詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『永遠まで』(17)

2009-08-17 00:02:55 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(17)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「思うこと 思いつづけること」は四川大地震の死者たちに捧げられた詩である。その4連目。

飲めず、食えず、眠ることのできないあなたがたと、飲み、食い、
眠らずにはいられない私どもが和むには……しかし、私どもがあな
たがたと和むことは、けっしてありえないだろう。その厳然たる事
実を思うこと、避けることなく思いつづけること。

 生きている人間は思いつづけなければならない。そして、思いつづけるために書く。ことばにする。思うだけではなく、きちんとことばにして、書く。書き留める。そして、書きつづける。
 これは四川大地震の犠牲者に対してだけではなく、高橋が一貫してとりつづけている態度である。この詩集を貫いている姿勢である。
 最終連で、もう一度、繰り返している。

いまはそのことを思わなければならない。心を尽して思わなければ
ならない。あなたがたが関知しようとしまいと、つづけられる限り
思いつづけなければならない。それが私どもがこちら側にいるこ
と。そして、あなたがたが向う側にいるということ。等しく、ひと
りひとり、ひりひりと孤独であるということ。

 最後のことばは複雑である。死者は孤独である。その死者を思いつづけるとき、「私」も孤独である。しかし、そこに、何らかの通い合うものがないのか。--高橋は、ない、と言っているように思う。何も通い合わない。けれど、思わなければならない。
 生きている私たちが死者を思ったからといって、死者が孤独から解放されるわけではない。死者は孤独である。だからこそ、その死者に匹敵する孤独を獲得するために、詩人はことばを書く。死者の孤独を生きるために書く。
 そうやって、高橋は「死者」そのものになろうとしているようにも思える。

 この詩集におさめられた多くの追悼詩--そのなかで、高橋は、死者そのものになろうとしていた。死者を生きようとしていた。その多くは高橋の知人であったが、この「思うこと 思いつづけること」には、そういう知人は出てこない。だから、この詩では、高橋は死者の具体的な生については触れていない。生きてきた「過去」については触れず、死の瞬間、死というものだけを浮かび上がらせ、死者そのものになろうとしている。
 抽象的である。抽象的である分、高橋の思想が抽象化され、一般化されているような印象が残る。
 







永遠まで
高橋 睦郎
思潮社

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高橋睦郎『永遠まで』(16)

2009-08-16 00:21:18 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(16)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「ぼくはいつか」。北欧の詩人、ニルス・アスラク・ヴァルケアパー、通称アイルに捧げた詩。その書き出し。

ぼくはいつか みたことがある
はげしく吹きつける雪片(ひら)の中
せめぎあい ぶつかりあう枝角(づの)
吐き出され たちまち霧粒(つぶ)となる息と唾(つば)
大きく見ひらいた 血走った目 目 目
吹雪の森を抜け 凍てついた川を渡り
進む 進む けもの けもの けものの群
群に寄り添い 群を守る毛皮の人の群
雪に国境がなく けものに国境(くにざかい)がないように
毛皮の人の群にも 国が 国境がない

 トナカイの群れと狩猟の人々の描写だが「雪に国境がなく」がとても美しい。大地だけではなく、天にも国境がない。大地のことは国境と結びつけて想像するのはたやすいが、天のこととなると、私は思いもつかなかった。この天を、領土の上の「空」と考えれば、領空というものがあるから、そこに「国境」はあるのだが、私は「雪に国境がない」ということばを呼んだ瞬間、横にひろがる「空」ではなく、どこまでもどこまでも高みへのぼっていく天を思ったのだ。
 私の、この読み方は、誤読かもしれない。高橋は「領空」の意味で「雪に国境がない」と書いたのかもしれないが、私には「天」が真っ先に浮かんだのだ。そして、その「天」で起きている「気象」、空気の運動、水分の運動、蒸気が上昇し、冷やされ雪になって降ってくるという運動--その運動こそ、「国境」(国家)を超越している。その運動は、繰り返される真実である。地と天を行き来するその真理の運動に国境はない。そして、その運動は、天地とか東西南北とかいう、人間の意識をも超越して、自由である。真理というのは(あるいは、事実と言い換えてもいいと思うのだが)、自由なものなのである。

 そんな思いに、ぐい、と引っぱられるようにして詩を読み進むと、詩人・アイルの生涯が語られてゆく。アイルはトラックにはねとばされて宙を舞う。無事、回復し、高橋たちと連詩を読む。そして、突然、死んでしまう。昇天する。アイルは、地と天の間で、雪のように運動したのだ。軽やかに。

 詩の、最後の部分。

あれから四年 年ごとに透明になるきみの
気配の記憶に ことしまた はじめての雪
降りつづく雪の中で 国もなく 国境もなく
ぼくらが 習いおぼえなければならないのは
絶えず発つこと 発って無重力になること
無重力ですらない 透明な無の翼になること
無の翼でいっぱいの天(そら)に 宇宙になること

 「天」と「宇宙」が登場する。「雪に国境がなく」に、やはり「天」は隠れていたのだ。詩のことばは、たぶん、詩人の書きたいことを誘導するように動く。その誘導を信じて、そのことばについていくことができる人間が詩人なのかもしれない。
 そのとき、詩人のことばは、アイルそのままに、雪となって天を舞う。(そら)と高橋はルビを降っているが、その(そら)は「領空」とは無縁の、どこまでもどこまでも高い(そら)である。そのはてしない(そら)をことばが舞うたびに、高橋はアイルを思い出すのだ。高橋は、アイルのことばを追いながら、アイルそのものに、つまり、天と地を結ぶ真実になるのだ。
 とても美しい詩だ。


宗心茶話―茶を生きる
堀内 宗心,高橋 睦郎
世界文化社

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高橋睦郎『永遠まで』(15)

2009-08-15 00:07:02 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(15)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「海へ 母へ」はジャック・マイヨールに寄せた作品。そのなかほど。

海の中には すべてがある
そのことを説明するのに なんと
人間の言葉の 貧しいこと
試みて 果たさず いらだって
とどのつまりは 海へ
海の中に 言葉はあるか
海にあるのは たった一つの
融通無礙な 言葉以前の 言葉
その言葉は きみを 抱きとる
限りなく 自由にしてくれる

 何かに魅了された人間というのは、ここに書かれている状態にあるのだ。「何か」のなかに、ことばにならないことばを感じ取る。それは日常私たちが話していることばでは伝えられない。つまり、ことばにはならない。ことばにはならないのに、ことばを感じる。そして、そのことばのなかでうっとりしてしまう。
 あらゆる人間が、ことばにならないことばにひきつけられる。ことば以前のことばを、「肉体」そのもので感じてしまう。
 もし、それをむりやりことばにすると、どんなことがおきるのか。

きみのメッセージに 人間たちは
惜しみない 拍手とほほえみ
結局は とまどいと拒絶
きみに寄り添い 抱きあい
共に 海に潜った恋人さえも

 人は、ジャック・マイヨールの行為を称讃し、そのことばも読むけれど、ジャック・マイヨールはあいかわらずひとりである。
 だれが、彼のことを理解できるか。だれが、彼を真摯に抱き留めることができるか。それは、少年ジャックが海へ飛び込んだとき、ジャックの名を呼んだ母だけである。行ってはいけない、危ない、と心配して陸へ呼び戻そうとする母の声だけが、ジャックの声にならない声を理解している。その声に魅せられては、絶対に、陸へ帰ってくることはできないと、母だけが知っているのだ。
 それは、母といういのちの本能だろうか。

きみは還っていく 始まりへ 海へ
幼いきみを呼ぶ 遠いあの声に
応えるために mama-a-a-a-a-a-n-n

 この母と子の絆--それは、「奇妙な日」に書かれている母と高橋のことを連想させる。高橋は、ただ母のために、「ぼくの大好きな たったひとりの/おかあさん」と書くために、詩を書いているのではないだろうか、とふと思った。





和の菓子
高岡 一弥,高橋 睦郎,与田 弘志,宮下 惠美子,リー・ガーガ
ピエ・ブックス

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高橋睦郎『永遠まで』(13)

2009-08-13 01:16:19 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(13)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「犬いわく」には神と人間の関係をみつめたことばがあるが、私がひかれるのは、後半だ。

彼はぼくを繋いだ鎖を手に
朝夕 散歩するのを好む
沖から白い波が寄せてくる砂浜や
小鳥の冗舌な歌の塊となる木の蔭
あいつを連れた彼女が現われて
ぼくを連れた彼の挨拶を受ける
ぼくらが鼻で嗅ぎあっているあいだ
彼らは言葉でさぐりあっている
わからなさから 愛が立ちあがり
愛から 生命が産み落とされたりする

 「言葉でさぐりあう」に、人間は、ことばの生き物であるということが明確に記されている。生きていることを確かめるのもことばなら、死後を生きるのにひつようなものもことばである。
 生きている人間同士がことばをかわし、何かをさぐりあうのが「愛」ならば、死後をことばで生き抜くこと、誰かの死をことばで引き継ぐことも愛になるだろう。そして、それが愛なら、そこから生命が産み落とされる。この生命を「詩」と読み替えるとき、そこに高橋の作品群が浮かび上がる。

歴史とは何だろうか
ぼくが彼に出会って以来の時間?
ぼくらの出会いは 三万年前
あるいは それ以上ともいう
彼の歴史は ぼくとの歴史ではない
彼は 歴史を自分で満たしたがる
自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ
ぼくは彼の癒されることのない孤独を
熱い舌で舐めつづけるほかはない

 「歴史を自分で満たす」とは歴史を自分のことばで満たすということだろう。他人の死を(他人の生を、というのに、それは等しいのだが)を生きなおすというのは、他人の生と死後をことばでとらえなおすということだ。そのとき、たとえ、他人のことばをつかったとしても、彼(高橋)がそれを繰り返すのだから、そのときは他人のことばであると同時に彼(高橋)のことばにもなる。あらゆることが「彼」(高橋)のことばで満ちることになる。

自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ

 そして、これから先が大いなる矛盾である。自分で完結させないために、そういう願いから、高橋は他人の死後を生きるのだが、他人の死後を生きれば生きるほど、そこには自分のことばが満ちてくる。あらゆる空間に自分があらわれてくる。
 それを超越するには、さらに他人の死後を、次々に生きなければならない。

 どこまで繰り返してもひとり。つまり、孤独。知っていて、高橋は繰り返す。高橋のことばには、どこか死の匂いがするが、それは孤独の匂いと同じものだ。あるいはそれは、完結することば、の匂いかもしれない。
 ことばを完結させないために、つまり開かれたものにするために書けば書くほど、ことばは閉ざされていく。

詩を救うには 詩人を殺すしかない
彼は投身することで 詩人を殺したのだ
少なくとも彼の中では 自分を殺すことで
詩は健やかによみがえったにちがいない

 これは「詩人を殺す」という作品のなかの行だが、現実に投身自殺する以外にもし自分を殺す方法があるとすれば、それは自分のことばを捨てることである。
 そして、その自分のことばを捨てるということこそ、他人の死後を生きるということなのだが、そう考えると、ここでまた同じことが起きる。堂々巡りがはじまる。

 矛盾。堂々巡り。それを承知で、なお、ことばを動かしていく。それが詩人なのだろう。詩人の仕事なのだろう。矛盾しながら、一瞬だけ、詩人の中でよみがえる詩--それを追い求めるのが詩人の仕事なのだ。



詩人の食卓―mensa poetae
高橋 睦郎
平凡社

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高橋睦郎『永遠まで』(12)

2009-08-12 00:41:30 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(12)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「永遠まで」はモンゴルを訪問した経験を踏まえて書かれて詩だ。短歌が冒頭に掲げられ、その歌をつづく詩が解説(?)するという形式の9つの部分から成り立っている。「モンゴルの詩人たちに」という副題がついている。

 蒙古(もうこ)野(の)に朝の雪ふり愛惜(あたら)しきいのちを思へあたらその死を

夜遅く着いた 十月の初めの旅人に
今朝のこの国の 今年はじめての雪
雪の清浄な白はなぜか その上に散った
血のあざやかさを 幻視させる
この国近代の 今日までの八十年
流された無辜の おびただしい血
赤い英雄の赤とは けだし彼らの血
無名の数えきれない彼らこそ 赤い英雄

 冒頭の歌には「いのち」と「死」が並列されている。同等のものとして書かれている。それが同等であるということを、つづく8行で解説している。「いのち」は死んでいくものである。そして、その「死」によって、新しい世界がつくられる。どんな歴史も、おびただしい血の犠牲の上に成り立っている。死だけが、世界を新しくする。
 そのことを、高橋は、真っ白な雪をみて、感じた。雪が真っ白なのは、その大地に赤い血が流されたからだ。この大地が赤い血で成り立っているからだ--雪の白のなかに、いま、ここにはない赤を思い、そこから歴史の中で流された血を感じている。
 「いのち」と「死」、「白」と「赤」。そのふたつは切り離すことができない。そういう切り離すことのできないものを、高橋は、つづく詩篇でいくつも書くのである。

 野を拓(ひら)き大路を通し廈(いえ)連ね都となしし経緯(ゆくたて)は見ゆ

この丘から見渡す 都の全体は
建設八十年の現在も 急拵えの印象
それ以前は 包(ゲル)の集団ごと
百キロ 二百キロ 移動する都
さまよいつづける都だった という
そのことをもって 異形(いぎょう)とは片付けるな
さまようことこそ はるかに自然
人間じたい 生命じたい つねに
未生(みしょう)から生へ 生から死へ 死後へと
さまよう途中であることを思えば

 現在のウランバートルはモンゴルの人にとって正しい(?)暮らしではない、と高橋は感じている。正当な暮らしではない、と感じている。定住せず、大草原を大きなゲルの集団が移動しつづける--それが本来の生き方ではなかったのか、と感じている。
 移動しつづける(さまよいつづける)ことが、人間の「いのち」そのものだから。
 高橋によれば、人間、生命は、「未生から生へ 生から死へ 死後へと/さまよう」存在である。その原型が、かつてのモンゴルの大移動にある、と感じている。
 このことは、前後するが、その前の作品にも書かれている。

 喉音に富む語音(ごいん)鋭(と)くかつ粘く食ひ入りにけり脳(なづき)深くも

アヨルザナ・グンアージャヴ
きみは 古代匈奴(フン)族の端正な容貌を
雪解けのモスクワ仕込みの ラフな瀟洒にきめて
口から出るのは 雨粒や草花の繊細
この齟齬(アンビバランス)は? それこそわれらの誤解?
きみの遠祖たちは 類いない繊細と豪胆で
またたく間に 両大陸を席捲
またたく間に 引いていった
その寡欲と大欲 新しさと旧さ
二つはたぶん 別のことではない

 「またたく間に 両大陸を席捲/またたく間に 引いていった」その運動。「席捲する」ことをたとえば「未生から生へ」と見ることができる。「引いてい」くことを「生から死へ」と見ることができる。その「二つ」は「別のことではない」、つまり同じことだ。人間は、そんなふうに動いていく。それが「いのち」の原型である、と高橋はモンゴルの「過去」(歴史)に託して言うのである。
 そして、先に引用した詩にもどれば、それにさらに「死後へ」が加わっている。
 生まれて死んでいくだけでは不十分である。「死後」を生きることが大事なのだ。死後を生きるとは、自分の死後ではなく、他人の死を生きるということである。(自分の死はまだはじまっていないから、自分の死を生きることはできない。できるのは、せいぜい、自分を殺すことである。)
 そして、他人の死を生きるとは、どんな他人を想定するかによって違うが、たとえば、モンゴルの「歴史」を例にとれば、自分が生まれる前の人々、「歴史の人々」を生きることである。そのとき「死後」と「未生」が同じものになる。
「未生から生へ」「生から死へ」が同じことであり、また「死後へ」と「未生から」が同じものになる。それは循環する。
 その循環のなかに、「永遠」がある。

 この「永遠」の「いのち」の形と日本人の「いのち」の形を高橋は比較している。そして、モンゴルの「いのち」の形に理想を託している。いや、日本人の「いのち」というよりも、詩の「いのち」を、モンゴルのさまよう「いのち」に託している。

 散文が農耕ならば詩はけだし遊牧 天を指せとどまらず

けれど ぼくが帰ってきたのと ニッポン
その昔 元の大都に辿り着いたヴェネツィア人(びと)が
都大路の実体のない噂を 膨れあがらせ
でっち上げた黄金の国 そのじつ蜃気楼の 靄の国
もともと水草を追って 定耕することのない
かの国の いや かの国境(くにざかい)持たぬ遊牧の民にとって
大都が かりそめの栖(すみか)にすぎなかったように
われらも ここを故郷と思ってはいけないのだろう
詩という幻を追うことは 定住ではなく漂白
いつまで? 死ぬまで? 死んでのち
終ることない 気の遠くなる永遠まで

 「死んでのち」というのは一種の矛盾である。死んでしまえば、その人に「死後」などない。「死んでのち」を生きるとは、実は、自分を「殺し」、そのうえで他人の「死後」を自分の生として引き受けることだろう。その運動に、終わりはない。なぜなら、自分を殺し、他人の死後を生きるとき、その他人の死後を生きるということが自分のいのちになる。あたらしい自分のいのちがそこに誕生する。そのいのちを詩人はふたたび殺さなければならない。この運動は永遠に終わることがない。



 この詩に書かれていることは、「解説」ということばを思わずつかってしまったが、「意味」が強すぎる。高橋の言いたいことはよく分かるが、「意味」が強すぎて、少し窮屈である。それでも、この詩のタイトルを詩集の全体のタイトルにしていることを思うと、高橋は何がなんでも「意味」を明確にしたかったのかもしれない。
 高橋の、詩への祈りのようなものが、ここにある。

友達の作り方―高橋睦郎のFriends Index
高橋 睦郎
マガジンハウス

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高橋睦郎『永遠まで』

2009-08-11 02:42:16 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(11)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「旅にて」のつづき。

 死を生きるとは、死と、ことばで戦うこと--と「そよぎの会話」(戦ぎの会話)から、考える。そうした考えの先に次のことばがあらわれてくる。
 ここからが、壮絶である。

 4
私はまだ じゅうぶんに死んでいないから
月光に誘(いざな)われて 土盛(ども)りの外へ出てくる
死者どうしの媾合で生まれるのは
血液と体温のない赤子だ と知っているから
真夜中の墓原で愛しあおう とは思わない
戸の隙間から しばらく覗いてみて
寝息を立てるあなたの脇に しのび入る
熟睡するあなたに跨(またが)り 精を絞りつくしたら
ふらふらと出て行く 私は胎(みごも)っている
だが何を? 孤児という死児を?
まっ黒な穴のような絶望を?
目覚めたあなたは 私のことなど知らない
私の落ちつくところは 何処にもない
墓の中は暗く湿って 居心地の悪いところ
私を じゅうぶんに殺してください

 「媾合」。しかし、それは愛ではない。戦いだ。相手から「いのち」をしぼりとる。そして、あってはならないものをみごもる。ただし、このあってはならないもの、というのは「生きている」ということを前提にしたとき、つまり、死を生きることを前提としないとき、言い換えると、「現世のことば」で表現すると「あってはならないもの」であって、死を生きるときに、それがあってはならないものかどうかはわからない。
 むしろ、それは死を生きるときに、絶対的に必要なものかもしれない。

 死を生きる、とは、どういうことか、まだだれも知らない。
 その知らないものを書く--死を借りながら書く。ことばを動かす。そこでは、「愛」ではなく、別なものが、暴力が必要である。

私を じゅうぶんに殺してください

 死者をさらに殺すこと、死者は殺されて死ぬときに、死者として生きる--矛盾。私の書いていることは、同じことばが同じことばを追いかけるだけで、どこへも進んでいかない。

 この循環を、むりやり破壊し、打ち破るように、高橋は暴力を描く。愛ではなく、暴力を。「そよぐ」という音とはうらはらに「戦ぐ」という文字(漢字)が連想させる(どこかでつながっている)暴力に引きつけられていく。

 5
墓は 暴(あば)かれなければならない
死者は 鞭打たれなければならない
骨と記憶は 砕かれなければならない
打って 打って 打つ手が痺れきるまで
砕いて 砕いて 砂と見分けがつかなくなるまで
そうしないと 死者は私たちに立ちはだかる
死者は突然 生から疎外されたことで
生きていた時以上に 嫉みぶかくなっているから
嫉みはけっきょく 誰のことも倖せにしない
生きている私たちも 死んだ彼ら自身も
砕かれて 微塵になって 死者はやっと解放される
墓の上を 安らかな天が流れる

 死者を生きることは死者と戦い、死者を「殺す」こと。「殺す」ことによって、すべては引き継がれる。「殺す」--殺す過程で生きる「いのち」が、たぶん「永遠」につづいていくのだろう。

安らかな天

 それは、そのとき、ふいにやってくるものなのだろう。

 しかし、これは何という旅だろう。「大地が土だけで出来ていることを」知ったことからはじまった旅は、死者の存在に気づき、死者を生きることは死者と戦い殺すことだと気がつき、唐突に「天」を発見する。
 「大地」と「天」の間。
 そこにある、「いのち」。
 高橋の詩は、このあと、「大地」と「天」のあいだにある「肉体」を発見する。つまり、死者ではなく、生きているものを発見する。生きている肉体というものは、あらゆるものを「いのち」のなかに取り込み、そして同時に排泄する。
 たぶん、死者をも、殺し、殺すことによって肉体の中に取り込み、存分に、その栄養吸収したあと、残ったものを排泄する。
 暴力--美しい暴力の結果としての排泄。

 6
人は 猿のようにしゃがんで 脱糞する
いきむ わななく 屁(ひ)る 糞(ば)る
いや 猿を汚(けが)してはならない
人は 人として 脱糞する
いきむ わななく 屁る 糞る
脱糞する人は 脱糞することに集中
全身 糞となって 発光している

 死者を殺し、殺すことで、死者になり、発光する。糞(排泄したもの)と糞をする人間(排泄する人間)は、「ひとつ」のいのちである。ひとつとなって、「発光」する。
 田原と出会い、その田原の「風土」である中国の大地に触れ、高橋は、そういうところまで、ことばを突っ走らせた。中国の大地と「戦い」ながら、そこまで、いのちを問い詰めてきた。そうすることで、田原とも中国とも「ひとつ」になった。「ひとつ」になって発光している、ということができる。

 詩は、このあともまだつづくのだが、「全身 糞となって 発光している」ということろまできたら、あとは、その発光している光が照らす風景である。
 最後の4行。

さて 詩人は何をする?
彼はだんまりを決めこむ
言葉に そう簡単に来られても
困るので

 ことば。やってくることばを拒絶するようにして、「発光」後の行は書かれている。私には、そう思える。それから先へことばが動いていくことがあるにしろ、急ぐ必要はない。ことばを拒絶して、もう一度「大地」へ還る時間なのだ。「土だけの大地の上に 土だけの道」へ帰って、高橋は、田原とともに、あらためて「旅」をする。
 いま、書いたことを捨てるために。ことばを「殺す」ために。言い換えると、「旅にて」という詩に書いたことばを超越する新しいことば生むために。

 この旅に終わりはない。終わりはないけれど、ともに歩く人がいるとき、それはきっと愉しい。



十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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高橋睦郎『永遠まで』(9)

2009-08-10 01:15:53 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(9)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「旅にて」には「田原に」という副題がついているから、きっと中国を旅したときの詩なのだろう。高橋は、日本の死と中国の死を見つめていることになるのだろうか。

 1
大地が土だけで出来ていることを
ここに来て あらためて知った
土だけの大地の上に 土だけの道
男が 大きな麻袋を肩に 歩いていく
彼の後ろにも 前にも 土の大地だけ
家らしいものは 何も見えないから
とりあえず 男はただ歩いているだけ
大きな袋を担(かた)げて 一足 一足ずつ
生きるとは つまるところ 歩くこと
重い荷物を 担げるか 手に持つしかして

 3行目の「土だけの道」ということばに強くひかれる。周り中土。そのなかに、土だけの道。どうやって道と道以外を区別するのだろう。区別することはできない。ただ、歩くことが「道」をつくることなのだ。それは歩きながら「道」になることでもある。
 その男は「大きな麻袋」を担いでいることになっているが、3行目の「土だけの道」の印象があまりに強いので、私には、その麻袋は「まぼろし」に見えてしかたがない。何も担いでない男しか見えない。(私には、ことばに書かれていることを正確に想像してみる能力が欠けている。)
 男は、自分の肉体だけを、まるで麻袋を担ぐようして運んでいる。もし、大きな麻袋があるとしたら、それはきっと男の肉体の形をした麻袋だろうと思ってしまう。
 そして、私はいま、男は歩きながら「道」になる、と書いたばかりなのだが、いや、そうではなく、男は歩きながら「道」を消して、ほんとうは「大地」に、「土」になるのだと思ってしまう。土になるために、男は歩く。
 では、土になるとは、どういうことか。

 2
小蠅が来る
私が死ぬものだということを 嗅ぎつけて
私が生きていることは 刻刻に死に近づいていること
私が息をしなくなっても しばらくは離れないだろう
だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼はもう そこにはいない
新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間の最も親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)持つ者よ

 「土」になるとは死ぬことだ。ただ死ぬのではない。「じゅうぶんに死んで 解体して/死ですらなくな」る。それが「土」だ。
 死ぬというのは、「息をしなくな」ることではないのだ。そのあと死を生きて、死を生き抜いて、十分に死ななければならない。--死を生きる、死を生き抜くというのは矛盾したことばだが、この矛盾のなかにこそ、詩がある。
 矛盾しているから、詩なのだ。
 では、死を生きるとはどういうことか。常に死を求めることである。それは、またまた矛盾した言い方になるが、蠅になることだ。「土」になるだけでは不十分だ。「土」になることを見届けたら、こんどは蠅になって、「新しい死の みずみずしい匂い」を求めて、ここを立ち去る。
 そのときの、その新しい死の匂いを求めて旅立つという思想のなかに「透明な 優雅な翅」が潜んでいる。輝かしいものが潜んでいる。ことばでしか、ことばの運動の中でしか、存在し得ない輝かしいものが潜んでいる。

 死とは、常に想像されなければならない。しかも、その死は、固定したものではない。「土」になり、「蠅」になる--という具合に、変わっていく。死を生きながら、想像力は、別のものを生み出しつづける。それが死なのだ。

 私の書いていることは、飛躍が多すぎるかもしれない。たぶん、こういう飛躍の多いことばを誘ってくれるのが「中国」という「大地」(土)なのかもしれない。それは日本の「土」とは違う。そして、そこには日本の死とは違う死がある。
 高橋は、田原の生きてきた中国で、日本には存在しない死を探し、それを生き抜いてみようとしている。

 3
砂漠の中のその樹は 千年を生き
枯死して千年 立ったまま
倒れてなお 千年は腐らぬ という
砂あらしから 樹皮を 自分を護るため
おびただしい髭枝を 周りに垂らし
おびただしい髭根で 土砂を掴んでいる
梢のなかば枯れた葉むらは 風に鳴り
からからと 千の鈴 千の言葉
近く 遠く 囁きあい 呼びかわす
雲多い秋天の下(もと) そよぎの会話は
日の限り つづく起伏の涯の涯まで

 もう、ここでは高橋は「蠅」ではなくなっている。別な死を見つめている。千年死を生き抜く樹木の死。十分に死ぬには千年が必要なのだ。「蠅」のように短い寿命(?)の生き物では、死を千年も生きることはできない。新しい死の匂いを探して、ここから離れ、どこかへ行くしかない。
 けれど、どこまで行っても「土」(大地)なら、どこかへ行くことはどこへも行かないことにひとしくなる。それよりも、どこにも行かないことで千年死を生きる方が、とんでもない「場」へ行ってしまうことになるのかもしれない。
 千年死を生きると、その死は「言葉」になる。
 あ、これは、すごい。
 これは、また、逆に言えば、ことばになるためには、死を千年も生きなければならない、ということになる。
 この千年という時間。この悠久が、もしかすると、中国ということかもしれない。

 死は、千年かけて「言葉」になる。中国の大地には、その「言葉」が「囁きあい 呼びかわ」し、その会話は「そよいでいる」。(「そよぎの会話」と高橋は書いている。)
 「そよぎの会話」の「そよぎ」は、それに先行する「風」ということばが誘い出したものかもしれない。「言葉」の「葉」が風にそよぐ。

 このことばを読みながら、私は、一気にぶっ飛ぶ。

 高橋が書こうとしたことではないかもしれないが……。「そよぐ」は漢字で書くと「戦ぐ」である。中国人である田原は「そよぎの会話」ということばに触れたとき(この詩は田原に向けて書かれている、第一の読者を田原と想定して書かれている)、田原の頭のなかで(肉体のなかで)、どんな漢字が飛び交っただろうか。
 中国でも「そよぐ」という状態をあらわすのに「戦」という文字をつかうのだろうか。そして、その文字から、同時に「戦争」を思い浮かべるだろうか。--私は中国人ではないので、私の感想を書くしかないのだが……。
 「そよぎの会話」。それは「戦ぎの会話」。そして、それは言い換えると「会話の戦争」、「ことばの戦争」。
 死を生きるとは、ことばの戦争を生きることである。
 生きていたときにつかっていたときのことばが、そのことばでは表現できないものにであって、戦う。戦争をする。多田智満子の死を悼んだ作品のなかに、「未知」のむこう、死の世界が愉しみだという表現があったが、それは「未知」とことばで戦う愉しみ、どんなことばなら未知と戦えるかことばを探してみるという愉しみかもしれない。
 「いのち」をかけて、ことばを戦わせる。
 そのとき、ことばの風は、さわやかになる。「千の鈴」のように美しい音を響かせる。きっと、そうだと思う。

 田原でなくてもいい、だれか中国人で「そよぎの会話」ということばを漢字で書くならどうなるか、わかる人がいたら、ぜひ、教えてください。



十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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高橋睦郎『永遠まで』(9)

2009-08-09 00:09:52 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(9)(思潮社、2009年07月25日発行)

 死は生きている。死者は生きている。そういう思想があらゆることばにあふれている。「この家は」の1連目。

この家は私の家ではない 死者たちの館
時折ここを訪れる霊感の強い友人が 証人だ
色なく実体のない人物たちが 階段を行き違っている
彼等が恨みがましくなく 晴れ晴れとしているのが 不思議だ
と彼は言う 不思議でも何でもない 私がそう願っているからだ
親しい誰かが亡くなって 葬儀に出るとする
帰りに呉れる浄めの塩を 私は持ち帰ったことがない
三角の小袋をそっと捨てながら 私は呟く
もしよければ ぼくといっしょにおいで
その代り ぼくの仕事を手つだってね
そう 詩人の仕事は自分だけで出来るものではない
必ず死者たちの援けを必要とする

 晴れ晴れとした死者たち。彼等が晴れ晴れとしているのは、高橋が「そう願っているからだ」。死者たちに、いきいきと生きていてほしいと高橋は願っている。きのう読んだ多田智満子の死にあてはめると、とてもよくわかる。未知の世界へ行って、その未知なるものをいきいきとことばにする。そうあることを高橋は願っている。
 その詩を夢見て、高橋は、死を生きる。まだ、体験していない世界を生きる。

 死の世界--とは言っても、そこにあるのはすべてが「未知」というわけではないだろう。すべてが「未知」なら、それを認識する方法がない。なんらかの形で「過去」を含んでいる。「過去」が違った形であらわれるのが「未来」である。「未知」の世界というものである。
 だからこそ、死者を生きる。死者の生きてきた「過去」を生きる。高橋が、山口小夜子になった詩がその典型である。小夜子の「過去」を生き、その向こう側にある「未知」(死)を生きる。そのとき、ことばはいつでも「過去」からひっぱりだされ、「未知」へ放り出されるのだ。それがどんなふうに有効かわからないけれど、そうやって「観測気球」のようにことばをほうりあげ、そのことばが見るものを見つめる。そのことばによって見えるものを、見た、と断定する。それが詩だ。
 「死者の援け」が必要というのは、死者の「過去」の時間をくぐらないことには、高橋は、死の世界を見ることができない、という意味である。死者を生きる、死者をとおって、高橋は、死を見るのだ。つまり、未知を。そして、そのとき、高橋は死ぬ。死を現実として生きる。言い換えると、それまでの高橋を否定し、それまでの高橋を乗り越えて、それまでの高橋ひとりの視力では見ることのできなかったものを見るのだ。
 
 超越。いままでの自己を乗り越える、超越するには、「死」が必要だ。死ぬことが必要だ。高橋は、その死を、死者と生きる、いや、死者となって生きるということをとおして実現する。
 その死者となって生きる場が「この家」なのである。

 「この家」は現実の高橋の家かもしれない。だが、私には、その「家」は、高橋の「詩」であるとも思える。ことばによって作り上げられた建物としての「家」、つまり、それが詩である。

 「死者たちの庭」には、高橋以外のひとの「死」を生きる方法が描かれている。「川田靖子夫人に」というサブタイトルがついている。

親しい者がひとり死ぬと 苗木をひともと植える
それが 彼女の始めた 新しい死者への懇ろな挨拶
死者たちは日日成長をもって 彼女に答える
花を咲かせ実を結び 落ちて新たな芽生えとなる

自分が死について何も知らなかったと 彼女は覚(さと)った
死は終わりではない 刻刻に成長し 殖えつづけるもの
まぶしいもの 生を超えてみずみずしく強いもの
外を行く人は何も知らず 立ち止まっては目を細める

 「花を咲かせ実を結び 落ちて新たな芽生えとなる」は死こそがあたらしい生であることを知らせる。死なないことには、生まれることはできない。そして、その死のとき、人は(木は)ただ死んでいくのではなく、成長することで死んでいく。
 ここには矛盾の形でしか言い表すことのできない真実がある。
 成長していくことが死を生きること、死を育てることであり、その死を育てるということがないかぎり、生はありえない。

 高橋は、川田にならって、木ではなく、ことばのなかで死者を育て、死者を生き、そして死者を死ぬことで、もう一度生まれ変わる。死を、そうやって超越し、生を、そうやって超越し、強固な一片の詩になる。
 死と詩の、完璧な一体が、ここにある。


百人一首―恋する宮廷 (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論新社

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高橋睦郎『永遠まで』(8)

2009-08-08 00:18:31 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(8)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「おくりもの」には「七年後の多田智満子に」という副題がついている。とても美しい行がある。

今朝がた 夢にあなたを見た
あなたはうしろ向きで
地面に しゃがんでいた
ぼくは声をかけようとしたが
やめた
あなたが ぼくのことを
憶えていない と思えたから
死の床のあなたは
未知のむこうが愉しみだ
と 顔じゅうでかがやいた
むこうがわに着いて
そこがどんなか
知らせる方法が見つかったら
きっと背中を押すから
と ほほえんだ
あれから七年
あなたは忘れてしまったのだ

 高橋にとって、多田とは常に未知のものに対して顔を輝かせる人間だったのだろう。高橋は、多田になって死んでみる。その死を生きてみる。そうすると、未知のもの、いままで知らなかったものがいっぱい見えてくる。それは愉しい。至福だ。「そこがどんなか/知らせる方法がみつかったら/きっと背中を押すから」という約束さえ忘れてしまうほど、きっと愉しい。
 死の床であってさえ、未知に対する愉しみを知っていた。実際に、未知の国へ行ってしまえば、もう、その愉しみのとりこになる。昔の約束など、覚えているはずがない。
 それは当然のことなのだ。未知のものを書くこと、詩を書くことに生涯を捧げた多田なら、きっと、死をそんなふうに生きる。そうでなくてはならない。高橋などを思い出して、この世に未練を残してもらっては困るのだ--と高橋は思っている。それほど、未知にこころを奪われてしまう多田を高橋は愛していた。高橋にとって、多田は未知を愛する知だったのだ。
 このことを、高橋は、詩の後半で言い換えている。

生きている者は 生きる中で
死者について 忘れっぽい
と世間でいうのは 正しくない
忘れるのは 死者のほう
いいえ 咎めるのではない
忘れることが 死者にとって
生者にとっては 忘れないことが
なによりの慰謝なのだ

 死者は生者を忘れてしまわなければならない。そうしないと、せっかくの(?)死を生きたことにならない。
 高橋は、死んでこそ、というか、死んだなら、その死を生きるのが人間にとっていちばん大切なことだと考えている。
 生きている(生き残っている)高橋は、常に、死者(多田)を思い出し、といっても、昔の、生きているときの多田を思い出すというのではなく、死の世界を生きているという多田を思い出すこと、思うことが、「慰謝」である。多田は、死の世界、その未知の世界を夢中になってことばにしようとしている。それを、高橋は、生きながら、追いかけるのである。ことばで。

あなたは忘れ ぼくは忘れない
忘れないぼくも 死んだ瞬間から
あなたと同じに 忘れてしまうだろう
忘れたあなたと 忘れたぼくが
そこで出会うことは たぶんない

 それは寂しいことか。悲しいことか。それを寂しい、悲しいと思うのは、生にとらわれた考えなのだろう。知を生きる二人、多田と高橋は、新しい世界では新しいことばを追いかける。そのことばを追いかけることに夢中になって、二人が知り合いであったことさえ忘れてしまっている。それは、死を生きている二人にとっては至福である。なぜなら、もし、そのとき二人が出会って、互いを認識できるとしたら、二人は「新しい世界(未知の世界)」を生きているのではなく、過去を、わかりきった世界を生きていることになるからだ。
 そんなことでは、死んだかいがない。
 死んでしまったからには、生きていたときは知ることのできなかった新しい世界を発見し、それをことばにし、自分自身を喜びでみたさないで、どうしよう。

忘れたあなたと 忘れたぼくが
そこで出会うことは たぶんない
そのことが あなたの死のおくりもの
あなたのおくりものを育てるために
おりおり あなたを思い出す
ときには 夢に見る
そのことが 黄泉であり
ハデスなのですね
明るくも 暗くもない
それが生きること
いつか死ぬことなのですね

 哲学を死の練習とソクラテスは言ったが、高橋にとって、死を生きている多田を思い出すことが、死の練習--つまり、生きることなのだ。




十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
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高橋睦郎『永遠まで』(7)

2009-08-07 02:37:24 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(7)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「いまはまだ」は片瀬博子の思い出を書いている。高橋は片瀬から「新しい言葉が つぎつぎに襲ってくる/近いうち送るから 一冊にまとめてほしい」と電話で頼まれた。だが、詩は送られてこなくて、かわりに訃報がとどいた。そして、詩の草稿は見当たらなかった。

いまは行方不明の その言葉たちを探す
とっかかりは ぼくが編んだあなたの全詩集
活字になった あなたの最後の詩の
最終連 異形の八行--
「わたしは衣服をもぎ取られ
谷間に捨てられていた
裸のわたしの背後には
雨雲のかかった山々が重なっている
巨大なオランウータンの肩が重なりながら
迫ってくる
わたしの麻痺した片手は 指が石のように固まって
彼らの一族の徴を見せはじめている」
ぼくは ここから あなたを訪れたという
言葉たちを 探索しなければ

 片瀬のことばを繰り返す。そうすることで、高橋に片瀬になろうとする。片瀬の生を反復する。
 だが、片瀬が見えてこない。

電話の何箇月か前 最後に会ったあなたは
すこしも 彼らの一族のようではなかった
四十年前 松林の中のぼくを見舞ってくれた時の
快活な若やぎが 声にも顔にもあふれていた
遥かな日 草を敷いた二人の前方にあった
同じ輝かしい海が 窓のむこうに轟いていた
それとも ぼくがすこぶる付きの鈍感で
向きあう二人を囲む 雨雲のかかった
オランウータンのような山山の怒り肩が
目に入らなかっただけなのか
あなたの半身は すでに原始の体毛に覆われ
片手は 指先から石に変わっていたのか

 高橋に見えるのは、「オランウータン」のようになった片瀬ではない。「四十年前」と同じ片瀬である。なぜ、四十年前と同じなのか。ここには、具体的には書いていないが、高橋が片瀬に見ているのは肉体ではないからだ。「ことば」を見ているからだ。片瀬とは、高橋にとって、なによりもことばだったのだ。
 ことばは不随を手をとおって出てくるのではない。ことばは、声となって出てくる。声が出るかぎり、ことばは自由に動き回る。「原始」(オランウータン)とは無縁の世界、頭脳の世界を駆け回るのである。
 ことばの運動。神とも拮抗する強いことば--それは肉体を抜け出して、自由に世界を切り開いていく。
 それは、ある意味で、肉体を必要としないことばである。

 肉体を必要としないことば。それゆえに、そのことばは肉体に裏切られるのかもしれない。ことばの自由の代償として、肉体の自由が奪われる。--というようなことを、高橋は書いているわけではないのだが、高橋のことばを読んでいくと、そういう思いにとらわれる。
 
 肉体を必要としないことばは、神と向き合う。神と拮抗する。

あなたは 自身献身的な一員となって建てた
新しい教会堂の 日曜礼拝の最中 倒れた
あなたの怖しい神が あなたを囚人(めしうど)にした
なのに あなたはなおも言いやめない
囚われているのは 神自身
囚えているのは人間にほかならない と
ならば 自身囚われながら あなたを囚えた者は
あなたを囚えることで 牢獄(ひとや)を抜け出し
あなたを人間の群れから 解放したのか
人間の桎梏から 解放されたあなたは
変わらず 人間の中にあると見えつつ
人間に先立つ 崇高な一族の
体毛に襲われた一員となったのか

 この部分を、片瀬は、神と拮抗し、神と切り結び、ことばの力によって自由を獲得し、その自由は「野生」のいのちにまでさかのぼった、と読むことは不可能だろうか。
 人間ではなく、人間以前の「いのち」、人間が生まれる前の「いのち」。未生としての存在。
 高橋は「人間に先立つ 崇高な一族」と呼んでいるが、いのちは原始にかえれば還るほど力強く輝く。片瀬のことばは、そういうまなまなしい「いのち」から噴出してきている--高橋は、片瀬の生から死への時間をたどることで、そのことばを逆にさかのぼって、片瀬の死からいのちへ、そして、そのいのちの源の原始へと到達しているのではないのか。
 この運動は、つねに逆向きのベクトルを含んでいる。そのために、よくよく見ないとどこへ向かっているかわからないし、よく見れば見るほどふたつのベクトルが拮抗し、衝突し、炸裂し、発光して、その閃光のために目つぶしを食らってしまう。
 見極められない不思議な力が、ことばのなかで、爆発している。

おお 眩しい言葉たちは 何処へ行ったか

 という1行は、1連目にあったのだが、その眩しい言葉たちは、いまは、高橋の肉体の中に引き継がれて爆発し、この詩になったのだと思う。
 こんなふうにして、書かれなかったことばが、別の詩人に引き継がれ、生き抜き、輝くというのは、死んでしまった片瀬には申し訳ないが、片瀬の幸せというものだろうと思う。


未来者たちに
高橋 睦郎
みすず書房

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高橋睦郎『永遠まで』(6)

2009-08-06 00:16:46 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(6)(思潮社、2009年07月25日発行)

 死者の生を歩きなおす。生まれ変わる小夜子となって、高橋が、小夜子を生きる。そのとき、「時間」を歩くのだが、そこには「歩く」(生きる)という時間があるだけで、ここが「過去」、ここが「いま」、ここが「未来」という点と線で、直線的に描ける時間は存在しない。

私はくりかえし歩き
くりかえし歩を返した
長いステージ それは
世界を幾巻きも
その時間は一秒
それとも千年
私のことをいつまでも若いと
人は首をかしげる
どうしたら老いないないのか
教えてほしいと言う
老いないのではない
老いられないのだ
自分に顔がなく
体がないと気付いた者に
どうして老いることができよう

 「一秒」と「千年」の区別がつかない。それは、小夜子となって歩く高橋にとって、過去も未来もなく、ただ「いま」があるだけだということだ。「時間」はある点と別の点を結んだ直線ではなく、つねに「いま」があるだけなのだ。
 この「いま」を「永遠」とも呼ぶ。
 歩いても歩いても、あるゴールにたどりつくわけではないから、そこには「経過」というものがない。「経過」がなければ「老いる」という年齢の変化、年齢の経過もありえない。
 永遠を歩くものは「老いる」ということができない。
 いつまでも「自分」ではなく、「他人」として存在しつづける。そこに「いのち」がある。生まれ変わる「いのち」がただわき出る泉のようにあふれる。輝く。

 詩人は老いることができない。小夜子の死を生きなおす高橋は老いることができない。こういう哲学に達してしまったら、ことばは、いったいどこへ行けばいいのだろう。
 老いることができない詩人、つまり死ぬことのできない詩人は、最後をどうやって祝福すればいいのだろう。
 詩は、とても美しく、光そのものになっていく。最終連。

蒙古斑の幼女のお尻
のような すべすべの
満月がのぼる
いつか風が出て
満月の表面に
蒙古斑のような
さざなみをつくる
さざなみがくりかえし
月を洗い 洗いながした後
夜明けが立ちあがる
私は夜明けに溶け
私は夜明けになる
かつて着たことのある夜明けに
夜明けになった私を着るのは
誰だろう

 夜明けになった小夜子を、高橋は着た。そして、小夜子になって、小夜子を通って、夜明けになった。その小夜子とも、高橋ともつかない「いのち」の夜明け--それが、いま、読者に、こうやって差し出されている。



百人一句―俳句とは何か (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論社

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高橋睦郎『永遠まで』(6)

2009-08-05 00:16:20 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(6)(思潮社、2009年07月25日発行)
 
 生と死、死と生の入れ替わり。そのことは、何度も小夜子が経験することである。服飾学校(?)で小夜子がつかみとった思想、高橋は小夜子となって生きなおす。

古い門 新しい階段
布を裁ち ミシンを踏む学校
教科書で指名され 立ち上がり
読まされて 忘れられない一節
「化粧術は死者をよみがえらせ
衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」
それは 遠い古代の死んだ国の谺
いいえ お墓の中からの
なつかしい声

 小夜子は古典の中のことばを生きなおす。それを遠い国の古いことばではなく、小夜子自身の子供時代の、なつかしい遊びのときの声として生きなおす。そうすることで、ふたたび、「お墓の住人」と出会うのだ。
 教室でのモデル体験は、小夜子にとっては、ままごと遊びの反復であった。ひとが認めない「遊び」ではなく、ひとに認められる「遊び」。ひとに認められて、その「遊び」ま遊び」ではなく、現実になる。「幻」ではなく「事実」になる。「遊び」として無意識におこなっていたこと、本能としてやっていたことが「永遠」につながる「真実」になる。「思想」になる。

教室の発表会で人台にさせられた
人台とは代わりに着ること
代わりに着ることに抵抗はなかった
小さいときからずうっと
顔のない 体のないお客たちの
代わりに着ていたから それは
体のない人の代わりに
体を持つこと
顔のない人の代わりに
顔をもってあげること

 死者になることを小夜子は学ぶ。死者として生きることを小夜子は学ぶ。そのことに「抵抗はなかった」。そう書くことで、高橋は、死者となって、死者を生きなおす小夜子を肯定する。
 高橋の夢は、いつでも、そうなのかもしれない。
 小夜子をとおして語っている夢こそ、高橋の、永遠の夢なのだろう。
 死者たちの永遠の夢、かなえられなかった夢を生きなおす。生きなおすことで、その思想をもう一度、ことばとして浮かび上がらせる。そのことばを、高橋の「死」を超えて、読者に引き渡す。そこに「永遠」というものが見えてくる。

たんねんに粧って
かろやかに着て
細長いステージを行き戻り
私が知ったことは
死んだ人と生きている人に
本当は差がないということ
生きている彼女たちにも
本当は体がない 顔がない
だから 代わりに粧い
代わりに着る者が要る
自分がいま お墓のあいだを
歩いていると 私は思った

 「死んだ人と生きている人に/本当は差がないということ」。それは、死者と生者に区別がないということ。生と死に区別がないということ。

 逆の視点から、見つめなおすこともできる。

 体がない、顔がない--を逆の視点から見つめなおすこともできる。体は、顔は、いつ「存在」しうるのか。「ある」という状態になるのか。
 「着る」「粧う」。そのふたつの運動をとうして体は生まれ、顔は生まれる。着る、粧うという行動をとおして体と顔が生まれてくる。着る、粧うは体を、顔をつくることなのだ。
 ここから、高橋の詩の世界までは、もう違いがない。「差」がない。
 小夜子が着て、粧って、体と顔をつくったように、高橋は、ことばを人に着せる、ことばで人を粧うことで、ことばの運動の中に人間を誕生させる。
 この詩自体が、そういう運動をしている。高橋のことばが、小夜子の体をつりく、顔を作る。高橋のことばのなかで、小夜子が生まれ変わる。
 ことばを動かしながら、高橋は死者・小夜子とともに歩くのである。小夜子がステージを歩くとき、「お墓のあいだ」を歩いていると感じたように、高橋はことばで小夜子を描き出しながら、小夜子の人生の一瞬詩一瞬、小夜子という時間を歩いているのである。お墓のあいだではなく、時と時の間としての「時間」を。


未来者たちに
高橋 睦郎
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高橋睦郎『永遠まで』(5)

2009-08-04 01:51:06 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(5)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「小夜曲」には「サヨコのために」という副題がついている。山口小夜子に寄せて書かれた作品である。山口小夜子の生涯をどれくらい正確に反映したものか、私には判断材料がないけれど、1連目がとても不思議である。
<blocquote>
私が育ったのは
山の上の小さな家
家の前には小さな墓地
咲き乱れる草の花を摘んで
いちんち ままごとをした
お客はお墓の住人たち
住人たちは 大人も子供も
小さな私と同じ背丈
</blocquote>
 死者との不思議な交感。もちろん、死者が墓地から実際にあらわれるということはないから、それは山口小夜子の子供時代の空想を語ったものだろうけれど、死者をよみがえらせて遊ぶということのなかに、不思議さがある。空想の不思議さがある。
 それは死者を生きている存在として思い描くということではなく、死者をそのまま生きている人間として生きなおすことである。お墓の「住人たちは 大人も子供も/小さな私と同じ背丈」の「同じ」が、小夜子のいのちと死者を「同じ」にしてしまう。
 小夜子は自分の生を生きたのではなく、死者たちを生きた。正確には、小夜子自身の生と、死者たちを同時に生きた。「ふたつのいのち」を生きた。ふたつのいのちを「同じ」もの、つまり「ひとつ」(ひとり)として生きた。

 2連目。
<blocquote>
親たちはいつも留守
小さな留守番を不憫がって
とっかえひきかえ着せた
春は草いろ
夏は海いろ
秋は月いろ
冬は火の色のお洋服
お客はみんな
私の服を欲しがった
</blocquote>
 これは、山口小夜子自身は、その服をほしくはなかった、ということだろう。自分はほしくはない。だから、それをほしがるひとが必要だったのだ。もしかすると山口小夜子は、自分の服を(親が与えてくれる服を)ほしがる人間が必要だったのかもしれない。最初に、その必要があって、それから死者を呼び出したのかもしれない。
 小夜子は「ひとり」であるけれど、「ひとり」では何もできない。「もうひとつ」のいのちが必要だったのだ。

 奇妙な言い方だが、山口小夜子は死者になりたかったのかもしれない。もし、死者になれば、留守番をしなくてもいい。小夜子がそうしているように、親がきっと墓のなかから死者である小夜子を呼び出し、「ままごと遊び」をしてくれる。いつでも、呼び出され、いつでも小夜子といういのちを生き直してくれる。
 死者を生きながら、小夜子は、死者が感じるよろこびを感じていたのだ。自分のよろこびではなく、死者たちのよろこび。生き直してもらえることの、絶対的な至福。生きている限りはあじわえない、超越的なよろこび。
 高橋は、小夜子に、そういうこの世のものではないような、超越的なものを見ていたのだと思う。そして、その超越性を、高橋自身、生きてみたいと思っているのだ。

 自分を生きるではない。死者、死んでしまった小夜子自身を生きる。この世に呼び戻して、その死を生きる。生ではない。生きていながら死んでいた小夜子。その彼女が死んで、ほんとうにいなくなったいま、その死をこの世によみがえらせ、もう一度生きる。こんどは、死から呼び戻された小夜子として……。
 言い換えると、小夜子自身になって、小夜子の死を生きる。それはいのちの絶望を生きることでもある。生きているということ、死んではいないということを知り、死の不可能生を生きるということでもある。死の不可能性--その不可能性のなかにある、全体的な死、理念としての死……。
<blocquote>
自分の血の匂いを知った朝
私は忘れない それは
かつてのままごとのお客たちと
決定的に疎遠になったこと
彼女たちは死に
私は生きている それは
山よりも海よりも
大きな隔てを置くこと
下着を洗いながら 私は泣いた
泣きたいだけ泣いて 涙を拭いた
家を出て 山を下りた
</blocquote>
 なぜ、疎遠になったのか。小夜子の中で、「いのち」がつづいていくことがわかったからだ。人間は死んだらそれでおしまいではない。いのちはどこまでもつづいていく。その証拠としての初潮がある。
 小夜子は死ぬかもしれない。人間は、誰でも死ぬ。かもしれないではなく、小夜子は絶対死ぬ。しかし、それは彼女にとっての死であって、「いのち」にとっての死ではない。いのちは形をかえながら生き延びる。「彼女たちは死に/私は生きている」。
 その絶望。
 墓の前で、死者たちを呼び戻し、ままごとをする--そういうことは、空想にすぎない。死者は存在しない。死者にはなれない。墓から呼び出した死者は、幻である。

 生と死、死と生は、どこかで入れ替わってしまう。入れ替わりながら生と死という「二つ」のものではなく、「いのち」という「ひとつ」のものになる。
 小夜子の死を生きることで、高橋は、そういう「思想」を手にいれている。



永遠まで
高橋 睦郎
思潮社

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高橋睦郎『永遠まで』(4)

2009-08-04 00:08:07 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(4)(思潮社、2009年07月25日発行)

祖母は八十歳

横顔の祖母は 八十歳
つやつやと張った片乳房を
古寝巻の襟から こぼして
両の手でもみしだく しぼりたてる
細い 勢いのいい 乳の筋が二本 三本
小さな金だらいのふちを 叩く
たらたらと音を立てて つたい落ちる
「朝になると 張りつめて痛くてね」
驚いて見つめるぼくを 尻目に
言いわけのように つぶやくのだ
彼女の末の息子 ぼくのあこがれの叔父が
二十歳で ビルマの野戦病院で死んで
もう 何年も経っているというのに
この奇怪な若さは 何だろう
がっしりと 骨太な怒り肩
掘り出された土俗の女神の横顔
だが こちらからは見えない
むこうがわの片目は 潰れている
ぼくは七歳 いいや 七十歳
横の祖母は 永遠に若若しい八十歳
三十年後 ぼくが百歳になっても

 七歳のときにみた祖母の記憶。乳房から乳を絞り出している。その若いいのちの記憶--それを描いている。そして、その記憶を高橋は「横顔」として覚えている。1行目の冒頭に出てくる。
 この「横顔」には「意味」がある。

掘り出された土俗の女神の横顔
だが こちらからは見えない
むこうがわの片目は 潰れている

 見えている「横顔」の裏側には、見えているものと違ったものがある。--そして、その「事実」は冒頭の1行そのものをも裏切って動く。「八十歳」の祖母。その横顔は、ほんとうは片目がつぶれている。ほんとうは高橋はつぶれた方の目の横顔を見ている。けれど、意識は、そのむこうがわにある「若い時代の祖母」を見てしまうのだ。
 ほんとうに七歳のときにみた光景なのか。あるいは、乳房が張って痛い、だからあまった母乳を絞り出して捨てる--という若い母性の話を聞いて、その話の中に若い祖母の姿が重なるようにして紛れ込んできたのか。
 それがほんとうであるか、それとも紛れ込んできた錯覚であるか--それは重要なことではないのかもしれない。それが錯覚であっても、ことばとして動かしていくとき、そこに「いのち」があふれだす。

横の祖母は 永遠に若若しい八十歳
三十年後 ぼくが百歳になっても

 これは、ことばの力がそうさせるのだ。ことばは記憶をよみがえらせるためにある。ことばのなかに、記憶がよみがえる。それは、死んだひとがふたたび生き返ることである。ただ生き返るのではない。生き返って、詩人のことばを生きなおす。詩人といっしょに、もう一度、人生をやりおなすのである。そのやりなおしの人生の伴侶としての詩人。そこに、愛がある。

漢詩百首―日本語を豊かに (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論新社

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高橋睦郎『永遠まで』(2)

2009-08-02 01:20:10 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(2)(思潮社、2009年07月25日発行)

 生と死の交錯。そのことを高橋は次の行で書き直している。4連目。

このところ 繰り返される
少年たちによる老人殺し
息子たちによる親殺し
見聞きするうちに ぼくは
奇妙な思いにとらわれました
ぼくもまた 老いたあなたを殺し
ついでに 老いたぼく自身も殺し
アリバイ作りに 六十数年前の
写真を飾っているのではないか
写真の背後 窓のむこうの庭には
スイセンやユリの球根といっしょに
あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 「老いた母」を殺し、若い母として生き返らせる。そのとき、高橋は、「老いた僕自身も殺し」たのだと気がつく。「老いたぼく」が「若い母」を思い出すのではない。「若い母」を思い出すとき、高橋もまた生まれ変わり、「幼いぼく」になっているのだ。写真の若い母が、「あてたになった」ように、高橋も「幼いぼく」に「なった」。そして、そうなるためには、「老いたぼく」は死ななければならない。死なない限り生まれ変わることはできない。
 若い母、幼いぼく--それが現実であり、いま、ここにこうして生きている「老いたぼく」は幻なのである。

 この詩は、そんなふうにことばが時間を超えて交錯するのだが、引用した部分の最後の2行に、私は、たちどまり、ぞっとして、同時にうっとりしてしまう。

あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 これは、「意味」的には、

あなたとぼくの二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 である。「あなたとぼく」が埋められているのではなく、あくまで「あなたとぼくの」死体が埋められている--というのが「意味」、論理としての世界である。
 ところが、高橋は「の」を省略する。そして1字アキにしてことばをつないでいる。
 「の」がないことによって、「あなたとぼく」は「死体」であることから切り離されて、まるで「生きている」ように感じられる。「腐乱死体」は死んでいない。生きたまま、腐乱して、庭に埋められている。
 そして、生きているからこそ、そこで夢を見ているのだ。
 「老いたぼく」が「老いた母」を殺す、という夢を。なぜ、そんな夢を見るかといえば、「若い母」「幼いぼく」になるためである。

 これは「錯乱」である。だから、ぞっとする。だから、うっとりしてしまう。

 「若い母」「幼いぼく」の親密な、充実した時間--その「時間」そのものに「なる」ためならなんでもする。
 「あなたとぼく」は「腐乱死体」であるときは「二つ」であるかもしれない。けれども、「あなたとぼく」は「二つ」ではない。「ひとつ」だ。生きているかぎり「ひとつ」である。「腐乱死体」は「二つ」であるかもしれないが、「腐乱死体」となって「生きている」とき、その「生」は「ひとつ」である。

 --私は、奇妙なことを書いているかもしれない。矛盾したことを書いているかもしれない。けれど、そういう矛盾した形でしか書けないこと、書けば書くほど奇妙になってしまうことを、私は、この高橋の詩から感じる。

 生と死は、どこかで交代してしまう。死をみつめるとき、ひとは生を思い出してしまう。そして生を思い出すということで、死そのものを殺している。
 死を殺す--というのは不可能なこと、絶対的矛盾である。しかし、ひとは、生を殺すだけではなく、死を殺し、死を殺すということをとおして生まれ変わる。そして、生まれ変わることによって、「いま」「ここ」にある生を殺す。そして、死を、すぎさって、とりかえすことのできない時間を生きる。

 これは、幸福、というより恍惚というものかもしれない。



未来者たちに
高橋 睦郎
みすず書房

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