詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(97)

2010-01-31 09:13:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばはなぜ動いていくのか。と、書くと、いやことばは動いていくものではなく人間が動かすものだ--と言われそうだが、私にはやはりことばは勝手に動いていくものである、と思われる。
 「庭に菫が咲くのも」の書き出し。

幻像の貧困はガラスの絞首台にある。
ミモザの花が花屋に出た
恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ
円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた

 1行目に、どんな「意味」があるか、私にはわからない。「内容」がわからない。私は、ただ、その「もの」の組み合わせに驚く。「ことば」の組み合わせに驚く。驚きで「頭」がいっぱいになってしまって、「意味・内容」がわからない。「意味・内容」がわからないから、逆に「頭」が覚醒する。えっ、何? わからないものをわかろうとして、「頭」にスイッチが入る、という感じ。
 でも、まあ、わからないままですねえ。それでも、2行目「ミモザの花が花屋に出た」は、1行目がわからないのとは逆に「内容」がわかるので、ほっとする。黄色い色が目の前に広がってくる。こういうことばの展開にふれると、あ、たしかに西脇は絵画の人なのだということが、ちらっ、と「頭」をかすめる。だが、その色彩はすぐに消えてしまう。つづく行には、私は、どんな色をも見ない。次に視覚を刺戟するのは「雑草」ではなく、「円」である。「円」は、とてもくっきり見える。見えるけれど「意味」はわからない。

 わからない、わからないといくら書いても、詩の感想にならないかもしれないが……。わからないまま、私が驚くのは、1行目から2行目のへの飛躍。そして、3行目と4行目の関係である。特に3行目と4行目のつながりと切断、その関係である。

恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ

 これは、意味的(?)には「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」ということだろうか? そして、それは2行目ともつながっているのだろうか? 
 つまり……。
 ミモザの花を花屋で見たときの感情と、路ばたの雑草を見たときの感情が違うように、そういう自然(自然と切り離された花の美)を見たときの恋愛(あるいは孤独)の感情はまったく違う--と西脇は書いているのか。
 そうなのかもしれないけれど。きっとそうなのだろうけれど。

時の孤独の情とはまるでちがうのだ

 この行は、私には、独立して見える。実際に1行として「独立」した形で書かれている。さっき私は、これらの行の「意味・内容」をつかむため(?)に、「雑草を見た時」という具合に改行操作を変更してみたけれど、ほんとうは、私の「肉体」はそんなふうには反応していない。「頭」はむりやり「学校教科書」のように改行をととのえて(?)みたけれど、まったく違うことばを読み、違うことばを聞いている。
 「時の孤独」。whenの孤独ではなく、timeの孤独。
 あ、うまく書けない。
 「孤独」が「主語」ではなく、「時(時間)」が「主語」であると感じてしまう。いろいろな「時」が存在する。ミモザの花を見た「時」。恋愛の「時」。路ばたの雑草を見た「時」。それらの「時」はそれぞれ「孤独」である。そして、それらの「孤独」が違うのではなく、そもそも「時」が違うのだ。
 「学校文法」にしたがって読んだときとは、「主語」が逆転してしまう。
 「時」を「主語」にして読んでしまう読み方は、間違っているかもしれないけれど、私の「肉体」は、「時」を「主語」にしたてあげたいのだ。そうでないと、納得しないのだ。
 なぜなんだろう。なぜ、そんなふうに強引に(?)「誤読」したがるのだろう。
 リズム、音楽のせいだ、と私は感じている。
 ここには、「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」と書いたときとは違う「リズム」がある。音の響きがある。そして、それは「学校教科書」の「意味・内容」を脱臼させる「リズム」であり、響きである。
 だとしたら、その脱臼した「リズム」、響きそのものが指し示す「主語」をそのまま主語として受け入れた方がいいと私は思うのである。
 ここは絶対に「時」が「主語」。
 「意味・内容」を破壊して、ふいにあらわれる「主語」。その「主語」のあらわれかたの「リズム」が、そして全体を動かしていく。「意味・内容」ではなく、「音楽」がことばを動かしていく。
 私には、西脇のことばの運動は、そんなふうに見える。

円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた

 この3行は、「学校教科書」の改行(文節)では「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」になるかもしれない。
 しかし、西脇は、そうは書かない。
 わざと改行をずらす。そうすることで、ことばを活性化させる。「自由」にさせる。
 さっきまで「時」が「主役」であったが、ここでは「円が円」「人間が人間」というような繰り返しと、その繰り返しの「リズム」に乗った「ある」「ある」「ある」--「ある」ということば、それが「主語」になる。
 「ある」。存在のことば。--だからこそ、「サルトル」という哲学者も登場してくる。(サルトルの響きの中にも「ある」が隠れている。)

 「意味・内容」ではなく、音が、リズムが、音楽が、西脇のことばを動かしている--私は、どうしても、そう感じてしまう。

 そして。

 数行前、私は「しかし、西脇は、そうは書かない。」と書いたが、「書く」ということが、たぶん、西脇の「音楽」にとって重要な役割を果たしている。
 「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」、あるいは「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」という改行(文節)は、「話しことば」(声)の「意識」を「文字化」したものである。話す--声にだし、何かをいう、そのときの「リズム」を正確に(?)転写したものである。話すことを文字に書き写せば、たぶん、「学校教科書」の「意味・内容」(文節)になる。
 西脇は、このことばの運動(ことばの法則)を「書く」ことで解体している。改行(文節)をわざとずらして「書く」。そうすると、「意味・内容」が脱臼させられ、「音」が復活する。「音」そのものがもっている「いのち」というか、勝手な動きが復活する。

 「書く」という行為は「音」を除外しているように見える。「音」がなくても「書く」ことはできる。けれど、書かれた「文字」のなかには「音」は存在する。「書く」ことによって、「書く」ときの「文字」の操作によって、聞こえなかった「音」そのものが逆に響きはじめるときがある。
 西脇の独特の改行システム。それは「意味・内容」を脱臼させるだけではなく、ほんとうは、ことばの「音楽」を復活させるための方法かもしれない。
 声に出す、声に出して読む--ではなく、黙読する。文字を読む。そのとき「肉体」のなかで鳴り響く音楽。
 逆説的な音楽--かもしれない。「文字」のなかにある「音楽」というのは、奇妙かもしれないけれど、それはたしかにあるのだ。
 この詩の最後は、とても美しい。

「なにしろホラチュウスを読んで一番自分を
喜ばすことは、結婚しないでよかつたことです。……
ウッファファファ・ウファッファファ
ウーファッファッファッファー」

 私はカタカナ難読症なのだけれど、最後の2行は、はっきりと「聞き取る」ことができる。読むかわりに。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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秋山基夫「神殿」

2010-01-31 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「神殿」(「どぅるかまら」7、2010年01月10日発行)

 秋山基夫「神殿」は形が「定型」である。1連目。

灰褐色の細い道が木立や灌木を縫って丘へつづいている。
丘の背後から巨大な石積み建造物の先端がのぞいている。
空は晴れて気温が高く風も吹かないからすぐに汗ばんだ。

 同じ文字数。この3行が1連となり、6連で構成されている。特別におもしろいと感じたわけではない。「書く」ことについて、きのうの日記に書いたが、そのことが「体」のどこかに残っていて、その影響で、秋山の作品について書きたいという気持ちになったのだ。

 こういう作品を書くとき、ことばの選択は自由ではない。定型詩というのはすべてそうかもしれないが、一種の「不自由さ」が作品を歪める。そして、一定の「形」を要求されることばは、「不自由」なのだが、不自由だからこそ、その圧力を跳ね返して暴走するものがある。形の「外へ」ではなく、「内部へ」。
 すぐれた定型詩のなかでは、なにかが暴走している。

 たぶん、書きことばの内部での暴走がもっと過激だったら、この秋山の詩は傑作になったのだと思う。この詩はまだ過激な暴走を内部に抱え込んでいない。

 定型詩のもうひとつ(?)の形。たとえば西欧の作品にみられる「脚韻」の定型詩。そのとき「音」の形が「意味」の暴走を支える。遠く離れた「意味」が「音」によって接近し、化学反応のようなものを起こす。
 そういう暴走とは、この詩は無縁である。
 形(1行ごとの文字数が同じ)という定型詩では「意味」ではなく、「音」が暴走しないといけないのかもしれない。
 秋山も、そういうことを試みようとしているのだとは思う。
 たしかに(というのは、変なことばだけれど……)、文字数のそろった秋山の詩を読みながら、私はその詩に登場する「もの」(内容)よりも、「音」の伸び縮みの感じにひきずられている感じがするのだから。「意味」には驚かないが、その「意味」を支えるために、ことばの「音」がいつもと変わっていると感じることばがある。
 たとえば2行目の「石積みの建造物」。あ、こういうことばを、私は書かない。もし、このことばが「話しことば」として聞かされたものだったら、私はたぶん、「えっ、いまなんて言った?」と聞き返すと思う。「石積み」という「和の音」と「建造物」という「漢語(?)」のつながりが、私の耳では聞き取れない。しかし、「石積みの建造物」という「文字」をとおしてなら、その「意味」がわかる。そして「意味」を理解したあとに、「音」が動きはじめる。「音」があってことばがひとつの「意味」になるのではなく、「文字」があって「意味」をひっぱってきて、そのあとに「音」がやってくる。その瞬間を、ちょっとだけ、楽しいと感じる。けれど、それはあくまで「ちょっとだけ」で終わる。
 この「音」が、それまでの「意味」や「書きことば」を破壊して、内部に強烈な「音楽」を響かせてくれたら、きっと楽しいと思うのだが……。うまくいえないが、どうも私には不完全燃焼の「音」に感じられる。
 別のことばで言いなおせば、「音」が解放されていない。

 「文字」によって「意味・内容」は十分に保証されているのだから、音をどこまでも暴走させたらいいのに。(でも、そう書きながら、ではどうやって、ということになると、私にもさっぱりわからないのだが。--私は、まあ、いつものように、無責任な感想を書くことしかできないのだが……。)
 
 あ、何が書きたかったのかなあ。いつものことだが、私には、私の書きたいことがよくわからない。
 書き直そう。

 文字数をそろえて書く、ということのために、いままで意識されなかったことばが選ばれる。そういうことが起きる。「石積みの建造物」というような、「意味」はわかるけれど、ふつうはつかわないことばが選ばれるということがあるのだと思う。
 ふつうは、というのは、あくまで私にとっての「ふつう」だけれど、ふつうは「石積みの建物(たてもの、と読んでください)」か「石の建造物」だろうと思う。言うとすれば。
 そして、私は、いま「言うとすれば」ということばを書き足したのだけれど、この「言うとすれば」こそ、もしかすると、この詩を「解きあかす鍵」かもしれない。
 この詩は「言う」(話す)ということとは無縁の作品なのである。「言わない」。かわりに「書く」。
 つまり、「言うとすれば」石積みの建物、石の建造物かもしれないが、「書くとすれば」石積みの建造物でも大丈夫なのだ。「書く」ということが優先され、「書く」(書いた)ときの「形」が優先され、「音」が運ぶものが犠牲にされている。
 それが、この詩である。
 
 だからこそ。

 そうなのだ。だからこそ、こういう詩では、「音楽」の暴走が必要なのだ。「犠牲」になった「音」の反撃が必要なのだ。ずーっと「書きことば」に従属させられたまま、奴隷状態のままでは、何か「欲求不満」のようなものがたまってしかたがない。
 「石積みの建造物」くらいでは、暴走の起爆剤にはならない。逆に、起爆装置が外されてしまった感じすらしてしまう。

空は晴れて気温が高く風も吹かないからすぐに汗ばんだ。

 なんと間延び(?)した1行。そのなかで「音」は苦しんでいる。これでは、何も動いていかない。そして「定型詩」の苦しさだけが残る。

 唯一、おもしろいと感じたのは5連目の2行目。

目の前に背中に青い菱形のうろこのあるイグアナがいた。

 「イグアナ」という音が、いきなり、それまでの「音楽」を破ってしまう。これが3連目の1行目のように「三角頭の蛇」かなにかだったら、音は重たく、重さのなかで間延びする。

 「書きことば」は見かけ上は「音」をもっていない。けれども、その内部に「音」をもっている。「音楽」をもっている。その音に注意をはらうと、書きことばの詩の音楽はもっともっと楽しくなる--そんなことを考えた。
 (「誰も書かなかった西脇順三郎」に、これと類似したことを書いています。あわせて読んでみてください。)





詩行論
秋山 基夫
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(96)

2010-01-30 12:52:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「一月」の書き出し。

坊主の季節が来た
水仙の香りを発見したのは
どこの坊主か。
美しいものは裸の女神よりも
裸の樹の曲り方だ。

 この作品の乱調、音楽が鳴り響く瞬間は、意味の破壊、ことばのイメージの衝突になる。「坊主」と「水仙」という「和」の意味が「裸の女神」(日本にも裸の女神がいるかもしれないが、ギリシャを想像させる)の衝突。そして「裸の女神」ののびやかな曲線(それは直線の一種とさえ感じられる)と「裸の木の曲り方」の衝突。「裸の木」が若い木であって、その若さが女神の若さと競っているのもいいかもしれないけれど、老いた木である方が、その衝突がおもしろい。ごつごつと不自然に(?)曲がってしまった木。その曲がり方の美しさ。東洋の(?)発見。
 そうした「意味」の衝突の「音楽」とは別のものもある。
 「枇杷」。

火山、松葉ぼたん、雨
ゴーギャンのガンボージの
黄金の肉体の神妙、銀の皿に!

 ここには「音」だけがある。「書きことば」なのに、そこには「音」がまず、存在する。「意味」もあるのかもしれないが、私は、たとえば「火山、松葉ぼたん、雨」に「意味」を感じない。その三つを結びつける「意味」が思いつかない。連想ゲーム(?)をしたとして、そのあと4つ目に何が出てくるか? 「ゴーギャン」なんて、出てこない。それは「意味」がないということだ。
 「意味」はないけれど、豊かな「音」がある。豊かな濁音がある。「かざん」「まつばぼたん」のなかの「か行」「さ(ざ)行」「は(ば)行」が2行目の「ゴーギャン」「ガンボージ」と響きあう。3行目の「黄金」「銀」にも。
 何が書いてあるのか、その「意味」はさっぱりわからないが(特に「銀の皿に!」が何のことかわからない。皿に、どうしたの?)、それぞれの「もの」と「音」はよくわかる。

火山、松葉ぼたん、雨
ゴーギャンのガンボージの
黄金の肉体の神妙、銀の皿に!
ひからびたタヒチのふくべに
わすれられた神々の黒い血に、
危険な種子を垣間見る
そびえ立つ枇杷の実をむく
小鳥の眼の
おんなの旅人の手は無限に白い

 何かわかりました? 私は何もわからない。「意味」を知りたいという気持ちにはならない。けれど、最初の3行のことばの出会い、音が音と直接出会うときの、「意味」の拒絶の仕方かが、とても好き。
 この詩が、もし文字で書かれず(書きことばとして存在せず)、音だけだったとしたら(話しことばとして聞いただけだったら)、私はこの作品をおもしろいとは思わない。そして、そこに「音楽」があるとも思わないかもしれない。
 書きことばによって、そこに「文字」が存在する--そして、その文字を裏切るように(?)音が音自身で動いていく。その不思議さが、書き出しにはある。






ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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白鳥信也「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」ほか

2010-01-30 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」ほか(「モーアシビ」20、2010年01月15日発行)

 白鳥信也「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」の書き出しは魅力的だ。

細い路地にはカレーの匂いがする
アパートの曇りガラスの向こうから水道の音と動く人影
窓のすきまとか換気扇からカレーの匂いが流れてくる
勝手口の前、横倒しになった三輪車のわきで
白黒の猫が前脚を顔の前に上げてペロッとなめる

世界がついさっき17時47分に滅びていたとしても
カレーをつくっている誰かと猫とこの俺は生きている
もしかしたらたちこめるカレーの香辛料が誰かと猫とこの俺を包んで
世界の危機からプロテクトしてくれたのかも

 カレーの濃密な匂いがただよ撃ってくる。私を包む。1連目の具体的な描写、たとえば「曇りガラス」「水道の音」ということばがとてもいい。カレーの匂いは嗅覚。曇りガラスは視覚。水道の音は聴覚。猫が前脚をなめる「ペロッ」は触覚。嗅覚からはじまった感覚が次々にめざめていく。そして「世界」をつくる。「俺」の体の中にあるもの(感覚)と、俺の体の外にあるもの(世界)が緊密に結びつき、世界を揺るぎないものにする。
 あ、この瞬間、たしかに何が起きようと世界は滅びない。「外」の世界が消えてしまっても、「俺」の体の中に、「世界」は感覚として現存する。--この感じ。それを「カレーの香辛料が」「プロテクト」してくれたからだと感じる。とてもいい。思わずカレーを食べたくなるくらいに気持ちがいい。

 けれど。

 けれど、私は、この作品は、それ以後の行がまったく気に入らない。3連目に「カレーの匂いは薄まってきていて」という行が出てくるが、その行があらわれる前から、もうカレーの匂いはしていない。
 せっかくのカレーの匂いが「体の中」から消えている。白鳥は「世界」からカレーの匂いが消えている(薄まっている)というふうに書いているが、それは白鳥の間違いである。世界からカレーの匂いが薄まったのではなく、白鳥の「肉体」がカレーの匂いを手放してしまったのである。
 私が引用した行のあと、白鳥のことばは、カレーの内部、あるいはカレーをつくる(つくっている)誰かの室内へとは入っていかず、「角をまが」り、「路地」を捨てて、「世界」へ出て行く。
 方向が逆なのである。
 カレーの匂いがプロテクトしてくれたのなら、そのカレーの匂いの内部へ入っていかないかぎり「世界」は濃密にならないだろう。

カレーの匂いはもう飛んでしまったようだし
だからといって何も起きていない
何も起きていないことこそ何か起きたことの明確な証左なのだ
と断言したい気持ちになる

空を見上げてみる
裏のマンションと住宅のそそりたつあいだに電線が6本はしっていて
空がそのうしろにたわんだまま
何だかひっかかっているように見える

 「何も起きていないことこそ何か起きたことの明確な証左」だなんて……。このことばには、どんな「感覚」も残っていない。灰色の「脳髄」のことばだ。もし、「空がそのうしろにたわんだまま/何だかひっかかっているように見える」としたら、それは「感覚」を放棄したからである。「肉体」を放棄し、「頭」にたよってことばを動かしたからである。
 私は、こういうことばは、嫌いである。



 プリリングル「チャイティラテトールマグイートイン」にも、おもしろいことばがあった。

 恥ずかしいから声にださず、ひっそりと文字にたくしているのだろうか。読まれてはずかしいなら書かなければいいか。そうなのか。どうなのだ。などとそんなせこせこした事を思いながら、キーボードを打っていると、わたしのせこせこといやしい心がこの文字にもとけだして、卑屈なにおいとしけた手触りを画面に映し出していくようだ。

 いいなあ、この部分。この、ことば。
 「ことば」に託すのではなく、「文字」に託す。「ことば」には「話しことば」と「書きことば」がある。話しことばは「音」になる。「書きことば」は「文字」になる。その「文字」が「文字」であることを超越して(?)、「卑屈なにおい」「しけた手触り」になる。
 この暴走。ことばの暴走。
 書いているうちに、「私」の「肉体」(私の感じていること、感覚--と言い換えた方がわかりやすいのかな?)が、拡大・膨張し、「私」ではなくなってしまう。

 そして、この暴走が、実は、とても「日常的」な描写からはじまるのである。「恥ずかしいから……」4連目。1連目と、次のようになっている。

 呪文をとなえてチャイナラテを頼み席に着く。わたしを取り囲むように絶え間なくしゃべり続けるおばさんの声。もっと絶え間なく女子高生の声。入り口布巾に陣取る女子大生の声。数カ国語入り乱れる外国人の声。会社員の声。こどもの声。おとなの声。おんなの声。おとこ声。老いた声。若い声。声。声。声。

 ことばは最初「話しことば」(音)だったのだが、それが「話しことば」から「書きことば」にかわって、そこから暴走がはじまる。(2連目に「叫ぶ」ということばが出てくるが、その「さけび」は3連目ですぐに「そんな自分を思い浮かべたものの」、声にはださず、「画面を見られないようにこそこそとこれを書いている」と書きことばにかわる。スターバックス(?)かどこかでのありふれた周囲の描写から、書くということを通じて、プリリングルのことばがかわってしまい、暴走をはじめる。

 これは、もしかすると、何かとても重要なことかもしれない。ぺちゃくちゃと話しているときもことばはときに暴走してとんでもないことをいってしまうが、それはあくまで「内容」のこと。「暴言」とよばれるもの。そこにも「卑屈なにおい」や「しけた手触り」はあるかもしれないが、それはある意味で、その「場」が求めているものの反映である。書きことばは、「場」をもっていない。共有していない。共有されていない「場」から暴走して、「場」をひとりで拡大し、そこのなかに誰かが紛れ込んでくるのを待つしかない存在である。
 だからこそ、暴走する。そうなのか? どうなのだ?
 プリングルのマネをして、思わずそんなことを書いてしまうが、この詩も、白鳥の作品と同じように、その後、失速する。ふいに、散漫な「話しことば」(書かれているんだけれど、それは、きっとキーボードで打ち込まれず、モニターに反映されなかった、「思い」のなかだけのことば)があらわれる。その部分が、とてもとても、とてもおもしろくない。
 けれども、まだプリングルの作品の方が「救い」がある。
 書きことばがときどき復活してきて、「音」が「文字」にかわり、それが暴走する。そういう部分がある。

 したい、したいと言いながら、あれもこれもといろんなものをためこんだまま腐敗して、したい、したいとさまよううちに、死体になってしまったのだと思う。

 この「死体」がもう一度、嗅覚や触覚にかわって、濃密になってくれればいいのになあ。
 でも、それも一部だけ。
 とはいいながら、その一部がやっぱり好きなので、その部分を紹介しておく。

 たくさんのものを身にまとい思い体をひきずり歩くわたしの後ろには、ひきずった身体の筋が残る。その道はわたしの道で、ひきずってついた筋は、誰かのやっぱりひきずった筋と、時に交差したり寄り添ったり重なってはまた離れていったりする。わたしは、道いっぱいに横たわる、たくさんの筋のにおいを嗅いだり指でなぞったりしては、安心したり心細くなったり、腹をたてたり涙を流す。

 この「ぐにゃぐゃ」したことば--それが「嗅ぐ」とか「なぞる」とか、「嗅覚」「触覚」のことばのなかでふくらむ瞬間--いいでしょ?
 「書く」という行為のなかでしか起きない暴走。
 それをもっと大切にしてもらえたら、と、私は願っている。





アングラー、ラングラー
白鳥 信也
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(95)

2010-01-29 23:00:21 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「ナラ」。この「ナラ」は何だろう。西脇は地名をよくカタカナで書くから「奈良」なのかもしれない。

ポンペイの女郎屋の入口の
狼のように耳が立つた
まつ黒い犬がほえる

 この書き出しの「犬」はほんとうに犬? 鹿を、そんなふうに書いて、遊んでいるだけなのかもしれない。
 西脇は有名詩人というよりも、日本の代表的な詩人だから、そういう人に対して「遊んでいる」というようなことを書くときっと反論が返ってくると思うのだけれど、いいじゃないか、誰だって遊んだって、と私は思う。
 「意味」とか「思想」とかは関係なく、ただことばで遊びたいから遊んでみる--そういうことだって詩の重要な要素である。「ポンペイの女郎屋の入口」も「奈良の都の入口」も、かわりはないのだ。ある場所、その場所が喚起するものが似ているか、似ていないか--よくわからない。よくわからないから、まあ、その変なものを(ことば)を動かしてみる。それが、どこまで動いていくか。その「動き」そのものが、詩であるかもしれない。

 私は、この詩は「奈良」を「ナラ」と書いたことからはじまる奇妙な音楽として読みたい。そう、読んでいる。そして、おもしろいと感じているのは、「ナラ」と「ポンペイ」と関係があるかないかわからないけれど(わからないからこそ?)、次の部分である。

この悲しい記念
この美しい管を通る恋心(れんしん)は

 「この」の繰り返し。「しい」の繰り返し。「きねん」「れんしん」の韻の踏み方。「恋心」にわざわざ「れんしん」とルビをふって、変な音にしてしまう遊び。
 特に気に入っているのが「この」の繰り返し。
 それはあとにも出てくる。

この価値のない牧神笛
この朱色の金属
この考え及ばざる空間
このブリキの管を通す

 4回「この」が繰り返される。最後にも、「この」が登場する。

ただこのブリキの空間とこの朱色
との関係が激烈なるためだ。

 「この」が最後に「との」になっている。
 この瞬間の、変なおもしろさ。

 西脇の詩が私はとても好きである。そして、その好きの理由は「音楽」にあるのだが、その音楽は「音」であると同時に「書きことば」と何か関係があるかもしれない、とも、最近、急に思うようになったのだ。
 最終行の「との」は、学校教科書文法に従えば(つまり、「意味」「内容」を正確に伝えるということばの働きを重視すれば)、とても奇妙なつかい方である。行の冒頭に「との」があるのは変である。その「との」は、前の行の「朱色」につながる形で「朱色との」と書かれるべきものである。それを西脇は、あえて、わけて(分離させて)書いている。
 その「書くこと」から、音楽がはじまっている。

 それは「奈良」を「ナラ」と書くことからもはじまる「音楽」につながっている。「音楽」は「音」だけではなく、書かれる「文字」によってもはじまる。--そのことを、ふいに感じた。



アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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ジェームズ・キャメロン監督「アバター」(★★★)

2010-01-29 22:32:58 | 映画
監督・製作・脚本 ジェームズ・キャメロン 出演 サム・ワーシントン、ゾーイ・サルダナ、シガーニー・ウィーバー

 3D映像は精密でスムーズである。昔の立体映画のように、何かを飛び出させてびっくりさせるというよりは、「奥行き」を深める、という感じである。(私は眼の手術をしたあと、左目と右目の焦点距離がずいぶん違うので、3D映像を正確にはとらえきれていないかもしれないが。)ただし、3D映像を体験するためにかける眼鏡のせいで画面が暗くなる。これには閉口した。3D映像ではなくていいようなシーン(地球人?同士が口論するシーンなど)は眼鏡を外してみていたのだが、その明るさの違いに、参ってしまった。
 映像そのものは3Dでない方が、もしかすると美しさを堪能できるかもしれない。緑がアメリカ映画にしてはみずみずしくきれいである。夜の空気も透明感があって、とてもいい。巨大な鳥にのって、垂直に飛び降りる映像も、スピード感がとてもいい。
 ただし、この映画の映像が(そしてストーリーのほとんども)、ジェームズ・キャメロンのオリジナルかというと、私にはそんなふうには感じられない。随所に宮崎駿のやってきたことを土台にしている。森への畏怖、森の精(木の精)は、そのまま宮崎駿の思想だろう。こんな「拝借」の仕方は、ちょっといただけない。(私は、「もののけ姫」の悪質なパロディーにしか見えなかった。)

 私がこの映画で気に入らないものは、ほかにもある。いや、ほんとうは、こっちの方がもっと嫌いかもしれない。(「もののけ姫」の悪質なパロディーであるけれど、それは、まあ、宮崎駿の影響を強く受けているということの裏返しと考えれば、それでいい。)
 この映画でいちばん嫌なのは、侵略者である地球人の軍人が、その星の住民を「青い猿」と呼ぶところである。(字幕で、そう読んだのだが、実際にはなんと言っているか、私は知らない。聞き取れなかった。)この差別意識と、それを裏返したような「自然の知恵」という評価。そのセッティングが、あ、嫌だなあ。どうしようもないなあ、と思う。
 自然そのものを評価するとき、なぜ、それを一方で「青い猿」というような否定と対比させなければいけないのか。その星の住民が、地球人(人間?)と同じような体型、肌をしていて、同じように衣服で体をつつんでいてはいけないのか。同じ体、同じ衣服を着ていて外見は区別がつかない。けれど彼らは、不思議な馬に乗り、巨大な鳥にのって戦うというのでは、なぜいけないのか。
 いや、その「青い猿」というのは、一方で「青い猿」と呼ぶ差別的な人間がいて、他方にはそんなふうには呼ばない人間がいて--という対比のためにある、という見方も可能かもしれない。そして、それは差別的な人間は間違っていて、その結果、当然のようにして敗れる運命にある、という「ストーリー」を描くためのもの、という見方があるかもしれない。
 だとすれば、それこそが、嫌い。いやだなあ、と思う。
 安直じゃない? 差別的な人間は間違っていて、それは、素朴な(?)自然の力に最終的に屈する。侵略者は必ず失敗する。そんなことのために「自然」や「現代文明・未来文明(機械文明)とは無縁」なものが利用されていいのだろうか。
 自然の力を称賛するのはいいけれど、その称賛をきわだたせるために、「差別」を敗者(?)に仕立てるというような方法は、どこか間違っていない? ちゃんと差別を批判したことになるのかな?

 何ねえ。どうもねえ。きれいに、きちんとつくられた映画だけれど、おかしいよなあ、と思う。


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石峰意佐雄「無闇男」

2010-01-29 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
石峰意佐雄「無闇男」(「解纜」143 、2009年12月18日発行)

 石峰意佐雄は「男たち」シリーズを書いている。その26が「無闇男」。「解纜」にはほかの作品も掲載されている。テーマは、しかし、「男」よりも書くという行為そのものである。
 「無闇男」の書き出し。

 かれは存在するのか、したのか、それともしうるのか。じつにしんどいことだが、ほとんど証明不能のことを語ることがそもそもできるのだろうか。

 ここには「否定」だけがある。次々に襲いかかる「否定」だけがある。そして、「否定」とは「不可能性」のことである。ある「こと」(存在と言うより、こと、であると、私は直感的に思う)を想定する。そして、それを「否定」し、さらにその「否定」そのものを「可能」「不可能」の二者択一にかける。それは、そして、「可能」をひきだすためではなく、「不可能」と断定するためである。
 ことばがそんなふうに、次々に否定し、不可能であるという「答え」に向かって動くとき、そこには「何」が存在するのか。どんな「こと」が存在するのか。何も存在しない、どんな「こと」も存在しない。ことばが動いたという記憶(?)、あるいは意識が残るだけである。
 それは、次のような「比喩」として語られる。

 かれは、よこたわったまま遥かなすそのほうをけり出すとその余波が、こちらに及んでくる、ようにしてかれじしんの体感としてわずかに、存在した証しがあるだけだ。

 この文章は、とても奇妙である。「主語」が奇妙にねじれる。
 「第一の主語=かれ」は「すそをけり出す」(述語)。「第二の主語=裾をけり出した足(?)、あるいはけり出された裾」が、「余波」を引き起こす(述語)。「第三の主語=余波」がこちらに「及んでくる」(述語)。
 そのあとは?

ようにしてかれじしんの体感としてわずかに、

 「主語」は? 「主語」はどこへ消えたのか。「かれじしんの体感」というのは、だれが感じる「体感」? かれが感じる? 私(石峰、あるいは読者)? わからないまま、「わずかに」は、次の、

存在した証しがあるだけだ。

 にかかっていく。けれど、その「わずかに」は「わずかに存在した」なのか、「存在した証が「わずかに」あるだけなのか、見当がつかない。そして、その見当のつかなさをごまかす(?)ようにして「第四の主語=(存在した)証し」が「ある」(述語)。
 最初の1行で、「かれ」という「主語」が措定され、それからすぐに「存在するのか」「存在したのか」「存在し得たのか」「存在しうるのか」という「否定」と「不可能」の「述語」によってかき消されたように、ここでも「主語」がかき消されていく。
 「存在した証しがある」と石峰は書いているが、何が存在したのか--そのほんとうの「主語」はとっくの昔に否定されて、主語をめぐって動いたことばしか残っていない。書かれたことばしか残っていない。
 そして、その書かれたことばを決定的に特徴づけるのが

ようにして

 と、唐突に挿入されたことばである。
 「ようにして」からはじまる文節は、それまでの文章「かれは、よこたわったまま遥かなすそのほうをけり出すとその余波が、こちらに及んでくる」と、それ以後の文章「存在した証しがあるだけだ。」を分断し、同時に接続する。強引に、ふいの「比喩(のよう)」と、どの述語を修飾するかわからない副詞(わずかに)の粘着力で。
 分断し、接続する(接着する)というのは、矛盾した行為だが、矛盾しているからこそ、そこに「思想」がある。「肉体」がある。
 「肉体」があるから「体感」がある。
 だれが感じるのか、「主語」があいまいなまま、「かれじしんの体感」が残る。ほうり出される。その「体感」が「思想」である。

 書く--ことばの運動。書かれたことばの運動というのは、その「かれじしんの体感」のように、何かを分断し、同時に接着させるものなのだ。書くと言うことは、そういうことなのだ。

 何かが存在し、ある「こと」が存在し、それをことばで置き直すのではない。ことばは「存在」や「こと」を伝えるのではない。ことばが何かを伝えるとしたら、そのことばが何かを切断し、同時にそこに別なものを接着しようとする運動、その「感じ(体感)」を伝えるだけなのだ。

 あ、何か。
 --ことばがかってにスピードをあげて暴走する。自分で自分のことばについていけなくなる。
 ちょっと別な書き方をしてみる。

 「かれ」を「ことば」と置き換えてみる。そうすると、私が書きたいと思っていること、あるいはことばが私を置き去りにしたまま書こうとしていることが、別な形で見えてくる。

 ことばは存在するのか、したのか、しえたのか、そもそもしうるのか。

 ことばで書きながら、こういう質問をすることは自己矛盾かもしれない。その「自己矛盾」を少しだけゆさぶるために、「ことば=存在(もの)」あるいは「ことば=意味」は存在するか……と考えてみるとどうだろう。ことばは存在(もの)と同じ(あるいは等価)なのか。ことばは「意味」なのか。
 そうではないのではないだろうか。
 ことばが動く(すそをけり出す)。「もの」に向かって動く、意味に向かって動く。そうすると、そこにはことばによってつなぎとめられるものがある一方、そのつなぎとめによって振り捨てられるものもある。「かれは、よこたわったまま……」という段落で石峰が書いていることと逆の順序になってしまうが、接続と(接着と)同時に、なにかが分断される。

 「存在(もの)=ことば」「意味=ことば」という形でのことばは、存在するのか、したのか、しえたのか、しうるのか。

 石峰の「思想」はそれを中心に蠢いている。動き回る。
 それは確かに、

ほとんど証明不能のことを語ることがそもそもできるのだろうか。

 という疑問を呼び起こす。「ことば」が「ことば」について語ることができるのか。そこに「客観性」はありうるのか。「客観的な思考」として、それは有効なのか。疑問だけが、有効な何かかもしれない。
 そして、「ようにしてかれじしんの体感としてわずかに」という、わかったような、わからないような「比喩」が残される。
 「比喩」というものは、とてもおもしろい存在だ。「比喩」のことばの特徴は、「存在(もの)=ことば」「意味=ことば」をどこかで否定している。つまり……。(と、書いていいのかな?)
 「比喩」が存在するためには、「比喩」が語るものがその対象そのものであってはならない。「きみは花のように美しい」という比喩がなりたつためには、「きみ」は「花」であってはならない。そこに、一種の「否定」がある。「きみ」が「花ではない」(否定)。だからこそ「花」であると強引に他のものを接続する(接着させる、他のものでのっとる)とき、「きみ」は「きみ」を超越し、絶対的な「美」になる。
 比喩--とは、存在を否定し、超越し、絶対的な何かになってしまう運動なのだ。

 比喩の中にこそ、ことばの運動のすべてがある。のかもしれない。存在を語りながら、存在を超越する運動。詩。
 ことばは「意味」をもたない。ことばは、過激に動くことで「それまでの意味」を分断(破壊)し、別の「意味」を生み出すのだ。いままで、接続、ということばをつかってきたが、それはたぶん、間違いだ。別の「意味」を結びつけるのではなく、それまで存在しなかった「意味」を生み出していく。そこに展開するものが「それまでの意味」ではなく、生み出された「あたらしい意味」であるがゆえに、だれにもその「意味」はわからない。書いている作者にも、読んでいる読者にもわからない。「体感」のようなものがあるだけで、「意味」はだれにもわからない。運動していることば自身にもわからないかもしれない。

 石峰が書こうとしているのは、そういう「ことばの運動」そのものだ。ことばはなんのためにあるかという問いかけそのものだ。何を書き得るか--それを、ことば自身の運動にゆだねて、石峰はことばを書いている。
 そして、ことばに身をゆだねるために、ことばそのものを「過去」からまず解放する。その方法として、「かれは存在するのか、したのか、しえたのか。そもそもしうるのか。」というような、「否定」と「不可能」を刻印することからはじめる。すべてをうたがい、すべての根拠をとりはらう。そこからことばは「自由」に動きはじめる。



塋域―詩集
石峰 意佐雄
詩学社

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誰も書かなかった西脇順三郎(94)

2010-01-28 19:20:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 私は西脇順三郎について書いているが、西脇については何もわからない。西脇の研究家(?)、あるいは西脇の詩が好きなひとは、きっと怒りだすだろうと思う。私が、あまりにも根拠のないことを書きすぎている、と。私は何の反論もできない。私は根拠などもっていない。そればかりか、私は自分が感じていることを正確に(?)書くことばをもっていない。いや、何を書きたいか、という明確なことがらもないのだ。何を書きたいかわからない。書きながら探している。私の書いたことばが勝手に動いていって、どこかで西脇のことばときちんとぶつかってくれることを祈りながら書いている。これが、ほんとうのところである。特に、今回のように長い中断をはさむと、前に書いたことと、ことばがうまくつながらない。だから、無理には、つなげない。つなげようとしても、つながらないのだから、つながらないまま書いていくしかない--と思う。
 「粘土」は三人の男が、関東のどこかを歩いている詩である。

農家の庭をのぞいて道を
きくと役所のあんちやん
だと思つたのか眼をほそくしてこわがつた

 この「きくと役所のあんちやん」が楽しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という改行が学校教科書の文法だろう。西脇はこの学校文法を完全に無視してことばを動かしている--と書いた先からこんなことを言うと変だけれど、それは西脇が意識して壊しているのか、それともことばがかってに壊しているのか、実は、私にはよくわからない。
 たぶん、この西脇についての文章を書きはじめたころは、それは西脇が壊しているのだ、乱調を導入することで美をつくりだしているのだ、と感じていた。だが、長い中断をはさんだいま、なぜか、まったく理由もないままなのだが、それは西脇が壊しているのではない、という気がしてきたのだ。ことばが、かってに文法を壊してしまう。(といっても、学校文法のことだけだけれど。)西脇は、そのこわれた「音」をただ聞き止め、記録している、という気がしてくるのだ。

きくと役所のあんちやん

 この音は、とても美しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という正しい文法(?)を知っている人間が、こんな「音」を「音」だけとして文脈(?)の中から取り出せるとは、なんだか信じられない。意識はどうしたって「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と動いてしまう。私は何度読んでも、この3行は、そういう「意味・内容」をもっているとしか判断できない。意識(?)は正確に(?)、そんなふうに判断しているにもかかわらず、その意識とは無関係に、

きくと役所のあんちやん

 という音が動いているのだ。輝いているのだ。「耳」のなか、「頭」のなか、「肉体」のどの部分が反応しているのかよくわからないけれど、その音をとても美しいと感じる。「きくと役所のあんちやん」ということばは、それだけでは何の「意味」ももたない。「無意味」である。その「無意味」の輝きが、「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と書いたときとではまったく違うのだ。
 私は「音読」はしないが、もし「音読」したとしたら、この行は、いま私が感じているように輝くか。輝かないのではないか。この輝きは、「眼」で「音楽」を聞いているから感じるものなのではないのか。
 私はもともと視力が弱いが、眼の手術をしたあと、さらに悪くなった。その眼の悪い人間が「眼で音楽を聴く」と書いてしまうと、なんだかとんでもないことを書いてしまっている気持ちになるが--だけれど、やっぱり眼がなんらかの作用をして、その「音楽」を美しいと感じさせているのだ。

アテネの女神のような神を結つたそこの
おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの
煮つけをして待つているのだ

 この3行は、書いてある「内容」そのもののアンバランス(乱調--アテネの女神とおかみさん、甘酒、ミョウガ)もそうだけれど、

おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの

 この1行の表記の複雑さが、また「音楽」を感じさせるのだ。もっとも、この行に関して言えば、私のカタカナ難読症の影響はかなり大きいかもしれない。「ミョウガ」。この「文字」が私には最初読めない。見えない。「音」がしないのだ。 
 「おかみさんがすつぱい甘酒と」まではひとつづきの「音」が聞こえてくるが、「ミョウガ」がとても小さい音、ほとんど沈黙として響いてくる。その沈黙の後に「の」という音がやってきて、あ、「甘酒と」と「の」の間には何かしらの「音」があったのだ--と気がつく。その瞬間の、「音楽」の覚醒のようなものが、とても新鮮で、とてもうれしくなる。
 カタカナが正確に読めるひと(ほとんどのひとがそうだと思うけれど)は、そして、私とは違った「音楽」を聴いている--と思うと、私は、またなんともいえず妙な気持ちになる。

疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と
ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活
をとりに来たのだ

 この部分では、「疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と」と「ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活」が違った「音楽」として響いてくる。それは日本の音と外国語の音ということかもしれないが、私には、もうひとつ「カタカナの音」、眼で感じてしまう変な音が加わり、聞き取れない「音楽」が駆け抜けて行ったのを感じるのだ。
 「メーテルリンクの蜜蜂の生活」では、「の蜜蜂の」の部分で、体がとろけるような快感に襲われる。
 --これはいったい何なのだろう。



アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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小池昌代『転生回遊女』

2010-01-28 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『転生回遊女』(小学館、2009年12月09日発行)

 小説がはじまってすぐ--といっていい部分(10ページ)に非常に印象的なことばがある。主人公の桂子の誕生の瞬間を語る母のことばである。桂子は首にへその緒をまきつけて生まれてきた。死産寸前で、唇も顔も真っ青だった、と告げたその後。

あなたは、生まれたとき、死の方角から折り返してきたのよ--。

 この1行のなかの「折り返し」ということばを読んだ瞬間、私はこの小説は「折り返し」がキーワードだと感じた。小池にキーワードという意識があったかどうかわからないが、このことばももう一度だけ、この小説でつかわれている。それも、母のことばを引用したその直後にである。(小池にもしキーワードという意識があれば、こんなにすぐ近くではつかわないだろう。もっと効果的につかうだろう。--ところが、私は、それが無意識だからこそ、キーワードと呼ぶのだけれど。)
 
 かつて母は、そんなふうに言ったが、折り返し、という言葉を聞いたとき、どこかに突き当たったような思いがした。

 このあと、文章は「息が詰まり、首のあたりにぬめった紐(ひも)状の感触が蘇(よみがえ)った。」とつづいているから、たぶん、小池は「折り返し」に、そんなに重きを老いていないだろう。小池は「折り返し」ということばよりも、「感触」の方に意識を傾けている。「感触」を書きたかったのだと思う。この作品には、いろいろな「感触」がことばをかえて書かれている。そのことも、小池が書きたかったのは「感触」だろうという印象を強くする。

 ところが。

 私は、その小池がおきざりにした「折り返し」が、そのことばが、とてもおもしろいと思うのだ。この小説を決定づけているのは、他のどんなことばでもなく、10ページ目につづけてでてきて、その後消えてしまった「折り返し」がこの小説の構造そのものになっていると感じるのだ。
 主人公・桂子は女優の母と暮らしていた。その母が突然死ぬ。そのあと、桂子はひとりで生きていかなければならない。母が女優であったせいか、役者の話が持ち上がる。そして桂子は女優をめざすのだが、その過程で、何人もの男に出会う。本の「帯」によれば、桂子は「交わりながら、前へ、前へ。」と進んでいく。確かに、桂子は、前へ、前へと進んでいく。
 しかし、私には、それは「前へ、前へ」とは感じられないのである。桂子は常に、「折り返し、折り返し」生きている。「折り返す」ということが桂子にとって「生きる」ことなのである。次々に男に出会い、交わり、その男から別の男へと進んでいく--というふうに「外見」のストーリーは読むことができるけれど、ほんとうに「前へ、前へ」と進んでいるとは私には感じられない。いつも「折り返し」ているだけのように感じられる。
 だが、どこへ「折り返す」というのか。
 「わたし」へ「折り返す」、「おんな」へ「折り返す」。桂子は「自分」からはけっして出て行かない。「自分」をけっして捨てない。かならず「わたし」へ「折り返す」。
 そのことが一番よくわかるのが、長谷川老人と桂子の関係である。桂子は長谷川老人とは交わらない。セックスしない。老人の前で裸になることすら拒む。帯には「交わりながら」と書いてあるが、交わらないまま、どこかへ動いていくということがあるのだ。そして、それは「前へ」ではない。「自分」へ。「わたし」がほんとうに求めているものが何であるかを確かめるために「わたし」へ一度、「折り返し」てみるのだ。そして、「わたし」がほんとうに求めているものから、別の新しい男へと「折り返す」のである。
 「引き返す」と「折り返す」は似ているようで、違う。
 その違いが、ここにあるのだ。
 「引き返す」は「死産」から「誕生」へ引き返したように、一度きりの運動である。もう一度、どこかへ行く、ということはない。(人間は、まあ、死んでしまうから、もう一度死へ向かって「引き返す」と言えないこともないかもしれないが、ふつうは、そんなふうには言わない。死産から誕生へ「引き返し」ても、誕生から死へと「引き返し」はしない。)
 桂子は「わたし」から俳優志願の男へと進み、そこから「わたし」へと「折り返し」て、友人の夫へと向かい、またいったん「わたし」へ向かって折り返して、その「わたし」から次は建築家へ……。常に「わたし」→男→わたし→男→わたし、なのである。「わたし」を中心にして、何度もくりかえす。
 この小説には「木」が重要な役割を果たしているが、木になぞらえていえば、木の中心に桂子がいて、その中心から桂子は出発し、男に出会って、交わって、もう一度「わたし」という中心にもどってくる。「中心」が桂子(わたし)であり、男は、そのまわりに「円」を描く形で存在するのだ。
 そして、桂子は、その「折り返し」運動を繰り返しながら、「前へ」進むのではなく、垂直にのびるのである。枝を、年輪を、周囲に広げながら、同時に垂直にのびるのである。「折り返す」度に、桂子という「木」は生長し、高くなり、同時に見えない部分(土の下)で深く深く根をおろすのである。「わたし」自身にもわからない別の存在(水脈--と呼んでみようか--「水」の描写が何度も何度も出てくるが、それは「わたし」を濡らすだけではなく、「わたし」の内部を樹液のように駆け回る、という印象がある)を求めて、深く深く根を下ろし、「他人(快楽--エクスタシー、エクスタシーの語源は、わたしからでること、わたしではなくなること、つまり他人になること)」を吸収して、「他人」を自分の中に取り込んで大きな大きな木になっていく。新しい「水」を吸い上げながら、垂直に垂直に育っていく。

 主人公に「桂子」という名前をつけたときから、そして桂子の誕生を、死からの「折り返し」と呼んだときから、この小説のことばは、そういう運動へと突き進んでいくのである。

 それは、この小説の最初に書かれている「巨木」との関係に、象徴的にあらわされている。母は桂子に語るのだ。

困ったことがあったら、あの巨木のそばに行くといい。よく晴れた日の、午前中がいいわね。心を落ち着かせて、幹に手をあてるの。目を閉じて、巨木とつながってごらんなさい。あなたの中に、静かなエネルギーが流れ込んでくるはずよ--

 桂子は、巨木に触れ、そこから「折り返す」のである。巨木が大地から吸い上げ発散するエネルギーに触れ、その巨木そのものに「なる」。「わたし」のいた「場」へそのまま引き返すのではなく、巨木に触れて「折り返す」という運動をすることで、「わたし」のいた「場」を「巨木」そのものにかえてしまう。
 「場」が「巨木」に「なる」。--「わたし」が「巨木」になる、は、そう言い換えることができるかもしれない。
 「場」が「巨木」に「なる」というのは、変な言い方で、学校教科書では許してもらえないだろうけれど、そんなふうにしか言えない「飛躍」したなにか、それが、この小説の「折り返し」の運動なのだ。あえていえば、「場」も「巨木」も、エネルギーということになるのだが(そして、ここからは、なんだか東洋哲学?の領域に入ってしまいそうなので、めんどうなのだが……)--その、学校教科書の正しい日本語(?)ではたどれないものがあるからこそ、それは「小説」という形になるしかなかったものなのである。


転生回遊女
小池 昌代
小学館

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アンジェイ・ワイダ監督「カティンの森」(★★★)

2010-01-27 14:49:13 | 映画
監督・脚本 アンジェイ・ワイダ 出演 マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ、マヤ・コモロフスカ

 ポーランド・カティンでのロシア軍によるポーランド将校の虐殺を描いている。
 ドイツ(ナチス)と戦っているポーランドにロシア軍が侵攻してくる。そして、ナチスを装ってポーランド将校、ポーランドの知識人を大量虐殺する。ロシアがポーランドを支配した後、将校や知識人が邪魔になるからである。ただ虐殺したのでは、ロシアの「目論見」が露顕する。だからナチスの犯罪を装うのである。
 映画はこの「事実」をたんたんと描いている。この「たんたん」という感じが、じわりじわりと胸に迫ってくる。
 だれもが死にたくはない。そして自由でもいたい。そのせめぎ合いのなかで、あるひとはロシア側にとりこまれてしまう。別のひとは、新しい敵・ロシア軍と対立する。けっして、なびかない。そこから、また悲劇がはじまる。
 アンジェイ・ワイダは、ロシア軍になびいたひとを一方的には批判しない。彼らは彼らなりに苦悩して、「生きる」(生き残る)ということを選んだのである。一方的に非難するかわりに、その苦悩を愛するひととの対立、たとえば姉妹の対立、たとえば親しい友人との対立という個人、一対一の関係のなかで浮き彫りにする。
 あ、ひとの苦悩とは、いつでも一対一なのだ--と、わかる。
 「国家」というものがある。「体制」というものがある。そのなかで人間は苦悩するのだけれど、それは「国家(体制)対ひとり(個人)」という形で浮かび上がるものではなく、いつでも個人と個人、一対一という関係のなかで深まっていくのだ。
 それは同じひとを心配する苦悩の場合でも同じである。
 この映画の「事実」をしっかり伝える手帳の持ち主。将校には母がいて、妻がいて、娘がいる。その将校を心配するとき、母と妻が、思わず対立してしまう。「大切な息子をどうしてあなた(妻)は守れなかったのか」「あなた(母)にとって大切なひとであると同じように、私(妻)にとっても大切なひとなのに、なぜ、あなたは私を責めるのか」。
 あ、すごいなあ。
 悲しみを、そこまで掘り下げてしまうのだ。母と妻が、力をあわせて(というのは、変な表現だけれど)、一緒に息子(夫)を思うだけではなく、思わず「私にとっての大切なひと」という次元でぶつかりあってしまう。
 そういうことをしっかりと描いている。
 だからこそ、どうしようもなくてロシア軍側になびいてしまったひとの苦悩も、手触りのある悲しみとして迫ってくる。

 それにしても……。

 ある「事実」が「事実」として、明確に「ことば(アンジェイ・ワイダにとっては映画が、ことばだ)」になるまでには、長い時間がかかる。悲しみや苦悩がことばになるには時間がかかる。そこで起きたことが衝撃的であればあるほど、時間がかかる。そのことを伝えることばを、ひとは、何も知らないからである。どう伝えるべきなのか、知らないからである。
 「誰がため」にしろ、「カティンの森」にしろ、ドイツとロシアに挟まれ、「自分の国」を守ろうとしたひとの「声」、ひとりひとりの「声」は、ようやく「ことば」になりはじめたのかもしれない。
 日本は、どうなのだろう。
 私にはよくわからないが、ひとりひとりの「声」をていねいに記録しているひとはどこにいるのだろう。自分の国のことなのに、何も知らない。そのことに気づかされる映画だった。


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誰も書かなかった西脇順三郎(93)

2010-01-27 09:24:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 2009年09月20日(日曜日)から中断していたが、また書きつづけてみようと思う。(09月20日、網膜剥離で入院し、24日に手術をした。中断は、このため。)
 私は書いたものを読み返さないので、いままで書いてきたことと違ったことを書くかもしれない。



 「かなしみ」。

花崗岩に
春が来た

 この書き出しの不思議さ。次にどんな行が来るか、想像がつかない。1行目から「意味の予定調和」が破られている。「無意味」が噴出してきている。
 そして、ここには「音楽」がある。私が「音楽」と感じるものがある。(私は音痴なので、クラシックだとか、ジャズだとか、Jポップというような「意味・定義」とは違ったことがらを指して「音楽」ということばをつかっている。いわゆる音楽というものは、私の耳には縁遠い。)
 「花崗岩」(かこうがん)という音が、私の耳には強烈に響く。それは「岩」というか「石」の種類であり、その石を私は見たことがあるし、そんなにかわった石ではないことを知っている。知っているけれど、この文字を読んで(音を聞いて)、私が石を思い浮かべるわけではない。そして、私は、括弧に入れる形で(音を聞いて)と書いたが--実際に意識のなかで「音」を聞いているのだが、それは実際に誰かの声をとおして聞いたときとは違ったふうに動く音なのだ。
 「花崗岩に/春が来た」。このことばを、たとえば誰か、いや西脇でいいのだか、西脇が実際に私に向かって話しているときに、そのことばを言ったとしたのだとしたら、つまり私が実際に耳で聞いたとしたら、驚く変わりに、私は「ばかじゃない?」と思ってしまうだろう。
 ところが、本に印刷された文字、そのことばを読み、私の「肉体」がその音を聞くとき、それは「ばかじゃない?」という印象とはまったく違った感じを引き起こす。聞いたことがない「音楽」として聞こえてくる。そして、その「音楽」に引き込まれてしまう。
 「意味」がわからない。「花崗岩に/春が来た」の「意味」が、文字を読んでいるとわからない。「意味」がわからないのに、そのことばが動いていくことだけがはっきりわかる。実感できる。いままで、私が読んできたことばとはまったく違うところへ動いていくということが、わかる。わかるというより、わかるもなにもないまま、強烈にひっぱられていくのだ。
 このとき、私をひっぱっていくのが「音楽」。ただの「音」。「花崗岩」という「音」なのだ。「か行」の美しい響き。そして、これはどう説明すればいいのかわからないが、その「か」は「春が来た」の「は」が、私には「和音」のように聞こえる。とても響きあうのだ。響きあって、そこにはない「音」が聞こえるのだ。「か」でも「は」でもない、何か別な音が。

 「かなしみ」の「定義」は、ひとそれぞれだろうけれど、こういう不思議な「音楽」を聞いてしまうと、あ、この「音楽」が「かなしみ」か、と私は思ってしまう。
 そこにある、不思議な「出会い」。
 あとは、その「出会い」がくりかえされる。変奏される。増幅される。

あの名もないさし絵かきの偉大さ
ヘカネーション、ミモーザ、
フリージヤ、すみれをささげる

 私は「もの」を思い浮かべない。いや、「もの」を思い浮かべようとする想像力が「音」にひっぱられて、違うことを感じてしまう。「ミモーザ」と「肉体」が「声」を出している。音を確かめている。(私は音読をしないが、文字を読む目が、いつのまにか目ではなく、発声器官にすりかわって、「声」を出している。)
 「あの名もないさし絵かき」と「すみれをささげる」という音の間にあるカタカナの音。カタカナの音をサンドイッチにしてしまう、ひらがなの音。その音そのものが、「意味・内容」を突き破って、どこまでも自在に動いていく。
 この自在さは、あえて「意味」にしてしまえば、

人間と鱸(すずき)が話をしている
キツネとコウヅルが立ち話をしている

 という「イソップ物語」の「世界」と関係するのかもしれないけれど、ああ、そのイソップ物語がなぜか外国の音ではなく、日本語の音として新しく響いてくる。

蜂、蝗、蟻、水がめ
風、太陽、葡萄、まむし
樫の古木、溺れようとする子供

 私は、そこに書かれていることばが指し示す「もの」が見えなくなる。私の目は、その文字を追う。そして、そのとき私の「肉耳」は、そこに書かれていることばの「音楽」に酔ってしまう。「意味・内容」が消えてしまって、ただ、そこに書かれている「ことば」が「ことば」そのものとして遊んでいる--そういう感じに襲われる。

 あえて言ってしまえば、「感情(私のこころ?)」を裏切って、ただ「ことば」が「ことば」として、そこで自由に動いている。--感情(こころ?)が、ことばから見放されている。けれど、その見放され方は、なんというのだろう、「さっぱり」としいてる。あ、この「さっぱり」した感じが「かなしみ」? そんなふうに感じてしまうのだ。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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進一男『小さな私の上の小さな星たち』

2010-01-27 00:30:32 | 詩集
進一男『小さな私の上の小さな星たち』(本多企画、2010年01月10日発行)

 「過去」というものは不思議である。「過去」は、なぜ、「いま」(現在)という時間のなかに噴出してくるのか。
 進一男『小さな私の上の小さな星たち』には、進の年齢も関係しているのか、「過去」がふいに噴出してくる作品が多い。「脳の中に」の全行。

私の脳は小さな記憶で詰まっている
ある旅の屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮
小学時代の同学年で可愛かった人
出会って そして別れた多くの人々の顔
どういうわけで脳が蓄えているのか
と思われるいろいろ

 短い詩だが、2行目が読む人によって、解釈(?)がわかれるかもしれない。「ある旅の屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮」。これは、現在? それとも過去? いま進は旅の途中、屋敷町にいて、落ちてきた白木蓮を見て、ふとその花から小学時代のことを思い出したのか。それともいまは別の場所にいて、ふいにかつて旅したとき、屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮--それを思い出したのか。
 私は、後者の方で読む。
 進は、いま、白木蓮を見ていない。白木蓮を見ていないけれど、それがふいによみがえってきた。
 それはイメージとして? 白い大きな花びら。たおやかな、なまめかしい肌の感じをもった花びらとして?
 私は、なぜかはわからないけれど、イメージではなく、ことばそのものとしてあらわれたような気がするのだ。もっと厳密に言うと「書きことば」として、「文字」として「過去」から噴出してきたような気がするのである。そして、このとき「過去」というのは「時間」ではなく、1行目に書いてある「脳」である。--ほんとうに理由などないのだが、ただただ「白木蓮」という「文字」が強烈に私を揺さぶる。
 その揺さぶりは、もう、進の思い(書き手の思い)とは関係がない。

 「白木蓮」という「文字」(書きことば)がふいにどこからかあらわれて、動いていこうとしている。それはこの詩では「小学時代の同学年で可愛かった人」という、なんとういか、センチメンタルなものだが--ああ、違う、と私のなかの「ことばの肉体」は叫んでしまう。
 6行の詩のなかで「白木蓮」という「文字」(書きことば)だけが異様に光っている。生々しい力で迫ってくる。その生々しさは、「小学時代の同学年で可愛かった人」なんかでは、エネルギーを受け止めることはできない。「小学時代の同学年で可愛かった人」では「予定調和」になってしまう。
 詩にならないのだ。
 ことばが「自由」にならない。
 --さっき書いたばかりの藤井貞和「山の歌」のつづきというおうか、岡井隆の『注解する者』のつづきといおうか、--その意識のつながりで言うと、「小学時代の同学年で可愛かった人」では「不自由」を感じてしまう。
 「現代詩」ではなく、これでは古くさい「詩」である。すでにできあがった詩である、と感じてしまうのだ。

 「現代詩」と「詩」をわけるものは、たぶん、このあたりにある。ことばが「自由」であるか、それとも「予定調和」の「意味」に失墜するか。進が書いていることは、とても静に読者のこころに届くだろう。でも、私は、その静けさは「固定された過去」の静けさだと思うのだ。
 そして同時に、あ、もっと違った形で「白木蓮」を救ってやることはできないだろうか、とも感じてしまう。
 こういう瞬間です、私が、作品を批判したくなるのは。

 この作品に比較すると、「片隅から」には「固定された過去」がない。ことばは「固定された過去」から解放されている。

片隅から私を呼ぶような気がした
(そんなことなど有り得ないのだが)
その方角に歩いて行くと
木陰にセントポーリアが一鉢
青々と茂っていたのである
(私はすっかり忘れていたのだ)

 「白木蓮」のように、ここでは「セイントポーリア」が美しい。「書きことば」として美しいし、その「音」も美しい。それは「植物」のセイントポーリアを通り越して、「名前」として浮かび上がってくる。「セイントポーリア」という名前で「呼びたい」なにか、として浮かび上がってくる。
 そのあとで「青々と茂っている」という状態が、また「ことば」として動く。
 このときの、こころの(?)、脳の(?)動き。進は「私はすっかり忘れていたのだ」と書いているが、ここに書かれている「忘れていた」が「過去」からの解放である。進が忘れていたのは、片隅にセイントポーリアを置いたこと--なのかもしれないが、私には、その存在を「セイントポーリア」と呼ぶということばの運動そのものを忘れていたように感じられるのだ。
 何かに名前をつける--このことばの動き。その力そのものが、いま、この瞬間に「過去」から「生まれ変わって」よみがえっている。そういう印象がある。
 だから、私はこの作品が好き。
 読んだときの強烈さでは「白木蓮」の方が、作品全体になじんでいない(あるいは「意味」になじみすぎている、というべきなのか)のに対して、「セイントポーリア」はことばの動きとしてとても自然だ。センチメンタル(意味)にしばられていない。
 別な言い方をすると……。
 「白木蓮」はたぶん「赤い椿」ではだめ。「ひまわり」でもだめ。それは「小学時代の同学年で可愛かった人」とはイメージがあわない。ことばが衝突してしまう。「意味」にならない。ところが、「セイントポーリア」はもっと別の何か、カタカナの音が交錯するものなら詩としてなじむのである。「意味」をもたないまま、つまり「無意味」として存在することができるのだ。

 あ、詩とは(あるいは現代詩とは)、ことばが「意味」ではなく、「無意味」として存在する瞬間のことなのだ。「意味」は「過去」をもっている。「無意味」は「過去」をもっていない。「無意味」は何にも束縛されないからこそ「無・意味」なのである。





進一男詩集 (日本現代詩文庫 (94))
進 一男
土曜美術社出版販売

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藤井貞和「山の歌」(つづき、その2)

2010-01-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「山の歌」(つづき、その2)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 ほんとうは、もう書くことなどないのかもしれないけれど、藤井貞和の詩について書いているうちに、思いついたことがある。これから書くことは、藤井貞和「山の歌」への感想と言うよりも、ことばそのものへの感想、文学全体への感想(?)になるかもしれない。

 藤井貞和「山の歌」には、たまたま学校文法でいう倒置法がつかわれていて、そのことから「過去」が「いま」にひっぱりだされ、それが「いま」を攪拌しながら、「予定調和」ではない「未来」へ突き進んでいくことばの運動というものが見えてきたけれど、これはあらゆる作品についていえることなのではないか。ことばの運動と言うのは、もともとそれ以外にはありえないのではないか--という気がしてくるのである。
 たとえば、私が50年に1冊の大傑作と思っている岡井隆の『注解する者』。その詩集は、ある作品に「注解」するという基本的な構造をもっている。「注解」というのは、目の前にある作品に対して、何かを言うことである。作品が先にあって、そのあとに「注解」が来る。時系列から言うと作品が「過去」、注解が「いま」、というか作品の後。作品が存在しないことには、注解は存在し得ない。
 そうではあるのだけれど、注解がはじまると、変なことが起きる。
 それは「作品(A)」の注解に、その「作品に先行する別作品(B)」が引用されるということだけではない。Aに対してBの影響云々、ということではない。Aを語るのに、それより「過去」のBがひっぱりだされるということではない。
 変なこと--と私が言うのは、「注解する者」、そのひとの「内部」の問題である。「注解する者」(面倒なので、岡井、と以後書いてみよう)の「過去」がひっぱりだされるのである。「注解する」とき、岡井の「過去」が「いま」にひっぱりだされる。簡単に言えば岡井が「過去」に何を読んできたか、どんな日本語を読んできたかという「事実」がひっぱりだされる。作品Aそのものの「過去」というより、岡井の「過去」、岡井の日本語がひっぱりだされる。
 そして、それは、たとえひっぱりだされた「岡井の過去」が、作品Aよりも前の作品(時代的に古い作品)であっても、岡井自身のなかでは、作品Aよりも前であるとは限らない。作品Aを20代のとき読み、30代のときに読んだ作品Bを利用して、60代(70代?)の「いま」、作品A注解する--そのときの時系列というのは、なんだかとてもややこしい。整理しようとすると面倒くさい。もう、それは、「注解しようとするいま」から見て「過去」のところから何かをひっぱりだすとしか言えないのである。いちいち整理してもはじまらないのである。
 --それは「注解する」というスタイルをというか、見せかけ(?)の形をとっているが、実は、岡井の「過去」の解放なのである。
 「過去」というのは、いわば「固定」されている。「歴史」の法則から言えば、「過去」が変われば「いま」は「いま」とは違った状態である。タイムマシーンで「過去」へ行ったとしても、そこで起きる「事実」を変えてはならない。そんなことをしてしまえば「いま」は違ったものになってしまう。「私」が存在せず、その結果、タイムマシーンで「過去」へやってくるということもできないというパラドックスが起きてしまう。「過去」は「固定」されているだけではなく、「固定しておかなければならない」ものなのである。
 が。
 詩は、そういう「過去」を解き放つのである。ことばを「固定」する何かを破壊し、「いま」のことばの根拠を吹き飛ばしてしまう。「いま」のことばが、どんなふうになってもかまわない、という運動なのである。

 そして。

 なんだか、論理的に(?)書いていくためにどうしていいかわからないので、飛躍してしまうが、そういう「過去」を解放するとき、そのことばを動かしているのは、ことば自身のエネルギーなのである。ことばは「意味」として「固定」される前に、何か、別なものをもっている。何かを名付け、名付けることで動いていこうとするエネルギーをもっている。「意味」が先にあるのではなく、また「意味」が「予定調和」として想定されているのではなく、わからないけれど動いていく。動いていく過程で、「意味」はできあがることもあれば、わけがわからないまま失速し、消えてしまうこともある。
 そういうことが、ことばとことばが出会うとき、起きてしまう。
 ことばに何が語れるか、だれにもわからない。ことばは、作者(話者)のいいなりになって動くものではない。ことばはことば自身で動いてしまう。

 「注解する」という行為は、ことばにこことばを出会わせることで、「過去」という「固定」された何かを解放することである。それも作品Aを解放するというよりも、岡井自身の「過去」(岡井の「日本語の過去」)を解放することである。それは岡井自身を「過去」のことばから解放することでもあるかもしれない。詩集のタイトルが『注解する者』と詩人自身を指しているのは、そういうことがあるからかもしれない。(--というのは、もちろん、ことばが勝手に動いて行ってたどりついたことだから、この先、いま書いていることがどんなふうにかわるか、私にもわからない。)

 岡井の作品にもどるべきか。

 『注解する者』にはさまざまなことばの「過去」が登場した。「文献」としての「過去」。岡井の「日常の過去」(卑近なことを言えば、「注解」する前に、岡井が何をしたか、家族とどんな会話をしたか、テレビ局の人とどんな打ち合わせをしたか、というような過去)。そして、質問者の「過去」(その人が、何を読み、その結果としてその質問をするにいたったか、ということ)。複数の「過去」がぶつかりあう。それも「ことば」としてぶつかりあう。ぶつかるたびに、そのことばの地平が浮き上がる。それがくりかえされることで「ことばの地層」ができる。その「地層」は、どんな地球の地層よりも複雑で美しい。地球の地層は過去→現在と直線上に積み重なるが、ことばの地層はそういう順序とは無関係に入り乱れ、なおかつ地層であるからだ。
 それは、まるで、「ことばの地層」がより美しい「地層」をめざして、自分自身を組み換えているようにさえ見える。岡井は、その「地層の組み換え」に立ち会っているだけ、という気がする。地層を組み換えるのはあくまでことば自身。岡井は、その立会人。
 それじゃあ、岡井の存在意味がない?
 あ、そうじゃないんですねえ。岡井でなければ立ち会えない。というか、そういうことば自身の地層の組み替えを識別し、見えるように定着させるには岡井のことばの強靱な「肉眼」が必要なのだ。岡井の強靱な「ことばの肉体」だけが、自在に動き回ることばをつかみとることができたのだ。
 と、--これは、岡井の『注解する者』に対する、いままでの感想の補足。

 ふたたび藤井の作品にもどれば。
 藤井の「ことばの肉体」がしていることも、ことばの「過去」の呪縛を切り捨てることである。「過去」を分断し、「いま」にひっぱりだし、そこからことばがどんなふうに「自由」に何かを語りうるか。
 これは「現代詩」の詩人がこころみていることのすべてであるといえるかもしれない。そういうことをしていない詩人は「現代詩」ではなく、また別なものを書いていることになるのだと思う。
 「現代詩」は難解であると言われるけれど、これはあたりまえ。「難解」というのは「意味」が理解できない、つか見とれない、ということだろうけれど、「現代詩」に「意味」はないのである。「意味」は「予定調和」として想定されているわけではない。だれも、その「予定調和」のあり方を知らない。書く度に、それはかわっていく。ことばがかってに「意味」をかえていく。そして、それは読む度にもかわっていく。ことばはかってに動いて「意味」をこばみつづける。
 
 詩のなかにあるのは、「意味」ではなく、かってに動く「ことばの肉体」だけである。それはあくまで「ことばの肉体」であるから、作者(話者)、そして読者が動かせるものではない。作者や読者は、ただ「ことばの肉体」の動きについていけるよう自分自身の「肉体」を柔軟にするしかないのである。

 きっと、きっと、どこかに、ことばがことば自身で自由に動き回り、誕生し、また死んでいく「場」がある。その「場」と詩人は切り結びたいのだ。その「場」に立ち会って、死に、そしてもう一度、いや何度でも生まれ変わりたいのだ。
 --そういう「欲望」を感じさせてくれる詩が私は好きだ。



注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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藤井貞和「山の歌」(つづき)

2010-01-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「山の歌」(つづき)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう、日和聡子「月村」について書いているうちに、気分というか気持ち(?)が変わってしまった。それで、変わった気持ちにあわせる形で藤井貞和「山の歌」について書きすすめた。どちらも中途半端な感想になって、ふたりにはちょっと申し訳ない気持ち……。
 で、藤井貞和「山の歌」について、少し補足。
 藤井の作品を読んでいて感じるのは、そのことばがどこへ向かって動いているのかさっぱりわからない、ということ。そして、これは読み終わったあともかわらない。どこへ動いたかわからない、という気持ちは、読み終わったあとでは、いったい何が書いてあったのかわからないという感想に変わっているのだけれど。
 それでも、いや、それだからこそ、なのかな? 藤井のことばはおもしろい。

 どこがわからないか。3連目。

深い契りが待っている早く終わってしまってほしいメイクを落としたい、

 たとえば、この1行目の「主語」がわからない。「わたし」かなあ。確かに、この詩の前後には「わたし」が出てくるから「わたし」なんだろうけれど、「わたし」って、「メイク」をしていたっけ? 思い出せないなあ。何に(何が)終わってほしいのかなあ。2連目に書かれている「歌」? そうだとすると、「歌」のために「わたし」はメイク(化粧?)をしていたことになる。そして、それはきっととても風変わりな化粧、扮装なのだ(ろう)。それを落とさないかぎりは「深い契り」ができない、扮装が「深い契り」を邪魔する。「深い契り」って、セックスのことだよな、きっと。セックスのときは「メイク」を落として、素顔で、ということかな?
 何かわからないけれど、こういう行を読むと、(私の読んだふうにことばをとらえると、という限定的な意味でのことだけれど)そのことばの奥からふいに「過去」があらわれてくる。いま書いた部分を振り返ると、「わたし」がメイクをしていたということが、突然、事実としてあらわれてくる。そして、2連目の「歌合戦(?)」が素顔でおこなうものではなく、特殊なメイクでおこなうものだということもわかる。さらには、その「歌合戦」は「深い契り」をするための「前哨戦」のようなものだということがわかる。
 ことばが過去→現在→未来という具合に、いっぱんに言われている「時間の流れ」にそって動いているのではなく、「現在」のことばが「過去」を説明し、その「過去」が突然というか、「現在」をとおりこして「未来」と結びつき、「現在」の「意味(?)」をかえるような感じだ。「いま」のなかに「過去」が噴出してきて、それが「未来」を何か予想していなかったものに変えようとしている。--うまく書けないが、「時間の流れ」というものがあるとしたらのことだけれど、それは藤井のことばのなかでは一直線ではない。過去→現在→未来という一直線ではなく、現在が過去を説明しなおすというか、とらえなおすことによって、はじめて未来というものが動きはじめる--そういう感じ。
 何が起きるかは「過去」が決定するのではなく、「現在」が「過去」をどう説明するか、「過去」のなからかどんな「事実」をひっぱりだしてくるかによって次々に変わる。つまり、そこでは、ことばの「予定調和」というものがないのだ。
 ただただ動いていくだけなのだ。いや、動いていくというより、「いま」「ここ」で動き回るだけ。どこへも行かない。どこへも行かずに、ただ動く。ただ動くだけ、どこへも行かないのに、それが「いま」でも「ここ」でもないものになる。--変だねえ。矛盾だねえ。説明になっていないねえ。
 
 先の1行を次の1行とつづけて読むとき、わけのわからなさはさらに拡大する。(増幅する?)

深い契りが待っている早く終わってしまってほしいメイクを落としたい、
結納の沼から錆びついたナイフを拾いあげることばを切るためには。
 
 「……ためには。」で句点が登場する。そうすると、この2行は倒置法? 倒置法を正しい(?)順序にすると、どうなる?
 わからない。
 ことばを切るためには、結納の沼から錆びたナイフを拾い上げる。そしてそのナイフでことばを切って、ちょうどメイクを落とすように、あるいは過去→現在と流れることばの流れを断ち切り、そんなふうにして「歌合戦」を早く終わらせ、そのことば流れから脱出して深い契りの世界へ突入したい--ということ?
 むりやり考えれば考えられないことはないけれど(どんなことだって、ことばにしてしまえば、そこに「論理」くらいはできるからね)、それはやっぱり、なんのことかわからない、とケリをつけた方がいいしろものだ。
 わからない。そのことばの「論理」、あるいは「意味」はわからない。けれど、わかることがある。どうも、藤井のことばは学校国語の文法とは違うということ。あえて学校文法のことばで説明すれば、多くのことばは「倒置法」によって書かれているけれど、それは正確な(?)倒置法というか、単純な(?)倒置法ではない、ということ。ややこしいと言うべきなのか、藤井独自のというべきなのか、そのことばはどこかで「倒置法」でつながりながら、常に「いま」を、それまで意識しなかった「過去」で説明し、そうすることで「現在」を「未来」から解放し、「予定調和の未来」とは違う世界へ時間を動かしてしまう。--「予定調和の未来」とは違ったものが次々にひろがるので、私は「わからない」と言うしかないのである。
 (ここで、日和聡子「月村」について補足すれば、日和のことばは「予定調和の未来」へまっすぐにつづいており、それをまっすぐにするために「頭」でことばを動かすために、雪の降りしきる日なのに「釣瓶落とし」がでてきたりしてしまうのだ。)

 藤井は、また「いま」のことばのなかへ「過去」も引き揚げるとき、その「過去」の「場」を「ここ」に限定しない。「山」を描いているからといって「場」を「山」に限定しない。限定しないけれども、ちょっと気になって(?)、それっぽくなるように「過去」を「捏造」したりする。

道沿いの洗濯物と●(えな)とを干す洗濯機から魂をしぼりきったあとでは、
脱いである制服も洗ってしまえ三〇〇人が消えてゆく廃校の体育館。
             (谷内注・引用の●は原文では「胞+衣」の1文字)

 洗濯機、制服、廃校。そのことばによって、「山」の学校、女子(!)生徒、体育館のにおいなどが「過去」として「捏造」されるのだ。その「捏造」は「廃校」ということばで「理由づけ」されるのだ。
 ああ、この強引さ。何がなんでも「予定調和」を破ろうとすることばの欲望。

 書きたいことというか、結論というものなど、どこにもない。そんなものがあるとしたら、ことばの行く先にあるのではなく、ことばが動くこの一瞬にだけ存在する。ことばは、あらかじめ用意された「意味」に向かって動いていくのではない。ことばは、その勝手気ままな動きによって「意味」という「未来」を「過去」からひっぱりだしてくるだけなのだ。
 それが、詩、である。

 ことばはすでに書かれている。どんなことばでも書かれていないことばなどない。だから、ことばを書くということは、過去のことばを過去から解き放ち、「いま」のなかで過激に動かす。その動きのなかに、--もし、「未来」というものがあるとするなら、もし、「意味」というのものがあるなら、その動きのなかにだけ「未来」とか「意味」というものがある。
 「現代詩」の「現代(いま)」とことばの関係を整理すると、そういうことになるかもしれない。



神の子犬
藤井 貞和
書肆山田

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現代詩手帖 2010年 01月号 [雑誌]

思潮社

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日和聡子「月村」、藤井貞和「山の歌」

2010-01-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
日和聡子「月村」、藤井貞和「山の歌」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 ことばはことばと出会う。そしてかってに動いていく。それはどんな作品でも起きる。作者(詩人)にそのつもりがなくても、(と書いてしまうと、それは私の「誤読」、読み間違いであることの先回りした弁解になってしまうが)、ことばはかってに動いて、かってに世界を作り上げてしまう。そして、それは短い単語でも起きてしまう。
 日和聡子「月村」。ああ、どうしても「月山」を思い出してしまう。もう、読んだのか読まなかったのかも忘れてしまったけれど、森敦の小説。山の中の話、だったと思う。

降りしきる雪が
枯れた梢にもとまる山鳩にも
白く うすく 降りかかった

月村(げっそん)へ帰ってきてから
もうどれくらい経ったのか
幼い頃にあったものは もう皆なくなっていた
山鳩は身をふるわせて
積もった雪をふりはらった

 日和聡子の「現実」とどういう関係があるのか私には見当がつかないが、私のなかにあることばは、日和のことばに触れて、「月山」へ動いて行ってしまう。日和が書こうとしていることとは関係なく、別の「物語」を読もうとしてしまう。
 そこに、高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」という俳句も重なって、死す静かな雪のなかの村が浮かび上がる。そして、孤独が浮かび上がる。
 それは、ことばがことばと出会うことには違いないが、そのことばは「かたまってしまった物語」である。
 それを、どうやって破壊していくか、あるいは深めていくか。日和のこころみていることは、「物語」を彼女自身の「肉体」で深め、その結果として「かたまってしまったもの」を揺り動かすということかもしれない。
 でも、それは私には、よくわからなかった。
 「鳩」に向き合う形で「白鷺」が描かれる。

雪を溶かして冷える流れに
白鷺が一羽 足を浸して
じっとうつむき 川面に視線を落としていた
山鳩はそれに 声をかけるつもりはなかったが
雪にあらがい 羽根を目一杯にふくらませて
はなれた岸の 草藪に身をひそめて
ついばむもののないひもじさに耐えながら
かの鳥が 何かを捕らえるところを見届けたいと
まるい目を鋭く翳らせて 瞠(みはっ)っていた

 鳩は女。白鷺は男。--そんなふうに、このあと「物語」は展開していくが、あ、ことばがことばと出会わずに、すでにあることばにからめとられてしまっている、と私は感じてしまった。鳩は女、白鷺は男とことばが動いていき、そこから一夜のセックスも描かれもするが、それはあまり読む気をそそらない。そこに登場することばは、ことばが出会うことで変化していくことばではなく、すでに語られたことば、すでに引き寄せられて固まってしまったことばであることが予想されるからである。
 ことばがことばを引き寄せ、かたまってしまったことば--「物語」になってしまったことば、流通言語になってしまったことば。それはそして、不思議なことに、「間違い」を引き寄せる。「かたまってしまったことば」の強い凝固力が自由に動いていくことばをしばりつけ、自由に動いていくことを許さないのだ。そういうことが、実際に起きるのだ。
 あ、具体的に指摘しよう。

山鳩は(略)
はなれた岸の 草藪に身をひそめて

 これは、何かを隠れて見張っている様子、この連の最後の「瞠(みは)って」と呼応することばである。そういう意味では「正確」である。だが、ほんとうだろうか。私は山鳩にはくわしくないが、山鳩が「草藪に身をひそめて」何かを見張っている、うかがっているという姿を見たことがない。くいっくいっと、伝書鳩とは違った羽根の動かし方で飛んでいる姿、高い木の見えないところからデデッポッポーと鳴く声しか聞いたことがない。たまに、庭のケヤキの梢に茶色い姿をみかけたが、小さくしか見えないので「山鳩」かどうかはよくわからない。
 この行を読んだとき、私の「肉体」は、あ、ここに書かれていることばは「肉体」がつかみとったとこば、「肉眼」で見たことが書かれているわけではない、と判断してしまう。山鳩が女、白鷺が男、というのは「肉眼」で見た姿ではないから、それはそれでいいのだ、という意見もあるかもしれないが、それではおもしろくないのである。
 山鳩が女、白鷺が男という「現実」は「肉眼」で見たものでなければ、詩にはならない。詩は「肉眼」で見た「間違い」をことばにしてしまったものだからである。「頭」で整理しなおした論理、あるいは整合性というものは詩ではない。
 何かを見張る(日和は「瞠」という字をつかっているが)。そのとき、見張る人間は安全な場所にいる。姿を隠して見張る。姿を隠すには「藪」がいい--というのは確かに「頭」の論理、「頭」の整理では、そうなる。けれど、山鳩だよ。飛ぶこと、木にとまることを習性としている鳥が、わざわざ草藪に身を隠す? しかも、冬だよ。雪も降っているよ。雪のなかでは、鳩の茶色い体は目立つじゃないか。身をひそめることにはならないんじゃない? 私の「肉眼」の記憶は、ここでつまずいてしまう。
 あ、ことばが凝り固まっている、凝り固まって日和の「肉眼」をふさいでしまっている--と感じてしまう。
 これは、詩の最後へいくと、もっと奇妙になる。ことばがコンクリートになってしまっている。「肉眼」の入る余地はどこにもない。

月村の年もあらたまったはでだというが
それを 誰が知るか ましてや 祝うか
釣瓶を落としごとくに日は暮れてゆく
宵のせまる河原に 白鷺をひとり残したまま
山鳩は後ろ手に羽根を組み 雪を踏んできびすを返す

 「釣瓶を落としごとくに日は暮れてゆく」。これは「肉眼」では絶対にとらえられない光景である。詩の書き出しは「降りしきる雪が」であった。たまたま、鳩が帰っていくとき雪が止んでいたのだことも考えられるが、「釣瓶落とし」というのは「明るい空(空気)」を前提としている。こんなに明るかったのに、急に--というのが「釣瓶落とし」の実感である。「肉体」が感じる急激さである。雪が降りしきっていれば、まわりは暗い。空は灰色。青空に舞う風花と呼ばれる雪もあるが、それは「降りしきる」とは言わないだろう。
 日和は、ここではことばを「肉体」で動かしていない。ことばが「肉体」を離れた場所で、かってにべつてことばと結び合っている。それも「自由」なことばの運動--と日和はいうだろうか。
 私は、そういう運動、ことばが、かつてどこかであったことばの「凝固力」にひっぱられてかたまってしまうことを「不自由」と呼びたい。詩は、そういう「不自由」を破壊する暴力にならなければならない。積極的なエネルギーにならなければいけないと思っている。
 「頭」でことばを動かしてはいけないのだ。それは、詩とはまったく逆のことなのだと思う。

 ことばはことばと出会う。それは「肉体」を裏切って動く。そればかりか「頭」を差し置いて動いてしまう。だからこそ、その運動を「肉体」に取り戻し、「肉体」の力でことばとことばが「自由」に出会えるようにしなければならないのだと思う。



 現代詩手帖の同じ号に、藤井貞和「山の歌」もある。日和の作品と同じように山が舞台である。

わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、
わたしは妖精の全員が沢を降りる一族のあとに随(つ)いて降りる。
しばらく居残って木にだきついて緑を守る女たちに、
夕日が落ちると数人の老人の影になる緑よ美しく老いてゆけ。

 「妖精」を私は見たことがない。ここには私の「肉体」が知らないことが書かれている。けれども、それを私は、日和の詩を読んだときのように「頭」で書かれているとは感じない。「頭」のなかで、ことばが「整合性」(論理?)をもとめて動いた結果あらわれてきたことばとは感じない。
 なぜか。
 ことばのリズム、音楽が最初から私の「肉体」のリズムと違っていて、藤井独特のリズムではじまっているからだ。藤井のことばの「肉体」は私のことばの「肉体」と違った場所で動いている。それが最初から明確だから、そこに私の知らない物が登場してきても、それはそれでいいと私の「肉体」は納得するのだ。

わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、
わたしは妖精の全員が沢を降りる一族のあとに随)いて降りる。

 1行目、2行目に句読点がついている。句読点はリズムである。句読点は「意味」を明確にするためにつかわれる。(学校国語では。)ふつう、他人の文章を読むときは、その句読点も「意味」を明確にするためにつかわれているという前提で、私はことばを読む。けれど、藤井のこの句読点のつかい方は、そういう学校国語の範囲を逸脱している。最初から何かを逸脱してことばが動いている。だから、「妖精」がでてきたって、それは奇妙でも何でもない。ことばの運動は最初から違っているのだから。
 句読点のつかい方の違いは、ことばのリズムそのものの動かしたかの違いでもある。

わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、

 という行は、わかりやすく書き直すとすれば(流通言語のスタイルにするとすれば)、

もう食べる物がなくなるから、わたしは山を捨てる。(もう食べる物がなくなるから、)山をくだる。

 ということになる。ここには一種の倒置法がつかわれている。倒置法を理解するには、意識の持続性が必要である。先に行ったことばを持ちこたえていなければならない。持ちこたえていて、あとのことばを聞いたときに、いっきにひっくりかえす。そのとき、意識するかどうかはべつにして、ことばは2度動いている。
 「わたしは山を捨てる食べ物がなくなるから」ということばを聞いた(読んだ)肉体は、肉体のなかでそれを「食べ物がなくなるからわたしは山を捨てる」と無意識に反芻する。そのまま反芻するのではなく、ひっくりかえして反芻する。その「ひっくりかえす」というときの一瞬の「間」。それがこの藤井の詩のリズムであり、藤井のことばの「肉体」である。
 この「間」というのは、短いのか、長いのか、広大なのか、密着したものなのか、よくわからない。「自在」である。

夕日が落ちると数人の老人の影になる緑よ美しく老いてゆけ。

 は、実際、どう「間あい」を感じればいいのかわからない。私の「肉体」はその「間」をほとんどゼロに感じる。「わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、」の倒置法の「間」よりももっと緊密なもの、けっしてずれることのない固い結び目のようにすら感じる。
 ことばの強引な運動が、私の「肉体」に奇妙な力で働きかけてくる。その瞬間瞬間に、私は「ことばの自由」を感じている。そして、「裏切り」も。

わたしは疲れる沢をさらに降りて池のみどろで脱ぐうろこで踏む。
鋸状の葉は木の葉蝶の擬態 ないあしうらで踏む かさこそ。

 「わたし」が人間であるとしたら「うろこで踏む」ということはできない。でも、そのできないことをことばで書かれると、それが「肉体」につたわってくる。「うろこ」なんて私の「肉体」はもっていないが、「うろこ」を感じてしまう。ことばが肉体を「裏切って」、うろこを感じさせてしまう。「ないあしうらで踏む」も同じ。「あしうら」が「足裏」なら、それは「ある」。けれど、ことばが「ないあしうら」と書くとき、私の肉体はことばに「裏切られて」、足裏をないものとして感じてしまう。

 変だねえ。変ですねえ。
 日和の書いている「雪の降りしきる日の釣瓶落としの日没」より、はるかに変。

 でも、「肉体」は藤井のことばは「正しい」。藤井のことばは「肉体」を裏切るから信じていい、と告げている。(日和のことばは「頭」で辻褄合わせをしているだけ、ごまかしているだけだから信じてはいけない、と告げいている。)
 ことばの「自由」は藤井のことばの運動の先にある、と告げている。




虚仮の一念
日和 聡子
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ことばのつえ、ことばのつえ
藤井 貞和
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