詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』

2018-02-10 11:02:19 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(創元社、2018年02月10日発行)

 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』について、私は、どんな感想が書けるだろうか。どんな具合に谷川俊太郎と出会うことができるだろうか。
 「あとがき」にこう書いてある。

私たちはさまざまな自然音に、詩情と言っていいような感覚を呼び覚まされていると思います。そのような「聞こえてくる」自然音に対して、人間が創る音楽を私たちは耳を通して心で「聴く」のです。

 「聞こえる」と「聴く」を谷川はつかいわけている。同時に、自然音と音楽を区別している。
 私は、とまどってしまう。
 私は田舎で育った。「自然音」はあふれていたかもしれない。けれど、それは「聞こえてくる」という感じではない。ただ「ある」だけだ。意識にならない。「聞こえる」というのは、たぶん、小学校へ入ってからわかったことだと思う。「風の音が聞こえる、雨の音が聞こえる」というような「ことば」を習ってから、はじめて聞こえ来たのだと思う。それまでは「自然音」はあっても「聞いて」はいなかった。
 「音楽」は、もっと事情が違う。私の家は百姓。歌の好きな両親もいるかもしれないが、私の両親は歌わない。それでも「子守歌」くらいは聞いたかもしれないが、私にはそれは「音楽」というものではなかったと思う。
 「音楽」というものを聞いたのは、小学校にはいってからである。オルガンをはじめてみた。オルガンにあわせて、みんなで歌を歌う。これが私の「音楽」の初体験。ただ、これも「音楽」と意識できていたかどうか、とてもあやしい。私は「声」を聞いていただけなのだと思う。
 家にラジオはあったが故障していて、私は聞いたことがない。学校へ行くとき、隣の子を誘うと、家の中から中村メイコの「パパ、行ってらっしゃい」が聞こえた。それが最初に聞いたラジオである。私がその番組に興味をもったのは、中村メイコが「声」をつかいわけていたからだと思う。「声」の違いというものに、私は、何か関心があったのだろう。でも、「音楽」には縁がなかった。関心がなかった。
 小学生のときからピアノを習っていた谷川とは、環境がまったく違う。

 こんな私が「聞く/聴く」谷川のことばは、谷川が奏でている「音楽」は、どういうものなのか。「聞く/聴く」とき、私と谷川はどこで、どんなふうに出会っているのか。
 ぼんやりと、そんなことを考え始める。
 でも、考えてもしようがないので、ともかく読み始める。読んで、そこから「聞き取ったもの」について書いていくことにする。

 最初の詩は「物音」。

明け方 どこかで
物音がする
まどろみながら耳が
聞いている

 ありふれた「日常」を描いているのかもしれないが、この書き出しで、私は驚いてしまった。私の「肉体」はびくっと、反応した。
 書かれている「意味」はわかる。どこかで「物音」がする。これは「自然音」ではないが、「音楽」でもない(かもしれない)。「聞いている」というよりも「聞こえてくる」ということだと思うが。
 で、何に驚いたかというと。
 「まどろみながら耳が/聞いている」というときの「主語」は何? 「まどろむ」の主語は何? 「耳」が「まどろむ」? 「耳」は「聞いている」の主語のように思える。「まどろむ」には主語がない?
 いや、そんなことはない。
 「私はまどろんでいる」、そして「私の耳」が「物音」を「聞いている」。いま補った「私は」は「私の肉体は」だろうか。「私の意識は(精神は/心は)」だろうか。「私の肉体は」だとつかみとると、そのあと、その「肉体」から「耳」が切り離されて、「耳が/聞いている」とつながる。
 何か「分断」がある。「耳」も「肉体」なのに、その「耳」が「肉体」から独立して動いている。
 「私はまどろんでいる」の「私」が「私の精神/意識/心」だとしても、そういうものから「耳」が一瞬切り離され、独立している。
 ここには、何か、私を驚かすものがある。
 私と谷川を区別する「何か」がある。

 「答え」を出さずに、ぼんやりと、詩を読み進める。

目覚めてしまいたくない
物音を運んでくる空気は生暖かく
一日の光はまだまぶたに隠れている

 「一日の光はまだまぶたに隠れている」に、また、立ち止まる。朝の太陽の「光」は「まぶた」の裏側、つまり「目の中」にあるわけではない。だから「隠れる」というのは動詞のつかい方としては変である。「学校文法」を逸脱している。
 しかし、この「隠れる」の「間違った」つかい方が、私の「肉体」をひっかきまわし、そのひっかきまわされる感じが楽しい。「光」は「肉体」の外にある。それを「肉体」はまだ受け入れていない。まぶたを閉ざすことで、「光」を拒んでいる。けれど、それを「拒んでいる」ではなく「隠れている」と言いなおすとき、「光」というものがほんとうは「肉体」の内部にあると教えてくれる。外にある「朝の光」は、「私の肉体の内部」にあって、それが「目を開ける」と目からあふれて広がる。「目を開ける(瞼を開ける)」という「動き」が「光」にあふれる世界を生み出すという感じがする。
 そうか、「世界」は「私の肉体」によって生み出されるものなのだ、と感じる。
 ここから最初の部分にもどると。
 「物音がする」のではない。「耳」が「聞く」ことによって「物音」が生み出されている。「耳」が「何か」を聞きたがっている。「欲望」が目覚めて、それが「物音」を生み出している。
 一方で、まだ眠っていたいという「欲望」もある。「肉体」が「まだ眠っていたい」と言っている。でも「耳」は「聞きたい」と言っている。「肉体」がぶつかりあっている。
 それがたとえば「暖かい」という「肌の感覚(触覚)」を揺り動かす。どことははっきり区別できない「肉体」がだんだんはっきりしてくる。ぶつかりあいながら、「目覚めてくる」ということだろうなあ。

どこかで なにか
物音がする
いま在る何かがたてている音
かすかな音
ここに世界が在ると証ししている物音が
匂いのように漂う

 「耳」(聴覚)、「暖かい」(触覚)、「まぶた」(視覚)と動き始めた「肉体」が「匂い」(嗅覚)にまで広がっていく。「肉体」(感覚)が互いに刺戟しながら、「ひとつ」になって動く。それにあわせて「世界」が広がっていく。
 「世界」は「私の外」にあるが、それは「私の内部」をそのまま反転させたものである。「外」が「肉体の内部」に入ってくる、「内」が「肉体の外部」へ出て行く。それは、どちらが「正しい」と断定できるものではなく、その両方であると感じればいいのだろう。
 「世界が在る」なら「私が在る」、「私が在る」なら「世界が在る」。
 「在る」だけが「ある」。それが「物音」になったり、「光」になったり、「暖かさ」になったり、「匂い」になったり、「私」になったりする。

 こういうことが、「ことば」によって起きるのだ。
 「まどろみながら耳が/聞いている」「光はまだまぶたに隠れている」という「ことば」によって起きる。
 そして、その「ことば」のなかに、私は「谷川の音楽」を聞く。「谷川のつくりだしたもの」を聞く。
 「まどろみながら耳が/聞いている」「光はまだまぶたに隠れている」とは、私は、たぶん「言わない」。言い換えると、それは「私の聞いたことのない音」なのだ。「聞いたことのない新しい音」が「肉体」のなかに入ってきて、それが「ことば(意味)」を揺さぶる。「音/ことば」が持っていたものが、変化する。その「音(意味)」にあわせようとして、私の「肉体」の何かが動く。
 「音楽」のことばで言えば「和音」をつくろうとする。谷川の音(声/ことば)に私の音(声/ことば)をあわせてみたい気持ちになる。あわさると、違う音が生まれそうと、ちょっとどきどきする。昂奮する。
 ことばが、ことばであることをやめて、ことばに生まれ変わろうとする。

どんな音もおろそかにしない
世界の静けさを信じきって

 ぽんとほうりだされるようにして置かれた、最後の二行。そのなかの「静けさ」ということば。音。
 この「静けさ」というのは、それまでの「ことば(音/意味)」が一瞬無効になる瞬間のことだと思う。
 「まどろみながら耳が/聞いている」「光はまだまぶたに隠れている」ということばに触れるとき、私の中で私のことばが無効になる。あっと驚き、動かなくなる。消える。それから、谷川のことばに励まされながら、もう一度動き出そうとする。それまでの短い時間。そこにある「ことばにならない瞬間/ことば以前の瞬間」。それが「静けさ」である。これを通って「世界」が生まれてくる。
 書かれているのは知っていることばだけれど、どこか違っていることばとなって生まれてきている。世界を創っている。

 自然に在るのではなく、人間が「創る」もの、それが「音楽」なら、谷川の「ことば/詩」が、私にとっての「音楽」である。そのとき聞こえる「音」というのは、「旋律」でも「リズム」でもなく、「静けさ/沈黙」のことでもある。

 私は、「楽譜/楽器」で表現される「音楽」というものから縁遠い生活をしていた。私が「音楽」を感じるのは、ひとの「声(ことば)」なのだと、改めて思った。詩を読むのは、私にとっては「音楽」を聞くということにつながるのかもしれない。「聞く」なのか「聴く」なのか、わからないが。
 そんなことを、思った。

 ここからはじまって、どれだけことばを動かしつづけることができるかわからないが、しばらく谷川の詩を読んでみる。



*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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