詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(154)

2018-12-09 11:14:43 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 「家族ゲーム または みなごろしネロ」は「ネロ」が語り手だ。

ぼくが 父を殺した
理由は 老いぼれで
大喰らいで 大淫ら
つまり 醜悪至極だったから
彼は死んで 神になった
へどまみれ 淫水まみれの神
彼を神に挙げた手柄は
ぼくのもの

 と始まる。このあと「僕は 弟を殺した」「妹を殺した」「母を殺した」「妻を殺した」「息子を殺した」とつづいていく。
 同じリズム、同じ展開である。
 「理由は」と語り、「つまり」と言いなおす。これは「論理のことば」だが、ここでは「論理」が効果的だ。「定型」をかたちづくり、ことばにスピードを与える。意味が明確になり、軽くなる。陰惨な内容だが、童謡のような明るさ、無邪気な声が響きわたる。「定型」が陰惨さを洗い流してしまう。
 「神話」が誕生する、と言ってもいいかもしれない。
 「神話」というのは、口から口へつたわっていかないといけない。耳から入ったことばが肉体を通り抜け口から出ていく。その繰り返しが、ひとの「肉体」そのものをつくる。音、リズムと響きが、ひとの肉体で共有され、ひとは「ひとつ」になる。

 この詩は大好きだが、不満もある。
 「ぼくは 師を殺した」と「ぼくは ぼくを殺した」のパートはおもしろくない。「論理」が完結してしまう。「定型」が閉ざされてしまう。「ぼくは 息子を殺した/(略)/彼を存在に転じた手柄は/ぼくのもの」で終わっていれば、「ぼく」は開かれたままだ。殺されて存在しないのに、殺されることで記憶(歴史)に存在してしまうという「矛盾」に打ちのめされる。読者は「ぼく(高橋)」になって「ネロ」の快感、歴史に批判されるという超人にしか味わうことのできない快感を味わうことができる。
 「神話」の主人公になることができる。

 詩の最後の「遺書」の部分は、「定型/完結」に二重化している。すべてを「論理」のなかにことばをとじこめている。
 高橋の「個人的事情」なんて、私は知りたくない。



 このシリーズは、今回が最終回です。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(153)

2018-12-08 10:48:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」

 「異神来る オリュンポス神族が言う」。オリュンポスの神からキリストのことを語っている。

どんな男神 どんな女神にも 似ない神
どんな逞しさ どんな美しさも 無い
汚れて 痩せこけて 顔いろすぐれず
およそ生気なく 景気のわるい 神

 これがその姿。否定的なことばが並んでいるが、「これはひどいなあ」という感じのものはない。「悪口」になっていない。言い換えると、思わず笑ってしまうような「悪口」がない。
 こどもの喧嘩の常套句、「おまえの母ちゃんでべそ」のような「無意味さ」がない。だから「ほんとう」のことばという感じがしない。「おまえの母ちゃんでべそ」は常套句だが、まだ、その方が感情が動いている。ひとの「悪口」を言うというのは、こういう「無意味」を言えるかどうかなのだ。
 「そこまで言うか」というおと炉木が、喧嘩(批判)の楽しさである。「そこまで言うか」ということばが、批判されている人も、批判している人をも救うのだ。
 高橋のことばは優等生の「批判」である。
 しかし、

や これは何だ この両の蹠の踏み応えのなさは?
脛にも 腿にも 両の腕にも まるで力が入らない
それに 鼻から 口から 吸い込む息の この希薄さは?
目を凝らせば 周りの男神 女神が ぼやけていく
ということは 見ているこの身も 薄れていくのだな

 ここは印象に残る。「ということは」というのは「論理」のことばだが、ここには「論理」だけがたどりつける「嘘」がある。
 高橋はオリュンポスの神ではない。だから、この詩のことば全体が「嘘」なのだが、「嘘」をいいことに「嘘」を重ねる。そこに、詩の「力」が生まれてくる。「力」に引き込まれ、思わず笑ってしまう。
 指し示している内容は違うのだが、「力」の感じは「おまえの母ちゃんでべそ」に似ている。無意味になっている。高橋は「意味」だと言うかもしれないけれど、不思議なばかばかしさが生き生きしていて、ここには「ほんとう」があると感じる。








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高橋睦郎『つい昨日のこと』(152)

2018-12-07 07:40:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 「殺したのは」はソクラテスを描いている。

あの男を殺したのは 誰か
滑稽な怪士の面相の 内側に
美しい魂 を匿し持った あの男を?

 と始まる。「滑稽な怪士の面相」は外側にさらけ出され、「内側」には「美しい魂」を「匿し持つ」という対比。この対比は三連目では、こうなっている。

学問と同じほど 体育にも励み
精神と等しく 身体も強健
氷の上も 素足で歩いた あの男を?

 「学問」と「体育」、「精神」と「身体」。一連目にはなかった「同じ」「等しい」が書かれている。
 この「同じ」「等しい」を「即」と読み直せば、「一元論」になるかもしれない。しかし、高橋は「一元論」をソクラテス、あるいはギリシアに読み取り、このことばを書いたのか。
 そうではなくて対比を明確にするために、両極を分断するために、そこに「同じ」「等しい」ということばを挿入したのではないのか。

 いくつかのソクラテス像を描いたあと、詩は、こう閉じられる。

あの男を殺したのは それは 私たち
あの男の高潔無比に 耐えられず
嘘の罪状を でっち上げた 私たち

いまは 激しく後悔し 彫像を押し立てて
広場で 慟哭の限りを尽す 私たち
私たちだ あの男を殺したのは

 ソクラテスと「私たち」が簡単に対比されている。「殺す」という動詞で「対比」を結ぶ。そして、このとき「殺す」は「同じ」「等しい」ではなく、明確な「分断」として働いている。「後悔する」「慟哭する」という動詞が、ソクラテスと「私たち」を結びつけている、と読むことができるかもしれないが、それを意図しているかどうか、私にはわからない。
 「殺す」にしろ、「慟哭する」にしろ、ソクラテスと「私たち」が、その動詞のなかで結びつくには、愉悦のようなものがなければならないと私は感じる。一種のエクスタシーがないといけない。
 プラトンの「ソクラテスの弁明」を読み、そのときの投票の結果を比較すると、あの裁判には「熱狂」がある。「混乱」がある。弁明に反発を感じ、有罪の投票をしたひとがいることがわかる。「反発」は理性の働きではない。「感情」が暴走している。憎しみが拡大している。わけのわからないものが、かってに動いている。
 その「熱狂」を「私たち」は、ほんとうに持っているか。「私たち」と書く高橋は、持っているのか。
 それが、この詩からは、わからない。私には、高橋の「熱狂」、その暴走がわからない。高橋は、単に「あの男の高潔無比に 耐えられず」という「説明」のなかに逃げ込んでいないか。

 これから書くことは、高橋の詩への感想から離れる。でも、書いておきたい。
 ソクラテスは、私には、どう考えてもわからない「謎」である。
 私にとって人間の最大の不幸は死である。死んでしまっては幸福というものはない。不幸もないかもしれないが、死んでしまえば、何もないということになる。
 あらゆる「正しさ」は人間が生きるためのものである。
 ソクラテスの論理はどこまでも正しい。高橋の書いている表現を借りれば、その「正しさ」は「高潔無比」という「比喩」になるかもしれない。
 その「正しい」が、なぜ、ソクラテスのいのちを守れなかったのか。いのちを守れなくて、それでも「正しい」と言えるのか。

 私には、それがわからない。

 私がソクラテス(プラトン)から学んだことは、「論理」は必ず間違いを含んでいるということ。「ソクラテスの弁明」のどこが間違いなのか、私は指摘することができない。けれど、ソクラテスが死刑の判決を受けたということは、弁明に間違いがあったからだ。市民の判決が間違っていると言うことは簡単だが、その間違いをソクラテスは正すことができなかったというのは「事実」なのだ。
 たぶん「完結している」ということに「原因」のようなものがあると思う。論理はいつも完結する。完結することが論理にとって正しいことだからである。でも、それは論理にとって正しいという意味であって、論理が正しいということではない、と私は考えている。
 「ソクラテスの弁明」は他の対話篇と違って、ソクラテスのことばしかない。ソクラテスの論理(ことば)が単独で完結を実現している。もしかすると、このあたりに間違いの原因があるかもしれない、とも思う。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(151)

2018-12-06 09:25:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
151  ヘレニスト宣言

 「ヘレネスとはヘラスの教養を頒ちあう人」というイソクラテスのことばを引いたあと、こう書き始められる。

何者かと問われたら ヘレニスト
ただし 黄色いヘレニスト
ついでに 老いぼれの と加えよう

 「ヘレニスト」「ヘレネス」が「教養」というものと関係しているとしたなら、「黄色い」とか「老いぼれ」とは関係ないだろう。そういうことばをひきずって「ヘラス」へ近づいていく限り、ヘレニストにはなれないというのは、「論理的」な批判になってしまうだろうか。

ヘレニスムが ヘラスに始まり
ヘラスを超えて 若さなるもの
みずみずしいものへの 永遠の憧れ

 という行を挟んで、詩は、こう閉じられる。

二十一世紀の 盛りの若さのヘラスびとよ
窮極の恋の切なさは 十八歳の肉の輝きに
ではなく 八十歳の魂の闇にこそ

 「若さ(十八歳)」と「老い(八十歳)」、「肉の輝き」と「魂の闇」が、「恋」のなかで交錯する。でも、私はそれを「論理」としか読み取ることができない。「切なさ」を感じることができない。
 また「論理」が「教養」であるとも思わない。「教養」が「論理」を含むということはあるだろうが、「論理」が「教養」を含むとは思えない。



 私は一度、アテネへ行ったことがある。古代の市場あとを歩いた。ゆるやかな坂があった。坂だと気づいたとき、プラトンの対話篇に、人が「坂道を降りてくる」という描写があったことを思い出した。あ、坂は(地形は)プラトン、ソクラテスの時代から変わらない。変わらないものがある、ということが、私のアテネ体験だった。坂か変わらないように、精神の地形も変わらない、と私は思っている。私はプラトンが伝えているソクラテスが好きだ。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(150)

2018-12-05 09:27:34 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
150  立ち尽くす

 高橋の書庫(あるいは書斎か)の様子が書かれている。

前庭と裏庭に向けて引戸のある東西両面が 硝子の素通し
南北両面 十段の書棚から溢れた書籍や雑誌が 床に山積み
おまけに酒瓶や食料品 骨董品 我楽多の類が 通行を阻んで
この書庫は 雑神低霊スクランブルの霊道と化している!

 この四行の、どこに詩があるか。
 「前庭」「裏庭」という対。「東西」に対して「南北」という対。思いつくままにことばを動かしているのではなく、「対応」を考えて動かしている。
 「雑然」とした部屋の描写なのに、「論理」がある。
 そして、それは「雑然」を「雑神低霊」ということばに整理し直す。「霊道」ということばが、それを強化する。
 「化している」は、「現実(写生)」を詩へと「化している」ということ。「写生」の技術、どのことばを選ぶかという意識。その結果、「現実」は「詩」に「化す」。
 でも、その「化す」は「論理的」すぎる。読んでいて、「化かされた」という感じがしない。
 高橋は、これでは「健やかな詩」は降りてこない。大掃除が必要だ、といったんは考えるが、これはこれでもかまわない、とも考える。
 で。

まさに邪神淫霊入り乱れ 蛮族侵入の噂に脅えつつ 身動きならない
古代末期ローマ人さながら 薄志弱行の腐儒老生 即ちわたくし

 と、ことばは動いていくのだが、この展開(開き直り)も、やっぱり「論理」だなあ、と思う。「薄志弱行」「腐儒老生」ということばを私は知らない。だから、あ、こんなことばがあるのか、と驚くけれど、それは「知識」への驚きであって、高橋が発見したものへの驚きではない。言い換えると、「肉体」の実感がつたわってこない。「論理」を書いているだけだ、と思ってしまう。
 「論理」を知的なことばで装飾していく。ことばのゴシック建築のようだ。それはそれで、「頑丈」な何かを感じさせる。「定型」と言い換えうるものだと思う。だから、私の「肉体」の奥が揺さぶられることはない。また、高橋が書いている「知的なことば」をまねして書いてみたいなあ、という気持ちにもならない。













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高橋睦郎『つい昨日のこと』(149)

2018-12-04 09:49:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
149  モンテニューに準って

死がそんなに甘美なものならば その逐一を味わい尽したい
そのためには 死の床を囲む家族や友人は 味方というより敵
愛しているというなら どうか死にゆく私を独りにしてほしい

 こう書くとき、高橋は、死を自分のものと実感しているのか。私には、そうは感じられない。「そのためには」「……というなら」ということばには「論理」しか感じられない。「論理」というのは「感じ」がなくても動かすことができる。あるいは「感じ」がない方が簡単に動かすことができる。「感じ」というのはあいまいで、まだことばになっていないことが多い。だから「感じ」は「論理」を邪魔する。しかし、「論理」はたいがいの場合、すでにことばになっている。ことばをつないでゆけば、必然的に「論理」になってしまう。
 「味方」に対して「敵」という組み合わせが、それをいちばんあらわしている。「愛している」に対して「独り(孤独)」というのも、すでに「論理」として言い尽くされている。
 私は自分の死を実感として感じたことはないので、私の考え方がまちがっているかもしれないのだが、論理的なことばの運びを読むと、高橋も死など実感していないのだろうと思う。
 実感しているなら、高橋にしかわからないこと、つまり、これはどういう意味?と聞き返したくなるものが含まれるはずだ。私の論理(既知の論理)では追いつけないものが書かれているはずだ。

最終的に私を看取る者は私自身 介添えは闇と沈黙の二人だけ

 これは、いま日本で起きていること。独居老人は闇と沈黙を介添えにして死んでゆく。それだけではない。死んでからも放置されたままということがある。そのひとたちは、いったい、最後に何を見ただろうか。
 誰も知らない。
 人は誰でもが死ぬが、その死を語ることはできない。だから、高橋の書いていることは「論理」ではなく「真実/事実」であると受け止めることもできる。つまり、誰も否定はできない。でも、私は、それを承知で否定したい。ここには「論理」の運動しかない、と。
 もちろん「論理の運動」こそが詩である、という考え方もあるが。










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高橋睦郎『つい昨日のこと』(148)

2018-12-03 10:06:27 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
148  新年の夢

蟠る雲から一条の光が落ちる 長い海岸線
寄せては返す波打ちぎわに併行して 騎行する私
(現つの私は騎れないから 騎行するのは夢の私)

 私が夢を見ているのか、夢が私を見ているのか。
 この「錯覚」は「併行して」ということばのなかにすでに準備されている。波打ち際を走るというとき、人は基本的に波打ち際に沿って走る。つまり「併行(並行)して」しまう。だから「併行して」はなくても意味は通じる。でも、高橋は、書く。
 なぜか。
 「併行して」が錯覚を呼び起こすことを知っているからだ。それは「強調」である。度の強い眼鏡をかけたときのように、「もの(像)」が見えるというよりも、網膜に直接焼き付けられるような感じがする。その「像」から逃れることができない。
 目眩を引き起こす。

海岸線の途中ですれ違う 向こうから来る騎行の人
(その人のなんと私と似ていること 但し六十年前の)

 目眩は、単なる「併行/並行」から生まれるのではない。「鏡像」が目眩を引き起こすのではない。「同じ」であるものに「違い」が紛れ込み、「併行/並行」を攪拌するからだ。「すれ違い」と「過去」。「似ている」ものが瞬間的に出会う。
 どちらがほんもの?

それにしても何の予兆 八十歳の新年の目覚めの前に

 高橋は、そう書いているが、これはもしかすると二十歳の高橋が新年に見た夢なのかもしれない。二十歳の高橋が馬に乗って海岸線を走る。すると向こうから八十歳の高橋が走ってくる。
 「147  久留和海」もそうだが、書かれていることばを「老詩人」のものではなく、青春のことばと読み直してみるとおもしろいのだはないだろうか。
 話されたことばと、聞き取ったことばは違う。書かれたことばと、読み取られたことばは違う。
 私は、聞き取ったことば、読み取ったことばについて書く。それは話されたことば、書かれたことばとは違う。「違い」を書かなければ、すべては「意味」に収斂してしまう。「文学」ではなくなる。








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高橋睦郎『つい昨日のこと』(147)

2018-12-02 09:53:41 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
147  久留和海岸

 「久留和海岸」がどこにあるか、私は知らない。高橋の住む街の近くなのかもしれない。そう感じさせることばが動いている。

国道からの下り坂の 片方にはそよぐ木群
下りきると 小さいが本当の浜 本当の漁港
曇り空をわずかに輝かせる日没が 確かにあり
走りまわる子ら 漁網をつくろう大人たち
ここにあるのは 本当の日常 本当の人生

 「本当」が何度も繰り返される。「本当」は「確か」ということばで言いなおされている。しかも、それは「確かにあり」という形で動いている。「ある」が実感として書かれている。だからこそ、「本当」ということばを含まない、

曇り空をわずかに輝かせる日没が 確かにあり

 が美しい。「本当」の日没は、晴れ渡った日ではなく「曇り空」でなければならない、という気持ちにさせられる。空だけではなく、雲も光に染まるのだ。久留和海岸へ出かけ、日没を見てみたい。

本当の自分をとり戻すために ときにはここに来よう
そう決心して 来合わせたバスに 跳び乗った
決心を本当の決心にするため 振り返らなかった

 この詩集の高橋は、高橋が老人であることを強調しているが、この詩には老人の匂いがしない。青春の純粋さがある。「本当」をはじめて発見したときの「若さ」が輝いている。「老人( 時間) 」を発見し、「時間 (永遠) 」を夢見る青春の特権。「老い」や「敗北」は常に青春が発見する抒情だ。
 だから「若さ」には「決心」が似合う。「振り返らない」が似合う。見てしまったのだから。「決心」とは、いつでも決して振り返らないものだ。振り返らないことによって「決心」は「本当」になる。同時に「見てしまったもの」が「本当」になる。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(146)

2018-12-01 09:17:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
146  塔 新倉俊一に 田代尚路に

 新倉俊一は知っているが、田代尚路は知らない。並列して書いているから英文学者なのだろう。

同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代
詩人が籠った塔について 私たちは語りあった

 詩人の「孤独(孤立)」をテーマに語り合ったということだろう。
 最後の四行。

(生きている私たちも ひとりひとり孤立した塔
その窓が他の窓への銃眼にならないよう 心しよう)
その扉は ひたむきに叩く拳には 開かれなければ
私たちに友でない敵はなく 敵でない友はない

 括弧の中の二行は誰の詩なのか。「同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代」の詩人のことばだろう。「銃眼」ということばは、たぶん、いま生きている詩人のつかうことばのなかにはない。「比喩」として理解できるが、その「比喩」がひきつれている「空気」は「文学」として理解できるだけで、「現実」には迫ってこない。いまは、そういう時代である。
 「ひたむきに叩く拳」は、いまも、いたるところにある。「ひたむき」のなかの感情、「叩く」のなかの肉体の動き。それが「敵/友」をつなぐ。「ひたむき」も「叩く」も「人間」の行為だからである。そのことばのなかで、「敵/友」は「ひとり」の人間になる。

 でも、こういう「読み方」は、正確ではないなあ。

 「孤立した塔」は扉をひたむきに叩くことはない。ひたむきに叩かれることはある。つまり、「塔」は動いてはいかない。自分から世界に対して働きかけはしない。だから「孤立」といえるのだが。
 だから。
 ここに書かれているのは、「孤立」を確立した人間のことばだなあ、と思う。そして、その「孤立」の仕方は「銃眼」のように、「わかる(知っている)」けれど、いまはなまなましい比喩、世界を作り替える力とはならないと思う。
 「比喩」ではなく「意味」になってしまっている。「意味」を壊していく「比喩」が必要な時代だと思う。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(145)

2018-11-30 10:11:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
145  送辞

 誰に対する「送辞」なのか。とても厳しいことばである。詩人が死んだあと、その詩を読んでみた。しかし、

詩を読むよろこびも おののきも ついに感じえなかった
それはつまり あなたの「詩」がじつは詩ではなかった
そして あなたはつまるところ はじめから詩人ではなかった

 「144  きみに」も「きみ」が誰かわからなかった。もしかすると、この詩に書かれてる詩人かもしれない。一度では気がすまず、否定を念押ししている。そこに凄味、高橋の真実がある。

賢すぎるあなたのことだ 自ら気づかなかったはずはない
詩人ではないと自ら知りながら 詩人を振舞いつづけることは
どんなに辛かったことか もうもう らくになってください
詩人であることが特別立派なわけでもないのですから ね

 「144  きみに」の「きみの中がきみでいっぱい」が「賢すぎる」ということかもしれない。「からっぽ」ではない、ということかもしれない。
 でも、こういうことは指摘してみても楽しくない。それこそ、こういう部分は「詩ではない」。
 どこが、詩、か。
 「もうもう」ということばに、詩がある。このことばは書き換えようがない。書き換えられない。「もう」で十分なのだが、高橋は「もうもう」と書く。その繰り返しは、一回限りのものだ。だから、詩、だ。
 同じように、最後の「ね」という念押しの「しつこさ」。ここに「肉声」がある。「論理」を超えて、噴出してくる高橋の「肉体」がある。

 「あなた」が誰であるかわからないが、単なる「論理」ではなく、「肉声」であの世に送ってもらえるのだから、この詩人は幸福な人である。高橋は、本当に言いたいことを言っているのだから。

 (私は、高橋の肉声を思い出している。ある詩人が死んだ。その詩人への厳しいことばを、小さな集まりで偶然聞いた。高橋には一度会ったことがある。その一度の機会に、そのことばを聞いた。--こう書けば、その集いにいた人には、私が想定している詩人が誰であるかわかると思う。もし、高橋のことばを覚えていれば、だが。)


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(144)

2018-11-29 09:24:43 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
144 きみに

このところ詩が降りてこない と きみはぼやく
最初から降りてこなかったんだよ きみのところには

「きみ」が誰を指すのか、わからない。批判はつづく。

降りてこないのには じつは確かな理由がある
理由というのは外でもない きみの中がきみでいっぱいだから
かりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない

 ここからは「詩」というものが「きみ」とは「異質」のものであることが推測できる。「異質」ものものは「きみ」という「同質」のもののなかに入り込めない、と。
 そういう「論理」よりも私は「理由というのは外でもない」ということばにつまずいた。このことばはなくても「論理(意味)」は通じる。

降りてこないのには じつは確かな理由がある
きみの中がきみでいっぱいだから
かりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない

 ない方が、ことばのスピードが速い。早く「結論」に到達する。論理の経済学からいうと不要のことばである。でも高橋は書いた。なぜか。「理由」を強調したかったからだ。「理由」の内容(意味)よりも、理由が「ある」ということを強調したかったからだ。
 こういういう「強調」は次の部分にも感じられる。

自分をからっぽにしなきゃ 詩は入ってこないさ
まず きみ自身をからっぽにすることを憶えなきゃ
でも どだい無理だよね きみは最初の最初から
きみでいっぱいだから きみだけでいっぱいなのが
きみなのだから もともと詩なんか必要じゃないんだよ

 「最初の最初から」「きみでいっぱいだから きみだけでいっぱいなのが」。同じことばの繰り返し。「論理」そのものからいうと重複は不経済である。学校の「散文」なら重複を削除させられるかもしれない。
 けれど詩は「論理」ではない。
 むしろ、こういう無駄(過剰)こそが詩なのだ。意味を超えて、高橋は、「きみ」が嫌いだったということがわかる。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(143)

2018-11-28 09:53:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
143 誘拐者

人は抱擁の悦びにおいて 関わりのない魂を攫ってわが子にする
だから 生殖には本源的な罪がある と聞いたことがある

 私は、聞いたことがない。ここに書かれていることが、よくわからない。聞いたことがあったとしても、わからないから、聞いたことがないと思うのかもしれない。
 人はあらかじめ知っていることしか、わからない。

 私はまず「魂」を知らない。「聞いたことはある」が見たことも触ったこともない。「魂」が「ある」と考えたことがない。ひとがそのことばをつかっているので、しかたなくつかうが、自分から進んでつかうことはない。
 それがこの詩がわからない、いちばんの理由かもしれない。
 わかることは「抱擁」を高橋が「生殖」と言い直しているということだ。この「言い直し」は、とても冷たい。「魂」と同様に、私はこういう「言い直し」を自分のものとして引き受けることができない。「抱擁の悦び」「性交の悦び」というものはありうるが、「生殖の悦び」が「ある」かどうかわからない。
 少なくとも男には「抱擁/性交の悦び」はあっても、「生殖の悦び」は「肉体」としてはありえない。「精神的」なものなら考えることはできる。
 「精神的 (抽象的) 」なものを出発点として、高橋のことばは「だから」「ならば」「だから」と論理を、つまり「精神の運動」を突き動かしながら、こう展開する。

私が異性との抱擁を避けるのは 無辜の魂を攫うことを怖れてか
とはいえ 独りから産まれる詩に対し 責めがないといえようか
しかも 私は恥知らずにも その産子を白日 市で競売にかけている

 「生殖」というのは「生む/産む」であって「産まれる」ではないと思う。なぜ「産まれる」という表現を高橋が選んだのか、これも、よくわからない。
 「攫う」という動詞を高橋はつかっているが、むしろ「攫われた」という意識の方が強いのかもしれない。高橋は「詩に攫われた人間」である。「父母」は人間ではなく、「ことば(文学)」であるというところから、この詩を読み直すべきなのかもしれない。省略してきた二行は、次の通り。その中にある「父母」「肉親」を「文学」と読み直すと、高橋の姿が見えてくる。

ならば わが父母はわが肉親にして 同時にわが誘拐者
だから われらは父母を深く愛し しかも激しく憎むのか



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(142)

2018-11-27 06:28:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
142  この詩は

これは自分が書いた詩だ と自信をもって言えるのか
ほんとうは 自分ではなく誰かが書いたのではないのか
よしんば書いたのは とりあえず自分だったとしても
じつは 見えない誰かに書かされたのではないのか
だからこそ くりかえし読み返すのではないのか

 「この詩」「これ」ということばがつかわれているが、それが実際に「どれ」を指しているかは書かれていない。しかし、詩一般についての「認識」が書かれているのではなく、固有の「自分が書いた詩」を指している。
 「固有」とは、ことばにしてしまうと簡単だが、単純なことではないかもしれない。「固」と呼ぶとき、そこには同時に別のものが存在する。「他」の存在によって「固有」になる。
 常に対比があり、その対比の中で揺れている。
 それはかなえられない夢(理想)と、逃れられない現実を浮かび上がらせる。
 その対比のなかへ踏み込んでいけば(ギリシアの集中力で突き進んで行けば)、この詩は違った展開になるかもしれない。
 しかし。
 「よしんば……としても」と仮定ではじまり、「じつは」ということばを通りながらも「……ではないのか」と仮定で終わってしまう。「実」は「通り道」になってしまう。そして、「書く」をテーマにしながら「読む」という違った動詞の中に「結論」が逃げ込んでしまっている。

 厳密な意味では「論理」ですらない。論理「的」という「定型」の運動だ。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(141)

2018-11-26 09:56:04 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
141  梟

 日本語と外国語はどう違うのか。あるいは日本人と外国人はどう違うのか。「観念」と「比喩」の結びつき方が違う気がしてならない。ある存在を見つめ、凝縮する。「比喩」になり、「観念」に変化する。そこから「観念(抽象)」がもう一度「比喩/象徴」に変化する。こういう絡み合いに対する訓練が日本語(日本人)には欠如しているような気がする。単に、外国人のことば(翻訳でしか知らないけれど)の方が、抽象と象徴、観念と比喩の結びつきが強靱に感じられるということなのだけれど。
 ことばを熟知している高橋の詩を読んでも、同じことを感じるときがある。

フクロウを宰領とする知恵の女神が
甲冑を身につけているのは 理由のあること
強い翼で飛びかかり 鋭い爪と嘴を立てないでは
血の滴る詩も真実も掴めないのだよ ホーホー    (「掴む」は原文は正字体)

 「知恵の女神」から、すでに日本語ではなく「翻訳」(借り物の観念)の匂いがする。借り物だから「強い翼」「鋭い爪」「嘴」は比喩から象徴に変化していかない。「血の滴る詩」「真実」は観念のままだ。外国人なら、「鋭い爪で肉を掴み、嘴を立てて内臓をむさぼるとき、爪と嘴から血が滴る。フクロウの肉体が噴出させる血のように鮮やかな真実となって」というような感じで、動詞をもっとことばの動きにからませるだろう。「名詞」の組み合わせではなく、「名詞」を「動詞」の動きの中でつかみなおす、あるいは「動詞」の動きを「名詞」として結晶させるというような使い方をすると思う。
 高橋のことばは、「名詞」によって静かに抑えられている。観念/抽象、比喩/象徴の激しさというか、スピードを欠いている。フクロウが鳴いている声を聞いて想像しているだけで、ふくろうがネズミや蛇を襲って食べている姿を目撃して書いた詩ではないからだろう。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(140)

2018-11-25 09:22:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
140  他人の庭

 「139  悲しみ」の続篇か。

昼寝から目覚めて見る 自分の庭は
他人の庭のようによそよそしい

 「昼寝から目覚めて」は「昼の夢から目覚めて」かもしれない。夢は本能が見ている。本能から見れば、現実は「他人」なのかもしれない。そしてこのとき、「他人」とは「本能の自分ではない」という以上の意味を持たない。
 しかし、詩は、こうつづいている。「意味」をつくりはじめる。

そうではなくて ほんとうに他人の庭なのだ
もともと自分のものなど どこにもありはしない

 「ほんとう」というのは、むずかしい。定義できない。「ほんとう」と信じるものがあるだけであって、「ほんとう」などないかもしれない。「ほんとう」にしたいだけなのだ。「ほんとうの自分」というものなど、ない。
 あるのは「そうではなくて」という論理がつくりだす運動だけである。そして論理は動き出すと、論理であることをやめることができない。

そういう自分だって 自分のものではない
他人のものである自分が 他人の庭を見る自分を
見ている

 まるで合わせ鏡のなかの像のように、論理は増えるばかりだ。決して「減る」ということをしらない。そうして論理は意味という「無意味」になる。「本能の自分」は、完全に消え失せてしまっている。



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