詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」、吉本洋子「春は垣根のそばで」

2014-04-30 09:47:27 | 現代詩講座
陶山エリ「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」、吉本洋子「春は垣根のそばで」(現代詩講座@リードカフェ、2014年04月16日)

 陶山エリ「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」も楽しい作品だった。

なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ          陶山エリ

なまはるまきぱくちーぬきほんのり首を傾げる地球儀とたわむれ
沈丁花は夜に震え
夜は無心にからだを擦りつけた花びらの細胞壁も壊れたあとのことは知らないことを知っている庭は
ため息は犬の鼻孔からため息は消え去りながら知っている

かゆいのかしりたいのかむしりたいのか夜いぬなまはるまきぱくちーぬき

世界はちきゅうぎの底はいまのところできているわるいわるい
ぱくちー透けるぱくちーわかりやすい夜いぬぬき
にょくまむにょくまむぎょしょーのなんぷらーしょっつるに泳がせるいぬはるまきはるまきいぬぱくちーぬき

春こじ開ける気道をふり返るかしげる夜はるぬき

 受講生の感想は「ことばの響きがいい。解放されている」「ぐるぐるまわっている感じ。無意味をめざそうとしている」「にょくまむにょくまむぎょしょーのなんぷらーしょっつる、というのはお経みたい」「呪文みたい」「早口ことばみたい。内容がつかめない」「パクチーきらいなのかなあ……」
 議論が沸騰(?)したのは、「いぬ」。「いぬって何?」
 何でもいいのだが、動物の「犬」、それから「行く、去る」という声が多かったのだが、「死ぬことをいぬ、って言わない?」。これはなかなか同意してもらえず、一人が辞書を引いて「死ぬ、という意味もある」と言ってくれたのだが……。
 私はすけべなせいなのか、セックスののときの「行く」「死ぬ」は、この「いぬ」の「現代語」だと思っているので、「犬」と「行く」だけでは物足りない。
 「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」という「な・ぬ」「る」というほの暗い音、「ま」「は」の明るいけれど「な行/は行/ま行」のいう五十音図では隣接した音の交錯、「き/い」の割り込んで来る輝きの美しさをセックスと切り離してしまうのは惜しい感じがする。
 「ため息」ということば、「ほんのり」「たわむれ」「ふるえ」「からだ」「花びら」「細胞壁」「こわれる」……とセックスと通い合うことばは、あちこちに動いているのに、と私は思う。
 
 講座での話題は、そういうところへは踏み込まず、いつものように、陶山独特の「文法」が話題になった。「夜は無心にからだを擦りつけた花びらの細胞壁も壊れたあとのことは知らないことを知っている庭は」という行で交錯する「知らない/知っている」という動詞。それを次の行で、また「知っている」と繰り返すのだけれど、知っているのか、知らないのか、どちらかわからないのに、わからないまま、ことばの世界に誘い込まれていく感じがおもしろい。
 この動詞の動かし方は、きのう取り上げた田島安江「ビルジ」が、動詞を横につないで広げていく、あるいは積み重ねていく運動と比較すると、方向性がまったく違う。どちらかというと「積み上げ」タイプだけれど、積み上げ方がある動詞を下にして、その上に別の動詞を積み上げるという感じではない。ある動詞を、その動詞の底から天井へ向けて突き破り、その突き破った上に、同じ動詞を積み上げて立体感を出す。「知る」という動詞を「知らない」という形で活用させて上で、内部から破壊し「知っている」と言いなおす感じ。単純に「知っている」と書いたときよりも「動詞」の強さが違ってくる。ねじれ、撓んだ感じが、あいまいな何かを誘う。
 とばは「意味」だけを求めて動くのではなく、動くとき、そのことばだけでは言い切れないものをひきずりながら動き、それが溜まると、ねじれて思わぬ方向へ暴走する。その瞬間が楽しい。
 意味は特定しては詩にならないのだ。

かゆいのかしりたいのかむしりたいのか

は、

痒いのか知りたいのか毟りたいのか

と「意味」を整理してしまうとつまらない。痒い-毟りたいの動きは肉体を刺戟するけれど、あまりにも意味になりすぎて、ことばに触れたときの、何かすり抜けていくような感じが消えてしまう。

痒いのか齧りたいのか知りたい、痒いのか齧りたいのか被りたいのか、知りたいのか

 こういう感じで読むと、ことばが最初の意味を突き破って、別なものがあふれてくる感じがつたわるかな?
 「意味」を考えずに、遊ぶと、詩はおもしろい。



春は垣根のそばで               吉本洋子

隣家の徒長した梅の枝に蕾がついた
異人さんにつれられて行っちゃった隣人は
まだ帰ってこない
雨戸は開けられないまま枝が伸びる
もう帰ってこられないでしょう
訳知り顔をした鳥が
ほらほらと翼を振りながら
あちらの言葉をはやく話されるといいですけどなんて
ちゅりちゅり囀る
切られない枝に花が開き
匂いにさらわれそうだ

もしもしそちらの方ちいさなこどもをしりませんか
まだ尾羽も生え揃わない小指ほどのこどもです
国産みの御二人にもお見せした
長い尻羽の石叩きのすえ
大事に産み落としたこどもです
大きな剪定ばさみを持った
見知らぬ夫婦ものに巣ごとさらわれて
行方知れずになりました
川にでも落ちているのではなかろうかと
ちちんちちんと鳴きながら飛びながら
探し続けているのです

 二連目の「小さなこども」は小鳥(鳥の雛)のことだろうけれど、一連目の「異人さんにつれられて行っちゃった」からの連想として、赤い靴を履いている小さな少女と読み替えてみるのはどうだろう。さらわれたこども恋しさのあまり、鳥の雛を我が子と思い込む。そうして自分は雛の親(親鳥)になってしまう。そういう錯乱のなかに、「まだ尾羽も生え揃わない」とか「川にでも落ちているのではなかろうか」とか「ちちんちちんと鳴きながら飛びながら」が具体的事実として挿入されるとき、現実世界よりも錯乱こそが「事実」となって浮かび上がって来ないだろうか。
 吉本との意図とは違ってしまうだろうが、私は、そんなふうに読み、これはおもしろくなると期待した。
 この詩は、実はもう一連あって、その三連目の評価をめぐって受講生の間でもいろいろな意見が出た。私はその連をあえて引用していない。

詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(39)

2014-04-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(39)

 「せめて出来るだけ」は、私にはかなり奇妙な作品に見える。

思いどおりに人生を創れなくとも、
せめてやってみろ、出来るだけ
人生の品質を下げぬようにと。
世間接触しすぎるな。
働きすぎるな、話しすぎるな。

 「奇妙」と感じるのは、「やってみろ」といいながら、そこで主張されていることは「……するな」という否定形の命令であるからである。何をしたらいいのか、これではわからない。
 別な角度から考える必要がある。「やってみろと言っているのはだれか。言われているのはだれか。おそらく両方ともカヴァフィスである。カヴァフィスがカヴァフィス自身に語りかけている。そして、語りかけられている人間には「やりたいこと」は決まっている。語りかけている詩人にも、それは充分にわかっている。
 だから、それは思う存分やれ。ただし、それをするときに「人生の品質を下げぬように」に注意しろ。(「……しろ」は肯定の命令形だが、その内容が「下げない」と否定形なのだがら、これも否定命令形である。)
 そこに書かれている否定形にも特徴がある。「……しすぎるな」が繰り返されている。これは二連目にも出てくる。

人生を広げ過ぎるな、
引き廻すな、
社交やパーティーのくだぬ日々に
人生を曝し過ぎるな。

 「……しすぎるな(過ぎるな)」という命令形もまた、ひとつのことを明らかにする。「……しずぎるな」と言わなければならないほど、すでにカヴァフィスはそういうことをしている。多くの人と接触し、働き、話している。人生を広げすぎている。
 すでに過剰なのだ。だかこそこ「せめて」「できるだけ」、やってみろ、というしかない。
 しかし、これは効果がないだろうなあ。
 言ったくらいでできるなら、そういうことははじめからしていない。絶対にやれるはずがないとわかっていて、リッツォスは「せめて」「できるだけ」とことばの印象をやわらかくしている。しかし、この「せめて」「できるだけ」という注釈こそが自分への甘やかしのすべてである。そのことばはすでに「してもいい」を含んでいる。
 これは矛盾である。しかし、矛盾しているからこそ、詩はいきいきと輝く。

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田島安江「ビルジ」

2014-04-29 11:37:55 | 現代詩講座
田島安江「ビルジ」(現代詩講座@リードカフェ、2014年04月16日)

 今回いちばん好評だったのは、田島安江「ビルジ」。

ビルジ。船の底をおおう水。不浄のかん水だまり。
一瞬の春。一瞬の桜。胸の中を泳ぐ魚。炸裂する花火。赤提灯の灯より赤い火の花。アセチルサルチル酸で頭痛は治らない。たわむ背中。古びた海図。沈む欲望。他者の町。他者の眠り。廃油の光る水だまり。他者の叫び。光のざわめき。記憶の吹き溜まり。まきあがる乱気流。土の匂い。海のアカの匂い。苦い光の粒。地下に潜った路面電車。まとわりつく光。赤くまとわりつく水。

ビルジ。赤くまとわりつく光。
街路の隅々で閉じ込められた人びと。人びとは一斉に眠りを装う。眠る人びと。ビルの隙間を走り抜ける祭りの喧騒。路面電車は地中を走りぬける。飢えた人びとがその上を通り過ぎる。小さな光の束がはじける。耳の中をすり抜ける。町は突然膨張を始める。見慣れた景色が通り過ぎる。誰も町のほんとうの顔を知らない。神経を病んだ町。町はわたし達を捨てた。たまり水を捨てるように。

町は一斉に暴走をはじめる。町を支える肋骨がきしむ。街灯を水が浸す。光が人びとを襲う。家を濡らし、心を濡らす。かつて川を流れた飢えた人たちの心。心はわたしを侵食しはじめる。あとからあとから押し寄せざわめく光。うごめく人々の心がわたしの記憶のひだに潜りこむ。飢餓のカタチがみえる。窪んだ眼。窪んだ頭蓋。窪んだ鳥の目。浮かび出る肋骨。

ビルジ。不要な汚水。ポンプで吐き出される人びと。
声にならない叫びをうけて夜半に目覚める。まとわりつく水が押し寄せる。だれかがわたしに触れる。闇の谷が深くなる。谷の深さを測ることが営みの全て。生まれなかった子どもは闇に消える。闇の谷に潜む子どもたち。連なり遊んでいる。永遠に同じカタチ。同じ背丈。記憶の底に潜む子らの顔。どうしても見分けられない。闇の谷で出会った子らには顔がない。わたしの中に迷い込んだ魚。魚の顔が目の前に現れる。悲鳴をあげる。魚の顔が子どもの顔になる。わたしの中を泳ぐ魚。夜更け密かに湯浴みする女たちの嬌声。部屋を満たす水。耳奥で静かなさざなみが立つ。

ビルジ。わたしのなかにもある水だまり。
老いた家がふいに立ち上がる。

 「かっこいいなあ。一連目の体言止めの連続がが印象的」「いろいろな情景が浮かび、書き方が陶山に似ている」「ことばの響きが気に入って書いたのでは」「連想が広がる」「三連目が少しきつい。いっぱいいっぱい書いてある」「ことばが重なって調子がいい。聞いていても気持ちがいい」
 一連目を分析(?)してみる。受講生が指摘したように、この連には体言止めが多い。体言止めのことばを読むとイメージが次々に飛躍していく感じがする。そのために全体が何を言っているのかわかりにくいときがある。
 そして、実際に体言止めが多いとイメージがばらばらになってしまうときもあるのだが、この作品ではそういう感じはしない。一回だけ出てくる「治らない」と用言で終わることばが全体をつらぬいている。「動詞」を統治している。
 動詞そのものとした書かれているわけではなく、連体形や名詞に活用(?)させた形で書かれているのだが、それを動詞を動詞本来の形(終止形)にもどしていくつか拾いあげてみると……。
 「たわむ」「古びる」「沈む」「ざわめく」「吹き溜まる」「潜る」「まとわりつく」ということばは「治らない」ということばと親和力がある。動詞のイメージが、何か停滞した感じをいくつかの角度から言いなおしたもののように感じられる。
 イメージというと「名詞」を思い浮かべがちだが、動詞にも「イメージ」がある。「ニュアンス」と言った方がいいのかもしれない。雰囲気。その動詞がつかわれるとき、肉体が知らず知らずに感じる「動き」そのものスピードや軽さ、重さというものがある。そういうことばを続けて聞かされると、気持ちがだんだんその動詞に染まってくる。
 この一連目で印象的なことばは?と受講生に質問したとき、名詞をあげるひとが多かったのだが、ことばを理解するとき、名詞よりも動詞の方が重要だと私は思っている。名詞にも親和力があるけれど、動詞にも親和力がある。その動詞の親和力を追っていくと、ことばを動かしているエネルギーの「ありよう」がわかる。
 さっきあげた動詞からは「停滞感」のようなものが浮かび上がった。頭痛が治らない、重苦しさが頭の周辺に停滞している、という感じが浮かび上がる。
 それは「苦い」という用言ともかよいあう。「おおう」という動詞とも親和する。重苦しい痛みが頭を「おおう」のが頭痛であり、そのとき体のどこかが鬱屈する(たわむ)、何かが沈んで、たまり、まとわりついてきて、動きにくくなる。
 その「動きにくくなる」が「ビルジ」そのものの「本質」と合致する。あるいは「ビルジ」を「動きにくい(動かなくなった)水垢」という定義にしてしまう。
 なかには「炸裂する」とか「光る」「叫ぶ」という強い動詞、動きの激しい動詞ももあるのだが、炸裂する花火は消えていくという負のイメージも持っている。また「光る」には「廃油の」という負のイメージがついてまわっている。「叫び」も「苦悩」という負のイメージを持っている。
 全体が「治らない」という「負のイメージ」を補強するように動いている。負の動詞が一連目を統治している。その統治に乱れがないので、ことばが印象的なのである。

 ことばを理解する、書かれていることがらを点検していくとき、私は「動詞」が基本になると考えている。名詞は、私の考えではあてにならない。名詞は自分の肉体では再現できないから、嘘かほんとうかわからない。
 少し飛躍して言うと。
 たとえば「飲む」という動詞がある。それが何語であれ、コップに水をいれて、それを誰かが飲んで見せる。そして「飲む」という動詞を言う。このとき、それを聞いた人は同じように水を飲むことができる。他人の動詞を自分の肉体で再現し、意味を理解することができる。そのとき理解するのはどうしだけではなく、水が安全であるということを含んでいる。もし、だれかがコップに液体を入れ、「飲め」と言っても、それは安全かどうかはわからない。「液体」「水」という「名詞」は、人間を欺く可能性がある。それは「毒薬」かもしれない。
 けれど、実際に、目の前で相手がそれを飲んで見せれば、それが「毒薬」と書かれていても、その名詞が嘘であるということがわかる。動詞は肉体で、もののたしかさを確かめている。動詞をとおして、人は人と安全なつながりをもつことができる。「名詞」では、嘘の世界へ入ってしまうことがある。
 で、私は、詩を読むときも「動詞」を基準にして読む。そこに書いてあることばを、自分の肉体が再現できるか、それをしたことがあるか、それをしたときのことをおぼえているか……。そういうことがスムーズに動くと、私はその詩を信頼する。
 田島の「ビルジ」の一連目がとても好評だったのは、「動詞」が安定していたからである。

 詳しくは書かないが、二連目では「動詞」が別の形で統合されている。書き出しこそ「まとわりつく」「閉じ込める」だが、「装う(偽装する、か)」をへて、「走り抜ける」「通りすぎる」「すり抜ける」ということばが支配的になる。
 一連目との関係で言うと、一方に停滞するものがあり、他方に通過するものがある。そのふたつの差(違い)を象徴するものとして「捨てる/捨てられる」がある。「ビルジ」はこのとき、通りすぎていく(どこかへ行く/移動する)ために捨てていくものの象徴になる。捨てられて停滞するものの象徴になる。
 このあと三連目で、動詞は「きしむ」に象徴される。捨てられ、停滞しているものが、怒りとか飢えとかを暴走させ、反乱しはじめる。そのとき世界が「きしむ」。
 田島は、その「きしむ」をとおして、世界の変革を夢みていることになる。
 停滞から、暴走への予感が「ビルジ」という汚れた水のなかに夢みられている。最終連の二行は、田島自身が(ビルジ自身が)動きだす瞬間を描いているが、その運動が一貫していてスピードがある。そのために、詩がいきいきしている。




詩集 牢屋の鼠
劉暁波
書肆侃侃房
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(38)

2014-04-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(38)          2014年04月29日(火曜日)

 「めったにないことだが」は老人が描いている。「時間と不摂生に駄目にされて」しまった男。カヴァフィスの自画像とも読むことができる。年老いてしまったが、こころは青春時代をくっきりとおぼえている。青春のこころを、まだ自分のものと感じている。
 カヴァフィスにとって青春とは……。

今 青年たちはおのれの詩を口ずさみ、
彼等の涼しい眼はおのれのものの見方に倣い、
彼等らの感性溢れる健康な心と、
形よくしゃっきっと伸びた身体は
美とは何かというおのれの物差しにあわせて
動いているではないか。

 青春の特権とは何か。若さ。若さとは何か。「おのれ」の主張である。「おのれ」という主観である。この詩には「おのれ」ということばが繰り返される。「おのれ」と何度も言えることが若さである。何度繰り返しても言い尽くせない「おのれ」が肉体からあふれてくるのが若さというもの。
 この「おのれ」という訳はとてもおもしろい。日本語では「おのれ」だが、ギリシャ語(ヨーロッパの言語)では、たぶん「彼」であろう。「彼の詩」「彼のものの見方」「彼の物差し」。日本語はひとつの文のなかで、直接話法/間接話法という「文法」をくぐらないまま、「彼」を「私」に言い換えて主張することができる。この特徴を生かして、中井久夫はカヴァフィスの思想(本質)を生き生きと描き出している。
 繰り返される「おのれ(の)」は主観である。「おのれの詩」では「主観」という印象は少ないが、「おのれのものの見方」「おのれの物差し」は主観を言い換えたもの。カヴァフィスの詩には、主観が溢れている。登場人物が誰であれ、カヴァフィスは彼らに主観をしゃべらせる。主観を生き生きとした「声」として描き出す。
 中井は「彼等の」ということばもつかっている。「彼等の涼しい眼」「彼等の感性」。「彼等」と「おのれ」を組み合わせ、ごちゃまぜにして、区別できないものにしている。青春は客観と主観の区別がない時代のことでもある。
 カヴァフィスは(中井のカヴァフィスは)、その「ごちゃまぜ、区別なし」を老人になっても生きている。青年を描きながら、そこに「おのれ」の、つまりカヴァフィスの主観を、彼等の「おのれ(自己)」と同じものとした描いている。
 最後の三行は、とても美しい。そこに描かれているのは、形よくしゃきっと伸びた「おのれの」身体である。青春の「おのれ」は精神的なもの(ものの見方)だけではなく、身体そのものが「主観」だ。そして、その「主観」が絶対(物差し)だ。
 「形よくしゃきっとした」という若い音が美しい。中井の、口語の感覚がとても生きている部分だ。最後の「動いている」ということば、どんな動きか特定せず、ただ「動き」そのものに焦点をしぼっているのもいいなあ。
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アスガー・ファルハディ監督「ある過去の行方」(★★★★)

2014-04-28 09:51:37 | 映画
監督 アスガー・ファルハディ 出演 ベレニス・ベジョ、タハール・ラヒム、アリ・モッサファ、ポリーヌ・ビュルレ


 アスガー・ファルハディの映画を見るのは3本目である。「彼女が消えた浜辺」「別離」「ある過去の行方」と見てきて、なんだかうますぎて映画を見ている楽しみがなくなってしまった。
 「彼女が消えた浜辺」は、わけがわからないまま興奮した。海辺のたこ揚げのシーンの不安定な感じがとてもよかった。明るい陽射しと不安が交錯して、とても興奮した。そのときは、アスガー・ファルハディが人間の深層意識を突きつめていく監督とは意識しなかった。
 「別離」を見て、あ、アスガー・ファルハディは人間の心理は入り組んでおり、それが入り組んだまま他人の意識と交錯するので現実が歪んで行くというようなことがテーマなのかとわかった。入り組んだ事実の真相に迫っていく過程で、男が父親の介護ヘルパー(男に階段から突き落とされたために流産したと訴える女)に「コーランに誓ってほしい」と迫る。そこから思いがけない事実が語られるのだが、そのときはそれが新鮮でよかったが……。弱者(?)が真相のカギを握っている、というのが説得力を持っていたが。
 繰り返されるとおもしろくない。とてもよくできた脚本だし、俳優の演技がすばらしく、こんなに深く人間の入り組んだ心理を映像化してしまうのはすごいと思うのだけれど。でもねえ……。でも、ほんらい不透明で見えないはずの人間の深層心理が、こんなにあざやかに浮かび上がってしまうと、何か違和感が残る。
 真犯人(?)はクリーニング店の善良そうな店員(不法入国のため、怯えつづけている弱者)というのは、どうも見ていて落ち着かない。人間の心理の核心部分を、社会制度の問題点と結びつけるのは、問題のすりかえのような感じがしてしまう。「別離」のときは、「コーラン」が謎解きの転換点になった。宗教も社会制度であるとは言えるけれど、不法入国/労働者というようなものとは違う。宗教はあくまで個人のもの(神と人間の、ひとりひとりの関係)であるのに対し、不法入国は個人的問題ではない。
 真犯人はクリーニング店の店員、という「結論」でなければ、★5個、いやそれ以上の映画なんだけれどなあ……。

 いろいろ感心するが、冒頭の空港の、離婚手続きをするために再会する夫婦のシーンがすばらしい。ガラス越しで声が聞こえない。妻に気がつかない夫。見知らぬ客が妻の様子に気づき、夫に何かつたえる。夫が振り向き、妻に気がつく。--ここに描かれる、知っている(夫婦の関係)、知らない(通りすがりの旅行者)の関係がおもしろい。知らないけれど、わかる。そして、わかっていることをまったく知らないひとに正確につたえることができる。言いなおすと、旅行者は二人がどういう関係か知らないのだけれど、妻の様子から二人が知り合いであることがわかる。夫に迎えに来ていると知らせたがっていることがわかる。そして、夫にそのことをつたえる。「ガラスの向こうのひとがあなたを呼んでいるよ」。で、そのことばをきっかけに、夫婦は連絡がつく。時間が動きはじめる。
 この「知らない」と「わかる」が何度も何度も映画で反復される。夫婦は離婚するのだが、妻には愛人がいる。そしてその愛人にも妻がいるのだが、自殺未遂で植物状態で寝たきりである。なぜ彼女は自殺しようとしたのか。彼女は夫と女の関係を知っていたのか。知っていたとしたら、どうやって知ったのか。あるいは、誰が教えたのか。密告するとすれば、もちろん第三者だが、その第三者はなぜ密告したのか? だいたい男女の関係なんて当人以外のひとにとっては無関係であるはずなのに、なぜ人はそういう「知らないこと(知る必要のないこと)」までわかってしまうのか。二人が愛人関係であると「わかる」ことと、自分自身の生活が何の関係があるのか。密告した第三者は、二人の関係によって自分の暮らしがどう変化すると「わかっている」のか。
 自分とは無関係であるはずのことを知り、それを「わかる」--といっても、この「わかる」というのは自分の肉体のように感じる、あるいは自分がそこでおこなわれていることに肉体ごと巻き込まれてしまうという感じなのだけれど。そう感じることによって、人間の生き方は奇妙にねじれる。
 冷静に、論理的に考えれば、そんな捩れなど排除できるはず--と思うのだが、人間は理性だけでは生きていないし、理性だけで生き方が「わかる」わけではない。理性だけで行動できるわけではない。肉体がおぼえている何かが奇妙なかたちで「わかる」ことをねじまげていく。
 映画を見ていないひとには、私の書いていることは抽象的すぎて何がなんだかわからないと思うけれど、映画を見たひとには、たまたま知った何事かを「わかった」つもりで他人につたえ、それが現実をとんでもない形に変形させるということ--それが監督のテーマであり、監督がそういう捻じれといっしょに動いている人間の心理を役者の肉体で再現していることがわかると思う。
 で、これが一作、二作、三作と進むに従って「深層心理」の交錯の仕方が入り組んでくるのだが、入り組めば入り組むほど「わかりやすく」なる。これは監督の技量が格段に進歩しているのか、私が単にアスガー・ファルハディの映画文法に慣れてきただけなのか、よくわからないのだが。

 この映画は、まあ、大人(おとな)の映画であり、こどもにはぜんぜんおもしろくないと思う。(私も精神年齢がこどもなのでぜんぜんおもしろくないのだが……。)そのぜんぜんおもしろくないはずのこどもが、この映画で大活躍している。大人たちの演技はすばらしいが、妻の愛人のこども(少年)が、いやあ、すばらしいなあ。
 大人のわがまま(?)にふりまわされて、ぜんぜん楽しくない。大人なんて、自分勝手でわがまま。自分のことなんか何にも考えてくれていない--と反抗するのだけれど、このときの大人の世界のわかっていない感じ、大人の世界はわからないけれど、自分の気持ちはとってもよくわかる、自分の気持ちを大切にしたい、自分で守りぬいてやる、大人に抵抗してやる、という叫びが肉体全部から出てくる。
 こういう演技をよく引き出せたなあ、と監督の技量にびっくり。

 あ、もうひとつ書いておこう。
 ラストシーンがとてもいい。昏睡状態の妻。人間の意識で最後まで生きている(?)のは嗅覚。原始的だから生きているというのだが。(嫉妬も、まあ原始的だから生き続け、人間を苦しめるのかもしれない。嫉妬はもっとも原始的な愛の形かもしれない。)
 夫が自分がつかっていたオーデコロンをつけ、妻に「匂いがわかったら手を握れ」と呼び掛ける。そして二人の手のアップで終わる。それは妻がにぎり返した手? 夫が妻の手にそえて反応を待っている形? 答えを出さない。答えを観客にゆだねている。
 手と手がそこにある。そこから何が「わかる」か。答えはいつでも自分のなかにしかない。監督も役者も答えを出せない。観客だけが、自分にあわせて答えが出せる。
 (意識がないのだから、夫の呼びかけが聞こえるわけはない--というような野暮な論理は捨てて、自分なりの「結論」を出してみよう。)
                      (2014年04月27日、KBCシネマ2)



彼女が消えた浜辺 [DVD]
クリエーター情報なし
角川映画
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(37)

2014-04-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(37)          

 「教会にて」は「教会が好きだ。」という単刀直入なことばではじまる。その正直な声が私は好きだ。正直は人間の秘密をさらけだす。

ギリシャ人教会に行って、
香の匂いをかぎ、
連祷の歌詞と和音を聴き、
金銀の縫い取りのきらめく
僧侶の尊厳な姿を眺め、
その立居振る舞いの荘厳なリズムを感じる時、
私の思いは返る、我が民族の偉大に。

 感覚が次々に動員される。香をかぐ(嗅覚)、歌詞と和音を聴く(聴覚)、姿を眺める(視覚)。感覚器官(鼻、耳、眼)が肉体から分離できないように、それぞれの感覚も個別に分離させることはできない。ことばはすべてを書くことができないので個別に書いてしまうが、それはどこかで統合されている。カヴァフィスの場合、それは「リズムを感じる」という形に統合されていく。
 鼻でかぐ、耳で聴く、眼で眺める、という具合に、感覚は具体的な肉体の部位と動詞を結びつけて表現できるが、「感じる」はどうか。もちろん「鼻で感じる」「耳で感じる」「眼で感じる」と言えるけれど、「リズム」は「どこで」感じるのか。「リズム」は肉体のどの部分を刺戟しているのか。ことばを選ぶのはむずかしい。「肉体全体」だろうか。たぶん、そうなのだろう。だから、それを先取りする形で、私は個別な感覚が「リズム」のなかで「統合されている」と思ったのだ。
 この「肉体全体」で「リズムを感じる」をカヴァフィスは、言いなおしている。

私の思いは返る、我が民族の偉大に。

 肉体の奥に引き継がれている「我が民族の偉大」。「我が民族のDNA」が「リズム」のなかから蘇るのだ。
 「帰ってくれ」で読んだことが、別の形で書かれている。
 官能、愉悦に「帰って(来て)くれ」と言うかわりに、この詩ではカヴァフィス自身(私の思い)が、「返る」。「帰る」はある「場所」へ帰る感じだが、「返る」はある「状態」へ返るという感じがする。もとにもどる。根源にもどる。本能にもどる。
 私はまた、この詩でカヴァフィスが荘厳の「意味」を感じるではなく「リズム」を感じると書いていることもおもしろいと思う。「連祷の歌詞」を聴いているが、カヴァフィスはそのことばの「意味」を聴いていない。声の響き、和音を聴いて、そこから「音楽」の基本である「リズム」へと返っていく。カヴァフィスのことばは、いつも「肉体」と反応している。
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呉美保監督「そこのみにて光輝く」(★★★)

2014-04-27 22:10:35 | 映画
監督 呉美保 出演 綾野剛、池脇千鶴、菅田将暉


 呉美保監督初めての恋愛映画だそうである。池脇千鶴ががんばって迫力のあるセックスシーンを演じているという話である。
 ふーん。
 私は呉美保は「酒井家のしあわせ」にとても感心した。新しい才能だと思った。「オカンの嫁入り」は、うーん、役者に遠慮しているなあ、役者に演技させていないじゃないかとちょっと不満に思った。
 2本とも「家族映画」である。「オカンの嫁入り」は「オカン」の恋愛映画とも言えるかもしれないけれど……。
 で、
 「そこのみにて光輝く」なのだけれど、なーんだ、やっぱり「家族映画」じゃないか。恋愛よりも「家族(家庭)」がテーマの映画じゃないか。恋愛というのはたしかに新しい「家庭」をつくるという意味では「家族」映画でもあるのだけれど、こういう言い方って、なんだかうさんくさいよね。
 やっぱり、家族を壊してでも一人の人間を選ぶというのが恋愛。「ロミオとジュリエット」でって、家族を放り出して相手に夢中になっている。
 まあ、小説が、そういうストーリーの展開ということかもしれないけれど、私はぜんぜんおもしろくなかった。池脇千鶴の弟が傷害容疑(だったかな?)で服役していたことがある--というような伏線は、もう伏線とは言えず、結末の先取り。弟の経歴が明かされた段階で、私はもう半分以上見る気力を削がれてしまっていたのだが、池脇千鶴の迫真のセックスシーンというのが見たくて、がんばって椅子に座っていた。
 私は、問題のセックスシーンよりも、二人が泳いでいてキスをし、それからからみあうシーンの方がいいと思った。キスシーンはカメラは水の上。もつれ合った体は水の下で何をしてるんだ? 気になるでしょ? カメラはちゃんと水中も映す。立ち泳ぎしているから、足がばたばたしてるだけなんだけれどね。それから、そのカメラが水面へ上がっていくとき、水面の裏側(?)と、その向こうの二人の肉体の形、シルエット、空の色が見える。いやあ、水のなかへ潜ってセックスシーンを覗き見した気分。うれしいなあ。
 それに比べると、そのあとの男の部屋でのセックスシーンは、何一つ思い出せるものがない。セックスはだいたいやることが同じ。愛が燃え上がる感じがないと、美しくもなんともない。海の最初のキスで、もう愛は終わっている。愛言うのははじまりが終わり。あとは持続。
 途中、男が池脇千鶴にプロポーズするシーンがあって、このときの池脇千鶴のうれしそうな顔がとてもいいのだけれど。
 それやこれやは端折って、ラストシーン。海辺。池脇千鶴が家から逃げ出すように海辺へ来た。男が追いつく。二人は見つめ合う。池脇千鶴の顔のアップ。
 そこで終わってしまうと「酒井家のしあわせ」と同じになってしまうと考えたのかどうかわからないが、そのあとふたりはさらに近づき抱き合う。(抱き合ったと思う。忘れてしまった。)
 あ、これがおもしろくない。興ざめ。
 せっかく池脇千鶴が顔で演技しているのに、それがなくなってしまうことになる。抱き合うなら顔なんかアップにせずに、がむしゃらに抱いておしまいにすればすっきりするのに。
 分かりやすくしようとして映画が汚くなっている。
 最悪なのが、池脇千鶴が介護疲れの果てに父親を絞殺しようとするシーン。長すぎる。首に手をかけているシーンそのものが必要かどうかもわからないが、スクリーンに映すのは1秒でも長すぎる。首を絞めているシーンではなく、首を絞めている池脇千鶴を男がつきはばすシーンこそ、激しさがつたわるようにしないと。その瞬間の暴力(?)が激しければ激しいほど、それが男の愛の強さを証明することになる。突き飛ばされて、衝撃で我にかえり、そのとき男の顔が見え、池脇千鶴の顔つきがかわる--そのアップで終わるというくらいの激しさがないと、映画がだらだらしてしまう。

 呉美保の映画は3本しか見ていないが、彼女の場合、自分で脚本を書いた撮った方が作品のすみずみに「肉体」の感覚が出ると思う。(「酒井家のしあわせ」は監督が脚本を書いていたと思う。--記憶まちがいかもしれないが……)他人のことばだと、肉体が余分に動く。正確につたえないといけないという思いがあるのかもしれない。
                     (2014年04月23日、KBCシネマ2)



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荻野央「なみだ」

2014-04-27 11:42:00 | 詩(雑誌・同人誌)
荻野央「なみだ」(「木偶」93、2014年04月30日発行)

 荻野央「なみだ」について、どう書こうか迷っている。

別れにあふれるもの
願いがかなって めぐり会え 滲みでてしまったもの
なみだ

 書き出しのこの3行は平凡だ。悲しい涙とうれしい涙。でも、そのあとが少し変わっている。

わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった日から
眼の皮膚は ずっと乾いたままだが
なみだはいつも わたしのなかにある

 「アカの他人」という言い方が、私には何かこわいものがある。近づきがたいものがある。「アカの他人」というよりも、そのあとの「たいして変わらないと知ってしまった」かな? いや、「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」が怖いんだなあ。
 他人と変わっていないといけないの? 同じだったら問題があるの?
 荻野は、何か自分は特別な人間であると考えているのかもしれない。そういう視点が、たぶん私には、こわい。近づきたくないなあ、という感じ。
 自分が特別な存在であるとわかったら、また涙を流すだろう。それまでは、涙は「わたしのなかにある」。
 そのちょっとこわい荻野が2連目で、こんなふうにことばを動かす。

いま わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しないのは
向こうからやって来た人びとのために描いた砂の絵が
彼らに踏みにじられて 悲しくなったから
乾いた眼から砂が噴き出て
しょっぱくて温かい その液体のことを
しまいこんだままでいる

 「砂漠」は1連目の「乾いたままだ」ということばを源にして動いている。そこまでは自然なことばの展開だが、そのあと「文法」が激しく乱れる。「……のは」ということばは次に「理由(原因)」を述べるときにつかわれる。2連目にその「原因(理由)」を探してみると、「悲しくなったから」という部分に「から」が出てくる。「……したから」という原因/理由をあらわすことばがでてくる。
 しかし、この「悲しくなったから」は次の「乾いた眼から砂が吹き出て」の原因/理由にも読むことができる。
 どっちなの?
 どうも、よくわからない。そして、よくわからないのは、もしかすると「地平線が存在しないのは」の「のは」に原因があるのではないかな、という気がする。「……のは」と、いま起きていることに対して「原因/理由」を求める気持ちが強くて、そのために荻野のことばが捻じれているのではないのかなあ、と思ってしまう。
(1)わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しない
(2)人びと向こうからやって来た
(3)その人びとのために(わたしは)砂の絵を描いた
(4)その人びとは砂の絵を踏みにじった
(5)絵を踏みにじられて悲しくなった
 ひとつの文にひとつの用言(動詞/形容詞)を組み合わせる形に書き直してみると、荻野の書いているのは、そんな具合になる。
 で、ひとつの用言の文章と別の文章を接続させるとき。
 荻野はそのときに、「……のは」という原因/理由を誘い出す「論理的」なことばを利用する。「論理」で全体を統合する意思がそこには働いている。これは、ある意味では「論理」の強要、押しつけかもしれない。
 あらゆることに原因と結果があるわけではない。ものごとの「接続」には原因/理由があるとは限らない。風が吹けば桶屋がもうかるわけではないし、桶屋がもうかるには風が吹かなければならないわけではない。原因/理由というのは、ひとの勝手で、どうにでも都合がつくものなのだ。
 でも、そのどうにでも都合がつく部分に荻野はこだわっているということだろう。
 何と言えばいいのか……論理への意識の粘着力が強い。

向こうからやって来た人びとのために描いた砂の絵

 の「ために」も、非常に粘着力が強い。なぜ、向こうからやって来た人びと「のために」絵を描かないといけない? その「ために」はどこからやって来た? つまり、描くことを依頼された? あるい自分から描こうと思った? もし自分から描こうと思ったのなら、それは「わたし(荻野)」の勝手であり、やって来たひとには無関係。
 無関係であるものに対しても、荻野は粘着力を発揮する。強引に接続する。接続して、その瞬間に自分の意図したものとは違った反応が返ってくると、自分が傷つけられたと感じる。
 何か、そういう「感じ方」をしている人間に見えてくる。
 これは1連目の「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのに、何か、非常に緊密な形でつながっている。深いところでつながっているように思える。
 アカの他人に「わたし(荻野)」を接続させなければ、変わっているか変わっていないかを判断する必要はない。アカの他人と接続した「ために」、荻野は「知ってしまった」のである。そういうことが起きたのである。そして、その起きたことに対して、アカの他人は何の関係もない。

 もし、アカの他人が、わたしはあなたの「ために」これこれのことをしました。それなのにあなたはわたしの好意を踏みにじりました、と言ったとしたら、こわいでしょ?

 で、それじゃあ、ほんとうに荻野はそんなふうにこわい人なのかというと、まあ、わからないのだけれど。
 私の推測で言うと。
 1連目の「アカの他人」はアカの他人ではないのだ。ほんとうは知っているひと、熟知しているひとである。そのひととは親密な関係にある。ところが何かが原因で「アカの他人」になってしまった。「アカの他人」になってしまったら、特別なものは何もない。「わたし」にとってそのひとは「ほかの他人」とは変わらない。「わたし」が「アカの他人」と変わらないのではなく、それまで大切だったひとが「アカの他人」と変わらず、そのために「わたし」もそのひとから見れば「アカの他人」と変わらない存在になってしまったということなのだ。
 別ないい方で言うと、特別なひとといっしょにいるとき「わたし」は特別なひとだった。特別なひとと別れてしまえば、「わたし」は特別なひとではなくなった。
 「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのは、その意味内容だけをなぞると「客観的」に見える。意地悪な言い方をすれば、あなたはそんなに特別なひとだと思っていたんですか? 人間なんて、みんな同じようなものですよ、知らないんですか?ということになるが、荻野はそういう「客観」を書いているのではない。あくまでも「主観」を書いている。それも「わたしは特別なひとと別れてしまって、もう特別なひとであると言えなくなってしまった」と、別れたひとにだけ向けて、悲しみを語っている。
 そして、そういうことを語るときに「……のは」「……のために」「……から」という粘着力のある「論理」を偽装してしまうことばをつかうために、何かが捻じれていくんだなあ。「悲しい」が「悲しい」ということろに結晶せずに、捻じれていく。
 捻じれつづけていけばそれはそれでとてもおもしろいのだが。
 捩れを放り出してしまう。
 3連目。

別れに浮かべるもの
めぐり会えて 嬉しくてほとばしるもの
ふたつの眼から なみだのように落ちる 過去はふたつ

 あ、抽象的だねえ。
 書いている荻野は抽象的と思わないだろうけれど(具体的な事実を思い浮かべられるだろうけれど)、「過去」ということばでわかる「過去」なんてない。「過去」ということばからは「いま」ではないということ以外はわからない。
 こんな抽象的なことばで、他人(読者)が「わたし(荻野)」と「特別なひと」との間の「特別」がどういうものか、わかるはずがない。
 「過去」ということばをつかわずに、ふたりの関係のなかへことばでわけいっていかないことには、どうしようもない。
 荻野の粘着力のある文体はおもしろいものを含んでいるのに、おもしろくなりきれていない。粘着するというのは他人と私を分離できなくなって、何かしようとすると突然化学変化のようなものが起きてしまうものだが、そこまでいくにはもっともっと丁寧に、ガムテープのねばねばが手からとれなくなるくらいに粘着しないといけないのに、「過去」とか「別れ」とか、なみだが枯れた(乾いた)と書かれても……。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(36)   

2014-04-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(36)          

 「帰ってくれ」は、私には少し奇妙な日本語のように感じられる。「もう、きみは帰ってくれ」というようにだれかを追い返すときに「帰ってくれ」と私はつかう。けれど、この詩のなかでは違うつかい方をしている。

しばしば帰って、私を捉えてくれ、
帰って来て私を捉えてほしい感覚よ。
身体の記憶が蘇る時、
昔の憧れが再び血管を貫き流れる時、
唇と肌が思い出し、
手に また触れあうかの感覚が走る時、

 二行目に「帰って来て」と言いなおされているが、タイトルの「帰ってくれ」、一行目も「しばしば帰って」は、ともに「帰って来てくれ」という意味である。「来て」(来る)が省略されている。
 カヴァフィスが書いている「感覚」は、帰って「来る」ものではないのかもしれない。「蘇る」ということばがあるが、「帰ってくれ」は「蘇ってくれ」なのだ。それは、どこか遠くへ行ってしまったものではなく、自分のなかにあるものなのだ。
 おそらく男色の官能、愉悦のことだろう。
 去っていった恋人に帰って来てくれと望んでいるのではない。恋人に帰って来てくれと言っているのかもしれないけれど、それは恋人を愛しているからではない。自分の官能を愛しているからだ。自分をつきやぶって動く官能、それこそ自分から出て行ってしまう愉悦(エクスタシー)を愛しているからだ。欲しているからだ。
 恋人が帰ってくれば、そして愛し合えばその官能は再び燃え上がるのだろうけれど、それは恋人が与えてくれるものであるよりも、カヴァフィスの肉体のなかから蘇るものなのである。自分の肉体のなかに、もともと存在する。だから帰って「来て」くれとは言わない。「蘇れ」と言いなおすしかない。
 この詩の六行目に、中井久夫はおもしろい注釈をつけている。「『また触れあうのか』はその後に『ごとき』を補うとわかりやすい。」わかりやすいのなら、なぜ「手に また触れあうかのごとき感覚が走る時、」と訳出しなかったのだろう。帰って「来て」くれの「来て(来る)」と同様、そのことばがあると何かまだるっこしい感じになるからだ。「直接性」のようなものが消える。「比喩」になってしまう。外から認識できる「客観」になってしまう。
 カヴァフィスがここで書きたいのは、肉体の直接性、自分の肉体の内部にあってうごめくものの「手触り」だ。「来て」や「ごとき」を補うと「わかりやすく」はなるけれど、それは「わかった」ことにはならない。直接性を「わかった」ことにはならない。だから、あえて、わかりにくく書いているのだ。「直接」にむかって読者の意識が動くように。カヴァフィスが読者に「わかってほしい」のは「直接性」なのである。
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高橋千尋『いろいろいる』

2014-04-26 10:03:05 | 詩集
高橋千尋『いろいろいる』(栗売社、2024年04月10日発行)

 高橋千尋『いろいろいる』は絵本というべきなのか。絵とことばが一体になっている。絵の引用はできないので、ことばだけになってしまうが……。
 「グリーンピースハイ」はグリーンピースの莢がはじけてなかから丸い豆が六個のぞいている。白黒の絵なので莢は灰色、豆は白で描かれている。唇と歯という具合に見える。莢の左側が広がっていて、唇で言うならちょっとそこから甘い息でも漏れてきそうな感じ。いや、唇の左端がちょっとめくれていて、いやらしい含み笑いがはじまる瞬間かな?
 で、ことばの方なんだけれど。

グリーンピースをむくと指が喜ぶ。
指がくすくす笑う。
ずっとこのまま むき続けてもかまわない。
皮に触れるだけで充実の予感がする。

 ちょっと違うことを考えるでしょ? 考えたくなるでしょ? 「失礼ね! 想像しているようなこと、書いていません」と高橋は怒るかもしれないねえ。でも、それには、こう答えよう。「想像してるようなことって、何? 高橋さんが勝手に想像したんじゃないの?」さて、なんて答える? 答えてくれる?
 まあ、こんなことは突きつめることではなくて、その場限りでおしまいのことなんだけれど。この、その場限りのなんとかかんとかが、ことばにならないけれど、ことばにするとめんどうくさいけれど、わかるでしょ?
 この、なんとも言えない「わかる」がいいんだなあ。「肉体」の共有というものだね。道に誰かが倒れていて腹を抱えていると、それが自分の肉体でもないのに「腹が痛い」と「わかる」。ひとが誰かと目と目で変な合図をしている。唇を歪めて見せたり、舌先をのぞかせたり。自分のからだでもないのに、「あ、いやらしいことしている」(しようと、誘い合っている)ということが、肉体で「わかる」--そういう感じ。
 ことばで言ったり、実際に直接肉体が触れ合っているわけではないから、そんなことしていません、と言えば、それはそれでとおる。でも、そんな言い訳は、嘘。そういうことも「わかる」。
 「わかる」というのは不思議だ。
 「わかる」というのは、他人のことがわかるのではなく、「自分」がいままでしてきたことが「わかる」。思い出せる。そして、それを「することができる」。
 だから。
 ね、高橋のことばを読んでいると、高橋の隣でいっしょにグリーピースをむきたくなるでしょ? くすくす笑いながら。「この、莢のなかに並んでいるのは、ちょっと唇からのぞいた歯に見えない?」「奥に舌があって動いている感じに見えない?」「いや、あれに見えない?」「あれって?」「あれ」「いやらしいんだから」「私、真珠って言おうと思っていたんだけれど……」。
 そこにある、「充実」。
 高橋の書いていることは、あくまで違うんだけれど。

豆にたとえるならば、
毎日がグリーンピースのように
ぴちんぴちんだったらいいかもしれない。
それに比べたらそら豆は中身が少しで皮ばっかりだ。
でも柔らかい わたにくるまったような毎日もいいかもしれない。

 あくまで違うんだけれど「ぴちんぴちん」なんてことばを、わざわざ(?)ここでつかうのは、違わないからじゃない? やっぱり、あれのこと考えていない?
 「すけべ」というのは変なもので、中学生のころなんて、辞書のことばにも勃起したりするからねえ。そして、そういうことって、新鮮なことばの動きに出会うと、からだの奥からむくむくっと動いて出てくる。人間というのは、きっと、ことばがあるから「すけべ」になるんだ。
 あ、高橋は、そういうこと書いていない?
 書いていなくてもいいんです。
 「辞書」の例にもどると、辞書というのはことばの意味を調べるためにあるけれど、辞書を読みながら妄想し、オナニーするってこともある。そんなことのために辞書を発行したのではない、とつくった人は言うかもしれないけれど、そんなことは知ったことではない。ことばは、それを必要としているひとが必要に応じてつかうだけ。
 読んでしまえば、こっちのもの。高橋がなんと言おうが、「私はこう読みました」と言うだけ。「むきになって否定するのは、やっぱり、そういうことが書いてあって、見破られて恥ずかしいからでしょ?」

 というような私の脱線をけとばして、高橋のことばはぜんぜん違うところへ疾走していく。

あぁ、ほんとは
そんなこと どっちでもいい。
グリーンピースご飯はおいしい
ほんとにおいしい。
おいしくて走り出しそうだ。
私はきっと行方不明になる。

 わ、置いていかれてしまった。
 追いつくにはグリーンピースを買ってきて、いそいでグリーンピースご飯を炊かなくっちゃ。あつあつのグリーンピースご飯で、のどを、あちっあちっなんてふくらませて、むせながら食べなくっちゃ。そのまま走って、どこか知らないところへ行ってしまわなくっちゃ。
 あれ、でも「行方不明」「どこか知らないところへ行く」というのは、エクスタシーのことじゃない?
 私はあくまで「すけべ」路線で、ことばを読むのだった。

 別な言い方で感想を書いてみよう。「サービス」という作品。白葱が切ってある。切った先から、中心の緑の葱がはみだしている。葱を切ったままにしておくと、なかから緑の部分が伸びてくる。(それとも、まわりが縮んで行く?)そういう絵といっしょに、次のことば。

冷蔵庫の奥に使いかけのねぎ。
「あら あなた いつからそこにいましたっけ?」
そういえば思い出しました。納豆に少しずつ刻んでいた。
ねぎは陽気に 八百屋のあるじの口真似をして、
「さあさあ 奥さん おまけしとくよ」と
若黄緑の三センチのサービス。

使っても減らないねぎを手に入れたつもりだったが、
そのあと ぷっつりと ねぎは息絶えた。

 高橋は、読者のだれもが「肉体」で「おぼえている」ことをことばにしている。高橋のことばを読むと、自分が「おぼえていること」を、「そう、そっだった」と思い出す。そして、書いてあることが、いちいち「わかる」。自分のことばで言いなおすことができないくらい、きちんと「わかる」。
 生きている「肉体」の「生きている」がわかるのかもしれない。
 詩のなかに「口真似」ということばが出てくるが、「真似」するというのは「わかる」ということである。そのときの「わかる」を説明するのはむずかしい。
 でも、高橋の書いている「こと」は、真似できる。自分の「肉体」で繰り返してみることができる。葱を切って、使いかけを冷蔵庫にしまい、次に緑の部分が伸びているのを見ることができる。八百屋のおじさんの口調も真似できる。そのあと葱をつかいきってしまうこともできる。
 で、「あ、これはほんとうのことを書いてある」と思う。このことばは「ほんもの」と納得する。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(35)

2014-04-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(35)          

 「アレクサンドリアの王たち」はアントニウスがクレオパトラの子どもを王位につけたときのことを書いている。「史実」を書きながら、そこにカヴァフィスの主観をまぎれこませている。
 その王の衣裳が美しい。中井久夫は、その衣裳をカヴァフィスの創作であると注釈で書いている。「史実」は違う。つまり、こんな衣裳なら見栄えがするのに、というカヴァフィスの「主観」がそこに反映していることになる。

装いはピンクの絹。
胸にはヒアシンスの花束。
ベルトはアメシストの列とサファイアの列の二重の造り。
靴を結ぶ白のリボンには
ばら色の真珠の縫いつけ。

 豪華だが簡潔である。この簡潔さがカヴァフィスのことばの魅力である。豪華であればあるほどことばを簡潔にする。簡潔が豪華さを強靱なもの仕立て上げる。ことばが長いと、どこかに無駄があり、それが弱さにつながる。カヴァフィスの主観はあくまで短い。
 市民は「カリサリオンは弟たちより偉大だ、王の王だ」と叫ぶが、

アレクサンドリア市民は知ってた、むろんだ、
これはみんな言葉、芝居さ。

 カヴァフィスは、ここで「市民」に「歴史」を語らせる。「史実」を市民の「思い」として浮かび上がらせる。その結果、「歴史」が英雄たちによってつくられてきたという印象が消える。「歴史」は結局、庶民のものだという印象にかわる。
 カヴァフィスに「客観」があるとすれば、それは、こういう市民の声としての「歴史」だろう。市民はそのとき何を思っていた。語られなかったことばが、やがて次の王を迎えるときの「土台」になる。
 この独特の工夫がカヴァフィスの「声」を複雑にする。カヴァフィスは英雄の声も書くが、市民の声も書く。さらに、それに輪をかけるようにして、

アレクサンドリア市民は群れをなして祝祭に参加する。
熱狂して叫ぶ、見事な見世物に魅せられて、
ギリシャ語で、エジプト語で--。ヘブライ語で叫ぶのもいる。

 実際に違う「国語」を複数登場させる。複数の声に「史実」を目撃させる。英雄は死ぬが、市民は死なない。「死んだ」という記録が残らないから、「声」を抱えて生き続けている。
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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(5)

2014-04-25 10:04:28 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

九 たそがれ

きみは知っている。閉め切った部屋の中の夏のたそがれを。天井板にかすかに赤い残照が映え、机の上には半ば詩が開かれて――。詩は二編だけ。一種の不死(むろん相対的さ)の、一種の自己満足の、一種の自由の、究極を極める旅の――そういった約束の反故だ。

そとの通りには、すでに夜の呼ばわる声。神々の、人間たちの、自転車の、軽い影。建築の仕事時間が終わった。若い建築労働者たちは、自分の道具を抱え、硬い髪を汗に濡らせ、着古した上着の漆喰のはねをとどめて、夕靄にニスを塗って荘厳する。

階段の上からの振子時計の断固たる八点鐘が廊下の端から端まで響く。すりガラスの裏に隠れた槌が力づよく打ち鳴らす、仮借ない時鐘の音。その刹那、永遠の鍵の回る音がする。鍵をかけているのか、外しているのか、どちらだろうか。詩人にはどうしても確かめられない、あれらの鍵の音。

 最初の部分は、いかにもリッツォスらしい「視覚」の風景だが、最後の部分は、私にはカヴァフィスの姿が見える。「鍵をかけているのか、外しているのか、どちらだろうか。」がカヴァフィスの世界だ。反対のことが向き合っていて、どちらかわからない。リッツォスはこれにつづけて「詩人にはどうしても確かめられない、」と書くが、そうだろうか。カヴァフィスは「どちらか」を確実に知っている。本能がどっちを望んでいるかを知っている。わかっているから苦悩する。一方は本能(欲望)を誘い、一方は欲望のままに動いてはいけないと戒める。この対立を意識(精神)の対立という形ではなく「声」の対立として描き出すのがカヴァフィスだ。
 リッツォスは禁欲的だが、カヴァフィスは禁欲的ではない。放蕩を好む。カヴァフィスは苦悩が官能をさらに刺戟することを知っているから、官能の手前で逡巡して見せるだけである。それは一種の自己演出である。。
 「確かめられない」のはむしろリッツォスである。「確かめられない」ということばにリッツォスが出てきてしまう。リッツォスは放蕩の本能を生きることはない。放蕩を放棄した人間から見れば、カヴァフィスの「揺れ」が「あいまい(確かめられない)」でだらしないものに見える。そして、なぜだろうと疑問に思う。その疑問が「確かめられない」という批判的なことばになってあらわれる。


十 最後の時

かぐわしいかおりが部屋に漂っていた。記憶からやってきたかおりかも。むろん、この春の宵だ、半ば開いた窓からはいってくるのかも。詩人はこれから携えて行く品物を選り出す。大きな鏡をシーツで覆う。こうなってもまだ詩人の指にまつわって離れないのは、かつての形よい身体の感触であり、おのれのペンの孤独な書き心地である。触覚に対立はない。詩の究極の合一だ。詩人は誰をあざむこうとも思わない。おのれの命の終わりが近づいている。詩人はもう一度自問する。「今の心境は感謝だろうか、感謝したいという意志だろうか」。寝台の下から詩人の古びたスリッパが覗いている。詩人はスリッパには覆いをかけないでくれという(むろん別の時にすることだ)。詩人はちいさな鍵をチョッキのポケットにしまい、スーツケースに腰をおろす。部屋のまんまん中だ。ほんとうにひとりだ。詩人は鳴咽しはじめる。おのれの無垢をはじめてこのように正確に意識して。

 この詩には視覚以外のものがある。「かおり」と「身体の感触」(触覚)。「触覚に対立はない」という表現はカヴァフィスの世界を核心をあらわしたものだと思う。ただし、その前の「形よい」という表現はやはりリッツォスであってカヴァフィスではないと私は思う。カヴァフィスなら「形よい」とはいわずに「見目よい」というに違いない。「形よい」と「見目よい」はどう違うか。「形よい」の「よい」は対象に属する。「見目よい」の「よい」は自分の目にとって心地よい。カヴァフィスなら、対象そんなふうに自分の肉体に引きつけるだろうと思う。自分の肉体の好みで「よしあし」を決める。リッツォスは視覚の詩人なので、どうしても対象を自分から切り離して、客観的なところから眺めてしまう。
 この「触覚」へ入っていく前の、「大きな鏡をシーツで覆う。」の「覆う」がリッツォストカヴァフィスの違いを象徴している。「触覚」へ入っていくためには、視覚人間のリッツォスは鏡を隠さないといけない。眼で自分の姿を確認する(鏡を見る)ことをやめる(視覚を封じる)ことでしか触覚に没入できない。
 カヴァフィスが「自画像」を描くなら、鏡をシーツで隠したりはしない。鏡に自分の姿を映し、その眼に見える肉体に、眼で触る。眼もカヴァフィスにとっては触覚になる。すべての感覚は「肉体」のなかで融合している。



十一 死後

大勢が詩人に寄越せという。詩人を取り囲んで押し合い争う。詩人の上衣を狙ってのことだ。ふしぎな上衣だ。堂々とした正式の上衣なのに、どこか艶なところがあり、一風変わった味がある。神々がおしのびで死すべき人間たちとつきあう時に着たまう衣類一式の、この世ならぬ風情に通じるものだ。神と人とが共通の言語で共通の話題を語る時、にわかにその衣の襞がふくらむのは、無限定なるもの、彼岸なるもの吐息のためだというが。
 争いは続く。詩人に何ができよう。群衆は詩人の衣を裂き、下着を裂く。革帯もちぎった。取り残された詩人はただの裸の人。恥かしいその姿勢。皆あっちへ行ってしまった。まさにこの刹那に詩人は大理石に変容する。長い年月が過ぎて、大衆はここに輝かしい彫像のあるのに気づく。すくっと立った、ほこらかな、裸形の姿。パンテリオン産の大理石を刻んで作られた「みずからを罰する永遠の若人の像」だと皆は言う。皆は巻いてあるカンバスを繰り出して像を包み、除幕式がいつ始まってもよいようにする。

 詩人の上衣の描写がおもしろい。それこそ一風変わった味がある。上衣「艶がある」の理由を、「神々がおしのびで死すべき人間たちとつきあう時に着たまう」衣類と似ているからだという。そこには「神(不死)」と「死すべき人間」という相いれないものが同居している。矛盾の共存がカヴァフィスの特徴である。
 「おしのびで」というのも、すばらしくカヴァフィス的だ。ほんとうはタブーなのだ。タブーには「この世ならぬ」ものがついてまわる。この世の常識を無視してタブーを生きるとき(カヴァフィスの場合はそれは男色を意味するが)、この世にはなかったものが出現する。この世では手に入らないものが直に触れてくる。
 それは神と人間との「共通の言語」となって動く。神は人間のタブーにはしばられない。この世のタブーを破るものだけが、神との共通言語を手に入れる。タブーを破ったものの「声」は神と対話する声なのだ。
 その「共通の言語」をリッツォスが「無限定」と呼んでいるのは正しい。それは「理性」の限定を叩き壊して、本能に直接語りかける。

十二 遺産

あの亡くなった詩人はほんとうに立派な詩人だった。比べるもののない優れた詩人だった。詩人が私たちに残してくれたものはさて何だろうか。それは、わらわれ自身を測る絶好の物差しである。何をさておいてもわが隣人を測るにはもってこいだ。あ、この人はあの人よりも低い。とても丈が低い。この人は幅が狭い。この人は竹馬のようにひょろりと高い。誰にも何の価値もない。無だ。ないのだ。われわれだけだ。われわれはこの物差しにぴったりの使い方をした。だが、どんな物差しのつもりだ? これこそは復讐の神ネメシス、主天使の剣である。われわれはすでに剣を研いだ。今やありとあらゆる者の首をはねることができるのだ、次々に。
                            一九六三年秋 アテネ


 カヴァフィスを(その詩を)、「物差し」と定義したのは、とても魅力的だ。カヴァフィスの詩は、「主観」の表明である。「客観」というものを書こうとはしていない。しかし、それが「客観」ではなくて「主観」だからこそ、「物差し」になる。
 だいたい人間の価値、感情の価値というものなど測ることはできない。リッツオスは「秤」ということばを何度か一連の作品のなかでつかっているが、その秤は「重さ」を数値として客観的に測るのではなく、比較するものである。右寄り左の方が重い、あるいは左寄り右が重い、いや二つひとしい(釣り合っている)という具合に。それはあくまで「ある主観」と他の主観を比較しているのであって、絶対的な数値、客観的な事実を測定しているのではない。感情(欲望)には数値などないから客観化はもともと無理なのだ。
 カヴァフィスは客観を放棄し(客観を他人の判断に任せ)、主観だけを詩のなかに放り出した。剥き出しの主観、つまり本能の正直さをそのまま声にした。
 その輝かしい本能の声、無垢な本能の強い声と比較しながら、私たちは私たち自身の本能がどこまで到達しているかを知る。カヴァフィスの巨大な主観と比べると、私たちの主観など限定されたものに過ぎない。「物差し」の単位が違いすぎて、私たちの主観はカヴァフィスの主観では測ることができない。私たちは私たちの主観の首がはねられるのを震えながら受け入れるしかない。リッツォスの客観は、敬意をこめて、カヴァフィスをそんなふうに評価している。
 この詩をリッツォスが書いたのが「一九六三年」ならば、カヴァフィスの死後三〇年たつ。リッツォスはカヴァフィスを追悼することばを見つけ出すまでに三〇年の年月を必要とした。それほどカヴァフィスは巨大だったということだろう。



括弧―リッツォス詩集
ヤニス リッツォス
みすず書房
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(34)

2014-04-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(34)          2014年04月24日(金曜日)

 「ヘロデス・アッティコス」に動いている声は嫉妬。セレウキアのアレクサンドロスはヘロデスの人気に嫉妬している。

アテネの講演に着いてみると、
まちに人がいない。
ヘロデスが田舎に行って、青年は皆、
話を聞きにそっちへ行っちまった。
そこでソフィストのアレクサンドロスは
仕方なくヘロデスに手紙を書いた。
ギリシャ人どもを返してくれ、と。
機転の利くヘロデスは即座に返答、
「ギリシャ人とともに私も行く」

 あ、これではかないっこない。悔しかったとは書いていないが、アレクサンドロスの悔しさがわかる。彼はヘロデスの手紙の文句、その機転が忘れられない。恥をしのんで手紙を書いたのに、この仕打ち。
 ヘロデスが目の前にいなくても、そういうことは起きる。

吟味し抜かれた食事の席に
繊細な知的会話を披露し、
時に洗練された情事を語っている最中にも
ふとヘロデスの幸運に思いが及ぶと、
にわかにさかずきに手が伸びなくなり、
気もすずろになってしまうのが
今何百人いることか?

 声そのもの、何を言ったかを書かずに、「さかずきに手が伸びなくなり、/気もすずろになってしまう」と書いているが、これは「肉体」そのものの「声」である。「気」が肉体の動きになって、肉体の自由を奪っている。
 カヴァフィスは、耳がいいのはもちろんだが、視力もしっかりしている。近眼で眼鏡をかけているが、「気」がひとの行動にどんな形をとってあらわれるかしっかり見てとっている。
 嫉妬は、ギリシャ人批判という形をとって、次のことばになる。書き出しの嫉妬のはじまり短いとことばとは違って、長くて、さらに繰り返しが多い。しつこい。

ギリシャ人が(あのギリシャ人がだぜ)彼の後に随いて行ったとは。
批評や反論のためでなく、もう選り好みしようとせずに
ただ後に従うためにだけ随いて行ったのだよ。
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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)

2014-04-24 10:59:57 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)

五 詩人の眼鏡

詩人の目と対象との間にはいつも詩人のヘルメス的な眼鏡の玉が割り込んでいる。詩人の眼鏡は、きめこまかに気くばりしながらどこか心ここにあらずのさまで、手抜きせずに知らべあげながらぽっと抜けている。超脱した無私のガラスの砦だ。防壁でもあり監視所でもある。対象をあか裸にする鋭い詩人の神秘の眼光を取り巻く二つの水のみちだ。いや、天秤の二つの皿というほうがいい。しかし、天秤は、どうしてだろう、垂直に下がってはいない。横に寝ている天秤だ。水平の天秤は虚空しか載るまい。そして虚空を知ることしか。一糸まとわぬ天秤、水晶の天秤、きらめく光をちりばめた天秤。だが、かがやく鏡の上に映る、詩人の内面と外面との幻想のかずかずの重なりは、均衡と統一とを見せ、実に具体的、実に堅固で、空虚全体を反駁している。

 リッツォスがとらえるカヴァフィス像。「きめこまかに気くばりしながらどこか心ここにあらずのさまで、手抜きせずに知らべあげながらぽっと抜けている。」気配りと放心(ぼんやり)、厳密(手抜きしない)と抜けている(ぼんやり)という矛盾(両極端)が共存する。この指摘はたしかにそのとおりだと思う。リッツォスのことばには「心ここにあらず」とか「抜けている(ぼんやり)」という感じはない。いつも張り詰めて緊張している。これに対しカヴァフィスは主観的でありすぎる。だから、カヴァフィスの主観に動かされる姿勢が、リッツォスには「抜けている」ように見える。「ぼんやり」に目が止まってしまうのだ。
 カヴァフィスのげみつさと手抜きの両極端の共存を理解するためにリッツォスは不思議な比喩を持ち出している。「天秤」。これは直接的には眼鏡の形から思いついた比喩だが、ここにもリッツォスの視覚詩人という側面が反映している。天秤というのは重さの違いを視覚で判断する(どちらが下がっているかを見て判断する)ものだが、眼で判断できることがリッツォスにとっては重要なのだ。
 私の印象ではカヴァフィスは眼よりも耳の詩人、他人の声を聞く詩人だが、リッツォスは肉声を聞きとることが苦手な詩人である。またあたたかいとかつめたいとか、視覚であらわすことのできない触覚のなかでおぼれるようにして自己を確認することも苦手な詩人である。ぼんやりしたもの、あいまいなものが苦手で、そういうものを語ろうとするとことばは抽象的で硬質になってしまう。「詩人の内面と外面との幻想のかずかずの重なりは、均衡と統一とを見せ、実に具体的、実に堅固で、空虚全体を反駁している。」という漢字熟語が次々に出てくるような部分に、それが濃厚にあらわれている。



六 避難所

「表現とは」と詩人は言った。「何かを語るという意味ではない。とにかくことばを話せばいい。話すということはきみをくまなくみせることだ。話すにはどうすればいいかって?」。続く詩人の沈黙は次第に透明となっていった。ついに詩人はカーテンの陰に隠れた。窓の外を見ているふりをした。だが、われわれの視線を背中に感じると、詩人はふりむいて顔をカーテンの陰からのぞかせた。まるで白い長衣を身にまとっているようだった。詩人はけっこう楽しんでいたが、どこか時代おくれの感じがした。それが詩人の目論見だった(そのほうがいいと思ったというか)。おそらく、こうすれば、何とかわれわれの疑惑を、敵意を、憐愍をそらせられると思ったのだ。それとも、将来詩人を賛美する手がかりをわれわれに授けておこうと思ったのか(いつかは賛美されるとは詩人の予言だった)。

 ここにも、リッツォスとカヴァフィスの違いがあからさまにあらわれている。
 「話す」はたしかにカヴァフィスの本質である。カヴァフィスの詩には「話された本音」が動いている。カヴァフィスはいつでも詩の登場人物に本音(主観)を語らせる。そして、けっして「沈黙」させない。「声」を出さないときは「肉体」そのものがことばをしゃべる。目つきや手つき、身振りがことばでは言えないことを語る。カヴァフィスにあっては「沈黙」は「透明」にならない。沈黙は澱みのように濁り、その濁りが発する熱や匂いが周辺にただよう。
 この身体の周辺にただようことばにならない「感触」をリッツォスはことばにできない。
 だから、ここでも「沈黙」した詩人の姿は、「われわれの視線を背中に感じると、詩人はふりむいて顔をカーテンの陰からのぞかせた。」と逆方向から書かれる。カヴァフィスを見てリッツォスが何かを感じる前に、カヴァフィスがリッツォスの視線を感じて振り向くという行動をとる。他者が発している肉体のことば(視線)を感じる能力はカヴァフィスの方が強いのである。
 カヴァフィスの反応を「見て」、それからリッツォスのことばは動く。「白い長衣」という視覚からはじまり、やがて「何かとわれわれの疑惑を、敵意を、憐愍をそらせられると思ったのだ」という憶測へことばは動いていくが、「疑惑」「敵意」「憐愍」というようなものはカヴァフィスが発しているものではなく、リッツォスの頭の中にあることばだろう。リッツォスが頭の中にあることばを、カヴァフィスに押し当て、それを「輪郭」として提出している。「思った」というのは、そういうことである。カヴァフィスの「肉体」からあふれてくるのを感じたのではない。リッツッスが考えたことを、カヴァフィスににあてはめているのだ。



七 かたちについて

詩人は言った、「かたちは頭で発明するものでも、外から押しつけるものでもない。その素材の中に含まれているものである。内部から外部へと出ようともだえる運動をみて、かたちがはっとわかることもある」。「平凡ですね」とわれわれは言った、「つかみどころのない言葉ですね。何をいわんとしておられるのですか」。詩人はもう語らなかった。おとがいを両手でくるみこんで支えた。一つの単語を二つの疑問符で挟んだみたいだった。詩人の紙巻煙草は結んだ口に残る。吸うとも消すともどっちつかずの煙草は、火のついた白いアンテナだ。「・・・」の代わりだ。詩人が書き止む時、ただ書き止むのでなくて至るところに組織的に残してゆく三つの点の代わりだ。(それともあれは無意識だろうか)。

このさまを見ているとおぼろげに見えてくる。詩人が小さな駅の待合室で徹夜している姿だ。待合室は冬の夜など旅客が袖すりあうところ、石炭の匂いの漂ってくるところだ。その匂いはどこから漂ってくるのだろう。旅の果てしなさからか。旅客たちの長年のひそかな馴染みゆえのおたがいのおしゃべりの間からか。今、汽車の煙が静かに立ち昇っている。二つのヘッドライトのつくる二つの水平の円錐の上方に、煙は濃く、重く、押し詰まって、細かい壁まで彫刻のようだ。二つの別れと別れとの間。詩人は紙巻煙草を消して立ち去る。

 ここに書かれるカヴァフィスが実像なのかどうかわからない。リッツォスならではのカヴァフィスという感じがする。「かたちは頭で……」はアリストテレスのことばだが、カヴァフィスはこんなふうに他人の語った「意味」をことばにはしない。少なくとも詩の登場人物に「意味(客観)」を語らせることはない。カヴァフィスは詩の登場人物に「客観」ではなく「主観」をしゃべらせる。本音をしゃべらせ、声を聞かせる。「意味」なんて、どうでもいい。
 「主観」はときとしてつかみどころがないが、それは「頭」でつかみとろうとするからつめないのであって、感覚でならつかむことができる。「意味」はわからなくても、悔しいんだ、妬んでいるんだというような感情(欲望)がわかることばをカヴァフィスは人間にしゃべらせる。
 視覚詩人のリッツォスは、そういうことが苦手だ。リッツォスが得意なのは、視覚と抽象的なことばの結合である。「おとがいを両手でくるみこんで支えた。一つの単語を二つの疑問符で挟んだみたいだった。」この比喩はリッツォスの発明だ。カヴァフィスはこういうことができない。しようともしない。
 「このさまを見ているとおぼろげに見えてくる。」はリッツォスの基本的な姿である。見ていると見えてくる。見ているとわかってくる。逆に言えば見えないとわからない。これがリッツォスである。そして、「見る」から「わかる」までの間には時間がある。「見る」と「わかる」の間の時間を抽象的なことばで埋めて、「見る/見える」を「わかる」に変える。
 カヴァフィスは、そういう間接的なことばの動かし方をしない。世界のつかみ方をしない。「見る」をつかうとすれば「見ればわかる」という形だろう。二つの動詞はぴったりとつくっついている。融合している。余分な概念で「見る」と「わかる」をつなぐ必要がない。
 リッツォスは、何かと融合するとすれば、それは「孤独」とだけ一体になる。ほかのものとは一体にならない。


八 誤解

詩人のこの曖昧さは我慢ならないな。この曖昧さはぼくらを試しているんだ。詩人自身も試されているわけだけれど。詩人の曖昧さはむろん本心ではない。詩人の躊躇も、怯惰も、確固たる信念の欠如も。きっと、ぼくらを詩人の錯雑たる世界に巻き込もうとしているのだ。詩人は眼差しをはるかに遣る。こころの広い、鷹揚なひとに見える。(甘やかされたひとのようでもある)。真白なシャツに薄いグレイの完璧なスーツ。ボタンの孔に菊が一輪。だが詩人が立ち去った後、詩人の立っていた箇所の床に、ぼくらは小さな明るい赤色の水たまりを見てしまう。美しい素描き。きっとギリシャの地図みたいだ。地球の縮図だ。陸と海の切れ込み具合はいいんだが、国境線はずいぶんあやふやだ。国境は色の一様さのためにないも同然ではないか。七月という月、生徒たちが皆、目くるめく浜に去って、しっかりと戸を閉めた白い学校の地球儀だ。

 これは、とてもおもしろい。「詩人のこの曖昧さは我慢ならないな。」とリッツォスは率直に書いている。私は、しかしカヴァフィスのあいまいさが大好きだ。あいまいさのなかにずぶずぶとひきこまれてゆき、身動きがとれなくなる。おぼれるしかない。そういう時にカヴァフィスの詩を読む愉悦を感じる。「詩人の曖昧さはむろん本心ではない。詩人の躊躇も、怯惰も、確固たる信念の欠如も。」とリッツォスは書くが、私は逆に感じている。すべてが「本心」である。「主観(本能)」である。
 (甘やかされたひとのようでもある)と括弧でくくられている部分に、私はカヴァフィスを見る。カヴァフィスの美しさは甘やかされて育った人間の美しさだ。本能、欲望が抑圧されていない。禁忌によって傷ついていない。その、のびやかな輝きが艶っぽい粘着力になって私を誘う。リッツォスは逆に抑制に耐えて生き延びた本能の孤独で私を魅了する。。
 この詩にはまったくわからないところがある。「詩人の立っていた箇所の床に、ぼくらは小さな明るい赤色の水たまりを見てしまう。」の「赤色の水たまり」が何なのかわからない。比喩なのか。「素描き」「ギリシャの地図」という表現が続くから、ギリシャの現実と何か関係するのだと思う、想像がつかない。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(33)

2014-04-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(33)          2014年04月23日(木曜日)

 「ギリシャの友」。中井久夫の注釈によると、「ローマ支配下のギリシャ系東方小国家の王と臣シタスピスの貨幣デザインについての架空の問答」。ギリシャの伝説にもとづくデザインにしようとしている。

彫り込みと上手にするんだぞ。
表現は厳粛でなくちゃ。
頭につける宝飾は細めがいいんだ。
パルチア人の幅広のは嫌だ。
銘は、通例どおり、ギリシャ語でな。
書きすぎぬように、華美に流れぬように。

 どういうデザインにするか、ということの前に技法のことを言っている。表現のことを言う。これが、とてもおもしろい。それも「上手にするんだ」「厳粛でなくちゃ」はまだ客観的だが、「細めがいい」「幅広のは嫌だ」までくると、これが「主観」であることがわかる。「いい」は客観でもありうるが、「嫌」は主観そのものである。
 カヴァフィスの詩は、登場人物の声が生き生きと動いているが、それは、声が主観だからである。客観的な主張ではなく、その人の好き嫌いを語っている。好き嫌いの声には何かしら「肉体」が含まれている。好き嫌いを聞くと、その人の「肉体」が見えてくる。
 そして、「主観」というのは、なかなか幅広いものがあって……。

銘は、通例どおり、ギリシャ語でな。
書きすぎぬように、華美に流れぬように。
属領総督に誤解されたくない。
閣下は何でも嗅ぎつけちゃローマに報告なさる。

 貨幣のデザインの好き嫌いを言っていたのに、そこに他人の視線が紛れ込む。「属領総督に誤解されたくない」というのは、いわゆる保身である。ただ自分の好みを言うのではなく、他人からどう思われるかを気にしながら「主観」を制御している。そして、ついでに「閣下」の性格(人格)批評も付け加える。主観は脈絡を超越する。密告されて身分を失うのは「嫌だ」という主観が、そんな具合に動く。
 「閣下は何でも嗅ぎつけちゃローマに報告なさる。」の「嗅ぎつける」という動詞も生々しい。頭で理解する、把握するというよりも「鼻」をつかって、嗅ぎつける。もちろん、実際に「鼻」で貨幣のデザインを吟味するわけではないから、「鼻」はいわば比喩である。比喩というより、「肉体」の強調である。「嗅ぎつける」ということばが動くとき、その動詞にあわせて動き回る閣下の肉体のすべてが見える。眼の動かし方、顔のそむけ方、立ち止まったり、足早になったり。報告しようとしてうずうずしている感じが、肉体そのものとして見えてくる。「肉体の声」が主観と向き合うように書かれている。そしてその「肉体の声」というのは、閣下の「主観」を反映している。そこがおもしろい。

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