか世界を世界の外から見ている視線を感じてしまう。存在(描かれている対象)をとおして世界に「なる」という感じではなく、存在をとおして世界を批評している、存在をとおして世界の外へでている、という感じがする。存在を高岡が超越している、存在と高岡が分離している、という感じがする。
 あるいは逆か。
 ある存在と存在が出会い、そこに「一期一会」の世界が生成するというより、高岡の視力(あるいは聴力、さらには精神力、形而上学力?)が存在と存在の出会いを演出し、ことばの力で「一期一会」を力で構成している、といえばいいのだろうか。高岡がいなければありえない出会いが演出されている。高岡が、役者を演出し、ある劇的世界を構成するように、世界を演出している、といえばいいのだろうか。高岡が、世界という舞台を、舞台の外から演出しているという感じがする。

 存在から自己を引き剥がし、厳しい批評の視線で世界をみつめる、というのは精神のありようとしておもしろいし、そこに強烈な個性を感じる。格好いいなあ、と思う。しかし一方で、その格好よさは、俳句とは無縁の私にはなんだか窮屈な感じもする。世界ととけあった、ゆったりした感覚がほしいなあ、と思ってしまう。これは単に私と高岡との「俳句観」が違うということだけのことかもしれないが。

 好きな句3句。

滝となるうしろを秋に盗まれて

稲びかり水鋼鉄のごとく在る

裏の木へ顔かけたまま五十年

 三句目はちょっと高岡らしくないかもしれない。しかし、私は三句目くらいの静けさの方が気持ちがいい。

 俳句の門外漢からの疑問をひとつ。

水仙の情事のあとのうすにごり

 「水仙の」ではなく「水仙や」では、どんな感じなのだろう。「水仙の」ではなく「水仙や」なら、この句が私はもっとも好きな句ということになるが……。


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山本哲也詩集を読む(5)

2006-03-26 21:20:00 | 詩集
 「一篇の詩を書いてしまうと」で山本は大きな変化を見せる。「バニシング・ポイント」では「ひらいてゆく距離」は新しい展開を見せる。

いきなり線をひかれた
死体のあった場所をチョークで囲むように
巨大な空白に線がひかれた
降りていく階段は足のさきから消えている

階段が消え
虫喰状に破れた天蓋がめくられ
こわれていくニンゲンは
こわれていくニンゲンとして
みまもっていかなければならなかった
青空は 雨を吸ったくろい地面をはらみながら
べつべつの欲望をそだて
細部まで空白をみたそうとする

 「ひらいてゆく距離」は存在しない。向こう側は存在しない。ただ空白がある。しかも、それは足先にまで近づいている。「線」は山本のすぐそばにある。
 「ひらいてゆく距離」というとき、彼方が想定されていた。行くつくさき、たとえば革命(という理想)が想定されていた。しかし、いま、そうしたものはない。彼方は存在せず、山本の「外」は単なる空白である。
 「静かな家」の旅が山本自身の内部への旅だと私は仮定して読んだが、そのつづきで言うなら、実は内部などないのだ、というのがこの詩集の「思想」である。
 人間をささえる「暗いちから」、仕事を「くだらない」と思うこころ、「くだらない」と思いながらも「心をこめてやるしかなかった」と思うこころ、精神、あるいは感情、抒情といえばいいだろうか、そんなものなどない。そんなものは「こわれて」しまったのである。内部をなくしてニンゲン(と山本はカタカナで書く)は「こわれていく」だけである。こわれていくことだけが人間の仕事である。
 というより、こわしていく、自己を破壊していくことが人間の仕事である、と言い換えた方が「思想」のことばらしくなるだろうか。

 山本がここで試みていることは、それまでの山本の「詩」の破壊である。「抒情」の否定である。「抒情」では世界とわたりあえない、という認識が山本をそうした破壊行動へ駆り立てるのだろう。

 「現代詩文庫」の解説を読むと、北川透も「こわれていくニンゲン」ということばに注目して山本の作品を読んでいる。私もその行(ことば)は重要だと思うが、もうひとつ見逃してならないのは1行目の「線」だと思う。
 線とは、内部と外部の区切りであり、それぞれの「表層」である。
 山本は「線」に向けて、自己をこわしていく。表層であることによって、自己をこわしていく。内部などない。外部もない。抒情もない。いま、自己を囲む「線」そのものになる。それも「死体」を囲む「線」になる。もっと丁寧にいえば「死体のあった場所」を示す「線」になる。(「死体」とは内部が存在しない、内部に「暗いちから」も明るい力も内包していないからっぽのことである)。人間が、どんな形で死んだか、いのちをこわしてしまったか、それを「線」として描くのが、人間をこわしていくという行為であり、「詩」の仕事だと山本は感じている。
 山本はこの詩集で再出発したのだと思う。ただこの詩集は、そういう意味では「出発宣言」のようなものでもある。私は、これから山本がどんなふうに線をひきつづけるのか、それをこそ読みたいと思う。
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山本哲也詩集を読む(4)

2006-03-25 13:55:23 | 詩集
 「静かな家」は大好きな詩集だ。「桃」の第一連がとてもいい。

男がビールを飲んでいる
くだらない仕事でも
心をこめてやるしかなかった
男はビールを飲んでいる
遠くで鉄橋が鳴っている
枝豆の頼りない色をみている
電車が通過しているあいだ
鉄橋が鳴る
そんな暗いちからが必要だった

 4行目の「男はビールを飲んでいる」がすばらしい。第一行目の繰り返しのようだが、単なる繰り返しではない。自己を見つめなおし、見つめなおすことで山本は真に山本になる。
 そこから思想が始まる。
 4行目の「男はビールを飲んでいる」に先立つ「くだらない仕事でも/心をこめてやるしかなかった」は多くのひとが体験することだ。ここまでなら誰でも思う。多くの人に共有される感慨である。そこには個性はない。あらゆる感慨は個性をもってはじめて「思想」になる。個性的であるがゆえに、深く共有されるものになる。

 「男はビールを飲んでいる」と自己自身を見つめなおしたとき、世界はどんなふうに立ち上がってくるか。

遠くで鉄橋が鳴っている

 「遠く」。山本はまず「遠く」を感じる。「遠く」は山本と世界の「ひらいてゆく距離」をあらわしている。100メートルとか35メートルとか具体的に言えない「距離」。「遠く」としかいえないぼんやりした距離。そのなかにいるから生の実感がない。
 では「近く」はどうか。

枝豆のたよりない色をみている

 近くも「遠く」と同様に「たよりない」。目に見えない不安。このとき「遠く」と「たよりない」はどこかで通い合った感覚である。
 また「たよりない色」の「色」は山本が「視覚」を動員して世界をとらえなおそうとしていることをあらわしている。
 前の行の「鳴っている」はぼんやりとした聴覚がとらえた世界ということもできる。

電車が通過しているあいだ
鉄橋が鳴る

 これは「遠くで鉄橋が鳴っている」の繰り返しのようだが、4行目の「男はビールを飲んでいる」同様、単なる繰り返しではない。
 視覚で「色」をみつめた山本は、今度は意識的に聴覚を動員して世界をもう一度見つめなおそうとしている。肉体を、感覚を動員して世界と山本の関係をみつめなおそうとしている。
 私たちは誰でも感覚を総動員して世界と向き合っているが、その感覚が融合し、世界をとらえるとき、五感ではとらえられない世界、五感を超えた世界が姿をあらわす。
 思想が立ち上がる。

そんな暗い力が必要だった

 「暗いちから」。
 これは視覚でも聴覚でもとらえられない存在、ことばだけがたどりつくことのできる「思想」である。

 「暗いちから」と呼ばれたものは具体的には何だろうか。電車が鉄橋を渡る音。たしかにその音は鉄橋の仕事(その上を渡るものを支える)とも電車の仕事(何かを運ぶ)とも関係がない。なければなくてもかまわない。不必要なものだ。しかし、それを山本は「必要」と呼ぶ。
 それは「くだらない仕事」に似ているか。鉄橋の音は鉄橋の安全、電車の安全の目印であるという「くだらない仕事」のようなものか。「うるさい」と否定的に呼ばれるような「くだらない仕事」か。
 そうではない。

 「暗いちから」とはある仕事を「くだらない」と思ったり、思いながらも「心をこめてやるしかなかった」と思ってしまう、そのこころの動き、思いそのものだ。人間は誰でも口に出すのをはばかるような思いを内にもっている。「暗い」思いを抱いている。そしてそれこそが「ちから」なのである。

 遠くで鉄橋を渡る電車は、山本の自己の内部旅する電車であるかもしれない。

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往復詩のお知らせ

2006-03-24 14:36:47 | 詩集
梅田智江さんと往復詩『外を見るひと』 をはじめました。

往復詩は詩の「キャッチボール」のようなものです。
互いに詩を投げ合って、あるいは受け止めあって、そのとき感じたものをつうじて自分の声を探し出す。
受け止めやすいボール(作品)を投げたり、わざと暴投したり、あるいは簡単なボールなのにぽろりとこぼしたり……。
距離が縮まるのか広がるのか。あるいはだんだん違う場所へ行ってしまうのか。
どうなることか、さっぱりわかりません。

作品は
http://www.asahi-net.or.jp/~kk3s-yc/yachi/Ppoem/2006poem/02-0323.html
に発表しています。
感想を
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372044/bbs_plain
にお寄せいただければありがたく思います。

*

梅田さんのサイトも訪問してみてください。
詩のほかに世界旅行日記、写真、イラストなどエネルギー溢れるサイトです。
URLは
http://www.h6.dion.ne.jp/~karibu/index.html
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山本哲也詩集を読む(3)

2006-03-24 14:29:14 | 詩集
 山本哲也の詩の特質は比喩の疾走と比喩の失墜の振幅の大きさにあると言っていいかもしれない。あるイメージが疾走する、あるいは飛翔する。するとそれにつづいて、その比喩のすぐそばを疾走や飛翔を裏切るように、そっくりの比喩がつまずき、墜落する。その振幅のなかに「生」が姿をあらわす。
 だが、私が本当に好きなのは、そうしたことばの饗宴ではない。「冬の光」のなかの一篇を選ぶとすれば、私は「聖五月」を選ぶ。

照り返しのなかを妻が帰ってくる
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり くりかえしくりかえし
妻が帰ってくる
胸にかかえている紙袋のなかの暗い卵
ストッキングにつつまれた脚
なにもかも透けて
血が あんなにめぐっているのがわかる
どうやってなだめたらいいのだろう

水は風呂桶のへりまでたたえられてふるえる
音消したテレビなのに
チェロ弾きはやっぱりチェロを弾いた
いやだいやだ せめて
生活者のささやかな侮蔑に値すること
もしそうでなければ!
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり くりかえしくりかえし
きみが帰ってくる

 この作品の恐怖は最終行の「きみ」にある。この「きみ」とは最初に出てくる妻ではない。山本自身である。そこが、怖い。
 「なにもかも透けて」と山本は書くが現実にはたとえば紙袋は透けはしない。透けはしないのに透けて見えるのは想像力の働きである。想像力とは現実にあるものをねじまげて別のものとして見る力である。現実には卵が見えないのに卵を見てしまう。しかも単なる卵ではなく「暗い卵」を見てしまう。
 この「暗い卵」は、そして、山本からはけっして見えないものである。紙袋に卵をいれた妻だけが本当はそれが「暗い卵」であると想像することができる。つまり、胸にかかえなければならないほど壊れやすく不安なものを抱え込んだ卵であると想像できるのは妻だけである。
 妻が紙袋のなかに暗い卵をもっていると描写した瞬間から、山本は、実は妻になっている。ストッキングにつつんだ脚なのに(これは、すぐ前の紙袋のなかの暗い卵の言い換えである)、そのなかに血がめぐっているのが透けて見えるのではなく、実は、血が透けて見えるからこそストッキングで隠すのだ。暗い卵だからこそ紙袋にいれて隠すのだ。そして、そういう行為をしているのは、妻ではなく、山本である。
 この静かな狂気のような悲しみは、実は

ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり くりかえしくりかえし

 という行から始まっている。
 何度も何度もくりかえし角を曲がる姿を見る位置はどこにもない。このくりかえしは、空間(地理)のくりかえしではない。時間のくりかえしてある。きのうも、おとついも、そしてあすも、あさっても、くりかえされる。
 時間を共有することで(一緒に暮らすことで)、ほんらい他人である人間、内部がわからない人間の内部が「透けて」みえるように錯覚する。ほんらいある「距離」が消えてしまったように感じる。
 しかし、その「距離」は消えなどしない。距離がないと感じれば感じるほど、その裏側で開いて行く。亀裂が深くなっていく。

 「ひらいてゆく距離」の絶望。それと重なり合うために、山本は「きみ」になる。自己を「きみ」と呼び、想像力のなかで「妻」になる。そうやってかさなりあったときのみ「ひらいてゆく距離」の「ひらいてゆく」じわじわとした恐怖が現実のものになるからだ。
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山本哲也詩集を読む(2)

2006-03-23 21:41:30 | 詩集
 「風景」を含む『労働、ぼくらの幻影』と『連禱騒々』のあいだには大きな隔たりがある。
 『労働』には「きみ」がいた。つまり「きみ」を認識する「ぼく」がいた。その「きみ」は「風景」では漁夫であった。漁夫を仮の主語として「ひらいてゆく距離」を山本は描いていた。
 ところが『連禱騒々』では「きみ」はいなくなる。つまり「ぼく」がいなくなる。主語は「ことば」にとってかわる。

どのような理由も弁証もなく
屹立する断崖の痛いかがやき    (「連禱騒々」)

 世界と山本の関係は相変わらず「ひらいてゆく距離」のままである。しかし、今、山本はその「ひらいてゆく距離」を比喩でたぐりよせようとはしない。逆に、ひらいてゆく距離をひらいた距離のままに存在させ、そのひろがりのなかで「ことば」を屹立させる。そしてそのことばには「どのような理由も弁証もな」い。
 「どのような理由も弁証もな」い「ことば」、それが山本にとっての「詩」である。理由や弁証があるとき、それは「詩」ではなく「散文」にすぎない。

どのような理由も弁証もなく
屹立する断崖の痛いかがやき
まだとどかない破滅の照りかえし
その中心でみずすましのようにますますちいさい燈明となり
ついには棒立ちになってぶっ倒れること

 「連禱騒々」の書き出しに、この詩集の特徴のすべてがあらわれている。
 この5行の「主語」は何か。「かがやき」がテキスト上の「主語」とみなされるかもしれない。しかし、それは「照りかえし」「燈明」というふうに、前のことばをひきずりながら姿をかえていく。このとき読者が(私が)見ているのは「光のようなもの」であり、いまだ名付けられていない存在である。
 そうした存在(もの)をどのような理由も弁証もなく、山本は屹立させる。ことばをことばの運動そのものにまかせる。自立したことばの運動。自律といいかえたほうがいいかもしれない。ことばの自律運動。それが「詩」である。

 「ひらいてゆく距離」にあらがうように、ことばの自律運動がはじまる。山本はそれを目撃する。そしてそれをただ書き留める。祈るように。たしかに、これは山本の祈りなのだろう。
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山本哲也詩集を読む(1)

2006-03-22 22:42:44 | 詩集
 山本哲也詩集(現代詩文庫180)を読む。

 「風景」は埋め立て地と埋め立て地によって漁を奪われた人間との関係を描いている。

港に繋留される船のように
豪華船の窓に似たビルが
もうすぐそこにたつだろう
そうやって
風景はこわれてゆく
上陸(あが)りをよびもどされるとき
船乗りと海のあいだで
かっきりとはりつめるあの緊張は
もうずっと遠くの方だ
漁夫たちは
ひらいてゆく距離を
テグスのようにたぐりよせようとするが
かれらの風景は
けっしてあらわれない

 「ひらいてゆく距離」が山本の「詩」の源風景かもしれない。「私」が生きてきたのはここではない場所。そして故郷はどんどん遠くなってゆく。しかし、故郷はなくなるのではなく、必ずどこかにある。それは現実の世界から消えてしまっても、たとえば「総天然色の外国映画」(第3連)のなかにある。虚構、あるいは創作物のなかにある。そして、それが虚構や創作であれば、彼と故郷との距離はさらにさらにひらいてゆくものとしてしか存在し得ない。
 山本のことばに悲しみが潜んでいるとすれば、それはひらいてゆく距離のために生じる悲しみである。

 これは逆のことばでいえば、人は何かを手にしてしまうとけっして失うことはできない。うしなったつもりで、ただひらいてゆくばかりの距離をしっかりと握りしめている、ということだ。

 しかし、この悲しみは「虚構」かもしれない。山本の詩はたしかに「風景」からはじまっているが、最近の詩はそうした世界とは違ったものである。(これは後日書くことになると思う。)
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来住野恵子『天使の重力』

2006-03-21 23:05:12 | 詩集
 来住野恵子『天使の重力』(書肆山田)を読む。表題詩におもしろいことばがある。

もう一度会おう
言葉で

 この詩集は、来住野が出会ったものにもう一度出会う詩集である。それも、ことばで。見るのでも聞くのでも触れるのでもない。ことばで語り直すとき、来住野はかけがえのないものと出会い直す。一期一会の出会い、その瞬間の自己生成(つまり変身)----それが来住野の「詩」である。

 この出会いを来住野は同じ作品のなかで、別の表現で語っている。

眼を閉じて
音合わせを使用
裸(ラ)は
たましいの開放弦
触れる指先のほの昏いちから
心は空(から)に満ち
限りあるものは
限りないものに奏でられ
はじめて音楽になる

 来住野は詩集のなかでしばしば音楽について語っている。この連もそうしたもののひとつであるが、私がおもしろいと感じたのは「心は空(から)に満ち」という表現である。おそらくここに思想がある。思考の根っこがある。
 この「空(から)」は来住野の外部にあるのではない。外部にある「空」に来住野のこころを満たすのではない。むしろ逆に、こころを空にする。「無」になる。「裸」になる----言い換えるなら、「に」は「で」、つまり「こころは空(くう)で満ち」ということになろう。
 来住野の表現は、いわば矛盾に満ちている。そして、その矛盾のなかにこそ、思想がある。
 こころが空(くう)で満たされるとき、つまり来住野が何ものでもないもの(無)として存在するとき、「限りないもの」(神、と言い換えると言い過ぎだろうか)は来住野のこころに触れる。そして、その瞬間に音楽がうまれる。
 来住野が「無」であるとき、「はじめて」音楽が誕生する。

 「神」ととりあえず書いたが、実は、これは「神」でなくていい。なんでもいい。来住野以外の明確な存在が来住野の無のこころに触れ、その瞬間、音楽になる。
 音楽とはものとものとが触れ合って、いままでそこに存在しなかったもの(新しい音)として生成する、その運動である。

 それはひとつの暗喩である。

 来住野はある存在と出会う。そしてそのとき来住野のこころが「空」なら、その存在は固定観念にとらえられた存在ではなく、まったく新しい姿を見せるだろう。その姿を見つめながら、来住野も今までの来住野ではなくなる。存在と出会うことで、存在と一緒に来住野自身が新しく生成する。
 だからこそ「一期一会」という。
 そして、その「一期一会」の描写が「もう一度会おう/言葉で」という「あいさつ」となっている。

 来住野の作品が「抽象的」だとすれば、そうした「出会い」(生成)が、深く思想と関係しているからだろう。



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梅田智江「外を見るひと」

2006-03-20 12:59:35 | 詩(雑誌・同人誌)
 梅田智江が「赤玉」というサイトで作品を発表している。(http://www.h6.dion.ne.jp/~karibu/index.html)
 そのなかの1篇。

  外を見るひと

外を見るひと
窓の外を見るひと
立って
外を見続けるひと

外を見るひとの背中越しに空が見える

曇った空が色を変えていく
木犀の蕾が見える
枝の先にいくつもの黒い蕾
家々の屋根の下
窓はぴったりと閉じられている
無音の町

外を見るひと
窓の外を見るひと
いつもの風景を
立って
いつまでも
見続けるひと

その背中はうつろな「永遠」のようだ

私は怖い
そのひとが
振り返るのが

そのひとの顔がすっぽり抜け落ちているようで

外を見るひとを見ている

 3連目が非常に印象に残る。
 窓の外の風景、その時間の動きを空の色の変化、木犀の蕾の色の変化(黒への変化)で描く。当然、その時間の変化は、「外を見るひと」がいる部屋の内部の時間の変化もあらわす。
 その部屋の内部の時間の変化、濃密な空気が他人の家々へとつながっていく。どの窓も閉じられ、無音である。
 もしかすると、梅田が見ている「外を見るひと」はそれぞれの家にいるかもしれない。そしてそこにはやはり音もなく、じっとその背中を見ているひとがいるかもしれない。

 外部と内部が交錯する。そしてそこに「永遠」が姿をあらわす。そのとき「外を見ているひと」の背中のうつろな「永遠」は梅田自身の背中のうつろな「永遠」でもある。私の外部と内部が交錯し、融合し、一瞬にして「場」を濃密なものにする。
 さりげなく書かれているようだが、そこに梅田自身の自己を見つめる視線があるだけに、深く、怖い。
 一度書き始めたら、もう書き始めた瞬間には戻ることはできない。書くことをとおして、書くまでは認識していなかった自己にたどりつく。(あるいは書かれなかった自己に「変身」してしうまというべきか。)
 「詩」の恐怖が、ここにある。

*

 「赤玉」を「紅玉」と表記していました。ごめんなさい。梅田さんの指摘で訂正しました。(21日)



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大澤武『N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に』

2006-03-19 22:38:28 | 詩集
 大澤武『N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に』(七月堂)は振幅の大きい詩集だ。

綴じ代 そこに次を生き抜く者たちの
ひそかな小経路があったとは   (「綴じ代」)


ただ都心の高層ビルと
その外壁にしか感情を持たなかった  (「イルカの走る海」)


何もすることはないし 高層だったので
陽が当たって 木守りの柿って こんな気分かと  (「木守りの柿」)

というような魅力的な行がある。そうした行が持続しないのが残念だ。ことばを動かしているリズムが乱れるので持続の印象が消える。つぎはぎ、という印象になってしまう。

 私が気に入ったのは「昔日の花、落ちて」と「わすれてる」の2篇。ともにリズムが一貫している。

ポカンとあいた くつろぎの
まどから つもった ちりが
はやくちで おしゃべりしながら
しらないそらへ のぼってく
わたくしが うんうんうんと わかったぶんだけ
めをさましてあがってく
たよりない あの あきのひにむかって

にびょうしのリズムを
ながしてる たかぶった すいろ
アンテナは あしたを ゆびさして
コピーげんこうを まぁたよんでいる
ひなたにきざんだ きのうのにっきが すこしまぶしい
なにかがよぎり みねのすすきが
つめたいかぜに ふっと ふかいいきをした

 「わたくしが うんうんうんと わかったぶんだけ/めをさましてあがってく」の「うんうんうん」という肉感的な美しさ。この美しさがあるから、「みねのすすきが/つめたいかぜに ふっと ふかいいきをした」の「いき」が効いてくる。
 大澤の肉体が自然(すすき)が一体になり、同時に互いに分離している(絶対に一体になれない)という感じが気持ちがいい。「いき」をするという動作のなかで大澤と自然は一体になるけれど、それは互いが独立しているからこそ「一体」という感覚をもたらすということが、それこそ「つめたいかぜ」のように私のこころを洗っていく。



 こう書きながら、私がおもしろいと感じたものは、実は大澤が書きたいと思っているものと違うかもしれないという印象が残る。
 詩集のタイトルの「N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に」から想像するのだが、大澤が書きたいのは分離不能のものなのだ。「N極とS極」の距離----それは大きくとることもできるが小さくとることもできる。というか、どれだけ小さくしても常に「N極とS極」は存在してしまう。その内部へどれだけ侵入していけるか、その内部をいかに耕していけるか、つまりどれだけ広く豊かな距離、複雑な構造を持ち込めるか、ということが大澤のやりたいことだと思う。
 こうした意欲はすばらしい。
 「駆り立てるもの」のように感想を書きたいなあと気をそそられる作品もある。
 しかし、あまりに作品それぞれの振幅が大きいので詩集としての印象が分散してしまう。

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