詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョイス・キルマー「木」

2009-02-28 09:58:04 | 詩(雑誌・同人誌)
ジョイス・キルマー「木」(「朝日新聞」2009年02月25日夕刊)

 アーサー・ビナード、木坂涼選・共訳の「詩のジャングル」で紹介されている作品。

一本の木と同じくらいすてきな詩に
ぼくは一度も出会ったことがない

木はやさしい大地の胸に吸いついて
流れてくる恵(めぐ)みをのがさない

木はずっと天を見上げて
腕(うで)をいっぱい広げて祈(いの)りつづけている

夏になればツグミたちがきて
巣のアクセサリーで木の頭を飾(かざ)る

木は雪をかぶったこともあるし
だれよりも雨と仲よく暮らしている

詩はぼくみたいなトンマなやつで作れるが
木を作るなんてそれは神様にしかできない

すーっと胸に入ってくる気持ちがいい詩だ。感想を書こうとして、ふと原題が目に入った。その瞬間、何を書きたかったか忘れてしまった。書きたいことが変わってしまった。
原題は「Trees」。複数である。ところが、私は複数の木を思い浮かべなかった。1本の木しか思い浮かべなかった。訳の書き出し「一本の木」に引きずられ、1本の木を思い浮かべた。タイトルの「木」も、この「一本」に引きずられるように、完全に1本になってしまった。
そして、そのことで、この詩がさらによくなったと思った。
アーサー・ビナード、木坂涼のどちらが主体となって訳したのかわからないが、かれらに複数の意識があることは、4連目の「ツグミたち」を見れば明らかである。2人は原題の木が複数であることを知っていいて、単数に訳している。
アメリカ人の感性にとっても同じであるかどうかわからない。そして、他の日本の読者にとっても同じかどうかわからないが、タイトルが「木々」であったら、私は感動しなかったと思う。
1本の木だから「ぼく」と対等に向き合う。「一度も」もよくわかる。2連目以降、原文は単数なのか複数なのか分からないが、1本の木思い浮かべると、自分の生き方と対比しやすい。1本という孤独が、「ぼく」の孤独を支える。さらっと出てくるツグミの複数形が、孤独をすっきりと浮かび上がらせる。
とても共感しやすい。

そして、孤独の共感があって、最後の「トンマ」もうれしくなる。自分をそんなふうにかわいがって生きる生き方がうれしくなる。この「トンマ」は馬鹿ではなく、ちょっとかわいいじゃないか、人間ぽいじゃないか、という響きである。

で、質問していいですか?
「トンマ」って、英語でなんていうの? なんていう単語を「トンマ」と訳したの? ここにもきっと2人の工夫があるはずだ。




出世ミミズ (集英社文庫(日本))
アーサー・ビナード
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(10)

2009-02-28 00:00:00 | 田村隆一
 詩人は存在に先だちことばを発見する。新しい「いのち」を発見する。そのとき、ひとつの困難が出現する。ことばに存在が追いついて来るまで、「いのち」は存在するべき場所がないのだ。「いのち」は発見された。だが、それが生きていく場がない。
 「立棺」は、そうした詩人の輝かしい絶望を語っている。

わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ

  地上にはわれわれの墓がない
  地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない

 「わたし」と「おまえたち」は、「再会」の「わたし」と「僕」と同じように、ほんとうは「ひとり」である。何人いても、同じいのちを共有しているから「ひとり」である。詩人とは、何人いても、その詩とともに生きる「ひとり」である。ことばを共有するとき作者と読者が溶け合うように。

 ここでは「新しいいのち」が「死」(屍体)と表現されている。この死にはふたつの意味がある。ひとつは、「新しいいのち」にとって、その生活の「場」がないとき、それは生きたことにならない。死んでいる、という意味。もうひとつは、もし「新しいいのち」が「場」のなかでそれにふさわし存在を発見し、新しい何かとして結実したとする。そうすると、その瞬間から「新しいいのち」は「新しいいのち」ではなくなる。それは「生」を獲得した瞬間から「新しさ」(実現されていない論理)を失い、固定化してしまった存在論理(死)になってしまう。
 これは矛盾である。
 しかし、だから詩なのだ。
 詩とは、生きていく「場」をもたないことばである。それは常に何かを破壊し、新しいいのちの産声を上げながら死んでいくしかないものなのだ。その産声の強さで、いのちの根源がどこにあるかを暗示することだけが詩の仕事である。死として生まれて来るのが詩の運命・宿命である。

わたしの屍体を火で焼くな
おまえたちの死は
火で焼くことができない
わたしの屍体は
文明のなかに吊るして
腐らせよ

  われわれには火がない
  われわれには屍体を焼くべき火がない

 繰り返される「ない」。その否定形。それは否定を超越して「拒絶」にまで到達している。火は存在しないだけなのではない。ありきたりの火を詩人は拒絶しているのだ。火を求めながら、火を拒絶する。いま、ここにある火が、火に値しないという理由で。
 求めているのは、いま、ここにある火ではなく、火を火として成立させる何か、根源的な生々しいいのちをもった火だからである。

 対立-止揚-結実という発展という可能な三角形ではなく、矛盾-拒絶(破壊)-融合(根源的生成)という不可能な三角形がここにある。

 「三つの声」は、そういう詩人とことばの関係を繰り返し書き留めている。

その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた
あらゆる囁きよりもひくく
あらゆる叫喚よりもたかく
歴史の水深よりさらにふかい
一〇八三〇メートルのエムデン海淵よりはるかにふかい
言葉のなかの海
詩人だけが発見する失われた海を貫通して
世界のもつとも寒冷な空気をひき裂き
世界のもつともデリケートな艦隊を海底に沈め
われわれの王とわれわれの感情の都市を支配する
われわれの死せる水夫とわれわれの倦怠を再創造する
その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた

 ここに描かれているのは存在を超越したいのちである。たとえば「囁きよりもひくく」。ここに描かれているのは矛盾した(不都合な)存在である。たとえば「デリケートな艦隊」。ここに描かれているのは無意味な行為である。たとえば「倦怠を再創造する」。言い換えれば、ここには規制の存在を否定し、拒絶することばの運動だけがある。規制のものを拒絶し、破壊し、あたらしいことばの関係をつくりだそうとするエネルギーだけが、ここではうごめいている。
 これらすべての「声」は田村の声ではあるけれど、「遠いところからきた」ことばである。田村は、そのことばを生み出すのではない。やってくるその瞬間を予感し、つかみとる。予感し、というのは、それがあらわれてからでは遅いからだ。予感のなかでつかみとる。そして、そのつかみとったことばにしたがう。そのとき、ひとは、詩人になる。





我が秘密の生涯 (河出文庫)

河出書房新社

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大西若人「なぜ波は山より高い」

2009-02-27 18:45:08 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「なぜ波は山より高い」(「朝日新聞」2009年02月25日夕刊)

 加山又造の「春秋波濤」の鑑賞文。私は仰天してしまった。えっ、そうなの?

 決して、写実的な絵ではない。波に浮かぶ釣り鐘のような山。その頂やすそ野は画面からはみ出し、紅葉に覆われたものも、桜が満開なものもある。そして左方の波高は、山をはるかに超えている。

 うそでしょう。
 私にはそんなふうに見えない。確かに海は山より上にまで広がっている。(私は、ここに描かれているのを「波」ではなく、波がはてしなくうねる「海」と感じた。)でも、これはありふれた風景ではないのか。画家が立っている位置しだいで、こういう風景はいつでも出現する。手前の紅葉の山より高い山に登り、そこから他の山と海をみれば、いつだって水平線は山の上にある。水平線が山の上にあるからと言って、波が山より高いとは言えない。
 山へ登る機会がないなら、海岸近くの(海岸より少し離れた)ビルに上り街を見下ろすといい。街の向こうに海が見えるとき、その海(水平線)はいつでも街より上にある。これは視覚の必然的な現象である。そういう風景を見ても、だれも海が街より高いとは言わない。そういう絵、写真を見ても、誰も海が街より高いとは言わない。
 大西は、この絵を誤解しているのではないか。なぜ、そんなふうに見てしまったのか。大西は、加山の、この絵に対する考えを引用している。引用しながら、次のように書いている。

では、波高が山を超えているのか。加山は「遠くを大きく、近くを小さくするという逆遠近法」によって「波の動静が不思議な空間」を作り、宇宙空間につながると思った、と話している。

この加山の「不思議な空間」を大西はどう理解したのだろうか。波が山より高くなる不思議、と理解したのなら確かに「なぜ波は山より高い」になるかもしれない。しかし、加山はそんなことを言っているのだろうか。加山は、近くと遠くの常識的な区別がなくなる、近く遠くという判断基準が揺らぎ、遠く近くが分からなくなるという「不思議」を語っているのではないか。
遠近法が消えるというのは、その空間が「無限」になるということである。遠近法はあくまで「有限」の世界。有限の世界を規則にのっとって表現する方法である。遠近法では無限は表現できない。遠近法を拒絶することで、無限という不思議な空間(人間は有限の空間しか体験できない)が出現し、それが「宇宙」につながると言っているのではないのか。
波が山より高いのではなく、この絵では波が屏風という枠を超越し(越境し)、どこまでも広がり続けているのである。波が高いから山が飲み込まれのではなく、波がうねる海が無限に広がるので、何もかもがその無限にのみこまれ、同時に、その無限から生まれてくる。山も、月(太陽?)も、その無限の海から生成してくる。そのとき海は海ではなく、あらゆる存在を生成、生み出す宇宙そのものになる。海なのに、海ではなく宇宙――という不思議がこの絵の命なのではないか。




加山又造 美 いのり
加山 又造
二玄社

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『田村隆一全詩集』を読む(9)

2009-02-27 11:10:22 | 田村隆一
 (8)の補足として。

 「再会」の「驟雨!」という1行。それは唐突にあらわれた1行である。そして、それはことばの発見でもある。存在、ものではなく、ことばの発見。世界には存在していたけれど、まだ田村の「肉体」に結びついてなかったことばの発見。
 詩人は、あることがらを発見し、それをことばでつかみ取るのではない。詩人とは、ことばを発見し、それに存在を投げ込むのである。ことばが先に発見されて、そのあと、そんざいがやってくる。物理の世界で言えば、まず論理を発見し、そのあと実証するようなものである。何の世界でも、そういうことがある。論理(ことば)に存在が追いついて来るということが。

僕には性的な都会の窓が見えます

 最初に「性的な都会」(性的な都会の窓)があるわけではない。田村が「性的」ということばをつかったあとで、都会は「性的」になる。ことばは存在をかえるのだ。
 これは、一見すると、理不尽なことかもしれない。存在にあわせてことばが変わるのがふつうかもしれない。しかし、よく考えれば、存在にあわせてことばが変わるということはない。ことばがあって、存在のなかから、あたらしい可能性が引き出されるということしか起こり得ない。それは科学・物理の世界も同じである。素粒子が3つから、4つ、6つへと増えていくのは、そういう論理が先にあるから増えていくのである。論理が6つという可能性を引き出し、それにものが追いついて来るだ。論理が先行しないかぎり、6つの素粒子は存在し得ない。なぜなら、それは「肉眼」では見えないものだからである。見えないものを見えるようにするためには、存在に先だち、ことば、論理が必要なのだ。
 


田村隆一エッセンス
田村 隆一
河出書房新社

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柏木麻里「蝶々」

2009-02-27 09:43:31 | 詩(雑誌・同人誌)
柏木麻里「蝶々」(「びーぐる」2、2009年01月20日発行)

 柏木麻里「蝶々」は、柏木スタイルとも言うべき空白意識した作品である。こうした作品は1篇だけ読むのは難しい。ぼんやりした印象はあるのだが、それをどう語っていいかわからない。
 1連目。「1. 」という番号が振ってあり、その番号の振り方を含めて「空白」をつくりだしている。

 1.


きこえることと


きこえないことの


あいだを
こわしてゆく


 「あいだを」というのは、何の間か。「きこえること」と「きこえないこと」の「あいだ」であるのは自明のことなのかもしれない。でも、それは、どこにある? そこには「あいだ」などないのではないか。「きこえる」「きこえない」は接続している。ぴったり、くっついている。鏡の裏と表のように、分離してしまっては、その分類は成り立たない。「聞こえる」とき「聞こえない」ということはない。「聞こえない」とき「聞こえる」ということはない。
 そういう密着したものを、「あいだ」ということばで「こわしてゆく」。それは、「あいだ」をつくりだすというのに等しい。ほんらいありえない「あいだ」を壊すとは、その「あいだ」を、まず意識のうえで認識するということだから。
 ありえないものを、あるものとして、形に、ことばに定着させる。それは意識の運動、認識の問題だから、ほんらい「肉眼」には見えない。
 その見えないものを、あえて、柏木は視覚化している。空白によって。

 空白は、柏木にとって、意識の領域である。意識の広がりをあらわす。空白であるから、それはほんらい見えない。その見えないものの広がりを、柏木は、ちりばめたことばで明らかにする。空白は見えないけれど、ことばは見える。空白は、ことばとことばのあいだにある。ことばにはさまれた部分が空白である。それは、ことばが両脇(?)におかれないかぎり、存在し得ない。
 「きこえること」と「きこえないこと」の「あいだ」と同じように、それは密着している。「聞こえる」のあと、「聞こえない」ことがあって、その後、もう一度「聞こえる」ことがあったとき、はじめて「聞こえない」ことがある。(逆も同じ。)
 そういう分離不能のもののあり方を、柏木は、壊して見せる。分離不能のもののあいだにも、何かがある、と提示して見せる。
 その、ほんらい見えないもの(柏木がことばにしないかぎり見えないもの)を、柏木は、「みなもと」と呼んでいる。
 詩は、つづいていく。

  2.
 







先に
ゆくね



  3.



みなもとだけでできている

 あらゆる存在は、密着している。存在には表裏がある。その表裏をつくりだすちらかが「みなもと」である。今回の詩の「空白」は「蝶」とともに生まれた。だから、「蝶」を「みなもと」と呼ぶのである。
 柏木の詩は、視覚を多用している(空白をはっきり見せている)点で絵画的であるということもできるが、あくまでもそれは「的」であって、絵画ではない。色と面を使ってではなく、ことばで構成されているのだから。
 とはいいながら、ここには濃密な言語と絵画の融合がある。柏木は視力の強い人なのかもしれない。



蜜の根のひびくかぎりに
柏木 麻里
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(8)

2009-02-27 00:48:04 | 田村隆一
 「再会」という作品は、1か所、不思議なところがある。「主語」がかわる。

どこでお逢いしましたか
どこで どこでお逢いしましたか
死と仲のいいお友だち わたしの古いお友だち!

 書き出しの主語は「わたし」である。ところが2連目。

僕には死火山が見えます
僕には性的な都会の窓が見えます
僕には太陽のない秩序が見えます

 と、突然、「僕」が登場する。ふつう、どんな作品でも「わたし」を主語にしたものは「わたし」のままかわらない。「僕」という表現がでてきても、それは「会話」のなかでのやりとりなどであって、地の文では「わたし」のままである。
 この「僕」はしかし、すぐにまた「わたし」にかわる。それだけではなく、ふたたび「僕」にもなる。
 2連目の4行以降は、次のように進む。

わたしの手のなかで乾いて死んだ公園の午後
わたしの歯で砕かれた永遠の夏
わたしの乳房の下で眠つている地球の暗い部分
どこでお逢いしましたか どこで
僕は十七歳の少年でした
僕は都会の裏町を歩き廻つたものでした
驟雨!
僕は肩を叩かれて振り返る
「あなた 地球はザラザラしている!」

 「わたし」と「僕」との関係はどうなっているのだろうか。
 印象的なのは、私の耳には「僕」のことばの方がスピードある。「わたし」のことばはゆったりしているのに対し、「僕」のことばはとても速い。理由のひとつに、「僕」の行は動詞をもっているのに対し、「私」は動詞をもっていないことである。1連目の、引用しなかった部分に「わたしはどこかであなたに囁いたことがある」という動詞をもった行があるが、2連目では「わたし」と動詞は呼応していない。
 「僕」は動くのに、「わたし」は佇んでいる。立ち止まっている。
 ただそれだけではなく、ことば、その音そのものも、「僕」の行でははじけるような輝きがある。「死火山」「性的」「太陽」「秩序」といった漢字熟語が強く響く。一方「わたし」の行では「乾いた」「死んだ」「砕かれた」「眠つている」「くらい」とことばがゆっくり動く。
 わざとつくりだされた対比のようなものが、ここにはある。

 この詩は、「わたし」と「僕」は別人であり、その二人が対話していると読むこともできるが、私には、その二人はほんとうはひとりのように思える。
 ひとりのなかの「わたし」という人間と「僕」という人間が交代し、「わたし」になり、「僕」になり、そのたびにことばの動きがどう変わるか、それを調べながら、楽しんでいる感じがする。
 「わたし」は「僕」に対して「あなた」と呼びかけ、その呼びかけに答える形で「僕」は「わたし」から離れ、軽快にはじける。
 これも、ひとつの対立、矛盾である。
 そういう構造を、田村は「わざと」つくりだしている。そして、その対立のなかで世界を見つめようとしている。

 あるいは、こんなふうに考えることもできる。
 「再会」にとって不可欠なもの--それは「過去」である。「いま」とは違う時間である。かつて、そこにも「いま」はあった。かつての「いま」と、いまここにある「いま」が会うときが再会であり、それは常に「違うもの」と「同じもの」をぶつけ合わせながら動く。
 存在の中には普遍のものと変わりつづけるものが同居している。--それを、ひとりの人間のなかで動かしてみることもできる。

 だが、こんな読み方は、詩にとってはどうでもいいことかもしれない。

驟雨!
僕は肩をたたかれて振り返る

 この「驟雨」の突然の美しさ。それまで、どこにも存在しなかったことばが突然あらわれて、「肩をたたく」ということばのなかで、現実感を獲得する。雨も肩をたたくからね。この、ふいの変化が、すべてを融合させる。再会の一瞬を、「いま」でありながら、「いま」ではないどこかへひっぱっていく。
 「わたし」「ぼく」の関係は? などという、まだるっこしい意識をさらって、視界を洗う。意識がことばになるのではなく、「もの」がことばになり、ことばが「もの」になる。
 意識の運動を超越した何かが、ここにはある。「驟雨!」ということばのなかにある。この詩は、その「驟雨!」ということばのためにこそ書かれたという感じがする。



『詩人からの伝言』 (ダ・ヴィンチブックス)
田村 隆一
リクルート

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古谷鏡子「昔のはなし」、樋口伸子「ノヴァ・スコティア」

2009-02-26 10:36:06 | 詩(雑誌・同人誌)
古谷鏡子「昔のはなし」、樋口伸子「ノヴァ・スコティア」(「六分儀」34、2009年02月18日発行)

 古谷鏡子「昔のはなし」の3連目で私は考え込んだ。

空はやはり青いのである それで
青い、を深いといいかえてみる
深ければ深いだけ青さは濃くなる濃くなってやがて闇に落ちてゆくだろう
闇の底にあって
その闇のむこうになお青さを湛えていると
わたしは信じていたい そうでなければわたしもこの闇の淵に溺れてしまう
闇のむこうの青
青の極致たる闇の世
青い空のはるかむこうのことについて
にんげんは
いとも簡単に
無限という言葉を発明した

 青い空のむこうに宇宙がある。宇宙は暗い闇でできている。そして宇宙は無限である。しかし、その無限のむこうに、なお青が存在すると考えるということだろうか。
 その論理が正しいかどうか私は知らない。詩なのだから、それが真理であっても嘘であっても私はかまわないと思うけれど。
 私がこの作品を読みながら、ええっ、と思わず声に出してしまうほど驚いたのは、「青い、を深いといいかえてみる」という行である。そして、それが「それで」ということばで結びついていることである。
 「それで」って何? 「それで」って、どういう意味? 「空が青い」からといって、なぜ「青い」を「深い」に言い換えてみる必要がある?

 このすべてに、私は「答え」を出すことができない。だから、私は「それで」を古谷の「思想」(キーワード)だと考える。
 「それで」はなんらかの「理由」を導くためのことばだと思う。「それゆえに」の「口語」だろうと思う。そして、その「それで」には、実は、他人を説得するだけの根拠はない。
 朝目を覚ましたら9時だった。「それで」会社の始業時間9時に出社することはできなかった。遅刻した。--というのなら「それで」の「それ」は「9時に目を覚ました」を指し、「9時に出社できなかった」を説明する根拠になる。同じ時間に人間は離れた場所に存在できないという「定理」があるからである。
 ところが、古谷の「それで」にはどんな「定理」もない。「定理」がないのに、「それで」と書いてしまう。「それで」は古谷の「肉体」のなかで、ことばとことばをしっかりむすびつけてしまっていて、それを分離することができない状態にしている。それは古谷の「肉体」そのものなのだ。
 論理があって、「それで」ということばを使っているのではないのだ。「それで」という「論理的な」(?)ことばを利用して、そこから論理を探しはじめるのだ。論理的になるために(?)、「それで」を無意識に使っているのである。
 こういう詩人本人が無意識に使ってしまうことば、どうしても「肉体」からきりはなせないもの、そのひとのことばの「いのち」のようなもの--それを私は「キーワード」(思想)と呼んでいるのだが、古谷は「それで」に頼ってしかことばを動かせない。ことばを動かそうとすると、いつでも「それで」(それでも)が侵入して来る。理不尽(他人には理解できない)理由づけがいつでも侵入して来る。
 「それで」(それでも)が書かれていない部分にも(つまり、いくつもの行間に)、「それで」(それでも)が隠れている。
 たとえば、3連目。

きのうわたしはむしょうに人が恋しかった
きょうわたしにはだれの言葉もとどいてこない
隅っこの書けたこの石の道をわたしはたしかに通った

 この引用部分の2行目と3行目のあいだには「それでも」が隠れている。「それでも」この道を通ったことは確かである、と古谷はいうのである。このときの「それで(も)」は、古谷の「肉体」だけが納得することばであって、読者は、それを論理的にはたどれない。信じるか、信じないか、それだけである。(同じような形のことばがくりかえされる1連目では、「それで(も)」は「だからといって」という形をとっている。同じ意味である。)
 信じてくれ、と古谷の「肉体」は言う。その「肉体」の声が聞き取れるかどうかが問題になる。好みの問題になるだろうけれど、私は、こういう理不尽な(?)欲望に突き動かされて動いていくことばを読むのは好きである。「他人」というものは、いつでも「理不尽」な姿をとってあらわれてくるもの、と思うからである。



 樋口伸子「ノヴァ・スコティア」は「ノヴァ・スコティア」という音に「肉体」をのっとられた記録である。知らない外国の街(州)の名前なのだが、それを声にしていると気持ちがいい。その気持ちのよさにつられて、どんどんことばが増えていく。知らない人にも出会ってしまう。その最後の部分。

飽きずに海とあいさつを交わし
立ち上がるときにお婆さんが
どっこいしょと言ったので
とてもおかしかった

どっこいしょ だって
ノヴァ・スコティア

 「ノヴァ・スコティア」は地名を通り越して、樋口の「肉体」の友人のような存在になってしまっている。そんなふうになるまでの過程(引用はしないので、同人誌で読んでください)が、とても楽しい。私の耳や口蓋には「ノヴァ・スコティア」は、魅惑的な音ではないけれど、その音を楽しんでいる樋口の姿が見えるのでおもしろい。
 
 古谷の論理をおいつづける「肉体」のことばは体調がよいときでないと苦しいかもしれないが、この樋口のことばは体調がよくないときでも楽しい。いや、逆かな。古谷のことばは私の体調とは無関係に、同じ調子で響いて来るけれど、樋口のことばはモーツァルトの音楽がそうであるように、体調がいいときは楽しいけれど、よくないときはなぜ樋口だけこんなに楽しんでいる?と、怒りたい気持ちになるかもしれない。


 


眠らない鳥―詩集
古谷 鏡子
花神社

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ジョニー・トー監督「エグザイル/絆」(★★★)

2009-02-26 10:14:23 | 映画
監督 ジョニー・トー 出演 アンソニー・ウォン、フランシス・ン

 暗黒街の5人男たちの友情を描いている。少し変わっているのは、その5人が3人と2人に分かれ、敵対する組織に属することである。3人組の方のひとりが対立する組織のボスを銃撃したために、2人から命を狙われる。仲間の方の2人は彼を守ろうとする。
 という話はどうでもよくて、この映画では銃撃戦をいかにかっこよく見せるか--ということに力点が置かれている。缶コーク(?)を空中に放り上げ、それが落ちて来るまでのあいだに銃撃戦でけりをつける。そのことを5人とも「命題」にしている。そして、どんなときもびくびくしない。堂々と構えて銃撃戦に臨む。そんなことは実際にはありえないだろうけれど、そういう実際にありえないものを形として美しく見せる。俳優たちの銃撃のときの肉体がとても美しい。また、ドアや机などを防御壁につかったり、逆にそれを攻撃の道具として投げつけたりするシーンにも、肉体の疲労が少しも見えず、とても美しい。映像をスタイリッシュに見せる。「かっこいい」とはこういうシーンのためにあるのだ、という気持ちになる。快感である。
 ところが。
 その快感のでどころ(?)が、ちょっとイヤでもある。こういうありもしない映像をスタイリッシュでかっこいいと思う気持ち、その快感はどこから来ているのか。
 ジョニー・トー監督はこの映像のあと、ちょっと一休みという感じで(あとで、もういちど激しい銃撃戦--クライマックスがある)、4人の逃避行を描く。5人の対立の原因となっている1人が死に、残りの4人が「裏切り者」として狙われる、逃げるのである。そのとき、金塊1トンを強奪するという話を思い出す。そして、そのあと「金塊1トンは重いのか」(4人ともメートル法を知らない。香港が中国に返還される前なので、ポンドか斤の単位しか知らない)から問答がはじまって、「愛1トンは重いのか」「疲労1トンは重いのか」というようなことばがつづく。「……は重いのか」と統一されたスタイルで、現実から感情、肉体までをぱっと切り取る。このことば、詩みたいで、とてもかっこいい。「現代詩」に拝借したいくらいである。
 この詩に拝借したいようなかっこよさ、そのことばの「わざと」繰り出されるかっこよさと、先に書いた銃撃戦のかっこよさが、ぴったり重なるのである。現実にはありえない(無意味な)運動。その運動の主体は、「肉体」(銃撃のアクション)と「ことば」(現代詩まがいのせりふ)と、まったく違ったものなのだが、「わざと」という点でぴったり重なるのである。そして、それは何といえばいいのだろうか、一種の「抒情」なのである。「抒情的」な「わざと」なのである。ことばが「抒情的」でるあるのはいいとしても、銃撃戦も抒情的であっては、なんだかみっともない(?)と感じてしまう。抒情ではなく、鍛えられた超人的な肉体だけが可能なアクションならいいけれど……。
 言い換えると。
 たとえば、4人が超人的に走る、飛ぶ、というようなアクションをしながら銃撃し合うのならいいけれど、そうではない。彼等の銃撃戦は、狭い室内で行われる。そこでは人間は走るという行動をとらなくていい。隠れる(銃弾を避ける)にしても数メートルと動かない。それは投げ上げた缶が落ちるまでという時間が象徴しているように、いわば「短距離競走」のリズムなのである。短距離競走をスローモーションで見せるリズムなのである。現実の動きを微分し、その一瞬一瞬を美的に整えて見せているだけであって、そこではほんとうは肉体は苦悩していない。あるアクションを、たんに視点をかえて見せただけなのである。この「わざと」は、あきる。あきてしまう。
 映画のアクションには、それが嘘とわかっていても、最近の「007」や「ボーン・アルティメイタム」のように、広い空間を主人公が全力で走りつづける「持続」的な広がりが必要なのだ。空間と時間を超人的に動き回り、観客の「肉体」に働きかけて来ないと意味がない。価値がない。スタイリッシュな映像で「頭」にだけ働きかけて来るアクションでは、役者が「肉体」をもっている意味がない。あの「肉体」(あの顔、あの背の高さ、あの足の長さ、あの筋肉の鍛え方)がかっこいい、という印象、特権的肉体を見せつけないアクションは「抒情」に過ぎない。快感は、完全に錯覚に成り下がってしまう。




エレクション~黒社会~ [DVD]

エイベックス・トラックス

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『田村隆一全詩集』を読む(7)

2009-02-26 00:00:00 | 田村隆一
 ことばが自律運動をする。その先に何があるのか。それを理解して書きはじめる詩人はいないだろう。何があるかわからないから書きはじめるだ。止まっていては倒れるから、走りつづけるのだ。
 「十月」。

危機はわたしの属性である
わたしのなめらかな皮膚の下には
はげしい感情の暴風雨があり 十月の
淋しい海にうちあげられる
あたらしい屍体がある

  十月はわたしの帝国だ
  わたしのやさしい手は失われるものを支配する
  わたしのちいさな瞳は消えさるものを監視する
  わたしのやわらかい耳は死にゆくものの沈黙を聴く

 どのことばにも疾走感がある。そして、そのことばにはひとつの特徴がある。2種類のことばの出会いが「疾走感」を演出している。つまり、2種類のことばが「わざと」出会わされ、衝突させられ、そこにいままで存在しなかった「声」を生み出している。
 2連目が特徴的である。
 身体・肉体を修飾することばは、「ひらがな」で書かれ、やわらかい。「やさしい」手、「ちいさな」瞳、「やわらかい」耳。これに対して、その響き、眼の印象とは対極にあることばがぶつけられる。「支配する」「監視する」。肉体のやわらかさ、弱さに対して、なにかしら固いことばがぶつかる。ふさわしい漢字熟語がないときは「沈黙を聴く」と、動詞の前に漢字熟語をもってくる。その衝突のあいだには、「失われる」もの、「消えさる」もの、「死にゆく」ものという緩衝材がある。そこにはていねいに漢字が1文字ずつ割り振られている。
 ここに書かれているのは「意味」ではない。イメージでもない。ことばの運動の仕方である。
 やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語。この運動を、1連目のことばで言い直せば「はげしい感情の暴風雨」になる。いや、言い方が逆だった。「はげしい感情の暴風雨」を2連目で、田村は、そんなふうに書き直しているのだ、というべきだった。
 何を書くのかほんとうはわかっていない。「危機」と書き「属性」と書き、「はげしい感情の暴風雨」ということばにたどりつく。そのあと、そのことばが動いていく先に、やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語ということばの運動があるのだ。

 きのう私は、田村のことばの運動、矛盾したものの衝突は、やがて矛盾を超越する。それは止揚ではない、と書いたが、その運動が止揚ではないというのは、ある「発展」をめざしているわけではない、と言い換えることができるかもしれない。
 弁証法(止揚の論理)は、発展を前提としている。いわば矛盾は「予定調和」の内にはいってしまっている。
 しかし、詩のことばは「発展」を前提としていない。むしろ、発展を破壊してしまうことを前提としている。発展へ向けて動く何か、未来を(?)形成しようとするときの、その「イメージ」(形成された何か)を破壊しようとして動く。言い換えれば、発展、形成ではなく、根源へ、混沌へむけて動き、その混沌のエネルギーそのものになろうとしている。ものが生まれる前の、「いのち」そのものになろうとしている。
 矛盾は、詩にとって必然なのである。
 定まった明瞭な形をめざしているのではなく、何も定まっていない状態、何にでもなりうる「自由」なエネルギーをめざしている。「わたし」を発展させるのではなく、「わたし」を「わたし以前」に引き戻そうとしている。「わたし」を「わたし」たらしめているものはいろいろあるが、たとえば社会的な位置というものもそうかもしれないが、そういう「わたし」である前の、だれでもない「いのち」の状態を復元しようとしている。

 「死者を甦らせる」ということばが「四千の日と夜」に出て来るが、死者を甦らせるというのは、たんに生きている状態にするということではなく、彼が生まれる前の状態にするということである。
 「十月の詩」の1連目、「淋しい海岸にうちあげられる/あたらしい屍体がある」の「屍体」も同じである。それは甦るべき死者である。それはすべての存在を、生まれる前に引き戻すための道しるべなのだ。死者を破壊し、いのちを死へとむけて動かしたすべての止揚を(弁証法を)拒絶する。ただ、純粋な「いのち」に還るための北極星のようなものなのだ。



田村隆一 (現代詩読本・特装版)

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井上瑞貴「雨が聞こえているのか」、藤維夫「眼の空」

2009-02-25 09:29:31 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「雨が聞こえているのか」、藤維夫「眼の空」(「SEED」18、2009年02月10日発行)

 井上瑞貴「雨が聞こえているのか」は「き」の音、母音「い」の音が印象に残る。

遠くから見える木々が立っている
それきりの踏切を父子は横切る
影になって
ふいに腕をからめてくる子どものちいさな情感には
さらに遠くの木々が立っている
雨が聞こえているのか

 実在の「遠くから見える木々」と、子どもの「情感」のなかの木々。そのふたつの木々のあいだで音が響きあい、音楽になるように、くりかえされる「き」、それと母音の「い」が楽しい。
 ただ、この音楽を井上が意識的に書いているのかどうか、私にはよくわからない。

影になって

 この唐突な、揺らぎを拒絶した1行は、どうしてなのだろう。次の1行が長いから、そのまえに短く息を吐いて、その分だけ吸い込む息を多くした--そのための準備?
 私の耳には、この1行がなじまない。
 次の1行をゆったり響かせたいのなら響かせたいで、「影になって」という短さで辻褄をあわせるのではなく、弱音で長く、低音で長くという方法はとれなかっただろうか。
 もし、低音で長く長くうねる響きだったら、最後の部分、

聞こえているのか
私たちのてのひらには
一度だけ結ばれた記憶に降る雨が
このときも聞こえているのか

 この「てのひら」の感じとしっかりつながるのになあ、と思った。音が揺らいで、肉体のなかを通る。それにあわせて、記憶が肉体になる。そういう予感がするのだけれど。



 藤維夫「眼の空」は視線の動きが「春」を感じさせる。素早くて軽い。そして、ちょっと冷たい。あたたかい風と冷たい風がまじって肉体を刺激するときの、春独特の印象がある。

早朝 詩が行ってしまう
どことてない眼の空
遠くまで追って行く
波の声につづいて
切り立った崖を登りながら

 「眼の空」とは不思議な言い方である。空を見ている、その眼。その眼と空が一体になる。一体になるから、どんな距離でもすばやく動くのだ。どこまで行っても、そこは「眼」なのだから、移動に時間がかかならい。そういう速さがこの詩のことばを動かしている。
 そして、それが一体であるから、どんなに遅れても、やっぱりそこは「眼の空」なのだ。遅れたつもりでも遅れることができない。
 対象と眼との距離がなくなる。
 もう、そうなってしまうと、見えないものを見ないかぎりは、何も起きない。その不思議な感じを2連、3連とことばが動いていく。
 


坂のある非風景―詩集
井上 瑞貴
近代文芸社

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デヴィッド・エアー監督「フェイクシティー」(★)

2009-02-25 08:30:42 | 映画
監督 デヴィッド・エアー 出演 キアヌ・リーブス、フォレスト・ウィテカー

 「L. A. コンフィデンシャル」を書いたジェームズ・エルロイの脚本である。込み入ったストーリーの見応えのある映画を期待したが、まったく期待外れである。警官の腐敗ぶり(?)にまったく新味がない。見え透いた腐敗の構図、いやもう何度も何度も映画になった腐敗の構図である。だれが悪役なのか、すぐにわかる。映画はストーリーで見るものではないけれど、ここまであからさまな「どんでん返し」が用意されていると、ばかばかしくなってしまう。
 腐敗の構図に気が付かないのは主人公のキアヌ・リーブスただひとりである。

 むりをして(?)1点だけ、おもしろいシーンをあげておく。
 キアヌ・リーブスが追いつめられ、つかまえられ、丘の上のアジトへ連れて行かれる。気が付いたら手足はしばられている。そのキアヌが銃をもった2人の警官から、這って逃げようとする。
 え? 無意味な行動じゃない? 2人の警官も笑っている。からかって、わざと狙いを外して銃を撃つ。「あ、足に命中した」などと笑いながら。キアヌはけがをしたまま、草の影に逃れる。それを1人の警官が追って来る。そして、とどめの1発を撃とうとしたとき、キアヌが反撃する。スコップで。キアヌが逃げていった先は、実は、キアヌたちが遺体を発見した墓だった。墓を掘り起こしたときのスコップがそこにあることを知っていて、キアヌはそこへ逃げたのだ。
 ここは見事でしたねえ。伏線の張り方が美しかったなあ。私は寸前まで、気が付かなかった。あ、スコップと思ったら、キアヌがスコップを持っていた。少なくとも「自分から墓場へ突き進んでいる」という警官のせりふで気が付くべきだったなあ。--でも、この映画、あまりに退屈なので、このあたりまでくるとほとんど睡魔との闘いという感じだから……と、自分のぼんやりさ加減を弁護したいような気持ちにもなったり……。
 あ、ともかく、みえすいたストーリーです。そして、それを、あいかわらず無表情ハンサムのキアヌが演じるのだから、これはほんとうにつらい映画です。



L.A.コンフィデンシャル [DVD]

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『田村隆一全詩集』を読む(6)

2009-02-25 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。「四千の日と夜」は、矛盾したことば、厳しく対立することばに満ちている。1連目。

一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

 「生」と「死」。しかも、その死は自然のものではなく、「殺す」ことによって生まれる死である。そして殺す対象は敵(憎むべき相手)ではなく「愛するもの」である。

 4連目。

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く

 何によって? 想像力によって?
 しかし、この4連目は次のようにつづいている。

一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

 「眼に見えざるものを見、」「耳に聴えざるものを聴く」というとき、つかわれている力は「想像力」ではない。その「想像力」さえもが毒殺の対象なのだから。では、何によって見聞きするのか。
 「ことば」によって、である。ことばを発すること、見た、聴いたとことばにする、書くことによって、田村はすべての行動をする。「毒殺」するのも、ことばよってである。ことばに田村は特権を与えている。詩とは、特権を与えられたことばなのだ。

 最終連。

一篇の死を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

 「生む」のは「あたらしいいのち」ではない。「死者」を「甦らせる」と田村は書き換えている。死者は現実には甦らない。けれども、ことばのうえでなら、死者は甦ると書くことができる。ことばは、あらゆる存在に先行して、動いていくことができる。
 想像力があって、それをことばで説明するのではない。ことばがあって、ことばが想像力を動かしているのだ。だからこそ、不必要な想像力はことばの力によって「毒殺」するということが可能なのだ。

 「四千の日と夜」は、いわば、「ことば」の特権宣言である。「ことば」の独立宣言といえばいいだろうか。何にも束縛されない。ことばは、ことば自身の力で自在に運動する。それが詩である、という宣言である。

 田村は、「ことば」をもって、という肝心の「主語」をこの作品では書き記していないが、それは書き記す必要がないほど、田村には自明のことだったのだ。自明すぎて、書き忘れているのである。そして、この詩が「現代詩」の世界で受け入れられたのは、「現代詩」を書く詩人達がその意識を「共有」していたことを意味するだろう。
 だれもが、詩は、ことばの独立宣言であると思っていたのだ。現実を描写するのではない。ことばの力で現実を動かす。極端に言えば、ことばを現実(実在)が描写する。ことばは、詩は、現実をひっぱって動かしていく。
 芸術は自然を模倣するのではない、自然が芸術を模倣するのだ--ではなく、詩は現実を模倣するのではなく、現実が詩を模倣するのだ、というのが田村たちの、この時代の「共通認識」だったのだと思う。

 矛盾したことばを書く。それは矛盾を書いているのではない。「現実(くらし)」のなかでは矛盾としか定義できないものが実は矛盾ではないという主張のために、「わざと」矛盾を書いているのである。いま、矛盾に見えることが、永遠に矛盾でありつづけるわけではない。それは矛盾を超越した何かになる。(止揚ではない。)詩人には、それがわかっている。だから、それを書くのである。



若い荒地 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
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北原千代「繭の家」、瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」

2009-02-24 09:07:07 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「繭の家」、瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」(「風都市」19、2009年冬)

 北原千代「繭の家」の「わたし」は「繭の家」に住んでいる。Yという人物が、その「わたし」(繭の家)を後悔に連れ出す。

海というものは四六時中うねっているのだった
船が海のいちばん深いところにさしかかったとき

 この2行がすてきだ。北原は海を描写しようとはしていない。「わたし」(繭の家)とYとの関係、いや、「わたし」(繭の家)そのものの寓意を書こうとしている。しかし、その寓意そのものよりも、寓意から逸脱していく瞬間がおもしろい。
 ここに書かれていることがらは、特段、不思議なことではない。海はいつでもうねっている。また、海には深いところと浅いところがある。それは単純な事実であるけれど、寓意のなかにふいに挿入されるとき、それは「発見」になる。この2行はなくても、北原の書こうとしている寓意はかわらない。かわらないからこそ、その2行には意味がというか、価値がある。不要な細部、その逸脱のなかに、北原の感性が輝く。
 この2行の場合、特に、その「いちばん深いところ」という部分に、北原の感性が輝く。岸から「いちばん遠いところ」の方が寓話として論理的なのだが、遠近ではなく、深さを挿入することで、ことばが揺らぐ。想像力を揺さぶる。危険があふれてくる。

 前後を含めて引用しなおしてみる。

Yはおそろしく背が高く
着古したネイビーブルーのズボンをゆるやかに穿いていた
船乗りだと言った
てっぺんから繭を持ちあげると腕に抱えて
航海に連れていってくれた
海というものは四六時中うねっているのだった
船が海のいちばん深いところにさしかかったとき
甲板から繭ごと放り出した
わたしは泳ぎを知らなかったが
繭に納まったまま岸部に打ち上げられた
旅はどうだったかな、とYは訊いた
カモメが水平に飛んでいた、とわたしは言った
Yは憔悴しまるでみずから海に飛び込んだ人のように
頬や胸や腹や太腿に深い傷を負っていた
きみを危うくさせ、きみを救う、ぼくの愛のありようだ

 「きみを危うくさせ、きみを救う」というのなら、繭を放り出す海は、岸からいちばん遠いところになるだろう。岸までとおいほど、繭が岸へたどりつく可能性は少ない。泳げない繭にとって、浅い深いは危険度において差はない。繭が沈んでしまう深さなら、それで充分に危険である。泳げないのだから。それでも北原は「いちばん深いところ」ということばを選んだ。
 そのことばに誘われて、海が水平ではなく、垂直に、断面として目の前にあらわれてくる。その衝撃。その美しさ。
 この不意打ちの輝きがあるから、Yの泣かせ文句(?)も落ち着く。「岸からいちばん遠いところ」だったら、きざなせりふ、やぼったね、で終わってしまう。海は広いではなく、海は深いということを知っている、海は垂直であると知っているからこそ、カモメの行の「水平」も、Yのことばも効果的だ。Yのことばは、彼の深いところから出てきた、「広い」こころではなく、「深い」こころから出てきたものとして響く。



 瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」も寓話である。その書き出し。

鞄から取りだした見本はいくらか湿っているようだ
手足の切れ端のようなものが付いていたり
神経の束のようなものががぶらさがっていたりしている
使用方法を説明しようとして
こんなものを取りだしてしまったことに困惑している
顔の小さな先生はそんな私を慈しんでいるようだ
ついでに歯を削ってあげましょう
訪問販売をしていれば歯は痛むものですよ
顔の小さな先生は私の口の中をのぞき込みながらくりかえす
ちぎれた神経の先端が昨日の辺りをなでまわしているから
苦しいのですよ

 最初から奇妙な寓話が最後の2行で飛躍する。その瞬間が美しい。
 なぜ寓話を書くのか。それは、現実に則したリアルな文体では動かせないようなことばの運動を実現するためである。
 1連目の最後の2行は、それを書こうとして狙っていたものではないだろう。1行目から書きはじめ、ことばがしだいに自立し、それが自律へとかわる。それに加速を加えると、ことばが飛躍する。
 これは成り行きである。
 こういう成り行きに身をまかせ、成り行きがつかみとったことばを「歪めずに」、ことばの自律運動を正確に再現できるのが詩人である。
 狙って書くのではなく、狙わずに、そのことばが動いていくままに、追いかけていく。そのときにだけ見えるものがある。それを詩と呼ぶ。



風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(5)

2009-02-24 00:16:17 | 田村隆一
 「声」は書こうとすることが定まっていない。何が書けるかを探している。そのときの、ことばの揺らぎが過激である。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 ここでは抽象的なことばがせめぎあっている。「思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ」の「それは」は何だろうか。
 「時間を拒絶」すること--と考えるのがふつうの文法かもしれないが、そう考えるとあとが矛盾する。思考を拒絶することは時間を所有すること、と考えると、次に「時間から脱出せよ」が論理的に矛盾する。脱出する必要があるなら、なぜ、その時間を所有しなければならないのか。
 「それは」は「思考」か。思考を拒絶せよ。なぜなら、思考は時間を所有することだ。時間は所有せず、時間から脱出せよ。
 こう考えると、なんとなく、論理的には可能なことのように思える。
 時間から脱出して、どこへ行くのか。全身で感じることのできるせつない空間へ、行く。だが、このとき、目的は「空間」ではない。「感じるのだ 身をもつて思想を感じるのことなのだ」。目的は「感じる」ことである。だが、何を? 「思想」を感じる。
 そこまでたどりついて、私は、立ち止まってしまう。
 「思考」を拒絶して、「思想」を感じる。「思考」と「思想」はどこが違う? 私にすぐには答えることができない。私自身のことばのつかい方を吟味してみても、その区別はどこかであいまいになる。田村の「思考」と「思想」の使い分けは、もちろん、いまの段階ではわからない。
 何がいいたいのだろうか。
 たぶん、「思考」の対極にあるのは「感じる」ということばなのだろう。「考える」(思考する)のではなく、感じる。しかも「身をもつて」。「考える」は「頭」である。ここでは「頭」に対して「身」が向き合っている。
 「考える頭」と「感じる身」--これが、この詩における「対」である。そして、同時に「思考」と「思想」がやはり「対」になっている。
 「頭」でたどりつく、つかみとるのが「思考」、「身」でたどりつくのが「思想」。そして、田村は、その「身」でたどりつく「思想」、「身をもつて感じる」ことを重視している。
 その「思想」を重視するなら、私が、ここで解読したような試みは、もっともいけないことである。「頭」で「論理」を追ってはいけない。それでは「思想」にたどりつけない。
 では、どうすべきなのか。
 ことばを「頭」ではなく、肉眼で追いかけ、喉と舌で追いかけ、耳で追いかける。つまり「音楽」で追いかける。そのとき「身」(肉体)が感じる何か--それが「思想」だと感じる、ということをすべきなのである。
 ここでは考えてはいけない。音をただ味わうのだ。

 詩の書き出しに戻る。

 指が垂れはじめる ここに発掘された灰色の音階に

 「音」は最初からテーマだった。「灰色の音階」という不思議な表現。耳で聴く音階ではなく、眼で聴く音階。眼と耳、視覚と聴覚の融合。「身をもつて」とは感覚の融合をもってというのに等しい。
 それはたしかに「考える」ことではない。ただ「身」をまかせることである。「身」を何かに(音楽に)まかせ、そのとき起きる感覚の融合を全身にひろげる。そのとき、全身(肉体)という「空間」が「思想」になるのだ。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 このことばのなかで、田村は何も考えていない。多々音に誘われるままに、音の自律性にまかせて、その動きを身体で追っているのだ。旋律。リズム。ことばはいつでも、そういうものだけで動いていく。「拒絶」→「所有」→「脱出」。この過激な漢語(熟語)のスピード。そのスピードを「頭」ではなく、「身体」で感じるとき、「音楽」が「思想」になる。それは「意味」ではなく、意味以前の感覚の融合である。




スコッチと銭湯 (ランティエ叢書)
田村 隆一
角川春樹事務所

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津村記久子「ポストライムの舟」

2009-02-23 09:01:47 | その他(音楽、小説etc)
津村記久子「ポストライムの舟」(「文芸春秋」2009年03月号)

 芥川賞受賞作。困惑してしまった。まったく面白くない。文体が面白くない。書き出し。

 三時の休憩時間の終わりを告げる予鈴が鳴ったが、長瀬由紀子はパイプ椅子の背もたれに手を掛け、背後の掲示板を見上げたままだった。

 とても退屈である。余分な情報があり、うまく機能していない。たとえば「背後の掲示板」の「背後」とはどういうことだろう。背中をねじっているのだろうか。そうであるなら、そこに「肉体」が書かれていないといけない。なぜ、そんな姿勢でいるのか。そのときのこころの動きは? そういうものが書かれていないと、「背後」がことばとして生きてこない。
 津村は、主人公を肉体として描いていない。それが面白くない原因である。

 この書き出しの後、「長瀬」は「ナガセ」にかわる。そして他の登場人物たちとかかわる。そして登場人物たちは漢字だったり、カタカナだったり、敬称「さん」がついていたりいなかったりする。その書きわけも、私にはよくわからない。たぶんカタカナ、漢字、敬称によって主人公「ナガセ」との人間関係の度合いを区別しているのだろうけれど、それが私にはわからない。名前の表記の書きわけではなく、人物の具体的な行動で人間をかき分けてもらいたい。表記で人間をかき分けるのは、安直な気がするのである。

 強いて面白い部分を上げると、2か所。348ページの自転車の場面と、377ページ上段の「今のナガセは、自室に寝かされてただ天井の木目を見ている。」からの風邪で寝ている場面である。特に、雨と肉体の感じがとてもいい。その最後の部分、

 顔を上下左右にむずむず動かして、せめて泣こうとしてみるが、こみ上げるものが何もない。ただ、屋根の下で寝られてありがたい、と頭のてっぺんを稲妻に照らされながら思った。雨が強くなるにつれて、眠気が増していった。次に目が覚めた時に、仕事をやめたくなっていませんように、と祈る。近くで雷の落ちる音がした。

 こういう文体で、ナガセだけでなく、他の登場人物も描き分けられていたら面白いと思った。





文藝春秋 2009年 03月号 [雑誌]

文藝春秋

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